邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part9
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水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読することができます。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1506174654/l50 里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。 「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
周旋とは次の経路
奴國→不彌國→斯馬國→已百支國→伊邪國→都支國→彌奴國→好古都國→不呼國→姐奴國→對蘇國→蘇奴國→ 呼邑國→華奴蘇奴國→
鬼國→爲吾國→鬼奴國→ 邪馬國→躬臣國→巴利國→支惟國→烏奴國→奴国
参問とは問を集めることで、倭人から聞いた情報に基づくもの
実際には周旋してないので五千餘里は魏使が倭人の話を基に計算した推定の距離
五千餘里の計算方法は
末廬國→伊都國→奴国→不彌國までの各距離 500里、100里、100里で平均距離700/3里を出し
遠回りの不彌國〜奴國の国の間数である21倍し(4900里)
最後に奴国〜不彌國100里を足したもの。 世有王
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが適当。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼である。
それ以外が主語の場合には「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、自女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率を使い支配したのである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国の都(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い伊都国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都国より東にあったら、この文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち自女王国以北(女王国を含む)は伊都国から北であり、自女王国とは伊都国を指している。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼である。
それ以外が主語の場合には「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、自女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率を使い支配したのである。
女王国が伊都国より東にあったら、この文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
即ち自女王国以北は奴国から北であり、自女王国とは女王国の中で最大の国邑の奴国を指している。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「奴国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い奴国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。 神武東征は6世紀くらい
九州からの関西等への東方植民活動は何派もあり
最後に大和地方を手に入れたのが神武である
最後に入植した神武は製鉄技術を持っていたのでその後の入植を許さず
東方で強大化できたのである
ヤマト朝廷の系譜は神武に始まる欠史八代と天武だけであり
残りの天皇は九州倭国の天皇で崇神は九州倭国の初代天皇。 帯方郡から女王国まで万二千里、行程,水行10日陸行1月
水行10日(一万里)で末蘆国、末蘆国から伊都国経由で陸行1月(二千里)で吉野ヶ里
水行は一日航海千里の規定を適用 周旋可五千餘里とは末蘆国から伊都国の東まわりで二千里
長崎の西回りで三千里、合計五千里 邪馬台国の開祖は徐福である
平原広沢とは佐賀平野のことである 已百支國(伊万里)
伊邪國(諫早 伊佐早)
對蘇國(鳥栖)
支惟國(香椎)
對馬國(対馬)、一大國(壱岐)、末廬國(松浦半島)
伊都國(糸島)、奴国(福岡市の一部)
國の大きさはこんな感覚でしょう。 已百支國(佐世保、九十九島含む)
伊邪國(平戸本国、五島分国) 邪馬台国、伊都国、伊邪国は徐福(イザナギ)一族直轄の国である 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 【卑弥呼の王宮の候補】
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 【伊都国】
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。
伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。
伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
そして後漢の頃には考古学的な倭国の中心は福岡平野の奴国から糸島平野の伊都国に移動しており、後漢書の倭奴国とは、魏志倭人伝の伊都国のことであると考えられる。
伊都国が卑弥呼のいた倭国の都である。 本居宣長なら名前の似ている帥升がスサノオではないかと仮定してみたでしょう。
ならば卑弥呼も邪馬台国も1分で解けたはず。
朝貢年
266年 台与 アマトヨツ
・
238年 卑弥呼 ヒメタタラ
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
ところがこれは言えません。
日本の歴史が最高神スサノオの中華皇帝への土下座から始まることになりますから。
「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」(本居宣長)
だから「馭戎概言」において、九州熊襲による偽僭説を提唱しました。
つまり世論誘導です。
新井白石が大和から九州に変えたのも同じ理由でしょう。
たった1分で済んでた話を本居や新井の世論誘導により300年も論争してきたという事になります。
というわけで本居が仕掛けた「ごきぶりホイホイ」に捕まって身動きできない九州説の皆さん、こんにちは! >1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡
当時の糸島半島は、根っこの部分に海が入り込んでいてほとんど島のように分離していた
志摩郡=現糸島市の北半分+福岡市西区の北西部
つまり、島状にほぼ分離していた糸島半島のことを、嶋郡=斯馬国と呼んでいた
島状の斯馬国の南西に、小さく伊都=現糸島市の南半分
高祖山を隔てて東に巨大な奴国
伊都の西に、唐津湾〜東松浦半島を中心とした末蘆国
さらに西に、「伊」万里湾〜長崎県北部を中心とした己百支国
長崎県南部の要衝が、伊邪国=「伊」佐早=諫早
有明海大村湾橘湾に面して長崎半島と島原半島の双方に接続する
女王国から東は海なのだから、
不弥国は現北九州市の範囲でなければ辻褄が合わない。
その内陸に香椎=支惟國
>9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
蘇に対する地点という意味なのだろうね。 甕棺墓の分布していた地域とそれ以外では発展の度合いが違っただろうから
行政区分も差があったのだろう。
甕棺領域は比較的細かく行政区画が分かれ、長官をヒナモリが補佐。
甕棺領域外は比較的大きめに行政単位が取られ、ミミタリやハナタリなど。 >>28
北部九州の倭國が朝貢したのである
本居宣長はトンデモである トンデモにトンデモ呼ばわりされて草葉の陰で嘆いてるだろうなw 江戸時代は考古学的知識が少なかったから、ある程度はしょうがない。
ただ、我々よりは漢籍に親しんでいただろうに、結局は史書を歪曲して捉えるような結論に達してしまった。
それはやはり畿内説という先入観があったからだろう。
かように、畿内説は高名な学者すら足を踏み外させてしまうのである。 本居宣長は思想家だから、個人的感情で歴史を語ってはいけない
歴史の真実が曇る 委奴国王はOh!クニヌシっしょ。
政権が続いているのなら金印は志賀島細石神社いずれにせよ
破棄放置されることなくもっと警護の厳しい場所に秘匿されていたはず。
親魏倭王も卑弥呼で記紀には出てこない。あとは倭の五王もあるけど
現統は金印では冊封されてないね。
それがいいことなのか悪いことなのかは視点による。 >>36
だから、細石神社に厳重に保管されていたんだろ。
戦国時代までは、広大な社領を持つ大社だったらしい。
戦国時代以降、多くの寺社や貴族が衰退したんだよ。
それは多くの文化財の散逸も招いた。
細石神社は残ったが、江戸末期までには安全に金印を保管し続けることができなくなり、なんとかして表に出してしまおうとして志賀島で見つかったことにしたんだろうね。
おかげで今日まで伝えられることになった。 >>39
細石神社そのものについては否定しないよ。
けど、金印なんてのは漢籍に記載された超重要な日本最古の冊封威信材なわけでしょ。
現に現代日本でも国宝指定。
もし金印を貰った政権がずっと続いているのなら、国宝級の家宝として
もっと大事に保管し続けたはず。
細石神社を没落させないだろうし
没落するならするでその時に引き取るはず。 >>40
>もし金印を貰った政権がずっと続いているのなら、国宝級の家宝として
筑紫倭国は何度も王権が交代しているし、倭国そのものが7世紀には滅亡してしまっていたら?
江戸時代まで保管されていただけでも奇跡だよ。 >筑紫倭国は何度も王権が交代しているし
そこが問題なわけ。
ってことは、細石神社が保管していたとしても、
金印を入手したのが三雲南小路の王様では無かった可能性もあるってこと。
あと、倭国が滅亡して、例えば日本国になったとして、
国家権力が欲しがるものの中に金印は必ず入るでしょ。
伝世銅鏡とは比べ物にならない、世に一つの逸品なのだから。
細石神社が保管しているなら必ず献上させる。 >>42
>金印を入手したのが三雲南小路の王様では無かった可能性もあるってこと。
?
年代的に三雲南小路の王が手に入れていたはずだよ?
そこに、実は細石神社が保管していたという話がちらほらと出てきたわけだよ。
>伝世銅鏡とは比べ物にならない、世に一つの逸品なのだから。
>細石神社が保管しているなら必ず献上させる。
確かに権力者は欲しがっただろうね。
だから江戸時代まで保管できたのは奇跡なんだよ。
もう漢が滅びて何世紀もたったから気にしなくなったのかもされないけどね。
その辺りの事情はわからないよ。
神主一族の忠誠心の高さ? >>43
三雲南小路の王が金印を入手して、
細石神社が江戸時代まで金印を保管していたのであれば、
金印はずっと伊都にあったことになるから、
当然平原女王の卑弥呼は漢委奴国王金印を保持していたことになる。
239年に卑弥呼が魏から親魏倭王金印を入手する。
卑弥呼の手元に、漢委奴国王金印と親魏倭王金印の両者が揃っていたことは確実なわけだよね。
卑弥呼の次の男王そして壹與までは同一政権であるわけだから、
壹與も漢委奴国王金印と親魏倭王金印の両者を持っていたことになる。
魏が265年に滅亡。
西晋が266年に成立。
壹與は266年に晋へ朝貢したとされている。 ここで問題なのが、基本ルールとして、
金印は王朝が交代すると、前王朝から貰った金印と交換で
新規発行されるということ。
同一条件を当てはめるなら、
「交換が必要な場合」
卑弥呼が魏に朝貢したのだから、
手元の漢委奴国王金印と引き換えに、親魏倭王金印を貰い、
壹與も晋へ朝貢したのだから、
手元の親魏倭王金印と引き換えに、親晋倭王金印を貰うことになるはず。
けれども、現実には漢委奴国王金印が日本に残っているから
このパターンは現実に破綻している。
「交換が必要ない場合」
卑弥呼は魏から全く新規に親魏倭王金印を貰い、
壹與も晋から全く新規に親晋倭王金印を貰った。
この場合、壹與が親晋倭王金印を貰う貰わないに関わらず、
壹與の手元には漢委奴国王金印と親魏倭王金印の両者(+親晋倭王金印)が揃っていたことになる。
漢も魏も滅亡しているから、価値としては両者とも同等。 考えられるパターンとしては、
「交換が必要な場合」
漢委奴国王金印は須久岡本の王が貰い、倭国乱その他の何らかの戦乱で
志賀島へ埋められた。
卑弥呼は魏から親魏倭王金印を新規発行してもらい、
壹與は晋と親魏倭王金印⇔親晋倭王金印を交換してもらった。
「交換が必要ない場合」
漢委奴国王金印は三雲南小路の王などが貰い、
卑弥呼は漢委奴国王金印に加えて親魏倭王金印を貰った。
漢委奴国王金印は三雲南小路の王墓を祭る細石神社に保管され、
親魏倭王金印は平原女王墓を祭っていた神社に保管されていたが、
神社ごと滅びたか、神社ごと移動したか。 ルール上は、「交換が必要な場合」 のようだから、
細石神社に漢委奴国王金印が保管されているのは妙だな、と言っているわけです。 >>47
漢から魏への王朝交代は武力で滅ばしたのではなく
禅譲だから魏から新たに印を貰う場合
漢から貰った印は返す必要がなかったんだよ
魏から晋への王朝交代も禅譲。 >>47
>金印は王朝が交代すると、前王朝から貰った金印と交換で
>新規発行されるということ。
これはどういう根拠があるの? >>8
帯方郡から女王国までは距離が万二千里
掛かる時間が水行20日と水行10日陸行1日
>>9
周旋可五千餘里とは奴国から奴国まで
>>10
崇神天皇は九州倭国の歴史からの盗用
>>11
天武天皇はヤマト朝廷の事実上初代天皇 >>47
>ここで問題なのが、基本ルールとして、
>金印は王朝が交代すると、前王朝から貰った金印と交換で
>新規発行されるということ。
他国でも金印が出土するので、そのルール絶対ではないよ。
むしろ、卑弥呼は最初の朝貢で、あの倭奴国の倭国の女王ですよという証明として、金印を用いたのだろう。
魏は漢から禅譲されており、漢の外交関係を継承していることを呉などに対して正統性の根拠としていたのだろう。 >金印は王朝が交代すると、前王朝から貰った金印と交換で新規発行されるということ。
これ放伐の場合だろうな、前王朝から貰った金印を持ってると前王朝にまだ従ってることになるから、新王朝に忠誠を誓う証拠に前王朝から貰った金印を放棄するってことでしょうね。 あの倭国がまた来たけれど、大乱があったという話も聞いている。
金印を使って国書も認めてあるけれど、本当にそうなのか確認してこい、ということで、張政らが派遣されたわけだ。
そうしたら、後漢から伝えられた通り、帯方郡から一万二千里の彼方に王都があり、楼閣高くして兵が厳かに守っていた。
礼節を知る人々が、卑弥呼の元で暮らしていた(食事はまずい)が、隣国と長らく闘争していた。
これは確かにあの倭国が存在していたのだということになったわけだ。 その昔、倭人は呉の太白の末裔を名乗っていた。
呉の王家は変わってしまったとはいえ、倭が呉と通じることは魏にとってはまずいわけで、倭をしっかりと自分たちの側に引き入れておかなくてはいけない。
実は卑弥呼については、呉の太白の末裔の姫氏(肥国王権)との噂もあったので、ますます魏としては味方にしておかなくてはいけなかった。
そんなところであろうか。 魏使の来た時は狗奴国と戦争状態だったので平地の宮殿ではなくて
防御の堅い山上の城砦に卑弥呼の宮殿があった可能性が高い
伊都国、奴国内の適地を見てみると高祖山が最も好都合だと考えられる ※数字は実際に生きてたであろう年代
崇神天皇陵=行燈山古墳=4世紀初頭から前半
I崇神(310年)
H開化 G孝元
F孝霊
トヨ津 D孝昭 E孝安
トヨ津 (250年)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
つまり魏志に書かれた女王国とは葛城王朝であった。 >>58
その通り。
そして狗奴国王は神籠石で防御した筑後の城にいた。 『新唐書』
『其王姓阿毎氏 自言初主號天御中主 至彦瀲 凡三十二世 皆以「尊」為號 居筑紫城』
『王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。』 魏志倭人伝で狗奴国の官の名前は菊池彦とある。
狗奴国は熊本で、菊池城が狗奴国の城。
邪馬台国の城は基肄城と大野城の名が邪馬台国の傍国の名前に見られる。
これら三城は古代の九州北部で最も重要な城として知られている。 >>67
>邪馬台国の城は基肄城と大野城の名が邪馬台国の傍国の名前に見られる。は基肄城と大野城の名が邪馬台国の傍国の名前に見られる。
疑念
@「邪馬台国の城」では無く、
景初二年(238年)以前は「倭の城柵」で、
景初二年(238年)以後は「倭國の城柵」と考えるのですが?
A基肄城と大野城は、其餘旁國21ヶ国のどの国を指しますか?
女王國は、「自郡至女王國萬二千餘里」であることから、
12000餘里以遠の国々を指すことになります。
12000餘里以遠の国々とは、道里12000餘里にある「奴國」「不彌國」と、
その南にある「投馬國」と最南にある「邪馬壹國」の4ヶ国を指すこととなります。
「自女王國以北・・・・其餘旁國遠絶」であることから、
其餘旁國21ヶ国は女王國以北になります。
「其南有狗奴國」であることから、女王國より南には狗奴國しかありません。
>狗奴国は熊本で、菊池城が狗奴国の城。
3世紀に鞠池城があったかどうかは別にして、間違いないでしょう。
狗古智卑狗は菊池の出身でしょう。 魏志倭人伝の使節は伊都国までしか行ってないんだろ?
なら話は簡単だ
地理は軍事機密だから倭人がヤマトの都の位置を嘘ついて教えたんだろうよ
魏が裏切ってヤマトを攻めた時に、魏の艦隊が南海で遭難するように東を南と偽った
ヤマトの中央官僚にそれだけの政治的知性があったということさ >>69
>魏志倭人伝の使節は伊都国までしか行ってないんだろ?
「東南至奴國百里」「東行至不彌國百里」
奴國へは行程を示す動詞がないので、魏の使節は行っていません。
奴國と伊都國の位置関係を示しているだけです。
不彌國へは行程を示す動詞「行」があるので、魏の使節は行っています。
帯方郡から伊都國経由不彌國までの魏の使節の行程が12000餘里となります。 >>69 ザラコクは、zarakokuではない。
最近zarakokuを見かけないが、
持病が悪化したのか生きているのか? 彼は73才のはずだが。 >基肄城と大野城の名が邪馬台国の傍国の名前に見られる。
へえ。どこに書いてあるの?
その根拠は?
663年の白村江の戦で滅亡した百済人が亡命してきて作った
7世紀の山城を
4百年もちょろまかすとはいい度胸だねw 箸墓の数十年でギャーギャー喚く口が
自説になると400〜500年遡らせようってか
さすがダブスタ九州説 >>68
>@「邪馬台国の城」では無く、
>景初二年(238年)以前は「倭の城柵」で、
>景初二年(238年)以後は「倭國の城柵」と考えるのですが?
魏志倭人伝そのものが、あまり厳密に定義せずにいろいろと言い換えをしています。
個人的には、帥升以降は倭国という認識です。
魏は漢の倭国への承認を継承しています。
>A基肄城と大野城は、其餘旁國21ヶ国のどの国を指しますか?
【邪馬台国の周辺の国】
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市) あれもこれも全部7〜8世紀以降ということになっているのは、あからさまにおかしいと思いませんか?
白村江云々にしても、すでに敗戦が確定してから城を作るはずがない。
そもそも、唐や新羅と戦うのなら、博多より内陸の大野城や基肄城がなんの役に立つというのか。
後からこじつけた説明でしょう。 >>74
>19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
>20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
根拠なし >>75
あれもこれもってどれのこと?
白村江で敗戦して、北から攻めてくる唐新羅への備えが基肄城大野城
狗奴国は南から攻めてくるのに同じ城で守ってたの?
基肄城大野城の位置だと筑後平野は火の海だけどw 閑話休題
天智六年に築かれた倭国の高安城は瀬戸内海からの進入に備えたもので、当時天智天皇の大津宮が四国の阿波にあったからこそ屋島に城を築き、
烽(とぶひ=狼煙)によって通信が容易にできるその奥の脇の峰(大滝山)に城を築いたものと考えられる。
そのことから「倭城(わき)」から美馬郡脇町の名の興りがあった可能性が高く、その他、天智紀に高安城に塩や米を運び込むとあるのだが、大滝山の北麓には「塩江」の地名も残されている。
昔から瀬戸内海から淡路島周辺である阿波の玄関の監視に充てられていた場所のようだ。
昔から瀬戸内海から淡路島周辺である阿波の玄関の監視に充てられていた場所のようだ。
ちなみに取り壊した倭の高安城の資材は大倭(奈良県)に搬出して再利用されている可能性が高い。 @阿波 神崎、鳥栖の肥前国と筑前国の国境や
大牟田荒尾の肥後国と筑後国の国境は
戦死遺体や武器の出土が多い。
最前線のせいか、鉄鏃や鉄剣などや
それらを加工したと思われる
鉄縡などが多く発見される。 >>77
>白村江で敗戦して、北から攻めてくる唐新羅への備えが基肄城大野城
>狗奴国は南から攻めてくるのに同じ城で守ってたの?
ほら、おかしいでしょ。
時代によって役割が変わった可能性もあるけれど、白村江で負けてほぼ勝敗は決したので、もはや九州北部に城を作って守る意味はなくなるんだよ。
狗奴国と戦っていた時は、伊都国を守るためにちょうどいい位置だった。 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 >>80
白村江で負けて朝鮮半島領土を失ったから、
次は九州北部を死守するために城が必要なんだろうが!
基肄城と大野城の配置から見て、
伊都や博多湾は戦場として消失することを覚悟の上で
絶対防衛ラインを築いたことになる。
だから7世紀のその時点を持って、北部九州から政権中枢機能の一切が移動されたのだろう。 >>80
基肄城と大野城の配置は、
筑後勢力に対して、伊都を守るのにはちょうど良いな。
伊都vs筑後なら説明はつく。
(どちらにせよ7世紀の城であって馬鹿らしい議論ではあるが)
狗奴国が熊本勢力のみであるなら、
筑後を守り切れない。
よって、
福岡県vs熊本県であれば、そもそも根拠にならない。 >>83
当然、当時の前線は基肄城大野城と菊池城の中間あたりにあったのだろう。 7世紀の基肄城と大野城が、
北からの侵略に対して築かれたことは周知の事実。
南の狗奴国と2世紀3世紀に戦うのにも使われていた「考古学的根拠がない」し
戦略的にも方角が180度違うという問題点を指摘したら、
・基肄城と大野城が2世紀3世紀に使われていた証拠も呈示せずに
・基肄城と大野城が2世紀3世紀に使われていたことを前提として
>時代によって役割が変わった可能性もあるけれど、
>白村江で負けてほぼ勝敗は決したので、もはや九州北部に城を作って守る意味はなくなるんだよ。
>狗奴国と戦っていた時は、伊都国を守るためにちょうどいい位置だった。
このようなマッチポンプで適当な文章を書く。
つまり肥国王家を主張する輩はその程度ってことだな。 >>82
すぐに倭国は降伏して、太宰府まで乗り込まれている。
白村江で負けてもなお戦おう意味などなくなっていた。 >>84
だから基肄城大野城が3世紀にあった考古学的根拠を示せって。
示せなかったら全て空論だ。 ここは空論をたのしむところだからw そこんとこよろしく >>89
基肄城大野城が3世紀にあったというのは空論ってことだな。
邪馬台国論争から脱落〜。 おいおい
北部九州説は空論のくせに威張ってたのかw 「其山有丹」で、すでに邪馬台国論争から脱落しているでしょ。 @阿波 >>87
>太宰府まで乗り込まれている。
これ何に書いてあるの?
たった2000人で倭国を占領とか無理でしょ
郭務悰は終戦の話合いに来ただけ
唐と新羅は白村江の後に不和となり唐、新羅戦争が起きてる
今度は唐は倭を味方にしようとして薩夜麻を解放したんだよ。 「大野城」「基肄城」「鞠智城」は、698年に繕治したとある。
これは、文武大和王権が九州王朝の拠点城を占領したことを示している。 唐が一人勝ちしただけでしょ。
百済と倭を倒したら、新羅なんて大した敵にはなりません。
太宰府を二千人で占領されたら、行政機能を明け渡したのと同義でしょ。 唐が占領したと言ってみたり(唐書に占領将軍の記載なし
大和王権が占領したと言ってみたり
どっちやねんw >>96
太宰府をたった二千人で占領した?
終戦の話し合いに来ただけでしょう。
大野城、基肄城は太宰府とセットで造っれ
太宰府や大野城、基肄城は定居(611年)倭京(618年)頃の建設。 大和王権が大宰府を占領してたけど白村江の戦いで負けて近江にトンズラ
したんだよ 旧唐書劉仁軌伝
「仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭」
劉仁軌が新羅及百濟、耽羅、倭を支配した、とあるね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています