悟りに近づくために11
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仏教は、ガウタマ・シッダールタへの個人崇拝ではなく、悟りを開きし者(=ブッダ)を目指し、悟りを開くこと(つまり、ブッダになること)を求める。
だとすれば、仏教とは、ガウタマになることではなくブッダになることを求めるので、悟りを得てもブッダにこそなれるもののガウタマにはなれないのだ。それでいいし、それを否定するのならばもはや仏教ではない。仏教ではなくガウタマ教だ。 >>2様
活況を呈するように、書き込みを、出来るだけしていきます。
私のみでは寂しいから、沢山の人が色んな経験、理論行使を行って、悟りや良いことへ、続けられるようにと、思います。
一人一人が主人公です。
>>3様
そうですね、様々なアプローチがあり、現実と想像の、両面において、励むならば、ガウタマ・シッダールタとは別の思索を
たどって、仏になることが、可能である、と私、思います。 一つ言っておきたいのは、自死をされないように、気をつけましょう。どんな境遇も、耐え忍ばなければなりません。
世界も自分も広いのであって、時間は長いのです。様々な手段を探し出して、好きなことをすればいいです。
他人の悟りに、習おうとすることは、素晴らしいことです。誰にとっても、誰に対しても、です。
寛容さではキリスト、知性ではソクラテス、天才性では孔子、現在における信頼を受けるのが釈迦だと思います。
このように、スクラムを組んでいる過去の四聖のことを、思いめぐらしたりして、学んでいきましょう。 論理的思考、客観的思考、それらを用いて導き出されるこの世の事実を説くのが仏教だよ。
本当にただそれだけ。数学的思考とも言う。
悟りの目的とはあらゆる事象、概念、言葉、欲を理解し、執着心を無くすこと。
何故ならそれらは生物学的に全く必要なものではないのに、多くのものがそれらに囚われ、自分で自分を苦しめているから。
俺が言う言葉と釈迦が言う言葉、重みが違うと感じるなら貴方は主観、感情的な人間だ。
釈迦や宗教へ執着する盲目な動物だ。
俺が言う言葉と釈迦が言う言葉、同じ本質を突いていると感じるなら客観、理性的な人間だ。 無私有他、自尊心の欠如。
有私有他、普通。
有私無他、自己愛性人格、サイコパスなど。
無私無他、ブッダ。 本質が善である人間は、悪くて偽悪家。
本質が悪である人間は、よくて偽善者。 非常に重要なことなので、流れないよう、新しいスレの方で発言させていただきます。
フェイスマッサージの基本は、顔を、下から上へと押し上げること。だから、そのように、顔の各部を、下から上へと押し上げることで、
本来の筋肉状態を取り戻せる。
さらにそれを応用すると、脳の使い方も、下から上へと意識を持つことによって、良い脳の使い方ができる。 呼吸にしても、吸う機能はまああるとして、下から上へ吐けるというのは、凄いことだと思いません? トップダウンよりもボトムアップの方がよいということか。 「私の歴史書は、過去史、現在史、未来史。この世界のビリヤードをやっているのは、この私さ。一打ちで一つ目の宇宙史、二打ちで二つ目の宇宙史、三打ちで三つ目の宇宙史、はて、今何打ち目だったかな?」〜世界史について、神。 >>7
規定的意見でしょうか、賞罰について、が、目新しさを感じる意見です。
>>8
その人の言葉による判断、PCゲームのウルティマ4のようですね。
>>9
こういう在り方こそが、悟りの一つかもしれません。
>>10
これは凄い。まさに正しいと感じます。
>>11
テヘランの死神、ググったら、一番上にこんなページが見つかりました。特に、ドストエフスキーの信念が面白いです。
https://houe.jp/souryo/%E3%80%8E%E5%A4%9C%E3%81%A8%E9%9C%A7%E3%80%8F%E3%80%80%E3%83%86%E3%83%98%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%BB%E7%A5%9E/
>>12
無罪放免、という言葉をうまく使って、一生への自由さを、述べておられるのでしょうか。
>>13
善性と悪性についての、一種真理であるような、洞察をされておられますのでしょう。
>>15
こう言ってどうかとは思うのですが、現代のキリストとも言えるような、まさに発展を得た素晴らしい人格がうかがわれると思います。
>>17
これも凄いですね、僕はかないません。
>>18
ユーモアに見せて、実はすごく深い意味がありますね。ありがとうございます。 禅スレでも私の考えを述べ、そちらにしか書かなかったりこちらにしか書かなかったりもするので、もし興味があればご覧あれ。板は同じ哲学板です。 首の後ろの付け根の骨が出っ張っているところがある人は要注意。
血液が頭まで回っていない可能性があります。
出っ張りを、「慎重に」、前や後ろ、左右に、限界まで倒すことで、血流が回復して、本来の力が出せるようになります。
もしそれを放っておくと、重篤な精神病になります。 又は、首の筋肉を意識して、「慎重に」、出来る範囲で後ろを向いて首の筋肉をストレッチして、筋肉のコリをとれば、
全ての健康問題が解決します。ガイドとしては、左右にある首の筋肉を、両方使うことがポイントです。 又は、首の骨と背骨とを、一体に見て、左右へ頸椎と背骨を倒して、首の骨と背骨の両方に、しなりが戻るように、
柔軟体操をするのである。(もちろん、「慎重に」) あなたがそれで生きようとするもの、それであなたは死ぬのである。
テヘランの死神 それで生きようとするものでかえって死に、それで死のうとするものでかえって生きる。 使命
天はあなたに、したいことではなくすべきことをすることをお求めだ。したいことではなくすべきことをせよ。仕事と趣味とある! 一本道
あなたがその道に生きるその道であなたは死ぬ。
あなたがその道に死ぬその道であなたは生きる。
矛盾していない。人は、生まれ、生きて、死ぬのだ。 「まるで昔の俺だ。(苦笑)」〜みんなについて、ブッダ。 太陽の女神、天照どの。この星地球から、悪霊を祓除致しましたぞ! 地球の四箇所に私は呪符を置き、この星から悪霊を祓除した証とした。 (善と偽悪)と(悪と偽善)の区別がつかないのは、人格がおかしい。
(善と悪)と(偽善と偽悪)の区別がつかないのは、頭が悪い。 損得を無視した善悪 バカ
善悪を無視した損得 冷酷 望まなければ得られないなら、望んでも得られない。
望めば得られるなら、望まなくとも得られる。 死ぬまでに絶対他力を悟ること、これは、絶対他力だ。
死ぬまで絶対自力を信じること、これは、絶対自力だ。 ちなみに、この他力の他は、自分も含めての他。この自力の自は、他者も含めての自。 例えば自慰行為が、様々なイメージや言葉を、良く記憶に残るのは、なぜであろうと思われるか。
それは何も、特別ではないのである。
つまり、触覚で感じるものについて、脳みそを使って考える、つまり、触覚の再生としての、触覚の考え方、捉え方、というのが、
取り戻せれば、脳の記憶に残り、自然と脳の活性化が起きて、認知能力(の内の脳内の潜在能力)が、取り戻せるのである。
触覚が最も大切である、ということは、西田幾多郎『善の研究』で述べられていることである。 心頭滅却すれば火もまた涼し
あらゆる概念は表裏一体と知ること
あるのは事実のみで
解釈としてネガティヴとポジティブ、2つの捉え方がある
それさえ解ればこの世の実体がよく分かる
陰陽太極図をただ見なさい 悪よりも善に、偽善よりも偽悪に魅力を感じるのが、善良な人間。
善よりも悪に、偽悪よりも偽善に魅力を感じるのが、邪悪な人間。 >>48
ありがとうございます。いつも元気でいらしてください。僕はいつもここに居ます。 正義の反対は異なる正義ですよ。
誰かを悪にすると、その悪は傷つく。
傷つきたくないからまた誰かを傷つける。
動物的な争いの輪が輪廻
争いを捨て理解する者は解脱
表裏一体、あらゆる概念がポジティブに裏返る世界が極楽浄土 >>50
貴方は私に有限の時間を割いてくださった。
尊いことです。
ありがとう。どうかお幸せに。 有償の愛をもって、有償の愛に応える。
無償の愛をもって、無償の愛に応える。 インプットも、アウトプットも、二段階の構造を持つ。つまり、外→中(頭)→中心という形、またはその逆だ。
インプットについては、視界、音、触覚などを、受容する気持ちを持つことが大切である。
アウトプットについては、思うということであろう。
まずは、インプットができるようにならなければならない。
ごちゃごちゃした感想は、その後だ。
独り立ちを証明するのが、アウトプットだ。 人間につくのが善で、人間以外につくのが悪。そんなの、間違ってる。 人間以外の生きものは、人間のものか?
そいつこそ、本当の悪人! >59
涅槃を目指す人は全員働かないダメ人間なんだけどね ひねくれた重り人間は、結局沈む。
素直な浮き人間は、結局浮く。 視界を病んでしまった人のために。
視野は、瞼と眼球とを同時に、中央(左右の真ん中)を意識しながら、瞼と眼球の両方を、前方に出すように力を加える、
そしてまた、後ろへ引っ込める、と回復するはずである。
瞼と眼球を、関連付けさせることが、大切である。 頭を病んでしまった人のために。
頭皮と、その直下の脳を、両方関連付けて、両方を同時に働かせると、回復するはずである。
人間は、馬鹿でもあり、天才でもある。 >>64
明確な例として、目で笑い顔を作り(必然的に目を細め)、眼球を様々に動かすのである。眼球は、左右に動かすか、ぐるぐる
回すと、効果が比較的高くなるはずである。 口内に違和感がある人のために。
口を閉じ、歯の内側で、舌を強く左右に押し付ける。
人間は、言語を話せるように進化したので、舌に関する脳は、脳の中でも、大きな割合を占めているそうである。
アインシュタインが、舌を出している写真は有名だ。
舌の感覚が思考を左右することを、知っていたかもしれないからそうしたのだと、推測ができる。
であるならば、舌を解放することによって、本当に脳に、良い刺激をかけることができると仮説が立てられる。 見える対象(PCの画面など)と、眼球を関連付けるのも、良いと思われる。 舌や唇と目を関連付けるのも良い。自然で豊かな表情になる。 これまでの戦いは、自尊心を手に入れることであった。
これからの戦いは、自尊心を失うことである。 >>72
他へ与えるかどうかで、自尊心は無くなりませんね。
攻撃された場合に、自尊心をもって逐次対応する、
そんな方が、使う力は、きっとどこか超越を視野に入れた部分があるでしょう。
自尊心を手に入れられたら、全ての自分が出来上がり、
さらに仕上げるために、失う自尊心は、他へ与えること、
平和でもあり、物事の捻じ曲げではないことでもある方である、
自分の自由のままに、真実を得ていくこと、それが本当に、
正しい態度だと思います。
観客の前で、真実の姿を、見つける、そんな栄光が身に与えられること、
そんなことが、自由さと近しいでしょう。 涅槃の到達へは我や意識など滅すことにより悟りをひらくと思うが悟りは究極の智恵の欲であり、欲を滅しない限り悟りはひらけない。どういうことか? あらゆる他者批判は自己批判でもあり、あらゆる自己批判は他者批判でもある。 >75悟りを得たいとか究極の知恵を得たいとかの目的を持って瞑想しても悟りを得ることは無い。
目的を持つことは目的を達成した自分をイメージし、それに向かって行くことになるが、
瞑想はイメージを作ってはいけない、ありのままそのままを観察することでうまくいく。 物質主義、情動的、非論理的な人間は辞めなさい。
生命の樹をよく観察するのをおすすめします。
悟れば2つの視野が生まれる。
生命の樹と呼ばれるあらゆる事象の表側を見る、世界は素晴らしいといった視野。
邪悪の樹と呼ばれるあらゆる事象の裏側を見る、世界は虚無であるといった視野。
それら思考原理を調和し、仏陀のような中庸の視野であることは、裏返せない者にとって、共感性を失った躁、虚無感からくる自死に至る危険性も孕みます。
自由と絶望も表裏一体、紙一重。 1+1=2だと知っているのに、1+1=3だと他人に言われると、「1+1=2だと思ってはいけない(実際には思う思わないの問題ではないが)、酷い目に遭わされる!」という強制自己説得で、1+1=3だと自分で自分に無理やり認めさせてきた。 俺をただマインドコントロールするだけでなく、俺にセルフマインドコントロールまでさせた。サイコパスの悪魔、DV母親!こいつ、個人と個人だけでなく、個人内部まて分割統治する。悟りを失わすという最も過酷な方法で他者を支配する。悪魔だ!!! もう、悟りを得た。もう、一生悟りを失わないぞ!
悟りを得ることだけでなく、悟りを失わないことも必要だと教えてくれたの母さんだよ!ありがとう!!!笑 悟りを得た者は、泰然自若としている。
悟りを得ていない者は、必死で論破する。 自己不当化はバカ、自己満。
自己正当化はキモい、自己愛性人格障害。 誰も対人関係から完全に離れて生きることはできない。生きる上では、対人関係的な価値であるとか、信頼の手ごたえといった
ものは、大きな目的、もっと言えば、究極の目的にもなる。
では、対人関係はどのようにするべきか。それは、舐めないことと、舐められないことである。
例えば、自分が構成に関わる小集団があったとして、派閥ができたりする。あるいは、この人は認めるが、別の人は認めないといったこと。
舐められないことは、自分に自信が持てるために、とても大事な意識だ。謝ってばかり、謙遜してばかり、縮こまってばかりでは、
恐らく悲惨な状態に陥るだろう。悪評が悪評を呼び、どんどん自分が小さくなっていく。
舐めないことは、人間の尊重である。舐めているとして、例えば暴力的にやっつけられて、勘弁してくださいなどというとき、
舐めているという状態は、「舐めてんのかテメー」などということになり、心に訴えかけることのない状態となる。
善悪と、舐めるということは、密接な関係にある。
舐めない、舐められないという合意が結ばれていれば、そこには信頼関係ができる。無用な争いにはならない。
様々な特徴を、人々は持つから、ある面を認め、別の面を認めないといった、認識になりがちである。
そこで、舐めない、舐められないという関係を持てるならば、そこにはどんなにか生産的な安心感が生まれるだろうか。
そのために、信条として、そのようなことを考えることが重要であろう。
人間関係以外にも、価値を認めるために、物事を舐めないということが大事であろう。
遠くの山並み、輝く太陽、美しい雲、水をたたえた田んぼ。こういったものが、自分に与える感動、安心を、失い、舐めてしまっているならば、
せっかくの生を、自分にとって豊かなものには、出来ないであろう。
仕事や、遊び、何であれ、舐めずに、良い点を感じることを取り戻さなければならない。
心がはまり込んでしまう間違った信条、思い込みが、個人個人を損なうことこの上ない。
人との関係では、舐めていたら、舐められていたら、戦争の発端ともなりかねない。
本当の公正さ、本当の権利とは、舐めないことで嘘をつかず、舐められないことで権利をつかみ取る、といった具合になるだろう。
知能の高さの問題ではない。どんな人間でも、出来ることなのである。 ,.ィ≦ミ三≧ミ、_
,.ィ≦三ミ=彡三ミヾヽ、
冫弐≧ミ三彡ミ三ミ彡三ミ、
,.彳彡'´  ̄`ヾ三ミ、
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{リ ≦=ミ、ノ 、_,.-=≦、 `ミ!
rvミ ‐ 、´ ,.- `´ }iL
|r、ミ 弋・フ 弋・フ ミr、ヽ
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{ バ \ 八 '';; o 冫┴、 `ァ ,; 八
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| バ _/ / / \ \ // / / 〉} j> ,,;'' // / `ー 、
| リ | / { \ // / / 〉,;; ,.;; '' / // / \ `ヽ、
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/ ―- 、 ! /ヾ\ヾ \ / // ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | ヽ
/ / / ̄ ̄ ̄ \| /、ヾ\ ヽ } 「/ | |
|/ // /ヽヽ\\ / | r‐┴- 、 | 周囲を凍りつかせることができたら、怨念の勝ちだ。
周囲が笑わせることができたら、怨念の負けだ。 今、世界で悟りを開いた人て現存してるの?いたとしたらその悟りを開いた人は悟りの状態とはどんな様なのか知りたい。 東南アジアとかスリランカの坊さんならそれなりに悟りを開いた人はいるんじゃない? 善悪に従えるが故に従う。無功
善悪に従えぬが故に従わない。無罪
善悪に従えぬのに従う。有功
善悪に従えるのに従わない。有罪 他人に罪を引き受けさせるなら、他人の罪を引き受けろ。
他人の罪を引き受けないなら、他人に罪を引き受けさせるな。 他人の功をもらうなら、自分の功も与えろ。
自分の功を与えないなら、他人の功ももらうな。 釈迦は修行し悟りを開いたらしが、仏の極致に至る教えがあったということは既に先に悟りに到達した何かがいたかではないでしょうか? 心理的に制裁なら、復讐もまた制裁。
心理的に復讐なら、制裁もまた復讐。 自力の功罪だけが功罪。他力の功罪など、功罪とは言えない。はたして、自分の功罪の者が、この世にいるかな?
運命を呪うことはできても、運命に感謝することはできない。こういう人間に、真人間は一人もいない。
全部自力でやって来た?ふ〜ん!自力で生きていけるなら、地球外でもやっていけるね!!!笑 運命を呪ってはいけないのでもなければ、運命に感謝しなければならないのでもない。呪っても感謝しなくてもいい。だが、呪うことはできるが感謝することはできないとか、感謝することはできないが呪うことはできるとか、そういうのがおかしいのだ。
不運を呪うなら、幸運に感謝しろ。
幸運に感謝しないなら、不運を呪うな。 不運を呪うなら、幸運に感謝しろ。
幸運に感謝しないなら、不運を呪うな。
その程度のこともできぬ人間に、生きている資格はない。 功を賞されたいが罪を罰せられたくないという願いを、天は聞き入れない。
罪を罰せられたくないが功を賞されたいという願いを、天は聞き入れない。
功を賞されずともよいから罪を罰せられたくないという願いならば、天は聞き入れる。
罪を罰せられていいから功を賞されたいという願いならば、天は聞き入れる。 自分と他人の間に差別愛を置かぬように、人と人以外の生きものの間に差別愛を置かず。
人と人以外の生きものの間に差別愛を置かぬように、生きものと無生物の間に差別愛を置かず。 倫理とは、愛されることではない。
倫理とは、愛することだ。 批判されたら、顔をしかめて、強い気持ちを持てばいい。闘い続けること、それが即ち、自らの意味。
闘いのない宗教などない。業があるのだから。業について、身にしみてわかっているだろう。
顔をしかめて、闘う気持ち、表現を変えれば、批判へ応えること、幸せになることは、
ぶら下がっていてはできないのだから。
クリエイトしていくのが、素晴らしい。
メッセージソング/南正人
https://www.youtube.com/watch?v=eliMAAhvgN0
躓くことはいっぱいある。でも、誰でも、悟りを得られる。
分からないことに負けないでいたい、自分は何だってわかりうるって、気付こうとすること、
顔をしかめよ、批判や、自分にはわかることができないという気持ちに負けるな。 精神的にも身体的にもまじめに生きるとき、あなたは地獄をあなたの極楽にします。それを拒むとき、あなたは極楽をあなたの地獄にします。 真実とは笑えないもの
真理とは笑えるもの
どちらも正しい 私には、誰かに都合の悪いことを暴露してやろうなんて動機はないんです。
敢て言うなら、私には、誰にでも都合の悪いこと、気づいたとしても誰も
口に出さないことを正確に記述することにしか関心がない。
四方八方に都合の悪いことを言えば、あらゆる方面から無視される。
まあ、それは当然でしょう。でも、無視できなくなった人々は、
どういう反応をするかと言えば、無節操な誹謗中傷に走るんですね、
これが。結婚すらしていない相手に対して、"Stop beating your wife!"
と怒鳴り出す。なんと弁明したらいいのかw「あなた頭大丈夫ですか?」
なんて聞いたら、火に油を注ぐだけでしょう。でも、「そんなことを
言われても困ります」とでも答えようものなら、「こいつは家庭内
暴力を振って咎められても反省しないトンデモない奴だ」と実力
行使で罰を与えようとする。まともに相手にせずに、できる限り
直接の接触を回避するのが賢明でしょう。 ゲーム理論の信奉者だとか、本質主義者だとか、ポモのなんでもありの
相対主義者だとか、非難自体になんの整合性もないw
どう反省したらいいのか? ナンセンスな批判というのは、わざとなんですよ。
批判をする役割を担わされている人間は、自分がまともに批判している
つもりで、誘導されて都合よく使われている本当に知性の欠片もない
人間だったりするから、そのナンセンスさが意図的であることが
分りづらかったりするけどね。手法として確立されている。
まともに相手にすべきではないが、まともに相手にされないことで
激怒するような人間に、批判させる役割と権威を与える。 散々人の頭に足乗っけてきて
結局は人を生きる指針にしてくるのが
ウザすぎる
頼ってんのか馬鹿にしてんのか
依存したいのか拒絶したいのか
さっぱりわからん!
吐いた唾飲みまくり そんなに馬鹿にするなら
最初から
人の言動パクったり
人の動向を気にしなきゃいいのに
ムッツリスケベなのかな
ゴキブリは嫌いでも気になるけど
ゴキブリの真似をしようとは思わない
すなわち俺は真似される影響力ある
だからゴキブリではない
良かった真似ばかりされて 行動をパクられるってある意味
愛があるのかもしれないね
よかった安心したよ 俺、善人か偽善者でいなければ、愛してもらえないって確信していたんだ。
だけど、今わかった。偽悪家でも悪人でも愛してもらえるって。 たまに自己嫌悪とかいう言葉では
到底収まりきらないほどの
自己否定 完全否定
ふいに発作のようにやってくる
自殺がすぐ目の前にある
クンダリーニ上昇
でも発狂でもいいけどさ
今はのほほんとしてる
あんとき死ななくて良かった
なんて馬鹿だったんだって
悪いけど学歴や経済力あるやつよりも
悲惨さは経験してきた
現実 という覚せい剤より恐ろしい
物質に愛を込めて
息を吹きかけて溶かそう 空観れば地に足つかず
仮観れば地を奪い合う
悟りとは中道である。
ただ悟るのみ、ただ本能のまま、傾けば調和出来ません。
誰も傷つけないよう智慧を活かし、かつ地に足をつけ、しっかりと生きなさい。 進入禁止の道路標識があるから止まるのではない。自分で確かめて、それが危険であるという判断を下し、
自らの意志で選択して止まり、引き返すのだ。
要するに、どういうことかというと、人に命令されるのは不快である。不快ではあるけれども、様子を見たところ、納得できる条件にあるだろう。
だから、怒りに任せて八つ当たりしないために、参考として聞いて、自己判断を行った後に、
自分の意志で引き返せばよい。
命令と言うのは、実に、難しく、デリケートな問題だ。
それは、在るようでも無いようでもある。悪意も善意も紙一重だ。確実にあると言えるものではないと思う。
対立の、解決方法の潜在的可能性としてあり、学びうると言えるのだ。 下界では身を借りて修行しているだけで
全ての人はお釈迦様の掌の上で踊っているだけ
そう解釈すれば少しは楽になれるかと思ったが
晴れれば太陽の光に照らされて雨が降れば濡れる
生きている実感は快・不快の感情で揺さぶられて
狼狽した末にやっとたどり着く境地で
心身が衰弱しかかる頃では遅過ぎる
今が本当に底なのか?確認する必要がある
多少マシな状況なら素直に今が幸せだと受け入れてみる
そういう自己肯定感が支えになる甘えてしまえ南無阿弥陀仏
悟りへの道は険しい テヘランの死神とともに生きること、これを悟りを得ているという。
テヘランの死神から逃げ続けること、これを悟りを失っているという。 王権は、言語に絶する壮絶な権力闘争の末に勝ち取られた。王権神授説は、誤りだ。人権もまた、然り。 俺はこの世界に、人権を確立する。天よ、それが罪なら、俺を罰しろ。 何々するやつ。
何々活して、何々するやつ。
何々活せず、何々しないやつ。
何々活だけして、何々しないやつ。 信仰が試されるのは、その一生においてである。悟りを得ればそれで終わりではない。 慈悲を得んとして偽善を為す。
偽悪を為して恨みを買う。 偽善者、人の不幸に追い討ちをかける。
偽悪家、人の幸せを応援する。 誰かを犠牲にしなければならないほど、他の誰かは尊くない。
他の誰かを犠牲にしなければならないほど、誰かは尊くない。 悟りを得た、悟りを得た、悟りをついに得た!私の信仰は証明された!!! 善良→偽悪を以って悪を制し、善を以って偽善を制す。
邪悪→悪を以って偽悪を制し、偽善を以って善を制す。 ありがとよ、オカマちゃん!だが、好意はありがてえが、悪いが俺は同性愛者じゃねえんだ。他を当たってくれ。 差別愛が大きいほど、良くも悪くも過激化する。
差別愛が小さいほど、良くも悪くも穏健化する。 光のみでは闇は見えず。
闇のみでは光は差さず。
お互いが支え合う一対と理解すべし。
悟りの境地とは一度地獄に堕ちる必要性がある。
蜘蛛の糸で以って反転すれば理解と愛に溢れる。 神頼みで生きるのか、それによって救われるのか
救われたとしても一時だけで持続性に欠ける
心のスタミナは長い修行の末にやっと身に付く
焦り過ぎなのかもしれないが時間が足りない
人間を2回やるくらい汗をかいて努力すれば
自然と運が向いてきてタイミングが揃う
神頼みはすべての条件が揃った時に消滅している 家畜エリートを選抜して、優位な立場になるように技能を
身に付けさせてあげれば、畜群をうまく導いてくれるでしょう。 最良の選択なんていうものはないし、それにしがみついたって仕方がない。最良が何かという基準なんて、人間は持っていない。
選択を誤ってしまったなら、それが現実だ。何かの原理を突き付けるなんてことに必死になっていたら、
実際の時間がすり減り、不自然と不満だらけの、みすぼらしい心が残るだけ。
最良の選択をうろうろと考えることこそ、死に対して、自らが生きることをもって、死を否定することを、できなくさせる。
死に従えられない人間の方が、死に従っている人間より、ずっと人間らしい。
人間らしさが、仏への道の、メルクマール。思い悩まなければ、良い生き方ができる。自分の孤独を、絶対と思うな。
自分には、ちゃんとした生命があった、そう思っている、感じている、死者は生まれない。
そういうことこそ、最良の道を探すような愚かなことでは、ないことだ。
全ての道は、道という概念から外れない。だから、思考の道のりは、個人を越えて自己を他者へ開く。
死の扉は開かれ、生と死が踊っている、新しい世界の、涅槃が見えている。
死は心の中に存在して、心を悟ることで、死を心が越える。
つまり、生涯が、特別なものを作ろうと、あがく心のためではなく、ただ自分が、受けたものから、自然に、思われること、
即ち、作為のないプラスのつながった数珠が、過去から未来を教える形となる。 怨念を、相手を損させることではなく自分が得する方向に使う。これぐらい酷い復讐はない!笑笑笑笑
ごめんね!幸せになっちゃって!!!笑 人間と人間以外の生きものが別なら、犬と犬以外の生きものも別だろう。 KKKを批判する在特会みたいな、自分を棚に上げた批判には、不思議と怒りを感じない。
感じるのは、その知性の低さに対する憐れみと、自分はこういう恥知らずなことが平気でできる自己愛性人格でなくて良かったという、運命への感謝だけだ。 生きるために堕落するならば、死んででも向上したい。 精神年齢は、一歳から四歳までの、四通り。
一歳、自分が自分以外かで区別する。
二歳、人か人以外かで区別する。
三歳、生きものか無生物かで区別する。
四歳、生きものか無生物かでも区別しない。 精神年齢、四通り。
一歳、自分か自分以外かで区別する。
二歳、人か人以外かで区別する。
三歳、生きものか無生物かで区別する。
四歳、生きものか無生物かでも区別しない。 精神年齢4歳だと
崖から石を投げる
「わあ、飛んで行った。面白い」
崖から人を突き落とす
「叫び声上げなら落ちていった。面白い」
もっと年齢上げた方がよくないか? 死を避けるどころかむしろ味方につけることで、死を恐れる者たちが自ら道を空ける。 顎の下、つまり首へつながる部分の周辺を、指でつねると、筋肉の緊張が取れるよ!痛いけど。
鎖骨の周りや、わきの下なども、つねるといいよ。 聞くことと見ることを同時にすることができる。さらにそれと同時に、呼吸をすることと考えるということもできる。 例えば、目を動かしながら、呼吸をして、同時に考えることが、できる。 様々にある不安の中でも、死の不安は大きい。死の不安を解剖してみると、それは、何らかのやり残したこと、また、自分のコントロール下
にないこと、それらへの得体の知れなさが、不安として現れるであろう。
では、不安をなくすにはどうしよう。それは、考えをめぐらすことによる。つまり、例えば時間でいえば、1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12……等と、
順番に考え、それについて把握すれば、全ての時間を知ったことになる。また、身体でいえば、五体、さらに、内臓(肝臓、心臓、肺、
腎臓、大腸、小腸、膀胱、脳、眼球など)の全てを意識して考えにより把握すれば、身体についても知っていることになる。
そのほか、対人関係、経済的要因などにより、不安が引き起こされるが、不安と言うのは、常に、考えることができないことから、
生じるのであり、しっかりと、自らの知るべきことを全て一度把握してみれば、全てがすでに経験として持ったことであり、
自分に理解の及ばないことは、すでにないのであり、それはつまり、やり残したことがなく、迎える体験も、無知においてではなく、
既知のものとして、恐れる必要がなくなり、それが即ち、存在即経験といった風に、表裏がなくなった状態にあり、
何も恐れることはないのである。 考えと言うのは、このように、不安と表裏一体であり、不可能と可能というものの関係としてとらえられる。また、関係的を捉えるだけでなく、
実際に思考して、全ての不安を把握するということが、根本的に重要であり、なかなか習慣として気づきにくいこと、忘れてしまいやすい
ことである。忘れることの不安、忘れられてしまう不安というのも、当然ながら、表裏であり、双方が、繋がっていることにおいて、
言葉の上だけからは、推測しにくい。だが、何かを自分が損なってしまうのではないかという、忘れる不安と、
不安ゆえにより失うことを恐れる忘れられる不安というものがあるのであるから、経験即存在、存在即経験という形で、
不安を解消することに、気付くことは、その言葉通りに示されることであり、知や経験の本質なのである。
このようにして、存在と経験が、決して非人間的な無慈悲なものではなく、生命が必ず味方としてあるということを頼り、
自らを安心させるならば、そのことが悟りとして、経験することなのであると思われる。 行きて、汝の欲することをなせ。あなたの罪は、許された。 天は、自力の者に他力を与え、他力の者から自力を奪う。 精神年齢は、四段階ある。
一歳、有私無他。自己愛性人格障害
二歳、有私有他。普通の人
三歳、無私有他。修行者
四歳、無私無他。悟りを開きし者 精神年齢は、四段階ある。
一歳、有己無他。自己愛性人格障害
二歳、有己有他。普通の人
三歳、無己有他。修行者
四歳、無己無他。悟りを開きし者 自己愛性人格障害
自功自功
他功自功
自罪他罪
他罪他罪
普通の人
自功自功
他功他功
自罪自罪
他罪他罪
修行者
自功他功
他功他功
自罪自罪
他罪自罪
悟りを開きし者
自功他功
他功他功
自罪他罪
他罪他罪 今すぐ変えらえれなくても、未来のいつかで、変えると思い、未来の、自分の手で変えられるところは、あるのだと考えること、
これが、今に絶望しないこと、また、自分の力や責任を過小評価しないことであり、大切である。 つまり、人の話を聞かないのではなく、現在は不可能であるという事実を、わきまえて、未来においては実行にやぶさかではない
という、自分の現在を重要視しすぎないことが、長いスパンで物事をとらえることであり、可能性の本来である。
余りに現在を完ぺきにこなすのは、心身の能力を超えてしまうとき、むしろ改善意志が、パンクしてしまうかもしれないので、
100をするのではなく、50くらいで押さえておき、それでも全く耳をふさいでいるのではないと、自分で分かっていれば、
自と他、現在と未来に対して、新しいものを受け入れる余地が残されるためには、むしろ現在に100を求めるより、
ずっと継続性があって、良い能力と責任の使い方なのであると思われる。 他からは、現在にも未来にも責任を求められるのであろう。自分で自分の未来を予測するのは難しい。だから、わからないけど、
わきまえておくという所信表明を、することで、わからない未来を、他と自のために割くこと、そして、わからないからこそ考えうるし、
変えられるということを、自分では思うのだと、考えられるだろう。現在にしか能力はないと思ってしまって、全ての現在を、
自分の能力の限界まで使う、そのことで許されると思うのがおかしい。なぜなら、自分とは、未来がなければ、何の能力も
ないのと同じであるからだ。だから、約束したり、展望を開いたり、自分の習慣を変えたり、わからない他人の要求に
憤慨したりすることで、未来を見据えることになる。責任の取り方、未来の開き方も、全ては、未知に基づくのである。
未知を引き受け、未知を使えるようになることが、自に求められるべきことであり、経験的に仕組みとしてある、
普通の引責事項、普通のこなしかたとしてあるべきことである。 愛情飢餓を利用する人へ、
愛情飢餓を利用してはいけない! 誘導するには、孤立させて、不当な非難を徹底的に繰り返せばいいだけ
追い詰められれば、必ず自分の言い分も聞いてくれるように見える親切な人を頼りにする ×追い詰められれば、必ず ○追い詰められれば必ず、 マイケル・ジャクソン
we are the world 人類はありもしない自分と他人の境界を幻視して殺し合う塵 煩悩よくないみたいに言われるけど、生きるために必要だからあるので、煩悩なかったら死んじゃう、もしくは非常に生きにくくなるよ 解脱した人は大体長生きだからそんなことは無いだろう 勝ちにこだわらず、勝ちにこだわらぬことにこだわらず。 勝つことにこだわらず、勝つことにこだわらぬことにこだわらず。 大事なものは、大事。
大事じゃないものは、大事じゃない。 カサンドラ症候群は、幼児にわかってもらえないと嘆く保育士。頭がいいどころか、むしろ極めて頭が悪い。 天才ゆえの孤独を受け入れられずに、何がカサンドラだ!人類が滅んで言葉を話せない動物しか相手がいない?それが嫌なら死ねばいい! 自分の一生から、目を背けず。
過去も現在も未来も自分 生まれてからこれまでの私も、今の私も、これから死ぬまでの私も、私なのだ。 「地球に住むなら、地球に適応しなさい。それが無理なら出て行きなさい!」〜地球について、グレートリバー=麗しの星地球=タカノリ。 1: こ こ 無 職 し か い な い ね (188)
2: 時間とは何か、28 (390)
3: 悟りに近づくために11 (206)
4: ブロックチェーンと哲学 その1 (213)
5: 無 職 な 哲 学 (148)
6: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (139)
7: ★★★ 働かないおじさん 集まれ!! ★★★ [無断転載禁止]©2ch.net (575) 過去現在未来の幸福自慢も不幸自慢も、誰も全く興味なし。 あなたになど、誰も何の興味もない。
それが罪なら、自分は他者に何の興味も持たずして、
そのくせ他者には自分にありったけの興味を持てなどと虫がいいことを言うあなたは、一体どれほどの罪になってしまうのか?恐ろしいことである。 過去は、生まれる前。
現在は、生きている間。
未来は、死んだ後。 弱さのエネルギーは負の優しさのエネルギーであり、正の優しさのエネルギーに変換できる。
酷さのエネルギーは負の強さのエネルギーであり、正の強さのエネルギーに変換できる。 無己愛無他愛
無己愛有他愛
有己愛有他愛
有己愛無他愛 一喜一憂して傲慢になったり卑屈になる。こういう躁鬱は、一生を棒に振る。 「地球なら、どこまで行っても俺がひきこもる揺りかごさ。」
ヒッキー板より。 できないことはできないと認め、素直にできませんと言いなさい。 するしないを以ってされるされないを制し、
させるさせないを以ってさせられるさせられないを制す。 名判官とは、自分自身も含めて誰も特別扱いしない人のことを言うのでしょう。こういう人のことを、清らかな人というのでしょう。
その、情け容赦なく冷酷な平等愛を、慈悲と言うのでしょう。これこそが、本当の愛なのでしょうね。
それは、真に自己愛から解脱した愛ですから。差別愛の根っこには、自己愛があると思います。 自己責任型→他者責任を追加
他者責任型→自己責任を追加
自他責任型→完成
無責任型→自己責任と他者責任を追加 人は記憶を言語で残す。その記憶が存在しているから命の存在を確かに記す。他人とは分かりあいたかった。
そんな残念も心に残されるものを言語化して残せる。実存と言われるものに近いか。可変性と絶対性の両方と向き合える。
死んだ後に残るものへの思いが、個人に唯一残された神との一体化か。残っている現実は、個人にはちょうど十分。
言葉で残されたものを現す行為と思いをきちんと残す実存として自覚を持つことが出来たら。 三世自他責任
生まれる前から自他責任
生きてる間は自他責任
死んだ後も自他責任
三世
過去 生まれる前
現在 生きている間
未来 死んだ後 私個人としては、唯物決定論が正しいと考えております。 お腹が空くからメシを食う。喉が乾くから水を飲む。これも、自然現象ですから。 生きてりゃそのうち死ぬさ。生まれたんだから死ぬだろそりゃ。 考えるとは、沢山の脳意識、意味、感覚などをもって、それをネットのように、一つの方向へまとめ上げる作用、行為である。時間なども
そういったものの一つである(沢山の抽象的な思考を、脳で、一つの方向へ向かわせる=時間感)。表情理解なども方向付けである。
水の流れを観察するといったことが、大きな喜びである。水の流れを、再現すること、つまり、水が流れていく様子、せき止められて、
しぶきをあげる様子、渦を巻く様子などを再現することが、頭を使う上で、大きな基本であり、また応用にもなる。
世界の多くの法則が、水の中に現れているから、人間にとっての認知は、水のように自由闊達なものに、集約される。
荒ぶる力、静まり返ったゆっくりした流れ、多様な場所ごとの様子を、同時に見ること、些細な川の様子でも、実に
複雑な要素を、一度に観察できる、想像できる。水のダイナミックな様には、落ち着きや、満足を感じるものである、という感触を
うける。
何も、どん底からの復活を、成し遂げようとすることの、邪魔をしようとするものは、少ない。水ならば、ぶつかっても避けて、
新たな流れとして、押しとどめられないのであり、水のように柔軟なものは、大きな知恵を含んでいる。
それは、過去から存在している魔法のようなものに近い。 日本という国は、国全体が一つのムラであるムラ社会のようなもの。
私はかつてその息苦しさや意地の悪さを憎んだものだが、今はその素朴さバカさに、憐れみと愛おしささえも感じるほどなのだ。 日本人は、田舎者だ。日本は、田舎だ。富裕な国と言われているが、その文化は田舎の文化。極めて未発達な、素朴で愚かな田舎の文化。この国は、田舎者の国よ。 存在の最低の働きとして、主観的なもの、時間とのかかわり方というものがあると思う。自分が思うべきところを、現在として考え、
過去を考えることも、考えている今という真実は、忘れてはいけない。自分が止まることのない時間の中で、うまく生きていく、
考えていくということが、大切だ。今において、頭を働かせること、まとめ上げる作用を感覚することが、
麻痺した脳ではないということ、少しづつ、失った思考を取り戻し、今より以上の思考から、考えることから、逃げ出してしまう
ということを、克服すること、本当にするべきことを、見つけ、身につけること、こういったことが、世界の真理、人間の真理である。
それは、普通の人が普通にやっていることでもあるが、なくしたものは、取り返さなければもとにもどらない。
世界と自分は、与え与えられる関係にある。自分は世界から恩恵を受ける、世界が法則に従って、世界の法則を、
常に自分に与える、私は世界を知ろうとする、世界は逃げないで、ただ私の与えようとするものについて、応ずる。
私は時間を考えることで、世界の中に、秩序を作る。
時間というものから離れた自分というものは、存在しない。
人間という性質から課される、最低限の束縛というものは、言語的思考によって、また論理的な思考によって、引き受けることができる。
いずれにせよ、自分の通ってきた道は、論理的に、順序付けられる。その順序付けが重要なのは、思惟する力を、
過ちを無いものにしようとするように逃げることを、否定するためだ。自分から、何らかの過ちを犯したことから、逃げること、
それでは、自分は考え次第で、どのようにでもなるから、集団としての社会を作り、生きることが、できなくなる(社会の構成要件)。
だから、過ちに対しては、責められるならば、甘んじて受けなければならない。それが、他者への意志である。
他者抜きでは、自分というものの、存在が、向上することもないだろう。そういった、誤りをごまかさないで得られる
個人の心というものが、僧団という形での真理至上の存在によって、掲げられる理想の、現実的形態として、
追求することもできる。真理への開かれという点で、全てのものが、悟りということを、心にもつことにより、
矛盾に対抗するとして、真に否定できないものとしての、あらゆる絶対なのである。 自分という意識の牢獄から抜け出ることができるか。
突然の解脱は、決して訪れない。自分の意識は、牢獄の中から抜けられない。
閉じ込められた自分の一生。
他者の気持ちにこたえられない。それも、自分の牢獄から抜けられないことの、一つの表れだ。
では、どうすればいいのか。
少なくとも、現在の自分の気持ちの、裏を考えることはできる。一つの意味に、その反対は、常に自分の中について回る。
であるから、その裏を考えることは、補完された意識を得ることになるから、目を背けないこと、自分の空間の確保である。
他者との断絶を、どのように考えるかは、自分の解脱(牢獄からの脱出)の含む系の問題である。
他者の要望に応えられないことは、なぜそんなにも苦しいかというと、それは、自分が自分の牢獄から、出られないということ
の中で、死の不安と焦りを、感じること、すなわち自分の有限さに耐えられないことだからだ。
牢獄から出た自由な関係を目指し、真に自分以外とのつながりの回復した経験の総体が、全ての可能性と等しくなること、
そうなることができたら、死は何も無限の喪失ではなく、単純な終わりでしかないのであり、何一つとして自己を損なうことのない、
大したことのない悩みの一つでしかないと思えるのではないかと考える。
裏への意識を持つならば、自分の不自然さ、不安の一つの決まりを超えることができる。
その末に、生きることと死ぬことが、障害とならないように、何らかの共有意識が、つまり、自然としての自分という制約からのがれ、
生命というものの本質を、生きることができれば、それは、新たな意識として現れ、牢獄から出られない意識が、一体どんな
ことを望み、繋がりうるのかという真の目的、知見を得ることができるようになると思う。 >>241
訂正 六行目
×常に自分の中について回る
〇常について回っている 注意にいるためには
決定的な不注意に気付くことである
しまった!とか失敗した!
そういうショックが
自己の牢獄を抜け出す鍵に
なる気がする >>244
ショックですね。少し脱線しますが、電気ショック療法というのもあります。カバーできる範囲を広げるために、
意識にショックを与える、あるいは自分の思い込みを自分で解除する、といったことが出来ればいいでしょう。
突然の行き当たり。裏と表の間をつなげられれば、全てを知ったことになるかもしれません。
自分で築いてしまった壁ならば、自分がまずそれを取り扱いうる。また、素晴らしい人が、壁の存在に気づいて、
何らかの助けをくれるようなことだって、ないとは限りません。その意味では、自分も他者も、同じような問題を、
抱えているということがあると思うし、呼びかけに答えることは、無駄に終わることは、決してないだろうと、思います。 刀を脇に刺して
いつでも自害できる覚悟を持つ
そういう覚悟を常に持っていれば
ノーパンで冷やし中華
とかそういうくだらないことは
思いつかなくなるだろう やっぱり人間は
自分で自分を許さないってのが
デカイと思う
他人以上に自分で自分を一番許さない
悪意のある やっぱり人間は
自分で自分を許さないってのが
デカイと思う
他人以上に自分で自分を一番許さない
悪意のある 西暦以降
日本人がここまで哲学を真剣にやったのも
初めてでしょう
西洋哲学以上のものを日本人が産み出せると
私は信じています 適応すべき共同体に適応しなさい、適応せざるべき共同体にではなく。
入る共同体を選ぶこともまた、一つのコミュニケーション力ですぞ? 性格の悪さは、差別された者が差別の解消を求めるために手段を選ばなくなるときに発するものなのだろう。 彼らがほしいのは、尊厳だ!それを与えず、あまつさえ奪うようなことをすれば、その怨念は完成される。純粋な悪意とは、まさにこれだ。 奪われれば減るが、奪っても増えない。
与えられれば増えるが、与えても減らない。
それが、尊厳さ! 報復しようとすること自体が利用される
闘牛場の闘牛のようなものだ
因果応報を実現するには、相手に復讐しようとするのでも、
相手を罠にかけようとするのでもなく、相手の行いが
そのまま本人に戻るようにする無為が必要となる 道 楽男(みち らくお)
彼は、身を固めるとか、苦心して出世栄達するなどということは一切せず、ただひたすら、一生を遊び暮らすことに費やした。
その生き様は、後世、世界のニートの誉れと呼ばれた。 無償で愛されたければ、無償で愛せ。無償の愛にすら無償の愛が帰って来るとは限らないのに、有償の愛に無償の愛が返って来ると考えるなど、性善説にもほどがある! かまってちゃんを無視できないのもかまってちゃんです。 アンチテーゼを述べる者どもを叩き潰したところで、あなたは決してジンテーゼを手にすることはできない。あなたはそのことすらわからずに、一生を終えるのか? 悪意を持ってはいないが、善意も持っていない。そういう人は、生きていちゃいけないんでしょうかね?
私はそういうことを言う人が善人とはとても思えません。 もののけ姫は善人ではないよ、やってること人間と同じだもん。だけどね、もののけ姫を悪人呼ばわりはできないでしょ? もののけ姫と戦うなら、自己正当化せずに開き直って悪人の自覚持って戦いな?エボシみたいにね。
バカ言ってんじゃないよ。モロに笑われるのもわかる。子供だって笑ってんの、モロは! 生きてる間に死ぬって、楽なもんだよ。死んでも死に切れないとか、まずないからね。世の中に、何の意味もなくなるの。本当に楽なもんさ。 前進することだけ考えて、後退しないことを考えない。こういう人間は、何度もぶり返す。 子どもが運転ごっこをするためのおもちゃのハンドルがついたベビーカーで運転ごっこをしている子どもたちがいる。これがごっこ遊びだとわかっている普通の子どもたちをブッダと呼び、自分が運転していると確信しているちょっぴりおバカな子どもたちを凡夫と呼ぶ。 善人すらなほよく往生す、いわんや、悪人をや。
阿弥陀仏の愛は無償の愛、その愛が有償である善人ですら即身成仏に至れるなら、ましてその愛が無償である悪人ならばなおさら即身成仏できるはずだ。
阿弥陀仏は寛容なので、有償の愛の者にですら悟りを与えてくださる。まして、無償の愛の者に悟りを与えてくれぬはずがなかろう。 釈迦は七人目の仏になったが次の仏はいつ出るのだろうか? だから釈迦の入滅後56億7000万年後だろ。
それから釈迦牟尼佛は八番目の仏ではないか? 善を為そうとするのではなく、
無為によって因果応報が実現されるよう、
日々、自らの行ひを改めて平衡に向かふことが善行となる 学術ここ
おかしいんじゃねえか?
___
/⊃/ \⊂ニ\
. / ミ)/ = = ヽ( ミ |
|-イ | 、_ 、_ | Y |
∧ |∧(●) (●) | | ∧
| V | 〔 6)/|ノ |
| ヽ ヽニフ イ. | |
| L>、_ /|_/ |
ヽ / | ヽ / // ノ
V | ヽ/ / /
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/ヽ_{ニ只ニ}__ノ \
( ̄ ̄⌒) /⌒ヽ_∧
|  ̄ ̄ ̄ ̄ ___ノ |
\___/>、 /
ハ _
___ ‖ヾ ハ
/ ヽ ‖::::|l ‖:||.
/ 聞 え | ||:::::::|| ||:::||
| こ ? | |{:::::‖. . .||:::||
| え | _」ゝ/'--―- 、|{::ノ!
| な 何 | / __ `'〈
| い ? ! /´ /´ ● __ ヽ
ヽ / / ゝ....ノ /´● i
` ー―< { ゝ- ′ |
厶-― r l> |
∠ヽ ゝ-― `r-ト、_,) |
レ^ヾ ヽ>' ̄ LL/ 、 /
.l ヾ:ヽ ` 、_ \\ '
l ヾ:ヽ ト`ー-r-;;y‐T^
| ヾ `ニニ「〈〉フ /‖. j
己の振舞ひの効果がきんちんと本人に還るようにしてあげることが、
本当の慈悲というものでしょう。 >273
これは良い例え
でも世の中の99.99%以上の人が自分が運転していると確信してしまうのは、
世の中の99.99%以上の人がちょっぴりおバカなせいなのだろうか? 強くなれ、優しさを失わずに。
優しくなれ、強さを失わずに。 統治者が下衆を使って仕掛けるいじめやいやがらせは、統治者が
保護してやるべき弱者を虐げる勢力者に対する報復行為として
あらかじめ正当化されるように見える必要があり、相手が降伏
して服従の意思を示してきたなら、統治者は寛大さを演出して、
相手が自発的に多大な恩義を負っていると感じさせることが賢明である。 瞑想とは何か
命の真ん中である
前生涯を振り返るのと似てる
そういう時間があるようでない 死ぬことを、生はごまかせない。死を克服するには、与えることであろう。生の途絶は、自己の途絶であり、与えることで自己の外へ立てる。
それは、認識の更新だ。与えると言っても、色んな動機に基づくわけで、その背後にいかなるものがうごめき、いかなる感情が自己の
超越を、もたらしてくれるかは、わからないと思うが、だからといって、後ろ向きでなければ人へ伝えられないというわけではないだろう。
自己の、感情は、生命の実体に還元されないという点で、神のものといえるだろう。ごまかすことを、神は望まないはずだ。
視界を開き、死や他者に期待することだ。そうすることで、自我の不安が癒され、不安がクリアされるだろう。
生がクリアになって、生の本分への透視が可能になる。すると、覆いが外されて、完全なものが見えるだろう。 善と悪と偽悪と偽善、合わせてヤハウェ、南無。お仏壇の長谷川(泰三)。 僕の考える永遠とは、過去と未来と現在を、すべて同時に(三相の同時とは、僕においてと、でも言うべきか)、また、脳の全てを
同時に考えようとすることで、得られる感覚だ。それは恐らく、何らかの足を引っ張っているものを、消去することができるところに、
その意義があるのであろうと思う。自分においては、何も、ほかの数十億の人間と比べても、思考的には、負けることの
ないものとして、感じられるように思っている。それは、実用的でもあるが、実用の周辺にある理想が、自己の感覚を、
絶対的に守り、育てることにもなる。そして、武力の面でいえば、ペンによって戦いうるところに、その理想の力はある。
そういう感覚は、言葉のとおりであるが、その言葉も、翻訳語としてまずあったところに、現在の日本にいる限りは、
理解に大変な苦労があるのである。したがって、頭の足を引っ張っているものが、無になって、自分の感覚は、
永遠の充実を味わえるものとなり、自分を置き去りにする信仰などではなく、実際に、人に対してもまた、脅かされることのない、
一つの主張的感覚となって、永遠の中にいる感覚を得られるのであって、その末には、実体としてと言えるほどに、
強く感じられる世界、また記憶であるのであり、その感覚は、大変に身が軽く、頭が軽くなるようなのである。
僕は、おびえることなく、主張できる、持っていられる、誰もが持ちうる、感覚なのであると思った。
上の文をまとめると、二点になる。
一つ目の眼目はこうである。過去を忘れてしまうのは賢くなく、未来がないと嘆くことは他の時間の支え助けで克服できる、
現在はそれらの全く全部が、集まり、そして可変性に身を開くことができる。
二つ目はこうである。脳の使い方の偏りを正す。ここでも「同時」がキーである。
以上考えられる限りのかみ砕きを、永遠感覚において行った。 他人の目がなければ、自分をコントロールできない。こういう心が弱い人間のために、罰があるのさ! 自分の心を取り戻し、それを一生失わない。これを、幸せと言う。 ゴキブリは何億年も前から地球に存在してるからテレパシーがまだあるのだろう
だから人が弱っている時に登場する
それが忌み嫌われる理由だろう もしあと100年しか生きられないとしたら、あなたはどうしますか? タイプミスで「ぎえ」と打ったら∀と入力されたから、
「なんでだろう?」と思ったんだけど、ちょっと考えてみたら、
これ「ぎゃくA」の短縮なんだな 私は、犠牲当然の風潮を無くした。反犠牲当然主義の偉大な領導者である。 出る杭は打たれ、出ない杭も打たれ、存在する杭は打たれる。それならば、存在しない以外に杭が打たれない方法はない。
さあ杭よ、朽ちて土に還るがよい! >>320
貴女のガンは治った。さあ、家に帰り仕事に戻りなさい。 まず人間は杭ではないので
出ようが出まいが
潰されない
潰されるなら戦えばいい
刺せばいい 出る杭は打たれるかもしれないけど
人間は杭ではない
有機生命体である 愛は万能薬と言えども、それを手に入れられるのは極一部。
さあ、受け取りなさい。ここに無限の愛があるから。
愛について、三屋佐古。 この幸せのメールを受け取ったあなたには、もれなく幸せが訪れます。好きなようにしてください。 ある功を賞されることもない罪を罰せられないことも求めませぬ。まして、ない功を賞されることやある罪を罰せられないことはなおさら求めませぬ。 眼球にせよ、脳にせよ、手にせよ、足にせよ、右と左を同時に意識することが大事。音やイメージを頭の中で作る時も感情を感じる時も、
右と左を同時に意識せよ。右と左で同じものを作り上げ、二重に働かせるのである。二つあるというのは、そう言うことだ。
二つあるから、中心のようなものが得られ、立体に、ステレオになり、自己のオリジナルを作り上げるのに、働きが大きいのである。
オリジナルな意識(自分が消されずに、自分自身の創造性の元となって、不安を解消するもの)が、いつでもいつからでも
持てるということに、人間の救いがある。 一生、健常者。
「あなたが一生健常者でいる権利を、私が保証します。」byブッダ もしそうするなら、終生補償しなければならないのです。 全身の関節、肘や肩や、首、足首、脚の付け根などの骨を、回転させたりして、自由に動かせば、全身の不調が治る。
特に肘などは、日頃回転させることは少ないので、周辺に疲労がたまりやすい。それらの関節の使い方こそ、
運動の場合に、問題となる箇所で、骨を動かさずに何かを動かすことは、あまりないはずだ。その例外は、
眼筋や、舌の筋肉などの、顔周囲の筋肉である。顔の周囲の筋肉については、また別の扱い方の、コツがある
であろうが、今問題としているのは、身体の骨の関節を使う、可動域を広げるということである。
癒着して動きづらくなった関節のままでは、どこかにしわ寄せがくるだろう。それを癒すためには、
肘などの関節の可動域、特に回転の力を使用するのが良いだろう。何のコツもいらない運動なので、気軽に行うことができて、
疲労、労力も少ない。 成仏した人に、成仏していない亡霊は取り憑きません。 私は、一生何をしても何もしなくても考え得る最悪のありとあらゆる迫害と罵詈を受け続けるであろう。 障害者を差別してはいけない?笑える。障害者を差別するなと言ったその口で障害者差別発言をする節操のなさは、怒りよりも滑稽さを感じる。 これでいいのだ、生まれたことが間違いなのだ私は、そして、生きていること死なないでいることは、さらなる間違いなのだ私は。 いいんだと思う。私が生まれたこと、生きていること、死なないでいることは、間違いなのだから、批判されて然るべきだ。 人から愛されなければならない嫌われちゃいけない教を、棄教した。 人から愛されなければならない嫌われちゃいけない教に、生涯再改宗しないことを誓う。 偽善者、悪人はもれなく全員ザコ。
強い者は、善人か偽悪家。 この世界は、ユートピアでなし、ディストピアでなし。なんぞそれを、悟らざる? 論理は、ある程度役に立つ。特に、倫理的な面において。
例えば、死にたいという人がいるけどどう思う、ということに答える場合、
@死ねばいいA死んではいけないB好きにすればいい
と三つの答えが可能だ。
実際には、それらが、人や社会をどれほど良くするか、という面では、よくわからないにしても、
その問いと答えに対して、その可能性を、三つに限定して、浮かび上がらせ、考えとしては、当事者にとって、
問題を「論理的に」考えるということは、障害を排除することになり、少なくとも「時間」の節約にはなる。
そして、答えに戸惑うことというのは、ほぼすべて、時間の問題となる。
だから、時間を節約し、感情をなだめて、自立的な答えを決めうるという点において、論理は、大変に倫理問題に対して、
力強いものである。それらは、自動機械的な惰性ではなく、自分の外の考えとつながれるという点で、
自分以上に自分が答えるという、良いきっかけになるだろう。
そして、考えることが大切であり、考えないことが意志を損なうということになると思えば、
いかにして考えるかということの、習うべきものが、そこにある。
そういうことを考えていけば、全ての間違いが、やり直し可能であって、どんなに自分自身がひどい人だと思っていても、
そこから回復することも可能であるだろう。
自らの選択肢に対しての、偏りというものは、個人とその可能性を狭めていることにほかならず、ある立場を頑迷に持つのではなく、
可能性の全てを、選択肢に入れて、そのうえで選びうる、ということは、心の苦しさと、自分の非道さ、惨めさを、乗り越えることになる。
そうして、誰にとっても、争いや、誹謗中傷、あるいは騙し、力尽きること、無念といったことを、なくすことが良いに違いないので、
より大きな気持ちを持てるように、また時間を無駄に、何度も振り返って、自己内で終わってしまうことのないように、論理的には
どうであるかと考えることによって、賛成意見多数という一時的なまやかしを乗り越えることが、可能になることであって、それこそが、
ある人の考え方の成長と呼べるようなものではないであろうか。 人は死ねば仏となる、かや。
人は死ねばゴミとなる。伊藤検事。
検事の公案である。 成仏させる 成仏させられる わけで、 死ねば となる は他者の幸せや宗派の対立、圧力を考えない。 感情とはいかなる趣を持つべきか。
ある自然などの中で、自分が自然と一体化して、ある感情を預けるに足るとすることがあるだろう。
そうした場合、安心して、ある感情に浸ることができる。
それ以上に感情が、満たされることを積極的に考えるとどうなるか。
文学、小説などを読むとき、一定の意味が書いてあり、自分のある感情を託することができるならば、それは良い文学であろう。
在る感情、怒り、悲しみ、楽しさ、喜び、静けさなどを、現実化すると、実に心地よい感覚がするのである。
それは、ある偶然的な自然の、人間意識による、感覚の仕方の開発の一部だ。
感情は正しいもので、抑圧されるべきものではない。
愛の感覚を、あるいは、理想を、かけることを抜いては、人間的な生の区分を超えて生きてよかったということにはならない。
つねに、自分の理想を、現実化することに、人間の理想がある。
そのような、限りある自己の、全体の中において惹起された理想の、実現失くしては、生きている意味が薄い。
後ろめたい自分ではなく、消耗が少ない現実を持つことが、人間の喜びである。
それは決して、他人に合わせることではなく、ただ自分だけが持っている感情の、行き方なのである。
つねに、不満足を乗り越えようと始めるならば、まず感情の実現から始めてみるのがいいであろう。
人間の程度ではなく、程度を越えたところの、小さくても美しい色を持った花が咲くように連続的な意味を感覚するならば、
それを味わうならば、腹も満たされ、生きていることが、攻撃されないのである。
世に攻撃が多いとしても、それの持つ何らかの意味が、死後まで持っていきたいようなものであるとは、思わないであろう。
トルストイを読んだわけではないが、戦争と平和のどちらであるかと言えば、平和の方がいいと思えるのは、争いのなかに、
見過ごされることが多く、平和の中でもっと重要で地道な意味を、自己の中で持つことが、始まりと終わりであるからだろう。
感情をかけるだけの理想を、個人は持てるかどうか、そんな実践において、悟りの意味も、充実されてくるように思う。
ここで、悟りについて、ある制限を加えた。それは、悟りをただ絶対として取り出すのを諦め、ほかの意味との連関が必要であると
思ったからである。 過去は過去
未来は未来
今は今
古今東西
老若男女 他人を生け贄にするときは生け贄は正しいといい、自分が生け贄になるときは生け贄は間違っているという。こういう腐った精神と狂った頭こそ、諸悪の根源だ。 年齢とは。
自分が、子どもっぽい可能性はある。しかし、社会ではひとくくりにされる。そこで、社会的な人間としては、うまくやれているかどうか
ということを、求められる。だが、僕は、実際には子供っぽい。大人になるには、経験を積まなければならない。スキルが、
年齢とイコールなのではなく、感情を含めた、キャラクターという、自己のアイデンティティがどうであるかという問題である。
精神の年齢が、実年齢とイコールでないとき、精神の年齢に従った経験の積み方をしなければ、全く経験が、おかしなものに
なってしまう。もちろん、発達においては、全ての面で等しい発達を遂げることは難しく、幼いところも、賢いところも、あるわけである。
個人の現れが、一律になってしまったとき、それについていくということをしなければならないだろうが、それは、
自分の精神の年齢を、自覚したうえで、働いたり、コミュニケーションを作ったりするべきである。
精神の年齢の発達には、実に感動的なものがある。人が発達するときの喜びは、誰しもがほほえましく感ずるものだろう。
心と勇気と知恵。オズの魔法使い。
精神の年齢を、上げるなら、この三つは欠かせない。
自分の精神の年齢を、ありのままに感じ、他人とのコミュニケーションも、他人を見習うのでなく、精神年齢に従った心を
持ってするべきである。その経験の積み重ねによって、グラグラしない自分へ、少しづつ変わっていくだろう。
物事に動じない(勇気)、人を冷酷に見ない(愛)、さっさっと応対できる(知恵)、そういったものを、使用していくことである。
常に不安な気がするのをおさめるのも、自分の精神年齢、実際の年齢で、無理しないことだ。背伸びは無理なことだ。
自分にだけわかることだから。まずは。
実年齢より若い精神年齢、それを育てないと、何やらおかしなことになる。無理ばかりして、いつも落ち着かない。何をしてもおかしい。
精神年齢に自覚的であれば、それを隠さず、子どもなりにやれることを、やるのがいいだろう。実情は、多少の逡巡で、伝わるだろう。 若いときには自分勝手さが、つけ入る隙に見えて、魅力的であるように
映ることもままある。いくら優れた特徴を備えていても、自分をまったく
相手にしてくれる可能性がないような相手には魅力を感じないが、
それが利己的な欲望に動かされたものであれ、こちらの働きかけに
うまく反応してくれる可能性があるなら、それが相手に対して自分が
握ることのできる強み/相手の弱点として魅力に感じられるのだろう。
ところが、自分の側に相手の好意を求める必要性がなくなったとたん、
その相手の利己的な欲望は、単にそのものとして現れ、欠点にしか
見えなくなる。 自称ブッダの変態が、ウンコをもらしてブリブリブリ! エサに釣られるペットは可愛いが、ゴキブリやネズミが寄ってくるのはウザいだけだ なんで豚が貯金箱なのかと思っていたけど、
栄養を蓄えさせて後で食べるためのエネルギーの貯金箱として
使っているからだと納得した 仏教で言う悟りとは社会的愛のことで、私の思う悟りとは社会的愛と社会正義の事で、それを持っていると理想社会を作ろうという考えに至るという事ではないでしょうか。 平安時代、徳川家康はいなかった。明治時代、徳川家康はいなかった。 次天皇が変わっても、その次の天皇になっても、徳川家康は、二度と再び現れることはない。 輪廻転生やら冥界やら、黄泉とか極楽地獄とか、あるのかないのか知らん。家康は、死んだのだ。前世や来世があるのか知らんが、家康は、いない。 釈迦の言う輪廻転生は物理現象を説明しているだけで生まれ変わりの事じゃない 徳川家康はいないが、今度参院選に徳川家広さんがでるよ。徳川宗家が現代でどういう評価なのかが明らかになる。 禁止していることを強制し、強制していることを禁止する。森田正馬の荒療治。 ねが(願)ふ
ねぎら(労)ふ
ねんねんころり
安らかに穏やかにしていてください、ということ
白水社 中国語辞典
宁(寧・ィ)
ピンインníng ⇒ [異読音] nìng
1. 安らかである,静かである.
2. ((文語文[昔の書き言葉])) 安らかにする.⇒息事宁人 xī shì níng rén . 「なにぬねの」における密着したやわらかい接触の様態としての「ね」
と「安寧」の「ね」が騙し絵としての融合したイメージの戯れ 他者には厳しく、自分には優しい。
他者にも厳しく、自分にも厳しい。
他者には優しく、自分には厳しい。
他者にも優しく、自分にも優しい。 喉と鼻の奥を広げ、気道を確保し、その状態で、息を吸ったり吐いたりするべきであると思った。
医学的な、確かな呼吸法としては、以下を参照。
https://www.erca.go.jp/yobou/zensoku/copd/effective/index.html >>384
それに加え、私が考えたことは、息をを口から吐くときに、口蓋の上にぶつけるように吐くこと、すなわち、上の前歯に息を当てて通すことが、
いい呼吸であると思われた。 >>385
それに加え、鼻から息を吐くときも、鼻の穴の上部に息を通すといいようである。 他人のことや、自分の評判、後ろめたさの感覚、罪悪感、不快感、怒りなどで、苦しくて仕方がなくなったら、「手を握り、握力を使え」。
そうすれば、内部で苦しめるもの、どうしようもないことについて、解消するほかの見込みがないならば、それを解消する、
命の助けというものが、自分の体の操縦ではもっとも浮かびにくい感覚が、もっとも助けになり、苦しみが解消される。
つまり、爽快になれる。なだめられる。やり返すのと同等の、またはそれ以上の効果がある。 >>365
私はあえて愛を持ちなさいと考えます。愛があると色々な欲が出てきます。欲=問題を発見できると解決手段を考えられる様になります。新たな発明や発見はそうやって生まれます。仏教的な悟りを得たいというのも大欲ではないでしょうか? >>365
補足しますと、社会的愛があると人が困っているのを見て問題発見できます。すると、解決手段を愛があると考えます。そして解決します。この他者へ尽くす過程を美しいとあなたの感性で思いませんか? >>365
仏教の話で神を持ち出すのはタブーかもしれないですが、この感性は神が与えたものなのですよ。より、人間らしく生きる為にはこの感性を大切にするのが良いと私は考えます。ちなみに神が美的感性を与えた理由は美の存在があるという事の究極の理由を考えると分かります。 煩悩の火が燃え尽きぬうち、あなたはまだ修行完成者ではない。修行完成者は灰である。燃えはしない。 焚き付けても燃えぬなら、灰だ。
焚き付けて燃えるなら、炭だ。 劇場版 魔法少女まどか☆マギカ『叛逆の物語』を観ました。人の内部では、色んな事が起こっている。
時から見捨てられるということはなく、自分が時を見放してしまったのだ、というようなことを考えました。
時を見捨てるとは、自分のセオリーを現実においてあてはめ、その成長を見る、というような考え方です。
時を見捨てないならば、今の出来事こそを、自分が感知する、という、あり方があるのであって、どのような間違いも、
時を見捨てるように、自分が捻じ曲げてしまったことである。未来への欲望、逆にそれは絶望なのでもありますが、
それをもたらしているものが何なのかということを考えました。それが、恐らく捻じ曲げなのであると思いました。
生きるということは、時間を征服する、世界を征服することではありません。
大きなものを乗り越える、あるいは時を乗り越えるというようなことを、習慣にしてしまうこと、
むしろそれが時を見捨てた生き方なのです。もし時を見捨てないとしたら、世界がいかに自分を否定しようとも、
むしろそれはそのような事実を受け取り、肯定するということになるのです。
つまり、先延ばしにして得を考えるというような生き方をしていては、現在を捨てることになるのです。
どんなつらい仕事、労役をしていようと、時に見放される、時を見捨てるというようなことこそ、感じていてはいけないのでしょう。
どんなつらいことがあっても、時を見捨てる回路にはまってしまってはいけないでしょう。
時を得ているならば、絶望にあっても死に至るというようなことにはならないのです。 >391
>仏教的な悟りを得たいというのも大欲ではないでしょうか?
そうです。欲を持って悟ることはありません。 >392仏教には慈悲の瞑想というのがありますが、これは他者へ尽くす行為ですが、他者を救いたいと思う心から行うわけではありません >>402
『叛逆の物語』では、登場人物は少ないです。つまり、かなり閉鎖的な現実に、生きているということでしょう。それが現在の、
魔法少女達に投影された、狭い世界という話です。つまり、共感させるワールドが、大変に、過疎人間的になっています。
そこで、大きな力を得た少女たちが、感情と力によって、救うために何かを壊していきますが、その悪は、エントロピーの増大という、
否定できない大きな力であるようです。それだけは乗り越えられない。つまり、死をどのように納得し、死を生の中に持ち込むかという話
でしょう。
そして、考え直したのですが、大きなものをとらえることができれば、それは、チャンスが待っているということです。漫然と、
死ぬのを待っているのでは、何か大きな間違いとなるでしょう。自分が、ずっと考えてきた、大きなもの、それを、乗り越えられる、
ということは、自分が生きてきたうえでの、非常に重要であり、非常に稀な、一つのチャンスなのです。それを、乗り越えるということが、
人とつながるチャンスである、そういうことが、魔法少女の話から、感じられることでもあります。大きなものを、共に乗り越えること、
それが、人間主体にとっての、他者というものの、一番難しく、また夢をかけるべきところです。
何もない物語であっても、時を感じる自分が、その時と共に、何らかの意図や目標というものを、持ってきたに違いありません。
それなくしては、自分が成り立たないようなもの。結果は、絆であった、ということ、パンドラの箱の希望のようです。
死を待つのみ、エントロピーにやられるのを待つのみでは、生きている力が何のためにあるのか、分からなくなってしまいます。
人間の恐ろしさとは、力の使い方によるでしょう。人間をではなく、死やエントロピーを憎むこと、そのことで、生きている意味が、
生物として、人間存在として、次に向かう光が、見えるはずです。大きなものを、捉えられるならば、それをどう考えるか、
ということで、色んな意味が、浮かび上がってきます。そのようにしてこそ、現実を越えた、一つの理を、考えられます。
自分自身だけを、思って生きることは、悲しく、寂しいことです。いつか別れる時のことを、いつかに限定するべきです。
生ある時にしか見れないものが、実際にあるでしょう。 身体性なき知性は、侮りを受ける。
精神性なき知性は、恨みを買う。 エントロピーが増大していって最終的に世界が終わる
仏教的には一切皆苦 私を横に見る者を、私は横に見る。
私を上に見る者を、私は上に見る。
私を下に見る者を、私は下に見る。
私を右に見る者を、私は右に見る。
私を左に見る者を、私は左に見る。
私を前に見る者を、私は前に見る。
私を後ろに見る者を、私は後ろに見る。
イエス・キリスト 犬には仏性がない。人間にも仏性がない。
なんでか。
無字の公案である。 「お前の罪は、俺の罪。俺の罪も、俺の罪。」
byイエス・キリスト 自分について考えるなら、自分がどういう人間なのか、ということは重要だ。
自分が、何らかの自我、人格を持っているとして、その自分が選ぶことは、自己と言えるだろうか。
それは、小さい自己であると言える。小ささを、繰り返す自己だ。自己が選ぶ態度は、いつも同じだ。
何らかの傾向を、自己と見て、自分らしく選んだと言う。
だが、そのような円環の中に埋め込まれた自分は、生を損して、自分を損なっている。
常に同じことに苦しみ、常に同じところを頼る。
こうしてしまうことが、マンネリとなる。
恐ろしいものは何か。それは、自己を損なうようにプログラムを埋め込むような他者だ。周到に、わなを仕掛けられる。
いつまでも、付きまとう。
例えば、スフィンクスなどが、謎を投げかけ、解けない人を、食らう。オイディプスはその謎を解く。
ここに、繰り返すスフィンクスと、その繰り返しを破った英雄が現れる(だが結局はオイディプスも悲劇を迎える)。
自分でよいと思い選んだことが、自分の習慣に過ぎないということが、誰にも多くあると思う。
要するに、最後の選択肢を、別の方に曲げること、それが難しいなら、人との会話で、少し今までと変わったことを言ったりすること。
自分の外にあるもののところを見させてくれる人なら好ましいだろう。
新しいものが、自分の中にあるものの外へ、大きな変化をもたらすものへ、導いてくれる。そこには、人間の可能性がある。
恐ろしいものに、囚われていると知る。自分の中の足かせに気づく。
それは、自分で大事に持ったところの、足かせである。恐ろしさから逃れるために、別の恐ろしいものを、大切にしていただけ。
誰もが、創造的な人であり、誰もが、自由となるべきである。そうなれる。それは、精神の習慣を、やめるならば可能だ。
自分も他人も、甘く見積もってはいけない。他人も自分も、何らかの代理として生きているわけではないのだ。
だが、恐ろしいものに打ち勝つというならば、何らかの条件に、縛られた、自縄自縛ではなく、最後の締めにこそ、
行為の終盤においてこそ、変化を望めるのであるから、それを、自分で手に入れることが可能だ。
その視点は、生まれたときからずっと、存在する、打ち勝たねばならないことである。 「あなたがあなたの味方しないでどうするの?」
〜あなたについて、ブッダ 「無理する者は、無理させる。」
〜自分自身について、平清盛 「精神的に、マウンティング、プレゼンティングを絶対にしないこと。これは、一生の決まりである。厳命する。」
〜マウンティング、プレゼンティングについて、ブッダ このスレッドを読んでいて思い付いたか、私の記憶によるものか忘れてしまったのですが、出現した感情を感じると落ち着いていき、安らいでいくような気がします。
今の私がそんな感じです。
煩悩即菩提とも通じるように思います。
感情を感じる。
この方法は妥当と言えそうでしょうか。 自己否定をしないことで、かえって自己は落ち着いて安らいでくれる。 エントロピーの増大を要求する世界に、我々生物はエントロピーの減少で応えます。世界に反しているのですから、うまく行くはずがありません。 ですが、生物も無生物で、エントロピーの減少もよくよく見ればエントロピーの増大になっている。 1: 無 職 と 波 平 (28)
2: 日々はおまんこである (193)
3: 悟りに近づくために11 (422)
4: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (145)
5: 無 職 と 東 浩 紀 (446) エントロピーの増大を肯定すること自体が、エントロピーの減少。かと言って、エントロピーの増大を否定することは、それそのものがエントロピーの減少。 エゴを肯定したらエゴです。ですが、エゴの否定もまたエゴ。エゴを肯定するのも否定するのもエゴだからどっちもダメ!もまた、エゴ。 エゴを否定することも肯定することも是とし、しかもそれを否定すること、つまり、エゴの否定も肯定も是とすることを否定することもまた是とする。
この、究極の自己矛盾こそが、悟りなのでありましょうや! >>418
感情の波に溺れたり、感情が噴き出したり、感情に浸ったり、感情にとらわれたり、共感を覚えたりしますね。
感情を感じることは、正負の感情を、野菜の間引きをするような早めな対処なのかな、と思います。
子どもから大人に至るまでに、失くしてはならないものを失わず、良いものを繰り返し、だんだんと、人間が育っていくのでは
ないでしょうか。どんな小さな発見であっても、自分がしたこと、考えたり感じたことだ、というものであることは、
最後まで失わないもので、何をするにしても、指導的な立場に置かれてやっていけるということで、大人になるということで、
迷いの不安にも対処することができることでしょう。迷う不安は大きいものです。
特別な何かを掴むのと同じくらいに、知るだけで自分で得のと同じくらいの意味があると思います。つまり、悟りを知るということは、
悟りを得るということに、ほぼ等しいと思います。
やや脱線しましたが、感情を知ることは、感情を得ることと変わらないでしょう。その辺が、悟りと同じ意味だと思います。
煩悩即菩提は煩悩を知れば煩悩が満たされたのと同じであることと思います。満たされない感情を延々と求めるというのは、
満たされづらいことなら知ることで満たすというやり方を覚えるという方法があると思います。その辺りはまなざしの種類次第でしょう。 エゴを肯定することも是とし、
エゴを否定することも是とし、
エゴを肯定することを否定することもまた是とし、
エゴを否定することを否定することもまた是とする。
もって、覚者たるべし。 だとすれば、悟りは不可能でしょうな。悟りに至るとそれそのものが悟りを失うことで、かといってふてくされて悟りなど得られない!となれば、それもまた悟りを失っている。 風は、捕らえればただの空気になる。
かといって、捕らえなければやはりただの空気になる。
悟りを得るのは、風を捕らえるが如しです。 そもそも人間も物質なわけで物質がどんな状態となっても感情など発生するはずもなく
したがって人間に感情など存在しない ラプラスは、世界のあらゆる物質の位置と運動の方向がわかれば、不可知などあり得ないと説きます。しかし、それがわかったときにはもう、それより後なのです。
言うなれば、百年後の予測は可能で、不可知ではない。しかし、百年後の予測結果は、九百年後に出る。
2919年に、2029年の世界の予測結果が出ても、それがいかに正確でも、すでにわかっている以上意味がない。 2019年の今、2119年の予測を始め、その予測結果が2919年に出て、何の意味があるでしょうか? ちなみに、これは例えです。本当に百年後の予測に九百年かかるということではなく、仮にそうなら予測する意味がないという話です。 来年の予測結果が三年後に出ても意味がない。そういうことです! 悟ってるやつが
こんなゴミカス過疎掲示板に
来るはずもなくw 悟りってすてーたすなのかいな
その価値観をステルべきでは >>427
(自分の) 思考を知る・感情を知る・煩悩を知る…
全て自分を知ることに繋がっていそうですね。
自分を知ることは悟りを知ること、とも言えるでしょうか。 >>441
そうですね、自分を知ることは、かなり難しいことです。むしろ、他人を知る方がやりやすいかもしれませんね。
他人に邪険にされ、自分を恥じて、自分を責めても、解決しないこともあります。そういう場合には、他人の過去を想像して知り、
そのどこかから、自分が責められているという因果を、知ることができるでしょう。そしてそれと同時に、自分の範囲の制限を、
限界を、知ることになるでしょう。そのように、自分の想像力いかんによって、応じて、他人の事情で乱されない意志を、
持つことができるでしょう。そういった、ある場所では、空気が切り結ぶような、つばぜり合いが起こることも多いでしょう。
それを、知らなければ、正しい対応ができないという事実が残されるでしょう。それは残念なことです。
だから、悟りとは、物事の道理を通すことであって、道理を通すには、見えないものを知っていなければならないと思います。
自分と他人の区別はないことを知ったうえで、他人を見、自分を見、付かず離れず応酬する。行動が伴う。
関係が苦にならないように、誘導して、両方で損なうことを、失くすことができる。そのようにして、心の範囲が広がる。
やっと人から攻撃されることが解決して、自分の心も解決する。今までとは全然違う。憂いが減ります。 JKと婚約したらもう他の娘抱けないだろ。
だからしばらく独占して実験できるぞ。 >2019年の今、2119年の予測を始め、その予測結果が2919年に出て、何の意味があるでしょうか?
その通りだけど、更に物質の状態が分かったとして、その状態は誰が何をしている等の物語とどう対応するのでしょうか?
言うなれば物質の状態が涅槃であり、物語が現世である 好きにして
好きにさせるが
無為自然
無為自然は、老子の言葉。 いない悪霊を祓えんや。
ない怨念を、祓除できんや。
なんの気か、これあらん。 身体や首をねじる。その時使うのは、側面の筋肉。左にねじるときは、左の筋肉、右にねじるときは右の筋肉。
そうすると、いい汗をかく。ストレスは全く起こらない。そのようにして、癒着した骨と、眠りについていた筋肉が、
本来の状態に戻る。こんなにいいことは、そうそうないものだ。
僕以外に誰かが必要としていれば提供します。 賞し過ぎれば、不公平感で民衆の心は悪くなる。
罰し過ぎればやはりおかしいと、民衆の心は離れる。
賞することが不足すれば、民衆は悲しくなりやる気を失う。
罰することが不足すれば、図に乗って悪党になるものが出てくる。 一度、悟ろうで無いか?
そしてその悟りを捨てよう
ここまでが悟りという考えは? 復讐するは、天にあり。天に変わって仕置するは、ただのボランティアなり。なんの報いか、これあらん? 知ってしまったら知らなかった頃には戻れない様に
悟ってしまったら元には戻らない >>454
あんさんには何の恨みも御座いませんが
これも渡世の義理
死んでもらいます(高倉健) あなたは自分の世界を去り、社会に出なければならない。 私は私を罰しないから、私は他者を罰する資格などない。
私は私を賞さないから、私は他者を賞する資格などない。 唯物論が全てを解決した。我々が存在しないとわかった以上、問題は存在しないとわかった。 唯物論が全てを解決した。我々が存在しないとわかった以上、問題は何一つ存在しないとわかった。 功を賞する功
功を賞さぬ罪
罪を罰する功
罪を罰さぬ罪 功を罰する超過罪
罪を賞する超過罪
功を賞しすぎる罪
罪を罰し過ぎる罪 「復讐の禁止は、切支丹の道。恥を雪ぐが武士道。」
〜島原・天草の農民反乱について、宮本武蔵。 大虐殺の悪魔は権力者
盗み働いた孤児は泥棒
バカ? 有己無他は、無己有他で治す。
有己有他は、無己無他で治す。
無己有他は、有己無他で治す。
無己無他は、有己有他で治す。 過去は未来で未来は過去だ。過去も未来も実在しないのだから、人に対して共通認識を成り立たせなければならない状況に
ないならば、自分に対して、過去未来を自由に変えていいはずだ。考え方に対して文句が起きない範囲で。
自分は他人で他人は自分だ。そのような考え方を否定する理由は一つもない。
自分の自由というものを、奪われ続けてきたのなら、その方が自然で正しいだろう。
自分が苦しいならば、そうなった原因が、存在するので、考え方までも縛られる必要はない。
自分は自分自身の自由な思考の行える範囲において、まさに自分だけを自由に規定する権利はあるわけで、
そのうえで、考えや言葉に、自己制限をかける必要はない。他人から、言われることのある範囲ならば、多少の譲歩は
必要であるが、考え方によって人が評価するばかりでもないのだから。その他、人に対して、社会に対して貢献するのは、
教条じみた考え方によるのではなく、自分の考え方において、もっと正しいと思われる思考の範囲を、自由に変えうることこそ、
自分自身であることなのだから。そのように、意地の張ったきっかけに基づくとも、思考の実際においては、その方が
正しかったと思えるのだ。正しいと言えることは、自分の正しさだ。自分自身にとっての自由だ。寂しくても、どのような行為
を行いうるかということを、制限したいわけではない。規制する人に対して、自分はそうではないと。それは重要だが何も反社会的
ではない。人に押し付けることをしたくはない。人間は、社会的動物かもしれないが、自然は果たして社会的だろうか。
自然なき生も、自然なき死も、ないのであるということを、考えたとき、理不尽さを解明することを、一体だれが行ったというのか。
救いなき生の部分に、向き合ったとき、あるいは、不合理に失われた時、あるいは、自分がいたたまれない苦痛に、
それを救うとき、自分の社会性と、自分の自然性と、人間の非自然性、それらに対して、考えを、正しく表すならば、
分かりえないものを分かろうと考えることが、無意味であると、意味づけることを、その発言の曲解を、指摘されたならば、
一体何がおかしいのかと、考えることを、無意味だということを言うことに、一体何の、仕事以外に、正当性を、
言い張ることなど、したい人は、いるだろうか。いないのだ。誰だって、したくない。 >>474
アブサロム殿、自然は社会的だろうか?実に、的確な指摘だと思います。
教条主義に陥るなとは、仏教の教義を教えたシャカ自身が言っているほどであるそうで、意味もなく教条主義に陥る誰得なら、むしろそうしない方がはるかによいのでありましょう。同感であります。 >>477
自然は、本来の意味から、人工的にできないものです。人間は、自然の中から生まれて、育ってきて、
人工的を受け入れ、自然性も否定しないという、欲張りなものにもなれます。それは、人間の力が、強いということです。
でも、自然の魚のようには、海を支配できないように、海に勝つこともできません。
お釈迦様が、教条主義であるな、と言ったということは、特別に考えたことはありませんでした。
なかなか、不勉強なところではありました。人と社会に対しての貢献において、教条的ではない方がいい、と僕が
言ったのは、心のようなものの、問題だと思ったからです。お釈迦様の、押しつけがましくないことは、
まさにその存在の、優れたことに他ならないと思います。 高天(たか・ま)ヶ原
天(あ・ま)照(てらす)
あなかしこ 私にとって自然は
出来るだけ
作ったもの作られたものを
除いた考え方を
現実の身近な行動で表現しようと
足掻いたときに元からあるもの
として実感できること
そんな感じだなあ 英语 ventilate⇒ vtr (allow air to circulate through)
中文 使通风 shǐ tōng fēng
日本語 風(≒wind)を通(≒through)す(≒let)
中文の「使」≒日本語の「○す」
実は順番を入れ替えただけでした。 世界があなたをは嘘、あなたが世界をが本当。
あなたが世界をは嘘、世界があなたをが本当。 中国語の場合、発音の違いに応じて、それぞれまったく別の漢字を
割り当ててしまうから、例えば、「使」と「疏(疎)」のそれぞれ
が想起させるイメージが互いに似ていても、漢字の表記の違いに
よって互いに無関係に思えてしまう。ところが、日本語の場合には、
それを「さ行」という形で暗黙にまとめて、互いに関連付けて
使っている。そこが、日本語のクレバーなところだ。 漢字を数多く知っていて、自在に使いこなせることが、自らの
知的な権威を示すことになる。すると、文字による言葉の分類
が先で、言葉による表現が後であると信じ込む/信じ込ませる
ような転倒が生じる。 人の競争、強要などを、日頃気にする。だが、本当のところは、見えていない。
例えば、自分の身内と一緒に、人のいる所に出かけたとき、そこにいる人は、自分の身内と比べて、存在感が薄い。
これはどうとらえるべきだろうか。
それは、人を主と見て、自分を従と見ることである。身内の場合は、いままでで、そうした見方が経験されているという点に、
違いがある。そのように、その人の都合というものを、考えると、失礼も、見下げることも、なくなる。
さらに、物についてもそれは言える。物自体は、自分をどうとらえているのだろう。
それは、存在ということで、物自身の存在として、私の中や外に表れている。その物を主と見て、自分を従と見れば、
その物の力を、感じることになる。この状態では、人との競争などは、またたいして重要でないことに思えて、
自分自身は、何も非一人前である、などと思う悩みは、軽くなる。
人の意見を入れることというのは、実に苦しい状態である。だから、意見は自分で作った方がいい。
それに、人は人である、ということを、考えることも、また良いことである。
そのためには、どんなときにも、物を主と見て、自分を従と見ることが、大切なことである。
物は誰の味方もしない。そして人は味方を作ることが多く、人が自立し、物と同じように存在することには、十分な立脚を試して、
悟るしかないのである。そのような、人よりたくさんある物、それらの存在を、人への強要と対峙してみてみるとき、
まず自分は、捻じ曲げて見ることのないように、そして人は、分からない状態で恨みを持ったり買ったりしないようにする、
知ることができることについて、そんな感触のことが、課題として残っている。
物を知らざる状態で、人を見るならば、自分は自分を見ていないということが、自分の牢獄を作る。
自分は、人とも物とも主従の見方を作ることで、自己自身と他者との檻から、解脱できるはずである。
主従の逆転を、物にも人にも、行うことが、以上のように、真理を見通すための、正しい見方となるはずである。 自己肯定感が高い人は、奴隷にして自由人。
自己肯定感が低い人は、自由人にして奴隷。 自己肯定感が高い人は、例え奴隷と言えども自由人のごとくふるまうもの。
自己肯定感が低い人は、例え自由人と言えども奴隷のごとくふるまうもの。 自己肯定感が低い人は、たとえ自由人でも奴隷のごとく生きる。
自己肯定感が高い人は、たとえ奴隷でも自由人のごとく生きる。 そういう人間界の上下が妄想であるとわかっているからだ。 脳内で上下を作り、現実世界にその妄想を持ち出して、存在しない階級のための階級闘争を行う。これをアホと呼ばずして何と呼ぶか? 人間ピラミッドは、仮にあったとしてただあるだけのもの。尊いものでもなければ尊ぶべきものでもなく、ただあるだけ。なんでもないのだ! 真実が自分に都合のよいものであるという確信は、「自分に都合のよい事実関係
だけを声高に主張し、都合の悪い事実関係については沈黙を貫いていればいい」
という戦略からでないとすれば、どこから来るのだろうか? どこの誰がどうしたという事実関係のお話は、それが日常における人々の
振舞いの詳細な観察との対照されて批判的に検討されることがなければ、
きわめてどうでもいい下らないお喋りに過ぎないものとなる。 身体的過ぎるのは、精神性が不足している。
精神的過ぎるのは、身体性が不足している。
身体的過ぎず、精神的過ぎず、その中庸(中道)が望ましい。
快楽主義、苦行主義の両方をブッダが否定し、中道を説いたのは、おそらくそのためであろう。(快楽主義が身体的過ぎ、苦行主義が精神的過ぎるのであろう。) 0対100〜100対0まで、修正主義的に臨機応変に応対するもので、50対50にこだわることとは全く違うのである。 綱引きの綱は右にも左にも寄りたがらなければ、真ん中に留まりたがりもしない。これこそ中道であろう。 綱引きの綱は、右に寄りたがりも左に寄りたがりもしなければ、真ん中に留まりたがりもしない。これこそ、中道だろう。 事実関係(facts)と尤もらしさ(plausibility)のどちらがより重要か
と言えば、より重要なのは、尤もらしさの方だ。事実関係について
どれほど確信していようと、それらは大部分、又聞きから成立して
いるし、自分の目で見たことにすら、しばしば、欺かれる。
だから、自分が確実に知っていると信じ込んでいる事実関係も、
尤もらしさの基準に照らして、事後的に繰り返し、絶えず解釈
され直す必要がある。しかも、尤もらしさの基準自体、新たな経験
を通じて常に更新されるのである。
生きていくためには、尤もらしさを判断する感覚を磨く方が、
事実関係の知識を蓄積することよりはるかに重要なのだ。 事実関係についての合意こそが不可侵であると平然と主張する
ようなマフィアの弁護士が世の中に溢れ、それを補完するように
あからさまにデタラメな事実関係を吹聴するサクラが耳目を
集め、それ以外の人々は沈黙している。 我思う故に我あり
これもっともらしいけど大ウソです 「鶏が先か、卵が先か」と問ふなら、その答えは、
「先にあるのは、鶏でも、卵でもなく、鶏のようであることだ」である。 思い込みの問題。
人から、攻撃をされて、それに対抗できなかったとする。
そういうことを考えるのは、後日に違いないだろう。
何も返答できなかった、と思い、怨恨が生じる。
だがあなたはそれを思い出した。
思い出したということは、何らかの新しい判断へ足掛かりができている。
即ち、自分が行動に表さなかったのにもかかわらず、人から攻撃されたという怨み。
それは、いついかなる瞬間にでも、晴らすことができる。
自分自身への攻撃を、恨みに思っているならば、それは自分が悪いのではない。
自分自身がみすぼらしく、悪いことばかりしてきたという、絶望にとらわれたりもする。
他人からの攻撃も、自分自身への後悔も、その先を見据え、判断、評価を、いくらでも変えられる。
即ち、他人への評価を変えることは、あの人はあんなしょうもないことをするくらい馬鹿だったのか、と思える。
自分への後悔は、能力の限界による、必然性があったのであり、仕方がないとしか言いようがない、と思える。
完全な人間はいないのだから、自分が完璧を求めなければ、このような再評価は、いつでも自由である。
考えにおいては、自在にできて、他を損なうことがなければ、いつでも考え直せる。
判断、評価ができるということは、考えの中では、自分は自由であり、自分自身を責めることは、ないのである。
自分の傾向、のちの思い直しによって、再判断、再評価は、いつからでもできることである。
理論を証する、怨みに決着をつける、などと意気込むことはない。
自然に、のちのちに、問題が正しく浮かび上がってきて、自分は自分を損なおうとする必要はない、ということ、
つまり、他人からの、非難を甘んじて受けなければならないような現在でなければ、どんな悪人も、振り返ってみるに
自由でないということはない。
不自由も含めた、判断、評価の可能性については、自分が囚われ、謝ることを、考えて、服したのちのことであれば、
全部を否定して、否定されて、生きるにしかざるというわけではない。すべてを失うことを、責められたとしても、
せめて一服の自由だけは、手放すことは、されないのであると思うのだ。
人に対する視点は、良い方へも悪い方へも必然に従い自由だ。そう思うことこそ、全ての必然性が、人間に強いる最終的な行き場だ。
悪い思い込みを逃れよ。 自尊心が足りていると、自分の生きたいように生きられる。
自尊心が足りていないと、自分の生きたいように生きられない。 あなたのために他の人がどうしてくれるかではなく、あなたのためにあなたがどうするかを考えてください。 あなにいれたらどうしてくれるかではなく、あなにいれるためにあなたがどうすればいいかを考えなさい。 まともであるのがまともであるとわからないのはおかしい。
おかしいのがおかしいとわからないのはおかしい。 一喜しては生を愛し死を憎み、
一憂しては死を愛し生を憎む。 If you think it's only a passage, you really must be dreaming! これくらいは人から、運命から許してもらえるだろう、という考えが甘い。
悪いことは、どんなにありえなさそうでも起こる。それが、人や、運命だ。
こんなにも厳しいと思った経験があってこそ、自分が本当に世界と向き合うことになる。
それは、見通しについての話だ。厳しく見る見方をを身につけなければならない。
それを、身につければ、全ての自分の対応がガラリと変わる。
命を奪われるのではない。自分の見方が甘いということだけなのだ。
責任を負うためには、悪い場合に対処できなくてはいけない。手間暇かかるのは当然なのだ。
底のない不運は、受け身な自分が招いたものだ。
他人や運命は、自分に都合よくはいかない。些細なことであれ。
そういった考えと経験を経てこそ、運命に口を出せる。
不運をくぐってきた経験は、その人の深みを増す。
あなたが無価値、無能力、悪辣なのではなく、ただ甘いだけだ。それだけだ。
誰もが気をつけねばならない。生きるために必要なんだ、しっかりしろ! 物質の所有であれ、心の在り方であれ、"自分がという所有欲"は、最も根深く幼い考えの一つだ。
だがそれは、変えられるものだ。そして、それは精神の解放へと導かれる。
物の所有とは、部分的には、他者への優越という満足を与えるものだ、精神的所有もまた、他者への優越と、
不安の埋め合わせという効果を与える。
それをやめることが、心の良い在り方だ。それを知るためには、自分の心に聞いて、やめたといってどうもならない、
という経験を味わえば良い。 倫理は、犠牲に見出せるものではない。差別は倫理ではない。 もしも、人類のためと人以外の生物を差別するなら、白人のためと白人以外の人間を差別する連中に腹を立てることはできないはずだ。 エゴを小さく持とうが大きく持とうがエゴはエゴ。つまり、人類のためや世界のためも、自分のためや白人のためと本質的には変わらない。 他のエゴを否定するなら、己のエゴだけ容認するのは自己愛性人格でしかない。
己のエゴを容認するなら、他のエゴも容認してはじめて平等であろう。倫理的かどうかはともかく、少なくとも平等ではある。 無我について
無我とは、エゴをなくしたことやら煩悩を滅した悟りの境地のことやらではない。
無我とは、〜あっての〜という"科学的事実"で、宗教的な話というよりは科学的な話である。
スピリチュアリズムというよりは唯物論である。 無我とは、諸法無我のことで、無私利他やら滅私奉公とは関係がないのだ。 言うなれば、
滅私奉公やら無私利他やらは、当てはまる人も当てはまらない人もたくさんいる。だが、諸法無我は当てはまらない人はいない。というより、人に限らず、それどころか生命体に限りすらしない。 戦国時代の武士の家に生まれるか、平安時代の貴族の家に生まれるか、これで差がないと考えるのは相当なお花畑であろう、さすがに無理がある。 白人が夢の中で黒人となり、人種差別に恐れ慄いて戦慄する話がアメリカにある。当時まだ公民権法が制定される前で、有色人種に人権はなかった。
(奴隷制廃止から約百年間、公民権法制定まで有色人種に人権は認められなかった。陪審員を全員白人にし、有色人種が被害者のときはあらゆる凄惨な事件を自殺としたり、逆に白人が被害者のときは事実上魔女裁判であった。) これは、白人かそうでないかという区分だけでなく、人かそうでないかという区分についても言える。 夢の中で家畜で、これから人間に喰われるとなったら恐くないはずがない。 その点、輪廻転生という教えは、それが事実かどうかは別として、もしも〜を考えさせる上で極めて役立つのだろう。
天国か地獄かなら、自分のまま。輪廻転生なら、来世は自分ではないし、さらには人間とも限らないのだ。 師匠:机は、ここにあるか?
弟子:はい、あります。
師匠:木の棒に木の板をつけだけではないのか?
弟子:…、そうかもしれません。
師匠:ここに、机はあるか?
弟子:…、わかりません。 コントロール可能な範囲内だけコントロールする。
コントロール不可能なことはコントロールしようとしない。 未来史決定論
過去は変えられない。これは、誤りだ。何も変えられない。 イスラム教に、既に書かれてあるという言葉がある。生まれ、生きて、死ぬ。ならば、人間のやることはおのずと決まって来る。 為せば成る
為さねば成らぬ
何事も
成らぬは人の
為さぬなりけり やればできる
やらなければできない
何事も
できなかったのはその人(その人たち)が
やらなかったからだ 水があればいいのに、無かったから生きられなかった。食いものがあればいいのに、無かったから生きられなかった。
そういう人は、ゼロ人? バカも休み休み言うものだ。為せばなるなら、成して見ろ! 為すは成る
為さぬは成らぬ
何事も
為さぬは人の
成らぬなりけり やることはできること
やらないことはできないこと
何事も
やらなかったことはその人(その人たち)が
できなかったことなのだ 為せば成るなら、為して見ろ。無能にマウント取る一生を、無能は褒め称えよう!称賛が欲しかったんだろう?くれてやるよ、称賛を!
「すばらしいじゃないか!頑張れよ!一生な。」 釈迦の言う輪廻転生は生まれ変わりの意味じゃない
今起こっている事象は、その一瞬前の事象から縁起し、その事象も次の瞬間には消滅し新たな事象を縁起する
という物理現象の説明
自分自身も一瞬毎に起こっては消え輪廻転生を繰り返しているが人はその執着のために自分が一貫した存在と
錯覚してしまっている
その執着を瞑想により滅尽していくのが悟りの道 悟った人って、普通のやつのことを言うんじゃねえかね?
特別なことをするわけでもなければしようとすらせず、普通に生きて普通に死ぬやつのことを言うんじゃね? 真の悪魔祓いは、自分自身に対して悪魔祓いできるもの。いくら他人に悪魔祓いできても、自分にできぬなら悪魔祓いとはとても言えない。 時は平安、末法濁世。権力の腐敗・不正がはびこり、民衆の生活は悪くなるばかり。年貢は増えて治安は乱れ、返って来ないタダ税に民衆の怒りは頂点だ! さあ、そこに現れたるは、悪僧の法然に親鸞!極楽はここ、天国行ける偉いやつはどこにいる?と、民衆扇動の思想犯罪で島流し! 不要悪は行わないが、不要善も行わない。それで地獄なら行ってやる!極楽なんぞは、クソ喰らえ! 激怒した上皇は、法然の弟子の密通にかこつけて、法然親鸞ら8名を流罪!不倫に激怒し、民衆には冷酷。そのバカバカしさに、民衆は笑いを抑えられなかったという。 過ぎたるは、及ばざるに等し。
及ばざるは、過ぎたるに等し。 >563
現代の普通の人は普段会社で働いたり生産活動を行うので、それが存在欲となり執着を生むため
悟ることは非常に難しいと思う
釈迦の時代の比丘は完全な無産者となり執着を滅尽している
そのため現代において悟りを得るためにはひきこもりニートが一番近道かもしれない 人以外を人と同列に考えるよりも、人を人以外と同列に考える。 自分だけがと思ってはいけないよ。僕以外にも、たくさん、精神がおかしい人や、悟りを求める人、あるいは、悟りを考え続ける
人がいる。だから、自分はこうだ、と思って、それを自分の意見として持つ際に、他に同じことを悩む人が、沢山いる、
ということを、忘れたら、思わなかったら、広がりが出ない。人生を辞めたいと思う人もたくさんいるだろうし、
人への恋を抱えている人も多いのだ。だから、自分が苦しいんだと思うなら、他の人もたくさん苦しんでいると、
また思わなければ。少なくとも、それで何らかの共通なところを、一緒に持つことが、現実にある。
人嫌い、憂鬱、踏み外しなどの、同じ境遇を、忘れてはいけない。つまり、人は、必ず同じことをいくつか、あるいは本質的に、
持っているものである。孤高というのは、本当にないものだ。あるいは、共通的孤高というものしかない。そのうえで、
他に対立することのない境地を、優しく描く。その絶対は、涅槃の光景である。一人が想う一人こそが、ブッダだ。
行きつくだけの姿だ。 十一面観音の一番後ろ、暴悪大笑面をご存知ですかな? 過去の自分を慰霊する。自分への供養で、過去の自分に成仏してもらうんですね。 死者を供養するというのは、実は生きている自分を供養しているのでしょうな。 1: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (166)
2: 禅 (537)
3: 無 職 と 東 浩 紀 (455)
4: 愛とはなんぞや シーズン45 (264)
5: 時間とは何か、28 (579)
6: お ま ん こ 舐 め た い (36)
7: 現象学倶楽部 (157)
8: ものすごい勢いで誰かが質問に答えるスレ@哲学 (13)
9: ■ チ ン ポ と マ ン コ A ■ (243)
10: 無 職 と 波 平 (29)
11: おちんちんを許してやれ (32)
12: 夏 だ ! お っ ぱ い だ ! (79) 〜であってはならない、〜でなければならない、は、それぞれ、〜でなくてよい、〜であってよい、に、変える。
〜しなければならない、〜してはならない、は、それぞれ、〜してよい、〜しなくてよい、に、変える。 〜でなければならない。
→〜であってよい。
〜ではならない。
→〜でなくてよい。
〜しなければならない。
→〜してよい。
〜してはならない。
→〜しなくてよい。 〜させなければならない。
→〜させてよい。
〜させてはいけない。
→〜させなくてよい。 アブサロム殿、スレ立てかたじけなく候。
在家出家の仏道修行、実に自分に要り用だと思い、そうしたで候。 生命の起源を説く、化学進化説。唯物論の根拠に候。
ウィキで調べると出てくるので候。 実に興味深くて面白いので、一度ご覧いただければうれしく思い候。 諸法無我
何事も、それ自体で成り立ちはしない。地球あってのメシ、メシあっての人、労働者・農民あっての有力者。
諸行無常
何事も、移ろい行くもの。人は死ぬ、共同体も滅ぶ。 一切皆苦
人生は、苦しみ。死ぬよりか、生きることに慣れる方をブッダは勧めた。 >590
諸法無我はもっと言葉通りの意味じゃないかな 音楽にしろ、言葉にしろ、視界にしろ、思考にしろ、プラスの感覚でとらえよ。即ち、引くのではなく、大げさに多く大きく意味を持たせよ。
理解のため。全ての物事を、プラスにとらえれば、理解できないことと、理解できることが、ぎりぎりまでやせ細るのではなく、
その人なりの個性的な思考が、持てる。なぜなら、理解の方法は、共通していない部分もあるからだ。
そのうえで共通了解と、読み取り、意味把握について、努力の上で、自らの力で構築していく何事かが、
持てるからだ。記憶などについて考えるのが一番早いだろう。記憶の様子を、プラスに考えることによって、
より記憶を、操ることができる。卑近な感じがして少しためらわれることを言っているが、認知に方法は関係がないのか、
といえば、恐らくあるだろうと私は思うので、そのようなことを考えた。
つまり、悟りに近づくことができるということは、生きることの上で、何らかの特別な概念、意味を作ることなのか、
あるいは精神の使い方をうまく考えつけるのか、という二つのことが私には、考えられるのだ。
というわけで、私が今回書いたのは、恐れや不安などのために避けてしまうことを、どのように評価し、
さらに、頼れて、生きることの意味が極点まで近づくなら、それはどういった形なのだろうか、ということについて、
プラスを心がけ、引くことは批判的な意味としてより疑うときに使うと良いのではないか、ということである。
プラスとマイナスは、二つの態度であり、私はプラスの方に気づかなかったということだ。 >>599
それはつまり、色んな感情を、楽しむことだ。存在自体を、納得できることだ。苦を自己外で解消することだ。
その為には、やはり考えることだ。縁起の全ては、思考においてとらえられていないわけでない。
縁起の全てを、知り尽くして、味わい尽くすことができたなら、その体験は、解脱になるだろう。
なぜなら、縁起が正しいと仮定するならば、それを知り尽くすことは、味わい尽くすことは、
全てのことを知ったことになるからだ。 心にこびりついた愛着を、キレイさっぱり洗い落とした! 一生、したくないことをしない。
一生、したいことをする。 必要善をしないなら、必要悪をする資格はない。
不要善をしないなら、不要悪をする資格はない。 大自然から生まれ、大自然とともに生き、死んで大自然に還るのだ。 不当な批判はいくらされてもいい。そちらがバカだもの。
正当な批判は少しもされたくない。こちらがバカだもの。 非自己を、自己を愛するように愛する。
自己を、非自己を愛さないように愛さない。 賞を求むるならば、罰を拒むなかれ。
罰を拒むならば、賞を求むるなかれ。 1: 無 職 な 哲 学 (152)
2: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (176)
3: 愛とはなんぞや シーズン45 (513)
4: 無 職 と 東 浩 紀 (458)
5: 東浩紀485 (747)
6: ■■ ネトウヨはなぜ無職しかいないのか?A ■■ (682)
7: 美魔女の21世紀倫理学 善く生きるとは (885)
8: 無 職 が 哲 学 (300)
9: V.E.フランクルの哲学・思想 (21)
10: 山本太郎 【れいわ新選組】 (207)
11: おっぱい [無断転載禁止]©2ch.net (109)
12: ク ン ニ リ ン グ ス (180)
13: ★☆★ THE お ま ん こ ★☆★ (426)
14: オマンチョ哲学 (9)
15: お ま ん こ 舐 め た い (49)
16: 悟りに近づくために11 (633) 他者の損得を考えぬなら、自分の損得も考えるなかれ。 不要なことをすることをやめる。
必要なことをしないことをやめる。 >>633
信仰関係なくね?
何であれ、義務とされるなら自由ではないってだけで 身体的免疫がダメ!→(身体的潔癖に。)
精神的免疫がダメ!→(精神的潔癖に。) 天に逆らうならば、天罰を覚悟するもの。天罰を受ける覚悟もなしに天に逆らうなど、笑止。 修行完成者(=覚者)
好きにして
好きにさせるが
無為自然
この境地を以って、悟り(=修行完成)とする。 天とは、大自然だ。どうやって、自然現象に反するのだ? 自分を疑うこと、他人を疑うこと、物事を疑うこと、価値を疑うこと、疑うだけなら罪とはならぬ、より良い方法を探すのは、
現実になっていない意味ゆえに、いつも悩んでばかりいないで、Don't think twice, it's all right. を実行すること、
疑って疑わない、その両者の意味は違う、悩むと悩まないとは車の両輪、どっちが欠けていてもいけないけれど、
同時に同じことが浮かんでくるから、悩み悩まぬ、疑い疑わぬ、くよくよするなよ、批判精神と信仰心、
現実以前と現実の後、批判は強く豊かな心を作る、現実は夢の実現する場所、考えるならよく考えよ、
罪におびえず疑うくらいは、自分の力、特別よりも現実指向、くたばる前には良く生きねばならぬ、
良く生きるには疑って乗り越えよ、今までやってこなかった意味が見える、そのためには二回考えるな、
これが矛盾に思えても、本当のところは矛盾を許容すること、矛盾を無駄に打たないこと、
矛盾と無矛盾のどちらかに偏ってはいけない、自分は、相手は、環境はそれでいいか、同じ意味は、
現実にも夢想にも存在しないから、出来ることの中でも役立ちそうなことを自分として、
実験は再現する必要はない、真実が見えているかどうかが問題だ、狂信の思い込みから逃れたら、
真なる意味が待っている、疑いさえすれば自分は許される、とっかかった縁を掴んでいる限り、
自分で歩くには、応援の広い心を与えられる、だからくよくよしないで、人は良いものを待っているものだから、
今答えられないなら、わずかな自由の範囲を広げるだけでも、人を邪魔する質問を出すよりも、
簡単で効果のある思考を持って、同じ意味がないことを、悔いるか望むか、考え方ひとつで、
疑いと信仰のボタンの掛け違い、たったそれだけ、うまくボタンははめられるかだけ、小さな修正が大きな意味を持つ、
自由は邪魔せず邪魔されず、責務はわずかな出費にすぎぬ、疑いが翼になる、くよくよしないでいようとだけ。 世界全体主義から見れば、地球全体主義は宇宙の塵。
地球全体主義から見れば、日本一国主義はままごと遊び。 唯物論を否定しなければ信仰を保てない人は、真の宗教者ではない。 必要悪をしないという不要善
必要善をしないという不要悪 必要善をしないという不要悪
必要悪をしないという不要善
不要善をしないという必要悪
不要悪をしないという必要善 無生物としての自己に、生物としての自己が追いつかない。それこそが、精神病だ! 現実への対処能が早くなれば早くなるほど、精神病になりにくくなるのだろう。 まあ、当たり前かな。現実が受け入れられないうちは、心の病篤い状態が続くものな。
まず、そうだろう。 無生物としての自己に生物としての自己が追いつけないということが一生ないなら、それこそ悟りであろう。
多分な。 向上する者、上と比べる。
堕落する者、下と比べる。 全知全能を悟りとしよう。
全てを把握するのが、全知。
実現の仕方が全てわかるのが全能。
と、仮定する。(実際にそうなのではない。) 全知全能の神が全知全能度100%ならば、我々人間や虫、微生物のそれ(全知全能度)は、いかほどであろうか? 悟りを富士山登頂とする。全知全能度100%を登頂(10合目)とする。 この険しい登山、登頂(10合目)に至る前に寿命が来る人が多そうである。 私はなんとなく、3%、つまり、0.3合目までは来れたかなと思っている。 0.3合目と言ったら、1合目までの3合目でしかないが、それでも十分。 仏の道は遠いというが、ここまで遠いなら、悟りを求めて泣き喚く煩悩も捨てるべきだ。 668について。
実際のこと知らんので、なんとも言えん。本当のことは知らんから、僧侶なり仏教の専門家なりに聞いてくれ。 685 訂正。
実際にそうなのではない
↓
実際の意味は知らない 他者に悪意を持つ者は、自分自身にも悪意を持つものだ。 >>685さんの言われたことから考えると、
まず悟りというのは、特別なことであり、言葉も特別である。
具体的に言うと、全知ならば全能であり、全能であれば全知である。これは直観的にわかると思う。だがそうだからといって、言葉の意味は
同値ではない。
なぜ同値でないのか。そこに、悟りというものの不思議があると思われる。その不思議は、知るという行為と、能という力について、
自己と他者を知るということが、同時に起こってしまうことであり、その区別は、知において働かない。だから、知るということを考えると、
知るという働きと状態は、唯一自己において関わることしかできないものである。全ての知は自己の知だけを体験する。
一方、能という力は、他と自を変えうるものであり、その対象に区別がないということは、知とは違い、他者の能をも知りうることである
と導ける。
そう見ると、知と能が、「全」の冠の下で両方を成り立たされるものだということが、極限をとると、同じ、悟りへ向かい、一致するのでは
ないか、と思う。
言葉としてはこのように考えられるだろう。
では、知と能は、現実においてどのように実質は働くのであろうか。
それは、繰り返さないということが、正しいということを証明するものである。繰り返しは執着を生みだす。執着のない考えは、
無明を払うものだ。周りの環境において、現実を得ることと、自分の考えを、その中に溶け込ませ、順序も含めて、正しく他と自を、
そのままに得ること。このキーポイントが、やはり繰り返さないということである。
生まれ変わりに執着してしまう自分があるとしたら、それは、自分の生が、繰り返しによって疎外された状態で生きているから、その外に
あるはずの、繰り返しのない生き方、知り方を、分からないでいる状態にあるからであろう。
というわけで、全を知りえれば、全ての能力が発揮され、全を力に持てば、その帰結は全ての知に至るのである。
こういったことは、悟りへの段階において、少しづつ近づいていけることであり、落ちこぼれてしまうことは、ないのである。
生の一貫性は、唯一へと至る。そしてその働きは、全ての「人間」に同じである。 他者の全ての悪意は、私の善意を成仏させる。
他者の全ての善意は、私の悪意を成仏させる。 もし、繰り返さないとわからないことがあった場合、その時考えの助けとして持てる言葉は、「よし」と「だめ」だけである。
この二つの言葉は、自分の意見を固めることであり、とっさのことで、良く判断の助けになる。 「よし」を繰り返し、意見を固め、「だめ」を繰り返し、意見を固める。評価の言葉として、余分なところのない言葉である。 誠心誠意とは、皆への誠心誠意である。自分以外の皆への誠心誠意ではなく、皆への誠心誠意である。 悪を以って悪を制するのは、血で血を洗うようなものだ。 賞罰が気になるのは、覚悟ができていない証拠。覚悟をしている者は、賞罰を無視するものだ。 瞑想でなく迷走してるな
全知全能と悟りは全然関係ないぞ 昨日ご飯を食べることはできるでしょうか?できませんね。昨日ご飯を食べなかったまたは昨日ご飯を食べたのであり、昨日ご飯を食べることは不可能です。
もちろん、昨日作ったご飯を今日食べることはできます。でも、昨日ご飯を食べよう!と言って、昨日ご飯を食べることはできないのです。 同様に、明日ご飯を食べたもあり得ません。明日ご飯を食べるか明日ご飯を食べないかはあります。ですが、明日ご飯を食べたは、おかしいのです。
これも同じく、今日作るご飯を明日食べることはできるかもしれません。しかし、明日食べたご飯おいしかった!と言って、明日ご飯を食べたというのはおかしいわけです。 慈悲とは、優しさ。
妊婦さんには、席を譲ってあげましょう。
おばあちゃんには、荷物を運ぶのを手伝ってあげましょう。
怪我人や障害のある人には、迷わず手助けしましょう。
他人を皆が皆友だちだと思う必要はありません。ですが、友だちに接するように接するならば、勇気も要りません。社会人としての義務を遂行しただけですとでも言っておけばよい。
ただそれだけのことなのです。 また、生きものに無慈悲なのはよくないです。人間も生きもの。差別されてうれしいでしょうか?うれしくありません。ならば、人間以外にも優しくしましょう。 慈悲とは、してやる義理のないことをしてやることでしょうか?
殴りつづけることができるが、殴る手を止めてやることとか 慈悲とは、メルシ、メルシ・ボクー、
ルメルシマン、ご褒美 豚(たる) 宿る(やどる) 彩る(いろどる) 陣取る(じんどる) 象る(かたどる) 春(ほる)
或(ほる)で病(である)でおる^ホ
おぶおぶおぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ おーぶおぶおぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ
poison heaven healthy horrid 罪(ゾイ)罰(ほる) 罰(ヘボ) 罰(つるほ) 菌(バツ) 罰(ぼさ) 罰(ボツ) 相手をしっかりと批判できない人は、相手を愛しているのではない。ただ、恐れているだけだ! 迎合するなら、陰口を言う資格なし。陰口言うなら、迎合するな。 言いたいことはあるが本人の前では言わないのは優しさ
あるいは大人な態度
本人に言っても人間関係が揉めるだけ 阿り 屁(ほふひ)
惚(ほる) 或(おる) 病(ある) 川(ない) 刀(ない) 有る(るる) 無い(のい) 無(ほん)
或いわ(ほるいわ) 病岩(あるいわ) 或いわ(おるいわ)
優しい(やそしい) 大人(あたご) 男女(おとな) 善悪も罪と罰も人間が生み出したもの
人間がいなければ善も悪もない 妖怪自分勝手
勝手にしろ!勝手にしろ!
勝手にしろ!勝手にしろ! 自己を作ったり呼び出してる他者の眼差しを排除する事。
自己の現象を排除する事で、自己を含む宇宙現象的なものと法とを分別して、見下す為。 過去は、既に刻まれている。
未来は、なるようにしかならない。
無生物の手によって。 善意とは、承認欲求を満たし、満たさせること。
悪意とは、反転した承認欲求を満たし、満たさせること。 人によって把握している物事が違うのに、どちらが正しいどちらが間違いと簡単に一方的に断定できる人は、相当頭が悪いと思う。 高二病が治っていないなら、中二病が完治しているとは言えない。 中二病を否定する。
中二病の否定もまた否定する。
(自己矛盾) 生まれて良かったと思わないまでも、せめて生まれなければ良かったと思わなくて済むだけの人生は送りたいものだ。 ガンディーは、イギリスから来た人たちが、塩を作るなという意味不明な命令を勝手に法律と言って出して来たため、この頭のおかしい自己愛性人格障害者の人たちを完全に無視し、塩を作った。
逮捕投獄されたが、おかしいのガンディーではない、イギリスから来た自己愛性人格障害の頭のおかしい人たちの方である。 得する、得させる、
得しない、得させない。
損する、損させる。
損しない、損させない。
善行をする、善行をさせる。
善行をしない、善行をさせない。
悪行をする、悪行をさせる。
悪行をしない、悪行をさせない。 正しい判断を
誤った判断を
得を
損を
善行を
悪行を
楽行を
苦行を する
しない
させる
させない
される
されない
させられる
させられない 微かな好意も無限なる好意も、その性質としては同じであり、それは無限なるものへのつながりからくるものだ。
現実化するときにその程度は決まるのだが、一度抱いた好意が、無碍にされることはない。なぜなら、
好意と言うのは、自分を越えたところ(無限なもののところ)にあるからだ。自分というものは、無限なる山から得られるものを、
自分の力で、いくらか砕き頂いてきて、その変わりえぬものへと、自分の生きている限りの力を託すことを、して生きる。
それは、沢山の可能性の山であり、自分が一度は平伏したことのあるところのものである。
そして、自分と人の悪意を望むものは一人もいないだろうが、悪意そのものは、無限ではない。それが、善対悪の構図が、
人間にとって積極的に、意味されるところだ。人間というものが、弱くあるというのが本来であり、だが、好意の中において人は、
強くあれるということをこそ見ねばならない。
悪と善との図式は、死と生が周りをまわる図式だ。近づいたり離れたりして、人は惑わされずにはいられない。
だが、人間の考える力によってこそ、
どちらを身に置くかということでどちらが居心地よくあり、
一度の生を生きるということが、無駄に過ごされないという意志によって、変えられるということを、
決められるということであろうということをこそ見ねばならない。 absolutely(o_bu_sa_ryuu_tu_ri) のるのるのるるるるるるるるる のるのるのるのるるるるるるるるるる
ふるふるるるるるるるるるるふるるるるるるる ふるふるふるるるるるるるるる 善を行う=善を行う
善を行わない=善を行わない
悪を行う=悪を行う
悪を行わない=悪を行わない 偽善を行う=偽善を行う
偽善を行わない=偽善を行わない
偽悪を行う=偽悪を行う
偽悪を行わない=偽悪を行わない 偽善を行わない≠善を行う
偽悪を行わない≠悪を行う 善を行わない≠悪を行う
悪を行わない≠善を行う
偽善≠善
偽悪≠悪 偽善は善ではないが、悪でもない。
偽悪は悪ではないが、善でもない。 自他ともに、何を求める資格があり、何を求める資格がないのか?これを、見極める。 なるようになった、ならないようにはならなかった。
なるようになる、ならないようにはならない。 俺は俺
お前はお前
これ事実
受け入れようと
受け入れまいと 多世界解釈を、「多世界、解釈。」ではなく、「多、世界解釈。」と捉える。 この多世界解釈理論を、スレ主アブサロム殿に捧げる。 「するべきではない。」は、「しないべき。」ではない。
「しないべきではない。」は、「するべき。」ではない。 義務は、美化された権利。
権利は、醜化された義務。 >>773, >>774
自分が沢山の解釈を持つべき、というのではなく、沢山の解釈を持っている人がいる、ということでしょうか。
先立つのは、他人(および真理)の考えであり、自分はその後にある、ということですね。
好意によって、自分も他者も成り立ちます。悪いこと、まずいことなどを考えるのは、負の考えでしょうが、
好意を持たない人の世界と言うのは、結局自分の中に貧しいものしか得られないのです。
好意を実現するべきであり、その実現には、自分が好意を持ち、積極的に築いていきたい関係について、
相手、その人の都合、相手、その人の意志、相手、その人の世界の行き先を、自分よりも先に考えて、そのうえで、
自分がそうやってして意図した通りのことが成り立ったことに満足する。そのようにして、個人は、
悪いとか、嫌われているとかいう負の面、否定したいこと、が一面では否定され、積極的な自分の世界、満足を、
少しでも得られるのだと思います。
悪いことを追求したいというのが間違いです。良いことを追求することしかないでしょう。
自分の決めたことは、空であり、色でもあると思います。どちらにも、なりうる。
だからこそ、自分が、関わるならば、そのかかわりについて、よく考えるなら、どうすれば抜けられるか、
というのは、真実を分かっているという状態を、増やしていくことでしょう。
自分がしたいことをする、というのは、なんなのか、というと、自分の力の方向を知ることによって、
無明状態を抜ける、ということだと思います。
自分の責任を負わねばならないということがあり、その中で幸福や悟りに至るためには、好意的世界に貢献することによって、
償いをすることが、唯一の方法であると、僕は思います。
人間は、全能ではないでありませんか。だから、全てのことができるはずはない。するべきことというのは、幸福を感じることを
するべきです。その世界への意図を、否定することが、間違いです。その世界を、守り、その部分で貢献すること。
そうでなければ、負の感情にやられてしまいます。難しくないこと、自然で小さなことでいいと思います。
各人が、したいことをしたい世界であるかどうかは、世界に責を負わせるのではなく、自分の範囲に傾注すること、
その程度で、制限、けん責されるべきだと思います。 信仰は、叩かれれば叩かれるほど強くなる。認められれば認められるほど弱くなる。 教師となってくれた人たちへ、教師となってくださってありがとうこざいました。
反面教師となってくれた人たちへ、反面教師となってくださってありがとうございました。 おほしさまそうろいます。
どういたしまして。どうもありがたくそうろいました。 小人、閑居して不善をなす。
つまらない人間は、暇になるロクなことをしない。 覚者の孤独を、誰がわかってくれようか?誰も、わかろうともしなければわかりたくもない。 だが、私だけは知っている。私が正しいことをしたこと。正しい判断をしたこと。 世界が罵ろうとも、天だけは知っている。私が悔い改めてのち、正しく生きたこと。そして、死ぬまで正しく生きることを本心から望んでいることを! 天よ、あなたがなぜ黙ったままだったのか、なぜこれからもおそらく永久に黙ったままであろうことなのかを、私はよく知っている。 あなたは、あなたが生み出した全ての者たちを差別しないのだ。命ある全ての者たちに、情け容赦もなく冷酷に平等。 それこそが、あなたの無償の愛(=アガペー)であるのだということを。 私は、天よ。子どもだったのだ!ただ単に、幼かったのだ。 天の寵愛を独り占めしたがる、ただのワガママな幼子だったのだ! 天よ、赦しを求めはしない。なぜなら天よ、あなたは初めから、私を恨みも憎みもしていない。むしろ天よ、私の方こそ、あなたを憎んでいたのだ! 天よ、あなたに従います。あなたに従わないことはまるで、ビリヤードの玉が自分は自分の意志で転がっていると信じ込むようなものです! そのような愚かさを、天よ。あなたは、可愛く思っているのでしょう。バカめが!(笑笑!)と。 >>813
お前、俺今いいこと言ってんだから、横槍入れてくんなボケ! 801-814、813以外同一人物ですからお間違えなく! 自身の善い部分を自身の教師とし、自身の悪い部分を自身の反面教師とする。 誰のいい部分も師とすることができる。
誰の悪い部分も反面教師とすることができる。
そのようにする。 悪質な洗脳をしないようにというかいい事ってのは洗脳の危険在り。 人間と言うのは本来自由なものだ。自由を制限するのは、様々な教条である。もちろんキリスト教のではない。
文を読んだりするときに起こる、きっかけに全てを合わせるような思考の仕方だ。どのような単語も、自由を制限するということ、
それに無自覚でいるといけない。つまり、何らかの戒めが、生の全てを縛るとすれば、それは、ドグマとして持たれる
様々な教条のことなのであると言いたい。ドグマにおいて不自由である、というのは、自分の現在であるから、
そこにとどまる理由と言うのは、自らの立脚点を正しく身につけられなかったという傾向にあるものである。
立脚点があれば、何らかの意味を生み出せる。ドグマVS立脚点。国際情勢でも、自国民VS他国民という、
非対称性が生じるということは明らかだ。ではどういう国家が理想か?実にそれは、自由のある国家だ。
自由を定める国家が、人の自由を実際に進められる。人は、自由に対しては文句をつけない。
だから自由は、平等と博愛と、並ぶ理念として、広い社会を約束する。広い社会で自由であることがあれば、
その人は存在を受け入れられやすい。ここにおいて、自VS他という関係が、少し変わる。自と他は、お互いの自由を尊重しあうことを、
共同に認められる。これこそが、一つの共同体だ。共に認めあっていれば、自由をつぶす理由はない。
関係自体が、自由なる関係である。その理念の実現には、貧困の克服が課題である。
自由と愛は、全ての人に与えられるべきである。愛については、難しすぎて、よくわからないが。
悟りを得るには、自由な思考をできる、すなわち、大人になるということが、必要である。
そのような言葉は、仏教では沢山の言葉、概念があるということを考えれば、言葉において言えること以上のものである
ということが、悟りにおいてはまるはずだ。自由が侵されないよう、個人がゆっくりと歩まねばならない。
ゆっくりと歩むことができれば、それが本当の悟りであるだろうと、私は思う。 @生存→A自由→B愛→C平等
という風に、実現されるだろうと考える。
だとすると、
@労働→A人生→B感情→C悟り
という風に実現されるだろうと考える。
結果として、幸福な人が増えるなら、上の図式も正しい考えであると言えるようになるだろう。 他人の自己神格化に対し、自己神格化で対抗することをやめ、むしろ自分と同じように他人もまたただの人間に過ぎないと知る。これで、人間の人格化は完了だ! 人間人間宣言
人間は、人間。神でもなんでもなく、人間に過ぎない。 自己神格化自己愛人格のゴミ人間どもに自己神格化で対抗すること、つまり、自己愛性人格障害のゴミどもに対し自分も同じように自己愛性人格障害のゴミクズになることで対抗することをやめる。 王権神授は誤り、正しくは王権王授。
人権天授は誤り、正しくは人権人授。 マウンティングをする変態
プレゼンティングを求める変態 マウンティングをする変態
プレゼンティングをする変態 マウンティングやプレゼンティングをするやつは、本質的にSMプレイ愛好家と同じ。
ただの変態だ! 変態であることを自覚できない変態は、世界一の大変態。変態であることを自覚しろ! 虚無主義(ニヒリズム)が仏教(ブディズム)の劣化コピーなら、仏教(ブディズム)は完成された虚無主義(パーフェクトニヒリズム)なのでは? 夜中でもこれだけ暑いと、どこにも旅行に出かけなくても、
熱帯地方を旅してジャングルの中で寝ているような異国情緒を楽しめる 未来はわからないもの。過去は変えられない(記憶の改ざんはできない)が、未来はわからない。
分かると思っているのは、自分の思い込みである。
だから、変わりある未来について、絶望はできない。「死ぬか」と思うのが習慣になっているとしたら、「生きるか」と思い、習慣を
変えるべきである。未来への想像は、能力であり、習慣である。未来の想像は、実にどれくらい先の未来を思い描くか、
といったことにおいても、習慣の内である。
未来が、自分を損なおうとするものである、ということは、全くない。自分自身への罪悪感、不快感、絶望感は、
過去から襲ってくる。何らかの行動をしなければならないときには、未来も過去も現在も、自分を歴史に刻みたい、
などといった馬鹿げた欲望を抱くのではなく、自分自身が行動するのだから、その行動を楽しめるようになるのが、
正しいだろう。未来を見ようとし続ける(持続)によって、未来が見えるようになる。そのとき、自分への劣等感、罪悪感が、
実は、迷ってしまっていることの結果だということになるであろう。変えたいと思えば、より早く変わるものである。
未来を知るということは、大変に手近で、大変に能力的で、大変に習慣的なことである。心の問題が重くあるのでであれば、
未来ということをめぐって考えるのは、一つの、重要で変革的な、行動として、差別されないことである。
したがって、何らかの事実を、必要以上に心に病むことはないのである。競争や戦争などをしても、意味はない。
個人主義的な意識を持てば、自分の扱うべき方向が、曲げられることはない。自分の責任とは、自分で取れるものについて
関わるのでないのであれば、際限がない。未来の共有は、基本的に個人の能力を超えており、ある瞬間に共有への意志に
振れた、と思うのがまれであり、それはその際に感じるだけでも、十分である。そのようにして、未来を共有しあうという理念を
立てることの次に、理想を錯覚あるいは信頼することによって、他との信頼も、共生も、生まれるのである。 瞑想にも様々なやり方があるだろうが、その一つとして、ボールが転がっているのを想像するということがある。
過去から、現在、未来に向けて、ボールが転がっているのを想像する。すると、過去において転がっている、
現在に転がっている、未来に転がっている。特に、未来でボールが転がっているイメージを描くのであれば、
一連の流れは、最後の未来において、延々と転がっている様子を想像するのができて、演繹の、最良の形となる。 呼吸を連続して未来に向かってすることが、人間にとって最も根源的な演繹である。 >>845
わからない未来の例として、明日夕方ごろ、何羽の鳥が外で鳴くのが聞こえるだろう、といったこと。それを当てることができない。
わからない未来の例である。わからないからこそ、個人の自由が浮きだされる。懸案は懸案としてあるが、それは、解きがたい
ことではない。当てられないことと懸案を、ごちゃ混ぜにすると、困難が起きる。当てられないことを懸案にすると、
解きようがない。何でも努力すればいいというわけではない。懸案を解くことには、意味がある。当てられないことを
解くことには、意味がない。個人や社会は、何が懸案で、その前で取り組むか放棄するかといった態度を、取りうるが、
出来ないことをできると思うのは、革新の態度である。能力や病状により出来ないことに、しがみつこうとするのは、
理想的な態度ではあるが、それをよく考えて、採用不採用といった判断を下すべきである。そして、不可能に挑むことは、
柔軟な態度を持っていないと、自分一人の問題ではないならば非常に大きい困難を作り出すことになってしまう。
だから、自分の自慢を達成しようと、人に押し付けてはいけない。なぜなら人々は、わからないからこそ生きられるので
あるから。わからないことを自分で体験するのは、非常な権利であり、喜びでもあるのである。そういう意味では、
個人の責任とは、わからないということと、教育、成長といったこと、さらに、不可能と、裏表である。
死による不可能、それが究極最後の責任である。生きているうちの不可能は、耐えがたい場合もあるが、
時により、わからないという状態による救いが、まだあるのである。
そのようにして、未来を迎える時における、自然さと努力とは、位置付けられるべきではないかと考える。
目標の立て方とは、凄く難しいことだ。 未来が分からないことは、罪の意識と関係があることだ。自分が軽く見られて、扱われてきた場合、自分の考えたことがあって、
過去と照らし合わせると自分が罰を受けるんじゃないかとか、非常に逃れがたい意識が生まれることがある。
だが、罪の意識は、自分の中で想像しただけでは、実際に行っていないのだから、現実のことではない。
ただ、頭で考えただけだ。そして、未来が分かっているような気がする場合、常に自分の罪が、行動と結びついてしまうというような、
選択の思考の誤りによって支配される。そういう思い込みを晴らすことができなければ、ずっと苦しんで、自分の中で、
闘うことになる。そこで、未来がわからないということを、思うべきである。罪の意識を抱いたけれど、それが自分にどう及ぶのかは、
わからないといったことだ。 私が幸せでありますように。
私の悩み苦しみがなくなりますように。
私の願い事が叶いますように。
私に悟りが得られますように。 私たちが幸せでありますように。
私たちの悩み苦しみがなくなりますように。
私たちの願い事が叶いますように。
私たちに悟りが得られますように。 生きとし生けるものが幸せでありますように。
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように。
生きとし生けるものの願い事が叶いますように。
生きとし生けるものに悟りが得られますように。 愛する者が愛されます。愛を求める者は愛を求められるだけです。 どうせユートピアになる、
どうせディストピアにはならない。 一生涯、人、生きもの、無生物を、自分を愛するように愛する。 仏教とは、真理探究のことだ。ガウタマ・シッダールタ個人崇拝のことではない。
イスラムとは、神アラーに絶対服従することを言う。預言者ムハンマドを崇め奉ることを言うのではない。
社会主義とは、社会に忠誠を尽くすことを言う。毛沢東に従うのは、毛沢東崇拝である。
民主主義とは、民主主義を地で行くことだ。票を集めるのは大衆迎合主義である。
キリスト教とは、キリストの教えを言う。イエスを崇拝するなら、キリスト教よりもより正確な表現であるイエス教を称するか、せめてイエス・キリスト教と称してくれ。キリストを称する者は何人もいるから、どのキリストのことかわからない。まぎらわしいのだ。 死んだらもう、自分は自分でなくなる。自分は他人となる。自分の家族は他人の家族となる。自分の友人知人は他人の友人知人となる。自分の世界は他人の世界となる。 昭和日本史を学んだだけで、世界史を学んだことになるのか?
地球史を学べばそれで、宇宙史を学んだことになるのか?
これまでのことを学べばそれで、これからのことは何もかもお見通しなのだろうか?
妄想と現実は、区別しなければならない。 自尊心とは、己贔屓の心を言う。日本人が日本に肩入れし、アメリカ人がアメリカに肩入れするように、誰でも自分に肩入れする。 この己贔屓の心が、心の苦しみを生む元なのだと、さとうみつろうなる人物が本の中でそう説いた。 仏教の渇愛、アドラーの承認欲求、己贔屓の心は、苦しみ生んで何の得にもならぬこと限りなし。 仏教の渇愛、アドラーの承認欲求、己贔屓の心は、苦しみばかり生んで何の得にもならぬこと限りなし。 必要善、得でありかつ善でもある。
必要悪、得ではあるが悪である。
不要善、損であるが善である。
不要悪、損でありかつ悪でもある。 見たくないものから目を逸らす。そういう人間に、未来はない。 教師とすべきものを反面教師とし、反面教師とすべきものを教師とする。
間違った成長は、全てここから始まる。 功を賞されることを求めなら、罪を罰せられないことを求めるなかれ。
罪を罰せられないことを求めるなら、功を賞されることを求めるなかれ。 功を賞されることを求めるなら、罪を罰せられないことを求めるなかれ。
罪を罰せられないことを求めるなら、功を賞されることを求めるなかれ。 正当なことを不当化しないこと。
不当なことを正当化しないこと。 善人には善の、悪人には悪の美学があるのだろう。もう疲れた。双方の信仰を認める。善の聖戦も、悪の聖戦も、思う存分やってくれ。ただし、周りは正直かなり迷惑している。もう少し周りの迷惑も考えて聖戦をやってくれ。 自分こそが善で他人が悪とお互いに思ってるから揉める 人の行動の裏の心配を察知して、自分の心配を良く知り、心配を蔓延させないことが大切です。心配というのは、
形を変えて行動を支配します。形がないだけに、偏在しやすく、伝播しやすく、偽装しやすいです。
良く見つめなければいけません。 行動以外で、心配をなくすのは、不可能です。越えがたい究極の感情として、死と痛みを決めているからです。
心配を払う行動によれば、新しいものが生まれます。それは、自分が他者に投げかける質問を恐れない、
といったことに、かかっています。自分が行動しないのに、他人に行動せよというのは、余りに愚かです。
なぜなら、その行為に意味は全くないからです。 心正しき強者に、弱者は涙を流すものだ。この人こそ、ホンモノだとわかるからだ。弱いうちだけ善人で、強くなった途端悪人になる。こういう人は、恐れられたり軽蔑を買ったりこそしても、心から慕われたり尊敬されたりすることはない。 何が正しくて何が正しくないなんて簡単には決められない 正当化は、不当だと思っていない証拠。
不当化は、正当だと思っていない証拠。 内で振る舞うように外でも振る舞う。
外で振る舞うように内でも振る舞う。 中二病はバカだが、高二病はバカの一つ覚え。目糞鼻糞を嗤うとはまさにこのことだ。 他人を見上げるのは、自分を見下しているのと同じこと。
他人を見下すのは、自分を見上げているのと同じこと。
どちらも、相当変! 心にぽっかりと空いた穴、それは、偽心。偽心など、食品サンプルのようなものだ。食えないから、食品サンプルとして使うのでなければ捨ててしまえ!リサイクルショップ?早く行け! 悪意の思う壺にならぬよう。
善意の思う壺になるよう。
計らうべし! ユートピアが好きだからユートピアにする。
ディストピアが嫌いだからディストピアにしない。
それでいいんだよ! なんでもええけど、馬鹿な妄想ばっかりしてないで、現実にしてから考えてくれ 「赤信号、みんなで渡れば恐くない。運悪くただ、自分のみ死ぬ。」これは、自己責任だ。自己の責任でそうしているのが自己責任でないなら、この世に自己責任は存在しない。それぐらいは、赤ちゃんでもわかる。 自分は、自分史を刻んでいる。
日本は、日本史を刻んでいる。
世界は、世界史を刻んでいる。 (西谷修を参考にして考える)
人間は、戦争の中に、自らを投げ入れる。そう言う形で、言葉で表せない思考の存在を、誰もが最後まで持っているということを、
気づかされる。最終的には、理性が純的ではないことを死の中に見る。他と自の存在を知る。最後の手段だ。
自分は殺されるべきではないし、他人が殺されるべきでもないと、知ることだ。それまで否定していたものが、何なのか気づく。
それは、他人の命である。意志である。言葉にしきれない生である。また、人生における、ただ一つある自分自身の力である。
戦争の性質を語る言葉を見よう。そうやって、他者同士が、孤独でないことを、確信する場所が、そのような関係に基づいて、あるだろう。
それを思えば、人の命の価値は平等であると信じることが正しい。命の価値が平等であるということを、信ずるようになる。
その他には平等はないということを思っていたことの先に、信仰は向かっていく。
そのように、否定されないものが集団的に、社会の雰囲気として漂っているが、それは、違いがあっても他人を認めることが
できるようになることを突き付ける雰囲気だ。否定していたものこそ、思考不可能、理解不可能であり、理解こそは、一度知ったとき、
後退しない。自分自身の不明によって、自らが否定してきたもの、それが即ち、自己優越だ。数の論理だ。
生きる方法を、身につけることができる。生きているという現実の中で、自分だけを考えていることは、
生の中の命の差別だ。生は言葉の問題ではない。人との関わりも、言葉の問題は、本当ではない。
言葉が挫折したとき、言葉ではなく、戦争の中に投げ出すような、命の存在を、生においてもぶつかりあうような場面は、
多々あるであろう。それが、数、優越の論理ではない、生と戦争の持つ論理である。自分がどこかおかしいと思うならば、
そうした生の理解と、何らか別の、責任を、求めることはできるだろうか。他人の存在を見ることから始まり、
他人を否定する論理回路をもつ。その次に、他人とどうわかりあうかと考え、最後には、他人の最低限と自分の最低限が、
共通しているということを知ったとき、最低限にして最も強靭なコミュニケーションが、行われるはずである。
知らなければわからないことだ。知ったとき、希望がある。自分も他人も大丈夫だ。 ただし、自分のみ。
ただし、自分以外のみ。
この二つ、一生なし。 承認欲求に囚われて本質的倫理が欠けている人は、その本質的倫理が欠けた偽りの倫理を他人にも強要する傾向がある。承認欲求の権化は、危うし! 今のあなたは、これまでのあなた。
今のあなたは、これからのあなた。 行いの功罪だけでなく、思いの功罪もまた功罪。自分は一生涯、これがわかる人間でいる。
功を愛して、人を愛さず。
罪を憎んで、人を憎まず。 道徳は、自己目的化して初めて道徳となる。自己目的化しない限り道徳とはいえない。 生命のいない火星のような星よりも生命のいる地球のような星を愛するなら、生を愛している。
生命のいる地球のような星よりも生命のいない火星のような星を愛するなら、死を愛している。
どちらも、悟りではない。 善を悪だと言い、悪を善だと言うなら、世界はロクなことにならない。スケープゴートが聖戦の、ディストピアになるだけだ!
善は善であり、悪は悪である。これがわからないと、大変なことになってしまう。 エゴイストがエゴイストを批判するなど、目糞鼻糞を嗤うもいいとこだ。 料理がうまくなりたければ、料理をしなければならない。料理ごっこをしても、料理ごっこがうまくなるだけだ。 現在の自分は過去の自分を継承し、未来の自分は現在の自分を継承する。過去の自分の責任を取れない人は、現在の自分の責任も未来の自分の責任も取れない。 攻めはできても守りはできない。そんな人間に、戦い上手を称する資格はない。
守りはできても攻めはできない。そんな人間に、戦い上手を称する資格はない。 必要善とは、他者犠牲をしないこと。
必要悪とは、自己犠牲をしないこと。
不要善とは、自己犠牲をすること。
不要悪とは、他者犠牲をすること。 アメリカでは、一日一日を一生のように思って生きる。
ソビエトロシアでは、一生一生を一日のように思って生きる。 前向きとは、未来を見つめていること。
後ろ向きとは、過去を見つめていること。
前向きでないとは、未来を見つめていないこと。
後ろ向きでないとは、過去を見つめていないこと。
前向きでないからといって後ろ向きとは限らない。
後ろ向きでないからといって前向きとは限らない。 現在の自分を頼みにして過去の自分をないがしろにし、未来の自分を頼みにして現在の自分をないがしろにする。こうして、一生をないがしろにするのである。気をつけなければならない。 過去を頼みにして現在をないがしろにする。
未来を頼みにして現在をないがしろにする。
こうして、一生を棒に振る。
実に愚かで、自業自得なことである。 >>930
将来に活かすために過去を反省することは後ろ向きとは言わない。
よって、お前の主張は間違っている。 光から闇に転ばない方法は、どんな理由があっても闇に転ばない以外にはない。ちなみに、闇に転ぶなら、光に立ち返らない限りは終生転び者として生きることになる。 あなたは人だが、人が皆あなたなのではない。
人は霊長類だが、霊長類が皆人なのではない。
霊長類は哺乳類だが、哺乳類が皆霊長類なのではない。
哺乳類は脊椎動物だが、脊椎動物が皆哺乳類なのではない。 自分以外の人を人として扱う分には構わないが、自分として扱ったら大変なことになる。
人以外の霊長類を霊長類として扱う分には構わないが、人として扱ったら大変なことになる。
霊長類以外の哺乳類を哺乳類として扱う分には構わないが、霊長類として扱ったら大変なことになる。
哺乳類以外の脊椎動物を脊椎動物として扱う分には構わないが、哺乳類として扱ったら大変なことになる。 暑いときには、常夏のリゾートのように暑いと感じるようにしている 実際、暑いこと自体が不快であるというより、暑いのにきちんとした服を
着用することを義務付けられていたり、閉ざされた空間に閉じ込められて
集中した作業に専念することを強要されることが不快さにつながっている。
暑さを身体的な負荷の軽減と条件的に結び付けるなら、暑さがリゾート感
を生む。 性中立説
人間の元来の性質は、善でも悪でもなく中庸であるという説。人間は元来善人でも悪人でもなく、中途半端な中ぐらいのやつであるとする。 1: 無 職 は 哲 学 (172)
2: 東浩紀491 (245)
3: 無 職 の 哲 学 (949)
4: 【表現の自由】東浩紀491 (206)
5: 無 職 と 東 浩 紀 (474)
6: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (202)
7: 禅 (716)
8: 悟りに近づくために11 (943) 自分のことだけ考えて自分以外のことは考えないのは、ちょうど自国のことだけ考えて自国以外のことは考えないようなものだ。
自分以外のことだけ考えて自分のことは考えないのは、ちょうど自国以外のことだけ考えて自国のことは考えないようなものだ。 外善内悪(がいぜんないあく)
邪念に満ちた悪意の塊で、生きながらに悪霊となった即身悪霊。古来暗黒神の化身と恐れられ、人の姿をした祟り神と呼ばれた。極めて邪悪な生霊で、自身が即身成仏となった極めて成仏力の強い修験者でしか成仏させることができず、その成仏には膨大な犠牲が出たという。 有生物は有意味
無生物は無意味
これが人間ね〜。
〜人間について、人間 剣岳の地図
死ぬ思いで大変な測量をし、やっと地図を書き上げだと思いきやすでに書かれてあったことから、自分がどんなに困難な大変な思いをしてものごとを成功させても、せいぜい人並みに過ぎないことの例え。 不当な賞罰に腹を立てない。これは、社会人として当たり前のことである。本気で腹を立てるなら、行動しなければならない。行動せずに文句だけ言うのは、ゴミ人間のやることだ。 他の人間たちがどれほど狂っていても、自分一人だけはまともな生き方をする。こういう人間を、真人間という。
他の人たちがまともな生き方をしないなら、自分もまともな生き方をしない。こういう人間を、異常人格者という。 まともな生き方がしたければ、まともな生き方をしているはずである。狂った生き方をするのは、狂った生き方がしたい証拠である。 まともか、狂っているかどう判断するか
まともかどうかなど各人の主観に過ぎない 人間の知能があれば、他人の功で自分が賞されて悪いと思わないなら、自分の功で他人が賞されても悪いと思わないはずだ。
人間の知能があれば、自分の罪で他人が罰せられて悪いと思わないなら、他人の罪で自分が罰せられても悪いと思わないはずだ。
人間の知能があれば、自分の功で他人が賞されて悪いと思うなら、他人の功で自分が賞されても悪いと思うはずだ。
人間の知能があれば、他人の罪で自分が罰せられて悪いと思うなら、自分の罪で他人が罰せられても悪いと思うはずだ。 そうでないなら、人間の知能を持っていないことは明らか。言うまでもない。 他人にも優しければ、嗤われはしない。
自分にも厳しければ、嗤われはしない。
他人にだけ厳しければ、嗤われないことは無理だろう。
自分にだけ優しければ、嗤われないことは無理だろう。 他人に笑われるとか、笑われないとか気にするのはアホらしい
しっかりした自分がない証拠 西谷修氏の100分de名著は、Eテレ、来週月曜日(再放送水曜日)です。テキストを買って、第二回まで読み終えました。
来週の放送が、第二回です。この番組は、ロジェ・カイヨワ氏『戦争論』の話をされています。
テキストの表紙には、「内なる禍々しきもの」「グローバルな濁流に「個」という堰を立てる」とあります。
後の方になるほど、期待を掻き立てられるのは、中身があることによっているのであろうと思わせます。
西谷氏は、いくつか本を出されています。僕はそのうちで、5冊ほどを持っています。どの本も、
粘り強く論点のはっきりした書き方をされており、僕は大変に面白いと、思って読むことができました。 功なき賞を肯定するなら、罪なき罰をも肯定することになる。
罪なき罰を肯定するなら、功なき賞をも肯定することになる。
功なき賞を否定するなら、罪なき罰をも否定することになる。
罪なき罰を否定するなら、功なき賞をも否定することになる。 他人とは自分ではないのだから、普通に付き合っていけば、意見が同じでないことは、当然多くある。
自分とは、自己アイデンティティを通そうとすれば、アイデンティティは完全ではない(理解、対象射程、論理において完全ではない)
のだから、多くの躓きに常にさらされるので、自分自身との闘いが多くある。
つまり、他人との、自分との、戦いは不可避である。間違いとは真摯に向き合う必要がある。
自分の中での争いは、自分のレベルがどうというのではなく、ただ単に、自分を殺すことは、誰の益にもならないと思い、
考えの闘いから逃げてはならない。もちろん、全てにおいて完勝はできないのであるから、せめてとして、0ではなく、1を得ることを、
考えたことのない場合には、変えるべきである。つまり、何らかの一貫性を、本当に正しく提示できるならば、
それは正しい考えである。逃げ続けて、こだわることは、何の一つの突破点がない場合、きちんとした考えができるということに、
向けて、自分でできなければならない。恐ろしいことは多くあっても、それに負けるような自分であるかどうかというのは、
非常に大切に守っていかなければならない。そのうえで、考えを進めるならば、それが有効な考えというものになる。
自己の見下しについて、いかにそれを正せばいいかというと、何かや誰かという、ある理論のあてはめということについては、
完全に他人をだしにすることはしてはいけない。
自らの中で考えることは、悪いことはあまり考えないだろうし、何らかの意味を求めて考えるだろう。つまり、自分の中で
考えるということは、誰にとっても悪いことではない。従って、自らの中で考えるということについて、上で述べたように、
闘いという要点があるのであるから、その中で考えることが、生きている場合にするべきことである。 つまり、自分の不安をなくすような行動をするべきなのだが、多くのしがらみや、自分の臆病さから、仕方がないところはある。
不安を解消できないならば、解消できるようにするべきだ。ただ不安だからと言い、見つめなければ、
不安の一生に終わる。不安から何かを生み出そうとするのだが、そのようなことを考える暇というのは、
持ってもいいだろう。逃げるというのは、必要ならばすればいい。だが、考えの上では、そうではない。
大人になるというのは、決して悪いことばかりではない。知っていけば、体験していけば、受け取ったり、
逃げ続けたりしていけば、それなりに生きることができるようになる。まず選択の能力、選択の可能を
よくわかっており、権利について選択できるならば、それが一番良いことである。
権利のはく奪については、社会的な圧政であるだろうが、選択できないという状態は、
自分にとっても、他者にとっても、良いことではない。他者の権利を守ろうとするならば、それは、
実に良いことである。だが、どんな風にしてそんな声をあげられるのかということについては、
心の問題であり、自己を必要以上に守ろうとすることからは出てこないことである。
不安というのは、自分の不調のシグナルである。それをなくすことは、なかなかできない。
他人の不安も、良くはわからない。だから、仏教のように、生きること全てに当てはまる教えは、
自分の悟りの権利を、守るものである。私は、悟りがあることによって心を守られているが、
釈尊の悟りというのが、他者へも及んだということは、私の生きる指針になった。
急にできることは多くない。だから、悟りもきちんとしたことなのであろう。
過去の経験から、正しい生き方、考え方を導かねば、悟ることも、ないであろう。
経験は、多くの人が、似たようなことを経験するであろう。学ぼうとする姿勢があるならば、
仏教も、色んな学なども、次々に学べる。邪教が邪教として、非難されるのは、欲がはびこり固まっているからだろう。
真摯に思う人の考えを、間違っていると言い切るのは、一時的なものでしかない。
悟ろうと思わない人に、仏教はない。表層のみを考え、欲を節制しないならば、または、救いの気持ちがなければ、
または、誤った考えに毒されているならば、それに対して自己把握を行い対処することだ。 25 名前:Mr.名無しさん 2019/08/11(日) 11:22:24.98
ガイジは連休中も生活に変化無しか 私の功罪は、私が判断する。
私への賞罰は、私が執り行う。 信仰(心)とは、こどものワガママだ。
信仰(心)の否定とは、ひねくれたバカな大人のワガママだ。 本当に善行だと思っていたら、しないはずがない。
本当に悪行だと思っていたら、するはずがない。 25 :学術 :2019/08/13(火) 18:12:01.59 0
若いうちに残した子供が勝ち目がないと半出生主義にも傾くよ。自分の身を分けた分身であるから可哀そうだ。 十一面観世音の一番後ろ面で、悪を暴いて大笑いする。 功なき賞あり。
罪なき罰あり。
功ある罰あり。
罪ある賞あり。 最近は見なくなったが、昔はよく便所にこんなことが落書きされてた 自他の心を無視する、そういうライフスタイルを身につけてしまっていたのだった。 精神性ゼロの身体性こそが、真の身体性。
身体性ゼロの精神性こそが、真の精神性。 ないしかいびょうどうりたくあんどうきじゃっこう
だっけか するべきことをする。
しないべきことをしない。
させるべきことをさせる。
させないべきことをさせない。 他者犠牲することは悪
自己犠牲することも悪
他者犠牲しないことは善
自己犠牲しないことも善 悪意を善意に反転させる。
善意を悪意に反転させない。 このスレッドは1000を超えました。
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