春秋戦国時代2
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ところで李牧が讒言で殺されなければ、秦の統一はもっと時間がかかったように
思うのですが、どんなもんでしょうか? すでに昭襄王 の時点で秦は蜀も属領とし、楚の大半を占領して植民地化して
中原も領土を深く食い込まれており、
アメリカとソ連を兼ね合わせたような超大国になっていた
秦王政の天下統一に動くか否かはもはや秦国内の貴族の政治問題で
一旦決まれば官僚機構も兵力的にももんだいなくすすんだ
リーボック個人がどうという問題ではない
むしろ秦本国の北半分にすみつく異民族・義渠国の退治が一番手間だった
これは昭襄王の母の宣太后が義渠王を誘惑して風呂で首をはね
義渠の故地に隴西郡・北地郡・上郡を置き、やりとげた 宮城谷昌光の小説は俺には別の不満があって、
資料の少ない時代だから色々と想像に頼らざるを得ないんだろうけど、
姓が某だからこれこれの一族の出で、生き方やものの考え方はこうで、
っていう想定の過程が決めつけすぎてる感がある
フィクションなんだからその辺はもう少し意外性を盛り込んでもいいだろうに >>898
それでもまだ狭い世界では人気ならいいじゃん
>>899
今でもエリートを東大の上位中位に限れば読めるんじゃね
>>900
重臣を全部買収してお金を拒否した人は皆殺しになったんだから無理だけど
秦がこの政策を取らなかったと仮定しても
王せんが秦の全軍に近い兵力で攻めたように
趙も60万の軍で壊滅じゃね
その分楚の滅亡が遅れるかもしれんけど
>>901
アメリカとカナダを併せた程度の国ですよ
圧倒的に強いしどこと戦っても強いけど
アメリカとソ連を併せた国があったらもう天下統一どころじゃないよ
>>902
ただ、姓の数も少ないから遠縁でも同族ではあると思うよ
もっとも晋自体が姫姓じゃなく異民族って話もある >>899
>立てられてのが2002年ですから、もう20年近く前の話なんですね
当時はまだ学部生でした。楽毅や田単は知っている、というレベルでしたね。
>明治までの知識人は漢籍を白文で読めたんですよね?
作家ですと漢学の素養があったのは永井荷風(1879〜1959)、芥川龍之介(1892〜1927)、
中島敦(1909〜1942)まででしょう。
永井は言わずと知れた鷲津毅堂の外孫、芥川は数寄屋坊主の家系、中島も中島撫山の孫で、一族
からは谷文晁系の南画家だった中島杉陰も出ています。
上村松園(1875〜1949)も幼少期を回想して、当時は皆漢学を習っていたと書いています。
しかし、山本夏彦をしてあの世代に生まれたのは奇跡(要約)と言わしめた中島は夭折。
漢学の素養も廃れましたね。芥川の世代には、もう差が出ていたそうです。
志賀直哉(1883〜1971)の弟子である阿川弘之(1920〜2015)が『論語知らずの論語読み』
という本を書いていますが、現代作家の代表があんまり無学なので驚きました。
当時50代の阿川より、不惑を迎えたばかりの私の方がまだこの方面の教養があると思います。 >>900
遅れはするでしょう。ただ結果は変わらないのも、すでに言外におっしゃっておいでの
様に確かなことでしょう。
宮城谷先生の小説はあまり記憶にないのですが、年齢を重ねると
・とにかく理想的な世界を描きたい
・理不尽な悪党が酷い目に遭うのを描きたい
という傾向に陥る人が多いようです。前者はまだしも、後者は話もあまり面白くなく
なります。作者が書きたい展開が優先されて。 個人的に、安能務の小説は好きだけど宮城谷の小説は嫌いだな
世界に浸れんというか春秋戦国っぽさを全く感じられ無い
吉川英治の三国志だと世界観が完全に日本その物でも何故か許せるけどそういう魅力も無いし
>>895
常備兵も多少居たけど皆兵制の時代でしょ、フリードリヒ2世じゃ無くナポレオンの時代 始皇帝の父呂氏のかいた呂氏春秋
「兵士は体格すぐれたものをエリート軍団として弓矢を研ぎ上げても
時の勢いによっては、雑兵・農婦・老人などの農民一揆にも負けるものだ
だからといって、軍の整備が無意味ということはないのだぞ?
王たるものはかならず最高の兵士・よろい・武器を整え、戦にむかうのがつとめである」
ほう。始皇帝は全て呂氏の忠告、そのとおりに実行してるじゃないか・・・ >>906
吉川英治氏の世界観が日本的というのは感じますね
しかし、半世紀前になりますが、中学の定期試験の前になると「三国志」を
読みたくなって困りましたね
完全に現実逃避ですがw
その三国志で、諸葛亮の人物紹介として管仲・樂毅や、太公望あたりの名前が
出てきたわけです
ちょうど徳間書店で「戦国策」「孫子」「史記」などが出版されてたんですよねえ >>903
そうだな、面白いのは姓より氏だ
だがその氏も何代か重なると
出自や元の生業と子孫の生き方が合わなくなり
広い意味での下克上を反映するようになってくるのが面白い 諸葛亮にとっての管仲は、われわれにとっての源義経くらい大昔の人 ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10195621055
管仲の仲って字だったんだな
知らなかった >>912
三国志や隋唐演義の感覚だと、仲が名で、夷吾が字に思えるんだが
どうも、もっと大昔はそうじゃなかったらしいんだな 名を呼ぶのは、主君ぐらいで、目下の者が名を呼ぶのは大変失礼というのは
春秋戦国の頃でもそうだったんでしょうか?
三国志時代はもうはっきりそういう状態になっていますよね
そういえば日本の江戸時代の本だと思うのですが、夢に関羽が出てきて
「劉備殿はお元気ですか?」と問いかけたら、「無礼者!」と一喝されて
切られた、というような話があったような・・・ >>914
戦国時代の斉襄王と田単の関係だと主君でも名前で呼ぶのは良くないって他の人から諫言されてるな
春秋時代の有名な例だと斉桓公が管仲を仲父と呼んで自分の親の如く大事にしてる
さらに言うと斉の始祖呂尚も周武王から太公望という尊称で引き立てられてる
諱で呼ばないというのは相手に対する尊敬、尊重を表す表現だったのは昔から
史記は漢代に書かれたもので司馬遷の漢代の常識で古代の記録を解釈してる可能性もあるけどね あ 補足
斉襄王と田単の例は戦国策からなので史記ではないけど
戦国策も漢代に編集しなおしてるので漢代の感覚で解釈されてる可能性は捨てきれない 仲父って父に継ぐって意味だと思っていたけど
管仲の字でもあるんだよなあ >>914
>そういえば日本の江戸時代の本だと思うのですが、夢に関羽が出てきて
最後に読んだのが20年ほど前なので記憶があいまいですが、『閲微草堂筆記』か
『聊斎志異』、おそらくは後者にあった話だと思います。
異界を訪問した男のところに関羽が訪れたので「劉公はどうしておいでですか」と質問
したところ、関羽が不機嫌になった。
異界の亭主が「早くお帰りなさい」と言うので慌てて席を立ったが、帰宅後死んだと。
諱を呼んだからではなく、敬意を表しながらも皇帝扱いしなかったせいだったかと。
君主と諱といえば、確か『世説新語』にこんな話がありました。
郭璞は博学であったがどもり癖があり、「璞は、璞は」と言っていた。
皇帝がそれをからかって「璞は何人いるのかな」と言ったという。
それに対する返事が「鳳よ、鳳よ」と言うが鳳は一羽という『毛詩』の引用。
『論語』にも出て来ますが。 >君主と諱といえば、確か『世説新
失礼、『世説新語』にあった話です。 ありゃ、さっき見たら一部の文字が消えていたので訂正レスをしたのですが、今見ると出ていますね。
失礼いたしました。 >>921
どもりの人物で大成するとその癖をいじられてる記録結構残りますね
ケ艾なんかも同じく世説新語で「艾艾」とどもった様子を弄られた話が収録されてましたし >>921
「聊斎志異」だったかも知れませんね
百目鬼恭三郎氏の「奇談の時代」で触れられていた記憶があるので、
日本の古い話のように思い込んでいました 劉備の場合、親とか目上の人からは「備」と呼ばれ、謙遜して自称するときも「備」。
通常は「玄徳」と字で呼ばれる。
三国志や隋唐演義だと、名が1文字で、字が2文字というパターンが多い。
それに慣れてると、「夷吾」が名で、「仲」が字というのは、ちょっと意外 日本では、歴史上の人物を劉備とか曹操とか、「姓+名」で呼ぶことが多いけど、
中国では、講談や芝居とかの影響もあって、「姓+字」で呼ぶことが多い
三国志演義の関羽と張飛は、関雲長と張翼徳。
隋唐演義の秦瓊と尉遅恭は、秦叔宝と尉遅敬徳。
きわめて有名 >>928
日本でも柳生十兵衛やら大岡越前やらの官職名呼びや、斎藤道三、上杉謙信、武田信玄みたいな法名が通称に
なってる人おるからな
似たような形ではある 称号で呼ぶのが一番無難で、次悪口じゃないあだ名、字、名ってイメージしてる
日本だと字が名乗りになるんだろうか 松平不味公みたいに号のほうが有名な人は日本にもいるよね とくに任地、封地だな。中国ではこれが大事。
日本だと、羽柴筑前が天下統一して「日本」を「筑前」に国名変更するなど考えられないが、モンゴル帝国以前の中国ならそうなる。 歴史上の人物を名で呼ぶか、字で呼ぶか、それとも号か通称かは、「定着したら、それが呼び名になる」としか言いようがない
孫文を「孫文」と呼ぶ人は中国にはまずおらず、「孫中山」と呼ぶのが普通。
「項羽」は、中国では「項籍」。
「劉基」は、中国では「劉伯温」。
「項羽と劉邦」は、両方とも名で「項籍と劉邦」にするか、両方とも字で「項羽と劉季」じゃないとバランス取れない >>934
「ナントカ公」とか「カントカ丞相」という人を、名前で呼ぶことはまずない
「アベ総理」に「晋三!」と呼びかけるようなものだ >>925
ケ艾は人気があるので、どもりのことは創作物でもたまに拾われていますね。
どうも人づきあいが下手だったようですが、どもりが影響したものか。
>>927
三国時代で複姓だと、司馬、諸葛、皇甫、公孫、夏侯が有名ですね。
司馬勝之、周不疑は諱が二字。
春秋時代だと澹台滅明やら、公山弗擾やら。諱が二字は珍しくもない。
古の陶唐氏(堯もこの姓)は、夏では御竜、商では豕韋、周では唐杜、晋が覇者にな
ると范を名乗ったという。 自分が書き込んだ名前で疑問が生じたのですが、周不疑は享年十七でしたね。
そして、字は元直とも文直とも言われている。
『礼記』では男子が字を持つのは二十歳とされていますが、早まっていたのでしょうか。 なぜ夏侯などという姓があるのか
王とか公とか侯はあっても
国名?付きの侯はこれだけだよな? >>939
基本的には、字とは「一人前になった」ときに自分で名乗るもの。
早熟な神童だから、早く名乗ったのでは? というか世に出て家族以外と交わる様になると必然的に字が必要になる
二十歳以前に字があるってのはそういう面もあるって事だろう >>943
あの時代の孔子の子孫の扱いがあれでしたし、あまり四角四面に重んじられなかったのかもしれませんね。 >>942
夏の滅亡後、禹の後裔は杞に封じられたが、
杞が楚に滅ぼされ、魯に逃れた公族が、
魯の悼公によって夏侯の復姓を与えられた 夏王朝の末裔だった杞では、「天が落ちてきたらどうしよう」と悩む人がいて、「杞憂」の語源になった。
商王朝の末裔だった宋では、「ウサギが走ってきて木に頭をぶつけないか」と期待して待っている人がいて、「待ちぼうけ」のネタになった。
一説には、これらの非現実的な妄想家のエピソードは、旧王朝の移民を嘲るために創作されたものとも言われている。 >>946
曹操が孔融を殺害しているでしょう。
有名な「ただ才のみ求めよ」も儒教的価値観に反したものでした。
>>948
老子は蛮族扱いされた楚の出身、荘子は宋の出身。
周中心のヒエラルキーを肯定してしまうと、元の地位からは永久に抜け出せない。
出身が思想に影響したとも言いますね。
逆に孔子の場合、魯は由緒はあるが力のない国なので尚古思想になる。 >>950
孔融は孔子の子孫と言っても傍流
本家の方は魏でも重用されてまっせ 何言ってんのかわからんけど春秋戦国の世ならともかく
後漢なんて政治家はほぼ全員儒者だぞ >>954
>何言ってんのかわからんけど
頭だいじょうぶか? >>950
>荘子は宋の出身
そういえば、荘子も浮世離れした非現実な話が目立つ。
宋の遺民は、やはり空想的な文化だったか? 「宋の遺民」ってのも変だけど、宮城谷昌光の小説では、「宋」といえば「旧王朝・商の遺民」というのが定番の枕詞なので、何冊も読んでるうちに、そういうイメージがすっかり刷り込まれた(笑) >>955
儒者が嫌いだと言うのであれば何で大学者だった盧植の功績を称えて子供の世話をしたのかな?
荀イクとの対立は儒者かどうかの話ではないのなんて根拠すらない意味不明な言説なのよ
求賢令でも唯才という前の前置きで「儒学は大事だ」と丁寧に書いて
「それでも今は乱世なので儒学から外れる人でも」と前提を置いてるものだよ
それに上でも書いたけど当時の政治家はほぼ全員基本的に儒者だし
曹操自身が儒者で「古文の読解が得意」という理由で出世した事もある
本当に何を言ってるのか意味不明過ぎるんだ 二行目訂正
×荀イクとの対立は儒者かどうかの話ではないのなんて根拠すらない意味不明な言説なのよ
〇荀イクとの対立は儒者かどうかの話ではないし儒者嫌いなんて根拠すらない意味不明な言説なのよ >>958
「儒学の教養がある」ということと、「儒者である」こととは、イコールではない。
孔融や荀イクは「儒者」だが、曹操は「儒者」ではない。
孔融や荀イクらが、儒者としての立場から曹操をたびたび諌めたため、しばしば軋轢を生じたというのは、史実かどうかはともかく、三国志では有名なエピソードだ。
「それは史実ではない」というのなら分かるが、「何を言ってるのか分からない」というのはおかしいだろ(笑) >>960
そういうマイルール持ち出すからまた意味不明になるんだよなぁ
儒学を学んでその研究とかする人が儒者で曹操は古学に明るい事で出世した人ですぜ >>961
何がマイルールだよ。
古来から、曹操は通常、「法家」に分類されている。
三国志演義で曹操が悪役として描かれているのは、荀イク・孔融・崔エンと、高名な儒者と対立して次々に死なせたのが原因・・・というのは有名な話だ。
これが、まったくの儒教社会となった遥か後世の明では、なんとも評判が悪かった。
・・・というのは、あくまでも「三国志」の話であり、史実はそうではないかもしれない。
でも、マイルールってことはないだろ、こんな有名な話(笑) とは言うものの、「曹操は、じつは儒教を篤く尊崇していた」というのも、十分にあり得る。
それは否定しない。
なんといっても、実際に会って話をしたわけじゃないからな、曹操と でも、やっぱり、そうではないんじゃないかなあ。
行動パターンからしても、「法家」のほうがシックリ来る。
儒者を処刑するのは、儒教信者のやることではない。
「孫子の兵法の編纂者」としても名を残しているだけに、「兵家」に分類してもいいくらいだ。 漢代において儒家と法家の政治思想の衝突と融合が試みられ、
塩鉄論でまとめられたという経緯もみんな知らなそう >>965
「知らなそう」とか言ってるより、書いてくれや、その経緯とやらを >>958>>960
曹操の行動や政策に儒家要素全然無えだろ >>967
陶謙に父の曹嵩を殺害されたときは、思いっきり報復した
親孝行を重視する儒教の影響が、こんなところに表れている >>962
分類としての法家って諸子百家の分析だから時代が違う
またもマイルールですね、笑える
>>964
周の文王でありたいとか、周公旦のように人と接したいとか
本人の言動や著作は一貫して儒学者だよ
ちなみに正史三国志では「申商之法術」「韓白之奇策」を使って
「終能總御皇機」つまり尊皇という儒学的な事を成し遂げた人、って書いてあるわけですが
何で思い込みの主張をする人って春秋戦国時代の思想を軽視して
さらに後漢末から三国時代の儒教と政治の関わりも無視して
最後に正史三国志の中身すら読まないの?勘弁してよ >>969
親殺した奴に復讐心を抱くのは儒学以前に人間として当然の心理だろ? >>971
>分類としての法家って諸子百家の分析だから時代が違うまたもマイルールですね、笑える
これはマイルールじゃないよ。
かつて、中国共産党が「批林批孔運動」で儒教排斥してたとき、曹操は「法家を代表する人物」として、なぜか評価が急上昇した
それ以来、曹操といえば「法家思想」という位置づけが定着している >>971
曹操は兵書しか遺して無いから兵家だな、儒家じゃ無い >>973
現代からってことは古来からではないね
>>974
全三國文くらい調べてどうぞ ああ、曹操を法家に分類って共産党の政治運動を歴史として扱うファンタジーな人がいるのか
歴史じゃなくて政治の都合に合わせて分類してるから不思議な事になってるんだな
上でも書いたけど曹操って普通に儒学者
一回失脚した後に古学に明るい事で採用されたりしてるように
当時の後漢では若手の学者として活動してた事もある >>972
その辺の社会形成と価値観の醸成って、古代世界だと「当たり前」ではないよ
そもそも、家族と氏族の連続性とか、地域コミュニティとの相関とか、意外と難しい話 >>973
文革時代の歴史観における「人物」は、
生きている政治家を褒めあげたり批判したりするための比喩の素材でしかない
批林批孔運動における「孔子」とは四人組にとっての政敵・周恩来であり、
それとの整合性のために儒家と対立した法家が優れていると強調する必要が生じた
他方で秦の始皇帝や曹操は、「国家建設のために非情の刃を振った合理主義者」というイメージから
絶大的な権力を握った後の毛沢東を正当化し神格化するために利用された
秦の覇権が李斯などの法家の貢献によるものであるように、
曹操の覇権にも法家の影を見てこじつけただけのこと >>958
>求賢令でも唯才という前の前置きで「儒学は大事だ」と丁寧に書いて
「それでも今は乱世なので儒学から外れる人でも」と前提を置いてるものだよ
「ホントかな?」と思って見てみたけど、どこがだよ(笑)
要するに、「道徳的に問題があっても、使える人間を採用する。道徳的に立派でも、使えない人間は採用しない」という話で、
当時の儒教的な価値観に対する、真っ向からの挑戦状だ。
求賢令 原文(中国語サイト)
https://baike.baidu.com/item/%E6%B1%82%E8%B4%A4%E4%BB%A4/14893532 >>958
>曹操自身が儒者で「古文の読解が得意」という理由で出世した事もある
それは、今でいえば英語・数学・国語・理科・社会を勉強して大学に入り、役所に就職したってことだろ。
今とは違って、民間企業なんかない。就職先は役所しかないんだから当たり前。
そんなことより、権力を握った後でいかなる言動をしたかが問題なんじゃないか。 >>979
ちなみに、この求賢令を布告する2年前には、高名な儒者の孔融を殺害している。
さらに、2年後には荀イクを死に追い込んだ。 >>971
>964
>周の文王でありたいとか、周公旦のように人と接したいとか
本人の言動や著作は一貫して儒学者だよ
「周公は、人材募集に応募があったときは、食事の途中で食べてるものを吐き出してでも、すぐに面会した」
というエピソードをもとに、「自分もそれくらいの勢いで人材を集めたいものだ」という話だ。
それも、曹操が残した詩に、この周公の故事の一節が出てくるだけ。
そもそも、曹操は兵法書と詩集しか残していない。 >>976
>>978
まあ曹操は法家じゃないけど、共産党(または近代中国)の政治運動も立派な中国史ではある
新中国で形成された歴史観の日本人への影響って時代を越えて今なお強く残ってるし
歴史的に評価が低かったけど最近は見直されてますよ、な
キングダムの革新的な名君始皇帝像とか、多分それだろう 儒教道徳では君子は厨房に近寄ってすらダメなのに魏武四時食制とか料理レシピ本作ったりしてるあたり
そこまで儒教に拘っていたようには思えないけどな 何で春秋戦国時代のスレに三国志時代の曹操の話題が出てくるんだ?
春秋戦国時代といえばカイネだろw 笑っちゃいけない
現代日本における知名度では大多数の古代中国(戦国時代)人よりカイネの方が上やからな
さすがに始皇帝や孔子みたいな有名人には劣るけど >>980
「若必廉士而後可用」
「平和になったらかならず廉士を大事にする」ってここで前提を置いてるのよ
それでもって「唯才」と述べるのだけども、ちゃんと中身読んでます?
>>980
違います
古学に明るいってのは要するに儒教の古いテキストが読解できた人だったってこと
当時、今文派と古文派の儒学上の論争があって曹操は古文派として活動してた証拠
>>982
曹操は兵法書と詩集しか残してないのは誤り
そもそも詩集は書いてない、詩賦がそれぞれ独立して残ってる
あとは曹操による文章は様々な令が大量に残ってて
「どこそこの誰某は清廉の士である」と上表して官位に推薦したとか
ちゃんと儒教的な道徳観で曹操も物事を進めてる
>>983
それは共産党の政治史であってそこで語られた内容は歴史学でも歴史的な分析でもなんでもないからなぁ
影響強いのはそうだけどアレを真面目に歴史の話で持ち出す人はあれはさすがに頭毛沢東過ぎるじゃん?
>>984
孔子は論語の郷党編読む限りでは食い物の切り方にすら文句言って食べないし
酒も自家醸造でないと飲まなかったり火加減が悪かったりすると食わないとか
料理について一家言あるのは別に儒者として問題がある態度じゃない
朝鮮半島で後に独自の変化を遂げた朱子学だと飯を自分で食う奴は卑しいとかそんな話になるけど
上古から漢代くらいの時期ではそのような変な話にはなってないよ あ、ちなみに孟子が厨房に行くべきじゃないって言ってるのは
「君子ってのは食材の屠殺を見たら精神的にダメージ受けるし飯食えなくなるから」
ってことで、料理についてあれこれ言うべきではないとかそういう問題ではない
しかもその前段で牛が生贄にされるのを見た斉の宣王が
「牛さん可哀想!」って気持ちになったところを孟子が
「そりゃ現場見ちゃったら君子は基本そうなります」って前置きした後で
だから厨房に行かない方がいい、と上の言葉に繋がってる
君子の精神衛生上、厨房に近寄らない方がいいって話をしてるので
九ウン春酒法とかの料理レシピを楽しんでるのは儒教ではいいも悪いもない >>985
李牧の子孫は千年つづく家柄となり、唐で多くの宰相を輩出した。
「趙郡李氏」は唐朝4大貴族の1つ >>987
歴史の皮をかぶった現代はいつの時代も最強やから頭毛沢東じゃなくても感染する、それは仕方ないな。
かつて一般向け中国史の権威であった陳舜臣氏や蒼天航路や光栄に感銘を受けて
曹操→時代を超越した革新者→法家ノリで世界史スレに書き込む人とかがいても不思議じゃない。 >>895
この手のもうちょっと古い気がする古代中国or(春秋)戦国論、たまに見るけど
戦国の七雄各国が近代列強並みの力と富を持ってたんなら
古代中央集権国家の官僚制度や軍制を更に洗練、拡大した近世中華帝国が列強にボコられて
自己否定、大崩壊、中華ソビエト共和国化するわけないんだ… 唐以降の貴族は鮮卑系でしょ。李牧から血筋引くとか考えにくい
中国人韓国人は姓名をかえるのに抵抗ないから
英語圏に気化するとチャールズ李とかエリザベス朴とか平気で名乗る
古代中国人は小柄で名門貴族の袁紹なんかは、西域人の董卓に女みたいだと
いわれてる。曹操も小柄だった。だいた中世には古代中国人は殺し尽くされて
喰われてしまい、ビルマとか辺境の少数民族にのこってるといわれる。
(テレビでやったが子供みたいに小さい人種)
李牧の子孫がいたとしても打ち続く戦乱、城攻めで飢えて喰われてるでしょう >>992
まあ、そういう面はあるだろうけどねえ。
でも、漢人の論理を主張して鮮卑に抹殺された北魏の宰相・崔浩は、曹操に殺された儒者・崔エンの子孫。
曹操と北魏の太武帝は200年くらいしか離れてない。
この清河崔氏も、唐では名門中の名門、門閥貴族の筆頭とされる家格で、多くの宰相を輩出した。
唐末の混乱の中で滅亡した。 琅邪や太原の王氏なんかも唐代には貴族として生き残っていたんでは無かったか? 李牧個人の血筋は、紀元前だけで
本人の失脚死亡、趙及び戦国時代の終焉、秦末漢初動乱のトリプルパンチくらってるから
三国辺りの名族とは比べ物にならんほどハードル高そう >>960
> 史実かどうかはともかく、三国志では有名なエピソードだ。
> 「それは史実ではない」というのなら分かるが、「何を言ってるのか分からない」というのはおかしいだろ(笑)
『史実かどうかはともかく、三国志では有名なエピソードだ』
噴飯ものの名セリフだなw
ツッコミ入れられて逆ギレ 超ウケルwww >>995
それを言ったら、滎陽鄭氏は李牧の子孫よりさらに古い
春秋の鄭国にさかのぼるとされる最古の家柄 >>996
その「三国志では有名なエピソードだ」とか、「中国共産党の批林批孔運動で定説になった」という話は、「だから正しい」というわけではない。
史実が、それとは異なる可能性はもちろんある。
それは、お前が「曹操は儒家だった」などという素っ頓狂な自説を、いかにも定説というか、世間の常識くらいな調子で言ってるから、
「ちょっと待て。少なくとも、定説ではないだろ」というだけだ(笑) >>994
南朝で全盛を極めた琅邪王氏や陳郡謝氏は、隋唐では、清河崔氏を始めとする北朝系の門閥貴族の家格には及ばなかったようだ。
「王謝」と並び称された南朝2大貴族の栄華は人々の記憶に残ったようで、有名な唐詩にもうたわれている。
朱雀橋邊 野草の花
烏衣巷口 夕陽斜めなり
舊時王謝 堂前の燕
飛んで尋常 百姓の家に入る カイネおねーさんが活躍した春秋戦国時代のスレ、これにて終了。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。