【勇猛】悪源太義平V【果敢】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
スレ落ちしたので立てました。
源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?)
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を
多いに語って下さい。
なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとしましょう。
さらに中世宗教史、中世通運流通貨幣経済史も可とします。 義家自体が、頼義が50歳超えた時の長男だよな。
その義家の嫡子である三男の義忠も
義家が40代の時の子ども。 >>248
長男だろうけど為義は後継者として義賢を考えていたフシがある。
だとすれば義朝は正室の子ではないということも考えられる。 >>252
>>253
義朝の母の父は、白河院の近臣の藤原忠清。権勢に繋がる
義賢の母の父は、六条の大夫の名前は忘れた
忠清の生前は、義朝が為義の嫡男だった。
しかし忠清が死んだので、為義は義朝を東国へ下向させた。
祖父の後ろ楯がなけりゃ出世の見込みがない。
嫡男が出世するかどうかは、家の繁栄に直結する。
東国下向の時点で義朝は廃嫡。10歳くらいだったらしい。
のちに義朝が、東国で在地の武士団を従え、さらに鳥羽院に取り入って、
父を出世で見返すようになるのは為義の誤算だった。 義朝ってやり手だったんだな。
為義もやり手だった。
二人とも嫡男だったわけではないのに、結果的に
源氏の正嫡として後世に認識されるまでになった。
結果、頼朝に引き継がれる。
そういう風に考えたら、義平も生き残っていたら、分からなかったな。 鎌倉悪源太が生き延びていたら…
木曽義仲を討ち、平家を討ち、鎌倉に幕府を築いてただろうね 悪源太は猪武者だから戦闘には強いが政治力はないよ。 戦いに勝てば即座に領土も簡単に手中と考えるのは、ノブヤボなどゲームで培われた考えだろう。
戦には強くても武家の頂点に立つ力がなかった義経がどんな末路を辿ったか、それすらも知らないとは…… 義平は政治力ありまくりだろう?
というか、三浦氏をはじめ、坂東武者の覚えめでたい。
頼朝は、生母が熱田神宮大宮司家で、京都の関係から、
義朝の正嫡ぽかったけど。
むしろ、経歴が為義や義朝に近いのは、義平だと思うけどな。
この当時って、嫡子のほうが京都で出世を目指して公家化するけど
庶子のほうは京都での出世を目指さず、関東で土木を従事し
大武士団を運営するってかんじ。
清和源氏全体でも、より嫡流に近い頼光の長子系は、公家になっているし、
桓武平氏のほうでも、嫡子系のほうほど、公家化している。 桓武平氏の嫡流である高棟王流は京都で中級公家だったし
武家として成長した桓武平氏高望王流のほうでも
嫡子系のほうは、どんどん公家化、平貞盛の嫡孫の平維時の嫡男の
平中方は京都の出世を目指し、そうではない弟の平直方のほうが
鎌倉で武士団を運営していた。
が、その直方の子孫たちも、殆ど在庁官人として、小規模の武士団だった。
嫡流ほど京都での出世をめざし、田舎で開発領主なんて、やりたがらない。
結局、桓武平氏の中でも一番大規模な武士団を運営していたのは
京都での出世を諦めていた末流の平良文の後胤たち。
あと、平貞盛の四男の平維衡の後胤である伊勢平氏。 直接の戦いには強いけど、源頼政をこのんで敵に回してしまってる時点で思慮は足りないよ。
関東の荒武者を統率するのと、京都を中心に日本を制圧するのではモノが違う。
というか、頼朝以前に「幕府」という概念がないのに、義平にどうやってその考えが思いつくと言うのか。
もしそこそこの政治力があっても、平将門同様に関東独立を唱えて箱根以東を支配するのがせいぜい。 頼朝にも幕府という概念
ないと思うけどね。
幕府という概念が強くなったのは、江戸幕府から。 .
河内源氏と言う称呼は、何とかならないモンかね?
義朝五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、もうほとんど河内と関係ない。
特に頼朝-頼家-実朝の三代は、河内に行った事も無いんじゃないのか?
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、むしろ 『鎌倉源氏』 と称するべきだと思う。 河内のことはともかく、その系図を「五代」とは言わん。
特に義平は家督を継いだわけでも何でもない。
義朝
├────┐
頼朝 義平
├────┐
頼家 実朝 年齢を考えるとこう書くべきだった失礼。
義朝
├────┐
頼朝 義平
├────┐
実朝 頼家 ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´J`) ∧_∧
/文室 \ 鎌倉 \ 上総 \ 三浦 ( ) パンツ脱いで待ってる
| 忠光 .| |悪源太| | 曹司 | | 胤義 / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄  ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ / .| | | 藤原信頼
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ骨は拾ってやるよ . \| ( )
| ヽ \/ ヽ. 負けたら絶交な
| |ヽ、二⌒) / .|後鳥羽| |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__. / /
藤原隆家 鎌倉幕府というか
東国での開発領主の権益の自立という概念は、平将門にあったし、
やや弱いが、その次に、それらしき概念があったのは、源義家だろう。
だから、源義平も生きのこっていたら、
鎌倉幕府的な機構を統率していただろう。 河内源氏の歴代当主はこうだろう?
源頼信
源頼義
源義家
源義忠
源義高
この系統は、河内にずっと所領があったし
また、鎌倉時代以降も姓で源を苗字としても
名乗り続けた。 >>264
>「五代」とは言わん
義朝の血統なんですけど。
>>267
和田義盛が、石橋山の合戦に負けて船で
逃げている最中に源頼朝に侍所に任じる様に頼むシーンがある。
既に頼朝が、対平家の軍事蜂起を始める段階で、
関東武士に行政機構の構想があったのだろう。 >>259
>覚えめでたい
と言うか、三浦氏は、義平の外戚ですヤン。
義平の子供の頃は、三浦氏の館に住んでたんじゃないですか? 義平が当主ならば、三浦氏が鎌倉殿の
実権を握っていたかもな。 >>269
頼朝、頼家、実朝は義平の血統ではありませんよ。
頼家−実朝は「征夷大将軍」を継いだことで2代3代という数え方をされるが、
義平は事実上当主になったことはないから義朝−義平−頼朝という継承はない。
まして義平から地盤を継いだわけでもなく官位の継承もないので、「五代」の考え方は無理があるね。 >>271
義平が将軍だったら、三浦氏や新田氏が、執権でしょうね。
三浦氏は、やらたに北条氏に楯突いていますが、そういう思いがあったのかも。
>>272
義朝の血統なんですけど。
しかも、義朝や義平の家臣が、頼朝の蜂起に参加しているんですけど。 だから頼朝は義朝の血統だが義平の血統ではない、といってる。
家臣がどうたらいうんだったら、頼朝の家臣がその後頼家に背いているから相続していないと言う考えでよろしいか。 >>273
義朝や義平の家臣で、平治の乱で源氏側の主力だった者たちの多くは石橋山で頼朝と戦っているんだが? 家臣の話をしたら、頼信−頼義−義家−義朝まで数えないとダメだし。 >>274
義朝の血統なんですけど。
>>275
だから、敵味方両方居るし、
敵側にたった武士も、その後に大部分が頼朝に帰参している。
それに三浦とか房総平氏は、当初から頼朝側でしょう。
>>276
義家は、鎌倉の源氏館を放棄している。その時点で一回切れている。
それを義朝が、再建して、相模平氏や房総平氏との主従関係を作った感じ。 >>277
こいつ日本語わからない馬鹿だな。
頼朝は義朝の血統だが義平の血統ではない、ということもわかってないのか。
それに義平が一度として家督を継いだこともないことも無視しているし。
というか自分の間違いを認めたくないあまり話をループさせてるだけだな。 あ、どうしても五代を主張するなら、義平が家督を継いでいたことを示すソース、
義平から頼朝に当主が譲渡された事実を示すソースを提示してくれ。
ま〜軍記物を読んだ程度の知識しかなさそうなお前には無理だな。 義平は、鎌倉の源氏館の主じゃなかったのか?
東国の武士団を統率して、大蔵合戦をやったのじゃないのか? 2chって、なんでいちいちケンカ腰にならないと物が言えない連中が多いんだろう? >>280
家督を継いでない
頼朝に家督を譲ってない
頼朝は義平の血統ではない
はい論破 >>282
義朝も、頼朝には家督を譲ってない。
義平には、鎌倉の源氏館と、東国武士団の統率権を譲っていた。
義朝が、家督を誰に継がせるつもりだったか不明だが、
家督は、外観的・実質的には、
義朝→義平→頼朝、の順で移動した。 .
義朝流五代は、河内とは無関係なんだ。
やはり称呼は 『鎌倉源氏』 が妥当だと思う。 >義平には、鎌倉の源氏館と、東国武士団の統率権を譲っていた。
大蔵合戦に動員した兵力もこれだろう。 280
ただの鎌倉を拠点にした源氏の一人だけみたいって感じだがな
鎌倉平氏の鎌倉氏に女婿に入ったからそういう目で見られるが
棟梁だのは頼朝のときにできたんだろ
江戸時代の影響がでかい そもそも、源義朝も
河内源氏の棟梁ではなかった。
有力な一人だというぐらい。 つか関東の源氏の下についたのほとんど平氏のやつらだし
源氏同士はむしろ敵対しあい殺しあってる
義平殺したの叔父の義賢側だし義国と義光なんてはっきり
敵同士だし つか平氏関係の方が根付いたの先だろうがイマイチ起源が分からん 伊勢平氏っていうか、平正盛の後胤である六波羅流は、
武家平氏の中でも例外中の例外の勢力。
伊勢平氏は、武家平氏の中でも庶流だし、
その伊勢平氏の中でも庶流なのが、六波羅流。
武家平氏の大半が、河内源氏の傘下にあって
六波羅流も、最初のうちは、河内源氏の傘下にあった。
平正盛は娘を、河内源氏の嫡男の源義忠に嫁がせていたし
平忠盛の忠の字は、源義忠から貰ったもの。 >>287
義朝は、幼少期に房総に来ており、
上総曹司と言われていた位で、もうほとんど河内とは関係無い。
そもそも義朝流五代は、河内とは無関係なんだ。
やはり称呼は 『鎌倉源氏』 が妥当だと思う。 源為義も河内の所領なかっただろう?
河内の所領があったのは、源義家の三男で嫡男だった源義忠の後胤たちで
この系統は、源義忠の次男の源義高が継承したが
鎌倉時代でも、苗字を名乗らず姓の源を名乗り続けた。
よって、源頼信を初代とする河内源氏は、この系統が嫡流だとみたほうが良い。 源為義は、河内源氏でも在京源氏でも何でも良いよ。
為義は、関東にも鎌倉にも関係無いし。
でも、義朝流五代は、『鎌倉源氏』 だと思う。 源氏っていっても義朝派、義重派、義賢派、あと甲斐の義光派に分かれてるからな 為義よりも、
庶兄の義信(義親の長男)や、従兄弟の義高(義忠の次男)のほうが
官位は上だっただろう? つか官位で計るんだったら武家にならなかった公家で居続けたその他の源氏の方が上だわ 清和源氏も桓武平氏も本来の嫡流は
都での出世を目指したために武士団としては大成せずに
中級公家として存続していた。 >>300
源義忠の次男で嫡流を継承した源義高の子孫は
数代つづいたらしい。
河内守になっているので、河内源氏嫡流はこの系統だろうね。
清和源氏義忠流
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01016.htm 301
大和源氏に河内源氏として初期に畿内方面に定着してる
まあ東国の方は頼信以降の系統がほとんど
あとは平姓諸氏と藤姓諸氏、この辺は荘園関係だろう 義忠の次男・義高が河内の領地を相続したのは平家の後ろ楯があったのだろうな。
義忠の暗殺後、為義に屋敷を追い出された子供たちは、
長男は藤原経実に、次男以下は平忠盛に引き取られて養育される。
長男は経実の娘と結婚し、元服後の名は源経義
23・4歳のとき、園城寺において、父の仇・義光を殺害。
義光と対立関係だった下野の義国のもとへ逃げ、名を河内経国と変える。
源義朝が南関東で勢力を伸ばしてきたとき、義国との紛争を調停、
その後、義朝に臣従するが、
平治のとき挙兵を反対したが、義朝が聞かなかったため義絶して隠棲する。
なかなか面白い人生。 だから平家ってなんだらほい?
坂東平氏と伊勢の平家は別って説があるんだってな
藤原といえば足利荘は元は藤姓足利氏の所領やね >>305
元々は同じだけど、分岐が早い段階だろう?系図でみたら分かる。
初代の高望の子供の代で伊勢平氏と坂東八平氏は分かれていて、
しかも、その代から抗争を繰り返している。
伊勢平氏や北条氏は、高望の長男の正室の子供である国香の子孫、
坂東平氏は、高望の五男で側室の子供である良文の子孫。
その時代から、武家平氏は一族で抗争を繰り返していて
中でも、高望の長男の国香と次男の良兼と、高望の三男の良将の間は険悪だった。
三男の良将はやり手だったみたいで、
同母兄でもあった国香や良兼を官位で追い抜いたりしていて
両者は対立関係にあった。
この抗争は、国香の嫡男の貞盛と、良将の嫡男の将門との
抗争へと受け継がれる。
坂東八平氏の初代の良文の嫡男は忠頼は、将門の娘を嫁にもらっていたと思われ
良文の子孫は、将門の意思を受ついだ一族ともいえる。 常陸の大掾氏が坂東八平氏からハブられてるのは
国香の子孫だからか。 北条氏はほぼ平直方系で間違いないよ。
平貞盛系は、常陸の大掾氏は別として
北条氏にしても伊勢平氏にしても、京都での活躍を重きを置いていた氏族が多くて
系図も確かだよ。
疑わしいのは、秩父氏ら平良文系の平将常の後胤。
平将常の生年月日とか活躍年代に相当無理があるから。
平将門の部下だった多治経明の後胤では?という説もある。
確かに平良文系を名乗る坂東平氏には疑わしいのが多い。
平忠常の後胤である千葉氏などは、おそらく正しいと思うけど。 坂東八平氏は主に秩父氏、上総氏、千葉氏や、
これらの諸氏から派生した氏族などが入るが、
数え方はその時々の各氏族の勢力により様々である。
良文を祖とする坂東八平氏の中でも、
秩父氏をはじめとする忠頼の子将恒を祖とする氏族は秩父平氏と呼ばれ、
忠常を祖とする上総氏や千葉氏の流れは房総平氏と呼ばれる。
なお、『尊卑分脈』は三浦氏・鎌倉氏・長尾氏・大庭氏・梶原氏等の祖を、
良文ではなく良茂の子良正としている。
良文の兄とされる国香や良兼を祖とする本来の桓武平氏の一族は、
親王任国制度の下で、親王の代わりに実務を取り仕切る、
親王の血族・下級貴族として土着した。
特に北条氏・大掾氏・伊佐氏・鹿島氏(広義的には城氏・関氏・伊勢氏も含む)などは
有力在庁官人であり、同時に軍事貴族でもあった。
そのため、良文を祖とする坂東八平氏などの一般の武士団とは別格であった。 .
河内源氏と言う称呼は、何とかならないモンかね?
義朝五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、もうほとんど河内と関係ない。
特に頼朝-頼家-実朝の三代は、河内に行った事も無いんじゃないのか?
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、むしろ 『鎌倉源氏』 と称するべきだと思う。 >>283
義朝と義平時代の鎌倉の源氏館には、
侍所みたいな機能は、既にあったのかね? 時は平治、花の都は平安城、我等は平氏也!
平の字が三つ揃って我等が勝利、誰が疑わん事有るべきか!
いざ、参る! 暫で有名な鎌倉権五郎の家は、源氏に追い出されたの? 北条氏が後半、安達氏を重視したのは
安達氏の家系が中途半端だったから。 ウィキペディア編集者ジャムリンによる自演が酷すぎる件
以下が問題の爆笑自演投稿
日本史板住人がWikipediaを弄るスレ PART20
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1372047431/l50
569 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:39:28.23
ジャムリンって何者なんだ?
そんな悪い奴なのか?
570 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:54:41.47
>>569
ジャムリンは偉大な天才歴史学者です。
イケメンで長身、髪はフサフサの美形青年です。
フェラーリ・ベンツに乗って美女に大人気、誰もが羨む男の鏡、神の化身のような大英雄です。 河内源氏は畿内と関東と中部と東北と複数に拠点を持っていた。 直方は誰から鎌倉をもらったんだ?
鎌倉氏?
丸子氏? やはりどうやった平直方が鎌倉を手に入れたのかは分からないままか。 桓武平氏の総領として
同族の鎮圧をさせられていた平直方。 直方も鎌倉氏と同様に丸子公景らの一族の子孫かも
"景"の字は受け継いではないが。 為義、義朝は子沢山なのに頼朝だけ子供が少なくないか? >>329
頼朝の子(男子のみ)
島津忠久、結城朝光、(夭折)、l大友能直、千鶴丸、頼家、貞暁、実朝
決して少なくないけどね。 なお、結城朝光は実朝の死後、後継の将軍候補にも上がっている。
朝光が拒否したので、仕方なく九条家から将軍を迎えた。 >>330
千鶴丸以降は知ってるが、それ以前のはいつ作ったんだろうか? 島津忠久、結城朝光、(夭折)、l大友能直は実子じゃないだろ。
みな有力御家人で、よりと元のつながりの深さを誇示するために
そう主張していただけ。 家康も源氏の末裔を自称してるけどわざわざ頼朝の子ってことにしなくてもいいのに 武士成立論において
中世の定義は「イエ」の制度の確立以外に暴力(武力)の中央から地方への拡散は看過すべきではない。
「京武者」や「検非違使」「預所」は分かり易いが、「台記」にもある「厩舎人」とは?
答えは当然、「武者」のことである。 >>330-333
ご落胤を主張するとっかかりだけはある>島津と結城
島津忠久 母が頼朝の乳母子丹後内侍 しかし、生まれたのは1160年代以前(島津伝承は1179年)。1170年代半ばには官職つきで記録に名前が載っている。
管理していた島津荘は近衛の荘園で父と推定されている惟宗氏が島津家人であるため父は惟宗一族というのが正しいと言える。
結城朝光 母は頼朝乳母寒川尼。ただし、生誕時(1167年)頼朝は流刑中なので寒川尼が頼朝に接触するのは難しかったと思われる。
丹後内侍、寒川尼とも頼朝の乳母やその一族なので、頼朝と性的接触があった可能性はある。(当時初体験の相手が乳母だったこともあったらしいので)
だが上記の通り落胤の可能性は低く、例え落胤だったとしても公的な父はそれぞれ惟宗氏、小山政光である事実は消せないので島津忠久も結城朝光が頼朝の子の権利を主張することはできない。 >>239>>287
義朝が、房総半島に送られたのは、まだ赤子の頃と言われており、
もはやこの段階で、義朝流は、河内源氏から枝分かれして『鎌倉源氏』
になったとみなして良いと思う。 .
確かに、義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、
河内源氏よりも、むしろ 『鎌倉源氏』 と称するべきだね! >>116
ゴメン、円珍より前から
佐伯氏(空海も)には秦氏や新羅との関係深い わざわざ頼朝の子孫を名乗る武家がこんなにいるって
鎌倉殿の権威は相当なもんだな 永井晋の 鎌倉源氏三代記 を読んでいるが、
河内源氏から 鎌倉源氏 を独立させたのが良いとしても、
三代に限定するのがどうかと思う。
義朝からなら5代だし、頼義と義家を入れれば7代だし、
三代(頼朝-頼家-実朝)だけとは、少し限定のし過ぎだと思う。 大河ドラマでブサイクで品のない奴が演じえてて萎えた。イメージとしては山田涼介なんだが。まあムリだよな予算的に >>346
あの大河では朝長演じた人の方が粗野で萎えたな。
波岡一喜はブサイクとは思わないし、義平のイメージからそんなに外れた感じでもなかった気がする。
ちょっと田舎のヤンキーに見えるとこもあったけどw >>347
義平は、
平治の乱のとき、傍観していた頼政を裏切り者と攻める(わざわざ敵に廻す)。
父義朝の死を聞くと、単身、京に戻って清盛暗殺をたくらむ。
(東国へ帰れば勢力を挽回できた可能性があるのに)
このような行動を見ると、ヤンキーとして描かれても仕方がない。 >>348
>父義朝の死を聞くと、単身、京に戻って清盛暗殺をたくらむ。
義朝死んでたら、庶子の義平だけが東国帰っても再起は無理だろう。平家に寝返った坂東武者に捕まって殺されるだけ。
元々義朝と別れて飛騨で再起計ってそこそこ兵集めたけど、義朝の死が伝わった途端皆逃げ散ったというし、
清盛暗殺も再起が絶望的になったからこその行動だろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています