邪馬台国畿内説を批判するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 >>893
>弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
朱丹は禁句! @阿波 其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 𤝔 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
錦って絹織物で、倭から倭錦や異文雜錦を贈ってますよ
卑弥呼の都が在ったなら周辺から絹織物が出土するはずですね。 >>898
3世紀の絹織物が出土してるのは北部九州だけなんですけど。 >>897
>其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹 木𤝔 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
> 錦って絹織物で、倭から倭錦や異文雜錦を贈ってますよ
そうですね。 倭国(阿波)から、丹や倭絹を送ってますね。 絹も織っていたんでしょうね。 @阿波 メモメモ
この「極」が、淮南子: 時則訓 の「東方之極」の「極」なんだよ
「使驛所傳、極於此矣」は
「使譯の傳うる所、此に於いて極まる。」
要するに、情報が伝わってきた(得られた)ところはここが限界=「極」ってこと
東の世界の端を南に行ったところに「黒歯國」があって、
南の世界の端を西へ行くところに「裸国」があるからね
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「?齒民」、玄股民、毛民、勞民; メモメモ
記紀では伊都國は村扱い(在筑紫國之伊斗村也:仲哀記)で、
國造すら置かれていないような地域
國造ではなく県主レベル(筑紫伊覩縣主祖五十迹手:神功紀) メモメモ
端山古墳 墳丘長78.5メートル周濠を含むと全長は約99メートル
築山古墳 墳丘長60メートル周濠を含むと全長は約105メートル
>大きい古墳だから住民の多いところには
>作れないという話をしてるのだが?
畿内の大古墳と比べたらちゃちいものだが、
かなりの面積をつぶさないと作れないだろ?
住居いくつ分になるかな?
でも、伊都國中枢に作ってある
これらが、伊都國王家筋の墳墓
これと比べても平原1号墓はしょぼい
そんなのを卑弥呼の墓と言い張るのが惨めにならないんだからすごいよな メモメモ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え
四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある
オレは纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
これ全部、弥生時代だよな?
北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ? メモメモ
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ メモメモ
魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
どちらかは間違いだね
隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね
旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」
大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね メモメモ
魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読
北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか
この時点で、伊都国にある平原1号墓が卑弥呼の墓というのは、ありえない 残念だったな九州なんて嘘吐いても直ぐにばれるよなw
グクれば一発で3世紀の絹織物が出土してるのは北部九州だけって分かる。 メモメモ
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない メモメモ
黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「?齒民」、玄股民、毛民、勞民;
そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。
魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない
墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」
そして東の端を南へ下っていくと「?齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる
こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らかだな >>915
大笑い
それ、安本のトンデモページじゃないかww >>906
>纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
>これ全部、弥生時代だよな?
は?
古墳時代だろ。 >>920
最古の絹も北部九州だし
人に難癖付けないで自分で調べてみろよ
3世紀頃まで絹は北部九州だから。 陳寿は実際には邪馬台国はおろか、倭国にすら行ってない。
他者からの伝聞をまとめただけ。
三国志が正史として認められたのは唐代に入ってから。
過去の「文献」にはどの程度当たれたのだろうか?編纂時はあくまで私撰、帝の命を受け…という類のものではない。
魏史は公務として来訪したわけだから当然、記録は残して奏上しているだろう。
しかし、旅程など軍事機密に当たる部分もあるだろうから、陳寿が全ての公文書に目を通せる立場にあったのかどうか?
三国志成立は280年以降とされるから、東夷伝の編纂はそれ以前、実際に倭地に足を踏み入れた人物も存でおかしくない時代。
当事者への直接取材がメインだった可能性も否定できない。
記憶をもとに口述されたものを記録、であれば数値や方位が曖昧であっても不自然ではない。
大まかな出来事に相違はないだろうが。 メモメモ
地の果てまでが萬二千里というのは、>>2で淮南子の数字を出しているが、
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている メモメモ
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元 >>907
>無い物をどうやって贈ったんだよw
無いものは遅れない。 当たり前。
そうですね。 倭国(阿波)から、丹や倭絹を送ってますね。 絹も織っていたんでしょうね。 @阿波 >>926
>出土例は?
丹はあるけど絹は無い。
丹と絹を送っているので、絹も織っていたんでしょうね。 @阿波 >>928
>願望かよw
絹が出ようが出まいが、倭国(阿波)にとって、どうでもいいんですよ。
もう、倭国(阿波)の根拠、腹いっぱいだから。
少し、分けようか? @阿波 >>929
阿波説は願望のみで出来てるってことですね
分かりますw 邪馬台国論争でトンデモな事言いだす奴って、歴史学とか考古学とかじゃない、門外のバックグラウンドな奴が多いよね。
古田武彦だって本業は思想史だし。あとは地元の郷土史家とか、作家とか。宮崎康平もアマチュアだし。
歴史学者や考古学者が気付いてない着眼点を持つ俺ってSGEEEEEEEEEEE!とか思ってるんだろうか。
みんなどこか、あすかあきおの匂いがする。 考古学だけしかやってる奴が
おかしな畿内説とか言い出すよりマシな史論だけどね。 >>932
>考古学だけしかやってる奴が
>おかしな畿内説とか言い出すよりマシな史論だけどね。
これ、日本語か? 普通の日本人が書く普通の日本語に翻訳すると
考古学だけしかやってない奴が
言い出したおかしな畿内説より
よっぽどましな仮説だけどね
くらいかな
>>932は、もっと自然な日本語が書けるようになれるといいね >>935
うるせー まだ日本語に慣れてねーんだよニダ >>931
中国古代思想に関する話題で専門家(中国古代思想史・古代文学の専門家)に
自分の妄想のみを論拠に異議申し立てする基地害とか、むちゃくちゃだよねね 普通の日本人が書き下しを読んだり、漢文の心得がある奴が読んだりした程度では
「史書からは邪馬台国の位置は比定できない」が結論だよ。
だから考古学的検証がメインになる。
ネイティブの古代漢語話者が読めばまた違うのかも知れないが。
文献的なアプローチだと「魏志のみの記述では存在確認できない」わけだしね。
後代の書は基本的に魏志の引用だし、比較文書が無い。
山本勘助だって、甲陽軍鑑のみの記載では存在すら怪しい、市河家文書、真下家文書あってもなお「軍師だったのかどうかはわからん」のが現評価だろうが。
魏志を頼りに比定が可能だと考えるのは、歴史学からはむしろ真逆のスタンス。 考古学的に畿内説といっても、三角と古墳は単なる年代詐欺だしね。
纒向からでたのは銅鐸とか桃の種、紅花とかばっかり愚にも付かないものばかり。
これで結論ありきじゃないとかあきれるわ >>940
>だから考古学的検証がメインになる。
>魏志を頼りに比定が可能だと考えるのは、歴史学からはむしろ真逆のスタンス。
魏志を考古学的検証をした結果、ついに決着をみた。 それは「其山有丹」。 @阿波 >>942
年代詐欺と主張するくせに
詐欺と断定する根拠は上げない
これこそ詐欺 畿内説でないと困る方々が多いんでしょう。
もはや学問ではなく政治ですけどね。 三角縁を根拠に畿内に持ってくるのは少なくとも詐欺。
魏鏡でないものを下賜鏡と認めるのはどう考えても無理。 そもそも、陳寿が参考にしたと思われる文献の記録者自身が実際に邪馬台国に行ってない疑いが強いでしょ。
梯儁は印綬を携えた最VIP級公使だから卑弥呼に謁見できた可能性は高いが、その他は?
張政は「檄文を以て諭した」とあるんだから、会えてない可能性が高いね。謁見してたらそのように書くだろう。
●「自為王以来少有見者」 たぶん宗教的理由だろうが、そもそも会える人間は限られてる。一般郡史レベルでは無理だったのかも。日本の地方県の知事レベルではローマ法王にはなかなか会えない、みたいな感じか。
●「郡使往來常所駐」 の記述もそれを裏打ちする。中位以下の郡史は伊都国で足止め。
●それまでは、実測不可能な海路ですら「〇〇里」表記なのに、投馬国・邪馬台国に至って突如「〇〇日」表記になる。
隋書には「夷人不知里數但計以日」とあるんだから、日数表記は「倭人の距離」であって、魏史が計測したものではないことがわかる。
魏史が実踏してたらここは当然〇〇里でないと整合性が取れない。
つまり、魏志の原資料作者は「『投馬国・邪馬台国には』行ってない」。
伊都国で留め置かれ、そこからせいぜい徒歩圏内(100里)しか移動できてない。
原資料著者が見た「倭国」の文化習俗は伊都国からの移動が許された範囲内の事だから、これは「北部九州の描写」という事でいいだろう。 逆立ちしても邪馬台国畿内越を批判できないスレ
ww >>949
>そもそも、陳寿が参考にしたと思われる文献の記録者自身が実際に邪馬台国に行ってない疑いが強いでしょ。
後漢から魏にかけての公的記録を総合して書いているはず。
>張政は「檄文を以て諭した」とあるんだから、会えてない可能性が高いね。謁見してたらそのように書くだろう。
檄文は皇帝からのものでは?
>隋書には「夷人不知里數但計以日」とあるんだから、日数表記は「倭人の距離」であって、魏史が計測したものではないことがわかる。
その通り。
>原資料著者が見た「倭国」の文化習俗は伊都国からの移動が許された範囲内の事だから、これは「北部九州の描写」という事でいいだろう。
その上で卑弥呼に謁見しているはずだから、邪馬台国は九州北部。 >後漢から魏にかけての公的記録を総合して書いているはず。
根拠なし。
>檄文は皇帝からのものでは?
根拠なし。
>その上で卑弥呼に謁見しているはずだから
根拠なし。
いずれも「あり得ないとは言えない」が、それを「あったはず」と考えるのは難しいのでは。
陳寿が「邪馬台国に到達していない魏史」の資料を基にして編纂したと考えた方が、より多くの不自然点が合理的に説明つくでしょ。
対馬壱岐経由での半島-北九州の往来が魏晋以前から在ったのは確かだから、魏史ですらない民間人からの伝聞の可能性すらある。 >>953
>陳寿が「邪馬台国に到達していない魏史」の資料を基にして編纂したと考えた方が、より多くの不自然点が合理的に説明つくでしょ。
畿内説だから不自然になるだけ。
邪馬台国に到達していなかったら、どうやって国書とか金印を卑弥呼に届けるというのか。 >>954
>>949をよく読むといいよ。
梯儁は謁見できた可能性が高いと考えるのが自然だろうね。
でも、魏志は梯儁の書でもなければ、梯儁の記録を転記したという論拠はどこにもない。
陳寿は蜀漢-晋の人であって、魏史との直接的つながりを持たない。
梯儁の記録を基に書いたとしたら、里数表記と日数表記の混在が説明つかなさすぎるだろ。
梯儁でなくとも、帯方郡-邪馬台国を通してして到達した魏人の記録が原資料だとしたら、表記の混在をどう説明するの?
投馬国・邪馬台国に関しては「倭人からの伝聞」だとしたら自然だけどね。 >>942
>考古学的に畿内説といっても、三角と古墳は単なる年代詐欺だしね。
この言辞の方がごまかしなんだよな
弥生終末期にあたる卑弥呼の時代と古墳時代は、「古墳を作るかどうか」以外は
何も違いがない、連続した一続きの時代だ
大きな混乱の痕跡もなく、広い範囲で一斉に古墳を作り始める
この古墳を作る範囲が、そのまま倭国の範囲
九州説が主張する北部九州も、古墳時代初期から畿内大古墳の2分の1、
3分の1サイズで相似形の古墳を作り始める
その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ >>946
>三角縁を根拠に畿内に持ってくるのは少なくとも詐欺。
>魏鏡でないものを下賜鏡と認めるのはどう考えても無理。
三角縁神獣鏡の全量を下賜鏡だと主張している人は一人もいない
この書き方自体が捏造であり詐欺
逆に、魏との交渉を記念したものであるのは明白で、
それを記念する必要があるのは、魏との交渉をした当事者以外にはあり得ない
大陸からは三角縁神獣鏡は1枚も出ていないと言う人も多いが、
「三角縁」の「神獣画像」鏡は複数出ている
魏からの下賜鏡そのものは、発掘できない天皇陵治定の大王墓クラスの
副葬品だろう やはり九州が古墳時代に入る方が早かったんだな。敗北を知りたいものだ。 >>949
>張政は「檄文を以て諭した」とあるんだから、会えてない可能性が高いね。謁見してたらそのように書くだろう。
この時点で既に卑弥呼は死んでいたと考える人も少なくない
張政は、難升米を相手とする行為しか書かれていないように見える >>949
>魏史が実踏してたらここは当然〇〇里でないと整合性が取れない。
自分でもこのすぐ上で「実測不可能な海路」って書いてるじゃないか
実踏していても、日数の方が距離感が伝わりやすいと考えれば、実測できない里程より
日数で記載されるのは特に不審はない >>958
>やはり九州が古墳時代に入る方が早かったんだな。敗北を知りたいものだ。
どうして九州説の人って、間違っているのが明らかなことでも、
負け惜しみで嘘を書くんだろう? 本当に不思議
那珂八幡古墳は、纒向石塚古墳をはじめとする纒向古墳群の纒向型前方後円墳の
模倣として、遅れて作られたもの
伊都国では、端山古墳がおそらく一番古い古墳だが、完全に古墳時代に入ってからのものだ
まあ、地域ごとの早い遅いは首長の寿命次第、死んだ順番ってのもあるけれど
定式化した前方後円墳が成立していく過程が、纒向遺跡の領域であとづけることができるし
九州の古墳は明確にその後追い
九州が前方後円墳祭祀という葬送儀礼において、纒向に本拠を置く畿内勢力に
完全に追随しているのは明白だよ
その直前に、九州に畿内と独立した勢力があって、畿内の勢力を隠して、魏王朝を騙して、
倭王として魏皇帝と交渉したっていうのは、どう見ても無理があるだろう
現実を見なよ >>956
>その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ
その倭国の中心は「阿波」 @阿波 >>960
>やっと記念鏡を国内で作らせたことを認めたか。
500枚もあるんだから、仿世鏡が大部分なのは当たり前だろう
やっとどころか、ずっと前から誰も疑ってないぞ
そして、魏から親魏倭王に除せられたのが九州王朝なら、
「なぜその記念鏡を作ったのが『九州王朝ではない』のか?」
一番簡単な答えは、九州王朝なんていうものはなくて、
親魏倭王に除せられた卑弥呼も九州にいた王ではない、ってことだ
これが一番シンプルで分かりやすい >>953
>陳寿が「邪馬台国に到達していない魏史」の資料を基にして編纂したと考えた方が、より多くの不自然点が合理的に説明つくでしょ。
それこそ不合理。
それならわざわざ里程など書かない。
本当にそんな国(邪馬台国)があるのかどうかを確認するためにわざわざ使いを立てていたのだから。 >>955
>梯儁の記録を基に書いたとしたら、里数表記と日数表記の混在が説明つかなさすぎるだろ。
>梯儁でなくとも、帯方郡-邪馬台国を通してして到達した魏人の記録が原資料だとしたら、表記の混在をどう説明するの?
里程は帯方郡から始まっている。
日程も帯方郡からだとすれば、なんの矛盾もない。
ああ、畿内説だと矛盾するのか。
里程が九州北部で終わっているからなw >>956
>九州説が主張する北部九州も、古墳時代初期から畿内大古墳の2分の1、
>3分の1サイズで相似形の古墳を作り始める
>その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ
卑弥呼の死後に大きな変化が生じたと考えればいい。 >逆に、魏との交渉を記念したものであるのは明白で、
それを記念する必要があるのは、魏との交渉をした当事者以外にはあり得ない<
記念した鏡なんでしょ?(笑) >>962
>その直前に、九州に畿内と独立した勢力があって、畿内の勢力を隠して、魏王朝を騙して、
>倭王として魏皇帝と交渉したっていうのは、どう見ても無理があるだろう
何が無理なのかわからんな。
むしろ、畿内が九州の頭越しに中国と交渉できるわけがない。
特に、大和は貧困弱小地域だったし。 >>949
>魏史が実踏してたらここは当然〇〇里でないと整合性が取れない。
>自分でもこのすぐ上で「実測不可能な海路」って書いてるじゃないか
そうだよ。実測不可能な末盧までの海路ですら里数表記してるという「事実」がある以上、記録者が邪馬台国に達していれば伊都国-邪馬台国間に海路があっても里数で表記するのが自然なわけ。
投馬国以降はそれを「しない」か「できない」理由がある訳だよね。
その理由は投馬国以降は倭人の伝聞情報(日数表記は倭人の習慣)で、記録者の魏人は実際の位置は知らない、とするのが一番自然なわけ。
仮に北九州に邪馬台国があったら、伊都国から徒歩圏内=実測・里数表記可能だよね?
なぜ「あえて」里数表記しなかったの?それまでは日数表記してないのに突如「日数表記の方が距離感が伝わりやすい」と思ったの?
倭人対象の報告ではなく、魏人を対象とした報告のはずなのに?
正確性はさておき、投馬国に至る前は「方角・里数表記」の法則性があるのに、投馬国以降はあえてそれを放棄する理由を教えてくれたまえ。 >>964
>そして、魏から親魏倭王に除せられたのが九州王朝なら、
>「なぜその記念鏡を作ったのが『九州王朝ではない』のか?」
畿内が九州の末裔だからだよ。 >>972
>正確性はさておき、投馬国に至る前は「方角・里数表記」の法則性があるのに、投馬国以降はあえてそれを放棄する理由を教えてくれたまえ。
投馬国は南九州だから行っていない。
邪馬台国(奴国、伊都国)への帯方郡からの総日程を書くついでに挿入された。
だから、投馬国への日程には陸路がない。 畿内の古墳の2分の1、三分の一の相似形のものを後から作ったのではなく
九州の古墳の2倍3倍の相似形のものを畿内で作った、が正解。 三角縁全てを中国製だと考える研究者は増えてるよ
学問オンチの九州説信者はともかく
畿内説論者は最新の学問の動向にもアンテナ立ててようぜ >>975
答えになってないなw
帯方郡からの総日程という珍説を披露する奴は確かに居るが(論拠は無いが)、それを以て(連続式なら不弥国、放射式なら伊都国)からの方角・距離を記載「しない」理由にならんよ。
仮に帯方郡からの総日程だとしたら、総里数記載(萬二千餘里)がある以上、不弥国or伊都国からの里数と「併記」でないとおかしいよな?
なぜ、併記せずにそれまで一貫してた方角・里数表記だけ放棄したの? >>976
だよね。
小さいものからだんだん大きくなるよね。
最初にいきなり大きい墓が作られて、それを模倣して小さいものが作られたというのが畿内説だもんな。
おかしいだろ。 >>978
>なぜ、併記せずにそれまで一貫してた方角・里数表記だけ放棄したの?
途中の里数に余りがあるから、合計するとほぼ一万二千里と考えられたんだよ。
単純合計で1万里は確実に超えているから、残りは100キロくらいしかない。
途中の誤差を勘案するとほぼ奴国付近で里程は尽きている。 このように
九州説の根拠は倭人伝の我流読みだけ
畿内説を批判する能力がない >981
あほか。
倭人伝冒頭に
「倭人在帶方東南大海之中」とちゃんと倭は帯方郡の「東南」にあると記載してるわけで。
当然、
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」と「南」と明言している以上は帯方郡からの位置ではないことは明らか。
東南か南か、どっちが正しいんだ?
同じ方角を、ある時は東南と言ったり南と言ったり適当なのか。
それとも、邪馬台国は倭国内には無い、別の国か。
そもそも帯方郡から真南は東シナ海だが。
そのへんの小島に邪馬台国を比定する説も無くはないが、トンデモの域を出ない。
また、萬二千餘里記載部分には「自郡至女王國、萬二千餘里」ときっちり書いてあるんだから、整合性的な意味では水行〜部分にもその旨注釈を入れるだろうね、普通。
水行〜部分を「帯方郡から」と仮定すると、辻褄の合わないところがさらに増えるだけ。 >>979
小さいものからだんだん大きくなってますが?
箸墓は完成形で大きい
それが三世紀半ば 前漢鏡の内行花文鏡はかなり小さいよ。
平原まで数百年かけて大きくなった。
卑弥呼の時代がピーク。 大型化に象徴的な意味があるとしても、進化や新しさとはあんまり関係ないな。
奈良の大仏は最大級だけど、だからといって鎌倉仏より新しいという事にはならない。 >>955
>でも、魏志は梯儁の書でもなければ、梯儁の記録を転記したという論拠はどこにもない。
梯儁の記録があったから梯儁のことが書かれているに決まっているだろ。
書かれているという事実が根拠だ。
お前、頭悪いだろ。 梯儁が記録した木簡は存在しただろうよ。公使なんだから。
しかし、陳寿がそれを見たという根拠はどこにもない。
お前、頭悪いだろ。 >>972の「実測不可能な末盧までの海路ですら里数表記してるという「事実」」と
>>981の「途中の里数に余りがあるから、合計するとほぼ一万二千里と考えられた」が、
互いに相容れないのは分かるかな?
実測していない数字を根拠に、比定地を探してもどこにも行き当たらないよ
実測不可能なところは、「つじつま合わせの作った数字」なんだよ
そして、萬二千里は、邪馬台国までではなく「女王国」まで
そして、魏志倭人伝の旅程は、後漢代の古い記録と魏使の報告による新しい記録を
ごちゃ混ぜにまとめてある
そこにさらに、世界の端まで萬二千里という淮南子にも書かれている中華世界の世界観と
倭国は儋耳朱崖の近くの南の国という思い込みを混ぜ込んで魏志倭人伝は書かれている
おそらく後漢代の帥升等の朝貢時で既に万里の彼方からの朝貢とされて、
対馬海峡を渡るまでが一萬里になるように数字が作られていて、
そこに末慮国−伊都国間ではない東南陸行五百里が付けられて、
計算が合わなくなって水行と陸行が日数表示になったまであってもおかしくない
まあ、北部九州から千三百里で魏晋里で畿内まで届くので特に問題はないと言えばないけれど 三国志は書かれた当初は私撰史書
陳寿は役人だけれど、公務で三国志を撰述した訳ではない
正史と認定されたのは、唐代になってから 都合の悪い記録を次々と無視する口実を見つけなくてはいけない畿内説。 >>990がたぶん正解に近い。
個人的には萬二千餘里は当時の中華的世界観による創造数値という説には賛同する。
が、倭人の住まう地という意味での「倭国」という概念があって、その中に女王統治下の「女王国」がある。
さらに、「女王国の首都」が邪馬台国。萬二千餘里は広大な「女王国」西端までの距離と考えれば他の里程記載との一応の整合性もある。
邪馬台国まで萬二千餘里とはどこにも書いてない。
女王国西端はおそらく奴国、一般的な比定では春日市あたり。大宰府の可能性もあるか?
伊都国は、「女王国以北」の属国あるいは同盟国。女王国の出張所が置かれた。
女王国西端であるところの奴国の南には敵対勢力として狗奴国があり、狗奴国=熊襲=熊本説には確証がないものの、有力ではある。
魏志倭人伝からは、他のクニはさておき、『邪馬台国の』比定は不可能。
位置情報は倭人からの伝聞であると思われる「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」しかないし、信頼性に疑いのある魏側の数値より、さらに輪をかけて信頼性が低い。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。