邪馬台国畿内説 Part403
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543505552/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 朝鮮半島の海岸の島ではなく、朝鮮半島にも、倭人の領地があったことが、発表されている文献は、どういう文献なのだろうか。。。
そして、日本書紀に発表されている任那日本府とは、何だったのだろうか、、、 >>640
>また残り1500里に南水行計30日と陸行1月が含まれる事になるので
少なくとも魏志倭人伝の記述は九州北部を指すものではない事になる<
ダメだ。
投馬國と奴國へは、実際に移動した記載がなく側副傍線國説明であり、
「水行十日陸行一月」は「女王之所都」の説明であるから、郡からの所要日数説明であり、
また、對海國と一大國には国内見聞移動をした記載があり、
国の大きさの里数も書かれているからその分も途中移動里数に加えなければならず、
従って、郡からの「折れ線的道のり里数」は、不彌國で「ほぼ萬二千余里」に達してしまっており、
だから、邪馬壹國女王之所都の入り口は、不彌國のすぐ南にある事になり、
従って、女王國は、九州内だ。 >>851
潤色なしだと在安羅諸倭臣とかになってるから大使館みたいなもんだったんだろ >>641
>うん 魏志倭人伝の距離記述は
魏の律歴志と当時のモノサシという史料から換算された1魏里430mと食い違っているね
だから魏志倭人伝の距離記述は正確ではないと証明された <
いや、
同時代の魏使らの実見記録に拠った、と考えられ、
客観性と信頼性の非常に高い魏志倭人伝の距離記述」と比較して、
後代文書である「魏の律歴志」の1里430mは、6倍位も食い違っているから、
だから、後代文書である「魏の律歴志」の距離記述は正確ではない、
と証明された 。 >>642
やっぱり、
「南→東」などの嘘つき騙しの「戦前の八紘一宇の万世一系皇国史観」の、
侵略殺戮戦争のキョクウの・・・・大和説者は、
頭のネジが飛んでるな 。 >同時代の魏使らの実見記録に拠った、と考えられ、
考えられるという理由は? いくら言っても短里なんて架空のものだしな
現実世界と結びついてるものが何も無い 対馬海峡が三千里。
では一里は何メートル?
早く答えろよ。 >>645
はいはい邪馬台国は、史料事実のどこにも存在しない嘘つき騙し文言であるから、
始めから×であるし、
3世紀当時の魏志倭人伝は、魏志らの実見記録に拠った客観性と信頼性の非常に高い情報であり、
後代の後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧の史家の「自己解釈に拠る内容説明的な高慢な書き換え」は、
全く信頼性がなく、邪馬臺國記載は、魏志の邪馬壹國記載の訂正根拠にならず、
×。 朝鮮半島の海岸の島ではなく、朝鮮半島にも、倭人の領地があったことが、発表されている文献は、どういう文献なのだろうか。。。
そして、日本書紀に発表されている任那日本府とは、何だったのだろうか、、、 倭人は、なぜ、朝鮮半島で大規模に馬や人民を捕獲することができたのだろうか、、、 倭人が朝鮮半島で大規模に人民や馬を捕獲した後、なぜ、沼地だった纏向に大規模な墓地が作製されたのだろうか。。。 >>860
>後代の後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧の史家の「自己解釈に拠る内容説明的な高慢な書き換え」は、
誹謗中傷しても史料価値は貶められない >>796
>「水行」は、当然「陸行」との対比的な使用文言であり、
だから、沿岸航行なんだよ
それ以外の例はない >>802
>じゃあ「計其道里當在會稽東治之東」なんて記載したら台無しじゃん?
>「會稽東治」はちゃんと具体的に伝わる距離なんだから。
帯方郡から會稽東治まで、南北方向で何里になる?
倭国は東南方向だから、「ずっと遠く世界の果てまで」にあたる萬二千里でいいんだよ つまり、邪馬台国畿内説は破綻し、観光関連と韓国政府の宣伝は、失敗したのだね、、、 >>816
>方二万四千里の思想に合わせるため、淮南子も短里を使っていたということか。
おいおい、計算もできないのか?
東西方向は、中央之極、東方之極、西方之極がそれぞれ萬二千里で、合計三万六千里
南北方向も同じで、三万六千里
淮南子は、誰も言ったことのない世界の果てまでを「観念的に」描いた世界観なんだから
実測値とは関係ない
つまり、「短里で実測した」という九州説の主張とは、「根本的に無縁」のもの >>831
>チンパンジーと会話しようとしてる奴がいたらそいつの方が異常者だから
いや、チンパンジーやゴリラは、手話を教えるときちんと会話ができるんだよ
彼らはある程度の抽象概念も理解していることが確認されてる
九州説のザラコク、連続句読点、キウスは、会話が成立しないから、
チンパンジー、ゴリラ以下 畿内にあったという邪馬台国は、破綻した畿内説の宣伝係を雇用した者達の観念の国だった可能性が、高いな。。。 破綻した畿内説を宣伝する3寸男が、意見を発表したのではないのかな、、、
876日本@名無史さん2018/12/07(金) 13:15:43.41
>>831
>チンパンジーと会話しようとしてる奴がいたらそいつの方が異常者だから
いや、チンパンジーやゴリラは、手話を教えるときちんと会話ができるんだよ
彼らはある程度の抽象概念も理解していることが確認されてる
九州説のザラコク、連続句読点、キウスは、会話が成立しないから、
チンパンジー、ゴリラ以下 >>878
破綻した畿内説を宣伝する3寸男は、角度のことで中学生にも負けたので、間違った意見の発表を繰り返していることが判明しているのではないのかな、、、 >>873
しかし朝鮮半島と対馬海峡などの大きさはきちんと比例関係が取れている。
その縮尺は一里が100メートル以下であったことを示している。 比例関係という重要な関係は、どのような関係性だろうか、、、 キナイコシは自分に都合が悪いデータを無視したいだけなんだよね? >>645
>卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初3年と <
同時代の客観性と信頼性の非常に高い魏志では、景初二年であり、
詔書を出したのは、景初二年12月。
>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に書いている<
写本ではなく、はるか後代の史家の
「後代での高慢な自己解釈による前史の内容説明的な書き換え」は、
客観性も信頼性も非常に劣り、証拠にならない。
>またそれ以降の記年鏡が畿内から出るのは畿内と魏が継続して交流していた証<
景初三年以後の紀年鏡は、明帝の下賜の銅鏡百枚には始めからならず、
また畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和からは、3世紀には△は出ないから、「魏との直接的交流があった」事の証拠にならない。
>大いに塚を作るとはどういう状況?冢は大きな墓 前方後円墳の大きさは当時国内でも随一<
大きな前方後円墳を否定する状況。冢は大きな前方後円墳ではない。
>魏の1里は律歴志と当時のモノサシの史料事実から換算し1里約430mと判明している<
その「魏の律歴志」は、魏朝のものではなく、
後代の学者の「高慢な自己解釈」文言であり、根拠にならない代物。 >>647
>2倍くらいの誤差か<
いや、普通の折れ線的道のり距離の誤差は、2割前後まで。
>自郡至女王國 二萬四千餘里w<
この男も、おそらく、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘吐き騙しの大和説者仲間。 >>650
>そもそもが魏志倭人伝が魏ではなく西晋時代の成立であり
同時代記録じゃない物は不正確というそっちの理屈によれば
魏志倭人伝の距離は不正確であり
短里は存在する確率が低いという事になるマヌケぶり<
いや、陳寿や魏略が見たのは、3世紀前半の魏使らの魏朝の記録。
>存在する可能性の低い距離記録で 存在する確率の低い距離記録を証明するのは
やっぱり循環論法という事になる<
史料事実を出発点での根拠にして、
それからの帰納的確率的な推論は、循環論法にならない。
この男のように「存在する可能性が低い」という事自体が、
「結論先にありき」になっており、循環論法になる。 >>882
メートルではっきりわかっている距離を、魏志倭人伝の中の里で発表された距離で割れば、一里が何メートルか、判明するのではないのかな。。。。 >>889
では、魏志倭人伝の中の里で発表された距離で、メートルではっきりわかっている距離はあるのだろうか。。。 >>891
どうだろうか。。。
出発先や、行き先がはっきりしていても、道が曲がりくねっていれば、比べられないのではないのかな。。。 結局九州説の主張する「短里の例」は
・観念上のもの
・誇張して盛った距離
・遠くでよく分からない距離
しかなくて、実際の地理を実測して得られた例が「一例もない」
これらが「現実の地理に合わないから短里だ」と主張するのは、
論理の方向が最初からおかしい >>665の訂正
都合よく、
「南→東」などの嘘つき騙しをし、
淮南子の短里記載の隠蔽し、
水行や陸行の曲解捏造をし、
「冢=前方後円墳」の嘘つき騙しをし、
何でもインチキ有りの、バカ大和説だった。 >>892
だが、僕達の計算では、慎重に物差しを当てて、同じ経度上で北緯35度の地点と、北緯34.31度の地点との距離の縮尺を計算できたな。。。
そして、76834メートルということが、判明したね。。。 同じ経度上で北緯35度の地点と、北緯34.31度の地点では、夏至の正午の8尺棒の影の長さが、1寸違うのだったな。。。 同じ経度上で夏至の正午の8尺棒の影の長さが、1寸違う北緯35度の地点と、北緯34.31度の地点との距離が76834メートルという、一里の長さだったのだな。。。 >>897
76834メートルは、一里の長さではなく、千里の長さだね。。。 >>671
>「其地大較在會稽東冶之東」後漢書<
後代の後漢書の、
「同時代の陳寿の判断記録の東治」」に対する、
自己解釈に拠る内容説明的な書き換えの「東冶」は、
根拠にならない。 コジェ島と対馬と壱岐との間は、それぞれ76834メートルの航海で良いのではないのかな。。。 >>904
そうだな、直線で船を進めることは難しかったので、航海の道は曲がってしまっただろうね。。。 >>673
>しかし九州説もなぜあくまで九州北部にこだわるのか
魏志倭人伝ではそこは伊都国奴国であり<
そこは、不彌國のすぐ南の「邪馬壹國女王之初都」だ。
>端のほうの不弥国の<
不彌國は、(奴國が側副傍線國説明になるから)伊都国の東百里のところ。
>次は南に水行と出てくる<
投馬國は、(奴國と同じく)「至」の前に移動した文言がないから、
側副傍線國説明であり、魏使らは移動していない。
>邪馬台国は伊都国に一大卒を置いて<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
>それら北部の国々を監視させたとあるし
里数を合計したって不弥国までで1万7百里で次に南に水行とあるし<
對海國や一大國の「大きさの里数記載」が書かれていて、国内見聞移動があった記載があるから、
その分を「折れ線的道のり距離」計算に加えなければならないし・・・。
>考古資料に関しては畿内が圧倒 <
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
文献考古共に、九州が大和を圧倒。 >>904
なるほど、、、
魏志倭人伝の里の長さは、曲がってしまうことを考えて、直線距離より短く計算しなければいけないのだな。。。 魏志倭人伝は、対馬海峡の距離を正確に知っているらしい。。。
どうやって距離を測ったのだろうか。。。 マツラ国は、長崎県松浦市だった可能性があるのではないのかな。。。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>673
>およそ邪馬台国があったとするには魏志倭人伝だけでなく
後漢書や准南子の全ての内容に矛盾を生じる<
魏使らも実地の自己見聞記録に拠る魏志の客観性や信頼性の高さに比べて、
別の時代の、実地の見聞計測を伴わない淮南子や後漢書の内容は、
信頼性が半減するもの。
>地球上で最も邪馬台国とするに不適切な場所なんではなかろうか<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
この大和説男らは、地球上で一番学問や科学に向いていない、
・・・・詐欺師の戦争宗教家なんではないだろうか。 千里の長さの丈夫な糸を船で引っ張れば、測れるのではないのかな。。。
910日本@名無史さん2018/12/07(金) 14:16:33.69
魏志倭人伝は、対馬海峡の距離を正確に知っているらしい。。。
どうやって距離を測ったのだろうか。。。 >>915
なるほど、、、
魏志倭人伝の里の長さは、糸が海の中で曲がってしまうことを考えて、直線距離より長く測ってしまったかもしれないのだな。。。 >>915
千里を超えてたらどうするのだろう。。。
そもそもそんな長さの糸をどうやって作って持ち運ぶんだろう。。。 魏志倭人伝には、千里の巻き尺があった可能性が高まってきたな。。。 >>919
現代でも巻き尺はせいぜい50mで、100mは特殊な方で使いにくいのに
それを千里とかwww
しかも雨や海水を含んだらとても重くなる糸とかwww 魏志倭人伝時代に、なぜ、航海の距離を測るための千里の巻き尺を、作製したのだろうか。。。 >>921
昼の間に、安全に航海できる距離が千里だったので、航海の道を作製するために、必要だったのではないのかな。。。 >>922
一日で移動できる距離は、海流に乗れば距離は長くなるし、逆らうと短くなる
季節風や風向きでも同様なので
千里である必要がない。。。 >>921
帯方郡の使者が、対馬海峡の長さを調査するために、作製したのではないのかな。。。 >>926
そもそも長さを知る必要があるのだろうか
一日で行けるのか、二日かかるのか
概略がわかればいいのではなかろうか。。。 帯方郡の使者が、千里の巻き尺を作製して、対馬海峡の長さを調査したのは、何故なのだろうか。。。 魏志倭人伝時代に、なぜ、航海の距離を測るための千里の巻き尺を、作製したのだろうか。。。 朝鮮半島の海岸の島ではなく、朝鮮半島にも、倭人の領地があったことが、発表されている文献は、どういう文献なのだろうか。。。
そして、日本書紀に発表されている任那日本府とは、何だったのだろうか、、、 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>849
宣言。
筑後山門では、3年暦二十四節気が用いられていた。
卑弥呼の宮室は、山門にあった。
歴史の真実だ。
わははははは。 >>844
その経験のまとめ方が間違っており、それが頭悪い証拠。 >>677
>記紀の記述よりも、実際の物理的な存在としての考古遺物の方が、根拠として強い<
客観性や信頼性の高い歴代中国史書群の証言は、否定し難く、
「正北抵新羅」などに拠る北部九州倭国や、それの「東征毛人五十五國」などがあった、
という事に違反する 考古解釈や判断は、成立し難い。
>http://livedoor.blogimg.jp/bungchanblog-kodaishi/imgs/4/d/4d3e1010-s.jpg
この範囲は、一定の協調関係にある <
その協調性の原点は、やはり九州倭国の存在とそれの「東征毛人五十五國」であり、
この地図での、筑紫と大和の庄内の年代説明や、前方後円墳などの年代説明などには、
歴代中国史書群の証言に合わないから、おそらくインチキ。
>この先は推測にしかならないが、初期の王権は祭祀王としてのもの
それが支配ー被支配の通常の権力関係になる過程が、記紀の征服譚だと考えれば、
特に矛盾はない<
「東征毛人五十五國」に合わないような推測は、×。 >>673
倭人伝が、沖縄あたりに邪馬台国があると書いたその理由を解読できない者が、必然的に至る結論がそれ。
ということは、>>673は、倭人伝の解読に失敗しているということになる。 >>681
>これも誤読なんだな 後漢に朝貢した倭奴国は、北部九州の福岡平野の奴国でよい
後漢書で極南界とされる奴国は、余傍国の最後の奴国
この二つを混同してしまっているから、おかしな話になっているだけ<
それ以前に、後漢書は、
「同時期の実地の実見計測記録」に拠らず、
前史の「高慢な自己解釈に拠る内容説明的な書き換え」を実行している、半分×書であるから、
絶対的な根拠にはなり難い、という代物。 >>686
ついに「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、
長里接までもが破綻して、悪あがきしてるんじゃない?。 >>688
>だから魏の時代も1歩=6尺だって 魏の律歴志にそう書いてある<
だから、魏朝の時代には1歩≒1尺だったんだって。
「魏の律歴志」は、魏朝よりもはるかに後代の長里時代の学者の文書であるから、
魏朝の度量衡の根拠にはならず、
魏志などで使われた度量衡の方が、正しい確率が高い、
という事になるんだって。 >>690
>魏志倭人伝も西晋時代のもので <
陳寿は、若い頃は卑弥呼のいた魏代であったし、
その後も、西晋朝の史官として、魏朝や魏使らや郡の記録を、
実見確認する地位にあったんだし。
>さらに言うなら現在見るのは原本が失われてから復刻された
12世紀のものぞ<
さらに言うなら、写本版本全体における誤字や差異の発生確率は0.5%以下であるし、
後代史書の自己解釈による「魏志写本の内容説明記載での差異発生確率」は、
殆ど100%であるし、
しかも、それらは版本時代までの写本版本で、
同じように0.5%位の差異発生をしている確率が高いものだから。 >>693
>魏志倭人伝を書いた人が当時最高の数学者ではあったが
最高に地図の読めない方向音痴だった可能性<
現在大和説学者らや、文部省学会教育界や右翼マスコミは、
現在日本の「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」の殺し合い戦争狂であって、
「南→東」などの嘘つき騙し人種であって、
最高に「史料事実の否定曲解」の嘘つき騙しの犯罪者であった可能性について。 >>697
>侏儒國も裸國も黒歯國も准南子に出てくるらしいぞ <
侏儒國は、南洋にはいた、と匂わせてあるかも知れないが、
東方には、いる、とは書かれていない筈。
>魏志倭人伝は淮南子を下敷きにしたのは明らか <
魏志は、淮南子を(踏襲せず)否定修正した事は明らか。
>そして帯方より南1万2千里は淮南子における概念上の地の果て<
いや、淮南子も、
「燕の南にいた倭が半島の南方に移った」という情報を得ていた可能性があり、
その場合の萬里は、短里の推定里数として書かれていた可能性がある。
>九州説の言うように1万2千里は短里で正確に測られたものとするなら
淮南子の記述と一致する事の説明がつかず破綻<
この大和説男の言うように、1万2千里は長里で正確に測られたものとするなら、
淮南子の記述が「短里」であった事の説明がつかず、破綻。 >>700
>淮南子は短里でこの世の果てまでを正確に測った記録なの?<
まだ、全情報を読んだ事もないが、
また、山海経には短里と長里が混在している、という谷本分析を読んだ事はあるし、
漢書などの西域への里記載には、短里とは思えない長里のような記載があったような記憶もあるし、
しかし、淮南子は亜形の一寸千里を書いているから短里があったし、
東方への「萬里」は明らかに短里であるから、
淮南子は、短里と長里の「混在」なんだろうなあ。 >>755さん
頭が俺悪いから理解できない 下記詳細に計算式を示してくれないか
>1里約430m
不彌国までが1万7百里は倭地まで1万里に割り当てた数値
残り1300里は普通の里で約500kmに換算 < >>755さん
頭が俺悪いから理解できない 下記詳細に計算式を示してくれないか
>1里約430m
不彌国までが1万7百里は倭地まで1万里に割り当てた数値
残り1300里は普通の里で約500kmに換算 < >>701
>後漢書に書かれている後漢時代には大倭王が居る邪馬臺國<
後漢時代には「大倭王」なんて存在せず、
後漢書は、5世紀の倭の五王らの東征毛人五十五國や渡平海北九十五國の実態を知って、
「大倭王」という呼称を与えたもの。
また、邪馬臺國も、その大倭王らが、
久留米付近の「臺」の地の「邪馬臺」の言う地の居した事で、呼ばれた小地域国名。
>は遣使をしていない 概念的な萬二千里は倭人伝を踏襲しているが
後漢書が書かれた5世紀前半は、直前の4世紀後半から沖ノ島祭祀が始まり<
いや、沖ノ島には縄文弥生の遺物が残っており、
「4世紀後半から沖ノ島祭祀が始まった」のではなく、
天照らの天孫族の阿毎氏らの、古くからの祭祀の島であり、
古田さんは、天の岩屋に比定しておられた。
>金海貿易に移行しているので、ルートは宗像経由の時代 後漢書のすぐ後に書かれた宋書は
「倭國在高驪東南大海中世修貢職」<
金海貿易も、対馬や壱岐を外して沖ノ島だけを経由、なんて事が起きる筈もなく、
あくまで、九州倭国の筑紫が主体であって、
伊都国と同じ阿毎氏の大和は、伊都国や倭国を介しての交易。 >>703
大和説はもう発狂するしか道は残されてねーな。
淮南子も短里だから魏だけじゃなく漢も短里だったんだ!。
あるいは、長距離を測るときは地面に棒立てて一寸千里法で測る天文里 、
すなわち短里を使ったんだ!。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。