邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
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邪馬台国は当時の天体測量の結果楽浪郡の南一万二千里、すなわち宮崎の何処かにあった。会稽は帯方郡の南一万二千里にある。編者陳寿は郡を取り違えた可能性が高い。 まあ可能性の一つでさ
出土した状況がはっきりしていないから他にもいろんな可能性が考えられる
対馬の仏像は倭寇で略奪した根拠も無しに根拠にして返還しないとか滅茶苦茶 確かに略奪品である証拠を韓国側が出して、日本に返還を求めるってのなら筋は通ってる。
それをまず窃盗しておいて、窃盗犯側が返して欲しければ倭寇の時の略奪品ではない証拠を出せ?
頭がおかしいしさすがに怒りを禁じえないな。 檍1号墳って木槨だけじゃなくてそこに続く地下墓道がある
ってとこが独創的っていうかなんて言うか珍しいね
長さ17mあるらしい
小さな地下式横穴墓も墓道を作るんだけど、その地下式
横穴墓石で閉塞させるのはイザナギがイザナミから逃げて
大石で塞ぐ話を連想させるね ついでに岩戸隠れも連想
亡くなったことの暗喩じゃないですかね
地下式横穴墓を作ってる地域では墓道を石で塞ぐのは一般化されてた
棺直葬とは違った死生観っぽいね 玄室に羨道(墓道)を設けるのは4世紀末の北部九州が初見、
つまり朝鮮半島由来だとか各所に書いてるが違うじゃないか。
あの界隈はいったいどうなってるんだ?
檍1号墳ってその100年くらい前だろう 考古学は良いけど、考古学の成果から任意につまんできて語る文学は要注意だ。 読む側のリテラシーの問題だと思うけどな
檍って甕棺とかも出てるみたいだがいろんなとこと交流があったみたいだな 非常識といわれても
作家は、世間の常識と違ったことを書いてアッといわせ無くてはビジネスにならぬから そうやねえ…商売目的の本なら売れること書かなきゃな表題だけでも
真面目なはずの学者先生が電波的なことを言うのもあくまでマスコミ向けでさ
円滑に予算を確保するために学者先生のマスコミ(大衆)向けのパフォーマンスも求められてんのかもな
大衆をワクワクさせて発掘しろ圧を作れば議会の妨害もかわしやすいっていう…そこまでないかw
とか田舎大衆の自分も思ったりしますわ 中心地が定められて律令制で人が土地に固定されるようになったらただの僻地だが
自由に人が行き来していた時代はだいぶ様相がちがったんだろうな。
瀬戸内系だけじゃなくって北部九州や近隣南部九州や南方や大陸との直接or間接交流の確かな証がある。
全く閉鎖環境ではないし甕棺のような少数の物もあるってことは外来者を排除せず寛容だったってことじゃないか。
食糧事情が悪化すれば必ず紛争になると思うが気候的に恵まれているからかな。 本当の意味で国が分かれていた時代には、人は自由に他国へ行き来などできなかったよ。 力無き正義は無能つってな
悪意ある来訪者を排除するための力が無ければ平和も無い
しかし倭国大乱の時期に環濠も無い集落とかなんなんだろうな
環濠があるところもあるがあれがどれだけ防御に与してたものか
僻地だから関係なかったのかw そういう例があるな
あとゴミ捨て場土器捨て場として
それが目的なら土坑にするだろうし不要になったからたまたまそんな使われ方をしたんだと思うけどな
あと周囲に竪穴住居の床面より低いところを作って乾燥を保つ役目もあったのかな 熊本に弥生時代の鉄器として日本の出土全数(当時)を超える鉄器が出土した遺跡がある。
同時期の九州で最も高密度な鉄器出土地の熊本の西弥護免遺跡は住居218で出土鉄器は581とのことだ。
このスレでも触れられている宮崎のは住居246で出土鉄器は150余り。
西弥護免遺跡はこれでもかと四重の環濠を巡らす集落だが古墳時代へ続かないらしい。
いったいどうなったのか可能性はいくつか考えられるが、その状態が続かない/続けなくて良い状況が発生した。
一重の環濠も作らない上記宮崎の某遺跡の人々はどうしたろうか。
250年ごろに一斉に建て替えあるいは一時的に何処かへ行ったかのようにも取れる痕跡があるらしいが。
九州山地を隔てた向こう側の遠くない地域のことだ。 >>328
> 一時的に何処かへ行ったかのようにも取れる痕跡があるらしいが。
どんな痕跡?
鉄器が遺跡に残っているのは、襲撃されて使う間もなく滅ぼされたとか
滅ぼした方もそれ以上に効果のある兵器を持っていたので置き去りにしたのか
天災があったのかも コレラ、ペスト、マラリア、天然痘、その他疫病かな
あまりの無残さに、あわてて一切すてて逃げた。 このスレで出てる遺跡名で検索して本文編の231ページの年代測定結果を見てくれ
平和裏な移動なら持って行きそうに思うが補修を諦めるくらい破損していれば捨てていくことも考えられる
再利用も確立していない時期だし使い捨てだったと考えれば不合理ではないがあまりに多すぎる気もするな あの時代一つの集落が全滅するレベルで疫病が流行する可能性もあるな。
援軍に行ったが敵わず這這の体で逃げ帰ってコレはヤバイと意識変革が
起こったとか勝手な想像はいくらでも出来るな。 攻めて緊張線が遠くなったor攻められて滅んだor降伏して武装解除した 大隅の王子遺跡、最近出土した大集落跡もそうだが、2000年前は鹿児島湾内の
姶良カルデラ、阿多カルデラ、霧島、桜島、開聞岳の火山が活発化していたことから
阿蘇山も同様で、作物もできない、住めないことから集団避難した可能性があります。
大隅〜宮崎の日向に残る神武東征もそのような集団避難だった可能性があるのでは。 神武東遷は火山噴火などの自然災害方の大規模な非難だったという説に賛成です。
東日本大震災でも福島や宮城・岩手の沿岸部から避難民の大移動が起こった。 九州の環濠集落は、吉野ヶ里など多くが同じような時期に廃絶していると
される。何となく、理由がわかるような気がする。理由がわかれば時期も
わかるような気がする。 日向神話に、海幸彦、山幸彦の物語があり、その中に潮満玉、潮涸玉と
言うのが出てくる。この玉を使うと、潮が満ちてきて海幸彦を溺れさせる
というわけだが、これはどう見ても津波からの発想だと思う。 火山の爆発により地震も起こり津波もあったかもしれないし、
太平洋側は地殻変動による地震で大津波があった可能性はあるでしょう。 約2000年前に巨大津波があったらしいよ >>12 有明海は構造上、津波の影響は受けにくい。
湾外からの津波は入ってきにくく、
中で地震が起きても、津波にならない。 邪馬台国有明海沿岸説は、万2000里で邪馬台国へ到達できると思い込んだ連中の
考えた説だ。しかし、万2000里は女王国までで邪馬台国までではない。 >>340
200年ほど前に特殊なケースがあったけどね。
島原大変、肥後迷惑ってやつ。
雲仙の噴火で眉山ってのが崩れて、有明海に崩れ落ちた。
その影響で津波が起きて、肥後では5000人の使者が出た。 万二千余里は熊本の阿蘇や八代くらいになりそうだけどな。
あと誰か分からんのだけど日向説を書くにしても流れ無視してコピペとかは迷惑だから考えて書こうや。
日向は触れられてないか域外の狗奴国・邪馬台国の一部かなと思う。
弥生末の遺跡遺物で熊本のほうがだいぶ上だしね。 間違った流れを引きずるのは時間の無駄だ。北九州からは日数で考えろ、 そら言いたいことは分かるよ
南に水行10日陸行1月って箇所を最初の最初に考えるわな皆
伊都国からの放射や帯方郡からの計とかなんやろ
それじゃ話が進まんしそこで終わってしまう 帯方郡からの計だなんてのはトンデモだよ。そんな馬鹿な話につきあっていても
何の益もない。
北九州から放射式だ。それなら行き先はだいたい分かるだろう。
目的地が分かったら話が終わる、それで何の文句があるんだ? 放射説ではどこを起点にしても南への水行が出てこないと思うが。 意味不明だな。伊都国から南への水行だよ。
水行二十日で投馬国、水行十日+陸行1月で邪馬台国だ。 >>348
そのうえで、なおかつ万二千余里のところな。 伊都国は末盧国の東南500里だ。唐津の東南40キロ付近。佐賀市大和付近
とみるのが合理的だろう。 未だに伊都国糸島の迷宮入りコースを語る人が少なくないようだな。 聞きかじったことにとらわれて、合理的思考がまったくできない連中が多いってことさ。 伊都国は佐賀市付近。魏使がそこへ行ったということは、目的地は本州では
ないということだ。 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之
は末盧国の沿岸水行と上陸してからの伊都国への陸行で遭遇したもの。
唐津糸島間は険しく陸行の利が皆無としても諸般の事情で陸行しなければならなかった。
伊都国が博多近辺で東南陸行7、8kmで奴国。
伊都国から水行十日 または 陸行一月 で畿内の邪馬壹国。
のように考えたりするしそれが無理がないように思う。
日向説を見出すべく読んだりもするけど。 あるいは糸島市の筑前深江駅付近に上陸してそこから陸行したのかもしれんね。
末盧国の様子は東松浦半島北岸に達して以来の沿岸水行で見たもの。 >草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之は末盧国の沿岸水行と上陸してからの伊都
国への陸行で遭遇したもの。
ちがうね。末盧国の状況として書かれているんだ。末盧国から伊都国への行程が沿岸だとは言えない。
又渡一海、千餘里至末盧國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒。
水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。
>それががないように思う。
方角がちがう。怡土ならば陸行する必要がない。南水行ができない。伊都国から先の行程がうまく
理解できない、無理だらけだろ。 >それががないように思う。 → >それが無理がないように思う。 対馬は険しい孤島、
壱岐は狭い島、
しかし荒海を渡ったさきの末蘆国は穏やかで、海には高級食材が手づかみ状態・・、
貴族といえど生涯海を見ることもなかったであろう洛陽の人々の関心をかきたてるよう、陳寿がドラマチックに描いてるのだ。 >伊都国から水行十日 または 陸行一月 で畿内の邪馬壹国。
北九州から畿内へ行くのに 船を遣わない行程は考えられないだろ。
となると、水行十日及び陸行1月だ。長野あたりに比定するほかはない。 近畿説は節操が無い。自ら身を滅ぼす道なんだけどな。 重要でないことを書いたのは使者も童心に還って見て強く印象に残っていたからかもしれんね。
陳寿も使者らの気持ちを想像して書いた。
博多が伊都国ならなぜ直で行かなかったのかということになるが、
防衛の観点から博多湾から入らせず糸島半島以西から陸路行かせたとか、
想像だがそういう背景は考えるな。 卑弥呼は魏に援軍を頼んでるくらいだから、防衛の観点から遠回りを、というはいかがなものか 魏に全幅の信頼は置けないことはじゅうぶん想像できないか。
今後関係が悪化して、あるいは気が変わって、狗奴国と謀って
邪馬台国を挟撃する際の助けになるような情報を与えるほどに
信頼することは愚かだと思うけどな。 末蘆国から邪馬台国への道は、政治軍事だけの道ではなかったとおもう
当時は半島から鉄を輸入し、鍛冶場で武器や農具を製造し始めてた、いわば古代産業革命の時代。
それにいち早く乗り出したから邪馬台国は覇権を握り、卑弥呼も女王にもなれたのだろう。
つまり鉄材や工人などが往来した産業経済の道、それが邪馬台国街道の基本的な意義だったと思う。 半島からの鉄素材等の入手経路を確保すべく北部九州を勢力下に置きたかったのは想像できる。
鉄器が大量に出ている熊本(以南)が狗奴国ならその経路を確保していたことになる。
邪馬台国が確保していたなら、対立する南九州狗奴国への経路を遮断するはず。
たたら製鉄でもやっていたなら別だけどな。 良好な関係を維持したとして、ゴマカシはあとあと確実にばれるけどね
結局は怒りを買うことになる 其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子為王
狗奴国と邪馬台国との実地の位置関係不明なので、具体的ではないが、
時代的背景を考えれば、その入手経路の確保を巡って、相攻伐歴年、だったのではないか
女王傘下はまあ妥協したものの、狗奴国だけTPPに参加したくないとか・・、 鹿屋市の王子遺跡。昭和55年、バイパス工事中に2000年前の大集落が発見されたが、
当時は南九州では大集落は発見されておらず、棟持造りもないと言われていたのに
棟持作りが発見され、しかも伊勢神宮の造りの基ではないかと言われた程の大発見だった。
他に、鉄の武器の出土、瀬戸内海との航海もわかった。そんな大集落が2000年前に
忽然と消えた。これも謎です。そして、最近、高速道建設で、10Km程離れた地域から
大きな横穴式古墳、大集落跡、5000年前の西日本最古の石の剣、ハート型模様の象嵌
の刀剣等が続々出土。
王子遺跡の周辺までを徹底的に調べれば当時のことが相当わかったはずだが、調査もろくに
行わずにすぐに埋め戻されてバイパス工事が行われた。もったいなかった。 >>366
熊本なんかでは、すでに製鉄が行われていた。
だいたい、中国とか朝鮮とかで製鉄が行われているのに、
日本が何百年もありがたく頂戴するだけというのはありえない。
作り方を一瞬で覚えて、すぐにもっと良いものを作り出すと
いうのが日本本来の姿。 初期は鉄材輸入でも、おっかけタタラ製鉄が始まったにちがいない
ただしタタラ製鉄には木炭が必要、
しかも高温を得るには赤松の木炭が良かったらしい
熊本以南で赤松木炭ないしそれに代わる高温木炭が得られたかどうか・・、 野焼きで土師器を焼いている時代はまだ、製鉄は無理。
最低でも須恵器などの高温窯までレベルアップしないと。
それでも、まだ、ハードルは多い。
単に温度を上げるだけではなくて、
1200度以上で、酸素を全く含まない、
一酸化炭素状態を維持しなければならない。
水分もご法度で、高温下で水分が熱分解して酸素と水素にわかれる。
水素は鉄を脆くし、酸素は鉄鉱石の還元を妨げる。
さて、どの時点でこれらのハードルを越えたかな? 古墳時代の後期くらい?
弥生末とかのは製錬滓じゃなくて全て鍛冶滓ということではなかったかな
もちろん宮崎のも 鉄素材がまあ適正価格で入手できるなら精錬から行う理由もないしな。 今のたたらを操業してる時、
鉄鉱石や木炭を投入する穴から熱気が上がってくるが、
そこに紙でも放り込むと、すぐに高温で炭化するが、
それ以上燃えないそうな。
酸素がないから。
燃えたら空気量調整の失敗だね。 製錬滓とか鍛冶滓とか分けるのは間違いのようだ。製鉄は必ずしも高温である
必要はないという。 鉄滓…製鉄のさいの残り屑
九州では、弥生時代の鍛冶遺跡から鉄滓が出ている。
ちょっと詳しい人が見ればすぐにわかるはず。 で、弥生時代の鉄さいからは、
今のところ確実と思われる製鉄跡とは判断されていない。 弥生時代の製鉄の可能性を否定してきたが、
私自身は熊本南部説なので、確実な精錬跡が福岡や熊本で確認されたのなら、
喜びの踊りを踊るだろう。
ただ、今のところ、確実ではないので、ぬか喜びをしないように、
ちょっと慎重な見解をとっている。
5世紀以降のたたら炉、高炉の跡は、かなり確実に分かっているようである。 熊本県の方保田東原遺跡からは石包丁形鉄器が出土している。
これは何を意味するかというと、石包丁というのは、稲刈りの時に使うもので
たくさんの人が使うために大量に準備される。
つまり、これが鉄でできているということは、いかに鉄が大量に普及して
いたかを示しているわけである。
方保田東原遺跡の鍛冶遺跡からも大量の鉄滓が出ている。 熊本だったらまず間違いなく、鉄鉱石の鉱脈はあるだろうな。 熊本県の場合は、阿蘇のリモナイトだろうな。
リモナイトの製鉄は、中国や朝鮮半島では行われていないらしい。
九州の場合は、リモナイトを焼いてできるベンガラ(丹)が弥生時代から大量に
普及している。棺の中にも入れられているし、住居跡からも見つかる。
阿蘇の住居の場合は、北東方向に厚く撒かれていて、魔除けの意味があったと
考えられている。 糸島の元岡遺跡は、高炉が出た製鉄遺跡。
すぐ近くの今宿遺跡は、鍛治遺跡。
元岡の近くの砂浜には砂鉄層がある。 石包丁型鉄器が出土したのは唯一そこだけだったか
あいつら驚かしてやる的に作ってみるくらいに進取的だった
威信財の段階から進んでいる 広島大学の先生が書いた、鉄器の論文は読んでおくべきですな。
弥生終末期から古墳時代に、鉄器の生産が山陰などに変化する様子がよくわかる。 酸化第一鉄の砂鉄や磁鉄鉱と比べて、
酸化第二鉄の赤鉄鉱やリモナイトは、またちょっと製鉄が難しくなる。
前処理が必要になってくる。
今の製鉄はその酸化第二鉄が主だけど。 邪馬台国は壱岐・対馬・奴国・不彌国にヒナモリを置いてその地域を押さえている。
邪馬台国と争乱状態の狗奴国が朝鮮半島方面から鉄を入手するのは困難だろうな。 製鉄の歴史として、次のように書かれているな。
鉄は青銅の場合よりもさらに低い温度で鉄鉱石から鉄に固体のままで変えることができ、
これを鍛えれば使用できる鉄ができる。つまり鉄はその融点から想像されるよりも、遙
かにやすやすと製造できた。また銅や錫の鉱石の産地は地球上で偏在しており、広範な
交易の発達が必要であったのと比較して鉄鉱石は何処にでもあった。そのため冶金学的
には青銅に先行して鉄が用いられた可能性がある。 海綿状鉄の話は知らないわけではないが、
実際には酸化ケイ素などの砂成分を分離できず、
また、表面数ミリ程度が、非常に長期間の焼成で
わずかに還元されるに過ぎない。
従って、実用的に用いられた例はほとんどない。 単に「製鉄の歴史」でググったら最初にでてきたよ。分かりやすい説明だ。 お知らせ
市原警察署の生活安全課の帰化人創価警官の指導の元、
入学式から2週間ほど、在日の創価学会員を主体とした自称防犯パトロールが、
2週間ほど行われることになりました
生活安全課の指導であることと、パトロールであることは、
絶対に公言してはいけないとの指導も、帰化人創価警官より出ています
期間中は2人組の在日の創価学会員が、頻繁に創価批判者の自宅周辺を、
うろつき回ると思われます
日本人の方は、充分に注意してください 全国邪馬台国連絡協議会が設立されました。
4月19日(土)全国の主な邪馬台国関連の歴史研究団体が参加して、首記の
全国邪馬台国連絡協議会(全邪馬連)が設立されました。
邪馬台国と古代史の解明を目指すのが設立の趣旨です。
連絡先 http://www.zenyamaren.jp
7月19日 第1回東京地区大会を予定しています。 安本教授の指摘は、まだ終わったわけではないのだ。
なんと、夜須町と大和郷の間で見られるような地名の一致が、北九州と南九州の間に、そして、南九州と近畿の間にも見られるという。
わかりやすく相対表を作成すると、次のようになる。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/1541/yamato3.html 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 卑弥呼の墓は、西都原だろうな。
この配置は異常だ。
http://www.gurunet-miyazaki.com/kankouti/saitobarumain/kofun/kofunsaito.htm
女狭穂塚は、本当は3世紀末から4世紀初頭で、卑弥呼の墓。
男狭穂塚は5世紀で、卑弥呼の墓を陵辱するために大和朝廷が
築造させた古墳だと思う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています