宋・遼・西夏・金・元
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宋・遼・西夏・金・元の歴史について語るスレッドです 五代十国の混乱期を経て、皇帝権強化(官僚・軍隊の権限分散)が行われたから
宋は安定したんじゃね? >>397
18世紀後半の日本では、色刷りの鮮やかな浮世絵が広まり、黄表紙が流行し、
通貨制度も未曽有の安定を示していた
そのような泰平の世が、「皇国」という自負を日本人に抱かしめた
中国よりもよく治まっている、日本以上の楽土なく、上国なし
寛政期から、中国を革命と異民族支配、戦乱を繰り返す「あだし国」とする
認識が、儒者、国学者におしなべて広まっていった 東アジアでは日本以外全部モンゴルに征服されたんだから、見習うべき国なんて存在しないんだよ 宋銭は当時のアジアで、一種の国際基軸通貨の役割を果たしていたんだよな 地続きで海の助けも得られないのに、モンゴル叩き出した越南の立場はどうなっとるんだ >>405
越南は思いっきり海の助けを得てるぞ。
陸上ではモンゴル軍が無双してたのに、元寇のせいで弱体化していた海軍が兵糧の海上輸送に
悉く失敗したせいで撤退に追い込まれた。
つまり、越南がモンゴル軍を追い出せたのは日本のお陰だ。 宋の神宗の時代に、宰相王安石は「ベトナムを奪うべし」と進言した
王安石は中国南部の出身で、南京の知事の経験もあり、南方の事情には
関心が深く、ベトナムの動静には注目していた
当時、ベトナムと中国南部にまたがって居住していたヌン族が
反乱を起こし、その族長であるヌン・チ・カオは1041年、
今のカオバンに大暦国を建国し、このあと中国南部の南寧を占拠し、
広東まで勢力を伸ばし、宋には頭の痛い情勢となっていた >>408
ベトナムは中国に侵略されてばかりというイメージだけど、李常傑は逆に北上して中国に攻め込んだ
土下座しっぱなしの朝鮮史には見られない痛快な出来事 ∧支∧
( `八´)
(  ̄|| ̄) ニ彡 ⌒ ミ <ははぁ!宗主国様〜
| ̄.| ̄| <`∀´ ;>⌒)
/__l _ゝ = と と_(_つ 半島も高句麗が隋の遠征全て撃破して逆に滅亡においやったり
新羅が唐を手玉にとったり高麗も遼や元相手に善戦したり
東系紅巾軍を壊滅させたり
朝鮮戦争でもソ連からのバックアップではブーストされた
北朝鮮や人民解放軍を相手に旧軍が残していった時代遅れの装備で
何度か38度線より北まで押し込んでいるのだから
韓国もなかなかに剛の者 韓国と北朝鮮はベトナム戦争で剣戟を交えた
韓国は公式に派兵したが、北朝鮮は非公式に軍を派遣した
ベトナム戦争は第二次朝鮮戦争でもあったわけだな >>411
高句麗は満洲の王朝。韓国とはほとんど関係ない
新羅は、半島を統一して唐の朝貢国になっただけ。別に手玉に取ったわけではない
朝鮮戦争については、「韓国軍の兵士は、中国が攻めてくると聞いただけで震え上がってしまって、戦闘ではまるで使い物にならなかった」と米軍兵士が解雇している 新羅は唐との戦争ではあの薛仁貴を何度も敗退に追い込んで百済の旧領全てと
高句麗の首都平壌城と大同江以南の土地を唐から奪取
更にはかつては入朝国のなかで高句麗王のみが受けていた
開府儀同三司(三公と同等の礼式をもって遇する)を唐から認められたのだから
「朝貢国になっただけ」なわけないんだよなぁ >>414
いや、満洲の王朝だよ
領土を広げて、北朝鮮まで支配下におさめただけだ >>415
韓国ドラマの見すぎだ
ウソをウソと見抜けない人は、見ないほうがいい >>416
高麗は高句麗が由来
実際に、多くの領民を取り込んでいるから
無関係と断定する根拠はない おまえら朝鮮人好きすぎだろ
なんでスレチでここまで熱くなれるのか
まじで朝鮮とかどうでもいい 朝鮮に命をかけてるファンがいるからね
>>409とか >>407
宋の神宗が大軍で攻めてきたのは、中国の歴代王朝から攻められ続けたベトナム史のなかでも、特筆すべき危機のひとつだった
ほかにベトナム侵攻した主な皇帝としては、モンゴル帝国のフビライ、明の永楽帝、清の乾隆帝、中華人民共和国のケ小平が挙げられる >>421
ファンタジーに命かけてるなんてどんなファンだよ 高句麗は現代の国境で捉えるのは誤りな王朝だけど、満州の王朝ってのは極めて重大な誤謬だな
満州族は高句麗・渤海後にあの地域に入り込んだ部族じゃないか それと同時に、高句麗は三韓構成した民族を主体として国でもないから、三韓を朝鮮の祖とするなら朝鮮国家とも言い難い
高句麗は高句麗(漢名高麗)として検討するほかない
ただ、後世の朝鮮半島の高麗が高句麗を強く意識していたとかもきちんと考慮すべきだね 北宋とベトナム李朝との間では、しばしば国境問題が発生していた。
宋は神宗の即位後、宰相の王安石の主導で積極策に転じてベトナム経略を図った。
これに対して李朝は、1075年に機先を制して李常傑を総大将として水陸から宋に侵攻し、欽州・廉州・邕州などを攻略して引揚げた。
宋側は反撃してベトナム奥地まで攻め入ったものの、戦果を挙げることができずに帰還した。 宋は成立以来、北の遼、西の西夏という強大な国家より始終圧迫を受けていた。一方で国土の南部においても大越の他にも少数民族との国境問題を抱えていた。
宋の神宗の治世。時の宰相の王安石は青苗法など数々の新法を発案・施行して政治改革を推し進め、後代においても中国史上屈指の大政治家として知られる。
熙寧8年(1075年)、王安石は、チャンパとの騒乱から間もない大越国は国情や生産力が安定していないものと見て取り、神宗に大越への派兵案を奏上する。
一方で大越側においても「宋南部で軍艦造船と水戦の演習が頻繁に行われている」「国境付近で、貿易が禁じられた」などの情報を受け「先制攻撃」を決断。
この年の10月、大越軍は二手に分かれ宋領内に進撃を開始した。
宋侵攻にあたり大越軍は「王安石の悪法に苦しむ民衆を助けに来た」との名目の元、隊の先頭には青苗法など王安石が施行する様々な改革案を痛烈に批判する一文『伐宋露布』を隊の先頭に掲げ進軍している。 なんとも痛快な出来事だ
「習近平の悪政に苦しむ民衆を救いに来た」という名目で、ベトナムが中国への先制攻撃を決断したら面白いのだが 北宋は、北の遼と、西の西夏から圧迫されていた
北京を領有してなかったのに、統一国家といえるのか疑問だ 日宋貿易で、日本からの主要な輸出品の一つが奥州の金だったんだよな
変わったところでは日本刀とか >>431
北京なんて街は宋代にはない
終了
>>432
あとは銀、硫黄、銅
近世までは資源輸出国なんだよな 吉田兼好は、舶来品をむやみにありがたがる
鎌倉時代末期の風潮を苦々しく思っていたらしい
薬以外の唐物は不要なもの、唐船が実用にならない
贅沢品ばかり輸送しているのはばかげたことだとしている 南宋が滅亡した時には、日本の天皇の臣下になりたいと使者を送って来たんだから、
それを受け入れていれば日本に中国の官僚制度が入って来ていたかもね。 遣唐使が廃止された後も、渡海僧や渡来僧は盛んに海を渡った
鎌倉五山では中国語(宋語)が用いられ、茶礼と呼ばれる
中国式の茶会が行われるなど、宋の文化が直輸入された
武士の間で唐膳と呼ばれる贅沢な料理がはやったのも、宋風の生活文化の影響 >>434
少なくとも、輸入生薬無いと調合できない薬剤がままあったってことでもあるな
なんやかんやで商品経済、貿易経済が勃興し始めてた
一世を風靡するオピニオンリーダーだったはずの兼好法師も、時代の一般思潮からは跳び抜けられなかったか
そのぶん、時代の一般思潮から先んじ過ぎてはその名を残せなかっただろうということでもあるのかもしれないが そうだな
「唐物など、薬を除けば必要ないものばかりだ」という徒然草の一節は、現代人には、
「へえ、鎌倉時代の日本人にとって、大陸から来る漢方薬がそんなに必需品だったのか!」
という、兼好法師の意図とは逆の感想をもたらす
大陸は広くて気候風土が多様だから、薬草の種類がとにかく豊富。
このため、中国では薬草の活用法が非常に発達したが、その代わり通常の医学では中東・欧州に遅れを取ることになった。
現代でも、中国大陸で唯一のノーベル賞受賞者は「漢方薬の研究」の専門家 宋代に、日本からは南西諸島の硫黄が一代輸出品目となり、
西夏などとの戦闘において火薬として用いられるようになったとか >>439
その硫黄貿易を独占してたのが鎌倉幕府の北条氏だ。
モンゴル軍が南宋に攻め込む度に日本から硫黄の輸出が激増する。
鎌倉幕府が大陸情勢に無知なんて有り得ないんだよ。 江戸幕府も含めて、日本の政府当局が海外情勢に無関心だったことなんか無い
当然、常に意識している 日本から輸入した硫黄で火薬を使って日本に攻めてきた
なんて中国に最先端技術を渡して間接侵略を受けてる今と似てるな いつの時代でも危機感持つのは知識人で、それを過剰に騒ぐのは無知な人たちなんだよね
為政者はそもそも騒げない、情勢も掴んでて対策も考えてるけど 1226年、出羽国の御家人だった武藤資頼が太宰少弐に任ぜられてから、
鎌倉幕府が九州での交易を支配する時代になった
さらに鎌倉後期になると、執権の北条氏が博多から鎌倉への海路を掌握した
また鎌倉の禅宗の寺院を通じても、大量の唐物が鎌倉に集まるようになった
こういう状態だったから、鎌倉幕府は海外の情勢をかなり把握していたのでは 宋代は君主独裁制度の完成期と言われているけど、
皇帝と官僚たちの会話は比較的自由だったんだよな
皇帝は官僚たちの助言に耳を傾け、ときには意に沿わない
行為をしたり不正を働く官僚を叱り皮肉も言う
宋代は士大夫官僚たちが束縛や圧迫感を感じることなく、
比較的自由に意見を言えた時代だった
その点、明代とは異なっている >>442
元の火薬兵器なんて実戦では大した効果なかった。
それより元の慶元が日本から襲撃されて硫黄で焼失した時の方が被害甚大だろ。 日本から宋に輸出された品目は、金、銀、硫黄、水銀、真珠、
木材、美術工芸品、武器などがあった
この時期の中国では早くも木材が不足し始めていたらしい モンゴル人は海上活動は不得意だっただろうと思われるが、
それを得意とする中国の海商をその配下に吸収することに成功し、
長江河口から北京への税糧輸送に航運関係者を用いて、歴代王朝に
みられなかった海運を行った
オスマン帝国が地中海の海賊を利用して海軍をつくったのを連想させるな 海上輸送してきた船が、天津から大運河に入って、そのまま北京の港に入れたからな
川を少し入ったところにあるハンブルク港みたいだ
そんな運河を建設したモンゴル帝国のスケールは大きい 遼は滅んだ後も西遼に継承されたけど、その西遼はさらにカラヒタイ朝に継承されたんだな。
遼が完全に滅んだのは14世紀のイランの地か。 元朝は、江南を平定するとまもなく、長江河口の崇明の
塩の闇商人だった張宣や朱清らを用いて、宋から押収した文書を
長江河口から海上輸送によって北京に運ばせている
その後、彼らに建造させた平底海船60艘によって江南の税糧を
北京に向かって海上輸送させ、海運を開いた 西遼とカラヒタイ朝(カラキタイ?)は別物なのですか?
>>450
西遼はモンゴル に追われて逃げてきてナイマン部のクチュルクに乗っ取られたあとに、モンゴルに滅ぼされましたが 因みに、クチュルクの最期の地は、パミール高原の奥地 >>452
その西遼が滅んだ後、生き残った王族がイランのケルマーンでカラヒタイ朝を建国したんだよ カラ・ヒタイ朝の建国には、モンゴル系・トルコ系遊牧民の
援護協力があったのだとか 朱子学は、現代の日本では井沢元彦みたいな作家の影響で過小評価されているように思える
もともと朱子学は緻密な論理をもつ合理的な思考の学問であり、江戸時代の日本人も
朱子学により知的・思想的な訓練をするとともに、それを土台として蘭学(洋学)との
交流と吸収をおこなった >>457
ネトウヨが朝鮮叩くための道具にされているよな朱子学って 明治以降の日本では、朱子学や儒教が過小評価されてきたように思う
ルネサンス以降の西欧人が、「暗黒の中世」とか言って、中世を過小評価してきたのと
同じ 陽明学の影響は強いな
安岡正篤は歴代宰相に陽明学の教えを説き、「宰相の師」と呼ばれた >>457
> もともと朱子学は緻密な論理をもつ合理的な思考の学問であり
唐は、国を挙げて加持祈祷に狂奔する迷信深い社会だった
朱子学は、それに対する啓蒙思想として登場した
千年近く昔の思想にしては驚くほど合理的。さすがに現代人から見ると、それでもかなりオカルトがかってるが 司馬遼太郎は『明治という国家』で、
「私は朱子学というものを本当に呪わしく思うときがある」
「教育勅語は朱子学そのものであります」
「明治二十三年、当時のひとびともおそらくうんざりしていただろう朱子学が、
教育勅語としてもう一度戻ってきたのであります」
と書いている。
現代日本人の朱子学に対する低い評価には小説家の影響が大きいのかも 実際、フランス式の民法を導入しようとしたら、「民法出でて忠孝滅ぶ」という守旧派の反対運動が起きたくらいだからな
明治維新の大改革は、朱子学をバッサリと捨てたことによって成し遂げられたという面も確かにある しかし、司馬遼太郎も書いているように、明治政府は朱子学から大きな影響を受けていた
現代の日本人が明治憲法や教育勅語に感じる古さは、朱子学によるものが大きい 日本に限らず、どこの国でも近代化は、伝統主義の呪縛との闘い 維新の志士にしてもそうだ
尊皇攘夷思想は、朱子学のエッセンス
満州人の金に中原の地を奪われた南宋の儒者の怒りが、奇しくも幕末の日本の革命家たちに乗り移った それでいて、
これが幕末の実務家グループとなると、陽明学派が力を持ってたりもするよね 水戸藩は日本に亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘したが、彼は陽明学を取り入れた
実学派だった。 「尊皇攘夷」が朱子学に由来する思想だってことを知ってる人が、現代の日本人にどれだけいるか? 「尊皇攘夷」の言い出しっぺは斉の管仲とされているが
愛国のイデオロギーとして思想的に定式化したのは朱子学
皮肉にも、当の中国は近代イデオロギーの確立に失敗したが、回り回って幕末維新の日本に大きな影響をもたらした 江戸時代の日本人は朱子学により知的・思想的な訓練をするとともに、それを土台として
蘭学(洋学)との交流と吸収をおこなった
父親の世代に反抗する若者のように、日本人も自分で自覚する以上に多くを朱子学に
負っていた でも、明治維新でフランス式の民法を導入しようとしたら、「民法出でて忠孝滅ぶ」と反対運動が起きて頓挫したエピソードに象徴されるように
近代化を目指す日本の改革の前に立ちはだかる最大の壁が、古い儒教思想だったのも事実
「儒教は親の仇でござる」という福沢諭吉の言葉にも、それが表れている 江戸時代の人でも、伊藤仁斎や荻生徂徠は朱子学を批判していた >>477
> どう批判したというのかね
純粋な儒教ではない
仏教や道教の要素が多く混ざっている いってみれば、西洋のスコラ哲学みたいなものだ
聖トマス・アクィナスは、キリスト教とギリシャ哲学を統合してスコラ哲学を構築し、それがカトリックの正統とされた
朱子学もこれに似ている
朱子は、儒仏道の三教を統合して、新しい儒教を創ったといってよい >>479
要約すると、
神仏儒耶回を全部まとめて丸呑みする日本人が偉い、と。 日本人は丸呑みなんかしてない
表層を舐めてるだけだ 神道には教義らしい教義がほとんど無いから、統合しようにもなあ 朱子は、若い頃は禅宗に傾倒し、仏教徒より仏教に詳しかった
朱子学では、静坐して精神統一することが重視されており、禅宗と通じるものがある 唐代にももちろん儒教はあったが、仏教と道教が盛んな時代で儒教は押されていた
唐朝は、国を挙げて加持祈祷に狂奔する迷信深い時代だった
それに対する啓蒙思想として登場したのが新儒教の宋学
儒教の先生方が目をつけたのは「易経」だった 宋学のトップバッター、周濂渓先生の太極図
現代人から見れば相当にオカルトっぽいが、当時としては合理思想
仏教や道教のような神秘的世界観を持たないという、儒教の最大の弱点を補うために、濂渓先生が持ち出したのが易経だった
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a0/ZhoushiTaijitu.png 濂渓先生から宋学バトンを受け継いだのは、程明道・程伊川の兄弟
伊川先生は、一生かけて易経を研究したにもかかわらず、易占を一切やらなかった
「占いなど君子のやることではない」と言って嫌った
伊川先生にとっては、易経は陰陽道の世界観としての意味しか持たなかった
仏教や道教に比べて、世界観が貧弱なのが儒教の弱点。それを補うのが易経だつた このような宋学を完成したのが朱子だった
儒者といっても、禅宗や道教にも専門的に詳しかった
まあ、史上最大級の学者なのだから不思議はないが
おかげで、朱子学には禅宗や道教の教義が大幅に混入している 伊藤仁斎にとっては、こんなの本来の儒学ではなかった
「論語という原点に戻れ」と仁斎は主張した
「聖書に帰れ」と唱えたマルティン・ルターの宗教改革を思わせる 朱子学とは直接関係ない話だけど、南宋末期の軍人・政治家である文天祥の思想や
生き様は、吉田松陰や藤田東湖や広瀬武夫に影響を与えているよな
彼らは文天祥の『正気の歌』を真似てそれぞれの『正気の歌』を作っている まあ、儒者にとって華北の中原は聖地
そこを夷狄に占領されてるわけだからな
日本に例えれば、京都や奈良を朝鮮人に占領されたようなものだ
怒りが押さえきれないのも分かる >>491
五胡十六国〜魏晋南北朝時代の漢人はそこまで偏狭ではなかったような
いったい何が変わったんだろう >>492
五胡十六国時代には冉閔による胡人大虐殺(犠牲者20万人)が起きていますだ 丸山眞男は儒教と朱子学を日本の封建制社会の支柱となった思想体系とのみ
みなしていた
そして江戸時代初期に強固に確立されたこの思想体系が荻生徂徠などの思想の
インパクトを受けて解体され、これと並行して近代的意識が形成されたと解釈した
現代日本における朱子学に対する否定的な評価は丸山の影響もあるかも 朱子学という以前に、江戸幕府がネガティブなイメージ
その江戸幕府が官学にしていたから朱子学も否定される
陽明学のイメージが良いのはフリーな学者に支持されていたから 江戸時代の浮世絵師や琳派、写生派も最初は狩野派には学んでいる
古いものの基礎をきちんと学ばないと、実は新しいものを創造することもできないのかもしれない
朱子学を学んだときの知的訓練なくして、日本人が西洋の新しい学問を理解することが
できたかどうか疑問 >>492
漢滅亡から唐建国への移行期は柔軟に生きないと
生きていけないけど、宋になると再び
「完成された」「中華世界」が「復活した」感じ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています