邪馬台国畿内説 Part309
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1513281843/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定すれば倭地は洛陽以北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里
楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里
南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30−1
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。 ◆FAQ 30−2
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 次のスレッドを作成しました。。。
邪馬台国畿内説 Part437
http://lavender.5ch...tory/1513316149/1-16
投稿は高いレベルのものも低いレベルのものも歓迎します。。。
荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 ◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。 次のスレッドを作成しました。。。
邪馬台国畿内説 Part437
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 ◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。 次のスレッドを作成しました。。。
邪馬台国畿内説 Part437
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邪馬台国畿内説 Part437
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 次のスレッドを作成しました。。。
邪馬台国畿内説 Part437
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投稿は高いレベルのものも低いレベルのものも歓迎します。。。
荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 ◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
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邪馬台国畿内説 Part437
http://lavender.5ch...tory/1513316149/1-16
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
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【追加・変更点】◆FAQ63を追加 次のスレッドを作成しました。。。
邪馬台国畿内説 Part437
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 次のスレッドを作成しました。。。
邪馬台国畿内説 Part437
http://lavender.5ch...tory/1513316149/1-16
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 前スレを荒らして終わったらこっちを荒らす
岡上は、自ら自分は既知害ですと宣伝してるようなもの こんなところで荒らしに血道をあげても学界の大勢を引っくり返せるわけでもないのにな
岡上の人生は無駄に消費され続けている 悪質な荒らしが湧いているようですね
分別かた宜しくお願いいたします 2002年頃の史板は九州王朝説がトンデモ扱いされてて、九州王朝とか伊達遠江守とか名乗る九州説のコテハンがdqn扱いを受けて叩かれてたな
時代が変わると全く逆の立場が主流になるのかと感慨深い。だから歴史は面白い 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆q8leUXpswが自演により多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演により多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、
実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ ◆prq8Tl5byw ◆CSZ6G0yP9Q ◆QkRJTXcpFI
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたときに他人を装う書き込みをすることもある。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻る卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないこと、
マスメディアで散々取り上げられる「土用の丑の日」を間違ったことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 いい加減に頭の病院に行けと言っているんだよ、
意味が解らないのか >>796
こんな、・・・・のような中傷しか出来ないくらい、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、衰退しました。 >>777
「南→東」などの史料事実を否定曲解する大和説は、
国民の支持も失って、もう終わってるよ。 >>779
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師の大和説は、
」史料事実には勝てないから、また「ヘイトスピーチ街宣」のトンデモに走る。 >>781
>相手を侮辱しても 回答しなくていいと言う 言い訳にならない<
この投稿子も含めて、
何回か回答して上げているのに、自分の大和説の説明をせずに、
相手に、不可知部分への、同じ説明や回答を執拗に執念深く要求して、
ヘイトスピーチをする人種たちは、
高慢でタカ派の殺人殺戮思考に狂ったたち・・・・である。 >>782
この大和説者のヘイトスピーチ投稿も、
自分の考えや説明を全く言わずに、口先で相手をヘイトスピーチしているだけであり、
論理的におかしいね。
皆もわかるだろう?。 >>785
>三国志での「長大」は、30歳〜35歳に使われており、<
>違うよ <生理的基準> 「長大」とは「成人年齢」のこと 男は16才、女は14才
<社会的基準> 論語・・・三十にして立つ→社会的成人、ただし男の場合
卑弥呼の場合は女であり、社会的基準ではなく生理的基準で言うべき <
「大」は、成人をいう。
だから「長大」は、「大が長い」つまり「成人になってから長い」事を示すのであり、
単なる「大=成人」であれば、「長」を付ける必要がない。
そして、卑弥呼の場合は、更に、「年已長大」と「已」がつけられているのであるから、
「長大」になってからも時間か経っていた、
という事になるから、
30歳台で適切。 >>786
>ここにもろに研究内容が載ってた。
http://1st.geocities.jp/wanotoiti/research/01.html
「年已長大」は単に元服以後の成人を示す。 20歳でも30歳でも40歳も全て年已長大。
第一、魏志倭人伝に「倭人は長生き」の記述がある。
「其人壽考、或百年、或八九十年」 「その人は長寿で、百年、あるいは八・九十年」<
魏使らが倭國に80〜100年間の滞在して確認出来た筈がない。
従って、「其人壽考或百年或八九十年」は、倭人からの伝聞情報であった可能性が高く、
「魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」に拠って、
「二倍年歴」の伝聞情報であった可能性が高く、一倍年歴では「40〜50歳」。
そして、240年に30〜35歳であって、248年に亡くなったんなら、
卑弥呼は38〜43歳で亡くなった、という事になる。 倭國亂の後に卑弥呼を共立したのであるから
後漢霊帝(168 - 189)の後に共立されたとしても
238年ころは40台だろ >>787
>其人壽考、或百年、或八九十年
その人は長寿で、百年、あるいは八・九十年
の「その人」とは卑弥呼本人のことを指してる。<
これは✖。
張政は卑弥呼が亡くなる時に倭にいたのであるから、年齢を聞けば判った筈であり、
そんな「百年、あるいは八・九十年」なんて書く必要がなく、
また、一般的な壽考ではなく卑弥呼の事なら、卑弥呼の死の説明の場所に書く筈。 東日流外三郡誌について教えてください!
九州倭国について書かれているのでしょうか >>820
>答えてるから畿内説の勝ちだな<
大和説者は、実質的な反論をしたり証拠を挙げをしたりせずに、
「南→東」などのように嘘を付いたり、
「証拠は?」と叫んでいるだけだから、
大和説の負けだな。 >>108
ウソ
実質的な反論をしたり証拠を挙げをしている
597日本@名無史さん2017/12/14(木) 21:47:34.47
一里が76mであれば、三千里差し引いて九千余里は684km余り。
郡から倭へは南南東方向位であり、南と殆ど変わらないから、南北としたら、
緯度1度は111km位だから、割り算して、南北緯度差は6.2度差。
帯方郡のあった沙里院は、ほぼ北緯38.5度付近にあるから、
倭國は、ほぼ北緯32.3度付近。
ほら、揚子江河口にはぜんぜん届かない。
260日本@名無史さん2017/12/14(木) 11:59:50.02
会稽東冶の東としているから
陳寿は1里が400m台のつもりで書いている
381日本@名無史さん2017/12/14(木) 16:19:55.70
会稽東冶は日本列島よりずっと南である
九州島到着まで倭人伝記載の方位には大きな誤りがない
よってそれ以降に書かれた方位には誤りがある
誤りとは南で、東が正しい
立証終わり >>859
>方位について スレ主は誤認としているが 誤情報が正しいと思う
スレ主は使者の誤認で突き通すのが筋だが 解明できない
いまさらスレ主に言っても無駄だが 正解は誤情報<
✖だな。
魏の役人たちや陳寿らが、三国志でも東夷伝でも倭人伝でも、
東西南北を間違えた例は皆無であるし、
文字形も、南と東は間違える可能性は全くない。 >>110
>東西南北を間違えた例は皆無であるし、
そんな断定ができる証拠は? 循海岸水行と書いてあるのに7千余里中1500里しか水行しない
東南陸行と書いてあるのに1kmも東南に行かない
そんな文献無視が古田説でしょう >>865
>東に「大体四千里」行ってたら まるまる12000里南へ行くことは出来ないな<
計算対象が違っている。
韓の方四千里に関係なく、郡〜狗邪韓國で七千余里。
そして方四千里の韓の対角線部分(東南方向)の5600里になるから、
余った1400里が「循海岸水行」の南行部分になり、
郡〜狗邪韓國で七千余里が、東南〜南南東方向になる。
それが陳寿の理解。 >韓の方四千里に関係なく、郡〜狗邪韓國で七千余里
そのうち3千里以降は東に進んでるから
南方向には4千里も進んでいない
1万2千里も南には行っていない
それが陳寿の理解 >>866
>>どう計算しても、(自郡至女王國萬二千餘里は)東南と南との間で、南南東。<
>なの南と書かれてるのは矛盾だね
やっぱり南水行は東遂行の間違いってこと<
南と南南東とは、殆ど差がなく、矛盾にならない。 自分で言ってる
868日本@名無史さん2017/12/18(月) 21:03:21.60>>280>>870>>873
陳寿の認識をもう一度書いて上げよう。
韓は、南四千里と東四千里。
そして、対角線の東南の直線距離は大体5600里のだから、
循海岸水行の南は(7千里から5600里を引いて)1400里。
海峡は南へ3000余里+アルファー(700里以上)であり、
陳寿は五百里の方向は不明で、後百里東に行って、不彌國から南に邪馬壹國がある。
だから、南は、1400+4000+3000+700=9100(里)。
東は、4000+100=4100(里)。 >>119
9100と12000
随分と差があるね >>870
>そして、線の東南の直線距離は大体5600里のだから、<
>乍南乍東で韓地階段状陸行と言ってたのに
都合で直線距離に切り替える二枚舌
古田説の詐欺現場ハケーン<
最初は、判り易いようなティピカルな説明〈階段状陸行)をされて当然。
しかし、距離計算では、くねくねの蛇行移動として、
きちんと対角線での近似計算をされていた
大和説者の曲解捏造の詐欺現場発見。 >>871
実際には大和説が嘘吐きダマシの詐欺をした、という事でした、とさ。 >>121
先にクネクネ階段状と言っておいて
あとでもっと不正確な直線距離にする方が
モロ詐欺なんでは? >>120
中身のない中傷してても反論にならないよ >>125
実際には帯方郡って、もっとずっと北なんだよね 古田先生ならアソベ族やツボケ族の
超理論で縮地法使えるから平気です! >>873
>>南は、1400+4000+3000+700=9100(里)。<
>ハイ 会稽までたどり着きません 短里はありませんでした 決着 <
ハイ。
短里なら、女王之所都の南方の水行二十日位の南九州が、北緯30度付近になって、
会稽東治之東に倭国が有りましたから、
短里は〇です。
しかし、福州の東には、倭國は全くありませんから、「東冶」説は✖ですし、
長里では赤道付近にまで行ってしまって、長里説も完全に✖で、決着が付きました。 >>131
女王が筑紫に居て、南九州の位置を推量するわけがないだろ
辻褄合わせの泥棒の考えだな >>1=奥村 と ザラコク 中心のスレ
二人は水と油 畿内説の議論は進まないのは
二人でほとんどレスを埋めてしまうから >>877
>一里が76mであれば、三千里差し引いて九千余里は684km余り。
郡から倭へは南南東方向位であり、南と殆ど変わらないから、南北としたら、
緯度1度は111km位だから、割り算して、南北緯度差は6.2度差。
帯方郡のあった沙里院は、ほぼ北緯38.5度付近にあるから、
倭國は、ほぼ北緯32.3度付近。<
これは、反論済みの投稿だな。
ほら、揚子江河口にはぜんぜん届かない。 >>135
だから短里じゃダメだよね
古田説破綻してる >>135
揚子江河口に届かないんじや、当然ながら会稽にも
届かない。
古田説不成立ですな。 >>131
>しかし、福州の東には、倭國は全くありませんから、「東冶」説は✖ですし、
それは逆で、方位や距離が間違っているって説なんだから、実際に東冶の東に倭国があったら✖で、無くて◯なんだが。 >>881
>「乍A乍B」は、 「しばらくAして、たちまちB」 中国語の普遍的な使い方 <
違うね。
「乍A乍B」は、
「しばらくAしたかと思えばたちまちB」を繰り返し反復する、
という事を示す構文。
例えば、
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/nagara.html
中国語の普遍的な使い方。 >>884
>>魏使らが持衰と倭船に同乗していた記載があるために否定され<
>そんな記事ないぞ 捏造するな <
「其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰」
の文は、魏使らが、行來渡海詣中國する時に、持衰を実際に見ないと書けない内容。
そして、その後に書かれた、
「若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹」
は、魏使らが乗った船は航海が巧くいったのだから、殺さずに済んだのであり、
だから、倭人からの伝聞記録として、「書き分けられている」。 >>885
>朝鮮半島の西海岸ぐらいは中国の役人も よくわかって把握していただろうから、
記述も正確に書かれているだろう。南と東の繰り返し反復という行程だね <
魏帝の詔書や金印や大量の下賜品を届けなくてはならない魏使らは、
西岸南岸の世界に名だたるの(セウル号も沈没するような)リアス式では、
するような)危険な沖合洋上航行を選択する筈がない。
また、循海岸水行では、歴馬韓歴倭地になってしまうし、
乍南乍東乍西乍北になってしまって、歴韓國乍南乍東にならないから、✖。 >>886
>>「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」という陸路コースを採った事が証言され、<
>それ、なんで陸路コースを採った証言ってことにされるんだ?<
「自昔」からの「倭と中国の既知の交通路」。
魏使らは、当然安全最短の原則で、
倭人か韓人の案内人を付けて、陸行路の道keiを通った。 >>147
それ、古田説だけだろ
他の人は全員ちがう >>146
大量の下賜品は洛陽で倭側に下賜済み、残念! >>888
>>歴韓國乍南乍東は、陸行になる。<
>って、んなアホな。陸上を しばらく南して、たちまち東 という歩き方せんだろ。
道沿いなんだから。<
当然、山越えは出来るだけ避けて、山の麓の道沿いになるから、
自然と、「歴韓国乍南乍東」になる。 >>146
セウォル号は3.6倍の過積載と重心位置が高くなる船体改造とバラスト水を抜いてたのが事故原因だろ
どこの海でも転覆するよ >>146
>乍南乍東乍西乍北になってしまって、歴韓國乍南乍東にならないから、✖。
そんなのはレトリックというモノが解っていない人の妄想だよ。
右顧左眄する人は後ろを見ないと言い張るが如し。
自分は馬鹿だと告白してるのと同じだ。 >>892
>逃げてばかりw<
大和説者らは、
皇国史観国粋主義にクルった・・・・の病人であるから、殆ど直る訳もなく、
説明したって、全く無駄であり、だから放置すべきであり、
だから、私は、世間の人々が、
これ以上大和説の・・・・に騙される人が出ないように、
世間の人々に説明しているつもりなの。 >>152
>当然、山越えは出来るだけ避けて、山の麓の道沿いになるから、
>自然と、「歴韓国乍南乍東」になる。
また実際の地理を知らないで思い付きデマカセを書いてるでしょ。
嫌でも山越えなんだよ。 >>898
>つーか、馬鹿すぎるので答えるのがアホらしくなってくる。
倭への道のりは、大まかにいって、遠いほど不正確で 近いほど正確な記述になる、という原則が生じている。
帯方に駐在している魏の役人にとって 半島の西側あたりは最も近いので
最も知っている範囲だろ。<
だから、魏や郡の役人も、韓人や倭人の案内人も、
危険な半島西南端危険の大回りで遠回り航路を選択せず、
「自昔」から使われていた百済→狗邪韓國の道kei路を使うの。 >>899
大和説は、理由が言えないだけではなく、
「南→東」などの嘘つき騙しまでするトンデモ説。 >>146
>また、循海岸水行では、歴馬韓歴倭地になってしまうし、
それも弁辰を否定して半島に倭地があったという特殊な古田思想ありき
世間の人には通用しない >>159が嘘ダマシの典型だな
理由も書かれてるし、嘘だという証拠もない >>904
「南→東」などの嘘つき騙しをして、「根拠は?証拠は?」ばかりで、
悪口しか言えない大和説者は、
敗北者。 >>919
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・ケダモノ大和説者は、無知丸出しだな。 >>924
>ちんじゅがいろんな資料でつぎはぎして仕上げた倭人条に
実は一カ所だけ里の表す長さが東夷伝里ちゃうのが混じってました
(周旋5000里(解決 <
このこのアル中さんに教えておこうかなあ(無駄かも知れんが
「一周」とか、「回り」とか文言のを使わずに、
わざわざ奇妙な「周旋」という言葉を使った、
という事は、「周旋」は、倭の地域の「縁をめぐり行く」「という意味であり、
12000−7000=5000の関係だから、
狗邪韓国から邪馬壹國の距離になるんだよ。 >>931
>現代中国どころか古田は日本でも素人か反日くらいにしか相手にされてないから問題外<
現代中国でも欧米でも、少しずつ古田説が広がって来ているの。
>最初の版本段階の北宋代の咸平本が残っていないからあらゆる可能性が考えられる<
それ、誰が宣伝したのか?は知らんが、
実際には、宋代以後の版本には沢山の系統本があったから、
それらの底本写本も別々であって、沢山あった事になり、
それらの全てが「壹」や「治」であった事になるの。
>裴松之にわからないのは裴松之が見た倭人伝に書かれた倭国の位置<
范曄の方が、もっと判っていない。
>後代史家が誰も東治を採用していない事実が一番大きい<
唐代史家と現代史家に、特にたちが悪い者が多い。 >>946
>倭人の船頭に聞いたんだろ<
倭人の船頭さんが、同乗している汚い風体の持衰の事を、
自分から魏使らに説明するもんか。
魏使らが「恆使一人、不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人」を見て、
倭人に聞いたから、倭人から、
「若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹」
という説明を受けたんだよ。 >>947
>話にならない 「余」で挟めば有効数字は五桁 <
話にならない。
「余」は、数字になっていないから、有効数字にはなっていない。
また例えば「千余里」であれば、「千」の位だけが有効数字だから、有効数字1桁。 >>166
そもそも邪馬台国比定地のために日本の考古研究してる中国欧米人はいないだろw
紹興本でも最初の版本の100年以上後だからな
お前が一番たちが悪い >>949
>不近婦人もなにも、中国に渡海する船に婦人は乗ってないだろうし<
何だ?、「男生口四人、女生口六人」を隠すんかい?。
倭→半島の人々も、半島→倭の人々の、妻や男女の子供らも連れずに、独身だった、とでも言うんかい?。
>船上じゃ皆衣服垢汚だろう<
魏使や郡使や難升米らも「使一人」も、「皆衣服垢汚」なのかい?。
>持衰は所謂陸であらゆる断ち物で航海の安全を祈願するような存在だろう<
倭人が、陸上で、魏使らを汚らしい持衰の所へわざわざ案内して、説明した、って言うんかい?。 >>170
>倭人が、陸上で、魏使らを汚らしい持衰の所へわざわざ案内して、説明した、って言うんかい?。
白痴ですか?
郡の港に着いた倭船を検査した入管の役人が
「なんだよ、あの汚ねーの?」
って問い質したかも知れないのに
w >>978
>冢の形が全然分からんね <
始皇帝の墓は、検索してみろ。
「居處作草屋土室、形如冢」は、mutouhaさんが写真を出していたから、彼のサイトを探したら?。
また、蟻塚や(日本の街道の)一里塚も例になる。 >>172
だった一つで決めて帰納などしない非科学的な古田説
w
w
w >>166
>現代中国でも欧米でも、少しずつ古田説が広がって来ているの。
ジャパニーズニンジャとか喜んでる外人だまくらかしてインチキ本売りつけて、日本の恥を晒してんのか古田残党は >>170
お前の妄想じゃ倭人は生口の女と小さな船の上で何してたんだよw
妻や子供連れで準構造船に乗って中国に行くのか?
>汚らしい持衰
貧乏で汚らしいんじゃないんだよ
航海の安全を祈願してるんだから
後には物忌み、斎戒と言われるような神聖な行為なんだよ >>167
>倭人の船頭さんが、同乗している汚い風体の持衰の事を、
>自分から魏使らに説明するもんか。
説明したから記事になってんだろ >>172
「居所作草屋土室 形如冢 其戸在上」
戸が上にあるんだからお前が貼ってたブログの写真のような尖った住居じゃない >>87
>2002年頃の史板は九州王朝説がトンデモ扱いされてて、
九州王朝とか伊達遠江守とか名乗る九州説のコテハンがdqn扱いを受けて叩かれてたな <
成程。そういう事があったのか。
Yahooにしても、2chにしても、
NHKや読売産経などのマスコミにしても、学会教育界においても、
トップや経営陣らは、確実に、自民政府の国粋の再軍備戦争勢力が支配していて、
国民を憲法改正?に賛成させよう、としていたんだろうねえ。
怖い、怖い。
やくざ暴力団のような、殺人殺し合い戦争の・・・・勢力は、怖い怖い。 >>88
大和説は、いまも、
トンデモ「国粋殺戮戦争キョクウ」の・・・・として叩かれているよ。 >>104
>倭國亂の後に卑弥呼を共立したのであるから
後漢霊帝(168 - 189)の後に共立されたとしても
238年ころは40台だろ<
240年に「年已長大」と判定されたんだから、「大=成人」してから長い後。 >>106
>また大ウソか<
また大和説者に特有の、何の論理も根拠も出さないでの「ヘイトスピーチ」街宣投稿。
しかし、このような「ヘイトスピーチ街宣」を急いでしなければならない、という事が、
大和説が論理的に負けていて反論もできず、
国民に急いで「言い訳的な誹謗投稿をしなければならなかった」
という実態を示しているんでしょうね。 >>185
あなたのそれが「ヘイトスピーチ」街宣投稿だよ。 >>109
>一里が76mであれば、三千里差し引いて九千余里は684km余り。
郡から倭へは南南東方向位であり、南と殆ど変わらないから、南北としたら、
緯度1度は111km位だから、割り算して、南北緯度差は6.2度差。
帯方郡のあった沙里院は、ほぼ北緯38.5度付近にあるから、
倭國は、ほぼ北緯32.3度付近。 ほら、揚子江河口にはぜんぜん届かない。<
三千里を差し引く理由がない、という事を反論説明済み。
そして三千里を引かずに、普通に萬二千余里を短里で計算すれば、北緯30度位になって、
揚子江河口付近と一致して、
福州付近とは全く一致しなくなり、
長里では、赤道付近になってしまって、完全に✖。 >>109
>会稽東冶の東としているから <
インチキは✖。
史料事実は「会稽東治之東」。
>陳寿は1里が400m台のつもりで書いている<
三千里をこっそり消すインチキは✖。
長里での萬二千余里は、赤道付近になってしまう。 >>191
>史料事実は「会稽東治之東」。
東治=東冶だよ >>191
>三千里をこっそり消すインチキは✖。
こっそり?
自分で
>南は、1400+4000+3000+700=9100(里)。
って言ってるだろ
三千里消えました
ハイ 会稽までたどり着きません
短里はありませんでした
決着 >>109
>>会稽東冶は日本列島よりずっと南である
九州島到着まで倭人伝記載の方位には大きな誤りがない<
ウソをつくな。
同じ魏使らが記録しているんだから、当然、九州島到着後も、大きな誤りはない。
>よってそれ以降に書かれた方位には誤りがある 誤りとは南で、東が正しい<
ウソを付くな。
「南」と「東」とは、全く字形も意味も違うから、
魏使らや陳寿が間違える筈はないし、
後代写本家や版刻家や考証校勘学者や後代史家本でも、一切間違いだ、とはしていない。
だから、ウソを付いたのは、
現代の思想宗教の「結論先にありき」の・・・・サギシの大和説学者らだけだ、
という事になる。
立証終わり >>194
文字を読み間違えたとか、誰も言ってないから一人相撲
立証失敗したな >>194
>ウソをつくな。
>同じ魏使らが記録しているんだから、当然、九州島到着後も、大きな誤りはない。
途中から間違えるのは普通よくあるよ
人類の常識を無視してはダメ 肥後の伊作も単純な算数を理解できないことがあったが
ザラコクも同じだな >>201
尋ねる根拠は、>>199に根拠が書いてない事実 >>109
>>会稽東冶は日本列島よりずっと南である
九州島到着まで倭人伝記載の方位には大きな誤りがない<
ウソをつくな。
同じ魏使らが記録しているんだから、当然、九州島到着後も、大きな誤りはない。
>よってそれ以降に書かれた方位には誤りがある 誤りとは南で、東が正しい<
ウソを付くな。
「南」と「東」とは、全く字形も意味も違うから、
魏使らや陳寿が間違える筈はないし、
後代写本家や版刻家や考証校勘学者や後代史家本でも、一切間違いだ、とはしていない。
だから、ウソを付いたのは、
現代の思想宗教の「結論先にありき」の・・・・サギシの大和説学者らだけだ、
という事になる。
立証終わり >>111
>古田説では12000里も南下出来ない<
お前のように、「三千里」の改竄隠蔽をしなければ、
短里での南南東への萬二千余里で邪馬壹國にへの着き、
更に南へ水行二十日の位置に投馬國もある。 ネトウヨが根拠は?と難癖付けだしたのか.
畿内説は極めて政治的な意図をもって作り出されたものだ.
九州倭国の存在を否定して上代から万世一系の天皇家が日本を一元支配していたと決めつけたいのだ.
日帝は韓半島を植民地支配して貴重な民族遺産を奪いそのダメージは今でも続いている.
それは矮小なる日本人の偏狭的エスノセントリズムが原因であった.
その偏狭的民族主義の根拠となったのが万世一系の天皇制.
そして韓半島領有の根拠となったのが偽任那日本府.
それらを正当化しているのが畿内説なのだ.
真実の歴史では日本文化は渡来人が作り上げた者であり、倭人はその果実を横取りしたものに過ぎない.
天皇はいわば最古の在日であり、貴族たちもまた当時の在日の末裔であった.
日本が任那を支配したのではなく任那が日本を後背地として支配していたのだ.
そういった歴史を隠蔽して明治に作られたファシズム的歴史観を推進しているのが畿内説なんだ. >>111
>(三国志の魏の役人が)東西南北を間違えた例は皆無であるし、<
>そんな断定ができる証拠は?<
三国志内の魏の役人たちが計測記録した方向記載に間違いがあった、
という例は全くなかったから。 九州倭国とか言ってるのは>>205の考えの人達だろうね >>113
郡からの出発の循海岸水行をした後に、
歴韓國乍南乍東と陸行した事が書いてあるのに、
7千余里全部水行したとか曲解捏造したり、
東南に出発して、途中が陸行五百里したとかと書いてあるのに、
1kmも東南に行かないしたりとか曲解捏造したり、
そんな文献無視が大和説でしょう。 >>206
>三国志内の魏の役人たちが計測記録した方向記載に間違いがあった、
>という例は全くなかったから。
なかった、という証拠は? 異人肥人(コマヒト)は長いこと倭人と同化しなかったからな
「肥後の議論倒れ」という言葉は、
議論好きで、それでいて自己主張が強いため議論がまとまらないことが多いことから生まれた言葉である[2]。
このような、自説にこだわる頑迷さは「肥後の褐色和牛(あかうし)」と称されることもある[4]。
薩摩国では、大きな提灯を掲げた強力な指導者が現れた際には皆がこぞってついていくが、
肥後国では各々が兜をかぶり大将気取りで一致団結することがないため「薩摩の大提灯(おおぢょうちん)、
肥後の鍬形(くわがた)」と言われる[9]。
また、薩摩の大提灯と比較して、肥後では各々が腰に提灯をつけ単独行動をとることから、「肥後の腰提灯」とも言われる[4]。 >>203
反論されたのに全く無視して同じことを連呼し
自分が何か立証したかのように言うなんて
知性が死んでいるんだね >>114
>韓の方四千里に関係なく、郡〜狗邪韓國で七千余里。
その七千余里ぜんぶを南方向に進んではいないのが、わからない? >>115
>>韓の方四千里に関係なく、郡〜狗邪韓國で七千余里<
>そのうち3千里以降は東に進んでるから 南方向には4千里も進んでいない<
方四千里の韓の対角線は「東南約5600里」。
>1万2千里も南には行っていない それが陳寿の理解<
南南東へ萬二千余里行った。
それが陳寿の理解。 >>213
>南南東へ萬二千余里行った。
>それが陳寿の理解。
その万二千余里の内訳は
南方向が九千里ほど
東方向が三千里ほどだよね?
南九千里では、揚子江河口にはぜんぜん届かないよね?
短里はありませんでした 倭国とは、環大阪湾〜ヤマト〜伊勢湾の倭人とオオナムチに敗れ島根の神庭の地から逃れた人々(根の国の元王族、出雲)が共同で作った国。首長連合。今の近畿圏の範囲だ。
野洲川の辺りの伊勢遺跡で首長が集い祭祀を行っていたんだよ。
神有月、神無月の伝承はこれ。
高天原も同じ。
倭国王がいたのがなにわ、大阪城の地だな。クニ=クナ国。なにわ、河内、和泉、ヤマトに跨る国。
倭国大乱は倭国を作った倭人と出雲族の仲間割れに吉備が参戦。
クナ国討伐をしたのは伊勢尾張と吉備だな。卑弥呼を擁立しヤマトに都を置く。邪馬台国。
その罪を神武に擦りつけたのが、神武東征の話だ。
その後、邪馬台国とクナ国の痼り、倭人と出雲族の痼りが延々と続くんだな。 倭国大乱までの倭国は、多様でスサノオの暴挙も許す寛容な国だったんだよ。
伊勢遺跡の多様性、倭人と出雲族、土蜘蛛が仲良く共生していたヤマトの地の記述を見れば分かる。
これを破壊したのが吉備!伊勢尾張!出雲!
罪は全て神武に擦りつけた。神武を代表にして表に見えないようにした。欠史八代だな。 韓地は対角線直線距離で、唐津〜伊都国間500里は道のり距離で
古田里に合わせるところがまた古田信者らしいな ジンム以前に、
この地(日本)を治めていたのが、
半島人(本当は半島人ではない?)なんだよ
神話に登場する存在 九州北部も被害者だよ。
吉備など西瀬戸内海の援助でできた九州南部の投馬国!吉備!が九州北部を征伐し、博多に一大卒を置いたんだよ。
伊都国の王家だけ残された。理由はただ一つ。
男系がクナ国の王家に繋がるから。
天孫降臨でクナ国から婿入りしてたからだよ。
利用価値のある倭人の男系だから、殺されなかったんだろうな。 古田センセーの東日流外三郡誌研究は永遠に不滅です! そんな国はない
高句麗 新羅 百済という国の
王や女王の話をしているんだよ
むかーしの話 筑紫版外三郡誌みたいなのはまだ屋根裏から落っこちてないの? なぜか漫画に登場するキャラクター、
浦島マリン 浦島太郎
『松傾』のことだよ シュテンドルフ(酒吞童子)という
キャラクターも出て来たでしょ、
ウラシマンとは、以前どこかで、あった事があるとか、
顔見知りのような話
同じ家の人か、親戚とか >>213
>方四千里の韓の対角線は「東南約5600里」。
ほー
じゃ、陸行で乍南乍東は出来ないね
古田説どんどん崩壊するなあ 博多の伊都国と大阪のクナ国。
いわば親戚だ。仲良くしないといけない。
九州北部と大阪。歴史的にも友好関係が強い。
仲良くするべし。 現状では幾ら発掘しても邪馬台国の特定は無理だろう。
この件は面倒でも白村江の戦い辺りから探って行った方が良いように思う。 太陽の紋章 ラー?
デスラーというキャラまでいたり 国や城などをモンスターに制圧されたとか、
盗まれたものを、取り返しに来たようなコンセプトじゃなかった? それと天孫?天神とか、あまり関係ない
『遅れてやって来た倭種』=藤原氏と書いてあったり
『松傾』は系統が違う?東北のほうに住んでいたり、人口的に多い 埼玉名字辞典でも何でも良いけど、
出雲・・・白や赤が何やら・・・百済と書いてあるでしょ? 家の隣に高野さんが住んでいて、
高野さんの家のアパートに鏡山さんという人が住んでいた
とか
本当は高野さんは道路の向こうのほうに住んでいたんだけど、
何やら(不明)で、こっちに移動させられた
とか
道路、埋め立ての話なのかな? それよりも『かっぱ貴族連合』というのは何なんだろう、
キュウリの葉の事なのかな?
家はヤクザでも暴力団関係者でもないしな >>118
>(南と南南東)差が無いって理由は?<
余弦(cos)の22.5度は、0.9171だから、
差異は8.29%だ。 >>242訂正
>(南と南南東)差が無いって理由は?<
余弦(cos)の22.5度は、(私のPCではよく見えないが)0.9235位?だから、
差異は7.65%位だ。 >>242
成程。誰にでも解かる筈の良い説明だ。有り難う。納得した。 >>120
>9100と12000 随分と差があるね<
9100は、郡から真南方向への移動距離計算の大体の計算値であり、
12000は、郡からの大体南南東方向の移動距離への合計の計算の記載値であり、
両者は、大体22.5度の余弦の関係であり、
12000をcos22.5の0.9235倍すれば、大体10000強になり、
9100とは約1割の差であり、有効数字1桁近似や「余」の不定要因の範囲内だ。
それに、長里では、どちらも、赤道付近になってしまって、全く×であるのは、同じ事だ。 >>122
>何が詐欺なの? <
古田本の全体の説明を伏せて隠して、
近似モデル的な「階段状の移動」という部分だけ切り取って、
それを「絶対断定だ」という曲解詐欺をして、古田説誹謗をした事。 >>247
南方向には9100里しか行かないんでしょ?
つまり、そこは揚子江河口よりずっと北だ
会稽にはぜんぜん届かないから
古田短里は間違いだよ >>248
階段状には進まないんでしょ?
直接なんでしょ?
だから陸行で乍南乍東は出来ないということだ
古田説は崩壊していくねえ >>250
まちがい
直接なんでしょ?
↓
直線なんでしょ? >>124
>先にクネクネ階段状と言っておいて <
ほら、「クネクネ階段状」というのは、「完全階段状」ではなく、
「蛇行的階段状」だよ、インチキ大和説者さん。
>あとでもっと不正確な直線距離にする方が モロ詐欺なんでは?<
古田さんは、第1書内での計算でも、既に、クネクネ道のり的な計算をしておられ、
それで、韓の対角線距離として、約5600里を示しておられたんだよ、
・・・・モロ詐欺師さん。 >>247
>それに、長里では、どちらも、赤道付近になってしまって、全く×であるのは、同じ事だ。
畿内説は、普通の里 1里=約400m が使われてるけど数字が間違いだ、って説だからね
赤道付近になるのも間違いだ
まったく問題がないよ >>125
>現実的な話 古田説では12000里も南下出来ない <
現実的な話。
古田説の12000余里は、(魏略にも載っているから)、
魏使らの行程記録を魏使らが合計したものの転写。
そして、会稽東治之東は、陳寿が魏使らの記録を読んで、
自分なりに中国から見ればどの辺になるのか?を考え計算したもの。
>何千里も東にも行ってるから<
魏志らの記録に従えば、
行程の「東成分」は、「南成分「」の3分の1以下。
」そして、いずれにしても、福州の東方には全くならず、
長里では、赤道付近にまで行ってしまうから、どちらも×。 >>252
どっちにせよ釜山は北緯35度
沙里院38.5度から古田短里で5000里くらいしか南下してないよ
海峡の南北が3700里でしょ
やっぱり会稽には届かないなー
短里は無理ですねー >>129
>古田先生ならアソベ族やツボケ族の超理論で<
アソベ族やツボケ族は、秋田孝季らが収集した国内伝承文書に記載されていたもの。
>縮地法使えるから平気です!<
偽書説派や大和説者は、(南→東などのように)、
史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしているから、
嘘を付いてもへいちゃらな・・・・です。 邪馬台国が北部九州から二千里くらいは東にないと、帯方東南にはならないってことだね。
やはり南水行は東水行の間違いだな。 >>257
偽書が嘘つきダマシしてるんじゃないの? >>247
>12000は、郡からの大体南南東方向の移動距離への合計の計算の記載値であり、
へー
古田説って、帯方東南と書いてある史料を無視するんだ
南南東に歪曲改ざんしちゃうんだ
へー >>130
>・・・当たり前だ。あんな土人といっしょにするなよw <
何だ?、この男も、
「人類皆兄弟」という事を忘れて、(大阪府警や政府と同じく)、
ベトナム系を「土人」と蔑む人種差別的排他的国粋主義の・・・・であったのか。
縄文の大半は、南方海上からの流民であり、
それに一部大陸全域からの流民が加わったもので、
そのいずれにも、ネアンデルタールの遺伝子が2.8%位混入している、
というのが実態だ。 〇〇族といういい言い方は明治以降の西洋語の翻訳で生まれたんじゃないの?
近世以前は〇〇部と呼んでいた筈だが・・ >>262
東日流外三郡誌は時空を超越してるからいいんだよw
戦後に生まれた『洗脳』などという言葉まで登場してくる
時空を超越した古田教の聖典なんだww >>133
>女王が筑紫に居て、南九州の位置を推量するわけがないだろ
辻褄合わせの泥棒の考えだな<
「自郡至女王國萬二千餘里」は「女王國」への魏使らの記録距離であり、
陳寿が、卑弥呼共立の(五万戸の大国の)投馬國を除外して、
女王國の範囲を筑紫だけにするような記載を、する訳がないだろ?。
大和説者という人種は、史料記載を隠して、
嘘つき騙しの辻褄合わせで、陳寿の記載を否定しようとする、
・・・・泥棒的な考えだなな。 >>264
なら、投馬国への南水行って
起点はどこからなの? >>136
これは、反論済みの投稿だな。
ほら、揚子江河口付近も北緯30度位であり、
南九州も北緯30〜31度であり、
有効数字1桁近似値や、会稽東治之東の大体の方向とほぼぴったり一致する。 >>
>1374計算あってないよ <
魏使らの記録も、陳寿の推定も、
どちらも、近似であり、僅かな差異があって、当然なんだよ。 さて、古田説が成り立たないと
明らかになったわけだが >>138
だから赤道付近にまで行ってしまう長里じゃダメだよね。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説は、破綻してる 。 >>139
>揚子江河口に届かないんじや、当然ながら会稽にも 届かない。古田説不成立ですな。<
「計其道里、當在會稽東治之東」は、
陳寿の、「自郡至女王國萬二千餘里」に対する大体の推定位置の説明。
史料事実や史料実態の問題であって、
古田さんには直接関係がない。
陳寿も短里を使っていた、というだけの事。
そして、大和説の福州の東には女王国は全くないし、
「長里」説はないし赤道付近まで行ってしまって、全く合わないから、✖。 >>140
>>しかし、福州の東には、倭國は全くありませんから、「東冶」説は✖ですし、<
>それは逆で、方位や距離が間違っているって説なんだから、<
それは逆で、実地に見聞記録した魏使らも、
それを引用した陳寿も、方位も距離も殆ど間違えていません。
>実際に東冶の東に倭国があったら✖で、無くて◯なんだが。<
「東冶」と言い出したのは、
後漢書を含めて、全て一部の後代史家であり、
そんなものは根拠になりません。 魏志にある記載と実際の距離が違う事なんていくらでもあるぞ? >>279
>陳寿の、「自郡至女王國萬二千餘里」に対する大体の推定位置の説明。
その説明が間違っていたんだから
説明した古田さんに直接関係があるよね? >>141
>通説は常識的だから面白ない><
後代や現代史家の通説の「東冶」は「南→東」は、
嘘吐きダマシのアホ説だから、
面白ない。 >>281
>それは逆で、実地に見聞記録した魏使らも、
>それを引用した陳寿も、方位も距離も殆ど間違えていません。
間違えていない、という理由は? >>284
>後代や現代史家の通説の「東冶」は「南→東」は、
>嘘吐きダマシのアホ説だから、
そんなこと言い切る理由は?
??? >>145
>>「其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰」
の文は、魏使らが、行來渡海詣中國する時に、持衰を実際に見ないと書けない内容。
そして、その後に書かれた、
「若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹」
は、魏使らが乗った船は航海が巧くいったのだから、殺さずに済んだのであり、
だから、倭人からの伝聞記録として、「書き分けられている」。<
>両方とも伝聞だね<
「若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹」は、
魏使らは「疾病、遭暴害」に遭遇していないんだから、明らかに「伝聞」。
それに対して、
「恆使一人、不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人」の文は、
倭人が、そんな汚い話を魏使らにしゃべる、という事がそもそも有り得ず、
「如喪人」という実際に見た感想まで書かれているから、
魏使らの実地での見聞内容。 >>288
倭人から聞いたから記事になってるんだね >>148
>「自昔」からの「倭と中国の既知の交通路」。
魏使らは、当然安全最短の原則で、
倭人か韓人の案内人を付けて、陸行路の道keiを通った。<
>それ、古田説だけだろ<
古田さんらがこれに触れられたのか?は知らない。
私は、Yahooでの議論の中で、気付いた事。
>他の人は全員ちがう<
他に、気付かれた方がいたのか?も知らない。 >>149
>大量の下賜品は洛陽で倭側に下賜済み、残念!<
「其年十二月、詔書報倭女王・・・」とされた後、
大晦日から元旦に明帝が急に亡くなって喪に入ったから、
「倭側に下賜」も、詔書の
「今以絳地交龍錦五匹、絳地suu粟kei十張、sen絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。
又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華kei五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、
皆裝封付難升米、牛利還到録受。
悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也」も中止。
難升米、牛利も、一旦倭に帰ったた。
だから、
「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦kei、刀、鏡、采物」
した。 >>150
>陸路は「乍A乍B」にならない。残念!<
道keiは、魏使らとは逆行だから、当然「乍北乍西」になっていた筈。 >>151
>べつに繰り返すとは限らない<
一回だけなら、「A乍B」で済む。
それをわざわざ「乍A乍B」とした、という事は、
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/nagara.html
にあるように、
変化が2回以上あった事を示す。 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2 >>153
>セウォル号は3.6倍の過積載と重心位置が高くなる船体改造とバラスト水を抜いてたのが事故原因だろ
どこの海でも転覆するよ<
セウォル号のような大型船は、
半島西岸南岸のような潮流変化の大きいところは、
危険だ、という事であり、
大量の下賜品や魏使らの役人も一杯載っているような洋上航行大型船も、
危険だ、という事だ。 >>293
「乍A乍B」で定型句
勝手に言葉を造るな >>288
>倭人が、そんな汚い話を魏使らにしゃべる、という事がそもそも有り得ず、
なんで、あり得ないんだ?
なんで聞いたのが魏使だと決めてかかるんだ? >>294
>松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
なんで、わかっているの? >>154
>>(半島西岸南岸の巨大リアス式海岸での循海岸水行は)、
乍東乍西乍北になってしまって、歴韓國乍南乍東にならないから、✖。<
>そんなのはレトリックというモノが解っていない人の妄想だよ。
右顧左眄する人は後ろを見ないと言い張るが如し。 自分は馬鹿だと告白してるのと同じだ。<
また、変な意味不明な文を書く大和説男?。
自分は馬鹿だと告白してるのと同じだ。 >>156
>逃げてたら説明にならないでしょ?<
「南→東」などの嘘吐きダマシの反省のない大和説者は、
精神的な・・・・である事が世間の人々に衆知であり、
そんな・・・・との議論にお付き合いしていたら、
私もアホ議論が伝染してがしまって、世間の人々に変に思われるから、
世間の人々にも「明らかな異常者だ」と判るような大和説者らは、
放置して置く事にしているの。 >>157
>>当然、山越えは出来るだけ避けて、山の麓の道沿いになるから、
自然と、「歴韓国乍南乍東」になる。<
>また実際の地理を知らないで思い付きデマカセを書いてるでしょ。
嫌でも山越えなんだよ。<
峠を越える前と後では、やっぱり「乍南乍東」になっているんだよ。 >>157
>>当然、山越えは出来るだけ避けて、山の麓の道沿いになるから、
自然と、「歴韓国乍南乍東」になる。<
>また実際の地理を知らないで思い付きデマカセを書いてるでしょ。
嫌でも山越えなんだよ。<
mutouhaさんも、一回位、
そんなに高くない何やらの「峠」を越える事を書いておられたなあ。
しかし、そんな峠の前と後では、またやっぱり「乍南乍東」の道に戻ってしまうんだよ。 倭人の船で朝鮮半島の西岸と南岸を南行四千里東行三千里したんだよ。 >>160
>また、循海岸水行では、歴馬韓歴倭地になってしまうし、<
>それも弁辰を否定して<
また変な・・・・・男。
否定していないよ。
>半島に倭地があったという特殊な古田思想ありき<
史料事実は、「半島に倭地があった」だよ。
>世間の人には通用しない<
世間の人には、「南→東」などの嘘吐きダマシの詐欺師は、通用していない。 >>165
>根拠を聞くのは悪口ではないよ。<
何を説明して上げても、何でも「証拠は?」とだけ言い続ける人間は、
自然や歴史における不可知部分の存在を隠蔽して、
議論だけに「負けていないように振る舞う」・・・・なんだよ。 >>165
>根拠を聞くのは悪口ではないよ。<
何を説明して上げても、何でも「証拠は?」とだけ言い続ける人間は、
自然や歴史における不可知部分の存在を隠蔽して、
議論だけに「負けていないように振る舞う」・・・・なんだよ。 >>169
>そもそも邪馬台国比定地のために日本の考古研究してる中国欧米人はいないだろw
紹興本でも最初の版本の100年以上後だからな お前が一番たちが悪い<
また・・・・が出て来た。
紹興本は、咸平本や紹煕本系とは、底本にした写本から別系統本なんだよ。 >>171
>>倭人が、陸上で、魏使らを汚らしい持衰の所へわざわざ案内して、説明した、
って言うんかい?。<
>白痴ですか? 郡の港に着いた倭船を検査した入管の役人が 「なんだよ、あの汚ねーの?」
って問い質したかも知れないのに<
白痴ですか?。
倭船は、狗邪韓國までの渡海での使用であり、
韓地ではで「自昔・・・道kei百濟」であったのであり、
倭船は郡までは行っていなかったんですよ。
w >>313
北宋の咸平本が残ってないからわからんだろ >>173
>だった一つで決めて帰納などしない非科学的な古田説 w w w <
始皇帝の墓と、馬韓の家屋と、蟻塚と、一里塚と、
四つも例を挙げているのに、「だった一つで決めて」という変な大和説の・・・・。 >>309
韓半島に倭奴の居住地はありません.
九州倭国の支配層は韓人ですから倭人といっても住んでいたのは韓人であり倭奴ではありませんでした. >>314
>倭船は、狗邪韓國までの渡海での使用であり、
>韓地ではで「自昔・・・道kei百濟」であったのであり、
三世紀に百済はないよ 言張る人種とはなかなか同化しないよな
異人コマヒト居留地域からは人工頭蓋変形人骨が見つかっている >>174
>>現代中国でも欧米でも、少しずつ古田説が広がって来ているの。<
>ジャパニーズニンジャとか喜んでる外人だまくらかしてインチキ本売りつけて、
日本の恥を晒してんのか古田残党は<
ジャパニーズニンジャとか喜んでる外人だまくらかして、
「南→東」などの嘘吐きダマシのインチキ本売りつけて、
日本の恥を晒してんのか、文部省やマスコミや大和説学者は。 >>175
>お前の妄想じゃ倭人は生口の女と小さな船の上で何してたんだよw
妻や子供連れで準構造船に乗って中国に行くのか?<
お前の仲間の大和説者が、
持衰のいる船に女は乗っていない、
というような嘘をしゃべったんだよ。
>>汚らしい持衰<
>貧乏で汚らしいんじゃないんだよ 航海の安全を祈願してるんだから
後には物忌み、斎戒と言われるような神聖な行為なんだよ <
虱でも見えてちゃ、そりゃ汚く見えるよ。 >>176
>>倭人の船頭さんが、同乗している汚い風体の持衰の事を、 自分から魏使らに説明するもんか。<
>説明したから記事になってんだろ<
同乗していた魏使らが記録して倭人に聞いたから、倭人側が説明したんだよ。 >>177
>またデタラメ <
また口先で逃げ。
「萬二千余里」は、
萬単位の「萬」という文字と、
千単位の「二千」という数字しか書かれていないから、
その二数字だけであり、だから、有効数字二桁なんだよ。
「12000」という5桁ではないんだよ。 >>178
>中国のまともな例を出せよ<
始皇帝の墓は、中国のまともな、「冢」と呼ばれている例だよ。 >>323
俺が船に乗ってないだろうと書いたのは生口の女じゃなくて婦人
小さな舟でシラミが湧いたら皆に感染する 全羅南道楽安邑城民俗村や済州島漢拏山麓城邑民俗村などの草屋(チョガ)は丸っこい >>327
ほら、例を1つしか出せない
古田説は帰納なんかしていません >>179
>「居所作草屋土室 形如冢 其戸在上」
戸が上にあるんだからお前が貼ってたブログの写真のような尖った住居じゃない<
関係がない。
大和説の天誅の「漢籍の書棚」では、
「其俗少綱紀、國邑雖有主帥、邑落雜居、不能善相制御。無跪拜之禮。
居處作草屋土室、形如冢。
其戸在上舉家共在中、無長幼男女之別。」
として、「形如冢」と」と「其戸在上舉家共在中」とが書き分けられており、
「其戸在上舉家共在中」は、
その戸主は上に挙げられて在し、家族は中に共に在す」
という意味だ、と思うよ。 >>331
戸は戸主ではない
デタラメ訳しても反論にならないよ >>331
「舉家」は「家を挙げて」だ
漢文のイロハも知らないド素人だな >>326
「余」は1〜999里までの可能性を含んでいる、「0」じゃない
つまり12001里〜12999里までの実数と等しい
有効数字は五桁だね >>186
>あなたのそれが「ヘイトスピーチ」街宣投稿だよ。<
ヘイトスピーチとは、
国内に於ける権力側の多数派が、非権力側の少数派に対して、
人種差別的で排他的な憎しみを以って、誹謗罵倒の街宣行動をする事なの。 >>187
掲示板における大和説者のヘイトスピーチ街宣発言は、
「南→東」などの嘘つき騙しや、「長里単独論」や「国粋皇国史観の大和説」などを、
論破された大和説の焦りのあらわれだろう 。 ネットの憎悪発言は権力、数関係ないだろ
民族的特徴のほうが強い >>189
>長い間だから10年か50年か判らんが<
まだ若い、と思えば、「年已長大」なんてわざわざ書かないよ。
「已長大 」という事は、「若い成人時代からは、既に峠を越えている」、
と意味を言いたい表現であり、
もう若くはない、という意味だ。 >>341
その部分だけ読んでもダメだよ
「適齢期を過ぎても結婚せず」だ
遠い過去の話だよ >>339
「長里単独論」
は確定したし
「国粋皇国史観の大和説」
はザラコクの妄想でしょ? >>189
>長い間だから10年か50年か判らんが <
「年已長大」という事を特記した、という事は、
若い成人期は既に過ぎて既にいて、いて熟年にさしかかっているように見える、
という意味だ。 >>192
>>史料事実は「会稽東治之東」。<
>東治=東冶だよ<
そりゃ、「南=東」と全く同じく、嘘つき騙しの詐欺だ。
陳寿は、分郡後に地の文として、はっきり書き分けているのだ。 >>344
若い成人期を既に過ぎても結婚しなかった
と言う過去の話だよ >>345
>陳寿は、分郡後に地の文として、はっきり書き分けているのだ。
書き分けたって証拠は? >若い成人期は既に過ぎて既にいて、いて熟年にさしかかっているように見える、
コマヒト伊作は文章にこういう症状が現れるようになってから2年後くらいに死んだ >>193
>>(萬二千余里の算定の七千余里から)三千里をこっそり消すインチキは✖。<
>こっそり? 自分で
>南は、1400+4000+3000+700=9100(里)。
って言ってるだろ 三千里消えました <
何だ?、その「南」は、萬二千余里の南北成分の意味であり、
「三千里」は、七千余里の途中の中に含まれていたものであり、
萬二千余里には関係ない数字だ、といっているんだよ。
だから、萬二千余里の計算をするんなら、
1400+5600+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100だ。
そして1400+5600が七千里だ。
>ハイ 会稽までたどり着きません 短里はありませんでした 決着<
ハイ、南南東方向への萬二千余里で、筑紫に着き、その南水行二十日の位置に投馬國があるから、
女王國(の南端)が、会稽東治之東ほぼぴったりで、
陳寿も短里を使っていた事になり、
福州は、東には女王國が全くないから、✖であり、
長里では赤道付近に行ってしまうから、長里も×でした。 >>350
だから南方向には9100里なんだよね
ということは、会稽どころか
揚子江河口にも届きません
短里説死にました >>195
>文字を読み間違えたとか、誰も言ってないから一人相撲 立証失敗したな <
それなら、
>会稽東冶は日本列島よりずっと南である
九州島到着まで倭人伝記載の方位には大きな誤りがない
よってそれ以降に書かれた方位には誤りがある 誤りとは南で、東が正しい<
の「会稽東冶」という設定から嘘誤りであったのであり、
だから「それ以降に書かれた方位には誤りがある」というのも嘘騙しになる、
という事になるだけだ。
はい、結局はまた大和説者は、「南→東」の嘘つき騙しで×になった。 >>350
筑紫から南水行二十日で投馬国なのに
どうして邪馬台国は帯方郡から南水行なんだ?
>>196
>>ウソをつくな。
同じ魏使らが記録しているんだから、当然、九州島到着後も、大きな誤りはない。<
>途中から間違えるのは普通よくあるよ<
魏の皇帝に報告しなければならない測定記録で、
間違えれば首が飛ぶ可能性が高い事で、
同じ仲間の役人たちが知っている事で、
魏の役人たちが、「途中からまちがえる」というような事はない。
大和説者らのような、上司も部下もつるんでいるような・・・・同士の場合は知らんが。
人類の常識を無視してはダメ。 >>352
>の「会稽東冶」という設定から嘘誤りであったのであり、
会稽でも12000古田アホ里で届かないのに
会稽東冶に届くわけないよな >>354
「魏の皇帝に報告しなければならない」
って根拠でもあんの? それよりも、騙り、成り済ましは何がしたいんだ?
【かっぱ貴族連合】
このようなスレにもいない?
あと信オンというスレッドとか 数年前のKPOPスレとか、
名刺が何やらというネタ? >>356
皇帝の代理として出張した役人が報告書を書かなくてもいいと?
キナイセツは非常識のバカばかりだな。 久しぶりにのぞいてみたら、相変わらずキナイセツはくだらない言いがかりに終始しているのだな。
世間の支持を失うわけだよ。 亀有 葛飾とか
漫画の話でもしているのかな?
ジャンプでやっていた作品、
いまも、やっているの? >>359
何里行きましたとか書かにゃいけない根拠なし 他のスレや、他の掲示板、
それと現実的な話をしてみても・・・わかる
精神病? 信オン、当時の風雲サーバー?
なぜか、しっているような気がするんだけど、
田舎が何やら、ウッキー?とか たしかSMAPだったかな?
そういうグループが好きだと言っている人もいたような
中の人(プレイヤー)?
男なのか女なのか、会ったことないから、知らないけど >>197
Yahooの、東大京大の天誅も、京大医師のhn2602も、
単純な記載を理解出来ずに、否定曲解のサギをする事があったが、
5chの大和説学者や大和説者らも同じだな。 >>198
幾ら勉強したって、国粋思想宗教にクルった高慢なタカ派の、
暴力団体質の・・・・人種とは、いずれ国も国民も滅ぼそうとするもの。
そういうもんさ。 >>200
>>大和説はファシズムの側面擁護<
>という根拠は?<
Yahooでもそうであったが、5chでも、
大和説者には、高慢で唯我独尊の、タカ派の排他的人種差別的な皇国史観の、
国粋殺戮戦争を鼓舞扇動する投稿子が多い事。
最近の私の投稿も、投稿ボタンを押すと拒否されて、
元の画像に戻そうとすると、投稿が消えている、
という事がしばしば起きて、投稿が全く進まない。
という事は、安部政府やマスコミやキョクウや教育界だけではなく、
PC会社にも、戦争国家への憲法改悪の安部の政府の支配力が及んで来ているんでしょうね。
戦後の長年の自民の国家国粋主義宣伝に騙された国民が、自民や改憲勢力に投票してしまうから、
最早、どうしようもないし、戦争に拠る破滅が避けられない。 >>207
大和説とか言っている人は、結局は、
皇国史観の国粋国家戦争主義の安部政府を支持している・・・・人種なんだろうね。 >>209
>>三国志内の魏の役人たちが計測記録した方向記載に間違いがあった、
という例は全くなかったから。<
>なかった、という証拠は?<
見た範囲内では、方向を間違えた記載がなかった事と、
Yahooの議論でも、魏の役人の記録としては全くなかった事と、
裴末之や宋明清のや考証校勘でも、全く取り上げられなかったから。 >>211
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
反論されたのに全く無視して同じことを連呼し、
自分が何か立証したかのように言うなんて、
知性が死んでいるんだね 。 >>378
いつ、何処でなんと反論されて、それを無視した? >>212
>>韓の方四千里に関係なく、郡〜狗邪韓國で七千余里。<
>その七千余里ぜんぶを南方向に進んではいないのが、わからない?<
その七千余里が、韓の方四千里地域よりもはるかに北から出発しているから、
その七千余里が、東南というよりは、南南東方向になっていて、
ぜんぶを東南方向に進んではいない、という事が、わからない?。 九州北部も畿内も伊都国も倭国も、好戦的な瀬戸内海勢力や伊勢尾張勢力に討伐された同じ境遇だよ。
畿内では討伐したヤマトの地に卑弥呼が都を置き、九州北部には伊都国(博多)に一大卒を置いた。どちらも地域支配の為の巨大な兵の駐屯地。 倭国大乱前、畿内の首長連合(倭国)と伊都国は婚姻を結び友好関係にあった。
所謂天孫降臨だ。1世紀中頃の話。
クナ(なにわ〜河内〜和泉〜ヤマト)の王家から伊都国王家の婿入り。 三韓征伐に和泉を出立した神功皇后が応神と畿内勢力を討つエピソード。
討たれたのは卑弥呼共立の主要勢力の末裔、忍熊皇子達。
そして旧クナ国に親和的な政権が作られる。
倭国大乱での負け組の巻き返しだよ。 九州北部と畿内は元々血縁もあり、運命も共同した仲間だ。
仲良くしないといけない。 魏志倭人伝当時、奴国など他の九州北部の国々と違い、伊都国王が消されなかったのは、倭国大乱前の畿内の王族、卑弥弓呼系の末裔だからだ。
応神の父親は謎。
密かに伊都国王家、クナ国王家の血が復活していたかもな。空想だけどな。 >>214
>>南南東へ萬二千余里行った。 それが陳寿の理解。<
>その万二千余里の内訳は 南方向が九千里ほど 東方向が三千里ほどだよね?<
違うよ、詐欺師。
大体南南東へ萬二千余里行ったのであり、
その南方向成分は、22.5度の余弦の関係だから、7%位の減少で11000里位であり、
東方向は、私のPCの三角関数表の文字が小さくて読めないが、
正弦でも正接でも22.5度のでも数字を、自分で調べたらよい。 >>215
>南九千里では、揚子江河口にはぜんぜん届かないよね? 短里はありませんでした<
真南なら11000里位で、陳寿の「会稽東治之東」の推定とほぼ大体一致しており、
赤道付近にまで行ってしまう長里説は完全に✖であり、
短里での「東冶」説も、その東方には全く女王国がないから、✖だな。
大和説者の主張は、嘘吐きダマシの幻覚妄想の分裂の・・・・レベルだった、
という事なんだろw。 >>216
>クナ国討伐をしたのは伊勢尾張と吉備だな。
卑弥呼を擁立しヤマトに都を置く。邪馬台国。 <
「南≠東」だから、全く✖。 >>217
>伊勢遺跡の多様性、倭人と出雲族、土蜘蛛が仲良く共生していたヤマトの地の記述を見れば分かる。<
「南≠東」だから、全く✖。
この男も、結局は、分裂幻覚妄想の・・・・大和説の仲間だったんだな。 >>218
韓地は対角線直線距離だ、という絶対断定で、古田さんの道のり距離説を曲解捏造し、
唐津〜伊都国間500里は道のり距離で 、
古田説に合わない、と宣伝するところが、
また「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・大和説信者らしいな。 >>391
>>>218
>韓地は対角線直線距離だ、という絶対断定で、古田さんの道のり距離説を曲解捏造し、
おいおい
>方四千里の韓の対角線は「東南約5600里」。
って「絶対断定」を突然おっぱじめたの、自分だろ >>388
>真南なら11000里位で、陳寿の「会稽東治之東」の推定とほぼ大体一致しており、
そうすると邪馬台国が佐多岬突端にあることになり
古田説壊滅 古田説に限らず、五分の一説も全部
この「会稽東治之東」に引っかかって
否定されるね 万二千里は数字の間違い。
南水行は東の間違い。
誤情報ってことで一気に決着だね。 萬二千里っていうのは韓非子に出てくる中国からの極東と極南の距離
いわば虚数と言っていい >>396
淮南子だろ
「東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。」
以下、西南北及び中央の極がそれぞれ萬二千里 東になん里だ、南になん里だ言ってても
邪馬台国が見つからんのは
ようわかる >>225
嘘吐きダマシの偽書説派やの大和説派が、
和田キヨエをたぶらかして造らせた「尿入り?一升瓶」は、
まだ大和説派の屋根裏から落っこちてないの?。 今の中国人のいい加減さ見てたら倭人伝の記述を盲目的に信じちゃダメだって解るだろうに >>228
>>方四千里の韓の対角線は「東南約5600里」<
>ほー じゃ、陸行で乍南乍東は出来ないね 古田説どんどん崩壊するなあ<
ほー?。
古田さんは、始めからくねくね道の迂回路を書いておられたから、
この男の誹謗は当たらないが、
じゃ、魏使らは、「韓の西岸南岸での乍南乍東」は出来なかったんだから、
韓の西岸の四千里と南側の三千里を、魏使らの行程に加える、
という大和説者の主張は、✖だったんだね?。
大和説、どんどん崩壊するなあ。 どこの学者なんだ?
『松傾』
この人物、本人の話だと書いてない?
記紀神話などもそう >>387
それは郡から対角線直線距離が萬二千余里の場合
その場の取り繕いのために倭人伝の行程記事からどんどんかけ離れていってる
頭の悪いサギおやじが陥るパターン >>229
>博多の伊都国と大阪のクナ国。<
「大阪のクナ国」は、「南≠東」だから✖ね。
>いわば親戚だ。仲良くしないといけない。 九州北部と大阪。歴史的にも友好関係が強い。
仲良くするべし。<
大和は、倭国から別れた別種の附庸国の旧小国であるから、倭国の従属国だよ。 >>402
方四千里の対角線直線距離が約5600里であるから
くねくね道の迂回路であれば、里数はもっと大きくなる ユダヤの陰謀というスレにも、
書き込みをしているから、一度、読んでみて 『河童貴族連合』
ほとんど、騙り、成り済ましによるモノなんだけど
芋類の話をしていたり?山王が何やらとか
『猫神やおよろず』 『神話』
ググればわかる、
当時(不明)の話になるんだけど、
かな〜り頭の良い人がいたんだと思う >>230
>現状では幾ら発掘しても邪馬台国の特定は無理だろう。<
「邪馬台国」なんてないよ。
それに金印と、
殉葬奴婢百余人の径百余歩の冢である祇園山と、
21個の「尚方作」鏡のある平原で、
邪馬壹國は筑紫にあった事が確定している。
>この件は面倒でも白村江の戦い辺りから探って行った方が良いように思う。<
これも、白村江の後まで、
大和は、倭国の別種の旧小国であった、
という事で確定している。 >>232
「南→東」や「長里」などの嘘吐きダマシがバレた大和説が、
思考停止して白旗か?。 老婆は創価だった、
ただ私の母親が事故で死んだので、入っただけだよ
と言っていた >>249
>南方向には9100里しか行かないんでしょ?<
いや、何度も言うように、それは、大和説者がでっち上げた、
魏使らが通りもしなかった半島西岸南岸を、通った、
と仮定した場合の計算であり、
魏使らや陳寿が記載したのは、大体南南東方向の萬二千余里であり、
それを元にした南北移動部分は、大体萬千余里位になる。
>つまり、そこは揚子江河口よりずっと北だ<
いや、女王国としては、
萬二千余里の南北部分の11000余里に、南水行二十日の投馬國も含まれるから、
南九州まで入り、
「会稽東治之東」にほぼピッタリだ。
>会稽にはぜんぜん届かないから 古田短里は間違いだよ<
会稽東治之東に十分届くし、
福州の東では、短里でも長里でも全く合わないし、
長里では赤道付近にまで行ってしまうから、
大和説の長里は、全く間違いだ。 >>250
>階段状には進まないんでしょ?<
韓では、くねくね道だよ。
>直接なんでしょ?<
「直接」ってどういう意味?。
世間の皆様、大和説者の何の事なのか?が判らない曖昧な言い方を、
推定して答えてあげたら、
今度をはその推定を曲解断定されて、誹謗される事になるんですよね。
気を付けましょうね?。
>だから陸行で乍南乍東は出来ないということだ <
どこから、こうなるんでしょうかねえ?。
「南→東」などの嘘吐きダマシの意味不明の文は、怖いから、
返事をせずに、放っておきましょうね。
>古田説は崩壊していくねえ<
大和説者は、どんどん崩壊していくね。 階段状に進めば方四千里の2辺を進む距離と等しくなる >>253
>>それに、長里では、どちらも、赤道付近になってしまって、
全く×であるのは、同じ事だ。<
>畿内説は、<
畿内説なんて、なかったし、現在のマスコミも使わないし、
その定義も範囲のはっきりしないし、
大和盆地の外は、大和政権の支配になっていなかたようだし、
インチキ偽作説だよ。
>普通の里 1里=約400m が使われてるけど<
使われていないよ。
>数字が間違いだ、って説だからね<
数字も、ほぼ合っているよ。
>赤道付近になるのも間違いだ まったく問題がないよ<
大和説者の長里解釈が間違いだった、という事だ。 >>254
>階段状って言ってますけど?<
韓で、実際に厳格な「階段状」の道なんて有り得ないのだし、
「階段状」は、近似的説明であった「乍南乍東」を、
古田さんが初めて読む人に分り易いように、
として更に選択されたモデル的文言であり、
実際の距離計算などでは、くねくね道のような計算をしておられた。 >>256
>どっちにせよ釜山は北緯35度
沙里院38.5度から古田短里で5000里くらいしか南下してないよ<
問題は、陳寿や魏使らの認識だ。
郡出発から狗邪韓國到着までは七千余里だ、と書いているのであり、
5000里では7000里の余弦とちょっと合わないから、
この大和説者の「南下」の計測地や計算が、ちょっとクルっているんだろう。
>海峡の南北が3700里でしょ<
これも、陳寿や魏使らの認識は、3700〜4400里だ。
>やっぱり会稽には届かないなー 短里は無理ですねー<
ダメだよ。
「自郡至女王國萬二千餘里」は、「女王國」と書いており、
女王國の中心地までは萬二千余里であったとしても、
卑弥呼共立の(南水行二十日にある)国の投馬國も、女王國の範囲であり、
陳寿は、当然、投馬國までを「女王国」と認識するのであるから、
「会稽東治之東にあるべし」は、投馬國が入っていて十分である事になって、
届いていた、という事になる。
だから、短里でOKであり、
赤道付近にまで行ってしまう長里は、✖ね。 >>258
>邪馬台国が北部九州から二千里くらいは東にないと、帯方東南にはならないってことだね。<
これも話が逆であり、インチキだな。
魏使らの記録や陳寿の行程記載に拠れば、邪馬壹國は、郡から大体南南東方向であり、
帯方郡が沙里院や海州やソウルであれば、その南南東方向は、
東南の山口と南の済州島の真ん中位になり、大体、長崎〜佐賀付近になって、
何ら、問題にはならない。
>やはり南水行は東水行の間違いだな。<
「南→東」の嘘吐きダマシは、勿論、✖。
(zara注。この投稿も、PC会社からの奇妙なからの音声放送があって、
消されてしまったから、全く始めから書き直したもの) >>259
>偽書が嘘つきダマシしてるんじゃないの?><
偽書説派や大和説派が、
貴重な伝承記録が、都合が悪いから抹殺しようとしている、
嘘吐きダマシの偽学者じゃないの?。 >>260
>>12000は、郡からの大体南南東方向の移動距離への合計の計算の記載値であり、<
>へー 古田説って、帯方東南と書いてある史料を無視するんだ
南南東に歪曲改ざんしちゃうんだ <
いや、古田説ではなく、
陳寿の記載した行程移動を出来るだけ正確に追っかけると、
東南ではなく、
南と東南の間の「南南東」方向になってしまう、という事であり、
だから、陳寿の「東南」という意味は、「真南と東南の間」という事を意味していた、
という事が史料実態だ。 >>263
>東日流外三郡誌は時空を超越してるからいいんだよw
戦後に生まれた『洗脳』などという言葉まで登場してくる
時空を超越した古田教の聖典なんだww <
Wiki:
洗脳(せんのう、英: brainwashing)は、
強制力を用いて、ある人の思想や主義を、根本的に変えさせること。
日本語の「洗脳」は英語の「brainwashing」の直訳であり[1]、
英語の「brainwashing」は中国語の「洗脑/洗腦」の直訳である。
何だ、中国語ではないか。 三角縁神獣鏡の多数出る機内が大和に決まっている
あと魏志倭人伝の行程を辿れば九州を飛び出すからな 被害妄想はレビー小体型認知症の初期症状の特徴
前頭側頭葉型認知症は主として前頭葉、側頭葉が委縮して起こる疾患
人格をコントロールする前頭葉の障害の為、
自己中心的な人格変化、反社会的行動が目立ち精神疾患と診断されることがある >>266
>なら、投馬国への南水行って 起点はどこからなの?<
倭人伝の記載では、(邪馬壹國の北に接している)不彌國からの、
側副傍線行程での水行。
不彌國は博多湾岸にあるから、一旦玄界灘に出て、(西回りは危険だから)、
おそらく九州を東回りに回って南九州へ行けた。 家などの家系図などがあるでしょ、
あれは捏造だと言っている人がいたよ
某氏の娘と、某氏の・・・婚姻家系とか >>269
>それ、いいかげんって言うんだよ <
それ、有効数字1桁概数」や「4〜8区分記載しかしていない大体の方向記載」を、
「絶対断定」記載であった、と言うような、
嘘吐きダマシのいいかげんのな・・・・だって言うんだよ。 ゲームをのやりすぎで、
頭がおかしくなり・・・
某神族の男と某神族の女(娘)との婚姻とか
合体させたりするゲーム、女神何やら >>270
>北緯三十度は屋久島だよ<
「計其道里、當在會稽東治之東」も、大体の位置推定であり、
「自郡至女王國萬二千餘里」も、女王之所都の大体の里数であり、
「女王國」も、投馬國をも含めた大体の範囲であり、
「北緯三十度」という絶対緯度値しか認めない、
という人間の方が、嘘吐きダマシの・・・・サギシなんだよ。 >>271
>邪馬台国は南九州じゃないでしょ<
邪馬台国なんて存在しないし、
「自郡至女王國萬二千餘里」は「女王國」と書かれているから、
5万戸の投馬國も含んだものなんだよ。 >>272
>反論になってなかった <
何を言っているのか?、よく判らんし関心もないが、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
「曖昧な投稿」をして相手がしくじらせて、
それを誹謗して、議論に勝った、と宣伝しようとする、・・・・サギシであるから、
おそらく私は、まともに相手にしていなかったんだろう、と思うよ。 帯方郡の場所の解釈って間違ってるんだよなぁ。
正しい帯方郡の場所は朝鮮半島の東岸付け根付近なんだよなぁ。
当時の状況は、倭国は瀬戸内海を挟んで南北に別れて倭国大乱やってた。(高地性集落)
北側勢力は呉や公孫氏と交易してて、黄海の制海権を握ってた。
南側勢力は冷飯喰わされてたわけだが、魏が日本海側まで到達したという状況を知って、敵(北側勢力)の味方(呉と公孫氏)の敵(魏)に繋ぎをつけたわけ。
草深き獣道を通って寂れた港で船を調達して半島の東岸を通ってね。 >>432
行かなかった水行二十日の投馬國の位置を陳寿が推測したというのが
痴呆老人向け古田サギ里説 このようなシーンがあったりするんだけど
『ドラゴンボール 王子 月を作る』 帯方郡から見て乍南乍東、これは倭国から見たら乍北乍西、朝鮮半島東岸にピッタリ当てはまる >>273
>南九州に何があるんだ? ???<
投馬國。 >>274
>長里だと合うんじゃない? 知らんけど。<
「自郡至女王國萬二千餘里」は、長里であれば、赤道付近にまで行ってしまって、
合わないから、✖なんだよ。 倭国の都は近江→濃尾→大和と遷都されていった。
卑弥呼の時代はまだ大和は国造りされる前だから、邪馬台国は近江か濃尾のどちらかなんだよなぁ >>276
>さて、古田説が成り立たないと 明らかになったわけだが<
さて、「南→東」などの嘘つき騙しや、
「自郡至女王國萬二千餘里が長里では合わない」という事が成り立たない、
という事が、明らかになったわけだが 。
未だに、判らんらしい・・・・アホの大和説者がいるらしい。 >>441の根拠。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の 子でござる」 >>282
>魏志にある記載と実際の距離が違う事なんていくらでもあるぞ? >
魏志なら、殆どの里記載が、短里では大体合うが、
短里の6倍の長里では、全く合わないんだが。 >>283
>>陳寿の、「自郡至女王國萬二千餘里」に対する大体の推定位置の説明。<
>その説明が間違っていたんだから <
その説明が殆ど間違っていなかったんだから。」
>説明した古田さんに直接関係があるよね?<
いや、その説明をしたのは、陳寿。」 村の陳寿の神様の
今日はめでたい御祭日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
朝から聞こえる笛太鼓 >>285
>>それは逆で、実地に見聞記録した魏使らも、
それを引用した陳寿も、方位も距離も殆ど間違えていません。<
>間違えていない、という理由は?<
距離記録は、ほぼ全て、有効数字1桁の概数の範囲内であっているし、
方位も、8区分方向記録が、大体合っている。 倭国大乱やってる戦乱の地に危険を冒して魏の小役人がやって来るわけないだろw
聞き取り調査だよwww 赤秦というのは何なの?
百済を祀っているという話をしているけど
赤や白とか
たしか猿田氏という項目だよ、
あの名字辞典 >>286
>>後代や現代史家の通説の「東治→東冶」は「南→東」は、
嘘吐きダマシのアホ説だから、<
>そんなこと言い切る理由は?<
裴松之や宋明清代の校勘学者らの誰も、考証校勘対象にしていないから、
間違えた写本もなかったことになる。
??? >>289
>倭人から聞いたから記事になってるんだね <
倭人の方から、全く関係のない魏使らにわざわざ、
「恆使一人、不梳頭、不去蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人」
なんて事を話す筈がない。 それって漢が呉か公孫氏が書き残してた記述から引用したか、あるいは帯方郡にやって来た船頭を見ての記述だろ >>450
>宋明清代の校勘学者らの誰も、考証校勘対象にしていないから、
地球は平面上で四角いという中国古来の思想(地理的世界観)を変えたのは
イエズス会の西洋天文学者達だから 猿田・・・・出雲だと書いてあるでしょ?
百済の神を祀っていて・・・、
百済の王というのがいて、太陽神が何やら・・・? >>294
>松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである・・・<
陳寿は、地の文で、
「自郡至女王國萬二千餘里」の相当する中国側からの位置説明として、
「計其道里、當在會稽東治之東」と言い当てており、
長里での「赤道近く」を否定している事になるから、
魏使らも陳寿も、魏朝が「短里」を使っている、という事も知っている。 >>402
>古田さんは、始めからくねくね道の迂回路を書いておられたから、
じゃあ、対角線で「東南約5600里」
というのが嘘なんだね?
まぁなんだ、それでも地球は回っているとしか言いようがない。
九州説とか畿内説とかのカルト信者を説得するのは無理だろうなぁwww >>444
嘘をつけ
大月氏方面は実際の距離の2倍の表記
洛陽均衡はあまり誤差なし
短里なんざない
あるのは不正確な記録だけ >>296
>皇帝の詔書に反するとは死刑だね<
明帝が亡くなって、次の皇帝が「喪に服す」と言えば、
難升米らも、慶賀の儀式もできないから、一旦帰国することになる。 九州説は明らかに間違ってるから畿内説が正しいというのが畿内説カルト信者の言い分
畿内説は明らかに間違ってるから九州説が正しいというのが九州説カルト信者の言い分
何かおかしくない?w
他の選択肢は考えないのかよ?www 里程と日程をそれぞれ解釈して
邪馬台国の首都は伊都だろ
んでもって、平原遺跡が卑弥呼女王墓だろ
とっくに決着ついてんのに
なに蒸し返してんの?w 畿内説は行程記事は根拠にならないという立場で
九州説は、考古学者に九州説がいなくなってしまった現状から
行程記事を根拠に独自説を開陳しているから批判されているだけ >>432
>「自郡至女王國萬二千餘里」は「女王國」と書かれているから、
>5万戸の投馬國も含んだものなんだよ。
東行至不弥国百里までの合計でぴたり12000里になるから、そこが女王の都で北部九州だと言ってたんじゃないの?
また話が違うの?? >>464
はあ?w
行程記事から伊都が首都
考古学的に鉄器文化の中心地の北部九州が邪馬台国で
平原遺跡が卑弥呼のお墓
なにフェイクニュース流してんの?www 敗北を認めるのが悔しいから
あたかも五分の勝負であるかのように見せかけるのかwww >>460
晋書帝紀に
「正始元年春正月,東倭重譯納貢」
の記事があるが、これは明帝崩の喪が開けて、新帝に改めて朝貢したもの
難升米らは一端帰国したかもしれないが、再度朝貢して下賜品を受け取ってる。 >>463
>里程と日程をそれぞれ解釈して
>邪馬台国の首都は伊都だろ
その解釈だと会稽より遥かに北になって
倭人伝と合わないから
邪馬台国の首都は伊都だろという解釈が間違ってると
判るわけだが >>466
平原ミカン畑遺跡が卑弥呼のお墓と言ってるのは
銅鏡にヤタガラスが描かれているとか
半島南部に5万戸の投馬國があったなどと連呼しているチョンビー伊都厨だけで
考古学者にはいない 考古学的に否定されてる糸クズ厨が
考古学者ヘイトにsage必死
w
w 気づいていると思うけど、
もれ(仮)の妹の名前は「ともみ」というんだけど
よく考えてみると人権侵害だと思わない? 311というのも人工地震だぞ
と言っている人がいなかった? 平原遺跡が卑弥呼の墓と書かれて
冷や汗流して必死のスレ流しwww まあ、素人が学会はおろか誰にも相手にされないような珍説を披露してるのを
律儀に相手してる俺らも俺らなんだけどな >>479
そうだと思う
「りん、りん」
と言っていたりしない?名前? 「りん、りん」
たしか『松傾』のような家で、
上の名前の読み方も本当は「す」のほうだよと言っている家、
というか家は、そうだと言ってる >>477
平原説の弱点を書かれた伊都厨が
イヤガラセに流してんじゃないの? このような話とか
『天子神璽』
山王院 山王宮?
後に京都のほうから官職を貰いと書いてあったり
むかーし伊達郡というほうに、
住んでいた事があると言っている やっぱり
伊都説の弱点を書かれたから
スレを流してるんだな 猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
高天原から伊都国への道。
天の八衢。ここがどこかだな。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、海路の境。
その近傍にイシズ川。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北が浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。 書かなかった?妹だと、
5月生まれ、5月15日生まれ
いまは付き合いはないけど銀という親戚がいて、
家に凄い刀が飾って・・・ >>470
時代が違う?
なぜ?
1号墓と2号墓が周溝を共有している事がわかり、弥生終末と思われるが、年代ははっきりはわかってないよ?
主体部から出土した瑪瑙の管玉は半島で3世紀〜4世紀代の遺跡から多く出土してるらしいがこの情報の検証はどうなったのか?一番重要だろう。 平原遺跡が卑弥呼の墓と書かれて
冷や汗流して必死のスレ流しwww キュウリの葉、葱の華・・・などの写っている写真
あれは家の写真、有名人なのかな? 兄もいる、書き込みをしている、もれは弟(次男。二男。) >>486
笠沙の岬は志賀島、天の浮橋は海の中道。
天孫降臨は博多湾上陸と伊都国建国の歴史だよ。 同じ平原遺跡から
世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が
同時出土。
どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw
大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー
方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡。 イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。
そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。
考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。
そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。
考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。 里程
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里
日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1日
帯方郡から投馬国まで水行20日 猿田について調べてみてもわかるはず、
天津、天孫降臨〜
『猫神やおよろず』 >>492
巻向はもっと後の時代なんだよな。
九州説wwwwwww 家の中に凄い刀が飾ってあった
とか
何の刀だったんだろう 能古島は牛牧(官牧)があったところだから
神宿る島ではなくて、牛と牧夫住まう島 平原のは倭国大乱の南側勢力が魏に繋ぎをつける前に、北側勢力が呉や公孫氏から入手した鏡。 母親も言っていた
結婚したばかりの頃は、
す▢のサン、す▢のサン〜と呼ばれていた
病院とか銀行とか、
そういったところに行ったときの話
読み方が変わった、変えたのは、最近の話? >>300
>>(持衰)倭人が、そんな汚い話を魏使らにしゃべる、という事がそもそも有り得ず、)
>なんで、あり得ないんだ?<
魏帝の使節に汚い者を見せる、という事は、
魏帝に汚い 物を見せる、という事と同じだから。
>なんで聞いたのが魏使だと決めてかかるんだ?<
魏使らは、倭人の生活の実態を知って記録する事が目的の一つだから。 >>306
>コマヒト伊作も全レスしてたよなw <
そうか。
isaq氏も、生真面目だったから、
・・・・ケダモノ詐欺師のヘイトスピーチ街宣の大和説者の投稿に、
逐一全部返事を書いていたのか。
・・・・だ、と世間の人々にもはっきり判るような投稿など、
放置しておけばよかったのに。 >>510
>魏帝の使節に汚い者を見せる、という事は、
>魏帝に汚い 物を見せる、という事と同じだから。
じゃ、魏使の船に持衰が乗った、って話はウソなー
w >>307
>倭人の船で朝鮮半島の西岸と南岸を南行四千里東行三千里したんだよ。 <
そりゃ無理だ。
魏帝の大事な使節を、安全な循海岸水行→陸行の最短ルートが判っているのに、
今更、危険な洋上の遠回りの航海を、倭人にさせて事故でも起こされたら、
郡の役人たちも罰せられる。
だから、循海岸水行から郡か韓人の船で出発し、
牙山湾の「唐津」から韓人の案内で乍南乍東の陸路に入り、
低い峠を越えての狗邪韓國に到り、
そこで、(松浦水軍家の)都市氏が担当する「持衰がいた倭船いた」に乗り換えたのだ。 >>315
>北宋の咸平本が残ってないからわからんだろ<
紹煕本には、咸平本の「牒」が残っている。 >>511
>isaq氏も、生真面目だったから、
プライドが高くて、コンプレックスを覆い隠すために
精神的な余裕がないんだよ、お前と同じで
知的レベルはかなり違うけど >>316
>罵っても反論になりません <
不可知部分への「証拠は?」の質問の繰り返しや、
言葉尻への口先へのヘイトスピーチ誹謗などで罵っても、
・・・・に見えるだけで、反論になりません。
史料事実や人類の常識などで反論して貰わないとね。 >>513
>だから、循海岸水行から郡か韓人の船で出発し、
>牙山湾の「唐津」から韓人の案内で乍南乍東の陸路に入り、
おや、もう伯済国や月支国を「循海岸水行歴韓国」しちゃってるね。
古田説崩れたり。 >>515
また不正確に聞き齧りして、いい加減なこと言ってるね >>517
>不可知部分への「証拠は?」の質問の繰り返しや、
ザラコクらトンデモ九州説論者は
不可知部分のことを断定ばかりしているから
皆から「証拠は?」と繰り返し質問される
そして答えられず、論破され続けている >>319
>>倭船は、狗邪韓國までの渡海での使用であり、
韓地ではで「自昔・・・道kei百濟」であったのであり、<
>三世紀に百済はないよ<
倭王武の倭國にとっては、「自昔」からの道であったのであり、
5世紀の上表文は、5世紀にあった百済の表現を使うが、
3世紀には倭國があったんだから、
3世紀にも百済の前の三韓時代にも、「道kei」があった、あった、という事だよ。 >>522
>倭王武の倭國にとっては、「自昔」からの道であったのであり、
その「昔」が3世紀だ、なんて
なんで勝手に決めてるんだ? >>321
>始皇帝陵以外は例になってない <
現在の石の墓柱も、「墳」とは全く言わないし、
一里怩焉A石柱状であり、「一里墳」とは言わないよ。 >>325
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐き詐欺師の大和説者は、
見て来たかのような嘘を言い。 不可知部分のことを断定ばかりして
皆から「証拠は?」と繰り返し質問され
そして答えられず、論破され続けるトンデモ説男 >>328
>俺が船に乗ってないだろうと書いたのは生口の女じゃなくて婦人<
生口の女性も婦人。
>小さな舟でシラミが湧いたら皆に感染する<
だから、魏使らは嫌がって記録に残し、
何故そんな人がいるのか?をいぶかしがって、倭人に理由を尋ねた。 >>329
>全羅南道楽安邑城民俗村や済州島漢拏山麓城邑民俗村などの草屋(チョガ)は丸っこい<
日本の竪穴式住居も、馬韓の冢と同じように、円錐状に尖っている。 >>330
>ほら、例を1つしか出せない <
蟻塚や一里怩ヘ、何百個?ある事やら。
>古田説は帰納なんかしていません<
一例からでも存在すれば、それからの帰納的推論は出来る。 >>332
>戸は戸主ではない デタラメ訳しても反論にならないよ<
古田さんは、「倭人伝を徹底して読む」で、
中国では「戸」は、兵役納税の単位としての捉え方であり、
「家」は、兵役納税に関係のない人(家族?)としての捉え方である、
という分析をしておられたよ。 >>533
>一例からでも存在すれば、それからの帰納的推論は出来る。
帰納ってなんだか知らないで言葉だけ振り回す超無学を嗤う >>533
>蟻塚や一里塚は、何百個?ある事やら。
一つも例を出さないザラコク >>533
>蟻塚や一里塚は、何百個?ある事やら。
一つも例を出さないザラコク >>529
女生口を婦人とは書いてない
>だから、魏使らは嫌がって記録に残し、
>何故そんな人がいるのか?をいぶかしがって、倭人に理由を尋ねた。
妄想はいらん >>334
>「舉家」は「家を挙げて」だ 漢文のイロハも知らないド素人だな<
前レスと同じ。
「戸」は、兵役納税単位の戸主の意味であり、
「家」は、兵役納税の単位ではない、
という捉え方であり、
倭人伝でも韓伝でも、でも書き分けられ、
一大國と不彌國には「家」で数えられ、
その他は「戸」で数えられて書き分けられている。 ザラコクは不可知部分のことを妄想で断定ばかりして
皆から指摘を受けて論破され続けるトンデモ説男 >>540
>その他は「戸」で数えられて書き分けられている。
書き分けられているって証拠は? >>334
>「余」は1〜999里までの可能性を含んでいる、「0」じゃない
つまり12001里〜12999里までの実数と等しい
有効数字は五桁だね <
数字が書かれていなかったら、有効「数字」にならない。 11,999+1で得た12,000は有効数字5桁だけど100の位を四捨五入した12,000は二桁だよ
でも、四捨五入なのか切り捨てなのか判らないと元の数字の範囲は解らない >>331
>その戸主は上に挙げられて在し、家族は中に共に在す」
>という意味だ、と思うよ。
二階建てか?お前が貼ってたブログの写真は二階建てじゃないから
馬韓地域の二階建てで尖った形状の住居の実例を探して出せばいい >>540
書き分けられているのか、混用されているのかも
判らない
不可知部分を根拠もなく断定するのは非科学的だ >>545
それ以前に、漢文の読み方がメチャクチャ >>335
>始皇帝の墓は普通にまともな「墳」だよ<
「冢」と名付けられているよ。 >>340
>ネットの憎悪発言は権力、数関係ないだろ 民族的特徴のほうが強い<
Yahooでも2chにでも5chでも、通説大和説者の方がはるかに、
韓国人や朝鮮人や中国人らへのヘイトスピーチ街宣投稿が多かった。
ほら、今でも、九州説者をだ「韓系だ」として、
それでヘイトスピーチする大和説者が絶えない。 >>548
この男はかつて、冢とは小さいものだと言い張っていた
始皇帝冢を突きつけられたら
こんどは、冢とは錐状に尖ったもとだと言い張りだした
とにかく結論先にありきの
手のつけられない、場当たり・思い付き・言い張り男だ >>549
>Yahooでも2chにでも5chでも、通説大和説者の方がはるかに、
>韓国人や朝鮮人や中国人らへのヘイトスピーチ街宣投稿が多かった。
証拠は? 九州説はよく関西人を朝鮮人だと言ってたけどな
古代史で中国人へのヘイトスピーチはあんまり見ない気がするが >>342
>その部分だけ読んでもダメだよ 「適齢期を過ぎても結婚せず」だ 遠い過去の話だよ<
40歳位なら、結婚も出来るし、子供も出来るよ。 >>343
>「長里単独論」 は確定したし<
陳寿の「地の文」の「計其道里、當在會稽東治之東」が、
長里なら赤道付近まで行ってしまって、
長里でなく「短里であった事が判った」時点で、
「長里単独論」は破綻した。
念のため。
「東冶」であっても、長里なら赤道付近まで行ってしまうから✖になり、
「長里単独論」は破綻した。 >>347
>>陳寿は、分郡後に地の文として、はっきり書き分けているのだ。<
>書き分けたって証拠は?<
陳寿は、
分群前は、「会稽東冶」という文言を幾つも書いていたが、
会稽郡が会稽郡と建安郡に分れた分郡後は、
「会稽東冶」という文言を一切使わなくなって、
東冶が会稽郡には入っていない、という事をはっきり示した上で、
改めて、会稽東治、という記載をしたから。 それなら會稽之東でいいからな
会稽東治なんて誰も使ってないから >>557
>「長里単独論」は破綻した。
しないよ。
数字も方角も間違ってるって説だもの。
赤道なんて行かない。 >>558
>分群前は、「会稽東冶」という文言を幾つも書いていたが、
>会稽郡が会稽郡と建安郡に分れた分郡後は、
>「会稽東冶」という文言を一切使わなくなって、
ウソだな
証拠がない >>351
>だから南方向には9100里なんだよね<
ならんよ。
キミの計算には、郡〜韓の1600里が入っていないし、
海峡二国の国内移動も一辺だけで二辺にもなっていないから、
インチキそのもの。
>ということは、会稽どころか 揚子江河口にも届きません 短里説死にました<
ということは、女王國は、
短里の「萬二千余里」と、南九州の卑弥呼共立の投馬國で、
東治の東治や揚子江河口にも届きました。
届かない「福州東冶」説や、
赤道付近になってしまう長里説も、死にました。 >>353
>筑紫から南水行二十日で投馬国なのに
どうして邪馬台国は帯方郡から南水行なんだ?<
?。
帯方郡からの「循海岸水行」は、韓までしかないんだよ。 >>355
>>の「会稽東冶」という設定から嘘誤りであったのであり、<
>会稽でも12000古田アホ里で届かないのに <
自郡至女王國萬二千餘里と、南水行二十日の(卑弥呼共立國の)投馬國とで、
会稽東治に十分届く。
>会稽東冶に届くわけないよな<
有難う。「東冶」説は✖ね。 >>356
>「魏の皇帝に報告しなければならない」 って根拠でもあんの?<
魏帝に、詔書や金印や大量の下賜品を届ける事を命ぜられたんだから、
魏帝に報告しなければ、
魏帝は、きちんと仕事を終えたのか?が判らない。 >>562
>>だから南方向には9100里なんだよね
>ならんよ。
>キミの計算には、郡〜韓の1600里が入っていないし、
>海峡二国の国内移動も一辺だけで二辺にもなっていないから、
>インチキそのもの。
そのインチキ、やったのザラコクだよな
868日本@名無史さん2017/12/18(月)21:03:21
>陳寿の認識をもう一度書いて上げよう。
・・・
>だから、南は、1400+4000+3000+700=9100(里)。
>東は、4000+100=4100(里)。
ザラコクはインチキだね
爆笑 >>563
>>筑紫から南水行二十日で投馬国なのに
>どうして邪馬台国は帯方郡から南水行なんだ?
>?。
>帯方郡からの「循海岸水行」は、韓までしかないんだよ。
循環論法 >>565
>魏帝に報告しなければ、
>魏帝は、きちんと仕事を終えたのか?が判らない。
お前が書いたのは
>>354
>魏の皇帝に報告しなければならない測定記録で、
>間違えれば首が飛ぶ可能性が高い事で、 >>564
>自郡至女王國萬二千餘里と、南水行二十日の(卑弥呼共立國の)投馬國とで、
>会稽東治に十分届く。
12000里で北緯30度まで届くと言い張ってたのは
ウソと認めるんだな? このように
トンデモ九州説は、ひとつ嘘がバレると
すぐ次の嘘をつく >>363
>何里行きましたとか書かにゃいけない根拠なし<
勿論、皇帝が直接行程を書け、と言ったのか?は、知らん。
しかし、魏使らは、行程の記録を残した。 >>572
>しかし、魏使らは、行程の記録を残した。
残した、という証拠は? >>364
史料事実や人類の常識に照らして見れば判る。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、全員、精神病?。 >>367
>【奈良】邪馬台国の所在地有力候補「纒向遺跡」 ふるさと納税を整備に <
「南≠東」だから、✖。 >>370
「南≠東」などの方向論だけではなく、
里程論でも、畿内説の完敗だったようだな。 >>374
国粋皇国史観の戦争狂の右翼の大和説者は、犯罪者であるから、
全員、刑務所に入れ。 >>379
>いつ、何処でなんと反論されて、それを無視した?<
「南≠東」の指摘に、反論出来た大和説者は皆無。 >>381
>畿内では討伐したヤマトの地に卑弥呼が都を置き<
「南≠東」だから、✖ね。 >>578
>「南≠東」の指摘に、反論出来た大和説者は皆無。
だって証拠は? 九州説は証拠の出せないような主張ばかりしているね
だからいつも、すぐ論破される 年已長大 の意味については 「年已長大 曹丕」で検索してみるヨロシ >>382
>クナ(なにわ〜河内〜和泉〜ヤマト)の王家><
「南≠東」だから、✖。 >>383
「南→東」などの嘘つき騙しの指摘に反論出来ず、
「韓方四千里全体が郡と狗邪韓國の間の全部だ」としか考えられないあんたは、
もう何も考えられないアホだろ?。 >>385
>九州北部と畿内は元々血縁もあり、運命も共同した仲間だ。
仲良くしないといけない。<
しかし、盟主は筑紫倭国の方だった!。 >>386
>倭国大乱前の畿内の王族、卑弥弓呼系<
「南≠東」に拠って、✖ね。 >>392
>>韓地は対角線直線距離だ、という絶対断定で、古田さんの道のり距離説を曲解捏造し、<
>おいおい >方四千里の韓の対角線は「東南約5600里」。
って「絶対断定」を突然おっぱじめたの、自分だろ <
おいおい?、
郡→狗邪韓國の間は、「方四千里の韓」だけだ、
という「曲解捏造詐欺」を突然始めたのは、お前のほうだろ?。 >>393
>>真南なら11000里位で、陳寿の「会稽東治之東」の推定とほぼ大体一致しており、<
>そうすると邪馬台国が佐多岬突端にあることになり 古田説壊滅<
邪馬壹國は筑紫付近になり、
それから「南に水行二十日」の南九州に卑弥呼共立の投馬國」があるから、
女王國は、南九州まである事になり、「会稽東治之東」にぴったり。
九州説の勝利になり、
大和説は壊滅。 >>394
大和説は完全に、
この「会稽東治之東」に引っかかって 否定されるね 。 ザラコクのスレに成っちまった
奥山の崇高なスレ立てとちがう方向に進んでるよ
勝者の貫禄、畿内説を探求するスレだろ
Part1から畿内説の探求ないやん
奥山頑張って畿内説論者を集めて探求しろよ >>395
「万二千里は数字の間違い」説も、
「南水行は東の間違い」説も、
大和説者の「史料事実の否定曲解の嘘つき騙し」情報ってことで、
一気に決着だね。 >>396
萬二千里っていうのは、
魏使らが記録し、
陳寿三国志と魏略が採用し、
陳寿の「会稽東治之東」という判断ともほぼぴったり一致し、
いわば、魏と西晋朝に使われた短里での「実数」と言っていい。 ザラコクは大和説は明らかなんだよな
畿内説とは言わないなーーー
おーーーーくーーーーむーーーまーーーーー!
ザラコク無視して、畿内説の探求進めたほうが得策
何人集まるかは不明だが
初志貫徹しないと・・・・・・ >>397
>淮南子だろ
「東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。」
以下、西南北及び中央の極がそれぞれ萬二千里<
成程。
一寸千里を採用した淮南子なら、「短里を採用」してもおかしくない。 おーーーい
奥山、失礼だろ・・・・・彼はテメーと関係無いだろ
■奥山誠義 OKUYAMA MASAYOSHI
◎研究テーマ:出土文化財の保存とそのために必要と なる材料・材質に関する基礎的研究。
特に出土有機質 遺物(木製品や繊維製品)の保存や科学的手法による 材質調査等の研究に関心を持つ。
顔料染色技術の検討 や顔料鉱物の調査・研究も行っている。 奥山=ザラコク ならオモロイナWwwww
まぁ二人とも病院に行けと言うより、閉鎖病棟に行けばいいんでんーの
たまに書き込んでやると事が人助けだな おれ月3のボランティアになるかな??? >>596
>萬二千里っていうのは、
> 魏使らが記録し、
根拠なし >>399
「南→東」などの嘘吐きダマシや、
自郡至女王國萬二千餘里」や「計其道里、當在會稽東治之東」などの、
史料事実の否定曲解ばかりしている大和説では、
女王國の位置が全く見つけられない、
という事がよく理解できる。 >>592
>真南なら11000里位で、陳寿の「会稽東治之東」の推定とほぼ大体一致しており、<
>邪馬壹國は筑紫付近になり、
>それから「南に水行二十日」の南九州に卑弥呼共立の投馬國」があるから、
>女王國は、南九州まである事になり、「会稽東治之東」にぴったり。
こんどは投馬国まで「11000里位」になってしまった
支離滅裂だな
短里説、完全に死んだね
>>604
FAQ3
「行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。」
畿内説の一貫した主張なんだがね >>401
今の日本の、
安部政府や右翼マスコミや学会教育界の、
記紀信仰や「南→東」などの史料事実を否定曲解するようないい加減さ見てたら、
倭人伝の記述の客観性や信頼性やが非常に高い、
って事が解るだろうに。 >>607
いやいや
ザラコクの行き当たりばったり
口から出まかせの
いい加減さに比べたら
とるに足りない >>404
これは、郡から狗邪韓國の七千余里の場合、
それと韓の方四千里とは、全く同じ事ではなく、
七千余里のはるか内側に含まれているのだ、
という事が判らないらしい大和説者の、 その場その場の取り繕いのために、
倭人伝の行程記事からどんどんかけ離れていってる 、
頭の悪い、「南→東」の」の大和説サギが陥るパターン。 >>609
頭が悪いんだな
いうらその場だけを取り繕って誤魔化しても
南北距離差は変わらないのに >>406
>方四千里の対角線直線距離が約5600里であるから
くねくね道の迂回路であれば、里数はもっと大きくなる<
以前にも何度も計算して上げた事であるが、
極端な完全階段状であれば、当然正方形の斜辺に対する二辺になるから、1.414倍。
そして、それがくねくねであれば、普通は1.2倍位以下。
しかし、1.2倍位以下であっても、少しでも「会稽東治之東」に接近出来るから、
有難う。 インチキ九州説は、誤魔化してもダメなんだよね
112日本@名無史さん2017/12/15(金) 18:22:06.40>>120>>458
>萬二千里余里のままであれば、912km余りで、緯度差8.2度。
>沙里院起点としても、38.5−8.2=30.3(度)。
>ほら、揚子江河口の北緯30度とほぼぴったり。
なんて言っちゃってる
不弥国で12000里を消化して到着したはずの女王国の入り口が
北緯30度になりました
北部九州説が死亡です >>611
完全階段状だろうが、くねくねだろうが
南北距離差は4千里で固定だ >>417
>階段状に進めば方四千里の2辺を進む距離と等しくなる<
七千余里は、韓方四千里を一部に含む、という関係であるだけ。
そもそも、方二千里の二辺を進めば八千里になってしまって、
始めから七千余里とは合わない。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓
(渡海千里)
対馬
馬(方可四百余里)
(渡海千里)
壱岐
岐(方可三百里) >>425
>三角縁神獣鏡の多数出る機内が大和に決まっている<
洛陽から全くのように出土しないから、明帝の下賜鏡ではなく、
大和説の証拠にならない。
>あと魏志倭人伝の行程を辿れば九州を飛び出すからな <
陳寿の行程記載の「出発説明+途中移動説明+到着説明」の原則通りに読めば、
邪馬壹國は、不彌國のすぐ南にあった事になり、
九州を飛び出さない。 >>426
>被害妄想はレビー小体型認知症の初期症状の特徴<
安倍政府や、右翼マスコミや、大和説学会教育界や、
キョクウのヘイトスピーチ人種に見られる症状。
>前頭側頭葉型認知症は主として前頭葉、側頭葉が委縮して起こる疾患
人格をコントロールする前頭葉の障害の為、
自己中心的な人格変化、反社会的行動が目立ち精神疾患と診断されることがある<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の大和説者や、
キョクウのヘイトスピーチ人種に見られる症状。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 >>434
>帯方郡の場所の解釈って間違ってるんだよなぁ。
正しい帯方郡の場所は朝鮮半島の東岸付け根付近なんだよなぁ。<
「朝鮮半島の東岸付け根付近」は、沃沮〜wai[扁水旁歳]。
>当時の状況は、倭国は瀬戸内海を挟んで南北に別れて倭国大乱やってた。(高地性集落)<
倭国乱は、九州の話。
高地性集落は、倭國の東征のため。 >>435
不彌國から南へ水行二十日の投馬國の事を想定できなかった、
という事が、 痴呆老人向けの大和説のサギ里説。 >>438
>帯方郡から見て乍南乍東、
これは倭国から見たら乍北乍西、朝鮮半島東岸にピッタリ当てはまる<
何だ?、この男も、
「南→東」の史料事実の否定曲解の出雲説や大和説者であったのか。 >>441
>倭国の都は近江→濃尾→大和と遷都されていった。
卑弥呼の時代はまだ大和は国造りされる前だから、
邪馬台国は近江か濃尾のどちらかなんだよなぁ<
根本的に、「南→東」の嘘吐きダマシ説だから、✖。 >>448
>倭国大乱やってる戦乱の地に危険を冒して魏の小役人がやって来るわけないだろw
聞き取り調査だよwww <
卑弥呼共立で倭國乱がおさまったから、魏使らも、
詔書や金印や大量の下賜品を卑弥呼に渡す事が出来たんだよ。 >>452
>>倭人の方から、全く関係のない魏使らにわざわざ、
「恆使一人、不梳頭、不去蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人」
なんて事を話す筈がない。<
>わざわざ話したから記事にしたんだろ<
いや、魏使らの観察記録。
倭人からの伝聞は、その次の、
「名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹」。 >>453
>それって漢が呉か公孫氏が書き残してた記述から引用したか、<
倭地における魏使らの見聞
>あるいは帯方郡にやって来た船頭を見ての記述だろ<
倭王武の上表文に拠って、倭の使節は、「自昔・・・道kei百濟」であったから、
韓は陸行であり、
だから、倭船は、狗邪韓國までしか行っていない。 >>457
>>古田さんは、始めからくねくね道の迂回路を書いておられたから、<
>じゃあ、対角線で「東南約5600里」 というのが嘘なんだね?<
近似推定値。 >>458
>まぁなんだ、それでも地球は回っているとしか言いようがない。
九州説とか畿内説とかのカルト信者を説得するのは無理だろうなぁwww<
史料事実や史料実態からは、
大和説は始めから全く✖だが、九州説はほぼ正しい。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 >>627
言ってることがコロコロ変わって支離滅裂だな >>611
>極端な完全階段状であれば、当然正方形の斜辺に対する二辺になるから、1.414倍。
完全階段状なら、方四千里の場合、頂点から頂点までは二辺の合計の八千里
行程七千里は、郡の境界から(後漢書)=方四千里の韓の西北の頂点から
南の底辺の4分の3までの距離の単純計算 どっちにしろ古田短里で南に万二千里も行ったら九州通り越して海へドボンだ
破綻してるよ 自分で階段状陸行というモデルを出しておきながら
そのモデルに合った距離計算をしない
古田の行き当たりバッタリさが
古田説の破綻を招いた
ってわけだ 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 倭人伝が北部九州邪馬台国で解読されて
>FAQ3
>「行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。」
>畿内説の一貫した主張なんだがね
こんなんじゃあ
何でもありっすねw >>641
誰が、どう解読したの?
何でもありだと思う理由は? >>642
北部九州説が普通に解読したんだよ
解読された途端に「採用しない(キリッ」
お前マジうけるんですけどw 何でもありってこと、
すべて駄目(してはいけない)ってことなんだよ
このような、
よくわからない書き込みをしている人がいたけど、
何かの学者、詩人なの?
何かの曲からの引用?漫画? それなら、はやく、タヒね(氏ね)!
こういう、
よくわからない書き込みがあったり、
何なんだろう >>643
>北部九州説が普通に解読したんだよ
誰が、どう解読したの?
内容がないの? >>646
あんな説なんて無かったらいいのに
あんな説なんて無かったことにしたい
お前が発狂するあの説だよw
はい、お前の頭に俺の ち ょ ん ま げ www それよりも『川崎区 南部 部落』
とある掲示板?を読んでみて、
老婆の話じゃないの?
銀というのがいた・・・家に凄い刀が飾ってあった、
芝居、歌舞伎が好きで・・・・・・・・・・・だったとか >>647
言えないような説なら、ないと同じだよね 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 他のスレにも書いた
銀?とモレ(仮)は親戚、
伊達郡ではなくて、川崎のほうにも住んでいると思う
親が言うのは、
確か、いたよと言っているし、同じような名前の親戚
よくわからないけどヤクザ、
暴力団関係者ではないと思う 山のように証拠を積み上げ続ける九州説と
それを見たくないと逃げ回る畿内説。 >>492
言うだけなら誰でもできる。
この時代の遺跡は学者でさえそう思われる迄なのに、何で確定できるの?
わかってるのは、2世紀末より古くないと思われるだけだよ? 天孫降臨、大陸へのルート確保か。
月読
暦と天文の神。
伊都国に婿入りし、更に大陸での勢力にどうアプローチしたかだな。 >>656
なにが言いたいんだ?
理由も言わずに否定する気?
それは無理だよ >>656
出来の悪い方格規矩四神鏡が32枚あることから220年以降であることが確定する。
董卓によって焼き払われて廃墟となった洛陽を
魏が復興したのが220年。
洛陽の銅鏡工房が再興して出来の悪い方格規矩四神鏡が作られ始める。
平原遺跡が220年以前であれば、
超大型内行花文鏡を作る技術を持つ北部九州倭国で
ほんの数枚の試作ならともかく
32枚もの出来の悪い方格規矩四神鏡を作るはずがない。 >>459
>嘘をつけ 大月氏方面は実際の距離の2倍の表記 洛陽均衡はあまり誤差なし
短里なんざない あるのは不正確な記録だけ<
嘘をつけ。
Yahooの議論でも、大和説者が提示した「長里例」は、
殆どが、長里に合わず、短か過ぎるので、
よく見たら、出発点を中心から中心になっており、
居住外縁部間で計算し直したら、短里になるものが殆どであった。
長里の可能性があったのは、漢代や蜀や呉の記載や、現地記録の転写や、
上表文などの転写など、ばかりであった。
長里なんざ、殆どない。
あるのは。短里でのでの概数記録だけ。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 >>461
>九州説は明らかに間違ってるから畿内説が正しいというのが畿内説カルト信者の言い分
畿内説は明らかに間違ってるから九州説が正しいというのが九州説カルト信者の言い分
何かおかしくない?w 他の選択肢は考えないのかよ?www <
大和説は、「南≠東」だけでも99.9%否定され、
九州説は、倭人伝の行程記載と、漢委奴国王印と平原の21枚の「尚方作」鏡のの存在で、
99,9%確定だ。 サンレッド?
ググると出てくるでしょ、
ファンタジー家系と言うものとか
神ー神
↓
このような系図、何なんだろう サンレッド?
川崎の話だと言っているし
神殺し?
それとも神話(家が何やら、系図)などを否定している人々が多いのかな? >>464
>畿内説は行程記事は根拠にならないという立場で<
行程記事は、距離方向共に、九州でほぼ合っていて、
大和は全く合わない。
>九州説は、考古学者に九州説がいなくなってしまった現状から<
日本の考古学者は、九州説を否定して大和説に賛成しないと、地位も給料も上がらない、という、
文部省の締め付けに支配されているから。
>行程記事を根拠に独自説を開陳しているから批判されているだけ<
いや、九州説は、史料事実の「南や短里」の肯定や考古発掘根拠、という点で一致している。 >>465
>>「自郡至女王國萬二千餘里」は「女王國」と書かれているから、
5万戸の投馬國も含んだものなんだよ。<
>東行至不弥国百里までの合計でぴたり12000里になるから、
そこが女王の都で北部九州だと言ってたんじゃないの?<
「邪馬壹國女王之所都」は、筑紫。
「女王國」は、共立諸国を含む。
また話が違うの?? >>658
そもそも>>492に2世紀末と確定した理由が無いから否定する事もできんだろ
一般的には>>656の解釈で弥生終末期だろうね >>468
>晋書帝紀に 「正始元年春正月,東倭重譯納貢」 の記事があるが、
これは明帝崩の喪が開けて、新帝に改めて朝貢したもの<
おそらく、「喪明けの挨拶」朝貢。
晋書の記載や成立は、(前史の曲解や何でも間違い論が盛行した)唐代であったから、
100%の信頼性は全くなく、半分偽記載。
「正始元年春正月、 東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國、弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。
天子歸美宰輔、又増帝封邑」であるが、
難升米らの場合には、通訳を付けずに朝貢していたから、卑弥呼の倭国ではなく、
晋が「東倭」と呼んだ別の存在が弱水以南あった、という可能性が高い。
確か、晋代の満州付近の「倭」という地域があった筈。
>難升米らは一端帰国したかもしれないが、再度朝貢して下賜品を受け取ってる。 <
前項で説明したように、
通訳の有無で、率善中郎將を拝命している難升米らは否定され、
「東倭」と呼ばれた地域からの納貢。
また、改めて、
「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、
并齎詔賜金、帛、錦kei、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔」
があったんだから、それからも「正始元年春正月」の納貢が、
難升米らであった事も否定される。 紛れ込んだ土器なんかで時代は分からない
副葬品が重要 >>669
>晋が「東倭」と呼んだ別の存在が弱水以南あった、という可能性が高い。
>確か、晋代の満州付近の「倭」という地域があった筈。
根拠ないだろ >>669
>晋書の記載や成立は、(前史の曲解や何でも間違い論が盛行した)唐代であったから、
>100%の信頼性は全くなく、半分偽記載。
皇帝関連は起居注から記事が書かれるから一番信頼性が高い >>669
>難升米らの場合には、通訳を付けずに朝貢していたから、
いちいち通訳を伴ったと書いてないだけ >>670
このように
九州説はあらゆる学問を否定する >>492
>2世紀末とわかってます <
21個の「尚方作」方格規玖鏡の説明が出来ません。 >>502
ホケノ箸墓はもっと後の時代(3世紀末以降)なんだよな。
大和説wwwwwww 。 >>512
>>魏帝の使節に汚い者を見せる、という事は、
魏帝に汚い 物を見せる、という事と同じだから。
>じゃ、魏使の船に持衰が乗った、って話はウソなー <
いや、倭人は、持衰を魏使らに見せるつもりはなかったとしても、
3回の渡海で、同じような風態の「使一人」を見れば、
そりゃ、記録し、質問したんでしょう。
w >>514
>ほら、自己矛盾<
ほら、大和説者は、
どこが自己矛盾であるのか?を言えずに、
「自己矛盾」とヘイトスピーチするだけ。
という事は、大和説者は、
全く反論出来なかった、
という事を示している事になる。 >>519
>>だから、循海岸水行から郡か韓人の船で出発し、
牙山湾の「唐津」から韓人の案内で乍南乍東の陸路に入り、<
>おや、もう伯済国や月支国を「循海岸水行歴韓国」しちゃってるね。
古田説崩れたり。<
また大和説者が変な事をしゃべっているね。
「歴韓國」は、「循海岸水行」の後だよ。 >>520
>また不正確に聞き齧りして、いい加減なこと言ってるね <
また大和説者は、紹煕本が咸平本系である事を隠蔽しようとして、
私から証拠の「牒」の存在のを指摘されて、慌てて、
「不正確に聞き齧りして、いい加減なこと言ってるね 」
というヘイトスピーチで誤魔化そう、としているね。 致斎 チサイ
《日本書紀》に神武天皇がみずから斎忌して諸神をまつったとあり,
《常陸国風土記》に福慈(富士)の神が新穀の祭りに際して家中が諱忌していると語っている。
古代法制では神祇令に,神事の前後の散斎と当日の厳重な致斎とが定められ,
散斎については弔問,病気見舞,肉食,刑罰,音楽,触穢などが禁じられ,
致斎には神事以外のいっさいを控えるとある。
神事そのものが忌籠であって,別火し沐浴していっさいの不浄を退け,
徹夜して神に仕えるという物忌の形式をとる。
物忌 ものいみ
伊勢神宮をはじめとして香取・鹿島・春日・賀茂などの大社に仕えた童男・童女。 >>522
>>不可知部分への「証拠は?」の質問の繰り返しや、<
>ザラコクらトンデモ九州説論者は 不可知部分のことを断定ばかりしているから<
「断定」なんて、絶対にしないね。
全て、知り得た事実からの確率の高い帰納的推論。
可能性がより高いと考えられる推論をしゃべっているだけ。
>皆から「証拠は?」と繰り返し質問される <
無限に「証拠は?」と言い続ける人種や大和説者は、
「議論は勝てばいいのだ」という議論テクニックはしか考えられない、一種の・・・・。
>そして答えられず、論破され続けている <
「証拠は?」の一方通行ではなく、
自分の論と相手の論を噛み合わせて比較しないと、
どちらが確率が高いのか?の判断が出来ない。 >>523
>>(百済道)倭王武の倭國にとっては、「自昔」からの道であったのであり、<
>その「昔」が3世紀だ、なんて なんで勝手に決めてるんだ?<
倭人の暢草の朝貢は周初からあったようだが、
倭国としての朝貢は、107年からだから。 >>525
>石柱状の一里塚って、どこにあるんだ?<
昔、東海道の一里塚の写真を見た事があるが、
最近でも、播磨の西国街道や旧街道にある道標は、皆、石柱状だよ。 冢の形状の例で
日本の江戸時代の一里塚じゃだめだろう >>686
箱根にまだ残ってる一里塚は石柱状じゃないぞ、いつもでたらめばっか >>527
>嘘だという根拠は?<
「東」は、「南」じゃないから、「嘘」だ。 >>528
>不可知部分のことを断定ばかりして<
「断定」はしないねえ。
言い方は断定のように見えても、実際は全て、確率の高い帰納的推論だよ。
>皆から「証拠は?」と繰り返し質問され<
昔から、
自分の説を言わないで、相手にだけ「証拠は?」を言い続ける人種は、
口先だけで議論に勝とうとしている、一種の・・・・なんだな、
という事を知っている。
>そして答えられず、論破され続けるトンデモ説男<
何らかの事実を提供してくれれば、推論して答えられるが、
不可知部分への証拠を要求された時に、ついうっかり断定して答えてしまうと、
そりゃ、ウソを付いてしまう事になるから、放置する事にしている。
不可知部分への「証拠は?」の要求するトンデモは、
・・・・だから。
と思う事にしている。 >>531
>一里塚
http://www.city.morioka.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/354/ichiri.jpg
こりゃ、斜面が(円弧ではなく)全くではなく)直線的な「錐体」状だから、
(墳ではなく)怩セね。
それで、そのてっぺんは、どうなっていたんだい?。
平だったのか?、木でも植えてあったのか?、石柱でもあったのか?。
平であって「錐体台」状で >>532
>馬韓の冢と同だって根拠は?<
おや?、「馬韓の冢」と書いていたのか?。
ごめんごめん。
「居處作草屋土室、形如冢」の事であり、
mutouha氏の提示された画像では、日本の竪穴式住居のように、
円錐台のような形だった。 >>693
お前の妄想では二階建ての土室なんだろ? >>535
>戸は戸主と言ってないな<
「居處作草屋土室、形如冢。其戸在上舉家共在中、無長幼男女之別」
だから、「戸在上舉」と「家共在中」が対句的に書かれており、
「戸=戸主」と「家=家族」との待遇の書き分けになっているんだよ。 >>536
>>一例からでも存在すれば、それからの帰納的推論は出来る。<
>帰納ってなんだか知らないで言葉だけ振り回す超無学を嗤う<
一例だけからの帰納的確率的推論が出来ないような、超無学のアホを笑う。 >>539
>女生口を婦人とは書いてない<
持衰は「使一人」と書かれたように、使節の一員であったし、
生口は、
奴とは明らかに区別されいる事と、
「男女生口三十人」を連れた事があるんだから、
鎖や腰縄で繋ぐ存在ではなく、同行させるような存在であり、
一定の能力を持って働き口を求める人格のある存在のようであり、
だから、女生口は、婦人に近い。 >>697
使は使者じゃなくて、使A〜Bの使役だろ
女生口を婦人とは書いてないんだろ >>541
掲示板にたむろする大和説者や大和説学者らは、
不可知部分の「挙証の断定要求」ばかりをして、
皆からも指摘を受けて、
論破され続けるトンデモ説男。 >>542
>>(戸と家の書き分け)その他は「戸」で数えられて書き分けられている。<
>書き分けられているって証拠は?<
?。魏志倭人伝。 >>545
>>戸主は上に挙げられて在し、家族は中に共に在す、という意味だと思うよ。<
>二階建てか?お前が貼ってたブログの写真は二階建てじゃないから
馬韓地域の二階建てで尖った形状の住居の実例を探して出せばいい <
建物の中に一段上の部分がある、という意味だと思うよ。 >>546
>(戸と家)書き分けられているのか、混用されているのかも 判らない
不可知部分を根拠もなく断定するのは非科学的だ<
韓伝と倭人伝では、「戸と家」は、事実、書き分けられている。 >>701
いや、建物の中に一段上の部分がある思うじゃなくて
その証拠を出さないと >>550
>この男はかつて、冢とは小さいものだと言い張っていた<
孔明の遺言の「墳と冢」の区別だ。
>始皇帝冢を突きつけられたら
こんどは、冢とは錐状に尖ったもとだと言い張りだした <
始皇帝冢は、「墳」との比較ではなく、錐体状、という形状の問題だ。
>とにかく結論先にありきの
手のつけられない、場当たり・思い付き・言い張り男だ<
とにかく大和説者は、
議論対象が変わっても、同じ返事をしなければならない、
という、・・・・サギシだ。 >>551
>>Yahooでも2chにでも5chでも、通説大和説者の方がはるかに、
韓国人や朝鮮人や中国人らへのヘイトスピーチ街宣投稿が多かった。<
>証拠は?<
Yahoo掲示板やtextreamの大和説者のほぼ全員の投稿。 >>552
>「余」も数字と同じ扱い <
「萬二千余里」の有効な数字は、「萬」と「二千」しかないから、
有効数字は2桁。
算用数字の12000の有効数字とは違う。 >>556
>中国では普通に始皇帝陵だ・・・<
「陵」ではなく、
「墳」と呼ばれたか?「冢」と呼ばれたか?の問題だ。 >>705
その証拠を
あなたは出せないでいるわけだが
w
w >>684
>「証拠は?」の一方通行ではなく、
>自分の論と相手の論を噛み合わせて比較しないと、
>どちらが確率が高いのか?の判断が出来ない。
それは嘘
相手と関係なく
証拠が出せなければ確率は無し 韓国や中国の人たちにヘイトするネトウヨが支持するなら畿内説は間違いだとすぐに分かりますね
差別主義者は馬鹿で低知能ですから >>708
「分? 古墓葬」
とあるのが読めないのか >>705
Yahooを出禁になったのはザラコクのほうなんだろ 遺命して「漢中の定軍山に葬る。山に因て墳をなす。冢、棺を容るるに足り、
斂(れん=葬式)するに時服(=平服)を以てす。余物を須(もち)ひず」
私の冢(墓)は棺を埋葬できる程度の大きさでいい
葬儀には費用をかけなくていいと言っているのであって
冢が小さな墓であることを言っているのではない
定軍山が墳墓全体、冢が棺を埋葬するところ
前方後円墳全体が墳、後円部が冢 >>711
実際は東遷説がそれをやってて、畿内説には関係ないな >>684
>「断定」なんて、絶対にしないね。
ほら、またしたw
w >>700
>>書き分けられているって証拠は?
>?。魏志倭人伝。
ほら、また証拠が出せない >>695
>「居處作草屋土室、形如冢。其戸在上舉家共在中、無長幼男女之別」
>だから、「戸在上舉」と「家共在中」が対句的に書かれており、
それは初歩的な間違い。
「舉家」は家を挙げて、つまり家族全員で共に在中。
だから長幼男女之別が無いと書いているのだ。
戸主というか、父も夫も家族の一員で、長幼の別が無い。
だから、「戸在上」と「挙家共在中」が対の関係である。 >>692
知りもしないなら、ただ想像だけで
いい加減なことは言わないように >>559
>それなら會稽之東でいいからな 会稽東治なんて誰も使ってないから<
いや、陳寿は、
会稽という狭い場所よりも、もっと広い場所の東の方が適切だ、と考えた。
だから「会稽郡の東の治所域の東にあるべし」という説明をした。
また、会稽を選んだのは、「鯨面文身」や「夏后少康之子封於會稽」の話があったから。 「会稽郡の東の治所域の東」
これって会稽より狭いだろw >>560
>>「長里単独論」は破綻した。<
>しないよ。 数字も方角も間違ってるって説だもの。 赤道なんて行かない<
破綻したよ。
数字も方角もほぼ合っているから。
大和説も破綻した。 >>561
>>分群前は、「会稽東冶」という文言を幾つも書いていたが、
会稽郡が会稽郡と建安郡に分れた分郡後は、
「会稽東冶」という文言を一切使わなくなって、 <
>ウソだな 証拠がない <
三国志が証拠。 >>723
つか、会稽郡治って会稽郡のほぼ北端だからな
別の場所なら、もっと南しか無い >>725
三国志にそんな証拠はありません
あるなら出して見せなよ >>566
>なんの関係もないな><
「無夫壻、有男弟佐治國」と書かなければならなかったのは、
「結婚すべき成人期」をかなり越えている、と見えたから。 >>567
>>ならんよ。 キミの計算には、郡〜韓の1600里が入っていないし、
海峡二国の国内移動も一辺だけで二辺にもなっていないから、 インチキそのもの。<
>そのインチキ、やったのザラコクだよな
868日本@名無史さん2017/12/18(月)21:03:21
>陳寿の認識をもう一度書いて上げよう。
・・・
>だから、南は、1400+4000+3000+700=9100(里)。
>東は、4000+100=4100(里)。
ザラコクはインチキだね爆笑<
とっくに訂正しておいたよ。
倭人伝の記載は、郡〜狗邪韓國は七千余里であったから、それが史料事実であり、
この男の「何の直接的関係のない韓方四千里」を含める計算をした場合の計算に、
ついうっかり乗せられた計算を書いてしまったが、
直ぐに「南南東方向への七千余里」計算に訂正いておいてあったんだよ。 >>725
>三国志が証拠。
こういう手合いってさ・・・
「お月さまが証人だ。俺が正しい!」
って言う異常者と同じだな
>>568
>>>筑紫から南水行二十日で投馬国なのに どうして邪馬台国は帯方郡から南水行なんだ? <
>>?。 帯方郡からの「循海岸水行」は、韓までしかないんだよ。 <
>循環論法<
史料事実。 >>569
>>魏帝に報告しなければ、 魏帝は、きちんと仕事を終えたのか?が判らない。<
>お前が書いたのは >>354
>魏の皇帝に報告しなければならない測定記録で、 間違えれば首が飛ぶ可能性が高い事で、<
確かに首が飛ぶだろうね。 >>570
>>自郡至女王國萬二千餘里と、南水行二十日の(卑弥呼共立國の)投馬國とで、
会稽東治に十分届く。<
>12000里で北緯30度まで届くと言い張ってたのは ウソと認めるんだな?<
北緯30度という事なら、当然「ほぼ届く」とか「大体届く」としか言わないよ。 >>571
このように トンデモ大和説は、相手の推論の全体を隠して、
言葉尻を切り取って、それを「断定した」と曲解捏造して、
それで「推論との細かい差異」を矛盾だと言い張って、
それで相手を誹謗罵倒して、議論に勝ったかのように、世間の人々を騙そうとする、
犯罪者的・・・・ケダモノの詐欺師。 >>573
>>しかし、魏使らは、行程の記録を残した。<
>残した、という証拠は?<
倭人伝の行程記載。 >>580
>「南≠東」だって根拠は?<
史料事実は「南」。 ”邪馬台”というその名前や、年代や社会状況などから普通に考えると、邪馬台国は近畿だが、
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国への行程が混乱を招き、場所をわからなくしているという皮肉w >>581
>>「南≠東」の指摘に、反論出来た大和説者は皆無。<
>だって証拠は?<
「南」が間違いだ、という事を証明出来た人がいない。 >>583
大和説は、相変わらず「南→東」などのような、
証拠を出せない主張ばかりしているね。
だからいつも直ぐに論破される。 >年代や社会状況などから普通に考えると、邪馬台国は近畿だが、
なんで? >>584
>年已長大 の意味については 「年已長大 曹丕」で検索してみるヨロシ<
ご紹介、有難うございます。
34歳ですね。 >>603
>>萬二千里っていうのは、 魏使らが記録し、<
>根拠なし<
魏志と魏略に書かれているから。 >>745
萬二千里は淮南子の東西南北の極限距離
倭国を極限とみなして当てはめたんだな >>605
>こんどは投馬国まで「11000里位」になってしまった 支離滅裂だな<
「11000里位」は、
郡から南南東の邪馬壹國までの「萬二千余里」の、
「南北方向成分」であった筈だよ。 >>747
南北方向成分が11000里位で南九州なら
萬二千里は北部九州にはならない >>746
長里だ短里だってむなしいね
最初から虚数だったんだねw >>606
>FAQ3
「行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。」
畿内説の一貫した主張なんだがね<
魏使らの行程記事も陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」も、
「方位・距離ともに著しい誤情報」を含んでいないから、
大和説は破綻したんですよね。 洛陽から伊万里まで一万里なんだから、さらに南へ二千里行ったら九州突き抜けちまうわなw >>608
いやいや、
大和説者の行き当たりばったりの、口から出まかせの、いい加減さに比べたら、
九州説者の小ミスなど、
とるに足りない。 >>610
頭が悪いんだな。
いくらその場だけを取り繕って誤魔化しても、
郡から南南東の邪馬壹國女王之所都の萬二千余里も、
そこから南水行二十日の投馬國の女王國の範囲も、
22.5度の余弦の関係になる南北距離も、
殆ど変わらないのに。
「離差は変わらないのに >>753
北緯30度付近と離差が変わらないなら萬二千余里も北緯30度付近だろ >>612
>インチキ九州説は、誤魔化してもダメなんだよね<
インチキ大和説は、幾ら「長里」を隠して、相手の言葉尻断定否定したって、
長里が✖で、短里で大体合っている事がバレてしまっているから、ダメなんだよ。
>112日本@名無史さん2017/12/15(金) 18:22:06.40>>120>>458
>萬二千里余里のままであれば、912km余りで、緯度差8.2度。
>沙里院起点としても、38.5−8.2=30.3(度)。
>ほら、揚子江河口の北緯30度とほぼぴったり。
なんて言っちゃってる<
1里≒76.5mで、南南東への道のり距離を大体南北距離だ、とした時の概算だな。
>不弥国で12000里を消化して到着したはずの女王国の入り口が 北緯30度になりました<
折れ線的道のり距離を、直線距離とした場合の概算であったのであり、
何にもおかしくない。
>部九州説が死亡です<
どっちにしても、大和説と「長里」説が死亡です。 >>613
>完全階段状だろうが、くねくねだろうが南北距離差は4千里で固定だ<
郡〜狗邪韓國は、はっきり「七千余里」と書かれている事が全てであり、
郡から循海岸水行した後の「方四千里」の韓の寸法など、
参考にはなっても、
直接的には何の関係もない数値だ。 >>755
折れ線的道のり距離を直線距離にして
その南北方向成分を長くしているサギ >>615
>七千余里は、韓方四千里を一部に含む、という関係であるだけ。
そもそも、方二千里の二辺を進めば八千里になってしまって、
始めから七千余里とは合わない。<
>誤魔化しても増やせないよ <
韓の西岸南岸水行説の矛盾を指摘してあげたんだよ。 畿内説が里を錯誤とするなら
短里を否定するだけの根拠もありませんね。
自ら行程論を語る資格を放棄している
わけですからね。 >>629
大和説者は、
「南→東」の
理由もいわずに言い張るだけか。 >>631
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
言ってることがコロコロ変わって支離滅裂だな。 >>633
>時代が違うだろ<
倭國王武が「自昔・・・」と言ったからには、
倭國成立時からになるだろ?。 >>634
>またでたらめ 何も根拠がない <
大和説者は、また、
何の話か、理由は何か?を言わない、
デタラメインチキをするつもりらしい。 >>635
>どっちにしろ古田短里で南に万二千里も行ったら九州通り越して海へドボンだ
破綻してるよ<
また変な大和説者が現れた!。
今は、
萬二千余里で筑紫に着く、
という事の合意が出来た話をしているの。 >>756
あのな、「郡」って漢字を良く見てみろ。君主の里だろ?
US Openとか日本Openとか色々あるけど、The Openと言えば全英Openのことなんだよ。
同様に、帯方郡とかだと地方自治体のことだけど、ただ「郡」って書いてあったら首都のことなんだよ。 >>636
>自分で階段状陸行というモデルを出しておきながら そのモデルに合った距離計算をしない
古田の行き当たりバッタリさが 古田説の破綻を招いた ってわけだ<
古田さんの「階段式陸行」は、当然、
あくまで「判りやすいモデル」でしかなく、
実際には、くねくね移動の近似距離計算をしておられる。 >>639
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者には、
コミュ障が多いな。 >>646
>北部九州説が普通に解読したんだよ 誰が、どう解読したの? 内容がないの?<
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」などの思考に従って、
普通に読んだんだよ。 >>654
>九州説がが完敗だもんな<
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説が、完敗だもんな。 ありゃりゃ
無限ループの不毛阿呆スレになっとるな(失礼^^
ギャラリー激減に一億ビットコイン(びっとばぶるやっぱり弾けたな >>658
>にが言いたいんだ? 理由も言わずに否定する気? それは無理だよそんざ
理由は簡単だ。
21個の「尚方作」鏡の存在。
21個もの「尚方作」鏡をくれた人は、明帝しかいないもんね。 とういでん
ぎりゃくいんよー
えんのじだい
ここもやっぱり
いちりみじかし(いっくけんじょう きないせつ
たいほうぐんと
にほんかい
せっしていれば
かいりゅうつなぐ(てきとー びっとこいん
からうりできず
むだによそう
いよのみやこも
おなじなりけり(ふもうじゃ^^ >>673
>>難升米らの場合には、通訳を付けずに朝貢していたから、<
>いちいち通訳を伴ったと書いてないだけ<
難氏の本貫は、河南省と韓。
通訳は要らなかった、という可能性が高い。 >>771
みらー100
せんそーちゅーに
用意せし
尚方作とは
かぎらんぞ(みらーより刀が大事じゃね >>674
>このように 九州説はあらゆる学問を否定する<
このように、「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説者は、
あらゆる学問を否定する。 >>775
おどろいた
夏目じゃないの
なしめくん
なんしてだれや
はつみみなりよ? >>676
>>21個の「尚方作」方格規玖鏡の説明が出来ません。<
>どんな説明ができないの?<
21個の「尚方作」方格規玖鏡をくれた可能性があるのは、
明帝しかいない事。 倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国、漢時有朝見者、今使訳所通三十国。
魏志倭人伝の解釈ってこの冒頭部分の解釈からして滅茶苦茶なものが罷り通ってるんだよな。
漢の時代に朝見者が来た国あったが、その国は当時は百余りの国を従えてた。
今回やって来た使者から通訳を通して聞き取り調査を行ったところ、30国の連合国だという。
で、漢の時代に来た国は倭国大乱で分裂してるから、帯方へやって来た使者は分裂した片割れの国からやって来たってことで間違いなかろうと結論付けてる訳だ。 >>775
っ 今使訳所通三十国。
訳という字を使うことで、通訳を介してだということを簡潔に表現してる >>780
100−30は東瀬戸内の沿岸国じゃね(たぶん
せとはひぐれて♪ゆーなーみーこーなーみー 783に追記いたします
くにや!
にほんのクナや!
きーみーがーーよーーはー♪
天皇陛下おたんじょーびーおめでとー >>678
>>ホケノ箸墓はもっと後の時代(3世紀末以降)なんだよな。 大和説はwwww<
>根拠は?<
ホケノも箸墓も布留。
加美で伽耶の陶質土器が(布留ではなく)庄内と共存し、
ホケノは「有槨」だから、卑弥呼や壹與よりも後であり、
「伽耶や吉備の有槨」と同じく、扶余の太康6年(285年)の戦乱で、
扶余や東沃沮の「槨」の墓祭祀部族の渡来が考えられるから、
285年以後。 >>785
ふる0は
ずばっというと
にいはちご
こんきょはわえの
ただの直感(かいけつ >>688
>冢の形状の例で 日本の江戸時代の一里塚じゃだめだろう<
誰かが挙げられた「東海道の一里塚」の画像では、
斜面が直線平面状であったから、「錐体」的であり、
丸みを帯びた「墳」状ではなく、
「冢」状であったよ。 >>689
>箱根にまだ残ってる一里塚は石柱状じゃないぞ、いつもでたらめばっか <
その塚の頂上は、どうなっていたんだい?。 >>694
>お前の妄想では二階建ての土室なんだろ?<
違うね。 >>698
>使は使者じゃなくて、使A〜Bの使役だろ<
やはり、この5chのどなたかの訳が「使者」であったから、そのように解釈したが、
そりゃ、使役の可能性もあるね。
>女生口を婦人とは書いてないんだろ<
「奴」でなければ、婦人だろう。 大地をはうような あなたのいびきも歯ぎしりも
もう暗闇に独りじゃないと 安心できて好き
だけど もしも寝言で 他の娘の名を呼ばぬように
気に入った女の子は 私と同じ名前で呼んで >>703
>いや、建物の中に一段上の部分がある思うじゃなくて
その証拠を出さないと <
mutouha氏が提示された画像では、二階建てになっていなかった。 >>793
女生口を婦人とは書いてないし、
小さな舟で持衰が婦人を近づけずに
他の乗組員は女生口をどのように近づけてたのかと聞いている >>709
>その証拠を あなたは出せないでいるわけだが w w <
Yahooや2chや5chと書いて上げた筈だが。 >>795
二階建てじゃないなら親父はどういう状態で家族の上に居るのか
お前の妄想に合う住居画像を探して貼れ >>710
>>「証拠は?」の一方通行ではなく、
自分の論と相手の論を噛み合わせて比較しないと、
どちらが確率が高いのか?の判断が出来ない。<
>それは嘘 相手と関係なく 証拠が出せなければ確率は無し<
それは騙し。
相手に関係なく、自分の証拠をださなければ、自分の確率がなし。 >>711
>韓国や中国の人たちにヘイトするネトウヨが支持するなら畿内説は間違いだとすぐに分かりますね
差別主義者は馬鹿で低知能ですから <
賛成です。 >>713
>「方墳」だな <
私が見た始皇帝陵は、「冢」と書いてあったな。 >>715
>前方後円墳全体が墳、後円部が冢 <
前方後円墳全体は、不定形であり、冢ではない。 >>716
>書き分けられている という証拠は? <
韓伝や倭人伝の記載。 >>718
>>「断定」なんて、絶対にしないね。<
>ほら、またしたw w <
当然「大体」であり、心情的表現。 >>719
>>書き分けられているって証拠は?<
>?。魏志倭人伝。<
>ほら、また証拠が出せない <
出して欲しいんなら、幾つか誤魔化しがあるが、天誅の
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html#wajin
をどうぞ。 >>721
>だから、「戸在上」と「挙家共在中」が対の関係である。<
ちっとも「対」になっていない。 >>721
>知りもしないなら、ただ想像だけで いい加減なことは言わないように <
キミが提示した画像では、頂上が壊されているように見えたから。 >>723
>「会稽郡の東の治所域の東」 これって会稽より狭いだろw<
会稽郡の東の治所の地域は、当然会稽郡治よりも広い。 >>726
>つか、会稽郡治って会稽郡のほぼ北端だからな
別の場所なら、もっと南しか無い <
当然、会稽郡治の東方の南北海岸地域も含む。 >>728
>倭国に行ったのも分郡前だすー <
陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」は、分郡後だすー。 >>731
>>三国志が証拠<
こういう手合いってさ・・・。
「俺が正しい!だから、何を出しても認めないぞ」
って言う異常者と同じだな 。 上海語って呉語の一方言だったのか。
潮州語とか客家語とか上海語とか北京語とかって漢字の発音が全然違ってるよね。
蜀(陳寿の出身地)や帯方郡の役人(出身地は知らない)はどんな発音で漢字を読んでたんだろ? 建安郡は孫呉が立てた郡だから
陳寿が人生の何時書いた地の文かなんてのは関係ない
魏の使者が倭国を訪れた時の「今」の時点での「當在會稽東冶之東」 >>740
>”邪馬台”というその名前や、年代や社会状況などから普通に考えると、邪馬台国は近畿だが、
>魏志倭人伝に書かれている邪馬台国への行程が混乱を招き、場所をわからなくしているという皮肉w
直前までの倭国王墓が福岡にしかないこと、魏志倭人伝などの里程が福岡までで終わっていることなどから、邪馬台国は福岡だよ。 >>751
>洛陽から伊万里まで一万里なんだから、さらに南へ二千里行ったら九州突き抜けちまうわなw
帯方郡からだよ。
捏造は良くないね。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>818
後漢書が編纂されたのはいつの時代か知ってる? 伝言ゲームって面白いよね
最後はとんでもないことになってwww 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 >>818
「その地は会稽、東冶の東にあり」で、倭奴國が「倭國之極南界也」って書いてある 方四千里。四辺を一周した長さが四千里です。
径100歩。円周を一周した長さが100歩です。 >四辺を一周した長さ
周旋可五千余里
一周した長さは周旋可ですな。
東夷伝韓伝に記載されたのは
方可四千里=一辺の長さが四千里
東夷伝倭人伝に記載されたのは
方四百里=方可四百里=一辺の長さが四百里 もう今更文献こねくりまわしても意味が無い
判断は発掘調査に従え じゃあ平原遺跡ということで。
畿内には3世紀の王墓がない。 >>810
そんな妄想を見せられても証拠にならないな >>737
>ウソをついてた訳だな<
大和説者って人種は、
自分らは「南→東」などのような史料事実の否定曲解する嘘つき騙しをしている事を隠し、
相手が、史料事実からの帰納的確率的な大体の推論をした事に対しては、
「ウソをついてた訳だな」とヘイトスピーチをする・・・・ケダモノ詐欺師集団なんだな。 >>740
”邪馬壹國”というその名前や、魏志倭人伝の記載や考古や年代や社会状況などから、
普通に考えると、邪馬壹國は筑紫だが、
魏志倭人伝に書かれている邪馬壹國への行程を否定曲解し、
場所をわからなくしている、というのが、
排他的人種差別戦争的国粋皇国史観狂の大和説者。 本気で自分が普通だと思ってるの?
普通の人は証拠もなく
「ケダモノ詐欺師集団」とか
「排他的人種差別戦争的国粋皇国史観狂」なんて
他人を罵らないよ >>808
>会稽郡の東の治所の地域は、当然会稽郡治よりも広い。
なんで広いの? >>785
>ホケノも箸墓も布留。
>加美で伽耶の陶質土器が(布留ではなく)庄内と共存し、
>ホケノは「有槨」だから、卑弥呼や壹與よりも後であり、
>「伽耶や吉備の有槨」と同じく、扶余の太康6年(285年)の戦乱で、
>扶余や東沃沮の「槨」の墓祭祀部族の渡来が考えられるから、
>285年以後。
そんな嘘を何度貼り付けても、なんの根拠にもならないのに。 >>802
>前方後円墳全体は、不定形であり、冢ではない。
墓に大きな土盛りがあれば冢だよ >>835
数は多くないものの日本でも槨は弥生中期からずっとあるね >>835
伽耶の木槨墓II類の年代を使ってるみたいだけど、その前に木槨墓I類って有るんだよね >>835
日本に金海式地下木槨墓はないのでおまえの説はバツ。 和邇氏の東大寺山古墳から「中平」の紀年銘を持つ鉄刀が出た。
最近では発掘にも参加した金関恕(ひろし)氏(大阪府立弥生博物館館長、天理大学名誉教授)が
考古学雑誌第99巻2号(2017年3月)で、
邪馬壹国の女王・卑弥呼がもらった「五尺刀」がこれにあたるのではないかなど見解を述べておられる。
和邇氏はヒミコの系統である。
ヒメ踏鞴(248年没)
┃
トヨ津
┃
孝昭天皇
┃
天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
【安那氏祖】 【春日氏祖】 【猪甘氏祖】
【真野氏祖】
【壬生氏祖】 >>839
まったく
細かいこと無視して
槨だとか内行花文鏡だとか
バクッとした概念で
短絡するアホがいて
マジ笑うわ >>746
>萬二千里は淮南子の東西南北の極限距離
倭国を極限とみなして当てはめたんだな<
淮南子の頃は、倭國はまだなかったし、沿海州方面にも可能性があり、
日本列島を想定していたのか?は不明。
また淮南子は、「少し変形の一寸千里」を記載しているから、萬二千里も短里であり、
周〜漢代の中国の外縁部からの「萬二千里」計測であった可能性がある。 >>748
>南北方向成分が11000里位で南九州なら
萬二千里は北部九州にはならない <
「南北方向成分が11000里位」というのは、
始めから南九州ではなく、
萬二千余里の南北方向成分であり、
筑紫付近の西方の佐賀長崎付近になる。 >>749
>長里だ短里だってむなしいね 最初から虚数だったんだねw<
空しくないねえ。
長里も短里もどちらも存在していた。
大和説者は、短里の否定抹殺がどうしても出来ない、と判ると、
今度は、長里と短里の両方とも✖であるかのような匂わせをして、
短里の存在を抹殺しようとする詐欺をしようとしている。 >>751
>洛陽から伊万里まで一万里なんだから、さらに南へ二千里行ったら
九州突き抜けちまうわなw<
「一万里」と書いたのは、漢書の如淳注だが、
如淳注は起点が「帯方」であり、だから、短里であり、
また、行程説明をきちんと受け止めれば、
不彌國で萬二千余里がほぼ終了してしまい、
「南へ二千里」なんてないよ。 >>753
また訂正。
「頭が悪いんだな。
いくらその場だけを取り繕って誤魔化しても、
郡から南南東の邪馬壹國女王之所都の萬二千余里も、
そこから南水行二十日の投馬國の女王國の範囲も、
22.5度の余弦の関係になる南北距離も、
殆ど変わらないのに。
離差は変わらないのに」
の「離差は変わらないのに」は、PCの調子が悪くて、
いつの間にか削除忘れになっていたものですから、
改めて削除。 >>754
>北緯30度付近と離差が変わらないなら萬二千余里も北緯30度付近だろ<
「離差は変わらないのに」部分は、削除漏れの文。
萬二千余里は、筑紫付近。 >>757
>折れ線的道のり距離を直線距離にして<
折れ線的道のりは、単なる「説明のためのモデル」であり、
実際はくねくね道的であったんであり、
直線距離との差異は1割位であり、
古田さんは、それを見込んで、直線距離的近似計算をされた。
>の南北方向成分を長くしているサギ<
長くしていない。
倭人伝の七千余里は変わっていない。 >>765
>あのな、「郡」って漢字を良く見てみろ。君主の里だろ?
US Openとか日本Openとか色々あるけど、The Openと言えば全英Openのことなんだよ。
同様に、帯方郡とかだと地方自治体のことだけど、
ただ「郡」って書いてあったら首都のことなんだよ。<
倭人伝では、
首都(洛陽)は、「京都」や「臺」として、
「郡」や「帯方郡」と書き分けている。 >>843
>「南北方向成分が11000里位」というのは、
>始めから南九州ではなく、
>萬二千余里の南北方向成分であり、
>筑紫付近の西方の佐賀長崎付近になる。
なんで佐賀長崎付近が北緯30〜31度なんだ?
支離滅裂だな >>848
>実際はくねくね道的であったんであり
つまり「乍南乍東」なんて
しなかったんだね? >>845
>また、行程説明をきちんと受け止めれば、
>不彌國で萬二千余里がほぼ終了してしまい、
>「南へ二千里」なんてないよ。
12000里って、古田短里でも900km弱だろ?
九州突き抜けるよなー >>843
ころころ変えるな
>>388
>真南なら11000里位で、陳寿の「会稽東治之東」の推定とほぼ大体一致しており、 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 >>778
>おどろいた 夏目じゃないの なしめくん なんしてだれや はつみみなりよ?<
根本的な問題は、倭人支配層は、1〜2字苗字を持っていたのではないか?、という事。
都市牛利の都市という苗字も、福岡市の電話帳に「都市」が見つかり、
古田派の人が訪ねて行って聞いたら、東松浦半島の西北沖の鷹島と黒島の松浦水軍家であったとの事。
だから、海峡の南北交易を支配して渡海や半島人との会話も出来たから、次使に選ばれたんだろう、
という事。
「難」という苗字も、直ぐに河南省と韓に本貫がある部族であった事が判り、
近年、双方が集まって先祖の慰霊祭をしたとのこと。
だから、難升米は、周代の中国の身分制の「大夫」を名乗り、
漢字の読み書き会話が出来たから、「正使」に選ばれた。
だから、通訳が要らない。
また、卑弥呼にも中国に「卑」という苗字があるが、これの関係はまだ判らない。
また、伊聲耆と掖邪狗も大夫を名乗り、掖邪狗らは率善中郎將印綬を貰っているが、
伊聲耆は、明らかに天孫族の阿毎氏の「伊」氏であるようであり、
掖邪狗の方は、狗邪韓國の「狗」と「邪」の文字が使われているから、
「狗邪」部族の出であった可能性がある。 >>782
>使訳所通三十国。
訳という字を使うことで、通訳を介してだということを簡潔に表現してる<
不賛成。
使節に拠って訳が通る所が三十國。
漢語がある程度使える難升米や都市牛利の使節や、伊聲耆や掖邪狗らの使節の説明で、
訳が通るようになった、
としても十分。 >>783
>100−30は東瀬戸内の沿岸国じゃね(たぶん
せとはひぐれて♪ゆーなーみーこーなーみー <
違うね。
「其餘旁國遠絶、不可得詳・・・(21国名)・・・」と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とは、
はっきり違うものだ、として書き分けられている。 >>855
九州説のは勉強になります。
クリスマスプレゼントをありがとう。 >>787
>難氏て古田君の本でいえば何巻目登場?<
内倉武久氏の本。 天孫、天神族なんてものはない
あるとするなら天津、国津だけ >>790
>河南省の漢姓の難姓は古鲜卑族吐難氏部族<
情報提供、有難う御座います。
鮮卑なら済州島にも来ていますから、可能性はありますが、
「難」と「吐難」とは、完全に同じだとは言い難いですね。 地名が音での当て字なのだから
人名も当て字の可能性があるのでは? 本当に、わかりやすい、
あのサルタの話を読んでみた? >>796
>女生口を婦人とは書いてないし、<
「生口」は、生きている口がある者、という事なんだから、
何か、口で役に立つというところを持っている人、という事であろうから、
単なる「奴」とは違うね。
>小さな舟で持衰が婦人を近づけずに
他の乗組員は女生口をどのように近づけてたのかと聞いている<
元々、そんな汚い客であれば、乗せて貰えなかった筈であり、
だから「使一人」は、使節の中の一人が持衰になったんだろう、と思う。 >>798
>二階建てじゃないなら親父はどういう状態で家族の上に居るのか<
おそらく、土や木で「槨」のような構造物を造って。
>お前の妄想に合う住居画像を探して貼れ<
私は、PCの素人。
住居画像を貼る、という事など全く判らない。 また>>805の訂正。
>>書き分けられているって証拠は?<
>?。魏志倭人伝。<
>ほら、また証拠が出せない <
出して欲しいんなら、幾つか誤魔化しがあるが、
天誅の 「漢籍の書棚」
をどうぞ。 >>864
倭人伝の女生口は婦人とは書いてないと言っている
奴だとは言っていない
>元々、そんな汚い客であれば、乗せて貰えなかった筈であり、
持衰が船に乗っているのかどうかを話しているのに
また循環論法か >>867
決して証拠を出さず
徹底して逃げる
九州説 >>815
>建安郡は孫呉が立てた郡だから 陳寿が人生の何時書いた地の文かなんてのは関係ない<
?。意味不明のへんてこな文。
分郡の永安三年は360年だから、陳寿の三国志執筆は西晋にもなっていないし。
>魏の使者が倭国を訪れた時の「今」の時点での「當在會稽東冶之東」<
「計其道里、當在會稽東治之東」てな全く余計な話を魏使らが記録する筈がない。 >>823
>「その地は会稽、東冶の東にあり」で、<
後漢書は、誇大に書く癖があって高慢な范曄に拠る、
「内容の書き変え」が多い半分×書であり、
「東治→東冶」も、信頼出来ない。
>倭奴國が「倭國之極南界也」って書いてある<
いや、「倭國之極南界也光武賜以印綬」は、
「倭國これ南界を極めるや、光武が印綬を以てす」と解釈すべき。
その「極める」という内実は、
「自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣」の「極」の事。 >>824
>方四千里。一辺の長さは千里ですwww <
韓方四千里は、
郡〜狗邪韓國の間の「途中の一部」にある国であるだけであり、
「七千余里」とは、直接的な関連は有りません。 >>872
魏使が倭国を訪問し、魏志で「今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽〜」の記事に
陳寿が書いたのが地の文で孫呉が分郡した後かどうかなど関係のない全く余計な話 >>874
じゃあ、韓国通過中に何里ほど南下したの? >>827
>もう今更文献こねくりまわしても意味が無い 判断は発掘調査に従え<
客観性や信頼性の高い文献が存在する限り、
文献が中心史料になり、
考古は、金石文などの直接的発掘以外は、間接的証拠にしかならず、
客観性や信頼性の高い文献の、補助的な役割にしかなれない。 >>877
でも、客観性のないヘンテコ読みしてる古田説は
ダメでしょ? >>873
そのヘンテコ読みは>>818と伊都厨スレで議論しなければならない >>833
本気で自分が普通だと思ってるの?。
普通の人は、
証拠もなく 「南→東」などの史料事実の曲解否定をしたり、
その嘘吐きダマシを激しく固執したり、
「自分の証拠や論理を言わずに、相手に、証拠は?、などの質問ばかり」だけしかしないとか、
排他的人種差別の殺人行為を鼓舞扇動するヘイトスピーチをするなどの、
非人間的な行為をしないよ。 >>834
>>会稽郡の東の治所の地域は、当然会稽郡治よりも広い。<
>なんで広いの?<
普通は、治所は、郡都の周りにあるものだから。 >>836
>>前方後円墳全体は、不定形であり、冢ではない。<
>墓に大きな土盛りがあれば冢だよ<
冢は「錐体や錐体台」状。
墳は「半球状の盛り上がり」状。
前方後円墳はどちらでもない。 無学ザラコク爺は「治所」ってなんだか知らないと、思われ >>885
そのザラコク思想に、なんか根拠あるの? >>874
帯方郡から南に四千里、東に三千里で対馬海峡の北岸である倭人の土地、狗邪韓国へと至る。
移動手段は海沿いに倭人の船である。
ここから初めて海を渡り、三千里で九州北岸へと至る。
邪馬台国までは残り二千里であり、福岡県を出ない。 >>882
おまえは、>>722で
>いや、陳寿は、
>会稽という狭い場所よりも、もっと広い場所の東の方が適切だ、と考えた。
と書いてるだろw >>890
「会稽という狭い場所よりも、もっと広い場所」
って、一体どこなんだろうね
クスクスクス >>836
>数は多くないものの日本でも槨は弥生中期からずっとあるね <
魏使らは、卑弥呼から壹與の時代には、「有棺無槨であった」と記録した。 東夷伝に有槨有棺が一国も書かれていないのは、
漢民族と比較した東夷の民族の風習の概観であって
東夷諸国に一つも存在しなかったということではない >>836
>伽耶の木槨墓II類の年代を使ってるみたいだけど、その前に木槨墓I類って有るんだよね <
これも同じ。
魏志韓伝の、
馬韓伝には、「有棺無槨」と書かれているし、
他の辰韓や弁辰にも書かれていない、という事は、
辰韓や弁辰も無槨であった、という事。
だから、伽耶の「槨」は、陳寿の魏志記載時にはまだ「無槨」であって、
その後に伽耶に槨が出来た、ということ。 >>839
>日本に金海式地下木槨墓はないのでおまえの説はバツ。<
そりゃ、当然、伽耶に来た「槨」部族と、吉備や大和に来た「槨」部族とは、
扶余や東沃祖地域であったとしても、
少し別の、違う部族であった、
という事を示す事になる。 >>841
>まったく 細かいことにイチャモンを付けてはいるが、
魏志の卑弥呼や壹與の頃は、韓も倭地も「有棺無槨」であった、
という事を隠したり、
平原の21個の「尚方作」鏡は明帝の下賜鏡が元になっている、という事も隠したり、
「南≠東」などの史料事実の否定曲解をするとかの、
短絡する大和説アホがいて、
マジ笑うわ 。 >>850
>>「南北方向成分が11000里位」というのは、 始めから南九州ではなく、
萬二千余里の南北方向成分であり、 筑紫付近の西方の佐賀長崎付近になる。<
>なんで佐賀長崎付近が北緯30〜31度なんだ? 支離滅裂だな <
何これ?。
誰か、「佐賀長崎付近が北緯30〜31度」だ、なんて言ったか?。
耳や目が悪いか?、脳がおかしいんではないの?。
佐賀長崎は、郡の東南の山口と、郡の南の済州島との、
ほぼ真ん中付近になる、
と言ってんだよ。 >>893
つまり、考古学者が槨だとか発表したものは、どれも魏の人にはとても槨には見えないものばかり、なのさ >>895
>その後に伽耶に槨が出来た、ということ。
伽耶に槨があるとか
魏の人は言ってないよ >>899
また支離滅裂言ってるね
12000里行った先は北緯30度じゃないの?
行き当たりバッタリで自己矛盾しまくる
古田珍説w
w
w
w 漢民族にとっては棺は外箱で二重にするのが優越感なんだよ サンダルや靴履いてる人がいても、皆徒跣と書くんだよ >>1ことウンコ漏らし太郎、メリークリスマス!!www
和邇氏の墳墓・東大寺山古墳出土の中平銘鉄刀は卑弥呼が貰った刀としか説明できない。
では和邇氏とは何者か。
天トヨ津
┃
孝昭天皇
┃
天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┃
彦国姥津命
トヨから始まる。
ではトヨは誰の子か?
息石耳命(おきそみみのみこと/いきそみみのみこと)の子である。(母は不詳)
では息石耳命は誰の子か?
ヌナソコナカツ姫の子である。
ではヌナソコナカツ姫は誰の子か。
ヒメ踏鞴の兄で鴨王こと天日方奇日方命の子である。
つまりヌナソコナカツ姫は王女である。
ヒミコことヒメ踏鞴の姪である。
和邇氏は見事に王権と繋がっていた。
邪馬台国は解明したのである。
和邇氏は天理だが、卑弥呼ことヒメ踏鞴は葛城。
邪馬台国の王都は葛城であった。 >>896
>そりゃ、当然、伽耶に来た「槨」部族と、吉備や大和に来た「槨」部族とは、
扶余や東沃祖地域であったとしても、
少し別の、違う部族であった、
という事を示す事になる。<
別の部族ならお前の話はそもそも証明する根拠がないわけだ。
わかったか76歳加古川のハゲの屑。 >>851
>>実際はくねくね道的であったんであり <
>つまり「乍南乍東」なんて しなかったんだね?<
乍南乍東は、当然大体の近似的形容表現。
実際の山地帯の陸行が、100%ぴったり「乍南乍東」出来る訳がない。 >>852
>>また、行程説明をきちんと受け止めれば、 不彌國で萬二千余里がほぼ終了してしまい、
「南へ二千里」なんてないよ。<
>12000里って、古田短里でも900km弱だろ? 九州突き抜けるよなー <
大和説者の説明では、沙里院が北緯38.5度。
九州南端を仮に北緯30.5%をとすると、その差は8度。
1度は111kmだから、888km。
おや?、ぴったり。 >>853
>ころころ変えるな<
そもそも倭人伝の記載が、距離も方向の「大体」だから、
一地点だけを特定する事が、記載に合わないのであり、
だから、判り易い簡略的表現を選択する事は、
幾らでも有り得る。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1514150954/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>910
>そもそも倭人伝の記載が、距離も方向の「大体」だから、
筑紫と九州南端じゃ違いすぎだろ >>909
>おや?、ぴったり。
12000里が古田里だと九州南端でぴったりなら
お前が>>843で書いてる、筑紫付近の西方の佐賀長崎付近が南北方向成分11000里位
の1里は古田里よりも短いことになる ホケノ山古墳は木槨の6本の柱より内側に木棺を囲むように
4本の柱と棟持柱建物が構築されている非常に特殊な構造
楽浪地域の木槨は楚の木槨をベースに発達した華中系が展開した小型木槨墓で
2世紀に朝鮮半島南部(良洞里7号墓)、日本列島(楯築、西谷3号)に間接的に伝播した >>862
>地名が音での当て字なのだから<
倭人上層部は漢字を使えていたから、
地名にも、
「對海國」や「一大國」や「瀚海」や「伊都国」などのような、
明らかな漢字的名称もあれば、
倭人が当て字したような国名もあるし、
「邪馬壹國」のように、中国側が「音訳と意訳」をミックスしたような国名もある。
>人名も当て字の可能性があるのでは?<
卑弥呼は魏志本紀に、「(正始)四年/冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻」と書かれているから、
「俾彌呼」が彼女の上表文での正式署名であったようだし、
難升米や都市牛利や伊聲耆や掖邪狗らは、
魏から「率善中郎將」や「率善校尉」の官位を貰っているから、
自分の正式名を伝えていた筈。 楽浪人商人あたりをバイトに雇って書記官させてたら、やっぱり当て字だな >>910
ぴったりだ、と言った舌の根乾かぬうちに
大体だ、と言って誤魔化す九州説
w
w >>868
>歴史も素人、罵倒だけプロ<
大和説者は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解などの嘘吐きダマシもプロだし、
口先ヘイトスピーチ罵倒も、・・・・ケダモノサギシだね。 >>908
>実際の山地帯の陸行が、100%ぴったり「乍南乍東」出来る訳がない。
つまり、ウソなんだね >>869
>倭人伝の女生口は婦人とは書いてないと言っている 奴だとは言っていない<
キミは、海峡の倭船には婦人が乗っていない、と言った。
>>元々、そんな汚い客であれば、乗せて貰えなかった筈であり、<
>持衰が船に乗っているのかどうかを話しているのに また循環論法か<
魏使らが、倭船で持衰を見なければ、魏志に載っている記事は書けない。 >>918
史料事実を否定することの何がイカンのか?
それが考証ってモンだろうに >>870
「南→東」などの史料事実の否定抹殺や曲解捏造への指摘から、
徹底して逃げる
嘘吐きダマシの大和説者。 南に行ってるつもりが南東であった。
さらに東にスライドしていた。
だから西日本の地図の右をを斜め45度にずらせばいい。
邪馬台国(大和)の切れるところにある奴国とは那古つまり名古屋である。
その「南」(実際には東南)にある狗奴国とは静岡の磐田・袋井。
九州の出る幕などない。 >>875
>魏使が倭国を訪問し、魏志で「今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽〜」の記事に
陳寿が書いたのが地の文で孫呉が分郡した後かどうかなど関係のない全く余計な話<
「計其道里、當在會稽治東治之東」の文は、陳寿の地の文。 >>876
>じゃあ、韓国通過中に何里ほど南下したの?<
「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」の文には、
「韓国通過中に何里ほど南下したの?」か、という事など、書かれていないよ。
「韓方四千里」のどこを通ったのか?なども、推定の域をでないのだから、
うっかり推論的に答えて上げても、
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・大和説者は、
それを断定した、として推定との差異をヘイトスピーチ罵倒してくるだけだから、
・・・・は放置ね。
放置。 >>922
「其邑落相侵犯輙相罰責生口牛馬 名之為責禍」濊伝
東夷伝では「生口」という語を賠償の対価として使っている
倭人伝の「生口」が奴婢ではない可能性は否定しないが
女生口を婦人とは書いていないし中国に詣でる使者に婦人の名はない
俺は持衰が婦人を近づけない状態は陸上での禁忌だろうと言っている
お前は使者と婦人と持衰が小さな船に同乗していると言っているのだから
その状態で持衰だけが婦人を近づけないとはどういう状態なのかと聞いている >>878
でも、魏志のような客観性と信頼性の高い文献の、
間違う可能性が全くない「南」を敢えて「東」に否定曲解するような、
嘘吐きダマシの大和説は、
始めから・・・・サギシであり、ダメでしょ?。 >>926
陳寿の推測であっても記事中の「今」の時点での地名 >>880
「どっちも世間から相手にされてないけどなー」という言い方は、
一瞬公平そうに見えても、実際には、
客観性と信頼性の非常に高い魏志などに出来るだけ沿った解釈をする九州説と、
客観性と信頼性の非常に高い魏志などを否定曲解した解釈をする大和説とを、
あたかも同等であるかのような言い方であるから、
大和説にとっては、非常に味方になり、
九州説にとっては、全く否定敵対になる、というように、
非常に不公平な言い方なんだがなあ。 >>883
>するよ<
大和説者は、非人間的な行為をするよ。 >>884
>郡都なんて変な言葉を捏造するなよ><
郡の支配役所のある所だよ。 >>927
うっかり答えちゃうと、古田説がウソをついていのがバレるのだよ >>886
「治所」は、「治めている地域」という意味のつもり。 >>937
どっちにせよ、公式には単なる盗賊扱いの呉が勝手にやった分郡を、魏が認める道理はない これが邪馬台国の王統譜
中平銘鉄刀の流れ
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴(248年没)━━神武
┣━━━━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃
息石耳
┃
トヨ津
┃
孝昭
┃
天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 >>893
>おまえは、
>いや、陳寿は、 会稽という狭い場所よりも、もっと広い場所の東の方が適切だ、と考えた。
と書いてるだろw<
そりゃ当然だ。
女王國の地は、南北に長いから、会稽郡治という狭い場所からの方向で説明するよりも、
「会稽郡の支配地域」という「南北に長い地域の東方だ」とした方が、正確に「なるからだ。 >>894
>東夷伝に有槨有棺が一国も書かれていないのは、 漢民族と比較した東夷の民族の風習の概観であって
東夷諸国に一つも存在しなかったということではない <
少なくとも、魏朝が把握した範囲では、
「有槨」國は、扶余と東沃祖しかなかった、
という事だ。 >>898
>良洞里の木槨墓は2世紀〜だろ <
少なくとも、郡役人たちや魏使らは、
3世紀の第3四半世紀頃までの木槨墓のまでの存在を記録していない。 >>947 >>948
断定なんて絶対にしないといいながらよく断定するやつだな >>902
>また支離滅裂言ってるね 12000里行った先は北緯30度じゃないの?<
また支離滅裂言ってるね。
萬二千余里行った先の邪馬壹國は、北緯32〜33度位だよ。
>行き当たりバッタリで自己矛盾しまくる 古田珍説w w w w <
行き当たりバッタリで、自己矛盾しまくる、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和珍説wwww. >>906
>つまりヌナソコナカツ姫は王女である。 ヒミコことヒメ踏鞴の姪である。
和邇氏は見事に王権と繋がっていた。 邪馬台国は解明したのである。
和邇氏は天理だが、卑弥呼ことヒメ踏鞴は葛城。 邪馬台国の王都は葛城であった。<
「南≠東」だから、✖。 >>946
>>おまえは、
>>いや、陳寿は、 会稽という狭い場所よりも、もっと広い場所の東の方が適切だ、と考えた。
>と書いてるだろw<
>
>そりゃ当然だ。
>女王國の地は、南北に長いから、会稽郡治という狭い場所からの方向で説明するよりも、
>「会稽郡の支配地域」という「南北に長い地域の東方だ」とした方が、正確に「なるからだ。
おまえは、会稽<<<会稽の東の方
とウソを付いているだろ
会稽郡治とか言ってもいないことを後出しするなよ、カス 事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
天理市和邇町には阿田賀田須を祀る和邇赤坂比古神社と天足彦国押人命 を祀る和邇下神社がある。
ヒミコと直結する中平銘鉄刀がどちらの流れでも構わない、説明できる。
完璧!wwww >>1
>◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
テンプレに50レスも書いてたエネルギーはどこに行った?
疲れてやんのバ〜〜〜〜〜〜カwww
つまり全然説得力がないわけだw
それに比べわしの葛城スレの>1.
完璧なのだがwww
>>1よ、やっぱりお前はウンコ漏らし太郎だwww >>907
>>そりゃ、当然、伽耶に来た「槨」部族と、吉備や大和に来た「槨」部族とは、
扶余や東沃祖地域であったとしても、 少し別の、違う部族であった、 という事を示す事になる。<
>別の部族ならお前の話はそもそも証明する根拠がないわけだ。 わかったか76歳加古川のハゲの屑。<
扶余の乱で発生した流民は、当然部族単位でも個人的家族単位でも発生した訳で、
伽耶と、吉備大和は別部族であったとしても、
吉備と大和のホケノは、近縁的であった、という事は十分に有り得るのだ。 >>912
>>そもそも倭人伝の記載が、距離も方向の「大体」だから、<
>筑紫と九州南端じゃ違いすぎだろ <
卑弥呼共立の女王國の中の五万戸の大国の投馬國は、
筑紫から南水行二十日のの位置にあったのだ。 >>956
投馬國に行ってないなら里数がわからんだろ
女王の都じゃなくて投馬國の位置を推定したなんてのが古田商事サギ >>913
>>おや?、ぴったり。<
>12000里が古田里だと九州南端でぴったりなら <
いや、行程記載の移動距離は、道のり距離記載になっており、
直線距離とクネクネ道のり距離の差は、大体2割位以下であり、
萬二千余里を、道のり距離とすると筑紫になり、
直線距離とすると、南九州になって、
両方を満たしていた事が、「おや?」という驚きであっただけだ。
>お前が>>843で書いてる、筑紫付近の西方の佐賀長崎付近が南北方向成分11000里位
の1里は古田里よりも短いことになる<
また、アホ、現る!。
「筑紫付近の西方の佐賀長崎付近」とは、
郡からの東南方向と、郡からの南方向の間の、
「郡から南南東」方向に当たる地域を示したものだ。 >>914
>ホケノ山古墳は木槨の6本の柱より内側に木棺を囲むように
4本の柱と棟持柱建物が構築されている非常に特殊な構造<
それなら、扶余や楽浪の「槨」よりも進化型であり、
扶余流民発生や楽浪流民よりも後である事になる。
>楽浪地域の木槨は楚の木槨をベースに発達した華中系が展開した小型木槨墓で
2世紀に朝鮮半島南部(良洞里7号墓)、日本列島(楯築、西谷3号)に間接的に伝播した<
「2世紀」なんて、インチキをするな。
2世紀に華中→伽耶→吉備や出雲の伝搬を起こすような、
事件や理由が全くないではないか。 >>959
>>843
>「南北方向成分が11000里位」というのは、
>始めから南九州ではなく、
>萬二千余里の南北方向成分であり、
>筑紫付近の西方の佐賀長崎付近になる。
とお前が書いてるから
クネクネだの南南東だのごまかしても九州最南端の緯度が古田里でぴったりなら
お前が言っている「南北方向成分が11000里位」の1里は古田里より短くなる >>960
>2世紀に華中→伽耶→吉備や出雲の伝搬を起こすような、
そんなことは書いてない
読み直せ >>960
>2世紀に華中→伽耶→吉備や出雲の伝搬を起こすような、
>事件や理由が全くないではないか。
文化の伝播には事件も理由も要らないよ
交通路があればよい >>916
>楽浪人商人あたりをバイトに雇って書記官させてたら、やっぱり当て字だな<
難升米らは、魏役人や明帝らと合って、率善中郎將印綬などを受けているんだから、
いい加減な事は出来ない。 >>960
>それなら、扶余や楽浪の「槨」よりも進化型であり、
異質なものが、なぜ進化型? >>917
>ぴったりだ、と言った舌の根乾かぬうちに 大体だ、と言って誤魔化す九州説 w w <
当然、
道のり距離計算と、直線距離計算の、両方でそれぞれで、
大体合っていたんだから、
ほぼぴったりだ。 >>968
>大体合っていたんだから、
>ほぼぴったりだ。
ムチャクチャだな
大体しか合ってないものが
なんで、ほぼぴったりなんだ >>968
道のり距離計算と、直線距離計算の、両方で
それぞれで大体合っていたって
どんなふうに合ってたの?
数字はいくつ? >>920
>>実際の山地帯の陸行が、100%ぴったり「乍南乍東」出来る訳がない。<
>つまり、ウソなんだね<
陳寿らも、普通の人間のようであるから、
当然、「乍南乍東」も大体の様態の形容的説明文言である事を知って記載している。
という事は、
つまり、この男も、「何でも絶対断定」論の、
嘘吐きダマシの詐欺グループの大和説者の仲間であった、という事だね。 >>921
>ウソと認めたね<
この男も、「南→東」の嘘吐きダマシのサギと同じように、
「大体の記載→ウソ」という否定曲解の嘘吐きダマシの大和説の・・・・だった、
という事だね。 >>923
>史料事実を否定することの何がイカンのか?
それが考証ってモンだろうに <
外国の正式使節が実際に実地に直接見聞して記録した史料事実は、
非常に客観性が高く、信頼性も確率も高く、
それを上回る客観性と信頼性のある情報での考証が出来ない限り、
殆ど否定抹殺出来ない、
というモンだよ。 >>974
>外国の正式使節が実際に実地に直接見聞して記録した史料事実は、
外国の正式使節が実際に実地に直接見聞して記録した史料事実
だって断定する根拠は? >>925
>南に行ってるつもりが南東であった。<
始めからほぼ南東方向に行くつもりだった。
>さらに東にスライドしていた。<
「南≠東」だから、していなかった。だから、この男も嘘吐きダマシの大和説詐欺師仲間。
>だから西日本の地図の右をを斜め45度にずらせばいい。
邪馬台国(大和)の切れるところにある奴国とは那古つまり名古屋である。
その「南」(実際には東南)にある狗奴国とは静岡の磐田・袋井。<
「南≠東」だから、✖。
>九州の出る幕などない。<
名古屋など、出る幕はない。 >>976
このように、トンデモ九州説は
ひとことも理由を書かない >>928
>「其邑落相侵犯輙相罰責生口牛馬 名之為責禍」濊伝
東夷伝では「生口」という語を賠償の対価として使っている
倭人伝の「生口」が奴婢ではない可能性は否定しないが
女生口を婦人とは書いていないし中国に詣でる使者に婦人の名はない
俺は持衰が婦人を近づけない状態は陸上での禁忌だろうと言っている<
魏使の持衰の記載は、魏使らが、実際に、
「使一人が倭船に乗って持衰として存在している」状態を見なければ記録出来ないような記載だ、
と言っている。
>お前は使者と婦人と持衰が小さな船に同乗していると言っているのだから<
お前が、婦人と持衰が小さな船に同乗していない、といったのだ。
>その状態で持衰だけが婦人を近づけないとはどういう状態なのかと聞いている<
関係がない。女生口も女性であり、婦人だ。 >>979
どうして
魏使の持衰の記載は、魏使らが、実際に、
>「使一人が倭船に乗って持衰として存在している」状態を見なければ記録出来ないような記載だ、 >>930
>>「計其道里、當在會稽治東治之東」の文は、陳寿の地の文。<
>陳寿の推測であっても記事中の「今」の時点での地名<
筆者の「地の文」は、
記載事項に関する筆者の注釈説明であり、
当然、執筆時の説明文。 >>979
途中でイっちゃった
どうして
魏使の持衰の記載は、魏使らが、実際に、
「使一人が倭船に乗って持衰として存在している」状態を見なければ記録出来ないような記載
なの? >>982
どうして執筆時の説明文なの?
理由は? >>932
>証拠は? なければ中傷だな<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシが証拠。
証拠があるから、この男も、
大和説者に特有の、「ヘイトスピーチ中傷魔」。 >>935
>うっかり答えちゃうと、古田説がウソをついていのがバレるのだよ<
うっかり答えちゃうと、
大和説者の「南→東」などの嘘吐きダマシがバレて、
「ヘイトスピーチ中傷」街宣が一杯出て来て、
世間や皆さまに迷惑になるからだよ。 >>937
>陳寿だという証拠ないんだけど?<
魏志倭人伝は陳寿が書いたものであるし、
「計其道里當在會稽東治之東」の、
「其」は魏使らの記録であり、
「道里を計った」のは陳寿であり、
「當在・・・」という判断をしたのも陳寿である事になる。 >>940
>どっちにせよ、公式には単なる盗賊扱いの呉が勝手にやった分郡を、魏が認める道理はない<
三国志を書いたのは、魏ではなく、陳寿だ。
陳寿は、原則として、魏呉職を公平に書いて評価した。
(zarr注、根拠を全く書かないような誹謗中傷投稿は、原則として放置しております) >>941
>郡が治めてる地域なら郡全体なんだが<
だから、「計其道里、當在會稽東治之東」は、
「会稽郡全体の東」だろう、と言っている事になるのだ。 >>944
>それは郡治<
陳寿の説明は「会稽東治之東」だ。 >>949
>断定なんて絶対にしないといいながらよく断定するやつだな<
断定的表現に見えても、
原則として、全部、帰納的確率的推論だ。 >>957
>じゃ扶余の乱と関係ないだろw <
「槨」部族の流民移動は、扶余の乱以外に主要原因が見つからないのだ。 >>958
>投馬國に行ってないなら里数がわからんだろ
女王の都じゃなくて投馬國の位置を推定したなんてのが古田商事サギ <
筑紫から南へ水行二十日で行ける五万戸の大国の投馬國は、
南九州以外に存在しない、のだ。 >>961
>>「南北方向成分が11000里位」というのは、 始めから南九州ではなく、
萬二千余里の南北方向成分であり、 筑紫付近の西方の佐賀長崎付近になる。<
>とお前が書いてるから
クネクネだの南南東だのごまかしても九州最南端の緯度が古田里でぴったりなら
お前が言っている「南北方向成分が11000里位」の1里は古田里より短くなる<
このアホは未だに分っていないんだな。
陳寿の行程記載は、「道のり里数」的な記載であり、
直線距離の2割位多くなっているんであり、
「自郡至女王國萬二千餘里」の記載は、
南水行二十日の投馬國も含めた直線距離的な記載になっていた、
と言っているんだよ、 >>997
>陳寿の行程記載は、「道のり里数」的な記載であり、
>直線距離の2割位多くなっているんであり、
「道のり里数」的な記載が直線距離の2割位多くなっている
って根拠は?
???? >>995
「槨」部族の流民移動
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