スリー・ビルボード Three Billboards Outside Ebbing, Missouri ★ 4
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>>202
例えば>>188の方ですが(その人には絡まないで欲しいですが同調してるから絡まないでしょうね)、
「冷静になっていく様が面白かった」と述べています。
賛辞を送る方の中でも意見が分かれるわけです。
意見が分かれる点というのはそれこそ無数に存在するわけで、
それらの意見をパッチワークした集合は正解ではありませんし、あなたの意見も正解ではありません。
だから、自分で確認するしか無いのです。
バックグラウンドが違うので当然、それぞれ微妙に違った感想を、私に至っては恐らく大きく離れた感想を持つことでしょう。
しかし、皆に共有されていて、自分に共有されていない点というのは一番未開な点であり、近づけるためのアプローチは意義深いのです。
だから、私は映画を再度見て確認する。その結果、あなた方の正解と食い違っていたとしても大した問題では無いのです。 >>203
「冷静になる」という言葉がどれを指示してるか見えてないの?
「振り上げた拳の降ろし方」って書いてるでしょ
ミルドレッドは劇中計画的に、冷静に拳をかざしてる
怒り狂って衝動的に動いてるわけじゃない
「代替手段として殺しに行く」って書いてるんだからそもそも拳を降ろしたわけでもない
ただ「他人の変化を通じて見方を少し変えた」と言っている
君は「衝動的な怒りに任せてたのが最後冷静になった」と解釈してるようだけど
そういう受け取り方してんのは君だけ
拳は別に興奮しなくても上げられるでしょ
いちいち作品が描写してることも相手の言うことも理解出来てないんだよ君
それもこれも、無根拠に「自分は自分の王様なんだ」って思い込んでるから
その面倒臭さが反感買ってるってこともわかってない >>204
私も、あなたも人の意見を決めつけてしまっていましたね。
「冷静になる」がどういった意味を持つのかは私でもあなたでもなく、彼のみぞ知るです。
申し訳ないですが、今後「冷静になる」は一つの例えだと考えてください。
主題はこちらになります。
>意見が分かれる点というのはそれこそ無数に存在するわけで、
>それらの意見をパッチワークした集合は正解ではありませんし、あなたの意見も正解ではありません。
だから、私は(解釈が人によって異なるコンテンツについては)自分がそう感じたものだけを信じます。
「自分は自分の王様なんだ」大いに結構だと思います。自分の意思決定権は自分にあるので。
私には結局、あなたがマウンティングしたくて仕方がない人にしか見えません。 あんまりこういうこと言いたくないけど、君ほんと頭悪いと思うよ
半端に浅知恵ついてるのが余計タチが悪いというか
君は創作物を「解釈自由なモノ」と思ってるようだけどまずそれが見当違いだから
特に映画は「こうすればこう取られる」という『印象操作の術』で成り立ってるメディアだから
そこには必ず制作者の「こう読み取ってほしい」という主旨が存在する
このルールの存在を認めなかったらそもそも映画という娯楽自体がありえないから
で、君はその読み取る術が全くない。それも変な持論で凝り固まってるから
>「自分は自分の王様なんだ」大いに結構
これも20越えて真面目にこんなこと言ってたら噴飯ものだよ
確かに人は、自分以外を形成してる周囲の事象をその人の尺度でしか認識出来ない
ただ、だからと言ってその人が白を黒と認識したからと言って現実に白が黒になるわけじゃないから
あくまで”その人の価値観のなかで”黒になってるだけ
それ自体は別に結構。勝手に黒だと思ってればいいけど
その根拠のない知覚が周囲にも通ずると思ったら大間違い
君が受け取ったスリービルボードが君のなかで「黒」だとしても
現実に「白い」という事実は一切変化しないから >>206
・あなたの認識する「こう読み取ってほしい」が正しい保証はどこにもありません。
・「現実に白い」と思っているのは白と認識している人だけです。
(もし白と黒の認識が半々の事象があったらあなたはどちらを現実だと考えますか?
7:3、9:1なら多数決で白が現実ですか?)
・もし百歩譲って、本来作者の決めた道筋が白だとしても、白と認識する必要がありません。
(正解当てゲームではないのです、私は前述のアプローチも含めて楽しみたいだけです。) ちなみに現代の物語論に多大な影響を与えたソシュールの言語学では
「言葉が理解される」という現象を「ラング」と「パロール」という分類で説明している
簡単に説明するとラングというのはその言語の体系的法則、ルール。パロールは文章の内容
つまり「言語を理解する」という行為はその背後に「暗黙的に了解されたルールがある」ということ
例えば、たった今地球にやってきた宇宙人に「犬」という単語だけを教えても
実際の犬を見たことがなく、どんな形状をしてるどんな生き物なのかを知らなければ「犬」自体を理解出来ない
この理論はロシアフォルマリズムに直結し、映画を成立させてるモンタージュ理論の根拠にもなる
60年代以降の物語批評、解釈論はこれらの理論の上に立脚している
つまり「解釈の自由」なんてものは認められてない
物語というのは「その原則のなかで機能する選択肢の取捨」で出来てるとされる
現代の物語研究というのはだからその形式や原理の分析が主になってる
物語の読み取り方は自由だ、とか言ってるのがそもそも無知で幼稚なの
確かに解釈の余地をわざと残してるものはある(これをサブテキストという)
しかしそれはあくまで「こう理解してもらえるだろう」というルールの上で成り立ってる
(「色」の概念の無いものに「白かもしれないけど黒かもしれない」と理解することは出来ない)
君がやってんのは日本で起きた事件をアメリカ合衆国憲法で解釈する、みたいなこと
君は君の王様で、怒りは快楽的だと思ってんだろうけど、それはこの映画の解釈に通用しないということがわかってない
それを証明したいのなら君が君の論理で説明しなきゃならない
だから「正しい保証はどこにもない」なんてのはただの詭弁 >みなさんが絶賛しているような心理描写の繊細さを掴むことが次の課題です。
>私がそれを認識できれば、あなた方と感動を共有できるかもしれませんが
恐らく何度見ても、心理描写の繊細さを掴むことも、感動を共有することも無理だと思うね。
ミルドレッドやディクソンが猿にしか見えない時点で、もうこの映画の何も見えてないよ。 例えば、映画や映像というものを見たことのない未開の地の人間には
映画という娯楽自体が理解出来ないだろうとされている
だって、映画を見たことがない人間にとってはまず「カットが切り替わる」というのが不自然だから
『さっきまでの映ってた男はどこ行ったんだ??』という違和感を乗り越えられない
だから映画の最初期にはそもそもカットというものがなかった
それが段階的に色んな技法が発明されて先進国の間で共通認識(ラング)になっていった
初期の映画では場面が切り替わるさいにはディゾルブ(前後のカットの画が重なりながらじわ〜っと変わるアレ)が基本的に使用されている
これは、初期の映画では何の前触れもなく映像が切り替わる「カットつなぎ」がある種不自然だったからとされている
しかし現代の映画ではもはやカットつなぎこそが当たり前になってる
ディゾルブやワイプは特定の印象を与えるイレギュラー的なカット、という位置づけになってる
君が言ってる「解釈の自由」ってのはこういう前提、法則すら無視した無茶苦茶なもの
『ミルドレッドが窓辺の虫を助けたからなんなんだ?だからって優しさの表現んとは限らない
だって彼女は快楽的怒りの権化だから。その根拠は、自分は自分の王様だから』
こんな物言いが通用するわけがない。映画の表現史、ひいては文化がそれを許さない
どっかでくだらん浅知恵を埋め込まれたんだろうが、これ以上ひん曲がらないうちに少しは表現史を勉強したほうがいい
映画は素人が無茶苦茶に解釈していいほど自由な表現媒体ではない >>208
簡単に言えば映画には暗黙のルールに基づく地盤があって基本的には一意に解釈できる(べき・はず)、
サブテキストは地盤があって初めて成り立つ、ということですよね。
正直映画について浅学で、そちらの方が知識があるのは間違いないようです。
しかし、焦点となっているシーンがサブテキストであるか否か、というのはどう判断するのか?
世の中バックグラウンドを要求する映画はいくらでもあるのでは?
という点から見ても、(浅学からかもしれませんが)現段階で私はあなたの主張が正しいと確信を持つことができません。
あと、「それを証明したいなら」と言いますが、
「私の持論が成り立つとは証明できない」事を私は何度も示していると思うのです。
なぜ、その状態で突っかかってくるのか、全く理解できない。
あなたの主張を正しいと確信できないが、私の持論が正しいとも証明できない。
だから映画をもう一度見て確かめる、それだけです。 >>210
>ミルドレッドが窓辺の虫を助けたからなんなんだ?だからって優しさの表現んとは限らない
>だって彼女は快楽的怒りの権化だから。その根拠は、自分は自分の王様だから
そんな事を言った覚えはありませんね。
虫を助けたシーンについて言及した覚えは一切ありません。
散見される怒りが猿としか思えない、と当時言っていただけの話です。(撤回しましたが)
優しい部分が描かれていないなどと主張した、いうのはあなたの単なる思い込みでしょう。 >>211
サブテキストに限らずシーンの意味、意図を論理的に解明しようとするなら
総合的な映画技法の知識が必要で、ひとつひとつのシーンの意図を解明することも出来るが今手元に現物がない
例えば映像演出では「人物がカメラに対して背を向ける」という構図は観客に対して否定的なポジションを取ってるとされる
この状態で発する言葉は額面通りに受け取ることは出来ない
更に役者の演技も関わってくる
背を向けた女性が”声を震わせて”「あなたのことを愛してる」と言っても、大半の観客はそうと取らないだろう
これが「意味が確定的なサブテキスト」ということ。映像というのはそう取るしかないというルールがある
更にこれは、前後のシナリオによっても左右される
例えばこのシーンの前に「女が浮気をしている」という情報が観客に提示されてる場合と
「女が取り返しのつかない事故を起こした」という情報が提示されてる場合では
震えた声の「愛してる」の持つサブテキストの意味は全く違うものになるだろう
映画というのはこうやって成立してるし読み解いていくもの
君はその暗黙のルール外の「解釈の自由」を主張してるから通じない
映画を受け取ってるんじゃなくて、ただ自分の価値観を押し付けて塗り替えてるだけ
その自覚がないというのが呆れられてる理由 >>210
>映画は素人が無茶苦茶に解釈していいほど自由な表現媒体ではない
最後のここが、あなたと私との最大の溝なんでしょうね。
あなたは映画に対して真剣でよく勉強されているので、構成の裏に流れる暗黙のルールをよく知っている。
であるがゆえに、それに沿った以外の楽しみ方を認めない。
正直、そこまでの物を自分は映画に求めていません。
表現史など知った事じゃないし、映画は自分の感情を揺さぶってくれる娯楽にすぎません。
真剣に向き合っている人に、適当な知識で向き合ったことは失礼かもしれませんが、
私にとって映画はその程度のものです。それは変えようがない。 >>214
じゃあ最初にそう明記すべきだね
「自分、真面目に見るつもりないんでw」って
そしたら最初から誰も相手にしてないだろう
真面目に試合してるとこに冷やかし客が来てるようなものなんだから 真剣に向き合わないことで、映画の主人はあくまで自分だとマウンティングしたいだけの典型的なお子様かな
典型的な物言いだけど、最近の若い子はこういうのホント多いんだよな
そういうやり方をしてるうちは何に対しても理解が浅いということに早く気づけるといい
そんなの幼稚園児だって出来るんだから >>213
なるほど、恐らく自分は全ての表現に意味が込められている事を意識していないんでしょう。
>>214では変えようがない、と言いましたが、撤回します。その辺りを意識すると映画はもっと楽しく見られるようになるかもしれませんね。
門外漢が外の理屈で中を判断した事をお詫びします。 >>216
あなたが映画や物語について造形が深く、私はそれを学ぶ事で、より映画を楽しめるようになることは認めますし、気づかせていただいた事には感謝します。
ですが、あなたがマウンティング大好きおじさんであることもまた事実だと思いますw最近の若い子はw >>217
世の中には大した意味もなく大雑把に映像を組み立ててるものもあれば(それが悪いというわけでもないが)
この映画のように全てのカット、全てのシーンが明確な意図でもって理知的に組み立てられてるものもある
特にこの映画はレイアウトが見事で、構図一つとっても込められた意味、意図が容易に伺える
更にこの映画はシナリオのかなりの部分をサブテキストで伝える手法を取ってるタイプの作品なので
額面通りに受け取ると理解出来ないようになってる(それを逆手に取った予想外しが施されている)
ただ、それはあくまで娯楽映画の範囲内で難解な映画では全然ない
映画への向き合い方ってのは大抵人生のどこかでふさわしい作品に遭遇した時に変わるものだから
君にとってこの映画が未知のタイプで、理解したいという気持ちがあるなら格好のテキストになるだろう
まずは色んなレビューとか批評とかを見るといい。そのうち「ラング」がわかってくる >>219
中傷と賞賛・感謝が入り混じってわけのわからない事になっていて申し訳ないです。
映画に対する視点を変えてくださった事には本当に感謝してます。
構成が適度に複雑ということで、また再度見て勉強してみようと思います。 >>219
あと、レビューと評論ですね。
あなたの尊敬する部分にせよ、忌み嫌う部分にせよ、
私のために夜遅くまで時間を割いて頂いた事、誠に感謝致します。
ありがとうございました。 平日の午前4時まで自演w
こういう社会性の無さで、自作自演なのがバレるよね
男性口調と女性口調で特徴付け、句点の打ち方、空白の空け方とかで必死に書き分けしてるけどw >>191
私刑というやり方はともかく、レイプ犯は報いを受けるべき、という気持ちは観客も多かれ少なかれ感じてるんだよね
最後の「本気なの?」「あんまり」「道々考えましょう」という台詞で、そんな観客の気持ちもやさしく着陸させる脚本が素晴らしいと思いました あと散々語られ尽くしたと思うんだけど、ディクソンが炎の中でチキチータを聴きながら手紙を読むシーンが最高だった
泣きたいし笑いたいしハラハラするしで、1つのシーンでこんなにいろんな感情を同時に味合わせる監督凄すぎ あんま覚えてないけどチキチータやなくてオペラっぽい曲じゃなかった?
あのシーンはブラックコメディ全面に出てて面白いよな
あとディクソンがニガーじゃなくてカラードって言え!って興奮してるシーンも面白かったわ 脚本も演出ももちろんいいけど、ベン・デイビスの撮影が素晴らしい。
オープニングの看板を入れ込んだスコープ画面の風景の切り取り方が見事で、思わず座り直したよ。
シャープなアングルとソフトな色彩。極めて印象的な赤。音楽も心に残る。
キャスト全員の演技を的確に、しかし出しゃばることなくしっかりと支えている。 >>226
なんか聞いたことある曲だと思ったら、これだったか
歌詞を読むと、署長を喪ったディクソンの想いそのものだな ミズーリ州って南部なのか、中西部?あたりかと思ってた >>225
ディクソンの喧嘩はなかなかにダサい
俺のことを警察署でf○ckheadって呼ぶな!いやどこでも駄目だけどな!とか、
キレてるんだけど間が抜けてて笑える アマゾンで見たけど過大評価されすぎだろ
レイパー疑惑男がぷっつんBBAの店に来たけどあのシーンに何の意味あるんだ?
あとウィロビーの嫁が太ったり痩せたりしてるのだが
野外セックスや馬小屋で自殺する意味も不明
こんなんでよくアカデミー脚本賞にノミネートされたな >>238
読み取る力があまり無いのかな
この手の映画見るの向いてないんじゃないか? ネットで公開すると、こんな低脳まで見るようになるんだなあ。
そんなに難しい映画じゃないのに。 ソフト予約してるけど待ちきれないので配信レンタルで見た
何度見ても傑作だなぁ
ラスト殺すのか殺さないのか論議だけど、やはり議論の余地なく「殺さない」ってラストに思える
この作品は感情で突っ走るミルドレッドとディクソンが、劇中で起きる事件と署長の手紙で自身の考えとやり方を見つめ直すって構成だから
自分が間違っていた、自分が憎んでたものを見直すという下りがどちらにもある
ディクソンはわかりやすいけど、ミルドレッドは「臭い動物園の女」と中傷してた元旦那の恋人に対して心の底から見方を180度変えてる
「嫌ってた相手」への気持ちを冷静になって考え直す役割を、あの子が果たしてるよね
一見どうでもよさそうな端役だけど実は物凄い重要ってタイプの配置
周囲はバカにしてて実際頭も良くなさそうだけど、自分の境遇や世間体に頓着がなくて臆面なく話するし
いつも前向きに事態を見てるってこの作品の中では珍しい登場人物
この作品は顔を突き合わせるたびに嫌味や敵対心や怒りが衝突するピリピリしたシーンばかりだけど
あの子だけそういうことに全く頓着が無い
ヘイズ一家が喧嘩してるのを和ませるのも彼女だし、本当なら父親の彼女とか息子は嫌いそうなもんなのに好感持ってるようだし
ラスト、ディクソンがミルドレッドに電話をかけるシーンは壁に飾られた家族の写真や子供の絵からシーンが始まるし
電話しながらディクソンは涙を流して母親の頭を撫でる
ミルドレッドも出発前に息子の寝顔を見て何か考えてる
周囲のことなんてお構いなしだった二人が家族のことや行動によって失うものを内省してるシーン
そして駄目押しの「あんまり気乗りしない」という台詞
これで殺すってのはないと思う あのラストで殺すって思うのはちょっと残念な人じゃないかな >>241
そうそう、飼育係の娘って、この作品の主要メンバーのうち、唯一怒りを見せていない人物なんだよね
あれだけミルドレッドにボロカスに言われて、それを聞いているにもかかわらず
そういう意味で、自分も署長と同じく本作においてはスペシャルな人物だと思ってる ディクソンの母ちゃん役が、ナポレオンダイマナイトの祖母ちゃんだったのが一番驚いたかも
アメリカではそこそこ売れっ子婆さん女優なのかな ディクソン母は怪演だよね。彼女の演技に一番驚かされたよ
いくつか調べた記事や動画の範囲では、インタビュアーはみんな「あの女優さん誰?すごい演技だね」って感じで名前までは認識してなかったよ
マクドナー監督のセブンサイコパスにも呼ばれてたんだけど、出演シーンがカットされてしまっていたらしい >>245
詳しくサンクス
ナポレオン〜の時は、バイク乗り回して事故って怪我するような活動的な婆ちゃんだった あの飼育係の娘が娘が言う「ブックマーク」が好き。
レストランでミルドレッドがワインを持って
二人の席に行った時の会話。
ブックマークなのにプックマークに聞こえて可愛い。 ディクソンがゲイなのは確認できたが広告兄ちゃんにゲイ要素あったか? 上司が自殺して泣きながら同僚と抱き合う時「ん?」ってなったな ディクソンは隠れゲイというか、自分自身でそのことを認められないのが
あの鬱屈の原因の一つだと思う >>255のようにディクソンの内面を想像するのはありだろうけど、>>253とか音楽の好みとかは
証拠にはならないと思うな。
彼のそういう側面はディクソンが他人からゲイ呼ばわりされる原因になっていて、本人はそれを
嫌がっているのだから少なくとも主観的にはゲイではない。 お前をゲイだとバカにする奴が居たら そいつを差別主義者だと告発してやれ >>260-261
そこは、前段があるよね。そうすれば誰もお前をゲイだと思わなくなるだろう、のようなくだりの部分。
プールバーでディクソンが広告屋のレッドにキューバではホモはどうなるか知ってるか?と尋ねる
ところがあるけど、あそこではディクソンがレッドをホモとして扱っているわけでしょ?
自分がゲイの自覚があったらそんなことするかな? >>262
自分をゲイと認められないゲイがゲイを必要以上に貶めるってのはよくあること >>263
前にも書いた通り(>>257)、そういう内面性としての可能性はあるかもしれないが、
本人が認めていないものを決めつけることはできないだろうってことだよ。
じゃあ、ホモフォビアの人たちは実はみんな同性愛者なのかって言ったらそんなことはないだろ。 >>265
むしろゲイではないと主張できる理由がわからんのだが >>266
ゲイだの対偶命題がゲイではない、だから。
なんなら、ゲイかどうかはわからないという意味に受け取ってもらってもかまわないよ。 >>267
待遇命題がゲイではないだからっておかしいでしょ
ゲイかもしれないしゲイではないかもしれないのだから
そこであなたはゲイであることを否定する根拠が本人が認めていない、以外に立てられてないわけだが
で、本人が認めないのはよくあることだという反論に反論できていない
少なくとも、ゲイっぽさを感じさせる描写はたくさんあるわけで
ゲイではないと反論するためには、あなたはそれらの描写に説明を与える必要がある 普通に色んなとこに暗示がこれだけばら撒かれているんだから、
素直に見ればディクソンはクローゼットなゲイとしか言いようがない
ただ、明言されていない以上そう思いたくないんならそれはあなたの自由としか ついでにいえば、本人がゲイであると認めていないかどうかすらわからないのに、なぜ本人が認めていないと言えるのか説明しなければならない 自分がゲイであるからこそ、あのように反発することだってあるわけで、その可能性を排除できる理由を示してほしい >>268
ディクソンがゲイかゲイでないかは二者択一の問でしょ。それと、映画から
彼のセクシャリティーを確定的に読み取れるか否かは別の問題。
「ゲイかもしれないしゲイではないかもしれない」というのは、後者の問題に関して可能な答え。
で、そういう答えで満足ならそれでいいよというのが上の「ゲイかどうかはわからないという意味に
受け取ってもらってもかまわない」ということだが、いま議論しているのはそっちじゃなくて
二者択一の問題の方でしょ?だから、ゲイ説に対しては非ゲイ説を主張しますよ、ということ<対偶命題
署長の手紙に関してはすでに述べたが、ほかにゲイっぽさを感じさせる描写というのを列挙してくれれば
それらについても個々にこちらの考えを示すよ。
>>269
思いたいとか思いたくないとか、別にそうであってほしいことがあるわけじゃなしw
クローゼットなゲイというのが、ディクソンが自分がゲイであることを秘密にしているという意味であれば
今のところそれに同意する理由は見当たらないので、どういうところを素直に見ればわかるのか、
やはり具体的に指摘してほしい。
>>270-271
ディクソンが言葉や行動でカミングアウトしているシーンが存在しないことを指して認めていないと
言っている。また、排除できるとも主張していない。逆であることを示唆するシーンと受け取るほうが
映画の流れの中では自然だというだけ。 >>273
二者択一の問いではないよ
わからないという選択肢がある >>273
そのセクシャリティが確定できるかの話をしているわけで
あなたの最初の2行は詭弁だよ やっぱりアレの自演かw
だんだん長文になってきてんのワロスw この作品は差別や迫害にどう対処するかってのもサブテーマの一つで
それを読み取るには各人のスタンスやポジションを把握するのは必須
この作品に登場する主要人物はみんな「パートナー」が居る
レッドは受付?の女の子を気にしてる描写が初っ端から出てくるし
看板設置してくれた黒人の兄ちゃんもミルドレッドの同僚の女性と出会ってすぐイイ仲になってる
チビ男もそうだけど、異性に興味のある男はすぐにアプローチする様がしつこく描かれてる
ところが作中の主な登場人物でシングルなのはミルドレッドとディクソンだけ(母親の保護下にあるミルドレッドの息子と途中参加の新署長は除外)
旦那と別れたミルドレッドはともかく、いい歳して異性の存在がカケラも匂わないディクソンはあの世界から明らかに浮いてる
で、彼は最初「黒人差別主義者」として説明されるけど、レッドの事務所に殴りこみに行くとこで受付の女の子も平気で殴る
んで「俺は白人も殴る」って言ってるけど、あれはディクソンの性的スタンスのフラットさも表現してると思う
(別に女の子なんて殴らんでも無視すりゃいいし、普通男だったら女を殴るのは流石に少しは躊躇する)
この作品は主要人物の皮を剥がしていくって構成を取ってて、描写の段階がグッと上がる瞬間がハッキリあるんだけど
ディクソンの場合はABBAをノリノリで聞いてて署長の死を知って気絶してメソメソ泣いて男女平等パンチをお見舞いに行くあのシーンなんだよ
あそこでそれまで黒人差別主義者だと思われてたディクソンが性的少数者なんだって情報が一気に提示されてる
ミルドレッドは自分の思いが社会に受け入れられない苛立ちを抱えてて
ディクソンは自分のセクシャルなポジションの不安定さから周囲に怒りをぶつけてる
んで対等なパートナーが欠けてたミルドレッドとディクソンが理解し合って終わる、という構成でもある
だから、ディクソンがノーマルだとするとこの文脈が成り立たなくなる
「ディクソンは何をそんなに怒りを周囲に撒き散らしてんの?」って疑問が宙に浮いたままになるから
もしディクソンがノーマルなら最後理解者になるミルドレッドとは今後恋仲になる可能性を示唆することも出来たけど
そういう気配も全然ない
ハッキリ明言しないにしても明らかに確定的に構成、演出されてるのは事実 仮にディクソンがノーマルだとしても、自分を焼き殺しそうになった女とくっつかんやろ ディクソンがゲイなのはアスペでないなら誰でもわかる
問題はレッドがゲイかどうかと言うこと
バイの可能性もあるしな 毎回手元に欲しいと思った作品が DVDとブルーレイのセットだとブルーレイ単品で販売されるまで待っちゃうんだけど、みんなセットで買うの? >>274
だからそれはわかってるってw
>>275
確定できるかという問いだったら、最初から答えは決まっている。確定できない。
この映画には、ディクソンの想い人は登場しないから。
で、ゲイっぽさを感じさせる描写は出してくれないの?
>>277
ディクソンには「パートナー」がいるよ。彼の母親。
もちろん性的対象という意味ではなく、彼の人生の桎梏としてのだけどね。
母親が彼の人生の重しになってきたことはウイロビー署長も手紙の中で書いている。
外出するディクソンに母親が女に会いに行くのかと半分ふざけて問いかけるシーンがある。
声を荒げてそんな女はいないと答えるディクソンからは、母親の存在が彼の青春を味気ないものに
してしまった呪いを感じなかっただろうか? 実は役柄的にはミルドレッドよりディクソンのほうが複雑なんだよね
この作品は「実は元々こういう人だった」って話だから
ミルドレッドは怒れる哀れな母親、かと思いきや元々粗野なオバサンだったと早い段階で判明する(娘の回想)
ディクソンは完全に悪徳警官として描かれてる(ボス、ちょっと問題が…と連絡するシーンなんかマフィアみたい)
署長も、レッドの事務所で机に足を放り出して、まるで許されざる者のジーンハックマンの悪徳保安官のよう
でもその図式がガラッと変わるのがこの作品の核
ミルドレッドは擁護しきれない点が表れてきて
署長は最初から全てお見通しの人格者だったとわかる
実はレッドとかも少しこの変遷を辿ってる。冒頭はいかにも軽薄な若者っぽく登場するけど
酒場でディクソンに絡まれて署長の余命を知ってミルドレッドに看板やめないか?と掛け合ったり
オレンジジュースのシーンは言わずもがな
メタ的な話になるけど、ディクソンがノーマルだったら「実はこういう人でした」って図式が成り立たなくなる
ただ単に痛い目みて改心した、みたいな安っぽい話になる
ディクソンの役柄が深いのは、「なぜ警官という圧倒的優位な立場で無茶苦茶やってるのか」ってところ
警官なんてまともに働いてりゃ迫害されることなんかない。人を取締る仕事なんだから
なのにディクソンは以前から暴力警官として有名で、劇中ことあるごとに「俺が正しいんだ」と力を誇示しようとする
典型的な思い上がったヤツなのか?と思わせておいて、実はその裏に鬱屈した動機があった、という構図
ディクソンが根はいいヤツだってのは作中最大の賢者たる署長が保証してるから
ディクソンがノーマルだとしたら、構成に一貫性がないわ話が安っぽくなるわ署長の人物像も浅くなるわ、いいことはなにもない >>281
ではなぜゲイではないと言い切れるのか? ディクソンはおそらく女性経験も男性経験もないバージン
こじらせすぎてああなってしまったと推察 >>282
映画全体の構成の話はさておいて、ディクソンというキャラクターがこの映画でどんなふうに
描かれているかといえば、まず注目すべきは母親との関係なのじゃないかな?
ディクソンの性格形成には父親を早くに無くして母親の面倒を見なければならなかったことが
決定的だったことは署長が手紙で書いている。ディクソンが酒場から殴られて帰宅したときの
母親の狼狽ぶりを見れば、父親が死んだときのことも察しが付く。
母親中心の生活を余儀なくされてきたことがディクソンの鬱屈の原因というのが映画が
明瞭に描いていることで、ディクソンのセクシャリティーなんか持ち出す必要はないと思うがね。 ついでに書いておくと、そもそもこの映画では登場人物の恋愛模様なんか問題になっていない。
いちばん濃厚に描かれているのは署長夫婦というすでに成立しているカップルのこと。
>看板設置してくれた黒人の兄ちゃんもミルドレッドの同僚の女性と出会ってすぐイイ仲になってる
こういうのも、あの酒場にディクソンが(元)警官だということを知っている人物を配置するために
使いやすいのを使ったに過ぎない可能性が高いと思う。映画の演出ではよく使う手だ。 >>286
他の人達は映画の描写から類推出来る事実を探っていってるのに対して
あなたは無根拠に設定した自分の仮定に対して映画の多くの描写を無視して類推してるから説得力が無いんだよ
ディクソンと母親が鬱屈した関係だって?どこを見ればそんな風に見えるのか
あの母親は確かに息子に対して甘くて過干渉っぽくはあるけど
当のディクソン自身は真っ当な自立した男として描かれてるよ
母親を嫌悪してる様子も無ければ精神的に支配されてるような子供っぽさもない
自分の暴走でクビにされたことに対して抗議してやろうかという母親に「母親が出て行くなんて変だろう」と真っ当な返しをしてるし
心の底から愛してることもラスト付近の描写でわかる
手紙の件を根拠として引用するわりに「同性愛者〜」のくだりは無視したり、アナタの解釈の仕方には一貫性がない >>287
>この映画では登場人物の恋愛模様なんか問題になっていない。
全く男っ気のないミルドレッドにチビ男が気があるとわざわざ映画前半から提示されてて
終盤の重要な部分に「デート中同士の鉢合わせ」なんて、犯人探しって主題と全く関係ないイベントが配置されてるのにそれはないでしょう
この作品は上映時間が2時間切ってると、この手のドラマ映画にしてはかなりタイトな構成
故に無駄なシーンを挟む余地は全くなく、全てのカット、シーンに無駄がなく有機的に繋がってる脚本
そういう作品を指して「意味なんかない。よくある手法だ」ってねぇ…
ちなみにシーンの主要人物、時間、場所が変わってるのに直前のシーンと同じ登場人物が出てるっての全然「よくある手法」じゃないよ
これもメタ的な方法論の話になるけど、映画の編集は変化が大きいほうがいいとされている
観客は映像の変化が微妙なほうが実はしっくりこない(これに関連した科学的な実験結果もある)
昼の場面の次は夜の場面、騒がしいシーンの後は静かなシーン等メリハリをつけるのが編集の鉄則
例えば昼間の主人公のレストランでの食事シーンの後に、夜の怪しげな一室での悪役の談合シーン。これはよくある構成
これを「主人公の食事シーン→その隣のビルの、同じ時間帯の悪役の談合シーン」とするとあまりしっくりこない
(両者が同時刻に展開していることにドラマ上の意味があるなら別だが)
更に、主人公が居るレストランに客として居た一人が、次の全く関係ない悪役の談合シーンにも居たりしたら、これは相当違和感がある
というか、こんなことされたら観客は何らかの因果を探し始める
ディクソンを「警官だ」と証明するだけならそれこそ冒頭と同じように黒人の兄ちゃんが一人で酒場に居ればいいだけ
そうじゃないってことは意図があるってことだよ
こんな意図的な演出を「関係ない。ただの偶然だ」ってのは映画を読み解くのに真摯な態度とは言えないね ちなみに件のバーのシーンでもシーンの冒頭から「二人組と客と一人で飲んでる奴」という対比的な描かれ方をしてるし
署長の娘も二人、ミルドレッド家の子供も元々二人だったのが一人に欠けたという設定
この作品が「二人一組」というモチーフをしつこく繰り返してるのは確定的だよ
それこそ「よくある手法」だしね
(テーマに関連するイメージやモチーフを繰り返し登場させる「イメージシステム」という演出法) 海外のレビューでは、レッドとディクソンがゲイとして認識されてるよ。
あと、ディクソンの破壊行動は自己嫌悪からくるもの、とロックウェルが言っている。
つまり、レッドを殴りに行ったディクソンの行動は、自分がゲイであることを受け入れられないディクソンの鬱憤が同じ性向をもつレッドに発露したものなんだよね。 ディクソンはゲイであると同時に、マザコン(mama's boy)であると紹介するレビューが多いね。
カットされたシーンの中で、酒に酔ったディクソンが母親のベッドに潜り込むシーンがあったらしい
(コメディとシリアスのバランスが崩れるという理由でカットされたらしいけれど)。
ディクソンが自分のセクシャリティを認め、母親から自立し始めるからこそ、少なからず観客に彼を応援したいと思わせるパワーがあるんだよね レッドがゲイってのはどの描写から言われてるんだろう >>292
へえ…そのシーン円盤の未公開シーンに入ってるのかな >>288
ミルドレッドはディクソンに対して、いつも彼の母親のことを持ち出す。
ママんとこに帰る時間じゃないのかとか、ママはヘイトクライムのこと知ってるかとか、
雑貨店の店員のことでママに入れ知恵してもらったのかとか。
こういうことを「真っ当な自立した男」に対して言うものかな?
クビになった後のディクソンと母親の会話にディクソンの苛立ちが見て取れなかったかな?
黒人の新署長を叩き出せなんて言う母親の言葉に誰も耳を貸さないと顔を背けて首を振る
ディクソンがどんな気持ちだったと思う?そして、金の話を始めた母親に心もち声を張り上げて
知るもんかと答えたとき。
もちろんディクソンは母親をとても愛している。彼女が弱い人間であることもよく知っている。
だから母親を捨てることはできないが、その一方で母親のレイシズムや非常識さにうんざりもしている。
それがディクソンの鬱屈だよ。
>手紙の件を根拠として引用するわりに
無視していないよ。それどころか、>>261が署長の主張の前段を無視していることを指摘すらしている。
>>261と>>262をつなげてみたらいい。それでどういう意味になるか。
>>289
犯人探しはミルドレッドの行動の動機ではあるが映画の主題ではないし、ミルドレッドとチビの
ロマンスがサブプロットになっているわけでもない。一緒に看板を直した後でミルドレッドとチビが
レストランに行くなら、残されたふたりが一緒に飲みに行くのは自然なことじゃないか。
それがたまたまディクソンが飲んでいたバーだったという演出だろう。息子が留守番なのは
しかたないだろう。未成年だからね。 >>295
「自立している」というのは母親に対して、だよ
あなたの言い分ではディクソンにとって母親はしがらみだということになるけど
だったらもっと嫌悪して当然じゃないの?
ディクソンってキャラクターは「本当はそうじゃないのに世間の一般常識ではそう見られてしまう」って
この映画の共通テーマを体現するキャラクターだから
『ミルドレッドはこう弄った』とかってあなたの言い分は「本当はそうじゃないのにそう見られてる人物像」の話なんだよね
だから完全に違うとは思わないけど、このキャラクターの核はそこじゃないでしょう、と
ちなみにディクソンの母親も僅かながら「皮をはぐ」構成になっていて
ディクソンより上位の存在という風な雰囲気だったのが
ディクソンが大怪我して帰ってきてメソメソ泣いて心配する姿で
「実は母親のほうが依存している」という転換を行ってる
(ディクソンは狼狽する母親に動揺せず冷静に諭したり、実は力関係が逆だという表現になっている)
ディクソンが母親の言いなりのように見えるのはディクソンが母親に依存してるからじゃなくて
「頭が悪い(結果的に言いなりのようになってる)」って表現の一貫だよ
だからミルドレッドに「母親の入れ知恵?」ってなじられてから母親の言い分をすぐ受け入れないようになってきてる >>293
・バーでディクソンと話してるとミルドレッドに「女は話してばかり」と言われる
・服装
・女性社員とキャッキャしてる姿が窓越しに見える >>295
>レス下段部分について
ほらまた自身の解釈にそぐわない描写を無視してる
ミルドレッドとチビがデートに行ったのは「以前から気にかけてたチビ男に借り(警察署燃き)が出来たから」であって
打ち上げで飲みに行こー!なんて突発的なものとは全然違う次元のイベントでしょうに
あのデートは要は「前半から伏線が仕込まれてた」入念に用意された重要な部分で
映画の上映時間的にも第三幕に入る前の、第二幕のラストに相当する
(全体的にはディクソンがバーで喧嘩売るのが第二幕のターニングポイントだろう)
特に、ミルドレッドのプロットはあの時点でほとんど終了してて以降は特に行動も変化もなく、ディクソンのプロットの処理にミルドレッドが追随するという形になっているので
実質的にあのデートのシーンこそが、ミルドレッドのサブプロットのクライマックスということになる
そして、あのシーンで「怒りは怒りを来たす」という今作のテーマを一言で表した格言を動物園の娘から学ぶ
「全然関係ないところから不意打ちを食らう」という今作の特徴的な展開の集大成のシーンだよ
ミルドレッドのメインプロット(外的動機)は「犯人探し」で
それが人間模様(サブプロット)に影響され変質するというのが本作の構成だから
デートのシーンでサブプロットが完結したのにまたメインプロット(犯人探し)に戻ろうとするあのラストは
だから独特の浮遊感があるわけ(観客的にはもう整理のついた話に無理やり戻ろうとしてる風に思えるから)
怒りに燃えたオバサンの行動が、なんでもないデートのシーンで幕を降ろす、というのは
この映画のテーマ的に非常に重要な仕掛け
それを「ただの成り行きだ」と疎かにしてる時点であなたの解釈の仕方にはかなり無理があるよ >>293
自分もレッドがゲイというのはピンと来ないんだけど、
大事なことは、キューバ云々の台詞から分かる通り、ディクソン本人はレッドをゲイだと思っているんだよね。
だからこそ自らの性向を認められない怒りの矛先がレッドに向くわけで。 >>280
俺はBlu-rayだけで欲しいんだけどね〜。
仕方がないからセット買って、DVD欲しい奴に安く売りつけてるw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています