悟りに近づくために12
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【往復書簡】アインシュタインの悩みにフロイトが答えた「エロス」とは?
http://news.kodansha.co.jp/20170123_b01
泣けてくる……。真面目に考えるとためになって、建設的な可愛げがある。 悟りに辿りつける人は何万人何百万人に1人なので、
悟りで世の中を変えようなんてのは不可能。
自分が悟れば世の中に問題など無いことが分かるのでそれで十分。 陶工と画家
陶工が、自分の作った陶器は素晴らしいと自惚れていた。
画家が、自分の描いた絵は素晴らしいと自惚れていた。
この二人は、言い争いを始めた。この陶器が素晴らしい。いや、この絵が素晴らしい。と。
それぞれの陶器と絵、それそのものは悪くなく、むしろ良いものであった。しかし、その陶工と画家の互いを罵り合う性格と口の悪さに辟易し、人々はその場を離れ、陶器も絵も買い手がつかなかったという。 結局、この陶工と画家は、自分の作った陶器、自分の描いた絵を評価されたかったのではなく、その陶器を作る自分、その絵を描く自分を評価されたかっただけなのだ。
陶工と画家はしっかりとこのように評価を受け、その一方で陶器も絵もまるで評価されなかったのは、まさに、この陶工と画家が望んだ通りだと言えよう。 聖戦の末に天国に行った者が悪魔について地獄に行った者を罵るのならば、それは本心からの聖戦ではなかったのだ。神はさぞかし嘆き悲しむことだろう。
悪魔について地獄に行ったものが聖戦の末に天国に行ったものを妬み謗るのならば、こちらはどう考えても本心からだ。悪魔はさぞかし喜ぶことだろう。 誰にも味方しないと言いながら自分には味方する、そういう人間が嘘吐きであることは明らかだ。サイコパスであると断定する! 180 :彼氏いない歴774年 :2019/08/17(土) 13:13:46.41 ID:rkPUiTAr.net
男の人はずるい
気になる女性がいたら
はじめは会いたいとか可愛いとか
喜ぶ言葉をたくさん言って
こまめに連絡くれるのに
女性が好きになって
こまめに連絡するようになったら
甘い言葉はたまにしか
言ってくれないし
釣った魚に餌をあげない方式
なんなの????
みんなそうなの?? 自然淘汰論
環境に適応できなかった者たちが滅んで行った話は、枚挙に暇がない。恐竜が有名であり、他には恐鳥類、氷河期の大型哺乳類に、現生人類を除く人類など、広く知られている者たちだけでもこれだけいる。 諸行無常やら盛者必衰やら、仏教の教えには、ものごとが移ろい行くことがよく示されているが、恐竜や巨大哺乳類、現生人類以外の人類の絶滅について、平家物語のように、儚い、悲しいと言った感傷的な気分を持つ人はあまり多くはないだろう。 諸法無我という教えは、アートマン(=我)を否定し、ブラフマン(=梵)とアートマン(=我)が切っても切れない関係にあると説く。
ちなみに、ブラフマンは世界、アートマンはindividual(=個人)と捉えるといい。(言うまでもなく、このindividualは人間に限らず、動植物も微生物も例外にはならない。) ガガンボの罪
ガガンボのオスは、虫を捕らえてメスに渡す。もしこのガガンボが、自分が虫を捕らえた加害者であることを認めず、自分はメスに騙された被害者だなどとほざくなら、これはもはや八つ裂きにしない限り自分が何をしたのかをわからせることは不可能である。 ガガンボに知恵を得る機会を与えましょう
お代はあなたの命ということで 私も死の運命を受け入れます。今日、明日死ぬとしてもそれは仕方がないです。それにあらがうことはしません。
そういうものだと思います。準備がなくとも、仕方がないものです。残念の心は、誰もが持っているものでしょう。
虚しいものが、仕方がないと思い、さらに虚しくはならないように手を尽くすこと、そのようなことを、完全でなくとも行えるならば、
それは自分がしたこと、であり、ことさらの発見ではないのです。
仕方のないことを受け入れ、死を受け入れてみて、一体何が今受け入れられないと、私は思っているのでしょうか。
それがわからないのです。私自身は、現在に承服しがたい思いを持っています。これには、理屈をつけて言い表すことが、
できません。現在ごまかさないならば、葛藤や苦しさを、どうしようもなく、私の気持ちが、執着を逃れていないということで、
何らかの学びや、ゆがまないで自然を受け取る心が、必要であるとは思うのです。
生きてきて、得た煩悩は、それは、解消することができると思うのです。
小さな喜びが、次々と開いていくような、認識が、自分のためだと思うのです。
私を越えたところの存在は、明らかにあるのですから、私の責は、心の自由さに比例して求められるべき、でしょう。
私自身がするべきこととは、悪の存在にならないことです。悪とは、積極的に起こすこと、あるいは、自然に行ってしまうもの。
業を抱えた私が、することは、悪の方に偏ってしまうのです。人がみな悪をすることは、仕方がないことです。
そのうえで、捉えなおして、自由の方に向かい、自由を実現する力のある考えを行うならば、
それが良いことなのかもしれないと思うのです。 実年齢と精神年齢が、一致している人も一致していない人もいる。この複雑さが、人間関係の難しいところなのだと思う。
実年齢よりも精神年齢がものすごく高い人もいればものすごい低い人もいて、しかも、これがわからないうち実年齢で精神年齢を測って関わるから、大変なことになる。 強者の精神年齢が成熟している共同体ほど、そこの場所の治安は良くなるはずである。
強者の精神年齢が未熟、特に、極めて未熟な場合、そこの共同体の治安は最悪のものとなる。 寄り道は自分でしたのだ。真っ直ぐ自分の道を歩け。寄り道するならそこで死んでも文句を言うな! 自分が自分でいるためには、死に向かって休むことなく歩みを続ける自分に後れを取ってはならない。 遠ざけたからいなくなった。
遠ざかれって言われれば遠ざかる性分。 愛することとは、受容されることではない。受容することだ。 人生とは後悔することと見つけたり
後悔のない人生はサイコパスのためにだけある。 人生とは後悔することと見つけたり
後悔のない人生はサイコパスのためにだけある。 政治的な理由で宗教を信仰する人は、所詮その程度の人。 サトラレの方が敬語読みするといいぞ。婉曲表現にも見える。 それを以ってそれを制する。
それを以ってそれに制せらる。 生者だけでなく死者も観なければ、本当の倫理ではない。
死者だけでなく生者も観なければ、本当の倫理ではない。 地球には敵がいないのに、なぜ富国強兵をするのか?小国寡民でよかろう。 355 :学術 :2019/08/18(日) 20:03:46.62 ID:UXVcucia
物理というと数式の高度な羅列のイメージがあるけどね。図形などもアスキーアートご利用で。 諸法空相が、生物無生物説。
諸法実相が、無生物生物説。 賞があれば何でもやるのか?
罰があれば何もしないのか?
賞がなければ何もしないのか?
罰がなければ何でもやるのか? 他の人は鏡に映して見れるが、自分だけは完璧に美化された肖像画を鏡だと思い込んで見ることしかできない。俺たち自己愛性人格障害者を例えるならばこんな感じさ。まるで、メドゥーサだな。 メドゥーサは、自分が自分を受け入れられていないだけなんだよな。ただ、それだけのことなんだよね。 メドゥーサは、鏡を見る必要はない。だが、鏡を見たときに石にならないだけの精神的な強さは必要だ。 天に従えぬ者は従わなければよい、天は従わない者を従わせる。天は、人ではない。天道は、人道ではない。 天は、あなたがあなた自身の足を引っ張らないことと、あなたの足を引っ張る者を排除することをお望みだ。 天は、あなたがあなた自身の足を引っ張らないことと、あなたの足を引っ張る者をあなた自身があなたの権利で排除することをお望みである。 起こることは全て自然現象であり、天に唾を吐かないとは、起こること全てに文句を言わないということを言うのだろう。きっと、悟りとはこれではないかな? 生物と無生物の境界など、川と海、山と里のようなちがいに過ぎない。 自分は自分でいいんだ。みんな違ってみんないいんだ。素朴な話だが、そうなんだよ。本当に。 人は皆、生きものなんだよ。まるで自分は生きものじゃないかのようなバカげた錯覚をしているアホどものバカさに、染まってはならない! 自分が知らないことがあることは誰でも知っている
本当に愚かなのは、知っていることと、
知らないことしかないと思い込むことだ
分らないことがあることが分り、
分ろうとすることの重要性き気づくまでは、
自分に考える習慣がないことにすら気づかない "savoir-faire"とは、「やり方が『分る』」ことだ。
泳ぐという行為がどのようなものであるかを「知っている」
からと言って、泳ぎ方が「分る」ことにはならない。
サッカー・ボールをトラップするとはどういうことであるか
私は「知っている」が、トラップのうまい人にいくら説明して
もらっても、手本を実例として見せてもらっても、その
やり方が「分る」ようにはならないだろう。
いくら知識を得たところで、自分には「分らない」ことが
いくらでもあることを自覚したなら、人は謙虚にならざるを得ない。 955考える名無しさん2019/08/20(火) 18:20:34.290
《Que sais-je? 〔Que sçay-je?〕》「私に何が分るのか?」
そう自問することを忘れるべきではない。 で、何を「早くねー」なのか?
他人に期待しても無駄だと思うが >ようやく向き合うようになったか
自分の書き込みにすら向き合っていないようだが? Simply Red - If You Don't Know Me By Now
https://www.youtube.com/watch?v=zTcu7MCtuTs
If you don't know me by now
You will never never never know me 自分の知識を誇りに感じるような人には、自分が分っていないことすら分らない 理想の自分に現実の自分を合致させるのではなく、現実の自分に理想の自分を合致させる。 意識化することに拘っている限り、ものごとの機微が分るようにはならない 明示的/表面的な知識の偏重と暗黙に身をもって分らせる躾の組合せ
により、学校教育は、家畜化された人間を飼育するための動物園となる。 偽悪
↑
偽善
↑
善
↑
悪
これが、精神的成長かな。 自己犠牲する者は、他者犠牲してしまう。
自己犠牲しない者が、他者犠牲しない。 善を以って善に応え、悪を以って悪に応えて、それで初めて善と言えるのである。悪を以って善に応えるのが悪であることは言うまでもないが、善を以って悪に応えるのも長期的に見れば悪になることは明らかだ。 毒にならないやつは薬にもならない、薬になるやつは毒にもなる。 私は私である、これが正しい開き直り方。
私はあなたではない、これは間違った開き直り方。 益虫は善虫、害虫は悪虫。こういう考え方の人は、性格が善いとか悪いとかいう問題ではなく、ただ単に倫理という言葉の意味がわかっていないだけなのだろう。 思いの功罪の重さは、思いの重さ。
行いの功罪の重さは、行いの重さ。 思いの功罪=心の功罪、精神的功罪。
行いの功罪=体の功罪、身体的功罪。 薬なれなきゃ毒になれ。でなきゃあんたはただの水だ。 いつまで迷っている?バカめ!と罵られながら、人生を棒に振るのだろう。本当はそれこそが人生の充実なのにな。
羅生門の下で盗人になるかどうかを延々迷っていれば、いずれ寿命が来る。こうして何もしないで生き、何もしないで死ねば、只生きて只死んだのだから只人と呼ばれ、何の役にも立たなかったと罵られるだろう。
実際役に立たないなら、役に立たないと言われても文句は言えない。事実そうなのだから。
それにしても、役に立つやつに目を向けた方が役に立てるようになると思うのだが、なぜ役に立たないやつに目を向ける人がいるのだろうか?そういう人たちの本心は極めて謎だ。 まさかとは思うが、羨んでいるのだろうか?まあ、邪推はよくないから、やめておくこととしよう。 日々の生活に必要なものは一応そろっているから、本当に物欲らしい
物欲がないんだよな。自由に使える金があったら何を買うだろう、
と考えてみても、特に何も思い浮かばない。せいぜい、収納ボックスが
欲しいと思っているくらいのもので、それは整理に役立つからという
理由でしかない。 スマホも持っていないが、欲しいと思ったことがない、というより、
スマホを持たなければならないような状況に追い込まれるのが
とても嫌だ。なんであんな家畜の電子タグと同様のものを自分から
喜んで所持しなければならないのか。それも自分で費用を負担して。 パソコン、眼鏡は買い換えが必要になるだろうし、靴や靴下や下着も買う必要
があるだろう。でも、それは買う必要があるだけの話で、欲しいという気分の
話ではない。必要が生じない方が望ましいのだから。 人はすべての人を愛することはできない。
しかしすべての人のことを考えることはできる。 >>105
2文目は…一人一人の人のことを…にしたらもっといい感じかも 善きを取り
悪しきを捨てて
他の人に
劣らぬ人と
なるのでござる 悪いものを捨てて受け取らず、
善いものを受け取って捨てず。
これぞ、仏道修行。 しなければならないことをしたい。
してはならないことをしたくない。
こういう人が、普通の人。自分は一生、普通の人でいたい。 賞罰によらず功を為して罪を為さず、また、それを望むのが真人間。
賞罰によって功を為さず罪を為して、また、それを望むのは異常人格者。 今ここで述べた異常人格者とは、いわゆるサイコパスのことです。 しなければならないことをし、また、それを望む。
してはならないことをせず、また、それを望む。
そういう人が、真人間だ。そうでない人は、人格異常者だ。 しなければならないことをし、また、それを望む。
してはならないことをせず、また、それを望む。
それが、普通の人。自分は一生涯、普通の人でいる。 誰だって、自分に生まれたくて生まれたわけじゃない。それがわかれば、くだらないマウントを取る必要はないとわかるはずだ。それがわかってあえてくだらないマウントを取る人は、ただ単に性格が悪いだけの人だ。 帰依者ならざる者が天の意志により帰依者となったのであれば、それは天罰ではない。天賞である。 もし闘犬の犬が人間の愛を得るために殺し合っているのならば、彼らは愛を得るためなら平気で殺し合う、そんな動物なのだ。これが、忠実で善良な動物だと言えるだろうか?
忠実はともかく、少なくとも善良な動物でないことは明らかだ。むしろ、獰猛残忍で残酷極まりない、邪悪な方の部類に入る動物だろう。
こんなことを言うと、可哀相だからそんなことを言わないでと言う人がいるかもしれないが、それなら闘犬をやめさせるべきだ。 美しいものは、日本では伝統的に、非対称なもの。
いつまで眺めていてもいいのは、非対称的なもの。
家の作りとかだ。
そういう過去の記憶の美がずっとあるのに、
それは多くの人の心をとらえてきたのに、
一人で、対称性の方へとらえる頭と心で、
対称性を作り上げようとするのは、
何かおかしい気がする。
というのは、僕自身が、対称性こそが本来、と思ってきて、
大変な負担を頭にかけてきたからだ。
左右が対照的でない美の中で、
左右が対照的でなく考えることが、
イメージにおいては重要であり、
頭の使い方も、左右で違うようにするのが良いと考えた。
何より、そうしたものには、落ち着きを与えられる。
日本学に詳しいわけでもないが、非対称が、落ち着かせ、
心を安らげるのを、美しさと呼ぶのが良いことだろう。
日本家屋の美しさなどは、心を慰める。
もっともっとと、求めることより、落ち着くことができることが、
何よりではないかと感じた。
永遠でいたいと感じる、何か環境が真実を語っている。
たどり着くべきところとは、そうした環境の、語りを、
自らが、損なわれるべきでない一つの要素として、感じられるところだろう。 ノーサイドゲーム状態のときだけ、悟りを得ている。
ノーサイドゲーム状態でないときは、悟りを失っている。 それはおかしい。
やはりまだまだだな。自分が行なったことのなかに間違いはなかったか?
何でも他人のせいにしているウチはケツガアオイ。 頭が重いとか、軽いとか、いったことには、実質的な何かがある。
考える上で必要な知識は、それほど多くない。
むしろ感覚的なことを、自分で、身につけることが、大切ではないか。
なぜなら、一度考えることができたことは、失わないからだ。
完全なものはあるからだ。
それを、感覚についての言葉によって描き出せば、見事な哲学の出来上がりだ。
そののちは、それをどんどんかみ砕いていくことによって、学問としての哲学が、広まる。
次々と仏僧が表れたことの、うちに、そういう発展がよく表れている。
なぜ頭が重かったり軽かったりするのかは、よくわからないが、それを意識的に左右に配置することで、
一つの可能性を開くようなことにつながる。それは、人生がどうとか言う話でもない。
仏教において、とかく形式的な部分が沢山あるように思えるなら、その実質的なことを、行い、あるいは考え、
納得し、救われるといったことこそ、大変に難しいことであり、仏教と神道が両立的に信じられてきたことの意味が
あると信じるなら、形式と実質の両方があることが、整合的に成り立たなくなってきたということ、すなわち
開祖釈迦が、没した後に、その悟りを受け継ぐことが、困難であったということであろう。
それほどに、実質は受け継がれがたいものであり、形式を引き継ぐこと、仏教美術などは残って伝わっている。
実質を身に実践することによって悟りが開かれるように思うのだが、実際に生きる上では、色んな人が、
それぞれの考えを持っており、それを否定することが仏教ではないと思われる。
だから、様々に表れたことから見るならば、その語りにおいて、表現をしない仏僧はいないと思われる。
人格を蹂躙することなく、人を蹂躙することなく、自分によって、自分を立てることに、何よりも、
その人の悟りの段階が現れ、仏道が、病をいやし、困難をなくすようなことを実践する人格として、だんだんと、
悟りが開けてくるものであろう。 普通は、例え少なくても普通。
異常は、例え多くても異常。 悟りを開くこととは、昔の(本来の?)自分に戻ることであり、別の新しい自分に生まれ変わることではないのである。 自分の人生に責任を負えない人間に、自分の人生がどうのなどと偉そうな口を利く資格はない。 慣れてはならないことには、慣れてはならない。
慣れなければならないことには、慣れなければならない。 わがままで利己的な、幼児の心。
大人に言われて利己的な自分を否定して利他的に生きる、子どもの心。
利他が利己だとわかってひねくれた、思春期の若者の心。
利他が利己だと知りながらそれでも普通に生きていく、大人の心。 劣等感を感じた。見返すことで優越感を感じたかったが、できなかった。結果、他者をいじめることで一時的に優越感を感じる、優越感依存症となった。ネトウヨの精神構造はこんな感じ。 自分ができることをするのと、自分ができないことをしようとするのと、どちらにするべきなのか?言うまでもない、自分ができることをするべきであり、自分ができないことはしようとしないべきだ。 人間は、死ぬまでわかりはしない。死ぬ瞬間になって初めて気づくのである。自分を愛していたこと、そして、自分の愛する者を愛していたことに。 善を行って悪を行わないことへのこだわりが異常に強いのは、裏を返せば善意が弱く悪意が極めて強いということになるのではないのかな?フロイトの精神分析的にはね。 自分の中のどれも皆、本当の自分なのだ。本当の自分など、中二病患者が考えることだ。バカバカしいことだ。 アクセルを踏むべきときにブレーキを踏み、ブレーキを踏むべきときにアクセルを踏む。これでは、事故にならないはずがない。そういう人からは、免許を取り上げるべきだ。 「馬鹿」
秦の二世皇帝胡亥の時代、丞相の趙高が、この皇帝に鹿を馬だと言って献上した。皇帝が、「これは鹿ではないのか?」と尋ねると、趙高は、「いえ、馬です。」と答えた。そして趙高は廷臣たちに、これが鹿か馬かを訊ねた。
廷臣たちは、「馬です。」という者、「鹿です。」という者、答えない者とに分かれた。そして、馬と答えた者以外全員、趙高により処刑されたのである。
趙高はのち、この二世皇帝胡亥を殺し、擁立した三世子嬰によって殺された。
胡亥がのち殺されるときになって、この(馬だと言った)生き残りの廷臣たちに、「なぜ趙高のことを(嘘吐きだと)言わなかったのか?」と、信じられないほどバカげた質問をすると、廷臣たちは、「(ご存知のように、)馬だと言わなければ殺されていたからです。」と答えた。 「将棋」
将棋に負けた人が、「あのときああしていれば勝てたのに!」と言った。すると別のある人が、「なるほど、つまり君は、あのときああしていれば勝てた相手に負けたのか?」と聞いた。この人は、この問いに答えることができなかった。 犬に犬であることを認めず、猫に猫であることを認めず、鳥に鳥であることを認めず、魚に魚であることを認めず、人に人であることを認めない。そういう人が、自分は他者に寛容だなどと言う資格はないのだ。 犬に犬であることを認めず、猫に猫であることを認めず、鳥に鳥であることを認めず、魚に魚であることを認めず、人に人であることを認めない。そういう人に、自分は寛容だなどと言う資格はない。 「乞食に、食を乞う。」
持たざる者にくれと言っても、持っていない以上与えることができない。持っていない者に要求する無意味さを言う言葉。 預言者が預言者なら他の人も預言者だし、他の人が預言者でないなら預言者も預言者ではない。 他人の話を聞かずに他人をイエスマンにする人を、イエスマンメーカーという。 なぜ好き好んで自ら裸の王様になるのか?イエスマンメーカーの心は謎が深い。 バカに自己同一化して、周りを見下す。そんな人を、自分の人生を生きていない人と言うのだ。 どんな理由があろうとも信者は信者に過ぎず、ただのバカなのだ。周りから見てというよりも、本人にとって一番バカなのだ。 大変な憐れみと、その愚かさ無知さへの軽蔑、そして、そのありがた迷惑へのうんざりさ。それが、信者への非信者の正直な感想だ。 仮に他人の目が気になるとして、どの他人の目なのだろうか?他人はいったい何人いるのだろうか?これほどイタい話はないだろうな。 ミイラ取りがミイラになると言うが、皆こぞって裸の王様を目指すなら、これでは元の木阿弥だな。先祖返りもいいとこだ。 自分自身にも他の人にも、できないことをするよう求めない。人としても間違っているし、現実的でもない。 死んだ方がいいよ、本当に。こんなの、いじめにすぎないから。 >>171
人情においては、その限りではないが。対等な関係を浮かび上がらせるように、人情は働く。
仏と信仰者も、人情的な救いの働きを考えたとき、救ってくれた仏と対等なところで分かり合うことになる。
仏の所まで、人が上がっていくような機会を、仏も与える。
それは、仏性が人間においては人情的なものであると、理解されたときに、当たってくる。
そして、仏は、人に対して辛くは当たらない。もともとは、同等な存在として、共に人であったが、その達成においては、
仏の方が優れている、ということが見て取れる。
人情の働きは、相互が対等に立つことを要請し、仏もその外ではない。
それが、釈尊以降の時代の地球における、仏教である。 強き日系アメリカ人
日系二世のツヨシ・ムロは、日本とアメリカの双方で、陰惨なる迫害に遭った。日本ではアメリカ人だと言われて差別・迫害され、アメリカでは日本人だと言われて差別・迫害された。
怒ったムロは、反乱軍ジャパニーズ・アメリカンズを組織し、日本とアメリカの双方を帝国主義と批判。枢軸国と連合国の双方に対し、植民地の放棄と帝国主義政策の即時停止を要求した。
連合国と枢軸国がこれを拒否すると、ムロはただちに反帝国主義を掲げて連合国と枢軸国を打倒。こうして、ジャパニーズ・アメリカンズは連合国と枢軸国の双方に勝利したのである。
思ったよりもはるかに簡単だったことから、ムロは拍子抜けした。ムロは帝国主義者との批判を受け、反帝国主義は帝国主義じゃないなどと強弁。ジャパニーズ・アメリカンズはムロを辞任させ、シュン・オグリを次の指導者に据えたのであった。
これが、日系アメリカ人の歴史である。 蛆日(はるか) 遥か(ほるるか) 遥(うんこ) 糞(はるか)
或(ほる)で病(である)でおる^ホ 功がないくせに賞を求める人や、罪があるくせに罰を拒む人。こういう人は、ただの幼稚なろくでなしだ。 また論語ですか
論語が流行したのは戦乱の世の中でということなので、
今、とすれば、多少認知寄りな話題となりますね。 アニメ銀魂の「エイリアンvsヤクザ」で、どっちが勝っても江戸に未来はないと言う。夢も希望もなく、悪夢と絶望があるのだ。そんな映画、誰が観るのか?誰も観はしない。そんな映画を好むのは、よほどの不幸好きだな。不幸の美に酔いしれているに違いない。 孫子に、勝つ者は勝つべくして勝ち、負ける者は負けるべくして負けるとある。日米は圧倒的な力の差で勝敗が決まったが、桶狭間における信長と義元は力の差で勝敗が決まったとは言い難い。これはいったいどういうことなのだろうか? ご存知の通り、義元は信長を甘く見て、一方の信長は自分の実力を悟っていた。 その上で、信長は義元に勝てる方法で勝ったのである。 義元は負けるべくして負けた。そういう意味で、信長は勝つべくして勝ったのだ。 幸せとは、幸不幸を悟っていないことである。
不幸とは、幸不幸を悟っていることである。 世界に矛盾はないのに矛盾しているように見えるのはなぜなのか? 北朝鮮と韓国の憲法上の領土は朝鮮半島全域である。しかし、現実にはそれぞれ北部と南部に分かれて存在し、朝鮮半島北部が北朝鮮領、朝鮮半島南部が韓国領である。 つまり、現実には世界は矛盾していないのだが、思い込みの中で矛盾しているように見えているというか、矛盾していると見ているのだ。 韓国と北朝鮮の双方が、領土は朝鮮半島全域だと言っている。しかし、実際には北朝鮮は朝鮮半島北部を、韓国は朝鮮半島南部を領有していて、それは地図を見れば明らかである。 つまり、文在寅や金正恩の言うことをあてにするよりも、自分で世界地図や地球儀を見て韓国や北朝鮮の範囲を確認することが望ましい。 もう一つは、人の言っていることと現実が矛盾している場合に、本当のことは人の言っていることではなく現実の方である。
人が犬を指して猫だと言い、猫を指して犬だと言うなら、その人は犬と猫の言葉の意味がわかっていないか露骨に嘘を吐いているかのどちらかである。
もちろん、猫のように見える犬や犬のように見える猫がいないとは言い切れないが、これは猫のように見える犬だの犬のように見える猫だの言うのをそのまま「はい、そうですか。」と信じるなら、人よしにも限度がある。 犬や猫がいるのは人の頭の中だけで現実に犬や猫が存在しているわけではない 未来が現在を通過し、過去へと流れて行く。砂時計のように。 全てってのは人生の全てじゃなくて宇宙が出来てから全てね >宇宙が出来てから全て
宇宙に始まりはないので、全て=無ですね
すると、今までの全てが今のその人を作ったのではなく、
今までの全てが、その人が作った宇宙ということになりませんか 決して、崇拝しない。
決して、反崇拝しない。
これが、倫理・道徳だ。 差別に腹を立てるのは、自分自身に差別の心があるからだ。それは、自己差別とも言える。それは、生命の尊厳の否定なんだよ。 鳥のように自分の力で空を飛べないことにフラストレーションを感じる人は
どのくらいいるだろう。できるはずだと感じていることが、何かの制約に
よって妨げられていると思うから、フラストレーションを感じる。
だが、その認識は現実に適合しているだろうか。適合していない場合、
現実の方を変えることができるだろうか。現実に合せるように認識
を調整することは、妥協でしかないのか、それとも我に還ることに
なるのか。 自分が何をしたのかを思い知ること、それが悔い改めに必要なのだ。 罰を免れるためというのが一番罰を受けることで、賞を得るためというのが一番賞を得られないこと。 他の人が自分にどう生きてほしいのかを問うのではなく、自分はどう生きたいのかを自問しなさい。 もう遅くてもなら本心だろう。
もう遅いなら違うなら本心じゃないだろう。 このところ頻繁に、思考盗聴、または集団ストーカーなる投書があるとお聞きしました。
内容はというと、何者かに思考や小説を盗聴・盗作されている&公共の電波に音や声や
ときには写真・動画の類いまで乗せられているとのことでした。
ぼくが思うに訴えは信憑性の低いもので、おそらく双鬱失調障害の方だと思います。
皆さんに質問があります。
現時点の技術で作者の草稿を盗むことはどの程度まで可能なのでしょうか?
当件に詳しい方が多いように見受けております。よろしくお願い致します。 優しさに対しては、優しさで。
酷さに対しては、酷さで。 信憑性「が」の場合は逆接の文、信憑性「の」の場合は連体修飾となる。
だからぼくは精神疾患とはあまり関係がない。 弱い者が強がって、強い者の猿真似してどうするのか?どうしようもない。 >199
宇宙の一部を切り出して人とか自分とか錯覚してるだけだよ 自己愛を以って自己愛を制す。それが、熾烈な修羅道だ。 自業自得
↓ 得悟
共業共得
共業共得
↓ 失悟
自業自得 自分の意志で自分のために生き、自分のために生きることを余儀なくされていると言い訳する。これを、地獄道という。 自分の意志で生きているのに自分は生きることを余儀なくされていると思い込み、そのことを悟れず、だから生きるという苦しみを受け続ける。これはまさに、地獄そのものだ。 簡単なこと。楽になりたければ、生きることをやめて死ねばよいのだ。 死は、恐ろしくない。本当に恐いのは、生きることの方だ。 相手に特別扱いを求めるのは、自分をバカにしている。
相手を特別扱いをするのは、相手をバカにしている。 心貧しい人は、幸いだ。天国は、その人たちのものだ。その意味は、心貧しい人たちも心が満たされて幸せになれるということだ。 普通のやつは、いいやつにも悪いやつにもなれないの。普通のやつは普通のやつなんだよ。 過去はもう、死んだのだ。
現在は今、生きているのだ。
未来はまだ、生まれていないのだ。 バレなければいいというような考え方をしているなら、それが最も悪い考え方なんだ! どの命も完全無欠に平等で、優劣は今までにあったためしがなく、これからも未来永劫ありえない。 論理的、理屈的に、怒るべきところでも、怒らずに平静になるのが、一番である。欲や情動は良いものではない。なぜなら、
論理的ということは、記憶を必要とする。そして、全ての記憶を持っていることなど、望むべくもないからだ。それに、欲が混じって、
持っている論理は曲がっていくのが普通だからだ。欲と論理が、バッティングするところに、他者の問題が生じる。
自己が完全になりえず、環境が完全に認められないということ、自己と他のギャップが、大きく存在する。だから、自己は自己を
曲げなければならず、論理的でなくとも自己はある対他的態度をとらざるを得ない。自己を完全になくすことで、環境がありのままに、
完全になるのだ。だから、自己はその欲を峻別して、自己の意欲を健全にするようなものを、大切に育てねばならない。
論理的に考えることは、欲の区別に役立つ。論理的に負けないということは、負けないということではない。欲に従った時の論理と、
公平な論理が、同じでないのだから、どんな欲でもそれに従えば、環境を乱す。環境を乱してでも発したい欲とは、抑制すべきではないか。
論理ですべての欲に対する、正当的な理由づけをしてはならない。なぜなら、論理の正当性を裏付ける論理などは、ないではないか。
存在は、論理的ではないのだ。論理的でないことにこそ、論理に従う意味はあるのだ。つまり、それは間違いを正す思索のことだ。
何かの基礎を証することではない。欲においてこそ自分が正当的である、ということは、言えないのである。
欲以上に素晴らしいことに目を向けなければならない。論理と存在が、結びついて感じられることだ。
欲を論理づけるのは、愚かで無用な行為だ。それは、自己正当化で、他者毀損でしかない。それの、どこにも法はない。 皆誰しも、自身の功罪を賞罰されるのである。他者の功罪を賞罰されるのではない。 自分が自分がと、自分にとってそれほど大事な自分とは、一体なんなのか? 生物の体が入出力フィルターとして機能している以上、
住居の快適さとは、無為に働く入出力フィルターとしての機能性の高さである みなが わるなら そりぇが フツウだが、
そりぇわ ええと わるいの あいだとゆう イミでわのく
まわりが わるバカリだから わるでも フツウという イミにすぎのい。 「わる」とは「劣る/lesser」ことであり、
「あく」とは、「乖離/deviation」のことだ 「おまえはあくだ/You are deviant」というのはあり得るが、
「みながあくだ/Everyone including me is deviant」というのはあり得ない。 愛を与える者は、愛を与えられる。
愛を奪う者は、愛を奪われる。 うつは自分が精神病について行けていない状態であり、そうは周囲が精神病について行けてない状態である。
であるからして、ここではあえて言うまでも無いが、病気には診断基準というものがあり、
たんに当人の世界がイケていないだけでみなが精神病であるというようなことにはならない。
行けている行けていないというのは、あくまでも循環系精神病グループローカルでの判断基準だ。
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. : : : ノ. :.:. :. : :.:.::::::::::::::::::::://.::::厶イ::ノ::::::::::/:/
. :.:::イ . :.::{ . :.:.:.::::::::::::::::::::/厶xテて万 '::::::ノイ:/ 病の無い精神なんて・・・・
. :. :.:::i .:.::从 . :.:.:::::::::::::::::::::| 《 {!::'/ 厶イ ノ'
. : : : ::八::::{::ん、.:.:.:::::::::::::::::i| ゞ′(
. : : : .::::::∨人 \、.:.::::::::::::八 , , ,. \
. . : .:.::::::::::::::::|` ¬ `ヽト :::::::::.ゝ , ノ
、 . . : .:.:::::::::::::::N } `ヽ\ 、 _/
. ヽハ人八::人八| ノ
, -‐=≠==‐- . _ /‐v'⌒! , ┐
/ ` .{ ` ‐- イ { { ∨{ | _
. / \ /{ {/} } } |/'7
==≡ニニニ≡==‐-. . ├―‐く ハ V{ | | |/ /
. : : : : . . . : . : : : : : `: . \::::::::{`Y ヽ ヽ j ′
神経病の方が歴史は古い。精神がやんでるというと古典では病気じゃないようだ。 精神というと外傷やトラウマで傷はつくが損傷しても回復するでしょう。
病的なことは第一義ではない方がよいと思います。 まずは、前提としている認知が歪んでいることに気付くべきでしょう。
快適に生きることができなければ、心の安定は得られない。
快適に生きられる条件を実現することは、誰もが本当は知っているとおり、
本来的にとてもハードルが高い。それは、デフォルトで実現されるような
ものではなく、絶えず追求される理想なのです。 たしかに認知バイアスがあることは病的かもしれないが、 動物園で生活しているナマケモノでさえ、必ずしも快適に生活できているとは限らない 動物園の檻を人間も経験したら不自由で退屈なことがわかるだろう。 代行するのは、責任転己。
代行させるのは、責任転他。 863 :世界@名無史さん :2019/08/29(木) 17:05:01.18 0
学術さん最近見かけないけどどうしたんだ?
864 :世界@名無史さん :2019/08/29(木) 17:08:30.78 0
統合失調症悪化して強制入院させられた
やっぱ糖質にネットはダメだね
865 :世界@名無史さん :2019/08/29(木) 17:30:16.59 0
>>863
別スレで見かけたぞ?
どこにでも出るから。
866 :世界@名無史さん :2019/08/29(木) 17:52:02.38 0
ゴキブリみたいだな 病気だから全体とか部分とかいう話題が出てくるのだろ
一般の人は病気の方が考えるようなことは考えない 任意入院という制度があってな、強制入院は過去の悪癖で繰り返されない。
入院を拒否れるし、いつでも退院できるという制度だ。 人には、自己責任と共同責任とがあると思うが、他の人の自己責任まで負ったらそれは共同責任以上の責任を負うことになってしまうので、そこまではする必要がないはずだし、
しかも他の人が自己責任を負う力を奪うことにもつながってしまうから、自分のためにも他の人のためにもそこまではしない方がよいはずだ。 アイデンティティーが確立されているということは、自己矛盾がないということ。
アイデンティティーが確立されていないということは、自己矛盾があるということ。
自己矛盾が多いほどアイデンティティーは確立されていない。
自己矛盾が少ないほどアイデンティティーは確立されている。 すべてに価値がないんだから
自分にとって得なものに価値を与えて生きていく 生物と無生物の間に差別を置くことが表面的な倫理につながり、生物と無生物の間に差別を置かないことが本質的な倫理につながるという説をここに打ち立てる。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆輪廻卒業キャンペーン・魂の回覧板☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
近年では地球文明の絶頂期を迎え、ここ日本もストレスの多い社会となって参りました。
そこで宇宙の法を理解して、今生を縁に輪廻転生を卒業しませんか? 蓮の花は泥沼から咲く♪
〜世界と人間のシステム〜
◆この世界は仮想現実(VR)のようなものである。
◆この世界のすべては全自動の因縁生起プログラムによって動いており、
ほんとうは個人的行為者は存在しない。ほんとうは誰一人この世界の動きに介入できない。
どんなに高次の存在がいたとしても、それも人間同様にプログラムで動いていると思われる。
◆人間は自我の催眠システムによって、ほんとうはプログラムどおりに動いてるのに
自分の意思で心身を動かしてる、と感じる催眠状態にある。
◆しかし仮想世界の中では行為の責任が個人に負わせられるのは、倫理上も法律上も仕方のないこと。
◆人生は神聖なるジョーク。すべては宇宙意識の戯れであり、人間の意識もその深層の宇宙意識の一部。
ある意味では意識の中に世界と人間(=仮の自己)が現れ、霊魂が「私」という存在感覚を自我に投影する。
◆生きてる間に自我のシステムに何らかの強烈な力がかかって自我が落ちる(催眠が解ける)
ケースが稀にあり、それがいわゆる悟りを開いた人たちで彼らは今生で輪廻を卒業するといわれる。
◆人間が体験する事象は、基本的には自分の深層意識にストックしてある過去の行為のデータ
を使って現象化してると考えられる。(人間関係なら自分と相手、集団ならその構成員たちのデータ)
◆このデータは前世から現在までのもので、現象化されればデータは消えるが、ネガティブ現象においては
それと戦ってしまう自我の防衛システムによって新たなネガティブデータが保存されやすい。
◆このデータが現象化される速度はピンキリであり、人の深層意識の状態と運命によるが、
おそらく平均的には人生の全行為の1/2以上は来世に持ち越されると思われる。 ◆この仮想プログラムは自然発生的に起こっていて、厳密な意味での全知全能のプログラマー(創造神)
のようなものは存在しないと思われる(創造の原理は存在する)。
◆高次の視点で見れば、すべての事象の運命は先々まで定まってる可能性が高い。
◆全ての二極性は表裏一体であり、輪廻の中にあるあらゆる二極性の状況は時間の中でバランスをとる。
◆現時点の人類のDNAシステムと自然界のエネルギーバランスでは、生前に自我の催眠が解けて
解脱する(真我に目覚める)のはごく稀なケースで、今その部分の転換期に差し掛かってるのかもしれない。
◆しかしこれが仮想世界でほんとうは個人は行為者ではないと確信してそのことをよく考え抜き、
自我に根ざした行為を控え、ハートに根ざした道理に適った行為を心がけて深層意識のデータを浄化し、
真我は不生不滅でありこの仮想世界そのものとそれが現れる源泉の両方であることを確信して死ねば、
死後に輪廻を卒業してニルヴァーナにずっといた真の自己に目覚めると思われる。別の言い方をすれば、
偽り・幻想への同化が止んで原初の状態である荘厳なる真我が残される。真剣さと誠実さが大切。
ただ現時点で多くの人間は我欲を主体としており宇宙の法に従った生き方をしないために、
延々と輪廻(=幻想)の海を漂ってる可能性が高い。
◆このような世界観を直感的に確信し受け入れて賢く生きれば、仮に死後に輪廻したとしても、
深い洞察と良縁に恵まれた好ましい流れの運命を享受できる可能性が高い。
◆生前に「来世」という可能性も少し考慮して行為するのは理にかなってるかもしれないが、
死ぬ間際に来世という概念(イメージ)を強く持ってしまうと、それが輪廻の卒業を妨害する可能性がある。
自分で死期が迫ってることがわかるケースでは、最期にはなるべく欲望・執着を捨てて、
あらゆる概念を放棄してハートの中心(自我と真我の連結点)で静かにしているのがよい。 ◆人生を例えるなら、人間は既に作られたシリーズものの映画を見てるようなもの。
我々はほんとうは真っ白なスクリーン(=至高の実在、ホトケ)でありその中の小さな点(=霊魂)でもある。
その小さな点が、登場人物の視点から映画の中の世界を見てる。
つまり人間はいわば夢に見られてる側であり、ほんとうは誰も生まれず誰も死なない。誰も何もやってない。
自分が世界の中を動き回ってる、という感覚は自我の催眠によるもので、
実際には真我の霊魂の前に仮想意識とその中に仮想世界が現れて、その中の同化してる登場人物が
動き回ってるようなシーンが現象化されてるだけ。
◆生前に自我の催眠が解けて解脱した場合、メインの自己感覚は真我(映画でいうとスクリーン)の側になり、
仮想意識に中に現れた人間としての自己感覚は非常に小さい(ほとんど私は人間だとは感じられない)ものとなり、
自分が行為者(行為の司令塔)であるという感覚もほぼ消失する。
あえて肉体のレベルに焦点を合わせれば行為者の感覚が発生するが、それは偽りだという感覚が同時にある。
メンタルシステムの最大の障害物である自我が抜け落ちてるので、心はエナジーと喜びに満ち、
常に現在の瞬間を直感的に的確に捉え、非常に慈悲深く注意深く道理に適った振る舞いを自動的にするようになる。
精神的にはネガティブ感情も起こるが幼子のように速やかに消えていく。
自分のことでは精神的には悩まないが、人々が苦しむのを見て胸を痛める。
肉体的(物理的)な痛みは、肉体のレベルにおいては普通の人と同じように感じるが、
同時に真我の位置からの観照が起こる。 それは仏教じゃなくてスピリチュアルやね
途中まで似てるけど根本的に違うもの 独身世帯で日課を効率的にこなすように努めていると、住居も生活も
修道院的になっていく。修道院を真似ることを目指しているわけで
なくても、無駄を切り詰め、家事や仕事がうまく回るように身の回り
を整えていくと、自然にそうなる。すると、住環境は、次第に自分の
体(からだ)のように自らの生活と一体化する。 生きていくためには、水や食料・衣服など、様々なものが必要なのだが、それらは、呼び寄せの呪文などをいくら使っても決して出て来ることはないのだから、自分で刻苦鍛錬努力して手に入れるものなのだ。 もっと善い人がいるからといって、善人が善人でなくなりはしない。
もっと悪い人がいるからといって、悪人が悪人でなくなりはしない。 アイデンティティーを確立するためには、不易と流行を見分けることができるようにならなければならない。 物事は、どのようにか与えられているものとして受けとめられている。
その「どのように」を、より忠実に記述することができるように
経験を通じて言葉の表現を磨くことが、哲学が果たすべき役割であり、
それ以上でもそれ以下でもないだろう。 人は、人格で見分けることができる。原爆のアメリカとシベリア収容所のソ連が戦後対立したように、例え枢軸国が勝っても、731部隊の日本とアウシュビッツのドイツは、戦後必ず対立したに違いない。 天は天の為すべきことをするし、地は地の為すべきことをする。私は私の為すべきことをするから、あなたはあなたの為すべきことをしなさい。 自分はそうであるのに自分はそうでないと認識したり、自分はそうでないのに自分はそうであると認識する。これは、明らかに自己認識ができていない証拠である。 同様に、自分がそうであるかそうでないかがわかっていないのにわかっていると認識したり、自分がそうであるかそうでないかがわかっているのにわかっていないと認識するのもまた自己認識ができていない証拠である。 自己認識のみならず、ありとあらゆる認識について同じことが言える。 何か解決しがたい問題があり、悩み、苦しむかもしれない。自分にとっての問題であり、複数回同じような苦しみがあり、もう、
このことは一生自分の所為と思え、出口が見つからず、憎しみが生まれるかもしれない。
だがそれは、煩悩であり、本来の自分は決して失われておらず、見失った本来の自分を、いつでも、安楽になるために、
自分自身として、頼ることができるのである。
悩みというのは、多くの場合、自分が作り出していると思えるものである。だが、自分の心の問題であれば、
それが現実的に完全に対処不可能であるということはない。現実的に不可能な話であれば、人を頼ったりして、
苦しむまた別の種類の問題になる。その問題は、自分で汗して償うものである。だが、そんな時にも、
本来の自分として、ある程度の安楽、自己というものの自然な安心は、いつでもなくなっていない。
自分があり他人があり、関係悪化があり、許せないと思い、許されないと思う。そのような苦しみにも、
本来の自分、全く完全に損なわれることのない自分自身というものは、いつでもあり、それは完全な善であり、
優劣やレベルの程度によって決まるのではない、完全な悟りというものである。
完全な悟りとは、どんな人間も仏であるということである。仏になるまでは生まれ変わって、さらに探すということになる。
それを到達したなら、もうそれ以上に悩むことも必要でなくなる。
ひどい失敗の中でも、社会の中での自分ではなく、個人個人の中での必定された自分が、より根源的な問題であり、
心の苦しみは、より高い位置にあるものを示しているのであると思わされる。
憎しみに至るまでに苦しめられることは、現実の中で解決しなければならない。そのために修行による悟りを得ようとし、
仏信仰をする。
悟るということは、自分の能力に、気づくことであり、本来の思い行動する力を、知ることである。
そのような力は、生物としてあることから、確証されている。他人や環境との関係の悪化などの煩悩によって覆い隠され、
頭から抜け出てしまうような状態から、それが大丈夫だと思うためには、ふと我に返り、自分がしたいことも、できることもある、
ということを考えればいいだろう。表現されたものだけが自分ではないのだ。 過去のある時点において、あった様々な可能性が、分岐して現実化する。それは、選ばれなかった可能性であるが、
現実化しなかったものも、その状態としては、未来までの永遠において、存在していたものである。
自分で望んで掴んだものも、掴み損ねたものも、現実であり、変えることはできない。
自己以外を無理やり変えることもできない。なぜ変えたいのかと問うことはできる。
全てが思い通りに行くことはない。自分以外のものは。 理想が上がるほど現実が理想に反比例して下がり、理想が下がるほど現実が理想に反比例して上がる怪現象について。
なお、この理論によれば、理想が下がりきると現実が上がりきって理想と現実は一致することとなる。 この、理想が上がるほど現実が下がり、理想が下がるほど現実が上がる怪現象は、粒子と反粒子の対生成と対消滅に比肩するほどに興味深い現象であり、悟りを失うと理想と現実が対生成し、悟りを得ると理想と現実が対消滅するとも言える。 当たり前と言えば当たり前なのだが、買い物依存で破産するのは、理想と現実が乖離していると言える。貧しいから節約するのは、現実と理想が一致していると言える。 あらゆる依存症について言えることだとは思うが、幸せになりたくて不幸になるのは、言い換えれば、ユートピアにしたくてディストピアにするのは、まさにこの、理想が上がるほど現実が下がる怪現象そのものであると言えよう。 現実から理想が乖離している。→悟りを失っている。
現実に理想が一致している。→悟りを得ている。 マウンティングは、いい歳した大人がやることではない。
セルフマウンティングになってしまったら、自分自身も辛い。
私は以上二つの理由から、マウンティングはしない方がいいと思う。 潮の満ち引きは、一回で干潮になったり一回で満潮になったりするわけではない。波が寄せては引いて寄せては引いて、気がついたら干潮なり満潮なりになっているのである。 マウンティングは、セルフプレゼンティング。
プレゼンティングは、セルフマウンティング。 「生命体は皆どれも、自然現象の傀儡。」(ラプラス 仏 1749-1827 ) 人は、自分がした悪いことや自分がしなかった善いことは、しばしば忘れがちである。 実際に電磁波攻撃が行われている世界
ただの偏頭痛である世界
この世界には二つの世界がある 善悪を考えることは、損得を考えないことではない、損得を考えることでもない。損得を考えることもまた、善悪を考えないことではない、善悪を考えることでもない。 これは、箸を使うことがフォークを使わないことでもフォークを使うことでもないのと同じことであり、フォークを使うことが箸を使わないことでも箸を使うことでもないのと同じことである。 生死を離れるとは、生死にこだわらなくなることだろう。死を避けて生きよう生きようとすることだけでなく、生を避けて死のう死のうとすることもまた、生死を離れたとは言えない。 物事は、どのようにか与えられているものとして受けとめられている。
哲学が果たすべき役割は、その「どのように」を、より忠実に記述する
ことができるように経験を通じて言葉の表現を磨くことであり、
それ以上でもそれ以下でもないだろう。 この世は、命よりもプライドが優先するキリシタン殉教者のような人ばかりだろうか?そうとは限らない。そうでない人もいっぱいいるに違いないのだ。 人物の写真をカメラで撮ってPCに取り込むとディスプレイには人が写っていますが、
これをbmpファイルに変換してバイナリエディタで表示してみましょう。
すると00からFFの16進数の羅列が表示されます。
この数字の中には先程の人物の情報が存在していますが、人は何処にも写りません。
この数字の羅列が涅槃の世界であり、人の写った映像が衆生が現実と呼ぶ世界なのです。 他の人に許していることを、自分にも許す。
自分に許していることを、他の人にも許す。 過去の世界が歴史を刻んできた。
現在の世界が歴史を刻んでいる。
未来の世界が歴史を刻んでいく。 刻まれているのが過去で、刻まれるのが現在で、まだ刻まれていないのが未来では? 不易を忘れず流行に遅れざれば、すなわち生き易し。
不易を忘れ流行に遅るれば、すなわち生き難し。 白隠禅師の座禅和讃に、「当所即ち蓮華国、此身即ち仏なり。(ここは極楽浄土、私は悟りを開いた覚者。)」という言葉が出てくる。これはもしかして、この世は極楽浄土で、それを悟ることが悟りだという意味なのではないか? つまり、「ここは極楽浄土だ、私は悟りを開いた人だ。」という意味ではなく、「ここは極楽浄土だ、それを悟った私は悟りを開いた人だ。」という意味なのではないか? この世界は極楽浄土、それを悟った私は覚者。こういう意味なのではないかと、思うのだ。 >322
つまり涅槃の世界と現実の世界は同時に存在する 極楽は釈迦入滅後に悟ることができなかった人達によって作られたファンタジー
釈迦の教えは科学 性中立説
人の本来の性質は、善でも悪でもなく中位であるとする説。 生き霊はどれも皆、自分に取り憑いているのではなく、自分が取り憑いているのである。死霊もまた然り。 主張すればそうであるというわけではない。
主張しなければそうでないというわけではない。 涅槃の世界では全ての事象は縁起の連鎖によって発生し、そこに善も悪も存在しない しかしその原理を理解しない衆生は、そこに善悪を幻視してしまう 自分自身を愛する以上に他者を愛さなくともよいのならば、他者もまた、その人自身を愛する以上に自分を愛さなくともよいはずだ。 自分が自分自身を愛する以上に他者を愛さなくともよいのならば、他者もまた、その人自身を愛する以上に自分のことを愛さなくてもいいはずだ。 自然界はノーサイド。ノーサイドであるべきだ。は、人間社会の話だ。 自然環境の破壊とは、生物に対する人にとっての有用性を基準にした選別が働かなくなることだ。 送電線の下の空き地に人が入ることの規制を強化するために鉄塔の周囲が
フェンスで囲まれ、塔の下の地面がコンクリートで固められるようになって
から久しい。地面をコンクリートで固めることは、植物が育ちやすい「環境
を破壊する」ことを意図的に目的としている。
では、その結果なにが起きただろうか。空間がフェンスに囲まれることに
よって、そこには管理者以外の人が入ることができなくなった。コンクリート
で植物が育つことも妨げられて、ただの空き地になるはずだと思うだろう。
ところが、である。植物はそんなことには構わない。コンクリートは劣化
して割れ目ができ、そこから次々に育って大きくなる。管理者以外誰も
入れないから、管理者がその植生を除去しないなら、誰の選別にもかけられ
ることなく、その環境で優位になった植物が成長する。そのうち、その
植物を利用する昆虫やそれを捕食するトカゲや鳥なども増えるだろう。
そこに生える植物には、人がそれを快く感じるか否かの選別が働かないので、
よく知らない、見た目もきれいではない植物が茫々と生えて、木のように
高くなり始めている。「自然環境の破壊」によって、その空間を人が利用
できなくなったところで、「人に有用性が感じられる生物に有利な環境」
が失われるだけのことで、そんなことにはお構いなしに他の生物は、
その環境を自らに有利に利用して繁殖していく。 進撃の巨人でエレン・イェーガーが、巨人が人間を食うから復讐をすると言う話がある。一方で、巨人に怯えて壁の中で暮らす人間を家畜と呼んで蔑んでいる。
エレンは、罪を自覚していない。善悪の判断ができていない。それは、巨人が悪なら人間も悪、人間が善なら巨人も善という、いわゆる客観視ができていないのだ。 親鸞の"悪人正機説"とは、わざわざ好き好んで悪を行う人間が悟れると言っているのではない。罪の自覚のない"善人"ですら悟れるのだから、罪の自覚のある"悪人"はなおさら早く悟れるという意味だ。 エレンは、人間が家畜を食べることは当然視し、巨人が人間を食べることだけを罪とみなした。このような人ですら悟れる。まして、前者が罪でないなら後者も罪でなく後者が罪なら前者も罪だとわかる人は、なおさら早く悟れる。
これが、親鸞の悪人正機。決して悪人が悟りやすいと言っているのではない、罪の自覚ができる人の方が罪の自覚ができない人よりも悟りやすいと言っているのだ。
よくよく考えれば極めて当たり前の話で、悪人が悟れるという意味不明な解釈をした本願誇りの人たちはとても変なのである。 中二病だからといって、本質的善人とは限らない。
中二病でないからといって、本質的悪人とは限らない。 「当処即ち蓮華国、此の身即ち仏なり。(この世界は極楽浄土、それを悟った私は覚者。)」
この悟りの境地こそ、一般用語で言う「大人になった。」という状態ではないかな。 一般用語でいう「大人になる。」と、仏教でいう「悟りを開く。」とは同義であると。 つまり、悟りというものは仏教僧の専売特許ではなく、一般仏教徒や非仏教徒もその境地に至れるということ。 僧侶でない一般仏教徒や非仏教徒の中にも悟りに至っている人はいて、しかもその人数は膨大かもしれない。 悟りを開いても、ガウタマ・シッダールタになるわけではない。 それどころか、ガウタマ・シッダールタのようになるわけですらないかもしれない。 だから、悟りのイメージと実際の悟りとは違うかもしれない。 画餅は餅とは異なる。イメージのそれと実際のそれとでは、画餅と餅ぐらいに違うのかもしれない。 許すべからざるものは許すべからず。
許すべきものは許すべし。 釈迦は現代で言えば無産者のニートみたいなものだが、
現代のニートの中に悟りに辿り着く者がどれ程いるか?ほとんどいないか?
少なくともサラリーマンや現代の僧侶の用に生産活動を行う限り
悟りに辿り着くことは、ほぼ不可能だろう 僕等の悟りを「一瞬と永遠」と名付けよう
少女達と無敵の人による秘密の儀式
無敵の人3.0 POST HUMAN SEXと
量子的シンギュラリティに関する最終報告
https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n3344fs/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) 地の果て
西遊記で孫悟空が釈迦仏に、「地の果てまで行って名前を書く。」と豪語し、名前を書いて釈迦仏のもとに戻った。しかし、書いた場所は実際には釈迦仏の手の平の上であった。
人間は所詮人間であり、神ではない。人間は人間以上の存在にはなれないし、そもそもなる必要性自体がない。人間同士の力比べなど、ドングリの背比べ程度のものでしかないということ。 仕事探し | Indeed (インディード)
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闇に転びうる光
光に転びうる闇
光に転ばぬ闇 弱い犬ほどよく吠える、能ある鷹は爪を隠す。
得てしてそうでない人間に限ってかえってそうであるぶって、そうである人間の方がかえってそうであるぶらないのは、いったいどういうことなのか? >378
独力で悟りを得た人が大発明をしたと思っていたら、既にお釈迦様が同じことを発明していたことの例えじゃないの?
大発明あるある 瀬戸内寂聴さんはA型だけどA型が悟りを開ける生き物だとはとても思えないだが
人は嫌な奴ほど長生きすると言うが何かを学ばせるため又は死後地獄へ行くのでせめてもの情け
だと思っているのだがどうだろう 嫌な奴という人物像を作って苦しんでいるのはあなたであって瀬戸内寂聴ではないですよ
瀬戸内寂聴の人物像は各人の頭の中にあって、実物の瀬戸内寂聴は唯の物質だということに気付いて 心身一如の瞬間が、悟りの境地に至っている瞬間だと思う。 何かを否定をするのは、別の何かを肯定をしているからである。その別の何かを肯定することをやめれば、その何かを否定をすることはなくなる。 お山の大将
狭い世界で英雄を気取り悦に入る、虚しくて悲しい人間。 ピラミッドは、ファラオが一人で建てたのではない。大勢の労働者たちが建てたのだ。
ペルシャ戦争は、王たちが戦ったのではない。大勢の兵たちが戦ったのだ。 ピラミッドは、ファラオが一人で建てたのではない。大勢の労働者たちが建てたのだ。
ペルシャ戦争は、王たちだけが戦ったのではない。大勢の兵たちが戦ったのだ。 功賞型 人を幸せにするのが好きな人、極楽化人間。
罪罰型 人を不幸にするのが好きな人、地獄化人間。 「ridiculous!(バカバカしい!)」
〜全てについて、ニーチェ 釈迦族の王子は一体何を悟ったのか。
悟りを開いた後、彼は苦しみとは何か、その解放とは何かを意欲的に広めようとした。
しかし、悟った内容は決して話さなかった。
彼の言う苦しみ(恐怖)とは、大きく分けて3つだ。
死や病、老いによる苦しみ。
愛情、憎悪など人間関係の苦しみ。
そして別れの苦しみだ。
その対処法はざっくり言ってしまえば、人との関わりを断ち、死を受け入れるということだ。
ここからは私の自論なのだが、彼の悟りが上記の事であるならば、弟子を連れて広める事自体が矛盾しているのだ。
死を受け入れたのであれば、一人で死ねばいいこと。
しかし何故だろうか。
彼の言う苦しみというモノは、人間の苦しみである。
だから、この苦しみの連鎖を断ち切るには、自分の存在だけではなく、人間自体を消してしまわなければならない、という結論に至ったのではないだろうか。
愛情すらも幻想に過ぎないと言っているのは、子孫を残させない為なのかも知れない。
しかしソレを言ってしまえば、人類を絶滅に追いやる悪魔だと、弾圧されることは容易に想像できる。
だから決して口にすることは無かったのだろう。
彼は無を求めたが、手にしたものは、虚無だったのかも知れない。 瞑想じゃなくて迷走してるねぇ
悟ってしまったら、人間自体を消してしまわなければならない、なんて考えなくても
時間が経てば自然に人類が消滅することが分かるじゃない
諸行無常なのよ キリスト教的には、世界は舞台だ。人は舞台俳優であり、神の意思に従うことが求められている。
イスラム教的には、世界は人形劇だ。人は傀儡であり、神の意思に従っていない者はいないとされている。 本当にっっ
縁て不思議なものですね。
おれも全部繋ぎ止めておけばよかったとは思っている。だけどよう考えれば全部の縁を繋ぎとめるなんて無理。
だから1999年〜2000年の縁だけは全部繋いどくべきやった。 功罪と賞罰とは別だ。功に賞、罪に罰とは限らない。
功があるのに賞がなかったり、功があるのに罰があったり、罪があるのに罰がなかったり、罪があるのに賞があったりする。 女って出会ってしばらく経つと、俺のこと激しく傷つけようとするんですけど。イライラするのかなあ? >>400
しかしながら、人間同士の繋がりを希薄にしようと行動していたのは、事実なんですよね。
個人的にはこの世界全てがまやかしで、それに気がつかない限り、永遠に捕らわれ続けると考えたのだと思っております。
確かに諸行無常という考えもありますが、生すらまやかしで有るとすれば、捕らわれているモノは一体何か。
それは、物質としての人間ではなく、主観やら概念としての人間なのではないか。
そう言ったものは、なくなることは無いのではないのでしょうか。
となると矢張り、全ての執着をなくすしか無いと考えただと思います。
何かにすがったり、執着したりする事は、逆に苦しみを生む。
そしてそれは永遠の幻想に捕らわれ続けてしまうという考えたのではないかと、考えたのではないでしょうか。 全ては人間の主観、全ては人間の幻想、全てはまやかし、か。
ではないんだよな。ちゃんと無に対して色や有がある。 功罪と賞罰とは別だ。功に賞、罪に罰とは限らない。
功がないのに賞があったり。
功があるのに賞がなかったり。
功があるのに罰があったり。
罪がないのに罰があったり。
罪があるのに罰がなかったり。
罪があるのに賞があったり。
するものだ。 >>411
ちなみに、シッタールダの行動や言動から推察した意見であり、この宇宙についての私の見解は違いますよ。
ところで、無とは何か説明が出来ますか? 無を説明するのは難しいですが、これは完全に主観的意見になります。
無とは「実体の無い全ての物事」を指します。
そして空とは「実体の無い[無]のなかにある全ての[有]」と説きます。
有とは「実体の無いところに有るもの」例えば意識。意識は実体が無いが有であります。何故なら、実体がないが確かに有るものだからです。 >409
迷走しないで瞑想しなくちゃ
>個人的にはこの世界全てがまやかしで、それに気がつかない限り
その通りだよ、この世は脳が作った仮想現実
そしてそれを体験している自我も脳が作った仮想現実
釈迦が生産的なことを禁じたのは、目的を持つことで執着となり自我が発生してしまう事を防ぐため
イメージを作らずありのままを見ることでこの世が仮想現実であることに気付き
自分自身のありのままを観察することで「我」が一瞬一瞬起こっては消える仮想現実だと気付く
言葉で説明しても分かってもらえないからトレーニング方法(瞑想)を教えたんだよ >>414
>>414
そうですね。
概念も含め、有るもの即ち「有」です。
では「無」とは何か。
私の見解です。
無は何者の存在も認めないものである。
無は概念として、しっかりと存在しているのです。
ですから、無もまた有なのです。
では「有」とは何か。
有は全てです。
無も含め、有で有る。
全てを見渡せる存在があるとしましょう。
そこから見えるモノが全てです。
増えもしなければ、減りもしません。
概念なども含め、全てがあって「有」なのです。
そして「有」は初めから有る。
必然だからです。 無とは永空のスペース。有とは有り難き美しき人生の主体。客観/主観問題にも当てはまる。 「無」が有るっていうのは、ヴァイシェーシカ的でインドでは一般的な考えだよね。 ブッダは、一切衆生の平等を説く。それは、唯物論的本質的平等なのではないか? つまり、極端な話平等以前に衆生自体が無いかのような話をしているのではないか? つまり極端な話、平等以前に衆生自体が無いかのような話をしているのではないか? これはあくまで私一個人の見解にすぎない。定説でもなんでもないので、鵜呑みにすることのないよう注意されたい。 俺は理不尽な状況なら人ぶっ殺すことは正しいと思っている
プライド(個性、理念、哲学、独立、自由、意地)が高いことはすばらしいことだと思っている
怒ることは正しいと思ってる
欲望に忠実なことはすばらしいと思う
逆に節制と抑圧は、愚か者と卑怯者を増やすだけだ
怒りと暴力がなければ腐った偽善者を倒すことはできん
このゲスな国を変えることはできないからだ
本当の悪とは、偽善ぶってて、差別をし、生贄を作り、陰険で、法規範に忠実な真面目系クズのことだと思う
彼らのほうが殺人鬼より残忍だと思う プライドの逆位置→ミーハー、軽率、虚栄心しかない、全体主義、なれ合いを重視、自己愛性人格障害、愚鈍、魯鈍、無責任、卑しい、卑怯
怒りの逆位置→偽善、無神経、差別主義者、保身
欲望の逆位置→長いものに巻かれろ、節制、抑圧、我慢、受け入れろ、全体主義
暴力の逆位置→逃げ、我慢、平和ボケ、恥、自殺
現代の法規範(不条理)の逆位置→自由主義、マイノリティー、ソシオパス、アスペルガー、殺戮、個性、武力、筋を通す >>401神とは人が世界を支配をするために作り上げた虚像だ 神の教えに逆らう生き方をしろ >>424-425
殺人をする人間が、逆に死刑に問われる、という、法の定める原則は、筋が通っています。
偽善者が偽善者と呼ばれ、差別をするものが同じ仕打ちを受け、生贄を作るものが、うやむやにしたその罪に報復を受けるべきだ、
陰険な人が友が少なく、法規範に忠実なものが、法外の経験をすることができない堅苦しい人間になること、
それらによることが、まさに「法というもの=条件が同じならば同じ結果を導くように定まった規則があること」、というものを、
整備する根底にあるわけだと思います。
自然権といったものも、そういうものなのではないでしょうか。
感情が怒りになることは、一時的にはそうなってもいいと思いますが、長い人生を生きるとすれば、法の中で感情を発露する
方法を探し、後から自分に降りかかってくる罪を、なるべく少なくした方がいいには違いないでしょう。
革命のようなことを起こしたい、起こすべきであると思うなら、それは、面白い人生になるかもしれません。
革命は、世に隠れた虐げられているものを、救うために目指すのでしょうか。
生きる意欲が強いことは、とてもとてもいいことです。
感情が高ぶったりフラットになったり、経験は、本当に微妙なものです。その微妙さは、例えば友人とファミリーレストランなどで、
微妙なものを感じる時間を過ごし、やあ良かった、と出ていくときには、確かな手ごたえある時間を過ごしたことになるでしょう。
社会の法規範に支配された行動、また規範からの影響。それが、個性に対してどう思っているか、ということは、
平等さを理念と掲げる会社、政党などが、個々人の実際を、行う上で、その実情に触れ、身体的でプライベートな
やはり理想を達成したい、と感情がうごめくのを、個性的な新しさの実現に場を与えることが必要です。
熱く命を懸ける場は、まだまだあるはずであり、自然にそうしたものの中での、労務者として命を燃やしたい。
信仰修行と教えの解明に身をささげること、それだって、孤独にも、熱気を感じながら、どんな風にでも、
力を尽くすことはできるのです。
以上、法という考えの在り方と応用、感情がその中で高まるにはどうすればいいか、働く場、孤独以上の熱気といったことについて
書きました。 >>427とにかく 今 与党がやっていることは 全く筋の通らない ならず者がいい思いをして 本当に有能な者が虐げられている
権力の名の元に いじめを一方的にやって自殺者が大量に出てる現状だ なにより一番社会悪になっているのが政治家と大企業と警察、公安 こいつらが破落戸だから世の中が理不尽になっている ルサンチマンすぎでしょ
自分の作った妄想概念に苦しめられてる典型
ありのままを見て >>428
出来る限り頑張りたいものです。その方法も、自然に生まれることを期待したいです。
感情の限り生きて、怠けることはしたくなくなってきます。
自分が生きてきた道を振り返った場合、どうしたいかは、経験した道に基づくしかないでしょう。
基づいた上で、したいこととすべきことの、両方を思うのです。
それは、それほど辛いことではありません。理想というものは、研ぎ澄まされるほどに心を変えて、
現実的な力も帯びるでしょう。みなが理想を実現できればいいと思うし、共にあるということの、
素晴らしさを、感じるものです。理不尽(無理やり)さにNOを言うこと、そんな行為を、そして認識を、
積み重ねていけば、何かが変わっていくと思いたい。理不尽なヒーローなんて、いなかったですから。 苫米地英人って人が、究極のIQは慈悲(無償の愛)だって言ってたけど、悟りってもしかしてこれのことなんじゃないのか? 悟れば悟れる
悟らねば悟れぬ
何人も
悟れぬは人の
悟らぬなりけり 自分にも味方しない。
人にも味方しない。
生きものにも味方しない。
誰の味方もしない。 ナンバーワンは比較からしか生じない。
オンリーワンは比較自体をしていない。
よって、ナンバーワンとオンリーワンは両立し得ない。 食わず好き、食って好き。
食わず嫌い、食って嫌い。 やりすぎるぐらいが丁度いい。
やらなすぎるぐらいが丁度いい。 悟られた経験があるなら、悟るとはどういうことかを理解しているはずである。 人間を人間以外の生きものから切り離して特別扱いすることは、集合的自己愛性人格ではないかと思うのだ。だがもしもそれこそが人間性なのだとしたら、人間性は諸刃の剣。自己愛性人格障害にもなりうる危険な性質であるに違いない。 天は、誤らない。起こったこと、起こっていること、起こること、その全てが天の意志なのだとしたら、そのことに文句を言うことは天に唾を吐くも同然の行い。何も問題はないとは思うが、そんなことをしても何にもならない。 無意識と意識
人は無意識に従っていて、意識に従っているというのは思い込みに過ぎないという説がある。別の言い方をすると、人は身体に従っていて精神には従っておらず、身体に従っているのを精神に従っていると思い込んでいるということになる。
もちろん、オカルト話にすぎないのだが、オカルト話としては結構おもしろい方だと思う。 文化集合的人格論
文化とは、多数派の考え方のことである。文化が変わることとは、多数派の考え方が変わるということである。
例えば、進化論は文化に大きな影響を与えたはずだ。猿が人に進化するという考えは、人々のアイデンティティーに大きな影響を与えたに違いない。
さらに、化学進化説はもっと大きな影響を与えたに違いない。無生物から生物が生まれたという考えは、革新的な考え方であったはずだ。 文化ってのは基本的に文明の中から生み出された物事を総称して言うのであって、>>448は少し間違っている。
文化の定義はいくつかあるが、多数派が生み出したものは大衆文化という言い方をする一方、少数派が生み出した物事、例えばLGBTの使う「ノンケ」やオタク言葉の「絶対領域」などの言葉は文化であるが、
必ずしも多数派が生み出したものを文化というのではない。多数派に通用しない物事も文化である。高等遊民の文化やマイノリティーの文化も少数民族の文化も文化であり、
人類が構築した文明から自然発生的、あるいは遊びから意識・無意識から生み出された物事を総称して文化という。 自分への無償の愛
人々への無償の愛
生きとし生ける者への無償の愛 気を使わず。
あえて気を使わないという形でも気を使わず。 天よ、汝の為すことを為せ。これまで通り、これからも。 富士山もエベレストもキリマンジャロも変わらない。
江戸川もナイルもアマゾン川も変わらない。
上下など、人間の妄想に過ぎない。 慈悲は相手に見返りを求めないが
無償の愛とはまったく別物 俺は頭がいい者がこの世で一番偉いと思う たとえ殺人鬼であってもな 安倍政権の輩は全部バカだから死ぬべき
よく勘違いしてるバカがいっけどよ バカは優しくなれねんだよ
バカは弱えから保身しかできねえ てめえの身を守るために偽善ぶって都合よく人間を利用してるだけだ
本当に優しい 慈悲深い者は頭がいい人間だけだ
バカは偽善ぶって人に優しくすんな どうせすぐにメッキが剥がれっからよ 吐き気がすんだよ とくに女! 貴様らだよ!
よってロリコンや知恵遅れは優しくねえ 努力もしないし バカ丸出しだ それどころか人様をアホにさせる
ロリ文化をステマして人を愚かにさせてるクズは失敗作なんd 死んだほうがいいぜ 頭が悪い奴の条件言うから参考にして昇華せよ
1、他者に共感ばかりし、己を無様さを見れない
2、冷静でない
3、情ばかり優遇し、知を顧みない
4、視野が狭い、冒険をしない、面倒くさがる
5、グロを怖がる
6、学ばない 7、生まれつき脳に障害を持つ、ロリコン
8、真面目系クズ(体育会系にも精通する)、上(権威など)を偉いと信じる、マナーやルールを徹底的に厳守する
9、常識を疑わず、マニュアルに沿ったことしかできない、自分で考えない
10、差別的な脳をしている
11、さびしがり >>433悟りを得たいのならば、一切の情(友情、愛情)を捨て 、自然の摂理とは何かを考え、 一人でいる時間を長く作り、 自分で様々なカテゴリーを勉強し 、考え
滝行をして、霊的にも強くなるべき、また、海外の情報、文化の知識も得、地理、歴史、科学、心理学を学び、広い視野を持つべき 今の内閣総理大臣は残念なことに知もなければ情もないくそ坊ちゃんだ 非常にガッカリだ 嘆かわしい もうね情けなくなってくる 権力というのはもろ刃の剣という
曹操ならば多少の犠牲はあるだろうが いい世の中がつくれたろうに安倍ごときがトップなら犠牲が多く出て世がダメになる 最悪だ × 過去の問題を解決することに取り組む。
○ 現在の問題を解決することに取り組む。
× 未来の問題を解決することに取り組む。 世の中には、ダーウィンのような理解されることを求めるタイプと、小保方のような誤解されることを求めるタイプと、二通りの人間がいる。 だがどちらも、最終的には理解された。理解を得られないとか誤解されているとか、嘆く必要はない。 >461
悟りを得たいという理由でそれらをやっても悟れないよ
深く探求すること自体が好きでずっと研究してると、あぁそういう事だったのか!てなる
瞑想も苦しみから抜け出したいって動機でやっても悟れないよ
自分が固定観念に縛られていることに気づいて、それらから解き放っていくことが楽しいと、いつか悟りに行き着く 「嘘も方便」と言うが、それが通用するのは、後で嘘が嘘としてバレても、
それが方便として良い結果をもたらすのに役立ったと認められる場合だけ
だろう。性急に結果を求めるあまり、嘘の即効性ばかりを追求して、
その妨げとなるような懐疑や反省を暴力や脅しを使ってでも排除し
なければならない状況に陥るなら、「嘘も方便」は、結果として内省を
促すことになるどころか、無関心と短期的な自己利益を追求する浅はかな
連中の追従を拡大的にもたらすだけになる。 アマゾンの先住民が焼畑農耕と狩猟で暮らすことができたのは、
人口規模が小さく、移動しながら暮らしていたからだ。先住民であっても、
定住して集落の規模が拡大するなら、焼畑農業で暮らしを維持することは
困難になる。 共業共得(共同責任) 社会性動物的である。
自業自得(自己責任) 社会性動物的でない。 人は、一生何かをしている。自分は何もしていないと思っている人は、少々勘違いをしているのではないかな。そういう人は、何もしないということをしているではないか。誇ることではないが、恥じ入ることもない。
善いこともしていないが悪いこともしていないのならば、たしかに自慢にはならないが、恥じ入ることもないだろう。 毎日人が生まれ、毎日人が死んでいる。
毎日誰かがこの世に登場し、毎日誰かがこの世から退場していく。 バカの壁があって決してわかりあえないのが主観
バカの壁がなくてわかるとかわからないとかではなく事実そうであるのが客観 >>479
バカには、客観がバカの主観に見え、自分の主観が客観に見えるとしたら、
人は、自分がバカでないことをどのように客観的に知ることができますか? 結果から経緯を追うのが客観で、経緯から結果を追うのが主観だろ。 >結果から経緯を追うのが客観で、経緯から結果を追うのが主観だろ。
では、まぐれ当たりとか、偶然は、客観ですか、主観ですか? 今回の件、勃起チンポが本体か、俺が本体かで散々悩んだ。 なのでやっぱ体質的なものが悪さしてるんじゃないか?
例えば持病にうつや節食障害があって、出される食事の量が
自分の食事の量と合わなくて苛ついてるとか。 宇宙をコントロールしているのは宇宙。
地球をコントロールしているのは地球。
人類をコントロールしているのは人類。
本人をコントロールしているのは本人。 その場合、俺を本体とした場合は、これらは現代技術では動作原理を
解明出来ない、一種の超文明テクノロジーと言うことになるよな? 102 :名刺は切らしておりまして :2019/08/30(金) 13:47:29.61 ID:YT8n3T7J
実際、米国で製作されてる3Dポルノとか見ると、すごいレベルだよな
リアルな人間同士によるセックス描写とほぼ変わらない
あと5年もすれば、AIポルノがポルノ市場を席巻していくのは確実だと思う
なにしろコンピュータを使ってどんな表情も体位も状況も設定可能だから
こりゃ既存のリアルポルノは徹底的に淘汰されるだろうな 理論は、批判によって磨かれて行き、完成される。
信仰は、批判によって朽ち果てて行き、消滅する。 修行の場をどこにするか。寺か?会社か?家か?修道院か?世界全体か? >491
仏教の場合、釈迦の時代には科学だが、時代が経つにつれ信仰に変化し、
今や葬儀用のファンタジーとなっている とにかく他人のマネをすればいいというものではなく、マネすべきものはマネしてマネせざるべきものはマネしないのだ。 倫理を無視した合理は虚無的であり、合理を無視した倫理は空虚である。 意図的にマネをしなくても、機能性を追求していくと、互いに極めて似通った
形態になることがしばしばある。例えば、フクロオオカミは、イヌとは遺伝的に
かけ離れているが、形態的にはイヌによく似ている。 死ぬこととは、大自然に還るということだ。何も恐ろしいことではない。 どうせ誰でも遠からず死ぬわけで、いつ死ぬことになるのかすら分らないのだから、
毎日、できる限り、きちんとお返しをできるように努めるのが良い生き方では
ないでしょうか。 その人の過去に対する態度は、そのままその人の未来に対する態度でもある。 自分がこれまでしてきたことをどう思っているのかということが、そのまま自分がこれからしていくことをどう思っているのかということでもある。 未来を信じることができるかどうかは、過去を信じることができるかどうかにかかっている。
過去についてよく理解して把握できなければ、未来についてよく理解して把握することはできない。 過去が闇に閉ざされているのであれば、未来もまた闇に閉ざされている。
未来をしっかりと把握できる人は、過去をしっかりと把握できる人である。 過去を闇に閉ざすことは、未来をも闇に閉ざすことだ。
未来を光で照らすことは、過去をも光で照らすことだ。 未来が闇に閉ざされている人は、過去もが闇に閉ざされているのである。
未来を光で照らしたければ、過去をも光で照らさなければならない。 最近、オリラジのあっちゃんがのう、エクストリームで学問的なものをユーチューブに上げとるが、あっちゃんは慶応卒やろ。
まあ面白い漫談やわ。あれについてはよう把握しとるわ、あっちゃん。おれ現実にあっちゃんにあったらかなり仲良くなると思うわ。
見解はのう、俺のとは全然違うねん。ただ、価値的にはかなり合いそうやわ。エクストリームの良いところは、内容の把握をちゃんとしとるところな。
世界史にしても日本史にしても文学にしても。かなり端折っとるがな。 あっちゃんをプロデュースしとるのが誰かおるのか、それともあっちゃんが自分で自分をプロデュースしとるのか、わからんがのう。
パーフェクトヒューマンからのエクストリームの学問編ユーチューブ、大御所に対する発言など、なかなか計算されとるわ。
ただ又吉みたいな実績に乏しい。かなり自分を世間にアピールしとるが、それでどうするんやろな。政治家になるのかのう? 過去に対する態度は、そのまま未来に対する態度でもある。 病める時も健やかなる時もの意味は、闇に覆われているときも光に照らし出されている時もの意味なのではないか。 本質的にも光である光の者
本質的には光である闇の者
本質的にも闇である闇の者
本質的には闇である光の者 自分を背負うのは自分
人類を背負うのは人類
地球を背負うのは地球
宇宙を背負うのは宇宙 悟るということを勘違いしてる者が多いと思う。
悟るとは知ること。
考えること。
理論的、論理的に考える。
先ずは根底を知れ。
根底とは「有る」ということ。
初めから有る。
永遠なのか一瞬なのか。
時間という概念など我々の感覚、主観としての感覚でしかない。 山はどこから登っても頂上へ行く様に
どこから悟っても結局は涅槃に行き着く
ただしその道はあまりに険しいため大多数の者は途中までしか行けない 悟りを得ている状態とは、生が死から逃れていない状態、別の言い方をすれば、心が体から離れていない状態。
悟りを失っている状態とは、生が死から逃れている状態、別の言い方をすれば、心が体から離れている状態。 湯婆婆:1+1は3?4?それとも5?さっさと答えな。
千尋:1+1は3でも4でも5でもない、1+1は2。
皆:大当たりーーー! では、悟られてしまうのはなぜですか?
涅槃を抱え込んでいるから? 唯物論にして虚無主義にあらずのブッダ
唯物論ならば虚無主義のニーチェ
これこそが、虚無主義が仏教の劣化コピーと呼ばれる所以である。 生きるということは、死なないということ。
死ぬということは、生きないということ。 執着を滅尽するとは欲望をおさえてがまんして生きることではないんです 唯物論的には、世界には無生物しかない。生きものはいない。 コスモポリタニズム(世界市民主義)は、全人類を同朋と捉える考え方で、第二次大戦後から75年を経過した今、グローバリズムと合わさってかなり顕著にコスモポリタニズムが人の価値に表れている。
基本的にシックスディーズの合言葉であるラブアンドピースのことだと言って差支えない。 人の価値観の変遷を辿ると、
恐らく古代から中世に掛けてコスモポリタニズムを唱えた人物はいない。ただ釈迦牟尼とイエスキリストは例外的にコスモポリタニズムを唱えているし、
近代ではカントが「永遠平和」について唱えている。
アレクサンドロス大王やチンギスハンのような領土拡大を広げた王もコスモポリタニズムの価値観を持っていた。
現代では第二次大戦を経て悲惨なジェノサイドが色々なところで起こったことにより、またインターネットの普及によるグローバリズムによって、
かなり多くの人がコスモポリタニズムの価値観を有するようになった。 釈迦はコスモポリタンじゃないよ
人間も石ころも同等に見ていただけだよ 優しい人間には優しい人生が、酷い人間には酷い人生が待ち受けている。 するってえと何かい?
おいらには優しい運命が待ち受けているのかい? >>399
輪廻転生があるという可能性を考慮した場合再び生を受けない確実な方法は人類滅亡しかない
なぜならば人がいる限り人の子は生まれてくるがそれが自分の生まれ変わりでない保証はどこにもないからだ 生成言語学や認知言語学の黎明期に急速に廃れものってなーんだ。 日本に関する詳細な説明が記載されている文化的な資料だということです。 >>552
輪廻や生まれ変わりを彼が信じていたのかは分かりません。
ただ彼の行動を見ると、自身の痕跡も消してしまいたかったのだと思います。
人が消えれば、記憶も消えると考えたのでしょう。
そうする事によって、無に近づこうと。
しかし最近思うのですが、彼の悟りはどこまで到達したのだろうかと。 諸善行は善霊により生ずる。
諸悪行は悪霊により生ずる。 神道では、一柱の神に和魂と荒魂が両在するという。
善心と悪心、善意と悪意、善霊と悪霊、善神と悪神、これらが実は、同一心、同一意、同一霊、同一神であるとされているのだ。 神道的な解釈をすれば、一神教の善神と悪神が同一神であると言うことになる。 ただ、よくよく考えて見れば当たり前のことだ。善神と悪神がいるのならば、それは一神教などでは全くなく、どう考えても善神及び悪神の二神教だ。善及び悪の神の一神教で初めて、文字通り一神教であると言うことができる。 善の神及び悪の神の二柱→二神教
善及び悪の神一柱→一神教
のはずである。 善の神及び悪の神の二柱→二神教
善及び悪の神の一柱→一神教
のはずである。 そうかな
人が神の似姿であるとすれば、神はもっと人間的だろう
直毘が良きことであり、禍が悪しきことであるとしても、
それぞれの様態を、必ずしも別々の神がもたらすわけでも、
唯一の神がもたらすわけでもないだろう
禍々しきことは、忌み嫌われるが
勾玉は、曲がっていることによって力を保持している
パワー・ストーンだ こっちだって失われた時があるんだからアイコでしょ。そもそも凧揚げしていて自分で糸切っておいて、それを凧のせいにするとかおかしいって。 パワーストーンは肯定するのにパワー文脈は肯定しないのか。論理矛盾しすぎだ。 自分中心の人あり、会社中心の人あり、世界中心の人あり、人が中心とするものは様々。
あなたは、何中心ですか? 世界と言っても、それが人類を指すのか?地球を指すのか?宇宙を指すのか?それによって、人類中心、地球中心、宇宙中心と意味づけは変わりますがね。 まあ、宇宙中心と言ったら、スターウォーズですら銀河ですから、それを超えるレベルになってしまいますが。 引くべきところは引くべし。
引かざるべきところは引かざるべし。 >パワーストーンは肯定するのにパワー文脈は肯定しないのか。論理矛盾しすぎだ。
天照からしたら、パワーストーンで勝手にパワーを保持されることは禍々しい
ことだろう。それなら、鏡を配って、パワーを反射させて送り届けた方がいい。
鏡は、パワーを蓄えることも、みずからがパワーの源になることもできず、
光源からのパワーを反射するだけなのだから。 心の安定が得られるほど、悟りは得られる。
心の安定が失われるほど、悟りは失われる。 阿弥陀仏信仰では、人生は無明長夜だと言う。その無明の長い夜を照らす灯火が、念仏であるという。 肯定は、否定の否定である。よって、肯定もまた否定である。 否定は、否定の肯定である。よって、否定もまた肯定である。
何かいってるようで何も言ってないことに気付こう。 自らの意志で何かを積極的に経験する機会を得ようとする人間には、
落とし穴を用意して大恥をかかせ、自ら経験する機会を忌避するように
なるように条件付けようという悪意に満ち溢れているんですよ 人脈と経験を得る機会が誰に用意されるかによって、結果として身に付ける
能力により、人々をうまく「正当な理由により」選別することができる 人は、自らの不快な経験を速やかに忘れようとするか、さもなければ、
特定の人々に対する恨みや怨念として反芻しつづけようとする。
そのどちらも、本当の意味で不快な経験を活かすことにはならない。
折角の経験を活かそうとするなら、それがどのように経験であった
のかを、自らを含め、特定の人格から切り離して、より抽象的な
レベルで忠実に記述しようと試みるこどだ。 抽象的なレベルで記述するとは、記述のレベルを粗くすることではない。
多くの人は、「どこのだれが何をしたか」を詳しく記述することを、現実
を詳細に忠実に記述することと取り違えている。しかし、そのような
詳細は、無関係の第三者にとってはどうでもいいのだ。重要なのは、
それが「どのようなこと」であったと自らが受けとめたのかを他者に
忠実に伝えることができるように記述することである。 「自愛ナケレバ、愛ノ何タルカヲ知ラズ。何ノ他愛カ、コレアラン。(自愛がなければ、愛の何たるかはわからない。そんな人に、他愛がわかろうはずがないのだ。)」 筆名のパンセパスカルは哲学者というより宗教書、宗教人が哲学書に引用されたんだよ。
人間はか弱き一本の葦に過ぎないが人間は考える葦である。
学術は
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/ / ヽ::;////::〃///:::://:/.:/i::/ /:/ !:||l:i li: :::::',
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. . . / V//:/〃i:l l il!:/:;r┘__\'′ |:| !l::::|:: ::::l:l
/ Y:/: il l::l l li!i::/ `ァ=ミ、、`ヽ、 ` ノ!::;リ:i ::::l::!
./ |:i::i l:!l::l: !l:l:l:;' ヽ!::゚:::::;}ハ、ド` 〈//:ノ:::::!::|
|l::l l:l !::l!:l:l:::i `` 'ー、!` 、 r=、_ヽi:::/j::l
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成長したら次のステージに進むべし。でなければ、成長は止まってしまう! 三、四白眼の人間はソシオパス
例: エイジ 関口 坂口弘 生きとし生けるものの一生が、よい一生でありますように。 宇宙(=天)の思い通りになる。
宇宙(=天)の思い通りにしかならない。 奇跡は何一つない。全て自然現象だ。奇跡に見えても、自然現象に過ぎないんだよ。 人事を尽くして天命を待つという。人事天命の双方がともに自然現象。 必然は何一つない。全て自然現象だ。必然に見えても、自然現象に過ぎないんだよ。 自然現象に反することはできない。できるものならばやってみよ。それができれば、魔法使い確定である。 絶対他力(自然現象への絶対服従)、これは、宗教的信念などでは全くなく、科学的事実に過ぎない。 以上、大自然の預言者(科学的事実を伝える者)より。 自分が子どもだった頃のことを忘れるような大人には、ロクなやつがいないものだ。 唯物論は万能の薬だが、それに必要以上に頼りすぎるとロクな人生を送れなくなる。 唯物論を手放す必要はないが、唯物論以外は無視となると本当につまらない中身のない人間になる。 世界一毒にも薬にもなる、空前絶後の最強理論。それこそが、唯物論だ。 お釈迦様の説いた天上天下唯我独尊は、「自分以外に自分はいないから、だから自分は尊い。」という意味。「自分が尊い。」という意味ではない。
煽らーって、本当に頭が悪いよな! 他者を模倣する生き方ではなく、他者が模倣する生き方をせよ! 唯我独尊なんてのは釈迦入滅後のファンタジー化した仏教が作った馬鹿話 あなたにとって、あなた自身とはどういう存在ですか? あなたにとって、この世界でともに生きる他者とはどういう存在ですか? 現象とは有為(人為)なるものの総称
自らに対して絶対的に他なるもののどこが科学なんだか 誰しも皆その一生涯において、学べない瞬間は一瞬もない。
学べば学べる
学ばねば学べぬ
一生涯
学べぬは人の
学ばぬなりけり 人生で何も学べないなどということはありえない。人生で何も学べなかったという人は、学べなかったのではなく学ばなかったのだ。 悟りを得られないのではない、悟りを得ないのだ。悟りを得たくないからあえて得ないのである。あえて悟りを得ないのを、悟りを得られないなどと自他に嘘を吐いてはいけない。 此の身今生に度せずんば、更に何れの生に於いてか。
今悟りを得ずして、いつ悟りを得られようか?今悟りを得なければ、悟りは終生得られはしない。 世界中の人々よ、自分自身をしっかりと見つめるべし。 地球が最大の共同体、国は地球の地方行政府のようなものだと思う。 反出生主義なんてものは不自然。
誰もが生きるのにつべこべ言う権利なんかない。 反出生主義の無意味さ
反出生主義者がいる一方で、逆に産みたい、子供が欲しいという人間はたくさんいます。反出生主義を唱えたところで無意味にも誰かが子を産み育て人類は繁栄することでしょう。
反出生主義というのは一つの考え方であり、全人類がこの考え方をもって人類の連環を閉じるということは決してありません。
反出生主義を唱えた人の子孫が途絶えるだけで、人類はいなくなりません。 叩かれない方法はありません。叩かれるのが嫌なら、最も叩かれない方法を考える以外にないのです。
もう一つ、叩かれないこと以外に人生に希望はありませんか?叩かれないこと以外に人生の目的がないならば別ですが、そうでないなら叩かれないこと以外のことにも目を向けましょう。 互いの気持ちを尊重できる人間関係の中で生きていく。 今の私が、私のこれまでの人生の集大成。今の私が、私がこれまで生きてきた証であり、私がこれまで生きてきた結果なのだ。 運命が言っている。運命の寵遇を得られる者は、運命そのものだけだ。運命の寵遇は、誰にも与えられはしないとね。 >>1
左右が等しいのが対称ではないよ、だから対称が嫌いになったんだろう
右が白で左が黒なら対称ってこと、右が大きく、左が小さい、これで対称ってことだ いつか自分は正しかったと思えるときが必ず来ます。不貞腐れず腐らず、人生を投げないで下さい! >>652
自分と他人という存在に、即してみれば、実在する可能な対称を、白と黒に求めることもできますね。
二元性として、対称である。三に基づく対称は、存在しても意味深くはないかもしれない。
点対称、線対称、面対称、それを考える時にも、人を思い浮かべるときは、対(つい)が対称に。
それが対称として考えられることにこそ、意味の対称がどのようになされるかということを
考えることができる。嫌いにならない、好きでありたい。対称の動的潜在性を、考えるべきなのかもしれません。
動的対象を、静的に表すなら、そのようなものは、動対称とでも、呼んでみるのがいいかもしれませんね。
>>654-655
ありがとうございます。 足を引っ張らない人がいないくらい足を引っ張られても、それでも平気。それでこそ、前進ができるのだ! 世界の再建すら可能なのだから、個人の人生の再建はなおさら可能である。 世界の救済すら可能なのだから、個人の救済はなおさら可能だ。 誰かに追従するのでなく我が道を行くのでなければ、アイデンティティーを確立できているとは言えませんな。 他の人がどうであるかではなく自分がどうであるかを、アイデンティティーと言いますから。 Die Lotusblume erschließet
Ihr Kelchlein dem Mondenlicht.
Doch statt des befruchtenden Lebens
Empfängt sie nur ein Gedicht.
Heinrich Heine: „Lotusblume“ (1856) レンコンは、牛肉、豚肉、鶏肉のどれとでもよく合うな そして、二度と再び自分の中に自他ともに入れ直さない。 >自分の中から、自他ともに締め出す。
>自分の中に自他ともに入れ直さない。
最初から自分が残ってますよ? 良い集団と悪い集団の特徴
良い集団→疑問を持つことを奨励、問うことを推奨し、真理探究を是とする。
悪い集団→疑問を持つことを厳禁、問うことを許さず、すでにある絶対的真理なるものを絶対に否定してはいけない。
(否定すると?
わからない、知らない!そんな人はいない!帰ってくれ!
取材は、拒否された。) プラス思考をせよ。きっと良いことだ、きっと成功しているんだ、と思うようにせよ。心配していると、人につけこまれるし、悪いことばかり
考えることになる。その結果、悪いことを考えた、という事実が残るだけ。そんな必要はない。人生はもっと楽だったはずだ。
結果を見れば。 こういう条件でなければ愛せないという条件付きの愛。
条件なしに愛する無条件の愛。 459 :なまえを挿れて。 :2019/09/16(月) 07:14:33.06 ID:kCRFLptv0
女だけど書いていいのかな?
もともと濡れやすくてキスする前から挿入可能だったんだけど、初めて今彼で挿入中に何回もイケるようになった。(決まった体勢でだけだけど)
手マンとかクンニとか彼はしたがるけど、自分の体が醜くて恥ずかしすぎて断り続けてる。
でも本当は挿入だけじゃなくて、ゆっくり、ねっとり…たくさん触って欲しい。
ワガママですか? 他力 いいことも悪いこともおかげとせい
自力 いいことも悪いこともおかげでもなくせいでもない >>670
「プラス思考」これは何か、具体的に何かに例えるではなく、HOWで説明するのである、
それは"どのように働き、どのように機能するか"の本質を考えよである、
簡略化し「プラス思考」と捉え方を合理化したとき思考は「マイナス思考」に陥る、
つまり機能しないし働かない仕組み、あてつけになってしまう。
自分は半年以上書き込みしてなかったが、貴方は元気そうだね 仏、人類に叡智を残した先人たち
法、人類の叡智
僧、さらなる叡智を求める人類
三宝帰依 真言宗の教え
即身成仏(つまり、悟ること。)
密厳国土(世界をユートピアにすること。) >>677
働きの仕組みの本質は、実体を超えたことですね。そうしたことを、身のうちに抱えることは、難しいことでしょうが、
実際にそういうものを無視してもいけない。
僕は、ずいぶん元気です。あなたは、元気でやっておられましたか。どのような無力も、ないものだと思うのですよ。
変えられないことは、存在するのでしょうか。そんなことを気にしています。変えることが、できないことは、
あるのかと。考えないで生きるのは、とても苦しいことです。苦しいことを、失くそうとすることが、僕の多くの
動機です。喜びでもあります。 my life(私の人生)
our life(我々の人生) my life(私の人生)
our lives(我々の人生)
everyone's lives(皆の人生) 人格を知りたければ、その人にとってどうでもいい人にその人がどういう扱いをしているかを見なさい。 「極楽に入る資格なきは、極楽に入れず。」
阿弥陀仏 主体性のある人は、例え身分が奴隷でも、奴隷でない人のような人生を送る。
主体性のない人は、例え身分が奴隷でなくても、奴隷の人のような人生を送る。 実際にそうであることが、そうである証拠。
実際にそうでないことが、そうでない証拠。 如是我聞
引き寄せの法則によれば、望むことだけでなく望まないことも引き寄せると聞く。引き寄せを終わらせるには、望むことも望まないこともしないことだと聞く。 引き寄せをなくすには、望むことも望まないこともしないことだと。 人間的なつながりを持ちたければ、人間的なつながりを持ちたい人と人間的なつながりを持つもの。人間的なつながりを持ちたくない人もいるのだ。そういう人に対して人間的なつながりを持ちたがるのは、酷というものだ。 虚無的でない虚無主義者でない人、心理的には悟っているが理知的には悟っていない。
虚無的な虚無主義者でない人、理知的にも心理的にも悟っていない。
虚無的な虚無主義者、理知的には悟っているが心理的には悟っていない。
虚無的でない虚無主義者、心理的にも理知的にも悟っている。 人類を一つの巨大生命体に例えるならば、人一人はその生命体の一つの細胞である。 生きている間は供養する側だが、死んだ後は供養される側だ。 人生を短いと感じる人は、人生を楽しむ人。
人生を長いと感じる人は、人生を苦しむ人。 できる人とできない人の致命的な違い。
できる人は、できることとできないことを見分けられる。自分もできることをする、他者にもできることをさせる。
できない人は、できることとできないことを見分けられない。自分もできないことをする、他者にもできないことをさせる。 全ての人の悪心は去り、善心だけが残った。
こうして地球は救われた。 親鸞「阿弥陀仏よ、人々の罪をお赦しください。彼らは自分たちが何をしているのか、わかってないのです。」 富士山の麓にいる人と頂上にいる人とでは互いに見えませんから、麓の人が頂上の人を見上げることはなく、頂上の人が麓の人を見下ろすことはありません。
遠かったら見えません。見える範囲内であるからこそ、見上げたり見下ろしたりすることが可能なのです。 あることは素直に悟るが、あることは素直に悟らない。これでは、折角悟る能力(仏性)があっても悟りが開けない。大変惜しい勿体ないことだ。 なんでもありであることのメリットは、なんでもありだということ。
なんでもありであることのデメリットは、なんでもありだということ。 なんでもありであることのメリットは、なんでもありだということ。
なんでもありであることのデメリットは、なんでもありだということ。 時間が未来から過去へと流れる人、未来がこうだから過去はこう。
時間が過去から未来へと流れる人、過去がこうだから未来はこう。 どんな人も、揺らいだり、不完全であることがあるのはもちろんのことである。人が言う意見の、完璧さ、揺るがなさをみて、
人が揺らぐことがないと考えるのは、陥りやすい過ちだ。もちろん人のいうことには正しいことと間違ったことがある。
一方で、身体の操縦や、簡単な思考であれば、ほぼ間違うことがないのであろうが、悟りとは一体何なのか。
釈尊が、完全無欠なことを悟ったのではなく、完全無欠はあり得ないということが、悟りである。
完全無欠に思えるものは、生を超えているのであり、そこへ至ることは、人間には不可能である。
人間が思うのは、思念の完全性だ。思念とは、完全性を持つためにと、補完するように働くものである(性質としては)。なんとなれば、
人は完全でないことを、何の益にもできないと思うものであり、さらに、「責任を持つ必要」が多々あるからだ。
責任を負うということは、その中において、本質的に完全なものである。
だが一方、人が不完全であることを、忘れてはいけない。
釈尊は、完全ではなかったにしろ、余りにも頭が良かったから、どんな問題も解くことができた。
その問題とは、人の作る問題である。であるから、自然の法則を超えることができないことは、もちろんあった。
時事的なことを言えば、台風の被害を止めることができない。
そして、そのような問題を抱える人間の、自然生物的な側面を、何とかより強くしようとすることで、理不尽、無慈悲な災厄の中にある
人というものが、みな互いに分かり合うことによって、争いの原因を、せめてはなくす方向にいくべきである、という風に
考えたのではないか、と思う。
なんにつけ、責任を持つということが、人との関係で、重要である。その限りにおいて、人は有用さと近しくなれるのであり、
人の不完全性への無理解と、自らへ迷いが生じること、それらが無用で誤りであることは言えると思うのである。
自らの迷いの意味するところは、自分自身だけに降りかかってくる。それを払うのも、自らの力と、他人の力である。
不完全である人が、完全の下に考えるということ、その二つは、どちらも本来である。それゆえに、迷うことが人であり、
完全を抱くことも人であるだろう。失われたものに会いに行くことは、可能なのである。そうでなければ、人は決して救われない
ということを、示され悲しむだけだ。 人の不完全さというところがなければ、あらゆる関係が対立し(自分一人と社会の他人大勢という形で)、
恐ろしさに身がすくんでしまう。恐ろしくないと思えるために、人の不完全さを、知るべきである。
理不尽に立ち向かうことが、全ての人にとって、なくなることのない義務である。
その義務を担えるためには、人と対立することが本当は無意味であるということを、考えられなければ、ならない。
意志にはたくさんのものがあり、それぞれの意志が、それぞれに尊重されるべきである、と、本来回るべき物事が、
回らなくなった場合に提起されるのが、改良ということだ。
そのように、恐れの本質は、自然的な禍にあり、人間が越えてきた歴史の負の面を、繰り返してはならないと考えられる、
人間というものが、実に、英知にあふれ、優しいものだということがわかるはずだ。 悟りうるものが誰かと考えてごらんなさい。
神童、天才でなければならない?
そんなことはない。
あらゆる人が悟りうる。それゆえに、人は幸いなるものである。
人の道は、あらゆる人が理解できる。そこに悟りははっきり見えている。
悟りに実際に至るためには、ある程度の年月が必要とされるが、それがあることを予感した場合(例えば菩薩のように)、
悟りはあるということが確信される。道が見えていて、先の長さもわかる状態だ。
その察知によって、生きることに、迷いが消える。自分の存在において、この先、考えなければならないこと、
しなければならないことが、わかる。大変不思議な感覚であり、もっとも心休まることである。 唯物論的輪廻転生論
イワシがプランクトンを食べ、そのイワシをカツオが食べる。このとき、このイワシの前世はプランクトン、このイワシの来世はカツオ。そう捉えるのが、唯物論的輪廻転生論。 悟りはあるということが確信される。道が見えていて、先の長さもわかる状態だ。
アブサロム殿、これいいですね! >>711
人間だれしも、煩悩に取りつかれるので、子どもの頃のように、きちんきちんとした明晰な思考ができなくなったりもしますよね。
その状態が、迷いであって、迷いを出ることを、望んでも方法が思い浮かばない。そうした闇の中にあって、
悟りは、埋もれてしまった存在を、本来的に欠けることのない本当の状態として、見ることを、可能にすることで、
それぞれにおいての救いを、示すものである、と思います。
まさにそれぞれの人が、自分の悟りを感じることで、それぞれが救われる。人の状態をうらやむのではなく、
自分だって救われるということを、感じさせるものが、仏の力のありがたい所であり、
悩んで考えることで、個人個人が悟りへと修行を励むようなこと、そのことを可能にするのが、
>悟りはあるということが確信される。道が見えていて、先の長さもわかる状態だ。
という、救いが見えることだと、私は思います。
安心して、悟りへ向かって励み生きることが、出来ると思います。多様な生き方が、すべて人間の生き方に違いありません。
貢献の度合いが高いものが尊敬されるのはもちろんだと思いますが、そうでなくとも、悟りを得るものは、全ての他者にも
悟りを与えようとするし、悟りを得ていないものでも、救われていないけども恨んだり投げ出したり、しないと思えると思うのです。
そこには、お互いに断絶することのないものが、全体として境地が上に行くというような、自と他に分け隔てることのない、
エゴイズムではないことが、あると思います。 自分の中にある気持ち、考えを、緊張して保つことは、攻撃的である。
自分の中にある二つ以上のたくさんの気持ちを、混ぜ合わせることで、すっきりする。
混ぜ合わせるのは、エントロピー増大則に従うことである。
必要な緊張は、まず理由を明らかにして、計画を立てないと、疲弊するばかりだ。
自分と他人など、異質なもの同士を混ぜ合わせることによって、新しい意味が生まれる。
新しい意味を、新しい状態として受け入れることで、真理に近づく。
太陽に飲み込まれることで、人類が絶滅することは、決まっている。
死ぬことは、混ざり合うことに他ならない。
死ぬことはそれだけのことであり、本人としては、何の恐れも抱く必要はない。
生きることが無意味であれば、人間が生を受け継いでこられたことを、説明することができない。
混ざり合うことを、恐れてはならない。混ざり合うことを、認めるべきである。
そして、混ざり合うことこそ、自然なのである。それを認めることである。
混ざり合わせが、生きることと死ぬことの両方に対して、するべきことの、大きな原則の一つである。
混ざり合わせたとき、生き生きとしたダイナミズムが生まれる。無理に保つことは、無用な緊張である。
必要な考えというものは、無理に保とうとすることで、邪魔されており、本当に必要である生き方を、することができるように
なることが、何より救いを見ることである。 >>714
このことは、間違いだったかもしれない。一面的かもしれない。緊張の中にこそ理想があることも確かだ。
なぜ自分がこういうことを思ったのかは、恐らく安心を得る方法だと思ったからだろう。
生全体を代表するような考え方は、実際の生き方において、真正な実態を、うまくとらえなければいけないが、
考えることを辞めるようなことは、やはり悲しくて虚しいのかもしれない。
悟りについて、個人が緊張であり、他人への意味が緊張的結果であるということなのかもしれない。
涙の意味とは、精神の緊張であろう。それを否定せず、むしろより個々の場面における人間的な生き方の上になければ、
一面的で詭弁的な考えになってしまうかもしれない。 宇宙が全世界だとしたら、その外は世界の外。どうなっているんだろうな。 仮に全知全能が悟りだとして、人知人能はどれほどのものなのだろうか? あらゆるものごとを完璧にこなせる完璧な能力が全知全能だとして、人知人能はどれぐらいのものなのだろうか? とはいっても、人間が人間に人知人能がどれぐらいのものなのだろうかなどと聞いても、人知人能で考えられるレベルを超える答えを得ることはできない。 私は、人間のできなさを知りたい。どれぐらいできるのかではなく、どれぐらいできないのかを知りたい。 どこまで期待できるのか?ではなく、どれほど期待できないのか?を、悟りたい。 能力を超えるバカすぎる期待を人に抱き、無能の烙印を押し、文句ばかり言って一生を終える。そんなつまらない人間になりたくない。(人は自他両方とも。) 全知全能は、人には求められない。人には、人知人能しか備わっていない。それは、それではいけないのではなく、人はもともとそのように作られており、そのようにしか作られていない。それでいいとかそれでいけないとかいう問題ではない。 それでいいとかそれではいけないとかいう問題ではない。 あらゆるものごとがそのように起こっているのは必然である。だが、そのように起こっている原因は一つに還元できない。強いて言えば、全てがその原因である。 あらゆるものごとがそのように起こっているのは必然である。だが、そのように起こっている原因は一部に還元できない。強いて言えば、全てがその原因である。 生命現象は科学で説明がつく自然現象であるという説、生命現象自然現象説。
生命現象は科学で説明がつかない心霊現象であるという説、生命現象心霊現象説。 自分はどうでもいいが、他人を解脱させてあげたい。人類を救済したい。 悟りは全知全能とか何か特殊な能力が有るとか、そういうのとはまったく逆で、
人間は誰でも見たり聞いたり体験したりすると、それを物語として解釈する能力を
持っているが、悟りとは、その能力を捨て去ること 人類は滅びる。愚かな人類は繋がれば繋がるほど排他的になり利己的になった。やがて人類は人類自身に絶望し、自ら滅びるだろう。その前に全人類を強制的に悟りの境地へと導き解脱させる必要がある。それが唯一の救いの道だ。 世界に独立したものは何一つない。強い怒りや憎しみが起こったとき、ある事を否定したいために、大きく距離をとろうとするが、
完全な否定はできない。それは、全てのことは関連、つながりを持っているからだ。つながりを持っているものと考えたとき、
それは悪にしろ善にしろ、そのことの本当のことがわかる。それで、怒りも憎しみも、本体を捉えられたということだ。
人間個人は、真理を間違えると、どうにもおさまらなくなるものである。過去に経験した全ては、自分とつながりを持っている。
その事だけでも、良いことも悪いことも自分を否定するためにある、などということではない。否定したい事を孤立させようと考える、
というのは自分にとり非常な悪手である。どのようにしても、孤立したものは無い。
そのことを知ることで、正しい思いに近づき、安心に近くなるわけである。安心を損なうものを、人は否定したいと
思うということである。「自分は正しくない」などと思いたいものはいないわけだ。そう思いたいなら、それは人をだましたい、
という考えに違いない。多くの人が、正直であるに違いない。人は、自分に嘘をつくことを、忌み嫌うという基本がある。
騙したり、否定したいということを考えるのではなく、つながりがあると思うことが、悪感情にとって代わるものであるに
相違ないであろう。在るつながりあるものと相対したとき、そのものは、自分だけを攻撃している意図である、ととらえる必要は、
もはやないであろう。完全な悪も完全な善もなく、相対的な悪相対的な善(評価された善悪)、良心による判断、客観性の裁き、
そういったことなのであり、つながりを見ない場合に、それが、否定のために作り出した過ちであるということ、
そこを間違えては、自分の正しさを正しく見ること、自己弁護でさえも、可能ではない。これは時間や効率の話ではない。
性質の話である。正しさを、健やかな自分に近づけるために、人が、いかなることを間違えやすいのか、ということについて
考えた話である。 生きてりゃなんとかなるし、死んだらどうする必要もなくなる。なんの問題があるだろうか?なんの問題もない。 つらいいときには、横になって、過去の与える様々な悩みを、浮かんでくるまま、また全て探って、好きなだけ、
気のすむまで考えればよい。 過去を考えるということは、実はそれほど簡単なことではないし、過去を考えられるならば、悩みをもたらすものと直接対決すること
ができる。過去を考えようと思えば、現在に引き戻す思考の癖を、乗り越えなければならない。過去の膨大な時間には、
たくさんの悩みが含まれている。直接の原因も分からなくなっている。だから、全て、気にかかることの全てを、
毎日少しずつ、消していくことが良いのだと思われる。悩みが重要であるのは、過去を思惟することは、
過去に対して考えることは、過去にとどまろうとするのではなく、常に現在の自分の健やかさを、支えるものとして使う、
いいことが、過去だと思われるからだ。
横になっても、眠ることを考えなくてもいい。時間の使い方については、横になって、ずっと考えるような、
生産的な、整備の時間もあるのだと思っていいだろう。 つまり、現在の問題を現在において解決するのではなく、現在の問題を、過去に帰すことによって、解決する。
それは、愚かなもののやり方だと一見思われるであろうが、本当に救われるとは、そういう行為によって
であると、私は考える。 >>744
ここでいう過去とは、もちろん、自分自身の過去である。 過去において幸福になれなければ、現在において幸福になることはできない。現在を認識するということは、
可能性である。過去を認識するということは、可能性のないものを担うということである。
可能性に生きるのは、素晴らしいが、他である、自分以外である、可能性が、ないことを生きることは、自分を制限することに
喜びを見つけることである。
自らの範囲を拡大することには際限がないが、自己の中を見つめることは、実に他へ帰することのない、厳しい優しさである。 解決できる問題は、過去の問題でも未来の問題でもなく、現在の問題だけです。
これはどういうことか?過去の問題を無視して責任逃れをすることや、未来の問題を無視して対策を放棄することでしょうか?そうではありません。
過去の問題の対処を今現在問われていて、未来の問題の対策に今現在迫られているのに、それをまるで対処せずただひたすら無視しているのであれば、それは現在の問題の解決を放棄していることになります。
過去や未来の問題だから今現在問題になっていても無視。これが、現在の問題への対処でしょうか?そういう人のあきれた理屈には、開いた口がふさがりません。 解決を放棄して解決になるとでも思うのでしょうか?それで解決になるなら見てみたいものです。
今現在対処に迫られている過去や未来の問題は、今現在対処が迫られているのだから明らかに今現在の問題なのです。 >>747
私が言っているのは、心の問題です。心は、現在の問題でも、未来の問題でもありません。
過去を変えることはできないのです。だから、記憶の中で、過去のとらえ方が変わるということが、
私が真実を言っている、と思うことの、根拠です。
行為というものは、現在と未来の問題であると私は認めます。 >>747
すいません、私がよく読めていません。もう少しよく考えてみます。 >>680
>働きの仕組みの本質は、実体を超えたことですね。
それは実体の捉え方の問題で側面の1つです、実体そのものでも働きはあります。
人が人の範囲を実態と実体の外と区別したとき人工的に作った細胞移植でそれが自分の物になったら
それは自分でしょうか?自分以外でしょうか、機械的な義手なら?それがテレビのリモコンなら?自分に移植した他人の臓器では?
働きの区切りは絶対のように見えても曖昧でもあるはずです。
人は平常や常識や普遍的に見える土台を元に関係を主観(理解)します、故に過去の私の発言には客観的に実体を超えた部分も
考えるようにしようという誘導をしたつもりはありますが、時と状況によって判断することです、実態を超えた部分の働きを
完全に切り捨てる流れ心の作用に "逆行" する ので切り捨てない側を選ぶのが困難なのです、人は実態を選んでしまうのです。
>実際にそういうものを無視してもいけない。
多面的にも 多次元的にも 捉える必要はある筈です。例え常識を超えた一般では否定される何か であっても、考慮の必要性はあるはず。
>僕は、ずいぶん元気です。あなたは、元気でやっておられましたか。どのような無力も、ないものだと思うのですよ。
単に発言元OSが5ch(2ch)に強制排除され発言できませんでした。少しチート技をつかって発言しています。
>変えられないことは、存在するのでしょうか。そんなことを気にしています。変えることが
変えられるも 存在も 捉え方も 受け入れる側の問題となります、常に自分が普遍であれば受け入れられずとも、自由に変化する
遊びが在るならば受け入れるぎりぎりの所など、存在の定義すら可変しえるとは思いませんか? 心の問題ですが、心は、現在の問題でも、過去の問題でもありません。未来の問題です。未来のないもの(死者)の心をどうこう言う
ことに、意味はありません。死者は弔うしかないのです。死者の属するところは、過去にほかなりません。
死者に未来はないのです。死者と交歓することはできないのです。死者が未来を持とうとすれば、現在生きるものの中というところに
おいてです。この時、死者は無力ではありません。未来に関わることのできる生者は、その中に、過去の存在までをも
含んでいるのです。生者自身は別れるのがつらいことを知っているから、感情や記憶の面で、生者も死者とのつながりを、
自然と持ってしまうのです。
信仰において、侮辱は容認されません。無力なものは、もともと全くの無力でなかったのだから(生に関わったのだから)、
いいようにはされるべきではないのです。どの存在を特別視するか、ということにおいて、考えるとき、
可能性の数え上げを、考慮に入れて考えると思うのですが、命の有無が絶対ではないと思うのです。
過去にも現在にも未来にも触発されるような心とは、生者の総体です。
つまり、私が考えているところでは、心は絶対に決まっているものではないのです。むしろ、その場その場で変わるものです。
心を定義することは、生きることと同じだと思います。生きることで、実践することが、その意味を与えるでしょう。
このように長く書いてみて、混乱が目立つでしょうが、私自身がまだよくわかっていないことを考えようとしたゆえのこと
だと思うので、より正しく言えるようになりたいとは思います。私自身の判別においては、他者をできる限り受け入れたい、
はねつけることをしたくないので、他者の存在について、それを否定することは、全くしたくありません。
考えを間違えたら、訂正したいというのは、もちろんのことです。それだけの能力が、あればいいと思うのですが。 >>750
遊びがあるから「存在」が変わりうるのですね。ですが、受け入れるということは、例えば、名前であったりします。
名前が当たり前になることが、その存在とのかかわり方の程度の、重要な示しになります。ということで、遊びという、
変わらない存在を得ることの叶わないような状況においての、新しい形の関わり方となるでしょう。
アイデンティティをどう持つかということです。
アイデンティティは、関わりの方法において、中身を持つのです。存在とは、自と他との関わり方に、行きつくのです。
実態を超えたものは、存在の範囲を規定するうえでのこと、それは幻を持ったり持たなかったりするでしょう。
>単に発言元OSが5ch(2ch)に強制排除され発言できませんでした。少しチート技をつかって発言しています。
そうだったのですね。そういう状態であっただけと知って、とても、嬉しいです。どうされているのかな、と、思っていました。
悟りに近づくことで、悟りの必要が必然的に減ることになり、したがって余裕ができてきました。
まだ、自己の限界まで、完全にはいっていないですが。また色々考えますので、よろしくお願いいたします。 悟りに近づく、それは、、自覚し確定した悟りとなんと呼ぼうか?「覚悟」
意思が力点であるなら、覚悟は支点、結果である未来は作用点
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/umauma01/20170420/20170420235617.png
もちろん「テコの原理」という捉え方です。
どんなに希望やら意志を望み努力やら積み重ねという力を加えても
世界との関係を覚え確定し世界との関係が悟り得て結果を導く原理もあるかもしれません。
言葉に響きを持たせようとしても、世界たる媒体によって捉え受け取ってもらわなければ働きには
なりえません、見えない関係の積み重ねは成るべく形へと向かうが、それも捉え方でどのようにでも
見えるかもしれない、世界が感謝するときそれは作用点たる形であるはずです。
妄想の領域は具体性ではなく本質をどのように捉えるか、そういう類の性質だと思うのです。 イスラム教の教義
起こること全て神アラーの御心による。
神アラーに絶対服従する。
善行を為した者は天国、悪行を為した者は地獄。
以下にイスラム教の教義の矛盾点を指摘し、イスラム教団に対し宗教改革を求めるものである。
起こること全てが神アラーの御心によるならば、善行を為した者も悪行を為した者も神アラーの御心に従ったことになる。そして、イスラム教では神アラーに逆らうことは認められない。
これはつまり、例え神アラーが悪をさせようともそれに従わなければならず、しかもその報いに地獄に堕ちなければならないということだ。
これはどう考えても間違っていて、神アラーの御心でも悪を為してはならないはずだから、その点神アラーへの絶対服従は間違っていることになる。一部服従一部不服従が必要条件のはずだ。
地獄へ堕ちるという問題だけではなく、道徳的にも明らかに間違っている。 そのように扱われる人は、本人がそのように扱われたくなくてもそのように扱われる。
そのように扱われるない人は、本人がそのように扱われたくてもそのように扱われない。 そのように扱われる人は、本人がそのように扱われたくなくてもそのように扱われる。
そのように扱われない人は、本人がそのように扱われたくてもそのように扱われない。 やって後悔とやらずに後悔とどちらかマシかというバカ話がある。こういうことを平気で言う人はものごとを本当に考えておらず、しかも自分の発言の影響をまるで考えていないことは明らかだ。 よく考えてみてほしい、やって後悔とやらずに後悔は同じだ。必要なことをして余計なことをしなければ後悔はなく、必要なことをしなかったり余計なことをすれば後悔になる。
闇雲にやって後悔やらずに後悔とかいう人はおそらく、必要か余計かを判断する力に乏しく、その判断をする分ものごとを調べて分析する忍耐力に欠ける。
そういう人はおそらく、必要なことをして余計なことをしないことが難しいので、本人はご満悦でも周りから見れば相当な無能力者だと判断されているだろう。 そしてそういう人がものを知らぬおバカな若者に、やって後悔しろ!などと(やらずに後悔しろ型もいるかも知れないが…)言って、バカな年寄りからバカな小僧にバカな考え方が精査されずにそのまま伝わって行くのである。 やって後悔してしろ?やらずに後悔しろ?バカげている!やって後悔するのもやらずに後悔するのもどっちもダメなの!やって後悔しないこと、やらずに後悔しないこと。これを教えるのが大人だろ?後悔しろとかバカじゃねえのか? 「やって後悔しない、やらずに後悔しない。」これを教えろや。
「やって後悔する、やらずに後悔する。」一人でやれ老害!バカの連鎖で次の老害作るな! >>753
視界と脳を、同時にとらえるのは難しいことですものね。単純な事でも、癖がつくと難しくなってしまう。梃子を動かすにも、
力点と作用点と支点の全てを用意した状態(同時にとらえた状態)で行わないと、できない。
感謝の気持ちは、自然とわくものですね。いくつかの本質をえることは、同時に働かせるために必要であると、僕は思います。
自分と世界の両方を同時に捉えていれば、それに対する準備は済んでいる。覚悟もできて、実際に行うことができる。
それが、
>世界との関係を覚え確定し世界との関係が悟り得て結果を導く原理
とおっしゃったような、ことであると、僕は考えました。
世界か自分かの、片方だけを見ていては、できないことが、あると思います。本当の働きを得るには、そういった
何らかの方法(同時、併せて働く)を、体得する必要があると思います。
目や脳については、たくさんの人が色々な考えを言っています。
そのことから、目や脳は、人間の本質の一つであると思うことができます。
目の中の、一点のみを感じることは、本質を踏み外しています。目の中の、いくつかの点を、同時に働かせ意識しなければならない。
気持ちという働きにおいても同様です。いくつかの気持ちを、同時に思わなければならない。息においても同様です。
息をどうとらえるかが、働きのカギです。時間においても、一瞬だけを思っていては、出来ないことがある。
僕は、思考は筋肉の働きを延長したものだ、と思っています。
筋肉を働かせることで、目に自由な弾力性を持たせて働かせることが、良いと思っています。
多少話の展開はずれましたが、しかし、崇高な人間存在は、醜い足の親指の上に立つことが、成り立たせている、とバタイユは
言ったそうです。
僕が考えたのですが、例えばイメージを頭の中に思い浮かべたときに、そのイメージは、速く動くものと、ゆっくり動くものを、
共存させてイメージすることが、正しいと思っています。脳の働きを回復、向上させるのは、そういうことだと思っています。 >>766
同様に、ある部分の筋肉において、緊張と弛緩を共存させることも、いいと思っています。貧乏ゆすりのようなことを、
足以外の筋肉、手、顔や頭の筋肉、眼筋などにおいて、行うわけです。貧乏ゆすりは、必要であるからしてしまうわけですしね。
色んな貧乏ゆすりを覚えて、それを使って健康に至ることが、出来ると思うのです。
https://www.lifehacker.jp/2018/01/180113-why-do-i-want-to-bounce-my-leg-all-the-time.html 愚かだ。
後悔から何を学ぶかだろうに。
自分の身体を介した経験でなければ、真の学びは得られない。
偉そうに講釈を垂れ流す者ほど、後悔したく無いが為に、あらゆる物事から逃げ回る。欺瞞と言い訳と共に。
まぁ、後悔しても同じ事繰り返す者も多いが。 どんな物事を実行するのも、最終的には己れの判断である事を忘れるな。
誰それに言われたから、などと責任を転嫁するものではない。
老害?笑わせるな。
最終判断は自分自身だろ? >>767
眼球の周囲の筋肉(眼球の周りを覆っている筋肉であり、眼球そのものではない)を、緊張させることで、あらゆる筋肉の不調が治る。
このことは、ある日唐突に頭の働きが悪くなったり(僕の場合は、兄のハードコンタクトレンズを借りて、付けさせてもらったときに、
眼筋に負担がかかって以来、頭の調子が劇的に悪くなった)した場合に、眼球の周囲ということを、考え、意識からはずしてしまい、
それ以来苦難の状態をずっと続けてきたのだが、治ることは、このように、追求すればあることだ。治るのは、ほぼ一瞬の気づき
によってであり、苦難は僕のアイディアの追求が、曲がってくねって大変に難航したことから、強いられたことである。
この眼球周囲の筋肉を働かせるということは、目を閉じる筋肉を使うということだ。それを、純化応用したものである。
目を覆っているものは、瞼、眼窩、筋肉であるから、そこに違和感があるなら、違和感を取り除けばいいという風に
分析できる。取り除き方が、その、筋肉を働かせるということである。 皆の一生を想像してみよ、どんな人生か?そこに共感が生まれる。 帝国主義が悪で、反帝国主義が善だとする。帝国主義の戦いが悪魔の戦い(魔戦)で、反帝国主義の戦いが神の戦い(聖戦)であるとする。
魔戦にも参加せず聖戦にも参加しないことが、戦争をしないということである。戦争を以って戦争を制することは、反戦ではない。 古今東西を問わず、正しいものは正しく、誤っているものは誤っているのです。
時代や場所、状況によって変わってしまう正しさなど、正しさとは言えません。誤りに関しても、時代や場所、状況によって変わってしまうなら、誤りとは言えません。 つまりは、生死を賭け戦いに勝ち、生き残った者どもが常に正しいと? いくつかの選択肢から、選んで生きて考えているのが現在だと思えば、死ぬのも怖くない。いくつかの無を、自由になきもの
としてきているのだから。諸法無我を重視すると言えど、選ばずに生きれるわけはない。ダイナミックに現実に関わっており、
無はすでに下にある。自分と現実は、自分が勝った主従関係にある。無に帰すと言えど、無で、私の生は否定されない。
苦労は、無に帰されない。苦労をする意味はある。意味がなく生きるわけではない。苦労をすること自体が、それだけで意味深い
ものであるのだ。いつかいなくなることが救いであるとは、無が救いであるわけではない。一切皆苦と言えど、
苦労自体を、無意味であったり愚かであると言えるわけではない。極楽のような楽な生活を、できないということ。
目標もない、生きる特別な意味がないということは、言えるかもしれないが、それは、生きる苦労ゆえにこそ、
救われるという意味ではないか。 筋肉について。
あらゆる筋肉は、中程度の緊張を与えて、それを保つのが良い。過度に力を入れたり、全く弛緩したりという状態は
良くない。例えば、目を少し細くして、目の表情を作るかのように、ある程度の緊張を与えて、保つと、健全になる。
その他にも、腕や足、首などの筋肉を、少し緊張させ、それを保てば、余分なコリがとれる。これは言葉にしても微妙な難しい方法だが、
長年の思索の結果であり、多大な益を与えると確信する。禅のようなものである。 この世界で起こることは全て縁起によって生じており、誤っているものなど一つも無く、完全に正しいのです。 1: 無 職 と 東 浩 紀 (514)
2: ネトウヨ無職になろうよ♪ 14 (217)
3: ■■ ネトウヨはなぜ無職しかいないのか?A ■■ (692)
4: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (256)
5: 東浩紀504 (562)
6: 千葉雅也39 (205)
7: 日本人はなぜ日本人なのか その2 (87)
8: 【底辺】ほのぼの日記12【ぽよ】 (87)
9: 美魔女の21世紀倫理学 善く生きるとは A (599)
10: 悟りに近づくために12 (780)
11: ■■■■■ ぷりろっちょえだまだロチン2 ■■■■■ (505)
12: きちがいしかいない板があるらしいが (216) 生死を賭け戦いに勝ち、生き残った者どもが常に正しいということじゃろう。 世界とつながっているかどうかは、今つながっているか今つながっていないかです。昔つながっていたとかいずれつながるとかではありません。 繋がっているとかいないとか、またセックスの話題かね。 繋がっているとかいないとか、またセックスの話題かね。 解脱とは何か、一考。
この世に生まれ、現実を見た。それでこの世は把握した。ゆえに、もう一度生きる必要はない。
例えば科学技術の進歩などを、興味深く体験したいと思うか。例えば明治時代の人が、今現在の世を知っていないと、
うらやむことは、あまりないだろうと思われる。だから、亡くなるときに満足して亡くなる。現実は、一度見て知っていれば、
それだけで、足りるはずである。それでも、まだもっと生きていたいと思う理由は、生きているということの体験で、
嬉しいこと、喜びのあることを、体験して、いつまでもそれを享受していたいと思うからだ。
喜びに執着しているのだ。悲喜こもごものことがあるからだ。だから、解脱とは、その悲しみ喜びを、永遠のものとして、
満足して安心して死ぬことができることを、実現する必要がある。そのためには、社会的な助けも大きく必要とされるだろう。
悟ることができるかということは、体験の問題である。浄土とは、他力ということが、必要である。
それを解析すると、生を超えたところに在るものが、生の中の満足とそれを超えたものとをを、つなげてくれる必要がある
ということであろう。浄土真宗ならそれが阿弥陀仏である。自己を超えるために、自己以外の存在に助けてもらうのである。
そのように、私はこの世が好きになった。好きなものを、攻撃することは必要がない。恨む必要もない。
そして、そのような気持ちや、その考え方、自らの記憶などを、是非とも、他者に伝え、共有したいと思うのである。
人のためになることは、自分が救われるために、決してやり過ごしてはいけないことである。
人のためになったということほど、強い満足を与えるものもない。それは、誰もが持つ命の中で、良い観点を身につける
ということが、社会で生きていくときに、最も自然に、生きることの無意味を、自然と、塗り絵の色を塗るように意味があることにできる、
能力結果、また、導きであるからだ。人は、生きること自体を、根本的に迷惑をかけながら生きるしかないのだから、負と正が、
入り混じることを、救うものが必ず必要である。また、どんな人も、差別されないということは、そのことを自覚した考えによるのである。
権利を得るために必要なことであると思われる。 人格神は、生者のような神。ご利益もあれば祟りもある。
神格神は、死者のような神。ご利益もなければ祟りもない。 希求されるものは、いつでも、現在、自分に無いものであるが、
人は、自分に「無いと感じられるものが無い」場合にさえ、
「自分に無いと感じられるもの」が欠けていると感じて、
その不分明な自分に欠けているものを希求する まったく変化が期待できない状況が耐えがたいのは、
現在の自分に何かが具体的に欠けているからというよりも、
希求されるものを見出すことができないからである タントラとは、ヒンドゥー教においては神妃(シヴァ神妃)になぞらえられる女性的力動の概念シャクティ(性力)の教義を説くシャークタ派の聖典群[1]、
仏教においては中世インドの主に8世紀以降に成立した後期密教聖典の通称である[2](また、広く密教聖典全般をタントラとみなす場合もある)。
スートラは糸を意味し、「経」(縦糸)と漢訳されたが[3]、これに対してタントラはサンスクリットで織機(はた)、縦糸、連続などを意味し[4]、経典に表れない秘密を示した典籍であることを含意する[5]。
チベット仏教では「連続」(相続)[6]として定義され、ある種の密教の教えが記された聖典を指す言葉として用いられる[7]。 心の理論の発達について
人は、自分のレベルまででしか人を判断できない。
例えば、人にレベル1からレベル10まであるとする。
レベル1の人はレベル2以上の人の考えていることがわからないので、全ての人をレベル1と見なして判断する。
レベル2の人はレベル3以上の人の考えていることがわからないので、全ての人をレベル1またはレベル2と見なして判断する。
全ての人の考えていることを把握できるのはレベル10の人、レベル1からレベル10の人の考えていることがわかるので、全ての人の考えていることがわかることになる。
しかし、レベル11の人がいればレベル10の人は全ての人をレベル1からレベル10のどれかと見なしており、レベル11の人の考えていることはわからない。
このレベルは青天井であり、最大値は無限大である。 心の理論の発達について
人は、自分のレベルまででしか人を判断できない。
例えば、人にレベル1からレベル10まであるとする。
レベル1の人はレベル2以上の人の考えていることがわからないので、全ての人をレベル1と見なして判断する。
レベル2の人はレベル3以上の人の考えていることがわからないので、全ての人をレベル1またはレベル2と見なして判断する。
全ての人の考えていることを把握できるのはレベル10の人、レベル1からレベル10の人の考えていることがわかるので、全ての人の考えていることがわかることになる。
しかし、レベル11の人がいればレベル10の人は全ての人をレベル1からレベル10のどれかと見なしており、レベル11の人の考えていることはわからない。
このレベルは青天井であり、最大値は無限大である。 ラーメンの食べ歩きをする人は、
これまでに満足できるおいしいラーメン店に出会うことができなかった
からではないだろうし、ましてや、日常の食事では十分な栄養が摂取
できないからでも、摂取できる栄養のバランスが偏ってしまうから、
食の多様性を求めて食べ歩いているわけではないだろう
むしろ、栄養の摂り過ぎになったり、栄養バランスが偏って
健康を害するリスクを冒してまで、新たなラーメンとの出会いを求める 一見、なに不自由なく暮らしているように見える人が、
希求するものが見出せないために自暴自棄に陥ることも少なくない 傍から見てなに不自由なく生活できているのに、その生活を大切に守ろうと
しないのは「贅沢だ」と周囲の人々が非難しても、問題は何も解決しない 水は、抗わない。海から水蒸気となって上り、雲となって雨として降り、地面に染み込んで地下水となり、湧き水となって川から流れ海に戻る。水は、抗わない。 世の中の状況が悪い方向に向かっていると感じられるときに
人々が保守的になることは驚くに当たらない。積極的に動くこと
によって希求するもの得られることはなく、むしろ、失うもの
の方が大きいと肌で感じられるなら、人々は、消極的になり、
予期できないものとのかかわりを避けることによって今の
自分の生活を守ろうとする。 希求するもの得られることはなく×
希求するものが得られることはなく○ 「神の味方すらしなくてよいのなら、悪魔の味方などなおさらしなくてよい。悪魔崇拝など、神信心にも劣るな。」(ニーチェ) 本心からの勝ち戦、名誉あり実利あり。
本心からの負け戦、名誉あり実利なし。
本心からでない勝ち戦、名誉なし実利あり。
本心からでない負け戦、名誉なし実利なし。 自分が理解できるまで相手に説明させないのは、本気で理解しようとしていない証拠である。
相手が理解できるまで相手に説明しないのは、本気で理解させようとしていない証拠である。 自尊心の下がりすぎを防ぐ方法は、できそうなことをして成功体験を積むこと。
自尊心の上がりすぎを防ぐ方法は、できなさそうなことをして失敗体験を積むこと。 76 :可愛い奥様 :2019/09/23(月) 15:22:30.00
クリトリスを強めに舌で弾かれると必ず屁が出てしまうんだけど、皆さん同じです?
88 :可愛い奥様 :2019/09/23(月) 19:37:42.40
>>76
普通出るから安心して大丈夫よ。
舌先でピンッと弾かれると「ブリィッ!!」と思わず出るのは当たり前。
旦那は至近距離で放屁されたくないからとクリはソフトに舐めるようになった。
私の場合は鼻位置が肛門に近くなる69の時に放屁するならよう心掛けてる。 >>805
まさに貴方の宗教、本気で神を理解している信者、理解とは?www 悟る前の人は、迷信深い非合理的な人。善悪の判断を好む。
悟った人は、功利主義的な合理的な人。損得の判断を好む。
悟り過ぎた人は、唯物論的な考え方をする虚無主義的な人。正誤の判断を好む。
んじゃね? 分別過ぎれば愚に返るとはよく言ったものだな。悟り過ぎるとやる気なくなっちゃうからね。 悟りすぎることもそれでやる気がなくなってしまうこともね。 まぁ、愛の営みの真っ只中に放屁だなんて…、
ここは大学教授先生方も見ていらっしゃるのに。
わたくし顔が真っ赤になっていそうですわ。
少々お時間をいただいて、お部屋でお化粧直しさせて頂きます。 「人は皆只人、只人でない人はいない。」(養老孟司) 現実には、悟りすぎるということはないのですよ
状況は常に変化していて、悟るというのは、その状況の変化に応じて
機敏に最適化を求めることができる能力だからね 生者は、ご利益あり祟りあり。
死者は、ご利益なし祟りなし。 【バイトル】でバイト選び!
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ヨーロッパにフン族が東方から来て押し出される形でゲルマン人たちが大移動し、最終的には西ローマがゲルマン人に倒されて滅亡した。(これぞまさに決定論の証拠。) 尊敬される人でなくていい、せめて軽蔑されない人でいよう。 阿弥陀仏は、抜苦与楽の仏。抜楽与苦の者は極楽に入れない。 類は友を呼ぶ。鏡好きは鏡好き同士で、鏡嫌いは鏡嫌い同士で集まるものだ。 >>823
多重人格なのですか?1人で1000人役とか毎日お疲れ様です。
多数の発言を繰り返し見てもらうなら、ツイッターがいいでしょう。 抜苦与楽の者にとって、この世界は極楽。
抜楽与苦の者にとって、この世界は地獄。 生きながらに死んでいる者は、生きていても死んでいるが如し。(肉体あれど魂なし。)
死にながらに生きている者は、死んでいても生きているが如し。(肉体なけれど魂あり。) 生きながらに死んでいる者は、生きていても死んでいるが如し。(肉体あれど魂なし。)
死にながらに生きている者は、死んでいても生きているが如し。(肉体なけれど魂あり。) 兼好法師の教えに、「矢は一本だけ持て。」という教えがある。後生(来世)をあてにして今生(現世)をおろそかにする人には、悟りは開けない。
死後のことばかり当てにして生きている間のことをおろそかにするような人は、ロクな人生を歩めない。仮に死後があったとして、死後もまた同じような道を歩むだろう。 最高を求めても超越を求めない人は、有想剣(もうちょっとで悟り)に留まる。無想剣(悟り)とは、超越のことなのだ。 限りなく無生物に近づけば、限りなく悟りに近づく。完全に無生物になったときが悟りだ。 毛根や爪の付け根は生きた細胞でも、毛や爪は無生物だろう。
毛や爪は悟っているのか? 目の使い方。
片目をつむり、開いた目で、見える視界を、最も小さく分割して行け。限界まで小さくしていくことで、意識が、大雑把な状態から、
細密な状態へと変わる。あるいは、代わりの手順として、片目で見た状態で、その視界をぼやかすような操作を行え。
すると、実際にもストレスが減り、器質的な病みを元に戻すことができる。
そういう状態に慣れたら、失明しても空間を失わないと思えて、過度におびえることがなくなる。
目の問題がなくなれば、本来の時間空間の感覚が、病んだこともなくなる。 >>835
追加訂正
失明しても→両目を失明しても 人を持ち上げたり見下したりしない人とですら関わらなくていい。まして、人を持ち上げたり見下したりする人とはなおさら関わらなくていい。 見下しているやつが「見下している」と発言しているのはすごく謎なんだけど。
自覚ないんだろうな 好きだと善い偏見を抱きがちで、嫌いだと悪い偏見を抱きがち。善い偏見も悪い偏見も抱かない、先入観に囚われないものの見方が大事。 怒りは、絶対の悪ではない。怒りを許容しないと、不自然な完全主義になる。怒りというものが起こることについて、
自覚的に理解していればいいが、怒りが悪であるという気持ちや、性向ばかりが目立つと、コミュニケーションに大変に支障が出る。
そして、人間も尖り、偏る。怒りの存在の許容において、人格は向上を見せ、気持ちは満足感を覚える。怒りによって、強くなり、
安堵が生まれる。怒りは、自然的なものである故。怒りの気持ちが起こることにおいては、他をある程度認めているのだ。
怒りを買った対象はあるときまで見捨てられないのである。このように、自分と他人において、怒りの存在を、認めることは大事である。 「誰も見捨てられることはない。安心しなさい。」(国際連合) 「慈悲とは、愛そのものだ。」(ヘルマン・ヘッセ、シッダールタより。) 善を為すことは自己犠牲、悪を為すことは他者犠牲。ブッダは、自己犠牲も他者犠牲もするなと言った。 エゴを捨て去り 他我の境地へ 世界を一度も変えず 自分が変わる。 この世に不変なものは一つもない、ということは、諸行無常であるということから、明かだ。
だから、〇〇ならば必ず〇〇だ、ということは、勝手に思ってしまった間違いである。
だから、どんなことも、(確率的に、あるいは美学的に)必ずこうであるべきだ、と言うことは、実は明らかな間違いであった。
従って、人間の従うべき法とは、絶対に正しい法則ではなく、人間にとっての経験則、人間であるからの智恵のようなものであろう。
従って、新しく付け加えるべき法則は発見されない、しかし人間が育つうえでは、身につけること、発見することはたくさんある。
従って、無明を抜けることは、どんな人間でも通らねばならない、行きつかねばならないところである。
結局のところ、自分が強いから負けることはない、というような思い込みが、人間の考えを曲げてしまうものなのであると考えた。 >>847
深く囚われてしまった思い込みが、人を損なう。
そんな愚かなことは、あるべきではなく、それをなくすようにすることが、個人においても社会においても、良いことに違いないだろう。
周囲にあたっても仕方がない。
自分を恥じ、変えることが、誰でも知ることのできる智恵だ。
周囲が弱く劣っているという思い込みこそ、勝手な事であり、愚かな考えである。
自分が足りないのに、周りを強引に変えて思い込むのは、全く愚かなことでしかない。 この世界は鏡の間、自分の姿も他人の姿も見えないことがない。 個人として悟るというのは、悟る/悟られる関係における意味での悟りでしかない。 世の中には、自分も含めて、バカと卑怯者とサイコパスしかいないので、
自分が既に卑怯者かサイコパスでないとしたら、自分は確実にバカである
に違いないことに気付くことが最初の一歩だろう。
自分がバカであることを自覚したところで、世の中に、自分も含めて、
バカと卑怯者とサイコパスしかいないことに何の変りもない。ただし、
その自覚により、卑怯者として振る舞う、またはサイコパスの仲間入り
をする選択肢は生じる。 個人として悟ったことで満足するなら、卑怯者になるか、サイコパスの
仲間入りをする選択をするだろう。無論、個人としてさえ悟ることがない
なら、ただのバカのままである。しかし、自分がバカであることを悟った
上で、卑怯者として振る舞うことも、サイコパスの仲間入りをすることも
拒絶する第3の選択肢も存在する。それは自覚的にバカでありつづける
ことであり、悟りを求めつづけることである。
自覚的にバカでありつづけることは、自らをその対象として含む、絶え
ざる啓蒙を要求する。啓蒙は、人々を必然的に利口にする、つまり、
卑怯者かサイコパスのいずれかにするわけではない。そうではなく、
利口になる、つまり、卑怯者として振る舞うか、サイコパスの仲間入り
をするか、それとも自覚的にバカでありつづけるか、自ら選び取る
選択肢をその都度、突きつけるのである。
人は、自らがバカであることを自覚したなら、自らも卑怯者かサイコパス
になって自分の利益を確保し、拡大しようとすることしても、自らの
利益に反してまで卑怯者やサイコパスに追従したり、それらの人々の
言動を支持したりはしなくなる。自らが卑怯者やサイコパスになることを
選択した場合でさえ、しばしば、各々の利益は互いに反するので、
均衡を求めようとする力関係が生じ、そのことにより、卑怯者と
サイコパスに無自覚なバカが一方的に誘導されて全体主義的な状況が
生じることが妨げられる。 誤:拡大しようとすることしても
正:拡大しようとするはことしても 自分は卑怯者でも、サイコパスでもないが、世の中は自分を除いて、
バカばかりだと感じるようになったら、自分がバカであることを
自覚すらできていないだけであると思ったほうがいい。 バカがバカであることを証明するときにバカを用いる必然性は無い。
天才がバカはバカであることを証明してやれば事は済む。 天才であることとバカであることは相互排他的ではなく、
バカ、卑怯者、サイコパスのいずれもが天才であり得る 過去を以って過去を制す。
現在を以って現在を制す。
未来を以って未来を制す。 人類を含めた地球の生物すべてにとっての環境を守るための「正しい選択」
というのが、あり得ないだけでなく、他の生物を度外視したとしても、
未来の世代の「人類」すべてにとっての環境を守るための「正しい選択」
さえ、その「人類」が現状における全体主義的なイデオロギーとしての
「人類」を指すのでなければ、論理的にあり得ない。このことは、現生
人類も生物であり、進化によって生じたものであることを考えればすぐに
分るはずだ。
ホモ・エレクトゥスやネアンデルタールも人類だろう。それらの人類が、
すべての「人類」にとって「正しい選択」をしていたなら、それらの
人類、あるいはそれらから直接に進化した人類は、現在も地球上で
繁栄していたはずだが、その代わり、現生人類の繁栄はない。
これほど当たり前のことについて、生物学者も含めて沈黙して
いることは、すでに全体主義が進行していることの表れだろう。 自分たちのため、自分たちの子孫のために環境を守るというのは誰にでも
納得のできる理屈であり、そのための具体的な対策が自分たちに利益を
もたらすことが納得できるなら、それに反対する人はいないだろう。
納得させられないとするなら、それはなぜなのかを明らかにすることが
必要であり、納得しない人々をバカ呼ばわりしたり、敵視したりしても、
何も解決しない。というより、全体主義的な暴力によってしか主張を
押し付けることができない。 「環境を守る」とか言う連中は、
地球環境を「守る」べきものとして、つまりは自分達の帰属するもの、または支配下に置けるものと認識してる。
これは自然を畏れ敬うという東洋的な視点ではなく、
キリスト教以降の人間中心の視点。
この視点に、キリスト教的な「終末願望」が加わり、
温暖化などの予想を「科学的な事実」として他者の犠牲を強要する。
彼らはまた、権威主義でもあり、国連などの主張を根拠にする。 103 :学術 :2019/09/29(日) 10:13:47.87 ID:8YCZwU+6
オナニーまでいくと童貞や処女ではないな。聖なる男と悪女。逆も性欲湧くでしょ。 自分たちが生活しつづけなければならない環境を守るための活動に反対する
ほど狂った人々は、それほど多くない。その一方で、環境保護を名目に
実際にはどのように使われるのか不明な金を徴収したり、環境保護に役立つ
と称して、物干し竿で洗濯物を干す代わりに、太陽光発電で乾燥機を
回させようとするビジネスを推進しようとする人々は、いくらでも存在する。 破壊の時もあれば、構築の時もあるだろう。
山間を流れる河川に、濁流となる場所と清流となる場所が
必ずあるように。 優越感のある人は、自尊心があるのである。
劣等感のある人は、他尊心があるのである。
優越感のない人は、自尊心がないのである。
劣等感のない人は、他尊心がないのである。 「そうであることを自覚していないとさらにそうなる。」
ニーチェ 何回輪廻転生し続けてもどの一生も全て安泰でありますように >>866
惚(ほる) 或(おる) 病(ある) 川(ない) 刀(ない) 有る(るる) 無い(のい) 無(ほん)
或(ほる)で病(である)でおる^ホ 生まれ変わる。そのためには死ななければならない。死なない限り生まれ変わることはできない。 「裁きがないということは、あなただけでなく他の人も人を裁かないということです。あなたが人を裁かなくても、他の人が人を裁きます。」(〜キリシタン狩りについて、イエス・キリスト) 全ての人の当人に対する感情は、当人が持つ。当人自身の当人に対する感情もまた然り。 トクメイで いばりくさるのに きく あたいわのい。
そのしとが いままで なにをゆぃい してきたかを しることができて
初めて(そめて) そのしとの ゆうことを みいだすことができるのでおる^
トクメイで ポーン いばりくさるかきこみを まにうけて
そりぇが 誤り(とちり)て わるいめに あうたとして
そねいなの しりたことか ゆうのが トクメイでほるホ 二酸化炭素排出量にかかわる環境保護について真剣に人々に考えるように
アピールしようと思うなら、その議論をまずは、環境税、炭素税取引き、
エコビジネスに対する税金からの補助金などの政策推進と完全に切り離して、
個々人が自らの生活において、具体的に何をどうすることが二酸化炭素
排出量の削減のために有効/無効であるのかを論じることだろう。
どのように人為的なエネルギー源が作られるにせよ、どのような製品
であれ、製造にエネルギーを消費し、サービスについても、ほぼ例外
なく、どのようにかエネルギーを消費して、その提供が行われ、
エネルギー消費には必然的に二酸化炭素の排出が伴う。したがって、
まず大原則として、商品もサービスもその購入を必要最低限に
とどめることが、二酸化炭素排出量の削減につながる。 例えば、私は、日中は、晴れまたは薄曇りであれば、照明はまったく
使用しない。調理と後片付けの時間も含む夕食時には照明を使用するが、
それ以外の時間帯は、部屋を明るくする場合に0.5wのLED照明を1つ
使用するが、使用する照明の明るさは、雨天や曇りの日、夜間において
も、ほとんどの場合においても、それ以下の明るさである。
無論、電力は、パソコン、テレビ、サーキュレーター(夏場はエアコン)
、電子レンジ、トースター、冷蔵庫などにも使うので、照明に使用する
電力は、全電力使用量の一部であるが、夏場のエアコンの設定温度と
同様に、照明は生活のベースなので、その明るさを抑えることは、
年間のエネルギー消費量の削減につながる。 太陽光パネルを設置して、その電力を利用することよりも、太陽のエネルギー
を直接に利用することの方がエネルギー効率がはるかに高いことは明らか
であり、供給される電力がどう作られるにしても、洗濯物を干すのは物干し
竿を使用することが、二酸化炭素排出量削減につながる。
ひと昔前に外断熱が流行って、既存の古い住宅に発砲ウレタン・パネル
を貼りつけるようなリフォームが、省エネ策として補助金を受けて
行われるようなエコ・ビジネスが横行したが、気密性の低い古い
住宅にそのようなリフォームをしても無意味であることが判明して
いるだけでなく、大量の発泡ウレタンの処理そのものが環境に大きな
負荷をもたらす。 交通機関は、すべてエネルギーを消費するので、可能な限り利用しないことだ。
燃料自動車から電気自動車への転換が進められているが、電気自動車は運行の
際に排気ガスを出さないものの、電気自動車の電力を供給するための発電が
どのように行われることになるのかが未だに不明であるだけでなく、蓄電池
が大量に製造され、廃棄されることがどのように、どれだけ環境に影響を
及ぼすことになるのかについても、未知数である。 食料の生産にもエネルギーが大量に使われているので、購入した食料を無駄に
しないことも大切だ。例えば、鶏の腿肉を焼くと、皮から大量の油が出るが、
それを捨てるのは、鶏肉の生産に投入されたエネルギーを無駄にすることになる。
かといって、一回の食事でその油を摂取するのは健康によくない。そこで
重要となるのは、そのように調理によって油が大量に出るような肉の場合には、
それを複数回の食事でどのように使い切るか、あらかじめ複数回の食事メニュー
の組合せを考えてから調理することである。そのような計画性によって、
油汚れのようは廃棄物の量も大きく減る。 それそのものがわかってはじめてそれがわかったと言える。それがわからずに想像で語ってそれがわかったと言うやつはただの脳内人間だ。 生物も無生物も変わらん。生きているも死んでいるも同じこと。 宣教師「悟りとは、いかなるものか?」
仏教僧「生まれる前は知っていたはずだ、死んだあとにまた思い出すだろう。生きている間はとても思いだせそうにない。」 水は上から下に流れる。大自然の流れに沿って生きていればなにも問題はないのだ。それなのに、世の中にはそれと真逆のことをする人間がいる。それを、不自然というわけだ。
老子 する≠できる
しない≠できない
できる≠する
できない≠しない >>876
>部屋を明るくする場合に0.5wのLED照明を1つ使用するが
このように書くと、なにか私が欠乏生活を耐えているかのような印象を受ける人々
がいるかもしれないが、それは完全な誤解である。多くの人々は、生き物として
必要な明るさに応じて生活することを忘れている。夜は暗いのが当たり前なの
であり、明るさは必要とする情報を楽に得るのにちょうどいいように調整する
のが自然である。
睡眠時に部屋の照明が明るいままの方が、豊かさを感じるような人がいる
だろうか。映画館で上映が始まって、館内の照明が明るいままである方が、
映画鑑賞を楽しめると感じる人がいるだろうか。それと同じことである。
不要な視覚情報が目に入ってくることは疲れるだけだ。調理をするのに
明るさが足りなくて、包丁で指を切ったり、食材を落としてしまったり
すると困るが、本を読むのであれば、本の文字がはっきりと見えるような
照明であれば十分であり、ラジオ番組を聞くのには、動いたときに家具に
ぶつかったりしない明るさがあれば十分である。動かない場合には、
暗さで眠気を催さない限り、照明は最低限のほうがいい。 空前絶後の修行僧!哲学を愛し、哲学に愛された男。サンシャイン・ガーウーターマー!
イェーーーーーーーイ!!ジャスティス!!! 「天才の天才による天才のための哲学」(ガウタマ・シッダールタ) この世は修行道場。生まれるは修行の始まり、死ぬは修行の終わり。 しなければならないとされていることが実はしてはならないことかもしれない。
してはならないとされていることが実はしなければならないことかもしれない。 それにしても、フランスであれだけ広がりをみせた黄色いベスト運動が、
炭素税の増税に激しく抗議するものだったことが、自称リベラルや自称左翼の
人々の間では、あっという間に都合よく忘れ去れているのはどういうことだろうw 功は賞し、罪は罰する。しかし、心理的に賞したり心理的に罰したりするかどうかは別。これこそが、大人の心のあるべき姿なのではないかと思う。 むしろ、人間も生物であることに救いがあるのでは?
家畜化されない状態で、自らの次世代の持続可能性のために自己利益を
犠牲にしない生物は存在しないだろう。 人であっても、自らの次世代の持続可能性のために自己利益を犠牲にすること
さえ厭わないことが、命懸けの争いをもららす。とすれば、そのような必死の
自己犠牲の間での互いの利害調整を否定すること自体が、最大の悪をもたらす
のではないか。 常時、平和がいいな。 やりたいことやって死ぬんだ。 それがわたしの喜び・幸せかな。 魂の永遠を願うものは、同時に他者の魂の永遠も認めることになる。
魂の永遠を願わないものは、同時に他者の魂の永遠も思わない。
魂の永遠を願うことは、時間の全体を捉えるということになる。
他者の魂の永遠を願うことができることは、自分を救うことである。
過去にあったことは本当にあったことと、思えば、無明の克服を見出せる。
悟るということは、個人の中に起こるものだと思えるが、例えば一本のアイスクリームの木の棒さえ、
深い感慨と共に思い出されてくるような記憶の作用が、自分が求めること願うことに直接つながっていると、思える。
他者との心のかかわりということを可能にするのは、魂の中でつながりを持つことだと考えることができる。
逆に、他者のことがわからないのであっても、それは、見てごらん。
人との心のつながりをよく見れば、それは、魂のつながりである。
どこか別のところに、はっきりしない何かがある、その方がいい、というようなことを、感じた。
この世から見えたもの、生きているうちに見たものから、絶対の魂の永遠がある、と信じられるならばよい。
この世が魂と同じものである、すなわちこの世と個人が、同一になるときが存在する、そのように考えを進めると、
悟りに近づくとができる。そして、私に、いつか近いうちに、悟りが訪れるような気持を持つ。
それは、優劣ではなく、必要な救いである。
価値観世界観の中で、他者に何かを認め許すということと、自分に何かを認め許すということは、同じことである。そのどちらも、
同じこととして現れる。従って、悟りを得た人は、他人の中にも悟りがあると見えるはずである。
宿願の達成は願い続ければそのうち訪れる。 私が魂とは何か、これを解決しようとしたのは西暦2000年か少し前ぐらいの昔だった、
そこにたどり着くには、超えなければいけない壁をいくつも越えた、
科学的(具体的)に捉えようとするほど魂は逃げていった、それは本質や真理といった
何かであると直ぐに気がついた、魂を語るほど具体的ではないことを具体的に表現して
しまうので、その言論で敵対するものがたくさん増えてゆく、捉え方という原点から
革命を起こすこと、それは常識を捨てること、理解できずともその働きは偶像として明白にあらわれる。 >>907
壁を超えるということは、事実の体験があるということだし、人に話したりすることで、確かなものから語っている、または、
自分自身の頭が変わったところからでた言葉である、ということで、ゆっくりとできることですよね。
事実と事実のはざまを、想像力で補うことで、考えるという、無意識的なものを、身につけること、それが魂を必要とさせ生み出す、
と僕はそんな風に思います。
本質や真理から発して、革命をもたらす、というようなことを考えると、とても前向きな気持ちになりますね。
社会、世界から、逃げるわけでもなく、自分なりにやっていけば、本質的に共通するものがあるという理由から、
自分自身の限界や良さというものが、得られるように思います。 自律性はいつでも状況に応じた再調整を必要としているが、
そのことを認められない人々が多い。だから他人の生活を
律することばかりを論じている。自らが正しいと信じる
とおりに他人の生活を律することができるなら、最終形態
としての理想的な自律性が成立するとでも信じているかの
ように。 >>908
最近は貴方の感がよくなってきたぽく見受けます
あとはその感を鍛えて行くべきところかと思う、
直感は学ぶとか覚えるとか言う記憶の力ではないはず、むしろ記憶を曖昧にして
具体性を捨て去る能力と思います。 天の奴隷として天の意志に従い、天の奴隷として役に立たなくなったら速やかにこの世を去る。これぞ、則天去私。 需要と供給のバランスが市場を健全な状態に保つという考え方は、
需要の自律性が確保されて初めて、妥当なものとなる。ところが、
供給側の企業活動は、それが安定的な利益を得ることを目的として
いる以上、需要の自律性を失わせて、他律的に消費するように
人々を習慣づけることに力を尽くすことになる。その極限が、
消費者側が望んでいるか否かにかかわらず、需要を供給側が
強制的に作り出すパソコンのプラットフォーム・ビジネスだろう。
他律的になった消費の習慣に自律性を取り戻させて、市場の
取引きをより健全なものに近づけるのに、市場の管理者が、
消費が維持されることが望ましくないものの購入にペナルティ
を与え、消費を増やしたいものの購入にボーナスを与える
ようなやり方は無効であり、しかも、そのように提供される
ボーナスを、消費する側から徴収したペナルティから賄う
やり方では、市場の管理者と供給側の癒着を生じるのは、
当然の結果である。人々が、ストライキやデモによって
市場の管理者にそのような管理方法を要求するとすれば、
それらの人々が、市場の管理者や供給側と裏で結託している
と見られるのは無理ないことである。 需要があるなら供給バランスを整えるがリクルートで進路が分かれ人気企業の供給が間に合わない募集人員で、需要がない会社にも学生が就職を決めていくのがおかしい。
その損益がなぜか若者世代や管理職にのしかかる悪癖がある。 さらに悪いことには、他人を律することによって、より理想的な状況
を作り出そうとしているような人々は、自分が律することができない
相手に対しては、必然的に黙り込み、現状を受け入れることだ。
実際、剥き出しの暗黙の暴力に対して声を上げることのできる人は
いないだろう。いたとしたら、その声は闇に葬られるのだから。
すると、他人を律しようとする行為は、必然的により弱い立場の人々
だけに向けられることになり、暴力に対する暗黙の服従を強化する
ことにしかならない。 人々の発言の裏側、つまり沈黙の側にこそテロの日常的な効果が発揮されている 荒唐無稽であったり、嘘であることがすぐにバレる「陰謀論」は、
テロの効果としての沈黙を正当化する目的で大々的に流布される 生物資源とかいう言葉があるが、もし生物が物なら人間だって生物だから物になる。これがわからない人はめちゃめちゃ頭が悪い人だよ。 起こること全てが正しいこと。アラー・アクバル、アラーは偉大なり! >>907
魂と考えるから分からなくなる。
主観と捉えて考えればいい。
この世界は諸行無常などでは無い。
永遠にあり続ける。
流れているのは主観のみで、我々はたまたま「今」を観測しているに過ぎない。
時間は未来にも過去にも同等に進む。
という事は、この「今」は永遠にあり続けるのだ。
「有」は必然で有り、永遠なのだ。
消える?何処へ? なるほどつまり
状態1→状態2→状態3→状態4→
と物質が変化しているのではなく
状態1〜4.…の世界が別々に存在していて
主観が状態1〜4.…の世界を移動している
ということかな? 禅問答
師「(公案)生きる資格のない人はいるかな?」
弟子「死刑制度があるということは、いるのではないでしょうか?」
師「神のみぞ知る。」
弟子「師よ、仏教は神なき宗教と聞いております。神のみぞ知るとはどういうことですか?神がいるのでしょうか?」
師「神のみぞ知る。」
弟子「…、わかりました。」 903Mr.名無しさん2019/10/03(木) 16:13:09.35
お前らに捧げる
後から来たのに追い越され
泣くのが嫌ならさあ歩け
905Mr.名無しさん2019/10/03(木) 16:14:25.10
>>903
誰に追い越されたんや?
甥っ子が結婚か? >>921
「有」の世界は唯一であり、全部有って「有」です。
アルと言う事は物質のみならず、観念や理論も全て含まれる。
今ここに有る自分も最初から有るのです。
未来は不確定ではなく、未確認なだけです。 つまり
状態1〜4.…は同時に重なって存在して
主観も同時に重なって存在してる
ということかな? >>920
おまえも脳で考えている時点でその主観の奴隷だ、
考えることができないと定義および考えることが不可能というものを
扱う方法を学んでくるといいかもよ。 >>926
可能性の世界も全部存在する。
髪の毛が1本多い、少ないという些細な世界から、もうすでに始めから自分自身が居ない世界も存在する。
しかし主観は1つ。
観測できるせかいは1つだけ。 >>928
可能性というのは法則&原理上可能とは全くちがう、
たとえば可能性は可能性自体を否定できないからだ、
全能が全能であることがないように言葉の遊びにすぎない。
理論、論理でそれを捉える君は、言葉の定義をして考える基礎能力を学ぶべきだ。 俺たち賢い猿には生きる理由も使命も価値もない
たまたまできた最初の命がたまたま思考を得るように変化しただけ
だから生きる理由、使命、価値は自分で決められるし深く考えずに自分が楽しい嬉しいと感じるものを追いかけて生きるのがいいんじゃないかな
これが俺の悟り 常時善人で、それで善人だといえる。ときどき善人でなくなるなら、それはその人がそういう人だということだ。 >>929
言っている意味がわからないな。
君は何を言いたい?
哲学とはなんだ?
理論だよ。
可能性は「有る」だろう?
ただし、観測が出来るかどうかは、話が別だ。
まず、有るという事を知れ。 命ある者には必ず終わりがある。(不老不死の科学技術は現在ない。)であれば、生物が死んで無生物となって、それにより死ななくなるのである。(無生物はもともと生きていないので、死ぬことはない。) イエスは、「自分のために命を守ろうとする者はかえってそれを失い、私のために命を失おうとする者はかえってそれを得るのである。」と言った。
死は絶対のものだ。死という未来ばかり見て生きている間という現在を見なければ、いつの間にか死は目前に迫り、生を失っていることであろう。 この世界の歴史の中で、あなたの人生はいったいどれほどのものなのだろうか?きっと、それほどのものでもないだろう。 歴史上の価値なんてのは解脱出来ない凡夫の考えることで、涅槃からみれば
釈迦も一般人も歴史上果たした価値に違いはない その場しのぎでなく長期的にものごとを考え判断して生きる。 普段、あまり消費しないのに、この1ヶ月くらいの間、結果的に
本を買いまくってる。ドイツ語本2冊、フランス語本1冊、
イタリア語本1冊、ポルトガル語本1冊。
でも、衝動買いではないんだよね。洋書の方が価格設定の変動
が極端に大きいから、安い値段が付けられたときに買わないと
大損する。合計5冊で送料込で多分、5千円以内。 私は、アラーがお望みになることしか望まない。アラーがお望みにならないことは望まない。 >>933
知能が低いのかな?
その断定思考しかできないのは愚か者の証拠よ >>943
では伺うが、この世界は一体どうだというのだね?
愚かでなく、高い知能のあなたなら、さぞ納得のいく説明が出来るのでしょうね。
そこまで言うからには、自論がお有りでしょう? せっかくアイデアを提示してくれる人に対して愚か者呼ばわりする人の嘆かわしさよ 一生をどう使いますか?あなたは、あなたのやるべきことをやってください。 >>944
何かすごく勘違いしているようですね。駄目だなこれ >>945
アイデア?それはアイデアではなく荒らしているだけ 哲学は議論とか討論という話し合いではない、
こんなこともわからんやつがいるのか。 >>951
勘違いはどっち?
哲学を宗教か何かと思ってるのか?
学問の根底にあるのが哲学だ。
知らんのか?
知る、理解する、整理する。
理論的に構築していかなければ、単なる思いつきの妄想だろうよ。
スポットライト理論は哲学だぞ。 自分も他者も死んだつもりで生きる、これが無己無他の境地。
自分は死んだつもりで他者は生きているつもりで生きる、これが無己有他の境地。
自分も他者も生きているつもりで生きる、これが有己有他の境地。
自分は生きているつもりで他者は死んだつもりでいきる、これが有己無他の境地。 アラーは正しいことのみをなさる。間違ったことはなさらない。
アラー・アクバル!アラーは偉大なり。 自然現象に従っている間だけ、悟りは得られている。
自然現象に従っていないとき、悟りは失われている。 >>952
>学問の根底にあるのが哲学だ。
だから貴方は駄目なのでは?
根底にあるけど、根底じゃない部分の学問ではない、
だからこそ「スポットライト理論は哲学だぞ。 」て結果になる。
理論を否定できてこそ哲学の根底であって、理論に流されている貴方は
哲学者ではなく学識の奴隷だ。
勘違いもひどすぎるわ 死者の安らぎ
無い無い無い何も無い
無い無い無い何も無い
無い無い無いマジ何も無い
ガチで無い 迷信深い人「地に足がついていない人(空中浮遊人間)はこの世の中にいますか?」
オウム信者「ええ、我らが麻原彰晃尊師こそがまさにそれです。」
仏教徒「いません。バカ(リアルじゃない人)がいるだけです。」 「上でない」は「下である」ではない。
「下でない」は「上である」ではない。 個人をindividual(分けられない)というが、人は死んだら土に還る。dividual(分けられる)だろう。 それは人を分けているのではなく、土を分けているのでは? こういう過去のせいで何々できないではなく、こういう過去があったからこそ何々できるという、そういう捉え方ができるといい。 こういう過去のせいで何々できないではなく、こういう過去があったからこそ何々できるという、そういう捉え方をする。 人が皆自己責任で生きているのならば、責任転嫁している人もまた自己責任で責任転嫁をしていることになる。だとしたら、極めてよくない自己責任だ。 あなたが皆を無視し、皆があなたを無視する。そうしてあなたと皆が互いに無視し合えば、人間関係の問題はなくなります。事実上、この世界で一人で生きることとなりますので。 自分が皆を無視すれば、自分の皆に関する悩みはなくなる。
皆が自分を無視すれば、皆の自分に関する悩みはなくなる。 向上して行くことは天国へと上って行くこと。
堕落して行くことは地獄へと堕ちて行くこと。 幻想するのはいい、その具体性は考えるのではなく学ぶに等しい原理だ、
考えるなら妄想するべきであって、抽象性を扱うべきなのに、
繰り返し具体性の高い幻想を繰り返す、それぞれの幻想が奏功してめぐるわけではなく
具体性故に単体が孤立して明確さや明晰さといった法則に固着する、
それは既存のフレームワークに当てはめて答えを導くことであっても、
自分でつくったフレームワークから答えを導くわけではない。
現存のフレームワークに執着し破壊ができない、その自覚すらない
刻が見える、機械人形はもういらない。 皆、自分のすることをする、自分のしないことをしない。それが、一生だ。 おっぱいの魅力の前に、哲学は無力だ
だが、そこをなんとかしなければならない 自分を犠牲にしないことが他人を犠牲にしないことになる。
自分を犠牲にすることが他人を犠牲にすることになる。 自分を犠牲にしないことが他人を犠牲にしないことにつながる。
自分を犠牲にすることが他人を犠牲にすることにつながる。 今は女子の賃金労働率を高める。そのことだけを考えろ。 他人を持ち上げるという形で他人を見下すことをやめる。 真の謙虚さではなく、謙虚な自分は偉いという傲慢さ。 Direi melhor: uma espiral é um circulo virtual que se desdobra a subir
sem nunca se realizar: Mas não, a definição ainda é abstracta. Buscarei
o concreto, e tudo será visto: uma espiral é uma cobra sem cobra enroscada
verticalmente em coisa nenhuma.
Fernando Pessoa, "Livro Do Desassossego", Fragmento 117 生きるという行いの罪の中に、思いの罪があってはならない。 >>996
痩せ我慢しても一生付き纏うよ。
早いとこすべきことすまして、あとは悠々自適なんの不安もなく老後を済ますか、それか不安とやり残したことを考えながら老後を生きるか? このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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