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♪邪馬台国ドンと来い!♪142
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0001くまモン論者
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2018/11/28(水) 20:35:37.29
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
          ノr┴-<」: :j|    <ソースを書きなさい!
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
      仁二ニ_‐-イ  | |      ∩`Д´)
      | l i  厂  ̄ニニ¬      ノ  ⊂ノ   < ヤダヤダー!!
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   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
 *良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪141
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537964681/l50
0322日本@名無史さん
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2018/12/05(水) 20:09:36.83
>>321
>縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

だからといって、「中国や朝鮮から渡来人があったなんてあり得ないのである。」は無理があるんじゃないの?  @阿波
0323日本@名無史さん
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2018/12/05(水) 20:18:34.70
>>322
アラシにマジレスまじやめて
さらに変なのが湧くから
0324日本@名無史さん
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2018/12/05(水) 20:19:53.32
>>319
吉野ヶ里は、
二世紀の面土国で、三世紀の倭人伝では不彌国(のちの三根郡、今の≒三養基郡)
0325日本@名無史さん
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2018/12/05(水) 20:23:31.51
>>322
指摘サンクス

誰かがオリジナルにイタズラしやがった。

正しいのは下。
0326日本@名無史さん
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2018/12/05(水) 20:24:58.63
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0327日本@名無史さん
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2018/12/05(水) 20:38:33.53
アラシの偽物ワロタw
0328日本@名無史さん
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2018/12/05(水) 20:57:07.46
しかし、朝鮮にも中国から伝わってないということは
朝鮮から伝わった可能性のあるものが、朝鮮ウリジナル?
なら、縄文オリジナルでも一緒のことにならんのかな?

ってか、楽浪帯方でも半島人って、遼東の漢人来てんのに
中原文化無くて、ほとんど倭人の文明レベルで歴史推移してるだろ?
ただの奴隷収奪地なんじゃないの?
0329日本@名無史さん
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2018/12/05(水) 20:58:28.17
頭の病院に行けw
0330日本@名無史さん
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2018/12/05(水) 21:53:02.44
竪穴式住居は土という断熱性の高いもので
壁を作るので、住居としては快適なのですが
地下水が湧くところに作ることができません。
地下水が沸かない場所であれば問題ないのですが
村落が大きくなっていくと
どうしても地下水の湧くところまで
住居にする必要が出てきます。

そのため地下水を排水するための
環壕を掘って地下水面を下げるのですね。
のちにこれらが防衛用の堀になっていくのでしょうか。

竪穴式住居の断熱性はかなりのもので、
北海道の原野では江戸時代まで
竪穴式住居が使われており
3メートルほど掘り下げた住居があったそうです。
その住居が崩れてすり鉢状になった
住居跡の穴が今でも残っているそうです。
0331日本@名無史さん
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2018/12/05(水) 21:56:04.55
北海道に入植した屯田兵は
北海道の寒さに耐えきれず
なくなった方も多いそうですが
竪穴式住居を採用していれば
状況は少しはマシになったかもしれませんね。
0332日本@名無史さん
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2018/12/05(水) 22:07:29.07
>>328
楽浪帯方に中国大陸の陶磁器文化がないのは大正解。

半島に入ったのは遼東郡秦人や遼東郡漢人だから、中国大陸の陶磁器文化がない。

遼東郡は戦国時代に燕に併合され、無理やり漢化させられただけの異民族の地だから
中国大陸の文化が極めて希薄。

名のみの秦人、漢人。
0333日本@名無史さん
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2018/12/06(木) 08:23:40.56
>>330
勉強になった。
0335日本@名無史さん
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2018/12/06(木) 14:16:39.79
>>332
>名のみの秦人、漢人。

そういう問題かな?
400年間中華系官僚の管理下にあった。
4000年進んだ、支配者の文明は何一つ共有されないで、島国日本の状況と大差ない。
と言うより、楽浪帯方撤退以降に、後進日本の後援で新羅百済が建国した。

これって、属国李朝の愚民化から、
大日本帝国によって解放された状態と同じでは?

封建の江戸時代にだって、泰平元禄の庶民文化開花するのに
400年とか600年の愚民化ってすごいよね。

まじめに歴史学んだ方が良いかと?
0336日本@名無史さん
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2018/12/06(木) 15:33:20.34
もう少し推敲してくれ
0337日本@名無史さん
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2018/12/06(木) 16:20:35.14
ごめん、おもいつきで・・・ 

仏の顔も三度とは言うけれど、またか? 
と 思うかもしれない。 チラ裏メモなんだ・・・
相手してくれて、ありがとう。

このバーボンは・・・(aa略www
0338日本@名無史さん
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2018/12/09(日) 14:20:59.28
スレ、凍ってる? |∩`Д´) / '⌒☆ 
【倭人 倭国 倭種 女王国 邪馬台国 の用法について(1)】

>>1 倭人 在帶方東南 大海之中 依山島為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者

意訳説明=【倭人】は、朝鮮半島の南東、日本海の向こう、日本列島に住んでいる。
山や島に依り國邑を為し、昔は百余国に分かれていた、漢時には朝貢者の記録がある。

これは陳寿が、史 書 他から得た【倭人】の定義である。
ただしこの魏時までに、韓伝(韓人伝ではない)によって
半島南岸、【韓】の方可4千里の南岸も【倭】である。

今 使譯 所通 三十國 從郡至倭
意訳説明=これ以降の文は、魏時に二回の使譯によって通じた30国、
その郡使に從って至った、半島の南の倭についての説明になる。

【倭人】と言う用法は、基本的に【倭】を言っているが
【倭】はまだ、馬韓や辰韓、弁韓 程度にも、国家を形成していないという判断が、
倭伝とか、【倭国】ではなく【倭人】と言う表現を選んだ理由のように思う。

あるいは、半島南岸の【倭】に見るような三国志以降中華の統制が全く働かない
東夷の大国である【倭国】を中国正史で紹介したくない、無視したいという理由
が【倭国】ではなく【倭人】とした理由かもしれない。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 15:38:16.12
【倭地】とは、地理的な筑紫島(九州島)の陸地そのものをいう

【倭】とは、卑弥呼共立前の100余国が乱立していた筑紫島(九州島)のクニ・人民の営みのことをいう、
であるから、後漢書では「倭伝」(倭の伝記)となっている。

【 倭人】
これは、倭人有り帯方東南大海の中・・・と書かれているとおり、韓地に棲む人々は外れる
倭人とは、共立倭30国の人々と、これを嫌って加入しなかったが、厳に倭地内(筑紫島)に住んでいる狗奴国の人々を合わせていう

【倭国】とは、倭30国がまとまって出来上がった共立国家のことを云う。
この共立国家の王を「倭王」という。卑弥呼の場合は、特に「倭女王」ともいう。

【倭種】とは、倭地外の本州方面に棲む倭人類似の種族を区別(蔑視)していう
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 17:06:18.31
勝手ながら私の仮説
1 倭国大乱後、倭30国の争いを収束させ、共存を図るため、環瀬戸内勢力が巻向
(東の日の出の方向)に神殿と新都市を建設し、卑弥呼(日巫女)が君臨する。
2 台与(「台」を「と」と呼ぶなら、邪馬台国はヤマト国となる。)の後、統治が乱れ、
その際、邪馬台国構成勢力のうち最強勢力であった九州の種族の長が、記紀の記載の
とおり吉備を抑えたのち大和に乗り込み、抵抗勢力を排除して王権を奪取し、初期大和王朝を
打ち立てる。大和王朝は神授の王権とするため、それ以前の王統は記録しない。
 こう考えればすべてつじつまが合う。後世、信長が死んだ後、配下有力武将の秀吉が権力を奪取し
政権を作った。秀吉の死後、5大老最強の家康が関東から出てきて権力を奪取し、政権を作った。
歴史上、この手のことは多くある。魏志倭人伝と記紀の内容は大きくバッティングするが、倭人伝
の後、記紀の事象が起こったとすれば一つの歴史の流れが見えてくる。
 倭人伝・記紀連続事象発生説とでも呼んでくれたまえ。はっはっは
0342日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 17:14:12.08
>>341
>勝手ながら私の仮説

残念ながら、西日本一帯で展開するような、そんな大それた話じゃないんだよ。 卑弥呼の時代にその仮説は無理。 
単に倭国(阿波)国内でのお話。 妄想が誇大過ぎ。  @阿波
0343日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 17:21:18.31
巻向の文化財センターに行ってごらん。
巻向が3世紀西日本の広域国家連合の中心になっていたことが分かるよ。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 17:32:06.38
>>343
>巻向が3世紀西日本の広域国家連合の中心になっていたことが分かるよ。

なにをもって?  @阿波
0345日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 17:50:38.78
【倭人 倭国 倭種 女王国 邪馬台国 の用法について(2)】|∩`Д´) / '⌒☆ 

>>3 南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

>>2>>3 の間にある段落については、
これを何回言っても、絶対に理解されないことは確定している。
これを読み取ってしまうと、倭人伝行程問題は疑問の余地なく解決してしまう・・・
ちな、247年の張政の行程は、伊都までで1万500里、奴国不彌国は目的地以降である。

南至 投馬國 これは半島南岸 謎の倭人国である。5ちゃん以外では謎www
南至 邪馬壹國 女王卑弥呼が都として居住する所である。
(ただし都だが、247年卑弥呼の死後、張政は伊都に首都機能を見ている)

この >>3 は、140年に建中校尉梯儁が、238年の楽浪帯方陥落以降、
卑弥呼印綬のため、魏軍で初めて韓西岸水行から対馬海峡を渡った記録。
都市名と里程が無いのは、決まった宿営地の無い行軍だからである。
投馬国は通過国、邪馬台国は目的国の国名である。

【邪馬壹國】は、次有以下・・列記21王国・・で構成される。
次有が21回繰り返される理由は、此女王境界所盡 の 此 に 
次有・・の全ての国が掛かり、女王国はそれで全て尽きるからである。
その南には、狗奴国が有り、女王国には属さない。
自郡至女王國 萬二千餘里
その水行二十日水行十日陸行一月が萬二千餘里である。

梯儁は女王所属21国に漢字名をあてた。この国において
その中の極南界、邪馬国の砦に卑弥呼がいたので【邪馬壹國】と命名した。
この【邪馬壹國】を国名として歴史に記録したのはこの時だけである。
247年の張政も、使っていないのではないかな?
0346日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/09(日) 18:03:39.43
>>343
嘘つきどもの巣窟
0347日本@名無史さん
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2018/12/09(日) 18:13:05.03
>>341
>勝手ながら私の仮説

残念ながら、西日本一帯で展開するような、そんな大それた話じゃないんだよ。 卑弥呼の時代にその仮説は無理。 
単に倭国(阿波)国内でのお話。 妄想が誇大過ぎ。  @阿波
0348日本@名無史さん
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2018/12/09(日) 22:22:01.64
>>330
>そのため地下水を排水するための
>環壕を掘って地下水面を下げるのですね。

そんなに簡単に地下水面は下がらないよ
それに地下水と関係ない高地性集落にも環濠のあるものもある
ちょっと妄想が過ぎるかな
0349日本@名無史さん
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2018/12/10(月) 09:55:08.97
【倭人 倭国 倭種 女王国 邪馬台国 の用法について(3)】
本説の核心、女王国と言う名称の用法について、ダヨ|∩`Д´) / '⌒☆ 

・・到伊都國・・・丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
意訳解説 伊都国に到達した。 女王に属する21国の王や使が往来し駐する所である。
これは、247年張政の目的地への到達と、伊都の首都機能を言っている。

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國不可得詳
意訳解説 女王国より北の国は『陳寿が』戸數道里可得略載その他の国は不可得詳である。

次に『女王国には』斯馬國 が有る。・・以下列記20国・・此 女王境界所盡
240年梯儁によって、印綬した女王国の国勢を調査報告した【女王国】の実体である。

其餘旁國不可得詳 の国々とは 魏時2回の使譯で 知り得ていない
女王国以南 と 東渡海千餘里 復有國皆倭種 及び 伝説の倭諸国である。

これが、南至 邪馬壹國 可七萬餘戸 自郡至女王國 萬二千餘里
で、参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
という、九州北部2千里を南限とする、倭の小国である。

何故、【倭国】を【女王国】という故人依存の名称としたか?
三国志は国々の数代に渡る戦国史である。 こんなものが、国の紹介なのか?
倭人伝は238年から247年迄の10年足らずの域外国との外交史である。

占領の年に進駐した帯方郡太守が紹介した【倭王】は倭王では無かった。
倭人伝は随所で、これを示している。

卑弥呼の【女王国】は 倭人による倭種の国 の一部であり、倭人伝は
三国志時代の東夷諸国を紹介した東夷伝ほどには 【倭国】を語っていない。
見ていないからである。 この10年間で見た【女王国】の見聞録である。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/10(月) 19:19:36.73
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだbッ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/11(火) 23:40:37.11
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/09(水) 23:32:32.41
 


土人!

馬鹿どもよ、
 


邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。

小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。

当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。

世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。

狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。

で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。

その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。

わかったか、


 
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:01:03.93
伊予の海人族の祖は、あるいは魏志倭人条に出て来る狗奴国の狗古智卑狗かもしれませんね。
伊予の河野氏の祖は河野越智彦と伝えられます。おそらくは同じく倭人条に出て来る邪馬台国を破って崩壊させたのは狗奴国。
後の支那の史書には狗奴国が「東」に有ると記載されているものもあります。
日向から瀬戸内海に進出するも、日本全土の統一には至らなかった狗奴国。
むろんのこと邪馬台国が「東遷」することもありませんでした。
瀬戸内海を「東進」したのは朝鮮半島南部の争乱を避けて九州北部に進出するも、そこの豪族たちの強さに恐れをなし
宇佐に居た邪馬台国の末裔=神夏磯姫と婚姻関係を結んだ半島の多羅国の王族たち、これが神功皇后、そしてその息子である応神天皇でしょう。
ちなみに彼らは現代のエベンキ朝鮮人とは全く無縁の、半島に居た「倭人」です。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:57:47.43
適当なことを根拠もなく書くんじゃないよ。
伊予の海神の名前も系譜もきちんと伝承に残っているのだから、それを無視してはいけないよ。

【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。

その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、耳の娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/14(木) 10:10:56.31
>>343
連合を組んだという事実を示す史料(条約本文または事実を伝える文書)や伝承はありますか?
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/14(木) 12:25:18.66
んなもんあるわけ無いわ。
邪馬台国畿内説とやらを完全崩壊させた最大の戦犯こそ纒向やで。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/15(金) 13:12:14.14
>>359
大和朝廷が奈良に首都の建設を始めて古墳時代が始まる。
で、良いんだけど、文字は無いとして伝承は記紀にならないと困っちゃうんだよねw

これ、基本的には銅鐸地域がバックボーンのはずだけど、記紀ってこれが駄目なのな。
関東方面の影響か、銅鐸終了早かった出雲吉備とかの隆盛ってことかと・・・
あと、高句麗馬の移入に関して、朝廷主導のすごく重要な変化なのに変。
倭人伝に書いてあるのに、邪馬台国なんて、考古学課題なのかね?

よく箸墓とか出て来るけど、邪馬台国はローカル九州だから、
朝廷は、190年〜238で、邪馬台国と関係あっちゃいけないかもね。
考古立証として、地域性ある土器の集中。

邪馬台国は案外小さいから、半島からの青銅器の移動考えれば
日本海で遠賀川や 瀬戸内で中津、宇佐地域は 
邪馬台国なんて出来てないBCでも薄くは交流は有ったと思うね。

九州、本州の交流ですら、半島程度?の そこそこしかないのに、BC200位に届かないうちに
縄文 弥生の人的変化は相当濃い関係が有ったってのは相当無理の有る謎じゃないかな?
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/15(金) 15:43:48.97
>>362
日本人じゃないんだろ
察してやれよ
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/15(金) 23:45:50.71
大和朝廷を建てたんが吉備の連中やとは言わんが、吉備の影響は相当に入っとるわな。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/16(土) 03:46:01.20
吉備と粟は影響が大きいよな
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/16(土) 07:14:08.51
>>367
弥生の大洪水で西日本の灌漑稲作が大打撃をうけ壊滅状態となったため、
その雑穀が主食となったようだよ。  @阿波
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/16(土) 23:44:53.92
博多の比恵遺跡は凄いね。
あとその近くの那珂八幡古墳だっけ?
関西とは関係ない、独特な形式の古墳だということが最近わかったという。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/16(土) 23:51:34.44
突然前方後円墳が出現してる時点で近畿とはズブズブ
記事をよーく読み直してみような
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/17(日) 15:06:34.91
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/17(日) 16:01:51.31
テスト
0374日本@名無史さん
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2019/02/17(日) 16:05:30.70
>>373
_-へ____
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0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/17(日) 19:40:46.56
>>372
厨坊のチラ裏に、大変貴重な論文をご提示いただき感謝です。
お勉強になります。

古墳時代以前の九州と関西との関係については、
銅鐸、青銅器によって異文化の可能性は示唆、明示されていますが
土器厨考古学の側からも、しっかり検証されていたことを知りました。

アラシの広鼻ブラック先生への質問が、馬鹿だったと、いまさらながらに思います。
レイシスト志向の、民族系考古学とか、有んのかな? 
勉強が足りませんでしたw

銅鐸時代までの、本州と九州は土器に見るように断絶とは違いますが、
半島南岸と同程度に外国という認識下に有ったように思います。

漢代から交流のあった、238年公孫氏、246年韓王朝の滅亡
これが、大陸外交フロントだった 筑紫を 張政が査察に入った
247年以降、管理下に置けなければならなかった事情だと思います。

247年〜400年の考古学は、土器よりも
前方後円墳に伴う高句麗型古墳の拡散、400年まででの甲斐関東への広がり
『牛馬の移入」 が主軸になるべきではないでしょうか?
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/17(日) 19:42:48.89
>>375
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0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/17(日) 19:46:10.34
紀元前から半島南部は菜畑や板付、金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識された。
根拠として挙げられるのが、半島最古の住居遺構である松菊里住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること、と半島最古の水田遺構である麻田里の温帯ジャポニカ米。

寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北に流入した様々な民族が弥生人(元縄文人)国家である辰国と融和しながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国。

倭人(元弥生人)の影響を受けなかったツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、馬韓は百済に、辰韓と弁韓が併合して倭種の国として新羅に、狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行。

原韓人とも言うべき百済は倭国本土に媚を売り続けたため反感を買い、唐と組み、中国化した新羅に絶滅させられ、高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅に。

その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅。

高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモングル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至る。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 09:40:01.17
>>3 摘要
南至投馬國 水行二十日 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
(自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳)
次有 ー24国列記ー 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里

『邪馬壹國』という国名の用例は、この文のみで歴史上の使用の全てである。
これは、240年魏の軍船による行軍で来日、卑弥呼女王宮で印綬した、
建中校尉梯儁による、地理及び女王国国勢の報告文である。
(自女王國以北〜は陳寿の補足説明、梯儁の報告はこれを無視した方が理解しやすい。

この時、梯儁が印綬の女王共立国の和名と国勢を参問して邪馬壹國と命名した国は
次有を21回も費やした列記21王国で尽き、これが全てである。(此女王境界所盡)
現代語誤訳 が、必要な漢文とは思えない。

問題の 南至投馬國 水行二十日 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
は、梯儁による帯方郡起点の行軍日程を記した地理説明であるが、
この文脈として、自郡至女王國 萬二千餘里  に相当する。

文法として、南至投馬國が前文と直列関係に無いことは
里程と日程の違い、地名の都市と国の概念、からも明らかだが、
並立する南至投馬國と南至邪馬壹國が直列するか並列するかは、自明とは言えない。
そこで、陳寿の補足説明が生きる。
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

其戸數道里可得略載された、投馬國は女王国以北
邪馬壹国は糸島半島早良福岡平野筑紫平野の21国の総称であるから、
投馬國は、海峡を隔てた半島南岸、謎の倭人国である。

韓伝における弁辰韓は雑居で詳細不明だったが、246年韓王朝滅亡で臣智以下の官制となった。
これにより240年の謎の倭人国投馬國に247年狗邪韓國=弁辰狗邪が含まれる、で妥当である。
投馬國も邪馬壹國も、240年梯儁の報告以外では使われていない国名なのである。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 10:21:36.19
謎の倭人国? 意味もなくそんなもん出すわけないだろ
投馬国は邪馬台国へのルート上にあったから出てくんだろうに
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 10:37:50.15
投馬国の方が遠い。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 10:49:53.81
>>379
魏が楽浪帯方郡を三代に渡る公孫氏から奪還したのは238年卑弥呼の朝貢の年である。
240年梯儁は、韓西岸の行軍も対馬渡海も 魏時で初の使譯であった。

この2年で馬韓の状況は多少知ったとして、韓南岸を見たのは初めてである。
この、魏時の使譯までには、謎だった、倭人地域のうち、使譯のルート中で見た
半島南岸倭人国 可5万戸を 投馬国 
筑紫 可7万戸 を邪馬台国と命名した。

>謎の倭人国? 意味もなくそんなもん出すわけないだろ
倭人伝 評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

史漢著 朝鮮両越
この朝鮮は、公孫氏の本地、遼東を意味する。
倭人伝評の魏世における爰及 東夷 は、韓南岸を含む倭地のことである。

倭人伝の意味は
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
である。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 11:04:56.79
>>380
自女王國以北 其戸數道里可得略載
を 無視すれば、どっちともとれるんで、それでもいい。

『おまえがそう思うんなら、そうなんだろ。 おまえの中ではな』 って、やつw
歴史屋や考古学では、都合が悪いものに蓋をする。 これは『蓋』で良い。

だからと言って、考古学的結果は
投馬国が、宮崎の都万や熊本や薩摩には、絶対ならない。
倭人伝は、魏時2回の使譯で行ってない土地は、伝説以外での説明はしていない。

老婆心だが、村おこしや予算取りの捏造なら、判るがw
倭人伝の邪馬台国とは無関係な穴掘りになるんじゃないのかな?
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 11:41:23.85
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 13:55:45.49
|∩`Д´) / '⌒☆魏志倭人伝を正しく読む というスレで文法を習って来たよ。

東行 至不彌國 百里=東へ行くこと百里で不彌國に至る。
この文は
東南 陸行五百里 到伊都國=東南に陸行五百里で伊都国に到着する。
という、247年の張政の行程。
伊都までの積算一万五百里の行程に添えた
伊都に隣接した100里の国、奴国、不彌國の 2国の紹介の一つ。 
この百里2件で、張政は、既に墓を見た女王の王宮ヘは向かっていない。

南 至投馬國 水行二十日=南の投馬國に至るには水行で20日である。
この文は、動詞の前に 至+地名 が有るので、
前文の地名から、直列で動的に繋がる文法にはなっていない。

さらに、後続文によって、邪馬壹國は21国から成る辰韓12国のような概念の国。
奴国がこの21国に含まれるから
奴国と邪馬台国は、同じ里程で示した行程文で直列する事は有り得ない。

問題は
南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月=
南に邪馬壹國 女王之所都に至るには、水行十日 と 陸行一月である。

そうだろうか?
21王国による共立女王の国、邪馬壹國へは水行十日で上陸した時、既に至っている。

至 邪馬壹國は 水行十日 さらに 女王之所都へは陸行一月
という、並立的な意味表現の文章ではないかと考える。

表現が子細な現代日本語に訳さず漢文素読だとどっちでも良い表現とも思えるけれど
テンプレが、倭人伝全文の♪ドン来いスレの皆様のご意見を伺いたい。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 14:41:30.67
あまり伝承も記録も残っていない辰国は縄文文化の国家だったのか
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 15:37:29.22
都という字には「全部で、トータルで」という意味もある
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 15:53:32.06
>>385
縄文人とか弥生人とか言うからややこしくなる
狩猟系倭人と農耕系倭人、海洋系倭人とかにしたほうが一般人の理解が広がると常々思う
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 20:53:57.07
>>387
縄文人といい弥生人といい決して一枚岩ではない
混生し棲み分けし協業していたという共通理解が必須
これが出来ない単細胞のひとにはややこしいだろうけれども
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 21:03:09.96
弥生人の扱いだけが隣国の民族願望なんかが入り込んで臭せぇ存在になってるだけだろ
渡来系弥生人は分かるが弥生系渡来人て何だよっていつも思う
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 21:21:25.39
>>390
中国系九州人
九州に住みついた帰化中国人?

九州系中国人
九州生まれの中国人?

確かにややこしいなw
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 21:27:22.75
こんな例もある

中華系台湾人=外省人=台湾居住の漢民族

台湾系中国人=本土に転居した台湾出身者
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 21:30:29.08
スレチだけど、
文献で結果が出てる、邪馬台国より
縄文弥生の方が面白いよね。

縄文から弥生の人類的、DNA変化が絶対に有るなら
おそらく、縄文遺伝子の劣化、男子が生まれないみたいな、
アマゾネス化みたいな変化が有ったと思うんだ。

縄文人成立は、大陸からの陸封でのガラパゴス化だが、
ガラパゴス化とは逆に、ろくに船も無い時代に、大量移民は有り得ない。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 21:40:42.22
>>393
スレチだヴォケ
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 22:15:37.39
>>394
スレチ以前に会話が成立しえないレスというのは
アラシとなんら変わらないということを理解すべきだと思う。

まあ、アラシにレスする、あなたもアラシです、
と、言われればw 何度も反省している。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 22:49:58.10
>>384
不彌國までが張政で投馬國と邪馬臺國は梯雋ってことかなるほど

ってことは壹與と張政があったのは伊都国あたりでいいん?
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 23:02:42.50
卑弥呼と会ったのも伊都。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 23:28:41.73
>>397
卑弥呼の墓は247年張政の場合、末蘆国から伊都の間に有った。
これは、糸島半島北西岸から、今宿以遠、早良付近までに有ったことになる。

240年の梯儁は、自郡至女王國 萬二千餘里 で、
女王宮は、古代山城であるとして、八女〜みやまの南麓で間違いない。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 01:21:40.27
放射状に読むのはそう読もうと思えばできないこともないっていう程度。
直行式に読むのが普通なんだよ
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 02:43:13.61
>>399
どっちにしても近畿に辿り着ける可能性をまったく感じない
四国説や近畿説の人ってこの辺どう考えてるんだろうか
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 07:41:06.10
>>400
ベテラン去り、こういう初心者、また来る。

末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)

↓【東南】陸行500里  福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)

伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方市辺り)

↓【東南】100里

奴国(二万戸)(田川市辺り)

↓【東】100里

不弥国(千戸)(築上町辺り)

↓【南】 豊後水道 水行20日

投馬国(五万戸)(土佐宿毛市辺り)

↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は、陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察

女王・卑弥呼のおわす 【邪馬台国 阿波】 到着(七万戸)

↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)

女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。   @阿波
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 08:23:12.73
オッケー分かった
邪馬台国四国説 part2

縄文の「朱」生産拠点
阿南・加茂宮ノ前遺跡
国内最大、最古級
祭祀と居住一体出土
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や石きね300点以上や、
水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。
水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。
県教委と県埋蔵文化財センターが18日、発表した。
石臼の大きいものは直径30センチ。石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、
関連した遺物の出土数は1000点以上に上った。
水銀朱生産の一大拠点とされる三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の石臼や石きねが見つかっているが、数十点にとどまる。
調査面積は約1万平方メートル。祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。
縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。
センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、
「当時から地域交流をしていたことがうかがえる」としている。
県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末〜後期初頭(約2千年前)の層から、鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。
今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。
県教委教育文化課は「調査研究を進めて広く展示公開し、徳島の歴史や文化財に興味を持ってもらえるような取り組みを進めたい」としている。
2019年(平成31年)2月19日 徳島新聞朝刊
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 10:30:31.50
オッケー分かった
邪馬台国四国説 part2

極めて重要な発見
同志社大学文学部・水ノ江和堂(かずとも)教授(考古学)の話
縄文時代の遺跡が東日本や九州に比べてかなり少ない中四国の状況を示す極めて重要な発見。当時の水銀朱の生産、利用状況や集落構造を総合的に確認できる遺跡は他に例がなく、
今後の研究につながる。遺構を切り取って復元などしてもらいたい。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 12:07:45.15
>>401
福津上陸で八木山を通るのは何故?
直方に行きたいなら宗像鞍手の唐津街道か、見坂峠から犬鳴川沿いに下ると考えるのが自然なんだけど。
八木山越えたいなら路程が短くなる箱崎上陸でも八木山経由で直方まで45kmくらい福間浜から八木山経由だと60kmくらいになるよ。
見坂、唐津街道どちらも30kmちょいで直方に着くけど。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 12:18:14.61
>>406
>福津上陸で八木山を通るのは何故?

特に八木山峠にこだわりはないよ。  @阿波
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 13:42:19.56
これは違う


狗邪韓国
  │
対馬国
  │
一大国
  │
末廬国
   \
  伊都国
      \
      奴国─不弥国
            │
            │
        投馬国
            │
            │        
          邪馬台国
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 13:42:52.69
これだな



狗邪韓国
  │
対馬国
  │
一大国
  │
 末廬国──不弥国
 │ │\ \
 │ │ 奴国 \
 │ │    伊都国
 │ │
 │ │
 │ │
 │ │
 │ 邪馬台国
 │
 │
 │
 │
 │
 │
 │
投馬国
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 13:51:10.80
>>409
好き勝手に変えてはイカン。  @阿波
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 13:56:04.35
.         /| | ̄ ̄ ̄ ̄|  |\
      ./   | | //.     |  |//\
  ∧_|| // | | ∧_∧ |  |    ||_∧
 (´-ω||//  | | <#`Д´ |  | // ||ω-`)
  ( ⊃||/ /.:::|__∧_∧│ \ /||⊂ )
 ⊂_)||/     <>>410 >     \||(_⊃
    |\     (  O  )   /|
    |  \     u―u'   /  |
    ∧_∧|  | ̄ ̄ ̄ ̄|  |  ∧_∧
   (  -ω)|  |  ∧_∧|  | (ω-` )
    (   ⊃|  |∩(     )∩ | ⊂    )
   (_)_)|  |_(    )|  |/(__ (_)
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 13:58:05.55
從郡至倭 (狗邪韓国)
始度一海千餘里 (対馬国) 始ての海
又南渡一海千餘里(一大国) また南に海を渡る
又渡一海千餘里 (末廬国) また海を渡る
────────────────────ここから下は方角と距離だけが書かれてる
東南陸行五百里 (伊都国)  
東南至奴國百里 (奴国)
東行至不彌國百里 (不弥国)
南至投馬國(投馬国)
南至邪馬壹國 (邪馬台国)
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 14:13:53.10
>>412
>────────────────────ここから下は方角と距離だけが書かれ>てる

渡海行動じゃないからね。 陸行にいちいち、又などを付けないだけ。  @阿波
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 14:29:49.19
へへへ

南至投馬國、水行二十曰
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 14:57:25.32
>>414
>南至投馬國、水行二十曰

それがなにか?  @阿波
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 15:17:38.06
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、縄文時代後期(約4000?3000年前)の集落が見つかり、祭祀に使っていたとみられる円形配石遺構14基や住居跡、祭祀に使う道具類なども確認された。
円形配石遺構の発見は西日本で珍しく、居住域と祭祀の遺構がひとまとめに確認できたのは西日本で初めて。
縄文期の国内遺跡としては最多の水銀朱遺物が出土した。
https://youtu.be/42d6IG9OTnI
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 18:20:59.41
あわわ・・・ すごいな、阿波。 
青銅器、鉄器の時代区分変わるのかな?
てか、漢以前だと 阿波までどっから持ってくるんだよ?
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:24:50.95
>>348 文法つづき というか、>>2 振り出し。|∩`Д´) / '⌒☆

今 使譯 所通 三十國 從郡至倭
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓国 七千餘里
(動詞+過程+方角+到地名+里程)『到』で循海岸水行が終わった。

始度一海 千餘里 至對海國 (有千餘戸)
『始度』到から継続する(動詞+里程+至地名)

又南渡一海 千餘里 至一大国 (有三千許家)
『又』また渡海 (動詞+里程+至地名)

又渡一海 千餘里 至末廬国 (有四千餘戸)
『又』また渡海 (動詞+里程+至地名)

東南陸行 五百里 到伊都国 有千餘戸
『陸行』上陸した (動詞+里程+至地名)
・・・・・・・『到』247年の張政は伊都で用件が終わっている。 
 
東南 至奴國 百里 有二萬餘戸
(動詞無し 至地名+里程 行っていない。紹介のみ)

東行 至不彌國 百里 有千餘家
(動詞+至地名+里程 前文と里程が直列しない、行っていない奴国と並列)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
南 至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
(至地名+動詞+日程 前文と直列しない。並列もしない。)
この一文は里程が日程に変わり、戸数の有も可に変わる。
つまり、後文に続く段落の始まりである。
つづく
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:31:38.31
つづき|∩`Д´) / '⌒
南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
(至地名+動詞+日程)前文と直列か並列か? の確定文法は無い。 
前段とは違い、一旅程の行程というよりは、地理的な簡易説明である。

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
可得略載の主語は陳寿であるから、これは付加説明。
戸數道里の示された投馬國は女王国以北。

次有 ー21国列記ー 此女王境界所盡
卑弥呼に印綬した梯儁は、女王共立の21王国を参問し和語を漢字にした。
これが、女王国の境界を形成する全ての国である。

其南有 狗奴國 不屬女王 
その南は狗奴國 女王国には属さない。

南 至投馬國 水行二十日 南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
は 自郡至女王國 萬二千餘里 である。

補足 倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

が、中国で知られる、倭国の全貌だが、
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
卑弥呼の国は、九州島北部二千里の周旋可五千餘里 程の小国でした。

邪馬台国と命名しましたが、247年の報告では、一代で終りそうなので、
女王国ってことで、良いんじゃないでしょうか?
これが、陳寿の倭人伝である。
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