イスラーム世界衰退史
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イスラーム世界の衰退および現状について、批判的に語るスレです
イスラーム世界を賛美・擁護・弁護する内容のレスは厳禁とします
イスラーム世界について持ち上げたい方は該当スレでお願いします
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1303004948/l100
★☆★イスラーム史総合スレ その4★☆★ >>19
9世紀の唐とか節度使の群雄割拠だし
11世紀のヨーロッパとか、ようやく現物経済から抜け出しつつある未開国家だぞ >>51
うんなことはない
イブンバットゥータの「大旅行記」にはアナトリアの都市の様子について、どこも娼婦が満ちており
法務官ですら売春業を裏で営んでいることを記している
それについ最近まで未婚の女はこんな格好してたからポルノも必要ない
https://i.pinimg.com/474x/8c/42/c0/8c42c03d5c20e92ca0fab7d2f9b8acb6--arabian-women-feminin.jpg 大航海時代以前のヨーロッパとか刀剣と女以外、売り物がない今のフィリピンみたいな最貧国じゃん
おかげで千一話物語にはよくフランク人の女奴隷が良く出てくる >>91
それはイスラム海賊が働きまくっていたというだけ。
豊かとか貧しいとかあまり関係ない。 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
LPWNE >>92
黒人奴隷と一緒で売ってたのは現地の領主だが
カール大帝もヴェネチアと女奴隷の販売を巡って争ってたしな 12世紀までのヨーロッパの主な輸出物
傭兵、女奴隷、刀剣
どこの国でも高く売れるのは人間だからろくな売り物がないと人間を売るわな
日本も古墳時代までは大陸に奴隷を売って鉄器輸入してたし >>95
逆だろ。日本は大陸から奴隷を買っていた。 >>95
これは後の欧米を予感させる
刀剣が売り物になる→技術がそれなりにある→鉄砲量産・武器売買と産業中心地の予感
女奴隷→人身売買が貿易の中心→奴隷貿易と洋ピンポルノ産業の予感
傭兵→現代の紛争地で活動する欧米傭兵会社の予感 うーん >>95
>古墳時代まで
戦国時代も日本は大量の奴隷を輸出してたのに イスラーム世界が衰退したんじゃなくて、
近代ヨーロッパの発展が異常だったんだろ >>99
たしかにそうだが、ここ数百年のイスラム世界から、これといって新たな科学や哲学が生まれていないのも事実。
中国と同じく、千年前や五百年前の勢いがなくなり、なぜか停滞期に入った。 >>100
イスラーム世界にも中国にも「自由」が存在しなかったから
自由のない社会は、ある程度までは発展できるが、それを過ぎると
頭打ちになって停滞する。 中国の停滞もイスラームが入ってきた元朝時代以降。
イスラームは発展を阻害する要因になっている。 イスラムはトルコ系が支配してから没落した感じがするな イスラーム世界も、〈西洋の衝撃〉を受けてからはなんとかして遅れを
取り戻そうとしていた。
例えば、エジプトのムハンマド・アリーの改革とか。
それらの政策がなぜ成功しなかったかを考えたほうがいいのでは? イスラームや中国に「自由」はないのなら
それこそヨーロッパなんてエルベ川以東のとくに東側諸国に至ってはここ数十年前まで「自由」がなかったことになるが 実際なかっただろ。日本人が考える“外国”とは啓蒙思想を受容している西欧のことだった。 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
9N9 大川周明が東京裁判で東條英機の後頭部を叩いて入院させられた松沢病院も研究に参加している。
大川周明が松沢病院の書斎で預言者ムハンマドと対話したことはよく知られている。
統合失調症、初期に手厚いケアで症状安定 研究で判明:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL6G75QYL6GULZU00W.html
2018年7月13日05時31分
統合失調症などの精神疾患にかかった初期の段階で、治療に加えて手厚い生活支援をすることで、
症状が落ち着いたまま過ごせる確率を大幅に高められることが、東京都医学総合研究所などの研究でわかった。
英国などで取り組みが進む手法で、日本でも今後、広がる可能性がある。
この手法は「初期包括支援サービス」と呼ばれ、治療にあたる医師とは別に、
看護師や精神保健福祉士といったスタッフが「ケースマネジャー」となって患者や家族のケアを担当。
家庭を訪問して患者の困っていることを聞いたり、学校や職場を一緒に訪問して復学や復職を支援したりする。
研究には都立松沢病院や東京大病院などが参加。
統合失調症や双極性障害を発症した77人(15〜35歳)のうち40人にこの手法を、
37人には外来受診を中心とした通常の治療を受けてもらい、1年半後の様子を比べた。
すると、目立った症状がなく落ち着いた状態が半年以上続く「寛解」
と判断できた患者は支援サービスを受けた側で23人、通常の治療を受けた側では10人。
初期の病状なども踏まえて解析すると、症状が落ち着く割合はサービスを受けた側が6・3倍高かった。
薬を使う量が少なくてすむ傾向もあったという。
こうしたサービスによる効果は、海外の研究でも報告されている。同研究所の西田淳志・プロジェクトリーダーは
「患者にとって信頼できるスタッフと、発病後の早期から社会復帰に向けてともに歩めたことが回復への希望を生み、
症状の安定につながったのではないか」と話す。
結果は、精神医学研究の専門誌に掲載された。 老衰退するぐらいなら。睡眠の調節の薬もいいいよな。 >>104
メフメト2世とかもそうだけど、所詮、本人が死ぬと終了。
かえって反動派が勢力を増す。 >>104
イスラム世界では宗教が強すぎた。
宗教を批判しそれと対立しながら政治体制や科学技術の変革を推し進めた
西洋の生き方を真似することはとてもできなかった。 現代人には信じられないかもしれないが、中世の殆どのムスリムにとって、
キリスト教世界とは第一にビザンツ帝国を意味した。そしてビザンツより
遠隔の地の欧州は、さらに遠いアフリカとほぼ同様に見られていた有様。
学ぶべきものはなく、奴隷と原材料以外に輸入されるべきものすら殆どない、
野蛮と不信仰の暗黒地帯と見なされていた。 スリランカ、反イスラム暴動で初の死者
https://www.afpbb.com/articles/-/3224829
2019年5月14日 9:45
【5月14日 AFP】キリスト教の祝日イースター(Easter、復活祭)に起きた連続爆発事件後、反イスラム暴動が続いているスリランカで、一連の暴動で最初の死者が出た。
同国では13日夜、首都北方の3県に暴動が広まったことを受け、全土で夜間外出禁止令が出された。
警察当局者によると、死亡したのは45歳のイスラム教徒の男性。
北西部(North-Western)州プッタラム(Puttalam)県で12日始まった暴動のさなかに「鋭利な武器」で襲われ、県内の病院に収容されたが間もなく死亡した。
この当局者はAFPに対し、被害者は自身の木工作業場で暴徒らに攻撃されたと説明。「暴動による最初の死者だ」と述べた。
ラニル・ウィクラマシンハ(Ranil Wickremesinghe)首相は、素性不明の集団が地域住民間の暴力を引き起こし、
国の安定を損なうことを防ぐため、夜間外出禁止令が交付されたと発表した。
北西部州では12、13両日、キリスト教徒主導の暴動によってイスラム教徒が所有する店舗、自動車、礼拝所(モスク)が放火される事件が発生。
事態を受け、住民に外出を控えるよう指示が出ている。
一連の襲撃は、イスラム教の断食月(ラマダン)の最中に起こった。
(c)AFP/Amal JAYASINGHE 中田考が
「イスラーム世界って、恐ろしいほど安全」
とか、
「中東はもともとマルチエスニックで、しかも遊牧文化ですから、
基本的には人間というのは、たとえ知らない人間であってもお互い
殺し合ったりしないものだというのが当たり前」
なんて言っているが、アラビア半島の遊牧民は掠奪が生業だったぞ。
平和的だなんてとんでもない。 >>116
そういう分かり切った現実との乖離を埋めるための学問が神学です。ご存知ですよね? 19世紀、ギリシア独立戦争に参加した西欧人は、近代のギリシア人が
古典を読んで想像していた古代のギリシア人と全く異なる
人種であることを知って、意気阻喪し、幻滅した。
戦場を生きのびてヨーロッパに帰還した人々は、
「ほとんど例外なく、ギリシア人に深い嫌悪感を抱き、かつ憎んだ。
そして騙され続けてきた自らの愚かさを呪った」
もし現代の日本人がイスラームびいきの知識人の書くことを
真に受けて中東に行ったら、同じような幻滅を味わうだろう。 偉大な哲学者や宗教開祖を輩出した土地の人々が今どんな生き方をしているかを見ればいい。
神学の価値はまさにそこにある。 内藤正典は、欧米諸国がサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」の
ような種類の言説によってイスラームを次の敵と決めて、じわじわと
ムスリムを追い詰めていったと主張する。
どうもこの人は、日本は英米によって太平洋戦争をせざるを得ない状態に
追い詰められていったとする陰謀論者と思考回路が似ている。 アラビア半島の遊牧民にとって、サウジアラビア王国が成立するまでは、
部族間の戦争や隊商の襲撃は普通の状態であった。
ベドウィンは「日本の農家が秋になれば稲を刈るのと同じ感覚で、
嬉々として掠奪に出かけた」
食うに困って襲うのではなく、当然の収穫として、むしろ余裕のあるときに実行した。
その証拠に、掠奪の遠征は好んで冬が選ばれた。
砂漠にいくらか雨があり、牧草が豊富で、家畜の乳がよく出て、
最も生活の楽なシーズンである。
この時期はとくに「ラビー」と呼ばれ、さまざまな種類の掠奪隊が内陸にひしめいた。 ベドウィンにとっては、彼ら以外の人間は掠奪の対象としてのみ意味があった。
町の住人や農民や羊を主とする弱い牧畜民などオアシス中心の人々は、ベドウィンに
何千年来いじめられっぱなしだった。酷薄な自然と、酷薄な人間。
徹底的掠奪と、全村皆殺しのような惨劇の繰り返し。
昔から町の住民はベドウィンを野獣にたとえていたし、メッカの商人などは
彼らを悪鬼と同じ扱いをしていた。 皆殺しにすれば後腐れないからね。財産を全部手に入れることができるし。この辺は、中国大陸の遊牧民と定住民の関係とよく似ている。
金銀の価値が高いのは、略奪品であっても価値が下がらないから。 古典的イスラーム法規範では、ムスリムは「戦争の地(イスラーム法によって
支配されていない地)」に住んではいけないことになっていた。
ところが現代のムスリムはヨーロッパに喜んで移住する。
現代の、西洋文明の影響を受けた後のイスラームは、古典的イスラームとは
異質なものに変貌している。 11〜12世紀には、エジプトやチュニジアの毛織物が、
南ヨーロッパにも輸出されていた
しかし、西ヨーロッパの毛織物のレヴァントへの輸出が、
十字軍時代に始まり、14世紀末には、その安価な毛織物が
大量に輸出されたので、現地の毛織物工業はもとより、
綿織物工業や麻織物工業までもが衰退したという
レヴァントでは、マムルーク権力による重税や財産没収のために
私企業が没落し、マムルークたちの特権企業が技術水準を
低下させたので、西ヨーロッパの活発な私企業の製品に
対抗できなかったのである オスマントルコの諸改革は、何故挫折したのか。
オスマン帝国憲法が発布された、1876年当時のオスマン帝国の情勢は、前年からのボスニアでの反乱(ボスニア蜂起)がブルガリアに飛び火し(4月蜂起)、
これらのオスマン帝国に対する諸反乱に対して、ロシア帝国が正教徒の保護を口実に介入の構えを見せているという状態であった。
また、西欧諸国ではこれらの反乱の鎮圧時にオスマン軍による残虐行為があったと
報道され、オスマン帝国に対する不信感が生じつつあった。
このような緊迫した状況の中で、ロシアに対抗する為には、諸外国のオスマン帝国に対する支持を取り付けつつ、
国内においてはさらなる近代化を図る必要に迫られた。
こうして近代化改革の続行を内外に示すことを目的に憲法の制定が行われる事になり、皇帝・アブデュルハミト2世は憲法制定を求める勅令を出す。
これに基づいて、立憲派の中心的人物であるミドハト・パシャを委員長とする制憲委員会が設けられる事となった。
制憲委員会には「新オスマン人」と呼ばれる立憲派の他に、キリスト教徒の委員なども含まれており、約2ヶ月の論議の末、
1876年12月23日にオスマン帝国憲法は発布された。
また発布に先立ち、ミドハト・パシャは大宰相(首相に相当)に任命されている。
憲法の内容は主にギュルハネ勅令や改革勅令といった、西洋化を目指すそれまでのタンズィマートによる諸成果を踏まえたものであるが、
憲法に対して保守派の間で激しい抵抗があり、
また、皇帝は憲法によって自らの権力が制限されることを警戒し、憲法に対して否定的であった。
このためミドハト・パシャは、「国家にとっての危険人物を皇帝が国外追放にすることができる」という条項を加えることで皇帝と妥協し、
発布にこぎ着けた。
全119条からなり、以下のような内容を含んでいた。
スルタン=カリフ制の明文化(第4条)
ムスリム(イスラム教徒)と非ムスリムの平等(第8条)
オスマン語(トルコ語)が公用語である事(第18条)
上下両院からなる議会の開設(第42条)
西洋式の法律に基づく裁判所とシャリーアに基づく裁判所の並立(第87条)
皇帝は戒厳令を発令し、危険人物を国外追放に処すことができる権利を持つ事(第113条) 19世紀のペルシア語小説、『エブラーヒム・ベクの旅行記』の内容
この時代、浴場に象徴されたイスラームの高い衛生水準も過去のものになっていた
エジプトから、憧れの祖国イランを訪れたエブラーヒムは、公衆浴場のあまりの
不潔さに愕然とする
浴槽には悪臭ふんぷんたる水を満たし、それをハズィーネ、つまり”コッル”
(宗教的に清浄な水)と称している
水は、あまりの汚れのために玉虫色に変色していた
その悪臭は、人間の脳髄をかき乱した
あらゆる流行り病の温床が、まさにこの腐った水にあることはすぐに判った
というのも、街の盲目も禿も傷病者も例外なく、夜となく、昼となく、
男であろうと女であろうと、三か月もそのままになっているこの腐った水に
入るのである しかしキリスト教世界はイスラムにだけは容赦ないな
寛容いうのなら聖書にコーランを混ぜて
中東文物を翻訳させるべきでは イランのサファヴィー朝って、アッバース1世の死後は、側室や女官を中心とする
ハーレム勢力に牛耳られる無能なシャーばっかりだったな
この辺からケチがつきはじめる
王権の衰退とともにウラマーの勢力も強まっていった
そして1722年にアフガニスタンのカンダハール遊牧民2万人の侵入が… すみません
イスラム教について質問出来るスレが無いのと荒れてて機能していないスレが多いのでここで質問させてください
以前イスラム教についてwikipediaで色々と関連項目を移動しつつ調べていたのですが
「イスラム教(アラブ世界?)では戦いの時に詩の優劣で勝敗を決める」
「ある黒人ムスリム(有名な人?もしくは有名な人の家来?)が「もし私の肌が黒くなければ女達はを私を愛しただろう」といった詩を詠んだ」
といった記述ががありました
もう一度調べたいと思いwikipediaで探しているのですが見つかりません
上記ふたつのエピソードについて知っている方はいますか?
中世の話しです イスラム教の中でもワッハーブ派は異文化への関心や学習意欲が低い
彼らにとって見倣うべき文化とは初期世代の文化であり、それは普遍的な模範と
みなされる
ワッハーブ派の人々は、18世紀のサウジアラビアで暮らそうと、21世紀の欧州で
暮らそうと、模範となる文化は同一 ワッハーブ派の特徴といえば
偶像崇拝の徹底した禁止が挙がるが、
最近のサウジ社会って、いつの間にかアニメも映画も
(検閲付きとはいえ)解禁されちゃてるのね。
ウラマーは「液晶画面は背教への扉なり」とか断じないのかいなw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています