邪馬台国畿内説 VS ネッシー実在説
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王制(礼記の一篇)によれば、いにしえには周尺の八尺を歩としていた 八咫鏡の件で言い負かされたのがよほど悔しいのか。
諦めろ。
平原遺跡が卑弥呼の墓。 >>528
それは、原田大六氏の単なる思いつきなんだよ >>528
>平原遺跡が卑弥呼の墓。
大体、平原遺跡とか 王制というのは、礼記の一篇の名称であると同時に、周朝初期やそれ以前の聖王による
理想的な治世の時代の制度、くらいの位置づけ 鄭注では、周尺の数(長さ、寸の数)はいまだに詳しいことははっきりしない 鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。また,その経書。じょうちゅう。 礼制の(記述)から考えて、周(の制度で)も、なお十寸で尺としていたようだ(と鄭注に書いてある) 孔子の「礼制」による既成の秩序維持の考え方は周王朝期の礼制に依拠している 後漢の鄭玄は古文経の『周官』を中心として『儀礼』と『小戴礼記』を三礼として総合的に解釈する体系的な礼学を構築した 考えてみるに、春秋戦国時代には、変乱法度が多かった。 「蓋し」は、推論・推定を導く 「考えてみるに」程度の意味 楚斉燕韓魏趙の六国では、各国独自の制度が敷かれたので、それを変法、乱法と呼んでいる
「法度」は法律と制度 (周尺も十寸だったとしたが)六国時代には、あるいは周尺(一応は周代)は八寸だったとも言う (周尺を八寸とすれば=以て)歩はさらに八尺なのだから、ハッパ六十四で六十四寸になる(先に書いた今以周尺六尺四寸爲步と計算が合う) 鄭注の(鄭玄の、としてもよいが)意味するところは、八寸で尺と為すということだ 周末というのは、周朝の威が衰えた六国(春秋戦国)時代のこと そうではあっても、またいうことには、
諸侯(六国の王)が(王制、礼制ではない)力政を行っている (周朝が衰え、天下が)(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の)七国を為す 六国時、も同じ時代だが、戦国の七雄のうち秦は西周の故地を根拠地としていたので、
周朝の制度を引き継いでいる部分も多かった そのため、秦を他の六国を区別していう場合に、六国という表現になる 史記の秦本紀に、「周室微,諸侯力政,爭相併」とある 周室(周の宮室)微え(おとろえ、衰微し)、諸侯力政、相併せるを爭う この力政に、力政:用武力征伐。という注が付いていて、 徳によって帰服させるのではなく、武力で征服する政治のこと 農作物の植え方、農地の区画の仕方が、国ごとに異なる様子をいう 車の涂(みち)は軌を異にす。(七国の国ごとに異なる) 涂は、途(みち)の意味 軌は車輪の幅 交通手段、車の規格が国ごとに異なる様子をいう 律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する。 律令の法が国ごとに異なるということは、公定尺の長さも異なることになる 結局は周代の尺が10寸と8寸の両方あって説くところが合わないという話になる 左伝には、「天(子の)威(徳)、(龍)顔を違らざること咫尺」と書いてある 左伝は、左氏春秋伝のこと 左丘明の作と伝えられる「春秋」の注釈書 左氏伝 僖公九年に「天威不違顏咫尺」とあることの引用 天威不違顏咫尺は、「天威咫尺」「天顔咫尺」という四字熟語のもとネタ 咫尺を並べて言うということは、区別があるということ この部分全体が、説文解字の「咫」の「周尺也」の注な訳だが 「国語」でも、「列子」でも、みんな、その長さ尺有咫という使い方をしている 『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明の編纂といわれている 『列子』は春秋戦国時代の人、列禦寇の著書とされる道家の文献 国語には「石砮其長尺有咫」、列子には「其劍長尺有咫」という表現がある (天威咫尺で二尺と言わなかったように)また、二尺とは言っていない 説文解字では、咫の項に「中婦人手長八寸,謂之咫。周尺也。从尺只聲。」とある これだけだと、「咫」の長さは婦人の手の大きさの八寸で さらにこの時期は、信頼できる文書記録があまり残されていない 10寸なのか8寸なのか混乱し、分からなくなっていた それで、秦の始皇帝による度量衡の統一が必要だった訳だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています