前九年の役・後三年の役
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>>24
義家「反乱した清原一族を退治したんで恩賞を頂戴」
朝廷「反乱? 何言うてはる、一族内での仲間割れやないか。
ほっときゃよろしいのをなんであんさんちょっかい出したん?
これは私闘やよって何も出せまへん」 >>26
この時の恩賞って、どんなカタチでペイしたのかな?
清衡に出させたとか?
この時代の源氏にそんな財力があったのか。 清衡が差し出した財産もあるけど、前九年以降源氏がため込んだ私物が山のようにあったから部下に分けることが出来たんでしょう。 将棋の格言になる位だから京でも心配事だったのでは?
双入玉は前九年の役ほど手間を食い どういう計算違いをしたのか、前九年と言いながら12年間の戦い >>31
お互い相手の陣地に「王」や「玉」が入ってしまうこと。
王の周囲に成り歩を固めれば、せめる方は異様な出血をするけど、出血してせめた結果が歩を得ただけだから、
実質的に攻める方法が無い。素朴なルールだと、時間だけが過ぎていく…。
現代将棋のルールでは、「双方合意の上、持ち駒を点数換算して合計点数を競う」ことになっているが、「合意」が
いかなるものか極めて曖昧だから、コンピュータと棋士の実力が伯仲していた頃には、このルールの部分の明確化
が求められたが、あっという間にコンピュータが強くなり過ぎたので、ルール改正は立ち消え。 >>32
「奥州で頼義が十二年間戦争をやってた。後にやはり奥州で義家が三年間戦った」
↓
「奥州で十二年間戦争をやってた。後部の三年は奥州で義家が戦った」 → 後三年
↓
「前部の九年は頼義が戦っていた」 → 前九年
こういう勘違いが今に至っても正式名称として残っている >>33
レスありがとう
将棋てそんな昔からあったんだ 日本の合戦は一日で決着がつくということだ。役はながくていいねえ。 古代の城柵すべてに言えることだけど戦国時代の城と比べて一つ一つの曲輪がやったら広い
平安時代末期になっても兵数に物言わす古代的な戦いをしていたのだろう いまさら「前十二年の役」とは言えない。
そもそも「ぜんじゅうにねんのえき」なんて言いにくい。 清原氏は先住民系の人たちが中心となっていると思う。
DNA検査をしているわけではないが、この 湯沢ー横手ー大曲ー角館 地区は縄文系が色濃く残っているからだ。
早くから縄文系が一定の領地を得たから、和人が入り込みにくかったのではないか? 女系でアイヌ人の血が入っているからなんじゃないの
前九年の役の絵巻では安倍氏の軍勢は目が大きくて毛深く
明らかに日本人と異なる容姿で描かれているらしい >>44
藤原三代は、ミイラを造っている。長谷部言人は、自然発生説を唱えてそれがなぜか学説になっている観があるが、ミイラがひとりでにできるかあ?
ちなみにミイラは樺太アイヌの風習。
元々アイヌ系でなければそうしたことをやらないだろ。婚姻をとうして混雑したとしても。 そりゃ化外の地なんだから上からアイヌは入ってくるだろう >>47
有力者を内蔵を取り出してミイラ化するのは、カラフトアイヌの風習。 >>1
日和見どころか頼義・義家を見逃して大失態ですぜ >>45
奥州藤原もミイラにされたのは清衡、基衡、秀衡だろ
で、清衡の母方が安倍氏
普通に母系の風習が引き継がれたでいいんじゃないの
清衡の前も代々ミイラにされてるならだが 確か泰衡も首だけミイラになって秀衡に合葬されたんじゃなかったか?
今まで忠衡の首と伝えられてきた頭蓋骨を詳細に調べてみたら
泰衡の特徴という記録と一致。
これで一転、忠衡は存在そのものが疑問視されることにw 日本の実力者と思っていたらいきなり、アイヌの葬送方式を引き継がないなあ。 日本史でミイラってのはこれだけだからね。
不思議だわ。 前九年は最終的に勝者は清原氏、後三年は藤原氏
頼義義家は何のために行ったんじゃ >頼義義家は何のために行ったんじゃ
陸奥の守としての仕事をしに行ったのだ >>53
中央官僚が下野して地方有力者のところへ入り婿するから
姓は父方を受け継ぐけどどっぷり母方親族と一緒に生活する
源頼朝が母方の熱田神宮家の財力と兵力を頼みにしていたようなもん 頼義義家はあわよくば奥州にも源氏の基盤を拡げたかったが叶わず >>60
なるほど。平安期は和人も蝦夷も母系家族を中心とした通い婚だったからなあ。
一部貴族もそうだったのだろう。
武士階級が台頭してきて、血統とか、純血とかが重視されるようになったわけか。 嫁の実家は重要だからな。家格が低ければそれだけで出世争いから脱落 >>62
平安時代どころか室町時代まで庶民は通い婚だけどね
男の子の場合は父方に女の子の場合は母方につくのが慣例だった模様 でも、例え通い婚だとしても、「藤原氏」がアイヌの葬送風習を受け継ぐってどういう状況だろう? 安倍の末裔って正統性がなきゃ奥六郡を支配できないし。 >>55
いや、寺院の高僧が死してミイラとなって仏像と並ぶ例がしばしばあった。 寺院の高僧のミイラは中国の唐代で見られたものが日本に輸入された
地中に掘った穴に籠り飲食を断って鐘を鳴らし続け
鐘が聞こえなくなったら死んだことが分かる
死ぬまで何日間も飲食をせず餓死するために体内にものは残っておらず
そのまま干からびたミイラとなる
そしたら掘り出して僧侶の衣服を着せて即身仏として飾っておく
奥州藤原氏のミイラは病死した遺体で間際まで飲食をとっている
脳味噌や内臓など腐りやすい臓器が取り出されてあり
エジプトミイラのように人の手が加わっている
男性器も切り落とされているらしい
アイヌ民族の有力酋長で行われていた埋葬方法 しかし、長谷部言人は裂け目にネズミの歯形が付いており、ミイラは自然発生したと主張しているんだよな。
ミイラの内蔵はネズミが食べたって事だ。
そして、現在日本考古学の重鎮、長谷部言人が言った事は定説みたいになっている訳だ。
長谷部言人は「古代日本人=アイヌ人」を否定した一人だから、そりゃ藤原3代が日本人であったとしたいわけだね。
長谷部言人は日本考古学の開拓者の一人だけど、明石原人など妙ちくりんなコト言っているからなあ。 平範国の日記『範国記』長元9年(1036)12月22日には、
その日の小除目として、陸奥権守に安倍忠好が見え、それが『陸奥話記』などの
安倍頼良の父忠良である可能性が高く、奥六郡安倍氏の出自を中央貴族安倍氏とする
指摘がある(戸川1999)。
数年前これをこのチャンネルで見たけど、その後どうなったんだろう。
えらい学者さん達はこれをどう扱っているんだろう? とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
I3J 奥六郡の上三郡と下三郡はそんなに石高が違ったのか? この時代に石高なんていう概念ないが
東北どころか関東ですら雑公事とかが税の主体を占めていた時代だし それこそ、金が採れたからでしょ。
東北の山や川を探しまくって、一部は早くも北海道へ渡ったようだ。
採れなくてにっちもさっちも行かない場合には、アイヌに逆同化したという。 義家の裁定が清衡に不利だった説も分からないけどね。
清原氏一族を敵に回して義家にいいことはないわけだし。 ×清衡
○家衡
>>73
てっきりその説が通説化したかと思ってたけど。 頼朝の奥州合戦はどうしても自分を頼義に擬せたくて日付まで一緒にしたらしいな 江戸時代に今の秋田県を領有した大名は佐竹氏。佐竹氏の祖先は新羅三郎こと源義光なんだよな。
江戸時代中期の宝暦時代にその佐竹藩(秋田藩)で、秋田騒動といわれる大騒動が起きる。
これは、佐竹藩の財政不足を「銀札」と言われる兌換券で克服しようとして失敗したものだ。
それが、家臣団が2つに割れ、一方の派閥が切腹なり閉塞になったりする大騒動に繋がった。
ところがこの事件は江戸に伝わり「秋田杉直物語」という講談本になって描かれた。
それによると、本当の原因は藩主継承問題に関連したもので、秋田騒動は実はお家騒動だとして描かれている。
同時期、お家騒動を起こした群上藩は取りつぶしになっているから、佐竹藩では何とか手を打って
著作者を打ち首、本は禁書扱いにした(と俺は勝手に思う)
それだけだと民衆は納得しないだろうと言うことで、秋田で独自に「秋田治亂記」という対抗本を出版して
ホントはこうですよとやった。
ところで、「秋田杉直物語」では佐竹氏の祖先は新羅三郎と正しく書いている。(これだけ、歴史ある家系
だから、しっかり上下の地位を守ってお家騒動なぞおこすなよと言っている)
ところが、せっかくそれを修正したはずの「秋田治亂記」には佐竹氏の祖先が八幡太郎・源義家だと書いて
いて、間違いが増えているのだ。
秋田で後三年の役のヒーローと言えば八幡太郎義家だ。これは…仕方ないのか? そいや、岩明均の歴史マンガ 『雪の峠』でも、佐竹氏の祖先が八幡太郎義家ということで描かれていたなあ。
史実でも新羅三郎はDQNぽくって、八幡太郎の方が格好良い…のか? 後三年の役の義家のほうが頼義より悪質だと思うけどね
義光も酷い性格だけどこのころから河内源氏は殺人鬼みたいなのばっかりです むしろ頼義は比較的穏やかな性格だったんじゃないかと思う
晩年は仏法に帰依して念仏三昧だったし
義家、義綱、義光この三兄弟から信じがたいほどの胸くそ悪い集団になっていく 義家が義綱を殺したんだっけ?
義光は甲斐守になって山梨に土着して甲斐源氏の祖。 三兄弟の中では義綱が一番まし
義家は金沢柵の皆殺しという蛮行がある
まったく基地外がご迷惑おかけしましたね秋田県の皆さん >>86
朝廷が河内源氏の力が伸びすぎないように牽制していたのも見逃せない 朝廷は牽制したかな?
義家の力を恐れた説はもう否定された気が 高橋富雄氏は、清原氏は
源平と並ぶ将軍の家柄になり得たと言ってたけど
実際そうだったのかもしれないね 院は義綱や義光を重用し義家と反目するように仕向けとるがな >>60
そう言えば、義経が草薙剣の回収に失敗したことも、頼朝との
不和の原因の一つと言われているけど、母系が熱田宮司家だと
いうところも関係しているのだろうか。 >>93
>義経が草薙剣の回収に失敗したことも、頼朝との不和の原因の一つと言われているけど
井沢元彦のヨタなんか真に受けなくていいよ >>92
白河院が義家を抑え込んだ説は俗説ですよ
義綱の昇進は摂関家との関係が大きく貢献してるけど
逆に師通が卒去したあとは白河院に近侍する義家が追い上げて再逆転してる 後世の安倍氏人気は異常。
自称安倍氏の末裔は関東平野まで広がる。それに引き換え清原氏はさっぱり。
清原氏の末裔などは聞いたことがない。
前九年時の戦いが何か侍層の琴線にふれたんではないか?
穿った見方をすれば、反源氏がその裏にあったのか? >>97
今の安倍首相すらそれにあやかっているぞw >>98
安倍総理は安倍文殊院御参りしたことあるんかな >>97
> 後世の安倍氏人気は異常。
確かに。オレも何でか安倍氏好き 清衡の、清原氏一族に対する当主権確立の過程で
安倍氏ルーツが強調されたからかなあ
それとも前九年合戦の頼義・義家の活躍を強調するために
決定打となった清原氏の功績を意図的に貶めたのか 清衡って血統からいっても奥羽の支配者には完璧だよな 安倍氏人気は、判官びいきと通じることがあるんじゃないのか?
三春藩の秋田氏は、祖先は安倍氏だという家系図を明治時代に新政府に提出しているよね。
反逆の精神つーか
八幡太郎人気は褒賞を一気にばばっとばらまいたからだろう。 安倍氏は反乱中貢納しなかったけど、
清原氏は貢納してたようだから朝廷の義家への不満が強かったんだろうね
結局、国司は年貢をちゃんと国庫に納められるかどうかが評価の分かれ目 清原氏の先祖は舎人親王なんだよな。
藤原氏の分流と思ってる人が多いけど。 舎人親王かー
日本書記だけど、このひと、大津親王チクった人だろう?
あんまりいいイメージはないね。 大津皇子をチクったのは川島皇子
大津皇子が死んだとき異母弟の舎人親王は10歳ぐらいの子供
舎人親王は長屋王をチクった人 武則は平氏だから一族内でもいろいろあったかもしれない 清衡の代になってからも平師妙の反乱が起きてるよね
義綱が鎮圧してるけど
義家の前にも源頼俊が蝦夷征伐を行っている
10年に1回くらいは反乱が起きてるなこの辺 >>112
奥六郡と出羽とに住み分けてたけど、仲良かったかどうかは疑問。
事実に即していたかどうかはわからないけど、大河ドラマで
藤原秀衡が義経を出羽国境へ案内して「私はここから先には行けない」
という台詞があった。 (続き)
安倍氏、清原氏に代わって支配者となって百年も経ってるのに
まだそういう状況なのか、とドラマを見てて思った。
・・・・それが事実ならば 秋田城介は前九年の役のとき廃止されて、復活したのが1218年だからなー。
空白期間なんだよ。
俺は、878年の元慶の乱で雄物川以北が蝦夷の物になったと見ている。
横手付近の清原氏は蝦夷の血が濃いから、いずれ正史には書けない事態(蝦夷に土地を取られて
そのままとか…)が発生していたんじゃないの? >>111
清少納言の4代前に歌人の清原深養父がいる。
その子供又は弟が出羽清原氏の先祖、という伝承あり。 奥羽は仙北三郡と奥六郡以外にも鹿角や十三湊が有名だね 藤原氏がどのように、どの範囲を支配したかいまだにはっきりしないんだよ。
奧六郡と横手盆地くらいは支配下だろうけどそれ以外は霧の中。 藤原氏自身も支配範囲をはっきりと把握していたかどうか 秀衡末期には北関東〜出羽には鎌倉勢が入り込んでいたんとちゃうか? 十三湊がある津軽は間違いなく支配下だろ。秀衡弟の秀栄がいたし >>126
史料がないからなー。
大河兼任の乱では由利や男鹿は鎌倉よりだったから大河にうたれたとあるが…。
大河自身は蝦夷系だったんじゃないの? >>127
いません。
十三氏なるものもいません。 >>128
大河兼任の乱の名目は藤原泰衡が殺害された復讐なんだっけ?
主君の敵討ちの元祖と言われていて、目的は鎌倉に攻め込み頼朝を殺害すること。
結局、藤原氏もその支配が大河兼任の支配地(出羽秋田、五城目あたり)まで及んでいたということか。 大河兼任の乱はなぜかあんまり知られてない。
なぜだろう?
八郎潟あたりで挙兵して、平泉を奪還し、鎌倉を目指したが、迫あたりで鎌倉軍に敗れて
青森あたりまで逃げてなぜかまた宮城県の栗原あたりで殺されてる。 >>135
ぱっと見、空白の使い方が上手くて趣があるのに
内容はエグいね 当時の貴族にもいろいろ言われたくらいだから
よっぽど非道だと思われたのだろうな 『後三年記』は読んでもスッキリしないもんな。
金澤の柵の兵糧ぜめは記録に残る最初かな?
八幡太郎の怨みの強さはちょっと異常。 義家・義光という性格悪いコンビが出陣して
三兄弟の中ではまだマシな義綱が出陣してないのだな 鎌倉権五郎景正はその後どうなっただろう。
その子孫は繁栄したのかな。鎌倉氏もその後聞かないけど。 鎌倉はさすがに名乗れないんじゃないの。頼朝公=鎌倉殿だから >>151
長尾・大場・梶原などの平氏系じゃなかったっけ。
土肥もそうかな? ,
織田ザコナガの天下統一はまだか?
織田ザコナガが強いのは池沼の脳内とゲームの世界だけか?
北条義時は朝廷も叩き潰して天下の覇王になったけどな >北条義時は朝廷も叩き潰して
いつ潰した?
潰したのは後鳥羽上皇の支配体制だ。
だいたいが朝廷を潰したら幕府の存立そのものが立ち行かないはず。 東国と西国が完全に一つになったのは江戸幕府からだからね >>160
上皇を全員共に島流しにして公卿を大量処刑にしてんだから
叩き潰し多のも同然だろ?
天皇だけお情けで生かしてもらったにすぎない
しかし朝廷の権威なんて完膚なきまで叩き潰された >>166
後鳥羽の兄・後高倉院を担ぎ出しているのだから
義時の単独行動ではないよね 北条義時に勝てる人間が他にいなかった
実際に朝廷や上皇の権威も無きものにしたんだから
誰が義時に勝てようか? >>170
これから、風が吹くたびに秋の気配を感じられるようになる。
そのたびになにかもの哀しくなるよ。 >>172
ずっと前。
914年の十和田湖火山の火砕流はこの少し上流の大湯で止まっているから、その時代そこにいたら即死。
日本のピラミッドとされるその遺跡の近くにあるクロマンタは、一応山頂神社が安部氏に関係付けられている。 なかなか東北勢は甲子園で優勝できないな。なにかの呪いなのか… 奥州藤原氏の官僚機構を頼朝は真似たというのは史実? 毛越寺や中尊寺などのお寺に感動して鎌倉もそうしたとは聞くけど官僚機構はない。 実態はともかく形式上は東軍に対する西軍の反乱だろ。東軍が将軍家の御旗もらってるし山名宗全治罰院宣出てるし 奥羽を語るには まつろわぬ民 から語り始めないとな 後三年での清原真衡死後の遺領は奥六郡は清衡家衡に、山北三郡は真衡養子で源義家の義兄弟の平成衡が引き継いだんだな 吉彦秀武の子孫もそのごはわからない、らしい。
頼朝軍が来た時、藤原方の陣営に吉彦氏でも出てくれば面白いが。 グーグルしたら平家物語に出てた。鎌倉権五郎
以下
その後梶原鐙あぶみ踏ん張り立ち上がり、大音声を上げて、「昔八幡殿の後三年の御戦ひに
、出羽国千福せんぶく金沢の城め給ひし時、生年十六歳と名乗つて、真つ先駆け、弓手眼
を兜の鉢付の板に射付つけられながら、その矢を抜かで、たうの矢を射返し、敵かたき射落し、勧賞蒙り
、名を後代に上げたりし鎌倉の権五郎景政、五代の末葉梶原平三景時とて、東国に聞こえたる一人当千の兵ぞや
我と思はん人々は、寄り合へや見参せん」
平家物語 巻第九 二度乃縣
梶原景時、景李が子孫じゃった。 私の中での前九年の役は炎立つなんだけど勉強し直した方がいい? >>197
金売り吉の娘沙羅を多岐川裕美が演じているけどこの沙羅が祀る東北古来の神「アラハバキの神」は
偽書である「東日流外三郡誌」が出典なので無かった事にするべき。 炎立つの原作者が岩手出身でファンタジー系の人だから何とも言えないよな アラハバキの神は一応「東日流外三郡誌」以前からあるだろ。 あるけど荒脛巾神は東北古来の神じゃなくて東北・関東に多いけど全国にあり、いつから信仰されてるのか
どういう神様なのかよく判らない謎の神。
<<荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。
客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある。>> 白鳥舘遺跡とか長者ヶ原廃寺遺跡とか平泉の遺跡の一部は安倍氏の時代のものと考えられている。
http://www2.pref.iwate.jp/~hp0907/syokai/shirotoritate.html 流石にここの人達は読書板の人達より博識なんだなぁ 東北住みが長くなり愛着が湧いてアテルイから戊辰戦争まで東北物色々読んだつもりだけど大河兼任とか初めて知った
戦国以降は色んな作家の小説を読み較べる事ができるけど前九年後三年とかアテルイ辺りは需要が無く史料も乏しいせいか小説は本当に少ない
ある程度史実を押さえておきたいなら学術書を読まないと駄目なのかな >>214
えー
でも九州山地から下の方はどうよ? >>215
その下の方のやつらを都に移住させて管理したのが隼人司って役所や >>218
オレンジ武者どころか前九年・後三年の頃も有名無実だわ。そんくらい九州はとっとと王化に服している 酸っぱくて食べられない橙をオレンジと訳すのは如何なものか。 >>218
いきなり時代がとんでるけど…まさか平安後期と安土桃山期の構造が同じだと思ってる? 小学校の頃大河ドラマ見てたから炎立つが思い浮かぶ・・・
清原家内紛のときに家衡豊川悦司と清衡村上弘明の対立が好き。 安部貞任の嫁が財前直見で源義家(佐藤浩市)とチョメチョメするんだよな えっと、藤原秀衡の嫁に眞野あずさと浅利香津代がいて、、、
眞野あずさは藤原秀衡の長男(長嶋一茂)と再婚すんだよな? 岩手のスーパースター大谷翔平と菊池雄星がメジャーで対戦するのは凄いことやと思うよ 実際に資料を見たことがないので自信はないが父方の一族が出羽清原の末裔だという話です
横手で負けた後、山を移動して岩手の花巻に隠れ住んだとか...名前は全然違ってたけど大正までは地元の名士だったらしいです。 >>190の子孫なら面白いが。こちらは勝者の側だからな 平安時代の東北は、「東夷」と呼ばれる蛮地であった
そこに、土着の豪族・安倍氏が勢力を拡大し、ほぼ独立国となった もしも、このまま阿倍政権が長期化していたら、東北は日本とは別の国になっていたかもしれない
中国とモンゴル・満州のような関係になったかもしれない
同じ島国のイギリスも、スコットランドとイングランドとは別の国として発展してきたのだから、東北が安倍王国になっても別におかしくなかった 安倍政権が長期化していれば、東北は倭人の傘下に入らなくてすんだのに
源頼義・義家さえ出てこなければ 北海道からアイヌ人が攻めてきて、日本全国を平定
首都を京都から青森に移す
中国の歴史はそんなことの連続だったが、日本では起きた試しがない そもそも、「前九年の役」という言い方からして、いかにも「土人の反乱を鎮圧しました」という感じ
「第一次奥州戦争」とか、そういう名前にしたらどうか 安倍氏が東北を統一して、関東に南下していれば、東日本は安倍政権の勢力基盤となっていた >>245
元慶の乱は、秋田城がそうなったと思う。
正史の記録には無いけどね。 >>247
頼朝より先にそれをやれよ。それだけの実力はあっただろう糞秀衡よ。 唐の長安→宋の開封→元の北京と、中国の首都は移っていったわけだが、奇しくも、距離や位置関係が、京都→鎌倉→青森と酷似している
それを思えば、京都の次が鎌倉で、鎌倉の次が青森でも別におかしくなかった 青森とか頭イカれてんのか?明治以前はプチ氷河期で冬は死ねるわ。日本は関西か関東しか中心になり得ないぞ 瑞穂の国の生活が基本だからな。
しかし、暖かいところは病原体がいた。
食料と暖房がなんとかなれば問題はなかったかもな。夏は過ごしやすいし。 >>250
アイヌが大和を脅かすほどの大勢力だったら
青森辺りに軍事拠点があったかもしれんが むしろ可能性としてはアテルイの時だろう。あの時蝦夷にもっと力と団結があれば胆沢あたりが
首都になったかもしれん。 アテルイの後に元慶の乱で蝦夷が反乱を起こし、朝廷の権威が北東北に到達しなかった時が200年ほどあるんだよ。
その時に、事実上独立していたと思う。
ただ、蝦夷はまとまり無いからなー。津軽は危険視されていたのは確実だけど。
蝦夷には文字を書く人も、製鉄文化も、馬も揃っていた。
しかしそれも、915年の十和田湖火山の大爆発で北東北一帯が火山灰の下でおじゃんに…。 >>251
でも、モンゴル帝国が首都を北京に移したのは、実際にそのレベルの話だぞ?
それ以前は、もっと南の洛陽とか長安とか開封あたりしか、中国の中心になり得なかった 明や清の時代劇を見れば分かるが、北京人は冬には分厚い毛皮をまとって、エスキモーみたいな格好をしていた
大運河を掘って、南から食糧をせっせと運び、それを食って生きていた 藤原基衡や秀衡の時代に関東を鎮圧できるだけの軍事力はあったわけだが。やはり大義名分がなかったかな。しょせん自分たちは俘囚の末裔だと… 占領すれば防衛が必要な拠点がどんどん増えていくわけだから
軍事力があるからと行ってイナゴみたいに攻めるわけにもいくまい
信長みたいにちょくちょく移動できる身軽さがあれば別だけど
あと関東だけじゃなく越後も同時抑えないと背後つかれる可能性もある > 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 チョンと東北人は被害者ぶる歪んだ誇りが共通のアイデンティティー
太古は勿論、近世では維新の時の被害者話しを今でもやるわ、震災でも原発でも被害者アイデンティティーが半端ない 吉彦秀武だっけかな?
彼らの末裔はどうなったんだろ? >>262
安倍晋三首相も安倍氏のすえを自称しているんだけど。 南北朝時代の初期には、北畠顕家を総大将とする東北の南朝軍が仙台から長征し、逆賊・足利尊氏を京都から叩き出して九州まで落ち延びさせたことがある
歴史上、これほど仙台が輝いたのは、他に伊達政宗のときしか見当たらない 筑波山の麓、常陸国伊佐庄中村(下館市)から中村常陸介念西入道が子息らとともに伊達に下り、氏を改めて伊達氏を名乗ったのをはじめ、
相馬・蘆名・結城・二階堂・伊東・長沼の諸氏は一族または家人を地頭代として奥州に派遣し、新しい所領を経営した。
これらの諸氏はみな関東地方に本領を持つ豪族であり、家督が子息・一族郎党を引き連れてその主力をいち早く奥州に移した伊達氏を例外として、
ほとんどが鎌倉後期(南北朝期)まで関東の本領に住したのである。
(『福島県の歴史』山川出版社) 鎌倉では、平泉の再興を阻止する東北非政治化がその政策の基調であった。奥州総奉行を置きながら、これを単なる中継機関程度にしか扱わず、
やがてこれを鎌倉直轄としたのも、そのことを示していよう。
それともう一つ、鎌倉時代には、地頭の生活の本拠は関東=鎌倉にあったから、彼らが東北武士として働くことはほとんどなかった。
『保暦間記』
「東国ノ武士、多ハ出羽・陸奥ヲ領シテ其力モアリ。是ヲ取放サント議シテ、当今ノ宮一所下シ奉ルベシトテ、
国司ニハ(中略)土御門ノ入道大納言親房息男顕家卿ヲナシテ、父子トモニ下サル。誠ニ関東ノ侍モ多付テゾ下リケル。
(中略)同十二月、主上ノ宮成良親王ト申ニ、尊氏舎弟左馬頭直義朝臣相副テ、関東八ヶ国守護トシテ下向アリ。
鎌倉ノ将軍トゾ申ケル。サレドモ、出羽・奥州ヲ取放サルル間、東国ノ武士、多ハ奥州ヘ下ル間、古ノ関東ノ面影モ無リケリ」
これは非常に大事なことを語っている。鎌倉時代の武士は、東北に所領を持つ関東武士としての勢力が強かった。
奥州に強力な国司制度をしいたのは、その関東武士の勢力の根源を断ち、鎌倉の権威にかわる権威を東北につくるためである。
その政策が成功して、東北に所領ある武士は、大半奥州に下向したので、鎌倉は名ばかりとなった。
そういう意味のことが述べられているのである。
(山川県史シリーズ4『宮城県の歴史』高橋富雄) >>266
陸奥国府だった多賀城は多賀城市であって仙台じゃないけどな。残念! この時代の鎮守府は多賀城より上の胆沢じゃなかったっけ? >>271
伊達政宗が仙台を開発する以前の仙台周辺は多賀城圏だろう。
>>270
義良親王(のちの後村上天皇)が国府多賀城にいたので側に仕えて多賀城にいたと思われる。
鎮守府将軍に任じられた時点で既に尊氏がおかしな動きをしてるし。
リンク先の年表の建武2年の所。
http://www5.plala.or.jp/akiie/akiie/turedure/nenpyo/nen-02.htm 独眼としては仙台じゃなくて会津を本拠地にしたかったんだよなあ 横手に行った時に、金沢柵がある事知らずに行ったんだけど驚いた、、
柵のあった場所と
今の都市名の対照表、ないかな? 江戸時代の有能な武士であった金易右衛門は、先祖は藤原姓だった。
将棋棋士1号の秋田県雄勝郡羽後町の金易二郎は蕎麦屋の息子だが、先祖は分からないナー ちょっとスレチだけどぽっと出の頼朝に簡単に滅亡させられたのが下せん 城柵ってろくな攻城兵器がないとは本当にあれで防御の訳に立ったのだろうか
アイヌのチャシのほうがまだ技巧的な作りしてるし >>288
まあ,田舎の資料館って感じ。
歴史的に不明なトコがいっぱいあるからね。 炎立つとかいう大河ドラマあったけど
あれは原作を書いた人の思想が反映されすぎていて
実態は全然違うだろう。
陸奥の安部氏は、中央貴族の安部氏の流れだろう。
出羽の清原氏は、完全に皇別貴族の清原氏だろう。 まあ、後の藤原氏が完全にアイヌ人の形式で藤原3代を葬送しているからな。
長谷部言人は違うといちゃもん付けたようだけど。 いやいや。いくらなんでも葬送をアイヌ式にするって、人種混雑があったからと言って、心情は蝦夷だっただろ。
蝦夷は母系だから、父系はどうでも良いんだよ。だからこそ混雑した。 父系でみたら、畿内の皇族・貴族の末裔たち。
現地の豪族と婚姻関係を結んで土着化。 アイヌは父系社会だけど
というかあのあたりの狩猟採集民はギリヤークやウィルタにしてもみなそうだけどね アイヌは両系だったみたい。
庶民層は普通に母系じゃないの?
日本人だって平安時代は貴族だって母系だったぞ。 てことは奥州藤原三代の遺骸は朝廷式じゃなく蝦夷方式で祀ったのな。
独立精神を内外に見せつけるためなのかな? そりゃ「東夷之遠酋」や「俘囚之上頭」を自称しているからな。 >>294
有名な国宝の「後三年合戦絵巻」
阿部氏側は毛深い、目が大きいなどの蝦夷の特徴がよく描かれているらしい
蝦夷は毛人とも書かれるくらい古代から体毛が濃いことで知られていた
琉球王国の人は遺伝子的には日本人と同じだけど
アイヌ人は別の人種なんだよね これは明確に蝦夷をアイヌに関連づけたくないって人がいるからねー
藤原三代のミイラを調査した時に、旧石器時代人アイヌ説を否定した長谷部言人は骸骨は日本人型だし、ミイラは
アイヌ人の葬送ではなく、自然発生したと主張しているんだよな。どうも裂け目にネズミの歯形が付いているから、
そこから内容物を食べられたとかw そんな馬鹿な。
長谷部言人は、明石原人の件もあるし、先走りする性格があるような気がするのだが。 だって弥生時代の蝦夷は縄文人が少し混ざる弥生人なわけだし 吉川弘文館の人物叢書「源義家」
品切れだったが、現在重版中とのこと
持っていないから、入手できるのが楽しみ >>311
今人気というわけでもないと思うが、NHK大河ドラマ「炎立つ」を見て義家好きになった
ちなみに義家役は佐藤浩市 奥州市江刺を中心に行われる大河ドラマ「麒麟がくる」岩手ロケ
とり直し〜
https://oshu-fc.jp/extra_tsuika0927/
歴史公園えさし藤原の郷
https://www.fujiwaranosato.com/
【お知らせ】2020年大河ドラマ「麒麟がくる」復旧工事に伴う見学規制について
9月17日(火)から10月4日(金)までの予定で、園内におきまして2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の復旧工事を行っております。
見学個所につきまして、若干の規制がございます。
ご迷惑をおかけしますが、何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。 蝦夷っていうのは、特定の民族を指すものではないからな。 ヨコレス
前九年の役(1051〜1062)・後三年の役(1083〜1087)
は女真大王府が版図に奥州を加えようとして、朝廷と女真大王府の間で起こった戦争ではないか。
白河院政の始まり(1086)が日本国王府(遼史にでる)の誕生と見れば、
後三年の終戦は北と南からの遼の日本列島包摂の完成によるもので、戦う意味がなくなったのである。
このような戦争の終結の仕方では、朝廷は立つ瀬がなく、
この戦争を義家の私戦と片づけ、使った戦費を返せとの沙汰を下したことが理解できる。
朝廷にこけにされた義家を白河が自身のグループに組み入れた。
日本史カテの「遼史に日本国王府が出る」をご覧ください。 安倍のじいさん「おいは周防熊毛の部落からきた朝鮮人たい」 神話通り出雲もそうだったんじゃないの?
dnaでも縄文の集団がいたとか。 遼は南面官と北面官という政治組織を持っている。日本国王府は北面官に属している。
白河の北面の武士という軍事組織名がある。
この驚くべき名前の一致は、白河が日本国王府の長であったことを示している。
北面の武士は、日本国王府が日本国を統治するための軍事組織。各地に配置され、源氏・平家になった。
日本が急に武家社会に移行していった原因である。
遼の日本国王府設置は日本列島を制圧する意図があった。
地政学的に、日本列島の北部は豆満江を通じて支配する方がたやすい。
豆満江の女真大王府の下部組織として、奥州藤原があったと思われる。
日本を遼の異なる府が分割支配していたことになろう。
奥州藤原が独自に北方貿易(北宋)をしていたことも、
平泉が平安京に次ぐ人口を抱えていたことも二つの王府で説明できる。
前九年後三年は朝廷と遼配下の女真族のたたかいで、
日本国王府が朝廷の上に立ったとき、戦いに意味が中なった。
「国際的視点からの古代史考」の「付録」を参照。
http://sites.google.com/view/jhistory ガースーは仙北三郡の近くの湯沢出身とのこと。元は俘囚かもな >>322
そこら辺も重ねて思ってたんだろうけどやはり直接には頼朝の奥州征伐じゃないのかな 前九年後三年はその下敷きだし芭蕉とは離れすぎている >>328
そっかそっか。奥州征伐のことじゃないと
跡とはらんもんな 芭蕉に同行した曽良の句に「卯の花に兼房見ゆる白髪かな」というのがある。
兼房とは義経の郎党だから奥州征伐より衣川合戦のほうだと思われる。 >>327
俘囚云々言うなら、安倍ちゃんは安倍宗任の子孫なんやろ? ンなわけねえだろ
だったら信成が信長の子孫だと思ってんのかよ ガースー、秋田から権力の頂点へ
清原も喜んでいるだろう >>331
清原果耶は清原元輔の子孫? それとも出羽清原氏の末裔? >>330
詳しいですね
衣川の戦いの句だったら
兵どもや夢が限定的ですね
でも確か俳句を読んだのは衣川でしたね ♀_(`O`)
あなたも私もアベコロナ〜
みんな揃ってアベコロナ♪ おてもやん「今日から公園も駐車場も閉鎖や」
ガースー「外国人を入れます」 >>305
安倍氏は蝦夷の酋長、奥州藤原氏や清原氏は中央貴族の末裔かな
奥州藤原氏は一種の在庁官人だったと思う 安倍氏も中央由来の在庁官人の子孫説のが有力だったろ 戦役名は日本史上群を抜いて格好良い。誰が名付け親なのか。元々の奥州十二年合戦も格好良いが。 名付け親が勘違いして「奥州十二年戦争」から「のちの義家の三年の合戦」を引き算して、
「前九年」と「後三年」になったんだよね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています