邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>645
無茶振りしちゃ、可哀そうだろ。
そんなこと、答えられるのは倭国(阿波)だけなんだからさ。 @阿波 >>643
投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。 >>645
魏志倭人伝では卑弥呼の宮城を環濠集落とは表現していない。
宮城や楼閣という用語は用いられており、城郭都市ではあったのだろう。
他の九州の環濠集落とは異なり、中国式山城であった怡土城がその本体だろう。
高祖山の峰々に楼閣がつらなり、王宮は山腹の高祖宮が相当する。
詳しくは怡土城でくぐってくれ。 >>648
>投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。
書くぐらい大事な国なら行くだろ、普通。 @阿波 怡土城の起源は分かっていない。
記録が残っているのは8世紀以降である(九州ではなぜかよくあること)。
しかし周辺は紀元前から三種の神器を副葬された王墓が集中し、弥生文化の発祥地である。
東に福岡平野、西に糸島平野、北に博多湾があり、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」
というニニギの国見の詔によく一致する。
すなわち怡土城こそ筑紫の日向の高千穂宮であり、倭国の王都なのである。 >>650
王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。 >>639
>投馬国は日程のみで里程の記載はない。
だから、魏志倭人伝に書いてあるのは「道里」
勝手に「里程」に書き換えて否定しても、何の意味もない
道里は、里数でも日数でも表しうるし、実際日数で書かれている他例もある
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。 >>652
>王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。
途中に二番目の国があれば寄るだろ、普通。 @阿波 >>653
投馬国は里程がないのだから、道「里」にはならないよ。 >>653
その引用例はちゃんと里程が書いてあるじゃないか。
通過したところはちゃんと里程がわかるんだよ。
通過していないところは日数だけの伝聞情報となるんだ。 >>656
>東至都護治所四千七百四十里、
↑
この行は、東の方角と里だから、道+里程=道里である。
>西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
↑
この行は、西の方角と日だから、道+日程=旅程である。 怡土城
>奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式山城で、
文献によれば吉備真備のち佐伯今毛人が築城を担当したことが知られる。
>他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して、
>怡土城は、奈良時代の築城である点で特色を示すほか、文献上で築城担当者・築城期間が明らかな点、
及び他の古代山城のような朝鮮式山城でなく大陸系の中国式山城である点でも重要視される遺跡。
>>649 >>651
苦しい説明じゃのう。文献上で築城機関が特定されとるそうではないか。
明らかに時代が新しすぎるわ。 >>653
大月氏國の位置関係を説明した文ですね
大月氏國の東4740里で都護の治所に至る
大月氏國の西49日で安息に至る
大月氏國の南はケイ賓と接している >>658
>>他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して、
これ根拠がないいい加減な説ですね、朝鮮式山城・神籠石系山城の築城時期に付いては現在も不明ですよ。
信用ならない引用だな。 >仲哀天皇はイトテを褒めて、「いそし」と言いました。
>これから、イトテの本国を名付けて、伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。
>今、伊都と言うのは訛っているのです。
>21日に儺県(なのあがた)に着いて、橿日の宮に居を構えました。
仲哀天皇の時代に「伊蘇(いそ)の国」と呼ぶようになり、
その後、これが訛って怡土(伊斗、伊都)などというようになったのだから、
これまた時代が新しすぎるわ。苦しいのう、、、、 怡土は、高麗人の天の日鉾が下ったところというではないか。
なんで卑弥呼と一緒にするのか。 奈良時代や戦国時代に築城したという記録があるだけで、いつものように7世紀以前の築城の記録が失われているだけ。
地理的条件を考えれば、ここに砦の一つも築かないわけがない。 >>658
天平勝宝八歳(七五六)六月甲辰【廿二】》○甲辰。始築怡土城。令大宰大弐吉備朝臣真備専当其事焉。
とは書かれてるが新築なのか改築なのかは分からないですね。 >>660
何をおっしゃる。
ウィキを参照せよととのことだったから、参照・引用してやったのに・・・、
信用できぬのはオマイら高麗人。 >>661
神功皇后の実年代は卑弥呼より120年も後なのに、伊都の命名説話がある方がおかしい。
神功皇后の項だけはやたらと命名記事が多い。
魏志倭人伝を否定することもできないので、関連記事を捏造してミスリードを狙ったと考えられる。
逆に言えば、奈良時代の日本人は、魏志倭人伝を九州の記事だと理解していたということ。
奈良の人たちにとって、魏志倭人伝は明らかに九州の話題だった。 >>662
天の日鉾の話はもっと後世の話。
福岡にはしばしば渡来人がやって来たというだけのこと。 中国の史書にもしばしば筑紫城などの記事があるが、特定されていない。
福岡城のさらに下層にあったかもしれないが、筑紫の日向のクシフル山と呼ばれた高祖山であったかもしれない。 >>668
>中国の史書にもしばしば筑紫城などの記事があるが、特定されていない。
倭国(阿波)にも「筑紫城」の謂れ、あるよ。 @阿波 >>665
ウィキは参考にはなっても
そのまま信用はできないからね。 >>666
ならば、何も疑われそうなねつ造記事を入れることはなかったであろう。
伊蘇の国だったなどと言わず、
最初から伊都の国でしたー、と書けば、それで万事落着したはず。
そうしなかったのは、アメノヒボコの件は真実だったから、それを欺くようなウソは書けなかったんだよ。 高祖神社の周りをもっと年代別に発掘調査するとおもしろいかもしれない。
目の前の三雲であれだけ発見が続くくらいだからね。
ただ、いかんせん290ヘクタールは広すぎて、予算が厳しそうだ。 そういえば、伊都城の一部とも言われる
高祖神社は神功皇后が再建したんだよね。
再建前は今の大門にあったらしい。
その大門は、伊都城の大門があったからだそうだ。 天の日鉾も事実であったろう。
ただ、それとは別に倭国創建の説話があったということ。
卑弥呼がヤマト王権と平行する筑紫の王権だったからこそ、扱いに苦慮したんだよ。
天皇家の祖地である筑紫の日向も削れないし。 >>673
ということは、4世紀末に伊都城を再建した記録があるということ。
3世紀中頃に魏の使いが見た楼閣は伊都城のものであった可能性がある。
使いが滞在したのは、その大門の目の前の伊都国なのだから。 >>666
>魏志倭人伝を否定することもできないので、関連記事を捏造してミスリードを狙ったと考えられる。
↑
こういうのを、語るに落ちる、という。
なんでミスりードをねらったんだろな。
糸島は「怡土・伊都」ですよー、ですから、倭人伝の伊都国はこのあたりだったのかもしれませんねー
と、記紀はミスリードしようとしたのです・・・、といいたいんだろ。
では聞くが、ホントの伊都国はどこにあったんだ。え、わからないってか。
そうだろな、それが明確になると困ることがあったんだよな〜。大和朝廷(と糸島市役所)は・・・。 >>657
>この行は、東の方角と里だから、道+里程=道里である。
時々これを書くやつがいるけれど、道里の道に「方角」という意味はないぞ
「道里」で一語
例えば、《九章算術》の《均輸》に、計算問題としてこんなのが出ている
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。
問粟、車各幾何?
距離は全部日数で書かれているが、それを「道里」遠近と表現してるだろ?
日数書いてあっても、道里略載になるんだよ >>663
>いつものように7世紀以前の築城の記録が失われているだけ。
>地理的条件を考えれば、ここに砦の一つも築かないわけがない。
おれが、九州説が大嫌いなのは、こういうところ
結論ありきで、記録にないものを「あったはずだ」「ないわけがない」と
理由にならない理由をほざいて捏造する
大嫌い >>679
>取り敢えず4世紀の記録はあるらしいね。
「らしい」じゃなくてソースを出して! 九州諸将軍記
「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より帰還ののち、当社の社殿を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。
この機縁で神功皇后を相殿に祀ったと記されている。
現在の社殿は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された」。
旧社殿の場所は今の社殿から西方向約800メートルにある。 日本書紀の年代だと卑弥呼の時代のことになってしまうけどね!
これで高祖宮が3ないし4世紀にはあったことがわかったね! 江戸時代の文献、しかも軍記物を持ち出してきて
3・4世紀のことが分かると言ってしまう歴史学無知 要するにケチつけたいだけなんだろ。
君みたいなのが日本史を暗黒に塗りつぶすのだろうな。 そのうちポツダム宣言受諾さえも信用できないと言い出すよ。 反論できなくなると、関係のないことまで持ち出して罵倒に走るよな
九州説はレベルが低い >>681
>日本の8世紀以前の記録は焚書されて残ってない。
そんなアホな。
役人が一生懸命、習字をしているような程度の文字文化だっただけ。 @阿波 歴史とは結局のところ後世において記録したものに過ぎない。
それを否定するなら、歴史学は成り立たなくなる。
8世紀の史料は信用ならん、戦国時代の史料は信用ならん。
そのうち、昭和の史料は信用ならん、平成の史料は信用ならんとなるぞ。
現代のことでさえ、ほとんどは伝聞なんだ。 ↑と史料批判を理解できないチェリーピッカーが喚いています >ポツダム宣言受諾
伊都国連呼ジジイの頭の中では、
日本の敗戦と伊都説がセットなんだろうな >>693
それがほとんど失われている場合は、複数の後世の史料を比較する。
伊都が倭国の王都である筑紫の日向であり、高祖山(日向山)に王城があったらしいことが推察できる。
それを、一つ一つの根拠がわずかであるからといって潰していけば、全体像は見えなくなってしまう。 >>694
>高祖山(日向山)に王城があったらしいことが推察できる。
江戸中期の九州諸将軍記にもそんなことは書いてない >>694
>一つ一つの根拠がわずかであるから
わずかならいいんだけど、妄想は根拠にならない 複数の史料をつなげて書いているだけだよ。
創作した部分はほとんどない。
畿内説のテンプレよりは少ないはず。 >>697
>創作した部分はほとんどない。
創作してるんじゃんww
そもそも怡土城は、奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて
「築城された」って記録されてるんだぞ?
その前から怡土城(高祖城でもいいけど)があったら、それを拡充したとかの記録になるだろう
8世紀以前に、怡土城があったと考えるべき理由はないし、記録はむしろなかったと判断する理由になる >>698
>その前から怡土城(高祖城でもいいけど)があったら、それを拡充したとかの記録になるだろう
神功皇后が再建したという記録があるよ。 >三韓征伐凱旋後、神功皇后は神恩に報いようと高祖神社神殿を建てますが、
それを乾(いぬい)北西に向けたといいます。
北西は糸島の遺跡の銀座通りです。> ・・・←怡土城ではないぞ
>この地の県主・五十迹手(いとて)を調べて行くと「筑前名所図会」にその出自が書かれていました。
五十迹手(いそとて)は高麗国意呂山より天降って来た日拝の苗裔であると筑前風土記に書いてある。>
>高麗国とは高句麗の事です。
五十迹手は高句麗のウルソンから天下って来た日拝の末裔だそうです。>
どうやら糸島は、高麗人の巣窟らしい >>699
>神功皇后が再建したという記録があるよ。
日本書紀だと思うけれど、原文を出して >>702
九州諸将軍記
「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より帰還ののち、当社の社殿を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。
この機縁で神功皇后を相殿に祀ったと記されている。
現在の社殿は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された」。
旧社殿の場所は今の社殿から西方向約800メートルにある。 高祖宮と伊都城はほぼ同じものだろ。
大門があったのだから、ただの神社ではなく防御機能を持った施設だったはず。 高祖神社
<伝承では、古くは大下の地に鎮座した。
建久8年(1197年)に原田種直が当地に入るに際して、
高祖神社宮司の上原氏と姻戚関係を結ぶとともに、高祖山の怡土城跡に高祖城を築城してその麓に高祖神社を移したという> 高祖神社の発祥は神代で開始時期は不明。
神功皇后が現在の大門付近に社殿を建立。
伊都城の築造時に今の場所に移された。 ウソを取り繕うためにウソを重ねる、これが九州説脳クオリティ 今の場所も伊都城の内側、むしろより神奈備の中腹の良い立地だよ。 史料批判なんて知りません
都合の悪い類例・用例は無視します
でも専門家のいうことよりも自分の主張が優れてます
…即入院が必要なレベルだな 立ち退かせてるというよりは
築城の区画整理と神社大規模化だろ 博多湾に面して、福岡と糸島を両方に睨みを効かせることができる城だからね。
弥生時代の倭国王墓に囲まれた、まさに倭国の王城にふさわしい。 ほら、根拠を明らかにせずに結論だけw
学問じゃなく自分自身を信仰する宗教だなw 筑紫の日向のクジフル山の高千穂宮は、九州で最大級の強固な山城でした。 論理的思考ができないガイキチさんには反論しても理解できないからね 伊都城以外のどこに王城を想定できる?
纒向になんかそんな遺構はないもんな。 魏志倭人伝の楼閣高くしてという記述も、峰々に楼閣が連なる姿だとわかる。 妄想チェリーピッカーは最強だな
なんたって自分のおかしさに気がつかないんだから 伊都クズ「歴史学の方法なんて知らん!俺様が正しい!」
周囲「かわいそうに…」 これだけ妄想が得意なら、本書いて売ってみたら?
案外、ファンタジーとして受けるかもよ 高祖は詫蘇のなまり
古代氏族の詫蘇氏はどんな氏族でしょうかねぇ 伊都城が、倭王墓に囲まれた立地であることは、考古学的に明らかなわけだからね。
だったら王城が必要だろ?
吉武高木は王宮だけど、そこから数百年の後だから、もっと大きな王城があって然るべき。 >>736 >>738
ググったら怡土には宅蘇氏ってのがいたんだな
姓は吉士だから完全に渡来系 嘘はどれだけ重ねても嘘
妄想はどれだけ重ねても妄想
こんなことすら分かっていない人がいるようです いろんなスレでいい加減な知識で書き込んでボコられてるのな
それでも現状を正しく認識しないのは自己暗示が強いのか
状況を把握できないほどの馬鹿なのか 糸島は博多湾の入り口にあり
交易や水軍の船舶の把握に優位な位置にあり
望楼のあった高祖山からは
博多湾全域が見渡せる。
軍事拠点として有効である。 糸島は高麗人の巣窟、
軍事拠点としてさぞかし重要だったことだろう 邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。
伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが、その中心に卑弥呼の宮城である伊都城(高千穂宮)があったと。 >>746
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。
いろんなところで何度も書いているんだが、
魏志倭人伝を含め史書は、暗号書でも判じ物でもないんだから、
頭をひねって解釈しないと読み取れないような書き方はしてないんだよ
読み取らなければならない内容は最初から書いてない
それを読み取ったという主張は、結論ありきで結論に寄せていますという
告白に他ならない
>伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが
呼びません
伊都国、奴国と邪馬台国を重ねるのは、単なる二重帳簿詐欺 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています