伊都国東遷スレ 7
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html >>98
>伊都ゴルフ倶楽部付近は小高い丘になっている
>この付近が末廬國と伊都國の境で伊都國は怡土平野。
伊都ゴルフクラブは、松慮側から見て脊振山地を越えたた先じゃないか
脊振山地という自然境界の北側まで末慮国ってことは、相当に伊都国が
圧迫されてたことになるぞ
つまり、ありえない想定だってこと
九州説は、短里の不合理さを示されると、さらにそれ以上に不合理な「勝手な
条件」や「恣意的な国境線」を引き始める 末盧国は伊都の玄関口だよ。
圧迫とかそういうことはない。
場所の比定が正しいかどうかは知らないけどね。
伊都はあくまでも広域の倭国の王都だから、周辺地域はすべて支配下だよ。 >>109
>古墳時代の前に九州に倭王の都するところがあったってのが、九州説だろ?
「古墳時代の前に」という注釈は畿内説側の思い込み。 >>114
>「古墳時代の前に」
古墳時代に入ってから後も九州王朝があったというのは
ただのトンデモ >>113
>末盧国は伊都の玄関口
誰がそんなことを決めたんだい?
末慮国と伊都国の間は五百里と書かれているよ?
これは、かなりの遠距離だろう
実際には、末慮国から伊都国まで陸行はしていないと思うけれどね >>116
>実際には、末慮国から伊都国まで陸行はしていないと思うけれどね
ちゃんと魏志倭人伝に「東南陸行五百里到伊都國」と書いてあるのになんでそう思うかね? へそ曲がり? @阿波
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り) >>117
>魏志倭人伝に「東南陸行五百里到伊都國」と書いてある
末慮国の東南五百里に伊都国がないからだよ
末慮国が万津浦とかいうたわ言は却下で
浦=海岸の名前を国の名前にしてはいけない >>111
まだ変なことを言ってますね
周旋とはぐるりと回ることですよ。 >>119
>まだ変なことを言ってますね
>周旋とはぐるりと回ることですよ。
三国志で、周旋で「ぐるりと回る」意味で使われているところがあったら出してくれ
http://www.zenyamaren.org/yamaren20-038.pdf
斡旋の意味(今でいう周旋屋)で使われているところはあっても、ぐるりと回ったり、
出発点に戻る用法で使われているのはないそうだよ >>118
>末慮国の東南五百里に伊都国がないからだよ
へそ曲がり?
>末慮国が万津浦とかいうたわ言は却下で
>浦=海岸の名前を国の名前にしてはいけない
万津浦にこだわってるわけじゃないよ。 参考まで。
末盧国(四千戸)(福津市辺り)なら満足かい? @阿波 >>121
>末盧国(四千戸)(福津市辺り)なら満足かい?
万津浦を参照しないのであれば、松浦川、末羅国造等、古代まで
遡れる地名が残る唐津平野を差し置いて、福津市辺りを末慮国とする理由はない そろそろお鏡さんが出てくるかもしれないから、ごまかせないように貼っておく
16日本@名無史さん2018/06/24(日) 10:42:35.88
>>10
>私は丈夫という単語から「背が高い」という意味を抜くのは、
>炭酸の抜けたコーラみたいな読みと思いますので、感心しませんせんね。
お鏡さんが感心しようがしまいが、それはお鏡さん個人が恥をかくかどうかってだけで、
古代の丈夫の意味とは何の関係もないね
もともと丈が平均的な成年男子の身長を示す身体尺なんだから、
丈夫も平均的な身長の成年男子だよ
恥ずかしいね! いまだに「自分の解釈ミス」というか「もの知らずの思い込み」を
間違いだと素直に認められないってのはw >>116
>実際には、末慮国から伊都国まで陸行はしていないと思うけれどね
魏志倭人伝を無視して妄想しても意味ない。 「東南陸行五百里 到伊都國」これは実際に末慮国から伊都国まで陸行したってことですよね。 >>120
三国志でも周旋は「ぐるぐる回る」との意味で使われてますよ
「いろいろと寄りながら進む」は誤訳ですよ
畿内説の人からも馬鹿にされる恥ずかしい間違いですね。 >>116
末盧国も伊都国も女王国の領土内なんだから
首都である伊都国に対して末盧国は玄関口ですね
伊都国が怡土平野だけで直ぐ西まで末盧国であってもそれは単なる行政区分上のこと。 >>122
>松浦川、末羅国造等、古代まで
>遡れる地名が残る唐津平野を差し置いて、福津市辺りを末慮国とする理由はない
あのねぇ、もういい加減に地名だけに頼るトンデモ説を卒業しなさいよ。 君、レベルが低いよ。
きょうび、遺跡とか遺物で証明しなきゃね。 @阿波 >>127
>三国志でも周旋は「ぐるぐる回る」との意味で使われてますよ
>「いろいろと寄りながら進む」は誤訳ですよ
>畿内説の人からも馬鹿にされる恥ずかしい間違いですね。
言い張れば済むってもんじゃないんだよ
そう取れるところを原文と解釈とともに挙げてくれ
そうしたらこっちでも解釈できるから
ただ、このネタは結構古くからあって、知ってる人は知ってるネタなんだよ
きちんと読んでる人は、周旋は、一周とか元の場所に戻る経路じゃないのを知ってる
https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/history/1329627586/500 >>126
>「東南陸行五百里 到伊都國」これは実際に末慮国から伊都国まで陸行したってことですよね。
いや、そうでもないんだ
よく、魏志倭人伝の旅程記事、という呼ばれ方をしているけれど、
地理・旅程記事と呼ぶ方が実態をよく表している
大陸正史では、ある場所からどっちの方向にどれだけ離れた場所に、
どこの国(町)がある、というのを「至(到)」で表現しているんだよ
陸行と書いているから、移動しているように見えるけれどね
そもそも宇木汲田遺跡や、千々賀遺跡のある末慮国から、伊都国に行くのに
脊振山地を越えて陸行するのはバカらしい
壱岐から船で来ているのだから、そのまま伊都国へ船で向かうほうが楽
この部分は、漢代の倭国への行程記録が紛れ込んでいるのだと思う
私のオリジナルの考えではないのだけれど、末慮国から東南五百里は
松浦川沿いに筑紫平野に抜けるルートだという説に賛成
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zatu03.html#rikuko >>128
>伊都国が怡土平野だけで直ぐ西まで末盧国であってもそれは単なる行政区分上のこと。
行政区分などという概念は、3世紀にはないから
自然境界も何もないところに、国の呼び名が変わる境界があったらびっくりだよw >>131
>あのねぇ、もういい加減に地名だけに頼るトンデモ説を卒業しなさいよ。 君、レベルが低いよ。
相手を無意味に罵るようになったら、九州説の同類だよww
桜馬場遺跡、千々賀遺跡、宇木汲田遺跡とか、国の存在を想定できる遺跡が
唐津平野に揃ってるんだから、これと松浦(現在)、末羅国(古代)という地名と
合わせて考えるに決まってるだろw >>134
そうじゃなくて、伊都国と末盧国はお互いに張り合うような独立した関係ではないでしょう、という意味だろ。 >>135
>桜馬場遺跡、千々賀遺跡、宇木汲田遺跡とか、国の存在を想定できる遺跡
それらはとても「国の存在を想定できる」ほどの遺跡じゃないでしょ。 せいぜい邑程度。 甕棺墓地じゃね。 仕方ないよ。
とにかく、これといった弥生末期集落遺跡が無さすぎ。 @阿波 >>136
>伊都国と末盧国はお互いに張り合うような独立した関係ではないでしょう
張り合わなくて、同じ平野にいたら一つの国になって、伊都国と末慮国の間の
国境線はあり得ないってこと >>137
>せいぜい邑程度。 甕棺墓地じゃね。
千々賀遺跡は、墓地だけじゃない複合遺跡群だよ
平成12年(2000年)に漆の蓋状のものや直径40センチの柱や板材などが出土。
周辺では、甕棺と銅鉾、銅戈などが出土した千々賀庚申遺跡、銅の腕輪が出土
した千々賀宇ノ木遺跡があり、久里双水古墳も近いなどの理由から、それまで
不明とされてきた魏志倭人伝に記載されている末盧国の拠点ではないかと話題に
なった。
その時発掘された、蓋状の漆品のうち、形状のしっかりしたものは2枚。このうち
1枚は、ほかの遺跡でも見られるように、全体を黒漆で塗り、中心の小丸と外円の
やや内側に赤色の漆で丸い線が描かれている。
もう1枚は、前の線に加えて、幾何鋸歯紋と呼ばれる、細かい三角形の文様や、
斜線、細線などが描かれている。青銅器にはみられるが、漆品に見る国内での出土
例は初めてとされた。 >>139
糸島市の中央には小高い山脈みたいのがあって東西に平野が分かれてるよ。 >>140
>千々賀遺跡は、墓地だけじゃない複合遺跡群だよ
いや、だからせいぜい邑程度なんだよ、倭国(阿波)の集落遺跡と比べたら。 @阿波 >>137
松浦は唐津平野付近だけじゃなくて長崎県から佐賀県北部一帯の地名だよ。 >>139
そうだね
かなり糸島と唐津は当時はかなり近しい存在だと思われるよ
中原遺跡の弥生終末期の墓で
平原1号墓と規模と構成が類似する墓がある
破砕鏡も伴うが副葬品は平原に及ばない >>141
>糸島市の中央には小高い山脈みたいのがあって東西に平野が分かれてるよ。
どれのこと?
地名で教えて
微高地程度なら、むしろ集落が作られやすい場所になるんだが? >>143
>松浦は唐津平野付近だけじゃなくて長崎県から佐賀県北部一帯の地名だよ。
松浦郡のことでしょ?
それはそれで、古代の末慮国の範囲を考える上ではあまり参考にならないと思う >>144
親しいかどうかは別だけどな
対外貿易の利権を取られてるだろう >>144
>中原遺跡の弥生終末期の墓で
>平原1号墓と規模と構成が類似する墓がある
てことは、平原1号墓は、そこらの一族の墓と同程度の規模ってことだよね
倭王墓に見立てるのは無理でしょ >>139
環濠集落なら自然地形にこだわる必要はそもそもない。 >>147
伊都にいた一大率が伊都から北を統率したとあるのだから、当然末盧も含むだろ。
末盧で荷揚げした物資を確認して帳簿と付け合わせて女王の元に届けるのも一大率の仕事だよ。 >>148
副葬品の規模が違うと書いてあるのが読めないのか? >>149
>環濠集落なら自然地形にこだわる必要はそもそもない。
そういう主張はありうると思うけれど、九州説の
「魏志倭人伝の旅程は正しい」
「距離は短里」
という主張とは相容れないんだ
国がかなりピンポイントになるだろ >>150
>当然末盧も含むだろ
含むかどうかじゃなくて、東南「五百里の遠地」だって言ってるんだよ >>151
>副葬品の規模が違う
規模が違うっていっても、仿製鏡の割れたのがやたらたくさんあるってだけじゃん
もらったはずの舶載の魏晋鏡が一枚も出てないんだし >>153
面で発掘できているわけじゃないから、邑程度ってのもただの推測だろ
千々賀遺跡「群」と呼びうる広がりが確認できてるんだから、
当時の国としては十分だと思うが? >>150
>末盧で荷揚げした物資を確認して帳簿と付け合わせて女王の元に届けるのも一大率の仕事だよ。
内陸の伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国管理局」。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。 @阿波 >>152
ピンポイントに決まっているだろ。
それが九州説と相入れないという理由は? 阿波は、結論ありきで絡んでくるだけだから、積極的に反論する必要を感じないんだよな
阿波の言う万津浦に上陸した後の、伊都国の比定地も「否定地」だし >>158
九州説は、人ごとにいうことが違うから困るなww
ピンポイントで、末慮国を糸島平野内まで持ってくるなら、
末慮国はどこになるのか教えてくれw >>154
幅三千里の対馬海峡全域が一大率の支配下なのだから、500里なんてすぐだろ?
何か問題か? >>155
何言っているんだ?
もう一度平原遺跡の出土品リストを見直せよ?
そろそろ恥ずかしいぞ。 >>160
ピンポイントに港に決まっているだろ。
なんで内陸なんだよ。 >>161
いやむしろ、伊都の一大卒が船出するのが末盧だな。 >>156
>千々賀遺跡「群」と呼びうる広がりが確認できてるんだから、
どんな遺跡の広がり???
>当時の国としては十分だと思うが?
とても国レベルじゃないよ。 @阿波 >>163
>ピンポイントに港に決まっているだろ。
>なんで内陸なんだよ。
つ >>149「環濠集落なら自然地形にこだわる必要はそもそもない。」
環濠集落ならピンポイントになるぞっていう話、もともとは
同じ平野内で、別の国ってのはないだろう
↓
環濠集落なら別の国でもいいだろ?
↓
それだとピンポイントになるし、末慮国の環濠集落(糸島平野)はどこ?
↓
ピンポイントに決まってるだろ >>163が話の流れも追わずに乱入
九州説は、人ごとにいうことが違うから困るなww >>145
伊都ゴルフ倶楽部が在るあたりだよ
分水嶺になってるだろ。 >>146
末慮国は唐津市付近だけではなくもっと広範囲だったんだよ。 >>162
刀なら、丹波の方が立派なのが出てるな
ガラス製品も、大風呂南墳丘墓の方が豪華
舶載鏡は、100年以上古いのが2枚だけ
仿製鏡の枚数は多いけれど、破砕鏡でつぼにも入れずに墳丘にばらまかれている
鏡の種類・枚数では桜井茶臼山に勝てない
で、どこをどう見ると、王墓になるんだ? >>164
>いやむしろ、伊都の一大卒が船出するのが末盧だな。
いやむしろどうして伊都国から船出しないんだ? >>150
一大率は伊都国ではなく女王国以北に居たと記述されてるよ
この範囲には末盧も含むだろけどね
一大率のは検察だから女王の元に届けるのは一大率の仕事ではないよ。 >>170
当時の伊都国の浜辺は遠浅で大きな船が着けなかったんだよ。 >>167
>伊都ゴルフ倶楽部が在るあたりだよ
>分水嶺になってるだろ。
どことどこの分水嶺?
そのゴルフクラブの西側も、東側も船越湾に流れていく川なんだけれど >>160
末慮国自体は広範囲な国邑だけど
魏使が着岸したのは呼子付近だな
名護屋浦に入港したんだ。 >>173
ヤーフー地図で地形図に切り替えてみると分かるよ。 >>174
それは、糸島平野内に末慮国と伊都国の国境をもってくる理由にはならないよな?
まあ、名護屋浦に入港ってのもないけど >>176
糸島平野内に末慮国と伊都国の国境をもってくる理由は呼子付近から500里です。 >>169
細切れに一部だけ見ればなんとでも言えるが、それらが揃っているところが重要。
そして構成として三種の神器となっていること。 >>170
伊都に海がないからだろ。
ピンポイントの地名だから。 >>168
>末慮国は唐津市付近だけではなくもっと広範囲だったんだよ。
なんか、範囲を広げた「畿内説」みたいだね。 @阿波 >>169
壺って…そんな事いう人初めて聞いたわ
破砕鏡は糸島、唐津あたりの文化だね
鏡をわざと割って副葬した事で、ほぼ元鏡に戻せる鏡が多いのが平原
つまり完鏡の物がかなりの数あった、という事
それにバラまいてはないよ
副葬位置も意味がある様に見える
茶臼山は破片をを集めてバラまいてる。
平原の破砕鏡とは別物
鏡の材料かもしれん
だから元の鏡に戻せる鏡は無いんだよね
だから破片一つでも鏡の枚数に入るから多くなるのだよ
年代も平原より50〜100年新しいのでは?
比べる意味が無い
それと、銅鏡は中国産かどうかで鏡の価値の違いは見当たらないよ
というか区別できないと思うよ
現代でも成分を調べてもはっきりしないのだから
どちらかというと鏡の種類が関係がある
やはりその扱いは三角は一段落ちる >>183
平原遺跡も、超大型内行花文鏡の1枚は破片一つが別の個体由来であることがわかって1枚カウントが増えたので、破片一つだったはず。
残りの破片は関係者が形見分けしたんだろうね。
つまり筑紫の破鏡も畿内の破鏡もまったく同じ文化だよ。
しかし年代的に筑紫の方が早いから、筑紫の文化が畿内の葬送形式の基礎となっている。
しかもどちらも内行花文鏡を至高としている。
レガリアを共有しているので、畿内王権が筑紫の王権の末裔または分家であることは、考古学的にも明白だよ。 >>184
銅鏡ごときが頼りとはw もう諦めたら? @阿波 >>181
末慮国の範囲なんて魏志倭人伝では分からない
現在の地名からすると唐津市付近だけに限定するのはおかしいだろ
魏志倭人伝によると南東方向に伊都国があるから
魏使の上陸地点は呼子付近であると推測され
そこから500里ですから糸島市の中央付近が末慮国と伊都国の境で
伊都国は怡土平野だけの範囲で100里(約8q)で通り抜けて奴国(福岡市)へ行けたんだ。 魏使の上陸地点は中原遺跡のあるところと考えられているよ。
中原遺跡から東南に行ったら佐賀の方だろ?
糸島半島じゃない。 上陸地点は伊都国から逆に推定すればいいのではないかな。
その伊都国からの正確な位置がわからないことにはどうしようもないが。 >>187
魏使の上陸地点が中原遺跡である根拠は?
何か証拠でもあるの? >>188
>上陸地点は伊都国から逆に推定すればいいのではないかな。
伊都国が、三雲遺跡群周辺であることは動かない
そこから北西に五百里行ったら、海の中だな
つまり、魏志倭人伝の旅程はあてにならないんだよ
これが、畿内説の主張
九州説のように「魏志倭人伝が正しいと決め付けて」読むのがおかしい
どうやっても現実に合わない、末慮国からの東南陸行五百里を
正しいと強弁するために
上陸地点を、末慮国とは思えない場所(名護屋浦)に持っていったり
末慮国と伊都国の国境を、糸島平野内まで持ってきたり
している
素直に、魏志倭人伝は
「遠国の伝聞だからそこまで正確ではない」し、当然に
「史料としての限界がある」ことを認めた上で、検討をすれば済むことなのに
正しいと決め付けた上で、現実の方を捻じ曲げようとするから、トンデモにしかならない >>190
>伊都国が、三雲遺跡群周辺であることは動かない
いや、伊都国は直方辺りですよ。 @阿波 >>190
>上陸地点を、末慮国とは思えない場所(名護屋浦)に持っていったり
名護屋浦は末慮国でしょう
壱岐対馬でも方可○○里と北端から南端へ移動してますから
末慮国でも末慮国の北端に上陸したんですよ。 >>186
>魏志倭人伝によると南東方向に伊都国があるから
>魏使の上陸地点は呼子付近であると推測され
この時点でインチキ
呼子付近にしたところで、伊都国は東であって東南にはならない >>192
>壱岐対馬でも方可○○里と北端から南端へ移動してますから
この時点で根拠がないんだから、どうしようもないな >>193
呼子付近に上陸すれば移動方向がほぼ南方向と東方向だから東南なの。
>>194
行程文の中に島の外寸を記す必要はないから方可○○里も移動距離。 >>194
>末慮国でも末慮国の北端に上陸したんですよ。
今でも、道路の標識の「○○まで何キロ」という表示は、その境界までじゃなくて
中心までだよな?
http://jidoushaguide.com/wp/2017/07/06/road-sign-100-km-to-tokyo-knack-driving/
これが、地理・旅程を示すときの基本
それに、末慮国の北端に上陸しても、そこには何もないけど、そこから国の中心までは
どうやって移動するの?
船で来ているんだから、船で唐津まで行く方が楽でしょ?
壱岐の例でいうと、壱岐の北端に着いた後、南まで陸行で移動したら、船を新しく
調達することになるよ?
まあ、対馬海峡を渡るところは全部千余里に丸めてあるから、細かいことを言っても
しょうがないけど、島巡り仮説とか言い出す連中がいるから、それは行程距離には
入れないのが普通だろう、とは書いておく >>196
>壱岐の例でいうと、壱岐の北端に着いた後、南まで陸行で移動したら、船を新しく
調達することになるよ?
壱岐の例海上移動ですから船はそのままですよ。 >>196
>壱岐の例でいうと、壱岐の北端に着いた後、南まで陸行で移動したら、船を新しく
調達することになるよ?
壱岐の例だと海上移動ですから船はそのままですよ。
>それに、末慮国の北端に上陸しても、そこには何もないけど、そこから国の中心まではどうやって移動するの?
船で来ているんだから、船で唐津まで行く方が楽でしょ?
唐津に大型の外洋船が入港出来る港が整備されてなかったから、徒歩で末慮国の北端から伊都国まで移動。 魏志倭人伝の記述で陸上移動は末慮国に上陸後だけ
他に陸上移動の記述は一切無いので海上移動
帯方郡内の陸上移動も無いし壱岐対馬の陸上移動も無い
古田説みたいな朝鮮半島内を陸行なんてのも一切書かれて無い
スタート地点が帯方郡の端であり、その後も行程文は全て国邑の端から端への記述となっています。 >>199
>他に陸上移動の記述は一切無いので海上移動
海上移動のときは、水行。 その他は陸行。 九州内はすべて陸行。 @阿波 今度はまた倭人伝無視か
伊都説はどこまでメチャクチャするんだろうね 帯方郡郡治から海岸までの陸上移動の記載が無く、スタート地点は帯方郡の海岸から
狗邪韓国でも陸上の記載は無く、壱岐対馬も全て海上移動であり陸上の壱岐や対馬の中心とかは寄っても通っていない
道路の標識みたいに中心点から中心点移動の記述の仕方とは違いますね。 >>203
45度もはズレてない20〜30度くらいかな
45度も違ったら気付くよ
普通に生活してたら気が付かないくらいのズレ。 >>202
あんた、そりゃ中心地が港湾都市なだけだよ >>206
>あんた、そりゃ中心地が港湾都市なだけだよ
原の辻遺跡は、結構内陸なんだが、船着場とされる遺構があるんだよな
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16425
まあ、川港なんだろうけれど、この辺の遺構と九州説の人の
「外洋船は遠浅の海には云々」との整合性をどう考えているのかは聞いてみたい
対馬・壱岐に「上陸して補給」なしで、対馬海峡が渡れるものでもないだろう
それと、投馬国を半島南岸に設定するタイプの伊都国説の人がいるけれど、
千里×3に十日かけるというのは、どういう計算なのか聞きたい 外洋船といっても大きさはたかが知れている。
乗り換えなどしなかったろう。
頑張って1日で千里を乗り切ったのだろうね。
夜は港に停泊して、首長の接待だろ。
名前が記載されているのは、紹介されてもてなしを受けたからだ。
投馬国は宮崎県だと思うから、知らない。 >>207
古代の港は河口の潟港か河川を遡った船着き場の二択
特に干満差の大きい地域は後者一択になる
岩礁の多い地域では島陰などで潮待ちをすることはあっても港にはしない >>209
>古代の港は河口の潟港か河川を遡った船着き場の二択
これが正しい見解だよな
末慮国比定地の唐津平野の松浦川河口付近には、潟湖があったから、
そこを港にして上陸していたと考えるのが普通 >>208
>頑張って1日で千里を乗り切ったのだろうね。
これが正しい見解だよな
帯方郡から半島南部の投馬国まで20日、そこから対馬海峡を渡るのに十日とか
言ってる投馬国半島南岸説はありえない
一方で、投馬国宮崎都万説も、南水行だけでは、帯方東南にならないので、
やはり矛盾する
また、南至投馬國水行二十日(官名略)可五萬餘戸と、投馬国も戸数道里が
略載されており、自女王國以北、其戸數道里可得略載に入るので、
邪馬台国が九州北部なら、それより南方の宮崎に投馬国を求めるのは矛盾する ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています