時間とは何か、29
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時間とは何か、と問う行為、すなわち時間とは何ですかと他者から問われる。または、自分自身にたいして時間とは何なのかと問うW行為Wの意味は何なのか。
それを問うべきだ。その問いに対する答え、満足な答え、あるほど満足な答え。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1545687347/
過去スレ、他のものは興味ある人は調べて下さい。 様々の時間了解
時間とは何か、と言う時間への問いは実存論の問いです。つまり、この問いの答えは、人生は全く無意味だと言う疑問への答えにもなる。
時間への問いと答えは、人生の意味は何か、に答える。でなければこの問いの意味はありません。
そしてその分析は、時間とは時計の針の指し示すものである、と言った通俗的時間了解が、どうしてそうなのかを説明する。
通俗的な時間理解の中にいる、一般的な時間消費にいる人々を、そうでなければ全き時間了解に引きずり出せません。 哲学的問いの危険性
時間への問いは時間を利用可能とします。車とは何かと言う問いは車を意のままに利用している存在者には無用です。
時間への問いが、時間の利用に迫るのであれば、その問いは危険です。哲学的な考察は全てなんらかの危険をはらんでいます。
ここでの危険とは、300キロで走り得る車の持つ危険と似ています。その車を手にした者は300キロで走りたくなります。 芸術の存在論的な定義
芸術とは何らかのある新しい意味を提示する行為です。
舞台に自動車を上げ、それをハンマーで叩き壊していく者達は、普通人の車理解が、未だ不完全であると言う意味を提示するのです。
これは芸術の存在論的な定義です。 実存と時間への問い
時間つまり、時間現象とは世界内の諸事物の来時性の発現である。
これで終わりですが、これだけでは時間への問いの答えとして不十分です。時間の問いは実存の問いであり、実存論的な問いだからです。
こう考察を進めると、実存とは世界内の諸事物への関わり合いの追求なのであると判る。実践的、個別的、そして自主的である。 本来的なつまらない時間
それで実存的な問いとしての時間への問いの答えに迫る為には、時間の実存的な意味としての、在り方としての充実した時間と充実していない時間、さらにつまらない時間のそれぞれの考察が必要である。
核心的な考察は、つまらない時間である。つまらない時間と言っても、日常的な使用でのつまらない時間では無い、本来的な在り方としてのつまらない時間が考察の核心である。
本来的なつまらない時間の考察に迫る為には日常的なつまらない時間の考察が導きの糸となる。
日常的なつまらない時間とは、期待していた意味とは違った、それとは離れた意味の進行としての時間である。 日常的なつまらない時間
だから、日常的なつまらない時間とは、意味の無い抜け落ちた時間では無く、期待していた意味とは違ったと言う意味の発現であり、何も無かったでは無く、裏切られた時間、裏切られた意味での時間である。
これとは異なり、本来的なつまらない時間とは意味から、意味そのものから(意味体系そのものから)抜け落ちた時間である。 時間体験としての父母未生以前自己
本来的なつまらない時間、存在者の持っているそして生きているその意味体系から、離れた脱落した本来的なつまらない時間、このつまらない時間の時間体験は、特殊です。
これはおそらく禅などで言う悟りの境地とも関係すると思われます。父母未生以前自己と言います。父母未生以前の自己の体験です。それはあくまでも現在の時間体験ですから、その体験を説明する説明が可能なはずです。東洋的なもののフィロソフィアによる説明です。 退屈死。死の中に飛び込んでいく葉隠れ忍ぶ恋こそ真の恋、煙仲間、武士道も
哲学と照らしてみ? 円環時間永劫回帰なども時間にかかわりある。ニーチェ。真昼の正午ね。
新しい色や音との出会いという意味での芸術学は確かに貴重価値で哲学よりいいかもな。 つまらない世界を盛り上げないと他者につまらない思いをさせる。 時間を意味表象したり深く考え込むことで相手の時間じゃ無い概念の鏡に自我がなる 投企
禅で言うところの、父母未生以前自己とは、父母未生以前自己に投企せよです。
すると、ハイデガーの死への投企も、死後の自己へ投企せよです。死への投企、死への投企と言っても死後の自己へしか投企出来ない。しかし死後の自己はないから、それは不可能である。
(この一見すると不可能な投企は、どの様な理由で可能なのか。)
この二つは共通点があります。どちらも自己がいない、存在しない所への投企です。ただ時間的な方向性が異なる。過ぎた時と、未だ来ていない時の違いです。 死へ自己へのの投企てじゃなく他者の中に入っていくその資質になるという解釈だと思う。 本来自己
明日、大事な入社試験があるとして、入社試験後に投企せよ。入社試験に合格するか、それとも失敗するか。試験後には、現在それが解らない以上、投企出来ない。
しかし結果は、どうであれこの私はわたしなのだ。投企は、なされた。この様に投企する存在の形態は、実存に違いない。
父母未生以前自己とは如何
これが禅の公安です。答えは、『それ本来自己』
ではないのか。 公案
『両手を叩くと音がする。では片手の音とはなんだろう』(隻手の声)
これも有名な公案です。
答えは、『音のするものだけが、声では無い』
だと思う。 人が相対すれば音が意味を持つ、相対せずとも言葉を諭せと読解するべきじゃない 投企可能な存在者
こう考えて来ると、投企とは時間を超えた自己への投企である。
ハイデガーの死への投企は、この点で内容、表現ともに不十分である。
そして時間を超えて投企可能な存在者が、実存する実存者である。
なぜ、実存者には投企が可能なのか。 自己というのはのちに自分になるが個我の魂のようなもので女性にとっては男の子
男性にとっては女の子が受け継ぐ喩だ他人に溶け込んでゆくいずれもな、自己も空しいのはどうか。 作為で死に飛び込むハイデカーは甘い振り返ってみてそうだったのほうが良い。 己というのはのちに自分になるが個我の魂のようなもので女性にとっては男の子
男性にとっては女の子が受け継ぐ喩だ他人に溶け込んでゆくいずれはな、自己も空しいのはどうか。 自己と他者がすり替わったり対象から各々移入したり取り換えっこになるのはあくまで他者との
恋だ。 両親が生きていないうちに生まれたヤンキーが自己を保って自分を守り早熟で戦っただけだ。 他者のざわめきが声で人間以外の魔声の方がよいわけだ。書きものを人間に送ると
本末転倒手間がかかるよ。代筆ぐらいにしておきなさい。 自己がない他者有れば我欲はわがままなエゴだ。よろしくない。 自我意欲の拡大こそ権力への医師に似ていて、他者の生活やありようの幸せを願う希求する心の声を
忘れたカナリアだ。 自我意欲の拡大こそ権力への意志に似ていて、他者の生活やありようの幸せを願う希求する心の声を
忘れたカナリアだ。 クセノフォン アナバシス 敵中八千キロ じゃないけど、言葉と書きもので
発現するオンリーものが哲学ではない。哲学書や議論も戦争の結果として必要な分度がある。 見落とされている時間
二つの手で叩くと音がでる。では、一つの手で出てくる音とは何か。これが公案の問題です。
手を叩くと出てきた音は、何かの意味を持っています。
では、片手を振ると音は出ない。しかし意味はある。つまり、音の無い意味、つまり声無き声を聴く、と言う話。
必ずしも、音声となった声だけが意味を持っているのでは無い。必ずしも容かたちあるものだけに意味があるのでは無い。
この10月17日の意味はその日のニュースで全て配られるわけでは無い。事件、ニュース、そして個人的出来事が今日を形成する。
しかし見落としている意味も数多くある。それらの見落とされた意味が後に発見される事も有る。
人の日常、1日はその意味体験で形作られている。この意味体験は、すなわち時間体験である。
見落とされている時間がある。 公案とは、頭の悪さを競うものである。
こういうものにとりくむような宗教には、しっかりしてくれいといいたくなる。 意味体験としての実存
人はその日常を何らかの時間体験として受け取っている(これが世界内存在である)。その時間体験は、さらに何らかの意味体験として評価されて受け持たれている。
この意味体験として受け取る行為が実存である。すなわちそれは、世界内実存である。 父母未生以前の時間体験
つまりすると、父母未生以前自己の公案は、父母未生以前の時間体験が出来るか、と言う問題である。
もちろんいわゆる物理的には出来ない。しかし意味体験としてならどうか。父母未生以前の時間体験への投企である。 存在意味、実存意味
バナナの意味は、食べられる。である。
食べて美味しい、である。
つまり、目の前の机の上のバナナは、数時間後には食べられて皮がゴミ箱に捨てられている。
バナナの意味は、食べられる、食べられてしまう、である。
しかし、今、満腹の人にとっては、その食べられるは意味を持たない。意味が薄れる。あるいは意味が変化する。
また、バナナが嫌いで見るのも嫌な人にとっては、バナナの食べられると言う意味は無い。端的言えばバナナの意味は無い。バナナの存在は無意味となる。
つまり腹の減っている人にとって、バナナの食べられると言う意味は意味である。
では、腹が減っていると言う存在者の事態は何なのか。それは存在者の存在意味であり、実存意味である。
存在者は存在意味、実存意味によってしたがって存在する。腹の減っている存在者は食べられる物を探しに行く。何を欲しいのか自身でも判然としない存在者は彷徨う。
実存生活意味とも言える。
全ての事物者の意味は、つまり存在は、存在者の存在意味ないし実存意味から派生する。 バナナが落ちている 芳醇なにおいがする バナナの皮を見る 皮をむく 匂い近づくたべる。
甘いいい味だ と時間は進む。バナナは確かに存在したが無くなった。と哲学は進む。 バナナとはケーラーの類人猿の知恵試験なのである。
哲学者の知恵試験なわけだ。
まず、哲学者を檻に閉じ込めて...
なんてことはしなくとも、哲学者は最初から檻に閉じ込められている。
檻の外の手の届かない場所に好物のバナナを置くわけだ。
類人猿の試験と違うのは、棒を置かないということ。
哲学者も、試行錯誤ではなく洞察学習をすると考えられているのだが...はたして? >>51
きみはさながら上手く喩え話をしゃべるようになったオウムってとこだな 哲学者ではなく物理学者の場合は、物理的な道具を与える。
たとえ、理論物理学者であっても(自分では使用しないとしても)物理的な道具が必要だ。
追試することができ、客観的な結論が得られる。それが幻想であったとしても。
その点、哲学者は道具と呼べるようなものは与えられない。
「客観的」な結論が得られることはない。
そこをどのように克服するのか。
追試可能なものはすべて科学に持って行かれたのであり、残ったものは... とりあえず、実験などせず、情報だけが与えられる、として、
檻の中の理論物理学者と哲学者の違いを考える。
檻の外、手の届かないところにあるのは「バナナ」である。
直接得られる情報は「バナナ」の視覚情報と場合によっては嗅覚。
そして、重要なのは、「バナナ」を食したときときの「快感」。
この「快感」こそが、理論物理学者・哲学者ともに共通する「動機」。
これをフロイト的に解釈するならば... 理論物理学者と哲学者の違いは、
彼らが快感を得る回路の違いであろう。(報酬回路の違い)
ここでひとつ見落としがある。それはバナナ側の快感である。
ここまでの結論。「快感が時間を形成する」
(とりあえず開放定常系に限定)
時間あるいは記憶あるいは経験あるいは痕跡がなければ快感は得られない。 十全な意味
類人猿に対するバナナを使った実験、それをここではバナナの意味の一つであると言うのです。
バナナの意味とは、バナナの行くところを指しています。ハイデガーもこれを言っていますが、それほど注目する人がいません。
それで、バナナの意味の全体、すなわちバナナの十全な意味は捕獲不可能です。
バナナの意味、と言うとき、我々はこのバナナの意味の不完全性をすでに織り込んでいます。
我々は、世界獲得と同時に、その不完全性を捉えている、承知している、背負っているのです。
存在としてのバナナ、すなわちバナナ存在、が我々にとっていまいち捉えにくいのは、この事情によります。
(客体の存在が捉えにくいとは、すなわち、我々の存在も、その主体としての存在様態も分かりにくい、それだけぼやけるのです)
それで、ここでは、バナナの十全な意味をそのバナナ自身にあるとして、それをそのバナナの来時性と呼ぶのです。 わたし、生まれてこの方、バナナしか認識していなかった。
文字通りの意味である、バナナだけを注視して、バナナだけの匂いを嗅ぎ、バナナだけを触って育った。
わたしの世界はバナナであり、世界であるバナナはわたしだった。
わたしはバナナについて、誰よりも知っているようでいて、なにも知らなかった。
なぜなら、バナナ以外の何ものも認識したことがなかったからだ。
さて、わたしはある時、バナナでないものを認識した。
その時のことを言葉にして例えるとすれば、
それはさながら、輝きながら流れ込む情報の洪水だった。
そのとき、わたしは無能であることを悟った。
しかし多幸感に満ちていた。
後に知ることとなるが、それはみんなからりんごと呼ばれているものだった。
それからわたしは、様々なものを認識していった。
みかん、ぶどう、いちご、ざくろ、きんかん、すもも、かき…etc
バナナより小さいもの、大きいもの
バナナと異なる形のもの、
バナナと似た色のもの、
様々だった。
わたしは、言葉を覚えた。バナナがバナナと呼ばれること知って、
りんごがわたしにとって特別でないように、
バナナもまた、みんなにとっては特別ではないこと知った。
そのとき、バナナがなんであるかがわかったと思った。
不思議な感じもしたけれど、すこし大人になったような気がした。 バナナの糖分は性の快楽になり塩分はほろ苦い痛みになるでしょう。
ことばや話題の汚されたもののだからこそバナナは昔のバナナよりおいしいだろう。 ことばや抽象概念を駆使する人間は本物のバナナでなくレプリカのバナナを知ってしまう。俗物性の哲学の方がバナナの存在匂いや味に疎くない。 バナナというときでもバナナは増えないから人間は飢えてしまう。
だがバナナの買い方見つけ方を知っていると、バナナは不思議なことに増える。 3: ★☆★ THE お ま ん こ ★☆★ (470)
4: 時間とは何か、29 (64)
5: 東浩紀515 (324)
6: 美魔女の21世紀倫理学 善く生きるとは A (796)
7: 【誰も傷つけない表現】浅田彰【に意味などない】 (52)
8: 実存主義・人間主義・心理主義・歴史主義などなど (13)
9: お ま ん こ 舐 め た い (185)
10: 【 NHKを 】N国党 立花孝志 【 ぶっ壊す!】 (143)
11: ★★★ 働かないおじさん 集まれ!! ★★★ [無断転載禁止]©2ch.net (594)
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13: 無 職 と 東 浩 紀 (574)
14: きちがいしかいない板があるらしいが (233)
15: 波 平=禊 の ス レ 上 げ タ イ ム (30)
16: 世の中全部金、でOKだよな? [無断転載禁止]©2ch.net (41)
17: カール・マルクス30 (402)
18: 引 き 篭 も り お じ さ ん 板 (338) 来時性、存在、事物者
来時性を持つものが存在です。来時性とは、とりあえず、その持っている来時性としての意味のあるもの、もっと端的に言うならその持っている意味の変化するものです。
すると、シャーロックホームズは、どうでしょうか。シャーロックホームズについて誰かが何かを言うとシャーロックホームズの意味はそれだけなにがしか変化します。即ちシャーロックホームズは存在する。
このシャーロックホームズは決して事物としての存在ではありません。それでこの存在を者と呼ぶことにします。存在には、事物と者があります。 青年期の子達が楽しむテレビの範疇はとうに超えてて、もうやり方がほとんど秋葉原商法。 国立大学には裏金や賄賂が分からない人が多いが。公立私立の方が順応してる。 虚時間がおもしろくなってきたので、ちょいと時間スレに戻り。
実時間と虚時間をあわせれば、複素時間である。
もっとも、物理において虚時間と呼ばれるものは、純虚数時間であろう。
時間も波であるなら、その波に乗っているのかもしれない。 すべてのものは回転していると考える。
時間は回転からうみだされた幻想である。
なにものが幻想をみているのか。
全体をネットワークと考えれば、その構成要素が幻想をみる。
線分は点の集まりである。
などというと点をいくら集めても線にならないなどというひとが現れる。
無限に集めればよい、などといってもそれは物理的に不可能だ。
考え方が逆である。
線が点の集まりなのだ。集めたのではない。線から無限の点を引き出せる。
このような点のネットワークが、回転する。
なぜ回転してしまうのかというと、「つながっている」からだ。
この回転の中/内で点が自己同一性あるいは不変量を保とうとすれば、
そこに時間や空間があらわれる。
自然に3+1次元の時空間ができあがるだろう。
われわれはそれを時空間と呼ぶが、まったく異なる言葉でイメージしてもよい。
イメージは自由だ。 点には開点と閉点の二種類があるとする。
が、これらは単独では存在せず、必ずペアになっている。
ネットワークの構成要素としての「点」は、開点と閉点のペアである。
開点はボソンとしてボーズ-アインシュタイン統計に従う。
閉点はフェルミオンとしてフェルミ-ディラック統計に従う。
このペアにも二種類ある。
ボソンとボシーノのペア、フェルミオンとスフェルミオンのペア。
現実の素粒子との整合性はとりあえず無視するw
これらはスピンを持つ。
ここまでの道具立てで(スピン)ネットワークを構成してみる。
「点」はどのような夢をみるのか。考え中。 グラフ理論でもラッセルのパラドクスの類似が起きるってのに気づいたけど、
以下のような場合を考えるとパラドクスになる。
『頂点の集合Vがあって、ある頂点v1∈Vがあって、
v1は自己ループのないすべての頂点v∈Vとだけ、辺で結ばれている。』
これは、v1の定義を与えていて、
『v1がvと辺で結ばれている⇔vは自己ループがない。』
と書き換えられる。
ここで、v1は自己ループを持つか、持たないかを考える。
(ある辺の両端点が等しいときを自己ループと呼ぶ。)
(⇔ある頂点が自分自身と辺で結ばれているときを自己ループと呼ぶ。)
v1がv1と辺で結ばれているなら、v1は自己ループを持っていてはならない、しかし、これはv1がv1と辺で結ばれていないことになる。
v1がv1と辺で結ばれていないなら、v1は自己ループを持っていなければならない、しかし、これはv1がv1と辺で結ばれていることになる。
v1が自己ループを持つ場合と持たない場合の2通りしかないのに、どちらの場合も成り立たず、矛盾する。 だから、
v1∈Vであって、
v1が自己ループを持たないなら、
v1はv1と結ばれていない⇔v1はv1と結ばれている
となって、
v1∉Vであって、
v1が自己ループを持つなら、
v1はv1と結ばれている⇔v1はv1と結ばれていない
となる これってあれで、
v1を観測者、vを観測対象、辺を観測そのものとしたときのモデルになってて、
観測対象のうち、自分自身を観測しないすべての観測対象を観測する観測者は矛盾するってことになる 内包公理ですなぁ。
「存在」を定義してはいけないのかもしれない。
「存在は定義できない」のかもしれない。
もしかしたら、これが自然の公理なのか?
ま、定義というものの定義も定義できていないのだから...
ええっと、存在は幻想である、とすると別スレだな。
外延公理は、存在については(集合論の)外側にある。
問題は(哲学的には)「存在論」なのかも。
公理的集合論にたりないのは存在公理? って、それは内包公理の言い換えにすぎない。
これを完全にするためには...すこしだけヒントがみえてきた。
頂点と辺にするならば、頂点(という存在は)は必ず(暗黙かもしれない)自己ループを持つ。
だからv1そのものは定義できないということでよろしいのでは?
圏論では、対象は自己射を持つということで回避している。
数学プロパーではないのでいいかげんw そう、
定義の定義ができていない、ではなく、
定義の定義の定義ができていない。
さらには、定義の定義の定義の定義の... と無限に続く。
って、これが「時間」なのか? 一方向に無限に続く。 現象と存在者
来時性を持つものが、存在です。
これは、定義のような、約束の様な話しです。
我々の世界は、実は、現実の世界化されたものです。
これも、定義であり、約束であり、そう考えましょうと言う提案です。そしておそらくそうとしか考えられません。(この最後の、そうとしか考えられない、を証明出来ると良いのですが)
そうして、ここの所に、それが実存である、と言う宣言が成立します、出てきます。
つまりは、実存する存在者に、世界、存在、時間、は固有の特別な現象です。
そもそも、現象が現象するのは、それを現象として捉え得る存在者にのみなのです。 名無しサンプリング@48kHz 2018/05/06(日) 11:43:38
HIDEのつくる曲の波形は基本的に日経平均と連動しています
さて、平成が終わろうとしている
まるでサブスクリプションの切れたDAWソフトウェアのように
みなさんはきちんと時代の風を感じていますか
昨日という日は常に、過去の遺物なのです
だから前を見て歩かなければならない
誰も同じところに居続けることはできない
しかし、その前という文字にHIDEはいつも混乱する
前日、前世紀、前世
全て過去ではないですか
なぜ日本語においては、前を向くと過去に遭遇するのですか
先を見て進む、も同じですよ
先日、先代
まったく、ゲシュタルトを崩壊させる言語であります
どうやったら先に進めるかを「分からなくしている」
「分かりづらくしている」
こんにちわ
忘却人、オブリビオニストのHIDEです 意味と来時性
それで来時性の説明です。まず、意味とは何であるかの説明が必要です。
それでバナナの話しです。意味とはそのバナナの行く所です。目の前のバナナは、明日までには皮になりゴミ箱に捨てられている。つまり、バナナの行く所は、ゴミ箱の中の皮である。それがバナナの意味であり、我々はこの意味を実存的に、食べられる、と捉えています。
所が、そのバナナの行き先はそれ以外にもあります。干からびる、紛失する、など。つまりバナナの意味の全体は捉え得ません。それでバナナの意味の全体を、その存在者の側に投げて、そのバナナの持っている来時性とするのです。
(これは人の将来性と似ています。将来性ある若者と言います。その将来性とはその存在者の行く所を言っています。老人とは将来性の無くなった者の呼び名です。余談ですが) この来時性が、有意義であるのは、その一部を存在者が意味として捉える、捉え得るからに他なりません。 >>80
> つまりは、実存する存在者に、世界、存在、時間、は固有の特別な現象です。
> そもそも、現象が現象するのは、それを現象として捉え得る存在者にのみなのです。
つまりは、現存している存在者に、世界、存在、時間は共通する現象です。
そもそも、現象する原理を論理的に論証できる存在者かできない存在者でしかない。
でしょう.・・・ 意味と現象
世界、存在、時間、はいずれも現象ですが、その現象を現象として捉え得るもの、(捉え得る何か、)が存在者、現存在、実存者です。
この現象として捉える、は実際には意味として捉える行為です。ここでは意味と言う言辞が広いスパンで捉えられています。捉え得ない、あるいは、現在、捉えられていない意味をも含んで我々は、意味と言う行為が可能です。 社会諸科学
世界、存在、時間、が共通するのは社会諸科学の根本原理です。根本的な前提です。
現在、それらが(世界、存在、時間)確かなものとして確立していませんから、社会諸科学は未だ、ヨチヨチ歩きどころか自立してもいません。 >>85
世界、存在、時間、すべて現象に意味を盛ることで、いずれも現象として意図的に扱えば、
現象の行為者に存在者、現存在、実存者と割り振れるし現象に意味を含ませる事ができるだけで
捉え得ない、あるいは現在確認できないい認識に含みを持たせる行為可能性しか無いんだよ。 明日、明日の現れ
先を見る、過去。
過去はその意味に於いて把持される。その過去を体験した当事者の世界(世界観)の中で意味的に、意味として位置付けられ、捉えられる。
この様な過去の積み重なりの先に明日が、現れる。明日は意味的に現れる。
すべての人に於いて明日は意味的に現れている。意味的に物事を捉えてない、たとへば犬には明日は無い。言い換えれば、その犬に明日があるとしたら、その明日はその犬が世界を意味的に捉えている限りに於いてである。 犬の明日
真理とは、共通真理を指しているでしょうが。しかし一体、何を持って共通の真理だとするか。
ここでは、そうでは無く個別的な(意味理解にある)人間の存在から、何らかの共通性が見出せるかを考察する。それで、すべての事象を言葉で表さなければならない。
そのためには、その事象を意味的に捉えるしか無い。
いま、腹の減っている飼い犬がいる。その犬は明日になれば飼い主が現れて餌をくれると待っている。
その犬の明日は餌をもらえる明日であってそれ以上では無い。犬は明日を餌をもらえる明日として意味的に把持するのだ。 であるなら、君が意味的にすべての事象を捉えて言葉で表せばいいじゃないか
犬だかバナナだとかを持ち出す意味は
すべての事象を言葉にする哲学がないからだろう。 世界の意味が、世界と一致するとき、
それを真理というのだろう。 社会的流通意味
人(普通の人が)がふだん、意味として理解しているものは、正確には、『社会的流通意味』、である。
社会的流通意味によって、生活している者が、普通の人、つまり人である。
我々が、普段、意味として捉えているその『もの』は、社会的流通意味に過ぎない。
ついでですが、もの、と言う言い方は、本来、空飛ぶ絨毯のようなものがあったらすごい。と言う使われ方が正しく、仮定を含んだ言い方である。
こと、も同様です。『もの、と、こと』、などと言う本を書いている人がいますが。
上の『もの』も、仮定を含んでいる。それは本来の意味かどうかは(詰まりどういう意味かは明らかでは無い)定かではないが、と言った仮定である。 真理の雰囲気ってもうスピリチュアリズムどころかメルヘンだな >世界の意味が、世界と一致するとき、
>それを真理というのだろう。
世界って現象と同じで、哲学と物理で意味が違う。
一方の世界の意味が一方の世界と一致することを、真理と呼ぶ、と言っている。
さらにいえば、主体的世界と客体的世界を結ぶものを世界とよんで、1つ世界を仮定したとして、世界自身の意味が世界自身と一致することを、真理と呼ぶ、とも言っている
また、意味は述語的にも名詞的にも使われるけど、
→の働きも、→の指す事物にもなり得るし、
その両方でもある。
それらすべてが可能で許容されているわけよ >>98
>世界の意味が、世界と一致するとき、
>それを真理というのだろう。
の二行でそれらを全てを許容させるのは不可能。
真理の呼び方で世界が変わるならそもそも不一致な真理とでも
呼ぶしかないw
意味を違えない構文になってないから、真理と呼んだ所で
世界の意味が、真理でいつか一致する可能性がどこにもない。
哲学の現象世界と物理の現象世界で違うのは概念の導き方
双方の概念を貫く理論を真理という。
君がいつか言葉の意味を形而上で扱えるようになった時
君の世界の意味は世界の真理と一致する。 南部陽一郎さんが、宇宙の始まりについて鉛筆理論を唱えています。
立花隆さんがテレビ番組で解説していましたが、わたしなどはふと、エンゲルスの
「反デューリング論」を思い出したりしました。
デューリングはどうやって静止から運動に移るのか悩んでいるのですが、それに対して
静止って運動の一形態じゃないか、静止なんて実在しないんだと語ります。
現代物理学者たちの始まりへの探求とその格闘はは現代版デューリングでしかありません。 現でしかないと否定するほどの問題を理解しているなら
それを書かなきゃ否定にならないし認知できていないなら
現代版デューリングでありますでいいですよ。 102訂正
でしかないと否定するほどの問題を理解しているなら
それを書かなきゃ否定にならないし認知できていないなら
現代版デューリングでありますでいいですよ。 ゲームのルールに展開させられるかルールを発展させるか
ゲームを現実に進めるのが頭脳があるかないかだよ 実存意味とは何か
時間とは何か、の問いは時間の意味への問いである。一般的な、即ち公共的な時間の意味は、存在する事物の来時性の切れ目の無い発現である。
しかしこれだけでは、時間とは何かの問いに対する答えとして、不十分である。我々はその問いの、いわば実存的な意味を求めている。
そこで実存意味とは何かを考究するための手がかりや、また見通しが必要となる。それらが無ければその研究は前進しない。 【8050問題】
8050問題(はちじゅうごじゅうもんだい)とは、2010年代以降の日本に発生している
長期化した引きこもりに関する社会問題である。
歴史
1980年代から1990年代までいじめによる不登校が問題視されていた。その後、
2003年の日本労働研究機構によるニートという用語の日本国内への紹介に端を
発する形で、一部の引きこもりに対しては2000年代から継続的に大規模な調査が
行われるようになったが、15歳から34歳までという用語の対象の定義により、
あたかも若年層のみの問題であるかのように捉えられていた。
しかし、2010年代に入り、引きこもりを抱える家族が全国的に高齢化したことで
猶予が無くなり、外部への相談が増えてきたことから、今まで調査の網に掛から
なかった中高年層の実態が明らかになってきている。
内閣府からは、2019年3月時点で、中高年の引きこもり人口は61万3千人も存し、
その内の70%以上は男性との調査結果も発表されている。この他の年代の
引きこもりも算入すると、日本は引きこもり100万人時代を迎えていると言える。
現状を放置すれば、2020年代には事態が更に深刻化した9060問題が本格化する
ことが確実視されており、全国的に孤立死、無理心中、親の死体遺棄、年金の
不正受給、生活保護の受給が増加することから、現状の8050問題に対する
極めて迅速な対応が求められている。
2018年に内閣府は、40歳から59歳までを対象とした初の実態調査を行った。
それは従来までは引きこもりの問題は若者特有の問題であるとして調査されて
いたものの、中高年の実態はどうであるかを把握して支援に役立てるため。
そして2018年度の予算案に調査費として2000万円を計上した。
>>1 働けよ ダメ人間w >>106
時間の意味も実存が何かもわからず空想が空回りする経過を時間が知らしめる意味があったあんだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています