創発としての言語及び記号論について
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言語や記号は、単なる実用的な機能を有するだけでなく、新たな価値を形作る
創造的な機能が備わっている。よって、創造的な記号を生成することは、
新たな社会的なコード、すなわち、新たな価値観を形成することと等価になるであろう
ドゥルーズは、このような言語や記号の有する特性を差異化のコードとして
表現した。実用的な言語が静的な意味の収束を志向するのに対して、
創造的な記号は未知の新たな意味を志向するものとなる。そうした記号は、
自ずと生命のようなものを内包し、自らを分岐させ(差異化の運動)、進化への
可能性をあらゆる方向から探索していくのだ
また、社会が有する閉塞感の理由に、言語や記号が実用的な機能の中だけで
閉塞している状態、つまり、言語と記号のマンネリ化にもその原因が考えられる。
以上のことから、新たな言語や記号、もしくはその体系を創出することが、
そのまま新たな価値観、行動モデル、哲学の構築、社会的な閉塞感の打破にも
つながると考えられる それが真の記号であるなら、それは有機的な記号であるはずである 有機的な記号とは、生命系のような記号という意味である
塩基配列をイメージすると分かりやすいだろう ピクトグラムという図も記号であり、それは何かを指示している。だが、それも常に
一意であるとは限らず、異なるコンテキストの中へ外挿され、そこで異なる意味を
発現させることもあるだろう
これを転移と呼んでもいいかもしれない
もしくは、モノの破壊 人は、常に記号や言語に反応している。SNSを少し覗けば、すぐに理解できることだ
人が記号に反応するのは、人が記号だからである だから街を歩いているのは、本当は人でない
道路を走っているのは、本当は車ではない
記号が歩いているのだ
記号が走っているのだ 哲学の創始者とされ、数学者でもあった古代ギリシャ哲学者のタレスは
「万物の根源は水である」と述べた。
これは、少し誤りである。なぜなら、水はH2Oなのであるから、
「万物の根源は記号である」と述べれば正しくなる。
この文の記号の箇所には、どんな対象が置かれてもいい。
だが、それが何であれ、結局、それは記号へと還元されるものと言ってよいだろう モノ、製品、自然、言語、人、イデオロギー、機械、抽象、科学、国家、想像、神、死
こうしたものも全て記号として考えれば、全てが同一平面上に配置される
そこでは、全てが等価になりうることが分かる。つまり、記号化を経れば、
全ての対象は、同じ地平にある等価なものとして表現することができる
これを記号化による無差別化と呼ぶことにしよう 「AI 人間 機械 動物 植物 無機物」
よく人は、AIと人間のいずれかが優れているか、
また、人間と動物を比較して、そのように述べる者も多い
これも対象を単なる記号の違いである、と解釈すれば、
そこにあった恣意的な優劣の基準は解消され、等価なものとして併置される たとえば、右手と左手、どちらが優位であろうか。利き手であれば人それぞれで
あるが、優位性については、いずれか一方の側の手が優れている、あるいは、劣っている
ということもあるまい
なぜなら、右手も左手も、本質的にはただの記号に過ぎないからである
同様のことは、男/女、明/暗、寒/暖,生/死についても言える
それは、ただの記号の違いに過ぎないのである
記号として考えれば、それらは等価である また、記号の特徴としては、記号は他の記号へと容易に置換できる、ということだ
海をSeaと言ってもいいだろうし、(ディズニー・)シーでも、ウミ、うみ、umi,
青の記号、で表してもいいだろう。置換しえない記号というものは、
この世界には存在しない
そして、記号が置換されるということは、そこに動きや動線ができるということだ
また、動きには時間が伴い、空間を必要とする
すなわち、記号は自らの存在と働きによって、時空をも生成しているのだ、
想像上の時空も含めて 宇宙の創生にはビックバンがあったと言われているが、正確に言えば最初に
記号の創生があったのではあるまいか。原初の巨大な一撃としての記号の爆発的創生が
そして、ダークマターやダークエネルギーは、未知の記号である お前のはただの言葉遊び
哲学したいなら悪魔に魂売らないとね 記号というのは無機・抽象的なものと考えられがちだが、実際は記号が動くのを
見れば、そこに有機的な生命の萌芽のようなものが窺えることだろう
たとえば、SNS上で、誰かに「●ね!」と言われて、本当に自殺している人も
いる。「●ね!」はただの記号のはずなのに、なぜ、他人をそこまで動かすことが
出来るのか。これは、言語や記号を有機物として考えると、そうした物理的な反応が
生じてもおかしくはない、ということになる
意識や無意識、心や精神も記号でできたもの、と考えると上記の反応もある程度は
理解できるのだ ウェブサイトには頻繁に更新が入るので、それで記号が動いていることが実感される
だろう。チラシに書かれた記号なら、それは印刷所から配達先まで、のちには
廃棄先まで動いていることが分かるだろう。ここのスレッドでもそうだ。
記号の位置と場所が常に変わっていく。ハガキも動き、書類も部署間を動く。
名刺は顧客へ渡る
つまり、記号は動いている、すなわち生きているのだ
記号は生命系を内包している >>1
に書いてあるドゥルーズの言っていることの意味を理解できてないから
2や3や4みないた的外れなことを主張する破目に陥っている
実用的な言語が「静的な意味の収束を志向する」
創造的な記号が「未知の新たな意味を志向する(差異化の運動)」
このことについてちゃんと考えてみて >>21
別にドゥルーズ論をやりたい訳でないので、そこはこだわっていない
そこは君が詳しいんだから、詳述してくれればいいよ たとえば、記号を扱うといってもプログラミング言語や科学的述語、契約文書などは
記号を静的に機械的に一意的に扱わねばならないのに対して、人間が言語という
記号を扱う場合は、意味を巡るノイズであったり、エラー、もしくは解釈の違いによる
差異が発生する。哲学板で議論が発生するのも、こうした差異を巡った運動である
と考えれば、事情はつかみやすくなることだろう つまり、記号を解釈したり、実用する主体が機械でなく人間である限り、そこに
必然的に人間的な差異やズレが発生してくる。もちろん、機械にもエラーや故障は
あるが、その内容はおおよそ固定されがちなものとなる
だが、人間の場合の記号を用いたエラーは、一種の創造性であったり、創発を
促すような契機にもなりうるのだ。これが差異を生んだり、新たな系統や経路、
インターフェースを発見・発明したりすることの契機にもなる
すなわち、人間の記号使用には創造的な飛躍への契機があるのだ 数学で用いられる記号は、基本、一対一対応が求められている。根であれば、
正負の根が求められたり、n重解もあるが、それも一対一対応のようなもの、と
みなすことができるだろう。つまり、数学上の解は任意に変更できない、という意味で
集合論だと、可付番集合で一対一対応、もしくは一対一写像で要素間を一意に
対応づけることができる。ℵは、ヘブライ語でaの意味であり、ℵ_0 ならアレフ・ゼロで
一番小さな無限集合になる。また、無限集合の一対一対応で興味深いのは、
集合全体と、その部分集合の大きさが同じになることである。
たとえば、自然数の集合と偶数の集合は、無限集合の場合、同じ大きさの集合になる
ので、どちらもℵ_0 という同じ濃度、基数を持っていることになる 有理数だけでなく、代数的な数も自然数と同じℵ₀と
同じ濃度、基数になっている。以下は、代数的な数の例
α = ∛(2-√2)
この両辺を3 乗すると
α³= 2-√2 となり、これを式変形すると、
(α³ – 2)² = 2
α⁶ – 4α³ + 4 = 2
α⁶ – 4α³ + 2 = 0
この6次方程式を解くと、2つの実解と4つの複素解が
が得られて、6つの根が得られたことになる
https://ja.wolframalpha.com/input?i=x%5E6+-+4x%5E3+%2B+2+%3D+0 ここでのポイントは、より複雑な数にみえる代数的な数であっても
濃度や基数で考えれば、それは自然数と一対一対応している
同じ集合の大きさの数のℵ₀として表される、ということ
あと、普通の文字だけでなく、上記の方程式にある累乗や指数は、
すべてUnicode上の記号で一対一対応させて表記することができる。
つまり、数学で用いる記号は、他の方法でも表せるとはいえ、
比較的に静的・固定的であると考えられそうだ >>30
ここで言っている代数的な数とは、代数方程式の根となっているような数のこと
を意味している。
>>29の http://ja.wolframalpha.com/input?i=x%5E6+-+4x%5E3+%2B+2+%3D+0
にある6つの根などが、そうした一例。複素数まで入ってくるので、自然数と
比べると、代数的な数は、だいぶ複雑に見えるし、自然数よりずっと多く存在する
ように見える。でも、濃度で考えれば、代数的な数は、自然数と同じ集合の大きさ
として表される 直感的に考えて、自然数と比べて、有理数や代数的な数の方がずっと多く
感じられるので、集合の大きさも異なるように感じられる
だが実際には、自然数と、有理数や代数的な数は、論理的に一対一対応づけが
できるので、同じ集合の大きさとして、すなわち同じ濃度のℵ₀として表されてしまう。
この場合はもちろん、有理数や代数的な数の集合の部分集合が、自然数の集合という
ことになるから、偶数>>27との場合はそこが異なる点ではあるが アフォーダンス理論も記号論の文脈に移植して捉えることができそうだ
主体は、外界に埋め込まれている様々な記号表現(記号現象)から記号内容
(意味)を引き出し、身の周りの環境を自己の望む形で構築する。また、主体自身も
記号現象と言えるので、主体としての記号xが外界の記号yにアクセスして
相互作用していると言える
構造主義的に言えばベクトルがこの逆になって、外界に埋め込まれた記号
の方が主体へと作用して、主体の経験や行動を変容する、と表現してもいい
だろう。アフォーダンス理論は、こうした構造主義の考え方に近い。
外界に埋め込まれたさまざまな記号現象が、記号現象としての主体を形成するのである https://www.worldcolor.co.jp/column/kanai1708-affordance/
アフォーダンス理論(Affordance)は、アメリカの心理学者J・J・ギブソンが提唱した、
認知心理学における概念です。これは「与える・提供する」という意味の「アフォード(afford)」
という言葉から名付けられた造語で、物が持つ形や色、材質などが、その物自体の扱い方を
説明しているという考え方です。 記号表現は、真逆のベクトルを自らに内包している。その一つは同一性・アイデンティティの
ベクトルであり、もう一つは、排他性・差異化のベクトルである。コインの裏表のように
記号にはこの真逆の性質が貼り合わされている
たとえば、1やaは、それ以外の2とbからは区別されるので、そこに記号としての
同一性である1やaを構築しているといえる。またこの同一性は、2やb、もしくは
それ以外の記号に対しては、排他性としても現れるので、ここに差異化の運動や
分節化を認めることができる
つまり、記号表現は、同一性かつ差異化の表現として表示される 記号表現が意味内容は、そのコンテクストやコード(法)に依存し、場合によっては、
イデオロギー性を発現する場合がある。
たとえば、記号や言語として考えれば、ロシア、ウクライナは単に国の名前であるに
過ぎない。だが、今の国際情勢でロシア、ウクライナと表記すれば、そこにすでに
特定のイデオロギーや価値の介在があることが窺えないであろうか
「ウクライナ頑張れ!」であれば、現在なら、まさかウクライナのアスリートを
応援していることは考えにくいだろうし、これだけでこの文、すなわち記号群が
特定のイデオロギーに対する話者の信念が内包されていることが分かるだろう
これが、「ロシアは悪くない!」であれば、この記号群には逆のベクトルのイデオロギー
が内包されていることが容易に推論される 同様に、記号表現には背景知識、コンテストへの理解が必要とされる
そうした背景知識がない者にとっては、記号表現はただのインクの染みのような
ものに過ぎなくなる
「僕は、毎日顔本使ってるよ」
という文や発話を見たり聞いたりしても、背景知識がない者にとっては意味内容が
つかめない。だが、SNSについての背景知識がある者なら、顔本=Facebookのことを
指していると分かり、この人は毎日、Facebookを利用しているのだなと理解できるようになる 記号
きごう
sign
一般には,符号や目印と同様に,約束に従ってある表象によってそれとは別のものを指示する
ものをいう。しかし今日,記号は数学,論理学,認識論,社会学,心理学などの分野で
重要な概念となりつつある。この場合,記号は一つの対象であるが,他の事象の本質を
表象するものであり,記号によって認知された表象が,記号のもつ本来の意味とされる。
すなわち記号は意味のにない手であり,命名法の一種でもある。
ここから記号は,人間の思考作用の本質にかかわるものとされ,哲学者 R.カルナップは
「記号分析こそ哲学の課題である」と明言している。なお,記号がその意味と分ちがたい
内的一致を保持しているとき,それは「象徴」と呼ばれる。 E.カッシーラー,S.ランガーや
C.モリスなどが記号論の分野で活躍し,現代フランスの構造主義などでも記号論は大きな役割を占めている 記号
きごう
symbol 英語
Symbol ドイツ語
symbole フランス語
哲学的にこれに対応するヨーロッパ語は、ギリシア語のσμβολον/sýmbolonに由来し、
これには「割符」の意味があった。つまり、aを見てbを知ることができたときに、
aがbの記号だといわれたわけである。この意味では、象形文字、数字、絵などが
記号の代表的なものである。しかし、表音文字でつづられた文も全体として
一つの情報を表している限りでは記号であるし、音楽も記号としての役割を演ずる
ことがある。やがて、表音文字のように、それ自体では意味がなくとも文の素材に
なるものも、記号とよばれるようになった。
論理記号や化学記号のように、専門家でないとその使い方がよくわからないものを
記号の代表のように考える人も多い。コミュニケーションに使われるものだけではなく、
儀式のように、共有されることに意義のある事象を記号に数えることもあり、現代では
「記号」は、きわめて広義な概念になった。 社会習慣的な約束によって、一定の内容を表すために用いられる文字・符号・標章などの総称。
言語も記号の一つと考えられる。広く交通信号などから、象徴的なものまでを含む。
また、文字と区別して特に符号類をいうこともある。しるし。符号。「元素記号」「音声記号」
[用法]記号・符号――「記号」は広く、言語・文字・各種のしるし・身振りなどを含む。
学問の用語としても用いる。「文」は漢字であると同時に、地図では学校を示す記号である。
◇「符号」は、文字を除き、図形・音声・光・電波などのしるしについて使うことが多い。
◇記号と符号の相違にはあいまいな面もある。目印として付けた〇は符号だが、
地図上の〇は記号である。一般的に、ある体系の中でのしるしは記号だが、
「モールス符号」「正(負)の符号」のような例外もある。 一般に,ある対象の代替物として,その対象を喚起することによりそれを表象するもの.
パース(Charles Sanders Peirce 1839-1914)は広義の記号を事実的類似に基づく図像(イコン),
事実的隣接に基づく指標(インデックス),文化的隣接に基づく象徴(シンボル)に区分した.
なお,ここでは説明の便宜上,対象としての実体とその表象という二分法を利用して
記号を定義付けたが,ソシュール(Ferdinand de Saussure 1857-1913)は,記号の対象と表現の
二分法は記号体系の二次的作用であるとしている. ある特定の機能や内容を、わかりやすく表現するための図形や符号などのこと。
記号で表現することで、視覚的に内容を理解できるようになる。記号の例として、
算術演算子などがある。また、プログラミング言語では、命令・レジスター・アドレスなどを
表現する文字列のことも記号という。 もっとも広い意味での記号とは,〈ある事物・事象を代理するもの〉のことをいう。
この代理の生理学的メカニズムはI.P.パブロフによって明らかにされた。食物摂取による
唾液分泌は無条件反射だが,犬に食物を与える際にブザーの音を聞かせておくと,
犬はブザーの音を聞いただけでも唾液を分泌するようになる。これを条件反射といい,
ブザーの音は食物・食事の記号ということができる。
パブロフは視覚,聴覚,触覚などの刺激とその条件反射を第1次信号系,自然言語と
その発話にともなう諸反応を第2次信号系と名づけた。 (1)コミュニケーション論,記号論などの用語で,〈信号〉〈記号〉〈合図〉などと訳される。
英語の原義には,神や自然から人間への〈しるし〉というような意味が強い。記号信号
(2)署名。英語の動詞〈sign(署名する)〉の意味から,日本語の慣用語となった言葉 (1)コミュニケーションにおいて用いられる記号signの一種。一般に,ある事物Aが別の事物Bを意味するとき,
AをBの記号と呼び,BをAの指示対象referentと呼ぶ。たとえば〈いぬ〉という言葉はイヌという動物の
記号であり,後者は前者の指示対象である。
人間が用いる記号は通常,〈象徴symbol〉と〈信号signal〉に分類される。象徴が指示対象を
表象しそのイメージを喚起することによって,論理的・抽象的思考を可能にするのに対し,
信号は特定の感情を表現したり行動を指示したりすることによって話し手の態度や聞き手との
社会関係を表示し,環境への有効な適応を可能にするものである > 記号は,人間の思考作用の本質にかかわるものとされ,哲学者 R.カルナップは
「記号分析こそ哲学の課題である」と明言している。
つまり、記号論はそのまま哲学であり、存在論にも認識論にもなり、すべての対象を
包括する射程を持つ思考・認知モデルになりうるということ 冪乗集合(Power Set)
集合Aのすべての部分集合からなら集合をAの冪集合といい、
ρ(A) または2ᴬ などと表す
たとえば、A = {a,b} の冪集合なら、ρ(A) ={φ,{a},{b},{a,b}} で4個の部分集合を持つ
この時、2ᴬ = 2² なので、4個となる。アイデンティの問題で注目できることは、要素aは
個別として見た場合、単一性であるが{a}、同時に、{a,b}という複数の中での要素にも
なるので、aは単一(アイデンティティ)、かつ、複数である、と表現できる
つまり、数学を記号論として考えた場合、数は単一性(アイデンティティ)、かつ、複数・数多性
でもある、ということになる >>54
ρ(A) ={φ,{a},{b},{a,b}} において、
{a}と{b} は、要素の数が1となるA={a,b}の冪集合の部分集合 --→ 単一性・アイデンティティ
{a,b} は、要素の数が2となるA={a,b}の冪集合の部分集合 --→ 複数性・数多性
よって、数や集合の要素は、単一性、かつ、数多性を併せ持つと表現することができる
φは要素の数が0となるAの冪集合の部分集合のこと B = {φ} の冪集合の場合は、ρ(B) = {φ,{φ}} となる
φは、要素の数が0となるB = {φ} の冪集合の部分集合
{φ}は、要素の数が1となるB = {φ} の冪集合の部分集合、すなわち、= B
ρ(A) = 2ᴬ = 2¹ なので、Bの冪集合は2つの部分集合を持つ 集合論において
a : 集合の要素
{a} : aを要素とする集合
{{a}} : 集合{a} を要素とする集合 人間の記号操作の特徴としてあるのは、記号(表現)を固定的、固有名詞的な
指示物(オブジェクト)として捉えるのでなく、意味(内容)として捉えることができる点に
ある。記号を意味として捉えられれば、事後的な意味の拡張が容易になる。そこに
認識における融通性や柔軟性ができるのである。
その一方、AIや機械の記号操作は、対象や記号をオブジェクトとして捉えることに
その特徴がある。そのためAIでは「記号接地問題」や「フレーム問題」が発生する。
つまり、定義を超えた事例や現象を定位できないため、外界の処理が停止状態に
追い込まれやすいのだ。 たとえば、前にも出した例だが、「やばい」という発話は、現代ではその意味内容が
昔と大きく異なっている。カフェでスイーツ女子が2人いて、注文したスイーツを
一口食べたあと、「これ、やばい」と言えば、それはそのスイーツに毒物が入ってたとか、
ゴキブリが混じっていたとか、不味い、という意味でなく、超美味しいくらいの意味
で使っていることは現代人で、特に若者世代であれば容易に想像がつく
この2人のスイーツ女子は、そのあとiPhoneでインスタにこのスイーツの画像と
「このスイーツ、やばいわ♡」みたいなコメントをアップロードするのである。 AIや機械の場合は、これを辞書的にそのまま「やばい」と解釈するので、悪いという
ようなネガティブな状態を指す指示物として、それを解釈してしまうのだ。
だからAIが内蔵された自動ウェイトレスロボットであれば、「これ、やばい」という
このカフェでの女子の発話を認識すると、ただちにそのスイーツに異変があると解釈して、
それを交換するように行為し始めるかもしれない。
これが、AI・機械と人間の記号操作と解釈の違いである。 つまり、人間の記号操作・解釈は、
記号の指す指示物(オブジェクト)<<記号の指す意味(内容)
であるのに対して、AI・機械の記号操作・解読は、
記号の指す指示物(オブジェクト)>>記号の指す意味(内容)
となっている、ということである。 プログラミング言語で「オブジェクト指向」などと言われるのも、こうしたAIや機械の
性質をよく表している。それは、想定されるオブジェクトを事前にすべて登録して置かなければ
対応できないので、想定外のことや状況に対しては簡単にフリーズしてしまうのだ。
こうしたAI・機械の「オブジェクト指向」に対して、人間の記号操作・解釈は意味を
指向しているので、事前にすべてのケースを脳にアーカイブ、登録する必要が
ないのである。既存の指示や解釈を超えた未知なケースに対しては、意味の更新をして、
これに速やかに対処できるのである。
先にあげた「やばい」の例なら、この意味に、ポジティブな意味も加えて置くのである。 2022年4月17日
グーグル翻訳に英語で「親愛なるロシア人(“dear russians”)」と入力すると、「死んだロシア人(“dead russians”)」というフレーズへの修正が提案される現象がロシアのネットユーザーによって確認され、ロシアの関連当局はグーグルに抗議した。中国メディアの観察者網が14日、ロシアメディアの報道を引用して伝えた。
ロシア通信(RIA)は9日にこの現象を報じ、「他の国の(言葉で)フレーズを入力した場合は、“dear(親愛なる)”の代わりに“dead(死んだ)”とシステムが提案することはない」と指摘した。
また、ロシアのテクノロジー系メディアは、「グーグル翻訳のシステムは機械学習アルゴリズム(問題解決の手順)を使用している。これは、人の手を借りず、アルゴリズムが大量の入力データに基づいて自動的に改善されるものだ。つまり、多くの人が(このパラメータ自体は多くの要因に依存する可能性がある)翻訳したいフレーズとして“dead russians”と入力する頻度の方が“dear russians”よりはるかに高い場合、システムは“dear”はミスだと認識する」と分析した。
ロシア連邦通信・情報技術・マスコミ分野監督庁(Roskomnadzor)は11日、「グーグル翻訳のこのような違反行為は極端主義的な性質を反映している」とし、グーグルに「迅速な措置を取り、ロシアのユーザーに対する侵害を止めるように」と要求した。
RIAは12日、「グーグル社が同社の翻訳サービスが『親愛なるロシア人』というフレーズを翻訳する際に起きていたエラーを修正した」との情報を入手した。グーグルはRIAの問い合わせに対し、「エラーはすでに修正された」と答えたという。 >>65
タイムリーなものを誰かが貼ってくれたけど、こういうのもその具体例となる
機械学習は事前に教師学習したものにしか対応できないので、新たな状況では
フリーズしたり、誤った解釈をしてしまう。
画像認識でも黒人をゴリラとして認識してしまったことが、かつて話題になった また、現代では記号が虚構を生成することも技術的に容易である。
フェイクニュースであったり、フィッシングサイトであったり、そこへ誘導する
迷惑メールも現代では頻繁に入ってくる
技術的にこれらを作ることが簡単なのが、現代のテクノロジー社会である。
たとえば、オバマ元大統領がナチスを称えるような動画を作ることも簡単に
できる。発話上の口唇の動きもAI技術で加工できるため、オバマがその
ようなナチズム思想のユダヤ人差別主義者の提唱者として現れる動画も
簡単に作れるのである つまり、記号は、「偽」の現実を容易に生成できる、ということだ。
これを合法的にやるのが広告会社や電通、マーケティングなどの会社である
これらの会社組織は、表象や記号を操作して、オブジェクトに実態以上の価値が
あるかのように消費者へ印象操作したり、洗脳することを常としている
ステマ要員もいるため、商品レビューさえあてには出来ぬのが現代的な
消費社会である。SNSで特定の政党を応援する金で雇われたbotのことも
最近、話題になったばかりである。
また、現代の日本の政府は、データ改ざんをお家芸としているため、記号が
持つ「偽」の要素に注目すべきなのも、現代の記号社会の特性であろう 記号機能とは、あるモノ(オブジェクトx)の代わりとして表すことで、その機能を
果たすもののことである。たとえば、地図上に「文」と表示があれば、それは
学校のことであり、文が○で囲ってあれば、それは高校を意味し、小中学校と
区別できるようになっている
裁判所の記号であれば、立て札を象った形の記号で表され、税務署なら、
そろばんの玉の形の記号で表されている。裁判であれば、かつて裁判内容を
立て札で告示していた、という歴史的由来から、税務署ならお金の計算
が、そろばんの記号のイメージと合致しやすかったからだろう
その他にも警察署を示す記号、消防署を示す記号など、いろいろな
地図記号があるが、普段、それを意識する人は少ないのではないだろうか。
〒の地図記号であれば馴染み深いだろうが、これはかつて郵便を管轄して
いた逓信省の頭文字の「テ」から作られた郵便局の記号である。〒を○で
囲うと郵便局の地図記号になる 記号表現には、無契的なものと、有契的なものがある。無契的とは、対象(指示物)と
それを指し示す記号の間に、自然なつながりや関連性がみられない、という
意味である。たとえば、私達は「犬」のことを「いぬ」、「猫」のことを「ねこ」と読むが、
なぜ、それを「ぬい」や「こね」と読んだら駄目なのだろうか。仮に、そのような読み方が
辞書で採用されていても、変ではないわけだ。
このように、対象や指示物との自然な関連やつながりが認められない記号のことを
無契的記号、あるいは記号の無契性と呼ぶ。 たとえば、プログラミングなどで、果物にインデックスを割り当てたいとする。
「りんご」に1を、「バナナ」に2を、「メロン」に3という数記号を割当てる。
1を選択すれば、「りんご」が、2を選択すれば、「バナナ」が、3を選択すれば、
「メロン」が表示されるようなアプリである。この時の、1や2や3が無契的な
記号となる。なぜなら、「りんご」と1の間に、自然なつながりや関連が見られ
ないからだ。それが、「りんご」と3になっても同じことだ
もし、これを「りんご」をredで、バナナをyellowで、メロンをgreenという記号で
指示するようにすれば、そこに、その果物の色と記号の間に自然なつながりや関連性が
見られるようになる。こうした記号の使い方を有契的、あるいは有契性と呼ぶのである Mをコンパクトなリーマン面とし、
直線束ξ∈H~1(M,O*_)を考える。
χ(ξ)=dim H~0(M,O(ξ)_)-dim H~1(M,O(ξ)_)-c(ξ)
とおく。
上記は定数であり、直線束ξの選び方によらず定まる。
アーベル微分の空間の次元
g=dim Γ(M,O~1,0_)
を面Mの種数と呼ぶ。
2g=dim H~1(M,C)
である。
χ(ξ)=1-g である
したがって以下がなりたつ
定理6.5(リーマン・ロッホの定理)
Mを種数gのコンパクトなリーマン面とする。
ξ∈H~1(M,O*_)がM上のある複素直線束ならば
dim H~0(M,O(ξ)_)-dim H~1(M,O(ξ)_)-c(ξ)=1-g また、記号内容の区分には、表示義(ディノテーション)と共示義(コノテーション)がある。
「骸骨」というのは、表示義として考えれば骨だけになった死体というオブジェクト、
対象物のことである。「骸骨」は、視覚的にイメージしやすいだろう。
それ以上のレイヤーとして、骸骨には死のイメージなどが象徴的に共有されている。
そうしたより包括的な記号内容のことを共示義という。
「表示義」と「共示義」の関係は縦の関係にある。骸骨という表示義が辞書的な
記号内容の指示物としてあり、その上に死という、より上位の包括的な記号内容を
示すものとしての共示義がある。そのため、骸骨には「不吉な予兆や出来事」などの
共示義があってもいいのかもしれない。
つまり、記号表現に伴う記号内容には、辞書的なスタティックな意味が指す指示物と、
それを包括するレイヤーの象徴的なイメージである共示義というものが存在している そして、共示義(コノテーション)はコンテクストに依存している、と言えるだろう
roseの表示義(ディノテーション)は、バラの花だが、恋人へバラを送れば、
そのroseは、愛を指す共示義(コノテーション)にもなっていることになる
また場合によっては、愛ではなく、単なる義理や何かの魂胆があって送っている
だけのケースも考えられるので、そういう時は、またそのroseの共示義は違った
ものとして現れるとも考えられる
例えば、役人や政治家がよく使う「善処します」は、表示義(ディノテーション)としては
なんとか善くなるよう計らう、という意味だが、一般的には「当面、何もする気は
ない、できれば、ずっとやるつもりはないのだが、面倒になるので、そう答えている」
くらいの意味で受け止めるのが世間的な共示義(コノテーション)になるだろう 〈言語学用語〉
◆デノテーションとは、表現通りの意味のこと。
例:「狼が来た」という表現をその通りに受け止めること。
◆コノテーションとは、デノテーションの影に隠れた意味のこと。
例:「狼が来た」という表現の奥に、そう表現して「自分に関心を持ってほしい」という
狙いがあるとすれば(意識的か無意識的かは問わない)、その狙いがコノテーションということになる。
connotation(特に「デノテーション」に対して)言語記号の潜在的な意味。
デノテーションが普遍的であるのに対し、コノテーションの内容は個人に左右されやすい。
伴示、内示、内示的意味などとも表現される。 すごい。『記号論への招待』に書いてあったことがそのまま書いてある。 >>82
お前も何か書いてけよ。
遠慮しなくていいぞ。 すでに何か書いてあるものに対して何か書いていけよと語りかける行為について。 2つの群GとG’ がある時、それが同じ関係のタイプを持っているかどうか、
すなわち、それが同型であるかどうかを見分けるには、GとG’の間に
一対一対応が存在するだけでなく、その一対一対応はGの要素間の
相互関係を、G’のそれに写して持ち越さなければならない
G = {a,b,ab,a-1,e} → G’= {a’,b’,a’b’,a’-1,e’} 「e、e’は単位元」
このような一対一写像を同型写像といい、同型写像のできる2つの群を同型という
写像は、記号(要素や元)を別の記号(要素や元)へ写すので、記号論を扱う上でも
適切な例題になることだろう。また、群には「位数」という概念がよく出てくるが、
有限群の位数は、その部分群の位数で割り切れる、という性質がある
群Gを部分群gで割って得られた新しい群G’を「商群」と呼ぶ
「商群」を記号的に表せば、G’ = G/g となる ここで無限群の同型の一例をあげてみよう
正の実数を乗法で結合すると、それが一つの群Gになる。また、正負の実数全体を
加法で結合すると、また一つの無限群G’ができる
ここでψ(a) = ㏒ a というGからG’への一対一対応を取ると、
㏒ (a✕b) = ㏒ a + ㏒ b であるから(対数法則、a,bは正の実数)、これは
GからG’への同型写像を作っていることである。この場合は、単位元が単位元に
写る(e→e’)とは、 ㏒ 1 = 0 であるという意味に他ならない。この場合は、
左辺の1が、乗法の単位元である1を指し、右辺は加法の単位元である0を示している
つまり群の概念を使うと、対数の意味や本質がよく分かることになる。
なぜなら対数とは、正の実数の乗法群を、正負の実数の加法群に写す
同型写像のことだと分かるからである。 >>85 インバースが表示されないようだ
a-1はa^(-1)のこと、a'-1はa'^(-1)のことを表す 数学者(M)と哲学者(P)は、似たところがあるように思える
たとえば、数学者はドーナツ🍩とコーヒーカップ☕を同じもの、すなわち
同相、あるいは位相同型として捉える
>「同相とは、一方の位相空間の点と他方の位相空間の点との間に、それぞれの点の周りでの
『つながり方』を保存するような1対1の対応が存在する」ことである。ざっくりといえば、
「同相とは、2つの位相空間の『つながり方』が等しいとみなせる対応があること」である。
位相空間Xと位相空間Yが同相(あるいは位相同型ともいう)であるとは、
@全単射f:X→Yが存在し、Af:X→Yおよびその逆写像f^(-1):Y→Xがそれぞれ連続である
ということである。@は単なる「点の集まり」としてのXとYが同一視できること、
Aは@の同一視がさらに「各点の近くでの点のつながり方」も保存していることを言っている 「同じ川には二度と入れない」は、哲学者のヘラクレイトスが述べたことだが、
確かに同じ川など、どこにも存在していないのである。その点で同じ人間もいないし、
同じ物もない。クォークレベルで考えると、この言明はさらに真実味を帯びてくる
先にあげたトポロジーの数学者とこの哲学者に共通しているのは、目の前に見えて
いる外観にとらわれることなく、本質だけを抽出していくという認知的なスタンスで
ある。数学者なら、ドーナツ🍩とコーヒーカップ☕に同じ性質(円周と同相)を読み取るし、
哲学者なら、人々が当たり前と思っている同じは、実は存在していない、と指摘している
どちらも現象の表面上の違いや同一性にとらわれることなく、現象の本質にアプローチしよう
としている。この時、数学者(M)と哲学者(P)は、類似の地平に立つ。そのため歴史的にも、
数学者と哲学者を兼ねた者が多かったことも、少しも不思議ではないのである
つまり、数学者(M)と哲学者(P)は認識者の型として考えれば、同じ型を持つ記号操作者である x² + y²は、実数の範囲では因数分解できない。だが、複数平面などを学習し, 虚数単位iの
概念を学ぶと、x² + y²という2次同次式は、x² + y² = (x + yi)(x − yi) と因数分解できる
ようになる。実部をx, 虚部をyとする複素数z = x + yiの複素絶対値|z|(ノルムとも言う)
の2乗は、|z|² = zz̅ = x² + y²であるという話に他ならない。ここでz̅ = x − yiは、zの
複素共役と呼ばれる。また複素数全体の集合を複素数体という
ここでは、虚数単位iだけを使っているが、ここにj, k という虚数単位を加えて複素数体を
拡張したものが四元数体(超複素数体)である。 四元数体(超複素数体)の世界では、虚数単位j,kを使って複素数の世界を拡張し、
p² + q² + r² + s² = (p + qi + rj + sk)(p − qi − rj − sk) と因数分解できる
(p, q, r, sは実数)
四元数(quaternion(クォターニオン)とは、複素数を拡張した数体系であり、
虚数単位 i, j, k を用いて
a + bi + cj + dk と表せる数のことである。ここで、a, b, c, d は実数であり、
i² = j² =k² = ijk = −1 …(1)である。このとき 1, i, j, k は、実数体上線型独立である ℍ (四元数体(多元体、斜体)・ハミルトン)のi,j,k間の可能な積は、
上記の(1)の式からすべて導き出せる。たとえば、
ij = k, jk = i, ki = j,
ji = − k, kj = −i, ik = −j などである
この時、四元数は、基底元間の積に関して交換法則が成立していないことに注意する
たとえば、 ij = k, ji = −k となっていることなどから分かる
つまり、四元数ℍ の特徴は、積について「非可換」であることが分かる
ただし、分配則や結合則については成り立つ 共役四元数
四元数 z = s + iu + jv + kw の共役z̅というものを次のように定義する
z̅ = s − iu − jv − kw (s,u,v,wは実数、i,j,kは虚数単位)
この時、以下の関係が計算で成り立つ
zz̅ = z̅z = s² + u² + v² + w²
つまり、最初の方であげた
> 四元数体(超複素数体)の世界では、虚数単位i,j,kを使って複素数の世界を拡張し、
p² + q² + r² + s² = (p + qi + rj + sk)(p − qi − rj − sk) と因数分解できる
と、同じことが表された。四元数を使うと剛体の回転が記述できる。 四元数は、
剛体の回転運動や結晶構造の解析などに役立つ。スペースシャトルの姿勢を
制御する計算にも四元数が使われている 整数の範囲で割り切れない素数も、複素数の範囲では割り切れる。
例えば5は整数の積としては表せないが、複素数の範囲ならば
(1+2i)(1-2i)
と表せる。3も同様に
(√2+i)(√2-i)
と表せる。ここで、5の複素因数と3の複素因数には違いがあり、
5の複素因数の係数は整数だが、3については違う。整数係数の
複素数のことをガウス整数と呼び、ガウス整数に分解できない数を
ガウス素数と呼ぶ。4n+3の形式で表される素数はガウス素数である
ことが分かっている。 オブジェクトや対象物は、それを指示する記号で指示することはできるが、その
意味内容までを指定、もしくは規定することはできない。その記号内容(意味)は
あくまでコンテクストに依存しており、それ抜きでは妥当な意味を獲得できない
この辺りの事情を分かりやすくするために、芸術家であるマルセル・デュシャン
の「泉」という作品を例に取ってみよう。その作品のオブジェクトは、ごく変哲もない
ただの便器である。別に特殊な加工や装飾がされているわけでもなく、現代の
インスタレーション・アートのように、オブジェクトを使って特殊な時空や場所を
演出し、観覧者にそれを体験させるものでもない。ただ美術展示会に「便器」が
置かれているだけである。 つまり、ここでの肝は、オブジェクトや記号としての「便器」にあるのでなく、美術品の
展覧会に、美術作品として「便器」が出展されたという意外性を呼び込むコンテクスト
の方に意味や価値が発生したのである。いわば、通常のコンテクストに亀裂が生じた
のであり、地震が発生したかのような断裂や表記の大きな揺れが発生したのである。
観覧者は、そこでは普通に立ってはいられなくなるのだ
美術作品の観覧者は、その通常のコンテクストから、そこに素晴らしい芸術作品が
展覧されていることを期待して足を運ぶ。だが、そこに出展されていたデュシャンの
「泉」は、日常で一般的に使われているただの「便器」である。そのため、ここに観覧者の
期待や解釈と認知に、大きな記号的なエラーやギャップが発生する。すなわち、芸術
という美を中心化するコードや規定を逸脱するオブジェクトや記号(ここでは、ただの便器)を
目の前にした戸惑いや目眩のようなものが発生したのである デュシャンが何を目論んで便器である「泉」を出展したのかは定かでないが、
記号論で考えると、これを記号の恣意性と形容したくなる。つまり、記号は基本的に
どこへ置かれても良いし、どんな風に使われてもいい。数学であれば、公理や定理、
証明が必要とされ、言語であれば統辞論的な規定や規則がコードとして必要に
なるが、それでもそうした記号をどのように配列し、使用するかには一定の自由が
開かれていると言える
デュシャンにとっては「泉」➖「便器」➖「芸術」という一連の記号的な連鎖や系が
存在しているのである。これをフロイト的な精神分析の文脈へ移植すれば、
またこれらの記号は、ファルスやリビドーの代用記号として別のコンテクストで
解釈され始めるのである
つまり、記号は閉じた系ではなく、自由に対しても常に開かれているのである
すなわち、記号は創造と創発の契機を潜勢させているのである ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています