邪馬台国畿内説 Part389
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1539600668/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 信onスレもそうなんだけど、
なぜ家の写真の話をしているのか?なんだよ
「ポテオ」イモ類の葉でしょ?
「モアイ」うらしまマリン(『松傾』)
「」「」「」・・・「」 >>456キウス
>@阿波さん
>阿波は狗奴国かも??????
たしかに、狗奴国は倭国(阿波)の南方(みなみがた)、阿南市周辺ですよ。
しかし、同時に邪馬台国も倭国(阿波)の北方(きたがた)、阿波市周辺です。
ちなみに、京都で「其山有丹」を説明できるのかな? そりゃ無理だね。 以上京都終了。 @阿波 「チョパー」というは
『ボーボボ』〜『ワンピース 粉雪』でしょ 失礼 もう今日はお邪魔しません 携帯からカキコムかも知れませんが
@阿波さん
淡路島北部と南部はいかに考えてますか?
私は淡路島は国境/非戦闘地域か中立国と思います 纒向遺跡の外来系土器、東海、山陰系は初期の頃から変わらず多いな。
吉備系は台与の頃にはぐっと減る。
代わりに初期の頃無かった河内系が台与の頃にぐっと増える。
吉備系が減った原因は何なんだろう。
卑弥呼→男王擁立→内乱→台与
この間に何が起きたのだろうか?
男王とは誰なのだろうか?
布留がキーを握っているかもしれない。
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものかな。
石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル
なぜ布留社の【太刀】何だろうか?
太刀は本来誰かに使われるものだからなぁ
ニギハヤヒはどうなってしまったんだろう
切られたカグツチの血が湯津石村に落ちて生まれた神、甕速日、樋速日、建御雷。
ニギハヤヒとどういう関係があるのか?
ニギ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>462キウス
>淡路島北部と南部はいかに考えてますか?
>私は淡路島は国境/非戦闘地域か中立国と思います
地図を見てみなさい。 古代の最先端都市「鳴門」と淡路はすぐ近く。 陸続きのようなもの。
古来より、淡路・讃岐は倭国(阿波)の領分です。 @阿波 平安京の右京は元が湿地であったため住みにくく、早々に廃れた
鴨川は戦後に川底を掘り込むまでは頻繁に氾濫していた 賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬものと(白河上皇)
秀吉の造った御土居の東側は鴨川の氾濫から防ぐ役割を兼ねていた 宇治川が京都盆地に流れ込むところは、京都盆地の中でも最も低いところに位置しており、
琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川は、京都盆地へ流入する平等院付近から、京都盆地の西端にあった木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していた。
これがこの時代の巨椋池である。
平安京と平城京の間に位置しており、古代、中世を通じて、水上交通の中継地として大きな役割を果たした。
また陸上交通は、巨椋池を避けるように盆地の外縁部を通っていた。
巨椋池の北側には多くの島州が形成されていた。現在も残る槇島や向島や中書島などの地名はそれらが巨椋池の水面に浮かぶ島々だったことに由来し、
これらを一望にする景勝地・指月の丘(現在の桃山丘陵南麓)には橘俊綱によって伏見山荘が営まれた。
wiki 巨椋池より引用 >>838
>中国人が、会稽の東だと思い込んだということだ。<
ちょっと違うね。
女王國への説明文に対して「計其道里、當在會稽東治之東」という判断文は、
陳寿の「地の文」だ。 洛中の開拓なんて、何世紀だよ。
寝ぼけているんじゃねえ。 地形図で標高を確認することもできない無能が何か吠えてるなw >>844
>水行三十日と陸行一か月の距離<
ちょっと違うね。
「水行二十日」は、不彌國から側副傍線国の投馬國への所要日数説明。
「水行十日陸行一月」は、郡から目的地の「女王之所都」までの所要日数説明。 >>846
「南→東」などの嘘吐き騙しの根拠が言えずに、大和説が終わったよ。
大和説者は、全員、証拠が出せなくて死んだまま。 >>847
安直に他人に聞く前に漢和辞典を引いて、
それから、しっかりした学者の書いた訳本を何種類か読みなさい。
まかり間違っても、
「南→東」などのような嘘つき騙しである事が決まっている大和説学者や、
文部省推薦型の学者の辞典や訳本は、読んではいけませんよ。 >>860
>魏志倭人伝に書かれた女王國(邪馬壹[臺]國)が大和に合致しないだけで、
何らかの文明があったのは確かだし、日本になった可能性も高い。<
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であった。 >>864の訂正
「南→東」などの嘘つき騙しで負けた、
敗残大和説のイヤガラセが汚いな 。 >>879
「南→東」まどの嘘吐き騙しの大和説を唱える学者の説は、
唱えた時点で全て・・・・でありオカルト。
学者崩れのおっさんの希望でしかない。 >>885
>『周髀算経』の中で、300歩=1里、6尺=1歩が記されているから、1里=1800尺は、変更がない <
周髀算経の、
「立二十八宿,以周天曆度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。・・・」
は、「平地徑二十一步,周六十三步」の「歩」系の寸法記載を、
わざわざ距離が少し小さい「尺寸分」系表記に書き変える、
という奇妙な記載をしており、
前漢始めに「周髀算経の収集」をした筆者が、
「始皇帝の1歩=6尺」に従っての「自己解釈に拠る書き足し」をした可能性が高い。
>そして、『周髀算経』の里が短里だというなら、尺も短尺でなければならなくなるし、
寸も当然短寸になる
で、1寸千里の一寸の長さは何センチなんだ? 谷本氏は「通常の寸」で計算してるよな?ww
まあ、八尺棒の方も短くなるから、比例定数的には変わらないけれど、
短寸の一寸は4ミリくらいだぞww <
ならない。尺寸分系の寸法は、殆ど変わっていない。
>そんな小さな差が正確に測れるっていう主張もおかしいんだよなww <
お前の頭と顔貌がおかしいんだよなあ。
>そもそも『周髀算経』の蓋天説が間違っているんだから、それを立論の根拠にしても結局最初から間違っているってことにしかならない<
蓋天説は、周地付近での大地平面の近似が効く範囲での推論であり、
近似モデルとしては、別に問題はない。 >>886
>九州説は邪馬台国の大きさを間違えている<
邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙しの文言。
>九州が辺境レベルの巨大国家だから 実際今も昔も辺境だけど<
唐会要は倭国伝と日本国伝とを、違う国だとして、伝をはっきり書き分けており、
倭国伝には「正北抵新羅」としているから、倭国は北部九州にあった、という事になり、
新唐書日本伝で、大和は、神武が移った地、として倭国と区別されている。 >>887
>奴国の位置までは確定したけど <
日向峠の西麓〜早良平野の国。
>九州にはそこより大きな国が無いから仕方無いよね<
邪馬壹國は、福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地。 >>889
>>大和の前方後円墳は、3世紀末以後<
>そんなこと田舎爺さんが理由も言わずに断定したって
日本の教科書は書き換わらないよ<
大和の前方後円墳は、卑弥呼の墓の「冢」ではないから、
卑弥呼の頃よりもずっと後であり、
大和の石塚の庄内も、筑紫からの伝来であり、筑紫よりも50年位の遅れるから。
という事は、
教科書会社や執筆大和説学者らが、「南→東」などの嘘吐き騙しであったのであり、
文部省や右翼マスコミや右翼大和説学者らに忖度して、
子供らを「戦前の万世一系皇国史観の戦争国家」に参加させるような騙しをしていた、
という事になる。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>345
これは、難升米らが卑弥呼の使節として魏に朝貢し、その返礼として魏が送った使節団。
邪馬台国が狗奴国と戦争になり、その時、帯方郡が邪馬台国へ送った張政らの使節団とは別。 >>443
纏向に連合政権がつくられたそもそもの動機は、鉄剣の入手。
農耕具などの鉄器の入手は、当初は主な動機ではなかった >>474
倭人伝の行程は、途切れることのない一文。
唐津から有明海を南下し、薩摩半島に沿って進んで、開聞岳付近から屋久島へ渡り、そこから上陸して一ヶ月陸行ののちに卑弥呼の都に着く。
放射状の行程の記述になってない。 >>490
この張氏の(到)字の解釈は、辞典の解釈と異なる。
至は、(真っ直ぐな矢が一線に届くさま)を表している。
到は、(反った刀のような湾曲の曲折をへて届くさま)を表している。
−学研大漢和字典(藤堂明保編)
起点になる、ならない、との解釈はみられない。
到字を含む熟語においても、そのような解釈はみられない。 読み分ける必要性無いけどな
自説の結論に導くための見苦しい操作でしょ
聖書の暗号を解いたと言ってる人と同じ >>463
減っているのは、吉備だけでなく、西部瀬戸内もへっていて、最終的には西部瀬戸内はまったくゼロになる。
一方では、河内、播磨、関東が現れて、東海、北陸山陰なども継続的に増加する。
纏向連合の中で、吉備と西部瀬戸内の勢力がはじかれてしまう格好だ。
纏向連合の勢力関係が河内、播磨以東の勢力が主導権をもつようになったのではないか。
これ以降、纏向に対して、吉備が意固地になっているような節がみられる。 新語 「纏向連合」
邪馬台国と関係無いからどうでもいいけど A「先生 纏向が王都ともう嘘はつき通せません」
先生「将来が無くなるぞ」 >>493
それ、各地の「忌部はん」の列挙ですか?
「外来系土器」といっても、各地の「忌部はん」が持ち寄った「東阿波型土器」様式だよ。 @阿波 >>493
森浩一さんや上田正昭さんたちが復権を言ってた先代旧事本紀を無視してる馬鹿には何も分からない。
まったく滑稽だ。w
纏向に王権が来るのは4世紀初頭〜前半の崇神以降、それ以前は王権などない。
崇神は物部の母から産まれた物部系天皇。
纏向は物部の遺跡、だから瀬戸内や東海など物部ゆかりの土地の遺物が出る。 京都の五塚原古墳と大阪交野の雷塚古墳は箸墓と強い関連性がある。
先代旧事本紀を無視してる馬鹿には何も分からないだろ。
これが箸墓古墳被葬者とその両古墳の相関関係だ。
長溝(山城県主の祖・五塚原古墳)
┃
イカガノシコオ(箸墓)━━ 真木姫
┃
タベノ宿祢(交野連・雷塚古墳) >>497
>崇神は物部の母から産まれた物部系天皇。
その「物部の母」を唯一、往古よりお祀りしているのが、倭国(阿波)の「忌部の里」。 @阿波 >>491
>至は、(真っ直ぐな矢が一線に届くさま)を表している。
>到は、(反った刀のような湾曲の曲折をへて届くさま)を表している。
なるほどがってん。
唐津・末盧国から、佐賀川上の伊都国まで500里の道は、反った刀にそっくり。
この伊都国から、佐賀神崎の不彌国まで100里は真っ直線だ。 >>500
>その「物部の母」を唯一、往古よりお祀りしているのが、倭国(阿波)の「忌部の里」。
往古よりお祀りしろと命令されたからお祀りしてきたのだろうwww >>503
>往古よりお祀りしろと命令されたからお祀りしてきたのだろうwww
そうだね、物部の祖地だからね。 @阿波 >>481
>「始皇帝の1歩=6尺」に従っての「自己解釈に拠る書き足し」をした可能性が高い。
史料はそのまま読まなきゃいけないんじゃなかったのか?
ザラコクの言い分の方が、自己解釈による勝手解釈だろ?
「南≠東」ばかり書いてるくせにダブスタがスゴいww
畿内説はきちんと魏志倭人伝の構成(国々が順に北から南に配列されている)や
陳寿の認識、日本列島の現実の配置から、南至 水行と書かれた理由を説明しているが
ザラコクは自説に都合が悪いからという理由だけで、なんの理由もなく
勝手に「そうだった可能性がある」と逃げるww >>504
> 物部の祖地だからね。
それ賛成。
国生み神話で言えば淡路が最初、
そしてイザナギ・イザナミが契りを結んだのはオノコロ島こと沼島。
前方後円墳と言えば上空から見た鍵穴の様な形ばかり議論されるけど、
古代人は上空から見れないので、人間目線・水平目線から見た形の方が重要。
あれはオノコロ島こと沼島を模したものだろう。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1a/Nushima_1.jpg/300px-Nushima_1.jpg
その聖地・淡路島や沼島の南北にある播磨や阿波讃岐から前方後円墳の祖型が見つかる。
神話と考古学が一致してるのだ。 >>484
>大和の石塚の庄内も、筑紫からの伝来であり、筑紫よりも50年位の遅れるから。
これ1970年代の年代観なんだよな
その後、列島内の人の交流の活発さや、九州における土器出土の共伴関係から、
土器の変遷は各地でほぼ時間差なく進むことが常識となっている
九州説ってのは、1970年代、つまり4,50年前からまるで進歩がなく
思考停止してるんだよな
話がかみ合うわけがない >>507
>その後、列島内の人の交流の活発さや、九州における土器出土の共伴関係から、
>土器の変遷は各地でほぼ時間差なく進むことが常識となっている
九州が交流のハブだということだよ。
畿内の、それも尾張としか直接交流していなかった纒向は少なくとも辺境の地だね。 >>508
尾張としか直接交流していなかった
って証拠は? >>890
大和って、未だに珍走やDQNがイキってる田舎だしwww。 >>892
>>南を東と読み替えてはいけないということだ。 畿内説は誤り。<
>読み替えないとテンプレに明記されてるので問題なし<
最も「大和を直接的に否定する」証拠である「南]を「読み替えない」として、
他の「大和に都合の良いインチキ解釈をした」間接的情報によって、
スレ主は「南→東」の嘘つき騙しをしているんだから、
スレ主は「・・・・詐欺師」であり、インチキ。 後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
自凝島は字の如く、自ずと固まってできた島、淀川河口の洲のこと >>893
>>ダメだ。 劉徽の「九章算術注」の「九章算術」自体が、
秦漢朝の長里で書かれた書であるから、魏朝の度量衡の根拠になっていない。<
>本文と無関係だから批判は的外れだ。
劉徽注には「當今大司農斛、正深一尺。」もある。
當今大司農斛=魏の銅斛も同時に測定されているのさ。
當今大司農斛:深一尺
王莽銅斛:深九寸五分五氂=23.1cm<
ダメだ。
魏徽は、始めから「魏朝の周髀算経の度量衡」を無視して、
「秦漢朝の長里で書かれた九章算術」の「イイとこ取りの説明」をしている。
丁度「南→東」などの嘘つき騙しをした大和説と同じ。
これが資料実態。 >>895
>>ダメだ。 劉徽の「九章算術注」の「九章算術」自体が、
秦漢朝の長里で書かれた書であるから、魏朝の度量衡の根拠になっていない。<
>魏代になっても秦漢以来の1里=1800尺は変わっていないって証拠ですけど?<
魏代になっても、魏朝の文帝らの指示に従わず、
秦漢朝の度量衡を踏襲した学者がいた、
という事の証拠だ。 >>907
「南≠東」などの痛烈なパンチを食らった大和説が、錯乱状態です。 >>907
「南≠東」などの痛烈なパンチを食らった大和説が、錯乱状態です。 新スレ立てました。
高天原にある卑弥呼の墓
https://lavender.5ch.net/history/?v=pc#2
>>1よ、卑弥呼墓=箸墓などという、
もう誰も支持しない説に拘泥するのはお前の勝手だが、
沈む泥船に載ってる様なもんだぞ。w
寺澤さんも降りたようではないか。 三角縁自体は魏で流行ってたんでしょ
神獣鏡ではないだけで
どこでチャンポンされたのだろ >>517
トンデモ説の人はどうして
平気でウソをつくんだろうね
簡単にバレて自分が損をするのに >>912
>>前方後円墳は、卑弥呼の「冢」の後。<
>つまり箸墓以降が定型化前方後円墳だな 問題ない<
石塚も箸墓も「撥型」前方後円墳であり、同じ形の前方後円墳。
久住編年によって、いずれも、那珂八幡の模倣発展型。 >>522
>久住編年によって、いずれも、那珂八幡の模倣発展型。
久住編年で石塚は那珂八幡の模倣発展型となってない、平気で嘘を言うな。
おい加古川のズラ、いい加減にしろ。 「纒向石塚古墳」朱塗の鶏形木製品の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 @阿波
「纒向石塚古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw @阿波 >>512
>自凝島は字の如く、自ずと固まってできた島、淀川河口の洲のこと
淀川河口というか、河内湖の中の島ってのはあるかもしれない >>918
>>(周代の歩は)甲骨文字時代とは、違う文字になっていた事になる。<
>違う文字だったらもう読めないし意味をなさない<
人類の「人間の大きさレベル以下の長さの単位」は、
成人の身体の一部分の「平均的な寸法」を単位にした、という可能性は非常に高い。 >>921
「会稽東冶の東」の件でも、
陳寿が短里を使って位置推定をした事は明らかになったし、
「南→東」などの嘘つき騙しもダメ 。
大和説、もうお手上げでしょ?。 >>922
大和が独立国として九州倭国と対峙する力を持っていないことは、
古墳や遺跡みればわかる。
そして大和は、日本の、出雲縄文〜九州倭国の弥生の間でほぼ空気。
経済政治の中心地にはなれない土地ってこった。 >>924
陳寿は短里を知っており、それを使って、魏使らの記録から、女王國の位置推定が出来た。
だからこそ、魏使らの短里の資料をそのまま信じて、
(沖縄や赤道付近を指定することなく)、
「会稽東治の東」だろうという位置推定が出来た。 >>928
>筆者は道里を計算して考えて、倭人の国を「会稽東冶の東」だと思ってる<
ウソを付くな、・・・・大和説詐欺師。
筆者の陳寿は「会稽東治之東」と書いており、「東冶」とは書いていない。
「東冶」と書いたのは、
「自己解釈に拠る書き換えの非常に多い」後代史書の范曄の後漢書であり、
半分×書だ。
>ということは、筆者は自分が書いた道順どおり12000里進んで、もう長江より南まで行ってると思ってる<
行っていない。
>ということは筆者は短里なんかで書いたつもりはなく、<
短里だと理解しなくては、「会稽東治之東」にはならない。
>書かれた方位も間違ってることが確定してる。<
方位も「南」を「南だ」と読んだから、陳寿は、
女王國は九州島付近だ、と推定出来た。 存在もしない物を知っていたはずなかろう
倭まで万2千里という伝承は知っていたにしても >>929
宮廷の公式記録を見れる立場の陳寿が知っていたんじゃあ、
魏晋朝の短里は存在した、
ってことだな。 >>930
「南→東」などの嘘つき騙しがばれた大和説は、
荒らして誤魔化すしかないわけだ ww。 >>931
公孫氏時代の単位だって、魏志の記録が単位なんだから、
「長里」言い訳もありえないな。
魏の天下で、旧政権の、漢朝の単位を使って報告なんか書くわけないもんな。
そんなことしたら反逆者だから。 >>933
魏や郡の役人たちにとっては、明らかにある程度既知であった半島や海峡の里を、
6倍位も間違えた、という論は正常ではないし、普通ではない。
「南→東」などの嘘つき騙しのトンデモ大和説名物の、「1例帰納」というやつだ。 >>934
陳寿は実際の距離なんか知らない。
千里と書かれた記録を魏志にまとめただけ。
で、実際の地理と比較して見るとかなり短い里だったんだよ。
でも陳寿は長い里だと思っていたから、倭は帯方郡からずっと南の会稽の東にある国だと思ってしまった。
なぜ短里のようなものが使われていたかは想像するしかないのだが、そのような里で魏志東夷伝が書かれていることは事実なんだよ。 >>527
>成人の身体の一部分の「平均的な寸法」を単位にした、という可能性は非常に高い。
だから成人の身体を使って歩いたときの平均的な複歩の長さが「步」という単位になってるんだよ >>528
>陳寿が短里を使って位置推定をした事は明らかになったし、
嘘つきww
短里を使ったら萬二千里って九州北部までしか来ないんだろ?
会稽東治の東に全然届かないじゃないかwwwww >>934(また途中で投稿ボタンを押してしまった事になったようだから書き直し)
陳寿は、当然実際の距離なんか知らない。
魏使らの「千里」などと書かれた記録を魏志にまとめただけ。
で、陳寿も、実際の大体の地理と比較して見ると、
(漢里の長里ではなく)かなり短い里だったんだよ。
そして陳寿のも短里だと思っていたから、
倭は帯方郡からずっと南の会稽東治の東にある国だと位置推定が出来た。
なぜ短里のようなものが使われていたかは
そのような里で魏志東夷伝が書かれているこが事実がだったから、なんだよ。 >>491
>>492
>>502
「”到”と”至”とは、漢字の三大要素である形(字の形態)、音(字の発音)、義(字の意味)が全て違う字である。
しかし、日本語で読むと、両字とも”イタル”と読むので、全く同じ字と誤解されている。
まず、両字を英訳すれば、その違いがよく分かるが、
”到”はreachまたはarrive to、”至”はtillまたはuntilというように違っている。
日本の漢和辞典は、これらの両字をどう扱っているのかは知らないが、中国の辞典(例えば、台湾中華書局印行の『辞海』)は、明らかに二つを違う字としている。
『辞海』によって、”到”と”至”の意味を調べて見よう。
”至”は至部の字であり、その意味は、第一に”極”、第二に”到”、第三に”大”、第四に”善”...というようになり、『魏志倭人伝』では、素直に第一の意味を取っており、”.....まで”として理解したらいい。
”到”は刀部の字であり、その意味は、第一に”至”、第二に”周”、第三に”倒”、第四に”弔”...というようになり、『魏志倭人伝』では、素直に第一の意味を取っており、”.....にいたる”として理解したらいい。
(中略)
”到”は現代音では”タウ”、中古音では”トウ”でいずれも陽音
”至”は現代音では”ツウ”、中古音では”チイ”でいずれも陰音
というようになり、もともと違う意味を持つ両字である。
(中略)
『三国志』を見ると、いたるところにこの使い分けが見かけられる。」
「誤読だらけの邪馬台国」p23-27
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/ >>935
会稽の東という表現からは、魏の中央にいた人間も知も知っていて、
名前だけ同じで中身が「長里とは違う単位」があったことがわかるんだよ。 >>936
「6倍位も違う里距離」ってそういうの、常識の世界では、
「裏付けている」とは言わなくね?。 九州の現実
鏡:5〜6期の古い鏡を打ち割って細々と配り4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡まで完形鏡が出てこない
絹:麻布よりも粗悪な糸くずが一つ出るだけで、中期の13遺跡出土から激減しており絹製品の衰退の証拠となっている
祭祀遺跡:柱を一本立てただけの穴が一つ見つかるだけしかない
墳墓:近畿、東国を中心に広まる数百はある凡庸な方形周溝墓か、近畿、山陰でもっと古く大型の物が盛行する方形台状墓一つしかない
宮殿:影も形もない
丹山:この当時はまだ採掘されてない(九州の水銀朱の出どころも中国大陸と近畿、四国で九州産はない) そろそろザラコクの言い分が常人には理解できない域になってきたな >>961
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説の素人爺さんがの、
アホな無根拠断定を連投しとるな。
大和説の恥さらし、とさぞ笑われてることだろう。 >>965
大和説唯一の拠り所「南→東」が死んだし… >>983
もはや「南→東」などの嘘つき騙しの妄言を吐くだけの、
キチガイ大和説のスレ主ら。 >>985
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説なんて、
なんの根拠もないw。 ハチのムサシは死んだ。
畿内説もしんだ、大和説もしんだ、、、 >>984
>別に箸墓じゃなくても全長で径百歩に相当する古墳なんて
畿内にいくらでもあるけれど<
畿内なんて、存在もしない嘘つき騙しのインチキ文言。
>まあ卑弥呼の墓の特定はそんなに邪馬台国の決定的要素にはならない<
邪馬台国も、存在もしない嘘つき騙しのインチキ文言。
>魏志倭人伝の記述が正確とも限らないし<
99.5%以上の正確さ。
大和の確率は、0.5%以下。
>邪馬台国と関係ない場所に作られたされたというのもあるかも知れない<
「正北抵新羅」の北部九州の九州倭国のインチキ筑紫になら、存在する。 >>986
>>「歩」という長さの単位文言は、当然「一回の歩」の長さが単位。<
>現代日本語で考えてどうする<
歩の字形の発生時期での論里が根拠。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています