今だに邪馬台国畿内説を信じてる人っているの?
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邪馬台国が畿内にあるのに、松浦で上陸する意味が分からない。
普通、瀬戸内海まで船で行くやろ? そう思う
それでしばらく歩いてまた船に乗るって行動として矛盾してるとしか思えん だから、伊都が最終目的地、邪馬台国の中心部だから。 102 本当にあった怖い名無し[sage] 2018/02/27(火) 19:15:49.42 ID:
>>101
いや、すべての証拠物がもう既に出土してる
1万%、邪馬台国の場所は確定されてる
いまさら言うまでもなく、奈良だ
徳川の埋蔵金場所も1万%確定しているが完全に無視されとる
何でもかんでも暴けばいいってもんじゃねえ
聖徳太子についても
いまさら教科書に載せないとか片腹痛いわ!w
ホント学者は使えねえ 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、 100%でよければ
伊都を首都とする北部九州国家=邪馬台国だな
倭国=鹿児島以外の九州島全部
倭国=邪馬台国vs狗奴国 聖徳太子は犯罪者だぞ
と言ってる人がいたんだけど、
どういう事なの
朝敵 逆賊みたいな事を言っていた 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
犯罪者キナイコシの、スレッドを荒らすやり方が、ますます悪質になってきているよ、、、 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 「魏志倭人伝に書かれてる邪馬台国」は
普通に考えれば九州内でしょう。
邪馬台国=倭国ではないし、
卑弥呼は「邪馬台国」の女王では
あったのかもしれないが、
統一された「倭国=日本」の女王とは
見てないでしょ。
そもそも卑弥呼の時代は
倭国=日本
が統一されていなかったと見るのが
普通だと思うのだが。 畿内説ってのは、57年の金印との関係はどうなってんの?
倭奴国も奈良? って、奈良王都か? 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 あれもこれも信じられない!
そうしないと畿内説は成り立たないもんね。
妄想だから。 邪馬台国纏向説 2018/03/15(木) 20:46:38.49 邪馬台国畿内説 Part500 2018/03/15(木) 20:48:09.60 今だに邪馬台国畿内説を信じてる人っているの? 2018/03/15(木) 20:50:17.62 >>79
邪馬台国纏向説破綻の理由を初心者に。。。 に誘導したいんだろうけど、ニセスレだし、人もいないなww 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 「邪馬台国(=女王の統治が及ぶ連合国」は、
九州北部にあるんだけど、
今の日本国に近い範囲は「倭」であると
魏は認識していた。
でも、「倭」は統一されてなくて、
訳わかんねえ「倭種(日本人)」の国はいっぱいあった。
(邪馬台国=女王国の海を渡った向こうに。)
で、とりあえずまとめられてる「邪馬台国=女王国=九州北部連合国」の王である「卑弥呼」を、倭の王と認めた。
なんせ他は訳わかんねえからw。
魏志倭人伝に書かれてるのを素直に読むと
こんな感じ?。
畿内説だと「邪馬台国=倭国=日本全国(に近い範囲)」ってこと? >>87
全くその通り、疑う余地が全く無い、なのですが、
時系列が明瞭な中国文献に、記紀の創作部分の非常識な曲解を加えてまで
考古学として、畿内説がまかり通っている理由が知りたいです。 それは岡上の妄想珍説に成立の余地がないからだな
w >>88
概ねその通りだけど、卑弥呼は倭国王だから、統制できていた九州北部が倭国、それ以外はただの倭人の地。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 北部九州は細形・中細形の銅剣・銅矛の段階では
沿岸部に副葬が多く、出雲での列島最多の中細形の埋納を挟んで
中広形の祭器段階になると内陸の春日を中心に対馬、筑後、直方で多くなり
沿岸部は全く参加していない
庄内期にその沿岸部の博多側に畿内、山陰の影響が強くなり、糸島はこの変化に遅れ、
楽浪土器が糸島側と博多側で拮抗する
博多に大型の畿内型の那珂八幡古墳が出現し
北部九州の楽浪土器が激減し、博多側に馬韓土器が増える 天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 邪馬台国は九州の小国連合で、
後に大和朝廷につながる勢力に滅ぼされた
敵対勢力なので、滅ぼした側の記紀にちゃんと書かれなかった。
でも邪馬台国と卑弥呼が
あまりにも日本史上での存在が大きく、
また今でも人気あり過ぎて、所在や滅亡の過程を明言すると、国民が今に続く皇室に
悪い印象を持ちかねないので、
ムリやり大和朝廷に繋げたいのが畿内説、
倭人伝を素直に読んで滅亡を認めるのが
九州説
という解釈でいいの? >>97
概ねその通りだろうね。
もっとも、卑弥呼の直前の男王達は皇祖(天皇家の祖先)である日向三代だけどね。
卑弥呼に倭国の都であった筑紫を取られて東に落ち延びたのが神武天皇。 >>101
九州説の人、「番号」!
って号令をかけても、一人も名乗り出ないものww 相槌を打たれる書き込みが、九州説の書き込みだけっていうのは
十分な根拠だと思うぞww 今日のYahooトピックスに卑弥呼の墓発見か?ってのがあったな
あれも九州だった >>104
これについて、九州説の人は存分に騙って欲しい! いや、古墳ですらないし
九州にそんな大きな古墳が作れる豪族はいないよ
九州王朝なんてもってのほかww 九州王朝年号だと、年号開始は517年からだね。
そこからが正式の九州王朝で、
700年の大化年号で終わる。
701年からは大宝で大和朝廷に移行する。 >>108
倭王武は雄略天皇で、その名前を記した鉄剣が埼玉と熊本から出ている
477年の朝貢をした倭王武の大和朝廷が熊本まで勢力圏としているのに、
6世紀に九州王朝が存在する余地はないよ >>109
倭王と言うからには九州王朝だろ。
大和朝廷ではない。 >>110
>大和朝廷ではない。
大和朝廷の史書である記紀で普通に自分の国を「倭」と表記してるけど?
「倭王武が雄略天皇ではない」というなら、
一行書き捨てではない、しっかりした論証が必要 倭王武が雄略天皇というのがむしろ
根拠がない話で、記紀の年代に近いから
当てられているだけ。
それも即位年や崩御年が合わないので
複数の王の政権を指しているとか
いろいろと異論がある。 >>112
雄略紀には遣呉使の記事があるし、宋書との対応も見て取れる
崩御年が合わないというのは、南斉書、梁書に雄略死後の「遣使」記事があることを
指しているのだと思うが、南斉書、梁書の記事は、新王朝樹立時の「進号記事」で、
倭からの遣使は来ていない
こういう基本事項をきちんと押さえれば、
「根拠がない話で、記紀の年代に近いから 」という話の方が
「根拠がない」ことが分かる
教科書レベルの「定説」に異を唱えるなら、もっと決定的な根拠と
緻密な論証を出してもらわないとな 倭武って、普通に読めばヤマトタケルだけど、なんで雄略になってしまうの? >>109
熊本城の倭王武が埼玉を侵略したのだね。。。 銘文のある鉄刀が熊本の船山古墳からも出てたね。
むしろこっちが本拠地の可能性が高い。
鉄刀の銘文の彫りや文章が稚拙で国内で掘られた可能性が高く、
鉄器加工は福岡南部から熊本北部に非常に多い。
日本最大の鉄器加工遺跡は熊本北部にある。
熊本で作られたものがなんかのはずみで埼玉まで行ったんじゃないかね? >>116
九州説でも多くは大和朝廷の存在は認めているんだが、116は認めない立場なのかな?
大和朝廷が畿内に存在して、その向こう側まで「なんかのはずみ」で鉄剣が届くなんて
自分で書いてて無理があるなと思わなかったのかい? 鉄刀の5世紀あたりだと、畿内でも有力豪族は居るし、
交易もしてたんだろうけど、
大和朝廷としては8世紀からだね。 倭王武の時代になると記紀でも筑紫の君は時系列でも実在性有るし
大伴氏に関しては、百済高句麗も、武蔵甲斐方面の御牧担当でも進出してるから
熊本は磐井の乱で大伴氏の朝廷側に付いたってことだろね。
ただし、倭王武は雄略天皇です、という話になると
時系列で記紀の600年辺りまでは伝わってないんでしょ。
祖先の墓なのに皇室古墳の同定がデタラメっぽいのはわざとやってると思うか? >>116
なるほど。
倭王武は熊本にいたのか。
そこから関東まで攻めていったのかもね。 倭武天皇という表記もあったはずだが、これが雄略天皇だというのは根拠が薄い。
かといって、日本武尊は記紀では王子の扱いだし。 >>118
有力豪族って、本気で言ってるの?
古墳時代中期で、世界史上最大の墳墓を作っている一族が有力豪族って本気で言ってるのか?
九州には見るべき大古墳が仁徳天皇に皇妃を入れた諸県牛諸井周辺と、継体天皇の頃の
筑紫君磐井の岩戸山古墳くらいしかない
洋の東西を問わず、臣下に王より大きな墓の築造を許す王朝が一つでもあったら教えてくれ
この辺から九州王朝説は無理強弁が酷くなるんだよな >>120
>倭王武は熊本にいたのか。
倭王武の上表文の「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」の
「西服衆夷六十六國」が、九州王朝じゃ九州の西に入らないだろうが
熊本だったらもっと無理 >>119
>祖先の墓なのに皇室古墳の同定がデタラメっぽい
延喜式が書かれた頃には紛れはなかったんだよ
現在の古墳の治定は江戸時代の蒲生君平の山陵志をもとにしたもの
江戸時代に至るまでの、朝廷が実権を持たない長い期間の間に分からなくなったんだよ >>121
>倭武天皇
倭武「天皇」と書いてある時点で、「倭王」武とは別人
「倭王」は中華皇帝に認めてもらう地位
「天皇」は日本の自立した天子であることを示す称 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>124
なんでそ−なる?
文字で記録できたから延喜式であって延喜式に残れば
寺社の、その由来は900年より古いってことは判るんだろ。
比較可能な三代実録も有るし。残ってないから古墳はデタラメなんだよ。
朝廷が文字や絵地図を残せた可能性ってのは、500年は余裕だろ。
これ、古墳時代に記録は残せてるんだよ。嘘言ってんじゃね?
宮内庁は日本の歴史に責任あるんだから、
国民の血税使うなら公開しろって誰かはっきり言ってやれよ。
名無しで応援するぜwww >>1
人に意見を求める前に自分の持論を書きましょう >>129
初心者に説明できないなら、畿内説はその程度のもの。 つか、畿内説が通説だと理解できない>>1の脳が病んでいる >>124
諸陵寮 読んできた。
なかなか参考にはなるけど、結局は蒲生君平の山陵志同様
古代史が信仰になってしまっている、記紀以降の史料には違和感を感じる。
逆に陵墓の出自が知れていることで、重要な資料が隠滅できる事実に絶望した。
聖徳太子の国記天皇記が存在したって話もだけど
天武以降であれば、三代実録形式で記録できたはずなのに残念だな。
何を言ってるのかわからないかもしれないけど・・・俺も、
・・・もっと、恐ろしいものの片鱗をあじわったぜ。(aa略
ご教示感謝です。 >>128
>寺社の、その由来は900年より古いってことは判るんだろ。
寺社(っていうか古いのはすべて神社だよな)にはずっと人が張りついてるだろ
記録があるから分かるんじゃなくて、人が張りついているから分かるんだよ
延喜式記載の神社で今どれのことだか分からなくなっているのがいくつあると思う?
記録があったところで人の祀りがなくなれば記憶は失われるんだよ
そして古墳の守人、陵戸は、被差別民扱いに落とされていた
まあ九州の古墳も被葬者が分かるのが事実上岩戸山古墳しかないのに、
よくもまあ知った風なことが書けるものだね >>127
>詭弁にしか聞こえない。
九州説の詭弁はすごいよな
ご都合次第で、記紀の記録を捏造だと言ったり、九州王朝の記録だと言ったり >>134
失われてる事実は あったという記録が無きゃわかんないだろ。
事実誤認の原因は主に 有った存在したという記紀に有るわけだけどな。
諸陵寮 平安期に確認される墓はほとんど200mクラスの陵だな。
倭人伝の記述の卑弥呼なんて関係ないぞ。
よくもまあ知った風なことが書けるものだね www
人を騙そうとして自分が騙されてる典型だろ。
それ、救えないんだよ。 かわいそうに・・・ >>136
>倭人伝の記述の卑弥呼なんて関係ないぞ。
なぜ関係ないと言える?
その根拠は?
現状の標準的な編年では、最初の200メートル超の古墳は266年の朝貢の時期にはかかるぞ
その時期に、列島内交流が縄文時代からずっと盛んなこの国で、幅600メートルの関門海峡が
国境になるほどの断絶があるとする方が無理があるだろう
この標準編年に問題があるとするなら、それだけの強い根拠と
緻密な論証を必要とするんだが?
それができた九州説を見たことはない
九州説は自己洗脳と思い込みの合わせ技だろ >>137
根拠は倭人伝だろ。
一番根本のところを無視して何も見えてないのが君だ。
畿内× 本州諸国は宗像以東の九州航路で並立してるだろ。
非、女王統属の半島倭人国はどっから進出した。
隠岐日本海航路は石器時代から存在する。
楽浪土器は九州だ。
250年に卑弥呼の九州の小国を統合していない事実が見えてないだけだろ。
日本史の大和朝廷が邪馬台国と一緒に滅びてたまるか。
南=東だけで、倭人伝に目をつぶるというのは、自分を騙してるだけだぞ。 >>137
>現状の標準的な編年では、最初の200メートル超の古墳は266年の朝貢の時期にはかかるぞ
海の東の倭種だろ。 だいたい、外部から切り離されて
独自進化しだすと
大型化インフレするからねえ。 邪馬台国が畿内だと書き込む奴はいても信じてる奴はいないw >>138
>畿内× 本州諸国は宗像以東の九州航路で並立してるだろ。
それ、まともな研究者で支持している人が「一人もいない」トンデモ読みだろう
それが、思い込みと自己洗脳そのもの >>139
>海の東の倭種だろ。
北部九州から南部九州まで前方後円墳を作っていて、同じ葬送儀礼の文化にいるのに
それは通らないわ
本当に根拠もなくなんとかの一つ覚えを書き散らすだけ
古田、安本から一歩も進んでいない >>141
>だいたい、外部から切り離されて
>独自進化しだすと
>大型化インフレするからねえ。
吉備も毛野国も日向も外部から切り離されてるんだねえ
これだけ広域で古墳時代中期に、墳丘の大型化が進むんだが
もちろん最大なのは畿内
切り離されてないのはどこなんだい?
切り離されてないのに、巻向発祥の前方後円墳(しかもたいして大きくない)に
地元の首長を葬っている北部九州とかいう、辺地のことじゃないよな? >>144
>信じてる奴はいないw
まあ、144が信じないのはまったく構わないよ
日本では思想・信条の自由が保障されているからね
でも、人間はダチョウじゃないから、周りを見た方がいいよ、とは言っておいてあげる
プロの研究者で九州説の人が一人もいないのはどうしてだろうね
ひょっとしたら、九州説を信じている研究者が一人もいないからじゃないかな? >>147
>地元の首長を葬っている北部九州とかいう、辺地のことじゃないよな?
魏志倭人伝からは北部九州が倭国の中枢であることがわかるので、畿内を含めたそれ以外の土地が倭地だな。 >>149
ああ、プロの研究者同様、「九州説なんて一切信じていない」よ
九州説の言い分で一番頭おかしいと思うのが
「魏志倭人伝に書かれているからこれが正しい」式の現実無視の魏志倭人伝「原理主義」
「現実の末慮国、伊都国」の比定地が、「東南陸行五百里に合わない」『から』間違っていると
言い出したりね
>>150もその伝だ >>151
ああ、最近はどうだろうね。
三角があんな状況で、巻向ももう…、前方後円墳も各地一斉にに発生しており、ヤマト政権との関連性を考え直す必要がある、という意見もある様だし
鉄も3世紀前半当時に畿内だけ空白地じゃなぁ
センセー達も大変だな >>152みたいに考えてる人が一人もいないのさ
w >>152
>センセー達も大変だな
いま、張り切ってるセンセー達は、阿波を研究しているセンセー達だけになったようだ。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています