藤原氏はなぜ長続きしたのか?
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>>242
>関白
似たような原理で権力握った例に、江戸幕府の側用人があるね
情報を握るものが強いのは古今変わらぬ法則なんだろう
こういった着眼点の良さが藤原氏の強さの一つだと思うわ 関白といえば豊臣秀吉が関白になったんだが
その時の政治運用はどうだったんだろう?
さすがに平安期のような運用
議定→奏上を最初に聞いてから天皇と決済内容を合議
という運用方法ではなくなってると思うけど。 武智麻呂と房前は正一位太政大臣を追贈されてるのに
宇合は良継や百川が政権を握っていた頃でもそういうのがないのは何で?
種継の父親も無位無官のまま追贈が一切ないし。 >>260
武智麻呂と房前はいずれも、死後の天平宝字4年(760年)に
太政大臣を贈位されている。
当時は淳仁天皇の治世で、藤原仲麻呂が太師(太政大臣)になったのと同じ年なので、
執政者であった藤原仲麻呂の政策で間違いがない。
仲麻呂の実父である武智麻呂と、仲麻呂の正室・藤原宇比良古の実父で、
仲麻呂の義父に当たる房前の2人に贈ったものだろう。
良継や百川は生前太政大臣になっておらず(死後贈位)仲麻呂ほどの権力を手にしていない。
種継も生前は中納言が極官で、父に贈位するほどの大出世をしたとは言い難い。 織田軍、案外弱し
(上杉謙信)
徳川軍、悉く弱し
(岡部元信) ★マインドコントロールの手法★
・沢山の人が偏った意見を一貫して支持する
偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法
・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする
誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法
↑マスコミや、カルトのネット工作員がやっていること
TVなどが、偏った思想や考え方に染まっているフリや常識が通じないフリをする人間をよく出演させるのは、
カルトよりキチガイに見える人たちを作ることで批判の矛先をカルトから逸らすことが目的。
リアルでもネットでも、偽装左翼は自分たちの主張に理がないことをわかっているのでまともに議論をしようとしないのが特徴。 「平家にあらずんば人にあらず」
この句は藤原の影響力がうかがえる。ずんば言うてもうてるからね。
ズンバでGO! >>159
応神天皇は久米系の天皇です。
母はクメノオキナガタラシヒメ(=神功皇后、実は即位して神功天皇)でやはり久米氏です。
息子のウジノワキイラツコ(=宇治天皇)も久米系です。
中臣・藤原氏はその遠祖である天種命(天児屋根命の孫)の妻が宇佐氏の娘・宇佐津媛です。
その間に出来た子が宇佐津臣で、この子孫からは母系の宇佐氏の祖霊神を祀る祠官家も出ています。
また、鹿島神宮の宮司家も輩出しています。
善光寺についてはよく分かりません。
ですが鍵になるのは麻績氏だと思います。
麻績(おみ、おおみ)氏はどうも近江国に関係の深い氏族のようです。
同国に根拠地がある久米系の息長氏や和邇氏との関係性がよく言われるようですね。
また和邇氏の本宗筋に当たる春日氏と中臣・藤原氏との関係性も大変に深いものがありますよ。 >>227
おい、パゴヤ
尊卑分脈
藤原季兼
・本名季風、三河国に居住し、参川四郎大夫と号す
藤原季範
・額田冠者(三河国額田郡)と号す
・額田冠者(三河国額田郡)と呼ばれていた
・父親と三河に住んでいた
間違っていないよな
今後は口答えをするなよ、そんな暇があるなら、パゴヤ城のシャチホコでも磨いていろ >>221
聖武朝の永手・真楯、長良・良房のような同母兄弟でも弟に抜かれることはよくある 麻呂の京家は殿上からは速攻で消えたけど、公家としてはいつくらいまで残ってたの? 藤原氏の末流藤原紀香は男を使い捨て。キャリアの道具にした。
藤原の荘園のあった兵庫県神河町出身のマラソンの藤原正和、スポンサーに媚びない。
落ちぶれても名門出身の気高さが見える。 >>52
日本だと、一つの要因として
”文明化”(文字のある低のどの普及)より前に統一したということがあるかも、
弁韓なんかずっと小国で争ってたのに比べて明らかに早い。
もしかしたら過去の天皇はウィリアム征服王のように
外来からきて、素早く統一を果たしたのかもしれない。 って、思ったが、
外来種っぽい描写があるのって
ニニギと応神だけだし、
ニニギは全然統一した描写とかなし、
応神はもとからあったヤマト王権に入り婿したみたいだし、
関係ないか。 >>272
和歌山だろ紀香は。
満蒙開拓団、、藤原氏なんか? 看板を取っ替えひっ替えして知能が無い奴隷をコントロールしている。八藤最強。 >>272
藤原紀香は平氏の末裔だといって
結婚式の時の十二単に平氏の紋を入れていたよ 藤原には日本を貶めた罪を償ってもらうさ。藤罪ってこと。い、さ。で。 とりあえず佐藤、伊藤、藤分の多さなんとかならないの?さ、藤罪やさ。 >>15 秦氏と藤原の出自は別なはずだが。根拠はあるのか? >>273
藤原は外来の新しい制度を巧みに取り入れることに優れていたんだろう。
だからこの戦後史観がいつまでも続いている。ということが挙げられる。
第二次世界大戦後、すぐに連合国を攻める方向にはならず、平和。という道を選択した。 >>273 天皇は外来勢力であるが、他の勢力より速く畿内や大和、伊勢に渡来して縄文人と交わっておられる。
紀元前7世紀位の話になるだろうが。二ニギは天孫。 >>283
そういやニギハヤヒは縄文系であるナガスネヒコの妹をめとっているから、
物部氏には縄文系の血が強いな、
天皇家はこの血を引いてたっけ 恵美押勝が敗死したときは、藤原氏にとって大きなポイントだったと思う。
一族最大の実力者があんな滅亡のしかたをすれば、ふつうは一族にとっても
致命傷になるものじゃないの?
入鹿が殺されたときの蘇我氏以上の大打撃だったと思う。 >>287
恵美押勝の処刑によって藤原氏の力は弱まり
道鏡の台頭を許したわけだしね。
しかし、生涯未婚の称徳天皇が愛したのが子を大勢持つ貴族などではなく
僧侶だというのが幸いだったんだろう
僧侶である道鏡には妻子がなく、一代限りだからね
恵美押勝が不比等の長男系である南家だったのに対して
称徳天皇の死とともに光仁天皇を擁立して再び藤原氏を台頭させたのは
不比等の三男系の式家だけどね。 >>289
薬子の変(平城太上天皇の変)は藤原式家VS北家の戦いだからね
嵯峨天皇についた北家の藤原冬嗣が台頭し
平城太上天皇についた式家の藤原薬子・仲成が追い落とされた 物部守屋・蘇我入鹿・伴善男など、一族の最有力者が滅亡・失脚すると、その後
支流が中央政界で存続するのだけど、やっぱり衰退・消滅しているね。
藤原氏の場合は、四つの家が台頭して、他がダメになっても、スペアが残るように
なっていたのが大きいように思う。
不比等の息子たちが台頭したころ、まだ氏族の族長がひとり政界で出世するのが
通常で、ひとつの一族から何人も出世するのは稀有であったのではないだろうか。
通常は武智麻呂の系統が滅亡・失脚すれば、その氏族は終わりだったと思う。
実際、南家はもちろん、式家・京家は衰退している。
北家があれほどまでに繁栄したところに、藤原氏の特徴があるように思う。 そう言えば忘れた頃浮上した藤原南家の連中がいたよな。
信西(高階にはなってたが)
と
順徳天皇外戚になった藤原範季。 >>288
称徳天皇と道鏡の間に子供が生まれていれば、
後継者はどうなったんだろうな。 >>292
古代には天皇の補佐役は大臣と大連ぐらいしかなく、
事実上、2つの豪族のトップによる二大豪族制だったのだろうけれども、
律令制度の導入によりポストが増えたというのは大きかったと思う
聖武天皇の伯父であることを理由に藤原四兄弟は全員参議以上の
公卿に食い込み、一豪族一ポスト制ではなくなっていた。
奈良時代の公卿の数に比べて平安時代の公卿の数は3、4倍になっている。
これは一族で一ポストではなく、兄弟が皆公卿に名を連ねることが普通になっていたからだ。
五摂家分離後はまた一家一ポスト制に戻ったんだけど。 朝鮮人の血を引く渡来系の割りに光明皇后は素晴らしい人格者だったというが 藤原氏・元皇族(源氏・平氏・清原氏)を除くと、明治維新まで残った
堂上貴族って、中臣氏・菅原氏・大江氏くらいなんだよね。
中臣氏は藤原氏の同族だし、菅原氏・大江氏は学者の家系。
人臣の出身としては、藤原氏の比重があまりにも大きい。
結局、朝廷は「皇族・元皇族・藤原氏」で大半を占めているように見える。 >>297
安倍氏、丹波氏というのも残っている
あと藤原北家に追い落とされたかに見えた
藤原南家も堂上に残ってるのな。 藤原氏と競合せず(権力や地位は無い)、
さらに特定の家業を持つ氏族 >>300
公家の安倍氏は記紀編纂段階になって孝元天皇の子孫を称することになったけど
あの時代の皇別家系図は意味ないだろ 南家は細々と堂上家を残すのみとなったし、式家・京家は中央貴族としては
残らなかった。これらの家の盛衰は他の中央貴族の盛衰ともそれほど差が
ないと言えるかも知れない。
北家だけがあれほど大規模化・長期化し、特にその本流が摂関家として
中央貴族の頂点に立ち続けたのが異常であるように見える。 宇都宮氏が北家なら宇都宮氏庶流のオレは紫式部の親戚になれるのだが、
宇都宮市が違うと言って認めない。 >>305
藤原北家の子孫って正統なものだけでも大杉
藤原北家の流れというだけで紫式部の親戚だと言い張るなら
日本人の4分の1がそうなりそう 平安時代 日本人3000万
今 1億3000万 遡ればたいてい親戚 >>305
20代もさかのぼれば直接の父母の系統だけで100万人超のご先祖様がいることになる
さらにその兄弟姉妹まで考えたら日本人のほとんどは何らかの有名人の親戚になるわw >>271
少なくとも11世紀までは氏爵の対象に京家もなっている。
何十年かに一度みたいだけど。
それで偽京家が氏爵を得たのが発覚って言う記録がある。
だから少なくともその頃までは五位官人が居たはず。
確か系図では一二世紀くらいまで名前が残ってるらしいが、
その辺りになると他の証拠はなく不詳。 江戸時代の堂上南家は名跡を継いだだけで、系統は確か北家傍流。
でもなにか由緒があるんだろうから女系ででも繋がってるのかな?
いやまあ、この頃の堂上は多かれ少なかれは南家の血が混ざってるだろうけど。
地下官人(諸大夫等)で南家末裔を称する家はあったようだ。
この辺りは真偽不明?
譜代の諸大夫なら信憑性有りそう? 天皇とは別氏族の分を守り朝廷にしがみ付いたから。
終了。 大化改新を旧日本人による渡来人からの政権奪還の様に見せ掛け天皇の権威を高めてそれに寄生する手法で千年の成功を手にした
氏祖中臣鎌足は亡命百済人一世であり
百済本国の支援を受けて天智天皇を唆し
もはやすっかり日本人と化していて百済救済に乗り気で無かった百済系渡来豪族蘇我氏をクーデターにて滅ぼし権力を獲得したが
事実を息子不比等が捏造歴史書を用いて隠蔽した 姓は藤原氏系
父方の祖父は祖母の家の婿養子なのでY染色体は源氏系
母方は平家系
という場合には…?? >>315
藤原氏をはじめたいていの家では男系優先の女系継承も行われているよ
Y遺伝子だのなんだの言っている奴は天皇家から女系を排除する目的で
言ってるだけだろ >>311
横ですが。
偽京家って、正体は何者だったんです? 丹波かなにかの卑姓の下級官人で、当時の京家トップとくんでなりすまし。
おそらく賄賂でも送ったんだろう。
本来推薦されるはずだった人物が告発して発覚。
確か叙爵は取り消しになったけど他に処分は無かったんじゃないかとか、
なんかそんな話だった。
かなり前に読んだのでうろ覚え。
吉川弘文館の本で見たと思うけど、作者も題名も忘れた。
平安人名辞典の関係者の項にも出てたかもしれない。 長男優先という江戸の武家の方式を取らず、子孫の中の有能なものが
摂関になるという伝統が長続きした理由かも知れんね。
それと、王妃を出すべき王族(丹波氏や息長氏)が没落してしまって役目を
果たせなくなったんじゃないかなあ。
蘇我氏は、勢いに乗りすぎて、王を乗っ取ろうとしたから滅ぼされた。
藤原氏は、王妃は出すが、あくまでも臣下の立場を貫いたから潰されなかった。 >>319
藤原氏でも藤原道長以降は基本的には嫡男相続だよ
武家ができる前から藤原氏は摂関の世襲・嫡男相続をしていた
兄弟順にかかわらず摂関についた例があるのは藤原道長以前だろ
それも「娘を入内させ、天皇の外祖父になれるか」が判断基準で
有能な者が摂関につくという伝統があったわけではない 摂家分流以前に、摂関家に成人男子が欠けて、
たとえば当主が10歳未満なんて事態が起きたら、
閑院流や村上源氏あたりに摂家になるチャンスってあり得たんだろうか?
いくら摂家当主でも、儀式に携われる年齢じゃないと摂関にはなれないよね。
仮に実質的政策判断とかは後家の祖母ちゃんや母ちゃん、
出家済みの祖父ちゃんとかがするとしても、
儀式できなきゃ当面は資格がないよね。
そう言うことが生じてしまった場合どうしたんだろう。 >>321
摂関家も男子が多かったからね。
普通は当主が幼少なら父の弟が摂関を中継ぎして閑院や村上源氏には渡さない(実際にそういうことがあった)。
祖父・父・息子いずれも一人息子で兄弟なし、祖父・父は早世、息子は幼少ということが起きればだけど。
当時の一夫多妻ではそういうことも珍しいよね。 花山院とか大炊御門とかあたりはまだチャンスがあったかも。 >>317
>>318
「権記」に詳しく書いてある(長徳4年11月9日)。 wikiの藤原輔遠の項目にも、経過が書かれてるね。
でも、道長の時代に京家長者が残っていたことは驚き。 彰子長生きすぎだな
頼道も教通も
源倫子の血がすごいな…
しかし恐ろしいほどの近親婚約だな
天皇家は…
早死にしまくる天皇家を尻目に
藤原氏の長寿っぷり
彰子も定子も子供は早死にだったような…
女性は被害者だよな…勝ち組に見えて
天皇家との間の子供は近親間の子供だからよう死ぬわ 武家で藤原氏を仮冒するメリットってあんのかな?
清和源氏か平氏なら武家政権のトップに立った氏族だから価値はあるけど
秀吉みたいに関白になれるわけでもないし武家じゃあんまり箔がつかないだろ >>326
近親婚だから短命ともいえないけどね
結構長生きだった人もいるから
後一条天皇と中宮藤原威子の叔母甥婚の間に生まれた
・章子内親王…享年79歳
・馨子内親王…享年65歳
三条天皇と中宮藤原姸子のいとこ婚の間に生まれた
・禎子内親王…享年84歳
後朱雀天皇と禎子内親王のいとこ婚の間に生まれた
・娟子内親王…享年72歳 X遺伝子が一つしかない男の場合に悪影響が出やすいのかな? 彰子って11歳上の定子より寵愛を受けてなかったから
不細工だったんだろうか。その後なかなか解任しなかったのも
寵愛がなかったから?
私は彰子は一条天皇の子供を産んでない可能性もあるとみている
このころ藤原氏は強かったし、天皇の子供は遺伝子で天皇の
子供でなくても、形式的に天皇の子供を産めばそれでよい。
托卵での乗っ取りもあった可能性もあるとみている。
今の天皇が、つまり古代からの天皇の血を引いているかは遺伝子で調べて立証しない限り
証明はされてないのである。
まあ天皇ってのは権力者の操り人形だったから
別に高貴な家柄でも何でもないけどね >>331
彰子が定子より寵愛を受けていなかったという一次史料はないよ
彰子は12歳で入内して第一子を産んだのは20歳の時だが
定子も15歳で入内して第一子を産んだのは20歳の時
定子の時もなかなか懐妊しないので父の道隆が焦っている
(枕草子にこの記述がある。定子の懐妊は道隆死後)
托卵の可能性は誰にでもあるでしょ
ずっと内裏にいて一条天皇の傍に侍り続けていた彰子よりも
兄弟失脚後はほとんど里にいた定子のほうが托卵の可能性は高いけど >>331
定子が生きていた頃の彰子って今でいう小学6年生ぐらいで
多分まだ初潮もきておらず胸も大して膨らんでいない走り回ってる児童よりも
当時すでに20代でお色気ムンムンの定子の肉体のほうが魅力的でもおかしくない
定子があと10年生きていて定子34歳、彰子23歳でも
まだ定子のほうが寵愛が深かったというならともかく なにかで、平安期(中後期だったか?)で皇妃の第一子出産年齢は
20歳程度以上とか見たことがある。
栄養の関係とかなんだろうか?魚肉を食わないとダメとか?
早く子供を産ませろって言うプレッシャーもあるけど、
やはりある程度成熟しないと手を出しにくいんじゃあるまいか?
母親の方を死なせちゃうのもまずいしねえ。 細川は清和源氏だな
藤原氏の総理大臣は西園寺と近衛 細川ってそんな家格は高くないよ
鎌倉・室町初期までは足利家の家臣
足利家の執事の高家が滅亡後、斯波氏やら畠山氏やら赤松氏やらに混じって
成長してきた
足利家からしたら世渡り上手な新参者 >>334
2ちゃんのこの板にあるスレに書いてあったことだろ
この時代の皇后の初産年齢は19歳以上であることが多いのは
皇后が安全に出産できるように20歳近くまで
天皇と肉体関係を持たなかったせいだというやつ
何も天皇が入内してから何年も肉体関係を持たず
20歳近くまで后を抱かなかったせいではなくて
今にように肉も食べず栄養が悪かったせいだと思うよ
幕末も公家の姫でも初潮は17歳ぐらいだった
そら娘が第一皇子を産むかどうかで政治が動くのに
当時の貴族はそんな悠長なことやっていない
性欲で生きていたような平安時代の天皇・貴族が
夫婦になりながら5〜8年も一切手を出さずというのも普通はない 彰子の長寿を見て栄養不足だとはとても思えないが
やはり母型の倫子の遺伝子かな
弟二人も健康で長寿
オヤジは糖尿病でダウンしたけどね
不摂生せず長寿してまっとうする人は尊敬するわ
逆は軽蔑するけどな >>340
粗食のほうが長生きするんだよ
栄養が悪いと言っても現代人の食事じゃなかったってことだよ
彰子は当時の女性では最高級の食事をしていただろうし飢えていたはずはないが
現代人のように肉や魚を毎日たべたりする習慣は平安時代にはない
幕末の和宮でも初潮は17歳だった
和宮も当然飢えていたはずなどないし兄孝明天皇にかわいがられて
当時としてはかなり良い食事をとっていたはずの人だけど
紫式部日記や栄花物語を読むと彰子はかなり小柄な人だったらしいしね
今でも小柄な人は一般的に初潮も遅めでしょ(けして栄養失調なのではない) 定子はお産が悪くて死んだが、もし生きてたらやはり長寿だったんだろうか。
父兄ともども糖尿病だったらしいけど
>>341
平安時代は魚は食ってたらしいぞ?タンパク質なしでなんて生きていけないだろ
庶民は昆虫でも食ってたらいいぞ たしか、魚の干物とか食べてたらしい。
ただ魚肉を食べちゃいけない日があったとか。
ただし、地方から運ばれたもなが多いから保存の為塩分が強く
野菜も冬季の不足を補う為、冬季は漬物が多かったらしい。
酒は糖分多量。
糖尿になりやすい食生活だったかもね。 定子は従姉で彰子は従妹か…
定子の子供も彰子の子供も早死にした
それ以前に藤原詮子の子供の一条天皇だから
普通の従姉従妹よりも血のつながりが強いから
かなりの近親交配だな
詮子の夫の花山天皇も藤原の血を引いてたはず。
天皇が長寿になれないが藤原は長生きが多い。
女性はいつの時代も被害者だな
己の子供は早死にで先立たれ長生きする 白河院から後鳥羽院まで院政をとった上皇は長生きだよね。
その生母は全員非摂関家。
かなり血は薄まっていた。 それでも白血病とかで死ぬんだろ
年いってからの近親交配の遺伝病あるからね
やはり近親交配はダメなんだな >>344
詮子の夫は円融天皇。
>>345
院政期の天皇は多くが閑院流の母親を持つ。
院政初代の白河上皇の母親が閑院流だったので、以後、この系統がたびたび入内。
摂関家を外戚としていないが、やはり血縁はそこそこ近い。 閑院流、始祖は道長の叔父でしかも母は内親王。
どのみちこの頃の貴族はみんな親類で、
どこが外戚で大した差はない。
どのみちある程度は近親婚。 まあそれにしても、一条天皇から後三条天皇までの3世代6人連続で、
兼家濃度が高い天皇が続いたのは異常事態だなあ。
直接の外孫の一条・三条両天皇はともかく、
以後の世代にも次々と流し込まれた兼家の血。 後鳥羽院は母方が持明院(といっても兼家子孫だけど)
父方祖母が平氏(建春門院)だから多少は血は薄まっている気が。 >>350
持明院は藤原道長の子孫(そら道長の父兼家の血も引いてるけど) 後三条天皇はダブりがなければ本来126人いるはずの6親等までの先祖が
46人しかいないからな。これは記録的。 朝原内親王も相当だよね。
内親王だから父親が天皇なのは当然として、
母も内親王だから外祖父も天皇、
しかも父母は異母兄弟だから祖父と外祖父は同一人物。
更に外祖母も内親王だからその父親も天皇で、天皇家濃度濃すぎ。
これで異母兄平城天皇との間に男子ができていたら、
どれだけ純粋培養の天皇だよ。 >>353
ここは藤原氏スレだからスレチ
天皇家の異母兄妹婚は当時は普通のことで
桓武天皇も平城天皇も嵯峨天皇も異母妹と結婚してるからね。
藤原氏で関連のあるところでいうと
藤原不比等が異母妹を娶ってる。 平城天皇や朝原内親王の曾祖世代には、紀氏・和氏・土師氏・石上氏・阿倍氏・県犬養氏といった諸豪族がいるから、
6親等の範囲でみた場合だと、先祖の系統はわりに広がると思われる。
なにぶん史料が不足がちだが、ためしに平城+朝原男子の6親等までの先祖を探ってみると、
史料上確認できる人物、および諸豪族の男系祖(豪族間で養子関係が無いと仮定)だけで46人に達してしまった。
それ以外は豪族の妻やその先祖ということになるわけだが、仮にそのすべてを異母兄妹婚と想定しても70人近くにはなる。
豪族間で婚姻が重ねられていたとしたら、先祖のダブりが生じて人数ももう少し減るだろう。
しかし、たとえば平城&朝原の曾祖世代の橡姫・乙継・真妹・国咸・粳虫・広刀自らの母が同一人物、
といったようなウルトラCでも駆使しない限り、40数人のうちには収まらない。
いかに平安時代中期の皇室と藤原氏の血縁的密着度が濃厚で異常だったかが分かる。 まあ近世以前は程度の差があれ、だぶりがない方が珍しいんだろうな。
通婚圏が狭いから数世代遡れば大概はどこかで引っかかりが。
地縁が有っても身分が懸絶してるとそう言う関係になりにくいし。
縁もゆかりもない人との結婚が主流になったのは、昭和後半くらいから?
家の祖父母も戦前の結婚だけど、又従兄弟かなにかだった。
それ以前にもいろいろ関係有るらしいし。
田舎だとそんなもんかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています