藤原氏はなぜ長続きしたのか?
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昔の人は警戒心が強いから
親同士が知り合いであるとか相手の信用を重視していたのだろう。
昭和のはじめごろで7割ぐらいが見合い結婚だ 幼女のほうがいいだろという発想は、少数派
ロリコンどもめ。 藤原氏は道長の代まで長男が嫡流になれないというジンクスがある 幼女の方がいいだろってのは大抵、逃避だもんな
そいつらの前に成人女性もっていってみ?
だいたいそいつら逃げ出すから、、、 幼女の方がいいだろってのは大抵、逃避だもんな
そいつらの前に成人女性もっていってみ?
だいたいそいつら逃げ出すから、、、 ダ•カーポの枯れない桜とそいつらが戦ったら面白いよね……………… 藤原氏の始祖鎌足は旧来の中臣氏では無く百済系渡来人だから藤原氏は代々外交に強かった
あまり触れられないが権力獲得の過程で水運の要衝や名手も悉く抑えて居ったしね
外語外事に明るかったので平氏も源氏も蔑ろに出来なかったし足利氏は分家と謂う事になっていた
段々衰えたり混淆したりで家門の権勢は織豊時代に完全に跡形も無くなって貧乏公家の仲間入りを果たしたけど
公家を干し上げ徳川薩長と続いた武家政治がGHQ占領で終わって今また蠢動してるみたいだな
あたふた解釈改憲で朝鮮戦争の当事者に為ろうとしたりとかw >>356
うちも一緒。
地縁があっても対象となる家が限定されるんだろうか。
昭和一桁以前生まれの人たちは、従兄弟婚多いよ。
大叔母は二人従兄弟と結婚した。ただし二人共子はいない。
従兄弟同士で子がないとか、障害持ちとか割と多い気がする。
一族から養子を取って繋いでる。 >>371
それなりの家だと、結婚で一番重要なのが家格を合わせることだからね
いとこ婚は無難な選択になる
日本で血がどうのこうの言いだしたのは戦後からだろう うちは普通の農家だったが、祖母は兄嫁の従兄弟と結婚した
日本人は警戒心が強いんだよ
親兄弟気心知れた者同士が結婚してた 明治や大正の先祖の兄弟って、女はどこそこに嫁に行ったとか聞いてるし、
今も付き合いがあるけど、男兄弟ってほとんど聞いたことがない。
そもそもいなかったのか、連絡が途絶えたのか。
多産多死から多産少子になるころで、次男三男はどこかへ稼ぎに行って、そのまあ
音信不通になったんだろうか。
先祖を探すとか、こういう人たちの子孫だろうかと思うことがある。 >374
普通に分家するか、他家の養子になっているだろ >369
常識からみた場合、
明治天皇南朝末裔説同様、
藤原氏百済王家末裔説は、
信憑性が高い。 天皇を立てたからでしょう
北条氏が悪い見本
最後も壮絶だった 北条氏も皇族将軍を立てていたのだがな
天皇をたてることの重要性は認識していたのだろう 中国と戦争しちゃダメだ、親戚だったよー、藤原鎌足の娘は唐の皇帝の后、武周の皇帝だって。能『海人』
http://www.asyura2.com/14/warb13/msg/314.html
投稿者 飯岡助五郎 日時 2014 年 7 月 03 日 18:59:39: VssSC.kx7zq3c
藤原鎌足の娘、すなわち藤原不比等の妹が、唐の第三代皇帝・高宗の后になったと、能【海人】の台本に書いてある。
また、香川県さぬき市の志度町には同様の物語が【海女の玉取り伝説】として遺っている。
しかも、第三代皇帝・高宗の后から鎌足没後に追善の宝物が贈られたことを考え合わせると、
その后が則天武后であり、鎌足の娘は、高宗の崩御後に登位した武周の皇帝だったことになる。
◆海女の玉取り伝説<志度町<四国新聞社
https://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/densetsu/1/
時は千三百余年前、天智天皇のころ。★藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁いでいた娘は父の追善のため、三つの宝物を贈った。
しかし、都への船が志度浦にさしかかると、三つの宝物のうち「面向不背(めんこうふはい)の玉」が竜神に奪われてしまった。
鎌足の子の不比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度へ。海女と契り、一子房前をもうけた。不比等は数年後、素性を明かし、玉の奪還を海女に頼む。 ◆能【海人】
http://www.city.nabari.lg.jp/hp/page000013000/hpg000012989.htm
房前の父である★淡海公(藤原不比等)の妹が唐土高宗皇帝の后になられ、藤原一門を供養する寺である興福寺へ三つの宝を送られた。
しかしその内の一つの明珠がこの沖にて龍神に取られてしまった。
淡海公は身をやつしてこの浦に来て、海人に玉を取り戻してもらうため、海人乙女と契りを結んで一人の子供(今の房前の大臣)を設けたのだと。
http://www.syuneikai.net/ama.htm
シテ「今の大臣淡海公の御妹は。もろこしの高宗皇帝の后に立ち給う。かの后の御氏寺なればとて。
興福寺へ三つの宝を送らるる。花原磐泗浜石。面向不背の玉。ふたつの宝は京着し。名珠はこの沖にて龍神にとらる。
大臣御身をやつし。かの玉をかずかせんが為にあま乙女と契りをこめ。一人の御子を儲け給う。今の房前の大臣とかや。
http://japanese.hix05.com/Noh/5/yokyoku501.ama.html
シテ詞「今の★大臣淡海公の御妹は。唐土高宗皇帝の后に立たせ給ふ。されば其御氏寺なればとて。興福寺へ三つの宝を渡さるゝ。
華原磐{くわげんけい}泗濱石{しひんせき}。面向不背の珠。二つの宝は京着し。明珠はこの沖にて龍宮へ取られしを。
大臣御身をやつし此浦に下り給ひ。いやしきあま乙女と契をこめ。一人の御子を設く。いまの房前大臣これなり。
◆則天武后 立后 永徽6年(655年11月上旬)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9#.E7.AB.8B.E5.90.8E
◆藤原鎌足 死没 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E9%8E%8C%E8%B6%B3
◆武周皇帝(則天武后) 在位 690年10月16日 - 705年2月22日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%87%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%90%8E#.E7.99.BB.E4.BD.8D
■こりゃぁ大変だ。中国と戦争しちゃダメだダメだ。中国皇室のお母さんは日本人女性だったんじゃないか。親戚だぁ。 こうやって見てみると中国あたりの王朝論とか憧れてるのが分かるなお前らって >>380
どんだけ遠いかわからんの?
大体、現代の自称漢民族と古代の漢民族は別民族だし、今現在侵略してきてるじゃないか 漢の時代の血なんてどんだけ残ってるんかな?
蒙古や満族の血の割合のほうが多かったりしてw >>374
大正生まれの祖母は7人兄弟でうち男兄弟は5人いたがうち3人が戦死
(長男は家に残り、末の弟は終戦時に8歳だったために徴兵されず)
あの時代は戦死多いと思うよ
あとは普通に次男以下は都会へ丁稚奉公に出されるというのはあったと思う
田舎の兄が生きているうちはいいだろうがその子や孫の代になると疎遠になっていくだろうと思う
女子は近所の農家へ嫁ぐとずっと実家と音信あるんだろうけどね 北家が南家、式家と決定的な差をつけたのはどのあたり?
南家は三守の頃まで大臣を出してたみたいだが 冬嗣が相対的に優位に立って良房が決定的に差をつけて基経が格を固定した。 俺齋藤なんだけど、藤原さんは齋藤のことどう思ってるの?
ちなみな経験上北家系の人とは仲良くなる
逆に南家系の人と付き合うと裏切られたりするね(^_^;)伊藤さんとか酷いやw >366
近衛秀麿は世界的な指揮者として活躍したよ 親類は戦争しちゃダメとか言い出したら、
近世以前のヨーロッパは戦争できないな。
まあその方が平和で良いけど。 国同士の友好を深めるために王族同士で結婚は
昔からよくあるだろ >>389
音楽の指揮なんて地下官人にやらせればいいのに。
摂関家が自らすることではない。
東儀家や多家あたりに命じてさせておけば十分。 確かに 極悪一族だが、武力で打倒されなあかんほど 憎まれてたかは微妙
みんな時平神社とかに参拝しとるし 平安時代末期には堂上公家の大半が藤原氏になったから
藤原氏抜きでは、朝廷の運営ができなくなったのだろう 中臣鎌足が百済の人質王子とかその息子4人が活躍したり話が出来すぎ
藤原氏の戦略が朝鮮的なのは策士に朝鮮人が紛れ込んでる可能性は高いが 少なくとも鎌足以来ずっと
代々日本に住んでいれば出自としては十分良いだろう 逆説的な言い方になるが、
藤原氏は直系の男子に拘らず、
女系でも、血の繋がりのない婿養子でも、
藤原という一族にとって有益な人間だけを厚く取り立て、重用したからだ。
しかし、藤原には影の支配者一族がいた。それはユダヤ人。
つまり、割礼を受けた正当な男子のみが継ぐものだったはず。
今も生き残っているかは明らかではない。 平安時代以前に娘を帝の妃にすることに
全力を挙げた功が奏したのだろうな 皇別プラス1氏族で構成される貴族社会って世界的にも珍しいんじゃないかな? メディチやハプスブルクも 藤原氏ほどはアレしてない 刀伊入寇では 体を張って国防に努めたしな
藤原ファミリー >>403
摂関家から羽林家まで藤原氏と源氏で占められてて名家でようやく平氏、
菅原氏とかは半家クラスだからな 幕末維新期の堂上137家を家系で(実際の血筋ではなく)類別すると、
藤原氏が7割、皇別(源平安清)が2割、残りの1割が中臣・菅原などその他の氏族。
明治の華族令で初めて爵位を授かった137人の当主の男系先祖を辿ってみると、
実に6分の5が藤原氏(つまり鎌足に辿りつく)で、その半分以上は日野流・勧修寺流など道長以前の分派。
皇別は7%(しかも小槻氏に繋がる藤井家を除けば、源平などではなくみな後陽成帝の後裔)、
残り1割が中臣・菅原などその他の氏族。 >>408【だけ】じゃないぞ
もう 倭人系か渡来系かもわからんくらい 婚姻を重ねとる そう、だから兄弟なんだから。
渡来系が日本を作った。
朝鮮文化を継承したのが日本 朝鮮にも メイド in倭国の古墳が逆輸出されたがな
んなこと言ったら
朝鮮は中国のあれだぞ 半島にも倭人住んでるからな
漢人も
半島は人種のるつぼ 日本史に倭国なんて記載はでてこないぞ
どこをさがしてもない
いたのは倭姫という人物名だけだ
中国史にも倭人や倭王という記述がでてくるだけじゃないのか? 日本史に倭国なんて記載はでてこないぞ
どこをさがしてもない
いたのは倭姫という人物名だけだ
中国史にも倭人や倭王という記述がでてくるだけじゃないのか? 日本史に倭国なんて記載はでてこないぞ
どこをさがしてもない
いたのは倭姫という人物名だけだ
中国史にも倭人や倭王という記述がでてくるだけじゃないのか? 逆説的な言い方だが、
藤原氏が長続きしたのは、男系藤原氏が長続きせず、
天皇家や源氏や平家、足利や豊臣、徳川と、
時の権力者に常に擦り寄って、母系藤原という一族の繁栄の方を重視したからだ。
藤原氏は女系。それに気づけば発見が多いはず。 しかも伊勢の神官だか巫女だか臭い記述がでてくるから卑弥呼に比定されてるんだが >418
とはいっても堂上家の6分の5は鎌足の男系子孫だそうだが >6
鎌倉時代や室町時代は朝廷の権力も無視できない
江戸時代も将軍家や大名家と姻戚関係を結んで一定の影響力はもっていた 江戸時代も上級公家やまして天皇なんてのは京都所司代では抑えられない存在。
天皇が本気で無茶しだしたら対処するには将軍か幕閣の総意でないと止められん。 武家政権成立以降は権力を失って
権力争いに巻き込まれなくなったから 藤原氏が居ないと、朝廷の権威を保つ有識誇示が回せないからだろう 平安時代の間に他の氏を排除して
上級公家層をほぼ独占したからな >日本の中では、西日本と東日本で血液型の比率が異なることが知られています。基本的には西日本ではA型因子が高く、東日本ではB型因子が優性です。
>これは大雑把に言えば「A型・・・西日本・・・弥生系」「B型・・・東日本・・・縄文系」と言うことになるようです。
http://www.ffortune.net/fortune/blood/bld03.htm
縄文時代の西日本は、ほとんど無人地帯
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%AF%86%E5%BA%A6.gif
そして大陸から弥生人が流入しこうなります
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/01nijyuukouzoumoderu/3A_idennsi_no_bunnpu.jpg
((、´゛))
||||||| ファッッッビョーーーーーン!!!!!!!!!
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とはいえ、天皇が本気出せば源氏を幾らでも作り出せるんだがな。
現に後三条天皇の治世、左右大臣が源氏ということもあったわけで。 >>432
別に後三条天皇が本気出したから左右大臣が源氏になったんじゃないよw
後三条天皇の治世には藤原教通(道長の息子)が関白として左右大臣の上にいたし
左大臣源俊房と右大臣源顕房兄弟の母は藤原道長の娘。
父の源師房は前関白藤原頼通の養子で
源俊房も源顕房も藤原摂関家の庇護を受けていた。
実際、源顕房の妹麗子は藤原師実(藤原頼通の子)の正室となり
顕房の長女賢子は藤原師実・麗子夫妻の養女として白河天皇に入内している。 >>433
そりゃそうだよ。藤原氏が最有力貴族なんだし、別に藤原氏全体が一枚岩でもないんだから。
ただ、藤原氏本流を排除したければ出来たし、実例もあるという話。 O型はどうすればいいんですかね?
433
従三位以上だろ、女性の名前が残ってるの
ここまでがいわゆる貴族
清少納言は少納言だから従四位か
惜しかったな、もうちょいで名前が残った >>434
村上源氏に関しては藤原摂関家の姻戚としてのし上がった家
上位に上れたのは天皇の意思ってわけでもない
頼通は長らく一夫一妻を貫き実子がなく隠し子は養子に出したり父母に預けたり
正室の弟で養子の源師房に関白を譲ろうとしていた時期もあったらしい >432
しかし家格が固まった鎌倉時代以降だと、難しかっただろうな
藤原氏が上級公家の多くを占める状態で
家格が固定化したのが長続きした理由だろう >>437
源氏作りが困難になった後は、摂関家はじめ上級公家乗取りに方針転換したみたいね。
自分の血で他家を乗っ取るのは徳川家斉の専売特許ではないようで。 藤原氏に中央から追い出された豪族たちは
十分に豊かだった周辺地域で満足したのだろうか?
東海地方には蘇我氏、物部氏、三輪氏などの形跡が多々ある。
彼らが連合すれば打倒藤原氏も可能だったかもしれない…? >>438
しかし宮家ができたのは家格が定まったあとなんだよ
江戸時代には四宮家があったが平安時代には
宮家なんて存在しなかったからね >438
乗っ取りとういうか
公家側からしても皇族から養子をもらうのは
歓迎だっただろうけどな >>441
分家が認められず次男以下は皆出家させられおいて
嫡男に子供がいなければ他家から養子をとるでは不満多いだろう
徳川将軍家も大名家にどんどん養子を送り込んでいたが
別に大名家は歓迎してなかったと思うぞ 442
そりゃそうだろ
尾張家なんか江戸宗家に対し恨み骨髄だもの
越前なんかだって削封を重ねられて養子を迎え
ることでようやく加増だぞ
親族間ですらこうだからな それから将軍の権威が江戸時代末期には低下したとか言われるが
幕政を実際に取り仕切ってたのは
土井、堀田、酒井、井伊、この四氏な 藤原氏なんて天皇家に次ぐ歴史の古さを誇ってるのに? ミイラからしてチョンだし弥生時代からすでに大陸人まみれですやん あの着物だか着てたってミイラか?
チョンコとはそりゃまた不憫な話だな
そんなのが紛れ込んでるなら殺しても
いいな 千年以上前から日本に代々いるのだから
立派な日本人だろ 1000年前に来た朝鮮人は朝鮮人のままです
勝手に「ウリは日本人ニダ」と思い込まないでください 藤系はチョンですから
>藤井
>百済帰化族藤井宿禰の子孫
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%97%A4%E4%BA%95
藤井の分布
http://myozi.web.fc2.com/spring/chizu/000041a1.gif
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/;//-;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ 一研究者が調べたものを鵜呑みにするとはちゃんちゃらおかしいw
俺は新田氏の子孫らしい
そんな話聞いたことがないw 皇族にしろ藤原氏にしろ、もっとも日本に長くいることが証明できる人々だろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています