【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その3 [転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった北条氏。
北条氏の出自、幕府内での各門流の動向、幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向、御内人・被官について語るスレッドです。
また北条氏とその他有力御家人との関係についてもご自由にどうぞ。
※前スレ
【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1402780639/ >>183
それも確実性が全くない話。
少なくとも尊卑分脈はそう書いていない。
楠木正成以前は、あまりに系図ごとに現れる人名がまちまちなので、
楠木氏が歴史に舞台に上がってから、その子孫と称する各家ごとに、
適当にでっち上げられたと考えるのが穏当。 むしろ一級資料などをみるとたとえば二条道平の日記に、楠と戦う幕府軍を
「くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん」
と皮肉った狂歌からもわかるとおり、
楠木氏は、東国出身の御家人もしくは得宗被官の可能性が指摘されている。
吾妻鏡にも楠木兵衛という東国出身の武士がいたことが書かれている。
これに対し、熊野系というのは、明治時代の偽作系図によるものもあり、信ずるに足りない。 >>181
時政以前の北条氏が「受領階級」であるということを証明する一次史料をだせよ 結論から言うと、後世の系図をいくらいじくりまわしても、歴史の真実に到達することはないってこと。
歴史の真実は、同時代史料、一次史料、あるいはそれらを直接使ったと思われる良質な資料によらなければ、
史実を明らかにすることはできない。
系図というのは、自己の家系を飾るために、積極的に創作されるものであるから、
「系図に名家、京侍の子孫とかいているから、そうに違いない」と考えるのは
バカ以外の何者でもない。 >>181
> 北条家は受領階級だろう?
> 時政は無位無官だけど、叔父さんや従兄弟は違うしな。
その叔父さんや従兄弟は親王任国以外の「守」で五位の位階をもっていた?
そうでなきゃ「受領」階級とは言えないよ。
ちなみに頼朝期の「受領」は門葉か準門葉しかいないし、
受領(つまり「○○守」)は幕府の行事では特別席に通されて、一般御家人とは明確に待遇が変えられてる。
(「吾妻鏡」に書いてあるからね)
頼朝期に時政やその他北条一門男子が行事に受領特別席に行った記録がある?
あったら、北条は受領階級だと言っていいけどね。
ちなみに受領階級は五位以上の位階とセットであることをお忘れなく! ちなみに>>181が主張する北条時定が有官位者についてだけど
時定が得ていた官位は「左衛門尉」
それも行家などを討ち取った功による「壇の浦、義経没落後」ゲットした官位。
左衛門尉は六位相当の官位で「受領を目指す人」が貰う官位。
左衛門尉は「侍」階級。
貴族でも受領でもない。
義経没落後にやっとこさ「侍」階級にたどりついたのに、
北条は以前が「受領」と主張できるわけないでしょ? そういや、保歴間記では平頼綱のことを「先祖不知」って書いてるねw
また東鏡によると義時は承久の乱の勝報をうけて、
「いまや自分の果報は王にまさる。前世に徳を十分に積んだからだろう。
ただ一つたりなかったために、卑しい生まれとなったのだろう」
と言っている。
細川重男もいうように北条氏は京侍とかではなく、本来たしかな先祖をもたない程度の家系だったと考えられる。
北条氏には時政以前の古い時代の有力な分家がないところを見ると、古くから続いた家ではなく、
時政の数代前は凡下だったのではないか。 となると、北条氏が将軍にならなかったのも、「血筋がいやしかった」からではないか。
実朝は「おれは種なしだ。俺の後、源氏から将軍は出すな」と発言したが、
やはり北条氏としては、それなら「親王将軍」がふさわしいと思ったのであろう。
「直方流」という系図すら、幕府時代後半の後世の捏造だろう。
「直方流」なら、血筋の上では「桓武平氏の嫡系」ということになってしまい、
「卑しい」とは言えない。少なくとも平賀朝雅が将軍になれるのなら、北条氏が将軍になってもおかしくない。
義朝・実朝のころは、まだ北条氏は「先祖不知」の成り上がりだったのだろう。
「直方流」の系図は、幕府後半時代に、自らを平氏嫡流に仕立て上げた創作だろう。 伊豆北条氏が、受領かどうかは知らないけど、
在庁官人(地方官・国衙関係者)であることは間違いないだろう。
>>173が言う様に
>為朝のやったことは明らかに国衙に対する反乱
>行為だから国衙の関係者として追討するのは当然。
だとして、為朝追討の軍勢に北条時政の名があるので、
在庁官人である事には間違いない。しかも土着の武士では
なくて、国衙に寄生している性格の強い武士とも言える。
その点が、伊豆北条氏の京武者(中央軍事貴族)由来性を感じさせる。
伊豆北条氏の特徴としては、所領の少なさに対比して、
官位の高さが挙げられる。伊豆守、伊豆権守、伊豆介、などなど
国衙のトップクラスの官位を得ている。
これは、伊豆北条氏の10倍以上の所領をもつ伊東氏とほぼ同じ官位で、
時方の伊豆守を見れば、若干、伊豆北条氏の方が、官位が高い感じがする。
北条郷しか所領のない伊豆北条氏が、
伊豆守、伊豆権守、伊豆介に任官するなんて、非常に珍しい。 >>193
時政以前の北条氏の人間が、伊豆守などに任官しているっていう、
一次史料を示してみろよ。 >>193
あと、念のため言っとくけど
たんなる「在庁」なら京侍由来でない可能性の方がはるかに高い。
在庁官人は基本的に在地の有力者で、京都に「留住」ことのない人間が主体で、
基本的には地元の郡司クラスが多い。彼らクラスになるともはや正確な系図を持たない
下郎の身分であり、本来は卑姓の持ち主が多い。なお彼らが源平を名乗っても、
それが真実である保証は全くない。
吾妻鏡など紐解けば「源太」「平六」などと名乗る、最下層の凡下がいくらでも現れる。
こんなの農民上がりだろう。
のちの護良親王は北条氏のことを
「伊豆の国在庁時政子孫高時法師」と言っている。今更>>193
に言われなくても北条氏が「在庁」クラスの人間であることはよく知られている。
ちなみに義時は自らの家を「げろう」と言っている。これは五位以上にはなれない
卑しい身分であると自ら証言しているのである。
時政以前が伊豆守になったなどというのは後世の系図の嘘。 >>195
>在庁官人は基本的に在地の有力者で、
>京都に「留住」ことのない人間が主体で、
だから平時方は、京武者(中央軍事貴族)を辞めて、
平忠盛との出世競争を諦めて、伊豆の北条郷に入植したんだろ。 >>196
時方の存在を示す一次史料を示してください。
話はそれから。 >>197
時方の存在を認めない>>197の方が、おかしい。 資料云々の問題ではない。 >>193
時方が伊豆守であったことを示す史料は何?
さんざんここで責められている「系図」でもいいから何か出してくださいね。
それからね、この時代は「○○守」ってのは基本的に在地には来ない。
目代を送りつけて本人は来ないからね。
中央軍事貴族出身の可能性は否定しないけどね。
「伊豆守」の目代でやってきてそのまま居ついたくらいならまだ分かるし。
>>198
申し訳ないが、史料を提示できないことにはなにをいっても歴史系の話では
「妄想」の一言で片づけられるんでね。
一次資料が出せなくても、専門家がその他の要因を考慮して「ある程度信頼できる」とされたものを出してほしいんだ。
系図でも信頼性のある部分を含むものと、まったくお話にならないもの両方あることを把握してほしい。 >>193
平宗盛による源義仲への牽制として(城長茂)は越後守に任じられる。
都の貴族である九条兼実や吉田経房は、地方豪族である長茂の国司任官・
藤原秀衡の陸奥守任官を「天下の恥」「人以て嗟歎す」と非難している。
貞盛流で平家や平直方の同族にあたる城氏や奥州藤原氏でさえ地方豪族という
理由だけでこの扱いなんだが。。 一族の通字を名前の後ろにつけることが多い一族で、例外的にそれを前側につけてる人って、本来は当主になる予定じゃなかったのが突発的に当主となった人が多いんじゃないかなあ
毛利元就とか。これは兄が当主になる予定でも隣はその家臣になるはずだったからさ。
時政もひょっとしたらそれじゃないの?
ところで。
在庁官人って、国司(守や介など上位者)の元で働く役人だけど、地元の郡司系氏族から取り立てられる場合もあるし、
国司となった人物が都に居た頃から召し抱えてた人が同道して現地入りする場合もあるじゃん。
前者の場合は地元民だし後者なら京武者やそれに近い在京の官人だろ。 なんにせよ、北条氏は直方とも貞盛とも一切関係ない自称平氏の土豪だけどな。 >>202
【社会】 荒れる湘南ビーチ…
「乱れる風紀」で“鎌倉市×海の家・財界”の攻防
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1430606535/
186 テレビ局が海の家を営業しているのが問題なんだよ
200
海の家って、どういう法的位置付けなのか良く分からんよね
海岸って、国有地だから、私有地じゃないんだよ
つまり、海の家がある土地って、国有地なのね
なのに、特定の人間に営業許可して、家を建てさせてるってのは
どういう法律に基づいてるんだろうね
570 海の家を完全廃止すれば、解決
853 1
ウソケンカのプロレス。
鎌倉の商店街や商工会議所は、旧みんな(民主)とズブズブ。
維新だって江田が、絶賛汚鮮中だしね。 ちかく維新も第二民主に。 在地か京都出身かはわからんが
上で誰かが言っていた中級貴族やら受領ではないらしいことは推定できる。
都から連れてこられる場合は良くて六位、普通はそれ未満が多い。 >>203
要するに北条氏は海の家のオヤジや商店街の顔役レベルだってことか。
貴族でも平氏でもなんでもない田舎の顔役ってことやね。 伊豆北条氏と海の家のオヤジや商店街の顔役に何の関係があるんだよ!?
馬鹿じゃね?www 朝廷の高級貴族から見れば、伊豆の北条某なんて、いまでいう海の家のオヤジレベル。 その平時方を京武者として採用していたのは誰だ?
それに、承久の乱で、朝廷は、なんで大負したんだ? >>204
そりゃ、受領より官位の高いヤツを召し抱えていくはずがないからな。
従五位下とかだといちおう受領クラスの位階だから、受領の配下には収まらんだろ 源氏も平氏も世代が下がるにつれて官位が下がる傾向にあるんだよ、
だって皇室からどんどん遠くなるから。
だから、功績を残さないといけない。 >>212は一般論としてはその通りだが、
だからと言って伊豆の一土豪の北条さんが平氏だった根拠にはならないね。
北条さんなんて、伊豆の商店会の顔役レベル。 >>212は一般論としてはその通りだが、
だからと言って伊豆の一土豪の北条さんが平氏だった根拠にはならないね。
北条さんなんて、伊豆の商店会の顔役レベル。 北条氏は平貞盛系の嫡流ではないね、実は。
伊勢平氏よりは嫡流に近いけど
たぶん、平貞盛系の嫡流は、平直方の兄の平中方の系譜だね。 あまり官位自体に拘りがないというか重視してなかった
実力社会の象徴 鎌倉幕府自体がもともとは中小企業の寄合レベルだからな
そんな組織がいつの間に朝廷の人事まで左右する
まあ向こうが決めてくれとお願いしてきただけなんだが 両統迭立で幕府を恨むのは筋違いなんだよね。
時代が下がって、公家諸法度に宮中席次規定が入ってるのも自分で決められなかったからだしな。 幕府あってこその秩序だったのに後醍醐帝がやったことは結局は改革ではなくて秩序の破壊に過ぎなかった 両統迭立に関しては北条時宗といえども西園寺家の言うがままだろ
幕府はそこまで朝廷に介入する気はなかったし
承久の乱を鎌倉幕府に密告して以来の親幕公卿である西園寺家に任せていた これだけ政治的に優秀な人材が続いた一族は他にはない
最期に高時とうババを引いたわけだが 後醍醐天皇がやろうとしていたのは、皇統の独占。
それだけだよ。
後醍醐天皇は大覚寺統の中でも本流ではなかった。
兄の後二条天皇のほうに大覚寺統の本流が受け継がれようとしていた。
それを阻止するために動いただけ。
だからこそ、南北朝の動乱では、他の大覚寺統の皇族たちは
のきなみ、持明院統に味方して北朝側にいた。 高時は覚醒が遅かっただけで割とやる奴だけどな
後醍醐島流しにしたり日野処刑したり二条家ぶっ潰したり
ただ覚醒が遅すぎた >>218
三浦、小山、千葉、上総などは、
国衙と関係なく、数千〜万単位の兵力を動員できる。
とてもじゃないけど中小企業ではナイよ。 完全に大企業。 大勢力の上総広常の参戦が頼朝の勝利を決定つけたからね
時には非情な手段を用いても有力諸侯を御する頼朝や北条の政治的センスが凄い ただね、千葉、小山についちゃ言っときたいことがある。
千葉 当時重盛姻戚千田氏の圧迫を受けていて動員力は激減、頼朝房総上陸に便乗して千田を討ってから数千規模の動員力を獲得。
小山 いち早く頼朝につき、同族との競争に勝ってから万規模の動員力を獲得。ちなみに頼朝挙兵時は当主政光がメイン郎党引き連れて都におり、戦力的にダウンしていた。
上総介の大動員力には意義なし。ただし広常は兄弟争いの最中で支配力は万全じゃなかったけどね。 あと、頼朝についた武士には
上総介なみの大豪族もいれば、熊谷みたいに親子+郎党一人ってのもいる。
一流上場企業から町の個人商店主まで様々な規模の御家人がいた。 そんな大動員できる豪族が集中してる坂東って・・・
当時の人口から考えて可能なのか?
平時の動員は人口の1パーセント、非常時に最大限動員しても1割までいかないはず。 まあ、人数割り増しがあることは考えていいだろうな。
あとは、数え方が保元平治の頃と変わった可能性がある。
保元平治の頃は純粋に一騎単位(騎馬武者+従者五、六人)
治承以降は戦闘員+荷物運び、建築工作兵その他も含んで数えるようになったのかも。 >>230
坂東に集中してたわけじゃない。
越後の城氏なんかも木曽義仲と武田信義は自分一人で引き受けると平家に
豪語し、実際、横田河原では5万集めて、兵力では義仲を圧倒していた。
奥州藤原氏の動員力はさらに上。
まあ当時の兵力は眉唾物だが。 >>226
上総介広常とかが晩期を動員したのは事実だが、それは国衙の代理という立場を利用した物であって、自前で動員できたわけじゃないぞ。ふかしすぎだ 事実上、頼朝と武田は対等だったからな
富士川の戦いは武田信義が主将と言っても差支えないくらい >>233
自前であろうとなかろうと、一万騎を動員・指揮できたことには違いないので。
警視総監とか県警トップ(警視長)のことを中小企業社長とは言わんだろ。 商工会議所の所長権限で勧誘して賛同者を募っただけで、自前の権力だけでは数千騎も動員できないじゃん .
|| ̄ .大阪都構想は"水道の民営化"を行うから危険です....  ̄||
|| 去年、府と市で否決されたのに復活させてウサン臭いです ||
|| 経済対策は"カジノだけ"でいかがわしいです∧_∧
|| 外国人特区を作り治安が悪化します \ (゚Д゚,,) いいですね!!!
||______________ ⊂⊂ |
∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ | |
〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧ は〜い、先生
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
橋下徹という罠 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=nAy4HHst7UE
ミ _ ドスッ
┌──┴┴──┐
ヤレヤレ.. ∧∧ │ ちょっと待て │
( ,,)│ その維新は. │
/ つ. 在日党 . │ .
〜′ /´ └──┬┬──┘
∪ ∪ ││ _ε3
【2F】 国土強靭化、終了のお知らせ!!! 【アホー】
http://kanae.2ch.net/test/read.cgi/eco/1424399674/ 現在の財政状況で市民サービスの大幅低下は不可避だろ
二重行政を解消できた方がサービス低下の酷さを増しにできる、低下しにくくできるんじゃないのかよ
んな状態で市民サービスが低下しそうだから反対とか、アホかと 朝廷と鎌倉幕府の二重行政では、東国武士へのサービスを向上できたよな。 交通網の発達程度が低くて全国を一元的に統治するのが難しかったから、東西二重政権が有効だったんだよ
東西分割統治の手法は、内紛が起きやすいという重大な欠点があったものの、それ以上の有効性があったらしく、
どういう有効性なのかは分からんけど、室町幕府にも継承されたし、織豊政権下でも援用された。
一部の説では、江戸時代初頭まで続けられ、大阪の両陣を契機に廃止されたとか。
東国武士へのサービス向上は朝廷への上納金を廃止して着服した分が使われたからだろうな 元寇以降は事実上、鎌倉の単独統治だろ。
しかし全てを鎌倉で決めようとしたため、それが幕府の崩壊に繋がったと。 >>243
実権を握っていた内管領長崎氏が、御内人の増え杉で事態を掌握できず、
さらに賄賂のとりすぎで、得宗被官層のコントロールに失敗。
しかも、その後始末を外様御家人にやってもらったと言う最悪の展開が、幕府崩壊の原因。
鎌倉北条氏ですら、祭上げられていて、
実際の政権運営には、関っていない事も、幕府崩壊の理由にあったと思う。 >>244
>賄賂のとりすぎ
つ、ダイエーの中内www
割引金融債(ワリシン?ワリコウ?ワリチョー?) 大河の太平記では安東氏の内訌で両方から賄賂をもらった高資を円喜が怒って殴りつけるシーンがあった 仮に安達泰盛が勝ってたらどうなったんだろ
肥大化とは正反対の方向になったんだろうな >>243
いや、権限が縮小したとは言え朝廷の独自支配が及ぶ範囲は少なからず残ってたぞ
そうじゃないと後醍醐倒幕は起こりえなかった
ま、それでも一度は叛乱鎮圧されて廃位され遠流に処されたんだけどな。 >>247
得宗家の勢力拡大の抑制を目指すあまりに、
外様御家人の権益保護ばかりに懸命になり、恩賞問題をこじらせた。
そういう意味では、視界狭窄の面があったと思う。
特に北条一門主導の鎌倉幕府による高麗遠征計画を中止に追い込んだ事で
恩賞原資の確保に全くメドが立たなくなり、幕政の混乱を招いたのは、安達泰盛の所為。
鎌倉幕府の高麗遠征計画
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%BA%97%E9%81%A0%E5%BE%81%E8%A8%88%E7%94%BB 安達泰盛本人は御家人じゃなく御内人なんだよなあ、そのあたりの関係性がよく分からない 安達泰盛は御内人じゃなくて御家人、それも有力御家人 安達泰盛と親しい有力御家人には、足利家時がいる。
上野の守護は、四代にわたり安達氏で、足利氏は、下野の有力御家人。
しかも霜月騒動の半年前に家時は、自害。
家時は、高氏(尊氏)の祖父だけど、
やっぱ倒幕と言うか、得宗家征伐を考えていたのかね? しかしなぜ高氏が家督を継いだんだろうか
貞氏が死んだのが1331年で高氏の兄高義の死去が1317年
高義に男子がいたし、貞氏は生前には家督を譲っていない
貞氏の死去時に高義の子は既に10代半ばになっている
普通なら高義の子が家督を継承するのが筋だと思うけど 何で上野とか下野が関係あるんだよ
霜月騒動の本質は、三河で繋がる頼朝縁者の排斥だろ
範頼(三河守)の後裔、吉見氏はその後最後にやられた
負け組を箇条書きにすれば一目瞭然だろが
霜月騒動の負け組(三河の頼朝縁者)
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←初代の盛長は三河守護、泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼朝嫡男の正室の家系
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・大江氏(長井氏)←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭 >>254は、アホか!?
安達泰盛は、上野の守護なんだよ!
しかも、武蔵北部まで、その勢力範囲を拡大している。
霜月騒動の本質は、恩賞問題も絡んでいる。 上野守護どうのこうのは関係なくねーか?w
高野山金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・公暁
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) >>256
霜月騒動の根本原因は、恩賞問題だから、上野守護職がキッカケではない。
ただ、霜月騒動以降の安達氏は、上野守護を辞めさせられているけどね。
それと霜月騒動は、恩賞問題解決の為に得宗家所領の分配を言い出した
安達泰盛を御内人勢力が討った面がある。御内人しても安達を滅ぼせば
その所領や財産を恩賞支払いにまわせるから。 三河の頼朝縁者を警戒していたが手を出せずにいたんだろう
安達氏は関東に軸足を移したが、泰盛の代になっても、頼家に正室を出し、将軍以外で唯一昇殿出来た足助氏と姻戚を結んでいる
リベンジ組
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tenryuji.html
表には載っていないが、参列者には城九郎直盛という安達氏らしい奴もいた
霜月騒動の負け組(三河の頼朝縁者)
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←初代の盛長は三河守護、泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼朝嫡男の正室の家系
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・大江氏(長井)←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭
リベンジ組
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tenryuji.html 本人は、平資盛の系譜だって言ってますけど?
盛国が、その子だとも言っていますね。 平盛綱が平資盛の子だと言われている
資盛―盛国―国房―盛綱と曾孫説もある
世代考えるといくらなんでも曾孫はないだろう 国房が無い系図もありますね。
それと平盛綱と関実忠が、兄弟だとか。
関実忠は、北条時政の娘と結婚しています。
二人とも義時〜泰時時代の御内人ですね。 >>260
実際は時政以前に分かれた北条氏の庶流だろうってのをどっかで見たな 伊豆北条氏ってそんなに広がりがある一族ではないよ。
山木攻めの時で、時政、宗時、義時、平六時定の4人だけ。
時定の父の時兼は、如何しちゃったんだろ?
山木攻めの二ヶ月前に伊豆介に補任されているんだけど。 >>265
関実忠が北条時政の娘婿ってどこに書かれてるんだ
時政の娘婿は記録を見る限り源頼朝、阿野全成、足利義兼、畠山重忠、坊門忠清、
河野通信、大岡時親、平賀朝雅、滋野井実宣、宇都宮頼綱、三条実宣とあるが >>268
大岡時親というのは、大岡越前のご先祖さまと考えていいの? >>267
広がりがないってことは、下賎な血筋から成り上がったばかりのため、
系図を作っておらず、同族意識の広がりがないってことじゃん。
何がいずの介だよw むしろ楠木正成みたいなもんだw
あと、
長崎氏も「先祖を知らず」って保間歴記に明記してあるわけだがw
北条と長崎は完全な成り上がりw
北条郷に長崎という地名があるから、長崎氏が北条氏の古い分家の可能性はあるが、
かれらはもともと系図を作らない階級出身なので、それすらわからないってことだろう。 >>270
伊豆北条氏の系図の広がりが少ないのは、
伊豆に土着して、まだ日にちが浅いからだ!!! >>271
ありえません。
北条義時はみずからの家を「下郎」と称しています。
京都から下向して間もない家系なら三浦だの千葉だのといった家に比べても
尊いはずで、「下郎」などということはありません。
北条義時は、自分の家が系図すら持たない卑しい家系であると認識していたということです。 >>269
大岡時親は牧宗親の息子で大岡越前守忠相とは無関係 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>272
義時が「下郎」と称したのは、主達の事じゃね?
あの伊豆の北条館に出入りしていた近所の農民や土豪たちみたいなの。
それに伊豆北条氏は、伊豆介、伊豆守、伊豆権守が、いる家ですけど? さてさて、内管領長崎(平)氏の出自は、ドレだろうね?
平資盛血統説(自称)
北条氏血統説(細川重男説)
伊勢平氏系関氏説(一応系図)
伊豆北条館の近所(長崎郷)の土豪(主達)説(細川重男説)
etc 森幸夫などは、平資盛血統説を支持しているみたいだな。 北条氏は平直方の後胤だろう?
それを無理に否定したがるやつは、むしろ、平直方の血統を過大評価しすぎているんだよ。
その当時、源義家の後胤といえば、坂東での権威はかなりのもんだけど
平直方の後胤だとかいっても、だから何?で終わるよ。
その程度のもん。
いや、それどころか、坂東で勢力のあった平良文の後胤である
千葉氏、三浦氏、上総氏、秩父氏らの連中から見たら
平貞盛、平直方の後胤である北条氏は、先祖の敵だぞ。 >>280
直方は源義家、義光の外祖父であり、鎌倉に地を婿の頼義に相続し、源氏の坂東での繁栄の基礎を提供した人物。
将門を討った貞盛の直系にあたり、本当に子孫なら北条時政や義時が名乗りを挙げるときに必ず名前が出ないほうがおかしい。 千葉や三浦と同族だなんて自称したら、ウソがばれるから平直方の子孫を騙ったのだろう。
良文系を詐称・僭称したくても、相模には三浦一族がウジャウジャいるから、さすがに無理だろう。
一方、直方系は熊谷みたいな弱小武士でも自称できるレベルだから、自称するには手頃だった。 仮に北条や熊谷が自称だったとして、本物の直方流はどこいったんだろうな >>281
つうか、頼朝が頼義の故事をしつこく再現したから
それに北条が便乗して「直方」子孫を主張するのが都合よかったんだろうね(その主張する系譜の真偽はしらん。)
頼朝=頼義
政子=直方娘
頼家=義家
時政=直方
にしとくと時政と政子の格が上がるし
北条が鎌倉で実力行使する理由にもできる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています