邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>746
>>747
>邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。
流石にそれは無理だな。それを判断するには考古学的なものに頼るさかないだろう。
>伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが、その中心に卑弥呼の宮城である伊都城(高千穂宮)があったと。
伊都国と奴国が女王国の中心地であったことは読み取れますね。 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg 746 名前:日本@名無史さん 2018/08/18(土) 00:32:26.88
>邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。
典型的な差魏志の口上だな 糸島の「高祖」の読みは「たかす」
高祖神とかの、「こうそ」とは別物 梯儁、張政は倭国内で報告書を作成したが検閲にあったため軍事情報等を
暗号にして挿入した。そのため、魏志は両名の記述をそのまま引用する必要があり、
交互に入れたために記述に不統一性が生じた。
まず、投馬国と対海国は発音が大体同じでツマ国(対馬)を表している。
女王国については、都市別に追うと、帯方郡→狗邪韓国→対海国→一大国→末廬国
→伊都国→奴国→不弥国という経路であり、伊都国には女王がいるという記述が
ある一方、帯方郡から南に水行20日で投馬国(対馬)、投馬国から水行10日陸行1月で
邪馬壱国に行き着くという記述が別にある。投馬国は対馬、壱岐、呼子、松浦辺りの
領域で5万戸、邪馬壱国は伊都から東部一帯で7万戸であり、女王国は島、沿岸部の
投馬国、都がある陸部の邪馬壱国という両国で構成されているということであろう。
時間差のある別々の報告書のもののため、長官、副官は異なっている。
とか妄想してみた。暗号をどう解くのかは知らね(゚听) >>753
>意味はほぼ同じ。
>掛詞だな。
また適当なことをw
宅蘇氏の「たくそ」が、「たかす」の語源だろ?って言われてるのに >>754
>検閲にあったため軍事情報等を
>暗号にして挿入した。
誰が、何のために、検閲したんだ?wwwww
もう、デタラメしか書けなくなったのか?w >>755
>宅蘇氏の「たくそ」が、「たかす」の語源だろ?って言われてるのに
ソースは? >>757
>ソースは?
Wikipediaでもこれくらい出てるよ
自分でちったぁ調べたらどうだい?
『和名抄』では筑前国怡土郡に託杜郷(たこそごう、託社郷)が見えるほか、
「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」や『東大寺文書』では当地で宅蘇氏(たくそうじ)一族の居住が
知られ、現在残る棟札にも「詫祖大菩薩」の記載が見えることから、これらと「高祖」・
「高礒(高磯)」が関連づけられる >>756
誰が何のためは妄想で補完するところだよ。
自分は暗号とか関心ないし。
>>759
後世の文章が当てにならないじゃそこで思考停止
じゃん。停止したい奴は停止すればいいんだけど。
んじゃ、ROMに戻るか。 畿内説の真似をしたまでさ。
彼らは都合よく二枚舌を使い分ける。 >>759
>そんな後世の文書はあてになりません。
何を言ってるんだ?
現代の高祖山という地名の語源を調べるのに和名抄が後世ってことはないだろ?
九州糸島説の主張では、今の高祖山はかつての日向山で怡土城であって、
古来高祖山だったとは言ってないだろうが? >>761
>誰が何のためは妄想で補完するところだよ。
では科学ではないな
学問(文系)の日本史板で、妄想を論拠に出すなら、相手にされず軽蔑されるだけ 伊都クズの頭の中では
平原の時代より和名抄は新しい!
と判断したんだろ
バカ丸出しだな 和名抄は10世紀だろ
平原の時代より700年後のものだろ。 >>766
和名抄には高祖はなく託杜
高祖の地名が確認できるのはそれより後
時系列で考えれば一目瞭然
和名抄が新しいから〜とかいう主張はアホ >>767
>畿内説はいつもダブルスタンダード
そして、自分が言われて口惜しかった批判をオウム返しで書き込んで満足するw
もちろんどこがダブスタなのかという「具体的な指摘は」なしで、だ >>766
>平原の時代より700年後のものだろ。
細かいことだけど、「800年」くらいだと思うよ
平原1号墓のあと3,4号墓が家族墓地の平原遺跡に作られているから、
古墳時代まで1世代以上あることが分かる
平原1号墓は、九州説のいう年代よりも古い >>771
その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。 糸島は高麗人アメノヒボコの植民地
平原は、高麗人の墓場 >>772
>その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。
副葬品で、細かい年代比定ができる異物はないだろ?
年代指標として一番あてになる舶載鏡は、やたら古いのが2枚だけだし >>772
>その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。
お墓より、重要なのは卑弥呼の時代の集落遺跡だよ。 @阿波 イト国は倭の五王のうちの1人
イト国と邪馬台国は別々
イト国の下に邪馬台国あり >>778
妄想がすごいな
世有王、皆統屬女王國。を言いたいのだろうが、松本清張以来、『A統属B』を
「AがBを従えている」、ここでは伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが、
三国志においてそのような用例は無いということが解っている。
伊都国王は女王国に従っているという解釈以外はない。 >>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが
違いますよ
魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。
です、女王国が伊都国です。 >>750
明らかに間違っているのは
不彌国 福岡市東区(香椎宮) と投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
倭人伝の記述通りに進むと不彌国は那珂川町、春日市、大野城市方面だし
投馬国は朝鮮半島です。 >>781
>不彌国は那珂川町、春日市、大野城市方面
そこまでは100里ではとおすぐる 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>781
ご意見ありがとうございます。
不弥国へは、魏志倭人伝の方角が若干間違っているという解釈です。
ただし、香椎宮が当時にあったかどうかがそもそも不明なので、あくまでも暫定的なものです。
あと、投馬国はすでに何度も説明していますので省略しますね。 >>780
>女王国が伊都国です。
それが二重帳簿詐欺
伊都国は女王国の端っこの方の一部で、一大率を派遣される遠地 で、高祖山の語源が「託杜 」、「宅蘇」だってのはいいな 託杜が存在していた時代以前には高祖が存在していた証拠ない
歴史オンチには理解できないだろうが歴史学的にはこれで決まり まあ、上古における名称は日向山や久慈古山なんだろうからな。 >>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが
違いますよ
魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。
女王国は、奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。
女王の都(環濠城柵)が置かれたのが、邪馬壹國の国内。(邪馬壹國の環濠城柵とは別の場所) 修正
>>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが
その通りですね。
魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。
女王国は、奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。
女王の都(環濠城柵)が置かれたのが、邪馬壹國の国内。(邪馬壹國の環濠城柵とは別の場所) 対案
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが
その通りですね。
魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。
女王国(邪馬壹國)は、伊都国 奴国 不弥国の連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。
女王の宮城が置かれたのが、邪馬壹國の国内。 女王國の位置(奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国)
筑後平野ほゞ全域
奴國
佐賀平野中部西部
不彌國
佐賀平野東部(吉野ヶ里近辺)
馬投國
有明海沿岸部筑後平野(大牟田以北)
邪馬壹國
有明海内陸部筑後平野と筑後川中流平野(北野地域)
参考
伊都國
佐賀平野中北部(嘉瀬川扇状地の北部) >>789
>筑紫平野ほゞ全域
九州は「其山有丹」で、最初っから落選! @阿波 >>787
邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域
邪馬壹國中最大の国邑が奴國で女王国卑弥呼の都が伊都国
邪馬壹國側に卑弥呼の都が在ったから「邪馬壹國 女王之所都」と記された
投馬國には女王国の都がないってこと。
女王国とは伊都國と奴國のことである
一大率を朝鮮海峡付近の国々に置いて支配していた。 >>800
>邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域
九州は「其山有丹」で、最初っから落選! @阿波 >>800
>邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域
これが通ると思ってるところがすごいな
朝鮮半島南岸地域に、戸数5萬戸の大国はないよ
のっけからおかしいし、最後までおかしい
コメ番もちょうど800だし、嘘八百でちょうどいいってか? 朝鮮海峡って、対馬海峡のことか?
投馬国半島説の背景が透けて見えるよ。
やはり投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県でいいだろう。 >>803
>やはり投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県でいいだろう。
そんな妄想、いいわけないだろ。 九州は「其山有丹」で、最初っから落選! @阿波 >>803
>投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県
よそのスレでの確定事項だが、
日数も道里の表現として普通に使われている
つまり、投馬国の
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
も、道里、戸数が略載されている、女王国以北の国ということになる
投馬国が宮崎都万だと、北部九州説と矛盾するよ
道里が日数でもよい例示
《九章算術》[西漢 - 新] 紀元前120年-20年
《均輸》
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;
乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;
丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。問粟、車各幾何?
各県から輸所までの日数が書かれているのを、「道里」と表現している >>805
>よそのスレでの確定事項だが、
お前の頭の中ではそうなんだろうよ。 日数しか問題文に書かれていない
その上で「道里遠近」を考えろとしている
日数が、道里と表現されていることは、漢文を習いたての中学生でも分かるぞ >>806
>「夷人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」
《九章算術》は、大陸の国内向け文書で、夷人は出てこないよ
>>805に対するレスじゃないのかもしれないけれど、念のため >>802
>朝鮮半島南岸地域に、戸数5萬戸の大国はないよ
根拠はなんだね?君の思い込みだろ。 >>811
よって、投馬国のように郡使が通過しなかった土地は倭人からの伝聞のみ。
邪馬台国は、日程と里程の両方が記載されている。 >>813
>よって、投馬国のように郡使が通過しなかった土地
基本的に認識がおかしい。 >>813
>邪馬台国は、日程と里程の両方が記載されている。
邪馬台国行きの里程がどこに記載されているんだ?
南至投馬國 水行二十日。
官曰彌彌、副曰彌彌那利。 可五萬餘戸。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
投馬国の旅程記事と、邪馬台国の旅程記事は、
完全に構造が同じで対応関係がはっきりしている
この二つについて、異なる読み方をする人は、インチキ読みだと思えばいい >>812
>根拠はなんだね?君の思い込みだろ。
ほらよ
三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十
韓条 弁辰
大國四五千家、小國六七百家
半島南部に当たる弁辰諸国は、大きくても四五千家だ
少し広げて韓全体で見ても
大國萬餘家、小國數千家
で、数万の大国はない
九州説は、九州説の身内の文章しか読まないから、知識が足りないんだよ
朝鮮半島に、五万戸の大国はないと烏丸鮮卑東夷傳そのものに書いてある >>815
>南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月。
>自郡至女王国万二千余里。
普通は、この2文を以て、郡から邪馬台国の都までの日程及び里程と解釈するんだがなあ。 女王国と邪馬台国は一致しないからね
北海道=札幌じゃないのと一緒 東京から北海道まで900キロ
東京から函館まで680キロとあるからといって、
東京から札幌まで900キロじゃないし、
函館から札幌まで、220キロでもない
東京から札幌までは830キロだし、
函館から札幌までは150キロ 女王国と邪馬台国は一致すると考えれば、万事めでたく解決するんだがなあ。 >>815
>邪馬台国行きの里程がどこに記載されているんだ?
お前は魏志倭人伝のどこを読んでいるんだ? >>816
>半島南部に当たる弁辰諸国は、大きくても四五千家だ
それは同意するけど、
>九州説は、九州説の身内の文章しか読まないから、知識が足りないんだよ
投馬国が半島だなどと言っているのは、九州説のごく一部だ。
一緒にされると迷惑だ。 もちろん、一万二千里はぼんやりとした「倭国の真ん中」などではなく、女王が都する邪馬台国までの距離だよ。
つまり邪馬台国は九州にあった。 >>825
>もちろん、一万二千里はぼんやりとした「倭国の真ん中」などではなく、女王が都する邪馬台国までの距離だよ。
そんなことはどこにも書いてない
そして、仮定の話として短里があったとして、短里が76メートルとすると
九州上陸まで10000里で残り2000里は150キロほどになる
末慮国や博多湾沿岸から筑紫平野の有明海沿岸まで50キロしかない
伊都国、奴国に邪馬台国を持ってくるのは無理な数字しか出ないよ
萬二千里は女王国までであって、邪馬台国までではない
まずそこをきちんと把握しよう
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ >>827
>隋の時代には短里をやめたからだよ。
短里をやめたら、萬二千里が萬四千里になるのか?
短里ってのは、15%くらい短いだけだっけ? 帯方郡の海岸から女王国の中心地である伊都国と奴国の国境までのを距離(7000里+1000里+400里+400里+1000里+300里+300里+1000里+500里+100里)と
所要時間(20日+10日+1日(1日は1月の誤記))と
総距離(12,000里)とで3重に併記している。
旁國(奴国から奴国まで)を通過する21か国の国名と
総距離(5,000里)とで2重に併記している。
女王国から裸国、黒歯国までも同じ行程を距離(4,000里)と
時間(1年は12日を12月1と見間違えての誤記)とで2重に併記している。
陳寿は丁寧に説明している。 >>829
つまり、実測値ではない数値が使われ続けているってことだ
さすがに唐代に短里があったとは言わないだろ? 九州説でも? >>830
>1日(1日は1月の誤記)
こういうご都合主義の捏造をしないと成りたたないのが九州説
末慮国から奴国まで1日で行けるのかい? 帯方郡起点が長安起点になって、2千里しか違わないってことは、
半島の付け根の方から萬二千里ってのは変わってない扱いだぞ
でも、唐代に短里や東夷伝里がないには認めるんだろ?
だったら同じ里程の魏志倭人伝でも短里なんてないんだよ 意味わからん
勝手な謎論理を展開しても説得力ないよ 「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」(隋書)
だから唐代に書かれた隋書では変ってないな それで、唐代にも東夷伝里あるいは短里があったと主張するのかしないのかどっちなんだ? >>832
漢や三国時代は文書は木簡や竹簡に書かれていた
文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高い
同じように一大國も一支國の誤記であろう
幾ら文字が染みても南を東とは見誤る可能性はないけどね。 >>838
>文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高い
でもそうすると、北部九州説の行程論と合わないよ?
末慮国から伊都国、奴国、不彌国までの陸行七百里を、
1日で踏破したという主張をするのかい?
一大率のいる伊都国も足早に素通りして?
この辺も、ウソにウソを重ねている状態になっているのに早く気づくといいね
そもそもの短里が捏造なんだから
それで、唐代にも東夷伝里あるいは短里があったと主張するのかしないのかどっちなんだ? 『三国史記』巻第四 新羅本紀 智證麻立干紀では
十三年夏六月 于山国帰服 歳以土宜為貢 于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里
普通の里なら欝陵島が40q四方(1600 km²)となってしまうが、短里なら約8q四方(約64km²)となり72.82 km²の現実の欝陵島と近い値になる。 >>839
宿泊地は伊都国だと書かれているから
末慮国から伊都国までの陸行五百里(40q)を、
1日で踏破したという主張ですけど?
時速4q/hで10時間
十分に1日で行けますよね
何か問題ありますか? >>841
だとすると、伊都国までで終着ということになるけれど、
合計は萬五百里にしかならないよ?
残りの千五百里は関係ないってことにするのかい?
それとも、最初から萬二千里は、邪馬台国の比定地を考えるのには
意味がないというのに同意するのかい >>840
ごめん12世紀の成立の三国史記は考慮に入れてない 文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高かったら
画数が多い漢字は字が潰れまくりだな
行程で比定するのは無理だな >>841
ひとつ取り繕うと、ひとつ以前の主張と矛盾するのが分かるかい?
九州説の行程パズルは、無理読みの寄木細工なんだよ
部分部分では尤もらしく言い繕っても、結局各部で矛盾する 何も矛盾なんかないよ?
畿内説は矛盾を解決するために魏志倭人伝を無視しているみたいだけどねw >>846
>何も矛盾なんかないよ?
これまでの九州説の主張まとめ
邪馬台国までの里程は魏志倭人伝には書いてないに対して
九「萬二千里が、邪馬台国までの里数、里数と日数が両方書いてある」
同じ旅程の里数と日数だとすると、陸行一月は北部九州ではおかしいに対して
九「一月は一日の間違いだから大丈夫」
一日の間違いだと、末慮国から不彌国まで一日で行くことになりおかしいに対して
九「伊都国までだから、一日で行ける」
伊都国までなら萬五百里、邪馬台国まで萬二千里と言っていたのと矛盾する
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