宋・遼・西夏・金・元
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宋・遼・西夏・金・元の歴史について語るスレッドです >>495
江戸幕府だけでなく、水戸藩など江戸期の日本に朱子学を伝えた朝鮮が官学にしていたから
最悪なイメージになった
皮肉にも水戸藩の朱子学→尊王攘夷思想が
過激化すると江戸幕府も朝鮮も朱子学も
否定する方向に向かっていった >>498
李朝の官学だったってことと、朱子学に対する日本国内の評価自体の転換には、
直接的影響としての因果関係はあまり無いだろう?
ことの順序を取り違えてないか?
(あるいは、こういうことあまり言いたくないが、5chでありがちな「コリアン関係なんでも低評価」目的の煽りレスなのか?)
幕末から維新にかけては、陽明学派の影響を受けた思潮や政治的動向が強くなったから、
その思想的ライバルとしての朱子学派が低評価された事情のほうがよほど強いだろう 朱子学というと官学というイメージが強いけれど、実は朱熹の晩年まで、
「慶元偽学の禁」をはじめとする弾圧をしばしば被ったことはあまり知られていないな >>499
なるほど 近世日本と朝鮮が朱子学、
近代日本が陽明学だと納得するような >>499
しかし、維新後は陽明学が中国から来た外来思想だから国家神道に隠されたのかな
戦後の韓国は明治維新後の日本の逆バージョンで
今度は日本の影響を隠すと 日本では、中国や朝鮮からの影響がある程度に
達した段階で、これを和風な装いを付けて
その影響を否定にかかる事が明治まで周期的に
繰り返されてきた
その逆をやっているのが戦後韓国の反日運動ではないだろうか 彼らが反日なのは単なる日本への恨みだけではなく、韓国は日本ではないと自分で
納得する為でもあるのだろう 朝鮮半島では朱子学派が近代初期まで非常に有力だったけど、
陽明学派も全く無かったというわけではないな
有力な学者もいた 日本の学者たちは、宋学の理気二元論をとらないで、気一元論の立場に立っているな
山鹿素行も、伊藤仁斎も、みな唯気論者 山鹿素行「君子は二君に仕えるべし」
「主君の為に命を捨つるは愚かもの」 気一元論は、いまでいう唯物思想に近いスタンスだ
実際、張横渠は「唯物論の祖」として、人民中国で持ち上げられてたくらいだし 荻生徂徠は、宋学におけるような抽象的思弁を好まなかった。
彼は普遍的な理よりも個別的な事物を重んじた。 普遍存在と個別存在
抽象存在と具体存在
プラトンとアリストテレスの頃から、古今東西を問わず哲学永遠のテーマ きょけい-きゅうり【居敬窮理】
心を専一にして日ごろの振る舞いを慎み、広く物事の道理をきわめて、正確な知識を得ること。
南宋なんそう、朱熹しゅきの修養法の二つの大綱。
「居敬」は心を引き締めて怠ることなく、慎み深い態度で日ごろの立ち居振る舞いに注意すること。内的な修養法。
「窮理」は物事の道理をきわめて、正しい知識を得ること。外的な修養法。 >>513
「誰もが学問に努めることによって聖人に至ることができる」というスローガンは、
仏教の「悉皆成仏」への対抗でもあったな 朱子学が現代の日本で埋もれたのは仕方ないと思うが、ちょっと極端だな
西洋哲学よりずっと認知度が低い
「物自体」とか「弁証法的発展」を知ってる人は世間にもそれなりにいるが、
「格物致知」とか「居敬窮理」を知ってる人なんか見たことないわ それに比べて陽明学では、「知行合一」 だけは誰でも知ってる有名な言葉になった
もっとも、意味は誤解されており、本来の哲学的な主旨を知ってる人など世間の一般人にはまずいないが 幕末維新期に西洋から科学を導入するにあたって、Physicsを「物理」と訳した日本人
昔の人は、Physicsを見て、「これは朱子学でいう格物窮理のことだな?」と思ったわけで、つまりは朱子学が本来はそれだけ科学的な思考だということ
現代人から見れば相当にオカルトがかっているが、中世の思想にしては驚くべき合理主義 『侠医冬馬』(村上もとか、集英社)という漫画の中で、蘭学を学ぶ主人公が、
「内外合一、活物窮理!」
と叫んでいた 【インピオ】
その起源は古く中国宋代末期まで遡る
時の皇太子・幼姦(ようかん)は暴君として知られ、
近隣の村々から幼女を集めては日々暴力的な性交に耽っていた。
その過度な小児性愛嗜好と領民の不満に心を痛めていた
教育係の尹卑翁(いんぴおう)は、市井の画家達を一堂に集め、 幼少期の皇太子が同年代の幼女を辱める戯画を面しろおかしく描かせ、 その歪んだ小児性愛を揶揄してみせたのである。
自分をモデルに描かれた戯画を見た皇太子は、 自らの性癖やそれまでの行いを大いに恥じ、 それ以来女性と閨房に入る事は無かったとされる 。
これにより世継ぎを望めなくなった宋朝は急激に衰退し、
北方民族の蹂躙を許してしまうのである。
宋を亡ぼすきっかけとなったこの様な戯画を、
人々は「尹卑翁画」と呼び禁忌として忌み嫌う様になったという 。
宋を亡ぼすきっかけとなったこの様な戯画を、 人々は「尹卑翁画」と呼び禁忌として忌み嫌う様になったという 。 >>519
仮にそんな戯画が無かったとしても、だ。
幼女が相手じゃいくらやったってガキは出来ねえだろうよ。
どっちみち宋は滅ぶしかねえな。 日宋貿易で日本は宋に刀剣を輸出していたが、フランク王国もイスラーム圏に
武器を輸出していた
後進国なのに武器の性能だけがいいなんて、そんなことあるのかな? 文明国は豊かで色々な物の需要が有るけど
蛮族は武器しか需要無いからな,それ以外わ略奪するし 日本のほうが豊かだろ
古来から、魚と米が豊富なのは「魚米之郷」と呼ばれ、豊かさの象徴
こんなに魚と米がとれるとこなんか、大陸にはなかなか無いぞ
江戸時代の日本に来た朝鮮通信使なんか、「これじゃ恵まれすぎだろ」と天を恨んだほどだ 現代の先進工業国と発展途上国のような関係をイメージするのは、まったくの誤解 東アジアで豊かな地は、日本、長江下流デルタ、珠江河口平野の3つ あと日本から宋への代表的な輸出品は美術工芸品など
当時の文化水準は中国より日本の方が高かったみたいだね >>523
山だらけの地形で米が取れすぎるとかまじで妄想乙なんだよなあ >>528
その山だらけの地形、プラスこの緯度帯、
そんな条件下で元々熱帯低湿地性の植物である稲が江戸時代の列島人口を完全自給自足できるほど結実するというのは、
生物学的には驚異と云っていい異常事態。
もちろんこれは列島独特の気候風土の御蔭なんだが、恵まれない半島の人間がそれを恨み羨むというのはよく解る話だと思われるが。 >>529
いや度々飢饉で餓死者も出てるし姥捨て文化も広範にあるが
事実に基づいてない妄想を開陳されてもね あと江戸時代の人口って3000万人くらいにすぎないが
同時代の中国は3億人超でその人口を支えてたのが江南ね >>532
ネトウヨ思想の馬鹿がたびたび中国スレには現れるんだよ
そのたびに理屈で詰めてやると発狂するから楽しい 日本列島なんかまともな産物がないもんだから
倭王が中国王朝に人間を奴隷として朝貢してたわけだが >>307
前近代の水田耕作において、傾斜地かつ浸透性の低い土壌はまさに適地中の適地です
関東でも低湿地が広がる中心部より、今の八高線や両毛線の沿線地域が人口集中地でした 日宋貿易では日本から宋に木材を輸出していた
もうこの時代には中国で木材が不足していたのか? 室町時代に朝鮮通信使は日本は「乞食、飢人や娼婦多し」(老松堂日本行録)と記している
それだけ江戸時代の人が頑張ったということだろ 松平定信は寛政異学の禁のせいで、朱子学かぶれ・西洋嫌いというイメージを持たれているが、
実際にはあの人、洋学にも強い関心を持っていたし、「朱子学は理屈が先に立ち、学ぶと
偏屈に陥る」と述べているんだよな そこでいう「異学」って、どっちかというと標的は陽明学でしょ モンゴルに中国が指示したのはアラブにはインドは無いという事だった モンゴルに詳しい研究者「猫准教」とは
https://finance.yahoo.co.jp/cm/personal/history/comment?user=752c60aaa248773c9a72d4218b5e36e46aec205200bc61cf14f147d17dc35a3d
Yahoo掲示板でやっていること
・女性教員を自称
・准教授を自称
・モンゴルに関する自分の考えを投稿
・名古屋大学の学生が掲示板に書き込みをしていたから、みずからの京都大学の身分証の画像を貼る(既に削除済み)
→モンゴル史を専攻している該当の「准教授」は存在していない。講師・助教・研究員については不明。
・個別銘柄である、三菱フィナンシャルグループ(8306)の株式を2023/2/20に売買し、800万円以上の利益を得たスクショを投稿(既に削除済み) 「猫准教」の投稿
13~14世紀は、ユーラシア大陸を語るに於いて、モンゴル帝国の時代だといってもいいでしょう。彼らは破壊の限りを尽くしたけれど、奇しくもそれが東西交流の発端にもなった。なにせ中東・イスラム文化の殆どを破壊し、果ては今でいうルクセンブルクを超えるぐらいにまで迫るもんだから、欧州文化はこの破壊の疾走に恐怖を覚えたものでしょう。その証拠に当時のローマ教皇は、タタール人をキリスト教に改宗させるために修道使節を派遣しているし、同じくフランス王も懐柔使節を派遣しています。
その甲斐もあったんでしょう、東西交流は矛戟を構えることなく進み、安全が確保されたことから、後のマルコ・ポーロが出てくる地盤が構築されました。
このように、曲がりなりにも交易路というものが獲得されれば、自然と文化の成長変化もあらわれます
今回特筆しようものは、アジアに於けるその学問で、元の郭守敬はアラブの数学を会得して授時暦という太陰太陽暦を編み出し、これは後の日本で頭角を現し、日本独自の暦を作り、日本初の天文学者とされる渋川春海が考案した貞享暦にもおおいに影響を与えたもので、歴史的発明のひとつといえるでしょう
しかしながら、元国内に限っては、官吏登用制度である科挙が一時廃止されたこともあって、士大夫(上級官吏)階級の地位が低下したため、中国(元)由来の学問や思想は生じなかったという側面があるものの、政界から離れた知識人が市井郷里に戻ることで、かわりに庶民文化というものが発達し、なかでも趙孟を原点とする文人画家は、黄公望、倪、呉鎮、王蒙ら四大家によって漢代発祥とされる宗炳が方向づけた山水画の描法が様式化され、南宋画というものが確立されました
余談にはなりますが、この中国から伝播した南宋画の模倣から脱却したのが、かの有名な雪舟であり「天橋立図」や「秋冬山水画」などは国宝として今でも国に管理され、日本の絵画史において格別の評価を得ています
末尾として、もう少しだけ中国文学に触れておくと、日本でも不朽の名作として万人に知られる「水滸伝」や「三国志演義」などの劇場型文学は、その原型が元代にできあがったといわれています。この両作品に共通する傾向は、社稷を蝕む高級官僚に国を憂う正義の英雄たちが挑むも、志半ばで悲劇的な結末を迎えるという内容で一致しており、当時の抑鬱された民衆感情が色濃く出た、わかりやすい作品です https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1160004548/06e849fd4914445c27fed6a7a800b61d/1/2632
13~14世紀は、ユーラシア大陸を語るに於いて、モンゴル帝国の時代だといってもいいでしょう。彼らは破壊の限りを尽くしたけれど、奇しくもそれが東西交流の発端にもなった。なにせ中東・イスラム文化の殆どを破壊し、果ては今でいうルクセンブルクを超えるぐらいにまで迫るもんだから、欧州文化はこの破壊の疾走に恐怖を覚えたものでしょう。その証拠に当時のローマ教皇は、タタール人をキリスト教に改宗させるために修道使節を派遣しているし、同じくフランス王も懐柔使節を派遣しています。
その甲斐もあったんでしょう、東西交流は矛戟を構えることなく進み、安全が確保されたことから、後のマルコ・ポーロが出てくる地盤が構築されました。
このように、曲がりなりにも交易路というものが獲得されれば、自然と文化の成長変化もあらわれます。
今回特筆しようものは、アジアに於けるその学問で、元の郭守敬はアラブの数学を会得して授時暦という太陰太陽暦を編み出し、これは後の日本で頭角を現し、日本独自の暦を作り、日本初の天文学者とされる渋川春海が考案した貞享暦にもおおいに影響を与えたもので、歴史的発明のひとつといえるでしょう。 https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1160004548/06e849fd4914445c27fed6a7a800b61d/1/2633
しかしながら、元国内に限っては、官吏登用制度である科挙が一時廃止されたこともあって、士大夫(上級官吏)階級の地位が低下したため、中国(元)由来の学問や思想は生じなかったという側面があるものの、政界から離れた知識人が市井郷里に戻ることで、かわりに庶民文化というものが発達し、なかでも趙孟?を原点とする文人画家は、黄公望、倪?、呉鎮、王蒙ら四大家によって漢代発祥とされる宗炳が方向づけた山水画の描法が様式化され、南宋画というものが確立されました。
余談にはなりますが、この中国から伝播した南宋画の模倣から脱却したのが、かの有名な雪舟であり「天橋立図」や「秋冬山水画」などは国宝として今でも国に管理され、日本の絵画史において格別の評価を得ています。
末尾として、もう少しだけ中国文学に触れておくと、日本でも不朽の名作として万人に知られる「水滸伝」や「三国志演義」などの劇場型文学は、その原型が元代にできあがったといわれています。この両作品に共通する傾向は、社稷を蝕む高級官僚に国を憂う正義の英雄たちが挑むも、志半ばで悲劇的な結末を迎えるという内容で一致しており、当時の抑鬱された民衆感情が色濃く出た、わかりやすい作品です。 グンジハトゥンってなんか可愛い
本名あるのに、みんなが姫様(公主)お妃(合敦)呼んで、なんだかそれが一番いい通り名みたいになってる。 漢字辞典で調べると、「遼」ってはるか、遠い、って意味なんだよな
なんか遊牧民族らしいロマンチックな名前というか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています