石田光成って、結局正しかったじゃん [無断転載禁止]©2ch.net
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石田光成の予見してたこと、結局少しも間違っていなかったじゃん。
実際に徳川家康は豊臣家を滅ぼしたし、天下を乗っ取る腹積もりだったし、
豊臣に仕えるような気なんざ更々無かったし、自分の幕府開いたじゃん。
何一つ間違ってない。全く以って正当な警戒感だったじゃん。
加藤清正(笑)福島正則(笑)口だけ忠義心かよwwww
その場のノリで口だけで忠義示すなら、バカでも出来るわ脳筋wwwww
セリフと行動を違えるなやカス 関ヶ原時点で生き残っていた人って、織田信雄が一族一番の有力者?
なんか野心もカリスマ性も何もないと思うよ。 >>25
家康しかいないんだったら三成って人望が二番目にあったってことじゃん。
人望がないってのは諸大名と比べてもビリの方にいる福島正則みたいな雑魚のことを言うんだよw 秀頼を担ぎ出せなかった三成の力の無さ
天下を奪えるチャンスが巡ってきたのに家臣団をまとめ上げれなかった毛利輝元の能力の無さ
せっかく主筋が天下取れるチャンスに家康に内応する吉川広家の空気の読め無さ
これが西軍の敗因
ついでに言えばちゃんと豊臣秀次がクーデター成功させて淀と秀頼排斥してれば徳川に政権奪われる事も無かった >>31
秀次はクーデターを起こす気などなかった。秀次事件は、石田三成と
増田長盛が秀吉、淀君と組んで嵌めた。(その割には、秀次の義兄の
池田輝政の排斥に失敗するなど、お粗末だったと思うがね。せっかく
家康ごと連座させる準備をしておきながら)
三成の最大の失敗は、淀君に裏切られたことではないだろうか。三成の
腹心の立花宗茂が大阪で籠城した時に切り捨てられたのがそれを物語って
いる。 もう一つ、三成の誤算は秀次事件後の処理の失敗にある。秀次事件で
三成は秀次の義兄の池田輝政を族滅し、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊
(すべて秀次派)を改易し、4大名の所領を乗っ取り、家康を自ら抑える
予定だった。あわよくば家康も減俸し、上野に大谷吉継を置く予定だった。 >>32
>秀次はクーデターを起こす気などなかった。
余計ダメじゃん
狙われる前に狙わんと
秀次がちゃんとクーデター成功させて淀と秀頼を排斥し、返す刀で家康に難癖つけて改易しとけば豊臣は安泰だった まだ三成と淀君の結託を信じている昭和脳がいるのかw >>34
その点では秀次は甘かったと言えるだろうね。ある意味、真面目で善良な
性格だったから、嵌めやすかったんだろうね。
その反面、人望はあったようで、秀次派の池田輝政、浅野幸長、田中吉晴、堀尾吉晴、
中村一氏、山内一豊らは石田三成に徹底的に復讐しているし、池田輝政、浅野幸長に
至っては関ケ原後に秀次の妻子の弔いの儀式をやっている。(これは秀頼に対する
露骨な宣戦布告だが、それを承知でやっている。ちなみに、弔う対象に池田輝政の
妹(秀次の正室)もいた。) >>28
>三成も織田家への忠義を前面に立てればよかったんじゃね?
三成は織田家には何の恩義もないよ。三成の誤算は関ヶ原で淀君が明確に
三成を支持しなかったことだろうな。淀君はどっちが勝っても秀頼の地位は
脅かされないという甘い考えがあったのだろう。 秀次派から見て
数少ない生き残った秀次の娘の末裔や秀勝の娘の末裔には
やはり特殊な感情あったのだろうか
女系も含めると皮肉なことに秀吉系統よりはるかに長持ちしてるんだよな お江はお市と信長の血が流れてるしずる賢いのも当然。
茶々を処理したのもお江。 >>37
┌淀──秀頼
│
└江
│
秀忠──千姫
淀って明らかに徳川方だろ? 三成を支持するはずねーし馬鹿かw 西軍はせっかく秀信中納言を味方にしていたので
関ヶ原本線に総大将織田秀信で望めばブランド的に勝てたか
淀殿が我儘した場合は岐阜幕府による大坂の陣が始まる可能性もゼロではないけどな 「正しかった」と「勝てたはず」はちょっと区別して議論しないと 石田が正しく勝つとすれば
加藤清正には要望通りに大和一カ国条件で西軍に付かせ
優柔不断な増田は他に引っ越し
あと
鹿児島県3州を条件で
島津義弘の代わりに伊集院忠真が関ヶ原本戦に来てたら
暴れてくれたな
伊集院を薩州太守とし島津は改易 >>43
権力の正統性から言えば多分、関白>>>征夷大将軍なんだろうな。だから
関白を実力で倒すというのは天皇に対する反逆ということも言えそう。だが、
この頃の天皇は世俗権力とは無縁の称号授与機関みたいなものだから、豊臣VS
徳川の争いには一切関与しないという立場だったに違いない。だから家康は
これを武家同士の覇権争いに過ぎないことを天皇家に認識させておけば関白を
抹殺しても幕府には影響ないことがわかっていた。淀君の失敗は関白>>>
征夷大将軍は揺るがないと思っていたことなのかもしれない。 >>45
豊臣が関白て代々そうだったんじゃなくて秀吉が力でねじ込んだものだからな
天皇や公家たちから見れば思い入れなんて無くて
徳川が潰しても寧ろ大喜びだろう 淀が先手を取り
建武政府のように将軍位を複数作ればよかった
鎮守府大将軍 上杉
征夷大将軍 徳川
征西大将軍 毛利
左近衛大将 前田
右近衛大将 宇喜多 頼朝の例を見ると近衛大将と大将軍は違うみたいだからなあ >>41
未だに昭和の頭してんのかよw
三成と淀君の結託なんて二十年前に否定されてるから。 宇喜多秀家は北政所の養子
小早川秀秋の実の兄弟(北政所の甥)は一人を除いて全員西軍参加
北政所の側近孝蔵主の一族は上杉軍に参加
三成の三女は北政所の養女
他にも北政所が西軍寄りだったことを白川さんという研究家がガッチリあげてるよ
逆に淀が三成と組んでいた証拠なんてどこにもないんだよね 征夷大将軍は源氏以外はダメというルールがあったのかな。源氏→鎌倉将軍(傀儡)
→足利家とこのポジションが受け継がれたわけだが、鎌倉将軍(傀儡)は源氏の系列
だったわけ? 徳川は源氏の系列ということになっているけど。秀吉はそもそも武士
の出身じゃなかったから源氏ではあり得ず、征夷大将軍にはなれなかったと。
それで無理やり関白の座を強奪したんだろうが、これは本来藤原一門のものだから
秀吉一代限りにしてもらわないと困るというのが藤原一門の立場だったはず。しかし、
秀吉は当然これは豊臣家の世襲職にするつもりだっただろう。だが、これが無理筋で
あることに頭脳明晰な石田三成が気がつかぬはずがないのに、豊臣家に忠義立てした
のはなぜか。三成も秀吉、そして信長同様、心底天皇や藤原氏をバカにしていて、
実力のある者が天下を治めるのは当然と思っていたんだと思う。家康も基本的には
そうだが、表面上は天皇家をないがしろにすることは避けたと。家康の天下平定後、
北条氏と武田氏とでその処遇にかなり差があるのは、武田は鎌倉時代からの守護大名
だったのに対し、北条は早雲が一代で築いた成り上がりだったという違いだろう。
忠臣蔵で有名な吉良家も足利一門だから、家康の旧家尊重は筋金入りだと思う。 >家康の天下平定後、北条氏と武田氏とでその処遇にかなり差がある
これを痛感するのは、小田原の北条五代の墓の小さいこと。しかも、5代の墓が
並列されていること。実物を見て驚いた。これに対し、武田勝頼は甲州市にある
景徳院という寺に夫婦で埋葬されている。北条に対する徳川の粗末な扱いには驚く。 >>51
本家本元の田村麻呂は源氏どころか帰化人だけどん。 秀吉だって主家筋の織田を戦国大名としては滅ぼしたじゃねえか まあ家康とちがって一族みな殺しってわけじゃないけども >>55
浅野さんや木下さんや杉原さんや小出さんや大坂藩松平氏などを考えると
家康も豊臣氏の血縁衆に温情かけた方。 >>57へー、家康も秀吉の親戚をみな殺しにしたわけじゃないのか、勉強になります 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>58
普通に江戸時代に木下氏とか藩主として存続してたじゃん
まあ流石に豊臣のカバネは禁止されてたけど 家康の北条への対応は関東を支配していたって言うのもあるだろ、て言うか、そんなに雑にされたとは思わないけど >>61
木下家は江戸時代を通じて豊臣氏じゃなかった? >>55
>秀吉だって主家筋の織田を戦国大名としては滅ぼしたじゃねえか
えっ? 意味不明だなw 「戦国大名としては滅ぼした」って何?
群馬に5万石の小藩として織田家は生き残ったけどな。武田や北条とは違うだろ。 織田は小大名と高家と旗本と御家人で残った。
高家肝煎として、
前田分家に教育担当するも斬られた。
これで前田分家は幕府より取り潰しとなった。(所領は加賀藩に温情返還)
↑
赤穂事件より早い例たぶん。
まぁ織田一族庶流は一応は池田氏が西国将軍なので、
勝ち組として残ったほうだろう。
>>64
北条も1万石の小藩として生き残ってるじゃん
1万石はアウトで5万石はセーフってのもよく分からんな 家康は豊臣家を滅ぼす意思は関ヶ原の段階では持っていない
それどころか慶長15年の大坂夏の陣の直前まで持っていない 徳川さんの下克上先への処遇
吉良 高家筆頭
今川 高家
織田 国持ち小大名
豊臣 小大名
同盟相手
北条 小大名 たまに小田原留守居役
喜連川 御所様まろ
穴山 水戸藩に吸収
柴田・佐々・滝川 旗本
福島 大名改易後 旗本
温情かけてるほうじゃねw
徳川は関が原で大勝利ってわけじゃなかったからしかたないね >徳川は関が原で大勝利ってわけじゃなかった
えっ? えっ? えっ? たった1日で終わった戦いが大勝利ではない?
どういう頭の持ち主なんだ www 要するに秀忠が遅参したから兵数を補う上で、福島正則らの活躍を許す事になり、戦後に彼らへの大幅な加増をせねばならなくなったって事では 突っ込みどころが多過ぎて俺にはできん
皆も敢えてスルーしてるでしょ明らかに >>71、>>76
言いたい事は分かるが、それは戦後処理の話であって戦い自体は明らかな東軍の大勝利 >>77
だからその大勝利が徳川一家の力じゃなかったわけじゃん
戦後処理とは一体不可離だよ
巨大な外様大名の存在を許さざるをえなかった 秀忠軍が到着して徳川のほぼ単独勝利だったら
家康はその後易姓革命狙った可能性もあるだろうな >>42
全然ダメでしょ。
福島以下、岐阜中納言様を容赦なく攻めてる。 戦国サバイバー
滝川雄利の進言通りに東軍につくべきだった岐阜中納言。
なぜか北陸で西軍についた前内大臣信雄。
秀吉に領土削られながらも領土削られながらも、
豊臣秀頼の側衆でいた織田信包。
方向音痴すぎたか?
織田一族で最もプロサバイバーは本能寺から関ヶ原も大坂の陣でも間違わない織田有楽だったというオチ。
真田より凄い。 なぜかというより西軍っておおかた付和雷同的に成り行きで参加したのが多いけどな 東軍豊臣譜代は家康を江戸から引っ張り出すために必死で戦果を挙げるしかないし
家康も江戸から出るには戦況の打開が必要だし秀忠の遅参って全体的にはそれほど誤算とは思わないな
家康もストレスMaxの戦争当時はおかんむりだったけどその後に秀忠にその件で当たった様子はない >>84
後世から見ると石田vs徳川なんだけど、
当時の豊臣系東軍諸将は自分等が主役で
徳川を後詰めで利用してるくらいに考えてたのかもな。
徳川の為にだったら働きすぎでしょ、彼らw >当時の豊臣系東軍諸将は自分等が主役で
それはないだろ。加藤も福島も秀吉に取り立てられた成り上がりだから、
よほどの偉業を成し遂げなければカリスマ性は生じない。秀吉が戦国大名
じゃないのに天下人になれたのは誰もが驚くほどの速さで光秀を討ったから。
これで「この男、タダものじゃない」というカリスマ性が生まれた。結局
秀吉の部下にはカリスマ性を持つ者はいなかった。だからこそ三成も自分は
大老にはなれず、その下の奉行として秀頼を立てつつ大老・家康に対抗する
しかなかった。本来は信長の死で他の戦国大名に大きなチャンスが生まれた
はずだが、秀吉がスゴ過ぎたので次の天下人候補は豊臣政権での大老の中から
選ばれることになったわけ。その中で結局他を大きくリードしたのが家康だった
わけで、奉行にすらなれなかった加藤や福島が天下人の座を狙うのは到底無理 w 大老ってのは秀吉から見てもともと自分の部下でも何でもない同格の戦国大名だぞ。
子飼いの三成が大老になるはずないだろ。
奉行は行政の能力を必要とされる部門であって加藤や福島の出る幕はない。
お前さんいろいろと勘違いしているようだな。 >>86
天下人は加藤、福島にとっては秀頼だろw
そういう話じゃなくて、「石田を排除するのに徳川を味方にできてラッキー」という感覚だった、ということ。
藤堂あたりは頭いいから家康に天下を取らせるつもりだろうが。 >>87
こうも言える。
徳川は独立大名だから豊臣家の内紛は放っておいて、
江戸に引きこもっても倫理的に問題なかった。
実際にしばらく引きこもったし。
福島あたりの感覚では、それを自分等が無理に担ぎ出してやった、
というところかと。 >>82
秀忠軍の力で勝てば、
家康が王になる可能性もあるだろ
豊臣氏は完全に超えるわけだし誰も妨害できなくなる ありえないけど、
毛利が関ヶ原で大活躍して将軍になったら
結局は豊臣家を滅ぼしてたんだろうな 石田敗北後
何か理由を付け福島正則が毛利輝元を担いで徳川軍と再戦したら面白かったな
黒田・福島・徳川・伊達でベスト4決勝戦
(上杉・島津は腰重いので様子見) 前田ってシズガ岳でも日和見していたんだよな。関ヶ原の時はもう死ぬ間際だったけど。
どっちにしろ天下人の器じゃない。 賤ヶ岳
関ヶ原
大坂の陣
戊辰戦争
巨大な領土を持ちながらも
上手に気配を消して生き残る術 >>90
関ヶ原なんてのは最初は三成のクーデター。 >>95
前田利家のことなら関ヶ原の前に死んでる。死ぬ間際ではない。
そして賤ヶ岳の時は日和見じゃなくて勝手に撤退して裏切り行為と言ってよい。
>>94
利家が死んだ後の前田は徳川に人質を取られて忠犬として尻尾を振ることしかできない状態。 >>97
は?
家康が上杉討伐に動いた後に三成が挙兵したんだけど。
西軍の決起を内紛とするなら、内紛以前から動いている家康は「我関せず」ではいられないんだが。 >>99
当時の人間の目からどう見えてたか、という話をしてるのだと思うぞ。
見てると君のレスは的が外れてる。 >>97=>>100だろw
その三成のクーデターより先に家康が動いているんだし、
三成の矛先が家康である以上「豊臣家の内紛は放っておいて」なんて無理。 豊臣秀次がクーデターの話は面白いね。
豊臣家が滅亡したのはこれに限る。
でも秀次隊ってそんなに強かったけ?!
小牧長久手の戦いでは、家康軍に敗走を余儀なくされてた秀次隊だったと思うが。 関ヶ原まで蒲生氏郷と堀秀政が生きてれば、
かなり情勢変わったかもな。 輝元の空気よめなさは本当に笑えるね。
でも、実際本気で戦って負けたら、即斬首は確実だろうけど。
吉川にしてもそう。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 関ケ原周辺だけで戦闘が発生したわけではない全国規模だからね
西国の毛利氏も畿内でも西軍による圧力や軍事侵攻が進んでいたから
東軍豊臣大名としては主力軍相手に勝利を収めないと西国の自領が危険に晒される >>102
小牧・長久手の段階で、池田恒興とか森長可とかがいた。
秀次事件の段階でも、池田輝政(秀次の義兄、減俸、秀次の正室の妹は死刑)、
浅野幸長(廃嫡、能登に遠流)、木村重茲(死刑、改易、族滅)、前野長康(死刑、改易、族滅)、
田中吉政(蟄居、謹慎、減俸はなし)、中村一氏(蟄居、謹慎、減俸はなし)、
山内一豊(蟄居、謹慎、減俸はなし)、堀尾吉晴(蟄居、謹慎、減俸はなし)、と
それほど弱くはない。 >>108を見ると、池田輝政への対応を誤ったとしか言いようがない。
木村重茲、前野長康と同様、死刑、改易、族滅が妥当だった。
家康の娘(=輝政の正室)の存在と、父の功績がネックとなった。
田中への処分も軽過ぎたね。 ちなみに、石田三成が狙った秀次家臣への処分。
池田輝政(秀次の義兄、死刑、改易、族滅、家康の娘(督姫)も死刑、秀次の正室の妹は死刑)、
浅野幸長(廃嫡、妻子ごと死刑)、木村重茲(死刑、改易、族滅)、前野長康(死刑、改易、族滅)、
田中吉政(死刑、族滅)、中村一氏(改易)、山内一豊(改易)、堀尾吉晴(改易)、
徳川家康(蟄居、謹慎、減俸)だけどね。 >>110
本当にこれをやったら豊臣政権は崩壊必至だな 余談だが、木村重成は篠原長房の孫で、族滅した木村重茲の名跡のみ継いだ。 >>110-111
まじかよ、三成ってほんとは頭悪そうだな >>113
そうか?池田輝政を除くのは、定石中の定石だぞ。
何で秀次の右腕なんて生き残さねばならんわけ?
最も、池田輝政が残ったのは、督姫のおかげらしいけどね。
あと、田中吉政の族滅も当然。これも秀次の重臣だからな。
実際に、田中吉政は近江の地理に明るく、三成の逃亡路を抑えとらえ、
ボコボコに殴り半殺しにしているからね。 岐阜城の地形に詳しい池田輝政がいなかった場合、
織田秀信が天下人 カリスマ性のない人間が自惚れても人がついてこない。信長や秀吉にはカリスマ性を
生むだけの実績があったが、武将ではなかった三成は所詮は官僚で、自分がナンバーワン
になるのは無理。今の北朝鮮がジョンウンのやりたい放題でもクーデターが
なかなか起こらないのは何の戦功もない軍人にはカリスマ性が生じないからで、
ジョンウンを倒しても軍人同士の足の引っ張り合いで権力が持続できないから。
三成は忠義一途で秀頼を守ろうとしたのかもしれないが、普通に考えれば自分から
動くのではなく、五大老同士の争いを見守りながら生き残りを図るのが賢明だった
と思う。 東軍にわざと大坂攻めさせたほうが、
籠城側の毛利や増田が退くに引けず戦ったかもしれないな。
大老と奉行が評定繰り返す中、
なぜか淀殿は、北陸にいた織田信雄に大坂入場を要請しそうだがw 大阪城籠城は、西軍総大将の輝元が拒否って本領に帰ったからどうしようもない
淀もねねも中立というか、どっちにもついてないのが本当のところでは?
淀の乳母子である大野治長は東軍だし、ねねの親族も東軍西軍別れてるし(若干西軍に多めだが)
なんつーか、上杉討伐のタイミングじゃないと挙兵できなかったとはいえ
豊臣正規軍として出立した家康側の方が正当性あるのがな…
西軍諸将も、上杉討伐のため集まってきたのを関を封鎖して無理やり西軍にしたから
関が原でもほとんど動かないし。内通してて裏切るし。 三成は、頼朝における梶原景時で
上にとっては嘘偽りなく情報をくれる忠実な部下なんだが
下にとってはネチネチ細かく上司に報告(チクる)する嫌な奴だからな
積年の恨みで上司がいなくなったら真っ先に狙われて潰されるポジションなんだよ カリスマ以前に高々二十万石の三成に味方したって勝てるはずないだろって思えば誰だって家康につくわ。 小早川が松尾山から東軍目掛けて突撃を開始したら、前進してた家康本陣が危機に陥る。
そこで初めて南宮山の毛利・吉川や長宗我部が行動を起こすから
東軍は壊滅していただろうな。 上杉が大坂攻めしたのは義が通ってるな
上杉追討を承認したのは淀だものなw
因果応報 >>120
>三成に味方したって勝てるはずないだろって思えば
>誰だって家康につくわ。
関ヶ原直前の家康ってそんなに突出した存在だったのかな。五大老の
中で消去法で家康が選ばれたっていう感じじゃないのか。最大のライバルは
毛利輝元だったんだろうが、毛利一族すらまとめ切れなかったのが敗因だろ。 五大老とは言うけど、序列的には家康と利家、次に実は秀忠と利長の順だから。
輝元と景勝は外部の顧問っていう程度で権力はないし秀家は若年だから見習い程度。 >>125
二百五十万石の徳川と百二十万石の毛利では違うだろ 織田信包を尾張伊勢80万石で官位を内大臣で
東海地方に丹羽長重を120万石で
北陸は前田のままで
豊臣も織田にこのぐらい義理立てしとけば
たぶん関東の徳川も西上しづらい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています