邪馬台国畿内説 Part311
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1514150954/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>943
>陳寿が地名を書いていないから
書いているぞ、東治と。
今の福州だ。 >>794
>陳寿が誇張や解釈を加えてないと、なぜ勝手に断定するのか?<
断定しない。
陳寿にも判断ミスがある。
しかし、陳寿は、記録を出来るだけ転写してそれに対する意見を書いているが、
後漢書や現代大和説者は、思想宗教的な結論先にありきに拠って、
始めから記録を否定したり曲解捏造しているから、✖。
これが大和説ごっこが、
学問ではなく信仰だと言われる由縁。 >>797
敗北大和説者は、こんな悪口しか言えない。 >>953
>後漢書や現代大和説者は、思想宗教的な結論先にありきに拠って、
>始めから記録を否定したり曲解捏造しているから、✖。
それ、なんか証拠でもあるの?
??? >>804
>>だから、「会稽東治」と書かれ、会稽の東の支配地域、という説明になった。<
>なんで「会稽東治之東」なんて書いたの? なんで「会稽之東」と書かなかったの?<
会稽だけでは、南になり過ぎて、真東に女王國や倭地がある、とは言い難かったから、
少し北になる上海方面から東方だ、とした方が適切だろう、と思ったから。 何も考えずに鸚鵡返ししてるだけだから
たまに九州説を大和説に書き換えるの忘れてる >>957
>少し北になる上海方面から東方だ、とした方が適切だろう、と思ったから。
あり得ないね
そこは呉郡で、会稽じゃないから
>>805
>>「会稽東治」と書かれ、会稽の東の支配地域、という説明になった。<
>なんで「会稽東治」が 「会稽の東の支配地域」 だなんて意味だと言い張るんだ?
理由でもあるのか? ???<
会稽だけでよければ、「東治」を書く必要がない。
陳寿は、女王國や倭地は、会稽の東の地域の東方だ、とした方が、
より読者に判りやすいだろう、と思ったから。 >>812
>岩波文庫本には、写真版を二十四史百衲本から載せたという記載がない。
わたしの角川文庫本には、二十四史百衲本から載せたという記載が最後にある。
しかし二十四史百衲本から、載せるべきではなかった。
せっかく東京に宮内庁書陵部蔵という立派な本があるのだから、
それから載せるという本来の姿を取るべきだった。
二十四史百衲本の名前に押されたと言うべきか、ただ信用していた。
それを編集した張元済さんは非常に尊敬している学者ですが、そこまで目が及ばなかった。古田武彦
お前が言ってる二種類とはこのことじゃないのか? <
違うみたいだなあ。
張元済の本と書陵部のものとが違う、という方の話のようだ、
>内庁書陵部に二種類あったようなことは古田は言ってないんだが<
古田さんが、第1書でので王朗の「東冶」の記載を、どっちの本から採られたのか、
という事が問題だ。 倭人伝だと邪馬台国は暖かい海洋民族の影響のめちゃめちゃ強い国だよな
大阪は海没していて奈良はもうちっと海に近かったんだとしても
畿内説は違和感ある
吉備も出雲も出て来ない
倭人伝読んだ限りだと九州にしか思えない
そのへん畿内説論者はどう思ってんの? 九州以外にもいろんな勢力が盛んだったけど
邪馬台国自体は九州で神武東征や国譲り語られる勢力拡張で
大和王権ができたじゃいけないの
大和の旧勢力は東京みたいなもんで結局は日本の首都だからいいやん >>813
>>太公望の地を特定したら、デタラメになるから、
始めから「江南付近」と言ってある。<
>太公望の地が、なんでを「江南付近」なんだ?<
太公望の地の名前を憶えていなかったから。 >>816
>>それ以前や当時の、会稽郡の東の支配地であった地域。<
>それ以前や当時の会稽郡の東の支配地って 具体的にどこのことだ?<
おそらく、分郡に拠って会稽郡から別れた呉郡地域。
>なんで「会稽東治」が 会稽郡の東の支配地 なんて意味になるんだ?<
ついさっき、誰かに説明済み。 >>817
相変わらず、何も証拠を出さずに,
質問ばかりして、その返事の言葉尻を切りてって曲解断定して、
それで誹謗しようと、質問を言い張り続ける大和説者。 >>818
>>安本は、反九州王朝の皇国史観の東遷説であるから、
親大和説者であり、大和説の一派。<
>なんで 反九州王朝の皇国史観の東遷説だと 大和説の一派になるんだ?<
東遷説は、大和説の一派。 >>820
こんなふうに、
自分の説に都合のいい言葉の意味や過去の出来事を、
根拠もなく勝手に作ってしまう。
それが、大和説 だな。 >>821
>そもそも呉書は「短里」は使ってないってのが 古田の主張じゃなかったの? ???<
いや、
古田さんは、混在説。 >>824
>15キロ歩くのが精一杯の人間が でも方位だけは正確に知ってますとかあるのかね?<
関係がないから、
あるね。 >>965
大和が天下を取る前に、九州北部が天下を取っていた時期があり、邪馬台国ほその頃の話なんだよ。 >>921
>>>915
>邇邇芸が、いつ筑紫の日向に向かった?
畿内説は妄想を巡らせるだけでなく、少しは文献を読んでくれ。
それが正しいかどうかはその後で判断しろよ。 >>972
15キロを歩くより1000メートルの山を登る方が大変だぞ
それより遥かに高く険しく迷いやすい山を幾つも上り下りして確認しなければならない
街道で歩数を数えるだけですむ距離を測る方が遥かに簡単だ >>963
>古田さんが、第1書でので王朗の「東冶」の記載を、どっちの本から採られたのか、
>という事が問題だ。
その箇所引用してみて 文身は九州北部の習慣だった。
それを魏の使いが見て記録した。
畿内にあろうがなかろうが、伊都に滞在した使いにはあずかり知らぬこと。 そもそも畿内には文身の証拠はあるの?
微妙に本州と言い換えているみたいだけど。 >>977
それ、なにか根拠があって言ってるのか? >>971
なんで同じ国で単位の混在なんて有りうるんだ?
度量衡の統一は国家の象徴じゃないの? >>967
いつ、どこで誰になんと説明したんだ?
隠して誤魔化さずに
ちゃんと理由を明らかにしろよ
九州説は誤魔化しばかりだ >>980
古事記より
故爾に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、
伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、
竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。 >>965
>>太公望の地が、なんで「江南付近」なんだ?
>太公望の地の名前を憶えていなかったから。
なんで覚えていないと江南付近になるんだ?
??? >>989
それなら>>30だな
>◆FAQ 24
>Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
>
>A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
> 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
> 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
> 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
>
> このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
以上 畿内じゃないじゃん。
記紀のイスケヨリヒメのエピソードからは、むしろ畿内には文身がなかったことがうかがえる。 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 >>995
東海と吉備が二大中心地なら、当然その人たちは纏向に来てる このスレッドは1000を超えました。
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