【勇猛】悪源太義平V【果敢】
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スレ落ちしたので立てました。
源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?)
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を
多いに語って下さい。
なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとしましょう。
さらに中世宗教史、中世通運流通貨幣経済史も可とします。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>351>>363
もしそうなったとして、問題はそれが新たな源氏の内紛の種になるのではないかという事。
義平が生き延びて東国において彼が再起した場合、伊豆の頼朝との関係はどうなるのか。
いくら頼朝が嫡子でも、長兄である彼が大人しく頼朝に従うとは思えんしな。
かつて父義朝が弟の義賢と関東での勢力争いをしたのと同じ構図になるだけという事も有り得る。
それに義仲もいる。
義仲にとって義平は紛れもない「父義賢の仇」だけに、もし義平が生きていれば
義仲は平家などそっちのけでひたすら義平のみに矛先を向ける可能性は大きい。
範頼や義経も、義平が生きていたら頼朝よりも「同じ庶子の兄」である義平の方に親しみを感じたかもしれない。
あるいは史実にある「頼朝→←義仲」のような単純な構図ではなく源氏が三分裂していた?
そうやって源氏が争っているのを横目に平家は悠々と栄華を貪り続けると。 庶兄が嫡流弟に従ったケースというと、この時代にも奥州藤原氏の国衡というのがあるけどな。 それだけ為義系が割れていたら
上野国の源義重が黙ってないでしょう?
南関東は源義朝、北関東は源義重が勢力を持っていたわけだから。
とくに、義重は他の源氏一族との間で婚姻関係をもっていたわけだし。 そういや義重の娘が義平と婚約していたという話を何かで見た。
その後その娘は頼朝からも求婚されるんだけど。 >>366
内紛以前に義平も頼朝も義仲も何もできなかったと思う。
頼朝の挙兵が成功したのは、平氏政権の様々な矛盾が起きて、非親平氏豪族の地位や領地が脅かされたせい。
自分の権益に結び付かない限り東国武士が朝や義平を担ぐことはないから、平治直後義平も頼朝もなんにもできない。
匿うくらいならしたかもしれないけど。 >>366
治承の頃の話だと三分裂どころではない。
東国に限れば
反平氏で挙兵
頼朝(南関東)、義仲(信濃・西上野→越後)、甲斐源氏(甲斐、信濃の一部、駿河、遠江、伊豆の一部)
この三者で三すくみ
親平氏
城(越後・会津)
佐竹(常陸)
新田(上野)→途中で静観やがて頼朝に付く
藤姓足利(上野、下野)
城、藤姓足利は非源氏
静観
志田(常陸)1183年 野木宮合戦で頼朝と対立
というように複雑な勢力争いがある。
また、東国以外でも尾張源氏、美濃源氏、近江源氏などが挙兵している。
源氏は頼朝、義仲にのみ二分されていたわけではない。 >>369
婚約ではなく正式な婚姻だったと思われる。
吾妻鏡には義平後室ときちんと記載されている。
婚約という説がでたのは
新田義重生年1135年説によるものと思われる。
義重が1135年生まれだとしたらその娘はどんなに早くても平治の頃は十歳未満の子供。
だから婚約だったとされる。
しかし現在では1119年生まれ説の方が有力。
孫の年齢からみてもこちらの方が自然。
1119年生まれならば
義平と結婚させる年頃の娘がいてもおかしくないし、
周辺豪族との対抗の為に義平と婚姻関係を結ぶのに
大蔵合戦頃に結婚成立させるというのも考えられる。 >>368
北関東も複雑で
新田、秩父一族、藤姓足利と悶着抱えてたんだよね。
この中で新田が抜きん出いたわけではない。
あと一応、北関東の中には常陸も入るし(常陸には佐竹や常陸平氏がいる)、信濃や甲斐とも無縁ではいられない。 義平が関東で生きれいれば、
頼朝が伊豆に流されることはない。おそらく佐渡島あたりへ。
源氏の主導権争いを予想してあえて近くに置くということも考えうるが、
普通は、兄弟力を合わせて平家への謀反を企むのでないかと警戒する。 >>374
兄弟を引き離すというのはアリだと思う。
実際頼朝と希義は正反対の方角(伊豆と土佐)になったから。
ただし、「平家への謀反」というのは違う。
平治の乱は源氏対平家との戦いではなく、
信西を倒した勢力の内部分裂によって反信頼になった経宗惟方らが元々中立だった清盛を仲間に引き入れて
その結果に清盛と信頼から離れなかった義朝が戦闘を交えるようになっただけのもの。
義朝の子供たちに対する処置も平家への敵対者としての処置ではなく
朝廷に対する謀反への処罰だから。(警察力行使のみは清盛の担当だけど) >>366
新田は、義平に味方するだろう。
>>368にある様に娘が義平と結婚しているから。
>>373
ただ新田と藤姓足利の抗争は、なかなか決着がつかなくて、
その結果、足利俊綱忠綱親子は、平清盛に接近している。
そういう意味では、新田の勢力は、藤姓足利が
簡単にやっつける事が出来るのものでもなかった。
>>375
>朝廷に対する謀反への処罰だから。(警察力行使のみは清盛の担当だけど)
新田、三浦、上総、千葉、あたりの大武士団が義平をかばうとなると
国衙も手を出しにくいのでは? しかも新田、三浦、上総、千葉などは、
国衙に何らかの職を得ている可能性があるから、官兵としての武氏団が
捜索や逮捕に出動するのは、難しくなる事もあるのでは? >>376
> >>366
> 新田は、義平に味方するだろう。
> >>368にある様に娘が義平と結婚しているから。
>
平治直後に義平に味方するメリットは新田にあるか?婚姻は完全なる味方を意味するものではない。
義朝と鎌田正清を殺害した長田も鎌田の舅
あと、新田は新田荘が領家を清盛縁戚の花山院という関係で治承の頃は平家寄りになってたよ。 >>376
> >>373
> ただ新田と藤姓足利の抗争は、なかなか決着がつかなくて、
> その結果、足利俊綱忠綱親子は、平清盛に接近している。
>
> そういう意味では、新田の勢力は、藤姓足利が
> 簡単にやっつける事が出来るのものでもなかった。
だが新田も足利親子に対抗するように平家に接近していた。
藤姓足利が単独で新田と対抗できなかったのと同様に新田も単独では藤姓足利に対抗できなかった。 > >>375
> >朝廷に対する謀反への処罰だから。(警察力行使のみは清盛の担当だけど)
>
> 新田、三浦、上総、千葉、あたりの大武士団が義平をかばうとなると
> 国衙も手を出しにくいのでは? しかも新田、三浦、上総、千葉などは、
> 国衙に何らかの職を得ている可能性があるから、官兵としての武氏団が
> 捜索や逮捕に出動するのは、難しくなる事もあるのでは?
まずもって、>>375で言いたかったことは頼朝らの処罰は平家による私刑ではなく、国家による処罰であるということ。
その上で再反乱を防ぐという意味でもし義平が生きていたら伊豆は避けられたかもしれないということ。
で、義平が匿われる可能性は十分にあると思う。
でも長期間となると疑問。
まず、平治の直後千葉氏は「義朝の郎等だったから」という理由で所領争いで敗訴し、それ以降下総の実権を清盛姻戚の千田氏に奪われ続けている。(これが後に頼朝に味方する要因の一つ)
三浦、上総あたりはなんとか切り抜けたが、義朝亡きあとしばらくは生き残りに苦慮した可能性がある。
ちなみに、頼朝以前に地方で反乱を起こしても成功した前歴がなかったことも付け加えておく。 >平治直後に義平に味方するメリットは新田にあるか?
新田には限らないが、関東武氏団として、
朝廷や六波羅平氏以外の選択肢が確保できるというメリットがある。
>でも長期間となると疑問。
奥州藤原氏のところにでも逃げ込んで、
しばらくホトボリが冷めるまで匿ってもらうしかなさそうだ。
>頼朝以前に地方で反乱を起こしても成功した前歴がなかったことも付け加えておく。
王朝国家が揺らぎ始めているし、畿内で清盛政権が出来たのも事実。
武氏の力が、次第にの朝廷のパワーを押しのけ始めている。 >>380
残念ながら当時の東国と都の関係は根強い。
東国武士は都に上って官位を得たり、
荘園関係で都の荘園領主の比護を仰いだり
国衙においては知行国主と協力に結びついたりしている。
義朝が東国で威勢を張ることができた背景には
彼の持つ摂関家や鳥羽法皇との人脈が不可欠だった。
また、東国武士の所領を都の貴族の荘園にする斡旋をすることによって
主従関係を深めていっていた部分もある。
決して源氏の血脈で従えていたわけではない。
義平も父がもつ人脈なしには坂東武士を従えることはできなかった。
(大蔵合戦には武蔵国知行国主信頼の黙認があったものとみられている)
よって平治の乱によって謀反人となり、人脈を失った義平は
東国武士にとっては無価値の存在となっている。
よって
>新田には限らないが、関東武氏団として、
朝廷や六波羅平氏以外の選択肢が確保できるというメリットがある。
という見方は成り立たない。 >>382
>
王朝国家が揺らぎ始めているし、畿内で清盛政権が出来たのも事実。
清盛が武士として力を伸ばすことができたのは、朝廷内における地位を高めたことと
朝廷が整備した「動員令」に乗っかることができたからである。
平氏の軍事動員は、私的な郎党の動員よりも
朝廷が国衙に登録されている「武士」を動員する権限を得たものの方が大きい。
つまり、朝廷の組織なしには力を使うことができなかったのが平氏政権である。
東国武士団も、国衙となんらかの関係を持たざるを得ない以上
平氏政権に組み込まれていく。
つまり朝廷の組織なしに平氏政権はあり得なかったことを考えていただきたい。
それと狭義の意味の「平氏政権」が起きたのは治承寿永の乱(源平合戦)勃発の前年の治承三年の政変を待たなければならないのをお忘れなく。
それまでは清盛が二条親政派や後白河上皇やその側近、寺社勢力などと
の間をうまくわたりながら、協調政治を行っていた事実を忘れてはならない。
>>382でも述べたように東国武士と朝廷の関係は意外に深く
王朝国家は決して当時も揺らいでなどいない。 ちなみに頼朝が成功できた要因は
治承三年の政変により
東国において親平氏豪族の力が増して非親平氏勢力への圧迫が強まったこと
平氏主導の知行国主の交代によって全国で国衙権力をめぐる争いが激化したこと
後白河方法幽閉という平氏を攻撃する口実ができたこと
当時力を有していた寺社が反平氏に回ったこと
などによる社会的要因があったこと、
義仲、甲斐源氏、北陸勢力、鎮西勢力、畿内、尾張美濃源氏など
全国各地で同時に反平氏の勢力が同時に挙兵して
平氏が各地で戦闘をせざると得なくなり
頼朝軍だけに対してだけ力を割くことができない状況になっていたこと
という今までの反乱と違う様相があったことを見なければならない。
また頼朝には都との人脈や、彼自身が過去有していた官位、
そして頼朝がもつ類まれなき政治力と強運
という特殊事情を有することを忘れてはならない。
都との人脈がなく、治承の頃のような特殊社会状況がない平治直後の
義平が単独で担がれたりしてもとうてい勝利を得られる状況にはない。 >義平を担ぐ
とまでは言ってない。
どこまで庇ってもらえるか?と言う話。
だから
>奥州藤原氏のところにでも逃げ込んで、
>しばらくホトボリが冷めるまで匿ってもらうしかなさそうだ。
と書いた。 >>385
匿まうという意味ならそれはありかもね。
ただ>>380で
> 新田には限らないが、関東武氏団として、
> 朝廷や六波羅平氏以外の選択肢が確保できるというメリットがある。
と書かれていたから「担ぐ」と解釈してしまった。 ×類まれなき
○類まれな(る)
○類なき
○比類なき でも飛騨は義仲のいる木曾にほど近いからな。
そんな所に身を潜めていたらいたで、簡単に発見されて「おのれ、父の仇ーっ!」で一溜りも無いのではw >>389
そのころの義仲は、まだ幼児だから、片手でやっつけれるだろうwww まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>383
鹿ケ谷の陰謀につづく治承三年のクーデターで、後白河院政は停止。
しまいには強引に福原に遷都までしてしまう。
(これで中央権門から総スカンを喰らった面もあるけど)
政権についた平氏にやりたい放題に浸食されて、朝廷なんてガタガタですヤン。 >>394
その平氏は朝廷の中に食い込むことによって権力を得ていた。
朝廷がなかったら平氏は権力を握れなかったんだよね。
しかも平氏は政権運営のノウハウをもっていなかったから
婚姻等で「親平氏公卿」に政権運営をお願いしていたというのが実情。
(治承三年の政変以降もね)
その親平氏公卿だって平氏都落ちの時はさっさと平氏を見限っていた。
まあ、白河院政期や鳥羽院政期に比べると政権運営がガタガタなのは認めるけど
(院も摂関家も絶対的政権運営力を持つことができなかったから)
成り上がりの平氏が入り込もうとしても入り込みきれなかった頑なさがあるのは事実。 平安時代になると、
律令制が、弛緩して、分権的な王朝国家になっている。
桓武天皇が、常備軍を廃止して、地方民兵(兵:つわもの、後の武士団)に
軍事を全面的にアウトソーシングしているのだから、当然そうなる。
この時点で、律令制はグラついているのだから、
朝廷のパワーも昔ほどではない。事実、平将門や藤原純友、
前九年の役や後三年の役など、地方での反乱も散発し始めている。
そしてそれを鎮圧したのも、常備軍ではなくて地方民兵(武士団)。 >>396
>律令制が、弛緩して、分権的な王朝国家になっている。
元々この国が強権的な中央集権国家であった時期の方が短い。
鎌倉室町期も分権的だし、江戸時代は将軍の権力が大きかったが原則的には
藩連邦国家という状態。
大化の改新以降の奈良期までの一時期と明治以降中央集権になったくらい。
軍備のアウトソーシングだけ問題にしているが、
この頃地方の政治のありかたもかなりアウトソーシングしていた。
国ー郡ー里という支配制度が崩壊して
国司は在地の有力農民を通して年貢の取り立てや行政を行うというようになり
納税や、行政もアウトソーシングされていた。
ではアウトソーシングが国家の弱体化を示すものであるかといえばそうではない。
飢饉の時期などを除き、きちんと年貢は都に運上されていた。
既定の年貢を納められない国司、国で問題を起こした国司は解任または次期役職の着任拒否になっていた。
つまり、年貢はきちんとおさめられ、当時なりの国務はきちんと行われていたのである。
アウトソーシングされていても、王朝国家は機能していた。
また、荘園制が問題視されているが、
実は鳥羽院政期以前の荘園は規模も数も小さく国家財政を脅かすほどの規模はなかった。
鎌倉時代に入っても、国衙:荘園の比率は7:3だった、 >>397
>朝廷のパワーも昔ほどではない。事実、平将門や藤原純友、
前九年の役や後三年の役など、地方での反乱も散発し始めている
一応これらの乱を時系列に並べてみよう
桓武天皇以降
810 薬子の変
あ 中120年
936-941 承平天慶の乱
い 中80年
1019 平忠常の乱
う 中30年
1051-1062 前九年の役
1083-1087 後三年の役
え 中20年
1108 源義親の反乱
え 中50年
1156 保元の乱 参考 飛鳥奈良
645年 乙巳の変
か 中30年
672年 壬申の乱
き 中70年
740年 藤原広嗣の乱
く 中24年
764年 藤原仲麻呂の乱
律令政治を導入して、中央集権を行い、常備軍があったなら飛鳥奈良時代と
常備軍の無かった平安時代と戦乱が起きる頻度はさほど違わない。
(もちろんすぐ鎮圧されたのも含めると微妙に違うだろうが)
武士の時代になった鎌倉室町期はそれこそ戦乱の連続で上記以上の頻度で戦乱が起きている。
あ の期間を超える大規模戦乱の無い時代は
島原の乱〜戊辰戦争 の230年くらいしかない。
しかも、この期間の無戦乱は世界史の奇跡を呼ばれるものでめったにあるものでもない。 >>398訂正
桓武天皇以降
810 薬子の変
あ 中120年
936-941 承平天慶の乱
い 中80年
1028-1030 平忠常の乱
う 中20年
1051-1062 前九年の役
1083-1087 後三年の役
え 中20年
1108 源義親の反乱
え 中50年
1156 保元の乱 一つ気を付けてほしいのが
上記の平安時代の合戦で鎮圧に成功できたのは「地方武士団の協力を得られた」
という点が大きいこと。
では、なぜ地方武士団の協力が得られたのか?
弱体化しまくった王朝のはずならば協力が得られないはずである。
前九年の役でさえ、頼義軍の勝利の最大の要因は地元豪族の清原氏の協力を得られたことによるものである。
頼義の私的な郎党の数は実は非常に少ない。
ではなにゆえに頼義が清原氏の協力をとりつけることができえたのか?
清原氏の利害という問題が最大の要因であろうが
頼義が陸奥守であり、都に強い人脈を持つ人物だったという面を見逃すことができないはずである。 また、上記の表に書いてはいないが
平安中期の1019年に「刀伊の入寇」という事件が起きている。
これは大陸の民族が九州近辺に攻め寄せた事件であるが、
この攻撃を藤原道長甥の太宰権師藤原隆家指揮の元
地元豪族の協力を得て撃退させることに成功している。
もし王朝国家に何の力もなかったら、豪族たちは太宰権師の指揮に従うであろうか?
武力がアウトソーシングされたからといって無力化されたのではなく
アウトソーシングされた武士団を縛り付ける何かが王朝国家にあったとみるべきではないのか? アウトソーシングといえば江戸時代もかなりのアウトソーシング時代だったよな。
庄屋や名主という人にかなりの権限を与えて
年貢の納入に責任を持たせたり、その地域の住民の面倒を見させていたからね。
役人は必要以上に地域に介入しない。
都市部では大家と店子というように、借家の大家や町の有力者にその住民の管理の権限を与えていた。
戸籍管理は寺社任せ。
アウトソーシングにより
少数の役人で多くの民間人を効率よく支配できるようにできていて
しかも200年の超安定政権を保っていた。
アウトソーシングも使いようということかな。
スレからずれてスマソ。 アウトソーシングを引き受ける人材というか階層が
存在したことが大きいのではないだろうか? しかし桓武天皇は、金がないから平安京の建設の一時ストップと
常備軍の廃止を決定しているのだから、やはり朝廷は、弱体化しているのでは? >>405
予算不足はいつの時代にも起こるもの。
安定政権の時代の江戸期もいつも予算不足。
戦争も遷都も恐ろしい大金がかかるもの。
しかも桓武天皇は二回も遷都している。
戦争と遷都両方やって予算不足にならない方がおかしい。
むしろ、戦争の方は挫折したとはいえ、戦争と二回の遷都をさせうる力があったことの方を評価すべきでは? あと常備軍の廃止といっても朝廷が兵隊に給料払っていたわけではない。
兵隊にでること自体が納税だから。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 鎌倉殿って源義朝が元祖らしいね
学者の間では義朝嫡流が名字を「鎌倉」と称していたとする見解がある 鎌倉は相模公の居所だったので源氏の本拠地となった。 今日は旧暦12月26日
かつての内裏も今は古びた(明治末〜昭和)の住宅密集地
発掘で保元内裏の紫宸殿の白砂が出てきたと聞いたことがある 鎌倉源氏の初代は源義朝。
鎌倉源氏は、河内源氏の庶流。
河内源氏の嫡流は、源義忠の次男の源義高の後胤と受け継がれていた。 保元年間の3年間に美濃、飛騨、越前に魏平の痕跡があるね
本拠地の鎌倉を離れていた時期が有ったのかな?
それとも鎌倉と京を頻繁に往来して東山道中に拠点を新設しょうとしてたのか? もし平治の乱が起こらずに1170年を迎えていたら
義平は30歳になっていて武将として心身みなぎる絶頂期だろう
相模、南武蔵の本拠地に加えて新田の婿として北関東にも勢力圏を広げ、秩父氏、畠山氏を傘下に収めて
事実上、鎌倉殿になっていたかもしれない
また、保元年間に東山道中に残る義平の活動の足跡は京都の動静にも気を配っていたことを示すものであり
当時の最大軍事貴族である平清盛を牽制する役割も義朝から与えられていたに違いない 頼朝は京都志向で
義平は三浦氏の支援の下、鎌倉殿として関東にいたかもな。 義平は義朝が17歳のときに作った子供なので可愛いわが子というより忠実な自分の子分として扱っていたのかもな 暴走族(房総族?)上がりとび職の若親分義朝のヤンキーDQN息子義平 頼朝のことだから幕府誕生の時に義平がいたら結局粛清しそう 頼朝は義兄弟の一条能保や幼の馴染の吉田経房と仲が良かったからたとえ義平に武力で敗れたとしても院庁別当ぐらいに収まっていそう 最近の研究によると頼朝は少年時代から院近臣のエリートコースに乗っていた
受領叙任は確定していて平治の乱が無ければ従三位蔵人頭新院別当までは昇進出来た >>424
まだ30歳のセレブ若熟女上西門院に仕える少年経房と頼朝
なんかAVに出て来そうな設定だな
その頃、坂東では兄義平は田舎のヤンキーであった 平治の乱が起こらなくても
藤原多子再入内、中宮姝子出家で朝長失業の危機か? >>423
一条能保や吉田経房は関東で幕府を開いた頼朝との縁を買われて
朝廷でも出世したというのがあるからどうかな
院庁別当はさすがに都でも大臣家クラスが任じられるので
頼朝では無理だと思う だけど、なんで頼朝は曲がりなりにもエリートコースに潜り込めたんだろう?
由良の実家だって受領クラスの熱田神宮大宮司家じゃないか
もしかしたら後白河のお稚児さんやってたりしてw >>428
由良の兄弟で嫡男だった範忠が従五位上内匠頭だから
都で出世というよりも熱田大宮司としての収入でやってる感じだろう
由良の姉妹が上西門院女房と待賢門院女房になっていて
その縁で頼朝も上西門院蔵人などになっていたが
女院は生涯未婚で一代限りだからその縁でどこへもぐりこめたかは微妙 >>423 壇の浦夜枕合戦記なんてcoverしてやらんかな。 悪源太って「平治の乱」の時に六条河原で我が先祖の一族である源頼政のおっちゃんを襲撃したアホだろ?
よくも源三位頼政を襲ったよなぁ・・・アホだw 昔の東海道は相模国三浦半島から走水海(浦賀水道)を渡って上総国を通るルートだったんだな
おそらく少年時代の源義朝は浦賀水道を行き来してたんじゃないかな >>431
吉川栄治だっけ? 小説内でそこんとこ露骨に叩いていたね。 >>432
え? てことは、東海道の終点は江戸ではなかったの? >>431 源三位は遠い親戚だが、木曽義仲の親父義賢は叔父だった。
>>436 三番目は義経? >>436
大庭を射損ねた為朝より義平の方が騎兵としては上。
最強は足利忠綱、次いで熊谷直実、畠山重忠のどちらか。
>>437
義経は腕力が弱すぎる。 >>1
>なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとし・・・・・・・・・・・・・・・・
武士起源論??成立論??
前スレは、こちらの方では?
【つはもの】武士の起源と成立について【もののふ】
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