邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part15
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>>159
月刊ムーの清掃員さん、おはようございます >>162
だから、神武はどこへ東征したんだよ。 あの奈良盆地かい? 好きだねぇ、辺境が。 @阿波 関門海峡を好き好んで2度も通過するわけがない。
宇佐も今のところではない。 >>164
月刊ムーの清掃員さん、おはようございます >>165
> 宇佐も今のところではない。
『大分宇佐神宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)』
大分の宇佐神宮の開基は725年。
一方、阿波国 国府町井戸 「八幡神社」 御祭神:誉田別命・仲哀天皇・三女命(いわゆる宗像三神)
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修・・・」 以下略
大分の宇佐神宮の創建より遡ること51年、白鳳二年(674年)にこの阿波国 国府町井戸 「八幡神社」 は阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
よって、大分の宇佐神宮も、『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたものであろう。 @阿波 福岡県立図書館所蔵 筑前国続風土記 著:貝原 益軒
巻之一 提要上
又九國をすべて筑紫と称し、或九州の内筑前筑後の外をも、筑紫といひし事も間これあり。
筑前はいにしへ官府のありし國にて、九州二島をすべてまつりごちし所なれば、其國の名をとりて、
九國をもすべて筑紫といへり。たとへば大和に帝都ありし故、日本をすべてやまとゝ称せしが如し。
筑前、筑後の古風土記が散逸してしまっていたため
江戸時代の福岡藩士貝原 益軒が編纂したもの。
貝原 益軒の事くらい、福岡県民ならある程度判るだろ? 筑紫に帝都ありし故、九州をすべてちくしと称せし
ということね 3世紀の北部九州の遺跡発掘現場を見学に行った関西の考古学者や博物館の学芸員は、
周辺の地層全体が真っ赤に染まるほど大量の鉄の出土量を目の当たりにして内心(負けた…ヤマト王権は邪馬台国じゃないや…)と直感的に思うらしい。
でも関西に帰ると学閥や先輩後輩のしがらみがあって、職場で敵なんか作ったら大変だから、口が裂けてもそのことは言えず、
講演会などで「ヤマトで決まりやな!」という禿げ頭の素人おじいちゃんたちを見て
九州の発掘現場を知ってる人達同志で互いに肩をすくめて苦笑し合うらしいw
逆に九州の考古学者や博物館学芸員が畿内の3世紀遺跡発掘を見学に来ると、あまりの貧弱な出土品(木製品や桃の種、カエルの骨)に爆笑してしまい、
古墳築造の「縁日」と呼んでいるらしいw 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=倭国の都=福岡県=筑紫の日向
投馬国=宮崎県=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=奈良県=倭の別種=ヤマト王権 筑紫の語彙の解釈に、筑前筑後の合さった筑紫国の意味と、九州の意味の二通りがあったという事
筑紫の日向は、筑紫国の日向との解釈と、九州の日向(日向国)の解釈のどちらでも成り立つということ。
天孫降臨から神武東征の日向は、ルートの記述的にも筑紫国の日向ではないことがスッキリする。 >>174
筑紫が筑前と筑後に別れたんであって、合わさったわけではないぞ馬鹿無能 >>175
よく読めば的外れって判るだろ。
筑紫国続風土記を読め 九州島の南の方は良く分からないから筑紫(北部九州)のある島ってことでザックリ筑紫したという解釈もある
外国人や地方の人からしたら千葉県にあるけど東京ディズニーランドで違和感ないみたいな感じ
いちいち浦安は千葉だから東京じゃないとか説明するのも面倒だし むしろ筑前こそが筑紫だったが、筑紫が肥国から一部を掠め取って筑後となり、肥国は肥前と肥後に別れた感じかな。
本来は有明海沿岸が肥国だろう。 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜のだろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「が妥当」と逃げまどう
見たくないものは見えなくなり、見たいものは幻を作ってでも見る習性
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
別名も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
最後には見え透いたウソを吐いてでも精神勝利で現実から目を背ける
そして追い詰められると様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル 記紀の神代の巻は、出雲を例外として、ほとんどが博多湾沿岸の話しかない。
筑紫の日向の小戸が住吉や志賀島がある福岡である以上、筑紫の日向の高千穂宮も福岡だよ。 >>177
すごくよく分かる。
自分は埼玉出身なんだが、英語圏に留学中はSAITAMAじゃ全く通じないからTOKYOって言ってた。
九州出身者はもFUKUOKA出身って言ってたし、関西人は全員OSAKA出身、そして愛知民はTOYOTA出身って言ってた(笑)
例外はNAGASAKI、HIROSHIMA、YOKOSUKA、YOKOHAMAくらい。 だからと言って、筑紫(福岡)と明記してあるものを宮崎にしたらまずいだろ。 オーゥ!トーキョー!フクオーカ!オーサカッ!トヨーター!
オ〜ゥ・・・ ナガサ〜キ〜・・・ ヒルォシィ〜マ・・・ ヨコス〜カ・・・ ヨコハ〜マ〜・・・
なお、オーストラリア人「ニセ〜コ〜ゥ!!!」 >>184
筑紫をはっきりと福岡と書いてある場合はな。
そうでないものは、位置関係なんかで筑紫=福岡なのか、筑紫=九州なのか、どちらの意味で書かれているか注意しないといけない。
筑紫=福岡大前提で、妄想ストーリーを間に挟んで無理やり福岡に繋げるのは大間違い。
前述の神武東征なんかは、行程的に明らかに日向国が起点。 >>186
キナイコシって博多女にふられたとかで福岡を憎んでそうwww 西都原古墳群があるから、いちおうは古墳時代だろう。
まあ、魏志倭人伝の投馬国なんだけどさ。 >>189
そうじゃなくて、あの辺りはもとは薩摩国の一部だった、日向国じゃなかったって事実を指摘してるのでは? 薩摩の国なんてもっと後。
古事記では、九州には筑紫、豊国、肥国、熊襲しかない。 文献だけじゃなく今居る私達の日々の生活にもヒントは隠されている
九州の方言は大きく佐賀・長崎・福岡・熊本・大分と
宮崎と 鹿児島と、に分かれる つまりこの三地域は長く交流が少なかったということだ
簡単だね 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹いて
様々なスレを逃げ回り、あらためて妄想を書きなぐる 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹いて
様々なスレを逃げ回り、あらためて妄想を書きなぐる _人人人人人人人人人人人人人人人_
> チョンコロがいるぞ殺せ!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
倭人
三 ( ´・ω)
三 ー(‐∪─→
三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
三三 | ナウマン象U ・ | 死にたくないニダ!!!
三 と| ι| | 三┏<;`Д´ >┛
三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U 三 ┛ ┓ ´ ヾ
゛ (⌒) ヽ
((、´゛))
|||||
マスター、このスレの奴らにはトンスルは一切やらないで!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ | ∠|
(゜\./,_ ┴./゜ノ(
\ \iii'/ /,!||!ヽ
/V,,ニ..,ニ、、 ノ( \
\ヽY~~/~y} `/~,/ ∧ ∧
| ,k.,.,!,.,.,r| ,! く / `ー一′丶
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{_.:;}.... \ : :::| : :::|::::::|;;;| 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン、海人族スレでは摂津チョンコ
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹き、様々なスレを逃げ回る
そして突如として別キャラでネチネチと書き殴ることも少なくない
しばらくすると記憶喪失を発動させて懲りずに妄想を書きなぐるが、読解力に乏しく、
また思考に一貫性がないのでアルツハイマーの可能性が高い 「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。
言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。 コレで解決↓!
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。皆女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に留まる所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は諸国の一つである)伊都国に役所を常設した。(一大率とは魏の)長官と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國の一つとなる。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であったため、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
結論:
思考を停止させた古田信者や郷土愛に狂う糸クズ、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する諸国の一つであり、女王国にはなりえないのは明白となり、
一大率は伊都国に常設した役所を女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. その無駄なドットと無駄な改行は何なん
内容そのものも無駄だが >>213
注意力ゼロの低知能の考古学不適合者にはなw
見る人が見れば、ダイアモンド級の価値がある材料 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1534419766/799
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
結論:
思考を停止させた古田信者や郷土愛に狂う糸クズ、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。 「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
女王国より北の国々に対しては、一人の大率を特設して検察している。
北の国々は大率を畏れ憚っている。
大率の役所は伊都国に常設してある。
中国本土における刺史のような「検察官の役目」を果たしている。
・里程部分で既に地方官の説明がなされている
・自女王國以北とあるので、女王国よりはもっと北の諸国に焦点がある
・大率の業務についての説明は検察官のものだけ
・三国志では「治+場所」はその場所に役所を構えるという意味が多い
女王国=邪馬台国の首都である伊都に、
邪馬台国政庁(国会議事堂:女王卑弥呼や大臣達)
伊都国都庁(都庁:都知事爾支と部下たち)
大率執務室(検察庁:検察官大率→北方諸国巡回でほとんど伊都にはいないが)
などなどの重要官庁が集中していた。
刺史は本来は領地を持たないただの「検察官」であり、
首都から派遣されて各国を巡回し、年に1回首都に戻って報告していた。
大率の職務も同じ検察官。
中国大陸は広いので、報告するに刺史本人でなく使者を立てるようになり、
本来の地方官と居座った刺史の二重権力を解消するために、結局は刺史や牧が地方官になった。
邪馬台国とその北の諸国であれば、対馬海峡を行き来するだけだから(水行10日)、
大率は伊都国に執務室を構えて、そこから各国へ行き来して検察していただけ。 伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
結論:
岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や郷土愛に狂う糸クズ、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。 「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
>>218
岡上氏の悲しい一日
「治」を誤読して、>常に伊都国を治むる と大々的に多スレ発表
>(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
↓
「治」は支配する、じゃなくて、役所を置く、の意味だと指摘される。
↓
さらに勘違いして、
>(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。
と世紀の珍訳w
↓
「A治B」はAが何でもいいから役所をBに設置した、じゃなくって、
AがA自身が働く庁舎をAの自領であるBに設置した、の意味だぞと指摘される。
↓
癇癪をおこして、多スレにキチスレage連打
岡上氏は考えるのをやめた・・・
粋ってた当初の岡上氏
>伊都国に関する魏志倭人伝の解釈は↓で正解だよ
>反論したけりゃ明確な根拠を示さねばならない
>ほら、九州説がまったく反論できなくなった
>早いわー
これぞ国宝級のなんとやら 伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
結論:
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。 「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
>>220
岡上氏の悲しい一日
「治」を誤読して、>常に伊都国を治むる と大々的に多スレ発表
>(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
↓
「治」は支配する、じゃなくて、役所を置く、の意味だと指摘される。
↓
さらに勘違いして、
>(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。
と世紀の珍訳w
↓
「A治B」はAが何でもいいから役所をBに設置した、じゃなくって、
AがA自身が働く庁舎をAの自領であるBに設置した、の意味だぞと指摘される。
↓
癇癪をおこして、多スレにキチスレage連打
岡上氏は考えるのをやめた・・・
粋ってた当初の岡上氏
>伊都国に関する魏志倭人伝の解釈は↓で正解だよ
>反論したけりゃ明確な根拠を示さねばならない
>ほら、九州説がまったく反論できなくなった
>早いわー
これぞ国宝級のなんとやら 結局九州説のが正しいから文献でも考古学でもまともに議論したら九州説が勝ってしまう。畿内説は議論放棄して見苦しくテンプレ連打するしかない。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
結論:
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。 >>221
おや?ひょっとしてキナイコシにカン違いさせてしまったか?
つか、キナイコシは原文を全然読まずに反応してるだろこれ。
>>227
>☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹はそこで太祖を兗州東郡の太守に任命することを発表し、東武陽県に役所を置かせた
これは意訳だぞ。
袁紹が太祖に任命したという流れだから、使役形でまとめてあるだけだ。
直訳ならば、
>袁紹はそこで太祖を兗州東郡の太守に任命することを発表し、
>(兗州東郡の太守に任じられた)(太祖は)東武陽県に役所を置いた。
となる。
袁紹因表太祖爲東郡太守 治東武陽
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
並べたらよくわかるが、
女王国が一大率を設置して、一大率が女王国中心の伊都国に(一大率の勤める)役所を置く。
袁紹が太祖を任命して、太祖が兗州東郡中心の東武陽県に(太祖の勤める)役所を置く。
帯方郡治などのキナイコシの個人的願望妄想が突然入る余地は無い。
あと、それくらいお前も自分で調べろよだが、治で置く役所は、自分の管轄内の中心地。
だから伊都はほぼほぼ女王国の首都。 ↓直訳に直しておく。
こうやってみると
役所を置く意味で書かれたものは、主語が自分でやっているが、
治めるで書かれたものは、使役系なのだな。
しかも司隸校尉だからこれは統治という意味ではなく、
治安を守らせたとかの意味かもしれんな。
2つしかないからなんとも言えんが。 ☆★☆生データ☆★☆
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名(A)」は24か所。
“Aに役所を置いた”の意味で使われた例 ☆22
"Aを治めた"の意味で使われた例 ★2
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖を兗州東郡の太守に任命すると発表し、太祖は東武陽県に役所を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡の太守に転任させ、臧洪は東武陽県に政庁を置いた
☆郡所治廣武 郡の庁舎が所在する廣武
☆治廣ィ如舊 (閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている。(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 劉焉は綿竹県に役所を移した
☆焉徙治成都 劉焉は成都に役所を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 臣下が先主を荊州の牧に推し立てたので、先主は公安県に役所を置いた
☆治成都 (先主は)成都に役所を移した
☆先主爲漢中王遷治成都 先主は漢中王になると、成都に役所を移した
☆移治味縣 (馬忠は)役所を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の役所は古くから壽春に置かれていた
☆繇乃渡江治曲阿 劉繇は長江を渡って曲阿に役所を定めた
☆權徙治秣陵 孫権は役所を秣陵に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌の都尉(6県)に任命して、太史慈は海昬県に役所を置いた
☆劉備以左將軍領荊州牧治公安 劉備は左将軍となって荊州牧の任務を行い、公安にその役所を置いた。
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 孫策が程普を呉郡の都尉に任命したので、程普は銭唐に役所をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏の太守になって、沙羨に役所を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊の太守にして、呂範は建業に役所を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安の軍事担当となり、樂鄉に役所を置いた
☆假節開府治半州 (孫慮に)政府を開設させて、孫慮は役所を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 呉興郡を新設して、烏程に役所を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉に関中を留守統治させる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた 伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
結論:
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。 ☆★☆生データ☆★☆
三国志に出てくる「治」は433文字。「治+地名」は24か所。
うち22例にて、"設置者(A)+治+地名(B)"は、
「Aが自らの役所を(Aの管轄域の中心地である)Bに設置した」の意味。
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖を兗州東郡の太守にすると発表し、太祖は東武陽県に役所を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡の太守に転任させ、臧洪は東武陽県に政庁を置いた
☆郡所治廣武 郡の庁舎が所在する廣武
☆治廣ィ如舊 (閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 劉焉は綿竹県に役所を移した
☆焉徙治成都 劉焉は成都に役所を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 臣下が先主を荊州の牧に推し立てたので、先主は公安県に役所を置いた
☆治成都 (先主は)成都に役所を置いた
☆先主爲漢中王遷治成都 先主は漢中王になると、成都に役所を移した
☆移治味縣 (馬忠は)役所を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の役所は古くから壽春に置かれていた
☆繇乃渡江治曲阿 劉繇は長江を渡って曲阿に役所を定めた
☆權徙治秣陵 孫権は役所を秣陵に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌(6県)の都尉に任命して、太史慈は海昬県に役所を置いた
☆劉備以左將軍領荊州牧治公安 劉備は左将軍となって荊州牧を拝領し、公安に役所を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 孫策が程普を呉郡の都尉に任命したので、程普は銭唐に役所をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏の太守になって、沙羨に役所を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊の太守にして、呂範は建業に役所を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安の軍事担当となり、樂鄉に役所を置いた
☆假節開府治半州 (孫慮に)政府を開設させて、孫慮は役所を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 呉興郡を新設して、烏程に役所を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉に関中を留守統治させる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた 伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
結論:
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。 伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
結論:
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。 自女王國以北=女王國を含む
伊都説〇
北の諸国(対馬海峡以北の国々
女王国(伊都が首都=一大率あり
vs
南に狗奴国
自女王國以北=女王國を含まない
筑後や朝倉説〇
北の諸国(筑前以北の国々、中心の伊都国に一大率治所
女王国(筑後や朝倉
vs
南に狗奴国(熊本など
キナイコシ×××
北の諸国(伊都を含む諸国、中心の伊都国に一大率治所
女王国(南部九州〜キナイコシ ←東西に長いじゃーん×××
vs
南に狗奴国 ←キナイコシより南に敵ってどこよ××× 自女王國以北=女王國を含む
伊都説〇
北の諸国(対馬海峡以北の国々
女王国(伊都が首都=一大率あり
vs
南に狗奴国
自女王國以北=女王國を含まない
筑後や朝倉説〇
北の諸国(筑前以北の国々、中心の伊都国に一大率治所
女王国(筑後や朝倉
vs
南に狗奴国(熊本など
キナイコシ×××
北の諸国(伊都を含む諸国、中心の伊都国に一大率治所
女王国(南部九州〜キナイコシ ←東西に長いじゃーん×××
vs
南に狗奴国 ←キナイコシより南に敵ってどこよ××× 伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
結論:
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。 ふむ。
伊都説は、刺史は検察官であって、その庁舎が伊都国にある。
そして刺史は伊都国を拠点にして、女王国ならびにその北にある国々を検察して回っている、ということじゃな。
畿内説は、刺史を行政府と捉えて、その官庁が伊都国にあるとしている。
刺史なるものの担当領域は州であり、その下にいくつかの郡、さらにその下にいくつかの県がある。
魏志倭人伝は読んだかの?
帯方郡は郡じゃから、その長は太守じゃぞ。
郡治を治するのは太守。
州治を治するのは州牧。
おぬし恥ずかしいぞい。
刺史はあくまで監察官じゃから、自らの役所を治することはあれど、
州治を治する権限があったかどうか。
大それたことよのう。 あんた、異常に無知だね
州牧と刺史は互換だぞ
刺史が力を持って州牧となり、藩鎮化したので刺史に戻しただけ
倭人伝の時代は刺史に戻ってる 田舎は遅れるし、陳寿がどちらのつもりで書いたのかはわからない。 あんた、異常に無知だね
陳寿の時代の刺史は州牧を改称したもの .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. 伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
結論:
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。 >>242
たしかに〇〇州牧と△△刺史が一緒に出撃したりしとるな .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. >>245
なーるほど!
一大率の最重要拠点(三国志での治で置かれる拠点は本拠)が伊都国
つーことは、一大率が担当する地域は伊都国周囲
つーことは、女王国はその南だから、
筑後平野だったのだな。納得。 九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>249
大率が監督したのは対馬海峡だろうけど、伊都国や奴国の南と言っても様々で、筑後と決めてかかるなよ。
狗奴国(菊池平野を含む)が近すぎて、引きこもり女王にはチト厳しい環境だ。
やはりここは大宰府あたりが適当。 >>250
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) 大宰府は筑前平野と筑後平野のちょうど中間なんだよな >>251
太宰府については自分もいろいろ調べているが、
弥生時代の遺跡に乏しいんだよね。
今のところの印象は、栄えていた北部九州倭国が、朝鮮半島で劣勢になってから内陸に遷都してから開発されたんじゃないかと。 >>254
いや大宰府はあれ以上下を掘れないのよ
太宰府市自体がそれ以上を望んでないのが実に悔しいところ >>255
いや下を掘れないっても、同じ場所で発掘していたら少なくともその場所では掘り下げれるだろうに。 これを無視せざるを得ない九州説。 哀れ! わははははは @阿波
↓
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 >>257
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) >>258
>思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑)
これを無視せざるを得ない九州説。 哀れ! わははははは @阿波
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九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 >>259
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) >>260
逃げ回らずに、答えてみ、ヘタレ君! みっともないよ。 わははははは @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています