平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)2
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『説文解字(後漢)』にて咫=八寸
漢尺=十寸=約23センチ 寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528537360 >>11
仿製鏡であるという根拠が、
超大型内行花文鏡を代表とする仿製鏡と組成が似ているから、
ということだろ?
じゃあ、
超大型内行花文鏡を代表とする仿製鏡
とやらが、
九州説者の一部が言っているように、
中国からの青銅器を溶かして作ったものであるなら、
そもそも仿製鏡であるかどうかを、
鉛同位体比では判定不可能、ということになる。
鉛同位体比で判定するなら、
銅鐸はどうなんだという話とも繋がる。 3世紀以前に日本で青銅原料が採掘されていた証拠がないのだから、
原料の全ては舶載
なのになんで
原料をもって舶載か仿製か議論できるのか? >>14
一緒に作成された可能性はわかるかもね
平原は全部同じじゃなかったよ
詳しい事は忘れたけど
個人的には楽浪産の可能性もあるかも、と思う
>>9
私もそれは疑問に思ってたよ
ちょっと曖昧だよね
実際の中国出土鏡の写真とか、統計とか無いし、柳田さんの主観でしかないから
中国では引き出しに入れられたままの鏡も沢山あるらしいし(by柳田)
日本の研究者も限られた鏡しか実見できてないのでは?と思った 平原の方格規矩鏡が国産ってのは
本当に確定なのか?
畿〇説の大御所先生が言ったから
というのじゃなくて
その根拠を説明できる人いるかい?
>この遅さなら聞ける >>16
原料では舶載か仿製かはわからないでしょ?
いつ作られたか(いつの時代の舶載青銅器を溶かして作られたか)の判断はできるかもしれません。
形式についても、
董卓によって破壊された洛陽にて
銅鏡製作が再開されたばかりのものは
漢代の銅鏡を見ながらの習作が多いというのは専門家も周知しているところで、
逆に
形状がつたないからこそ、魏の鏡、とも言えるわけですな。 まあ、実際に最近、平原の方格規矩が中国製であることを示唆する研究成果が発表されてる
ただし、中国製と見なす場合の根拠は、三角縁との製作技術の共通性だから、
平原の方格規矩を中国製と見なすなら、三角縁も中国製と見なすことになる
さらに、製作技術の特徴からは三角縁よりも古く位置付けることにもなる
よって、平原の方格規矩が中国製であったとしても、卑弥呼の鏡にはなり得ない、というオチ ん?
どちらも中国製だったら、
三角縁は4世紀だから
平原のは3世紀になって
まさに卑弥呼の鏡になるよね 三角縁を中国製としたら景初と正始の紀年銘を持つので卑弥呼の鏡として確定 >>21
平原の方格規矩鏡が国産という根拠が知りたい >>22
確定しないじゃん
3世紀遺跡から全然でないんだから。 三角縁が3世紀鏡で伝世とするなら、
北部九州の漢鏡も伝世で、北部九州の全ての年代が繰り上がってしまう。
三角縁が遺跡の実年代とするなら、
4世紀にバイナラwww 卑弥呼の朝貢239
銅鏡百枚
重臣に配る→重臣が無くなる3世紀後半
3世紀のうちには大半が副葬
ごく一部が4世紀以降に >>24
・製作から副葬にタイムラグがあるのは普通のこと
・兵庫県の権現山51号墳で布留0併行の土器と供伴、3世紀に遡るのは確実
・中国製とした場合、4世紀に景初、正始の年号を入れる意味がない >>19
その共通性?がちょっと知識が無くわからないのだが
技術は平原からの流れとは聞いたがね
三角は殆どが4世紀以降の墓からだから、明らかに平原とは時代が違う鏡
平原と三角は同位体比は同じじゃなかったと思うが… 他の鏡と外型を共有してるとの指摘
三角縁が平原の鏡の流れというのはガセ
三角縁が4世紀だというのは30年前までの年代観
固執してるのは某統計学者とその信者 >>27
権現山51号墳は出土した都月型特殊器台埴輪から布留1式新段階ぐらいだよ
4世紀前半の墓だね ・製作から副葬にタイムラグがあるのは普通のこと
はい、北部九州の王墓群の年代が全て更新されましたー
・中国製とした場合、4世紀に景初、正始の年号を入れる意味がない
邪馬台国が勝者となった場合
その立役者の卑弥呼様の華々しい外交記念年の景初、正始の年号を入れるのが
なによりの忠誠心ですねー >>29
まぁ、三角も古いのは3世紀の物もあると思うが、卑弥呼が貰った鏡は3世紀前半の鏡になるから、三角の出土状況ではちょっと厳しいかと思う
紀年鏡は全て4世紀以降の墓からなんだよね
三角は確か大分のが古いと記憶にあるが… >>29
ありがとう
平原の方が古いから、技術的に平原からの流れというのはその事だね >>30
都月型は箸墓でも出土
権現山51号も箸墓も特殊壺の特徴を色濃く残す特殊壺形埴輪を供伴しており、都月型でも古相
箸墓は周濠最下層および外堤内から布留0出土で築造時期確定 >>35
良心を持たない連続句読点には理解できないだろうなw 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>29
>三角縁が4世紀だというのは30年前までの年代観
この30年、エセ学者が詐欺まがいの年代比定を繰り返し、妄想を繰り広げてきたということだ。 >>37
ちょっと調べてみた
文様では箸墓の後発と思われる要素はあるが
、土器編年は布留0みたいだね
三角の同笵関係,京都府の椿井大塚山古墳,岡山県の備前車塚古墳出土鏡との関連で4世紀前半との説もある
鏡の並行関係も考えて、総合的には布留0後半、箸墓の後の3世紀末あたりでは?
そうなると、三角は製作されてすぐに副葬の可能性が高いかな 土器や埴輪は古墳築造時のものなので古墳の年代観に直結する
椿井とかの三角縁は編年上では複数の段階のものが混じって副葬されてるから
古墳の築造は副葬鏡中の最新段階と見なされるが
三角縁の製作開始年代は古墳築造よりも遡ることになる >>49
>三角縁の製作開始年代は古墳築造よりも遡ることになる
年代詐欺 古墳の築造を埴輪等で見るか
副葬品で見るかは古墳ごとに統一されてないだろ?
お互いを独立に評価して矛盾がないという研究成果とか見たことないわ。 じゃ
全部の古墳の築造年代比定の根拠をあげてくれい >>51
まだ矛盾があるのは事実
土器編年の年代については学者により幅があるが、各地の土器の並行関係はかなり研究が進んでいる
が、間違いはあるかもしれない
久住さんも結構つっこまれてたりするしね
年代については〜あたりとしか今は言えない 矛盾つーか、古墳の築造年代観が争点になる場合は大抵が資料不足
良好な埴輪や土器がたくさんあればほぼ確定だけど
数が少ないと出土状況が問題になる
副葬品はある程度の品目が必要
棺や埋葬施設の構造では年代の幅が広くて特定しづらい >>16
>一緒に作成された可能性はわかるかもね
>平原は全部同じじゃなかったよ
>詳しい事は忘れたけど
忘れた、じゃなくて確認しなよ
>>11に示されている新井氏の論文でも、鉛同位体比は確認できるんだから >>57
調べたい人が調べればいいんじゃない?
詳しい事を説明する義務は無いよ
調べて、せれは違うと思うなら意見してほしいとは思うけど まあ、平原1号墓出土鏡の方格規矩鏡が仿製鏡だと判断できる一番簡単な理由は
同笵鏡が多数あるから、だけどね
大陸で出土の銅鏡は、同笵鏡のあるものがほぼないそうだ >>59
ちとそれも怪しくなってきてるが…
中国出土の鏡の研究待ち 倭鏡こそ古墳時代後期にならないと同笵製作しないだろ そうやって皇室所縁の鏡の権威に擦り寄ろうとするのがせこいんだよ 伊勢神宮の物と比べるのがいいのだが見せないんだろ
もし違うものなら伊勢神宮の方が形代だろうな 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 記紀は天孫ニニギが八咫の鏡を携えて筑紫に降臨したと主張しているから、矛盾はない。 しかし、北部九州に八咫鏡があったとする地元の伝承や説話が一切ない
現在、ご神体として八咫鏡を祭る神社も一つもない
記紀の日向三代の物語に、天降り後に八咫鏡は一切出てこない
八世紀に編纂された記紀に八咫鏡が書いてあるからといって、
三世紀の北部九州に八咫鏡が存在したとする理由にはならない ニニギはアマテラスから八咫の鏡を授かって筑紫に降臨した。
記紀の神代の巻のハイライトのひとつ、天孫降臨のシーンである。 >>69
>ニニギはアマテラスから八咫の鏡を授かって筑紫に降臨した。
>記紀の神代の巻のハイライトのひとつ、天孫降臨のシーンである。
その後、崇神天皇のところまで、八咫鏡は一切出てこない
そして、高天原で八咫鏡に先に立って造った鏡とされる日像鏡・日矛鏡が、
九州ではなく和歌山の日前神宮・國懸神宮にあるし、奈良盆地の鏡作神社にも
八咫鏡の試作品とされる鏡が伝世されている
これらから考えると、畿内の地でヤマト王権成立の頃に八咫鏡が鋳造され、
それが伝世し神話化し、後付で記紀に説話が載せられたと考える方が合理的 神武は筑紫から八咫の鏡を持ち出していない。
大和に入った時は天羽羽矢を身柄を明らかにするためにニギハヤヒに提示している。
おそらく崇神や景行の時代に八咫の鏡が畿内に持ち込まれたのだろう。 和歌山の日前宮、國懸宮は伊都郡にあるんだよね。
筑紫の伊都から八咫の鏡を持ってきましたと言わんばかりの地名だよ。
持ってきたから、当然筑紫には今現在はないんだよ。
まあ、辺津宮あたりに1枚くらい残っているかもしれないけど。
記紀も筑紫から大和に王権が移ったとしているわけで、なんの矛盾もないな。
なんの理由もなく、ヤマト王権がその起源を筑紫とする建国譚を作ったと考える方が不合理だよ。
実際に筑紫の伊都から八咫の鏡と呼べる超大型鏡が出土してしまったからね。
キナイコシがそれにきちんとした説明をつけない限り、伊都が倭国の王都であったことは否定できないよ。 >>70
理由もなしに「合理的」って笑えるよな
アホだろ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>78
>伊都のオハバリだぞ?
と書いてある場合は、「いと」ではなく「いつ」と読む
古事記に出てくる伊都国は「伊斗村」であって、「伊都」は全て「いつ」と読ませている あと、記紀の伊都国関係で気になるのが、伊都々比古
垂仁紀の都怒我阿羅斯等来朝記事で、穴門辺りにいて、自分が王だといったのが伊都々比古
まあ、名前をそのまま読めば「伊都」の彦だから、伊都国関係者に見えるけれど、いたのが
北部九州ではなく穴門で本州側になる 門司と下関を分ける意味はないな。
そこは実質的に九州北部だよ。 史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想
咫を円周を測るのに使っている例はない 漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である
咫を円周を測るのに使っている例はない 三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺 で使われているのが23件
尺有咫 で使われているのが 7件
八寸曰咫 で使われているのが 6件
「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる
「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ
要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」 長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」
咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない
これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね
つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない 平原1号墓出土鏡を、円周が八咫だから、八咫の鏡という人がいるが、
咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
咫を長さを表すのに使っている例は、石砮や矢の長さで「尺有咫」という慣用句的な
決まった表現で18寸を表す場合だけで、基本的には「咫尺」で「わずかな長さ」を
比喩的に表す熟語でしか使わない
平原1号墓が卑弥呼の頃であることを想定するならば、その時代に「咫」で
具体的な長さを測ることはない
したがって、平原1号墓出土鏡が円周が八咫であると認識されることもないし
八咫鏡と呼ばれることも、考えられることもない
しかも、破鏡供献されているので、千年以上後になって、発掘され復元されるまで
その間、その周囲の長さが知られることもない
この鏡が八咫鏡の語源となることもない
つまり、どうやっても平原1号墓出土鏡は八咫鏡とは無縁の鏡である 邪馬台国の時代を含む大陸史書の全例検索をしても、
「咫」が長さの単位として使われている例が、事実上ない
「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
実用される長さの単位ではなかったことが分かる
その状態で、「何かを測った」「何を測ってもいい」と主張すること自体が
意味を持たないんだよ 大きい鏡という意味の普通名詞ではない、と考える限り
八咫鏡の「本物」は誰が何と言おうと、伊勢の神宮の御神体の鏡だ
そして、その八咫鏡は見てはいけない鏡なので、実見記録はないがその入れ物については実見記録がある
八咫鏡は遷宮の際に、御桶代に入れた上で御船代に載せて、移動するが
「そのオケの大きさが平原の鏡と一致する」と主張する伊都国説の人がいる
しかし、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に 「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、 蓋口径九寸であると記録されているそうだ
また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、 その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、円の直径は九寸としている。
この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう
どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない
八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな
本物の伊勢の八咫鏡と、平原1号墓出土鏡は大きさが異なることが明らかであり、
その意味で平原遺跡出土の大型内行花文鏡は記紀において八咫鏡と呼ばれる鏡ではない >八咫鏡は一尺六寸三分(49センチほど)と記載がある。
>>90をよく読んで
それ、八咫鏡の大きさじゃなくて、御樋代の大きさだよ
八咫鏡そのものは誰も見てはいけないから、大きさも測った人はいない
この御樋代の大きさから、八咫鏡の大きさを想定している人が多いけれど、
その中にさらに黄金鑵があって、八咫鏡はその中に入っている
黄金鑵の内径が9寸という話
平原出土鏡は入らないでしょ?
『皇太神宮儀式帳』は、遷宮のときに新しく用意する御道具が記載されていて
黄金鑵は遷宮のたびに作ったりしないから、載っていない
原本引用しておくから確認してみて
『皇太神宮儀式帳』
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0016.html
御樋代一具 深一尺四寸 内八寸三分
径2尺 内一尺六寸三分
『延喜式』は電子テキストで参照できる
『延喜式』4(伊勢大神宮)・造備雑物条〔24〕
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/000008.html
樋代一具。正宮料。高二尺一寸。深一尺四寸。内径一尺六寸三分。外径二尺。 そもそもウィキペディアの「八咫鏡」のページの
説文解字の解釈が大間違いだったからな
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、「周を計る尺度」なり)
「周を計る尺度」が誤訳もいいとこ
「周(の時代)の尺である」が正しいのは、説文解字の注釈まで
ちゃんと読めば確認できる
既にこの部分はさすがに修正されてるね
っていうか、5ちゃんねるの議論を経て修正されてるww 説文解字の「咫」は、清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》を載せていて、
それに拠ると以下のとおり
周尺也。
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
按奄字未詳。疑是手之誤字。
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。 周尺也。
周尺である
夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
夏王朝の法は「日」で、太陽の数が10なので、10寸を尺とした
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
殷王朝の法は「十二月」で、1年が十二月なので、12寸を尺とした
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
周王朝は地によりて生じた、地は陰であり、それで婦人を法とした
婦人の奄を広げると8寸になるので、8寸を尺とした
按奄字未詳。疑是手之誤字。
奄の字はよく分からない、手の誤字ではないかと疑う 上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
ここまで述べてきた文で見るように、十寸で尺となる
ここに及び、その字、これより下では、周制(周の制度)では、八寸を尺としたという話だ 別周制之異乎古也。
周代の制度でも古い時代とは異なる別の制度があった 王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步
王制(礼記の一篇)によれば、古くは周尺の八尺を歩としていた
今は、周尺の六尺四寸が歩である 鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
鄭注では、周尺の数(長さ、寸の数)はいまだに詳しいことははっきりしない。
礼制の(記述)から考えて、周(の制度で)も、なお十寸で尺としていたようだ(と鄭注に書いてある) >>88
>咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
円周率の代わりですね。
π/4を0.8で近似していたのです。
それ以外には、0.8に新たな単位を設定する合理的理由が見当たりません。
後世の鯨尺と同じです。 鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。また,その経書。じょうちゅう。
孔子の「礼制」による既成の秩序維持の考え方は周王朝期の礼制に依拠している
後漢の鄭玄は古文経の『周官』を中心として『儀礼』と『小戴礼記』を三礼として総合的に解釈する体系的な礼学を構築した
その書物が「鄭注」で、この部分はその内容の紹介 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
考えてみるに、春秋戦国時代には、変乱法度が多かった。
(周尺も十寸だったとしたが)六国時代(一応は周代)には、あるいは周尺は八寸だったとも言う
歩を以てさらに八をなす ハッパ六十四である 鄭意八寸爲尺。周末始有之。
與許說異。然許亦曰諸侯力政。
鄭注の(鄭玄の、としてもよいが)意味するところは、八寸で尺と為すということだ
周末にこれ(一尺八寸)が始まった
異なる説も当然成り立ちうる
そうではあっても、またいうことには、
諸侯(六国の王)が(王制、礼制ではない)力政を行っている 周末というのは、周朝の威が衰えた六国(春秋戦国)時代のこと
力政についてもう少し解説
史記の秦本紀に、「周室微,諸侯力政,爭相併」とある
周室(周の宮室)微え(おとろえ、衰微し)、諸侯力政、相併せるを爭う
互いに併呑しようと争っていた
この力政に、力政:用武力征伐。という注が付いていて、力政とは、武力を用いて征伐すること、とある 分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。
(周朝が衰え、天下が)(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の)七国を為す
田のうねは畮を異にする(七国の国ごとに異なる)
車の涂(みち)は軌を異にす(七国の国ごとに異なる)
律令も、国ごとに異なる法令を使っていた >>91
記載が無い物をあったと断定するのはどうか?
内宮も度々火事になっているみたいだし、鏡もはじめからそのままの状態かどうか?もわからない
黄金〜の記載はかなり後世の遷宮での記述なので注意 伊勢のヤタの鏡は謎なので、これをどうこう言ってもまぁ、意味がないな 律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する
公定尺は、令で定められることになる
律令の方が国ごとに異なるということは、公定尺の長さも異なることになる 則其說亦未嘗不合也。
則ちその説くところ、また、未だ嘗て合わざらずなり。
結局は周代の尺が10寸と8寸の両方あって説くところが合わないという話になる 左傳。天威不違顏咫尺。
左伝には、「天(子の)威(徳)、(龍)顔を違らざること咫尺」と書いてある
左伝は、左氏春秋伝のこと 左丘明の作と伝えられる「春秋」の注釈書
左氏伝 僖公九年に「天威不違顏咫尺」とあることの引用
天威は、天子の威徳、顔は天子の顔(竜顔)、顔を違らざるは天子の顔近くで恐れ多い様子をいう
天威不違顏咫尺は、「天威咫尺」「天顔咫尺」という四字熟語のもとネタ
この部分は、単に「咫尺」の用例 咫尺並言。不云二尺也。
咫尺を並べて言う。二尺と云わざるなり。
咫尺を並べて言うということは、区別があるということ
だから、二尺とは言わない
この部分全体が、説文解字の「咫」の「周尺也」の注な訳だが
「周尺=咫」ではないことが分かる 國語、列子皆言其長尺有咫。
國語、列子皆、その長さ尺有咫と言う。
「国語」でも、「列子」でも、みんな、その長さ尺有咫という使い方をしている
『国語』は、21巻から成る国別の春秋時代史で、
『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明の編纂といわれている
『列子』は春秋戦国時代の人、列禦寇の著書とされる道家の文献
国語には「石砮其長尺有咫」、列子には「其劍長尺有咫」という表現がある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています