食物と酒、嗜好品の歴史@日本史板 3皿目 [無断転載禁止]©2ch.net
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今でも留置所、刑務所は基本、床に座らせらるんだな。
つらいだろうな。 >>875
アシガールはちゃんと正座してたな
んで、我が家の富有柿は記録的大豊作。
この1週間、毎日5個〜10個の柿を食べてたら便がやたら固くなったw 戦国時代、茶漬けでなく湯漬けを食べていたのは茶が高価だったから?
番茶がなくて抹茶しかなかったのか? 戦国といえば江戸時代の前だからな、そりゃ全然違うだろう
茶も普及してきた江戸時代でも、峠の茶屋では婆ぁが朝、沸かした湯に茶葉をパラパラ
あとは夕べの店じまいまで一切茶葉の追加なんぞしなかったくらいだ >>882
番茶は江戸時代
ちなみに作ったのは永谷園の創業者の親父だか祖父 氏康の時代でも、大国の領主が飯に汁かけて食っていたくらいだしなぁ 味噌汁を食すときには、往時の侍をしのび、最後に汁をめしにぶっかけて食べている >>858
民は騎乗禁止。
武士はそれこそ騎士階級で騎乗が許されていたけれど、いつも飼ってられるほどの財力は無いし、免租や手当を与えて農民に預けていても、
その農民は騎乗禁止で預かった馬の調教が耕作くらいにか使えない。
餌を沢山食べる大型の馬を嫌って扱いやすい小型の個体ばかりで子を取るから、馬の体格も騎乗に耐えない大きさになる。 正坐をするから、日本人は足が短い
脚を折り曲げて押さえつけるから血の巡りが悪くなり、脚がのびない
だが生活がここまで洋風化しても、日本人の足は相変わらず短い >>889
かなり長くなったと思う
最近の子はイス生活だし正座する機会ほぼないからね 「お茄子の炊いたん」「海老芋のタイタン」
お前ら、そんなにタイタン好きか?
京野菜のティタニウム料理 売れた子役は、背が伸びなくなる
安達由美とか、ケンちゃんとか。
撮影時間で睡眠時間を削られてしまうから 思春期に色気づいて性ホルモンの分泌がどっと増えると骨、特に四肢の伸びが止まる。
女子は初潮、男子は声変わり。
カストラートの長身は有名。
楽しんごの昔のあだ名はクモ男、手足が長いので。
典型的男性ホルモン欠乏体型。
中学2年生で、タモリのいいともに出たのが初出。 「オナニーしすぎると脚が短くなる」って話はまんざら嘘でもないのか 精を出してると、あぁ俺も大人になったんだな、成長とか言ってる時期は過ぎた、もはや生殖に力を入れなきゃ、と体が思うんだろ しかし、オナニー我慢しても、もう精通してしまったんなら無駄な抵抗だと思うが
溜めていたって夢精してでも捗らせるだろうよ 昔、初体験も早いし、異常なレベルでセックス好きな女と付き合ってたが、極端に手足が短かったわ。納得。 俺の初オナニーは小4のとき
初セックスは中3の冬だった 東西での
馬の使い方の違いが、食肉の種類の差だな
西日本は、「老廃牛」から牛肉食が広まった
> 【食】「西の牛、東の豚」という嗜好分布の意外な背景★2
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1575974631/l50
> 「西日本では農耕に牛を使うことが多く、老廃牛の肉に親しみがあった。
> 一方、
> 東日本の農耕は馬が多かったことの影響が考えられる」という――。 あと屠畜を排他的利権とするエタの数の差な
西日本はエタが圧倒的に多かったから、より廃牛を食肉に加工しやすい環境だった。
東日本ではエタの数がボトルネックになって肉類の供給は低調で
肉食の本格的普及は、それまでのエタの屠畜利権から自由な
豚という新しい家畜を待つ必要があった。
だから東日本ではエタを介さず供給できた豚肉をよく食うわけだ。 芋煮は牛醤油も豚味噌もどっちも上手い
個人的に牛は消化不良おこしがちだから毎日だったら豚が良い 古代に東日本に好んで住んでいたのは、鮭が好きで鮭を獲る者たちだったとか
所さんの番組でやってた >>882
東北だと政宗の時代に茶人が呼ばれてたと思うけど、あくまでもその当時のお茶はお茶の作法で愉しむものだったのでは >>870
昔の人は正座じゃなく胡座だったはず
そして正座は罪人の座り方だったはず
歴史は詳しくないけど、秀吉だか家康だか誰だかが、ビビりすぎて謀反を恐れて?来るものたちに正座を要求してから「正座」とかいう名前になって下々の者に浸透したという説があったと思う
今は正座できない人のための補助腰掛けみたいなのあるから、無理しなくていいよ 濃茶や薄茶では、茶漬けの発想は難しかろう。
煎茶が出てくるのは1700年代頃。
あと、鮭といえば伊達政宗の伯父である最上義光の大好物。
最近は「鮭様」の異名で呼ばれている。 水や湯で飯をふやかせるだけで有難いものを、茶を使うなどという贅沢をよく思いつくものだわ、後世人は >>907
古代〜近世初期まで、男性も女性も屋内での座り方は胡坐か立膝
北政所の肖像画が立膝で描かれてあり秀吉の時代でもまだ立膝
仏像や神棚を拝むときには手を付いてお辞儀をしなければならず
座ったまま床に手を付くのに胡坐や立膝では自分の足が邪魔になるため
その時の姿勢が正座だった
江戸時代、参勤交代で全国の諸大名が江戸に集まるようになると
江戸城の大広間に諸大名を集めて仏像や神棚よろしく
将軍にお辞儀をさせることが起こった
このときに胡坐や立膝では床に手を付けないために
将軍を拝むための坐法として正座が取り入れられた
大政奉還などでも諸大名が正座して徳川慶喜の話を聞いている 戦国時代なら
胡座で手をついてお辞儀してるけど
正座で手をつくのは土下座して詫びる時だけど 危座(罪人の座り方)は痺れて立ち上がれなくなるから謀反防止になると踏んだ徳川家光が危座(正座)しろって言い出したんだよ 大政奉還のお話を聴いていたのは大名の代理人が多かったんだけど、慶喜自身も正座している
江戸時代は将軍自身も正座
室町時代にも正座する者は武士、庶民にかかわらずあったというし、昔のことはよくはわからないものだ
正座という言葉が使われたのは明治以降だという 富山では正座することは「ちんちんかく」
ちんちんは鎮座
かくは胡坐をかくのかくだな 大政奉還の図として有名な絵だが、実際には在京の藩の多くもない代表者が二条城に参集
大名ではないのだから黒紋付の普通の衣服だろう
地味で実務的な事務打ち合わせという感じ
あの絵は大げさに格好よく描いている
絵にある大名の長袴は、走ったりできないように、乱暴を働きにくいようにということだそうで 学生が反抗できないように制服と校則もうけるみたいな 西洋で胡椒が高かったけど前近代・日本では胡椒は高かったの? 江戸時代、支那の船で年間数トンを輸入していた
(オランダ船で数十トンという記録もある)
輸入胡椒を撒いてみたが、熱を加えて発芽阻害されていたのでダメ
それでも意地になって高野山でいっぺんに三石を蒔いてみたら、ようやく二本だけ芽が出た
国産胡椒の元である
その後は新着の唐辛子のほうが幅広く使われた 胡坐あぐらでも足が痛い。
低くても椅子がないと座れん。
ゴーンも参っただろう。
拘置所では和机を椅子代わりにしたのかも。 胡椒は時代や地域で指す対象が変わってくるから
歴史的な話をするときは黒胡椒と言った方がよいかもね >>916
歴代将軍の肖像画は胡坐で描かれている
有名な徳川慶喜の衣冠束帯姿の写真も胡坐姿
だから将軍は正座というわけでもないようだ
ただし正装ではない姿(冠なし)のときは正座している写真も中にはある >>916
正座と呼ばれるまでは危座と呼ばれて罪人の座りかただったんじゃ
将軍が正座するとは思えない
家臣にさせることはあっても >>916
徳川慶喜より後なら分かるけど
江戸時代の将軍みんな正座って乱暴すぎない 殿様の脇に控えている侍が狼藉物を切る剣な居合の型は
正座した状態から切るのが基本だな 跪坐即咎人とする者如何為らん
埴輪、古代佛像の頃より此座方見受けらる
古来、武士は儀禮として蹲踞、跪坐すなり
戰國期乃「日本諸事要録」にも此の座法記述有り
亦江戸幕府、小笠原流禮法を採りかしこまつて座す法を廣めたる有り
元禄、享保よりは多くの國民に廣まりたるとぞ 江戸時代の料理書なんか見ると
幕末にかけて少なくなりつつも、黒コショウは比較的普通に使ってるんだよな
どうも明治初期にコショウ使用の断絶があって
これは洋食との差別化のために、和食ではコショウの使用を控える風潮があったのではないかと >>916
今の定説だと、武士は正座してないし女性でもあぐらだったというのが主流みたいだよ
正座してる絵とかは、正座するようになった江戸後期以降に書き換えられたものとされてる
テレビでも良くやってたしググれば出てくるよ >>930
おもしろい
話ズレるけど、胡椒、胡瓜、胡麻、胡桃、胡座、これらの言葉に使われる「胡」という漢字は古代中国北方民族の地を指すらしい
国交間で何かあったりした可能性もあるのかな>断絶 >>932
西の方から異民族を介してやってきた物だから、異民族をバカにして呼ぶ胡を付けている
中華からみれば周囲はみんな蛮族 そういう話してるんじゃないと思う
急に断絶した理由について話してるんだと思う
>>916
江戸の始めは座布団なかったってよ
あっても病人用のものだったって そりゃ昔は立膝、胡坐こそ主流だが、文献からしてそれが100%だったのではないということ
座布団はなくても畳があればおk
板の間でも地面でもやるときゃやってた 木綿の国内自給がやっと江戸時代中期だから
元禄の頃にはまだ座布団はないだろう。
元禄は畳が普及しつつある頃だから当然正座はもっとあとの時代だろう。 座布団がなければ正座ができないというのは、あまりに現代的な感想 罪人の座りかたをしろって言い出したの家光だから、その頃は皆まだ抵抗あっただろうけど後々浸透していったんだろうね 神仏の前でかしこまる座り方だが
そりゃ罪人にはかしこまらせるだろうが、別に罪人だけがかしこまるもんでもない かしこまらせてるんじゃなくて
攻撃も逃げも出来ないようにしてるんだろ
ずっとズレたこと言ってる奴あたまだいじょぶか 罪人、罪人と凝り固まったことばかり言ってる方がアタマ疑われるな いつから正座が広まったのかわからんけど、
なんとなく明治くらいからじゃないかなぁ。
剣道とかみんな正座させるじゃない?
胡座は禅宗だった武士からするとそんなに抵抗は無かったはずだし… 今の定説はググったほうが早いよ
さんざんあちこちのテレビでやってるのに
なんでここ自分の考えしか信じないみたいな奴ばっかなの
しかもスレチ ★つま先の関節変形、江戸時代から急増・正座の普及が影響か
つま先をたびたび強く内側に曲げるため起きた関節の変形例が江戸時代から急増し、
明治時代以降に一層多くなっていたことが、国立科学博物館の坂上和弘研究員(人類学)の
調査で分かった。
坂上研究員は「正座が江戸時代に庶民に普及し、明治以降は学校教育で一般化したのと
符合する。立ち上がる時、つま先を強く曲げたためではないか」と話している。
同博物館などが所蔵する各時代の人骨のうち、足の親指の中足骨を約800例調査。
指とつながる関節面が内側に伸びる変形が、縄文人と弥生人は6%程度だったが、
古墳時代は13%と増え始め、鎌倉時代は20%、江戸時代は40%と急増。
明治から戦前までは46%とさらに増えていた。
江戸時代までは男女差がないが、明治以降は女性がやや多く、正座する機会が多かったためだ
とみられる。古墳―鎌倉時代は身分制度や仏教の普及で、貴人や僧侶らに平伏する機会が
増えたためらしい。
日経新聞 http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070106STXKF026205012007.html 支那も紀元前あたりだと板敷きに正座する描写があるな
その後はすっかり椅子、テーブル、ベッドの生活になっているが 自分専用の箱膳に食器、箸を格納
昔の人は食器や箸を共用するのは抵抗あっただろうな
現代では、専用・共用は各家庭によって違うんだろ 大家族だと、あんまり個人専用の食器とはならない気がする。
ソースは俺と嫁。
それぞれ10人以上の大家族で育った。 >>765
古代中国の戦闘では馬車が戦いに使われていたけど、日本では導入されなかった
だから車輪の普及が日本では浸透するのが遅れたのだろう
https://youtu.be/6c0SpAU0vHk?t=755
>>932
不老不死の仙薬探しに奔走していた秦の始皇帝に仙人からだという予言書が届き、
その中に「秦を滅ぼすものは胡なり」という文面があったものだから、
始皇帝が蒙恬将軍に命じて北方の異民族の胡(匈奴)を討伐させ、万里の長城を築いた
でも秦を滅ぼしたのは始皇帝の跡を継いだ二世皇帝の胡亥の「胡」だったというオチが有名。 ペルシャの素敵な陶芸品とかシルクロード通って来たんだよね? >>956
西方渡来のクリスタルガラスの鉢などが中国で出土するが、ガラスの成分が溶け出てしまって土と変わらない外観になっている
ただ、日本の正倉院に保管されてきたものだけがクリスタルの輝きを保っている 匈奴の領域が広がって中国大陸の北と西域を支配するにつれ、
胡人の範囲も広がって中国大陸より西の地域に住む人間は概して胡人になったのだろう >>907
日本はなぜか椅子が普及しなかったからなあ
せいぜい床几くらいだ
現在のプロ将棋で、椅子を導入するか座布団に座ったままかで論争になっている え、戦場に出たら基地のような所で折り畳み椅子みたいなのに座ってたじゃん… 奈良時代には中国の真似をしなければと言うので天皇も服装から椅子、寝台まで中国風にしていた
聖武天皇の使った寝台が残っている
けれどのちには皇族、貴族の生活から椅子もベッドもなくなった
中国の宮殿や家屋は今に至るまで床を張っていないが、日本は床にあがって敷物や畳にどっかと座りこむ生活になった >>961
ああいうところは地べただからな
その基地みたいなところは大将が居るまわりに幔幕を張り巡らせる
あれは「幕府」と言うんだよ 日本人も昔っから椅子の生活をするべきだった、なぜしなかったんだぁ
正座やめろぉ
こういう書き込みばかり続いて、引っ込まないからだ https://www.recordchina.co.jp/b35534-s0-c60-d0000.html
この記事では、椅子は唐の時代に伝わり、次第に普及していったとしている
でも三国志の時代から日常生活でも、背もたれはないが椅子に座って談笑する文化はあったことがドラマでもわかる
https://youtu.be/tf4ZEeQ6P1E?t=1250 話し、元に戻すよ。
江戸時代、料理書がたくさん発行されたが、著者はどのようなヒトで、読者はどのようなヒトだったのか?
江戸(京都、大阪)町民という回答にはボクにはモヤモヤして納得していない。
藩や高家旗本などは専門の料理人がいたわけだろ。その人たちが武士階級か町人かボクは知らないが、
著者・読者ってそういう料理人なんじゃないかと想像している。
江戸後期になると著名料亭が現れ、名物料理を供するようになる。そこでの料理人は町人だろうが、
藩や高家旗本は宴会時はそういうところから仕出しをとっていたのかな?
ペリーの饗宴の時は幕府は仕出しを発注していたしね。百川。 『武士の献立』2013年の日本映画
実在の包丁侍、舟木伝内とその家族を描いたヒューマンドラマ
包丁侍とは、剣術ではなく料理で将軍家や大名家に仕える武士を揶揄する呼び名
足軽に近い低い身分であるが、対外的に「饗応料理]をつくり藩の威信を示す重要な働きをする
舟木伝内は幕府料理人に師事したのち加賀藩の料理人となり活躍
優れたレシピ集を著した人物である >>909
チベット人やモンゴル人は、煎って粉にした麦や蕎麦の粉を塩入りミルクティーに振り込んで軽く捏ねて一食としてたりするけどな。 それは主食としてのミルクティーが最初から存在している
日本では主食としてのメシが先ずあるだけで茶が普及していなかった時代
同じようには行かないものだて >>918
浅野内匠頭は松の廊下で長袴でなかったの? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。