【勇猛】悪源太義平V【果敢】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
スレ落ちしたので立てました。
源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?)
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を
多いに語って下さい。
なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとしましょう。
さらに中世宗教史、中世通運流通貨幣経済史も可とします。 前スレの結末はどうだったの?
昨日夜、見たときは980番代だったと思うけど知ってる人が居たら教えてください。
せっかくの良スレだったので残念です。 武家源氏と切っても切れない八幡信仰の謎について
総本社宇佐八幡宮では祭神が応神天皇と神功皇后と比売神の八幡三神とされているが
元々は国造宇佐氏も氏神だったとされる。
しかし八幡神の出自について豊前国風土記や宇佐託宣集には渡来してきた神と記されている。
聖武朝の鎮護国家仏教により八幡大菩薩の神号が贈られ本地垂迹思想により阿弥陀仏が八幡神の本地仏とされたように
神仏習合の象徴のようになってしまい実像が見えなくなっていく。
本来の八幡神はいったい何だろう? >>4
八幡の神←やはたのかみ←八つ(たくさんの)波の神。つまり海の神でしょう たしか満仲の伝承にも八幡神のお告げが出てきて矢を射て落ちた場所に八幡神社を勧進したんだっけ? 八幡神が降り立った場所は九州北部の春香という所らしいね。
宇佐にはそこから遷宮されたらしい。 八幡(数多くの旗)と言えばチベット仏教を連想する。
数多くの旗を神の依り代とするチベット仏教ははるか北方のモンゴル高原から移入されたと言われている。
この風習がモンゴル高原から満州族に伝播し新羅を経由して本来の倭人(海人族)の手を経由して日本に渡来したんじゃないかな。
八幡神は鍛冶の神ともされている。
八幡信仰には製鉄鍛冶の職能集団が関わっていたことは九州北部の伝承や遺跡発掘で明らかになっている。
さらには八幡信仰の源流を辿れば中央アジアの突厥の製鉄鍛冶職能集団にまで行き着くのではないだろうか? 昔の源平合戦の映画や大河ドラマで
源氏の白旗には黒墨で笹竜胆が描かれていたんだが
義朝や頼朝が笹竜胆の紋章を使用したという史料は無いんだけどね。 >>11
それどころか奥州征伐の際、佐竹氏が無紋の白旗を引っ提げてきたら
頼朝が「お前のところの白旗が無紋なのはけしからん。
今後は自分ちの紋を旗にいれろ
と言った。
これから嫡流を主張したい頼朝は無紋で
家紋入り白旗は庶流ということにしたかったらしい。 >>11笹竜胆は村上源氏の家紋だったと思うんだが。
(自信ないので詳しい人ヨロ) >>14
信濃の村上氏じゃなかったかな。
笹竜胆=源氏というのは江戸時代に作られたイメージみたいだね。 多田の満仲流嫡流は源氏将軍三代が滅んだ後まで名字を名乗らず本姓の「源」を名乗っていたみたいだね。 >>15サンクスです。
>>16その嫡流って多田行綱ですか? 為義って博打か借金のカタで源氏重代の太刀を熊野別当に取られたんだよね。 >>19
初耳なんだけどその話。
「平家物語」かなんかにあったっけ? その都度名前を変えてるから分からないけど
満仲が特注した太刀は髭切丸・膝丸があるね。
当時の刀匠は筑前の出自と言われているね。 >>24
君の言うソースって現存する一次史料のことなのか?
もしそうであれば刀銘どころか刀匠を特定することは永遠の謎になる。
伝承から現存一次史料との照合を勘案する緻密な作業が必要であることは承知しているが。 >>26
そこまでは要求しとらんです。
伝承は伝承で楽しみたいんでね。
ただ伝承か歴史学の認証付きかの区分をしたうえで書いて欲しいと思うし
伝承は伝承のソースがあると思うんで、どの伝承(熊野とかどっかの神社とか)くらいは教えてくれると
読んでて嬉しい。 去年のドラマで、義朝が、
源家重代の太刀の名を、
『友切り』から「髭切り」に変更したとか言ってたな。
為義が熊野にとられた太刀は別の太刀だろう。 『吾妻鏡』によると
義朝愛用の太刀「吠丸」が後白河法皇に献上された
とあるね。 髯切が後代斯波高経の手に渡るまでの経緯は何となく理解できなくもないが、
それが最上家に渡った理由がわからんな。
将軍家の宝剣として寺に奉納されていたものを、新田義貞が鎌倉を攻め滅ぼしたドククサにパクり
さらにその新田を滅ぼした斯波高経の手に渡る。
その後噂を耳にした尊氏から求められても渡さなかった物をなんで庶流の最上に渡すのか。
しかも庶流と言っても最上は高経以降の斯波武衛家の流れではなく甥の系統。
普通に考えれば最上家に渡ったものは偽物だって思えるよな。
尊氏がうっとおしいから、遠い出羽の地にいる甥っ子にあげちゃいましたって言い訳作るために。 養寿寺(西尾市平坂町上矢田)蔵の吉良氏系図によれば、
兄・吉良満氏には友切丸、弟・国氏には髭切丸の両剣を
それぞれに授けたと記す。
なお、国氏・満氏兄弟はこの友切・髭切に宿る神霊を畏れ、
両剣を御剣八幡宮(西尾市西尾城趾内)に納めて崇敬したと伝える。
これはどうなるの? 頼光の太刀がどうして河内源氏に伝わったのか不思議だね。 >>32
捏造だろう。
髭切り・友切りは、同じ太刀の変名だし。
源氏の宝刀が、なんで吉良氏などに伝わるのか。 >>35
後三年の役の際に、義家が東北の刀鍛冶の名人に作らせた太刀で、
毛深い蝦夷の首を斬ったら、髭までバッサリと斬れたので、
『髭切』と名づけた・・・・。
という話だから、当然一本しかないはずだ。 伝説の方が複数あるんだろう。
でどの伝説がホンモノかわからなくなってるんじゃない? 源氏八領にしても盾無がなんで武田氏なんかに伝わったのか不思議だ。 清和源氏なんて全てが嘘で塗り固められた氏族だよ。
血統といい、系図といい、伝承といい、宝物といい 武士は公家に比べると下克上が容易だから。
成り上がりが箔を付けるために家系を捏造するのはよくある話
清和源氏は武家の頂点の一角で歴史も長いので、怪しげな系図や伝承が多くまぎれこんでるだけ >清和源氏は武家の頂点の一角で歴史も長いので、怪しげな系図や伝承が多くまぎれこんでるだけ
それが全てだろ?
阿蘇氏や諏訪氏などの社家とは月とスッポン 日本は応仁の乱以前と以後ではまるで別の国のようだ。
軍事貴族が武家であることの必須条件であり貴種であるが故に日本全国どこでも神輿に担いでくれる在地勢力がいた。
その典型が治承寿永の乱であり南北朝の動乱であった。
しかし結城合戦を嚆矢(今川軍の寄子寄親制)として応仁の乱を境に武士階級に地侍層さらに賤民までもが入り込み
本来の武家はその家臣団にそれら新興勢力を内包せざるを得なくなり、やがて下剋上を誘発することになる。
武家について言えば、内訌、乗っ取りによって貴種性、系譜は怪しいものとなる。 為朝は伊豆大島に流されたんだよね。
今回の台風26号の被害に遭われたた方、お亡くなりになった方のご冥福とお見舞いを心より申し上げます。
ところで為朝と義平は面識があったのだろうか?
伊豆と相模では地理的にも近いし当人達の年齢も近い。 >>日本は応仁の乱以前と以後ではまるで別の国のようだ
なるほど、源平貴種はおろか皇室、摂関家までも衰微した下克上の時代だからな。
ただ、国人・地侍層というのは、もともとは平安末期〜鎌倉初期に支配権を掌握した源平貴種や板東平氏、
南北朝期に支配権を掌握した足利源氏の一門に対して、零落、没落していた古代豪族、中央貴族の末裔層、
あるいは無数に枝分かれした藤原氏、源氏、平氏系の末端地方武士の「下克上」にすぎなかった面もあるのではないだろうか。
北条早雲は伊勢平氏系の室町幕府役人の系譜、斎藤道三は藤原氏系の北面武士の系譜だしな。
本格的な「下克上」というのは、やはり先進地帯の近畿や尾張で松永氏、織田氏、羽柴氏などといった本当に氏素性の定かでない
成り上がり勢力ぐらいで、大体の地方では結局、古代・中世以来の家系の間での権力移動にすぎなかった面もありそうだ。 >>46
確かに貴殿のお説のように国人・地侍層は軍事貴族及び零落した中央貴族の庶流末流が在地の古代氏族に入婿して在地勢力となったと思われる。
私が書いたように今川氏を始め戦国大名化した東海地方の下剋上が顕著であると思うが
関東においては応仁の乱以降全国に先駆けて本来の武家が壊滅してるんだよね。
西国九州においても怪しげな源氏を名乗る連中が戦国大名化していることも忘れてはならないと思う。 鎌倉の御家人は坂東八平氏の流れを組む関東の武士が多かったが、それらも結構仮冒説が多いよ。
三浦氏や、大庭・梶原・長尾等多くの庶流を生んだ鎌倉氏のような有力豪族ですらそうなんだから。 九州の豊後西部の山間部には梶原景時末裔を称する梶原姓が結構いるよ。
景時一行は駿河国で打ち取られてるのにどうやって九州まで落ち延びたのだろう?
「吾妻鏡」によれば景時は上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に立てて反乱を企てたとされてることから
九州になんらかの軍事基盤を持っていたことは確かであろうが庶流か家人が景時末裔を称したのだと思う。
同様に没落した源平諸家は化冒僭称に使われやすい。
三河松平郷に流れ着いた時宗の遊行僧は新田氏末裔を僭称したしね。 >>51
新田のそのまた分家の、得川氏末裔であるぞ(w >>51
梶原一族はそのほとんどが景時とともに滅んだけど、生き残りもいて
たとえば景茂の子・景俊は足利義氏の被官になっている
また、鎮西奉行の武藤資頼の妻は景時の娘だから、その縁を頼って九州へ渡った一族もいたのかもしれない まあ
族滅なんてそう簡単に出来るものじゃないって。 >>54
その梶原一族を打ち取った武士の一人は吉川氏の祖、吉香友兼なんだけど
藤原南家工藤氏流なんだよね。
あの承平・天慶の乱でヘタレっぷり満点の常陸介藤原維幾の末裔なんだな。
300年近く掛けてたくましくなったもんだね。 >>56
なんとも感慨深いね
承平・天慶の乱といえば、同じくヘタレっぷりを晒した源経基の末裔があんな戦闘民族になるなんてなぁ 同じく承平・天慶の乱で
将門から逃げ回ってた印象強い平貞盛も
子孫から有力武家バンバン輩出してるな 逆に
坂上田村麻呂の子孫は頭脳労働者である文官になっている。
武士って中下級貴族に筋肉馬鹿の血がどこかで注入されて誕生したような気がするね。 >>59
現代でも弱っちい男はハンサムウーマンに惹かれるからね。
その結果、豪傑が誕生したんだろうね。 >>58
鎮圧勲功者としては秀郷流が第一とされてたのに時代を経るごとに子孫はショボくなってるね。 >>62
源平・南北朝時代は存在感バリバリだっだんだけどな>秀郷流
戦国時代になると関東の秀郷流の多くは貞盛末裔の後北条相手に没落余儀なくされた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています