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★★ 邪馬台国は【葛城】である【2】 ★★
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0001日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 23:08:01.19
邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。

10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。

これで邪馬台国論争は終了する。
行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。

2015久住編年でもこれが最有力。

そして卑弥呼の時代=庄内0式まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
驚くべき怠慢、惰弱。

わしは探した。
ほらトヨもヒミコもいた。

I崇神(310年)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津        E孝安
トヨ津        D孝昭
トヨ津    (250年)C懿徳 
ヒメ踏鞴        B安寧
ヒメ踏鞴        A綏靖
ヒメ踏鞴  (200年) @神武 

神武から6代孝安まで宮は葛城である。
つまり魏志に書かれた女王国とは葛城王朝であった。
0010日本@名無史さん
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2017/10/30(月) 21:38:58.27
>>7
>葛城 登美王家の初代、天日方奇日方命の御妹君。
>父君は出雲帝国の第8代スクナヒコ(副王の称号)で有った八重波津身命。(後、事代主神/大物主神/少彦名命/金比羅神)

初代の父が8代目とか、おかしいだろ。
都合のいい権威付けするなよ。
出雲分家の9代目の末裔である豪族の妹だろ。

で?
長髄彦も登美の王だったなら、イスケヨリ姫は姪にでも当たるのか?
叔父殺しの仇と結婚したのか?
0011日本@名無史さん
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2017/10/30(月) 23:35:11.61
現天皇家以前の出雲王朝が実際何代続いたかは分からない。
四隅突出墳墓で判断する限り弥生中期からは存在したようだ。

スサノオが出てくるのはちょうど日本に文字文化が出来た時代。
出雲や筑紫で楽浪の硯が出てきた事でも分る。

古代出雲王権はスサノオのはるか以前から続いていたのではあろう。
0012日本@名無史さん
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2017/10/30(月) 23:38:33.58
>>6
俺は和泉在住だが何でここがクナ国なんだか、アホだろおまえ。

このあたりは物部。
久米物部(岸和田)田尻物部(泉南)二田物部(泉大津)の土地。
0013日本@名無史さん
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2017/10/30(月) 23:39:44.18
記紀神話?

□□真道という人物、
その人物自身の話だと書いてあるけど
0014日本@名無史さん
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2017/10/30(月) 23:41:14.64
>>4
それ御所な。

おまえの大好きな福岡よりはマシだがなw
田川には泥棒部落があるそうじゃないか、
下品だね、福岡はwww
0016日本@名無史さん
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2017/10/30(月) 23:58:03.39
クナ国は物部氏なんだけどな
0017日本@名無史さん
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2017/10/31(火) 00:02:14.63
>>14
田川は福岡というより旧豊前だよ。
霊峰英彦山と香春三山があり、銅鏡の材料である銅を産出する要所。
香春宮は香椎宮や高良宮と並ぶ古代の王宮だよ。
無知なカッペが適当なことをほざくじゃない。
0018日本@名無史さん
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2017/10/31(火) 00:03:24.97
>>16
根拠なし。
狗奴国は熊本だお。
0019日本@名無史さん
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2017/10/31(火) 00:03:52.90
かなり後の時代になり

これは合っていない、
これはデタラメなど言いながら

自分自身の手で整理、
編集したという話なのかな
0020日本@名無史さん
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2017/10/31(火) 00:04:01.14
>>11
>スサノオが出てくるのはちょうど日本に文字文化が出来た時代。

根拠なし。
0021日本@名無史さん
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2017/10/31(火) 00:16:15.80
真道というのは何者なの、
アニメの神様と同じような存在?

「真道」ググってみると、そんな感じがする
0022日本@名無史さん
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2017/10/31(火) 00:32:54.24
職 官位 地位 神位
というもがあるけど

相当しない
と言われている人物がいるという話

位、それ以上の存在がいると
0023日本@名無史さん
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2017/10/31(火) 01:33:21.87
なかなかスレが進まないではないか。
書けば書くほどボロが出るから書けなくなったか。
0024日本@名無史さん
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2017/10/31(火) 08:28:04.88
>>20
出雲・田和山遺跡
三重・大城遺跡

ともに2世紀前半。

見事な根拠。
0025日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/31(火) 08:31:16.21
クナ国は久努國、今の静岡の磐田・袋井。

その北が奴国。
那古、つまり名古屋。
0026日本@名無史さん
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2017/10/31(火) 08:41:08.86
わしが昔デパートにいた時の朝礼での課長の話

「今年も九州から泥棒村の皆さんが来られてるようです。
さっそく大丸さん、そごうさんが被害にあわれてるようです。
綺麗な服を着た福岡弁の人たちに気を付けてください」

福岡wwwwwwwwww
0027日本@名無史さん
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2017/10/31(火) 09:01:25.96
愛知に人面土器が集中。
https://goo.gl/vaV8aa

この鯨面集団は相手を威圧する戦士モノノフ。
なぜ愛知に集中してるか。
静岡にあった狗奴国対策だ。

これらの戦士モノノフの棟梁はウマシマジ。
今も名古屋の味鋺神社に痕跡を残す。

邪馬台国の切れるところにある奴国とは那古つまり名古屋である。
0028日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/31(火) 10:41:45.51
>>26
福岡の女に振られた腹いせか?
0029日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/31(火) 11:41:39.92
このスレは名古屋が福岡に喧嘩を売っているのか。
奈良では勝負にならないが、名古屋は手強いぞ。
どちらも政令指定都市だしな。
食い物はどっちが美味いかな。
個人的にはひつまぶしが好物だ。
0030subo
垢版 |
2017/10/31(火) 18:37:36.19
名古屋は味噌煮込みうどん
0031日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/31(火) 18:58:11.82
猫舌なんです。
0032日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/01(水) 09:27:05.29
>>29
名古屋の台湾ラーメンもうまいが、
やはり博多ラーメンであろう。
この前千日前に開店した風龍に行ったが、
替え玉2杯無料なので替え玉2杯、計3杯食べたら気分が悪くなった。
0033日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/01(水) 11:41:30.24
>>26
昔は朝鮮人部落とか各地に在ったよな。
0034日本@名無史さん
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2017/11/01(水) 12:49:22.92
>>33
戦後の朝鮮人部落なら生野、関東では川崎?

昔、7世紀の朝鮮人部落(亡命百済人)が大阪では被差別部落になっている。
大阪の被差別部落が全部がそうではないが複数の被差別部落がルーツを亡命百済人とするようだ。

差別の問題は意味が大きいのだ。
なぜなら倭国王帥升の連れた160人の生口、
これは2世紀には王権の近くにかなり大きな俘囚郷があったと推定されるからだ。

九州の差別問題は白村江の移配俘囚や黒田藩が姫路から連れて来た皮工をルーツとする以上、
弥生時代に大きな王権があったとは言えないのだ。

俘囚郷のあった大きな王権と考えられるのは葛城だ。
この地の俘囚郷が20世紀の「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ」の解放運動の聖地になるわけだ。
0035subo
垢版 |
2017/11/01(水) 17:26:22.17
>>34
生口とは食人用奴隷なんですね、ベジタリアンは美味しいとか

年中生野菜食べてる連中は美味しいそうな
0036日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/01(水) 17:42:58.21
>>35
古今東西、世界中どこにも奴隷がいたわけだが、
王が彼らを所持してたわけで、
それにしても帥升の連れた160人というのはとてつもない数である。
彼らは王都にいて王直轄の俘囚としか思えない。

王都と俘囚郷が両立してるそんな場所、思い当たるところが九州にないだろう。

それらは大和朝廷発祥地の葛城にしかない。

高天原(御所市高天)から芦原中国(御歳神社=中鴨)を経て、
根の国(鴨都波神社=下鴨)に至りさらにその先、黄泉の国。
解放運動の聖地だ。
0037日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/01(水) 18:23:53.25
王都と俘囚郷が両立してるそんな場所、思い当たるところは九州しかないだろう。

筑紫邪馬台国と筑後狗奴国は筑後川を挟んで対峙していたからな。
0038日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/01(水) 21:31:44.07
佐賀邪馬台国と熊本狗奴国の境界は矢部川
0039日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/02(木) 00:41:05.70
>>37
具体的にどこだよ。
言え。
0040日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/02(木) 00:57:13.66
畿内説スレでこんなうれしい事言ってくれた人がいる


209葛城在住2017/11/01(水) 15:34:55.92>>222
>>200,207
天才的な謎ときに感激しました
他に御手持ちの資料をご開陳下さい
0041日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/02(木) 10:11:37.23
https://goo.gl/vaV8aa


この設楽氏の図では東海に多い鯨面土器は「2世紀から4世紀」と書かれてる。
ちょうど倭國大乱から狗奴国との争いの時期だ。

クナ=久努、久能、狩野、つまり静岡の磐田・袋井。
三遠式銅鐸の最終集積地。
奴国とは伊那恵那、または那古、名古屋であろう。

この鯨面戦士モノノフの末裔、やはり今も愛知に多い。
鈴木イチローとか。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/02(木) 10:52:46.92
その鯨面土器も忌部一族(久米一族か)が全国にもたらしたもの。

神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。
久米一族については、石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。
一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっている。
一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。
さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。
まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。
0043日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/02(木) 12:21:53.64
>>42
面白いね。

久米氏は列島原住民の1つ。

クメール人ということで
元大陸にいた形跡がある。
0044subo
垢版 |
2017/11/02(木) 22:56:04.17
クメール人はユダヤか
0045日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 01:36:06.75
>>42
阿波さんの話は間違えてるのにも関わらず妙に説得力がある。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 07:10:47.61
阿波説は圧倒的に引き出しが多いからね。

鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
0047subo
垢版 |
2017/11/03(金) 13:47:12.66
犬神でも四国の阿波
0048subo
垢版 |
2017/11/03(金) 13:48:23.46
埋蔵金でも四国の阿波
0049日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 19:38:21.36
そもそも大和には移配俘囚が存在しない。
ならば大和の俘囚は7世紀以前から存在したということだ。

また葛城には土蜘蛛と思われる国栖(くず、くにす)に関わる地名の被差別郷もある。

つ弥生時代に俘囚郷があり王権があったのは葛城だ。

帥升ことスサノオは葛城にいた。
今も日本最古の高鴨神社に祀られている。

その後、王権は移動していない。
魏志の2世紀前半の其国の男王から3世紀後半のトヨまで王権は葛城にあった。

邪馬台国とは葛城だ。

ヒミコとはヒメである。
後にヒメ踏鞴五十鈴媛と表記される人物である。
0051日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 20:20:29.58
率川神社の境内には大和国・添上郡鎮座とされる式内小社の「率川阿波神社」があります。
祭神:事代主命
宝亀2年(771年)に藤原是公(これきみ)が阿波国から勧請

なんで?
0052日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 20:38:41.53
「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 阿波国勝浦郡「生夷神社」

「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 阿波国阿波郡「事代主神社」
0053日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 20:45:27.03
>>51
先週、率川神社に行ってきた。
式内小社の「率川阿波神社」がある、確かに。

なんでなのか知らんwww
0054日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 20:55:36.76
そこらにある神社 全部阿波からの勧請だから。
0055日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 21:33:19.04
>>54
多分、阿波ゆかりの祭祀集団・忌部の影響であろう。

同じ銅鐸族ではあろうが、
高天原(御所市高天)にある日本最古の高天彦神社や高鴨神社とは直接関係がない。
0056日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 21:48:03.17
御所市高天の高鴨神も、阿波国加茂の鴨神社からの勧請である。 
0057日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 21:48:54.50
聖徳太子廟から竹内街道を通り当麻へ。
北上し、穴虫峠から大阪へ。
天気も良く楽しいドライブだった。

当麻は河内と大和を結ぶ要衝であることを実感。

魏志倭人伝当時、河内の狗奴国に対する重要な前線だったんだろうね。

恐らくそれを任されたのは九州南東部投馬国出身の神武だったんだろう。
0058日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 22:15:10.14
>>56
>御所市高天の高鴨神も、阿波国加茂の鴨神社からの勧請である。

わしは太古の王権が出雲から高天原(御所市高天)に移動したと考えている。
が、その途中で阿波に王権が一時期「あった」としても良いと思っている。
実際、淡路の松帆銅鐸のルーツが出雲の加茂岩倉だ。
阿波にもルーツが加茂岩倉である銅鐸が出ている。

したがって別段反論はない。

ただし、2世紀前半から3世紀後半までの王権は葛城(高天原=御所市高天)にあった。

魏志に書かれた邪馬台国は葛城(高天原=御所市高天)である。
0059日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 22:18:13.04
>>57
>魏志倭人伝当時、河内の狗奴国に対する重要な前線だったんだろうね。

だ〜〜か〜〜ら〜〜…
なんで河内に狗奴国があるんだよこのボケイ!
0060日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 22:23:03.71
>阿波にもルーツが加茂岩倉である銅鐸が出ている。

「淡路」といえば「阿波」
淡路の松帆銅鐸も出雲の加茂岩倉銅鐸もルーツは「阿波」
0061日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 22:42:22.93
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&;id=1000038521

質問
「一切経」の中に、「倭国、発音はウワという。東海の海のなかにある小さな国である。身体に朱色の丹を塗っている。」との記述がある資料がある。「大正新脩大蔵経」に入っているか。

回答

「大正新脩大蔵経」「卍新纂續藏經」等の全文を検索できる[仏教典籍検索]( http://www.kosaiji.org/~kyoten/ )を
〈倭国×朱〉という語で検索すると、13件ヒットする。(最終検索日:2007.11.22)
これらを順次見ていくと、「T54n2128_p0908c21-01,一切経音義巻第九十七 T54n2128_p0908c23-01」
というものがある。
これは「一切経音義巻第九十七」からの出典であることがわかるので、表示されたURLをクリックし、
内容を見ていくと、以下のものがある。

「T54n2128_p0910b11-(),倭国(烏波反郭注山海経云倭国在帯方東大海内以女為俗無針工以丹朱塗身也説文亦東海中国也従人委声)」

この文章が質問の内容に一致する。冒頭の記号「T54n2128_p0910b11」は『大正新脩大蔵経』第54巻資料ナンバー2128のp.910、b段の11行を指す。
資料1の該当部分を確認したところ、同じ文章が掲載されていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
阿波は前方後円墳の発祥地である。
神話のイザナギとも関わっているのであろう。
また四国には宇和島もある。
これはウワ島であろう。

どういう事なんだ四国。

しかし阿波は邪馬台国ではないw
0062日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 22:46:54.22
>わしは太古の王権が出雲から高天原(御所市高天)に移動したと考えている。

「出雲」といえば「阿波」
淡路の松帆銅鐸も出雲の加茂岩倉銅鐸もルーツは「阿波」
0063日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 22:48:23.70
>わしは太古の王権が出雲から高天原(御所市高天)に移動したと考えている。

「高天原」といえば「阿波」
淡路の松帆銅鐸も出雲の加茂岩倉銅鐸もルーツは「阿波」
0064日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 22:57:40.57
>>62


あのなぁ…www
0065日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 22:58:12.35
>>58
この所論、全くもって妥当である。全面的に賛意。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 23:06:30.09
葛城一言主が
土佐に遷座した流れは、極めて重要なことだと思ってます。

一口に阿波といっても吉野川の南北で違う勢力があり得たと示唆する@阿波氏の所見とあわせると

四国にゆかりもないので調べられる手がかりがないのだが、この土佐への遷座は
今で言う宮崎まで影響した可能性がある。
宮崎現地にこの痕跡は見つかると大事件なのだが、、、

なお、葛城から紀ノ川沿いにも
ナガという地名があるはずなので
阿波の長なのか紀ノ川沿いのナガなのか
文献史料は注意して解釈する必要がある。

もしかすると河内の池上曽根遺跡の近くかも知れない。土地勘がないのが悔しい。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/04(土) 07:19:02.33
一言主とは何者か。

雄略天皇が葛城で一言主神に出会う。
ここまでは記紀も続日本紀も同じ。
したがってこれは史実であろう。

神とは古代の高貴な人。
雄略は葛城でこの地の主に出会った。
その人物が「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と言った。

何の事か。
この数年前、雄略がまだ大泊瀬皇子であった時に眉輪王の変が起きる。
そしてこの地の豪族・葛城円大臣(葛城 襲津彦の孫)が雄略に焼殺される。
土地も娘も差し出すと懇願する葛城円を雄略は焼き殺した。
これらは事実であり、極楽寺ヒビキ遺跡として近年発見される。

普通、火事では火を消そうとするから柱に水が掛かって全焼といえども根元は残ったりするものだが、
この極楽寺ヒビキ遺跡は土まで焼けている。火を消そうとした痕跡が全くない。
燃えるがままに見ていたという恐ろしい遺跡だ。ここで葛城円が焼き殺された。
雄略天皇が葛城で出会った一言主神はこの事件をもちろん知っている。
したがって「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神」とは、
意訳すれば「おまえのとんでもない悪事を知ってるぞ、言ってやろうか」という恫喝であろう。
それに対してはさすがの雄略も怯んだ。

しかしながら一言主が土佐に流されたという続日本紀の記述も土佐一宮が存在することからも事実であろう。
これは「今回は流刑だけで済ましたがそれ以上言い続けるとどうなるか分っているな?」という雄略側からの逆恫喝かもしれない。

この少しあと、葛城から出てきたのがあの蘇我だ。
蘇我のバックボーンには葛城の凄まじい怨念があったのは言うまでもないであろう。
0070日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/04(土) 08:26:23.02
阿波国鳴門には「葛城神社」がある。
「葛城神社」は鳴門市北灘町粟田に鎮座し,一言主神(ヒトコトヌシノカミ)をご祭神とする。
縁起文中にある「藤葛にて馬がつまづき神は落馬され…」とあるが、注文すべきは「藤葛」というキーワード。
列びは前後逆になるが「葛藤」という言葉がある。
「葛藤」とは「藤原氏」と「葛城氏」の因縁から生まれた言葉。
「葛城神社」には境内に古墳があったり、古代の遺物が発掘されている。
そして背後の天円山一帯は特に重要な地域で、古代史に詳しい人は「萩原墳墓群」をご存知であろう。  
因みに、「藤原氏」(中臣氏)の本貫地は鳴門市の西隣、板野郡板野町である。
神武天皇と戦った長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。
また、「蘇我氏」の本貫地は徳島県石井町にあり、そこには「曽我氏神社古墳群」や奈良に先行すると思われる「白鳳寺院跡」および「白鳳瓦窯跡」が確認されている。

土佐国流刑については、「土佐一宮土佐神社」のご祭神が「一言主神」であることから,神は何かの政変によって土佐国に赴任させられたのかもしれない。   @阿波
0071日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 09:51:36.78
その神武東征の参謀役となった速吸の門(鳴門海峡)の大人・宇志比古尊が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。

何の縁も所縁も無ければ、こんなところに 「宇志比古尊」をわざわざ祀るはずがないのである。   

こんな事実を示せるのは、なぜか倭国(阿波)だけ。
0072日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 10:08:06.49
>>70
>「葛城神社」には境内に古墳があったり、古代の遺物が発掘されている。
そして背後の天円山一帯は特に重要な地域で、古代史に詳しい人は「萩原墳墓群」をご存知であろう。 

萩原墳墓(前方後円墳)ならむしろ磯城の纏向古墳群と関わってるはず。
纏向古墳群のルーツとも言えるであろう。

しかしそれと葛城は別。
葛城は前方後円墳文化ではない。
むしろ天然の山を墓域にするのが葛城。

磯城勢力(間違いなく物部)がいくら立派な箸墓古墳を造ろうが神武の畝傍山の威容を越えない。
その神武の畝傍山も背後にある高天原=高天山(金剛山)の威容を越えない。

やはり太古の王権は高天原=高天山(金剛山)にあった。
ヒミコの墓域(径百余歩)の御神域もある。
0073日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 11:20:17.45
「高天原といえば阿波の山岳集落」

阿波では古来より、県西部の剣山系山岳集落を指して「空・ソラ」と呼ぶ。

まさに、高天原「空・ソラ」の地である。

四国の阿波には、美馬郡一宇村に「天磐戸神社」 名西郡神山町に「天岩戸立岩神社」 2社が鎮座している。

いずれも、いかにも高天原然とした山深い処に鎮座する。

一宇村 「天磐戸神社」  http://ohara98jp.exblog.jp/23714547/

神山町 「天岩戸立岩神社」 http://yukitukihana.jimdo.com/%E3%81%94%E8%BF%91%E6%89%80%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8%E7%AB%8B%E5%B2%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE/
0074日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 11:22:51.75
奈良葛城は本家阿波のコピーですので、悪しからず。   @阿波
0075日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 11:41:06.60
王と奴隷は表裏一体。
古今東西、世界中どこにも奴隷がいたわけですが、
それにしても倭国王帥升の連れた160人というのはとてつもない数です。
倭国王帥升のいた王都には巨大な俘囚郷があり、今も痕跡を残してる事が想定されます。

謂れのある王都と大きな俘囚郷が両立してるそんな場所、思い当たるところが九州にない。
九州の差別問題が白村江の時代の移配俘囚の蝦夷や、
黒田藩が姫路から連れて来た皮工をルーツとするようなので、弥生時代からあったとは思えません。

謂れのある王都と大きな俘囚郷が両立してるそんな場所、それは大和朝廷発祥地の葛城にしかない。
葛城には国栖(くず くにす)と関連する被差別地域があります。
おそらく太古の土蜘蛛の末裔でしょう。

高天原(御所市高天)から芦原中国(御歳神社=中鴨)を経て、
根の国(鴨都波神社=下鴨)に至りさらにその先、黄泉の国。

帥升ことスサノオの連れた生口の郷は20世紀解放運動の聖地になりました。
0076日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 11:42:07.49
>>74

wwwww
0077日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 12:14:34.32
>>76
西へ向かって拝礼!
0078日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 13:26:38.59
>>75
土蜘蛛も国栖も、もともと九州のものだろう。
近視眼的すぎる。
筑紫倭国なら、狗奴国をはじめとして周りにいくらでも奴婢にできる域外の住人がいた。
0080subo
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2017/11/04(土) 13:55:37.17
北部九州の倭國大乱で負けたら奴婢になった
0082日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:13:02.61
奴婢になるのが嫌で畿内に逃げ延びた。
0083日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:13:39.71
興味深かったので転載する。

出雲の伝承では、宗像家は出雲帝国の西王家、神門臣家から分家独立したタカアタス命が初代で
宇佐の地に都したと言います。

近畿の葛城に初めて?移住して分家独立なさったのは
世代でいうとカタアタス命らから三〜四世代後。
出雲帝国の東王家の富家/向家の八重波津身命(いわゆる事代主/大物主)の御子、天日方奇日方命らが母親の生玉依媛命の実家の摂津の三島(高槻市辺り)に母子共々に移り、
後に葛城に出雲人や三島からの人らを連れて移住して
登美家(富家)を号して盤拠したのが端緒のようです。
妹君には媛踏鞴五十鈴姫命 と五十鈴依媛命がいたと言います。
少し後に、その葛城の登美家を頼り出雲から西王家の神門臣家の多岐津彦(父は高彦/味耜高彦根命)らが葛城の南部に移住してきて
高賀茂家を号して分家独立。

葛城のこの出雲から移住して分家独立した登美家と高賀茂家をひとからげに葛城のカモ族と呼ばれるようになって、、、
(王族を神族と奉り、神をカモと発音していた所以)

遡って、宗像家初代のカタアタス命には三人の女御が座して、
長女の多岐理媛命は出雲の東王家、富家の天の冬衣命(第7代オオナモチ(帝王))に嫁ぎ
八重波津身命他を生みます。

また、次女の多岐津媛命/神屋楯媛命/高津媛命は出雲の本家、西王家の神門臣家の八千戈命(第8代オオナモチ)に嫁ぎ(いとこ同士の結婚)
高彦(味耜高彦根)ほかを生みます

八千戈と八重波津身の治世の御代に秦人がやってきて出雲帝国をかき回して乗っ取りを謀り、お二方はほぼ同時期に賊のてにより殺害されてします。
この渡来人等との共住を忌避して出雲人が領有した各地に移住した中の一つが上の近畿の葛城(大和)地方。

時代は紀元前3世紀終わり〜同2世紀頃、中国の秦末から前漢の半ば頃に比定出来るカモです?
ただ、伝承の言うところの世代数と時代にかなり開きがある事が、、、??
0084日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:17:51.21
>>83
それ、だれの作文?
0085日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:21:16.68
知らんが、このスレで断片的に語られていたことが、よくまとまって説明されている。
また、ヒメタタライスズヒメが卑弥呼などではないことも、よくわかる。
0088日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:34:58.83
>>85
>ヒメタタライスズヒメが卑弥呼などではないことも、よくわかる。


その程度の短文では論破されない。
そこのところよろしく。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/04(土) 15:35:12.88
福岡の西王家、出雲の東王家があり、どちらも渡来した秦人により引っかき回されたと。
その秦人が天孫族なら、話がいろいろ辻褄があう。
そして、畿内のカモ族は東西両方の出雲の国津神の末裔であった。
筑紫においては邇邇芸が、畿内においては饒速日が、天津神として国津神の上に君臨していたのだろう。
神武が畿内にたどり着いた時、登美のカモ族の長である長髄彦が饒速日(の子孫)を祭り上げていた。
天津神より格下である国津神(大物主)の都美のヒメタタライスズヒメが、倭国を統べる女王にはならない。
しかも、畿内にいた天津神も国津神も、倭国の中枢である筑紫や出雲における戦乱を忌み嫌い落ち延びてきた者たちばかりだった。
0090日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:38:08.22
>>78
>筑紫倭国なら、狗奴国をはじめとして周りにいくらでも奴婢にできる域外の住人がいた。

「いた」のはいいがどこにいたのかが問題。
福岡の奴婢郷で弥生時代にまで遡れるほど古い集落はあるのか?
それ以前に福岡では王権の場所さえ判明していないではないか。
つまり論外なのだ。
0091日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:41:04.85
>>90
>それ以前に福岡では王権の場所さえ判明していないではないか。

はあ?
弥生時代の王墓は福岡にしかないだろ。
0092日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:41:23.66
>>89
天津神・国津神などは3世紀には存在しない。
7世紀に「神話」を創作した際の概念。
アマテラスも創作されたわけだから。
0093日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:43:02.32
>>91

平原かい?
帥升は平原にいたってわけ?
160人も輩出できた奴婢郷はどこよ。
0094日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:44:50.17
ヒメタタライスズヒメとナガスネヒコの関係はどうなっていたんだ?
ヒメタタライスズヒメは、自身のカモ家の指導者を殺した相手と結婚したことになる。
まあ、訳の分からん問答が残っているから、無理やりという訳ではないのだろうけれど。
お互いにラブラブっぽかったし。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/04(土) 15:46:12.02
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世給I)、奴国と考bヲられている須給濶ェ本遺跡(紀血ウ前2〜1世紀)bェあり、
血繧ノ高祖山をはbウんだ西側の糸涛平野に移動しbト伊都国とされb骼O雲南小路遺瑞ユ(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/04(土) 15:46:32.24
>>92
議論についてこれない者の言い訳。
0097日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:50:20.12
弥生時代の王権は大和にしかないのだがね。
九州の平原は防人さんの墓。
だから4世紀5世紀になってもワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳など3基の小さな墓しかないよね。

なんでそんな所がなんで「王権」になるんだろ、カッペさんはいい加減にしてくれ。
0098日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:51:01.50
>>93
帥升の時代は、考古学的には伊都国の繁栄期だよ。
奴婢など、周りの地域からいくらでも連れてくることができる。
もっと後になっても、九州のどこそこのナントカという者が人々を攫って働かせているといった話は、記紀や風土記ではむしろ頻出だよ。
0099日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:51:15.05
>>96
議論でなくておまえの妄想だからついていく必要はない。
0100日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:51:46.50
【墳丘墓の分布】
弥生時代の墳丘墓、古墳のある遺跡数
一つの遺跡に複数の古墳あり
奈良は関西の中でも特に少ない

筑紫国
 福岡県 1945件
肥国
 佐賀県 415件
 長崎県 224件
 熊本県 166件
豊国
 大分県 310件
熊襲国
 宮崎県 145件
 鹿児島県 109件

大和国
 奈良県 198件
山城国
 京都府 616件
摂津国他
 兵庫県 638件
0101日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:54:00.38
>>98
王権にとって奴婢は必要不可欠な存在。
だから平原に王権があったというなら160人も輩出できる奴婢郷を示してくれ。
そうとう大きな奴婢郷になりはずだ。
できないなら王権があったと認められない。
0102日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:54:40.71
奈良県は畿内の中でも特に田舎
0103日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/04(土) 15:56:44.34
>>100

弥生時代の墳丘墓って大和では纏向石塚以前にはない。
つまりゼロだ。

そのいい加減な数字のソースを言え。
嘘を垂れ流してるんじゃねぇぞ、zarakokuかおまえは。
0104日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:57:14.38
>>95
それ、だれの作文?
0105日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:58:06.70
>>101
だから、直轄地(福岡県、長崎県、佐賀県)以外の周りのすべての土地、例えば熊本県や大分県、山口県などはすべて奴婢の供給元になる。
平原遺跡そのものが、100人の殉葬を伴っていたと言われる。
160名の奴婢を運ぶ輸送能力は、対馬海峡を支配していた九州北部勢力ならではだよ。
畿内の海のない県の鄙びた姫には、奴婢を中国まで運ぶなんて、無理無理。
0106日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 15:59:58.86
>>103
>弥生時代の墳丘墓って大和では纏向石塚以前にはない。
>つまりゼロだ。

ますます大和が邪馬台国から離れていくな。
では、それ以前は奈良盆地は完全な無人の荒野か沼地だったのか?
ひどい話だな。
0107日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 16:00:50.80
>>100
弥生時代の墳丘墓が奈良に198件なんてビックリ!

何という墳丘墓なのか1つでいいから名前を言ってもらおうか。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/04(土) 16:02:59.59
>>105
供給元なんてどうでもいい。
奴婢は王権の傍にいるものだ。
平原の王権とやらの俘囚郷を提示できなければ話にならない。
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