宋・遼・西夏・金・元
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宋・遼・西夏・金・元の歴史について語るスレッドです >>1 乙。 しかしそこに宋があることの違和感よ。 北宋の皇女を売春宿(洗衣院)に落とした金の太宗の残虐ぶりにはガッカリだ 五代十国の時代、長江デルタを占めた呉越が大規模な水利施設を構築したことは、 この地域がやがて農業生産の中心地となる基礎を築いたな 群雄割拠の五代十国時代も、最後は後周と南唐によるほぼ南北朝体制になったな >>6 中国の歴史で、秦以後、華中・華南が多くの国に分裂したのは 五代十国時代だけだっけ? >>7 もっと重要なのは元末だろう。 張士誠・朱元璋・陳友諒の三大勢力が長江流域に鼎立し、史上で唯一といっていいほど歴史の表舞台になった 魏呉蜀の三国に分かれる前の漢末はさらにバラバラだった。 孫策が彗星のように現れて呉が台頭し、後に劉備に占拠されてた荊州を奪回して南朝をほぼ統一 明末清初も、明を裏切った呉三桂らの三藩が華南に並び立ち、一時は独立勢力となった 五代各国の創業者は、多くは節度使あがりの軍人で、 中国には珍しい武人政治の時代だったな 唐の後期はすでに事実上の群雄割拠 唐朝が滅んで、名実ともに節度史が自立した 宋代には皇帝をうしろだてに、専権をふるった宰相が多かったな 唐朝では関隴集団・山東貴族・科挙官僚・宦官といろんな勢力がいた 宰相を出したのは主に山東貴族だが、絶対的な力などなかった 王安石の改革が成功していたら、北宋はもう少し長持ちしていたのかな? 北宋って、朝鮮に似てるんだよなあ 党派対立で、与党と野党が政権交代するたびに前政権を全否定 まあ、最近はアメリカ合衆国もそうなってきたが 西夏に強く惹かれるものがあるんだが、何しろ史料が絶対的に不足してるんだそうで。 素人が取っ付けるような本はどれを読んでも断片的な記述しかない。 詳しい人が当スレに現れるのをひそかに期待してる。 西夏の場合、固有の文化と呼べるようなものがほとんどなかったからなあ… 彼らが創り出したものは西夏文字くらいか? >>17 杉山正明氏によると、 西夏の創出した国家基本構造や官制などは後のモンゴルが模倣したと云う。 俺ごとき素人にはこの説の当否を判定できないけど。 また、素朴な想いとして、 固有の強味を持たない多民族国家が二百年弱もの間しっかりと存続して、 しかも近隣諸国から畏れられるほどの強盛や求心力を保てるものだろうか? これも史料不足故に知られていないだけじゃないか? −−という印象を持っている。 西夏はよく遼や金に呑み込まれなかったな。 北宋は軍事的に弱かったこともあるけど。 北宋は守備は強かった なんだかんだ滅ぼされることはなかった 南宋もモンゴルまで持ちこたえた >>20 莫大な財富を送ってたから、遼にとっては華北征服などという途方もない軍事行動するより、そのほうが都合が良かった >>21 遼にとっても、歳幣は国力を整備する主要な財源として役立ったのだとか いくら遊牧民でも、あんなダダッ広い宋国を征服するなど並大抵の大事業じ(ないからな 上納金が入ってくるほうが遥かに楽だろ 遼は長い間の宋との接触で中国の風俗が流れ込み、勇猛な騎馬民族の気風を失い、 生活も華美となっていったのだとか やはり富は人間を堕落させるのだろうか 北京の発展は、遼の時代に始まった この都市を、遼は南京、金は中都、元は大都、明は北京と呼んだ >>24 契丹人の内チンギス・ハンの代からモンゴルに協力した 耶律阿海・禿花兄弟、石末明安らの子孫やオゴタイの時に 政権内で取り立てられていた耶律楚材の子孫は フビライの代には漢人ではなくモンゴル人扱いを 受ける様になっており、明により中原から駆逐された際、 元の北帰に従い今の内モンゴルに居住する様になり、 先祖返りして現在のダフール族となった。 >>18 西夏では仏典が盛んに翻訳され、寺院が建設され、名僧も少なからず現れた 西夏の文物がすべて残っていたら、われわれがこの国に対して抱くイメージも かなり変わっていただろうな >>3 宋を含めたことに文句を付けてるわけじゃない。 一つの時代史を語るんなら宋を外すわけにはいかない。 誤解を招いたんなら申し訳ない。 云いたかったのは、 こうやって並べてみるとこの時代に宋だけがアカラサマに異質な国家だなということ。 俺たち日本人は知らぬ間に中華史観に毒されていて東アジア大陸史を「漢人国家と周辺の異族国家」の枠組で考えがちだが、 歴史の少なからぬ時間において実は「異物」「例外」は漢人国家の方だったんじゃないか。 少なくとも漢人国家も「one of them」でしかないという当り前の事実に立ち返らなきゃ見えるもんも見えて来ない。 スレタイを眺めてるとそこはかとなくそんなことを想う。 金の阿骨打の死後、宋は金に対してたび重なる背信行為を行ったが、 自国の実力を客観的に見ることができていなかったのかな >>28 金と北宋が、そこまで異質な国家とも思えんが 趙匡胤は一応「漢人」ということになってるが、周囲は北族ばかりなのに趙匡胤だけ漢人なのは疑わしい >>29 鉄道や自動車はもちろん、モンゴル騎馬軍団もない時代だからな 敵があまりに遠くて、「さては裏切りやかったな?」と気づいてもすぐには来れないところにいるから、ついついやらかしてしまうんだろう 朝鮮なんかは、いつもそれだ 「攻め込んできたら降服し、引き揚げたら裏切る。また攻めてきたら、また降服する」の繰り返しで、遼にも元にも清にも5、6回攻め込まれた たったの2回で終わった豊臣秀吉の日本軍は、こうした事情に疎かったという他はない 実際に、山がちな北朝鮮を越えて細長い朝鮮半島を制圧するのは誰にとっても難事業なのだから、こういうやり方が功を奏するときもある 元や清には最終的に屈服させられたが、遼については5度にわたる侵攻をついに凌ぎきった >>33 キタイがどこまで本気で半島を攻めたか、だな。 半島に侵攻した段階の大元や大清には明確なパクス・モンゴリカ/マンチュリアの意志があったろうが、 キタイは「何だか目障りだから叩いとけ」程度の気分だったんじゃないか。 >>34 禿胴だな。漢地の占領は宋から金品巻き上げるネタになるけど、 半島からは大した産品取れないから、わざわざ手間暇かけて侵攻して占領するだけ無駄だもんな。 靺鞨ー女真って渤海の時代から高い文明持ってたのに清になるまで原始的な生活のままだったのはなぜ?中国化もあまりしなかったようだし まあ戦闘能力だけはピカイチで中国を何度も征服できた訳だけど 一貫した統一国家作れなかったのも不思議 民族的にはツングース系の明確なまとまりもあったのにな >>36 「近代(近世)的な生活様式」「統一国家」などという胡散くさいものに頼らずとも本来の意味で十分に豊かな暮らしが出来ていたから、という仮説はどうかな。 戊辰以前のこの列島のように。 宋と金は契丹を挟撃したが、宋はかんじんの戦闘がからきしダメだったのだとか 対外戦争の経験に乏しい宋軍は、弱体化しつつあった契丹にも勝てなかった 1122年の契丹制圧は、金が事実上単独でなしとげた >>36 中華周辺の遊牧民狩猟民って基本的に文明化の度合いの高い部族と低い部族が分布してて 戦闘力高い部族は文明度が低く組織力に欠ける 有力な指導者が出ると強大化して中華まで南進してくるが 文明度が高くなって文弱化する この繰り返し 熟女真は南部に移民し遼の戸籍につけられたが、 生女真は北部の森林地帯に住んでいた >>41 熟女真とか生女真とか万に満つればとか、 ちょっと教科書には載せづらいエロス。 万にとかは 女真に勝った岳飛を持ち上げるための過大広告だろう 〇存続できた: 宋(今まで続く中華系国家) 日本(今まで存続) 高麗(今まで続く朝鮮系国家) 大越(今まで続くベトナム系国家) 〇存続できず: 西夏 契丹 カラキタイ 金 大理 >>44 どう…なんだ、ろう、な…。 満州、内モンゴルから西域、チベットまで自らの版図と主張する「中華」は 結局のところ大元や大清などの「非中華」王権によって確立した概念だろう。 伝統的な漢人国家即ち「中華」は宋も明も「民」もそこに辿り着けなかったし、 その意味では専横を極める現王朝「共」も直接には大清の版図が既得権として自らの領土という意識なんじゃないか。 先駆的には宋と大元、直接的には明と大清の間に概念的断絶があるから、 宋段階の中華系国家が「今まで続く」とまでは云い難いと考えるが。 朝鮮系国家についても些か異論があるが深めるとスレチになるから控える。 大理は民族がバラバラだったのと 交通の要衝だったのが災いした >>43 女真万に満ちれば敵う者なしは契丹人が女真を評して述べた言葉だから それは見当違いも良いところだな まぁ遼代の女真とか高麗にいじめられて遼に泣きつく始末でどこが強かったのか謎だが >>46 非中華だ。 大元や大清が指向したのは(理念に留まったが)世界帝国、少なくともアジア帝国だからな。 中華などという夜郎自大的独善とは一線も二線も劃していた。 渤海が女真系が扶余高句麗系かはわからないが、 これも後世にまで続くことはできなかった 当然扶余語も消滅した >>51 清朝がマッカートニーに三跪九叩頭の礼を要求したのはまさに中華思想であり 世界帝国(笑)などというお前の自己満足定義に誰も興味はないw >>52 金の皇室の完顔氏は女真族貴族としか通婚が許されてなかったが、 高句麗の王族末裔の高氏とか渤海の王族末裔の大氏は、 女真族の名家として金の皇族との通婚可能で、 場合によっては皇后にもなれたよね。 だから、女真族の同族として認識されていたのでは。 >>54 でも高麗も渤海人を同族扱いして入植させてた 高麗は渤海靺鞨と呼んでいて女真族の一部と見なしていたがな >>52 補足すると金の皇室の完顔氏と通婚出来たのは、 女真貴族以外だと宋の皇室趙氏、契丹皇室の耶律氏と 契丹の皇后を出す一族の蕭(石末)氏に限られてた。 一応は自分達に先行する皇帝一族だから、完顔氏の箔着けになるから。 >>53 そんな些末な個別具象だけで中華思想を語るとは無謀な奴。 勇気だけは褒めてやる。 中華とは「峻別の思想」「排他の論理」。 中=華夏 と 外=獣偏や虫偏の世界 とをあくまでも分けなければ気が済まない。 ユーラシア全域を統合して正に「八紘一宇」(©磐余彦)を実現せんとした大元、 中国の皇帝、マンジュのカン、モンゴルのカアンを一身に集中した大清、 彼等は中華思想からは最も遠い地平に在る。 元(明により北走)・北元(後金に印璽を献上)・後元(ジュンガルに併合)で一旦断絶も 清の蒙古八旗として存続し現在のモンゴルに到る チンギスハーンの子孫は無数にいるともいう >>59 モンゴルをはじめ、遊牧国家の滅亡や断絶は語り難い。 キタイ然り、ウイグル然り。 滅ぶというには余りにも緩やかに溶けて影を薄くしていく。 しかし撒かれた種はひっそりと生き続ける。 広く見ればそのような在り方が一般的でもある。 やはり易姓革命は「中華」なる特異な世界の特異な現象(思想)として相対化されるべきものだ。 >>58 モンゴル帝国が八紘一宇?www バカ妄想乙としかいいようがないな 契丹→金→元→明(特に永楽帝以降)→清、というつながりもありか? (北族系中華王朝の系譜) >>63 明と清には連続性があるけど、それ以前のは断絶している それは「北族系王朝」というより、「北京帝国」の系譜 遼は「南京」と呼び、金は「中都」と呼び、元で「大都」となり、明は「北京」と呼んだ 北宋 初代以外皇帝が畜生とその子孫 南宋 初代が畜生の子孫それ以外初代の子孫 遼、西夏、金、元 蛮族 >>66 八百年ぐらい眠ってた人? それとも中共の思想教育でも受けた? なぜモンゴルは今日に至るまで漢民族に同化せず、満洲族は逆に同化してしまったのかということについてはさまざまな理由が考えられるが、モンゴル人がチベット仏教を全面的に導入したことも重要な要因かと思われる >>69 満州旗人は漢地に対しても文武の役人として赴任したが、八旗蒙古は 文官としては藩部管掌地域(モンゴル、チベット、ウィグル)のみへの赴任で、 漢地には武官しか赴任しなかった。 八旗蒙古の上司は満州旗人であり、藩部での部下もモンゴル人だった。 武官の場合は八旗蒙古軍として軍団ごとモンゴル人だったから、漢語の習得は不要。 従って、満州語を覚えれば漢語を習得しなくても困らなかったし、モンゴル人にとっても満州語の方が習得が楽だった。 とはいえ モンゴル人は漢族より語学センスはいいから八旗蒙古はモンゴル語、満州語、 漢語、チベット語、テュルク諸語の5言語に通じる者も珍しくはなかった。 逆に言うと藩部の通訳官はモンゴル族とソロン八旗のダウール族が多かった。 一方、今のモンゴル国の領域に相当するハルハ部主体の外藩蒙古は少集団による自治で、 総督として赴任してくるのは八秦蒙古なのでモンゴル語のみで困ることはなかった。 要はモンゴル族のエリートにとっては漢語は使いこなす言語の一つに過ぎず、 外藩蒙古の庶民はモンゴル語と精々近隣のカザフ族の言葉を最小限覚えれば良かった。 直接部下に漢族を多く抱え直接彼らに指示しなければならない満州族とは立場が違った。 モンゴルには農耕民は入植しにくかったからじゃないの 実際には清朝前半期から、漢人農民がモンゴルに流入していた のちには、モンゴルの王公が、漢人農民から小作料を徴収することを目的に、 積極的に漢人を呼び寄せた 西漢の頃から匈奴の奴らが古代漢を拉致って農業させてた 満州は生産性が高いし、 金が中国を侵略せずに満州に腰すえて人口を増やしてたらひとかどの国になってずっと存続できてたろう 女真族の国が近代までずっと続いていたら、 ロシアに敗れてロシア領に編入されたんじゃね? その理屈だと現代にモンゴルは独立国として存在してないだろ それに戦略ゲームじゃあるまいし国土はデカければデカいほど良いってわけでもない >>76 モンゴル(人民)共和国が名ばかりの「独立」をしたのは露助の思惑だ。 実態は完全に傀儡国家だったのを知らぬわけでもなかろう。 ソ連邦が倒れたドサクサ紛れにやっと本当に独立できた、と。 満洲もそうなってた可能性は十分にある。 もっとも、近代に独立満洲国があったら露助より先に某帝國が潰しにかかってただろうが…。 宋との接触で中国の風俗が流れ込み、勇猛な騎馬民族の気風を失い、 生活も華美となっていた遼の支配者たちは、松花江流域に土着していた 女真族を理不尽に搾取したため、完顔部長の阿骨打に統一された女真の 反乱を招き、敗戦を繰り返していた 中国に侵入した北方民族にはこのパターンが多いな 中国の一部を領土にしたことが 契丹と女真の国や民族が消失したことの原因かもしれないと。 >>80 キタイは中共革命より遥か昔に溶解しちまってたぞ。 女真については、「日本が負けたこと」が最後の銃爪。 日本が負けてなきゃ満洲帝國は存続してた。 完全な傀儡国家として、だけどな。 存続してさえいりゃあ情勢によっちゃモンゴルみたいに自立する機会もあったろうに。 >>82 どうなんだろうな。 米国とあれだけ正面から遣り合ったら勝ち目は無いが、 堪え難きを堪え忍び難きを忍んで妥協して時間を稼げば、 米国だって本来の敵はソ連邦だと判ってたんだから 「此奴らぁ気に食わねえけンどもアカを潰す為にゃ使えっから少ぅし我慢すっぺ」 と云う対日宥和路線に転じてた可能性はかなりあったとみるが。 連投御免。 日本の方から積極的に 「相手を間違ェんじゃねェよ手前ェの敵ァ赤露助だろうよ放っときゃ紐育に赤旗が立つぞいいのかコラ」 と吹き込む手もあった。 そのへんの外交は今も昔も下手だな。 >>81 契丹は女真族同化したのと中途半端にモンゴルに先祖返りしてダウール族になったものがいる。 満州族は満州国の人口の一割くらいしかいないうえ、 満州語を話す人間はほとんどいなくなっていた 日本人の学者が満州語話者をさがしたが 結局見つけられなかったとか >>85 自然な在り方だと思う。 大元ウルスが中原を逐われた後の各ウルスが緩やかに在地に溶けて行ったように、 移動性に富んだ民族(この言葉も定義し難いが)は滅んだとか消えたとかは云いづらい。 或る意味、モンゴルもテュルクも今なおユーラシアの随所で栄え続けている。 キタイもそうなのかもしれない。 「易姓革命」を軸とする中華の断代史の史観から、俺たち列島人はいい加減自らを解放した方がいい。 人口比からすれば僅かな北方人だが、首都・北京に限っては北方人が何割も占めている上に上流階級だった 北京の言語や料理・衣服その他の文化は北方の影響を強く受けた折衷文化となり、それが全国に広がった >>87 言語的にはモンゴル語ではないが契丹族の末裔と自他共に認めるダウール族は モンゴル語とバイリンガルになっている。 半農半牧の習俗からか清朝時代は満州族扱いでソロン八旗に入れられてた。 ラストエンペラー溥儀の皇后の婉容もダウール族。 中国のモンゴル族に聞いたらダウール族は民族衣装が似てるだけで顔立ちも言葉も違う異民族と言ってた。 ダウール族は顔は丸顔だけどモンゴル族よりも切れ長の目で目の間隔が狭い。 モンゴル族や満州族より日本人には親しみが持てる顔立ち。 契丹族がつくりあげた遼は、その盛期に総人口が400万人を超えたが、 その内実ははなはだしい混成集団で、契丹人は五分の一足らずの75万人だった >>91 五胡十六国以後、 程度の差こそあれどの王朝も実態はそんなもんじゃないのかな。 〇〇族国家、なんてのは看板もしくはイデオロギーとして見とけばいい。 >>91 都市とその辺に集住する漢族と遊牧と狩猟採取の契丹人じゃ、御暗示面積の土地での人口密度が段違いだから。 契丹人は女真人と一緒に元代には漢人に分類されたこともあり、女真人と融合して同化すすんだ。 耶律氏も伊拉里氏と表記されるようになり、清代には満州八旗の?藍旗の有力氏族となった。 一方、女真族も完顔氏も直系は滅亡したが、傍系は存続して?黄旗の有力氏族となった。 金末期の権臣の?石烈胡沙虎の一族の?石烈氏の子孫は清代に康熙帝の皇后を出した正黄旗の赫舎里氏。 北方民族が中国に入って建設した、いわゆる征服王朝の皇帝によくみられることだが、 金の熙宗はしだいに宮廷生活の悪い部分に染まり、とくに酒におぼれ、それを諫める 宗室や大臣たちを次々と殺害し、あげくのはてには皇后を寝所で殺す狂乱状態に おちいった >>44 日本でも、将門と純友が独立してたらもっとにぎやかになったのにな >>97 その将門は武勇の実力がある者が天下を取る例として 「我国に例がなくても耶律阿保機が渤海を滅ぼして 遺領に東丹国を建てたことがある」として新皇即位に 対する諫言に反論してる。 将門に自分が乱を起こすほんの10年前の外国での出来事について 十分な知識があったとは思えないから、これは929年に来日の 東丹国からの使者からの報告を耳にすることもあったであろう 興与王からの入れ知恵なんだろうけど。 >>44 国家として存続できなくても西夏は羌族、契丹はダウール族と 満州族の有力氏族に、金は皇室の完顔氏やほか有力氏族は 満州族有力氏族として満州八旗の中核になった。 とはいえ、漢化進んでしまったが。 >>98 じゃあ大陸に近い純友はもっと影響受けてそう >>98 そういう場合の引用は「将門記」原文にした方が恰好良い。 >>100 フィクションだが、大河ドラマの「風と雲と虹と」では、 純友がけら婆の紹介で宋と高麗の海賊の頭目に会う場面があったね。 海外からの支援とかはありそうだな 後三国時代の三国とか 呉、呉越とか 大陸の側では、「倭と同盟して呉を挟み撃ちしよう」と考えた魏とか、「日本と同盟して南宋を挟み撃ちしよう」と考えたモンゴル帝国とか、いろいろ考えるのだが 日本側の反応がいつも鈍い こればっかりは、やはり視野の広さの違いってものを感じさせる >>104 その手の美味い話にゃ容易に乗らなかったからこそ独立を保てたとも云える。 「狡兎死して走狗烹らる」。 中国の海上活動の話だけど、宋金が対峙したとき、南宋の海軍は金の海軍を 1161年、山東沖で壊滅させて海域を制し、ために江南の米や塩が華北に ひそかに売られてもさまたげるものはなかったという 南宋は長江の要所と、江蘇海岸、杭州湾、舟山列島、温州、福州、泉州、 広州に海軍を配し、これが金やモンゴルの騎軍に対抗するうえで十分な 抑止力になっていた 長江の要所ほんとに抑えていたの? その割に襄陽とられてから滅亡一直線だったわけやが 金の海軍をえたモンゴルは、1268年に海からの南宋攻めを策したが、 それをあきらめて漢水をくだる水軍戦に切り替えたほどだったとか ことほど左様に勇名を馳せた南宋水軍がまるごとモンゴルに接収されたわけだが、 海東の島国を攻めるに当っては何の役にも立たなかったという皮肉。 木造帆船の時代じゃ仕方ないよね 太平洋戦争中にも、ハルゼー艦隊が台風にあって大きな被害を出している >>109 当時の海戦は艦載砲がないから弓や弩による矢の撃ち合いと接舷して切込みでしょ。 それなら接近戦での切り合いに強い鎌倉武士が圧倒的に有利。 モンゴルは13世紀半ばまでは筏や空気でふくらませた獣皮に乗って水戦する 始末だったが、まもなく高麗、金、南宋の水軍を集めて大海軍を手にした >>111 日本側は接舷強襲、しかも夜襲を仕掛けてるからな。 モンゴル(南宋)水軍の艦上の恐慌は察するに余りある。 >>113 おまけに💩と動物の死体投げ込むというバイオ攻撃もしてるし。 宋代に入り、海外貿易が飛躍的に進展した理由の一つに、外洋船舶の改良と 航海技術の進歩、いいかえれば安全性の相対的増大があげられる インド洋の貿易風の利用は、紀元後ヒッパロスによって明らかにされ、 やがてそれはインド以東にも応用されるようになる 旧暦の5月から6月に、南風に乗って中国を訪れ、11月から12月に、 北風を受けて中国を離れる 泉州郊外の九日山に残る、南宋の多数の石刻によってもそれは確認できる また、北宋時代から、通信用の伝書鳩や、方向を知るための羅針盤の 原型である指南針が、航海の実用に供されるようになった 伝書鳩は北宋からなのか 時代劇では、もっと前の時代でも欠かせないアイテムとして普通に登場するけど 昔は遠隔地の連絡手段が本当になかったのだな 宋代に入ると、揚子江の土砂の堆積による水路と地形の変化により、 繁栄を誇った揚州が後退し、中国沿海の南海貿易港としては、 南から広州、泉州、明州、杭州が栄えたのだとか ちなみに北宋時代には広州がもっとも殷賑をきわめたが、 12世紀以降の南宋になると、それより北、福建省の泉州が台頭した アラジンが魔法のランプを見つけたのも、泉州の港だった >>117 安史の乱のときに起きた揚州大虐殺で、揚州の衰退は始まった 南宋では海上交通と並んで、内陸の河川や運河の水運もめざましく発達したのだとか 長江の上流と中・下流の接点、各支流とか大運河と長江との合流点、さらに各支流や 大運河の水路の要所に、水路の条件に合った船型の分化とか、特化した水運業が生じた ずっと南宋のままでいたほうが幸せだったが、モンゴル帝国が出て来てしまうんだよなあ 北宋の国都開封、南宋の行在所臨安はともに世界一の繁栄を謳歌した100万都市だった 臨安の活発な商業活動についてはマルコ・ポーロも驚嘆の眼差しで書き記している 南宋が滅んだのは9割方呂文煥のせい この売国奴がクビライのために守備隊を寝返らせたため長江の険も利用できずあっさり臨安を占領される 北方の騎馬民族にとっては、南宋の地形や風土は攻略しにくい苦手な環境 やりようによっては独立を維持できたのではないか? 1129年、金軍が江南に侵攻したが、江南のクリーク地帯は、 騎馬戦中心の女真軍には不利なはずだった しかし彼らは、李成はじめ、河北や山東の漢人の盗賊、 降伏軍隊の集団を先兵として組織し、行動に役立てていた 1130年が明けて、暖かい季節を迎えると、江南の生活に 慣れない北方民族の金軍は、北へ引き揚げ始めた >>127 南宋ごときが独立を維持したらアジアは七百年早く没落していた。 そうならなくて良かった。 モンゴルが大理国に遠征したときには、サキャ派の手引きにより、クビライ軍は 西から迂回し、東チベットを通って雲南に向かったが、亜熱帯地方での行軍は 厳しく、兵の八割近くを失ったといわれるほど困難な遠征となった モンゴル軍も、気候風土の異なる地域ではけっこう苦労してるんだよな 江南とか、日本でいえば鹿児島とか沖縄の緯度だからな モンゴル人にはキツいだろ モンゴルと南宋軍との戦いは長期戦になり、1259年の夏、釣魚山の陣営内で 発生した疫病が次々と兵士の命を奪っていった ついにはモンケ自身も疫病に冒されて他界した 南宋は、金やモンゴルに対抗するために水軍力を強化した 南宋の初期には浙江省の沿海都市である温州、明州では艦船が建造された 温州では南宋初期に年100隻の大型ジャンクを造ったとされる ところが南宋中期になると、年間に10隻程度しか建造できなくなる 浙江省の山林では、もはや艦船建造に必要な巨木の伐り出しが不可能になっていた そして造船の中心地は福建省に移る >>138 西夏のタングート族の末裔は青海省の羌族。 遼の契丹族は遼寧省のダウール族と一部の満州族。 金の女真族は満洲族で今でも金の宗室の完顔氏の末裔はいる。 陸の民であるモンゴル人が日本やインドネシアに遠征するほど海軍力を強化できたのは、南宋と高麗のおかげ モンゴルの南宋攻略には、古くから発達していた港湾都市の泉州で、 海上貿易に携わっていた蒲寿庚というムスリム商人が自らの艦隊を 率いてモンゴルに協力した どうしても宋を持ち上げたい御仁がいるみたいだな。 スレタイが象徴するように、 せっかく自称「中華」の夜郎自大国家が単なる one of them 、対等者群の中の一要素として相対化された良い時代を取り扱ってるんだから いい加減中華史観幻想から解き放たれた議論をした方が有意義なんじゃないのか。 そもそも列島人である俺たちが彼奴等の自意識過剰や自己誇大妄想に付き合う義理も無いことに気付けよ。 夜郎自大はどっち何だか 日本文化から中国から伝わったもの取り除いていったら何も残らんぞ だいたい、日本人(とくに高齢者)は、「ユーラシア大陸=中国」と考える傾向が強いんだよなあ 日本建築から中国要素(土壁、瓦、礎石)除いたら竪穴式住居しか作れない 確かに日本文化が大陸から受けた影響は大きいが、それはイコール「中国」ではない そこを錯覚しないようにしないと >>146 中国には、今でも地面に穴掘って暮らしている人々がいる 江戸時代の日本人にとって、清はすでに野蛮な国に見えていた >>145 そりゃ有史以来、文明国と言えば中国か朝鮮以外とは近代に入るまでほとんど没交流だし 戦国時代に入ってようやくスペイン人商人が来日するようになったが逆に日本人がヨーロッパに行くという事もほとんどなかった 当時、シナ土人はモンゴル帝国に支配され、必死でモンゴル人の服装や髪型をまねてたわけで >>151 インドとかペルシアはほとんど宇宙人レベルか >>145 更にもっと高齢の五族共和八紘一宇世代になると、 却って「華」を満、蒙、鮮、…、の中の一つとして相対化している。 世代が下って世界観が退化した。 左翼の爺さん達が大好きな「東アジア共同体」だって、昔の「大東亜共栄圏」の劣化バージョンだからな >>159 大元は左翼どころか中共だよ。 「一帯一路」「東亜共同体」。 いや、手前ェらそれで良いのか?ナントカ一宇とか大東亜カントカとか何処かで見た字面と似過ぎてやしねえか?何か、こう、頭の隅っこを何だか厭ァなもんが過ったりはしねえのか? −−と、こっちから心配してやりたくなるぐらいの呆けっぷりだ。 >>142 でも契丹、女真、モンゴル、タングートなどが それぞれの国家を作ってそれが存続するようなことにはならず、 中国を征服してその後弱体化し、 次の民族に征服されて、 その過程で漢民族に同化するというプロセスを繰り返すことに終始した 西晋から元までは 「遊牧民族が中原を征服する→弱体化して次の遊牧民族に征服される」 というのを繰り返すだけだったが、 明と中華民国は漢民族がちゃんと遊牧民族政権を自力で打ち破っている これは南側の生産力や人口がアップしたからか >>161 その図式を主張していくと「漢民族」の定義が難しくなるぞ。 五胡十六国以後の「漢民族」に物理的/文化的実体があったのかどうか。 呑み込まれたのは誰で、呑み込んだのは誰だったのか。 各プロセスにおける対立が止揚された後に何が残り、何が生まれたのか。 胡漢の相違など、巨大な混沌の或る局部における成分組成の濃淡に過ぎなかったのではないか。 唐以後の「漢民族」は実体無き共同幻想、謂わば旗に過ぎない。 それは非漢側も同じ。 同じ土俵に在るどの旗を掲げるか、の選択だけ。 相互に相対化された存在であってそれ以上でも以下でもないと、俺は考える。 「漢民族」は実態なき共同幻想の旗にすぎないからこそ魅力があるんじゃないの。 中華だろうが東夷西戎南蛮北狄だろうが民族を選ばない。 文人を重んじる諸子百家的な世界観は普遍だからこそ遊牧民が定住する。武器を捨てて筆をとる。で、これが中華的なもんだと。 易姓革命的な世界観を受容してきた史実は相対的なものではない、絶対的なものだったと俺は考える。 日本史の七不思議のひとつ 鎌倉時代には2億銭もの宋銭が流れ込むほど日宋貿易は盛んだった にも拘わらず活版印刷、コークス製鉄法、火薬、羅針盤、ジャンク船といった宋代に発明された技術が まったく日本には伝わらなかった 羅針盤、活版印刷、火薬に至っては大陸の西端であるヨーロッパより伝来が遅い始末 それらはヨーロッパでは実際使われる産品だったのに対し日本では珍品扱いだったから 羅針盤の需要すらなかったのか 日本の船乗りはどうしてたんだ 勘合船も朱印船も水先案内人は雇った漢人や西洋人にやらしていた 明治に入るまで沿岸航法しか知らなかったというのだかそりゃ遣唐使も命がけですわ >>169 逆にいえば、沿岸航法しか知らなかったのに よく遣唐使なんてものを派遣し続けたなと思う それだけ当時の日本は切羽詰まっていたのか? >>166 日本人の関心は、宋銭を輸入することにあった >>170 逆だ 沿岸航法だけで間に合ってたのが原因 栄西が南宋時代の「点茶法」を日本に伝え、これが後の「茶の湯」につながっている そんな中学校の教科書にも書いてある話をここに書いてどうするつもりか。 たとえ稚拙でも、偏向していても、トンデモ史論でも、議論をしようぜ議論を。 なんで宋銭なんかわざわざ輸入したんだ 日本で作れないわけじゃないだろ >>165 > 易姓革命的な世界観を受容してきた史実は相対的なものではない、絶対的なものだった ↑このくだり、もう少し詳しく願いたい。 そもそも史実などというものは視点を変えれば−−反対側からみれば、或いは突き放して鳥瞰すれば−−容易に陰画にも逆さ絵にも反転する相対的なものでしかないし、 易姓革命こそは正に「如何なる『中華』も恒常かつ永久に相対化され続ける」ことの具象だとみるが。 反論、批判を待つ。 >>175 当時は、日本だけじゃない アジア中のどこでも宋銭が使われていた 日本から、大量の物資を詰んだ船が出ていって、宋の港で積み荷を降ろす 帰りには、宋銭をギッシリ積んで日本に帰ってくる そんな貿易だった 銅輸出して銅銭貰ってくるとかアホみたいな話だが当時の日本の貨幣は単純な構造で私鋳銭が多く出回っていた そのため反って絹のほうが公信性を持っていた有様なので宋銭の輸入は必須だった また規矩術(建築学)、農学といった実学すらも自国で発展させるという気概はなく中国から先進のものを輸入する ることで満足していた とくに宋から取り入れた建築様式の一つである貫という手法によって大幅に耐震性が向上し高層化が可能となり後に 天守などの城郭建築に取り入れられている また不思議な話だが木綿は鎌倉時代から生活必需品だったのにも関わらずこれも国産化しようとかそういう試みは一切なく 宋からの輸入に頼っていた 中国も、綿が入ったのは後漢の時代とされてるが、栽培が盛んになったのは南宋時代だな 中世ヨーロッパでも、「アラビアには羊毛が生える植物があるらしい」とずっと不思議がられていた 綿の栽培は暑い国が有利で、北の国ではそう簡単に普及しない >>179 > また不思議な話だが木綿は鎌倉時代から生活必需品だったのにも関わらずこれも国産化しようとかそういう試みは一切なく宋からの輸入に頼っていた 鎌倉時代だと、まだ普及してないな 宋銭は日本に限らず、アジア全域で広く使われていた 銅の含有量が多い良貨だったため、明代になっても明銭より高く評価されていた 南宋の政治史の特徴として「独裁宰相」の時代が非常に長かったことが挙げられる。 南宋初の秦檜・孝宗時代を挟んで韓冑・韓�hを殺した史弥遠・そして南宋末の賈似道である。 この4人が政権を握っていた時代は南宋150年のうち70年近くにわたる。 ↑南宋は独裁者が多かった。時代劇で大人気(?)の悪役ぞろい >>170 日本は伝統的に海洋国家じゃない 海に広がったのは 明治大正昭和の戦前というほんの一瞬 >>185 いまどき、江戸時代の海運は小学校の歴史の教科書にも出てくる常識 >>186 それは海洋国家であると言う証明には全くならない ハンザ同盟で海運がそれこそ発達していたドイツは海洋国家あつかいされてる? ドイツは海洋国家とは言えないが、 ハンブルクやリューベックは海洋都市 海運が物流の中心を占め、肉は食べず魚ばかり食べてたのに海洋国家じゃないとは? 外にでてって覇権を握ることが海洋国家ではないよね国家の存続に海が不可欠なら海洋国家でしょう もし大陸から稲作が伝来してなかったら もし仏教伝来してなかったら もし宋銭を輸入してなかったら もし倭寇が暴れまわってなかったら もし銀を大量に輸出してなかったら もし鉄砲が種子島に到着してなかったら もし蝦夷と琉球と交易してなかったら 日本はいまとは全く違う国になっていたでしょう全部、海の道を経由したイベント 江戸や大阪には物資が大量に廻送されてきたが、大半が海運だ 陸地は山ばかりで陸運が不便なのだけら仕方ない こんなに肉を食べずに魚ばかり食べる国は他にない 同じように、南宋も海洋国家だった 海洋覇権国家とは言えないが トメ・ピレスの東方諸国記だと日本人は海洋民族ではないと書かれているな 彼の書く「海洋民族」がどのようなもの具体的に指しているかはわからないが 琉球人と対比して書いているので恐らく琉球人の楊大海原を自由に駆け巡るような 人たちではなと言う意味だろう >>197 だから、それは江戸時代より前の話だろ? >>195 海洋国家ってのを定義してみせてよ 的はずれな批判ばっかしてないで 江戸時代も大海原を駆け巡ったり各地に貿易拠点を持つような海洋国家ではない 別の中国史系スレにもいたんだが、 スレチも顧みず日本を貶さないと気の済まない類の御仁が当スレにも入り込んでるんだよ。 そんな手合いの土俵に引きずり込まれるのは馬鹿馬鹿しい。 それでなくともスレタイさえ読めないぐらいの人なんだから、まともに相手をしちゃ駄目だ。 元寇の話だけどさ、弘安の役では「江南軍」と呼ばれた旧南宋軍の兵士10万も 慶元から兵船3500隻に分乗して日本に向かった 二回目の遠征は示威行為だけでなく、クビライには、日本を征服し、旧南宋軍の 兵士を移民させることによって、彼らを江南から切り離すという考えがあった >>201 江戸以前日本が海洋国家じゃないと言ったら日本を貶したことになるとか きみ頭おかしいね >>202 それは本を読めば書いてあることだからなあ。 そのことについてアナタはどう考えるのか?を書かなきゃ他ならぬアナタが書いてる意味が無い。 南宋人が日本に入植しても、しばらくしたら日本社会に 同化してしまったんじゃないかな >>205 俺もそう思う。 この列島の、全てを曖昧にナシクズシに呑み込んでしまう「暖簾に腕押し・糠に釘」力は半端なものじゃないから。 >>200 なるほど 「海外進出する国」というのが海洋国家の定義なのか イギリスやアメリカのせいで、海洋国家というと 「外洋海軍を持つ国」という イメージを持っている人が多いと思わね? 古代ギリシャだって、半島と多島海で船による往来が盛んだったが、艦隊を編成して外洋に進出したわけではない これだと「海洋国家」には入らないってことだよな? >>205 跡形もなく吸収されて消えてしまった「渡来騎馬民族」同様に? ヴェネツィアやジェノヴァは海洋国家といっていいと思う 「海外との貿易で食べている国」が海洋国家の定義なのか? >>211 > 「海外との貿易で食べている国」が海洋国家の定義なのか? 大陸国家のほうが、貿易で食べてる国が多いと思うんだが 「外国との交易」にこだわる意味あるか? むしろ「国内の移動が海路」っていうほうが海洋国家の名にふさわしい気がするが 政治学上の海洋国家の定義はシーレーンとチョークポイントの保有を領土よりも重視するってものだから 単に海に囲まれてるとか魚いっぱい食ってるとかどうでもよい >>209 マッシリアやグレコ・マグナがどうやってできたかご存じで? 艦隊を編成して外洋に進出しまくってますけど? >>217 > 政治学上の海洋国家の定義はシーレーンとチョークポイントの保有を領土よりも重視するってものだから > 単に海に囲まれてるとか魚いっぱい食ってるとかどうでもよい それはかなりの勘違いだな 海外に打って出る攻撃面しか見ていないようだが、海を利用して自国を防衛するのも海洋国家戦略だ モンゴル帝国を撃退した鎌倉時代の日本もその一例 >>209 > マッシリアやグレコ・マグナがどうやってできたかご存じで? > 艦隊を編成して外洋に進出しまくってますけど? それを言ったら、倭国も任那日本府とか作ってきたしな 勘違いも何も「海洋国家」と言う語の生みの親であるアルフレッド・セイヤー・マハン自身がそう定義してるんだが 少なくともきみの俺式定義より根拠あるよ それと元寇はほとんど陸戦であって海路を有効活用できてないでしょ むしろ十数万と言う当時の平安京の人口に匹敵する軍勢を渡海させるだけの能力をもつ元の方がよっぽど海上国家と言える 江戸時代までの日本は海洋国家ではないと思うな 水軍(海賊衆)はいたけどもっぱら沿岸航海しかやっていない また、海外との交易に生活の拠りどころを求めねばならない地域は、 九州や南西諸島、東北地方の北部以北といった、おおむね周辺地域に限られた 明治以降の日本は海洋国家といっていいと思う >>219 でその任那日本府を使って制海権を確保して高句麗に対抗したりしてたら海洋国家と言えるだろうね そういう発想がないから海洋国家ではないといっているのだよ >>220 > 勘違いも何も「海洋国家」と言う語の生みの親であるアルフレッド・セイヤー・マハン自身がそう定義してるんだが > 少なくともきみの俺式定義より根拠あるよ だから、そこが勘違いなんだっての その「マハンが発明した概念」というのは “sea power” だろ。 これは「海上権力」もしくは「海洋帝国」と訳すべき概念 「海洋国家」は、英語で言えば “maritime nation” 海に囲まれて海上輸送主体の国なら海洋国家だ まあ、「海洋国家」という言葉を「シーパワー」という意味で使ってるのは、見れば分かるから別にいいんだが スペイン帝国は海洋国家といっていいのか微妙 スペイン、とくにカスティーリャは大陸国家 スペインにとって海は本国と新大陸を結ぶ交通手段にすぎず、 海軍は商船を敵国や海賊から守ることが目的だった 日本が「シーパワー」に該当した時期といえば、早くても1890年代からだろう 日清戦争のちょっと前までは、まるで無力だった。 清の水兵が長崎に上陸して暴れまわったときも、どうすることもできなかった 第二次世界大戦後の経済成長より、この時期の日本の海軍力のほうが信じがたい超高度成長 >>225 > スペインにとって海は本国と新大陸を結ぶ交通手段にすぎず、 > 海軍は商船を敵国や海賊から守ることが目的だった まさに、そういうのを海洋国家(Maritime Nation)と言うんだが・・・ 「海洋国家」(Maritime nation)と「海上帝国」(Sea power、マハンが言ってるのはこっち)を、ちゃんと使い分けてくれんかなあ たかが用語の違いと言うかもしれんが・・・ 船もまともに作れず交易すら制限しまくってた日本が海洋国家とかわろす まあ確かに、南宋と鎌倉時代の日本とでは、造船技術の格差はかなり大きいな おそらく、造船技術は南宋が世界一 だっただろう でも、当時の世界の海洋に最も進出していたのはアラビア商人 >>226 1868年にたった6隻の艦船から始まった、実にちっぽけな海軍が、日清、日露戦争での 勝利を経て、わずか40年で英米に並ぶ世界第一級の海軍とみなされるようになった 『英海軍史』を著したクロー卿が「イギリスが育てた諸海軍のうち、日本海軍は 最高傑作である」と書いている >>233 そんな所にも「〇〇はワシが育てた」親爺が…? >>235 いや、帝國海軍はアメ公に敗れたんであって英国海軍に負けた覚えは無いんだが。 >>232 アラビア商人は、唐代にはもう中国に来ていたよな 本当に彼らの活動範囲は広いと思う 東南アジアの一部はイスラーム化されてしまったし 遼にとって北京は、南の中国を支配するための拠点 北京帝国はこの頃から始まった いまの中国は、宋ではなく遼の後継国家 遼も宋もどちらの後継国家でもあるでしょ 遺伝子的には圧倒的に宋人の末裔の方が多いだろうけど >>244 後周や宋の王家の出自はあんまり関係ない 遼の皇帝は、身についた遊牧民の習性がぬけず、定着よりも移動を好み、 巡幸が非常に多かったのだとか そして皇帝にしたがって中央政府も移動する だから首都である南京析津府に常住して政務を行うことはなかった >>249 中世ヨーロッパにはまだ首都という概念が存在しなかった 遼には首都が存在したにもかかわらず、遊牧民の習慣がぬけなかった 高校の世界史では国名と首都を覚えないといけないが、首都の無い国がいくつかあった 前期の神聖ローマ帝国とか、セルジューク・トルコとか イランのカージャール朝のシャーは、遊牧民諸部族長の中の第一人者として、 サファヴィー朝流のわずらわしい宮廷儀式を嫌って、各地を移動するほうを好んだ 第三代までのシャーは、いずれも部隊を親率し、幕舎で移動生活を送ることも めずらしくなかった 宋銭というのは、当時の東アジア・東南アジアでは 現代のドルのような存在だったのかな 要するに国際基軸通貨 >>254 ドルとは違って、各地で実際に使われていた 基軸通貨というより、共通通貨 >>32 ブラウザー拡張のRajikoを使うとエリア外でもラジコで聞けるよ 放送大学「韓国朝鮮の歴史と文化(’21)」(ラジオ科目紹介) - YouTube 第1回 人々の営みと自然環境、歴史時代への歩み 【キーワード】太白山脈、鴨緑江、白頭山、年周差、古朝鮮、檀君、箕子、高句麗、三韓、漢四郡 第2回 三国の鼎立と統一新羅 高句麗、百済、新羅、伽耶諸国、隋、唐、日本(倭国)、高句麗広開土王碑、三国史記、武烈王(金春秋)、国内城、平壌、熊津(公州)、泗沘(扶余)、金城(慶州) 第3回 渤海の興亡と高麗の興隆 渤海、大祚栄、高句麗遺民、靺鞨、首領、東丹国、「南北国」、「満鮮史」、王建、高麗、開城、光宗 第4回 高麗時代の社会と政治 主邑と属邑、雑所、邑吏(郷吏)、戸長、本貫、田柴科、私田、契丹、女真、金、李資賢の乱、妙清の乱 第5回 高麗後期の社会 武臣政権、崔氏政権、教定都監、三別抄、事元、恭愍王、崔瑩、李成桂、威化島回軍 第6回 朝鮮前期の社会 太宗、世宗、両班、朱子学(性理学)、奴婢、農庄、外戚、士林 第7回 朝鮮後期の社会 壬辰倭乱、光海君、仁祖反正、清、燕行、大同法、常平通宝、礼訟、四色党派、党争、蕩平、英祖、正祖、均役法、市廛、還穀、都結、天主教 第8回 開港期の朝鮮 大院君、辛未洋擾、丙寅洋擾、衛正斥邪、日朝修好条規、李鴻章、壬午軍乱、李鴻章、甲申政変、東学農民戦争、日清戦争、甲午改革、俄館播遷、大韓帝国、大韓国国制、白銅貨 第9回 日本の政治的干渉の強化と韓国併合 日露戦争、保護国化、愛国啓蒙運動、義兵運動、韓国併合、朝鮮総督府、「武断政治」 第10回 三・一運動と「文化政治」 民族自決、三・一運動、「文化政治」、「内地延長主義」、民族主義、社会主義、文化運動、新女性、産米増殖計画、関東大震災、万宝山事件 第11回 日本の中国大陸進出と戦争 「満洲事変」、農村振興運動、金日成、抗日運動、日中戦争、「皇民化政策」、「内鮮一体」、戦時労働動員、徴兵制 第12回 朝鮮半島における南北分断体制の成立 植民地からの解放、建国準備委員会、ソ連、アメリカ、軍政、冷戦、李承晩、金日成、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、朝鮮労働党、朝鮮戦争、四・一九革命、千里馬運動 第13回 南北朝鮮における体制変化と独裁 張勉、五・一六クーデタ、朴正熙,南北共同声明、維新体制、金日成、主体思想、金正日、三大革命 第14回 国際秩序の変容と南北の体制変化 全斗煥、ソウルの春、一二・一二クーデタ、光州民主化運動、六・二九民主化宣言、盧泰愚、民主化、ソウル・オリンピック、金正日、冷戦崩壊、われわれ式社会主義、核開発問題、金泳三政権、金融危機、金大中政権、南北首脳会談、開城工業団地、六カ国協議、盧武鉉政権、李明博政権、朴槿恵政権、金正恩体制 第15回 現代の朝鮮半島と日本 日韓関係、日朝関係、在日韓国・朝鮮人、日韓会談、日朝国交正常化、「韓流」ブーム、竹島(独島)問題、(従軍)慰安婦問題、日本人拉致問題 唐代に鋳造された貨幣は毎年30余万貫程度だったが、 宋代には経済の発展を反映して最高550余万貫に達したとか 国内はもちろん、東は高麗・日本から西はアフリカ大陸に 至る地域に流通した 唐代人は茶の葉を蒸して固めた「磚茶」を削って湯で煮だして飲み、 宋代人は磚茶を粉末にして湯をかけ混ぜ合わせた液体を飲み、 明代人は葉の形のままのものを湯に浸して飲んだ 現代日本でお作法の対象となっているのが宋代の抹茶の飲み方 元朝って、テムルが死んだ1307年からわずか25年間に皇帝が8人も 交代しているから、かなり不安定な王朝だよな 1328年には帝国を二分する内戦が起こっている 遊牧民は自主独立の気風が強く、兄弟間の戦争が年中行事だからな 元朝の上都と大都とに分かれたハーン位継承争いにおいて、 これまで皇帝の外戚として隠然たる勢力を有したフンギラト部は 新興のキプチャク—メルキト軍閥に敗れた このときまで、実はフンギラト氏族出身の母から生まれた皇子だけが 元朝皇帝の地位につくことができた 遊牧民って、けっこう血統重視だよな その点、日本は血統に関してはいい加減だ 養子を平気で跡継ぎにする 中国史では朱元璋が元の大都を攻撃し、恵宗が内モンゴルに逃れた時点で 元朝は滅びたということになっているが、実はその後も恵宗の息子の アーユシュリーダラは、1372年に外モンゴルに侵入した明の15万の 大軍を破って数万人を殺すという大勝利を収めており、けっこうしぶとい モンゴル帝国期だけは、得意の「北方の野蛮人は、中華の文明に魅了されて漢人に同化されました」の理屈が適用できない 美化しようがないからな 「元朝は滅んだ」という建前になってる以上、なるべく「北元」のことには触れたくない 1634年に、内モンゴルが満州族の支配下に入った時点で、 元朝崩壊後266年間続いた北元時代は終わった 17〜18世紀には、異民族である満州人を自分たちのハーンに 推戴することになったモンゴル人が、『蒙古源流』『黄金史綱』 をはじめとする数多くの年代記を著し、自己の文化遺産をもう一度見直し、 それまで伝えられた祖先の系譜や伝承をここで整理して書きとどめようとした タングート、ツングース、モンゴル 数百年の時間軸のなかで各民族を溶かしてしまうからな漢族というやつらは いまモンゴルはかなり危ういし50年後は同化させられちゃうだろうな 後金に降伏しなかったハルハ部(後元)が1688年にジュンガル帝国に滅ぼされるまで 大元ウルスは辛うじて存続した(カラコルム陥落) 中国の地図史料では北元を吸収した清の西に 「韃靼」と書かれているものが多い 清朝は、モンゴル人を終始、同盟者として扱い、その遊牧経済を保全する統治政策を とった 族長である王公は清の任命による世襲となり、旗界は厳しく定められたので、 遊牧生活自体は以前とは大いに異なったものになったけれども、漢人の入植は 禁止されており、領主間の戦争もなく、紛争はすべて裁判で処理されるように なったので、モンゴルには平和が訪れた 金は宋相手だと無双してたがモンゴル相手だととことん弱かった >>271 金はアクダ時代の軽装弓騎兵から、南宋の歩兵を効率的になぎ倒す 重装騎兵に変容してた。アクダ時代の軽装弓騎兵のままなら、 モンゴルにも対応出来ただろう。 元朝は言語も中国語、ペルシア語、トルコ語など複数の言語を使用していたな >>271 んなことはない モンゴルは、金にも南宋にも大苦戦し、攻略に長い年月をかけている 金は生女真だけではなく、軍事拡大を遂げていく過程で、旧契丹支配下の 渤海・熟女真・契丹・奚・漢人といった他民族をとりこんでいったんだよな 金王朝の文明レベルってどんなものだったの? 宋レベルの貨幣経済や高度な法とかあったの? 北京が歴史の表舞台に躍り出るのは、契丹族による遼の南京、 女真族による金の中都、モンゴル族による元の大都の時代 1153年の海陵王の遷都によって燕京が中都となり、北京が政権の所在地になる 元代になって、クビライの手によって、遼の南京・金の中都の東北に新たに 建設されたのが、元の大都 >>270 女真族に負けたのがかえって良かったのか! 漢族にとっても明時代より税負担は合理的で 軽くなって良かったようだし 旗の王公は爵位の高下に応じて清朝から俸禄を与えられ、 1年・3年・6年などの期限で北京の宮廷に赴く年班朝貢によって莫大な利益を得た また、清の帝室の皇女の降嫁を受けることもあり、その者はエフ(皇帝の婿)と号した 宋代、蘇州の有力者の邸宅は狭いが、造りは瀟洒だった。 持っている品も優雅なものが多い。 これに対して、山西省の邸宅は広大だが粋の度合いが劣る。 江南の豊かさと山西省の貧しさに対応している。 宋代の山西省っていったら、ほぼ毎年、契丹が攻めてきて戦争になってたな 澶淵の盟によって、宋から遼に銀や絹が入ってくることになったが、 これらはウイグル商人がごっそりと西方イスラム世界へ持ち出した 遼王朝治下の中国人社会では、そのために経済力は停滞し、 高い文化を生み出すことができなかった ウイグル商人が扱った商品には、高級織物や貴金属のほか、 宝石・工芸品・薬品・香料・染料・食品・家畜などがあったらしい 宋の国都開封では、酒市や瓦子(盛り場)は年中、朝から夜まで賑わっていた 開封ではどこでも店を開くことが許され、営業時間の制限もなかった 瓦子には五十余座の劇場があり、芝居、講談、手品、曲芸、影絵などが 演じられ、酒場や食堂もサービスに努めて、人々を満足させていた 江戸時代もそうだが基礎になる農業生産力が高いからこそ娯楽品生産も充実 宋朝のとった政策は、基本的に道教的な無為放任策と商本主義だったな 唐朝初期の、農本主義を基調とする国家統制主義とはまさに対照的 中国でもオリエント同様、伐採によって森林資源がどんどん減っていったが、 中原に遊牧民が入ってきたりすると、木材を使う習慣がないため、 かえって木が残ったり、森林が復活する地域・時期もあったとか ただし中国では、宋代あたりから石炭の利用が始まり、それも蒸し焼きにした コークスにして、より強い火力を引き出していたらしい そうなると、大量の金属生産が可能になり、工具や武器の生産が容易になった >>289 強い火力がいる油濃い中華料理もこの時期から生まれたのかな 「炒める」「揚げる」といった調理法は宋代に始まった 磁器を作るための石炭窯を、料理用の炉やかまどとして 使うようになって広まったといわれている 五代十国のうち、楚では茶業や絹業が栄え、福建の閩や広州の南漢は 貿易立国を国是とした 南方諸国に産する茶は華北にまで販運され、南平でも、国都の江陵は 茶葉の交易市場として活気に満ちていた この時期、経済の中心地は長江以南の地に移っていく 宋の経済的繁栄はスゴかったが、その一方で、汴京でも臨安でも、 大都市にはつきもののスラム街が大きな土地を占めていたとか 農村からの流民は、この土鍋を伏せたような掘っ立て小屋が びっしりと広がっている地区に住んだ 宋「一緒に遼を倒そうぜ!」 金「いいよ」 ↓ 宋「うはー全然勝てねえ・・・」 金「いいよ、俺がその分、戦うから」 ↓ 金「遼滅亡したけど報酬金は?」 宋「そんな金は無い(キリッ」 金「・・・」 ↓ 宋「金ウゼーし、遼の残党と組んで金を叩こうっと!早速手紙を送るお!」 ↓ 金「宋が遼に送った使者捉えたけど何だろう?この手紙・・・これは流石にキレちまったよ」 女真「ヒャッハー!石刻遺訓?やっぱ宝の在り処が示されてるんだろうな」 趙匡胤に皇位を譲った柴氏一族を子々孫々にわたって面倒を見ること。 女真「ええ話やん・・・」 崖山の戦いで柴氏の子孫が戦死しているなど宋代を通じてこの遺訓が守られたことを示している 宋滅亡後、趙氏一族は大都に送られ、フビライに厚遇されたという 元朝の皇帝というのは、北宋の皇帝のような膨大な官僚組織の上に乗った 絶対主義の独裁君主ではなかったんだよな それぞれの官庁や軍隊や州県が、見かけ上の統属関係とはかかわりなく、 ある特定の個人に結びついていた 中書省をにぎっている右丞相アントンは、チャブイ皇后の甥 枢密院は、チャブイ皇后の生んだ燕王チンキムのもの 尚書省の平章政事アフマドは、チャブイ皇后の家臣 五代十国の分裂時代が長く続いたのは、やはり中国の各地域が経済力や 独自性をつけてきたからなのかな? ちなみに南漢の劉隠の遠祖はアラブ系だという説があるらしい >>301 そりゃそうだ 洋の東西を問わず、古代は中心となる都市にしか文明がなく、その他の地域が未開。だから中央集権の帝国ができやすい 地方が力をつけてきて、世の中がバラバラになっていくのが中世的な状況 天子に制限的な体制から、皇帝の独裁に変わっていくのが唐宋変革の一面 西欧では君主権を機能に応じて、意思決定・執行運営・点検監視のパワーに 分立させてゆき、その重心が最後には人々の代表に移って、議会民主政になった 唐朝 「皇帝に権限はなくお飾りだった」 明朝 「皇帝が最上位であり序列が厳格化している」 五代十国のうち、浙江の呉越は海の交易に活路を見出し、日本や高麗、契丹、 さらには東南アジアまでネットワークを広げた海上王国 >>305 それは南宋に受け継がれ、さらには南宋を征服したモンゴル帝国にもつながったんだが なぜか、明でダメになった 隋唐皇室は鮮卑系だったけど、後唐・後晋・後漢も西突厥の沙陀族だった また、趙匡胤は涿郡の人だから、今の北京市のすぐ南である ここは唐代には外国人の住地で、ソグド人や突厥人や契丹人が多く住んでいた 彼も純粋な漢人かどうかあやしい 近世以前の帰属意識とか基本的には文化的なものなんだから、血族的なことで細かく云々したってなんの意味もない >>308 情報量がケタ違いで変化の速い現代のアメリカ合衆国でさえ、ドイツ系は何世代を経ても明らかにドイツっぽい人が多いし、イタリア系はもろにイタリアっぽい人が多い ドイツ系はミネソタ州やミシガン州などの寒い北部に多く、製造業を支えている。一方、南欧系は暖かい南部に多くてサービス業にが多い 隋の煬帝が先帝の妃を側室にして「父の妾を姦す」と後世の儒者から非難されたり、唐の太宗が私兵を動員して兄弟間戦争をやったり、女性権力者が続出したり これらは漢人の価値観とは大いに衝突する、北族らしい行動原理といえる 彼らは北族らしさを失っていなかったし、おそらく南の人とは言語や文化がかなり違ってた 南唐は、華北から逃れてきた文化人の受け皿になった国 元宗と後主は詞の名手であり、絵画の董源らもこの国で育った 隋の文帝による破壊以来、地方小都市に落ちぶれていた 金陵(南京)に都をおき、六朝以来の繁栄を取り戻した 淮南塩という大きな経済基盤に支えられていたことが大きいが >>309 倒産したコダックの本社があったニューヨーク州は カナダにも近い北部の州だが、イタリア系住民が多いぞ。 おかげで食い物がうまいが。 イタリア系って、フロリダとかにも多いけど ニューヨーク、ロードアイランド、シカゴとか西海岸にも多いからな 呉越は、銭塘江の治水を進めて農田を開発し、首都杭州や海港明州(寧波)を 拡張整備するなど、生産・流通の面で後世に大きな歴史的資産を残している ちなみにアメリカは、近代文明と合衆国憲法に合致する限りにおいて多文化共存社会なので、古代文明と古代帝国(共通の文化を持つ多数の諸部族の集合体)と同一視とか無理やねん ただ、唯一ローマだけは近代アメリカと比較できるかもね (ローマ法と税だけの文化的には緩い紐帯がローマの基本なので) >>317 > ただ、唯一ローマだけは近代アメリカと比較できるかもね > (ローマ法と税だけの文化的には緩い紐帯がローマの基本なので) 隋唐も、律令と税だけの文化的には緩い紐帯 金がモンゴルに攻め込まれて弱体化した機に乗じて、 南宋は「積年の恨み」で金を攻めた。 金が「我らが防波堤になって、モンゴルを食い止めているのだ」と 忠告するにもかかわらず。 ここで南宋が金を援助していたらどうなった? 共闘宣戦を張っても、結局モンゴルの猛攻に耐えられず共倒れか? 中国の伝説は、昔から帝王の座にのぼる者は、米を食べる南方人ではなくて、 乾うどんを食べる北方人であることを伝える 言葉をかえると、北人は征服型、南人は商人タイプだというのである >>320 既に金の軍事力の中核を担っていた契丹族が 大挙してモンゴルに寝返っているから共倒れしかない。 >>320 > 「我らが防波堤になって、モンゴルを食い止めているのだ」 「我が国が防波堤になって、中共北鮮を食い止めてるニダ」 明治の頃、日本が朝鮮を勢力下においたのはロシアへの脅威も相まって。 もっとも飛行機やミサイルが発展した今では何の意味もないか 五代十国時代は武人政治の時代と思われているが、朱全忠配下の李振のように、 文官がまったくいなかったわけではないんだよな また、五代においても、科挙は細々ながらおこなわれていた なんだか、北宋も南宋も「胡虜」を甘く見たせいで滅んでるな。 北宋は女真族の金を使って遼を亡ぼさせたものの、 見返りを与えなかったせいで激怒されて滅ぼされた 南宋はモンゴルと組んで金を亡ぼしたが、混乱に乗じて旧金領の「中原」を自領に組み込もうとした そこでモンゴルに激怒されて滅ぼされた 現代の日本でも、「中国の脅威に備えて対策を立てよう」というと、「憲法の精神に反する!」と反対する左翼の老人たちがいるが、あんな感じ 現実の脅威よりも、儒教の観念を優先するのが中国朝鮮の宿痾 インド人も観念的だよな 大陸の民族はほとんどが観念的なんじゃないのか? 南宋は派閥の対立がな・・・ 親モンゴル派がモンゴルと組んで金を亡ぼしたら、反モンゴル派がそれに対抗して旧金領に侵攻。 それに対して親モンゴル派は補給を拒否とかやってたから・・・ 嫉妬に狂い派閥争いに血道をあげて大局を見失う例は古今東西快挙にいとまがないな 秀吉の朝鮮の役の直前、朝鮮では秀吉の動向を探るために使節を送った。 帰国後、彼らは王に日本情勢を問われ、ある者が「倭国は危険だ。いずれ攻めてくるだろう」と諫言した。 だが別の者は「秀吉は醜い小男だ。あんなものに何ができる。倭国は攻めてこない」と発言し、 王は後者の言を信用して安心しきってしまった。 「倭国は攻めてこない」と発言した者は、確信があったわけではない。 「倭国は危険だ」と発言した者と派閥争いしてたから、反対の意見をいったまで。 先の大戦でも、陸軍と海軍の中の悪さが作戦遂行の障害となったというし、 オリンピック開会式でも、「才能ある若手に嫉妬して潰しにかかる重鎮のオッサン」のせいで 全世界に恥をさらしてしまった。 宋から金国への最大の輸出品は茶だったのだとか また宋銭も輸出が禁止されていたにもかかわらず、盛んに金国に流入していた 馬は金国の輸出禁制品だったが、宋がこれを求めていたので、やはり密輸出された だから南宋が金国に献上した金銀は、 結局のところ南宋に戻ってきた 茶の味を覚えた遊牧民は、茶商人に手懐けられてしまう。 清代のモンゴル人も、漢人商人から高価な茶を買っていたな 匈奴は茶の味を知らなかったから、あんなに強かったのか? >>337 王昭君が発酵乳飲んでるって報告してるだろ。 アイラグ(馬乳酒)だってビタミン補給の役割がある。 唐の文化が貴族文化だったのに対して、 宋の文化は官僚と士人層、商人庶民層の文化だった 宮崎市定は宋代の文化を西洋のルネサンスに対比したが、 宋は皇帝の専制権力下の官僚制国家であり、 ヨーロッパにおける政治権力と市民社会との 結びつきという傾向はまったくみられない むしろ人類史の中でヨーロッパ、とくに英仏のほうが特殊なんじゃね? >>343 ちょいまち それって欧州全体で「英仏対どこ」の比較をどういう観点で想定した仮説? むしろ英仏っていろいろ思想が逆方向に見えることが多いけど 言い換えれば「大陸欧州対イングランド」って比較が多いけど ヨーロッパは国王による絶対王政から民主制に進歩した、と思われているけど、 これがスムーズにいったのは英仏ぐらいで、他のヨーロッパの国はスムーズに いかなかった、という意味で書きました 中国では、商人が国家権力から自立した独自の階級を形成しえなかった >>347 揚げ足ってレベルじゃないだろ フランスがスムーズならロシアの社会主義革命だってスムーズだわ スムーズってのは世界に先駆けて という意味だろう? >>348 その反対事例っていうと、例えばイタリアのフィレンツェとかヴェネツィアとか? 幕末維新の時点で、「欧米諸国はすでに先進的な民主主義国で、日本だけ遅れた封建社会だった」というイメージが強いけど 当時のフランスはナポレオン3世の帝政、ドイツはプロイセン国王の専制のもとで統一戦争中、アメリカは奴隷制の維持を巡って南北分裂 「18世紀末のフランス革命で、フランスにおける君主政は終わった」というのは誤認識 その後の王政復古、七月王政を経て、皇帝ナポレオン3世の専制が始まった 1871年の普仏戦争に敗れて皇帝が退位させられなかったら、まだまだ君主政が続いただろう >>352 >幕末維新の時点で、「欧米諸国はすでに先進的な民主主義国で、日本だけ遅れた封建社会だった」というイメージが強いけど いや実際そうだつたろ 幕末志士たちもそれは自覚してたから明治維新後は一転して欧米化政策につとめたわけで 欧米では資本主義経済が発展して為政者には経済感覚が求められたわけだが これが日本の封建階級にはかけていたのが致命的だった 岩崎弥太郎の伝記読むと経済の知識が小学生レベルの武士ばかりだったことがよくわかる 日本が英仏以外の国には負けない文明レベルで負けていなかったのなら 何でスイスやアイルランドみたいなヨーロッパの後進国からもお雇い外国人を招聘してるのかね スイスは牧畜と傭兵稼業しか産業なかったし アイルランドはイギリス支配下でじゃがいもに頼って生きてた国 なにが先進国なの? 「欧米諸国の政治体制も、イメージほど民主主義にはなってたわけではない」という話をしたんだが? 宋といえば、「皇帝専制・中央集権」という話が外せない だから、そういう話になった 実際には、宋よりも金のほうが皇帝権力は強かったんじゃないかと思うんだがな なんたって征服王朝だし 漢人がはじめて民族的自覚を持つに至ったのは宋代だった この傾向は周辺の異民族にも等しくあらわれた 契丹をはじめとする北方異民族も、対等の国家意識を もって活動するようになる 彼らに華北の地を奪われたばかりか、元や清のもとでは、 全中国がその支配下に置かれることにもなった >>365 皇帝個人だけでなく、宗室の有力者が力を持っていた。 だから、海陵王あたりが独裁権ふるっても、宗室の他の有力者が潰しに来る。 >>355 ドイツ人や英国人の亜流の技術を持っていてなおかつ人件費が安かったから。 明治維新の時期に胸を張って近代民主主義って言えるのはアメリカとかろうじて英国だけだわな 英国は正確には貴族院含む議会主権だったからな フランスは第二帝政、ドイツイタリアはバラバラ ドイツはプロイセン、イタリアはサルデーニャが他国を征服して統一する最中だ 民主主義どころじゃない 皇帝ナポレオン3世は、議会に対してクーデターを起こして独裁者となり、20年にわたってフランスに君臨した 前半は専制君主のように振る舞ったが、後半は次第に議会を尊重するようになった でも、「議会制民主主義が確立していた」は言いすぎ 19世紀という時代の中では最先端の民主制度があったのは英米仏だろ 今の基準からみても意味はない >>374 別に「英米仏は遅れた国だった」とは誰も言ってないだろ ひょっとして、バカ? >>375 では何を主張したいの? 馬鹿呼ばわりする前に流れを見なさい 「幕末維新の頃、欧米先進国はすでに民主主義の国だった」というようなイメージを持っている人が世間には多い でも当時は、ドイツやイタリアは民主主義ではないし、フランスもかなり怪しかったという主張 当時からすれば充分民主主義の先進国だな だからこそ明治政府は英米仏ではなくプロイセンの欽定憲法をパクったのだ もちろん、ドイツやフランスの法律はずっと進んでいた これは西欧の独壇場 アジア・アフリカ諸国の中で、西欧式の法律を整備することの重要性に気づいたのは日本人だけだった ドイツ民法が体系的な形でまとまるのって、ドイツ統一後で日本の民法と成立時期大して変わらんのだけどな? ナポレオン民法典と英国コモンローは画期で、明らかに現代基準でも進んでいたと断言できるけど、ローマ法の 継承云々から近代方に脱皮するまで時間かかったドイツが、明治維新の時期に法学進んでいたかと言うと微妙 宋代には日宋貿易が行われていたけど、宋をモデルに 日本の政治制度を変えてしまおうという試みは行われなかったな やっぱり遣唐使の時代とは異なっていると思う 宋が成立した頃には日本では既に天皇の王政は形骸化して貴族政治・院政が確立していたからの >>382 > 宋をモデルに日本の政治制度を変えてしまおうという試みは行われなかったな 後醍醐天皇や楠木正成がそれを試みたが、失敗した 足利義満の時代には明と正式に国交を開いて日明貿易をおこなったが、 もはや明をモデルにしようという試みは存在しなかった 徳川吉宗は明律を研究してたらしいが なんで清律じゃなかったのかが不思議 足利義満本人は、明の太祖・洪武帝に習って元号を「洪徳」にしようと提案するほど明朝をリスペクトしていたが、「洪水みたいで不吉」と公家に反対された 菅原道真が遣唐使を廃止して以来、京都の公家は国粋主義になっており、平清盛が日宋貿易を始めたときも、足利義満が日明貿易を始めたときも「国辱外交だ」と反対した 現代の日本政府が中国と妥協すると「弱腰外交だ」と右翼が怒り、アメリカと妥協すると「対米追従だ」と左翼が怒るのと同じ そういう人々はいつの時代にもどの国にもいて、国際協調の障害となる 国粋主義というよりは それに名を借りた既得権者の抵抗といったところだな 宋や明の皇帝専制や科挙制度などは 大貴族には都合が悪い >>387 京都の公家も、「唐物」と呼ばれる舶来品は珍重していたみたいだがな >>391 舶来品をありがたがるのと制度や権威を認めることは別問題 日本の場合、唐物をありがたがるのは明治初期まで残るな それに加えて、関東人は京物をありがたがっていたから 宋は、「宋みたいにモンゴル帝国に占領されてはいけない」という悪い見本 明はそんなことなかったはずだが 五代十国の混乱期を経て、皇帝権強化(官僚・軍隊の権限分散)が行われたから 宋は安定したんじゃね? >>397 18世紀後半の日本では、色刷りの鮮やかな浮世絵が広まり、黄表紙が流行し、 通貨制度も未曽有の安定を示していた そのような泰平の世が、「皇国」という自負を日本人に抱かしめた 中国よりもよく治まっている、日本以上の楽土なく、上国なし 寛政期から、中国を革命と異民族支配、戦乱を繰り返す「あだし国」とする 認識が、儒者、国学者におしなべて広まっていった 東アジアでは日本以外全部モンゴルに征服されたんだから、見習うべき国なんて存在しないんだよ 宋銭は当時のアジアで、一種の国際基軸通貨の役割を果たしていたんだよな 地続きで海の助けも得られないのに、モンゴル叩き出した越南の立場はどうなっとるんだ >>405 越南は思いっきり海の助けを得てるぞ。 陸上ではモンゴル軍が無双してたのに、元寇のせいで弱体化していた海軍が兵糧の海上輸送に 悉く失敗したせいで撤退に追い込まれた。 つまり、越南がモンゴル軍を追い出せたのは日本のお陰だ。 宋の神宗の時代に、宰相王安石は「ベトナムを奪うべし」と進言した 王安石は中国南部の出身で、南京の知事の経験もあり、南方の事情には 関心が深く、ベトナムの動静には注目していた 当時、ベトナムと中国南部にまたがって居住していたヌン族が 反乱を起こし、その族長であるヌン・チ・カオは1041年、 今のカオバンに大暦国を建国し、このあと中国南部の南寧を占拠し、 広東まで勢力を伸ばし、宋には頭の痛い情勢となっていた >>408 ベトナムは中国に侵略されてばかりというイメージだけど、李常傑は逆に北上して中国に攻め込んだ 土下座しっぱなしの朝鮮史には見られない痛快な出来事 ∧支∧ ( `八´) (  ̄|| ̄) ニ彡 ⌒ ミ <ははぁ!宗主国様〜 | ̄.| ̄| <`∀´ ;>⌒) /__l _ゝ = と と_(_つ 半島も高句麗が隋の遠征全て撃破して逆に滅亡においやったり 新羅が唐を手玉にとったり高麗も遼や元相手に善戦したり 東系紅巾軍を壊滅させたり 朝鮮戦争でもソ連からのバックアップではブーストされた 北朝鮮や人民解放軍を相手に旧軍が残していった時代遅れの装備で 何度か38度線より北まで押し込んでいるのだから 韓国もなかなかに剛の者 韓国と北朝鮮はベトナム戦争で剣戟を交えた 韓国は公式に派兵したが、北朝鮮は非公式に軍を派遣した ベトナム戦争は第二次朝鮮戦争でもあったわけだな >>411 高句麗は満洲の王朝。韓国とはほとんど関係ない 新羅は、半島を統一して唐の朝貢国になっただけ。別に手玉に取ったわけではない 朝鮮戦争については、「韓国軍の兵士は、中国が攻めてくると聞いただけで震え上がってしまって、戦闘ではまるで使い物にならなかった」と米軍兵士が解雇している 新羅は唐との戦争ではあの薛仁貴を何度も敗退に追い込んで百済の旧領全てと 高句麗の首都平壌城と大同江以南の土地を唐から奪取 更にはかつては入朝国のなかで高句麗王のみが受けていた 開府儀同三司(三公と同等の礼式をもって遇する)を唐から認められたのだから 「朝貢国になっただけ」なわけないんだよなぁ >>414 いや、満洲の王朝だよ 領土を広げて、北朝鮮まで支配下におさめただけだ >>415 韓国ドラマの見すぎだ ウソをウソと見抜けない人は、見ないほうがいい >>416 高麗は高句麗が由来 実際に、多くの領民を取り込んでいるから 無関係と断定する根拠はない おまえら朝鮮人好きすぎだろ なんでスレチでここまで熱くなれるのか まじで朝鮮とかどうでもいい 朝鮮に命をかけてるファンがいるからね >>409 とか >>407 宋の神宗が大軍で攻めてきたのは、中国の歴代王朝から攻められ続けたベトナム史のなかでも、特筆すべき危機のひとつだった ほかにベトナム侵攻した主な皇帝としては、モンゴル帝国のフビライ、明の永楽帝、清の乾隆帝、中華人民共和国のケ小平が挙げられる >>421 ファンタジーに命かけてるなんてどんなファンだよ 高句麗は現代の国境で捉えるのは誤りな王朝だけど、満州の王朝ってのは極めて重大な誤謬だな 満州族は高句麗・渤海後にあの地域に入り込んだ部族じゃないか それと同時に、高句麗は三韓構成した民族を主体として国でもないから、三韓を朝鮮の祖とするなら朝鮮国家とも言い難い 高句麗は高句麗(漢名高麗)として検討するほかない ただ、後世の朝鮮半島の高麗が高句麗を強く意識していたとかもきちんと考慮すべきだね 北宋とベトナム李朝との間では、しばしば国境問題が発生していた。 宋は神宗の即位後、宰相の王安石の主導で積極策に転じてベトナム経略を図った。 これに対して李朝は、1075年に機先を制して李常傑を総大将として水陸から宋に侵攻し、欽州・廉州・邕州などを攻略して引揚げた。 宋側は反撃してベトナム奥地まで攻め入ったものの、戦果を挙げることができずに帰還した。 宋は成立以来、北の遼、西の西夏という強大な国家より始終圧迫を受けていた。一方で国土の南部においても大越の他にも少数民族との国境問題を抱えていた。 宋の神宗の治世。時の宰相の王安石は青苗法など数々の新法を発案・施行して政治改革を推し進め、後代においても中国史上屈指の大政治家として知られる。 熙寧8年(1075年)、王安石は、チャンパとの騒乱から間もない大越国は国情や生産力が安定していないものと見て取り、神宗に大越への派兵案を奏上する。 一方で大越側においても「宋南部で軍艦造船と水戦の演習が頻繁に行われている」「国境付近で、貿易が禁じられた」などの情報を受け「先制攻撃」を決断。 この年の10月、大越軍は二手に分かれ宋領内に進撃を開始した。 宋侵攻にあたり大越軍は「王安石の悪法に苦しむ民衆を助けに来た」との名目の元、隊の先頭には青苗法など王安石が施行する様々な改革案を痛烈に批判する一文『伐宋露布』を隊の先頭に掲げ進軍している。 なんとも痛快な出来事だ 「習近平の悪政に苦しむ民衆を救いに来た」という名目で、ベトナムが中国への先制攻撃を決断したら面白いのだが 北宋は、北の遼と、西の西夏から圧迫されていた 北京を領有してなかったのに、統一国家といえるのか疑問だ 日宋貿易で、日本からの主要な輸出品の一つが奥州の金だったんだよな 変わったところでは日本刀とか >>431 北京なんて街は宋代にはない 終了 >>432 あとは銀、硫黄、銅 近世までは資源輸出国なんだよな 吉田兼好は、舶来品をむやみにありがたがる 鎌倉時代末期の風潮を苦々しく思っていたらしい 薬以外の唐物は不要なもの、唐船が実用にならない 贅沢品ばかり輸送しているのはばかげたことだとしている 南宋が滅亡した時には、日本の天皇の臣下になりたいと使者を送って来たんだから、 それを受け入れていれば日本に中国の官僚制度が入って来ていたかもね。 遣唐使が廃止された後も、渡海僧や渡来僧は盛んに海を渡った 鎌倉五山では中国語(宋語)が用いられ、茶礼と呼ばれる 中国式の茶会が行われるなど、宋の文化が直輸入された 武士の間で唐膳と呼ばれる贅沢な料理がはやったのも、宋風の生活文化の影響 >>434 少なくとも、輸入生薬無いと調合できない薬剤がままあったってことでもあるな なんやかんやで商品経済、貿易経済が勃興し始めてた 一世を風靡するオピニオンリーダーだったはずの兼好法師も、時代の一般思潮からは跳び抜けられなかったか そのぶん、時代の一般思潮から先んじ過ぎてはその名を残せなかっただろうということでもあるのかもしれないが そうだな 「唐物など、薬を除けば必要ないものばかりだ」という徒然草の一節は、現代人には、 「へえ、鎌倉時代の日本人にとって、大陸から来る漢方薬がそんなに必需品だったのか!」 という、兼好法師の意図とは逆の感想をもたらす 大陸は広くて気候風土が多様だから、薬草の種類がとにかく豊富。 このため、中国では薬草の活用法が非常に発達したが、その代わり通常の医学では中東・欧州に遅れを取ることになった。 現代でも、中国大陸で唯一のノーベル賞受賞者は「漢方薬の研究」の専門家 宋代に、日本からは南西諸島の硫黄が一代輸出品目となり、 西夏などとの戦闘において火薬として用いられるようになったとか >>439 その硫黄貿易を独占してたのが鎌倉幕府の北条氏だ。 モンゴル軍が南宋に攻め込む度に日本から硫黄の輸出が激増する。 鎌倉幕府が大陸情勢に無知なんて有り得ないんだよ。 江戸幕府も含めて、日本の政府当局が海外情勢に無関心だったことなんか無い 当然、常に意識している 日本から輸入した硫黄で火薬を使って日本に攻めてきた なんて中国に最先端技術を渡して間接侵略を受けてる今と似てるな いつの時代でも危機感持つのは知識人で、それを過剰に騒ぐのは無知な人たちなんだよね 為政者はそもそも騒げない、情勢も掴んでて対策も考えてるけど 1226年、出羽国の御家人だった武藤資頼が太宰少弐に任ぜられてから、 鎌倉幕府が九州での交易を支配する時代になった さらに鎌倉後期になると、執権の北条氏が博多から鎌倉への海路を掌握した また鎌倉の禅宗の寺院を通じても、大量の唐物が鎌倉に集まるようになった こういう状態だったから、鎌倉幕府は海外の情勢をかなり把握していたのでは 宋代は君主独裁制度の完成期と言われているけど、 皇帝と官僚たちの会話は比較的自由だったんだよな 皇帝は官僚たちの助言に耳を傾け、ときには意に沿わない 行為をしたり不正を働く官僚を叱り皮肉も言う 宋代は士大夫官僚たちが束縛や圧迫感を感じることなく、 比較的自由に意見を言えた時代だった その点、明代とは異なっている >>442 元の火薬兵器なんて実戦では大した効果なかった。 それより元の慶元が日本から襲撃されて硫黄で焼失した時の方が被害甚大だろ。 日本から宋に輸出された品目は、金、銀、硫黄、水銀、真珠、 木材、美術工芸品、武器などがあった この時期の中国では早くも木材が不足し始めていたらしい モンゴル人は海上活動は不得意だっただろうと思われるが、 それを得意とする中国の海商をその配下に吸収することに成功し、 長江河口から北京への税糧輸送に航運関係者を用いて、歴代王朝に みられなかった海運を行った オスマン帝国が地中海の海賊を利用して海軍をつくったのを連想させるな 海上輸送してきた船が、天津から大運河に入って、そのまま北京の港に入れたからな 川を少し入ったところにあるハンブルク港みたいだ そんな運河を建設したモンゴル帝国のスケールは大きい 遼は滅んだ後も西遼に継承されたけど、その西遼はさらにカラヒタイ朝に継承されたんだな。 遼が完全に滅んだのは14世紀のイランの地か。 元朝は、江南を平定するとまもなく、長江河口の崇明の 塩の闇商人だった張宣や朱清らを用いて、宋から押収した文書を 長江河口から海上輸送によって北京に運ばせている その後、彼らに建造させた平底海船60艘によって江南の税糧を 北京に向かって海上輸送させ、海運を開いた 西遼とカラヒタイ朝(カラキタイ?)は別物なのですか? >>450 西遼はモンゴル に追われて逃げてきてナイマン部のクチュルクに乗っ取られたあとに、モンゴルに滅ぼされましたが 因みに、クチュルクの最期の地は、パミール高原の奥地 >>452 その西遼が滅んだ後、生き残った王族がイランのケルマーンでカラヒタイ朝を建国したんだよ カラ・ヒタイ朝の建国には、モンゴル系・トルコ系遊牧民の 援護協力があったのだとか 朱子学は、現代の日本では井沢元彦みたいな作家の影響で過小評価されているように思える もともと朱子学は緻密な論理をもつ合理的な思考の学問であり、江戸時代の日本人も 朱子学により知的・思想的な訓練をするとともに、それを土台として蘭学(洋学)との 交流と吸収をおこなった >>457 ネトウヨが朝鮮叩くための道具にされているよな朱子学って 明治以降の日本では、朱子学や儒教が過小評価されてきたように思う ルネサンス以降の西欧人が、「暗黒の中世」とか言って、中世を過小評価してきたのと 同じ 陽明学の影響は強いな 安岡正篤は歴代宰相に陽明学の教えを説き、「宰相の師」と呼ばれた >>457 > もともと朱子学は緻密な論理をもつ合理的な思考の学問であり 唐は、国を挙げて加持祈祷に狂奔する迷信深い社会だった 朱子学は、それに対する啓蒙思想として登場した 千年近く昔の思想にしては驚くほど合理的。さすがに現代人から見ると、それでもかなりオカルトがかってるが 司馬遼太郎は『明治という国家』で、 「私は朱子学というものを本当に呪わしく思うときがある」 「教育勅語は朱子学そのものであります」 「明治二十三年、当時のひとびともおそらくうんざりしていただろう朱子学が、 教育勅語としてもう一度戻ってきたのであります」 と書いている。 現代日本人の朱子学に対する低い評価には小説家の影響が大きいのかも 実際、フランス式の民法を導入しようとしたら、「民法出でて忠孝滅ぶ」という守旧派の反対運動が起きたくらいだからな 明治維新の大改革は、朱子学をバッサリと捨てたことによって成し遂げられたという面も確かにある しかし、司馬遼太郎も書いているように、明治政府は朱子学から大きな影響を受けていた 現代の日本人が明治憲法や教育勅語に感じる古さは、朱子学によるものが大きい 日本に限らず、どこの国でも近代化は、伝統主義の呪縛との闘い 維新の志士にしてもそうだ 尊皇攘夷思想は、朱子学のエッセンス 満州人の金に中原の地を奪われた南宋の儒者の怒りが、奇しくも幕末の日本の革命家たちに乗り移った それでいて、 これが幕末の実務家グループとなると、陽明学派が力を持ってたりもするよね 水戸藩は日本に亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘したが、彼は陽明学を取り入れた 実学派だった。 「尊皇攘夷」が朱子学に由来する思想だってことを知ってる人が、現代の日本人にどれだけいるか? 「尊皇攘夷」の言い出しっぺは斉の管仲とされているが 愛国のイデオロギーとして思想的に定式化したのは朱子学 皮肉にも、当の中国は近代イデオロギーの確立に失敗したが、回り回って幕末維新の日本に大きな影響をもたらした 江戸時代の日本人は朱子学により知的・思想的な訓練をするとともに、それを土台として 蘭学(洋学)との交流と吸収をおこなった 父親の世代に反抗する若者のように、日本人も自分で自覚する以上に多くを朱子学に 負っていた でも、明治維新でフランス式の民法を導入しようとしたら、「民法出でて忠孝滅ぶ」と反対運動が起きて頓挫したエピソードに象徴されるように 近代化を目指す日本の改革の前に立ちはだかる最大の壁が、古い儒教思想だったのも事実 「儒教は親の仇でござる」という福沢諭吉の言葉にも、それが表れている 江戸時代の人でも、伊藤仁斎や荻生徂徠は朱子学を批判していた >>477 > どう批判したというのかね 純粋な儒教ではない 仏教や道教の要素が多く混ざっている いってみれば、西洋のスコラ哲学みたいなものだ 聖トマス・アクィナスは、キリスト教とギリシャ哲学を統合してスコラ哲学を構築し、それがカトリックの正統とされた 朱子学もこれに似ている 朱子は、儒仏道の三教を統合して、新しい儒教を創ったといってよい >>479 要約すると、 神仏儒耶回を全部まとめて丸呑みする日本人が偉い、と。 日本人は丸呑みなんかしてない 表層を舐めてるだけだ 神道には教義らしい教義がほとんど無いから、統合しようにもなあ 朱子は、若い頃は禅宗に傾倒し、仏教徒より仏教に詳しかった 朱子学では、静坐して精神統一することが重視されており、禅宗と通じるものがある 唐代にももちろん儒教はあったが、仏教と道教が盛んな時代で儒教は押されていた 唐朝は、国を挙げて加持祈祷に狂奔する迷信深い時代だった それに対する啓蒙思想として登場したのが新儒教の宋学 儒教の先生方が目をつけたのは「易経」だった 宋学のトップバッター、周濂渓先生の太極図 現代人から見れば相当にオカルトっぽいが、当時としては合理思想 仏教や道教のような神秘的世界観を持たないという、儒教の最大の弱点を補うために、濂渓先生が持ち出したのが易経だった https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a0/ZhoushiTaijitu.png 濂渓先生から宋学バトンを受け継いだのは、程明道・程伊川の兄弟 伊川先生は、一生かけて易経を研究したにもかかわらず、易占を一切やらなかった 「占いなど君子のやることではない」と言って嫌った 伊川先生にとっては、易経は陰陽道の世界観としての意味しか持たなかった 仏教や道教に比べて、世界観が貧弱なのが儒教の弱点。それを補うのが易経だつた このような宋学を完成したのが朱子だった 儒者といっても、禅宗や道教にも専門的に詳しかった まあ、史上最大級の学者なのだから不思議はないが おかげで、朱子学には禅宗や道教の教義が大幅に混入している 伊藤仁斎にとっては、こんなの本来の儒学ではなかった 「論語という原点に戻れ」と仁斎は主張した 「聖書に帰れ」と唱えたマルティン・ルターの宗教改革を思わせる 朱子学とは直接関係ない話だけど、南宋末期の軍人・政治家である文天祥の思想や 生き様は、吉田松陰や藤田東湖や広瀬武夫に影響を与えているよな 彼らは文天祥の『正気の歌』を真似てそれぞれの『正気の歌』を作っている まあ、儒者にとって華北の中原は聖地 そこを夷狄に占領されてるわけだからな 日本に例えれば、京都や奈良を朝鮮人に占領されたようなものだ 怒りが押さえきれないのも分かる >>491 五胡十六国〜魏晋南北朝時代の漢人はそこまで偏狭ではなかったような いったい何が変わったんだろう >>492 五胡十六国時代には冉閔による胡人大虐殺(犠牲者20万人)が起きていますだ 丸山眞男は儒教と朱子学を日本の封建制社会の支柱となった思想体系とのみ みなしていた そして江戸時代初期に強固に確立されたこの思想体系が荻生徂徠などの思想の インパクトを受けて解体され、これと並行して近代的意識が形成されたと解釈した 現代日本における朱子学に対する否定的な評価は丸山の影響もあるかも 朱子学という以前に、江戸幕府がネガティブなイメージ その江戸幕府が官学にしていたから朱子学も否定される 陽明学のイメージが良いのはフリーな学者に支持されていたから 江戸時代の浮世絵師や琳派、写生派も最初は狩野派には学んでいる 古いものの基礎をきちんと学ばないと、実は新しいものを創造することもできないのかもしれない 朱子学を学んだときの知的訓練なくして、日本人が西洋の新しい学問を理解することが できたかどうか疑問 >>492 漢滅亡から唐建国への移行期は柔軟に生きないと 生きていけないけど、宋になると再び 「完成された」「中華世界」が「復活した」感じ >>495 江戸幕府だけでなく、水戸藩など江戸期の日本に朱子学を伝えた朝鮮が官学にしていたから 最悪なイメージになった 皮肉にも水戸藩の朱子学→尊王攘夷思想が 過激化すると江戸幕府も朝鮮も朱子学も 否定する方向に向かっていった >>498 李朝の官学だったってことと、朱子学に対する日本国内の評価自体の転換には、 直接的影響としての因果関係はあまり無いだろう? ことの順序を取り違えてないか? (あるいは、こういうことあまり言いたくないが、5chでありがちな「コリアン関係なんでも低評価」目的の煽りレスなのか?) 幕末から維新にかけては、陽明学派の影響を受けた思潮や政治的動向が強くなったから、 その思想的ライバルとしての朱子学派が低評価された事情のほうがよほど強いだろう 朱子学というと官学というイメージが強いけれど、実は朱熹の晩年まで、 「慶元偽学の禁」をはじめとする弾圧をしばしば被ったことはあまり知られていないな >>499 なるほど 近世日本と朝鮮が朱子学、 近代日本が陽明学だと納得するような >>499 しかし、維新後は陽明学が中国から来た外来思想だから国家神道に隠されたのかな 戦後の韓国は明治維新後の日本の逆バージョンで 今度は日本の影響を隠すと 日本では、中国や朝鮮からの影響がある程度に 達した段階で、これを和風な装いを付けて その影響を否定にかかる事が明治まで周期的に 繰り返されてきた その逆をやっているのが戦後韓国の反日運動ではないだろうか 彼らが反日なのは単なる日本への恨みだけではなく、韓国は日本ではないと自分で 納得する為でもあるのだろう 朝鮮半島では朱子学派が近代初期まで非常に有力だったけど、 陽明学派も全く無かったというわけではないな 有力な学者もいた 日本の学者たちは、宋学の理気二元論をとらないで、気一元論の立場に立っているな 山鹿素行も、伊藤仁斎も、みな唯気論者 山鹿素行「君子は二君に仕えるべし」 「主君の為に命を捨つるは愚かもの」 気一元論は、いまでいう唯物思想に近いスタンスだ 実際、張横渠は「唯物論の祖」として、人民中国で持ち上げられてたくらいだし 荻生徂徠は、宋学におけるような抽象的思弁を好まなかった。 彼は普遍的な理よりも個別的な事物を重んじた。 普遍存在と個別存在 抽象存在と具体存在 プラトンとアリストテレスの頃から、古今東西を問わず哲学永遠のテーマ きょけい-きゅうり【居敬窮理】 心を専一にして日ごろの振る舞いを慎み、広く物事の道理をきわめて、正確な知識を得ること。 南宋なんそう、朱熹しゅきの修養法の二つの大綱。 「居敬」は心を引き締めて怠ることなく、慎み深い態度で日ごろの立ち居振る舞いに注意すること。内的な修養法。 「窮理」は物事の道理をきわめて、正しい知識を得ること。外的な修養法。 >>513 「誰もが学問に努めることによって聖人に至ることができる」というスローガンは、 仏教の「悉皆成仏」への対抗でもあったな 朱子学が現代の日本で埋もれたのは仕方ないと思うが、ちょっと極端だな 西洋哲学よりずっと認知度が低い 「物自体」とか「弁証法的発展」を知ってる人は世間にもそれなりにいるが、 「格物致知」とか「居敬窮理」を知ってる人なんか見たことないわ それに比べて陽明学では、「知行合一」 だけは誰でも知ってる有名な言葉になった もっとも、意味は誤解されており、本来の哲学的な主旨を知ってる人など世間の一般人にはまずいないが 幕末維新期に西洋から科学を導入するにあたって、Physicsを「物理」と訳した日本人 昔の人は、Physicsを見て、「これは朱子学でいう格物窮理のことだな?」と思ったわけで、つまりは朱子学が本来はそれだけ科学的な思考だということ 現代人から見れば相当にオカルトがかっているが、中世の思想にしては驚くべき合理主義 『侠医冬馬』(村上もとか、集英社)という漫画の中で、蘭学を学ぶ主人公が、 「内外合一、活物窮理!」 と叫んでいた 【インピオ】 その起源は古く中国宋代末期まで遡る 時の皇太子・幼姦(ようかん)は暴君として知られ、 近隣の村々から幼女を集めては日々暴力的な性交に耽っていた。 その過度な小児性愛嗜好と領民の不満に心を痛めていた 教育係の尹卑翁(いんぴおう)は、市井の画家達を一堂に集め、 幼少期の皇太子が同年代の幼女を辱める戯画を面しろおかしく描かせ、 その歪んだ小児性愛を揶揄してみせたのである。 自分をモデルに描かれた戯画を見た皇太子は、 自らの性癖やそれまでの行いを大いに恥じ、 それ以来女性と閨房に入る事は無かったとされる 。 これにより世継ぎを望めなくなった宋朝は急激に衰退し、 北方民族の蹂躙を許してしまうのである。 宋を亡ぼすきっかけとなったこの様な戯画を、 人々は「尹卑翁画」と呼び禁忌として忌み嫌う様になったという 。 宋を亡ぼすきっかけとなったこの様な戯画を、 人々は「尹卑翁画」と呼び禁忌として忌み嫌う様になったという 。 >>519 仮にそんな戯画が無かったとしても、だ。 幼女が相手じゃいくらやったってガキは出来ねえだろうよ。 どっちみち宋は滅ぶしかねえな。 日宋貿易で日本は宋に刀剣を輸出していたが、フランク王国もイスラーム圏に 武器を輸出していた 後進国なのに武器の性能だけがいいなんて、そんなことあるのかな? 文明国は豊かで色々な物の需要が有るけど 蛮族は武器しか需要無いからな,それ以外わ略奪するし 日本のほうが豊かだろ 古来から、魚と米が豊富なのは「魚米之郷」と呼ばれ、豊かさの象徴 こんなに魚と米がとれるとこなんか、大陸にはなかなか無いぞ 江戸時代の日本に来た朝鮮通信使なんか、「これじゃ恵まれすぎだろ」と天を恨んだほどだ 現代の先進工業国と発展途上国のような関係をイメージするのは、まったくの誤解 東アジアで豊かな地は、日本、長江下流デルタ、珠江河口平野の3つ あと日本から宋への代表的な輸出品は美術工芸品など 当時の文化水準は中国より日本の方が高かったみたいだね >>523 山だらけの地形で米が取れすぎるとかまじで妄想乙なんだよなあ >>528 その山だらけの地形、プラスこの緯度帯、 そんな条件下で元々熱帯低湿地性の植物である稲が江戸時代の列島人口を完全自給自足できるほど結実するというのは、 生物学的には驚異と云っていい異常事態。 もちろんこれは列島独特の気候風土の御蔭なんだが、恵まれない半島の人間がそれを恨み羨むというのはよく解る話だと思われるが。 >>529 いや度々飢饉で餓死者も出てるし姥捨て文化も広範にあるが 事実に基づいてない妄想を開陳されてもね あと江戸時代の人口って3000万人くらいにすぎないが 同時代の中国は3億人超でその人口を支えてたのが江南ね >>532 ネトウヨ思想の馬鹿がたびたび中国スレには現れるんだよ そのたびに理屈で詰めてやると発狂するから楽しい 日本列島なんかまともな産物がないもんだから 倭王が中国王朝に人間を奴隷として朝貢してたわけだが >>307 前近代の水田耕作において、傾斜地かつ浸透性の低い土壌はまさに適地中の適地です 関東でも低湿地が広がる中心部より、今の八高線や両毛線の沿線地域が人口集中地でした 日宋貿易では日本から宋に木材を輸出していた もうこの時代には中国で木材が不足していたのか? 室町時代に朝鮮通信使は日本は「乞食、飢人や娼婦多し」(老松堂日本行録)と記している それだけ江戸時代の人が頑張ったということだろ 松平定信は寛政異学の禁のせいで、朱子学かぶれ・西洋嫌いというイメージを持たれているが、 実際にはあの人、洋学にも強い関心を持っていたし、「朱子学は理屈が先に立ち、学ぶと 偏屈に陥る」と述べているんだよな そこでいう「異学」って、どっちかというと標的は陽明学でしょ モンゴルに中国が指示したのはアラブにはインドは無いという事だった モンゴルに詳しい研究者「猫准教」とは https://finance.yahoo.co.jp/cm/personal/history/comment?user=752c60aaa248773c9a72d4218b5e36e46aec205200bc61cf14f147d17dc35a3d Yahoo掲示板でやっていること ・女性教員を自称 ・准教授を自称 ・モンゴルに関する自分の考えを投稿 ・名古屋大学の学生が掲示板に書き込みをしていたから、みずからの京都大学の身分証の画像を貼る(既に削除済み) →モンゴル史を専攻している該当の「准教授」は存在していない。講師・助教・研究員については不明。 ・個別銘柄である、三菱フィナンシャルグループ(8306)の株式を2023/2/20に売買し、800万円以上の利益を得たスクショを投稿(既に削除済み) 「猫准教」の投稿 13~14世紀は、ユーラシア大陸を語るに於いて、モンゴル帝国の時代だといってもいいでしょう。彼らは破壊の限りを尽くしたけれど、奇しくもそれが東西交流の発端にもなった。なにせ中東・イスラム文化の殆どを破壊し、果ては今でいうルクセンブルクを超えるぐらいにまで迫るもんだから、欧州文化はこの破壊の疾走に恐怖を覚えたものでしょう。その証拠に当時のローマ教皇は、タタール人をキリスト教に改宗させるために修道使節を派遣しているし、同じくフランス王も懐柔使節を派遣しています。 その甲斐もあったんでしょう、東西交流は矛戟を構えることなく進み、安全が確保されたことから、後のマルコ・ポーロが出てくる地盤が構築されました。 このように、曲がりなりにも交易路というものが獲得されれば、自然と文化の成長変化もあらわれます 今回特筆しようものは、アジアに於けるその学問で、元の郭守敬はアラブの数学を会得して授時暦という太陰太陽暦を編み出し、これは後の日本で頭角を現し、日本独自の暦を作り、日本初の天文学者とされる渋川春海が考案した貞享暦にもおおいに影響を与えたもので、歴史的発明のひとつといえるでしょう しかしながら、元国内に限っては、官吏登用制度である科挙が一時廃止されたこともあって、士大夫(上級官吏)階級の地位が低下したため、中国(元)由来の学問や思想は生じなかったという側面があるものの、政界から離れた知識人が市井郷里に戻ることで、かわりに庶民文化というものが発達し、なかでも趙孟を原点とする文人画家は、黄公望、倪、呉鎮、王蒙ら四大家によって漢代発祥とされる宗炳が方向づけた山水画の描法が様式化され、南宋画というものが確立されました 余談にはなりますが、この中国から伝播した南宋画の模倣から脱却したのが、かの有名な雪舟であり「天橋立図」や「秋冬山水画」などは国宝として今でも国に管理され、日本の絵画史において格別の評価を得ています 末尾として、もう少しだけ中国文学に触れておくと、日本でも不朽の名作として万人に知られる「水滸伝」や「三国志演義」などの劇場型文学は、その原型が元代にできあがったといわれています。この両作品に共通する傾向は、社稷を蝕む高級官僚に国を憂う正義の英雄たちが挑むも、志半ばで悲劇的な結末を迎えるという内容で一致しており、当時の抑鬱された民衆感情が色濃く出た、わかりやすい作品です https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1160004548/06e849fd4914445c27fed6a7a800b61d/1/2632 13~14世紀は、ユーラシア大陸を語るに於いて、モンゴル帝国の時代だといってもいいでしょう。彼らは破壊の限りを尽くしたけれど、奇しくもそれが東西交流の発端にもなった。なにせ中東・イスラム文化の殆どを破壊し、果ては今でいうルクセンブルクを超えるぐらいにまで迫るもんだから、欧州文化はこの破壊の疾走に恐怖を覚えたものでしょう。その証拠に当時のローマ教皇は、タタール人をキリスト教に改宗させるために修道使節を派遣しているし、同じくフランス王も懐柔使節を派遣しています。 その甲斐もあったんでしょう、東西交流は矛戟を構えることなく進み、安全が確保されたことから、後のマルコ・ポーロが出てくる地盤が構築されました。 このように、曲がりなりにも交易路というものが獲得されれば、自然と文化の成長変化もあらわれます。 今回特筆しようものは、アジアに於けるその学問で、元の郭守敬はアラブの数学を会得して授時暦という太陰太陽暦を編み出し、これは後の日本で頭角を現し、日本独自の暦を作り、日本初の天文学者とされる渋川春海が考案した貞享暦にもおおいに影響を与えたもので、歴史的発明のひとつといえるでしょう。 https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1160004548/06e849fd4914445c27fed6a7a800b61d/1/2633 しかしながら、元国内に限っては、官吏登用制度である科挙が一時廃止されたこともあって、士大夫(上級官吏)階級の地位が低下したため、中国(元)由来の学問や思想は生じなかったという側面があるものの、政界から離れた知識人が市井郷里に戻ることで、かわりに庶民文化というものが発達し、なかでも趙孟?を原点とする文人画家は、黄公望、倪?、呉鎮、王蒙ら四大家によって漢代発祥とされる宗炳が方向づけた山水画の描法が様式化され、南宋画というものが確立されました。 余談にはなりますが、この中国から伝播した南宋画の模倣から脱却したのが、かの有名な雪舟であり「天橋立図」や「秋冬山水画」などは国宝として今でも国に管理され、日本の絵画史において格別の評価を得ています。 末尾として、もう少しだけ中国文学に触れておくと、日本でも不朽の名作として万人に知られる「水滸伝」や「三国志演義」などの劇場型文学は、その原型が元代にできあがったといわれています。この両作品に共通する傾向は、社稷を蝕む高級官僚に国を憂う正義の英雄たちが挑むも、志半ばで悲劇的な結末を迎えるという内容で一致しており、当時の抑鬱された民衆感情が色濃く出た、わかりやすい作品です。 グンジハトゥンってなんか可愛い 本名あるのに、みんなが姫様(公主)お妃(合敦)呼んで、なんだかそれが一番いい通り名みたいになってる。 漢字辞典で調べると、「遼」ってはるか、遠い、って意味なんだよな なんか遊牧民族らしいロマンチックな名前というか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる