【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弍
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九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県八代、球磨郡、人吉、長崎県佐世保、島原、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!
*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁 魏志倭人伝を正しく読めば
阿久根になるんだから、仕方ない 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 不彌国・吉野ヶ里の南にあったという、戸数七万戸の邪馬台国であるが・・、
6.その戸数からして、南は熊本平野の南端の山都町・甲佐町まで、西は天草諸島まで、東は阿蘇・高千穂・五ヶ瀬町まで、
そして北は、筑後/肥後境の矢部川までの広がりであったと推定される(すぐ南には筑肥山系もあるが、矢部川との間はごく狭い)。
ただし矢部川の下流から河口部にかけての南岸地帯と、東の筑肥山系との間には、最大幅数qほどの陸地がある。
7.ここが多くの論者によって卑弥呼の邪馬台国に比定された、筑後山門(みやま市瀬高町山門邑)である。
しかし此邑は、江戸時代、柳川藩下にあった山門郡のほんの一部にすぎず、三世紀の戸数はせいぜい400〜500戸であったと思われる。
また、東の山腹に残された「卑弥呼の女山神籠石」は、調査の結果、多数の須恵器が出土し、後世のものと判明した。
8.が、この地は交通の要所で、今東西5qの間に県道・国道・高速道・新幹線・JR在来線・私鉄電車の6本が、ひしめき通行している。
古代においては、南の肥後熊本から、北の筑紫・肥前の国々へ出立する正門の役目を果たしていたのではないか。
筑後山門というより、火の国邪馬門(ひのくにやまと)であったと考えれば、より良く納得できる・・。 伊都国のつぎの奴国は長崎、
不彌国は雲仙市
そこから南に水行で、出水だちゃ 狗奴国の記述にクコチヒクがあって、現在菊池の地名があって、それと重なる。
なので、狗奴国は熊本だろう。
一方、唐津から邪馬台国に行く行程の最初に伊都、奴、不彌の国名が挙げられている。
それは、唐津から北東の伊都へ行き、奴国から東に転じて不彌へ行くのが実際の邪馬台国へ行く道順だったからだろう。
そうすると、不彌を筑紫野か小郡あたりとすると、邪馬台国は狗奴国の北にあるのだから、熊本の北部と筑紫野、小郡の間の地域といえば、大牟田、みやま、八女あたりがその地域に当たることになる。
この地域は、山門郷とその周辺だ。
つまり、筑後山門が卑弥呼の宮室があったところだろう。
倭人伝のデータから読み取れるのは、ここしかない。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 倭人伝には、狗奴国と邪馬台国の戦争のことが書かれていて、倭国へ送られた使節団が卑弥呼に檄を飛ばしたりして狗奴国の侵攻に交戦する卑弥呼を支援している。
これは、使節団の行ったことが本国に報告され、その報告に基づく記録が残っていたことを意味している。
そうすると、狗奴国と直接干戈を交えることができる地理的位置に邪馬台国がなければならない、ということになる。
また、そのような地理的位置に狗奴国と目される勢力が想定できない場所は、邪馬台国の地理的位置としては設定できないということになる。
邪馬台国が大和であるとする説が排除されるのは、狗奴国が大和の南に設定できないからである。
吉野熊野には、倭人伝が記述するような狗奴国らしき勢力はみられない。
倭人伝の記述からすると、そういうことになる。 >>292
ヤマトに惑わされない方が良いよ
畿内王権は「ヤマト=邪馬台」と強く思わせるように仕向けて来たからこそ「ヤマト」の名が残った可能性がある
地名の発音は時代を経て変わるのが普通 九州には、山門と書く地名が普通にある。
邪馬臺が地名由来だとすれば、九州が最有力。
奈良盆地には、ヤマトという地名が現存しない。
ヤマトは、奈良盆地由来の言葉ではないだろう。 >>300
>九州には、山門と書く地名が普通にある。
倭国(阿波)には、「倭」と書く神社が普通にある。 @阿波 >>300
>九州には、山門と書く地名が普通にある。
お寺の山門? なんというお寺? @阿波 >>304
>>304
サンモンではないだろう。
サンモンが中国から来るのは、少なくとも天武以降だ。 >>300
ここは九州説を前提に
場所を議論するスレ 倭人伝には、女王国(倭国)から東へ千余里海を渡ったところに、また倭種の国々があるとの記述がある。
この千里を当たり前の魏晋1里=434mで換算し、北部九州の行橋市あたりから瀬戸内海を東へ舟で行くと難波に着いて、それから天理市付近に至る。
一方、女王国を大和に置いた場合、千里では伊勢の鳥羽から遠州灘、相模湾、千葉の房総半島を越えて太平洋に着く。
このことからすると、女王国を大和に置くことは無理ということになる。
こうしたことを踏まえたうえで、北部九州の倭国から瀬戸内海を千里進むと大和に着くとわざわざ倭人伝が書いたことが、重大な意味を持ってくる。
途中には、安芸もあれば吉備もある。
倭人伝は、これらの拠点は一顧だにせずに、難波、大和を注目していることになるからだ。
そして、倭人伝がそう書いているということは、魏の公式記録にそれがあったということであり、魏の政権が卑弥呼の倭国に関連してなぜか大和を非常に気にしていたことを示している。
それから10年ほどして、邪馬台国が狗奴国と交戦中に、卑弥呼が謎の死をとげ、博多には大和系の土器が現れる…。 >>317
魏晋1里=434mが肝。
1里76.5mじゃ、周防の光市あたりまでしか行かんからな。
光市じゃ、そこの人民の素性は割れてるから、短里無理。 >>318
対馬壱岐間が「千餘里」と矛盾するが、どうごまかす? >>318
アホか
狗邪韓国→対馬(千里)対馬→壱岐(千里)
と具体的な数値が出てるのになんで一里434
が出てくるんだよ 距離と地形的には川内、阿久根か延岡、日向かのどちらかに絞られる
延岡、日向には歴史的な伝説が残っていながら
調査もされてそれらしい遺跡が出てこないと言うことは
消去法で
大規模な弥生遺跡があると知られていながらまだ調査されていない川内、阿久根に決まり 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>320
1里=76.5mだと、1万2000里は大隅半島まで行ってしまうがな。 >>321
1里=76.5mなんて、お遊び。
魏晋1里=434mは、公定単位。 >>328
公定単位は、漢族の場合な、
東夷えびすには、えびす用の短小尺里を当てがッとくのが習わし >>328
答えになってねーぞ
ウンコはうせろwww >>328
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 Googleマップで計っても
釜山対馬、対馬壱岐間は
ほぼ76kぴったりなんだよな >>334
>釜山対馬、対馬壱岐間は
>ほぼ76kぴったりなんだよな
対馬の大きさが、南北70キロあるのにww
いくらでも都合のいいように調節可能だよねww [對海國]を[対馬島]全域であるとするのはたんなる想定にすぎない 天然自然にできた島々が、チョッキリ千里おきに並んでるわきゃない。
陳寿は思い切りよく筆を進めているのだから、
各港間で概ね三千里なら上出来さ。 [對海國]と[一大國]の[行政区画]がそれぞれ
[方可四百餘里]および[方可三百里]と明記されている以上においては
2つの[千餘里]は2つの[行政区画]間の[みちのり]と考えざるを得ないだろう 弥生遺跡密度のさほど高くはない[厳原]が
[對海國]の[行政区画]内に収まると考えるのは早漏 陳寿の筆運びには、流れの如くリズミカルに進む特徴がある。
文中、固有名詞・数字を除き、各句の文字数を見ると、基本は漢詩同様の4文字主体に、2、6を加えた偶数句を連ねて朗々と進行している。
しかし、話題が変わるとき、視点・論点・時代・視野角度等がやや変わるときは、
3文字句・5文字句を挟んで変化を与えている。故に読む者は、退屈もなく、たいへんわかりやすく、記憶しやすい。
倭人在(3)、帶方東南(4)、大海之中(4)、依山㠀為國邑(6)、舊百餘國(4)、漢時有朝見者(6)、今使譯所通(5)、三十國。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>341(つづき)
・南至(2)、邪馬壹國(4)、女王之所都(5)、水行十日(4)、陸行一月(4)
そこでくだんの此の部分であるが、
前後が偶数句の並びであるので、「女王之都」と、それに合わせて4文字で良さそうな気がする。
しかし陳寿は、女王之所都(5) と、五文字句を採用しているので、黙読しながらこの部分にくると、微かな変化・変調を感じる。
「邪馬台国の首都と卑弥呼の都では、ちょっとだけ趣が違っているのですよー」、と囁かれ、心が微妙に揺れるのである。 >>345
ほう、そのように読むのですか? それも一案でしょうねえ。 >>321
アホは、お前だな。
1里=76.5mなんて、お遊びだ。 >>329
アホなこと聞くな。
倭人伝に書いとる。
よう読め。 >>333
お前も“短里”お遊び派か。
遊んでろ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>350
1万歩譲って
直線距離+南北70を加算しても
一里400はおろか200にも届かんなwww
ウ・ン・コwwwwwwwwwwwwwwww >対馬の大きさが、南北70キロあるのにww
したり顔で無能ぶり全快のウンコwww >>354
>お前も“短里”お遊び派か。
そう。 短里も長里も興味なし。 どのみち、倭国(阿波)への説明なんだから、どうでもよい。 @阿波 狗邪韓国→対馬(千里約76k)対馬→壱岐(千里約76k)10km程度の誤差あり
近々トンスルの原料になるらしいウンコさんにはこれが読めないらしいなwww >>354
あん?
お前は“ゲリ”トンスル派か。
一生下ってろ。 >>361
>>360
魏志倭人伝にそう書いてあるんだよ 倭人伝では、邪馬台国を盟主とする倭国は北部九州から沖縄あたりまでの巨大島にあると想定しており、
唐津から有明海に出て水行二十日、また水行十日と陸行一月と長大な行程を記しているのは、そのため。
そのような巨大島上に各国があるとみなされていることと、その国の人口が非常に大きな規模に記述されていることとは、無関係ではないだろう。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>364
76キロと書いてあるんか。
遊んでろ。 倭人伝では、唐津に着いたあと魏などの使節団は常に伊都国に一時逗留すると書いてある。
これは、奴国が後漢の冊封を受けて、後漢の使節などが奴国に行く際にまず伊都国の宿所に落ち着いた慣例があったためだろう。
使節が伊都、奴国、不彌の道順で邪馬台国へ行くのも、その旧来のルートが用いられたからだろう。
唐津から佐賀平野へ出て、そこから筑後山門へ行くのが最短ルートであるにもかかわらず、伊都、奴国、不彌の北回りの道順で邪馬台国へ行ったのは、そうした慣例を重視したからだと考えるのがよいと思われる。 室見川がそそぐ淡海というラグーンの西南部の沿岸にも
山門の地名が現在でも残る >>371
そう。
九州には、山門の地名が普通にある。
熊本にも鹿児島にも、山門はある。
邪馬台が、地名由来の国名の音写であるのなら、邪馬臺と山門は音が非常に近い。
ただし、3世紀当時、山門はヤマドの発音だったと思う。 >>368
狗邪韓国→対馬→壱岐
およそ76キロだよ
マップ見てみ >>373
荒らしたいだけの
ウンコさんにレス返しても無駄 >>375
マツロのマの漢字IMEから出さんならんからな。
面倒だから、唐津にしている。 >>376
否定地は他にもあるのに勝手に決められても... 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>380
ワイが決めてるの。
オメはオメできめたらいいし。 短里は魏志倭人伝のみではなく、ずっと後の時代の隋書でさえ部分的に使われている
短里の存在を否定するのは複数の史書で使用されている現実を無視した暴論に過ぎない
隋書百済伝に「其南海行三月有耽牟羅國 南北千餘里東西數百里」とあるが、
耽牟羅國は済州島のことなので、この大きさは短里でしかあり得ない
なぜなら隋書では百済の大きさについて「其國東西四百五十里 南北九百餘里 南接新羅 北拒高麗」とあり、
数字のみで比較すると若干だが百済本国より済州島の方が大きくなってしまう
済州島は陸地から肉眼で目視できるのでそんな大幅な見間違えは不可能であり、
百済本国は長里、済州島は短里で書かれているとしか解釈のしようがない
ちなみに隋書では南北や東西とは方の南北辺、東西辺の長さを表すので上記は横長の範囲となる
https://blogs.yahoo.co.jp/furutashigaku_tokai/55410148.html
https://blogs.yahoo.co.jp/furutashigaku_tokai/55416161.html
また、三国史記 新羅本紀でも、鬱陵島の大きさについて短里が使用されている
「于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里」(『三国史記』巻第四 新羅本紀)
鬱陵島は突出部を除くと10km弱四方ほどの小さな島なので、方一百里は短里となる
http://livedoor.blogimg.jp/wildhorse38/imgs/9/7/9793bc97.jpg
これらの用例から、魏志が韓にも方可四千里と短里を使用していたのはどちらかと言えば例外的で、
短里はふつう離島に対して使うものだと考えられる
倭国が短里表記なのも島国だからだな 釜山対馬壱岐間の距離を目安に
計れば距離は出るから
九州北部は絶対ありえない >>369
>唐津から佐賀平野へ出て、そこから筑後山門へ行くのが最短ルートであるにもかかわらず、伊都、奴国、不彌の北回りの道順で邪馬台国へ行ったのは・・、
まだまだ、仲哀天皇・神功皇后伝説に未練があるようだね。 >>372
邪馬臺の臺は、中国中古音ではドイ。
上古音はダーとされているが、上古音は未確定のようであるので、中古音のドイを臺の音とするのがいいと思われる。
そうすると、邪馬臺はヤマドイと発音したと想定することができる。
そして、この邪馬臺(ヤマドイ)は北部九州にある国の国名を音写したものと考えられるので、その国名の現地音はヤマトのトのような清音ではなく、濁音のヤマドであったと考えるのが妥当だろう。
そういうわけで、筑後山門の山門は3世紀頃にはヤマドと発音されていたとみなしているもの。
現在、山門の字はヤマト、ヤマド、ヤマカドの読み方があり、山門=ヤマドと読む苗字の人もいるし、また鹿児島県出水郡長島町山門野は実際にヤマドノと読んでいるので、ヤマドは決して有り得ない読み方ではない。 なるほど
そうすると山門の訛りで、山田なんかもありうるわけd。 >「ヤマドイ」と発音したと想定することができる。
ありえん
中国語だぞ、「ジィェミャァ〜ダァィ」
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