時間とは何か、29
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時間とは何か、と問う行為、すなわち時間とは何ですかと他者から問われる。または、自分自身にたいして時間とは何なのかと問うW行為Wの意味は何なのか。
それを問うべきだ。その問いに対する答え、満足な答え、あるほど満足な答え。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1545687347/
過去スレ、他のものは興味ある人は調べて下さい。 世界レコードの貢献度だよな。万銀行馬券拾う哲学者。疲労する調教は切れなしだが
疲労度の蓄積によっては能力開花。 15人に残る方が、バスケの世界オールスター。4〜18.女子を推薦。 916 グングニル。 732 ロンギヌス −エクスカリバー 時間
いわゆる、充実した時間、充実して無い時間。そして、そのどちらでも無い時間としてのつまらない時間、どれからどういう風に説明出来るのか。 つまらない時間
充実した時間とは、ここですでに説明した様に、意味によって満たされている時間です。充実して無い時間とは、意味のスカスカな時間です。
一方、つまらない時間とは、それらの意味以外に何かのはずみで生じてしまった時間です。なぜ、意味以外の所に、あるいは意味以外の所にも、時間があるのでしょうか。
つまらない時間こそ、本来の時間であると、この事実(意味以外にも時間が存在する事実)はさし示しているのです。 非日常と本源的なつまらない時間
非日常と普段、我々は言います。非日常とは、日常的な意味によって流れている時間以外の、意味時間を指しています。
しかしその非日常も、なんらかの捉えられた捉えられている非日常意味とでも呼ぶべき意味時間です。
本源的な、つまらない時間とはあらゆる(日常的、社会的)意味を超えています。本源的な非意味のなかの時間とでも呼びましょう。
なお、超えてとか、超越とか呼ばれるものは上にあるのでは無くむしろ、下に、本源的なあり方にあるのです。 それぞれ違う印象を持つ時間として扱うと時間の何を解せるのか念頭に
ないのでどれからどういう風に考えても解せない時間を言い換えて表明
してるだけで肝心の仮説が何一つない件 様々の時間了解
時間とは何か、と言う時間への問いは実存論の問いです。つまり、この問いの答えは、人生は全く無意味だと言う疑問への答えにもなる。
時間への問いと答えは、人生の意味は何か、に答える。でなければこの問いの意味はありません。
そしてその分析は、時間とは時計の針の指し示すものである、と言った通俗的時間了解が、どうしてそうなのかを説明する。
通俗的な時間理解の中にいる、一般的な時間消費にいる人々を、そうでなければ全き時間了解に引きずり出せません。 哲学的問いの危険性
時間への問いは時間を利用可能とします。車とは何かと言う問いは車を意のままに利用している存在者には無用です。
時間への問いが、時間の利用に迫るのであれば、その問いは危険です。哲学的な考察は全てなんらかの危険をはらんでいます。
ここでの危険とは、300キロで走り得る車の持つ危険と似ています。その車を手にした者は300キロで走りたくなります。 芸術の存在論的な定義
芸術とは何らかのある新しい意味を提示する行為です。
舞台に自動車を上げ、それをハンマーで叩き壊していく者達は、普通人の車理解が、未だ不完全であると言う意味を提示するのです。
これは芸術の存在論的な定義です。 実存と時間への問い
時間つまり、時間現象とは世界内の諸事物の来時性の発現である。
これで終わりですが、これだけでは時間への問いの答えとして不十分です。時間の問いは実存の問いであり、実存論的な問いだからです。
こう考察を進めると、実存とは世界内の諸事物への関わり合いの追求なのであると判る。実践的、個別的、そして自主的である。 本来的なつまらない時間
それで実存的な問いとしての時間への問いの答えに迫る為には、時間の実存的な意味としての、在り方としての充実した時間と充実していない時間、さらにつまらない時間のそれぞれの考察が必要である。
核心的な考察は、つまらない時間である。つまらない時間と言っても、日常的な使用でのつまらない時間では無い、本来的な在り方としてのつまらない時間が考察の核心である。
本来的なつまらない時間の考察に迫る為には日常的なつまらない時間の考察が導きの糸となる。
日常的なつまらない時間とは、期待していた意味とは違った、それとは離れた意味の進行としての時間である。 日常的なつまらない時間
だから、日常的なつまらない時間とは、意味の無い抜け落ちた時間では無く、期待していた意味とは違ったと言う意味の発現であり、何も無かったでは無く、裏切られた時間、裏切られた意味での時間である。
これとは異なり、本来的なつまらない時間とは意味から、意味そのものから(意味体系そのものから)抜け落ちた時間である。 時間体験としての父母未生以前自己
本来的なつまらない時間、存在者の持っているそして生きているその意味体系から、離れた脱落した本来的なつまらない時間、このつまらない時間の時間体験は、特殊です。
これはおそらく禅などで言う悟りの境地とも関係すると思われます。父母未生以前自己と言います。父母未生以前の自己の体験です。それはあくまでも現在の時間体験ですから、その体験を説明する説明が可能なはずです。東洋的なもののフィロソフィアによる説明です。 退屈死。死の中に飛び込んでいく葉隠れ忍ぶ恋こそ真の恋、煙仲間、武士道も
哲学と照らしてみ? 円環時間永劫回帰なども時間にかかわりある。ニーチェ。真昼の正午ね。
新しい色や音との出会いという意味での芸術学は確かに貴重価値で哲学よりいいかもな。 つまらない世界を盛り上げないと他者につまらない思いをさせる。 時間を意味表象したり深く考え込むことで相手の時間じゃ無い概念の鏡に自我がなる 投企
禅で言うところの、父母未生以前自己とは、父母未生以前自己に投企せよです。
すると、ハイデガーの死への投企も、死後の自己へ投企せよです。死への投企、死への投企と言っても死後の自己へしか投企出来ない。しかし死後の自己はないから、それは不可能である。
(この一見すると不可能な投企は、どの様な理由で可能なのか。)
この二つは共通点があります。どちらも自己がいない、存在しない所への投企です。ただ時間的な方向性が異なる。過ぎた時と、未だ来ていない時の違いです。 死へ自己へのの投企てじゃなく他者の中に入っていくその資質になるという解釈だと思う。 本来自己
明日、大事な入社試験があるとして、入社試験後に投企せよ。入社試験に合格するか、それとも失敗するか。試験後には、現在それが解らない以上、投企出来ない。
しかし結果は、どうであれこの私はわたしなのだ。投企は、なされた。この様に投企する存在の形態は、実存に違いない。
父母未生以前自己とは如何
これが禅の公安です。答えは、『それ本来自己』
ではないのか。 公案
『両手を叩くと音がする。では片手の音とはなんだろう』(隻手の声)
これも有名な公案です。
答えは、『音のするものだけが、声では無い』
だと思う。 人が相対すれば音が意味を持つ、相対せずとも言葉を諭せと読解するべきじゃない 投企可能な存在者
こう考えて来ると、投企とは時間を超えた自己への投企である。
ハイデガーの死への投企は、この点で内容、表現ともに不十分である。
そして時間を超えて投企可能な存在者が、実存する実存者である。
なぜ、実存者には投企が可能なのか。 自己というのはのちに自分になるが個我の魂のようなもので女性にとっては男の子
男性にとっては女の子が受け継ぐ喩だ他人に溶け込んでゆくいずれもな、自己も空しいのはどうか。 作為で死に飛び込むハイデカーは甘い振り返ってみてそうだったのほうが良い。 己というのはのちに自分になるが個我の魂のようなもので女性にとっては男の子
男性にとっては女の子が受け継ぐ喩だ他人に溶け込んでゆくいずれはな、自己も空しいのはどうか。 自己と他者がすり替わったり対象から各々移入したり取り換えっこになるのはあくまで他者との
恋だ。 両親が生きていないうちに生まれたヤンキーが自己を保って自分を守り早熟で戦っただけだ。 他者のざわめきが声で人間以外の魔声の方がよいわけだ。書きものを人間に送ると
本末転倒手間がかかるよ。代筆ぐらいにしておきなさい。 自己がない他者有れば我欲はわがままなエゴだ。よろしくない。 自我意欲の拡大こそ権力への医師に似ていて、他者の生活やありようの幸せを願う希求する心の声を
忘れたカナリアだ。 自我意欲の拡大こそ権力への意志に似ていて、他者の生活やありようの幸せを願う希求する心の声を
忘れたカナリアだ。 クセノフォン アナバシス 敵中八千キロ じゃないけど、言葉と書きもので
発現するオンリーものが哲学ではない。哲学書や議論も戦争の結果として必要な分度がある。 見落とされている時間
二つの手で叩くと音がでる。では、一つの手で出てくる音とは何か。これが公案の問題です。
手を叩くと出てきた音は、何かの意味を持っています。
では、片手を振ると音は出ない。しかし意味はある。つまり、音の無い意味、つまり声無き声を聴く、と言う話。
必ずしも、音声となった声だけが意味を持っているのでは無い。必ずしも容かたちあるものだけに意味があるのでは無い。
この10月17日の意味はその日のニュースで全て配られるわけでは無い。事件、ニュース、そして個人的出来事が今日を形成する。
しかし見落としている意味も数多くある。それらの見落とされた意味が後に発見される事も有る。
人の日常、1日はその意味体験で形作られている。この意味体験は、すなわち時間体験である。
見落とされている時間がある。 公案とは、頭の悪さを競うものである。
こういうものにとりくむような宗教には、しっかりしてくれいといいたくなる。 意味体験としての実存
人はその日常を何らかの時間体験として受け取っている(これが世界内存在である)。その時間体験は、さらに何らかの意味体験として評価されて受け持たれている。
この意味体験として受け取る行為が実存である。すなわちそれは、世界内実存である。 父母未生以前の時間体験
つまりすると、父母未生以前自己の公案は、父母未生以前の時間体験が出来るか、と言う問題である。
もちろんいわゆる物理的には出来ない。しかし意味体験としてならどうか。父母未生以前の時間体験への投企である。 存在意味、実存意味
バナナの意味は、食べられる。である。
食べて美味しい、である。
つまり、目の前の机の上のバナナは、数時間後には食べられて皮がゴミ箱に捨てられている。
バナナの意味は、食べられる、食べられてしまう、である。
しかし、今、満腹の人にとっては、その食べられるは意味を持たない。意味が薄れる。あるいは意味が変化する。
また、バナナが嫌いで見るのも嫌な人にとっては、バナナの食べられると言う意味は無い。端的言えばバナナの意味は無い。バナナの存在は無意味となる。
つまり腹の減っている人にとって、バナナの食べられると言う意味は意味である。
では、腹が減っていると言う存在者の事態は何なのか。それは存在者の存在意味であり、実存意味である。
存在者は存在意味、実存意味によってしたがって存在する。腹の減っている存在者は食べられる物を探しに行く。何を欲しいのか自身でも判然としない存在者は彷徨う。
実存生活意味とも言える。
全ての事物者の意味は、つまり存在は、存在者の存在意味ないし実存意味から派生する。 バナナが落ちている 芳醇なにおいがする バナナの皮を見る 皮をむく 匂い近づくたべる。
甘いいい味だ と時間は進む。バナナは確かに存在したが無くなった。と哲学は進む。 バナナとはケーラーの類人猿の知恵試験なのである。
哲学者の知恵試験なわけだ。
まず、哲学者を檻に閉じ込めて...
なんてことはしなくとも、哲学者は最初から檻に閉じ込められている。
檻の外の手の届かない場所に好物のバナナを置くわけだ。
類人猿の試験と違うのは、棒を置かないということ。
哲学者も、試行錯誤ではなく洞察学習をすると考えられているのだが...はたして? >>51
きみはさながら上手く喩え話をしゃべるようになったオウムってとこだな 哲学者ではなく物理学者の場合は、物理的な道具を与える。
たとえ、理論物理学者であっても(自分では使用しないとしても)物理的な道具が必要だ。
追試することができ、客観的な結論が得られる。それが幻想であったとしても。
その点、哲学者は道具と呼べるようなものは与えられない。
「客観的」な結論が得られることはない。
そこをどのように克服するのか。
追試可能なものはすべて科学に持って行かれたのであり、残ったものは... とりあえず、実験などせず、情報だけが与えられる、として、
檻の中の理論物理学者と哲学者の違いを考える。
檻の外、手の届かないところにあるのは「バナナ」である。
直接得られる情報は「バナナ」の視覚情報と場合によっては嗅覚。
そして、重要なのは、「バナナ」を食したときときの「快感」。
この「快感」こそが、理論物理学者・哲学者ともに共通する「動機」。
これをフロイト的に解釈するならば... 理論物理学者と哲学者の違いは、
彼らが快感を得る回路の違いであろう。(報酬回路の違い)
ここでひとつ見落としがある。それはバナナ側の快感である。
ここまでの結論。「快感が時間を形成する」
(とりあえず開放定常系に限定)
時間あるいは記憶あるいは経験あるいは痕跡がなければ快感は得られない。 十全な意味
類人猿に対するバナナを使った実験、それをここではバナナの意味の一つであると言うのです。
バナナの意味とは、バナナの行くところを指しています。ハイデガーもこれを言っていますが、それほど注目する人がいません。
それで、バナナの意味の全体、すなわちバナナの十全な意味は捕獲不可能です。
バナナの意味、と言うとき、我々はこのバナナの意味の不完全性をすでに織り込んでいます。
我々は、世界獲得と同時に、その不完全性を捉えている、承知している、背負っているのです。
存在としてのバナナ、すなわちバナナ存在、が我々にとっていまいち捉えにくいのは、この事情によります。
(客体の存在が捉えにくいとは、すなわち、我々の存在も、その主体としての存在様態も分かりにくい、それだけぼやけるのです)
それで、ここでは、バナナの十全な意味をそのバナナ自身にあるとして、それをそのバナナの来時性と呼ぶのです。 わたし、生まれてこの方、バナナしか認識していなかった。
文字通りの意味である、バナナだけを注視して、バナナだけの匂いを嗅ぎ、バナナだけを触って育った。
わたしの世界はバナナであり、世界であるバナナはわたしだった。
わたしはバナナについて、誰よりも知っているようでいて、なにも知らなかった。
なぜなら、バナナ以外の何ものも認識したことがなかったからだ。
さて、わたしはある時、バナナでないものを認識した。
その時のことを言葉にして例えるとすれば、
それはさながら、輝きながら流れ込む情報の洪水だった。
そのとき、わたしは無能であることを悟った。
しかし多幸感に満ちていた。
後に知ることとなるが、それはみんなからりんごと呼ばれているものだった。
それからわたしは、様々なものを認識していった。
みかん、ぶどう、いちご、ざくろ、きんかん、すもも、かき…etc
バナナより小さいもの、大きいもの
バナナと異なる形のもの、
バナナと似た色のもの、
様々だった。
わたしは、言葉を覚えた。バナナがバナナと呼ばれること知って、
りんごがわたしにとって特別でないように、
バナナもまた、みんなにとっては特別ではないこと知った。
そのとき、バナナがなんであるかがわかったと思った。
不思議な感じもしたけれど、すこし大人になったような気がした。 バナナの糖分は性の快楽になり塩分はほろ苦い痛みになるでしょう。
ことばや話題の汚されたもののだからこそバナナは昔のバナナよりおいしいだろう。 ことばや抽象概念を駆使する人間は本物のバナナでなくレプリカのバナナを知ってしまう。俗物性の哲学の方がバナナの存在匂いや味に疎くない。 バナナというときでもバナナは増えないから人間は飢えてしまう。
だがバナナの買い方見つけ方を知っていると、バナナは不思議なことに増える。 3: ★☆★ THE お ま ん こ ★☆★ (470)
4: 時間とは何か、29 (64)
5: 東浩紀515 (324)
6: 美魔女の21世紀倫理学 善く生きるとは A (796)
7: 【誰も傷つけない表現】浅田彰【に意味などない】 (52)
8: 実存主義・人間主義・心理主義・歴史主義などなど (13)
9: お ま ん こ 舐 め た い (185)
10: 【 NHKを 】N国党 立花孝志 【 ぶっ壊す!】 (143)
11: ★★★ 働かないおじさん 集まれ!! ★★★ [無断転載禁止]©2ch.net (594)
12: こ こ 無 職 し か い な い ね (275)
13: 無 職 と 東 浩 紀 (574)
14: きちがいしかいない板があるらしいが (233)
15: 波 平=禊 の ス レ 上 げ タ イ ム (30)
16: 世の中全部金、でOKだよな? [無断転載禁止]©2ch.net (41)
17: カール・マルクス30 (402)
18: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (338) 来時性、存在、事物者
来時性を持つものが存在です。来時性とは、とりあえず、その持っている来時性としての意味のあるもの、もっと端的に言うならその持っている意味の変化するものです。
すると、シャーロックホームズは、どうでしょうか。シャーロックホームズについて誰かが何かを言うとシャーロックホームズの意味はそれだけなにがしか変化します。即ちシャーロックホームズは存在する。
このシャーロックホームズは決して事物としての存在ではありません。それでこの存在を者と呼ぶことにします。存在には、事物と者があります。 青年期の子達が楽しむテレビの範疇はとうに超えてて、もうやり方がほとんど秋葉原商法。 国立大学には裏金や賄賂が分からない人が多いが。公立私立の方が順応してる。 虚時間がおもしろくなってきたので、ちょいと時間スレに戻り。
実時間と虚時間をあわせれば、複素時間である。
もっとも、物理において虚時間と呼ばれるものは、純虚数時間であろう。
時間も波であるなら、その波に乗っているのかもしれない。 すべてのものは回転していると考える。
時間は回転からうみだされた幻想である。
なにものが幻想をみているのか。
全体をネットワークと考えれば、その構成要素が幻想をみる。
線分は点の集まりである。
などというと点をいくら集めても線にならないなどというひとが現れる。
無限に集めればよい、などといってもそれは物理的に不可能だ。
考え方が逆である。
線が点の集まりなのだ。集めたのではない。線から無限の点を引き出せる。
このような点のネットワークが、回転する。
なぜ回転してしまうのかというと、「つながっている」からだ。
この回転の中/内で点が自己同一性あるいは不変量を保とうとすれば、
そこに時間や空間があらわれる。
自然に3+1次元の時空間ができあがるだろう。
われわれはそれを時空間と呼ぶが、まったく異なる言葉でイメージしてもよい。
イメージは自由だ。 点には開点と閉点の二種類があるとする。
が、これらは単独では存在せず、必ずペアになっている。
ネットワークの構成要素としての「点」は、開点と閉点のペアである。
開点はボソンとしてボーズ-アインシュタイン統計に従う。
閉点はフェルミオンとしてフェルミ-ディラック統計に従う。
このペアにも二種類ある。
ボソンとボシーノのペア、フェルミオンとスフェルミオンのペア。
現実の素粒子との整合性はとりあえず無視するw
これらはスピンを持つ。
ここまでの道具立てで(スピン)ネットワークを構成してみる。
「点」はどのような夢をみるのか。考え中。 グラフ理論でもラッセルのパラドクスの類似が起きるってのに気づいたけど、
以下のような場合を考えるとパラドクスになる。
『頂点の集合Vがあって、ある頂点v1∈Vがあって、
v1は自己ループのないすべての頂点v∈Vとだけ、辺で結ばれている。』
これは、v1の定義を与えていて、
『v1がvと辺で結ばれている⇔vは自己ループがない。』
と書き換えられる。
ここで、v1は自己ループを持つか、持たないかを考える。
(ある辺の両端点が等しいときを自己ループと呼ぶ。)
(⇔ある頂点が自分自身と辺で結ばれているときを自己ループと呼ぶ。)
v1がv1と辺で結ばれているなら、v1は自己ループを持っていてはならない、しかし、これはv1がv1と辺で結ばれていないことになる。
v1がv1と辺で結ばれていないなら、v1は自己ループを持っていなければならない、しかし、これはv1がv1と辺で結ばれていることになる。
v1が自己ループを持つ場合と持たない場合の2通りしかないのに、どちらの場合も成り立たず、矛盾する。 だから、
v1∈Vであって、
v1が自己ループを持たないなら、
v1はv1と結ばれていない⇔v1はv1と結ばれている
となって、
v1∉Vであって、
v1が自己ループを持つなら、
v1はv1と結ばれている⇔v1はv1と結ばれていない
となる これってあれで、
v1を観測者、vを観測対象、辺を観測そのものとしたときのモデルになってて、
観測対象のうち、自分自身を観測しないすべての観測対象を観測する観測者は矛盾するってことになる 内包公理ですなぁ。
「存在」を定義してはいけないのかもしれない。
「存在は定義できない」のかもしれない。
もしかしたら、これが自然の公理なのか?
ま、定義というものの定義も定義できていないのだから...
ええっと、存在は幻想である、とすると別スレだな。
外延公理は、存在については(集合論の)外側にある。
問題は(哲学的には)「存在論」なのかも。
公理的集合論にたりないのは存在公理? って、それは内包公理の言い換えにすぎない。
これを完全にするためには...すこしだけヒントがみえてきた。
頂点と辺にするならば、頂点(という存在は)は必ず(暗黙かもしれない)自己ループを持つ。
だからv1そのものは定義できないということでよろしいのでは?
圏論では、対象は自己射を持つということで回避している。
数学プロパーではないのでいいかげんw そう、
定義の定義ができていない、ではなく、
定義の定義の定義ができていない。
さらには、定義の定義の定義の定義の... と無限に続く。
って、これが「時間」なのか? 一方向に無限に続く。 現象と存在者
来時性を持つものが、存在です。
これは、定義のような、約束の様な話しです。
我々の世界は、実は、現実の世界化されたものです。
これも、定義であり、約束であり、そう考えましょうと言う提案です。そしておそらくそうとしか考えられません。(この最後の、そうとしか考えられない、を証明出来ると良いのですが)
そうして、ここの所に、それが実存である、と言う宣言が成立します、出てきます。
つまりは、実存する存在者に、世界、存在、時間、は固有の特別な現象です。
そもそも、現象が現象するのは、それを現象として捉え得る存在者にのみなのです。 名無しサンプリング@48kHz 2018/05/06(日) 11:43:38
HIDEのつくる曲の波形は基本的に日経平均と連動しています
さて、平成が終わろうとしている
まるでサブスクリプションの切れたDAWソフトウェアのように
みなさんはきちんと時代の風を感じていますか
昨日という日は常に、過去の遺物なのです
だから前を見て歩かなければならない
誰も同じところに居続けることはできない
しかし、その前という文字にHIDEはいつも混乱する
前日、前世紀、前世
全て過去ではないですか
なぜ日本語においては、前を向くと過去に遭遇するのですか
先を見て進む、も同じですよ
先日、先代
まったく、ゲシュタルトを崩壊させる言語であります
どうやったら先に進めるかを「分からなくしている」
「分かりづらくしている」
こんにちわ
忘却人、オブリビオニストのHIDEです 意味と来時性
それで来時性の説明です。まず、意味とは何であるかの説明が必要です。
それでバナナの話しです。意味とはそのバナナの行く所です。目の前のバナナは、明日までには皮になりゴミ箱に捨てられている。つまり、バナナの行く所は、ゴミ箱の中の皮である。それがバナナの意味であり、我々はこの意味を実存的に、食べられる、と捉えています。
所が、そのバナナの行き先はそれ以外にもあります。干からびる、紛失する、など。つまりバナナの意味の全体は捉え得ません。それでバナナの意味の全体を、その存在者の側に投げて、そのバナナの持っている来時性とするのです。
(これは人の将来性と似ています。将来性ある若者と言います。その将来性とはその存在者の行く所を言っています。老人とは将来性の無くなった者の呼び名です。余談ですが) この来時性が、有意義であるのは、その一部を存在者が意味として捉える、捉え得るからに他なりません。 >>80
> つまりは、実存する存在者に、世界、存在、時間、は固有の特別な現象です。
> そもそも、現象が現象するのは、それを現象として捉え得る存在者にのみなのです。
つまりは、現存している存在者に、世界、存在、時間は共通する現象です。
そもそも、現象する原理を論理的に論証できる存在者かできない存在者でしかない。
でしょう.・・・ 意味と現象
世界、存在、時間、はいずれも現象ですが、その現象を現象として捉え得るもの、(捉え得る何か、)が存在者、現存在、実存者です。
この現象として捉える、は実際には意味として捉える行為です。ここでは意味と言う言辞が広いスパンで捉えられています。捉え得ない、あるいは、現在、捉えられていない意味をも含んで我々は、意味と言う行為が可能です。 社会諸科学
世界、存在、時間、が共通するのは社会諸科学の根本原理です。根本的な前提です。
現在、それらが(世界、存在、時間)確かなものとして確立していませんから、社会諸科学は未だ、ヨチヨチ歩きどころか自立してもいません。 >>85
世界、存在、時間、すべて現象に意味を盛ることで、いずれも現象として意図的に扱えば、
現象の行為者に存在者、現存在、実存者と割り振れるし現象に意味を含ませる事ができるだけで
捉え得ない、あるいは現在確認できないい認識に含みを持たせる行為可能性しか無いんだよ。 明日、明日の現れ
先を見る、過去。
過去はその意味に於いて把持される。その過去を体験した当事者の世界(世界観)の中で意味的に、意味として位置付けられ、捉えられる。
この様な過去の積み重なりの先に明日が、現れる。明日は意味的に現れる。
すべての人に於いて明日は意味的に現れている。意味的に物事を捉えてない、たとへば犬には明日は無い。言い換えれば、その犬に明日があるとしたら、その明日はその犬が世界を意味的に捉えている限りに於いてである。 犬の明日
真理とは、共通真理を指しているでしょうが。しかし一体、何を持って共通の真理だとするか。
ここでは、そうでは無く個別的な(意味理解にある)人間の存在から、何らかの共通性が見出せるかを考察する。それで、すべての事象を言葉で表さなければならない。
そのためには、その事象を意味的に捉えるしか無い。
いま、腹の減っている飼い犬がいる。その犬は明日になれば飼い主が現れて餌をくれると待っている。
その犬の明日は餌をもらえる明日であってそれ以上では無い。犬は明日を餌をもらえる明日として意味的に把持するのだ。 であるなら、君が意味的にすべての事象を捉えて言葉で表せばいいじゃないか
犬だかバナナだとかを持ち出す意味は
すべての事象を言葉にする哲学がないからだろう。 世界の意味が、世界と一致するとき、
それを真理というのだろう。 社会的流通意味
人(普通の人が)がふだん、意味として理解しているものは、正確には、『社会的流通意味』、である。
社会的流通意味によって、生活している者が、普通の人、つまり人である。
我々が、普段、意味として捉えているその『もの』は、社会的流通意味に過ぎない。
ついでですが、もの、と言う言い方は、本来、空飛ぶ絨毯のようなものがあったらすごい。と言う使われ方が正しく、仮定を含んだ言い方である。
こと、も同様です。『もの、と、こと』、などと言う本を書いている人がいますが。
上の『もの』も、仮定を含んでいる。それは本来の意味かどうかは(詰まりどういう意味かは明らかでは無い)定かではないが、と言った仮定である。 真理の雰囲気ってもうスピリチュアリズムどころかメルヘンだな >世界の意味が、世界と一致するとき、
>それを真理というのだろう。
世界って現象と同じで、哲学と物理で意味が違う。
一方の世界の意味が一方の世界と一致することを、真理と呼ぶ、と言っている。
さらにいえば、主体的世界と客体的世界を結ぶものを世界とよんで、1つ世界を仮定したとして、世界自身の意味が世界自身と一致することを、真理と呼ぶ、とも言っている
また、意味は述語的にも名詞的にも使われるけど、
→の働きも、→の指す事物にもなり得るし、
その両方でもある。
それらすべてが可能で許容されているわけよ >>98
>世界の意味が、世界と一致するとき、
>それを真理というのだろう。
の二行でそれらを全てを許容させるのは不可能。
真理の呼び方で世界が変わるならそもそも不一致な真理とでも
呼ぶしかないw
意味を違えない構文になってないから、真理と呼んだ所で
世界の意味が、真理でいつか一致する可能性がどこにもない。
哲学の現象世界と物理の現象世界で違うのは概念の導き方
双方の概念を貫く理論を真理という。
君がいつか言葉の意味を形而上で扱えるようになった時
君の世界の意味は世界の真理と一致する。 南部陽一郎さんが、宇宙の始まりについて鉛筆理論を唱えています。
立花隆さんがテレビ番組で解説していましたが、わたしなどはふと、エンゲルスの
「反デューリング論」を思い出したりしました。
デューリングはどうやって静止から運動に移るのか悩んでいるのですが、それに対して
静止って運動の一形態じゃないか、静止なんて実在しないんだと語ります。
現代物理学者たちの始まりへの探求とその格闘はは現代版デューリングでしかありません。 現でしかないと否定するほどの問題を理解しているなら
それを書かなきゃ否定にならないし認知できていないなら
現代版デューリングでありますでいいですよ。 102訂正
でしかないと否定するほどの問題を理解しているなら
それを書かなきゃ否定にならないし認知できていないなら
現代版デューリングでありますでいいですよ。 ゲームのルールに展開させられるかルールを発展させるか
ゲームを現実に進めるのが頭脳があるかないかだよ 実存意味とは何か
時間とは何か、の問いは時間の意味への問いである。一般的な、即ち公共的な時間の意味は、存在する事物の来時性の切れ目の無い発現である。
しかしこれだけでは、時間とは何かの問いに対する答えとして、不十分である。我々はその問いの、いわば実存的な意味を求めている。
そこで実存意味とは何かを考究するための手がかりや、また見通しが必要となる。それらが無ければその研究は前進しない。 【8050問題】
8050問題(はちじゅうごじゅうもんだい)とは、2010年代以降の日本に発生している
長期化した引きこもりに関する社会問題である。
歴史
1980年代から1990年代までいじめによる不登校が問題視されていた。その後、
2003年の日本労働研究機構によるニートという用語の日本国内への紹介に端を
発する形で、一部の引きこもりに対しては2000年代から継続的に大規模な調査が
行われるようになったが、15歳から34歳までという用語の対象の定義により、
あたかも若年層のみの問題であるかのように捉えられていた。
しかし、2010年代に入り、引きこもりを抱える家族が全国的に高齢化したことで
猶予が無くなり、外部への相談が増えてきたことから、今まで調査の網に掛から
なかった中高年層の実態が明らかになってきている。
内閣府からは、2019年3月時点で、中高年の引きこもり人口は61万3千人も存し、
その内の70%以上は男性との調査結果も発表されている。この他の年代の
引きこもりも算入すると、日本は引きこもり100万人時代を迎えていると言える。
現状を放置すれば、2020年代には事態が更に深刻化した9060問題が本格化する
ことが確実視されており、全国的に孤立死、無理心中、親の死体遺棄、年金の
不正受給、生活保護の受給が増加することから、現状の8050問題に対する
極めて迅速な対応が求められている。
2018年に内閣府は、40歳から59歳までを対象とした初の実態調査を行った。
それは従来までは引きこもりの問題は若者特有の問題であるとして調査されて
いたものの、中高年の実態はどうであるかを把握して支援に役立てるため。
そして2018年度の予算案に調査費として2000万円を計上した。
>>1 働けよ ダメ人間w >>106
時間の意味も実存が何かもわからず空想が空回りする経過を時間が知らしめる意味があったあんだろう 真理ちゃん。しかし哲学なんて一休みして軍師稼業でもやらんかね。
ギリシャ軍がつぶれたら死にゆく覚悟になるぞ。 時間に嘘がへばりついている。時間と問うことがある文明の負面なんだろ。
表象を気分で抽出したり、色々時間を語るにもあれこれいるはず。 あ、QBismの本を読んでいたら閃いた。
隠れた、あるいは隠れていない変数が、あった。
そして、「時間」は双方向だ。(過去へ戻れるという意味ではない)
われわれの考える「時間」は、「時間など無い」ことからうみだされる「虚時間」だ。
(おそらく物理における3つめの「虚時間」だろう)
ええっと、これはまじめに数式をたてて検証してみよう。
間違っていてもいいから宣言しておこう。
「宇宙は局所的事象である」
簡単にいえば、ようするに、「いまここ」しか、ない。
ちょいとボジョレーヌーボー飲みすぎたようだが、とりあえず本気。
とりあえずいつものように1ビット時空間から考えていこう。 QBism(Quantum Bayesianism)をヒントにした、というのがミソである。
QBismから、確率ではなく、「時間」をベイズ主義で主観的に捉える。
「主観的時間」による解釈、である。
そこからみちびきだされる(早急な)結論が
「宇宙は局所的事象である」
ということ。
そしてQBismは、こう語るのである(テレパシーで)
「僕と契約して、xxxxになってよ!」 QBismでEPR問題が解けるようなれば、「時間」の問題も明らかになる。
というか、
QBismそのものにも、ベイズ主義的時間がなければEPR問題を解くことはできない。
主観的な信念の度合いによる時間?
時間と空間はセットなので、空間も主観的に捉えねばならない。 行為
最近、物理学者が時間は存在しない、と言う本を出して売れているそうですが。彼は物理学的に時間を捉えられない、と時間は存在しないを混同しています。
では、捉える、と言う行為は何なのか。そもそも行為一般の構造なり、意味?、は何なのか。 時間は実在しないと書かなくても許されるのが物理学者 QBismは囁く(テレパシーで)
「僕と契約して、QBistになってよ!」
利己的な遺伝子と同じであり、主観的信念であっても、結果的には客観となる。
その意味では、主観的時間も客観的時間として機能する。
主観・客観、あるいは、主体・客体の区別を付けないとすれば、
ネットワークとして扱えばよいのだろう。
随伴、あるいは、共変的なネットワーク。 主観確率と客観確率は
全称命題と存在命題くらい違う
ループのあるなしで考えるのかなあ、
ネットワークって客体になっちゃう気がする ノードをそれぞれの主体とすれば、ノードごとの主観を持つ。
しかし、主体としたノードからみた他のノードは主体ではなく、
主体からみて主体として機能するかもしれない客体である。
階層を主体ごとに分けてしまうと、階層をつなぐものが必要になるが、それは考えない。
ここでなにをするかといえば、「整合性」を維持するためのネットワークの組み換え。
簡単にいえば、スピンネットワークをQBisianネットワークとみなす。
Qベイジアンネットワーク=スピンネットワーク
とみなせないかな、と考え中。
とりあえずは主観的時空間だけで全体をネットワーク化できるか(整合性がとれるか)どうか。
ひさびさにEPR問題の本でも借りてこよう。 そんなことより、砂浜の無数にある砂粒のように「数ならぬ我が身」に
ついて反省してみたらどうですか? 時間を意識した時点で遅れてるから仕事が追い込みになる。 119-120
物理含めた科学の時間は定義とコンテクストによるものだからねー
24時間を物理現象的にただ規定していて皆それにしたがっているだけ
時間の実在はあろうがなかろうが関係ない 実在しない時間を尺度として採用した理論を知的根拠にしている以上
まともな物理学者、科学者なら時間の実在は関係ないなんて
口が裂けても言わないけどね。 時間とは、反復する現象の観察から推定されて、単位として用いられる曲率円の円周長である。 メルケルぐらい金満でないと自分主義のアホな物理学者ぐらいだけどね。空論の。アインシュタインみたいなヘマ。 教授志望学者養成ぐらいではねえ。鬼の犬魔にラガルドも相当。つるみが地味でないこと。 関連
ひきこもりネトウヨ(50)「お前のせいでこうなった」母(80)「私が死んだ後、あの子はどうなるのか」A
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/asia/1574647630/l50 宇宙が局所的事象であるならば、時空間も局所的な事象である。
たくさんの主観あるいは主体の間にネットワークを張ると、
局所的でもあるにもかかわらず時空間が「必要」になる。
直交補空間(ただし虚空間)、ということになる。
ここで主観こそが「虚」なのだと逆転させてしまうとおもしろい。
そうなると考えているネットワークそのものが虚である。
大きさはなく、境界だけがある。
ここで(ペンローズの)ツイスターには大きさがあるのか、これも境界しかないのではないか、という疑惑が...
そもそもの空間に大きさはあったのだろうか?
ノルムを定義するのは...となると、定義とはなにか、という問題に戻る。
ひさびさに振り出しに戻った。ひさびさに新しいラスボスがあらわれた。
実体は以前のものと同じ。以前とちがうのは直交補空間を入手済だということ。
ヘーゲルは使い方を誤って悪しきものを召喚してしまったようだが... 裸の王様が現代科学だろう
実在しない時間があるっていう
ビッグバン仮説、また実在しない
最小単位を追い求め、実在しない
力という衣装を身に纏って
見せている その有効性はその理解の正しさを保証しない
天動説はある範囲で現実にはとても役に立つ 矛盾の正体は決定不能
それは規定が否定だから
朝永は留学日記でヘーゲルに繋がる
科学理解を示していて興味深い >>139
科学は裸の民に衣を着せてあげているだけ逆恨みにもほどがあるw
>>140
君のように不当に感じ正しく理解できないのは自己責任w
>>141
自己矛盾だから規定できない君の正体は君にも否定できないw
ヘーゲルや朝永に興味を示しても知恵はつかんw >>142
真偽を決めるのは自然
互いに判定が楽しみだなw >>143
自然が真偽を決める審議でもするんかい
楽しみにできるのはお前だけだからw かなり前に現代科学の傾向を批判的に大科学者が述べていた
近年でも散見する
日本でも結構いる
数年前にも、研究者は最前線は混迷中と報告していて、立花隆も似たことを語っている
三十年前にアメリカの科学者は科学革命が必要だと主張している
そういう段階だと理解している 大科学者wの意見に乗っかってるだけの段階でお前が
理解できているかの真偽は別だからなw自己欺瞞が 朝永さんの物理論は認識論として承服できる
やはりドイツだからヘーゲル系は残っていたのかな
かなり近い叙述で驚いた 図書館で今は忘れられた哲学者の本をチラッと読む
尊敬する学者が哲学なんて実際に使わないと価値はわからないと記していたが
本を読んでいくうちに若い時に自己流で読んだことを思い出した
確かにその通り
哲学を哲学として読んでいるうちはダメなんだな >>149
確かに他人に言われて驚く程度なら自己欺瞞とは言われないな 朝永はドイツ日記8月8日に
物理は自然自体ではないと記している
座標原点は実在しないがそれで理解している
ゼノンの飛ぶ矢の逆説はそういうことだ
運動を静止で理解している
またヘーゲルの理解も朝永の理解と本質として一致している
詳細は日記参照 物理が自然自体だと思ってる人なら参照するんじゃないw 粒子Aと粒子Bをエンタングルさせて引き離す。
それぞれの場所で別々の観測者が観測する。
A側の観測者の主観としては、自分の観測結果がB側に伝わってからB側が観測するのである。
B側の観測後にA側の観測結果が伝わることは「ない」。
これが(主観的)「時間」であるw
双方の主観的時間を「調停」したものが客観的時間(時空間)として認識される。 エンタングルしたものを引き離す。
引き離すというはどういうことか。
量子ゲートで考えると、わかるかもしれない。
2つの粒子を組み換えたあとに、できたものから抽出できればよい。
「もつれ」そのものの抽象化。それが時空間として「表示」されるのであれば、
時空間とは「もつれ」である。そして「もつれ」がタイヒミュラー空間である。
2つの粒子をそれぞれの「場」であるとすれば、「場」の融合?か。
「もつれ場」。キンミヤでも買ってくるか。週末は、もつ・レバーで一杯やりながら細かく考えよう。 向死存在
人間存在とは、死に向かっての存在である。これを向死存在と名付ける。 過去も未来も存在しないんじゃないのか
今ここに過去も未来も現在も存在してるんじゃないのかと
最近考える。
だから今この世界に未来から来ましたとか過去から来ました
そんな人がいないのもうなづける >>158
自然過程説氏の自然過程伝説とはそういうものです >>161
マクロで自然とは高次な現象であっても、論理で割り切れるミクロ世界のそれではない。
自然とか言う時点でオカルトよ。
おまえ熱力学が物理連中からオカルト中傷されていることもしらないようだな。 マクロミクロ併用で盲点に対する加虐が止まるし、被虐も減る。 >>162
とりあえず日本語使えるようになってから出直せ 量子ビットの波動方程式を
粒子A: ψ=a|0>+b|1> とする。(|a|^2+|b|^2=1)
","をつかった縦ベクトル(の横表示)で簡単に
A=[a, b] とし、同様に B=[c, d] とする。
基準がなければ|0>と|1>なんて、どっちがどっちでもよい。
量子もつれが無いとし、簡単に計算するためにa,b,c,dは0か1の値しかとらないとする。
AとBのテンソル積を線形空間であらわすと、
[ac, ad, bc, bd] になる。
これを分離すると、
A'=[ac+ad, bc+bd]=[a(c+d), b(c+d)]=[a, b]=A
B'=[ac+bc, ad+bd]=[(a+b)c, (a+b)d]=[c,d]=B
である。
互いに独立しており、もつれは「ない」。 これをもつれさせるには
CNOT(A, B)=CNOT([ac, ad, bc, bd])=[ac, ad, bd, bc]であり、
A'=[ac+ad, bd+bc]=[a(c+d), b(d+c)]=[a, b]=A
B'=[ac+bd, ad+bc]=分離できないのでそのまま。
A'とB'はもつれている。
A'=[1, 0] のとき B'=[c, d]、A'=[0, 1] のとき B'=[d, c]
B'=[1, 0] のとき A'=[a, b]、B'=[0, 1] のとき A'=[b, a]
もつれていて、はじめて、自分または相手を基準として相手または自分を決定できる。
「もつれ」ていないと「基準」が得られないのである。 すなわち(時)空間とは「もつれ」によってできている。 このもつれを元にした哲学あるいは占いが「易経」であるw
易―中国古典選10』(本田済訳著/朝日選書)は部屋のどこかにあるのだがみつからないので、
易経(上)』(高田眞治・後藤基巳訳注/岩波文庫)を買ってきた。
2つの粒子をもつれさせて、「時空間」にたよらなければ、3つの粒子として考えることができる。
この組み合わせは「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」であり、ほぼクォークの世界。 岩波の易経読んだな、
時代がずっと後だけど、太極図説も読むといい、
岩波から太極図説 通書 西銘 正蒙が出てるけど、
短いから調べればすぐ読める 放送大学アーカイブスをみていたら、「本来・適応・自己解体」モードというのがあった。
適応によって「時間」がつくられる、と考えてもよさそうだが、
自己解体というのは初めて知った。
本来というのを創造とみなせば、創造・維持・破壊のトリムールティだ。
創造=本来、と考えるとおもしろい。
ヘーゲル弁証法の問題は、維持=適応の回路として機能しなかった/させなかったということだろう。
おそらくヘーゲルに責任はない、弁証法そのものが本来は維持=適応の回路だからだ。
ヘーゲルに足りなかったのは安全回路であろう。破壊=自己解体。
3つの爻x2=64
64では無限には足りないのだが、3x2のチューリングマシンと考えれば
無限のパターンを生み出せる。
万能チューリングマシンである。 量子もつれをざっとみていったが、
問題は「自由意志」である。
「自由意志定理(Free will theorem)」というものがあって、
われわれ観測者が自由意志を持っているなら、観測対象も同様な自由意志を持っている、ということである。
本当はもうちょっと複雑だが、簡潔にいうとそういうことw
先に書いた量子もつれの式の、どこに自由意志や決定論が隠れているか、そこが問題だ。
わたしの立場は、あくまでも宇宙は局所的事象であるということなので、
局所性に関しては、はぶくw A'=[ac+ad, bd+bc]=[a(c+d), b(d+c)]=[a, b]=A
B'=[ac+bd, ad+bc]
これはあくまでも2つセットであって、A'=Aを、単独でみた場合は正しくない。
本当は複素数だが、とりあえず0と1だけで考える。
このa,b,c,dの値はともかくとして、「関係」は決定されている。
とりあえず決定論はクリア。
局所性については最初から宇宙は局所的事象であるとしているので、否定的にクリア。
残るは自由意志である。 関係は決定的だが、確率は残る。
そしてA',B'の確率は独立ではなく、ひとつの確率を共有している。
もつれる前の確率は2つあったが、もつれたあとは確率がひとつ足りない。
足りなくなった確率を自由意志とすれば、それはどこにあるのか。 2つあった確率が、もつれという限界状況の影響でひとつの確率になってしまう。
もうひとつの確率はどこにいったのか?
とりあえず、隠れたもうひとつの粒子Cを生み出すと考える。
この粒子を自由意志としてみる。自由意志粒子である。
そしてこの、隠された粒子である自由意志粒子を直交補空間と考えてみる。
短絡的には、この自由意志粒子が時空間を形成するのだが...はたして...
「fin」、「spin」、「twin」。この3つの要素。
これがヒントだ。 ただし、finはminになってさらにはlinに置き換えも可能だという。
arXivの自由意志定理関連の論文をあさってみよう。 A',B'はもつれているからよいのだが、
A,Bはもつれていないので、基準がないということになり、
それら単独ではもつれさせることすらできない。
A,B直接ではなく、間接的に他の粒子との間でもつれのネットワークを通した
つながりを持っていなければならない。
そうなると、観測者が観測する、ということは、観測者とのもつれがなければならない。
観測者も最初から「もつれネットワーク」の一員でなければならないのだ。
この観測者を粒子Cとみなすなら、時空間は観測者がつくっている、あるいは、
時空間とは観測者のことである。
「観測者ごとに時空間がある」
観測者粒子は観測者場でもあり、主観場である。
ある主観場と他の主観場との調停が必要となる。
しかし、そのためには、まず、他の主観場などあるのか/検出できるのか、ということ。 他の主観場などあるのか/検出できるのか。
(自を含めた)他の主観場などかるのか、というこのは哲学問題であり、
検出できるのか、というのは科学問題(物理限定でもよいだろう)である。
ともかく、ここまでの結論は
「時間(時空間)は主観場(主観粒子)である」
ということ。 ともかく、広すぎるネットワークで考えるのはめんどくさい。
かといってミニマムなネットワークだと狭すぎる。
時間(時空間)をとりだすのに必要なだけのネットワーク構成を考える。
でも、ミニマムなものから考えていくのが楽だ。
粒子A、粒子B、U、を考える。Uはユニバースだ。
A、Bは直接なもつれを持っていないが、Uを介して間接的にもつれているとする。
Uを量子ゲートとみなすなら、AとBのテンソル積を回転させるものである。
結果的に、一周(または、スピノルと考えるなら2周)するのと同じことになり、
統計的にはA,Bに変化を与えない。もつれは統計的にほどけている。
もつれているのにほどけている。さてどうやって説明しよう。
スピノルだよんといってしまえばすむのだが、朝永はどのように説明してたっけ? 可能無限
無限論の教室31ページ
線から点が作られる
自然から四次元が作られる、まであと一歩 完全に局所的な宇宙というのは、端か淵かの果てにしかなくて、どうしてかっていうと、外界から完全に隔離した粒子なるものを作り出すことは難しいからなんだよね
すべての粒子と関係することが、世界の始まりを意味するように、ある粒子がどの粒子とも関係しないことは、世界の終わりを意味するんだよね まあそれで、たとえば赤という表象は、ゆるやかに共有されていて、
存在するという表象は、自分と関係を持っていた可能性のあった、自分と関係を持っている、自分と関係を持つであろう、すべての対象に共有されていると考えるわけ
そうすると、心脳問題における、私の心の在処とは、共有されているすべての対象に遍在するだろうってことなんだよ
共有されていることと、表象は、同じく在るから >>182世界に始まりと終わりがあるという前提がなくなるだけじゃない しかし、同一律によって、同じものは異ならないのだから、他者に共有されている同じ表象を確かめることはできない。他者の表象を仮に知覚できたとしても、それは自身の表象と区別がつかないから。
排中律から、自分は自分を占めていて、そこに別の何かが存在することはない。自分は1つである。ならば、存在は存在すべてを占めていて、一つであると言える。
矛盾律は、Aは非Aであることを生じさせていて、自分と関係を持たないこと、隔離された粒子でもいいし、事象の地平線の外のことでもいいけれど、そのことが持つ表象は、自分の表象と異質なものであるだろう >>184
局所があるなら、大局もある、大局があるなら局所もあるんだから、
局所を始まりと呼んで、大局を終わりと呼ぶ、あるいは大局を終わりと言って、局所を始まりと呼んでもいいだろうってこと まあそれで、表象は2つに大別できるって考えることができるわけよ、
自分が知覚できる表象と知覚できない表象
ようするに存在するという表象と、存在しないという表象
それで2つの世界があるわけね、位置でも時間でもなくて、2つの表象で分けるわけね
そいつらが相補性を持ってると考えるのね
太極図みたいにね、存在しないことが世界を覆い尽くしたら、一点が確かに存在して、存在することが世界に行き渡ったら、一点の存在しないことが確かになるわけ 時空における外界を心の内界における起点で思考する宇宙生成モデルだから始まりと終わり
局所と大局、存在する表象としない表彰などと言う相対原理で分け隔てた世界にしかならない
心脳問題を解釈問題にすり替えて問題解消しても問題解明になってないんだよなぁ。 宇宙は広がってるんじゃなくて、位置が確かになっていって、干渉しなくなっていってるんですよ
因果関係なり、相互作用ってのは、衝突と干渉に分けられるけど、干渉という意味で波同士は関係を持たなくなっているわけね
一方で、エントロピー最小の宇宙ってのを考えると、初期の宇宙はベクトルの向きが揃っていたと考えられるよね、粒子の自由度が最小とも言っていい
そうすると粒子同士は衝突しないでしょう、粒子のベクトルの向きがバラバラになると、粒子同士は衝突しやすくなる、だから運動量は不確かになっていって、衝突しやすくなっている
この相補性において、保たれているのは1ですね
常に必然の因果関係がある、つまり因果関係を持つ可能性が常に1だとすれば、時間において縦に並んだ一つの必然の世界がある
しかし、この場合光速はc[m/s]は時刻を表すから、光速は不変ではないです
常に必然の光速があるとすれば、時間において横に並んだ、すべての平行世界がある、それは同時刻の宇宙全体を思い浮かべることと同じ、
まあそれで、質量ってのは、運動量の向きが揃ってることなんですわ、運動量の向きが揃ってるものを質量とも呼べるでしょ、運動量の向きを揃えるってことは、宇宙の時刻を巻き戻すことで、それをエネルギーっていうんですわ、
そういう意味で、事象の地平線の外は、隔離された粒子のことなんですよ、粒子の表面は、事象の地平線と一致しているんですわ、光の粒子をなぞる指は、宇宙の縁を巡る旅なんすよ いやまあ、だから、この世界は隔離されていく一方で、解放されていく世界なんですわ
因果可能性がおそらく存在のことなんだけど、
存在を1とみるべきか、というのは不定解になっていて、存在次第としか言いようがない、それが自由意志とか呼ばれてたりするってことだろう >>188
粒子がuniqueになると、波はcommonになるってことです
粒子性も波動性も因果関係の側面で、因果関係を持つ可能性が存在であると考えれば、
因果関係を持つ可能性がないことが、存在しないことだね ◯因果関係を持つ可能性のあることが存在することなら、因果関係を持つ可能性のないことが存在しないことだね うーん、時間の向きがあるからなあ、区別つくかなあ
過去の否定することは能動で、未来を肯定することは受動だね 粒子性、波動性は物理学と数学理論との因果関係で
導入された物質存在の側面なんですよ・・・
粒子がuniqueになると波がcommonになる具体的な
因果可能性が双対関係で存在しているとか
過去を否定することは能動で未来を肯定することは受動
とか、言ってることがあまりに無秩序すぎて論理的に
まったく説明がつかないと思いますが・・・。 もつれていない状態でももつれている。
そうでないとなにもできない。
粒子が2つだけなら、テンソル積をとって、高次元で回転させてから戻して分離(射影)させればよいのだが、
もっと多い場合は結構たいへんだ。(考えるのが)
[a, b]と[c, d]のテンソル積で[ac, ad, bc, bd]があれば、その2つずつの組み合わせパターンで新しい粒子が作成される。
反粒子とか鏡像とか、とりあえず圧縮できそうなものをはぶけば、2パターンだけ。
もつれているか、もつれていないか。
もつれていない、といっても新しい粒子(投影されたものとする)がもつれていないだけであって、
みえていない部分ではもつれている/もつれていなければならない。
もつれていないとみるから、みえていないもつれた部分を時空間のような概念で補う必要がある。
ホログラフィック理論を考察するなら、
実体はすべての組み合わせの高次元状態であり、
これを二次元に投影して、その情報を3+1時空として投影していると考えられる。
高次元状態(4次元多様体?)のままでは不変量を取り出すことができないないが、
二次元に投影することで不変量をつくりだせる。
この不変量から無矛盾な世界(系)を組み立てるには公理が必要となる。
公理は、その系の外部にある。
公理は絶対(不変)なものではなく、主観によって更新されるとする。
科学も哲学もそのような更新されるものが系の外側にくっついているw
それはベイズ主義的自由意志か?
ちょっとまとまっていないが、そのような方向で考えをすすめている。 同一律も排中律も矛盾律も書き換えられていってるはず
とくに粒子の性質を真偽値と対応させるなら、二体間の粒子の因果関係しかないとして、因果関係の数のn乗だけ真偽値がある
次元が三次元なのは、最初に三体間の因果関係があったから、因果関係の度に粒子の次元の自由度は増える
まあ、それで、球とはなんぞやって考えたら、その本質は因果関係を持つ可能性が均等であることの所作なんだ
中心に粒子があって、どっちに飛んでくかはわからない、因果関係を持つ可能性が均等なら、次に衝突する粒子は円周上に並ぶよね
仮に中心となる粒子と、ほかに3つの粒子しかなかったら、円周上の点は3点しかない、それも球なんだよね
ここで、e^(πi)=-1と絡めたい
半径と円周の比をτと置くと、2π=τ
e^(iτ)=1
また、iと-iの双対性から、
e^(-iτ)=1
なんで、あえて書き直すと、
(e^(iτ))(e^(-iτ))=1
まあ、これはe^0なんだけど、
(e^(iθ))(e^(-iθ’))=1,(θ’=τ-θ)
なんすわあ、
次元の自由度の同じ粒子は同じ一つの粒子と見て良いから、(因果関係を持たないから)
粒子の個数x→1 粒子の自由度θ=0
粒子の個数x→∞ ⇔ 粒子の自由度θ=τ
ちょっとマテ茶、常に現在でτが保存しているとして、過去の粒子の自由度は現在より小さくなるが、その見方は裏を返せて、τは1から∞を動くことになるんで、
粒子の自由度θ→1 ⇔ 粒子の個数x=0
粒子の自由度θ→∞ ⇔ 粒子の個数x=τ
になるはず、双対している?
この1を因果関係を持つ可能性が必然という意味で1とすると、ここでは半径は世界の時刻C[m/s]なんで、円周はL[s/m]、粒子の大きさを粒子の存在時間で割ったもの
粒子の自由度をとして、単に粒子の数をF(x)として、F(x)/dx=F(x)が成り立つときのF(x)=e^xは粒子の自由度の増え方なんで、eは粒子1個のときの粒子の自由度の増え方 書きかけで考え中のやつ投稿してしまったが、この線も捨て難くて、具体的にτとeに意味づけを与えたい、でも、わかんねえーーー 話を最初に戻すと、主体の数だけ世界があるけれど、それらは緩やかにアナロジーで繋がっているってことなんすよ
一方で、事象の地平線が輪をかけるように、外側から因果関係を持たないことを確かめていくんですよ、距離が極限まで離れていたら、粒子の運動のベクトルの向きは、平行になりますよね、ようするに、事象の地平線の外と此処は、宇宙の原初の状態を保っている
エネルギーは事象の地平線の外側まで考えた大局で保存して、事象の地平線の内側としての局所で破れている、
一方で、宇宙の寿命としての時間は事象の地平線の内側の局所で交換できるが、宇宙の外側の大局では交換できない
この場合の事象の地平線の内部では光速は一定で、光速の異なる平行世界間では時間を交換できない >>199
主体の数だけ見方があり、事観察しうる形をとって現れるできごと(事象)は
たしかにそもそも外側から因果関係を迫ったりしないね。
距離が極限まではなれるとなると、外側からの因果関係から主観的な内側からの
確認に戻るしかないんじゃない?そしていきなり粒子の運動ベクトルがでてきて
平行になり、事象の地平線の外と此処?が宇宙の原初の状態を保つという
支離滅裂な起承転結のなさに、ついに類推は及ばなくなりますわw この世界、粒子の位置が確かになっていって、運動量が不確かになっていく世界です
粒子の位置が近ければ、因果関係を持つ可能性は高いですよね、でも遠くなれば、因果関係を持つ可能性は低くなる
粒子は位置について、因果関係を持たなくなっていっている
粒子の運動量がそろっていれば、因果関係を持つ可能性は低いですよね、でもばらばらになれば、因果関係を持つ可能性が高くなる 粒子が衝突しきると世界は終わる、時間を逆さにみて、世界が始まったとき波は干渉しきっている、てことなんすわ
粒子性において衝突しやすくなる世界なら、波動性において干渉しにくくなる世界だってことです つながっていないものがつながることなどありえない。
つながりがあるのにみえていない/みていないだけだ。
最初からつながっているとすれば、最初はひとつであり、最後もひとつ。
粒子A,Bを考えても、それはひとつであり、粒子とはどういうことなのかという問題だ。
系の外部にある公理も、つながっている、とすれば、系は外部と内部をもつ。
ネットワークとすれば、ネットワーク上に境界がある。
境界とはなにか。境界が限界状況をつくっている。
ノードとエッジ。どちらが境界なのか。どちらでもない第三者なのか。
ノードが先かエッジが先か。「先」などというのは後からつけられた概念であって、そんなものなどないのだろう。
めんどくさいので、ノードとエッジは同じものであるとする。
問題があれば考え直せばよいw >>202
時間とはなにかというより時間、時空、素粒子らで構想した宇宙モデルという感じなのかな 寺田寅彦のルクレティウス理解が面白い
スケール大きいなあ
漱石の文学論は当時の世界水準からみても群を抜いているとのこと
師匠のクントウかな 太極☯を陰陽⚋⚊の量子状態とするならば
☯ = |⚋> + |⚊>
となる。
しかしどちらが陰でどちらが陽などかなんてのは絶対的な基準はない。 2つ絡むと
|⚌> + |⚍> + |⚎> + |⚏>
だが、
この図での上下の違いを無視すれば
|⚌> + |⚍> + |⚏>
であり、
さらに同じと違うということだけあれば
|⚌> + |⚍>
である。
2つの組み合わせだけでも3つの扱いがあり、
区別をつけるべき基準によって違うものになる。 理解困難な事態
『事象の地平線の外と此処が宇宙の原初の状態を保つ』
これを勝手に解釈する『事象の地平線の外側』とは、あらゆる事象の外側であるから、世界の外側、つまり世界外である。
さて、『此処』とはおのれの存在する此処であって世界のつまり社会内の意味を超えている。
言い換えるなら、自己存在としての実存自己は世界を、つまり世界の意味を超える可能性を持つ。ここで可能性を持つとは、すでに超えていると同義である。同じ在り方にある。
この理解を超える事態を『宇宙の原初の状態』と同様だと言うのである。
つまりこれはある『理解を超える事態の認識』である。それはつまり、理解の極めて困難なある事態の存在を示している。
世界内の自己と言う存在は(存在形式は)、未だ、理解困難な事態である。 理解を超える事態、を、理解を超える2つの事態、に書き換えます。 >>204
時間だけを考えて、時間を考えるのは難しいです
時刻を規定する時間と、時間に規定される時刻があります
全称命題と存在命題で移り合いますが、
それらの和や積を考えるときには、境界が生じるでしょう 手を変え品を変え事態を書き換えても時間とは何かは相変わらず理解できてないな どのような答えが示されたとしたら、時間が理解できたことになるのかが
示されないと、ゴールポストが移動されつづけるだけですね それは個々人の知恵じゃないですか
ゴールドポストの移動で時間を示すのもその一つでしょう 理解、行動行為、我々
さて、理解とは行動行為に向かえる把握である。ある新しいミッションを行うとする、発案者ないし責任者がその内容や手順を説明する、質問があり質問に答えがある。
わかったか?
ハイ分かりました。
そのミッションは実行される。理解とは行動行為に向かえる状態である。
では、時間理解とは何か。それは我々が何らかの行動行為に向かえる状態にする何かである。それで、そもそも我々とは何か(どの様な存在者なのか)が問題として浮上する。 時間は恐ろしく単純なんだろう
それ故になかなかわからないw 因果可能性を常に1とすると、光速が一定じゃなくなって、そのときの光速の値が時刻になる 問いがあるから答えがあって、答えがあるから問いがあるとすれば、
時間の本質という答えに対して、どのように問えばいいのかという問題になる
その問いは、なぜ、この時刻なのか、という問いであって、それは私が存在することの必然性に帰着される 宇宙が誕生して138億年、なぜこのタイミングで私が存在するのか、その必然性を問うているわけよ 実存理解
タバコは身体に悪い、それは分かっているが止められないと言う。彼は本当には分かっていない。理解していない。
この本当の理解を実存理解と呼びましょう。実存とは、理解のまえの、理解する以前の存在だと言われるからです。
だから、時間の実存理解が、求められている。 実存の定義
(世界内に如何様に存在しているかを)理解するまえの存在として自己を受け止め、自己の行動行為としての自己存在に気付いている存在者、それが実存者です。
実存の定義です。 事象の地平線から先進波が来るとすれば、事象の地平線上であらゆる先進波は干渉してるわけでしょ、
宇宙は広がってるんだから、後進波は他の波と干渉しにくくなる
遅いドブロイ波は局在するようになるから、位相がバラバラだった波の形は統一されていく ゴールポストが動くというのはすばらしいアイデアだと思う。
未来にはたどり着けない。未来は常に未来であって、たどり着いたものは現在、あるいはすでに過去だ。 ゴールポストが動くと聞いて、すばらしいアイデアと感じたのは目新しさに過ぎなかった。
実際には曖昧さの確証を高めるバッドアイデアになっただけで。 いや、よいアイデアだと思う。
たどり着けないのだ。不確定性定理(もはや原理ではなくなった)である。 光速度不変の原理も、そろそろ、光速度不変の定理になる時期だろうと思う。
不変であるということを不変量と考えると、そこには対称性がある。
これはネーターの定理からいっても成り立たないのだが、
対称性があるのではないか、それゆえに不変量をみいだせる、と考えたい。 この図眺めてて思ったのは、レンズっぽいなってこと、
凸レンズと凹レンズ
虚像と実像を重ねて見ている?
波動関数の収縮みたいな >>230
考えたいように自由に時間を使っているうちに何かわかるかもな 素朴だけど、大局的に幾何的な性質を持ってるってのは魅力的だな
この図、横軸と縦軸、書いてないんだけど、
黒の横軸を粒子性における因果可能性と見て、
赤の横軸を波動性における因果可能性と見ると、
光速を一定と見たとき、因果可能性の変化率は、
像を結ぶような空間の曲率を保存してわたるのではないかと 訂正
横軸は黒赤ともに時間だけど、向きが逆ね
縦軸は赤黒ともに因果可能性の大きさで、向きは同じね
今はそう見るってことで
図の曲線は、因果可能性の大きさの時間発展の関数ってことで、その関数は、図を凸レンズと凹レンズに対応させたとき、像を結ぶような曲率を保って変化するってこと 粒子A=[a, b], B=[c, d] とすると
粒子C=[e, f]=[ac+bd, ad+bc] である。
これを立方体とみれば、粒子とは3つの方向からみた3つの姿、ということになる。
しかし、なぜか2つしかみえず、3つめは虚のものとして補完される。
a,bもc,dもe,fも、絶対値の二乗同士を足すと1である。
通常は確率解釈される。
光速度が不変というのは、この、確率が1であることに相当する。
とするならば、半径1の円。これがすべてである。
3つで考えているのだから球。
時空間とは球面である。三次元球体の表面。
そこにマッピングできる。ほんとうにできそうな気がしてきた。
われわれは球面上にいる。 時の流れ時計見てりゃいい、心理で言えば楽しい時はすぐ時間が進んで
つまらない時時間が止まる ac ad
bc bd
左右からみると[a, b]、上下からみると[c, d]。
これに対角線をいれると「もつれ」る。
もつれた状態は平面にはおさまらず、四面体になる。
その、直線的なつながりを立体として把握するとき、時空間がうまれる。
確率1の四面体上(てか、きちんと複素数でやれば丸っこいはずだが、
まだちゃんとイメージできていないw)で時空を扱うことになる。
(二粒子限定なので、数が増えるとわけわからん)
このモデルは、二粒子世界の人工時空間モデル(の、さらに限定されたデジタル版)である。
限定状態でのいちばん荒い解像度のツイスターになるはずである。
双対・共変・共役・随伴などをもたらす極限の塊かもしれない。
デジタル量子論とでもいっておこう。それの極小モデルが四面体上のノードとエッジのネットワークだ。
このワイヤーフレームな四面体は、単独では振動していない。
観測者(基準そのもの、あるいは基準を決めるもの)となるものが必要だ。
四面体しか考えていないのだから、観測者も四面体である。
その四面体が外部にはない、とすれば、自分自身が観測者である。
どうやって自分自身を(自発的に)観測するのか、そこが問題だ。 ペンローズ・タイルをみていると、36°がでてくる。
36=18x2=9x4
三角形の内角の和は180°であり、直角は90°である。
18や9の10倍と考えるなら、10または5が関係する。
四面体は2と3に関わるが、5は絡まない。
5と四面体を絡めようとすると、正二十面体か、四面体5個の複合多面体になる。
どのように考えるべきか。2,3->5へのつながり。もちろん素数なんだけど。
2->3のつながりと四面体の関係を考えるのがよさそうだ。
2->2x2->4->3とたどるならば、
3->3x2->6->5なのかもしれない。
そうすると
5->5x2->10->9->3x3->8->2x2x2->7
4->3や6->5や9->8->7が説明できればよい。そんな説明ができるのかどうか。
説明可能な方程式は波動ということになるだろう。
ただし、3次元空間上での波動ではない。
哲学的には「美し」ければよい。智とは美しさのこと。
それは素数のことでもある。本質というものを極度に抽象化したもの。
文系哲学でさえ、素数をめぐる物語なのである。 素数といっていまうと語弊がある。
別に自然数を扱うわけでないのだから。
「数」学が「数」を扱うなら、「哲」学は「哲」を扱うw
「素哲」。
哲学は「素哲」をめぐる物語である。 素数を数学として抽象化して、必要なものを集めたものがタイヒミュラー空間であるならば、
素哲の集まりもタイヒミュラー空間である。
タイヒミュラー哲学というものおもしろい。宇宙際タイヒミュラー哲学。
哲学としてのそれぞれの議論領域を宇宙としたとき、
その哲学的宇宙間の関係から素哲空間をつくりあげる。 どっちにしても好きに解釈すればいいんじゃないれべるw 四面体は、単独では振動していない、と考えたが、
自分自身を観測することで振動できる。
「観測」の意味を極限まで絞る必要はある。
その「観測」がいったいなにものなのか、というのは先送りして、
とりあえず、
四面体は(自己観測/自己言及によって)振動する。
それが「時間」の原点となる。
それでは、立体ではなく平面。三角形は振動できないのか?
三角形が振動することで四面体を形成しているのではないか?
三角形はなにかの振動ではないのか?
「振動/波動」とは、いったいなのものなのか。
すくなくとも、これがないと...時間は...ない! やっと核心がみえてきた。
「観測」がなければ「時間」も「ない」。
知性による「観測」ではない。
それは「振動」といってもよいだろう。
それゆえに、「自然に」、「素数」が現れる。
「哲学」も「振動」とするならば、「自然に」、「素哲」が現れる。
タイヒミュラー空間というは、「自然な」存在なのである。
そう考えてしまうと、「時間」あるいは「空間」というものは、タイヒミュラー空間にある。
哲学すらもタイヒミュラー空間である、とすれば、「万能タイヒミュラー理論」が...
これって...(いまだ存在しない)一般不完全性定理の変形だ。
すなわち「『系』の理論」であって、現物としてのひとつが「時空系」。
「時空系」を抽象化したものを、とりあえず「タイヒミュラー系」とでも呼んでおこうw
そうすると、「時空系」を含む「系」の本質を探求するものが「タイヒミュラー哲学」である。 む。一箇所で、「の」が抜けている。
「の」とは「of」であり、これもタイヒミュラー空間にあるとすれば、
タイヒミュラー言語学も可能だ。
てことは、自然言語処理にもつかえる。 粒子A=[a, b] だけを考える。
彼は粒子の夢をみるか?
彼の正体は量子ビットであり、実体化させるとしたらブロッホ球のような
球面となる。(正確には球ではない(はずだ))
彼は常に変化している。
変化しているとしても、われわれの時空間とは異なる。
とりあえず、われわれの時空間とは異なっているが似たようなものとしてイメージし、
それを量子時空と考える。量子時間と量子空間(球面)を持っている。
彼が夢をみるとしたら、それはどこかに情報として存在しなくてはならない。
量子ビットに、夢見る機能/機構をくわえる必要があるだろう。
数学を駆使して考えるならば、それは、微分というprpertiesになる。
可逆であるかぎり、そのpropertiesは(量子時空での)過去や未来を持っている現在(いまここ)である。
不可逆とするならば、それは情報を放出している。可能性として残しておくが、いまはそれを考えない。 静的な彼を2x1の行ベクトル[a,b]とするならば、
動的な彼は、2x2のマトリクスを持っているはずだ。
いまここ、というpropertiesは2x2のマトリクスだ。
このマトリクスは無秩序の影響を受けて変化する。
他の粒子とのもつれがなければ、彼はただの無秩序であり、
それゆえに「変化」していないともいえてしまう。
ブロッホ球が完全な球面であれば、そうなる。
しかし、完全な球面でなければ...変化している。
観測者がいないだけである。
彼自身が、彼の観測者となるためには...ナニガヒツヨウカ... 易や陰陽はいろいろ調べたが、太極図は立体化させないといけない。
とりあえず陰陽や易によるものはマトリクスで計算できる。
[a, b] というのは、ようするに、陰陽であり、太極図そのものだ。
知恵というのはおもしろいが、粒子に知恵のような内部情報はない。
そういうわけで外部情報(外形)を変えることしかできない。
自分との干渉による変化である。
そうなると微分情報がどこかに保存されていなくてはならない。
これがないと時間(時空間)ができない。
動的な(情報を持った)量子ビットのモデルを考え中。 易は64卦あるから、0か1を要素に持つ8×8行列になるんじゃない
隣接行列と対応させれば辺の重みと多重辺を持たない頂点数8のグラフになる 陰と陽の二つだけなら、0か1をとる指標になる、
クロネッカーのデルタとか 相補性を 1=ΔXΔP とすると
Iim[x→1]f(x)=ΔX と、
lim[p→0]g(p)=ΔP が、
あるいは、
Iim[x→0]f(x)=ΔX と、
lim[p→1]g(p)=ΔP が、
常に1になるような、f(x)とg(p)が存在して、
不定形になっても、1になるのではないかと、
そういう意味で0と1を陰と陽と呼んでも良いと思う 訂正
相補性を 1=ΔXΔP とすると
Iim[x→1]f(x)=ΔX と、
lim[p→0]g(p)=ΔP の、
あるいは、
Iim[x→0]f(x)=ΔX と、
lim[p→1]g(p)=ΔP の、
積が常に1になるような、f(x)とg(p)が存在して、
不定形になっても、1になるのではないかと、
そういう意味で0と1を陰と陽と呼んでも良いと思う 自己観測するよいモデルがまだみつからない。
数学でいう層がよさそうかな、とも思ったのだが、これが束とかわらない。
sheaf,lattice,bundle,どれも束だが、微妙に意味が違うし、sheafはなにを血迷ったか
束でも滑車でもなく層などと訳された。
考えているモデルも、「束」なのだが、sheaf,lattice,bundleでもない。
layerやbedやseamも捨てがたい。
barrierもいい感じだが、sheaf超え/越えのものはみつからない。
たしかに、トポス(topos)なのだから。
球面から極の2点を除いたものが量子状態である。そう決めてしまうw
非標準な無限遠点と同様に、0も非標準な存在なのかもしれない。
0/1の世界において1は非標準な∞に相当する。 ワイヤーフレームで四面体をつくる。
頂点で接しない辺同士が、[a, b], [c, d], [e, f]。3つの粒子だ。
「粒子」は「場」でもある。もちろん「波」でもある。
2つの粒子がある、ということは、3つ目の粒子も「ある」。
3つ目の粒子を観測者とするならば、観測者もいりみだれて「もつれ」ている。
ここで、ふと、思いついた。「観測者」はいないのではないか。
「観測者」のほうを「虚」であると考える。
われわれが想像しているのではない、われわれがimaginaryなのだ。
想像されているのはわれわれのほうだ。 無限遠点を視点にとるとか、
代数幾何の話で考えるとか、 円の中心を臨む視点が、円周上を動くとする
これは、円周上の点を臨む視点が、円の中心で回転することに置き換えられる
この変換で不変なのは、視点と視点が臨むものの距離である
先に、光速が不変であるときの、因果可能性の時間発展を表す曲線を、凸レンズと凹レンズに対応させたが、
この変換の後で、レンズになるのは、おそらく空間だろう
空間の曲率は、大局的には(この変換の後の)因果可能性の変化率である
しかし、球面上を1つの視点が動くとき、その動かし方は一つに決まらない、これは問題になる 0と1の模型をつくろうとねんどと棒を買ってきたら、
こむぎねんどだったのでぼろぼろ。
でも四面体をつくって眺めているとおもしろい。
なんかもすこしよいもので量子模型?がつくれるようなものないかなと。
もすこし固いねんどとファイバーがいいかなぁ。
どうにかして36°をひねりださなくては。 主観時間
時間(客観時間)がどの様な構成かを考えてみて主観時間まで到達できると、時間とは実存する存在者が、概念としての存在と存在者を捉えるために規定した尺度であって、つまるところそのめざす所は主観時間の獲得と活用だと言える。 完全、不完全
対象は、例えば自然は光速度一定原理で静止は実在を否定されている、無矛盾、つまり完全
規定は否定
故に決定不能、不完全
否定という対象自体は完全
→それをまた規定することは否定に他ならない、つまり不完全
無限の規定としての有限(その一つの数学)
規定は否定自体は無矛盾→完全
自身(数学とか)を規定する→否定だから決定不能 自己(自己と言う事態)と自己言及(自己言及と言う行為、認識)
自己言及、これはサルトルの対自存在と即自存在の話しです。
どちらが自己か。どちらもそれだけで自己ではない。自己にはなり得ない。そして彼はこう言う。
人間存在とは、(人間存在である事態は、)無益な受難である、と。 円が円として現れるのは、事物/事象が比によって認識されることによる
錯覚であるが、そのような錯覚なしには、いかなる事物/事象も認識され得ない。 時間とは物体の言い換えに決まってるだろ
三角形の角度も四角形の角度も足せば360度であるように物体の有り様も相対論で時間に書き直せる
我々に見せている態度が違うだけで時間も物体も同じもの
なぜ形があるように見えるのかと言えば我々自身が姿を持っている為に時間もまた我々のメタファーを写して実体を持っているように見えているだけ ん? 「無矛盾」と「完全」は異なる概念です。
「決定不能」もおかしいですね。
まあ、数学的な厳密さなんてのは哲学には不要だとしても、
哲学的な厳密さというものもあるでしょう。
しかし哲学におけるそのへんは...どちらかというと文学理論における「作家論」のようなもので、
かといって、テクスト論にしてしまうとなんか違う。
数学に足りないのは倫理w
数学と哲学で同じところは「美しさ」の追求であるはずだが...
そう考えていくと、最終的に「音楽」がいちばんよいw
数学も哲学も「音楽」としてとらえるのだ。 496 :名無しさん@ピンキー :2019/12/12(木) 17:41:10.63 ID:tbKWF5/u
昨日から貸出中の嫁、夜に2回電話きたけど無視した
身も心も相手に落ちて欲しい、そしてベタぼれになって、ボロクソにふられて欲しい
そうした嫁を愛してあげる
498 :名無しさん@ピンキー :2019/12/12(木) 18:40:50.55 ID:tbKWF5/u
学生時代に浮気ってか二股かけられてて、彼女の女友達も浮気しまくりで、あー世の中こんなもんなのかってまず自分が壊れた
社会人になって田舎からでてきた見た目派手で美人系で真面目な嫁。まさか自分に気があるとは思わなかったけどいつの間にか付き合った。
そしたらエロに貪欲で何でもさせてくれる性格。そして時々大喧嘩して向こうが俺にやり過ぎる、仲直りの要求をその都度エスカレートさせて今に至る。クリスマスもめちゃクチャにされてこい雌豚って感じ 人間の対自存在と即自存在
対自存在と即自存在を、新しい捉え方で捉える。その先に新しい展開があるか。
時間とは何かの考察から判明した事実を使う。
対自存在と即自存在の分裂とでも言った事態からは、逃れられない。 三角形は3辺と3つの頂点からなる。正三角形を考えるなら、ひとつの角は60度だ。
この三角形の面を4つ集めて正四面体をつくる。
さらに、この正四面体を5つ集めて正5立法面体?をつくる。
この超立方体から平面への写像に36度があらわれる。 用語がわからん。
とりあえず、辺を1次元面、面を2次元面、立法を3次元面とすれば、
正五3次元面体?
ま、ともかく、四面体を5つ組み合わせた超立方体のなかに時空間がある。
この4次元なものと、3次元をつなぐものに正20面体がある。
三角形の内角の和が180度なら、
四面体は720度で、考えている4次元なものは3600度か?
3600度の宇宙かー。 それぞれの次元をn次元宇宙とすると、その宇宙間の変換函数の集まりは
拡張(あるいは抽象化)されたタイヒミュラー空間となる。
とりあえず、宇宙際タイヒミュラー空間とでも呼んでおこうw
2つ上の次元からの写像を組み立て直したのが時空間である。
と、ここまでが、さまざまなアプローチから人工時間(人工時空間・人工自然)を組み立てて実験して
えられた考察の一端である。
対象->超空間->平面->投射された対象->以下ループ もののけのしおりちゃんという名前で活動してる当時小学生、いま中学生がいるんだけど、感性がずば抜けてるから紹介した
勝手に自分の世界観と類似を見つけ出してる昨今 超空間とタイヒミュラー空間を考えようと図書館でいろいろ借り出してきた。
正五角形は作図可能だが、正七角形はできない。
すなわち、時間(時空間)とは作図問題である。(光速度不変も...)
そう考えるとおもしろい。 これを作図問題と考えるなら、どのような作図なのか。
量子問題としてとらえたのだから、[a, b]という(複素数の)係数を扱った。
|a|^2+|b|^2=1である。これは「コンパス」である。
そうすると、このマトリクス中の係数というaやbの記号が定規である。
まあ、マトリクスのほうが定規で、a,b記号は点ということか。
粒子A=[a, b]を、ノードaとノードbをつなぐエッジとみなす。
粒子Bと絡めると[ac, ad, bc, bd]の四面体になる。
この場合、「面」は意味を持っているのか?
ループ量子重力論から考えると、量子重力を持つ?
ひとつの区画と考えるなら、情報を持つ?
量子ブラックホール?
エントロピーなのだろうか。
重心?を中心とするならば、それは時間次元?
とするならば、重力と時間は不確定性を持つ関係?
どちらも、片方向にしかない。
まあ、たしかに反重力は反時間だ。
そう考えるならば、正時間の中に反重力はなく、正重力の中に反時間はない。
おもしろい、量子ゲートコンピュータから時間や重力を取り出せる!
いや、取り出せはしない。それでも情報としては取り出せる。
古典的ビットとしての時間や重力。てことは、同時に空間も取り出せている。
むむー、人工時間・人工重力・人工空間がいちどにとりだせてしまった。
って、ただの古典的ビットだけどね。
それは、とても恐ろしい結論だ。量子ビットが裏返っただけだ。
ということで人工自然もできてしまった。それは量子ビットだ。
(ただし、ここで考えているのは量子ビットの宇宙です)
幸せの青い鳥ですね。最初からそこにいた。
「宇宙(自然)は局所的事象である」 即自存在、対自存在、主観的時間
即自存在は、現に今ある自己であり、対自存在は、(明日)在るべき自己である。
ここには時間の要素が含まれている。『時間とは何か』の考察が、即自存在と対自存在の解明をもたらすのではないか。
ここで言うこの時間は、主観的時間であるが、同時にある客観性を持っている。つまりまったく主観的な時間ではない。 即自存在、対自存在、主観的時間
即自存在は、現に今ある自己であり、対自存在は、(明日)在るべき自己である。
ここには時間の要素が含まれている。『時間とは何か』の考察が、即自存在と対自存在の解明をもたらすのではないか。
ここで言うこの時間は、主観的時間であるが、同時にある客観性を持っている。つまりまったく主観的な時間ではない。
対自存在
明日在るべき自己は、自身の願望としての在るべき自己であるが、また周囲からの評価を含んでいる。さらには変えようの無い流れのなかに在る自己として、そうなるであろう自己をも含むのである。 主観時間を持つものとして人間を想定しないとすれば、
とりあえずは、考えている量子状態しかない。
[a, b]
これは、2つの「極」である。
こいつ(ら)が人間のかわりに主観時間を作ると想定しよう。
こいつ(ら)が、いわゆる古典的ビットである。
一種の特異点(のペア)? 即自存在、対自存在、主観的時間
即自存在は、現に今ある自己であり、対自存在は、(明日)在るべき自己である。
ここには時間の要素が含まれている。『時間とは何か』の考察が、即自存在と対自存在の解明をもたらすのではないか。
ここで言うこの時間は、主観的時間であるが、同時にある客観性を持っている。つまりまったくの主観的な時間ではない。
対自存在
明日在るべき自己は、自身の願望、希望、目標としての在るべき自己であるが、また周囲からの評価を含んでいる。さらには変えようの無い流れのなかに在る自己として、そうなるであろう自己をも含むのである。
この対自存在は、今ここを離れて在る、すなわち在るべき自己としての対自存在である。自己は、その都度の容易には変えられない環境のなかにいる。
だからいつも常に、即自存在としての自己は、対自存在としての自己へと蒸発、発散してある。即自存在は今ここという即自の自己でありながら、いつもすでに対自存在として自己自身ではない。
自己、おのれは、いつもすでに対自存在と即自存在とに分裂する。 予感、意味
即自存在は、今ここの自己であり自己自身である。それでありながら自己は、いつもすでに対自存在へと霧散する。
ここで考察して来たように、バナナは明日はゴミ箱の中の皮になる。目の前のバナナの意味はゴミ箱の中の皮である。バナナはゴミ箱の中の皮に《なるべき》である。今ここの即自存在の意味は、対自存在としてのみ捉えられるのである。対自存在は、即自存在の意味である。
意味を離れて存在する自己の可能性をみるとき、人は『死んでもいい』と言ったりする。対自存在と即自存在とが一致して在るように、その時、思われるのだ。しかしたちどころに自己もおのれも、即自存在と対自存在とに分離する(現実)。
人はその分裂の予感から逃れようとして、『死んでもいい』と口走るのだ。 球面から極の2点を除いたものが量子状態である、というのは撤回。
どうやっても2点除くとおかしくなるw
一点だけ除くことにしよう。
そうやっていくと、なんで球面なんだという謎。
球面じゃなくたっていいぢゃないか。
いや、2次元球面じゃなくたっていいぢゃないか、ということ。
一次元球面でも0次元球面でもよさげ。
これまでの考察から、時間のようなものをうみだすには面が必要だ。
0次元量子論。まずここから探求してみようかなと。 距離や速度のように物理的実体は存在しないが数学的には存在する、以上 >>1
あなたが考えなくていいから
働いて
(母) 0次元球面を量子状態と考える。
0次元球面は、点が2つなのだが、1点除去したものを量子状態とするならば、
量子状態は点ひとつである。ただし、本来2つあるべき0次元球面の2点の、
どちらであるかわからない状態が量子状態だ。
他の粒子と絡んでなければ、どちらの点であっても同じだ。なにも違いはない! 1点の量子状態を考えるなら0次元球面から1点引いたものであり、
点が一つだけあるというものではなく、閉点ひとつと開点ひとつのペアである。
他の粒子と絡んでいない限り、この閉点と開点のペアが基本構成となる。
このペアの点の間には半径rがある。なければならないのである。
0次元なのに半径がある。1次元ですらないのに半径がある。
なんじゃこりゃー、という感じだが、なければなにも成り立たないのである。
とりあえず、確率解釈するとすれば、この半径は1である。確率1。
これをとりあえず、「射」と呼ぶ。
開点と閉点と、それをつなぐ「射」。
「点」は、この3つの要素を持っている。
この3つの要素が対等であると考えるなら、射よりも根本的で意味をもたいものとして、
3つのノードとそれをつなぐ3つのエッジを考える。
そうすると面ができる。面は2つの面を持つ。
それ自体が2つの面をつないでいるとすれば、また、そこに、3つのノードと3つのエッジをみいだすこことができる。
これを最初の3つのノードと3つのエッジと対応させていくことで、
2−3チューリングマシンが形成される。 半径rは明示しないとして、
0次元球面を●●、0次元球体を●としたら、
0次元球面から一点引いたものは●○なのか、○なのか、◉なのか。
1ビットという概念から考えれば、●○がよさそうだ。
この●○の並びを↑、↓のようにあらわすなら、それは古典的ビットであり、
単独の量子ビットは上か下か区別ができない。
このままでは古典的ビットのほうが情報量が多い!
しかしながら、古典的ビットも量子ビットも情報量は「同じ」はずである。
このパズル、どう解こう。 ノードが0次元で、エッジが1次元、
面を構成すれば2次元だが、面の作り方は何通りかあると思われ
次元をいくつでも増やせるんなら、例えば3次元を考えたとして、なぜ3次元なのかという疑問がある
逆に次元を減らしていって、最後に0次元となったときに答えが出るようにするアプローチもあるだろう
ボトムアップとトップダウンみたいな、 客観性認識
『存在と無』、現象学的存在論の試み(副題)
日本語訳ですが。
主観的時間と言っても、それはすでに客観的認識(客観性認識)のなかの主観的時間である。
認識の客観性から抜け出る為には、客観性認識の総体を手に入れなければならない。
時間とは何かの問いの考究によってこそ、その客観性認識の総体を手に入れられる。客観性認識の総体が手に入れられれば、存在者としての実存するものは、そのまま客観性認識を超えるだろう。
サルトルは、存在と無において客観性認識からの脱離を試みたのである。 ひとつの粒子を●○のペアと考えるなら、
open-closedな点である。
2つの粒子を組み立てないと時間や重力はでてこない。
空間もでてこない。
ひとつの粒子がもっているものはなにか。
●と○と、省略されているが半径r。
3つある。これを対等とみなして、RGBとでもしておこう。
陰陽ではなくRGBである。
[a, b]ではなく[r, g, b]にしてみたいので、少し記法を考える。
四元数を使うべきかもしれない。
はたして(人工)万能理論が構築できるか。(あくまでも人工世界内での万能理論である) もともと、[a, b] は2つの複素数で構成された2次元球面なので、[r, g,b]の3つにしても同じなのである。
ただ、計算が面倒に成るw
2つの粒子を絡めて、2つに分離する。
これを2つではなく3つに分離させたいだけ。最初から3つなら楽に分離できないか、というだけ。
楽にならなくとも、なにのやくにたつヒントをみいだせるだろう。 もっとも、複素とベクトルでは情報の違いがあり、
そこにタイヒミュラー空間をみいだすことができる。
それこそが、物理量の元/素である。
すなわち、時空間の元/素だ。 む、
そう考えてしまうと、宇宙の違いが物理量の素である。
ここでいう宇宙とは議論領域のことであり、
議論領域間の交通/交易が物理量をうみだす。
そうなってくると配達されない手紙とか、二度ベルを鳴らしたりなどという、
「物語」が展開される。
人工自然に人工文学理論も含めてしまって、大統一理論を構築しようw このように考えてしまうと、
タイヒミュラー空間とは「文学理論(の空間)」である。
文系哲学の領域でも十分に議論可能だ。
ってことは。宇宙際タイヒミュラー理論というのは、数学における文学理論ということだ。 相手に自分がどう映るかを考えるのが客観的、自分の夢が続くのが主観的
ということだろう。前者が後者の後だ。 主観を特異点とすれば、客観は非特異点(通常点?)である。
客観の間の整合性は、その客観世界という系の整合性であり、
主観という公理によって成り立っている。
主観客観というのは、公理系の話だ、と考えてもよいだろう。
哲学というバトルフィールドでは主観=公理が戦い合うのである。 客観性という整合性のポイントで優劣が決められる。
客観性のおよぶ範囲が広いほどポイントが高いとすれば、
それは囲碁のようなものでもある。 [ac, ad, bc, bd]を頂点とする四面体。
これを平面に四角形として投射すると、対角線があらわれる。
この2本の対角線は、[a, b]をつなぐものであり、[c, d]をつなぐものでもある。
対角線で4つに区切られた領域の1つしかみるこはできない。
そこに世界があるゆえに時空間が必要とされる。
時空間そして重力は、1/4の世界と四面体の世界をつなぐのに必要なものだ。
静的な時空間をつくりだせても、本来の動的な時空間をつくりだすには、
四面体の回転(変化)を考慮しなくてはならないのだが、むつかしい。
この四面体のなかのどこに観測者がいるのか。
とりあえずは、もともと2つの粒子を組み合わせたのだから、ひとつの粒子を観測者にしたてるしかない。
どうやって観測するのかといえば、もうなにもないので、その粒子の量子状態の変化を観測と読み替えるしかないだろう。
それは...その粒子の主観的な宇宙全体の情報である。とりえずそのように想定する。 4面体を4つのノードと4つのエッジとする。
小さなネットワークだ。
各ノードには3本のエッジがあり、他のすべてのノードに連結されている。
各ノードは[ac, ad, bc, bd]だ。
ルールはノードで交わっていない対向するノードの和またはxorが1になるということ。
そして、各エッジの3本のノードのxorが1になるこということ。
これが2粒子系量子ビットのすべてである。
このような四面体ネットワークを複数重ね合わせることで、各粒子は複素数のペアになる。
2量子ビットの量子コンピュータである。
ただし、従来の量子ゲート式量子コンピュータと「考え方」が微妙に異なる。
量子AIへの第一歩となる「部品」だ。 量子もつれとは、2つの粒子の独立した情報からひとつを固定して、2つの粒子にわけたものだ。
2つの粒子だが、1つ分の情報しか持たない。
これはあくまでも2粒子系での量子もつれだが、
さらに多粒子系ではさまざまなもつれを考えることができる。
それらは1粒子が1つ分の情報量より少ないということになる。
情報量の多い1粒子も不可能ではないが、それはまた別の機会に考えることとしよう。
問題は、四面体ネットワークから時空間をひきだす手法である。 ま、この量子もつれの説明は正しくはないが、ネットワークに入っている時点でもつれているともいえる。 四面体ネットワークを構築してみると、ひとつの頂点に1が集まり、
そこを上にすると底の三角形は0の辺で構成される。
各頂点は、xorが1だが、各面は、3辺のxorが0となる。
二粒子で構成されているが三粒子を取り出せる。情報は二粒子分しかない。
一粒子分を決めてしまって、残りの二粒子をとりだすと、もつれた粒子が得られる。
もつれているのでいろいろと活用できる。
不確定性って、2つの粒子で値を決めてしまうと、残りの1粒子は情報を持たない、ということなるのかもしれない。
うーん。ルービックキューブのようなもつれたおもちゃつくれないかなと。 主観的時間とは何か
客観的時間が、諸事物者の来時性の絶え間のない発現である、と説明される。この説明はそのまま世界の説明である。世界の諸現象の説明である。世界は諸現象として捉えられたのである。
こうして世界現象が捉えられて見ると、改めて主観的時間とは何か、が問題となる。主観的時間とは、面白かったとか、詰まらなかったとかとして、主観的に体験される時間である。
この主観的時間が何らかの説明として説明されるなら、その説明は主観的時間の総体を説明する。つまり、主観的人生を説明するだろう。
主観的であるそれぞれの人生の、何らかの総体的な説明となる。
人生に意味はない、と言う人がいる。この発言は人生について発言している。それと同様に主観的時間の説明は、人生について発言する。しかもそれは、フィロソフィーとしてである。 四面体というのは、すでに空間として組み立てられているが、
ただの情報である。
空間として組み立ててしまったのは、外から見ている(考えている)わたしである。
これは排除しなければならない。
実体はもっと高次元にある。
とりあえず、これを4次元とみる。
4次元での回転が平面上に投射され、その情報を3次元+1としてさらに投影する。
これを行っているのはわたしだ。これは排除せざるをえない。
外部のわたしではなく、内部のひとつの粒子からみなければならない。
人工時間は彼のものだ。
彼は量子状態を持ち、それは並進対称性も持っている。
それを投影すると3+1次元になる。
彼の内部世界が彼の外部世界をつくる。
二粒子系なので、彼らの客観世界を、彼らそれぞれの主観世界の中につくる。
人工主観世界、人工客観世界。 二粒子系のタイニーなホログラフィック理論。そういうことになる。
しかし、彼には記憶がない。記憶あるいは痕跡を与えねばならない。
量子状態は時空間の夢をみるのか。
彼は1ビットの情報しかもたないのに、それは可能なのか?
1ビットを確率1と同一視してしまおう。
われわれは確率1の世界にいる。世界の確率解釈。
ちょっと突拍子もない構想だが、考えてみよう。 エスエフではなくスピンネットワークなのである。
これが時空間をつくる。
スピンのペアがツイスターとなるのだが、めんどくさいので
とてもタイニーなペアを考えているのだが、そしたら3つめの粒子がでてきた。
量子もつれもでてきた。
いまのところ電荷以外のほどんどの物理量が(形式的に)とりだせる。
四面体って三次元のようだが、四次元がみえてきたので電荷もとりだせるだろう。
あくまでも物理や数学ではなく哲学的な試論。 時空間をつくるためにはスピンが必要になる。
しかし、スピンの値はデジタルであり、その値は1/2になる。
向きも基本的には2つしかない。
回転をイメージするためには空間が必要かもしれないが、スピンが空間をつくるのであれば、それは「まだ」ない。
空間を単に自由度と考える。
スピンするためには自由度が必要で、自由度はスピンによってつくられる。
さて、どうしよう。
自由度がつくられる、のではなく、もともと「無限の」自由度のなかにあり、できるのは「秩序」である、と、考える。
ここでいう「無限」は物議を醸さないように他の言葉を使わなくてはならないだろうが、
とりあえず、文学的表現であるとしておくw 何がスピンしているのか?
スピンが何かをつくり、何かがスピンする...
ここは、「何か」など排除してしまって、「スピン」しかないとしてしまおう。
そうすると、「スピン」は「秩序」である。
無限の自由度のなかにある秩序はスピンなのか?
「無限の自由度」とは、ようするに「無秩序」である。
無秩序なのだからスピンがあってもかまわないw
かまわない、では困る。
どうすればよいか。
完全な無秩序も、完全な秩序も「ない」とすれば、それは「混沌」。
いくつもの混沌モデルをつくってみたが、いまだになっとくのいくものはできていない。
えなり的には、こんとんじょのいこ、なのだが... 無秩序の極限は秩序であり、
秩序の極限は無秩序である。
これらの極限を含む全体を混沌とする。
そうすると、混沌場に宇宙はある。
なんどもいうが、ここでいう宇宙とは議論領域のことである。
極限状態はたくさんの問題をはらむのでとりあえず除外する。
混沌場でのもっとも小さな宇宙は、秩序と無秩序のペアである。
これを●○とする。●が秩序のほうとする。1/0でもよいのだが、意味を持ちすぎている。
●○が基本的なスピン1/2である。
(本当にキモとなるのは●●のスピン1と○○のスピン0だが...)
そう考えると、●○は1ビットである。だたし、基準がないので状態は1つしかない。
ええっと、とりあえずオセロでも買ってきて考えてみるかw
あとで買いにいってこよう。
ああっと、そうか、多面体オセロ。つくれるかなぁ。 >>329
数自体は大きさがない
だから無限に集めてもゼロ >>330
それは単にきみが
「大きさがないものはない」
というテーゼに縛られていることを表現しているだけだよ >>329
大きさを表現する存在が大きさがない数
ということですか?
よく理解出来ないので詳説してください >>331
大きさが無いものはない
どこがおかしいか指摘してください 「重力に大きさはあるか」
「重力に重さはあるか」
まあ無いよな
しかし、ならば「重力は存在しない」としても良いのか 「数」は第一義的な概念によっては、そこに「石の大きさ」のようなものを当てはめることは難しい
だがそれは、数が存在しないことを意味しない >>334
重力自体はまだわかりません
わからないものは根拠になりません
ちなみに先年ある物理学者が重力は実在しないという理解を示しました
まあ、違う理解が可能だということですが ゼロ次元は実在しないですし
数学の規定を変えられるとか? 実在するかどうかを存在の条件とすることは難しい
なぜなら、そもそも「実在する」ことの意味が人間には分からないからだ >>341
自然科学は自然が前提です
つまり実在は前提で問えません
ただ無矛盾であるかどうかは問えます ゼロ次元が実在しませんから
一次元、二次元、三次元、四次元は実在しません
それらはゼロ次元の無限集合ですから
四次元が実在するなら運動しない三次元が無限に実在しなきゃおかしい 正義に大きさはない
芸術に大きさはない
感動に大きさは・・・どうもあるらしい
大きさというのは便利な表現だな 「無限」を区別しろ
一次元はゼロ次元の無限集合ではない
無限の大小を扱うのが現代数学における無限論だ 「バッテリーがなくなる」
なくなるのは大きさのあるバッテリーのことなのかね なんか盛況のようだが、それとは関係なく。
●○は、●●の0次元球面から1点引いたものである。
すなわち、●○は0次元(開)球体ということになる。
そうなると、0次元(開)球体はスピン1/2で、
0次元球面はスピン1だ。
そういうわけで、0次元球面が光子(スピン1)、なのかもしれない >>349
それはきみが、君の考える実在の意味において数がそれに適合しない、と
そう信じている、そのことを表明したに過ぎないのだよ 運動は否定されたことはない
つまり座標原点は実在しない
運動が前提だから、自然の存在形態は運動
ここからここまでが実在しない 規定は実在しない、と君はそう信じている
そういうことだ
それならそれで構わんよ 世の中には「物理とか数学とか、そんなの主観だろ」と宣う輩が一定数いるわけだが
私に言わせれば、「それ、誰の主観の話だよ」って話だな 対象はその否定で理解される
有は無
運動は静止
無限は有限
有限は無限
実在は非在
規定は否定 スピノザ 座標原点が実在しないとするなら
座標というのは「ここからここまで」を表現するものだから
ここからここまでがないことは、実在しないことを意味しない >>360
座標原点が実在しないことの意味がわからないのか 静止が実在しないなら、出発点はない
つまりここからがない 「数は規定であり、規定は実在しない、故に数は実在しない」
とするなら、規定が実在する場合には数は実在することになるわけだ
抽象的概念が実在するか
これはいわゆる「普遍論争」
そうするろ私は「普遍は実在する」と、そう信じていることになるが
実際、そのとおりですよ >>366
規定は対象の否定
実在は非在で規定する 「ここから」がそもそも無いのなら
数に「ここからここまで」がないことは、数が存在しないことの根拠にもならない 実在が非在によって規定されるなら
非在が実在によって規定されても良い
君はどうでもいいことを言っているのだな 1,2,3が数に付ける名前だとするなら
数は実在することになる >>371
そう、否定だ
非在は否定され、実在になる 自然に切れ目があろうとなかろうと
何も矛盾しない
対象を区別することが可能であるような自然であれば良い 自問自答ではないぞanonymouse
そして、そういうことを言わぬほうが良いのだ
バカに見えるから ヘーゲルは実在はその否定で理解され
また否定すると、地動説を論じた
運動は静止で理解され、また否定して地動説になる >>377
区別は理解するから
理解は自然に実在しない 自然過程説氏の人格が分離してしまった可能性を心配したんだ、
まあ、ルールなのかゲームなのかってことっすね、
どっちが実在するのかって言ったら、普通はゲームの方だけど 「自然には〇〇は実在しない」などという主張は
「ボクの考えている『自然』には、そんなものは存在していないよ」という
個人的世界観の告白にすぎないのだよ >>384
主観か客観か論じているんじゃないのかw 自然過程もいつまでもこんなことやってんのな
死ぬまでやるんだろうな ここまで全部自然過程説って人の自演なんじゃないかって勝手に思ったんだけど、
続けてどうぞ、 以前にフッサールスレで絡んできたタコがいたが
まさか自然過程とは思わなんだ 抽象だから実在しない
唯名論
そういう世界観で生きていけばよい >>395
興味ないから行ったことないよ
このタコ、おまけに慌て者ときたか ああそうか
頭の悪いやつの考えることは同じなんだな >>398
ハイハイ神様だから論証抜きの断定ですか >>383
ゲームかルールか、って話とは思わない
「実在」とは何か、という話だと思う そういやあのタコもフッサールに興味なさそうだったわ
オカルトだとか言ってたな 唯名論的に実験で確認できるのは個別的事象だけだ
それを一般的真理とできるのなら、抽象こそが実在となる
つまり実験により真偽を決定できると信じているなら
それは普遍実在論者に他ならない
その自覚が無いなら、そういう人なんでしょう 自然が矛盾したら科学は成立しない
静止は否定された、つまり自然は無矛盾
それが否定されたことはない
個別自体はないけどな
個別で理解されるけど
何しろ、ここからここまでがないから
有限で理解するが有限なんてないし
無限は有限で理解されるが有限はない
規定は否定 >>403
少なくとも現前する現象世界は実在でしょ
実存的存在というべきかなあ
それに対して、物理的法則とか、理想的な物体っていうのは、物理的存在というべきだろう そもそも、実在って言葉自体が、感覚寄りなんだよね。現象世界にしたって、イメージ、予想、気づき、発見みたいな直観的な機能を加味してない
実在について論争しているようで、結局、人の心理機能の感覚と直観に分かれてきのこたけのこ論争をしてるにすぎなかったりする >>409
だけどな、実在の一般的な定義はよ
「意識から独立して存在するもの」
なんだよ
それを踏まえて、現前する現象世界が実在と言えるかね え、意識から独立してたら、存在しなくないか、
自分を擁護するわけじゃなくて、一回間違えを認めた上で言うんだけど、
存在とは、自分と関係し得るすべてのもの、あるいは、自分と関係し得ることのすべてであるから、
自分の意識と独立して存在する、というのは形容矛盾だね
存在しないことが存在であるって言ってるから >>413
先ず、その意識はどの意識のことなのか、を問いたい
次に、もしそれが誰の意識でも良いと言うなら
意識を持つ生物が絶滅したら何も存在しないのか
を問いたい >>414
問い方がいいと思う
答えるのが難しい
禅問答にならないようにすると、
まず、意識のあるものと意識のないものの区別が必要だよねら
その次に、自分の意識と他者の意識に区別されるよね、
次に自分の意識にも、過去の意識、現在の意識、未来の意識があるよね、
ここまではいいと思う 禅問答をするつもりはなくてな
つまりこういうことだ
「存在」の意味は意識によって初めて与えられる(ように思われる)けれど
しかし、その当の意識によって、「意識に先立つ存在」を規定することができる
だから、形容矛盾にはならないのだ 他者の意識とか、過去の意識とか
そういった哲学に於ける「超越」を、常識に刷り直すならば
そもそも、実在の滑稽さなど問題とはならない 質問に答えると、意識ってのは、過去、現在、未来を含めた自分自身の意識のことだね
簡単のために、例え話をすると、一生関わるのことのない、地球の裏側に住んでるブラジル人の人はまあ、存在しないってことになって、家族とか友達とかは、強く存在してるよね
でも、友達がそのブラジル人の人と旅行行った時に出会うかもしれない、そうしたら、友達にとってはそのブラジル人の人は存在しているよね
こうして、実は一生発見ない離島に暮らしている人たちがいたとして、その人達を除くすべての人は、なんかしらの関係の連鎖で繋がってるだろうから、存在ってのはもっと有機的にも捉えられるんだよね >>418
自分自身の意識とは、つまりは君自身の意識だな
それ以外の意識は度外視する、と
そういうことで良いか?
ちなみに私も、自分には意識があると思っているのだが
君にそれを信じてもらうには、私はどうすればよいだろう 実在とは、「実在」という概念のことであって、それ以上のものではない。
ちょっとややこしいが、実在しているとされるものが実在していなくてもなんら問題はない。
単なる概念なのだから。
いうなれば、実在こそが矛盾。
矛盾として系の内部に取り込むか、外部に置くか。
これを人間中心に考えるなら、人間こそが「矛盾的存在」。
われわれは矛盾によって生かされている。
矛盾のでどころが0次元球体におけるrの存在であろうということで探求中。 >>416
実存に先立つ存在ってのは、ようするに、遠い祖先がいなければ、自分は存在しないのだから、顔も知らない遠い祖先は存在した、っていう意味での先立つでしょ
祖先に限らないけど、それって意識と独立してないと思うんだよね
星を見るとき、遠い昔から光がやってきて、星を見た人の意識にのぼるわけでしょ、
それでもう意識とは独立してるわけじゃないよね
意識って、自分と関係するすべてのものによって規定されて、その関係そのものとして在るから、実在に先立つ存在っていうのは、そもそも自分と関係していないとおかしい >>420
最後の行以外はとても良いと思う
だが、「単なる概念」と言い捨てるのは
非常にもッたいない >>420
0次元球体のrってロマンあるなと、
しかし、rは1次元だよなあ、厳しそうでもあるかなと >>421
先立つというのは、そのような時間的な前後関係ではなくて
論理的に先立つという意味なのだ
カントが経験に先立つ先天的認識を説明する際に用いた説明で、
認識は全て経験によって開始されるのだが、しかし経験を経験とするためには
経験を可能とするための仕組みが予め存在しなければならない、としたのだが
それと同様の理屈だよ たしかに、単なる概念というのはもったいないが、とりあえずカンフル剤。
これを否定的にのりこえるのが哲学。
最後の1行は、おれの趣味だからどーでもよいことw そこは気にせんでくれい。
矛盾と無矛盾は対義語ではなく、無矛盾な矛盾も可能と考えている。てか、それがあたりまえ。
矛盾する無矛盾も可能だったらおもしろいが、このパズルは難しい。 >>423
そこはロマンじゃなくて、そのような定義になってますだよ。
英語版の0次元球体関連のwikipediaでもみてくだされば、いろいろな論文に飛べます。 つまりな、意識が存在するためには
意識を可能とするための仕組みが前もって存在しなければならない
そのことが意識によって理解されている
だから矛盾しないのだ >>419
度外視はしてないかな、
なぜ、君が存在すると信じるに足るのかといえば、
まぶ、ここにだけ意識があるのはおかしいこと
次に、哲学的ゾンビは不自然であること
さらに、規定されているすべてのものには存在があるはずだってことだね う、まちがいた。0次元「球体」ではなく、0次元「球面」。
球面でなくては意味がない。 >>427
意識に先立つものは、意識と独立してあるだろうか、
僕に言わせれば、意識と独立しているものなんて、事象の地平線の外くらいにしかないだろうし、それが存在しないということなんだから、
「意識と独立して存在するもの」という定義は矛盾だねえ 事象の地平線の外
それこそ意識の中にしか無いのではないかね 意識に於いて、時に意識を失うことを認識している
意識を失っている間にも、無くならないもの、続いているものがあり
そしてそれがほとんど全てであることが
これも意識に於いて知られている
さあ、それらを意識と独立であることを認めるのか、認めないのか
単なる踏み絵でしかないのかねぇ 存在しないもの、って言ってる時点で、存在しないものを名指ししてしまってるけど、余事象っていうまあ、ロジックを噛ませてるわけですよ
事象の地平線の外って、宇宙の事象の地平線の意味で使ってるけど、要するに、存在する事象の余事象は、事象の地平線の地平線の外ですよってことになる
それは、自分と関係し得るすべてのもの、ではないすべてのもの、と一致するけど、
ようするに、存在しないものを集めて、事象の地平線の外と呼んでいる、と解釈しても今は問題ない 知覚しているから、意識とは無関係ではない、
知覚してしまった時点で、意識と関係してしまうこともあり得る、のだろう、が、まあ、物理的に関係しているわけではないね
太陽も、恐竜も、隕石も、まあ、意識と独立にあるわけではないんだな、
あらゆる過去に規定されて、自分の意識があるわけで、そのどれ一つ欠けても、今の意識はないわけですよ
もっといえば、自分と関係するすべての因果関係が、意識に影響しているわけですよ
もっといえば、存在ってのは、そのすべてにおける所作なんですよ >>432
意識を失ってるときは、脳内の物理現象、因果関係がなくなってるんだから、そこに意識はないのは、当然っちゃ当然では
自分自身と関係し得るするすべてのもの、あるいは自分自身と関係し得ることすべてが存在である
だから、関係である自分自身がなくなれば、意識はないんじゃないでしょうか
僕はなにか矛盾したことを言っているだろうか 科学的に言うなら
意識を失っても脳内の物理現象・因果関係は
全く無くならない 厳密に言えば、意識を、生んでいる、であろう、部分の物理的現象、因果関係がなくなっている
ってことですよ 0を事象の地平線(を反転したもの)と考えると、その内側は存在しない。
0を掛けるということは事象の地平線の内側に飛ばすことだ。
そうすると、0の表面積が拡大する。0のエントロピーが増大する。
以前に考えた0の除算。
無限に肥大化するのでいまひとつだった。もういちど考えてみるか。
あのときは量子ゲートのシミュレータも作っていなかったので、肥大化を抑えられなかったが、
量子状態として重ね合わせればよかったのかもかもしれない。 >>437
それだと意識を生んでいるであろう部分以外の物理現象があるということになる
それは意識とは独立の存在ですか まず、自分が存在していないね、自分と独立しているかどうかでいったら、自分と独立していないと思うけど、
そもそも、自分が存在していないのに、独立であるのかないのかって言えるんだろうか >>440
自分?
しかしそれも脳内の物理現象なんでしょう >>441
>>183に書いたけど、意識、存在、クオリアは同じ条件の物理現象に遍在していると見て取れるんだよね 任意に選ばれた視点を自分と呼んでいて、その自分が存在しないという状況は定義には含まれていないね
自分自身と関係し得るすべてのもの、自分自身と関係し得ることのすべてが存在である
という定義だと、自分自身が存在しないときのことを答えられない 表面張力というか、それがエネルギー的にもっとも安定する、ということか。
基底状態の遷移あるいは相転移。よいヒントをありがとう。
混沌も相転移するんだろうなぁ。相転移のサイクルがあるとすればおもしろい。
自発的にひっくるかえる砂時計は、それか。
自発的エッシャー。またくだらないアイデアがどんどん浮かぶ... 意識は薬で変容するし
脳吹っ飛ばせば無くなる
付随現象だな 認識器官は生成され、その能力もまた生成される
老若でも違うし、不自由、もしくは無い場合もある 認識されなくても存在することはある
認識に対象化されなくてもシーラカンスは存在した
生物が誕生しなくても宇宙は存在する 人間自身も宇宙
観測で自然が誕生するという珍論があるが、では観測した時に人間が誕生するのか
自然自身は理由なくただあるだけ
対象は否定で理解され、理解はまた否定され無矛盾に回帰する
自然は非自然で理解される
無限矛盾は矛盾で理解される
つまり決定不能ということ
理解可能だから理解不能になる
理解可能だから決定不能ということ 自然は海だから波であり、渦の状態が粒子
この理解は古代ギリシャから現在のブリゴジン学派にまでつながっている
十九世紀の英国の科学者もいたな 自我と自己
『哲学におけるdas Ich(私とも。以下自我とする)は自己意識ともいい、批判哲学および超越論哲学において、自己を対象とする認識作用のこと。超越論哲学における原理でもある。』
(ウィキペディア、自我、より)
自我とは、自己そのもの、我と言うその存在そのものを指し、自己とは、自我の社会内存在であり、社会内存在形式であり、社会内存在形式にあるところの自我である。
だから、実際には、自我はいつもすでに自己として社会内存在する何かであるが、研究においては自我の考察も必要になる。
たとへばデカルトのコギトは、自己ではないと言う。デカルトのコギトは、自我である。その自我が、どういう形で社会内存在可能であるか、ないかは、別個の問題である。
もちろん、自我はつねに自己としてしか存在しないから、社会内存在の可能性がゼロであればその、自我は無意味である。また、なんらかの自我が獲得されるなら、その自我は未来的な場においてさえも社会内存在可能性がゼロであるとは言えないだろう。 排中律は論理だ
論理は非自然
物理学に捉えられた自然は朝永がいうたわめられた自然だ
次元も重力、諸力は自然を理解するから必要なだけだ
座標原点と同じだ
自然は濃淡の海であり、差異は親和、反発で新たな差異として生成され
認識能力で差異は否定関係として、つまり多として現象する ウイルスは分類する行為で分類しがたい対象になる
生物、非生物は物理状態の差異であり、否定関係ではない
生死もまた差異であり、否定で理解するから生死の時点は指示できない
ウイルスが分類困難なように生死が峻別できないのは差異を否定で理解するから 自然もわたしも同一としては存在しない
それを同一、静止、つまり否定で理解する
朝永がいうたわめられた自然だ 数は理解に必要で自然にはない
頭の中にだけあるだけだ わたしもスマホも真空もエネルギーから成り〜に成る過程に在るだけ
そしてまた違う何かに生成するだけ
その過程に在る
多は認識の在り方に現象した差異としての一
否定関係は自然にはない
否定は非自然だ 物理として個別はない
差異としての一が認識に多として現象するだけ 素粒子に、生物に、金属などに成るだけ
そしてまた差異としての物理状態に生成されるその過程が自然ということ 自然は多ではないとパルメニデスは主張した
光速度一定の原理は自然は無矛盾であり、理解は非自然であることを示した
つまり理解の非在の自己言及としてもある 今は運動の謂い
諸力はある物理状態に生成するのに必要なエネルギー量
運動が根源ということ
力は自然存在ではない
自然は多ではない 〜で理解できるから〜が自然存在ではないということは地動説が先鞭
光速度の原理が直接に言及した 因みに限りなく0に近いが0ではないという数学のワケわからん定義に噛みついた有名な哲学者がいる
しかし有を無で、運動を静止で理解するから合理的だ
またここに近似値でしか理解できないことの根拠がある >>465
これは自分の論理を展開したら
某氏に先に指摘されたことで
長年考えていたので歯噛みしたw わたしの自然理解はパルメニデス+ヘラクレイトスが基礎
集合論、進化論、地動説など現代の学問は古代ギリシャに起源があるということが指摘されている
人類の健康な子供時代だとある思想家は述べている ピタゴラス、最小単位は認識の論理だ
理解に必要だが自然にはない
カントの二律背反はそういうことだ
わたしたちの自然理解は非自然でたわめられた自然だ 例えば、円の中心から円周を描く弧に引いた任意の線は、円の半径として、
円弧を描く線に対して直角を成す。ということは、その半径となる線が
そのまま半径を超えて円弧の反対側まで抜けたとして、反対側から
見ても、その線は、やはり円弧を描く線に対して、今度は、外側
から直角を成す。このことは、半径として引くことの可能な任意のすべて
の線について連続的に成立するはずでしょう。すると、内側から
も、外側からも線は常に直角を成している。さて、どうなっているのでしょうw 中学生とかで、数学を教えられたときに、最初に想起するイメージが
そういうものであるような人間は、周囲にきちんとアドバイスして
くれるような大人がいない場合、確実に数学から落ちこぼれるような
仕組みが成立している。 わたしなんぞは、中学で数学というものの最初が「集合論」の世代でしたから。
この世代がいなければ日本におけるパソコンは発展しなかった。
その後、どんどんダメになって、いまやスクリプトしか書けないプログラマばかり。
ま、教科書にかいてある答えなど無視して、自分なりの考えで教科書と異なる答えを出してましたけどねw そのような答えに教科書書いているようなバカのフィルターをかけると求められるものになるw ●と○の組み合わせは、●○、○●、●●、○○の4つではなく、
●○、●●、○○の3つである。
ひとつの○●が放出されると考えるなら、●と○の組み合わせのほうがエネルギー的に安定する。
これは、モンティ・ホール問題と同じである。確率が高いと考えてもよい。
量子論的な(司会者)モンティ・ホールが扉をひとつ開けてくれたのだ。
はたして、このような想定で量子論のパズルが解けるかどうか。
酔っぱらいながら考察中。 哲学に重要なのは、自分が気付くことでも、自分がよく理解したと感じる
ことでもない。哲学の試み成否は、他者に自分で気付いたと感じさせ
られるように自分が気付くことができるかどうかにかかっている。 ピタゴラス的理性の相対化
光速度一定の原理が確認された時が機会だったでしょう。
観たものがそのままの自然ではないという思想家や科学者朝永の問題意識は等閑に付されたいる。
ホーキング、ワインバークの夢は実現できない。 見た物そのものという仮想世界が自然そのものである。
自然という主観的な世界。
その主観的な世界のやりとりが文学。
文学(ただし美術・音楽など多様な表現も含める)が主観的な世界を拡大させる。 ブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論。
主体でも客体でも主観でも客観でもない。
その線でいうならば、自然は実在でも仮想的なものでもない。
一元論でも二元論でもない。それでいてどちらの側面もひきだせる。
それらは対立するものではないからだ。
否定は、対立ではなく、直交補集合化である。
カルツァ=クライン的な余剰次元も、ネットワークからの射影として考えることができるだろう。
とすれば「言葉」も、そのような余剰次元をもっている。
うまくいくかどうか調べたいのだが図書館が休み。 黄金比φ。
円周率πは、よくでてくるが、確率が1となるのだからあたりまえかもしれない。
さらに次元をあげて考えると、
φも重要になるだろうと考えた。
φ^2=φ+1 、φ^3=2φ+1である。ここいらへんが並進対称性に関係する。
φ=(1+√5)/2 であり、5がでてくる。
36度がでてくるためには「5」が必要だということは突き止めた。
5というマジックナンバーは四面体ネットワークをさらに高次元化させることで入手可能だ。
φ=2cos(π/5)
π/5は36度だ。
四面体ネットワーク上でうまくφをとらえられればよいのだが... quantum leap
0次元球面のrとして現れるが、それがいったいなんなのか。
これをすべての根源と考えてみる。
人工時間も、rがなければとりだせない。
確率世界を考えるなら、r=確率1。r^2なのか|r|^2なのかどうかは、とりあえず気にしない。
rとはなにものなのか。最大のミステリーかもしれない。 ●○、○●、●●、○○
順番を考えなければ、
●○、●●、○○
さらに違うか同じか、ということだけ考えれば、
●○、●●
個数?だけみれば、
●○
あるということだけみれば、
●
このうちで、●から●○への遷移において、rが必要になる。
rは他の遷移と同じような属性あるいはpropertiesなのか?
propertiesと考えるなら微分構造である。
rはなんらかの微分構造の一種なのか?
「ある」ということは「ひとつ」なのか、というと、
「ある」ということには常に「ない」ということがつきまとう。
●を「ある」、○を「ない」とすれば、●○である。
「ある」ということは単独では存在しえない。
常に●○であり、これが「ある」という正しい状態である。
一元論は、結局、二元論である。
そうでないと微分構造を持ち得ない。
一元論は存在し得ない。 ●○は、0次元開球体である。
これをひとつであらわすなら○の内側と外側であり、○の半径がrである。
空間がすでにある、というわけではないので、半径rというのは先走った概念だ。
rなのか2rなのか2πrなのかなどは区別せず、単に意味のないrを考える。
が、意味がなさすぎても困る。rはなんらかの「境界」である。
「境界」はなんらかの大きさのようなものの根源となる。
そしてこの「境界」が「ひも」である。
しかし、この「ひも」は一次元球面ではない。
0次元球体の「境界」である。
球体を従として、「境界」を主としよう。
この「ひも」は、0次元境界である。
0次元境界は2つの領域を持つ。境界に領域を持たせてしまう。
とすれば、また、「言葉」も「境界」である。
0次元の言葉であれば、2つの領域(点)を持つ。 双対する二つの間で保存する関係に興味がある
例えば、e^iπとe-iπ、古典論理の真偽値、真と偽の入れ替え、波と粒子などなど、
双対性を見出したと同時に、保存量がある、量とは限らないが
鏡合わせに開くなら、そこに対称性があるのは必然、
裏の世界と表の世界での保存量は裏返るのか、不変なのかというのは重要で、
それを鍵と名付けよう 鍵あるいは、境界である
e^iθー=e-iθ’が成り立つような、θとθ’の関係は、
θ’=2π-θ、あるいは、θ=2π-θ’、
つまり、こいつが境界ってこと
古典論理の双対性だと、
命題Aと、Aと双対する命題¬Aは
A=¬(¬A)
でトートロジーになる
境界は¬の演算子
運動量と位置の双対性、相補性に現れる境界は、プランク定数hを用いた、h/2πかなあ
フーリエ変換の鍵あるいは境界は、フーリエ変換あるいはフーリエ逆変換、ガウス積分とも関係してるんんかね どの見方で答えが出せるのかというのは重要
逆に言えば、答えを見いだせる見方を発見するという方法になる
物理学で真理を解き明かせたとして、なぜ物理学でなくてはならなかったのか、という疑問が浮かぶ
二元論なのか一元論なのかというのは、このような問題だ 一元論は存在できない。r=0となってしまうため、これを確率とみるかぎり、確率0である。
一元論の存在確率が0なのだw
あくまでも単独での存在であり、それを考えているものが別にいるのであれば一元論は維持できるが、
それはそれで最初から一元論は破綻している。
一元論は矛盾している。
そう考えると、二元論以上であってもつながっている限り、矛盾をはらむ。
しかし、二元以上で流動的であれば系を維持可能だ。 粒子Aを[a, b]とすれば、これは2点の位置がある「場」である。
「観測」する、ということは「干渉」するということであり、
これは、粒子Aを変数とみたてて、値を設定すればよい。
「観測」を「操作」とみなすことで、「プログラム化」が可能だ。
「場」を「プログラム」する。
それは、その「場」にカルツァ=クライン理論的な余次元を与えることである。
いやー、やっと人工自然プログラム理論化のアイデアが降ってきた。 降ってきたというより降りてきた、かな。
超平面に、縮退した余次元を与えればよいのだ。
一種の量子セル・オートマトン。
「人工」だから、「みたて」にすぎないが、「時空間」に相当するものが「自然」に発生する。
なんかいい物理素子ないかねぇ。熱とか雑音だしてもよいならマクロな素子でもつくれるだろうけど。 しまた、sage忘れ。
ピタゴラ装置としてつくってみようかな。NHKに売れるかも。 とりあえず複素数ではなく0と1だけだと考える。
「場」をaとbしかないとする。
aを観測して0であればbは必ず1になる。
aを変数と考え、b=~a とするならば、
aに0を代入すればb=1である。
非常に簡単だが、余次元を持たない(1ビット)場は、このように「プログラム」できる。
「観測」とは値を代入することだ。
これを数値ではなく、変数も代入あるいはaliasすることが可能とする。
自分自身を代入可能か、という問題はある。
aに~aを代入してしまうことですら可能かもしれない。
このゲームは、持ち駒である値あるいは変数を代入するということにある。
代入とはなにか。哲学問題である。 いま、という瞬間は面白い。
いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くに飛び去って、あたらしい「いま」が来ている。
太宰治「女生徒」 はたしてマクロな材料でスーパーデンス・コーディングとかphase kickbackを実現できるか。
これらは哲学的にはどのようなことなのか。
哲学的なスタンスからの量子論は、やはり、なんらかのマクロな現物の可視な現象があったほうがよい。
二重スリット実験も、計算でならいくらでも説明がつけられるが、
ここはなんらかの現物による理解ができたほうがよい、アナロジー的でよい。
phaseが「時間・時空間」のタネなのだから、これを哲学的に探求せねばならないのだ。 自分自身と作用できるかどうか、やっとみえてきた。
作用ではなく干渉とするならば、二重スリット実験から、
たった1個の光子であっても干渉を引きこすことは明白である。
問題はスリットのほうだ。自分自身がスリットになれるのか。
「なれる」と考えた方がよさそうだ。
そうなると、一粒子(量子)は最初から自分自身の観測者である。
なんらかの微分構造をもっていれば、それが可能なのだが...
ということは、一粒子系であれば一元論であってもよくなってしまう。
しかしながら、x元論でいう「元」とは実在のことであり、
「存在」とは異なると考える。
やはり、一元論は「存在」しない。「存在」は、できないのだ。
そう考えると、x元論は、考えるだけ無駄という結論w
いや、あくまでも「人工自然」内での話。 phase kickbackが、いわゆる歯車となって、量子メカが組み立てられる。
そのように考えれば量子ピタゴラ装置(=量子コンピュータ)がマクロな材料でも作れそうな... 取り残される実存者
時間が過ぎ去る、または、今が次々と通り過ぎる。
これらは実存者の日常的な実存的様相です。何故、実存者にはそう言う感慨が生じるのか。
それは、客観的な時間と主観的な時間との関係で説明されるはずです。
特に、時間が過ぎ去ると言う感情は、自身が取り残される感情が、その核心です。何故、実存者は、取り残されるのか。つまり、取り残されていると感じるのか。 去っていったものは未来。過去があるから未来がまた到来する。 存在と存在者
ノコギリと言う存在は、事物の物である。それはハイデッガーの言うように道具として存在する。
ノコギリがその道具性を実現するのは、誰かが、それを道具として使用するからであり、道具として使用するからに限る。ノコギリが道具性を獲得すると、そのノコギリは存在者となる。
道具として使用する存在者、すなわち主体としての存在者に関わる存在は、いわば(者性)を獲得する。そして、ノコギリは存在者となる。
存在と時間を読むと、道具が存在者と呼ばれている。その理由である。 「存在」とは「自己射」を持つことである。そのことによって「存在」(対象)となる。
しかし、主観からみると、その対象としての自己射は、主観側が与えているものかもしれない。
対象自体が自己射をもっているなら、それは「実在」なのだが、
主観側から検証あるいは証明することは難しい。
と、ここまで考えてみて、「圏論」はすでに「哲学」ツールとして機能していることに気づく。
「圏論」+「主観」が哲学的圏論である。
科学と哲学の違いは、(主観的)客観側からアプローチするか、主観側からアプローチするかということである。
後者も「主観側」も、主観的主観側とすべきかもしれない。 科学は、主観的客観から主観的という部分を消去する行為であり、
哲学は、主観的主観から客観を導き出す行為である。 "To perceive the world is to coperceive oneself."
James Jerome Gibson
The Ecological Approach to Visual Perception, Boston: Houghton Mifflin, 1979
自己を知覚するには、世界を知覚すればよかったのだ。
しかし、一粒子系では、なにかを知覚できるのであろうか?
犬なら自分のしっぽとか鼻ぐらいは知覚できるかもしれない。
(仮想)粒子にしっぽとか鼻があればよいのだが... まあ、それ以前に(仮想)粒子に「目」がなければならないわけだが...
どうやって粒子に目(なんらかの感覚器)をつけようか。 Real Object:RO,実在的対象
Real Qualities:RQ,実在的性質
Sensual Object:SO,感覚的対象
Sensual Qualities:SQ,感覚的性質
この4つ、そしてこの4つの組み合わせ。
「時間」はSOとSQ。
「空間」はROとSQ。
「形相」はRQとSO。
「本質」はROとRQ。
RO,RQ,SO,SQでも四面体は作れるし、
時間、空間、形相、本質でも四面体は作れる。
しかし、RO/SO,RQ/SQのペアが足りない。 「時間」はSOとSQ、対峙
「空間」はROとSQ、魅惑
「形相」はRQとSO、理論
「本質」はROとRQ、因果 しかしこれらは外部の存在者からみている。
考えたいのは、あくまでも存在者自身からのもの。
そうすると、この四方界モデルはつくりなおさざるを得ない。 足りなかったRO/SO,RQ/SQのペアもみつかった。
真率と二面性だそうだ。
ペアは全部で10種類だが、自分自身とのペアに意味があるのかどうか。
なにを参照しているのか、といえば、オブジェクト指向存在論(OOO)である。 OOO(あるいはOOP)の問題点は、「存在者」を前提としていることだ。
そこで考える。
「人工」存在者をつくろうw
とりあえず「人工存在者」三原則を... 存在者、すなわちObject。こいつはいったいなにものなのか。
SmallTalk,C++,Objective-c,Java,C#,その他オブジェクトが使えるScript言語ほぼすべて。
いままでいろいろ使ってきた。
基本的に、Objectを作るにはClassが必要だ。
時間Classがあれば時間Objectもつくれるw
問題は、どうやってClassが形成されるか、ということ。
ただし、ClassもObjectである。これを忘れてはいけない。 なんかへんなところに「。」が入ってしまった。
このようなミスがClassをつくったのであろう。
人工存在者の三原則にはDNAが持つようなルールが必要なのだろう。 人工存在者の側に位相がkickbackするのか、
対象の側に位相がkickbackするのか、
ともかく、「もつれ」ている。
とすれば、人工存在者の側が制御されるほうかもしれない。
それが「時間・空間」になるとすれば...
これを暗号論的人工自然とするならば、
「時間・空間」は暗号である。
これを解読(復号)しちゃうとどうなるんだろ。なにがあらわれるのか? とりあえず、人工存在者に熱を加えることでボース=アインシュタイン凝縮のようなことはできた。
フェルミ凝縮までできるようであれば正解かもしれない。 熱がないとなにもできない。
そこまではわかった。
熱がなければ時間も空間もつくりだせない。
「数学」ですら、熱がなければならないw
無秩序をhot/warmとすれば秩序はcold/cool。
人工存在者が存在するためには熱が必要だが、それはどこから? Causal dynamical triangulation
このスレで独自に考察していたことが、ほぼ、上記のCDTと一致するようだ。
そもそも量子論の基本原理のひとつである時間発展を逆に考えるなら、
ユニタリ変換が時間をつくる。
四面体のさらに上位の36°を考察したときのものは五胞体と呼ばれるようだ。 縦ベクトルの表記を変えよう。[[a], [b]]、
横ベクトルは[[a, b]]だ。
とりあえず、CNOTによって変換するかぎりはiをつかわなくてもよい。
A=[[a], [b]], B=[[c], [d]]
これのテンソル積が[[ac], [ad], [bc], [bd]]。
CNOT=[[1, 0, 0, 0], [0, 1, 0, 0], [0, 0, 0, 1], [0, 0, 1, 0]]を通すと
[[ac], [ad], [bd], [bc]]。
これを2粒子に分解すると、
A'=[[ac+ad], [bd+bc]]=[[a(c+d)], [b(d+c)]]=[[a], [-b]]
B'=[[ac+bd], [ad+bc]]
この式は、簡易表記したものであり、通常の演算とは異なる。
順番を維持する。
A'の[-b]の部分にNOTの位相kickbackがあらわれている。
やっと、位相をとらえることができた。
位相(演算の順序)を外にだせばよかったのだ。 量子アルゴリズムを組み立てるには逆量子フーリエ変換も欲しいところだが、
そもそも最初から分解したまま変数で計算しているので、
逆量子フーリエ変換は不要かもしれない。
さて、本格的に人工時空間をつくるには五胞体を考えねばならないだろうが、
めんどくさいので四面体でどこまでやれるかやってみる。
時間発展の逆をやればよいのだ。 CDTを直訳すると、
因果的な動的三角測量
である。
ま、CDTそのものは気にしないで考えを続ける。あくまでも「人工」だから引きずられる必要もないw
人工自然では、五胞体や四面体をsimplexとして使用するのではなく、1(q)bit単体から出発させている。
とりあえずQ単体とでも呼んでおこう。
Q単体がcausal setsの要素であり、半順序を持っているとする。
causal setsは半順序集合である。
半順序なのだから、これを直接に時空間の構成要素だ、としてしまうのは早計だ。
2段階の投影/投射を経て、やっと人工現実的な人工自然が形成される、だろう、というのが人工自然である。 今日は図書館でなにを物色しようかと考えながらも、
因果集合についても考えていた。
「とある」物理世界。
半順序集合なのだから、
反射律、推移律、反対称律、全順序律だけを考えた世界を構築すればよいw
問題は、さらにこの前段階である「比較可能性」だ。
半順序は「比較不能」も含む。
「比較可能性」と「比較不能」に関する哲学的な探求が必要だろう。
さらには、「比較とは何か」ということであり、哲学的も根本的な問題である。
そこまで追求してしまうと、人工自然どころか人工哲学(哲学の再構築)だ。 哲学的「に」も、の「に」が抜けた。
「に」とは並立であり、並立とは何かという基本的な問題もみえてくる。
そこに隠されているのは、並立性を与えている主観の側である。
なにものが「比較」するのか。それは重要だ。
メタ哲学どころではなくメタメタ哲学か、哲学基礎論か。 比較といっても、客観による比較、主観による比較、比類がある。
独立した第三者として、二者を比較、比類するという一方で、
自他の協調、対立によって双方を比類、比較することも出来る。
もっといえば、この人は自分と似ているとか、この人は自分と違っているとか、そういった認知が、協調や対立という形を取る。
この本質は、同化と異化である。自己はすでに系の外にはなくて、不変でもない。
同化と異化は、自己同一性が懸かって(賭かって)いる
これを一般にゆらぎというのだろう 寒いのでなかなか動き出せない。
自発的な比較と考えるなら、エネルギー論的なものであり、
「対象」があるかどうかを先送りするなら、対象間のエネルギー論的なギャップ、
ということになる。
ギャップが「ない」というのは、融合しているか、関係を持たないか、ということだ。
これを敷衍wしていくと、「対象」というものは、自分自身との関係はあるがギャップはない、
ともいえる。
そう考えると、少しおかしい。
「対象」が自分自身の自己同一性にギャップを持っているということが「対象」自身のエネルギーなのではないか?
これが、先に考えた「(抽象的な)熱」である。
熱を持たない対象はあるか?
それはすでに「対象」ではないだろう。
0次元的存在だ。そのような「点」は、単独では存在できない。
「点」が(自身「だけ」で)存在するためには、最低でも1(q)bit次元が必要だ。
つまり、1(q)bit次元の単体は必ず「熱」を持っている。
自己射/恒等射/id射とはそいういうことだ。
プランク単位の熱。
プランク単位というものは自己同一性の単位なのだろう。
哲学的圏論を、数学的圏論+主観、とするならば、
数学的圏論に(自己同一性の)(プランク)単位を持ち込むことかもしれない。 量子をフェルミ粒子と考えると、
2量子による四面体はボース粒子である。
ボース粒子が回転して新たな2量子が出現する。
もしかしたら、最初からボース粒子しかなく、
フェルミ粒子は射影/投影かもしれない。
いうなれば、過去と未来はそれぞれへのボース粒子からの投影かもしれない。
どこに、なにに、どのように投影されるか、ということは先送りする。
そうすると、このボース粒子がエネルギー源であり、時間や空間もつくりだせる。
とりあえず観測者は度外視する。
4つの「力(または相互作用)」となると四面体では足りず五胞体が必要かもしれない。
四面体でつくりだせるのは統合された時空間である。 ミラーボールのような四面体を考える。
これがどこかに投影され、その情報がホログラフィックに組み立てられる。
四次元の五胞体ミラーボール->二次元(球?)面->3+1次元
一次元へらして考えるなら、
三次元の四面体ミラーボール->1次元球面->2+1次元
1次元球面上の情報をホログラフィックに構築した、オタクな世界である。
この1次元球面上の情報をラノベとみなすなら、ラノベ原作のアニメであろうか。
すなわち、四面体ミラーボールがラノベの創作を行うわけだw
量子コンピュータはラノベを創作できる!
問題は、どこにどのように投影されるのか、観測者は必要なのか、ということ。 この四面体を同じくボース粒子である光子のようなものと想定する。
光子ならば物体に衝突すれば、それが感光版であれば痕跡を残すだろうが、
そんなものはない。
そもそも、時空間も「まだ」ない。
そして、1次元減らしているので情報が記述されるべき場所は1次元でなければならない。
外部に供給できないのであれば、四面体そのものに...
それは、四面体の「辺」であろう。
「辺」は、いまだ実体ではない仮想的なものだが...6つもある。
6つあるとしても、もともとが2粒子なのだから、有効なものは4つだ。
どのように記述されるのか?
対向する2辺の量子状態しかない。
そうすると...そうすると...四面体が持っているのは回転情報だから...
うーん、観測者がほしい。でも観測者は度外視しよう。
四面体は、過去2粒子・未来2粒子の重ね合わせである。
古典的情報量は2ビットだ。
一次元に記述可能な情報である。
(映像研には手を出すなの録画をみながら書いているので走りすぎてます) 辺は、有効な2x2辺は、2つのブロッホ球である。
片方をフーリエ変換して、ひとつのブロッホ球面に縮退した余次元として貼り付けてしまおう。
こうすることで、回転はブロッホ球面に書き込まれた一次元情報となる。
これがラノベ(の1行?1段落?)であるw
映画であれば、前後の2つのコマ。
さて、これを2+1次元に投影するには?
光源は?映写機は?スクリーンは?
まだ前後の2コマしか考えていないのだから、
2次元へ投影された2コマ分があればよい。
ここまでくるとさすがに観測者を考えないといけない。
外部にいないとするならば、粒子Aー粒子A'だが、これを観測者とすると、
粒子BーB'の変化だけでなく、自分自身もkickbackされた位相を持っている。
この位相を、BーB'側に転移させたものが2+1次元への投影であろう。
+1は転移された位相ということになる。
と、ここまで考えて、もう一段階必要かもしれないということに気づく。
AがBを観測するという段階。
それとも最初からA側の観測とみなしてkickbackされた位相を記憶とみなすか? もっと単純化して1量子だけで考える。
「時間」はつくれないかもしれないが、「時空間」を考察することはできるだろう。
1量子の哲学
彼の初期状態を|0>とする。
|1>でもよいのだが、特に意味はない。(「彼」を使用するが性別は「ない」)
そして、彼が回転する。
順序集合において比較不能であるということと反射律だけが成り立っているとすれば、
回転を与えられそうだが、1量子だけではどうしようもない。
どうしようもないということが回転であるw
回転した結果があったとしても回転する前の情報がなければ回転していないのと同じことである。
彼は回転したという情報を持っていなければならない。
これを記憶とする。
ただし、とりあえず1tickの記憶しか持たないとしよう。
この「記憶」が「過去」と「未来」、あるいは「位置A」と「位置A'」をつくりだす。
この情報は0次元球面上に記述可能でなければならない。
1量子なので余次元は考えない。
量子なのだから量子状態を持つ。
ということは、この量子状態が「記憶」でなければならない。 量子状態が、0次元球面上に記述された情報の重ね合わせであればよい。
まさしく、量子状態とはそのような状態である。
ただ、現実世界での解釈が一般的なものと異なる。
ここで考える「量子時間」は現実世界で考えられる時間とは異なっており、
かなり奇妙な「時間」である。 量子状態は「記憶」であるが、
「過去」の記憶ではない。
「記憶」から「過去」と「未来」がつくりだされる。
「過去」と「現在」ではない。
それは「現在」と「未来」かもしれないからだ。
われわれの時間の中では、「現在」は、語られ「た」瞬間に「過去」になってしまう。
量子時間における「現在」は、どのように語るべきか/語られるべきか、深く考える必要があるだろう。 一般的な量子状態は、外部にあるなんらかの基準をもとにして語られている。
その基準をもとにして観測された事実(現象)からの推測である。
既存の量子状態表現に縛られる必要はなく、量子の記憶として、すべての履歴をもっていたってかまわないw
そうなるとめんどくさいので、とりあえず「保存則」だけは確からしい、ということにする。
気をつけてとりあつかわなかければならないのは暗黙の「基準」であろう。
彼は、量子内部の基準をもとにした「現在」を持つ。
彼は「現在」だけを持つ。
彼にとっての「現在は」基底である0と1の重ね合わせの状態である。
そして彼は、「過去」も「未来」も知らない。
従来の量子論から考えれば、そうなる。
とりあえず、これを疑ってみる。保存則さえ満たしていればなんでもありだw 現在=運動
運動=重力の謂い
諸力=ある物理状態生成に必要なエネルギー量
次元、力は実在しない
自然は運動するエネルギーの濃淡の生成過程として存在するだけ 時間とは、先攻性という、有機体がもつ実存的な構えと、記憶という、同一性を保証する、二つの事象のとの総合からなる ゆえに生命なき世界において時間なるものは存在しない
これはイタリアの物理学者も言ってること 1量子は重ね合わせの記憶を持っているが、情報量としては1ビットである。
これをもとにした商品はすでに開発済なのだが、難読化で迷っている。
1量子だけではなにもできない。
複数あると四面体または五胞体になる。
量子計算には、結局、外部の「基準」があり、
量子は外部との共犯関係wによって量子状態を持つ。
次は二量子系の四面体に戻して、共犯関係と時間を考えてみる。 二量子「だけ」の世界を考える。
そもそも、最初からつながっていないものがつながるということはない。
再接続可能ならば、なにかしらつながったままなのだ。
人工自然ではそう考えたい。
「世界」とはネットワークであり、外部は「ない」。
マルクス・ガブリエル流に、このネットワークを「意味場」とするならば、
意味場において「世界」は存在しない。
などというのは「へたれ」た考え方であるw
そう考えてみよう。
問題は「存在」の定義であって、定義しだいでは、やはり、「世界」は存在しなくなってしまう。
それではつまらないので、「存在」を公理として扱ってみる。
ネットワークの外部に追いやるのだw ネットワークの内部では定義できない。
そうすると、「世界」は公理によって「存在」する。
意味場におけるOperatorではない。「存在」に「意味」など「ない」。
「公理的存在論」とでも呼ぶか。
「存在」だけからなにかを導出できるのか、それてもまだなにか必要なのか、そこが問題だ。 ディラックの海って粒子は波の
一形態の証ってことのような気がする。 わたしにとって自然は無矛盾で理解できるが故に理解できない。
決定不能なんです。
存在自体は不可知です。
ただただ運動するエネルギーの濃淡です。
自然のこの海には無限の生物が無限の話を紡いでいる。
シルクロードに砂漠の遺跡が紹介されました。
この自然は一面、そういう空間かも知れません。
自然は永遠、無限なのですから。 二粒子だけの世界を考える。
頂点が4つの四面体である。
この一辺と、交わっていない対向する辺が一粒子だ。
そうすると、二つの対向する辺があるので三粒子となるようにもみえるが、
二粒子が決定すると3つめは自由ではないので、二粒子分の情報しかない。
粒子A,BをCNOTゲートに通すと粒子A',B'になる。
A'はAの位相が変化しており、B'=A xor Bである。
計算上では、位相はA',B'のどちら側にもってきてもよいのだが、
実際には、A->A'での観測者の立場がかわらないとする。
A',B'間の相対的な位相しかないのだが、
現実的には基準を持っている第三者がいるのだ。
第三者を考えずに、粒子Aが観測者だとするならば、
Aの位相は不変で、A=A'であり、B->B'側の位相が変化しているとみなすだろう。
Aの主観である。
CNOTによって頂点が入れ替わり、四面体は(われわれの時空間感覚では)裏返っている。
A自身が不動の基準であると考えて、この裏返りを時空間として認識してしまう。
そうして時空間がうみだされる。
あくまでもAの主観的時空間である。
CNOTだけではなく、たくさんのユニタリ変換があるわけだが、
とりあえずは、CNOTだけの宇宙を考える。
このユニタリ変換は、順序集合において、前順序より弱い順序律(おそらく反射律だけ)によって
もたらされているのではないかと考え中。 この「律」を、とりあえず「混沌律」とでも呼んでおこう。
順序集合だと、「元/要素」があるので、それではまずい。
集合より弱い、それでいて集合のようなもの。
主観的集合? 「混沌」自体は、外部からみれば「対象」とすることも可能だが、
「混沌」自体は「自己同一性」を持たず、「対象」ではない。
「混沌」のみならず、「それ」自体は、外部を持たない限り、
「自己同一性」を持たない。
外部を持たない「それ」自体は、「それ」からみる限り、「対象」ではない。
「対象」ではないとしても、公理的存在論wからみれば、それは「ある」のだから「対象」である。
他とまじりようもない(他はない)のだから「自己同一性」もある。
だんだんわけがわからなくなってくるが、気にしない。
問題は、「自己同一性」である。これがないと時空間をつくれない。
そして「非同一性?」もなければならない。
「同じ」と「違う」ということをどのように同居させるか。
それが問題だ。
さらに、「比較不能」も必要だ。共変でも反共変でもない関係。
「共変」「反共変」「共変と反共変の重なる部分」「共変と反共変のどちらにも属さない部分」 classは対象である。
しかし、「もの」ではなく「性質」の「集まり」である。
「集合」を素朴に、「もの」の「集まり」とするならば、
素朴class論(そんなのあるか?)において、classとは、「性質」の「集まり」、または、
同じ「性質」の「もの」の「集まり」における「性質」のことである。
この「性質」を「主観的」なものだとすれば、classとは主観的なものということに...
とりあえず、classを集合論に入れてしまおう。
いろいろな、classを含んだ集合論がすでにある。
とりあえず、主観的集合をclassに対応するものとし、一般的な(classを含まない)集合を
客観的集合としてしまおう。
(客観性というものには議論が必要だが、素朴に扱うw) 客観的集合とは、「もの」という「性質」をもった集合世界の中での、なんらかの「集まり」である。
しかし、「もの」という「性質」は主観的である。
「もの」という「もの」。それは公理でもよいし、共同幻想であってもよいw
どうでもいいので、とりあえずこれを、「共犯関係」あるいは単に「共犯」と呼ぶ。
共役(共軛)でも共変でも双対でも随伴でもなく、「共犯」w
量子論(=哲学)とは限界状況(ヤスパース)における共犯関係のことである。
スピンネットワークを言い換えただけだが... ただし、構想しているネットワークはスピンネットワークとは少し異なる。
ところどころ、ループが裏返りながらそれが伝播する。
そんな感じのネットワークオートマトン。
「不確定性」というものが「なければならない」ということで動作する。
ということは、「自然」は「不確定性」によって駆動されている。
いままで語ってきた自然における「矛盾」は、「不確定性」におきかえてしまおう。
不確定性がなければ(一般的な概念としての)「時間」も「ない」。 世界、事件、事件性
世界のなかの不確定性の発現、それが事件です。これは事件の存在論的な定義です。
我々は、存在者は、世界を事件の起こるところとして認識しています。恐らくこの地球上に存在して以来、次々と事件が起こるのでいわば先天的にその様に認識しているのでしょう。
存在論的に事件を捉えると、事件は、はっきりと意識、認識されて世界内に存在し始めます。
そして、始めて、事件の事件性が認識されるのです。 時間とは、法則原理である「自発的対称性の破れ」のことだよ。
未来と過去とはなるが完全な対称性になりえない対称性の破れが存在することだ
過去の完璧な真理と原理が説明しえたとして、未来にはそれは成立しないといこと
神が全知全能ではない理由が理解できないやつが妄想したのが決定論である。
決定論とは必然という言葉を誇張しただけの言葉遊びで、決定を必然と完全合同と
錯覚させるトリックである。 >>555
ライプニッツ、ホイヘンスは重力方程式に敬意示したが概念は否定した
他にもそんなことがあるし
ホーキングのは成立しないだろう
数学は下女 数学者も科学者も素朴に理論=自然って理解している
朝永はドイツ留学時代の問題意識を発展させてりゃな 太宰治の女生徒の時間理解が数段面白い
時間理解の鍵を指摘している
科学者数学者は頭デッカチでかえって小説家に及ばない 科学者は自分が発見した対象をしばしば理解できない
ハイゼンベルクの批判は貴重
彼の事象理解は正しいとは思えないが 789 :可愛い奥様 :2020/02/04(火) 11:11:03.69
遊ぶならセックスが下手な男はイヤだ
性格も重いの面倒臭いのイヤだ
ちょっとテクニック駆使しただけでショック受けるような、女にロマン求める男もイヤだ
790 :可愛い奥様 :2020/02/04(火) 11:16:20.56
>>789
セックスのときぐらいぶりっ子したくないよね
793 :可愛い奥様 :2020/02/04(火) 11:23:54.97
>>790
わかってくれて嬉しい
特に純愛は求めない
純愛ならプラトニックのままがいい
794 :可愛い奥様 :2020/02/04(火) 11:27:10.33
>>790
私もぶりっこしたくない
人妻だけどピュアな私を見て、不倫って初めてなの…とか、旦那以外の男と寝て何いってんだと思う
でも、そういうの好きな男にはそうすると思う 植物は歩かない。
根を生やしたその地点から、一歩を踏み出す事が無い。
大地が噴火しようが、野火が広がろうが、暴風雨で根lこそぎ持って行かれそうになろうが、動かない。
しかも1000年、2000年も居続ける。
たまに大木に出会う事があるが、長い時間、その下でたたずむことがある。
圧倒的なエネルギーがある。
動物は移動していく。
草食動物は草を求めて移動していく。
肉食動物は、移動していく草食動物とともに移動していく。
生きるって事を教えられて生きているのだろうか。
宗教のインドにおける原意は、如何に生きるか、と言う事である。
学んだり、教えてもらったり、幼児性から脱却してほしい、と思うよ。
おカネを受けとれば、それは商行為、ビジネス すね、宗教をサービスしてその対価を稼いだのです。その対価で外車を乗り回しているのが、坊主ですよね。
問う、ほとけ とは、何でございますか。
答える、クソの一本棒。 180 :彼氏いない歴774年 :2020/02/04(火) 22:59:59 ID:M2wCf1jn.net
千葉でまた一人感染
でも2次3次感染はないものとしてるからホントはもっと感染してるよね
いまだに武漢の人が国内をウロウロできてるのは明らかにおかしい
日本ぐらいでしょこんなの
今月末には感染者すごい数になってるんじゃないの
感染力強すぎて防げないってアメリカとオーストラリアの専門家が諦め発言してるし
なのに日本はずっと中国人ウエルカムだし備蓄防護服や国民に行き渡ってないマスク貢いでるし
181 :彼氏いない歴774年 :2020/02/04(火) 23:01:04 ID:M2wCf1jn.net
速報出まくりだね
また増えた
怖いわもう
182 :彼氏いない歴774年 :2020/02/04(火) 23:22:05.74 ID:y4daMPWi.net
みんな落ち着け。
喪女にはバージン以外失うものは何も無い。
183 :彼氏いない歴774年 :2020/02/05(水) 00:07:54.70 ID:A50VoW16.net
>>182
すごい説得力w >>560
>理解そのものを理解すること
最先端を開拓する数学者や物理学者のそれは理解など無視した世界である、
必要なのは方程式の美しさや、時間や空間を超越できる調和であり、
理解など信仰や過去の知識の具現化の説明にすぎない。
黄金比や神の数字や高次に抽象化された空間図形のような素から始まる要素を
もっていることが重要なのである。
あとづけで実測やら解釈による補整や追加説明が必要なもの、より具体的で理解しやすもの
そういうのは美しいとは言わない。
実測の観測で解釈される物理学でも、実測から導きだされる実測されない概念こそが
美しい形である。自然現象に多く含まれる形に相似するような類の原理があるはずが無い
原理解明の類から奇跡的に生じて収束するからこそ、
それらから導き出されるからこそ理解を超えて神が示した真理に近づいたと感動するものだ。
それらの基本はマクロでもミクロでも数式でもどのような働きから観測しても表にでてくる。
理解しえない形やら数字のことだ。 朝永のたわめられた自然という理解は核心だ
立花隆、量子力学最前線の研究者はあらたな理論を模索中と語る
つまり混迷中
かなり前からおかしいという指摘はハイゼンベルク他、また九十年代方程式の性格を指摘した学者から出ている
理系もまた一枚岩ではない 科学革命は理解する側が物理としては理解される側ということの発見
地球→諸天体
人間→諸生物
静止→運動の一形態
理解は自己言及
しかし理解は自然という対象と理解する立場が必要
理解する側は対象の否定としては物理として実在しない
つまり実在ー非実在ということ 実在ー非実在
つまり否定で理解する
だから理解は自然自体ではない
方程式は0、静止という非実在
運動という有を静止という無で理解する
そして出発点は非実在
そうした理解が自然自体であるはずが無い 量子状態とは「記憶」あるいは「痕跡」あるいは「履歴」である。
哲学的探求の結論だw
それでも1量子ビットの情報量は1ビットである。
増えないうえに保存される。
通常の意味での保存ではないが...
実際の光子から量子もつれをつくる過程で考えてみるとおもしろい。
どこに、どのように、なにが保存されるのか。
レシピ
光子2個、ハーフミラー。
光子はハーフミラーによって通過するか反射するか1/2の確率とする。
2個の光子が通過/反射するのだから4つの組み合わせがありそうだが、
実際には2つの組み合わせしかない。そのようにセッティングする。
そうするともつれる。 2個の光子がそれぞれ1ビットの情報を持っているとすれば、
合わせて2ビットの情報だが、
もつれた後は2つの光子で1ビットの情報しか持っていない。
残りの1ビットの情報はどこにあるのか。それが問題だ。 これの答えは簡単なのだが、どのように解釈すべきかで悩む。
すべての哲学問題を含んでいるともいえるからだ。
これの解釈次第では時間や空間(のようなもの、未分化の時空間)が得られる。
通過ではなく透過かな。ハーフミラーだから透過だったね。 量子状態を記憶/痕跡とするならば、それはどこにあるのか。
量子の内部にあるとすれば、基準となるものも内部になければならない。
しかし、1ビットの情報量しかないはずだ。
内部の基準と、それをとりだそうとする外部の基準のすりあわせが必要であり、
なんとなくおかしい。
基準が外部にあるとすれば、外部の基準によってとらえられた量子ということになる。
そうなると、量子情報とは、量子と外部の観測者の基準との間にある。
量子情報は、量子の内部情報ではない!
こっちのほうがすっきりする。
観測者も量子であるとすれば、二粒子系だ。
おたがいに、相手をみたときの、自分を基準とした相手の状態が量子状態である。
この二量子の量子状態を、さらに外部の量子が自分を基準としてみるならば、
二ビットの情報が得られるのだろうが、三番目の量子のことも考えねばならない。
ひとつ減らして、二量子だけで考えれば、観測側の量子は、相手の量子状態が得られる。
それは1ビット分の情報だ。 無秩序によるユニタリ変換は、二量子間の関係を変化させる。
観測側は、基準なのだから不変であるべきなのだが、
実際には位相kickbackによって位相が変化している。
この位相の変化が時空間(のもと)になる。
観測者の主観が時空間をつくる。
天動説的時空間であるw
プロセスの詳細の説明をはしょっているけど、
ようするにこれが二度の超対称性変換なわけだ。
そう考えてしまうと、おもしろいことに三体問題がユニタリ変換をうみだしているともみえる。
となると...となると...最初から三体で再構築したほうが汎用的だ。
はたして量子論とは三体問題のことだったか?
はたして、これが万能理論だったのか? 三体といっても重力ポテンシャルを前提にはしない。
三つの主観というところか。
三つのなんらかのrである。
とりあえず、これを三つの古典的ビットとする。
この古典的ビットはスピンである。
2つの状態しかもたないが、3つあって、それぞれが異なる。
3つの状態があれば、棲み分けられるのだが、状態は2つしかない。
でも、3つは異なっていなければならない。
なかなかおもしろいパズルだ。 1bitには1bitの自由度がある。
では、2bitには2bitの自由度しかないのか?
3bitなら? その前に、1bitは1bitの自由度を「本当」に持っているのか?
「持っていない」。そう考える。
なんらかの「基準」がなければ自由度の恩恵を受けない。
「基準」とは何か。bitしか考えていないのだから、なんらかのbitが「基準」である。
2bitあっても片方が「基準」であれば、1bitの自由度しかないのである。
問題は、消えた1bit分の自由度の行方である。
1bitから考え直せば、消えた1bitの自由度の謎がわかるかもしれない。
あたりまえのことをあたりまえでないと考えるのが哲学なのかも。 Three-body problemとは、とりあえず重力ポテンシャルに限定した問題でなく、
もっと汎用の問題であると考えるなら、
「情報」が足りない、ということである。
不完全性定理から考えれば、「公理」が足りない。
しかし、「公理」は「系」の外部から与えられる。
「公理」を「系」の内部に引き込むことはできない。
どうするか、そこでマルクス・ガブリエル。
「公理」と「系」を同一視すればよいのだ。
「系」という意味場において「系(=公理)」は「存在しない」。 みえる情報だけでは足りない。
みえない情報。
なぜみえないのか。
それは主観だから。
心眼でみろ、というのはそういうことかと。
しかし、それも客観とは定義が異なる。
主観でも客観でもないもの。
残念ながら、帯域が狭いため、その「系」のなかにいてはボケる。
かといって全帯域を得ることはムリ。
これが一般不完全性定理なのか?
情報論的不完全性定理。 二粒子によって組み合わせを頂点とした四面体をつくる。
選択されるだろう頂点を俯瞰すると、選択されなかった3つの頂点によって
つくられた面がみえない。
みえているのは1面だけかもしれない。
A=[[a], [b]], B=[[c], [d]] のac,ad,bc,bdを頂点とせずに、
a,b,c,dを頂点にしてみる。
選択されるのは頂点ではなく、辺になる。
辺は6つあるので、そのうち2辺は選択できない。
これは四面体も面もつくれない。四角形である。
こちらが一般的な論理だとすれば、
四面体での論理をつくればよいのかもしれない。
それを足がかりにして五胞体の論理をつくればあるいは...
すべてがそれで説明できたり...この世界の完全なる論理... ま>>585
粒子は粒子なのか
四面体は実在するのか? 認識された自然は認識の在り方に媒介された自然で自然自体じゃない 四面体あるいは五胞体については因果力学的単体分割(CDT)を参照してくださいね。
ただし、手法は異なりますけど。
四面体の「辺」について考えると、これは「変化」である。
これを一筆書きでおなじところに戻ってくればループができる。
どのようなループができるのか考察中。
A=[[a], [b]], B=[[c], [d]] のテンソル積を[[ac], [ad], [bc], [bd]]とすると、
ac, bd そしてad, bcは直接繋がらないのだ。
そうすると、面がもつだろうエントロピーはどこにあるのか。 ま、わからないのであれば、
Gauge fixing in Causal Dynamical Triangulations
https://arxiv.org/abs/hep-th/0409057
あたりを読んで勉強してくだされ。
実在性などというマヌケなものは考えなくてもよいのです。 ついでといえば
Background independence
という考え方も必要です。
これそのものは、どちらかというと科学哲学で扱うべきものですが。 ac-bd, ad-bc の遷移は、量子論から考えればあってもいい。
二度手間にはならない。一度のユニタリ変換で可能だ。
と、夕飯買い出しのときに歩きながら考えた。
回転、と考えてもよいのだが、二粒子なので裏返しもある。
裏返しといっても、「もともと空間がある」わけではないので、たんに
視点の移動だ。
そう考えていくと、超対称性粒子はスフェルミオンやボシーノではなくて、大きいほうのペアがあるのではないかと思えてくる。
だが、四面体をボソンと考えるなら、1粒子はフェルミオンであり、
スフェルミオンが1粒子のスカラーであるのかもしれない。
スピン0のスフェルミオンが、ええっと、質量のもと...かな? 光子には質量がないのだから、質量でなくともよい。
ともかくスピン0だ。
こいつが重力の影響を受けるなにものかだ。
こいつが面にあるべきエントロピーをつくる? 量子状態は記憶/痕跡である。
しかし、量子はそれを持っていない。
いや、持っているとしたものが量子である。
とてもおもしろい。
とりあえず、持っていないものを量子という概念から切り離す。
量子核とでも呼んでおこう。
これが以前考えた●○のペアに相当する。
☯でもいいが、これは意味をもちすぎている。
●○が出発点かというと、さらに掘り下げて考えれば、
無から有をうみだせるものが「ある」、そしてそれは「ない」。
そういってしまうとまた●○に戻ってしまう。
語ってしまうと●○に戻されるのだから、●○が語るということである。
☯すなわち語るということ。「存在」とは「語る」ことである。
これは自発的対称性の破れでもある。 語ることによって「存在」となるのであれば、
なんらかの語りが「量子核」より基本的ななにかである。
一般的には「混沌」。無理やり呼ぶとすればそうなる。
「語り」を「射」とすれば、「射」だけの集まり。いや、集まり以前のなにか。
しかも、domainもcodomainも明示的には持たない。
その意味では「射」という定義からも外れる。
語ってしまうと、それは違うものになってしまう。よって「語れないなにか」である。
以前はパンドラ構造体と考えたのだが、閉じ込められているわけではないのに語れないのだ。
アクセス可能でもなくアクセス不能でもない、またそれとは異なるなにか。
でも名付けないとめんどくさいので、「原射」とでもしておこうか。
Ceci n'est pas une pipe. 自己言及に似ているが、それを裏返したものかもしれない。
そしてどちらでもない。
自然の原理か? 時間とは
「過去」を遡及的な解釈とし、「未来」を合目的な先取とする、「現在」の三様態による総合である 中学生向けの論理学本で教授クラスが書いた本で、えっていう解説したのがあった
有名物理学教授がとんでも本批判で、さらにとんでも批判しているのが報告されていたこと思い出した
読み手が問われるか
当たり前だな 数日前に、無から有をうみだすチートな方法を思いついて、
本格的に、正当/正統な手法を作成中。
外延性あるいは内包性の公理をうらがえした感じ。
公理の公理ともいうべきスーパー公理になればいいのだが。
反外延性の公理でいいかな、と思ってたのだが、反内包性もほしい。
(いまだ存在しない)一般不完全性定理からの帰結であって、ほぼネクロノミコン。
NECRONOMICON うっかり、エンター押しちゃった。
NECRONOMICONはNECのRO部門がうっかり開発してしまったマイコンかと思っていたが、
マイコンではなく、マイクロコントローラーという解釈がいい感じだ。
すなわち、CNOTあるいはCCNOTゲートである。
これが魔導書だったようだ。
なぜ魔導書かというと、反魂の公理であるからだ。 宇宙生成の原理を探求しとるわけです。(もちろん時間を含む) 保存則を満たしたうえで、無限にテープが生成されるチューリングマシン、
または無限にセルが生成されるセルオートマトン(セルラオートマタ)としての宇宙。 基本的には、低次元微分トポロジーにおける、4次元(球面)トポロジーでの微分構造の(実)無限性を使用します。
なんらかのリープ機構があれば、4次元以上になれるのでしょうけど、
この世界を見る限り、世界は、4次元での微分構造の実無限上に展開されています。 周期表で、鉄より小さい原子番号の元素は核融合により鉄に近づき、
鉄より大きな原子番号の元素は核分裂により鉄に近づきます。
最後は鉄の宇宙にw
なぜ鉄になるのか、といえば、そのポイントがエネルギー的に安定するからですね。
微分トポロジー的には、4次元あたりがもっとも安定するのではないかと。 よその板で考えたが、量子論的宇宙によって無から有をうみだせるうえに、
活性化もできて保存則もクリアできる。
問題として残されたのは半径rに相当するものだが、
これは確率であるという解釈でよいだろう。
そうなってくると、確率とは何かという問題が再浮上してくる。
確率の哲学。雨だしコロナも怖いが、返す本もあるので図書館行ってくるか。 まあ、アクロバットというより、公理的集合論が内包性の公理からパラドックスを
どのようにして回避しているか、ということを考えれば、自明なことだと思う。
これを一般的な量子論にあてはめるているだけ。
ただし、確率論の再考は必要になる。
Qbismが、いちばん近い。ただし、ベイズにおける「信念」の度合いではなく、量子状態としての記憶/痕跡をもってして
再構築しなければならないだろう。
もともとがAI系なので、人間(の理解とか認識なんてこと)は想定していないw aiもそれが有機体であるならば時間をもつ
過去を悔い、未来を憂いる
そして現在の忘却
人間と一緒だよ 有機体はともかくとして、有機物と無機物という区分はたいした意味がない。
CNOTやCCNOTゲートにおけるControlに相当する部分があるものが必要であって、
それがないと時空間としての並進対称性が得られるような系を組み立てることは難しい。
難しいだけであって、(等価かもしれないが)別アプローチの解が得られる可能性はある。
公理的集合論においては、集合上に写像できない情報をもつものを新たに「有機体」と名付けてもよいのかな、とは思う。
この写像を量子論における射影(解釈)と同一視するなら、多世界解釈も可能なもの有機体であって...
それが「生命」である、というのもおもしろい。
というか、このへんも含めて、確率を哲学しようと図書館を回ってきたとこだ。 図書館偉い!
お金をかけずに勉強とは
お母さんも喜ぶよ 勉強というより商品開発だがね。だから、応用可能なことは書かないようにしてるw
どーでもいいあまりにとっぴなとこだけそれらしく。 自然には諸次元の出発点が無い
ゆえに時間も実在しない ホーガン「科学の危機」
ブリゴジン学派若手研究者へ否定的な言及があるが、論文は運動を静止でという理解に近いというかそのもの 現実的な「無」というものを考えると、それは「無」の量子になる。
基本的に|P>+|¬P>なのだが、
通常の量子とは異なり、Pを有とすれば¬Pは無である。
そして、「無」は「無い」のだから¬Pは現れてこない。
「無」の量子は|有>だけなのかというと、そうではなく、
|有>+|語れない>
となる。
ブラックホールの事象の地平線の内側と外側にわけたような感じで、
内側に落ちた方は「語れない」のだ。 これを、事象の地平線の向こう側に「反世界」があると考えたて、
向こう側の無の量子とこちら側の無の量子との間で四面体をつくる。
そうすると、この組み合わせで、こちらからみて有・有となった頂点のみが
こちら側から観測可能であり、残りの、有・無、無・有、無・無は観測できない。
観測できるのは全体の1/4だけだ。
量子論的に考えれば、有・無と無・有はひとつなので1/3になりそうなのだが、
片側からみた場合は、観測できないにもかかわらず、有・無と無・有は区別される。
カイラリティがあるのだと考えられる。
この世界に対する反世界があるのだ。そうでなければ「混沌」は生じない。
そして直接観測できるのは全体の1/4だ。
さらにはカイラリティがなければならない。
「無」から「有」をうみだすパズルを解くには、これだけのものが必要になる。
スピン1/2とは、半分だけ向こう側の世界にあるのだw ブラックホール状の「なにか」。
パズル的には比較的簡単につくれそうな。
2つの世界がある。七次元におけるエキゾチックな球面というのも、
2つの世界の組み合わせだった。 「無」は「混沌」である。
公理的集合論から、(集合として)語れないもの、そして真のクラスであることをつきつめていくと、
P∧¬P にたどり着く。
これはlawであってEuler's formulaとは異なるが、
「万物のlaw」であるといってよいだろう。
オイラーの公式が至宝ならば、こちらは究宝かもしれないw
ただし、TやFを=や⇔などで結んで安心してはならない。それは解釈のひとつにすぎない。
これと等価な量子ゲートはどれか? 万能ということを考えればCCNOTゲートか?
オンラインでIBMなどの本物の量子コンピュータを使うことができる。
これが、理論上の値とは少々異なる結果となり、それはノイズのせいとされているが...
ちがうんじゃないか、ということもP∧¬Pからみえてくる。 論理式 ψ であり、集合に写像しない真のクラス。
無のクラスは混沌に満ちている。
それは集合としては語れないのにクラスとして語ることによる。
存在のパラドックス。
何もないという無限の運動。それは「無」が「無でないものを」語ることであり、
これを自然の原理としてしまえば、この宇宙もうみだすことができる。
混沌のエンジン。 座標で理解しているだけだ
座標が実在しているわけじゃない
次元は縦横高さを数学に翻訳しただけ
時間も同じ 自然科学は静止の実在を否定する
自然を認識し規定する
物理としてのわたしは運動変化するがわたしという規定は同一で変化しない
つまりわたしという規定自体は実在しない
物理の自然はたわめられた自然で自然そのままじゃないし 理解は理解の在り方に規定される
決して自然自体じゃないし当然実在しない 次元が実在しているなんて理解するから混迷する
科学理論=自然じゃないし 究極の真理をみつけた!
Δt=∞
つまり時間とは永遠
「有」とある意味での「無」は等価なのだ!
アインシュタインの等価原理以来の発見かもしれん(笑) 現代科学はピタゴラス的自然観から
パルメニデス的自然観に転換する必要がある
自然は多ではなく一 パルメニデス自然観の可能性
たわめられた自然
自己言及
規定は否定
座標原点は非実在
実在しない次元で理解
論理の在り方→ピタゴラス派
「わたし」という抽象
次元は縦横高さ時間などの数学的抽象
自然はそのまま理解できない
「今」=運動を量にして理解する
一年、一秒は自然に実在しない パルメニデスの問題は「絶対一元論」であるということ。
それは深海魚のデメニギスと同じように、一方しかみていない。
(眼球を回転させることで前方と上方はみえるようだが...)
つながっていることをもってして一元であるとするならば、それはそれでよいのだが、
単なる一元であっては、なにも起こらないし、このような宇宙は(たとえそれが幻であったとしても)形成できないであろう。
一値論理によって、すべてがあらわせるならともかく、
最低でも二値論理から始めないとなにもできない。(二値の時点で、最低でも3つめの、二値をつなぐものが必要だが)
一元から主体と客体をうみだすことはできないのである。 >>650
有を無で理解する
自然は一元
それを否定で理解する
自己言及とは? 自然に特別なもの、否定関係は実在しない
地球は諸天体の一つ、人間は一生物
そして座標原点、つまり静止は実在しない
自然は運動している
それを実在しない静止で理解する わたしという物理存在をわたしと表現する
自己言及
それは観念が可能にする
自然は運動して一
観念は物理として実在しない
実在を非実在で理解する 自然「認識」ではなく、認識するものも自然の一部なのですから、
すっぱりと、自然は自己言及である、としてよいかと思います。
それゆえに、自然は自己言及のパラドックスを孕んでいます。
自然は矛盾そのものだといえるでしょうw
絶対一元論からすれば、そうなってしまいます。
そうなってくると矛盾するには最低でも二元論が必要であり...
もし、絶対一元論によって、なにもうみださないとしたら、二元論から始めるしかありません。
パラドックスです。 自然科学では一元であることが証明されてます
二元ではありません
わたしは事実から出発します 自然としては一元
それを二元、つまり否定で理解し。また否定して一元に戻ります >>664
天動説から地動説に
というのはそういうことです 地球を静止すると仮定
→その静止を否定する
→地動説
光速度一定の原理は自然が一元の証明です 最初から、矛盾を許容することで無矛盾を保つということがとても自然なのです。
そのかわり、アクセス不能なものあるいは無のトポスが「存在」してしまう。
「無のトポス」をめぐる物語が「自然」(という物語)であると。
「無」は存在しない、にもかからず、「無」を存在させないと「自然」にはならない。 光速度一定の原理が科学として否定されたらわたしは撤退します >>667
あっ、いやわたしは観測事実から出発しますから土俵が違うと噛み合いませんな
止めますかな 無は実在したら無じゃないし
自然に無は実在しません 光速度一定の原理はともかくとして、
光速が自由空間において一定でないことは実験で証明されています。
原理の話ではありませんがね。
どんなチートを使用したのかというと、フォトンの形を変えたのですw 実在でも「存在」でもなく、「無」を「存在させる」のです。
このチートな方法を、なぜか「自然」はやってのけていますw
人工的に、このような方法をやろうとしたら、2つのなにかを貼り合わせるのが
もっとも簡単だと思います。リーマン面ですね。
そうすると、われわれの考える実時空との間にタイヒミュラー空間がなければならない。
(宇宙際のほうではなく、本家のほうのタイヒミュラーです) 「無」は「無い」のだが、公理的集合論は、真のクラスを回避している。
その回避されたものは「集合」としては「無い」。「無」である。
公理的集合論では語れないわけだが、「真のクラス」は「無」であるにもかかわらず、
「性質」を持つ。
「性質」そのものは、「概念」というクラスを継承した「集合」になりうる。
「無」を「存在させる」。これをとりあえず「虚集合」としよう。
これは「直交補集合」である。
「自然」は「虚集合/直交補集合」をつくりだせるものでなくてはならない。
これは多値化でもあり、確率解釈や多世界解釈が可能な世界だw
なんのことはない、量子論的自然(象)である。
とすれば、なにがあるのか、といえば、「自然」とは「operator」である。
operatorのみが実在である、としてもよいのではないか。
自然というoperatorの集まり(単体かな?)をタイヒミュラー空間と同一視するならば、
自然とはタイヒミュラー空間であり、われわれが考えている自然(あるいは宇宙あるいは世界)とは、
タイヒミュラー空間によってみせらせている夢なのだろう。
タイヒミュラー空間しか「ない」のだとすれば、タイヒミュラー空間がみている夢であるw
そして、自然とはoperatorであり、operatorしかないのだから...バナナ(の皮)の話に戻るのである。
バナナの皮が自分自身を踏んでコケる。そして...因果論的時間ができるw まあ真偽の基準は自然だからなあ
次元は実在しないよ
わたしの論は自然が正否を決める 次元そのものは最初から実在ではありませんが?
次元という概念で(幻想かもしれない)現象を整理して説明しやすい、ということです。
それをもってして一般的には〜次元が存在(実在)する、といういいかたはします。
が、それは次元そのものが実在しているといっているわけではありませんよ。 次元の定義は「指標」なわけですから、
実在しないものを実在しないといわれても困惑するばかりですw ∃x∀y(y∈x⇔(y∈a∧A(y))
内包公理であり、これが「無」を(パラドックスとして)「内包」している。
部分集合の規定であるとみるならば、部分集合の公理であり、
集合から一部を切り出すとみれば、分出公理でもある。
そして
P∧¬P
これは、無矛盾律または矛盾律。
この2つをどうにかして結合させれば自然の原理が...
「無」は「無い」のに、それを「存在」させる。
自然はそれだけの「力」を持っている。
内包公理の力。
y∈a∧A(y) の部分か...
A(y)という論理式の部分がy∉aであれば...
やはり、そういうことしかない...
自然を公式とすれば、直交補集合を作り出す公式である。
そして、それはまた、直交補集合を消滅させる公式でもある。
対生成/対消滅ではない。クラスの生成/消滅だ。
局所的には保存則を満たしているが、はたして全体でも保存則をみたせるようなチートをみいだせるかw
(あくまでも人工自然の話です)
(そういや、いままで反変を間違えて反共変と書いていた。共変/反変だ。これも保存則をみたせねばならないだろう) y∈x⇔(y∈a∧A(y))
を
y∈x⇔(y∈a∧y∉a)
とみなすならば、
これは空集合xである。
yが「無」ということになる。
そのままだと、外延性の公理によって空集合はただひとつしかない。
y∈a∧y∉aを単なる爆発律ではなく新たなトポス(トポスでいいかどうかは考え中)を生成するものとみなすならば、
xは直交補集合であり、これ全体が「直交補集合(生成/消滅)律」となる。
(消滅する場合、xは空集合)
これが、自然の生成/消滅律ということになるだろう。
こいつが「自然」の正体だ。
(あくまでも「人工自然」ですよ。お間違いなく) 違った、律ではない、
自然の生成/消滅の公理 だ。
これは「空集合の公理」と「置換公理」の書き換えになる。
ZF/ZFCから公理的自然集合論?へ。 しかし、たとえ人工自然上とはいえ、
保存則をどう処理するか。
射影ではどうやって保存則を保つか不明。
多世界ではなんとかできないことはない。
ボーム解釈(パイロット波)と交流解釈(トランザクション)は
時間を前提としているのでさらに解釈が必要。
隠れた変数も含めて、これらの解釈も解釈として可能でなければならない。
とすれば、空集合の公理と置換公理との間に対称性があればよい。
これを新たな公理の中で対称性を明示できればよいと考える。
すなわち P∧¬P がTRUE/FALSEの重ね合わせとなることを明示すればよい。
それって、通常の行ベクトルによる量子状態であって...
解釈をひとつにしたいのに、解釈が必要なものに戻ってしまう。
戻ったのなら、そこをつないで球面にしてしまえばよいのだ。
球面の球面。そのような二重の構造。さて、どのようにあらわそうか。 行ベクトルじゃねーや、列ベクトル(縦ベクトル)だ。 とりあえずメモ
アルシャラクシス理論
Alexej Nikolajevich Sewertzoff
theory of archallaxis アルシャラクシス理論 はそのうち使うだろうということでおいといて、
おれがおもいつくくらいだから矛盾許容論理またはクラスを含む集合論の中には、ここまでの考え方と
同じか、似たようなものがすでに考えられているだろうということ。
このへんになると日本で紹介されたり解説されているものは少ない。
とりあえず、独自に、保存則を解決するチートwを考える。 いま、という瞬間は面白い。
いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くに飛び去って、あたらしい「いま」が来ている。
太宰治「女生徒」 宇宙背景放射で宇宙論はビッグバン仮説で決まりということですが、ある天文学者は違う理解が可能だという論文を出しました。
スムート博士はその可能性は否定できないとコメントしました。
どういうことかというと、十九世紀末にアメリカの天文学者が火星観測で「運河」を発見したのと同じ間違いだと記事は締めています。
科学史は科学者が発見観測した対象を必ずしも理解しているとは限りません。
酸素を発見した科学者は燃素説を否定されたことに気がつきませんでした。
N線事件は存在すらしませんでしたが、国家の最高賞を受賞しました。
ほかにも脚気と鴎外、産褥熱と医者の関係とか、科学者が人間であることが良くわかります。
一番有名なのが天動説です。
ですから宇宙背景放射という現象もまた天動説的理解かもしれませんし、現在の科学理論にそういう性格のものがあるかもしれません。
現在の科学は革命が必要な段階だと主張する科学者もいたりします。 実は七十年代にハイゼンベルク、武谷三男氏らが現代科学の傾向に批判的であり、武谷氏はすでに主流であったビッグバンの仮説を退け無限宇宙論を取り上げています。
九十年代にはアメリカの科学者は当時の科学状況を総括して科学革命が必要な段階だと述べています。
この年代にはドイツの科学者が時間が存在しない可能性を指摘しています。
二十一世紀に入り、ある科学番組では時間非実在説はもちろん、重力非実在説を唱える科学者さえ登場します。
現代の学問は科学でさえこの現状です。
このことは、人間の文化は発展途上であり大きな可能性をまだ秘めている可能性があると言えるかもしれません。 ここで科学革命について概観します。
地動説は地球もまた諸天体の一つであり、進化論は人間もまた生物の仲間だと示します。
この二つの科学革命は自然には特別な惑星、生物は存在しないことを示します。
この自然には特別ななにものも存在しないことを究極として示したのが光速度一定の原理です。
この原理は絶対座標、つまり静止するなにものもこの自然には実在しないことを示すからです。
つまり運動は自然の存在形態であり無矛盾であることを示しています。
科学革命はもう一つの側面があります。
自然という対象を理解する場合、自然を理解する側が当然在ります。
天体観測では地球が静止していると仮定しますが、地球、人間は自然の在り方の一つで特別ななにものではありません。
ここでわかるように、自然認識は自己言及でもあるということです。 ここで自己言及について考えてみます。
三浦つとむという学者はその認識論で観念的自己分裂という概念を論じています。
例えば自分が住んでいる街の地図を描く場合、頭の中で空から街を眺めることができます。
また太陽系、銀河系、量子の世界にまで頭の中では入って行けたりします。
小説を読んだり、テレビドラマを見る時は主人公になることができますし、古今東西の人間にさえなれたりします。
赤ん坊を見て過去の自分を想像したり、老人を見て自分の未来を想像します。
この頭の中のもう一人の自分を三浦氏は観念的自己分裂と名付けました。
私たちは対象を認識し表現します。
現実のわたしを観念の中のわたしは他者として認識し「わたし」と表現します。
観念的自己分裂は自己認識を可能にします。
地動説では実在しない座標原点を設定します。
静止は運動の否定であり実在しませんし、観念の中の自分も物理としては実在しません。
これらは自然を認識するためには必要ですが実在しません。
光速度一定の原理は絶対座標の否定で自然が無矛盾であることを示し、実在しない静止で理解することを示します。
この原理は自然認識が自己言及であり、自然認識の在り方にも自己言及しています。 光速度一定の原理は絶対座標の否定で自然が無矛盾であることを示し、実在しない静止で理解することを示します。
この原理は自然認識が自己言及であり、自然認識の在り方にも自己言及しているのです。
例えば物理存在としての「わたし」は生まれてから現在に至るまで大きく変化していますが同一の「わたし」と表現します。
実は物理としての「わたし」は静止、つまり同一であることはありませんが同一で表現します。
森羅万象がそうです。
生物分類ではウィルスという、生物、非生物と分類困難な対象が出てきます。
しかし物理としては、生物、非生物は差違であり否定関係ではありません。
諸生物の中には分類困難な対象が出てきますが、やはり差違でしかありませんし、否定関係ではありません。
ゼノンの「飛ぶ矢の逆説」は飛ぶ矢は空間の一点に必ず存在するが、静止は空間の一点に存在することだから飛ぶ矢は静止していると論じます。
現代科学は光速度一定の原理により静止の実在は否定しています。
十七世紀オランダの哲学者スピノザは規定は否定であると述べました。
物理としてのわたしは非同一ですが同一とします。
生物、非生物は物理としては差違ですが否定関係とします。
「飛ぶ矢の逆説」は運動を静止で規定することを示します。 私たちは自然をそのまま認識できません。
目の前の空気中にも様々な物理存在がありますし、それらは各生物の認識器官の在り方で生成され現象します。
ある種の蝶は人間には雌雄羽の色が同じに見えますが、その蝶同士は可視範囲が違うので雌雄の色が目には違って見えるということです。
人間では老人と若い人の可聴範囲が違うので、それを利用することがあるようです。
味覚は年齢によって違い、訓練によって能力は違ってきます。
つまり同じ自然でも生物の感覚の在り方で差違として現象するということです。
視覚が無い生物がありますし、環境との関係でも違うわけです。
光速度一定の原理は、静止するなにものも自然に存在しないことを示しますから、量子力学の自然観である、運動するエネルギーの濃淡の海という理解を指示、支持します。
ディラックの海は真空はエネルギーの一形態であることを意味します。
自然に無は存在しませんが、無、否定で理解するわけです。
自然に展開するのは運動するエネルギーの濃淡であり、その親和と反発による生成過程の多様な展開です。
物理としての私たち人間もそういう存在です。
現在の物理学では自然は最小単位から成るとしますが、ある物理条件下で素粒子等に生成されるのであり、いわゆる観測問題は波が渦の状態を呈しているとすれば矛盾しません。
この理解は古代ギリシャ哲学の一派、十九世紀英国の科学者、近年ではブリゴジン学派がこの予想の下に実験をしているとある科学者は述べています。
自然はエネルギーの濃淡として存在しますが、生物の認識能力の在り方で独立して現象するわけです。 また運動をその否定である静止で理解するということです。
数学では0に限りなく近いが0ではないという不思議な説明があります。
0次元は座標原点で静止ですが、自然は運動しています。
量子力学では不確定性原理があり、位置と速度は同時には正確には測れないですが、元々対象としての運動を静止で測るのですから正確とはなりませんし、測定は=ではなく近似値にしかなりません。
近年量子力学の分野ではエネルギー保存則 の破れが言われますが、近似値でしか測定できないから当然です。
朝永氏が語る物理学の自然はたわめられた自然の一つの在り方です。
また現実は自然以外実在しませんから、どこにも消えませんし、また生じることはありません。
光速度一定の原理は0次元の実在を否定し、また次元一般も否定します。
自然には運動しない三次元は実在しません。
四次元が静止している三次元でできているなら、無限の三次元が実在することになります。
「今」と指示しますと「今」は飛び去ります。
「今」とは運動を静止、有を無である静止で理解した言葉です。
ですから、直接ではなく限りなく0に近いが0に近いという決定不能で理解します。
私たちは縦横高さと言いますが、それぞれ独立して実在しません。
それらは対象としての物理存在の抽象ですし、時間もまた物理の運動の抽象です。
同時性は観測、つまり認識に対象化しようとするのですが、光速度一定の原理から同時性は観測できません。 果物自体は個々に存在しますが、果物一般は抽象で実在しません。
次元もまた抽象です。
時間は、太陽、月、光等諸物理形態の「ここ」から「ここ」までという運動の抽象で時間自体は自然に実在しません。物質は運動変化していますが、その大きさを三次元で理解し、運動を四次元、時間で理解する。
三次元自体は抽象ですし、四次元は運動の抽象ですから時間自体は実在しません。
次に重力を考えてみます。
ライプニッツ、ホイヘンスはニュートンの重力方程式に敬意を表しましたが、遠くから魔術的に作用するという重力の説明には納得しませんでした。
自然が運動するエネルギーの濃淡の海ならば直接に働きかけますし、この重力の正体も運動に必要なエネルギー量ということになり重力という概念は必要ありません。
また諸力はその様な物理状態に生成するというのに必要なエネルギー量と理解され力の概念は必要ありません。
自然は運動するエネルギーの濃淡から成り、素粒子、生物、銀河系などに生成して行きます。
つまり次元も諸力も自然には実在しません。
私たちは自然を次元、つまり否定で理解しますが、次元は自然には実在しません。 十七世紀のオランダの哲学者スピノザは「規定は否定」としたそうです。
この観点から哲学史を眺めてみます。
山川偉也氏の「ゼノン4つの逆理」に拠れば、ゼノンの逆説は、世界は「一」だと主張する師のパルメニデスの自然哲学を批判するピタゴラス学派に対し反駁し、擁護したものです。
「競技場の逆説」では時空に最小単位があればその半分があること、つまり最小単位は存在しないこと、を証明します。
ピタゴラス学派は、数は大きさを持たないとします。
ゼノンは自然が大きさの無い数で出来ていたら、私たちは目的地に達することもないしアキレスは亀を追い越すことはできないと「二分の一の逆説」「アキレスと亀の逆説」で証明します。
また自然が大きさの無い数で出来きていたら、運動は不可能だと「飛ぶ矢の逆説」で論証します。
つまりゼノンの逆説は自然は「一」であり「多」ではないことを論証したのです。
現代科学は光速度一定の原理で座標原点、つまり大きさの無い点、数の実在は否定していますからパルメニデスの自然哲学、自然は多でなく一であることを裏付けています。
つまり、自然は運動するエネルギーの濃淡の海なのです。
カントは時空に終始が在ると同時に無いことを論証しました。
光速度一定の原理は座標原点、つまり始まりの実在を否定し、また始まりという実在しない座標原点を仮に設定し、運動を量で量ります。
始まりが自然に実在しないのですから終わりも当然ありません。 自然に終始は実在しませんが、自然は終始で理解することをカントの二律背反は論証しました。
生物など自然は様々な態様に生成変化して行きます。物理としての自然には何も加わりませんし、減りません。
物理状態は恒常として在ります。
規定は否定ですから運動変化をそのまま反映できません。
ウィルスは生物、非生物という分類の在り方を示すように、生死の分類もまたそうです。
自然は物理としては「一」で否定関係としてではなく差異として在ります。
それを生物、非生物、生死と否定で規定しますから当然有効範囲があるわけです。
物理学の自然もまたたわめられた自然、つまりそのままの自然ではありません。
カントの二律背反は自然と認識の関係を示しています。
ヘーゲルは「運動とは存在すると同時に存在しないこと。」と定義します。
古代ギリシャの「クレタ人の逆説」は「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った。」というものです。
クレタ人が嘘つきなら、クレタ人は嘘つきだと「正直」には言いません。
またクレタ人が正直ならクレタ人は嘘つきだと「嘘」は言いません。
この逆説は対象規定そのものを自己言及し、この自己言及が規定を否定するからです。
ヘーゲルは運動を存在という静止、つまり否定で理解することを念頭にしています。
対象としての運動は存在するのですが、存在という規定は静止ですから、静止としての存在は否定されます。 つまり存在という運動の否定で運動を定義しなければならないから決定不能となり「運動とは存在すると同時に存在しないこと」と定義しなければならないわけです。
光速度一定の原理は自然に終始が実在しないことを示しまますから無限宇宙を指示します。
自然以外には何もありませんから、物理として増減することはありません。
エネルギー保存則は根本的に成立しますが、その破れとはそのまま正確には、つまり近似値でしか測定可能ではないからです。
この無限宇宙を有限、つまり否定で理解することをこの原理は示しています。
数学の不完全性定理は有限を無限で理解しています。
ヘーゲルの運動定義が示すように、対象の否定で理解し、その事に言及すると決定不能になります。
クレタ人の逆説は、対象をその否定で理解すると決定不能になることを端的に表しているのです。 光速度一定の原理は自然が無矛盾であることを示しましたが、運動する自然を論理は否定、静止という非自然で規定します。
つまり自然は無矛盾、理解可能であるが故に決定不能なのです。
自然は量子力学が示すように、運動するエネルギーの濃淡の海であり、反発、親和の過程を経て様々な差異としての物理状態に生成すると理解します。
次元の実在を光速度一定は否定していますが次元で理解されます。
重力は運動ですし、他の力はある物理条件の下に生成するのに必要なエネルギー量で力自体が存在しません。
自然は無限で運動変化して行く過程として存在します。
自然は生物が無限の物語を展開した遺跡であり人類もまたそのようなものとして存在し、また新たな生物が物語を展開して行く舞台として存在するとも理解出来ます。 以前約束してた方、とりあえずアップしました。
まだ細部は検討の余地はありますが。
では、またです。 また書き直しするかもしれません。
というか、必要はあります。 (クレタ人)は「嘘つき」だ
「」に()を否定的に言及する文は矛盾を生じさせる
(時間)は「過去」だ
この場合は()が強烈に自己否定を行う
俺は過去じゃない!と
論理的矛盾と主語による否定
さて時間とは何か?
それは問を発した途端に否定的言説でしか表現できない何かであろう
アウグスティヌスは正しかったのだ うーん、いまだ「原理」の意味を理解されていない。
しかしながら、疑似科学の原理としてはおもしろい。
認識という系の内部に原理を置くことはできず、それは認識の外部にある。
そうすると原理を除いた無矛盾の系が構築可能になる。
それゆえに、その認識は「不完全」である。
原理を含めた自然が無矛盾だという証明にはならない。
そこで考える。原理は矛盾を許容するものであり、それゆえに無矛盾の系を構築できる。
これがいわゆる矛盾許容論理である。
自然を無矛盾の系だとすれば、原理はその系の外部にある。
自然が原理を含むものであるとすれば、自然は矛盾を許容する。
「原理」とは、認識のための「土台」であり、人間の想像物である。
光速度不変の原理を語るのであれば、せめてアインシュタインの原論文を読んでほしい。
疑似科学の本を参照されても困るのです。 というか理系の大学院、研究者とさんざん議論して基本理解は承認されているし、あなたに偉そうに言われてもなあ
あなた自身の理解は疑わないんだな
神様ですかw
まあ話しても無駄ってことですな 原理を除いた無矛盾ってなんだよ
外部を語る権利は誰にもない
せめてヘーゲルを読んでからものをいってもらいたい 理系院卒の証明書だせ
まさかFランじゃないだろなw それに、光速度が一定ではない、という事実から、
光速度一定の原理といういいかたはいただけない。
光速度不変ということを基準とした絶対座標系を構築できるということであり、
絶対座標の実在を否定したものではない。
(光速度不変の原理が実在であるとすれば、それを基準とした絶対座標系も実在できてしまうが、
原理の実在性は証明できない。一般的には、証明できたら原理ではない) というかあなたが理系でやれば良いのになあ
結構議論重ねたからなあ、こっちは
用語の齟齬を乗り越える苦労はあったが報われた
三年間互いに大変だった 運動するエネルギーの濃淡と指示されているものは
なんであるんですか? 疑似科学としてはおもしろいんですけどねぇ。
出所不明で意味も不明な言説が多くて。
一次資料まで辿れるものでないとねぇ。
主要なものなら原文がインターネット上で検索できるわけですし。 運動エネルギーなのかエネルギーが運動(変化)してるのか、濃淡とは
古典場なのか量子場なのか場ですらないのか、なにをどのように測定したものなのか、
まったくわからないのがなんともいえない魅力ではありますが。
運動するエネルギーとは彷徨える魂のことで、その魂の数を数えたり重さを量ったりしたものかもしれませんね。
ヘーゲルの時代の汎神論的ものでありましょう。 真偽は自然が決める
ビッグバン仮説は崩壊する
最小単位はない
エネルギーの海から成り〜に成るだけ
ピタゴラス世界観からパルメニデス世界観に
ピタゴラスは認識の理論 「理系の大学院、研究者と議論した」といくら吠えたところで
ぜんぜん説得力が無いんだよね
結局、その人のレベルなんてのはレス読んだら分かるからね ビッグバンについては、おそらく、WIREDのBig Bang or Big Goof? Astronomer Challenges 'Seeds' Proof
という記事が元ネタと思われますが、
ここにはスムート博士がその可能性を否定しなかった、とまでは書かれていませんでした。
この記事を最後まで読むと、Verschuur博士のほうが、火星に「運河」を発見した科学者である、
とも読めますw
最後の一行が決め手ですね。
But he consoles himself with his wife’s advice: "Gerrit, remember that you’re just communicating what the data show." ま、なんにしても、太陽系外での観測が始まらないことには、なんともいえないし、
その次はわれわれの銀河系外での観測も必要だし、
その次は天の川銀河を含む銀河団外での観測... 26 :なまえを挿れて。 :2020/02/24(月) 07:50:18.89 ID:XPwQY7jX0
人差し指でGスポ探して膣内を探索する
今カノは積極的でちゃんとそこ感じると教えてくれた
それ以来、そこを攻撃すると必ずイクと判っているので
前戯もチムポ挿入時もわざとGスポを外し、少し焦らしてから最後にイカセてる
彼女、涙流して大喜びしてます 「光」とは?
「一定」とは?
「原理」とは?
「理系」とは?
そこまで深く考えたことある? >>710
んで、あんたの科学が、疑似科学でないことは証明できるのかな?
まさか権威を持ち出して自己正当化するわけでもあるまい
しっかり論証してもらいたいね なんかポストトゥルースですなぁ
加速主義的状況を守護天使のようにただ見守るのみ >>720
いや、疑似科学というあなたが論証する義務を負うことくらいわかってくれw 時間に謎がある、という事自体、不可解な話である。
普段、自らの一生の現段階を見出すことで、今現在を語りながら、
物理学では今現在という概念を除外してしまうために、
余計なことで、混乱しているだけなのでは? dialetheism(真矛盾主義)を探っていたら、
文脈によっていろいろに翻訳されてしまって笑える。
「弁証法」。弁証法は論理ではないが、無理やり論理にしようとすれば矛盾許容論理になる。
これはこれで正しい。
「知覚障害」。dialetheismを辿っていって無理やり翻訳してみると、
弁証法であり知覚障害であり、とても楽しい。
「弁証法」が「知覚障害」というのはあながち間違いとはいえない。納得してしまった。
AIは「弁証法」を「知覚障害」である、と考えているようだ。
「形式的意味論以外の多くの哲学的文脈において、表現力の境界で知覚障害が生じる」
なんともすばらしい翻訳だ。
AIがそういうんだから、dialetheismは形式意味論で扱わねばならないのだろう。
そうでないとただの知覚障害である。 「一定の光速度の原理は、自然は一貫していることを示していますが、動くという性質は非自然、つまり論理が否定され静止していると定義されています。
言い換えれば、自然は一貫性がなく理解可能であるため、決定することはできません」
AIさんは「動くという性質は非自然であり、自然は一貫性がない」といっています。
そのように解釈されたようです。
なかなか正しく理解されているようです。 なにをいっているからよくわからなかったわけですが、
Googleの翻訳に読み込ませて英語からさらに日本語に戻せば、
一般常識的に解釈された意味を、少しヘンではありますが、元の文よりわかりやすく、その真意を表示してくれます。
「翻訳^2」すればよかったんですね。 「量子力学が示すように、自然は動くエネルギーの海であり、反発と親和性のプロセスを通じてさまざまな物理的状態に再生することを理解しています」
これならよくわかります。Google賢い。 1秒も1日もどんな時間も自然には実在しない
時間で対象化した自然は自然自体ではなくたわめられた自然 たわめられた自然なんて実在しない、従って
時間が自然には実在しない根拠にならない 1秒や1日を時間と言ってるが、厳密には時刻だ。
平気で混同してるけど、所詮その程度の頭脳なのよね。 時刻は、時の流れの中の各瞬間、つまり、1点を示し、時間は、時刻のある点からある点までのへだたり、つまり、時の経過の長さを示すものです。
したがって、時間は、加法や乗法など計算の対象になりますが、時刻については、加法や乗法などを考えることができません。 たわめられた自然が構築できるのは、たわめらていない自然が実在しているからである。
100回書き直そうが、1000回書き直そうが、誤解が真理になる事は無いよ。 「自然は運動するエネルギーの濃淡の海」を翻訳すると
「自然はエネルギーの動く海」ということになります。
AIさんの言葉のほうがまっとうですね。
「たわめられた自然」を翻訳すると、
「恵まれた自然」ですね。
わかりにくいので翻訳すると、
「1秒、1日、自然の中に自然に存在する時間はない。
時間の対象となる自然は自然そのものではなく、歪んだ自然です」
ということですね。この歪んだ自然こそrが豊穣な自然であると、AIさんは考えているようです。 一年は自然には実在しない
桜の花が芽吹き、大地に還りまた・・・という光景はない
一日は、1秒は?、素粒子が存在する時間もまた実在しない
どんなに縮めても同じ
では「今」は?
「今」は「今」にしか存在しない
そして過ぎ去る
過ぎ去った「今」は「今」には存在しない
未来は「今」には存在しない
いま、という瞬間は面白い。
いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くに飛び去って、あたらしい「いま」が来ている。ー太宰治「女生徒」ー
だから実在しない座標原点を設定し量で理解する
次元は運動する自然を静止、つまりたわめられた自然で理解する物理学という学問としての道具 時間と呼ばれるものは、<時間の長さ>と<時間の流れ>というように、両面で語られる場合が多い。
人間が経験を通して知りうるのは有限のものごとであり、<始まって、続いて、終わる>という図式でとらえわれる。
<時間の流れ>は、このように一方向性を示す表現でしかなく、始まったら終わりへと向かうしかないという事である。
人々は<終わりへと向かうはやさ>を時間が過ぎる/流れるはやさとか表現しているだけで、<時間の謎>とは何なのか知りたい。
<永さ>を空間的にイメージするから、<時間を置く>とか近い未来とか、遠い過去というような言い方をしているだけだし、
行事・出来事、営み、あるいはある状態が保たれる(持続する)永さを時計で計ることはできるが、
知覚できず、従って始まりも終わりも見出せない(保ち続けない)ものを、時計で計る(数値化する)ことはできないのである。 有を無で理解するって指摘したら、わたしより早く問題解いた某さんの時間理解が読みたいが、まだ居るのかな? ヘーゲルにおける「否定」とはbestimmte Negationである。
だからどうなのかは考え中。 人間は段階的に考えるわけだし、他者に対して段階や順序を追って話せと要求するわけだから、
世界の存続を分割して前・後を捉える<時や時間の概念>を切り離して生活するわけにはいかない。
時代であれ季節であれ期間であれ、<始まって、続いて、終わる>のであり、表現を変えれば、
<来ては過ぎていくもの>であろうし、現実のありさまとして現われ、失われるというだけのことだ。 >>750
>>750 何を言ってほしいのか言ってみればw 意が「どのようにか」現れ、消えてゆく。
それが心/魂の姿形というものだろう。 結局のところ、意味というのは、意が「どのようである」か
ということなのだから、意が捉えられることなしに意味が
表れることはないのだ。 ヘーゲルにおける「否定」とは、Negationではなく、bestimmte Negationである。
これは、「粒子」に対する「反粒子」のようなものであり、矛盾しない。
疑似科学としての弁証法や唯物論は、ヘーゲルのものではない。
ヘーゲルを正しく読み解くのであれば量子論であろう。
実際に原文にあたってみると、量子論的世界がみえてくる。 >>756
ヘーゲル同様逆立ちしている理解だな
現実が示している観測事実から出発する必要がある ある学者が哲学者の自然理解に失笑していたな
哲学から自然を理解するから珍論になると 結局のところ、ヘーゲルは観念論なのに、マルクス主義によってたわめられたw
この場合の「たわめる」は「矯める(ためる)」に近いが、
「戯れる(たわむれる)」のようにも思える。
マルクス主義の戯言からヘーゲルを救出wすべきである。
観念論としてとらえたヘーゲルは量子論と同じである。
「嘘つき文」の世界。
「嘘つき文」をいかに解釈するか、それがすべてである。 複数の時計で計った永さが異なるからと言って、時間の流れ方や長さの相対性を論じるのは愚かしいことだ。
何故かと言えば、複数の時計が示す時刻を同時に(どちらかが後・前ということなく)見ているからこそ
計算して見出される永さでしかないからであって、実際のところ時計の進みをそろえる工夫がなされている。 時間を深遠なものとして捉えたがり、
宇宙の謎の解明する大きな鍵になると妄想したがる多くの人々がいる。
普段自らが語っている時間と呼ばれているものとは遊離した存在として捉えようとしている。
世界の内在としての時間を当たり前のように語りながら、外在としての根源的な時間を信仰している。 「嘘つき文」に矛盾はない/あるいは矛盾しかない。
これにパラドックスを生じさせるもの、それが問題だ。
人間は不在とする。
嘘つき文を検索すると、韓国ばかりひっかかる。
困ったことだ。
時空間は、真矛盾によってつくりだされるパラドックス/あるいはパラドックスの解消、である。 などと書いていたら、答えも書いてしまっていた。
パラドックスを生じさせているのは「真矛盾」である。
真矛盾は矛盾とは異なる。
細かいことは文献にあたってもらうとして、
ここでは、哲学としての「真矛盾」を考える。 哲学は小松左京の短編「完全犯罪」思い出すと話した先輩がいた
つい最近手にして、なるほどと >>760
その学者も自然を理解したつもりのチン論しかないんじゃないか? universalismとdialetheism。
「嘘つき文」を現実的存在としたとき、
universalismでは矛盾を生じてしまう。
では、dialetheismではどうなのかというと、
そのまま受け入れる。
一般的な「自然」という意味では、「そのまま受け入れる」べきであろうことは疑いようがない。
しかしながら、「哲学(者)」は「ひねくれ」ており、「そのまま受け入れる」なんてことは「できない」。
「そのまま受け入れる」と彼らは死んでしまうw
数学においては、「そのまま受けれる」ということを、圏論によって自然変換で表した。
数学(者)もひねくれているわけだが、ただ単に、「語り得ぬもの」を、巧妙に除外しているだけだ。 xは語り得ぬものであるという言及は、xを語ってしまっていると考えれば矛盾である。
xが語り得ぬもので「なければ」、矛盾ではないw
これは、xが語り得るものである、ということを意味するものでもない。
xの構造の問題である。
xは唯物論に還元できない。xはクラスである。
ただし、そうするためには、最初の言及を更新する必要がある。
説明はめんどくさいので、公理的集合論における置換公理をあたってほしいw >>772
具象をいくらこねくり回しても抽象度上がるだけで論理的説明は不可能だぞw 論理的説明は、該当する論文を探し出して自分で納得することであろう。
わたしは、特に参考文献を明記しないw
ヘーゲルにおける「成る」という命題。
矛盾許容論理における爆発律の回避としての「成る」。
これを「直交補集合」とすればよいわけだが、それを説明できるものを探している。
それは「無」にある。だが、「無」は「無い」。 とりあえず、java上に「無」のclassを実装することを考える。
それは、nullとして、すでに実装されている、と考えてもよい。
もし、すでに実装されているものであるとするならば、これを活用して世界を構築可能であろう。
nullは「無」のclassとしては、少し貧弱だ。この貧弱さを補うことが必要だ。
class Null
しかし、class NullはObjectを暗黙的に継承してしまっている。これはこれで正しいのだが、
大きな問題でもある。新たにNullからObjectを作り出す必要があるだろう。
新たなObjectを継承していなければならない。元からあるObjectには目をつぶろう。 まず、DiaObjectを定義する。
単独では存在しないとすれば、abstractである。
これを継承したDiaFooは
class DiaFoo extends DiaObjectである。
そして、DiaNullはすべてのDiaObjectを継承し、そのinstanceはただひとつしかない。
(DiaNullはDiaNullなのだからDiaNull自身を継承することはない)
そして、これらのclassのオブジェクトは帰属メソッドboolean has(DiaObject obj)を持つ。
booleanもDiaBooleanとして再定義すべきだが先送りする。
hasメソッドは、引数で与えられたDiaObjectが、そのclassに属するかどうかを判定する。
DiaNullのただひとつのinstanceは、はたしてDiaNullに属するべきか?
instanceofで判定するならば、属するのだから、trueを返すべきだろう。
DiaObjectクラスだけに置くのであれば、
// public boolean has(final DiaObject obj) {
// return obj.getClass().isAssignableFrom(this.getClass());
// }
余計なfinalはわたしの趣味です。 DiaNullのただひとつのinstanceは、いうなれば空集合である。
無のclassはすべてのclassを継承している!
とすると、DiaNullというクラス名は間違いだった。
DiaNothingのほうがよかった。書き直そう。
DiaNothingクラスはただひとつのinstanceであるNullを持つ、としたほうがよさそうだ。 と、いちいち書き出すのはめんどうなので説明に必要なものだけ。
それに、プログラム板ではないので、核心となる「人工時間(空間)」が現れるようになってから、
書き出すとして、
とりあえずw、
DiaNull改めDiaNothingがすべてのclassを継承している、ということと、
人工時空間との関係を考察する。 無のclassがすべてのclassを継承しているとすれば、
時間のclassも継承されている。
時間のclassもclassである以上、DiaObjectを継承している。
時間のclassはinstanceを持たず、時間のclassを継承したclassがinstanceを持つ。
instanceを単純に「実体」と訳そう。
時間のclassは「実体」を持たないが、時間のclass自体は「実体」である。
なんらかのオブジェクトのclassをDiaFooとする。
class DiaFoo extends DiaObject, class DirNothing extends DiaFoo だけを考えてみる。
実体としてはDiaFoo.samthing1, DiaNothing.Null だけがあるとする。
これに時間DiaTimeを与えるとしたら... DiaTimeを勝手に与えてはいけない。
否定からうみだされねばならない。
最低限必要なものは、DiaNothng,DiaObject
そしてclass自体以外で必要なものはDiaNothing.Nullという実体。
これは1bitの情報である。
DiaNothng,DiaObjectというclassに区別をつけなければ、Nullという実体を持つほうが、
DiaNothingである。
先送りしていたDiaBooleanのtrueはDiaObjectであり、falseはDiaNothingである。
もちろん、論理がひっくりかえっていてもよいだろう。
ともかく、これが「嘘つき文」になっていればよい。
最低限必要と思われる1ビットが、嘘つきであればよいのだ。
すなわち、ヘーゲルにおける「成る」とは、嘘をついたことを正当化するためにさらなる嘘を重ねることであるw
システムを嘘つきシステムに変更だ。 そのclassに属するかどうかというhasメソッドが、
「無」から「有」を生み出している。
人工自然であれば、それでよい。時間もうみだせる。
現実世界での物理的現象にも同様のものがあれば、この現実世界を構築可能である。
形式言語でつくればよさそうだが、めんどくさいしjavaでつくりかけているので、
たったひとつのclassで嘘つきシステムを構築してみよう。
DiaNothngクラスだけのシステム。oracle函数ならぬ、嘘つき函数。
もしくは、嘘つきオートマトン。
これが嘘つき宇宙(=フォン・ノイマン宇宙)をつくる。
ここまでの結論:時間とは巧妙な嘘である。 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。💁
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。🤔
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。⭐ 私達は一体 何か。⭐
私達は一体 何処から来て何処へ行くのか。⭐
私は一体何者か。⭐
私は何故 売れ残ったのか。🤮
私は知らない✨
されど 楽しいこともある。
不思議なことです✨⭐ 嘘から時間を作る。嘘つきシステム。
「嘘」というのは単にインパクト狙いであって、自己言及システムなんていっちゃうとつまらないからw
自己言及するゲーデル文、いわゆる「嘘つき文」は、無矛盾に存在可能である。
その内容を問わなければ、ただの存在である。特に矛盾はない。
しかし、それには存在させるための機構が「嘘つき文」の外部になければならない。
そこで、このゲーデル文をclassとし、その内容を存在メソッドとする。
存在機構を内部に持ってきて、自立/自律させる。
ここで、卑怯にも、true=「存在」、false=「不在」と定義してしまうw
そのinstanceが持つ存在メソッドがtrueを返せばよいのだ。
とはいえ、true/falseはclassの内部に無い。これもそのclassが自前で供給しなくてはならない。
2つ必要なのもかからわず、classはひとつしかない。
javaは動的なclassも作成可能なので、実装できないこともないのだが、
わかりやすくするために、javaのclassをメタクラスにして、その下に議論対象としてのclassを作ろう。
区別するために、これをDiaClassとする。 「不変」でなければ「共変」か「反変」か「双変」である。
「共変」と「反変」がどちらがどうなのか、わかりにくいが、
型変換でいえば、共変は広い型から狭い型へ、反変は狭い型から広い型への変換となる。
オブジェクト指向プログラミングでいえば、もっとも広い型がObject型で、
もっとも狭い型が、もし存在すればNull型である。
(Nothing型も考えたが、結局、Null型のほうがそれらしいので、元に戻す)
「無」とはNull型のclassであり、唯一のinstanceとしてNullを持つ。
このNullは、「空集合」だ。(空集合の公理)
classによる人工自然をそのようなものとする。
よく考えれば、Null型は「無」のクラスなのだから、instanceを持つべきではない。
しかし、一般的なクラスの定義から考えればinstanceを持たねばならないのだ。
そのへんの整合性は考え中。 classもObjectであるからclass型も想定しなければならないし、
instanceなどと語った以上はinstance型も想定しなければならない。
結構やっかいだ。
特に、class型もObjectなのだから何らかの型のinstanceである。
なにをブートストラップにするか。
Null型がブートストラップとして機能するのか? 機能するとすればそれはどうなるのか。 >>792
用語を理解してないよね
デタラメだ
class型なんて定義しようがない
一定の形はないから class型ありますが、なにか?
総称型だとclass<?>ですね。
この型自体もObjectです。
Objectである以上、メソッドとしてid()のようなものを持つはずです。
id()が返すべき型はなにか、と考えれば、やはり、Objectとするのがベスト。
Null型とOject型からすべてがうみだされる。
というのはかまわないのだが、NullとObjectのどちらか、あるいは重ね合わせてものから、NullとObjectをつくりだしたい。 Type classですねー。
javaのclassは型ですけど、それより高度というか高位というか。
型クラス相当のものを考察してたのかもしれませんね。
haskellもついでに調べてみるっか。処理系どこにしまいこんだかなぁ。 インスタンスを生成すると言う事は、VMが実行メモリー上にオブジェクトを配置する処理をするだけだよ。
ハハハハハ、バカだね〜。 そのnewもしくはnewInstanceが、たとえば弁証法的嘘つきシステムでは
なにがどのように働いているのか、どのような機構なのかということ。
正反合のエネルギー論的な保存則はどうなっているのか。
それを、現物としてのjavaやHaskellなどの実装からリバースして哲学する。
クラスは、ようするに、現在のAIの基本的な動作と同じである。
「分類器」として機能する。classifierなのだからあたりまえだw
instanceは、現物の機構をみるかぎり、メモリ上に展開された「情報」である。
唯物論と認識論を融合させると、唯情報論となり、物や認識は虚像(嘘)であるw
どれがどれというわけでもなく、どれかを実とすれば残りの2つは虚である。
これに反するもうひとつの反世界があり、そこではどれかを虚とすると残りの2つは実になる。 001,010,100,111の世界と、
110,101,011,000の世界がある。
この2つの世界を巧妙に貼り合わせた五胞体が、二重に回転し、
そこから得られる情報を投影したものが、人工自然になる。
ミニマムまたはタイニーな人工ホログラフィック宇宙。
フェッセンデンの宇宙か、国際リニアコライダーか、神様のパズルか、
ええっと、なんか宿題かなんかで宇宙だか地球だかをつくったSFもあったような。 順番を考えなければ、001,110,000,111の世界がある。
一つだけ違うとか、全部同じとか考えれば、
000,001だけでもよいだろう。2つのものを3つの組み合わせとみなす。
あ! これを0から始めてみよう。「無」すら飲み込もうとするブラックホール。
そのような機構があればよい。対象なき機構。それが最初のころに考えていた
「対象なき『射』」か。 Supermassive black holeを超えるblock holeを想定する。
質量というより、大きさ。
そのようなblock holeは、見えないとは思うが見えたら2つのblock hole にみえるだろう。
ultimate black hole と supreme black hole.
究極のブラックホールと至高のブラックホールである。
なぜ2つにみえるかという理論は考え中w(とりあえず直感では2つ)
このブラックホールがあれば宇宙をつくれる。
このようなブラックホールが存在するということを観測できればよいのだが。
宇宙方程式の解になかったかなぁ。 ultimate black holeを考える。
ようするに、Schwarzschild radiusがほぼ無限というほどにでかい。
この無限は特異点をうみそうだが、回避はできる。
そのように考える。
特に3次元である必要はない。
そこで、event horizonを一次元球面でもなく、0次元球面で考えてみる。
0次元球面は2つの点で構成される。
これは数学的事実であり、0次元球面という議論領域としての「宇宙」に「存在」する。
それは(数学的)「実在」といってもよいだろう。
この「点」がevent horizon上か、そのちょっとだけ内側か外側にあるとする。
その「点」がevent horizon上にあるとすれば、2つのevent horizon点がある。
このeh点2つは究極に離れている。
細かい議論は先送りしてすっとばすw
究極に離れているということは、究極に近いということでもある。
かくして、2つの点は究極に離れていて、かつ、究極に近い。
そのような2点のevent horizon上でのゆらぎが、この世界および時間/空間として認識されるものをうみだす。 事象の地平「点」のあちら側とこちら側の点、ようするに、これが1ビットの情報となる。
片方はエルゴ球の中であり、もう片方が反エルゴ球?の中だと考える。
もはやどっちがどっちでもよいw
event horizonがビットを「実在」させる。 一次元球面と一次元球体を考える。
この球面は、局所的に球体として扱える多様体のようなものだとする。
球面が、積分して0になるなら保存則を満たす。
局所的な球体が無限長であってもかまわない。
とすれば、どんな次元であっても、同様に保存則をみたせる。
そのうえに局所的にはかなり自由である。
何世代目かの宇宙ではなく、0世代目もしくは1世代目の宇宙を考える。
いまのところ、最小の次数を持つ球面は0次元球面である。
さて、どうやれば0次元球面ができるのか。
最初からあるとすれば、二元論的宇宙であり、0とは最初から二元的な存在だということに...
0も1も幻想の産物であり、2だけが実在する、と考えるのもおもしろそうだ。
自然数論を書き換える。なんてことができれば楽しい。 何世代目かの宇宙が1ビットからリスタート/リブート/リボーンするのは問題ない。
0世代目もしくは1世代目はどうなるか。そこが問題だ。 俺たちはまだまだなんだよなあ
理系、文系は鏡だよな 2を基本にした自然数論の再構築。
ようするに、戸田山の『哲学入門』で、せっかくビットを実在として扱おうとしていながら、
やりとげずに中途半端な部分の補完であるw
ここで「2」といっているのは自然数の「2」ではなく、「ビット」のことである。
記法としての二進法ではなく、哲学としての「ビット」だ。
ようするに「ビットの哲学」である。
『ビット文学の歴史』からすると、「ビット」も「言語」であるw
そしてこれこそが「実在」なのだ。
現実的には、これを唯情報論とするならば、唯物論、唯心論(観念論)と3つがセットと
考えたほうがよいかもしれない。
「ビット」は情報であり物であり心である。
これを議論領域としての「宇宙」に実在させて「時間・空間」をうみださせる。
ビットの「実在」からスタートさせるのはそれほど難しくはない(わけでもないが)。
「実在」のない状態(「非実在」でもない)から考えるとしたら、なにが必要か。
実在∧非実在
それをとりあえず「混沌(=無、=絶対矛盾?)」と呼ぶ。 考えるうえでの参考文献としては、物理や数学の書ではなく、
国書刊行会の『文学の冒険』シリーズをお薦めする。 本当なら、クトゥルフをお薦めしたいのだが、それはまた違う話。 0次元球面を●●としたとき、0次元球体は○●である。
1点を取り除いたからであり、その取り除かれた点は●○である。
そうすると、0次元球面とは、○●+●○=●●である。
だったならば、○●は●ひとつでもよいのではないか。
この記法は情報が足りていない。
さてどうするか、ということで、エッジをつけよう。(時間の議論にいくまで時間がかかりそうだw)
○を廃して、0次元球体を●−とする。
0次元球面を●=●にしてみよう。
エッジである「−」は最低でも片方が●と繋がっている。
エッジ単独では存在できないのだろうか?
単独でも存在できるなら、などと考え始めると、収拾が...
と思ったけど、「存在」(のクラス)が2種類あればよいのだw
2種類ということは、これもビットだ。
ビットを考えているのにビットが必要になる。
このビットを2種類のビットとするならば、それもビットだ。
(自己参照的なループを持つ)「超二元論」。そんな言葉が頭をよぎる。
これは、一度、量子ゲートにもどって、自己参照的な構造をもった量子ゲートが
(計算上で)構築できるかどうか考えてこよう。 ultimate black hole を自己参照的なつじつま合わせのなにか、であるとする。
現実的に存在するblack holesも、つじつま合わせ的な存在の発現と考える。
そう考えていくと、ビットというものは、micro black holesの一種なのかもしれない。 と、ここまで、自己言及とすべきところを自己参照としてしまった。
いまのところは、たいした属性を与えていないので同じ意味ということでよい。
言及か参照か、それに対応する「アクション」を考えていない。
そこには因果関係のような、一方的な流れはない。
ノードでつながっているだけだとすれば、つながっていればよい。
「つながる」ってなんだ? と考えると哲学としてはかなり大きな問題だ。
そこは自己言及的に、つながるってこと同士がつながる、と考えよう。
そうすると、つながるということそのものが対象になりうる。
そのためには、つながるということが自己同一性をもたねばならない。
閉じた射(=ループ)と開いた射。(人工)自然は、この2つがあればつくれる。 エッジを2つの開点○○とすれば、
ノードとは閉点と開点●○である。
ここで、○○=●とするならば、
ノードは○○○である。
たいした意味はないと思えるだろうが、わたしにとっては大きな意味を持つ。
もうひとつの宇宙(ノードを●●●とする)がある。
もう結論をだしてしまう。自然とは●○である。
それ以前に混沌があるというより、これそのものが混沌でもある。
対生成と対消滅は独立した事象ではない、と考えられる。
あとは、ライフゲームでいうところのグライダーのようなものができればよい。
人工自然は人工自然ゲームだ。
Artificial Nature Game しかし、なにかしらのmagnitudeがなければならない。
こいつが核にならなければ宇宙はできないし、時空間も(幻想であったとしても)できてこない。
人工自然ならば人工的にmagunitudeを与えることはできるが、
これも自発的に発生させたい。前から問題にしている「r」でもある。
文学理論的には、このmagnitudeとは「誤読」なのかもしれない。
「自己言及」という「誤読」がmagnitudeをうんでもよいのだが、
そのような機構を考えるならmagnitudeが必要である。
自己言及^2
ま、それが「混沌」なのだといってしまえばよいだろうw
それを「混沌」の定義にしてしまってもよいのだが、なにも解決しない。
いや、解決できるなら「混沌」ではない。
なんだかとてもおもしろくて香ばしい状況だ。
最初は、単純に二重ループのイメージをもっていたが、もう少し複雑な感じ。 こうして考えてみると、「無」は、なんらかの「誤読」あるいは「うっかり」するような機構を備えている。
そして、かなり能動的・活動的・流動的だ。
われわれも世界も、スケールを変えれば、このような「無」の中での、
とるにたりない「ゆらぎ」でしかないのかもしれない。 よその板で考えた。
それを「無」にも応用するならば、「無」はパイプラインでつないだループ構造が形成できなければならない。
自発的に、そのようなものができなければ、自発的に(人工)「時間」ができることはない。 時間とは、ようするに並進対称性である。
これを「点」からつくりだしてみる。
ユークリッド原論における、点の定義は、部分を持たないということである。
書によっては、部分だけではなく、magnitudeも持たないと記載されていることもある。
部分を持たないのだからmagnitudeもない。
そして、「位置」もない。
ユークリッド原論で気をつけねばならないことは、あくまでも幾何学であるということ。
暗黙のうちに「空間」が入り込んでいる。
ここは哲学なのだから、「空間」なんてなくてよい。
「点」だけがある。 「点」の位置は「点」に還元されるのでいまのところ意味はない。
「空間」や「時間」があったとしても、それも「点」に還元される。
0次元球面は2点とrを持っている。
そうすると、ただの「点」は0次元球体なのか、というと、それもおかしい。
「存在」するためには同一性が必要であり、それを自前で整えるには「点」という概念だけでは足りない。
「点」は自分で自分を考えねばならない。ある意味、「球体」ではなく「球面」でなけれならないのだ、と考えてみる。
0次元ですらない「球面」を「混沌」とすれば、「混沌」は「球面」である。
そして、このなんだかよくわからない混沌の球面はevent horizonである。
とくに重力などは必要ではなく、点であるということがevent horizonなのである。
飛びすぎてはいるが、とりあえず、そう考えてみる。
event horizonのみがある。 event horizonはoperatorである。
そして、このoperator自身が「場」でもある。
点場自身であるoperatorが0次元球面(2つの0次元球体とr)をつくる。
つくる、というより、「同じもの」である。「変化」ではない。
(「つくる」もしくは「因果」や「変化」は、考えているわれわれの側に属する虚像である)
究極の素粒子ultimate black hole。
(クトゥルフ的には「アザトース」)
単数か複数かなどということには意味はないので、大文字でUBHとでも呼んでおこう。
われわれが考えられること、そして考えることすらできないものを含めて、そのすべてはUBHそのものである。
「無」すらもUBHである。
究極の「嘘つき文」でもあるが、それは「ゲーデル文」という枠組みにも収まらない。
UBHは、常に、UBHであることを否定する。
あらゆるものを否定し、否定すらも否定する。
語ることすらできないのでは困るので、とりあえず、正しい姿ではないが、
UBHを究極の否定operatorとして考える。21世紀の現時点では、これが限界だろう。 排中律
物理としては、であって、ではない
つまり決定不能
それを、であるで理解する
わたしという規定は運動変化する物理の否定
つまり非同一を同一で理解する
非同一を同一で、規定は否定
排中律は規定
排中律は否定
AはA→否定
物理対象は運動変化する
それを否定で規定する
つまり決定不能
静止は存在しない、つまり自然は無矛盾、理解可能
理解可能だが規定は否定だから決定不能
うーん、詰めがまだかな UBHは、「絶対者」(あるいは神)より上位?の存在である。
UBHの前では神すらもただのゴミのようだ。
そして、外延性の公理から考えるなら、UBHはただひとつである。
語ってしまうと、それも否定されてしまうので、正しく語るなどということはできない
UBHは「何もなく」かつ「すべてがある」。
その「すべてのなかのなにものか」によって(正しくはないが)語ることはできる。
それが「主観」。なにものかの「主観」によってしか語れない。
「主観」としての「存在」。どのようにすればそれが得られるか考え中。 >>824
セリーヌは、スターリンがコケ脅しの案山子のようなものだと
言っていたが、その真偽がどうであれ、バディウとかも
普通にただの藁人形だろうw 詰めが甘いのは承知で・・・精査頼む
まずエッジを2つの開点○○とすれば、ノードは○○○である。
たいした意味はないと思えるだろうが、わたしにとっては大きな意味を持つ。
ノードとは閉点と開点●○である。
ここで、○○=●とするならば、もうひとつの宇宙(ノードを●●●とする)がある。
もう結論をだしてしまう。自然とは対生成と対消滅は独立した事象ではない、と考えられる。 ●○である。
あとは、ライフゲームでいうところのそれ以前に混沌があるというより、これそのものが混沌でもある。
人工自然は人工自然ゲームだ。グライダーのようなものができればよい。 >>830
まず心とは何か?
心は怒る。慈しむ。愛する。恥ずかしがる。つまり感情を持つというこだ。
感情とはそのような感情的反応の集合体だ。
だから感情的反応を集合すれば心が出来上がる。これは比較的簡単に可能だ。
機能させるところの主体が必要になる。つまり人を作り出さなくてはならない。←重要
しかし例えば「恥ずかしがる」ということを考えてみる。
もう少し具体的にはこの状況を再現するにはその主な主体となるマンコがどうしても必要になる。
手で覆い隠すという必然がない。という状況が考えられる。
マンコがなければ恥ずかしがって女性のパンツを下すと恥ずかしがる。
ここまで考察してみると容易にわかることだが、心を作り出すには心を実際に、半導体からやわらかいマンコを持った人を作りだすことができるだろうか?
そこが一番難しい気がする。 ラズベリーパイ買ったけど、なんか遊べないかな
複数のラズベリーパイでスーパーコンピューターを作るっていう本があるけど、
数と計算能力の間に双対性があるんじゃないかとか考えてる
数の計算能力ではなく、計算能力の数を考える
計算能力を1として、自身について計算すると、1に戻る
自然数生成アルゴリズムを自然数として、自身についてアルゴリズムを実行すると、自然数に戻る
あるいは、無限個の計算機の上のゼータ関数は、一つの計算機になっているとか 荒らしにカントの有名な格言を送る
“物事を明確に書き記したいときには、まず考えを明確にせよ。崇高なものを書くためには、他の人が平和に集ってるところに持ってない人が大暴れたしりしない。まず崇高な心を手に入れよ。
乗り込んでそんなことが出来る最低限の優しさも自分以外の他の誰かを大切に思ったり大切に思われたりなんて最低限の優しさが分かるはずない” 0次元球面と0次元球体を、なんらかの符号違いなだけで同じものであると考える。
0次元反球面=0次元正球体
これは、超対称性なのではないか。おもいつきだが、正しいかもしれないので検証中。 ニックボストロムのスーパーインテリジェンスって本にペーパークリップを上手く利用すれば世界になるんじゃね
人間を利用しなければ反出生主義の生産することだけに全てを費やすAIという悲惨な未来な話があったけど フロイトのエスとかニーチェ由来だもんな
ただ、精神分析が無かったときに、精神分析が関心を示すような事柄を扱った哲学を、精神分析が後で自分のために参照するのは分かるんだよ
けど、もう精神分析があるのに、哲学を参照したり、あるいは、哲学が精神分析を参照したりするのはどうなのかね?
東浩紀とか千葉雅也でも誰でも良いけど、ラカンを取り上げる章になると途端につまらなくなるの何故だろうね
知的探求じゃなく、箔付けや思考の図式的な整理のために使ってるだけという作者の意図が透けて見えるからだろうね UBHをみている主観。
主観からみたUBHの第0形態は「点」。
部分もなく位置もないのだが、
外部と内部を持ちうるか、という問題を考えている。
もちろん、「点」しかなく、外部にも内部にも「空間」のようなものはない。
この「点」をevent horizonとするのならば、区切りとして機能するのではないか。
内部と外部の区別があるのならば、裏返ることも可能だ。
なんらかの「主観」があるのあるのならば、外部/内部は必然的ともいえるのだが、
「主観」はどこから湧いて出たのかw
外部/内部は必須なのではないか。だからこそUBHと名付けたわけでもある。 有/無/不在
有が不在であれば無であり、
有が無ければ不在であり、
無が不在であれば有であり、
無が有れば不在であり、
不在が有れば無であり、
不在が無ければ有である。 UBHというevent horizonはロータリーエンジンである。
UBHという否定operatorは三体あるいは三状態からなる。
三神一体のoperator(トリムールティ)だw 2状態をもつ2つの粒子のテンソル積をとれば4面体がつくれて、
対向する辺は3組ある。
3はつくれる。2状態も内側/外側でなんとかなる。
しかし、1点しかないのだ。
そこをなんとかするために、究極のブラックホールという設定を最初から仕込んであるw
非標準的な手法(チート)が使える。 自然は有
有を無、次元で理解する
無は自然の否定
自然科学だから、無、自然の否定が「自然」に存在するはずも「無」し
極めて単純 自然が「有」だとすれば保存則を満たさない。そう考える。
さて、UBHは部分を持たない「点」だとすると、それはどういう「点」か。
空間は無いにしても、外部/内部となるような「境界」を持ち得るのかどうか。
細かい説明は先送りするとして、結論だけ述べるなら、
UBHという「点」は「●○」である。
この2つのペアで、「点」である。
少しだけ意味を持たせてしまうなら、●は「有」、○は「無」。
そして、そこにはみえていない「不在」がある。
event horizonとしての3つ巴の存在である。
しかし、「●○」では2つしか表現できていないようにみえる。
明確に3つ目を付け加えるなら「●|○」か? UBHは0次元より前段階にあるのか、と考えてみたが、考え抜いた末に0次元である、ということに落ち着いた。
−1次元は反転した一次元でよいとしても、+0次元、-0次元も考えてみたが、しっくりこなかった。
0次元球面を●●としたとき、これは●|○と等価である。
UBHは0次元球面である。ただし、究極の0次元球面である。
ただし、視点(主観)は●の側にあるとして、自分自身をみたのがUBHである。
○側からみれば、SBH(supreme black hole、至高のブラックホール)である。 UBHは0次元球面だが、これを一次元球面で考えてみる。
一次元球面は「円」を想像しよう。
究極なので半径rは無限大だ。
そうなると円の曲率は0になり、多様体とするならば、どの点(位置)でも無限長の直線のようなものになる。
どこをとっても同じなので、外延性の公理から、直線はただひとつである。
その両端はopenであり、一次元球面から一点取り除いた一次元球体となる。
両端がopenならば、取り除いた点をどちらかに置くことができる。
そいういうわけで、究極の一次元球面=半開区間の一次元球体、となる。
(非標準な無限遠点を片方に置く)
ちょっと雑だが、そのような感じ。
これを0次元球面に戻すと、
2点の片方を無限遠点として取り除く。
それが●○だ。
一次元では無限遠点を片方に戻せたが、0次元ではそうはいかない。
無限遠点は無限遠方にある、のだが、大きさなど無いのだ。
これはevent horizonを越えた、もうひとつの●○が、そこにある、ということ。
これで二面性を持つ2粒子(●○x2)ができたので四面体がつくれる。 というわけで、UBHは四面体であるw
さらに考えを進めれば、これは五胞体でもある。
低次元微分トポロジーから考えれば、なんらかのリープ機構がないと、その上の構造にはたどり着けず、
五胞体は、並進対称性の情報をつくりだし、それが3+1次元として投影される。
とりあえず、そのようなシナリオを想定。
UBHそのものに「変化」や「因果」はない。
「変化」は「因果」のためには「主観」が必要なのだ。
UBHという謎な「場」の中に、夢見るもの(主観)があらわれる。 UBHの「場」とはbrane worldである。M理論だ。
ということは、「主観」とは「振動するひも」なのかな。
てことは、「振動するひも」がCCNOTかCSWAPとして機能するはず。 数は自然にはない
否定という数で理解しているだけ
時間、重力で運動を
他の力は生成理解
極めて単純
全てエネルギーの形態 生死は物理としては実在しない
静止もまた
終始もまた 「否定」とはなにか、ということで、これを「無限遠点」と考える。
「●」の無限遠点が「○」であり、この2つがセットで「点」である。
この「●○」が「点」であるとすると、この「点」に対しても「無限遠点」がある。
そうなると、これはビッグバンであるw
これはいわゆる「斥力」を抽象化したようなものだ、
これに対する「否定・無限遠点」もあり、それが「引力」を抽象化したものになる。
「重力」とは「ビッグバン」の置土産である。
このような機構を考えるなら、そのようなことを引き起こさせるものが必要であり、
それのような機構をとりあえず「エンジン」と呼ぶ。
そのような「エンジン」を考えるなら、「有・無・不在」の三つ巴によるロータリーエンジンだw
これは「主観」による「夢見るエンジン」だ。
このエンジンの中に「主観」が宿る。
「主観」は、「エンジン」自体が不変であり、「主観」自身も不変であるとし、
「エンジン」と「主観」の間に整合性を保つための「幻想」をつくりあげる。 主観と幻想世界とエンジンをパイプラインでつなぐ。
主観|幻想世界|エンジン
逆流しないでループするとすれば、帰還は
エンジン|(反)幻想世界|主観
われわれの世界=幻想世界/反幻想世界
そしてわれわれは、この幻想世界を現実世界とみなし、反幻想世界を幻想世界であるとみなす。
これを、マルクスに主義に汚されるまえのヘーゲルの弁証法で考えるなら、
幻想世界(正)/反幻想世界(反)=われわれの世界(合)
である。■ む、よけいな「に」が湧いてしまた。
「に」、すなわち、「対象なき『射』」であろう。
「対象なき『射』」が、幻想としての対象をつくりあげる。 「対象なき『射』」。
↑と書いたとしてもその両端に対象が必要だ。
bodyがあるとすれば自分自身のbodyから出発して自分自身のbodyに戻る。
これを図示するならば、∞である。
始点と終点が同じでないならば、○ー○であったり、θであったりする。
body(にmagnitudeが)がないのであれば、「・」である。
この「・」が有でも無でもないとするならば、それは「否定operator」である。
これを「対象なき『射』」の正体とする。
「否定operator」とそれの否定の「否定・否定operator」、さらに否定した「否定・否定・否定operator」。
なぜか4つめの「否定・否定・否定・否定operator」は存在しない。
4つめで分岐してしまう。 否定を0とする。
0・0=1
否定の否定を1とする。
1・1=0・1・0
否定の否定の否定の否定を0・1・0とする。
(否定の否定の次は否定の否定の否定ではなく、否定の否定の否定の否定であった。
なぜなら、否定の否定になった時点で否定は否定の否定になっているため、否定単独は存在しないので適用できない)
これをさらに否定の否定の否定の否定すると、
0・1・0・0・1・0=0・1・1・1・0=0・0・1・0・1・0=1・1・0・1・0=1・1・1・1
なんだかおもしろい。
落ち着かないため、振動が発生する。
この先も考えたいが、だんだん面倒くさくなってくるw
ちょいと紙にでも書きだして検証してみるか。 ループしているとみなしたとき、
1・1=0・1・0
の時点で、すでに振動が発生している。
0・1・0は1/2だけ位相のずれた0・0・1=1・1=0である。
否定である0は位相を変えるが、2パターンでは逆戻りもある。
しかし、否定の否定の否定の否定であれば...回転できる!
否定エンジンが完成したw UBHによる否定エンジンが「自然」である。
だがこれは、エンジンとしての自然であり、
主観からの幻想としての自然ではない。
「主観」とは、「波」の一点が自己を基準とした「天動説w」のことである。
このばあい、「地動説w」といっても違いはないのである。
どちらの場合でも「基準」は「主観」であり、
すなわち、「主観」とは「基準」のことである。そう考えてみる。 よその板で考えた。
「主観」とは「自然現象」である。
なにか(自己)を「基準」として「主観」的世界を構築してしまう、
ということ自体は、「自然現象」であるw
これを簡単に「自己」と呼ぶのであれば、「自己とは自然現象」である。
そして、「自己」とはUBHと同じようなものであり、これも否定operatorである。
「自己」は、マイクロエンジンとして機能する。
UBHという夢見るエンジンの中の夢である「自己」という夢見るエンジン。
夢の中の夢、あるいは、幻想の中の幻想。
そのような幻想の幻想として「時間」がある。 ユング ego self図とか 0次元的かも
隆明氏の3幻想、ラカンのボロメオなども同種か わたしという自己言及表現は物理として二人存在しない
つまり物理としては一元です
前に説明した観念的な自己分裂です
光速度一定の原理は認識するのに必要な座標原点、静止の実在を否定する
つまり自然は運動し、静止は実在しないから、無矛盾、一元です
それを静止という座標原点、つまり実在しない観念存在で理解する。
わたしが二人実在しないこととおなじです
対象は実在、認識は観念です
科学は認識主体が認識対象の一部、つまり特別な何も実在しないことを示し続けている
地動説、進化論
光速度一定の原理はパルメニデス自然観を支持する
たしかに認識するには主体、対象が必要です
しかし主体は自然の一部で自己言及です
つまりわたしは物理としては二人いないが、観念として他者、つまり実在と非実在、有と無、運動と静止ということです >>860
金本位制度に代わる管理通貨制度探せば良いかな 認識には二元が必要です
自然を非自然、静止という非実在で理解する
つまり自然自体は一元というパルメニデスの自然観 一元論を「点」とすれば、それは部分を持たず、なんらのmagnitudeも持たず、外部も内部もない。
それゆえにそれは「(絶対)無」であり、一元論=0元論、ということになってしまう。
絶対無である0元であっても、それがevent horizonであり、無限のrを持つものであれば、
半径r=0=無限の2元(点)となりうる。
UBHの正体は、一元論=0元論(絶対無)=二元論、として、すべてを同じものにするということだ。
これを「自然」とするのであれば、認識という二元論的世界も、(人間など必要なく)「自然現象」なのである。
一元論と二元論、さらには絶対無を含めて、それらを「区別」するのは「無意味」だ。同じものである。
(ただし、「無意味」という「意味」は「有意味」であるw、これも自然現象だ)
そして、UBHは、「自然現象」を担う「意味場」を提供する。
西田哲学における「絶対矛盾」を、=「自然」として「UBH」がある。
UBHから3を引き出すことでヘーゲルの弁証法にも接続できる。
UBHから5を引き出すことでホログラフィック宇宙論にも接続できる。
(ただし、これらは「人工自然」という「宇宙」(=議論領域)での話である。
ここから予言されるものが、現実世界で実証されることなど意図しないw) 宇宙という議論領域において、「点」しかないと語ったとき、
その「点」は「(絶対)無」と等価である。
本来ならば、議論領域にも持ってこれないものが絶対無であろうが、
持ってこれるとか持ってこれないなどという類のものであれば、それは絶対無ではない。
第一の「嘘つき文」となるのが「絶対無」である。 少なくとも、何かは「ある」。それゆえに「絶対無」は存在しない。
隔離された宇宙に「絶対無」を想定した場合、「点」として想定せざるを得ない。
その「点」が隔離された宇宙そのものである場合、「点」は存在すると同時に存在しない。
(時間もないのだから「同時」というのもおかしいが、そこは「同時」というものを抽象化したものだと考える)
しかし、この「存在」は、隔離された宇宙の外から与えられたものであり、
隔離された宇宙内部で「点」の存在を語れるものはない。
「無」である。 われわれは、その「点」を考えることはできるが、
「点」の側(「無」だけどね)からは外部へアクセスすることはできない。
(「無」なのだからなにもできないw)
もちろん、「無」なのだから、外部から内部へ何かを送ることもできない。
これは双方から見ても同等なevent horizonである。
同等なのだから、曲率は0だ。
曲率0のブラックホールを考えると、無限の半径を持つことになる。
大きさなどないのだから、無限=0である(≡ではない)。
これをUBHとする。 このUBHは0次元曲面である。標準的には2つの点だ。
しかし、r=∞である。(0次元球面にも半径がある)
2つの点のうちひとつを無限遠点とする。
そこで、一つを●、無限遠点側を○として表す。
大きさなどない宇宙なのだから、r=0でもある。
●と○をr=0で表現したいが、めんどくさいので(大きさなどないという前提で)
●○とペア/セットで表す。
UBHは部分を持たないが、2つの状態の重ね合わせである。
「無」であるということは、量子ビットと同じである。
観測するものがいないのであれば、「無」は「量子ビット」と同じものになるw
いわゆる、爆発律であり、UBHは「爆発」しているw 0次元球面としたのは、保存則をみたすためである。
無限遠方の点はどこにいったのか。
といえば、event horizonの反対側だ。大きさなどないのだから、同じところにあるともいえる。
そそれを含めて●○と表記した。event horizonも表記するのであれば●|○となる。
☯でもよいのだが、それは「主観」側からみたものであると考える。
主観を実装できれば、TAOオートマトンがつくれるだろうw
主観が「嘘つき文」を実行する。
主観とは同一性を持ったゆらぎである。ゆらぎの淀み? 「隔離された宇宙」。考えてみるとかなりおもしろい存在だ。
ブラックホールといっているのは、単にインパクト狙いであって、
非重力系ブラックホールである。重力起因ではないevent horizon。
われわれの世界の中で「隔離された宇宙」とは、event horizonの向こう側である。
こちら側からは脱出できない曲率をもった外側にある。
こちら側から「隔離された宇宙」へはなにも送り込めないが、「隔離された宇宙」側からは
こちら側へ情報がやってきてもよい。
ただし、アクティブな探索はできない。パッシブのみだ。
もっとも、「隔離された宇宙」側は閉じているので、こちら側にやってくるものは「ない」。
異なる曲率のevent horizonを貼り合わせることは可能なのか? 可能だとしてもその隙間にタイヒミュラー空間がありそうだ。
UBHは曲率0のevent horizonを持つ、と、想定している。
曲率0のevent horizonを持つものが量子ビットであり、それがUBHだ。
哲学とは量子ビットをめぐる物語(=スピン)である。 また、よその板で考えた。
「量子ビット文学宇宙論」(世界論でも自然論でもよい)
本日は休みにして通院。入り口で検温された。
(サイボーグ体なので定期的に検査中)
「無」とはP∧¬Pのことである。
これが正しい「無」の姿だ。
そして、これが量子ビットとして機能することで「文学」する。 P∧¬Pを爆発律としたとき、
いろいろな論文をあたってみたが、いまひとつおかしい。
勝手によけいなものが入り込んでいる。
それを取り払うことが必要だ。
爆発律とは、なんでも証明できてしまう、というようなことと考えたとしても、
その「なんでも」なんてものは、そこには「ない」のだ。
うみださねばならないが、うみだすということはどういうことか、と考えたすえに、
「記述」にたどりついた。それゆえに「文学」である。
文学という行為は記述するという行為である。
記述されなければ「読む」こともできないし、「誤読」すらできない。
そうなってくると、「誤読」に対応する記述側のなにかも必要だろう。
「誤記」?
「誤記」は可能か、と考えるなら、「読む」ことなしに「誤記」はできないだろう。
「転写」ではないのだから。
なにを考えているのかというと、爆発律はいかにして爆発するか、ということ。
秩序ある爆発w
それは秩序としてのカオス。カオスは無秩序ではない。
などとくだらないことを考えながら寝よう。 有/無/不在
不在は否定としてもよいだろう。
有の否定が無であり、
無の否定が有であり、
有が無いのが否定であり、
無が有るのも否定であり、
などとしていくと、
否定が有るのが無で、否定が無いのが有になる。
最後の2つは少し苦しいようにも思えるが、気にしないw 有/無/否定を3つのoperatorとする。
この3つを頂点とした三角形をつくると、
頂点に対向する辺が、その両端の頂点を結ぶoperatorである。
この考えで、四面体や五胞体の辺をoperatorとみなすこともできる。
この三角形を2つ貼り合わせて、ひとつの頂点を2つに分けて辺を一つ追加すれば四面体ができる。
2つ必要なのかというと、三角形の角度など無視して、とりあえず内側と外側の三角形があるのだ、
と考えれば、三角形は「最初から」2つあるのだw
もともと2つの三角形が貼り合わされている!
この2つの三角形が、曲率(角度)違いで貼り合わされているとすれば、
そこにはタイヒミュラー空間を想定できる。
タイヒミュラー空間さえあれば、時空間(のようなもの)などつくれてしまうのだ。 数学的には、非標準なものを想定する。
無限大とか無限小の存在ではなく、ε-δ的 なもの。
それは、もやは論法ではなく(幻想としての)「存在」をつくるものである。
標準的な数と非標準的なものを逆転させる。
「数」とは「主観」による「幻想」である。
さて、先送りしていた「主観」は、●○の●であると思いついた。
●が「主観」であり「基準」である。天動説でも地動説でも●が基準となる。
UBHにおいて、●からみた「時間」をつくればよいのだ。(人工時間の話です) ε-δとは、すべてのεと、あるδの物語である。
●○で考えると、●がδのようにも思えるが、
常識とは逆で、
●がεで○がδであろう。
●○は、表記上の問題から2つだが、このペアでひとつであり、closed-openな(ひとつの)pointである。
線のない半直線だw
これがε-δとして幻想の世界をつくりだす。時間もそこにある。 直線ではなく点なのだから、
closed-openな点は、半直線ではなく「半点」である。
もう半分はevent horizonの向こう側にある/いる。
この2つ(片方がε、もう片方がδ)の間に(幻想としての)世界が作られる。
非標準的世界こそがわれわれの世界である。
そう考えていくと、「無(=矛盾)」自身がevent horizon上に情報を書き込んでいる。
いや、event horizonそのものが「無(=矛盾)」によってつくられている情報である。
event horizonそのものが非標準なものであり、非標準な情報である。
ビットというものは非標準情報単位なのかもしれない。
非標準論理学。うーん。いままで語ったすべてを統合できそうな気がしないでもない。
様相論理は非標準論理からみれば、手ぬるい。基礎からつくりなおしてみるか。
closed-openな半点が2つあればよいのだ。
そして半点はスピン1/2を持っている。 うー、超冪がみえてきた。
どんどん数学的にめんどうになってくる。
もすこし現物として単純なものを考えるか。
ま、非標準論理による非標準哲学あたりでよいだろう。
手当たりしだいに考え続け、検索し続けてやっとInternal set theoryにたどりついた。
で、わくわくしながらInternal set theoryをひろげてみると、ε-δじゃねーか。
論理的には同じものだ。
公理的集合論が中途半端に回避したものを、少しだけ取り戻したもの。 ま、ε-δとは、位相空間論そのものでもある。
とりあえずInternal set theoryを点検しながら、非標準論理を考える。
実無限の論理。4次元球面上の論理だったりして(直感)。
この直感を信じるなら、とりあえず0次元球面上の論理から考えていけば非標準論理にたどりつけるだろう。 「無限小」を語る。語ることは可能だ。
しかし、語るということが「存在」であるとするならば、
実数の意味場において「無限小」を語り、それが「存在」することになってしまうと、
その「無限小」より小さな「無限小」もまた「存在」してしまう。
なんというか、この矛はどんな盾でも突き破るといっているのと同じだ。すなわち「矛盾」。
これを解決するには「意味場」を変えてやることである。
意味場が異なれば矛盾は生じないw
というわけで、「時間」も矛盾解消のための(位相を持つ?)「意味場」である。
自己言及というものも、ひとつの意味場の中ではなく、貼り合わされた意味場の中であればよい。
ひとつでありながら、言及される側と言及する側という二面性をもっている。
この二面を貼り合わせて...リーマン面か... limitにおいて、convergeでなくdivergeでもなければoscillateである。
半点は収束も発散もしない/できない。
では、極限とは、この場合、なんなのか。
とりあえずevent horizonが関係するとする。
P∧¬P
記法上の問題ではなく、Pが2つ記述されるということは異なるということであり、
Pが部分を持たないとするなら、
P∧P
と書いても同じである。
それは0次元球面の式ともなりうる。
そして、それが「存在」するということは「矛盾」である。
「∧」を「=」に置き換えれば、収束であり、
「∧」を「≠」に置き換えれば、発散である。
そうすると、「∧」で結ばれているとき、振動である。 「振動」といっても、時空間も「ない」ので、量子論的な「重ね合わせ」である。 Internal set theory(IST)を日本語にすれば「内部集合論」であろうか。
これを「内包」と考えるなら、「内包集合論」である。
「内包論理」というものもある。様相論理は内包論理の一種である。
そして内包性の公理はclassをうみだした(いいすぎだが、気にしない)。
classがないと各種の集合論的パラドックスにみまわれるw 1.この世界がある以上、真の「絶対無」は存在しない/できない。
2.この世界における一般的な「有」および「無」とは「否定operator」である。
有/無/否定の三者は、どれか2つあれば残りのひとつが得られる。
二者しかいないのに三者にみえる。
単純に考えれば、この二者しかいないものというのは、量子ビットである。
というわけで「量子ビット」を実在とする。
そこから人工時間(人工自然)を再スタートさせる。
戸田山の『哲学入門』の量子ビット版である。
この世界は(古典ビット換算で)1ビット分の情報量しかない。
☯である。
(ただし、古典ビットに換算するためには観測者が必要であることに留意しなければならない) 自然が静止を否定し、論理は自然に実在しないことを示した
双方無矛盾
自然は有、論理は無
規定は否定
故に決定不能 自然に対しては「わたし」は同一を非同一で、また自己に対しては非同一を同一で規定する。
ウィルスと生死分類は同一を否定で規定するからヌエテキに 一次元球体を一点で切断すると、●−○になるが、
一次元球体から●をひとつ取ると○−○である。
両端が閉じていれば、●−●になる。
一次元球体といっても3種類はある。
二次元球体となると、わけがわからん。
では、0次元球体はどうなるか。
0次元球面を●●と考えるなら、
0次元球体は●と○の二種類なのか?
何をやろうとしているのかというと、ここから人工時間を作ろうとしている。
より現実?に近いものになるためには超対称性変換や並進対称性が必要になるはずだが、
人工時間なので、「そうではない」時間だってつくれるだろう、ということ。
時間とは何か、という探求の一端である。 う、一番最初の「一次元球体」は「一次元球面」の間違い。
だんだんわけがわからなくなってくる。(低次元超球体(超球面)の話だ)
「矛盾としての無」あるいは「混沌」は、保存則からみれば、
0次元球面であろうと考える。(符号の異なる2つの●だ)
0次元球面の2つの●の間にもrがある。
ただし、大きさも部分もないのだから、rとして考えられるのは、
常識的なわれわれからみればr=0しかない。
しかし、それではなにもできない。
r=0,∞ の2値があると考えてみる。
r=0では2つの●は重なりあってしまい、区別ができないのに球面である。
r=∞では片方の●からみてもう一方の●は無限遠方にあり、片方はあるのに「ない」という状態だ。
r=∞の状態を片方の主観からみて●○と表した。
∞をへだてた、もう一方の主観側にも●○があるが、片方の主観からはみえない。
間に∞があったとしても●○x2はペアを組んで四面体になる。
そうすれば、∞をまたがる辺や面がある。これをpropertiesとする。
このpropertiesを片側だけで解決しようとすると、片側に幻想としての時空間のようなものがあらわれる。
さて、この(片側だけで)「解決しようとする」ものはなんなのか。
と、考えれば、それは「保存則」しかないだろう。
「保存則」の亡霊が「主観」なのだw
このような状態を人工的につくるのであれば、二重拘束状態であろうか。
2つの「must」を巧妙につくりあげねばならない。
2つの「must」がどうやってできたのかは、次世紀に送るとして、
この「狂気」がどうやって「幻想」をつくりあげられたのか、問題はそこだ。 「狂気」が「狂気」をうみだすとすれば、この世界は「狂気」からできている。
「幻想」から「狂気」へと、言葉が強くなりすぎたw
もすこし柔らかく「フリップフロップ(FF)」にしておこう。
FFがFFをうみだせればよい。しかし、そこに時間因子はない、それも自発的につくりだせねばならない。
かなり難問だ。
あるのは0と∞と保存則だけか?
これを収束・発散・振動とすれば、時空間(と物質)の正体は「保存則」?
Pの値が決まらなければならない、ということと、P∧¬Pでなければならない、
という二重拘束か?
P≠¬P、P=¬P
P=P、P≠P のほうがいいかな。
もうすこし煮詰めれば非標準論理になるかな。 自然は次元の実在の否定で自身と数学が無矛盾であることを示すさ 超越的あるいは超越論的。
超越的論理から超越論的論理へ。
となると、関わり方も非標準論理に取り込まなくてはならない。
まず、自然が保存則をみたさねばならない、ということは公理的である。
それならば、「保存則」自身が進化していくとしてもよいだろう。
「保存則」をおびやかすものは...「保存則」自身だ。
そのために必要なものは...∞という三途の川。
無限遠方にあるものとの間に保存則が成り立たねばならない。
対称性がなければならないのに、なんらかの事情で超対称性しか得られないとすれば...
そんな感じのものをモデル化できれば... は! f->g->h か。なんらかの事情で三角形ができる。
「なんらかの事情」。それが問題だ。 カントですら18世紀に超越論的哲学に到達しているというのに、
21世紀にもなって差異を否定で、とか、規定とか...
なにゆえに後戻りするのか。マルクス主義的痴呆だというのなら納得するが。 エンゲルスの不可知論批判
反デューリング論でしたか、どうも理解できなかった。
あれは創発性理解の鍵かなと今では思えます。
不可知論はある意味正しい。
あっ、フォイエルバッハ論かな
調べるか 理解すること自身が理解不能の原因
ウィルスなどのヌエ
静止、生死等々
自然自体の存在理由はない
理由は理解するから
理解自体もまた理解できない?
何故理解できるかは理解できない・・・←ここがまだ理解できないなあ >>900
> 理解すること自身が理解不能の原因
> ウィルスなどのヌエ
> 静止、生死等々
ここは運動か 人間(および「物」)を想定するからおかしくなるのであって、
「理解」とは保存則の問題である。
なんらかの遮断/障壁によって「幻想」的なものがうみだされる。
第一原理として(漠然とした)保存則を考えるなら、
なんらかの障壁が核となって、この宇宙が(幻想的に)存在する。
その「障壁」を、0次元球面における「r=∞」と想定して宇宙方程式を考え中。
これを量子ビットと考えるなら、量子コンピュータ内に「宇宙」をつくれる。
それが人工宇宙/人工自然/人工時間の構想。 ただし、量子状態であるため、「観測」すると壊れるかもしれない。
その内部の主観的存在の宇宙なのか?
ええっと、ああそうだ。
確率的に取り出してマッピングするしかない。
これはモンティ・ホール問題の、モンティ・ホール(司会者またはスタッフ)を含めた解に近い。
ということは、とりあえずモンティ・ホール問題の非標準解を先に考えてみよう。 司会者のモンティ・ホールが3つの扉の中で正解を知っているのかどうか、
ということだけが解釈の鍵ではない。
1.扉は3つに限定
2.扉をひとつ選択するのはあなた
ここまではよいが、
3.司会者はどの扉が正解なのか知っている
4.正解は1つ
3と4はあやしい。
・あなたは扉をひとつ選ぶ
そうすると、モンティ・ホールが残りの扉のどちらかを開ける。
5.モンティ・ホールは3を満たさず、彼の思うままに扉をひとつ開ける。
6.モンティ・ホールは3を満たし、正解のほうを開ける。
7.モンティ・ホールは3を満たし、不正解のほうを開ける。
さらには、
8.正解は0。
9.正解は2。
10.ショーの途中で世界が消滅する。
このようなことまで考えたうえで、可能な事象でゲームに影響するものだけを抽出しなければならない。 なんらかの外部的な事情によってショーが中断することはない、という前提にする。
つまり、われわれは、そのような前提の中で確率を割り出すのである。
これはひとつの確率「系」と呼べるものかもしれない。
この「系」は外部と、確率のやりとりはない。
1.扉は3つ
2.登場人物は司会者と解答者のみ。スタッフは除外
3.正解(賞品)は1つ?
1については明確に(登場人物の)誰でもわかることであり、隠し扉などはないとするw
3の情報を誰が知っているのか。司会者すら知らないということもありうる。
どの扉が正解かはランダムとする。
3は、かなりの問題だ。0から無限個wまで考えうる。
賞品が無限個あったとしても扉は3つしかないのだから、0〜3ということでよいのだろうか?
これは難題だ。
分配を誰かが采配するのでなければ、それもランダムである。
無限個あるならば、どの扉も正解となる確率は高く(大きく?)なる。
この場合の賞品配分の確率はどうなるのだろうか? 無限前提ではないが、無限もありうるのだ。
モンティ・ホール問題どころか賞品配分問題になってしまた。 賞品の数がわからないのではどうしようもない。
ここは限定しなければならない。
扉には正解と不正解がなければならないだろう。
すべて正解とかすべて不正解は「ない」。
いや、すべて正解とすべて不正解から考えていくべきだろう。
正解と不正解がなければならない「理由」はないのだから。 「時間」が「ある」のだとすれば、「時間」が「ある」べき「理由」がなければならない。
この場合の「理由」が、「因果関係」とは別物だとするならば、それはなんなのか。
ともかく、いまのところ「保存則」「障壁」の2つしかみとめない。
そうなると、「理由」はこの2つにある。
少しヘンかもしれないが、「理由」を加えてしまう。
「保存則」「障壁」「理由」の三者。
この三者が得られた。モンティ・ホールに戻って三者を活用してみよう。
うまくいくかどうかは不明だがw
一般的なモンティ・ホール問題の解は、「ショー」であるという前提で、
賞品を得られる確率として、
0,1/3,1/2,2/3,1のどれかである、ただし、確率1については裁判が必要となるだろうw 確率0は、ショーに不正があったときであり、
確率1は、不正があってそれが暴かれて裁判に勝った時であるw
確率1/3は司会者が空の扉を開けたあと、選びなおさなかった場合、
確率2/3は、上記で、選びなおした場合である。
確率1/2は、司会者が答えを知らずに空の扉を開けた場合とされているが、
これにはまだまだ議論の余地がある。どこまでが場合の数になるのか不明だ。 量子論的に興味深いのは、
モンティ・ホール問題(の拡大解釈)の解で1/2になるとされている場合だ。
もし、司会者が正解の扉を開けてしまった場合、どのように解釈すべきなのか。
たとえ、司会者が正解を知っていたとしても正解を開ける可能性はあるw 前期ウィトゲンシュタインを唯「事象」論とすれば、
「事象」は確率1(起きてしまった)なのだから、
可能性の世界と合わせてその事象の確率を算出することになる。
因果関係が必要となり、そのために時空間や物というものがあるとするならば、
時空間や物以外のもので因果関係をつくってもよいだろう。
しかし、因果関係を否定すると、確率は算出できない。
「因果関係」という「幻想」。
これが「時間」をうみだしているが、「時間」という方法以外でもよい。
静的な「構造」ということでもよい。
ものではない、「保存則」「障壁」「理由」の三体問題である。
無・有・否定も、この三体に還元できる。この三体からうみだされた「幻想」のひとつだ。
「規定は否定」というものも、「幻想」である。
この三体の古典的な情報量は1ビットであり、
一元三面論=二元論
かもしれないが、三体を一元三面とする理由もまた幻想であり二元というのも幻想である。
いや、三体というものも幻想である。
ABCやαβγやRGBとしても、どれがどれというわけでもないので幻想である。
区別はできないけど、三体としての「関係」のみがある。
そう考えるなら、これが、最初の「対象なき射」であろう。
この「対象なき射」が自分自身を自己言及的に「対象」とする。
自分自身であるにもかかわらず、domain/codomainの2つの「対象」が得られる。
この2つを同一とすることが自己同一性(=「対象」)であるが、「射」自身によって分裂させれば2つの対象である。
●●、●○、○○の三者が揃った。分裂した対象/自己同一性としての対象/対象なき射。
この三形態に、はたして、区別をつけるべきものなのか、つけるべきではないのか、それが問題だ。
区別はつくが固定的な属性を持たず、入れ替え可能なのか。
もうすこしエレガントな表記にできないものか。このままでは固定的な属性をもっているようにみえてしまう。 これをひとつにして表記してしまおう。
☯
これは「陰陽」ではなく「三体」なのである。
やっと、買っておいた易経(周易)が役に立つ。
陰陽2つではなく、3つにすればよいのだ。 太極から両義に行くのはよい。ただし、陰と陽は固定の属性ではない。
自分を陽とするとき相手が陰であり、自分を陰とするとき相手は陽である。
四象において少陽・少陰は順序がなく同一とみなすなら、
太陽・太合・太陰の三象である。とりあえず、半々の状態を「合」とする。
そうすると八卦は四卦になる。
四卦は乾・離・坎・坤あたりが適当であろうか。
乾=天、離=火、坎=水、坤=地である。
これが四面体を構成するとすれば、4つの面や6つの辺ができる。
それらにも名称が必要だろう。
その次は、五胞体となるものだから...5つの四卦からなる...4次元的なもの...
想像...しづらい... 両義をつなぐものが太極であるとすれば、両義と太極で三角形を成し、
その辺は三象となる。
これが回転したり裏返ったりして太極と両義に再マッピングすると考えるなら、
三象のほうが根本的かもしれない。
再マッピングするとき辺と頂点が入れ替われば...もっと複雑な変換が可能であり、
これを超対称性と考えるなら...なんだかおもしろい。
1次元多様体は一般には2種類だが、Hausdorff性も必要になる、これも3つと考えることができないわけではない。
1ビットの情報というものも0/1だけではなく、それを区別する'/'が必要なのだ。
情報というものは'/'によって2値を得る。
これらをまとめて、最初から三象なのだと考えたほうがよいだろう。
ま、それがCausal dynamical triangulation(CDT)でもある。三象理論なのだw 「何故理解できるかは理解できない」
まず理解行為をする何か(とある中心点)が必要、場所(空間)概念
理解行為とは、必然偶然不定の関係した対象運動とその(中心)点の運動の同期化ではないか
何故理解できるのかは、同期化行為が不完全で差異が残存しズレているからでは
完全同期すると理解対象と同一化して場所概念が消失し理解不能かつ理解超越
理解超越は時間化に等しい
悟りたいのね 二値あるものを2つ組み合わせると3つである。
4つや6つというには情報が足りない。
これが3象。
しかし、唐突に2つあり、それを組み合わせるのはおかしい。
それを解決するチートは、最初から3象であるということ。 保存則/障壁/理由
3つ合わせて「対称性」でいいような気がしてきた。
無も有も対称性なのである。
三象から、なんとかCNOTゲートを引き出すことに成功した。
CCNOTかCSWAPがつくれれば完璧だ。
後は、これらが自己増殖の幻想をみればよい。
すべては「対称性」の「幻想」である。
主観の問題は先送りするとして、主観も客観もなく、
ただ「結晶世界」がある。「基準なき結晶世界」。
それは静的、かつ、動的である。
静的でも動的でもない。
一元論、かつ、多元論、である。
混沌というものも絶対無というものも、「基準なき結晶世界」の、とらえかたのひとつだ。
「空」にいたっては、0かつ∞の対称性である。
21世紀の哲学は「対称性哲学」でいいような気がする。 こうなったら、対称性を原理にしてしまおう。
であれば、量子論というものも対称性原理によって成り立っているのかもしれない
ここまでの結論:「時間」とは「対称性原理」によりうみだされた「幻想」である。
この対称性原理から「有/無/否定」や「保存則/境界/理由」がうみだされる。
それらは対称性原理のみえかたのひとつである。 つまり、「対称性原理」からさまざまな「三象」をひきださせる。
☯=「対称性原理」
両義ではなく、三象であり、三象が基準(あるいは障壁)+両義である。 語るもの。
対称性原理によって、対称性があるのだとすれば、
この対称性原理が語るものであり、語られるのは対称性である。
語るもの/語り/語られるもの
これも三象である。
とすれば、対称性原理が三象を語るのであって、語るということも三象である。
三象がそれぞれの基準を内包するものであれば、
対称性原理は三象という基準を語る、ということになる。
CDTの原理を求めるなら、対称性原理であろう。 陰陽は四象だけどな
両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず 0次元球面は1次元において滑らかに裏返すことができる。
1次元球面は2次元において滑らかに裏返すことはできない。
2次元球面は3次元において滑らかに裏返すことができる。
この、自由/不自由/自由の構造/階層が、「語り」である。
たくさんの三象が語られ、それらが貼り合わされることで
タイヒミュラー空間ができてしまう。
そして、このタイヒミュラー空間が物理量という「幻想」をうみだす。
途中の細々とした議論をふっとばして結論を急ぐなら、
この世界は、対称性原理によって語られた幻想世界である。
主観もしくはわれわれ、とは、対称性原理のルールに従った対称性原理の世界における、
μ対称性原理という、μアクターである。 四象が、そもそもおかしいのである。
●、○とするならば、その組み合わせは
●●、●○、○○の3つしかない。
明確な時空間(あるいは順序)がなければ、そうなる。
しかし、これをxnor/xorと考えてしまうと、二象になってしまい、両義とかわらなくなってしまう。
とするならば、量子論的世界では、●●と○○は区別できるということになる。
●と●●を区別すべきかどうか、ということは、まだわからない/先送りしている。
区別すべき、となるならば、そこに「スカラ」が現れてしまう。 「順序」と考えたが、これも少しおかしい。
前順序・半順序・前順序とあるが、
これ以外の順序があるはずだ。
「区別」と「順序」の間にあるもの。
それは「基準なき順序」であろうか。高階な区別? む、前順序・半順序・全順序だ。
しかし、捉える/捕らえることができなければ順序も区別もない。
そこが最大の問題かもしれない。 だからこそ、四象ではなく、量子論的事実から、三象になるわけですよ。
ただし、人間も自然の一部ですから、自然は順序も(幻想として)獲得できます。
「すべて」が自然の内部ですからねw そう考えていくと、「幻想」というものは「基準」がつくる「相対的」なものである。
「相対的」=「幻想」
三象そのものは、自然がうみだす「幻想」であり、3つのそれぞれが「基準」となる「相対的」なもの。
なにゆえに「幻想」などといっているのか、というと、
「現象」と書こうとして打ち間違えて「幻想」になったのが、気に入ったからw
フッサールにおける「現象」をすべて「幻想」に置き換えたらおもしろかったということが始まり。 「対称性原理」とは「幻想の原理」である。
21世紀の現在では、それは「混沌」ということでよいだろう。
哲学とは幻想学である。 主観と客観の射の向きを逆に考えていたことに気づく。
いや、主観からスタートするのは正しいのだが、
客観でないものを主観で捉えるロジックがうまく組めないでいた。
逆だったのだ。
ここまで考えてきた中でのすべての主観/基準をcodomain側に持ってくることで、
よいロジックが組めそうだ。(まだ検証はしていないがw)
ここでおもしろいことが起きる。
P∧¬P=ture を入れ替える。
true=P∧¬P
trueを「存在」とし、=を論理的帰結あたりにすれば、
「存在」のためには矛盾しなければならない、のである。
存在=矛盾
とても哲学的だ。 運動=今、重力
生成=他の諸力
自然は運動するエネルギーの濃淡の海 叡智界には存在しないが、感性界においては、存在の契機となるもののひとつ。 タイヒミュラー空間の理論が発表されたのは
1936年だが。
宇宙際タイヒミュラー理論のタイヒミュラー空間と同じものかどうかは知らないw
機能的には同じだろうけどね。 可微分多様体上の微分演算だとか擬等角写像だとか、難しい。
まあ、これがわかったところで時間の根源は解明できぬ。 タイヒミュラー空間を、単純に、異なる何かをなめらかに貼り合わせる
変換函数の集合と考える。
とすれば、「時間」もそこにある。 トポロジーとしてはおもしろいかもしれないですね。
強引に空間のしわやヨレを等質にする。
空間のないところに時間はないですから。
まあ、あるといえばあるんでしょう。 理系スレから
なかなか解りやすい
私の言っている事があなたに伝わっていません。
物質は運動します。私はそれを否定していません。
ただそれだけと言っています。
物質の運動の経過を人間が「時間」と表現したという事です。「時間」とはそれ以上でもそれ以下でもなく、人間がそう認識しているだけという事です。
時間に沿って物質が動くのではなく、時間という概念は物質の動きを測るためのただの尺度です。
これで理解できないなら多分伝えるのは無理です。 古代ギリシャは素朴な理解満載
進化論、地動説、集合論とかの原型がある
フロイトとか
その他多数 科学史の定式に、最初の素朴な見方は後世の形而上学的見方より正しい場合が多いとか有ったな 空間の前後は存在するなんて言わないよねw
貴方の前はわたしの後ろなんてことがあり得る
時間もまた前後があることになる
一時は0時の後で二時の前
現在は過去でもあり、未来でもある
さてさてw
時間は自然認識に必要だが存在するわけではない うーん、そこは「時間」ではなくて「時空間」でしょうな。
「運動」が存在するなら「時空間」も存在する。
「運動」すらも自然認識に必要だけど存在しない、のかも。
「存在」というものを「自己同一性をもつ」ということとすれば、
「運動」も「時間」も共通認識であり、(相対論的解釈は必要だが)「存在」である。 今しか存在しない
今=運動
自然は運動するエネルギーの濃淡
それを存在しない次元で理解する
運動は静止、つまり有は無で 物理学で解釈するにしても、原因と結果を伴うイベント(出来事、事象)が必要になるな
まぁ、そもそも事象とはなんぞやって話になってしまうが
時間とはあくまで概念上のもので、主体あるいは観測者がいないと成立しない
……と思う
ただ、主体なり観測者がいても不十分な気もするのよね
例えば、窓がなく時計もない無地の部屋(空間)で寝て起きて、
意識を失ってから覚醒するまでにどれだけの時間が経過したのかを
把握する方法は果たしてあるのだろうか
時間が経ったということだけはかろうじてわかるが…… いろいろ情報の断片から総合的に判断するんだろうね。
そこにニセの情報がまじっていてアリバイが成立してしまう。
点と線をつなげていって時間(時空間)が組み立てられる。
時間はパズルだ。 観測者と、時間の2点を結ぶと三角形ができる。
Causal dynamical triangulationによって、その三角形の面に時間を与えることができる。
時間というより時空間だがね。
観測者と対象をそれぞれ、スピンを持った粒子とすると、四面体を組み立てることができる。
4つの面(3次元+時間、または4つの力?)を、ひきだすことができる。 全く参考にもならないレスばかりでワロタw
哲学専攻者たるお方の物理だのの科学を、平気で知ったように哲学と結び付けて論ずる浅はかさよ。
恥ずかしすぎるw 「時間とは何か」という問いかけ自体が良くないのかもな
それこそ"物理学では〜"とかなんとか前置きしないと語れないというか >>952
全く内容の無いレスでワロタ
具体的に何も言えないクズ つか今のこの板の惨状でどれだけ哲学専攻者が残ってるのかも怪しい
哲学者の個別スレとかなら多少は残ってると思うが、
俺含め、板の住人の大半は哲学ファンというか少しかじった程度の人達じゃね 哲学も科学もまだまだってこと
科学研究最前線レポートとか読むとわかる
哲学は分かりにくいが、科学以上にまだまだってこと
そしてある意味、科学者、数学者の認識論はかなりお粗末 鮮やかにヘーゲル哲学解説する方も
意外と基礎は?だったりする
尊敬する学者の基礎概念の説明が間違いってことも
細部は凄いが最も基礎部分は確立していないのが現在の学問 すべての基礎になれるものはなにか、と考えたとき、
「0次元球面」が哲学(およびあらゆる学問)の基礎になれるのではないか、と「わたし」は考えています。
あくまでも個人の感想です。 ウィトゲンシュタインは言語に注目して、
思考可能な領域や記述(叙述)可能な領域を見定めようとしてたな
まぁ言葉を使いつつも、具象にしろ抽象にしろ、
頭の中には映像だとか情景だとかイメージだとかも同時に浮かんでいるもんだが、
それを伝えるにはどうにかして語りきるしかないわけで、
実際には語りきれない場合がほとんどだろう
そういや言語自体も単語を並べる方式になってる以上、時間(順序)の制約を受けるな 今は今で過去はないし未来もない。
記憶が過去を作り、未来を連想させ時間を流れさせる。 >>961
語りきれないことを語りきらないとね
そうでないと、語りきれないことがあると語りきれない
いや、否定してはいないし、肯定的なんだが、それでないといけない カントの純理によると、さまざまな現象はすべて取り除くことができるが、時間そのものは現象を可能にする一般的な条件として取り除くことはできない、ということだ。 要するに、感性による直観の純粋な形式でしかないものが、時間。 哲学って日常言語だけでは成立しないからねえ。
不毛な言語ゲームといわれりゃそれまでだがw 哲学が不毛などとは全く思わない
無造作に感性、純粋、直観、形式を並べ立てる哲学かぶれの"感性”に苦笑するのみ 感性からして、カントが用いる「感性」の意味を、日常語の「感性」から類推していたら
わけ分からんの請け合い 次いで問題になるのは
「感性の形式」って何?ってことだな
君ら、自分の“感性”を顧みて、そこに形式という表現によって何らかの対象が見つかるか?
わたしは見つからんよ 直観の純粋な形式
何が「純粋」なのだろうね
不純な形式というものがあるのだろうか 感性を哲学的に定義するなら、人間の主観にとって必要な条件。
どんな主観かというと、客体を直観する主観。 哲学かぶれを受けて苦笑するまでのアルゴリズムを
フローチャートに起こせばいいのかな、感性の形式 「人間の主観にとって必要な条件」が感性で
その主観は客体を直観する主観
ん〜?
つまりこういうことか>>968
「客体を直観する主観にとって必要な条件とであるところの感性」による、
直観の純粋な形式でしかないものが時間である 1)感性は主観の必要条件である
2)主観は客体を直観する
3)時間は感性による直観の純粋な形式である
主観は客体を直観するのだが
その主観が主観であるためには感性が必要であり
感性によって直観の純粋な形式が捉えられる
そういうことなのか?
わたしは捉えられねえわ
なぜなら、これは感性を説明したものではなく
感性という『X』に、ある種の認識能力一切の責任を被せたものにすぎないから 感性というXに認識能力の一切を責任をかぶせたもの?
感性は認識と境界線は持つが、認識のすべてが感性を包含するわけではない。
ただ唯一、超越論的、つまり先験的な認識だけが、時間という感性による形式に必然的な妥当性を担保することができる。 だからそれも同じことなんだよ
「時間という感性による形式に必然的な妥当性を担保する」能力を
「超越論的」という「Y」におっ被せてるだけ
あとね
「認識能力の一切を感性に被せた」などと私は言っていないのだよ
「ある種の認識能力一切の責任」を感性という言葉に丸投げしている
と、そういうことを言っているのだ
分かるか?
ある種の認識能力とは、ここでは時間を時間として理解する能力のことだよ 単純に"物が床に落ちる"という事象一つ取っても、
始点・終点、落下速度、そしてそれらを観測・確認する人物なり計測機器なりが要る
こうしてみると、時間(経過)の認識はいわば後から来るものであって、
各事象とそれらの解釈のほうが先に来てるような気がするのよな >>983
西洋哲学すべてが、丸投げなんだから仕方あるまい。
俺個人の時間論ではない。
ともかく、時間とは何か、というのは、意識のハードプロブレムと同じで、有限化できない無限の解釈に陥るしかない、というこった。 >>985
貴方が丸投げと思ってるだけで
実際は丸投げなんかではないのだよ
論理的必然性に迫られて新しい概念を造らざるを得なかったんだよ >>985
なにか凄いことを言ってるようでひとつも内容がない書き込みw
言葉で言い尽くせないなんて態々言う必要ないしそんなのはインチキ教祖と変わらん 時間とは現在の持続であり、現在とは宇宙の全てである。
久々にスレ覗いてみたが、全く進歩してないみたいだな。 瞬間の量の幅かな
1秒間も2秒間も瞬間を切れとれば瞬間の量は無限にあるから
切り取る対象の幅が長いか短いかってことじゃないかな
よくわかんね 大阪府三島郡島本町は
「大阪府三島郡島本町のいじめはいじめられた本人が悪い」
と公言してはばからない町
島本町のいじめ加害者やその周囲の多くの町民
そしていじめを放置ないし容認している島本町の行政機関等に
重大な問題があるとしか思えない
こんな町は非難されて当然 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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