明清帝国 二
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
>>842
広東が独立国ってそれはもう中国じゃなくてベトナム2号だしそう都合よくはいかんよ多分
ポルトガル以前に西方(地中海、欧州、アラブ)では古代から海を使った往来が盛んで海軍が整備されていた
海の存在感が希薄だった中国世界とは年季が違う >>848
コーヒーの世界貿易取引額は年間8兆円(古いデータでだが)で石油に次ぐ規模。
人類は単なる嗜好品にベラボウなお金を使っちゃんだな。 >>850
そう、江戸時代の日本は、なんでも自国で作れるようになり、中国から買うものがなくなった。
しいていえば漢籍くらい
室町時代の、資源を輸出して陶磁器や絹織物・木綿・茶をせっせと輸入していた頃とは隔世の感がある >>851
スペイン・ポルトガルは、新大陸に近かったのも大きいな
大西洋は狭いから、ポルトガルと新大陸は、日本とシンガポールくらいしか離れてない それにくらべて、太平洋は広すぎる
地球儀で見ると、太平洋の側は青一色だ
ほとんど地球の半分を占めているくらいに見える そら地球を半周したポルトガル船の武力を借りるくらいだし…
倭寇の最終進化形態である鄭成功の水師も同兵力じゃオランダ艦に手も足も出ない そうだな
鄭和の艦隊は、船の大きさや船団の規模が当時としてはケタ外れにデカかったが、莫大な国費をかけた単なるデモンストレーションにすぎない
「明は、その気になれば海洋覇権をいつでも取りにいけた」という人がよくいるが、それはどうかなあ? 左翼や朝鮮人は「鄭和の大艦隊」の話が大好きで、なにかといえばコレを持ち出してくる
「中国が海洋覇権を握るのは、本来あるべき姿に戻るだけであり時間の問題なのだから、尖閣諸島のことはは諦めろ」
というわけなのだが、清の海軍だって「眠れる獅子」と言われてたのは同じ >>824
支那チョンの建築基準にはまともな耐震基準がないから、
日本の建築基準法では完全な欠陥建築とされて絶対に
建築許可が出ないビルが平気で建ってしまう。 >>858
まあ鄭和船は碌な資料が残ってないから実態不明なんだけどね
特に大きかったという話がない元寇船でも人数は十分に運べる
つか、その気になれない時点でその資質がない 「経済史研究者によると、19世紀の清は世界経済の3分の1を占めていた」
「鄭和の艦隊は、大航海時代の西洋列強の海軍力を遥かに超えていた」
これが「中国覇権国家論」の二本柱というか、二大根拠というか、このテーマに関心ある者にとっては耳タコな話題なわけだが
しかし、両方とも、「そう主張している人がいる」というだけであり、たいした根拠があるわけではない >>859
なんでそこで左翼が出てくんねん
鄭和は共産主義者やったんか?
イスラム教徒やったはずやで
「資本論」や「共産党宣言」で鄭和を賞賛してる部分をいんようしてくれ
「国家と革命」や「実践論」でもええで >>864
何を意味不明なこと言ってるんだ
ここでいう左翼ってのは、日本の親中派サヨクの爺さんたちだよ >>866
おまおこそなに意味不明なこと言うてんねん
そんなもん左翼言わんわアホ 日本の皇居は、江戸幕府の江戸城
ソビエト連邦になっても、ロシア連邦になっても、政府はロシア帝国のクレムリン宮殿のまま
中国共産党も、明清帝国の紫禁城を受け継いだ。
やはり、五百年の歴史は重い
ここにいないと、全土に威信が行き渡らない >>849
硫黄の輸出は箱詰めして船倉に積み上げていたことがわかっているが、
木材の輸出形態は多分まだよくわかっていない。
なんせ、20世紀の間はあれだけ膨大な量の宋銭や陶磁器の輸入対価が
ほとんど奥州の金で支払われていたって蒙説が大手を振っていたんで、
ここら辺の研究がかなり遅れている。
奥州の金がそれだけ膨大な量輸出されていたとしたら、大元ウルスは
銀本位制じゃなくて金本位制を採用しているわな。 >>853
ただ、漢方薬は大きく輸入に頼っていた。
漢方薬の原料の生薬類は、蝦夷地の昆布とのバーター取引が行われていた。
中国の内陸部はヨウ素不足で甲状腺障害が多かったので、昆布がその治療のために
大きな需要があったんだな。あと、氷砂糖のような精製糖も輸入に頼っていたな。
結局、江戸期を通じて「国産化」に励んだ絹、茶、磁器は明治日本の重要な輸出品になり、
近代化の原資となった。
比較優位原則などくそくらえだ! >>858
結局、貿易の実利をとっていた大元ウルスのインド洋進出政策が背景にあって、
その時の技術的資産を蕩尽した単なるデモンストレーションだったのが、
鄭和の大航海なんだよ。
あれを持ち上げるなら、クビライ政府のインド洋経済進出策をもっと礼賛すべきだな。 >>862
原始的なハンドカノンレベルの、つまり小銃と大砲が未分化な初期火砲は大元ウルス時代の発明。
その後、それの進歩型のフランキ砲は16世紀に西洋から伝わって普及している。
ただ、明とライバル関係にあったティムールが中央アジアで大型の大砲を多用しているから、
その手の大砲はティムールの時代、つまり14世紀には明に伝わっていてもおかしくない。 >>875
元寇の時の「てつはう」は導火線に火をつけてから投石機で飛ばす炸裂弾、つまりグレネードの一種。
金属の筒に火薬を詰めてその爆発時の燃焼ガス圧で実体弾を飛ばすタイプの火砲は元代も末期の発明らしい。
宋代とかの初期の極東の火薬兵器は火炎放射器的なのとかロケット砲的なのが主流だった。
あと、毒物を火薬に混ぜて火炎放射器的な兵器で毒ガス燻蒸するってのもあった。 >>869
オスマン帝国のトプカピ宮殿
トルコ共和国の首都はアンカラ
あと、ロシア帝国の都はペテルブルグやで
モスクワはピョートルが遷都する前の旧都や >>871
いりこ、干しあわび、フカヒレの俵物は
中華料理の食材で長崎貿易で重要。 >>878
長崎近傍の幕府直轄領で「俵物」の生産地として重要、つまり幕府のドル箱だったのが天草諸島。
だから、天草の「隠れキリシタン」は信仰を表ざたにしないで隠れて信仰している限り、
あえて突っ込んだ追及はしない、という「暗黙の妥協」が確立していた。 そういえば、当時は長崎以外では中華料理て全く食べられてなかったん?
黄檗宗の普茶料理は特殊な中華料理ということになるけど、それは抜きで >>880
薩摩の黒豚料理が、多分中国からの影響を受けた琉球料理の流れじゃないかなぁ。
それから、鎖国前には博多港も重要な貿易港で、唐人商人も数多く土着してたから、
中国の料理の流れを受けた料理は作られてたかも。 >>878
そこに目をつけた田沼意次は、やはりタダ者ではなかった >>885
ただ、「大原騒動」なんかを悪化させてしまった経緯をみると、
農政のセンスは致命的になかったんだろうなぁ。 >>853
日本が中国に頼らず何でも作れるようになったのは19世紀初頭の文化文政時代ね。
それまで高品質の絹製品と砂糖はほぼ中国からの輸入品。 >>862
「もののけ姫」のタタラ場の連中が使っていた石火矢
あれのモデルになった「火槍」という中国の兵器なのだが初出は感平三年(1000年)八月の(宋史)のこと
12世紀に入ると「霹靂砲」と言われる大砲型も開発され采石磯の戦いでは虞允文率いる宋軍によって実戦投入されている >>883
中南海は清朝皇室の庭園で紫禁城の真横(江戸城で言うと吹上か北の丸みたいな感じ)に位置する。
天安門を正門とする皇城の内側に当たる。(平安京で言うと大内裏だな)
辛亥革命後は袁世凱がここに大総統府を置いた。 映画「ラストエンペラー」でも溥儀兄弟が壁よじ登って
総統府に入場する袁世凱を覗くシーンがある。
現在中南海と北海公園は道路で分断されて別の施設になっているが元は一体の庭園。 >>887
砂糖はシナではなく、オランダ船からの輸入じゃないか?
オランダ船が東南アジアに寄港した際に砂糖を積み込み、日本で売りさばく。 >>888
宋代の「火槍」は石火矢タイプの金属管から実体弾を射出するものじゃなくて、
黒色火薬を使用した火炎放射器みたいなものじゃなかったっけ。 北海、中海、南海はもともと皇城の中庭の池だったのが康熙帝があまりにも皇城が広すぎるとして
本丸に当たる紫禁城だけを残してあとは民間に下賜したため市民の憩いの場的な存在になった
明代の頃は西安門というのがあってここを越えないと現在の中南海には入れなかった >>892
その「皇城の中庭の池」ってのが、明代の紫禁城になる前、元朝の大都時代には、
天津あたりの海から大都に向かって伸びた運河の末端、大都への物資輸送の
ターミナル港だったんだよな。 元朝の大都時代には、北京は運河で天津と直結する海港だったんだが
なんで、明朝は海運を嫌ったんだろうな? 元代には蒙古人は宮殿は儀礼に使うだけで外にテント張って住んでたらしいけど
テント張って住んでたとこはどこやねん 宮廷におけるモンゴル人のテント
モンゴル人は、中国式の建物を宮殿として造営していました。ところが、文献資料を調べてみると、モンゴル人は中国を統治するようになってもテントを使う習慣を保持していたことがわかります。
たとえば、『草木子』という書物には、元の皇帝は代々即位すると立派なきらびやかなテントを新調していた、という意味のことが書いてあります。
また、元朝の歴史書である『元史』には、皇帝には四人の正夫人があり、それぞれの夫人が自分のテントを持っていたことが書かれています。
テントは移動可能なものであるため、上に述べた記述だけではどこでテントを使ったのか確定できませんが、別の記録によると、大都の皇城内でもテントを建てて使用していたことがわかります。
たとえば、『祕書監志』、これはおもに皇帝との謁見の際、臣下の奏上内容や、皇帝の命令を集めた書物ですが、このなかに「内裏のテントの中で」皇帝に謁見した、という記述があります。
このほか、特殊な例として、皇帝崩御のおりには、テントで葬式をすることが『元史』に見えており、実際チンギス・ハーンが崩御した際、テントで葬礼を行ったことが当時の文人によって描写されています(『秋澗先生大全文集』)。
また、大宴会を皇城内で行ったという記事もあり(『析津志』)、モンゴル人は中国式建築群の立つ皇城の中であっても、ずっとテントを使うという習慣を持ち続けていたことがわかります。 >>895
むしろ、テントを儀礼に使っていた可能性もある
文献の記録によると、その可能性が高い 現代のモンゴルの首都ウランバートルでも、高層ビルやマンションが建ち並ぶ中に、テントを張って生活する人々が大勢いる >>897
ほな宮殿は儀礼用でさらないただの飾りか 中世〜近世のイランの帝王ってのも、だいたい遊牧民系の血筋なんで、
閉鎖的な王宮を建てて中に住まうってのは嫌っていたらしい。
だから、だいたい囲壁で囲った広大なペルシア庭園を造営し、そのなかにいくつも
豪奢なあずまやを建てる。当然、あずまやは壁で囲まれてなくて開放的な構造。
で、イランの帝王はそのあずまやの中に豪奢なペルシア絨毯を敷いて、
その上で宴会を開いたり寝起きをしたりしていた。 >>902
屋根だけのあずまやで寝て寒ないんか
イランなんか高原ばっかりで寒そうなイメージあるけど
テヘランなんか冬には-20度くらいまで気温下がるらしいやん >>903
昔から、その点がすごく気になっているんだよね。
いったいどういう寝具を使っていたんだか。
それとも、冬はあずまやの中に天幕でも設営していたのかね。
でも、彼らの慣習からどうしてペルシア絨毯があそこまで豪奢で高価なのか
それははっきりとわかるよね。
彼らにとって豪華なペルシア絨毯を敷けば、そこはすなわち豪邸なんだ。 >>901
いや、いくら遊牧民でも、さすがに寒い北京の冬の夜を、わざわざテントで過ごそうとは思わんだろ
どっちかっていったら、テントはモンゴル民族の伝統儀式用で、日常は中国建築で暮らしてたんじゃないかと思う >>904
現代のモンゴルのゲルだと、床下に家畜のフンを敷き詰めて保温してるらしいが 冬は、首都のザナドゥが寒すぎるから、北京に冬営した
モンゴル人にとって北京は仮住まい いや、だいたい遊牧国家にとって夏営地よりも冬営地の方に本格的な首都機能がある。
初代のチンギス・カンの宮廷でも、冬営地の「ヘルレンの大オルド」の遺跡である
アウラが遺跡で首都機能の遺構が数多く発見されていて、夏営地の「カラトンのオルド」
の遺構であるブフグ土城遺跡は防衛用の城塞以外はかなりスカスカ。 そうなのか
まあ、そういうもんだろうな
ザナドゥよりも、北京のほうが大都会だったのは間違いない 夏営地では家畜群を広く分散させて青草をたらふく食わせて乳を搾って乳製品を作り、
その間に冬営地では留守番要員に越冬用の干し草を作らせて補助的な農耕もやらせる。
冬になると分散していた遊牧集団が冬営地に集合して集団生活で越冬、というのが
遊牧民の基本パターン。この冬営地で越冬の集団生活を送る共同体の単位が、
基本的な軍事行動のユニットになる。 >>905
モンゴルは北京よりもっと寒いんやで
ウランバートルは北京どころかモスクワより寒いんやで ということは、夏季はモンゴル高原で遊牧生活、冬季は北京のテントで越冬するというわけだな >>913
夏は直属の牧民と家畜群が上都周辺に散開して放牧にいそしむ中、
帝は側近たちと狩猟などを楽しみつつまつりごとを行っていたらしい。
なぜそれがわかるかというと、帝が移動宮廷とともに引き連れている家臣団の中に、
帝が飲む「馬乳酒づくり」など乳製品製造の専門集団が入っているんだな。
馬乳酒なんて日持ちのするもんではないから、帝のいるすぐ近くに日常の食生活に供せられる
乳製品の製造集団と、そこに原材料を供給する畜群・牧民群が居たって事なんだな。 >>914
中華皇帝になっても、ライフスタイルは遊牧民のままで変わらなかったわけだな
元朝は百年ももたなかったが、明や清みたいに三百年近くも続いてたら、どうだっただろうな ということは、北京の皇城は、夏季は留守番の連中が宮殿に住み、冬になると支配者集団のモンゴル皇帝や皇族たちがやってきて、城壁の内側にテントを張って越冬キャンプする・・・というのが年中行事だったわけだな
これに関しては、>>896のコピペにあるような断片的な記録しか残ってないから、推測するしかないわけだが >>918
普通に発掘で区画整理だけしてあって構築物とかが全然なかった事がわかってるから
裏取りはできちゃってるけどな >>919
そうなのか?
じゃあ、北京の皇城には、中華式の宮殿建築があったわけじゃなくて、単なる越冬キャンプ場にすぎなかったわけだな >>917
清は蒙古と違うて最初から積極的に中華文明採用したから
その代わりの胡服弁髪強制なんやろ ひゅーるり〜
ひゅーるりーららー
ってか。
大都って遺構はまだあるの? >>912
たぶんコイツはテントと聞いてアウトドア用のテントみたいなの連想してるんじゃないのか
ゲルとかユルトとか知らんのだろうな >>920
今の2〜3倍くらいのサイズの北京の半分がキャンプ地
残りの部分が城塞、宮殿等 紫禁城は明の建築やからな
その前はどうなってたのか気になるな ちょっと整理したいんだが、現在の中南海は金時代のルーツだ。 それと、
元代の港は皇城の南側で中南海の位置ではない。北海には水路があった。
それと皇城にはちゃんとハーンの宮殿はある。復元CGには描かれている。
大ハーンのオル℉(大帳幕)は文献では1000〜2000人が収容できる巨大さ。
歴史群像{チンギス・ハーン下巻」に復元イラストが載っている。 モンゴル人は都市生活嫌いだから、都市の外にテント張って生活してたみたいよ ザナドゥを訪れたマルコ・ポーロは、華やかな宮殿の彫欄玉砌に感心した記録を残している
モンゴル人も、宮殿にまったく興味がなかったわけではないようだ 大都は、内陸の都市としては驚くべきことに、「積水潭」と呼ばれる海につながる都市内港を持つよう設計された。
現在の天津にあたる直沽から通州を通る閘門式の運河(通恵河)が開削され、城内の積水潭に繋げられたため江南地方からの物資も水運により結ばれるようになった。
このため、陸上輸送された時代に比べて物資の輸送量は飛躍的に増大し、海のシルクロードを通してさまざまな国際商品が大都にもたらされ、国際商業都市として空前の繁栄を極めた。
大都には西方の旅行者・商人も多く訪れ、その繁栄ぶりは、イブン・バットゥータやマルコ・ポーロなどの旅行記でヨーロッパにまで伝わった。 >>931
地下鉄積水潭駅なら利用したことがある。
降りて、少し歩くと徳勝門があって、その脇に万里の長城や明十三陵行きのバスが出てて、観光客がいっぱい。
八達嶺長城まで1時間。
交通ICカードを使うと、とても安い運賃で行けた。 >>932
海港がなくなっても、名前だけは残っているんだな __
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r┤ ト::::: \___/ || このスレも伸びてきた今、
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ 朕も顔出しせねば。
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ >>934
懐良親王「なんかブサイクな奴がきたぞ?」 上都も住んでるのは漢人で基本的にモンゴル人は城壁の外で遊牧
定住農耕には適さない土地なのでしょっちゅう住民が逃亡しては
また漢人を集めて住まわせるの繰り返し 世界遺産「元上都遺跡」
遺跡自体にはほとんど何も残っていません。
ただ、大草原の中の遺跡。。。
内モンゴル自治区のドロンノール県中心市街地から北西へ28km離れており、北京からは北へ275km。
元朝の夏の首都として使われた。
1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記録したことによりヨーロッパ人にその存在が知られるようになった。
西洋ではザナドゥ(Xanadu あるいは Xanadumoo、Zanadu、Shangdu)とも呼ばれる。2012年、UNESCOの世界遺産に登録された。
https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/86/88/500x_10868886.jpg?updated_at=1402750146 >>937
いまじゃ、草原というより砂漠
こんなところで農耕はムリ 上都は、北京を東京とすると、仙台よりちょっと北くらいの位置にある いや違った
仙台ほど遠くはない
東京を北京とすると、上都は福島か郡山あたりだ
こうしてみると、仙台もけっこう遠いな
伊達政宗や北畠顕家の長征の凄さがよく分かる >>933
積水潭駅の側に西海という湖があって
なかなか風光明媚なんだが、
あそこが海と繋がってたんか! 繋がっていたのは西海ではなく 現在の北海公園
まあ、北海に繋がっていたのが西海であるから間違いではないが ホンタイジについて常に語られるのは、その名が「皇太子」に由来すると言うことである。
・・・そもそもこの「ホンタイジ」が、実は本名ではなかったとみられることが、夙に指摘されている。
すなわち三田村[一九四二:一四頁]によれば。明の陳仁錫「山海紀聞」に「喝竿」、朝鮮『仁祖実録』に「黒還勃烈」とあって、本名はヘカン、ホンタイジは通称だというのである。
>(三田村論文)・・・然し本當の名は皇太極ではなかった様である。 明の陳仁錫の山海紀聞によると「黄旗下是喝竿汗。老奴第四子也。老奴死。喝竿立。奴衆稱爲汗」とある。
この通りであれば太宗の本名は皇太極でなくては喝竿hekanといふ事になる。
今度李朝仁祖實録を見ると、太祖の没した時にこの前後の情報を齎した平安監司の馳啓がのせてあつてその文中「奴酋死後。第四子黒還勃列承襲」と記して居る。
黒還勃列はhekan beile(貝勤)で陳仁錫の記述に合する事になり太宗の本名は通説の皇太極でなくてへカンである事が確かめられた。
このことはその後はほとんど深められていないが、あらためて確認すると、ヘカンという名を記す記事は、同時代の明・朝鮮史料にかなり見いだすことが出来る。
・・・したがって、残念ながら正確な語と語義は不明だが、ホンタイジが本名でなかったことは確実と思われる。
(杉山正明『大清帝国の形成と八旗制』) 老奴とか奴衆とかめちゃくちゃなめくさってんなw
滅んで当然 たとえば、南インドの4大州のひとつ、カルナータカ州
この地に興亡した
前期チャールキヤ朝、ラーシュトラクータ朝、後期チャールキヤ朝、ホイサラ朝、ヴィジャヤナガル王国を、
「カルナータカ史」としてまとめてみる
これだけでも、フランス史に勝るとも劣らないほどややこしい
人間の処理能力としては、これくらいが限界だろう それにしても、複雑すぎて意味不明なインド史と比べて、中国史のシンプルなことよ
明清帝国なんて、江戸時代の日本や、ブルボン朝期のフランスと変わらない印象だ
日本やフランスのような普通の国を十個以上も集めたくらいの国家規模なのに、よくここまで国をまとめ上げたな? しっかり統治できてなかったから靖難の変があったんやろ イギリスやスペインなんか、欧州では大国だけど、中国だったら四川省や広東省より小さい並の規模の省だ
そんな国でさえ分裂しかけているのに、それに比べて中国の安定感はみごと
これは、中国共産党の統治能力もさることながら、明清帝国の550年間で統一国家形成が完成されたからだろう レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。