邪馬台国畿内説 Part407
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1544843727/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12−1
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。 ◆FAQ 12−2
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。 ◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。 ◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
>>434
>解釈はしてるよ 1万2千里が指しているのは仮想上の倭の極南界<
後漢書は、同時代の遣使に拠る実見記録ではなく、後代史家の「自己解釈による書き換え」本であるから、根拠にならないので、×。
>具体的にどこを指すわけではない<
魏志は、同時代遣使に拠る実見記録であるから、〇。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 >>436
前にも書いたと思うが、
・、同時代の魏使らに拠る実見記録であるから、
遠くのことはより遠くに書く(誇張)ような、嘘吐き騙しはしない。
・水行距離は測定可能。
・魏使らに拠る実見記録であり、古伝承混じりでないから、正確。
長里なんぞを捏造しなくても説明できるよ。
「南→東」などの嘘吐き騙しだけではなく、
長里を捏造して説明というのはかなり質が悪い。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>439
魏志倭人伝の行程を大和にしようと必死の、
哀れな大和説者。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。 >>442
良心的な大和説者は、
この「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説スレに、
もう書き込まない方がいいんじゃないかなあ。 ◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>447
大和説は、初めから「嘘吐き騙しの邪馬台国という結論先ありき」で、
女王國は大和にあったんだから、
全てがそれから出発するからそれに証拠合わせをしようとして、
全部循環論法になる 。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
>>449
長里では、6倍違うんだよ。
そんなのは誤差とは言わないww。 ◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。
>>450
>律歴志によれば魏の1歩は6尺 <
律歴志は唐代文書であり、3世紀の根拠にはならない、
>1尺約24cmの当時使われていたモノサシが見つかっているから
そこから換算して魏の1歩=約144cm <
周髀算経では、1歩≒25.5cm。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 大親分は、箸墓とっくにトンズラした。
跡は二等兵任せ。今頃はうまいもん食って、うまい酒飲んで、ケケケケwww ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、卑弥呼朝貢当時から陳寿同時代人は六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「始皇帝冢「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 90を追加 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 2013年、邪馬台国畿内説は破綻し、テンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されました。。。 寺澤は逃げたというより石野の尻拭いに嫌気がさしたのではないかな
纒向学研究センターのHP読むと、纒向=王都は人ごとのような記載だなww おくやま
頑張ったね 貼り付けも大変だな
ほとんど論破されてるが
一応 ごくろうさん
FAQ90は除いた方が良いよ、テンプレの主旨を自分で破っているようなもの >>124
は?
そのHP、紀要に寺澤の文責でしっかり
”私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。”
って書いてあるぞ 2013年、邪馬台国畿内説は破綻し、テンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されました。。。 大親分は、卑弥呼をホケノに押し付けてトンズラした。
跡は橿考研の二等兵任せ。今頃はうまいもん食って、うまい酒飲んで、ケケケケwww >>126
知ってる?
反論しないと論破できないんだよ 2013年、邪馬台国畿内説は破綻し、テンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されました。。。 まあこれほど嘘ばっかりついてる人も珍しいけど
それが少なくとも2人はいるんだぜ
すげえな九州説 どのスレだったかな
これは、ただ事ではないぞ
と気づいているような人がいたり
(謎の震災、気象などを含め)
このスレだった? >>129
> 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
⇒短里批判は畿内説の更なる真実の探求と関係ない
>注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
「畿内説以外の独自説を単独で開陳」することはご遠慮ください。
⇒短里批判は「畿内説以外の独自説を単独で開陳」
よって、FAQ90は不要 >>138
小汚い主は何でもやるさ
老い先短いから許してらったら 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>138
は?
なんで短里批判が「畿内説以外の独自説を単独で開陳」なんだ?
意味わかんね
畿内説は全員短里否定なんだが FAQは後期高齢者向けのサービスだよ
説明しても飯食ったら忘れるからな
テンプレは元々九州説の爺の要望で始まった >>139
>小汚い主は何でもやるさ
老い先短いから許してらったら <
老い先短いから良識ある人間に更生させなくちゃ
奴は地獄には行ってしまう・・・オカルト畿内教から救ってやろうよ >>138って、自分の考えを論理的に説明できない人の書く文章の典型っぽいね >>143
FAQ 90が九州説の致命傷って自覚でたんじゃないの? 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>457
後漢書の「極南界」は、「後代史家の范曄の解釈造語」であり、
論拠にはなり難い。 >>149
また「解釈造語」なんて
変な「造語」つくったね
ww ザラコクの発明した「造語」で、ある意味一番嗤えるのが「半分×書」
都合の悪いところは「×」で、都合のいいところは「すべて×ではない」という
チェリーピッキングしかしてません宣言ww >>147
実際、「短里で満二千里だから九州」以外に、積極的な九州説の根拠がないからな
そして、短里は捏造ってはっきりしたら九州説は全滅だww 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために雇用した宣伝係員が、悪口を言ってきたな、、、
155日本@名無史さん2018/12/17(月) 15:37:16.08
>>154
あなたは心が破綻してます >>471
実際は長里記載なんて存在せず、「南→東」も有り得ない事が明白になって、
大和説は根本から瓦解したんだけどね。 >>472
>秦の始皇帝による度量衡の統一以降、長さはすべて公定尺だよ
そして一歩=六尺と定められている <
魏の初代文帝の即位の「受命改制」の詔書で、
始皇帝の「1歩=6尺」で混乱した度量衡の統一の指示がされ、
重臣たちの「周制への復古」の上表に拠って、
周朝の周髀算経の一寸千里の法の度量衡への復古が決まった。 >>474
>径600歩は900mになるぞ<
ならない。一寸千里の法により、1歩≒25.5cmで、
百余歩は、25.5m余り。 >>158
ウソはバレている
テンプレ
>「始皇帝冢「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
>「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
> ※「皇覽」(魏文勅撰) 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>476
箸墓も、
一歩=6尺なんていう「始皇帝の命令」を使わないと円墳部分しか径百歩にならない、
という時点で「デタラメ」。 >>485
>>短里を認めると、自動的に径百余歩も縮小されて、平原遺跡で確定。<
>周髀算経を短里の根拠にするのは諦めるの?ww 八尺棒も6分の1の長さになるぞww<
尺の寸法は、周代から6倍の変わっておらず、少しだけの変化であるから、
6分の1に拠って、ならない。 >>486
>架空じゃなくて当時のモノサシ等の史料から換算して
1里=約430m
1歩=約144cm
1尺=約24cmと判明してるんだよ
古代中国で今まで使われてきた尺度とそう大きな差はなし<
尺の長さは、古代から余り変わって来なかったが、
歩の長さが、始皇帝が「1歩=6尺」の命令を出し、
魏朝が「1歩≒1尺」位の換算に変更した。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>165
そういう妄想を、振り撒けば振りまくほど
九州説の信用は落ちていくのだよ 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>168
韓国政府は、4世紀後半に崇神天皇が大きくした日本国が、魏志倭人伝時代の倭国だったという、嘘を宣伝することで、倭国の真実の領地を、偽造しているのだな。。。 >>165
>尺の長さは、古代から余り変わって来なかったが、
じゃ、どうして随分と違う尺の実物が出土してんの? 魏志倭人伝時代の倭国は、一体、どのような領地を獲得していたのだろうか、、、 >>487
こういう魏志倭人伝の記載の問題のスレではいつでも、
万世一系皇国史観戦争狂の・・・・的「畿内説」論者が湧いてきて、
いくら、魏志倭人伝の客観性や信頼性を説明して上げても、
「南→東」などや「里記載は間違いだ」などの、
史料事実や史料実態の否定曲解のウソ付き騙しを主張し始める。 >>172
あんたがなんにも証拠を出さないから
人から信用されてないだけだよ >>489
>歩はもとが身体尺だから長さが6分の1になるような尺度にはどうやってもならないよ<
身体尺が「1足底長」 であれば、非常に「基準」とし易いが、
「1脚間長」とか「2脚間長」では、個人差も大きく、努力差も大き過ぎて、
とても「普遍的的な計測基準」にはなり難いもの。
>歩は複歩なんだから複歩が20センチって足を10センチずつしか進めないことになるww <
この・・・・大和説男は、また、「変な曲解否定」をしているようだね。 >>174
このように、あらゆる文献を無視して自分の思いつきを押し通すのが、九州説 >>499
>(鉄器)古墳時代に入ればあっという間に逆転するんだが<
近畿の古墳時代の前方後円墳自体が、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍たちの所産であり、
鉄製武器の搬入や製作法の伝来があっただけなんだが。 ザラコクがうるさいから一度貼っておく
魏文帝即位の制詔
「上古之始有君也、必崇恩化以美風俗、然百姓順教而刑辟厝焉。
今朕承帝王之緒、其以延康元年爲黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行、大赦天下。
自殊死以下、諸不當得赦、皆赦除之。」
二行目の解釈
年号は延康元年を黄初元年に変える
正朔は改めることを検討(あとの記述で変えなかったことが判る)
服色は変える
徽号も変える
律度量は同じにする(変えない)
土行はそのまま継承(変えない)
「同律度量」
音律と、度量衡は同じくする(変えない)というのが詔勅の内容
これがどうして、周制に変えることになるんだかww >>501
>(唐津平野のどこを起点にしても、どうやっても3倍以上にはなるよw<
この大和説男は、韓地や海峡での短里使用例を黙殺して、
「五百里」も、長里だ、
という印象操作の嘘つき騙しをしている・・・・詐欺師のようだ。 >>178
>この大和説男は、韓地や海峡での短里使用例を黙殺して、
三海峡はすべて一律千余里であることから、実測していないことが明白
韓地の大きさは、倭の本土までの距離を「万里」にするために
万里から三海峡、三千里を引いた七千里に合うように机上の計算で合わせてある
どちらも短里じゃないねぇ >>177
そして実際変えなかった証拠の一つが
テンプレで紹介されて皇覧であるわけだ >>505
>(土器の動きは畿内→北九州なのだから畿内人が北九州に防人で出張してたのでしょ?<
大和説者の論理では、
「大和の周りから大和への搬入土器が多かった」から、大和が首都だ、
という事であったから、
それなら、筑紫→大和の搬入が0で、大和→筑紫の搬入が多ければ、
筑紫が首都になる、という事が道理だ、
しかし、実際には、柳田や米田がついうっかり漏らしてしまったように、
筑紫の庄内の大半が筑紫の胎土で造られている、という事は、
庄内も、筑紫が先行していた、という事の証拠になり、
東瀬戸内や大和などは、東征毛人五十五億の将軍らが齎して、
播磨屋河内や大和などでの庄内の模倣生産が始まった、
という事になるのが、道理だ。 >>149
後漢書の記録は1世紀の後漢と倭奴国の朝貢記録をそのまま写しただけだろ
意見がある場合は范曄は同文書内で
(案今名邪摩堆音之訛也)のように注釈としてつけるもの >>181
>大和説者の論理では、
>「大和の周りから大和への搬入土器が多かった」から、大和が首都だ、
>という事であったから、
そんなこと、誰が言ったの? >>512
>畿内説は行程の里数、方位を不正確と考えて
考古遺物を根拠にするから唐津→糸島に比定してるが
九州説の行程記事が根拠なら唐津→糸島にはならない <
九州説でも、「東南陸行五百里到伊都国」を、
「東南」が出発時点での出発方向、
「陸行五百里」が途中の説明、
「到伊都国」が到着の説明、
と順次式に解して、
きちんと糸島平野の「怡土」の地に到着する事が出来る。 >>184
>「東南」が出発時点での出発方向、
>「覧、行五百里」が涛r中の説明、
それでは方向転換が書いてないから、たどり着けないねぇw >>158
周は時代によって違うが
1尺の長さが約17〜20cm
魏は見つかってるモノサシから1尺約24cm
ぜんぜん周制と違うじゃないか >>184
>「東南」が出発時点での出発方向、
>「陸行五百里」が途中の説明、
>「到伊都国」が到着の説明、
1.出発した方向は書くが、どれだけ進んだかは書かない
2.どれだけ進んだかは書くが、どっちへかは書かない
そんな文章を書くのは、気の狂った人だけ どっちにせよ、会稽は九州最南端より南だから
九州説は破局してるけどね 距離の短里については賛同しません。
方位については、天体(太陽、星)から間違う可能性は低いと無いと思います。
いずれにせよ、方位・距離を無視しても
倭人伝に基く遺産では圧倒的に九州説が優位と思います。
倭人伝の方位以外の遺産を畿内VS九州で○✖△でやってみたのですが九州でした。 >>189
>倭人伝に基く遺産では圧倒的に九州説が優位と思います。
倭国(阿波)の比じゃないけどね。
>倭人伝の方位以外の遺産を畿内VS九州で○✖△でやってみたのですが九州でした。
倭国(阿波)の比じゃないけどね。 @阿波 >>515
>歩という長さはもともとは複歩の身体尺<
「歩」という文字は、前後に「止」の文字を配しているから、「歩いて」おらず、
止まっている状態の「長さ」単位であるから、「1足底」長になり、
「複歩」なんかには全くならない。
>周朝(西周)の頃は人によって長さの異なるだいたいの値 <
周朝は、周髀算経の一寸千里の法の度量衡を使っているから、
「1歩≒25.5cm」の短歩。
>それが春秋戦国(東周)時代の、国ごとの変法の時代を経て、秦の始皇帝の統一により
度量衡も公定尺として固定値となる 尺の長さが規定され、その6尺が一歩という定義となる<
しかし、漢代にも、淮南子や介山のように、短里短歩系の使用者がいた。
>ただ、その際ももともとの「複歩の身体尺」から大きく外れない値に決められているし、
普通に歩いた複歩から何倍も異なる長さを、「歩」の文字で表すのは無理<
始皇帝の命令による混乱を、
魏朝が「周朝の周髀算経の一寸千里の法の短里短歩に戻す」事を決めた。 >>193
歩くという文字が歩かないと主張するトンデモ説に
拍手
拍手 周の1尺は17〜20cmだから
もし1尺=1歩の短歩で距離測ろうとするなら
かなり足の小さい選ばれた人間にしかできんぞ >>195
魏晋の頃の尺→里の換算を明記した文献は何? だいたい魏が周制に戻すなんて
一部現代日本史の創作だから >>193
>「歩」という文字は、前後に「止」の文字を配しているから、「歩いて」おらず、
>止まっている状態の「長さ」単位であるから、「1足底」長になり、
>「複歩」なんかには全くならない。
止まるという字は、木の枝を模したもの
歩の字が、前後に「止」となっているのは、楷書が整えられているときに、
足指が木の枝の象形に近づけられた結果
これで、歩が複歩ではないことの論証のつもりだから、恐れ入るww >>516
>邪馬台国と卑弥呼の時代はもう古墳時代に入っている<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らの「古墳時代」という文言が、
信用出来ない。
古墳という言葉は、本来は「墳丘を形成した墓」は全て含む事になるが、
それを大和説者はこっそり、大和における前方後円墳の事とした論に使っている。
そして、卑弥呼の墓の「冢」は、本来は「墳」とは区別されて別の形態であり、
前方後円墳は冢よりも新しい形態になるものであるが、
大和説者は、「冢=前方後円墳」だという曲解をして、
大和の前方後円墳や箸墓を「卑弥呼の冢」だ、とするインチキをやっている。
だから、本来は、
筑紫の那珂八幡などの前方後円墳や、大和の石塚やホケノや箸墓などの前方後円墳は、
卑弥呼の冢にはならず、
もっと後の時代のものだ、といういう事になる。 >>201
晋書律歴志
>>198
海島算経ね
同じことが書いてあるの? >>193
>始皇帝の命令による混乱を、
>魏朝が「周朝の周髀算経の一寸千里の法の短里短歩に戻す」事を決めた。
本当にザラコクの歴史観っていうのは滅茶苦茶だな
日本の歴史を知らないメキシコ人の歴史観(メキシカンの歴史観)でもここまでデタラメではない
始皇帝の命令による度量衡の統一で、中華世界の測量、計量は混乱が収まったんだがな
周髀算経は、漢代に既に間違っていることが確認されている書であり、公文書でもなんでもないから
「周朝の周髀算経の一寸千里の法の短里短歩」なんてものがそもそも存在しない
どこまでも、インチキを言い立てる困った爺さんだよなww >>200
>古墳という言葉は、本来は「墳丘を形成した墓」は全て含む事になるが、
それ、だれのトンデモ説?
弥生の低墳丘墓は古墳に含めないのが常識だよ >>521
>>だから投馬国という名前が伝わっている程度で、詳細情報(里程)がないんだよ<
>ちゃんと「水行二十日」と「道里」はきちんと略載されてるよ<
「南至投馬國」の文には、途中移動があった記載がなく、
従って、魏使らは不彌國から投馬國への移動を行っておらず、
従って、「南至投馬國」の至は、「四至説明」と同じような、
「南へ行けば至る」という所在位置を示す文である事になり、
その後ろの「水行二十日」は、不彌國から投馬國へ行った場合の所要日数を示している、
という事になる。 ザラコク珍説、略してザラ珍
いかなる場合も証拠なし 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 九州説はおおよそ全ての
文字通り全ての史料記述・考古資料・化学的測定結果を
片っ端から全て否定しないと成り立たないぞ >>190@阿波
方位を除けば畿内説より優位だと思いますが 畿内説のスレで
九州説の短里
で賑わう
哀れさよのーーー 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>209
>わかり辛くてしょうがねえよ
分かる方がおかしいww
そもそも、何か書いて「反論した気」になるのだけが目的だから、
意味のあることはそもそも書いてない
論点は「水行二十日」が「道里」の表現かどうか、なのに
「途中移動」とか「四至説明」とか、ザラコク用語を並べるだけでまったくトンチンカンw >>214
韓国政府は、4世紀後半に崇神天皇が大きくした日本国が、魏志倭人伝時代の倭国だったという、嘘を宣伝することで、倭国の真実の領地を、偽造しているのだな。。。 魏志倭人伝時代の倭国は、一体、どのような領地を獲得していたのだろうか、、、 >>530
>まだ理解できないのか 秦の度量衡統一以降は、公定尺だ<
まだ理解できないのか?。
始皇帝の「1歩=6尺」の命令は、
魏の初代文帝の即位の受命改制の詔書で否定され、
周朝の周髀算経の「一寸千里の法」の短里短歩の度量衡に変更された。 >>531
>>内行花文鏡を含む、九州北部の文化の影響が畿内に到達したことを示す古墳ですね。
その頃に畿内が征服されたんですね。<
>それが恐らくは西暦160年〜180年にあったと言われる倭国大乱だろう
卑弥呼の時代より60年は前の話だな
まあ後漢書と日本書紀が正しいとしての話だけど <
「倭國亂」は、九州倭国内での乱であり、東方倭種には直接的な影響はない。
瀬戸内や近畿東海に直接的な影響があったのは、
当然九州倭国の「東征毛人五十五國」であり、そのために、高地性集落が出来た。 「倭國王・帥升はスサノオではないか」
新井白石など江戸時代の国学者にとっては日本の歴史が中華皇帝への土下座から始まるわけで、
最悪の仮説ですが一応立ててみたでしょう。
そうすると帥升の約100年後にヒメ、そしてすぐ後にトヨがいるわけです。
107年倭國王・帥升 スサノオ
・
・
・
238年 卑弥呼(ヒミコ) ヒメ(踏鞴五十鈴)
・
266年 台与 トヨ津
神武東征紀とは女王国を隠ぺいするための大袈裟な記述であったことが分かります。
邪馬台国はやはり大和である。
しかしそれは古代天皇の朝貢を意味する。
新井白石など江戸時代の国学者にとっては絶えられない屈辱である。
だから「邪馬台国とはどこだろう、私は九州だと思う。高天原は常陸である。」
などとしらを切り邪馬台国論争をスタートさせたのです。
つまり九州説なるものは虚構なわけです。 >>534
>>畿内説は卑弥呼より後のことしか持ち出さないよね。<
>そう思っているのは、未だに九州説を信じ込んでいる(自己洗脳している)人だけ
古墳時代に入るのが卑弥呼の時代 <
卑弥呼の墓の「冢」は、前方後円墳ではないから、
この大和説男の「古墳時代に入るのが卑弥呼の時代」という主張は、×。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用され たのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、、 >>536
>ホケノ山が3世紀中ごろより前の造営だから
古墳が出来たのがそのくらいだから卑弥呼の時代は古墳時代
オレがそう決めた<
ホケノの前方後円墳も、卑弥呼の墓の「冢」ではなくその後であり、
ホケノは、有棺有槨であるから、卑弥呼らの有棺無槨ではなくその後であり、
更にホケノは「庄内〜布留」期であるから、3世紀末以後になるから、
この男の「オレがそう決めた」って、×。 >>212
>方位を除けば畿内説より優位だと思いますが
方位も距離も遺跡も「其山有丹」でも 九州は論外!!! @阿波 >>539
>ホケノ山と椿井大山2つの古墳から合わせて300点 ウィキペディアとかでも見れるよ
そしてそちらの言う生活跡からの鉄器の発見に何の意味があるのか<
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」は、
魏使らが、古墳への副葬品として見たのではなく、兵士らの日常での使用武器としての記載である。 やはり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用され たのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、、 >>542
>もとが身体尺で、文字の成り立ちからして「複歩」だから、
複歩から大きくずれる「歩」はあり得ない <
象形文字時代は、歩く「足底」を示しているだけであり、
それが「歩」という文字を形成する時には、
「前後向きの止の字形」をくっつけているんだから、
「歩」は止まっている状態を示している事になるから、
それを長さの単位に使った場合には、「1足底長」の長さになる。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用され たのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、、 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>543
>畿内の古墳からザクザク出てる、
鉄鏃は、石塚からは出ず、
鉄鏃が初めて出たホケノが「庄内〜布留」という事は実質的には布留であるから、
4世紀であり、
卑弥呼の3世紀半ば前にはならず、×ね。 >>234
>鉄鏃が初めて出たホケノが「庄内〜布留」という事は実質的には布留であるから、
4世紀であり、
それ、なんか根拠あるの? >>198
「海島算経」について書いてあるこの文献
http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf
には
中国の数学では、ギリシャ数学の ような抽象化は行われず、朝廷百官の実務のための例題の数値には必ず「単位」が付いている.
また例題 は現実にありそうな内容のものばかりである.漢代以前から書き加えられながら、教科書として使われて きたためか、
『九章算術』の距離に関わる例題には、1 里=405m~435m 程度の漢魏晋代の里の他に、1 里= 67.5~72.5m 程度の(短)里が「但書きなしに」使われている.『三国志』にも短里と長里の混用がある.」
と書いてあるぞ。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>552
>その頃に九州には前方後円墳はない <
ある、
「くびれ部彎曲」の那珂八幡の方が、撥型の石塚などよりも、
高句麗の前方後円墳形に近くて、古い。
>ホケノ山の埋葬されていた木棺の木片5つを 炭素14C年代測定した結果
120年〜240年のものと判明 ><
AMS法だけでも50〜100年位古く出るし、
木片全部のデータを出さないから、信用出来ない。
>副葬品から見ても3世紀の前半のもの<
ホケノは「庄内〜布留」であり、年代は新しいものになるから、
ホケノは3世紀末以後。 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>555
大和のホケノに鉄鏃があるからと言う度に、
「庄内〜布留で3世紀末以後」でブン殴られる大和説 。
あちゃー 。 ほらな
やっぱり九州説は定説科学的測定を全否定して
ワッショイワッショイとやっとるわ 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>562
>ホケノ山に収まられていた木棺の木片サンプル5つを
放射性年代測定したら120年〜240年のものと判明 <
「木棺」であれば、何年前の古い伐採材であるのか?という問題があるし、
幹の表面ではなく、古い木髄に近い所だからでも古く出る可能性もあるし、
AMS法のプラズマ化だけでも50〜100年位古くでるから、
まあ、100年以上は古く出たデータだな。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用され たのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、、 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>212
>方位を除けば畿内説より優位だと思いますが
方位も距離も遺跡も「其山有丹」でも 九州は論外!!! @阿波 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用され たのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、、 >>244
100年古く出ても220〜340年だぞ
副葬品の年代観からホケノは3世紀前期〜中期は間違いなし
そもそも100年の誤差を含んでの120年〜240年という測定だから
そこにさらに100年を足してどうする
そしてまたプラズマ化で年代が古く出るとか意っておるが
プラズマは電磁気力で炭素14の原始崩壊は核力の問題
この2つがお互い影響を与えるわけがないと南海も説明されただろ >>568
>そして片や、九州では、生活空間から銅鏡が出土しない、<
九州では、蝙蝠鈕座内行花文鏡や沢山の鏡片は、生活空間からも沢山出ていた筈。 相手の立場を思いやる気持ち。。
たった四千里四方ってのが短里で確定したらどうすんのよこれ。。。 九州説特にザラコクに顕著なんだが
多くの研究で詰み上がった根拠なんかを
自分の都合に悪ければ無視しあるいは改ざんして平気だな
それはひいては歴史やあるいは法なんかも都合で無視して平気というわけだ
どっかの国の気質をそのまま体現してるんだろうな >>571
>つまり九州の奴国は畿内邪馬台国の将軍に征服されたという事でいいのか<
よくない。大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の附庸國。
>意味はあるだろ でかい古墳が作られるような大きな勢力が
卑弥呼の時代3世紀の畿内にあったという事だ <
大和のでっかい前方後円墳は、卑弥呼の墓の「冢」ではなく、
だから、3世紀末以後であり、卑弥呼の時代ではなくもっと後だ、ということだ。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用され たのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 >>578
>残念だけど帯方より南1万2千里は概念的な数字で どこを指してるわけでもないよ<
萬二千余里は、魏使らの実地の計測値。
>それに中華文化圏という事なら
畿内から三角縁神獣鏡やその他中国鏡が多数見つかっている<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
△は、渡来の呉系楽浪鏡師らの鏡であって、魏鏡や明帝鏡ではない。 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用され たのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 相手の立場を思いやる気持ち。。
たった四千里四方ってのが短里で確定したらどうすんのよこれ。。。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用され たのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>579
>北部九州の最初期古墳は段築、葺石がない
(豊前、豊後は一部葺石はあるが段築は未定型) <
祇園山は、葺石はあるが、段築はないよう。
>UB期以降に畿内型の段築、葺石を備える(御道具山、光正寺)<
UB期の実年代でも、筑紫は大和よりも古くなり、
従って、「畿内型」前方後円墳というのは間違いで、
実際は、「筑紫型」という事になる。 >>261
ザラコクは古田史学系だよ
まあ、トンデモ古田史学のさらに劣化コピーなんだけどさw
古田武彦氏もあれだけ史料批判がーって言っておいて、
偽書の東日流外三郡誌にコロッと騙されるんだからw 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用され たのは=A何故なのだろb、か。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用され たのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用されたのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 相手の立場を思いやる気持ち。。
たった四千里四方ってのが短里で確定したらどうすんのよこれ。。。 そんな事よりも成り済ましは何がしたいんだ?
肉を食べているようなことを言っていたり
てんのー? 家の老婆が言うにはw
あの写真があるでしょ、
肉は食べなかったと言っていたり 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 キュウリのような葉、葱の華・・・
その写真の話
芋類、ニンジンを煮たようなものばかり食べていて、
好きだったと言っていたのかな? どの時代からなのか、知らないけど、
てんのーの話??
入れ替わって(入れ代わっている)いますよ
みたいな話ばかりしている人たちがいたり >>213
このスレはアンチ畿内説のスレかもな
テンプレもワザと畿内説の恥部を変化球で投げてるな
だから畿内説の奴が寄り付かず ごくわずかな畿内説の奴が時折 カキコムな 神代〜一系(直系?)が何やらーという話も同じ、
なぜだと思う >>580
自然や歴史における観察実験計測事実などからの帰納的確率的推論という、
科学的学問的手法を否定しないと成り立たない「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
それが非科学的説である事の何よりの証拠、 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 こいつ倭人伝に精通してないなwww
☟
>>192日本@名無史さん2018/12/17(月) 18:48:52.41
九州説はまったく証拠を出さない
常に >>198
「海島算経」について書いてあるこの文献
http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf
には
「中国の数学では、ギリシャ数学のような抽象化は行われず、朝廷百官の実務のための例題の数値には必ず「単位」が付いている.
また例題は現実にありそうな内容のものばかりである.漢代以前から書き加えられながら、教科書として使われてきたためか、
『九章算術』の距離に関わる例題には、
1 里=405m~435m 程度の漢魏晋代の里の他に、
1 里= 67.5~72.5m 程度の(短)里が「但書きなしに」使われている.『三国志』にも短里と長里の混用がある.」
と書いてあるぞ。 畿内説は
アンチ九州説で成り立ってるの??????????????????
畿内説は
アンチ九州説で成り立ってるの???????????????????
畿内説は
アンチ九州説で成り立ってるの??????????????????? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 詳しいことはわからないけど
上代というのがあるでしょ、
そこから?本当に一系(直系)なの? 寺院が〜という話もしていたり、
馬に乗り、腰に刀を差していて
とかw >>581
>年代は土器鏡年輪炭素一致してるのだし疑う必要無いでしょ
編年については半世紀前の考古学より明らかに優れてるじゃん<
大和説学者は、
土器年代では、50年位以上古い筑紫を新しい大和と同じ編年をしているし、
鏡年代でも、明帝下賜鏡時期や大和の△の年代のインチキをやっているし、
年輪でも、標準木と検体木の生育時の気候変化の一致か?の確認が不十分であるし、
炭素でもプラズマ化で放射性壊変が促進される、という事を失敗したし、
明らかに、現代科学に遅れているアホじゃん。 👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀
誤情報以外の南≠東の畿内説のお手並み拝見
👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 邪馬台国の話ではないのかもしれないけど、
なぜ、そのような話ばかりしている人たちがいるんだと思う 『ボーボボ』『何者にもなれない お前たち』その他?
なぜか・・・家の写真? >>1
寺澤さんの最近の論調
確実に邪馬台国畿内説から離れ初期ヤマト王政を語っている
邪馬台国は彼のネタ話
寺澤 講演 などでググルといいよ >>583
っていうか、大和説は、始めから、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しをし、
「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」という「結論先にありき」の循環論法だし、
安部自民や右翼マスコミや学会教育界の人種差別的殺戮戦争推進の・・・・集団であるし、
オームのような唯我独尊な宗教の反学問だから。 >>286
👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀
誤情報以外の南≠東の畿内説のお手並み拝見
👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀👀 👀
⇧
径百歩は誤情報では無い 箸墓が存在する ナニヤラ教、何々宗・・・、
そういう影響もあるんだろうけど
ホンモノは食べないはず >>291
御都合主義だよ
だから畿内説は国民の支持を受けないのだよ
銭がらみの畿内説はイカンよ >>585
史料事実や、史料批判された史料実態に逆らって、
無理に大和の時代や編年を繰り上げようとする大和説が、
その年代の根拠を、殆どなにも言わない不思議。 >>586
いや、だから、大和説にとっても、
卑弥呼の冢は前方後円墳ではない、という事や、
「庄内〜布留」のホケノが3世紀末以後で、
問題ないですってば。 >>588
しかし恐ろしい話だよなあ。
大和説は、安部自民や右翼マスコミや学会教育会や殺人戦争キョクウらの関与が、
強く疑われるけど、
しかも、よその国の歴史を嘘で塗り変えてやろうとか 。 天皇でしょ?
肉などは食べてはいけないんだよ、ちゃんと教えてあげたほうが良い
その他(不明?)の人々は、
好きなものを食べても良いの ERROR: We hate Continuous....
連投ですや
問い合わせID:48a9eec1b868947b
ホスト:219.115.235.241
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>588
しかし恐ろしい話だよなあ。
大和説は、安部自民や右翼マスコミや学会教育会や殺人戦争キョクウらの関与が、
強く疑われるけど、
しかも、よその国の歴史を嘘で塗り変えてやろうとか 。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ちゃんとやらないと、おかしくなるでしょ、
例えば日本のシステムとか
税金で生活をしているんじゃないのか?
と言ってる人々がいたり >>598
その前に、短里を使う人も使う理由のある人も3世紀にはどこにもいた、
ってことに対する反論が一切ないんだがww
長里は捏造(合言葉)w >>599
筑紫と大和の古墳年代や土器編年を比較すれば、
大和が、筑紫の古墳も土器もも模倣してることになるから、
目が届かないというのは、研究者の怠慢。 いつの頃からか、
偽(まがいもの)の取り巻きのような者達が集まり、
肉でも何でも、好きなものを食べているとか? >>602
>>邪馬台国七万戸ってどこ? <
>大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器を共通に使う範囲<
「南≠東」などに拠って、×。
>>投馬国五万戸ってどこ? <
>中国地方日本海側(丹波以西)の四隅突出墓を共通の墓制として採用している範囲<
どちらも単一集落ではなく、既に広域が一人の首長に統合された領域国家段階に進んでいる
有○○戸ではなく、可○○戸の書き方になっているのは、広域国家だからという見方もできる<
これも「南≠東」に拠って×。 >>694
筑紫が先に在地の胎土での土器を造り、
河内や大和はそれが伝搬して模倣したから 、
研究者は、「魏使らは大和の事は耳にしている」程度は位にしか考えられない。
「考えた」っていうのは、お前の願望。 なぜ漫画、アニメ・・・ゲーム通ヲタ?
のような人達がいるでしょ、
たまに詳しい人がいない?
なぜなんだろう、
老婆と同じようなストーリー、コンセプトのような作品があったり >>281
漢魏晋代の里は1 里=405m〜435m
『九章算術』は「漢代以前から書き加えられ」ているから
他に、1 里= 67.5〜72.5m 程度の(短)里が使われ、
『三国志』にも上記の混用があるということね
つまり東夷伝の里は机上の里だね >>608
>筑紫説は福岡の研究者の研究成果を無視する <
九州や筑紫の研究者や考古学者の大半も、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説学者らの家来であり、
九州の研究成果を無視する。 >>609
>>根拠なし<
>根拠は何度も示してあるとおり、土器編年が十分に検討されており、
また、庄内期の土器と纒向型土壙内に同時に供献された桃核の14C年代から
纏向型前方後円墳が、3世紀初頭から前半に築造されたことが分かっているからだよ<
AMS法が、既に50〜100年位古く出る、という事が分かっておるから、
「3世紀初頭」という結果は、3世紀末頃以後、という事になるしかなく、
それで、前方後円墳や庄内や布留の年代観とほぼ一致するんだよ。 尺と里の換算そのものは、漢書食貨志
六尺為步。步百為畝。畝百為夫。夫三為屋。屋三為井。井方一里。是為九夫。
六尺を歩と為す。步百を畝と為す。畝百を夫と為す。夫三を屋と為す。
屋三を井と為す。井は方一里。これ九夫を為す。
最初の六尺=歩はいいな?
次に「畝」の長さが百歩と規定される
次に畝を百本並べたもの(百歩の正方形)が「夫」
夫を3つ並べたもの(三百歩×百歩)が「屋」
屋を3つ並べる(三百歩×三百歩)と「井」
井が一里四方で、九夫になる
つまり百歩の正方形「夫」を縦3つ横3つ、井の字に並べたものが一里四方だから
一里=三百歩となる
晋書律暦志に書いてあるのは
数学家の劉徽が「九章算術・商功」に注釈を入れ「莽尺(王莽時代の計測器具)一尺は、当時(魏時代)の尺度で九寸五分五厘に相当するとした」こと
原文は
魏陳留王景元四年,劉徽注《九章商功》曰:「當今大司農斛,圓徑一尺三寸五分五厘,深一尺,
積一千四百四十一寸十分寸之三。王莽銅斛,於今尺為深九寸五分五厘,徑一尺三寸六分八厘七毫。
以徽術計之,於今斛為容九斗七升四合有奇。」魏斛大而尺長,王莽斛小而尺短也。
新莽嘉量(王莽銅斛)は現物が現存しているので、そこから魏代の一尺の値が分かる
新莽嘉量の尺(漢代)が、23.1センチ
これが魏尺の九寸五分五厘に当たるから、魏尺は24.2センチになる
一里は1800尺だから、魏晋里は435.4メートル
短里なんてどこからも出てこない >>612
ウソをついて、世間の人々を騙すな、詐欺師。
「大作冢」は、「冢を大いに作る」であって、
「大きな冢を作る」ではないんだよ。 >>310の補足
尺と里の換算は、秦の始皇帝が度量衡の統一時に定めたものだが、
秦王朝が短命だったため秦代には文書にまとめられなかった
そして漢は秦の度量衡の統一を引き継ぎ、その記録が漢書として残されている >>615
そこまで言うんなら、何故、
福岡の総遺跡数は総発掘数を数えて、
同じく大和でも数えて、
比較してくれないんかね?。
どっちにしても、福岡の方が大和よりもはるかに多い、というような状況だよ。 >>618
>そして、記録は魏使という魏朝の役人が見た範囲での記録なんだから、
魏の公定尺以外の尺度が入り込む余地はない <
また変な言い方をしているな。
尺は周尺と大体同じだし、歩も「周髀算経の短歩」を使った。
>報告の不正確さ、陳寿の思い込みによって、魏使の見た通りが
魏志倭人伝に書かれている訳でもないけれど
いずれにしても、どこかの誰かが「短里なるもの」を使った理由はどこにもない
短里は捏造(合言葉)<
魏使らは、周代の短里や短歩を使って記録した、
長里を使った、は捏造(合言葉)。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>630
>>中華の文明が及ぶのは、帯方郡から一万二千里の九州北部で尽きているからね。<
>尽きてないよw <
「中華の文明が及ぶ」なら、尽きている。
>島巡り仮説を導入したら、嗤われるだけって早く認識できるといいね!<
島巡り論に拠っても、大和説が×だって、早く認識できるといいね!。 >>310
どうもありがとう。
漢書食貨志だったんだね。
それ以降の王朝で一切変更された形跡はないのかな? >>281
>1 里= 67.5~72.5m 程度の(短)里が「但書きなしに」使われている.『三国志』にも短里と長里の混用がある.」
と書いてあるぞ。
なんの証拠も出さずに、な
九州説はまったく証拠を出さない
常に出さない >>236
と、畑違いの学者、つまり中国古代史に関してはズブの素人が根拠もなく言ってるだけだね 80歳越え世代は九州説全盛時代に若者だったからね
歴史を本格的に学んでない他分野の専門家は
ときに大トンチンカンをやらかす >>330
1里=76.5m。
これは、谷本茂という人の1里=76m〜77m説に関連して出てきた数字。
周髀算経という天文書に記述されている測影法から、谷本茂が独自計算して、周代には1里は76m〜77mであったと述べた。
この谷本茂の1里=76m〜77mについての議論で、(距離を計る単位が76mや77mであっては、ダブルスタンダードであり、そんな幾通りもの単位がある物差しはない。物差しの目盛りの単位は一つでなければならない)ということになった。
そこで、では、ということで76m〜77mの中間である76.5mを1里の仮の長さとして、議論を続けたもの。
1里=76.5mは、そういう背景がある。 なんだ
短里に文句付けるしか能は無いのかキナイコシの馬鹿
距離以外は無いのか
得意の前方後円墳、三角縁神獣鏡を再度持ちだすかい >>684
ホケノが3世紀前半〜中頃までなら、記紀でいうところの開化だろうな。
記紀が書いているような“天皇”ではないが。 >>324
短里は、文句つけるほどのものかよ。
お遊びにしか過ぎんのに。 >>326
でも短里がないと九州説は死ぬ
つまり九州説はお遊びにしか過ぎない >>314
>何故、
>福岡の総遺跡数は総発掘数を数えて、
>同じく大和でも数えて、
>比較してくれないんかね?。
自分でやれやw
データベースの説明で
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
1 遺跡地図
2 遺跡地名表
3 発掘調査報告書(報告書抄録)
遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」
と書いてある
『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
結局、自治体レベル(教育委員会)が遺跡を多く数えるかどうか、なんだよ
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだ ちなみに
奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵
それに対して、糸島の三雲遺跡群は24件
結局、何を以って遺跡数とするかは、その地方自治体の考え方次第ってことで、
奈文件のデータベースは、それをそのまま記載しているってことだ
これで、福岡の方が奈良より遺跡が多いとか、言ってもしょうがないだろ? 341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403739 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ2582・2583地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ2582・2583
403734 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ428・429地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ428・429
403738 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ434地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ434
403726 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西526-1地区 福岡県糸島市三雲字下西526-1
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2
153426 個別 40230 三雲・加賀石支石墓 福岡県糸島市三雲加賀石 333236.3 1301440.0
348190 個別 40230 三雲井ノ川遺跡 福岡県糸島市三雲
153421 個別 40230 三雲原際所在7-729墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際 333223.5 1301400.3
153432 個別 40230 三雲原際所在7-740墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際
153430 個別 40230 三雲屋敷所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲屋敷
153431 個別 40230 三雲所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲
153428 個別 40230 三雲柿木所在7-736包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
153429 個別 40230 三雲柿木所在7-737包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
445195 個別 40230 三雲郡所在包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲郡 >>315
>尺は周尺と大体同じだし、歩も「周髀算経の短歩」を使った。
そんなものはない
短里も短歩も捏造! 7000里+3000里+700里=1万700里。
帯方郡から邪馬台国まで1万2000里。
1万2000里−1万700里=1300里。
1万700里地点で舟に乗るから、この地点を有明海最奥の嘉瀬川河口とすれば、
1300里×76.5m=99.5km
99.5kmを地図上で計れば、嘉瀬川河口から水俣市の手前あたりになる。
仮に博多から北東へ計れば、舟で下関市埴生あたりになる。
まあ、そのあたりに邪馬台国はないだろう。 >>327
死ぬわけないだろ。
卑弥呼の宮室は、筑後山門。 >>329
>>福岡の総遺跡数は総発掘数を数えて、
>自分でやれやw
だからさ、九州側の出す数字が気に入らないなら、自分で数字を出せや。
文句をつけるだけではダメだよ。 邪馬台国大和説は、ありえん。
大和の纏向遺跡は、近畿、東海、瀬戸、北陸勢力の連合政権の祭祀所。
前方後円型墳丘墓は、各有力勢力が持ち回りで派遣した大祭祀者の墓。
ホケノは、博多制圧した連合軍派遣隊指揮者の墓。
箸墓は、そのあと南九州阿多から招いた海人族宗家の大祭祀者。
これが3世紀前半〜後半の大和のリアルな歴史。 >>333
>1万700里地点で舟に乗るから、この地点を有明海最奥の嘉瀬川河口とすれば、
なぜまた船に乗るの?
>仮に博多から北東へ計れば、舟で下関市埴生あたりになる。
なぜ北東へ進むの?
これで何か反論した気になっているの? >>333
訂正
博多から東北へ計れば→×
博多の先の古賀から東北へ計れば→○
古賀から東北へ99.5kmを計れば、舟で宇部市小野田あたりになる。 >>337
倭人伝にそう書いてあるから。
仮に北東へ行くのは、マツロ、伊都、奴国=唐津、糸島、博多だから、試しに地図て゛どこに着くかみてみただけ。
馬韓7000里がどう、対馬・壱岐・マツロがどうとわけ分からん議論してるから、総計1万2000里がどのあたりであるか示してみただけ。
反論なんてものじゃ。
それらの細かい議論がいかにつまらんかという意味だけ。 >>338
大和説が潰れたから、勝者たちが占領地で内紛起こしているだけ。
内紛は、しばらく続く。
九州説は比定地多いからね。 短里もいいけど
距離は畿内説同様に横においてけば良いよ
畿内説は短里をはずしても九州に太刀打ちできないから騒ぐ必要無いよ >>335
>だからさ、九州側の出す数字が気に入らないなら、自分で数字を出せや。
>文句をつけるだけではダメだよ。
だから、それを数えるための基礎データが、各自治体の教育委員会の恣意で
やたら細かく数えてるところと、大遺跡でもざっくりで1件にしかしてないところがあって
比べようがないってこと
こんな簡単なことも理解できないのかな? 弥生時代ということを考えれば十分に正確な距離をなんで横に置くんだ? >>334
>卑弥呼の宮室は、筑後山門。
筑後山門説は昔からあるけど、
1.国に匹敵する遺跡がない
2.投馬国五萬餘戸の比定地がない
3.其山有丹を満たせない
4.水行二十日、水行十日陸行一月と合わない
から無理だよ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>622
議論なんざ大和説の負けで決着ついてるよ。 >>638
大和説は、ほぼ滅亡して、戦争右翼暴徒化。 >>646
>ホケノはノカツギと小枝の問題があるね 土器編年(久住)では布留0
並行関係では布留0は楽浪土器の激減期にあたる
後、例の箸墓の鐙は布留1の土器と共伴 溝の堆積状況と年代感は合致
倭人伝時期は交流があるから、楽浪土器の激減期には当たらないだろうね
土器編年はもう古くするのは限界が来ている<
久住は、まだ、大和説ありきの幻影から抜けられず、
九州倭国が大和よりも古墳でも土器などでも先行していた、という事が分からず、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の歴史を考慮することができないで、
アホのままであるようだね。 >>349
>大和説は、ほぼ滅亡して、戦争右翼暴徒化。
それ言っちゃうからウソとバレるのに >>653
>循環論法と言われて悔しかったから
よくわからなくてそのまま言い返そうとして恥をさらす九州説<
循環論法とは、端的には「結論先にありきでの論」だ、という事。
循環論法と言われて悔しかったから。
よくわからなくてそのまま言い返そうとして恥をさらす大和説。 >>344
>比べようがないってこと
あの史料は嫌だ、あのデータはダメ。
こうして畿内説には妄想しか残りませんでした。 >>341
>九州説は比定地多いからね。
つまり「説」と呼べる代物じゃない
残念だね >>661
>帯方〜仮想上の倭の極南界の行程に
淮南子の概念上のこの世の果て1万2千里を当てはめたんだよ
もちろん短里で計測したものではなくて
淮南子のこの世の果て1万2千里と 帯方から邪馬台国の1万2千里
二つが一致している事の説明を短里で計測したじゃ説明がつかなく 九州説は詰んだ <
それ、循環論法。
魏使らがズボラして、行程説明を捏造した事が、従者や後続の使節らにバレて、
皇帝らにバレたら、確実に首が危ないもの。 >>352
>循環論法とは、端的には「結論先にありきでの論」だ、という事。
それをぜんぜん証明しないで、ただ結論だけ叫ぶから九州説は常に議論に負けるんだよ >>353
>あの史料は嫌だ、あのデータはダメ。
>こうして畿内説には妄想しか残りませんでした。
「あの史料は嫌だ」は捏造
実に九州説らしい態度で笑える
「あのデータはダメ」と指摘され
ダメな理由を具体的に示されても
まったく反論しない
上記のようにただゴネる、悪口を言う
実に九州説らしい態度で笑える 徳島県吉野川市山川町忌部山字峯石
「稚宮(わかみや)神社」 祭神は、思兼尊・長白羽命です。長白羽命? と調べたら荒妙を織った神麻績部の祖神
https://sueyasumas.exblog.jp/16991385/ @阿波 徳島県吉野川市山川町忌部山字白山
「白山(しらやま)比売神社」
石碑には「忌部社摂社 志良夜末比賣神社」とあります!!
「忌部神社」の七摂社の一つで、祭神は「伊佐奈美尊」です(*^_^*)♪
イザナミ命の「遥拝所」・・・。
この「白山比売神社」の南西には「高越山」があり、山頂に「イザナミ」が祀られていると言われています♪
イザナミ命・イザナギ命の神号は海の霊物「イナサ(雄魚)」より名付けられたという説があり、イザナミ命の生前の名は「白山比売」であったという伝承があるそうです!!
https://sueyasumas.exblog.jp/17016171/ @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>357
>「あの史料は嫌だ」は捏造
魏志倭人伝の里程まで否定しておいてよく言うよ。
>ダメな理由を具体的に示されても
だったら代替案を示せよ。
いちゃもんつけるだけのクズ。 肥前松浦・唐津城
>文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺澤広高がこの地に封ぜられた。
>この寺澤広高は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方についたので、
>徳川時代になると肥後国天草郡4万石を加増され、12万3千石の外様大名となった。
寺澤は、肥前佐賀と所縁があるのかな。 >>362
このように
捏造を指摘されても抗弁できない
ダメ出しされても反論できない
九州説は、こんな「説」 神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。
忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩
「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg @阿波 (帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の熊本城のすぐ)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、 >>663
>それをどう証明する<
魏志倭人伝の記録事実や史料実態から証明する。
>資料から1魏里は76mじゃなくて約430mと判明しているが<
資料からは、1魏里は60〜90m位の範囲であると判明している。 破綻した畿内説の宣伝係のキナイコシが作製した、テンプレートの全体が、論破されてしまったので、スレッドが寂れてしまったな。。。 >>667
>>魏志倭人伝が短里で書かれているのは明白だろ?<
>何度も教えてるんだけどねぇ・・・<
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しをするような・・・・大和説者では、
幾ら講釈したって、信頼性は全くないねえ。
いつまでも寝ぼけたこと言い張っているのが、
・・・・大和説者のwwだよ。 >>668
きちんとした論証を書かれると言い返すことすらできなくなるってことかな?w
まあ、大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しや、
根拠なしの言い放し以外は何一つ書き込めないから、
もともと議論などしたことがないんだが?ww >>366
狗奴国がどこだかわからなくなるし、菊池彦名前も意味がわからなくなる。
やはり熊本が狗奴国で、その官が菊池彦だろう。 >>370
は?
九州説さん
あなたの「きちんとした論証」って、どこにあるの?
具体的に示してね >>371
菊池彦の菊池は、
中世に、大宰府から下向して土着した藤原の一子が「菊池氏」を名乗ったっことから始まる。
時代がまるきり違うな。 >>671
>その前に短里を記した史料の提示が先じゃないかい
いつの時代に使われて1短歩は何尺でとか書かれた<
周髀算経。 >>674
>侏儒国とか歯黒国も淮南子に出てくるぞ<
魏志の記載は、淮南子と全く違うから、魏使らは、実見に拠って新しい知見を得た、
という事が確実。
>陳寿が淮南子を下敷きにして魏志倭人伝を書いたのは明白 <
陳寿は、倭地には来ていないから、侏儒國や裸國や黒歯國の新規情報を知る事が出来なかった。
>あと後漢書の原資料もだな<
後代の「自己解釈に拠る高慢な書き換え」を行った後漢書は、半分偽書であり、
信頼性が少ない。 >>675
>短里なんてなかったんだよ<
魏朝には長里なんてなかったんだよ。 >>353
>あの史料は嫌だ、あのデータはダメ。
>こうして畿内説には妄想しか残りませんでした。
おいおい、データの見方がおかしいって指摘されて逆ギレかい?
チェリーピッキングしてたのを認めないなんてひどいってか?
そもそも数が多いってのにどんな意味があるんだ?
そのデータベースには、土器が少し出た、という程度のも
九州では遺跡一件、調査一件で登録されてる
拠点集落で環濠ない面積だけで30ヘクタールの大遺跡、唐古鍵遺跡でも
奈良県だと一件だ
一万円札一枚より1円玉150枚の方が数は多いけれど
それを誇っても意味ないだろ?
遺跡データベースで福岡県の方が登録データが多いってのはその程度だぞ?w 具体的なことを何も言わない九州説
ただ気勢を揚げるだけ
サルでもできるね >>362
>だったら代替案を示せよ。
>いちゃもんつけるだけのクズ。
まだ言ってるのかw
そんなにチェリーピッキングがしたいのか?
というか、チェリーピッキング以外の論点って、九州説にはないだろ?
代替案も何も、データベースの説明書きに
『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
と書いてあって、精度・頻度に格差のあるものをそのまま比較してもしょうがないだろってこと >>678
>漢でも短里だった事にしないと 短里説は辻褄が合わなくなってきたな<
この男は、本当に、口先騙しの詐欺師だな。
漢朝は始皇帝の長里継承であったが、
民間的では淮南子や介山のように短里も混在していた、と言っておいた。
>周・漢・魏・晋全部短里だったと <
これも違うな。正確には、周朝と魏朝と西晋朝が短里だ。
>終わったな<
この大和説男の脳や良心は、終わったな。 >>679
>短里はなかったという事が明白<
周朝と魏朝と西晋朝が、短里であった事が明白。 神の在座鳥居に伊禮は
此身より日月の宮とやすらげくす >>380
何も証拠がないんだけど?
言いっ放し? 九州説はサルか、
まあ、奈良のシカとハカよりましと思って受け入れよう。 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>681
>ホケノは木棺サンプル木片5つの炭素年代測定法から AD120〜240年な <
AMS法は、始めから、50〜100年位以上古く出てしまう失敗計測。
>副葬品から3世紀前葉〜中葉の間と推定 <
庄内〜布留であるから、布留であり、3世紀末以後。
>椿井大塚山も3世紀後葉に区分されている<
ホケノの有棺有槨の後だから、4世紀以後。 >>380
>これも違うな。正確には、周朝と魏朝と西晋朝が短里だ。
里に関する論証はこれで完全だろ
漢書食貨志
六尺為步。步百為畝。畝百為夫。夫三為屋。屋三為井。井方一里。是為九夫。
六尺を歩と為す。步百を畝と為す。畝百を夫と為す。夫三を屋と為す。
屋三を井と為す。井は方一里。これ九夫を為す。
最初の六尺=歩はいいな?
次に「畝」の長さが百歩と規定される
次に畝を百本並べたもの(百歩の正方形)が「夫」
夫を3つ並べたもの(三百歩×百歩)が「屋」
屋を3つ並べる(三百歩×三百歩)と「井」
井が一里四方で、九夫になる
つまり百歩の正方形「夫」を縦3つ横3つ、井の字に並べたものが一里四方だから
一里=三百歩となる
晋書律暦志に書いてあるのは
数学家の劉徽が「九章算術・商功」に注釈を入れ「莽尺(王莽時代の計測器具)一尺は、当時(魏時代)の尺度で九寸五分五厘に相当するとした」こと
原文は
魏陳留王景元四年,劉徽注《九章商功》曰:「當今大司農斛,圓徑一尺三寸五分五厘,深一尺,
積一千四百四十一寸十分寸之三。王莽銅斛,於今尺為深九寸五分五厘,徑一尺三寸六分八厘七毫。
以徽術計之,於今斛為容九斗七升四合有奇。」魏斛大而尺長,王莽斛小而尺短也。
新莽嘉量(王莽銅斛)は現物が現存しているので、そこから魏代の一尺の値が分かる
新莽嘉量の尺(漢代)が、23.1センチ
これが魏尺の九寸五分五厘に当たるから、魏尺は24.2センチになる
一里は1800尺だから、魏晋里は435.4メートル そして、ザラコクの大好きな魏文帝即位の制詔
「上古之始有君也、必崇恩化以美風俗、然百姓順教而刑辟厝焉。
今朕承帝王之緒、其以延康元年爲黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行、大赦天下。
自殊死以下、諸不當得赦、皆赦除之。」
二行目の解釈
年号は延康元年を黄初元年に変える
正朔は改めることを検討(あとの記述で変えなかったことが判る)
服色は変える
徽号も変える
律度量は同じにする(変えない)
土行はそのまま継承(変えない)
「同律度量」
音律と、度量衡は同じくする(変えない)というのが詔勅の内容 魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、何者だったのだろうか。。。 >>695
>その結果、大作冢と記録された<
「大作冢」は、「冢を大いに作った」であって、
「大きな冢を作った」ではない。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」
御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)
「阿波誌」に「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とあります。
菊理媛神(くくりひめのかみ)は、日本の神。加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比盗_(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。 wikipedia
http://goutara.blogspot.com/2012/11/blog-post_29.html @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>701
>そういうのはいいから、誰がどういう理由で短里を発明して
誰が使ったのかはっきりしてもらえるかな?<
周初の周髀算経は、既に短里を使っていた。
>魏でも漢でも、短里を使っている人は一人もいないんだが?<
漢代では、淮南子が使ったし、介山でも使われた。
魏では、魏志などで使われていた。 >>390
>「大作冢」は、「冢を大いに作った」であって、
>「大きな冢を作った」ではない。
大いに作って小さいのができたの?
ばかですか? >>395
>周初の周髀算経は、既に短里を使っていた。
周初に周髀算経なんて存在しません 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用されたのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 >>702
>>魏使らは、当然魏朝の「里」を使う<
>そして、それは短里ではない<
そして、それは、長里ではなく、長里の6分の1位の短里であった。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 >>389
>魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、何者だったのだろうか。。。
倭国(阿波)を発った「忌部はん」 と、何度言えばw @阿波 >>384
>九州説はサルか、
むしろザル
取りこぼし多過ぎ 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>705
>だから記事が間違ってるってだけでしょ<
だから、長里解釈が間違っていた、ってだけでしょ。 魏志韓国人伝というものがあって、韓国の大きさが、短里で表示されてしまっているのではないのかな。。。 韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。 >>708
>筆者はそのつもりだがら会稽東治之東と明記してる 九州ではない<
筆者は、短里であったつもりだがら、会稽東治之東と明記してる。
九州である。 >>388
>漢朝は始皇帝の長里継承であったが、
>民間的では淮南子や介山のように短里も混在していた
が本当なら
>「上古之始有君也、必崇恩化以美風俗、然百姓順教而刑辟厝焉。
> 今朕承帝王之緒、其以延康元年爲黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行、大赦天下。
> 自殊死以下、諸不當得赦、皆赦除之。」
>
>二行目の解釈
>律度量は同じにする(変えない)
>土行はそのまま継承(変えない)
の「土行の継承」で使われ続けることになるのでは? 魏志倭人伝時代までの韓国人の領土は、南にあった倭人の領地を侵略する前だったので、狭かった可能性が99.5パーセントあるな。。。 >>407
.筆者は、短里であったつもりだがら、会稽東治之東と明記してる。
短里であったら会稽東治之東にならないでしょ
サギはダメだよ >>408
>の「土行の継承」で使われ続けることになるのでは?
なにが?
あなたの日本語はいつもヘンだね 謎の人物が発表した、この意見は、韓国政府が実行している宣伝についての重要な情報に、関係があるのではないのかな。。。
251日本@名無史さん2018/12/17(月) 21:09:34.00
相手の立場を思いやる気持ち。。
たった四千里四方ってのが短里で確定したらどうすんのよこれ。。。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用されたのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 魏志倭人伝時代までの韓国人の領土は、南にあった倭人の領地を侵略する前だったので、狭かった可能性が99.5パーセントあるな。。。 韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。 >>411
民間での短里の使用が行われていたとすれば、土行の継承に照らせば、その使用は咎められないので民間では使われ続けることになるのではないか?
本当にわからないのかな? 外国の方なの? 四千里×76.834メートル=307.336キロメートルが、魏志倭人伝時代の韓国の領地の、東西と南北の長さになるな。。。 >>710
>そりゃ、真実だからね 誰が読んでも納得できるだろ?<
そりゃ、史料事実とかき離れた妄想ばかりのようであるし、
「南→東」などの嘘つき騙しの前科者の大和説者の話なんだから、
・・・・以外の普通の人なら、誰が読んでも納得できないだろう。 魏志倭人伝時代の韓国の北の境界はどこに、あったのだろうか。。。
そして、そこから南に307.336キロメートルの倭人の領地との境界は、どこだったのだろうか。。。 >>712
>現在に至るまで、
日本国内で魏の里使った痕跡は存在しない。<
梁書に記録された文身國や大漢國の記録は、
当然列島からの情報だから、魏の短里情報が存在した事の証拠になるし、
扶桑國の里数にも半分短里情報が入っているようだし、
神功の腰かけ石?の位置説明記載も短里であったようだし、
倭姫の話にも短里情報があったようだし、
書紀の「丙戌廿,遣多禰嶋使人等,貢多禰國圖。其國去京五千餘里,居筑紫南海中」
の「五千餘里」も、短里であった可能性がある。 ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:48ae09cbb853205a
ホスト:p4021-ipad208kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
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内容:
>>717
日本の大和説学者が、世界の歴史学からドロップアウトした理由が、よくわかる。 >>923
大和説というのは、
歴史知識皆無で、万世一系皇国史観の人が、
なんの理由もなしに、
出所不明情報を振り回し、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しをする、
そういう世界だと よくわかるスレ 。 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>731
大和説も本当におかしい人以外は消えたな。
まあ、大和説の根拠とされていたものが全部否定されちゃったしね。
いまはもう、いくら否定されても無視して、
同じことを書き続けられるカルト系の人しか残っていない。 >>735
既にこのスレでは、大和説者には、
「南→東」などの嘘つき騙しの、派手な害吉しか見たことはない。 ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:48ae38295c30af1d
ホスト:p4021-ipad208kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
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内容:
>>738
大和説を論破するのは簡単。
ひとこと「南→東」などの嘘つき騙しの根拠を聞けば 、
悪態をつきながら逃げていく。 >>743
>>測定記録出来るのは、魏使らや郡の役人らしかいない。<
>そして、魏使らや郡の役人らは、秦漢里または魏晋里しか知らない <
魏使や魏の役人たちは、
後漢末に再収集注釈された周髀算経の一寸千里の法、という、
短里計測法を知っている。 >>745
>>南九州は、投馬國の地であるから<
>投馬国が邪馬壹国より南になった時点でその説は破綻している
投馬国は戸数道里ともに略載されている女王国以北の国 <
投馬國は、伊都国の一大率に拠って検察支配されている国であるから、
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之」の諸国に含められもの。 >>748
>唐古鍵の30ヘクタールってのは環濠内面積だけで、
その周囲に展開する衛星集落や随伴する墓域も含めたらもっとずっと広いんだよ
ただ、それこそどこまでを唐古鍵の勢力圏=狭義のヤマトとするかっていうと
難しいけれどね <
唐古鍵は、始めから、
九州倭国の別種分家の旧小国の国ではなく、
出雲系銅鐸祭祀部族の国であり、
九州倭国の東征毛人五十五國に拠って、破壊され、
九州倭国の東征軍の支配下になった国。 ERROR: We hate Continuous..
連投してるで
問い合わせID:48ae58beabcfae51
ホスト:p4021-ipad208kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
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内容:
>>753
>投馬国は瀬戸内海の鞆の浦だよ<
「南≠東」などに拠って、×。 >>430
違うと思うよ。
投馬国は邪馬台国南側に隣接する。 >>758
>>魏志倭人伝に「環濠」なんぞ全く書いてないんだが。 何を喧嘩しとるんだ?<
>纒向には環濠がないから邪馬台国じゃないとか抜かした九州説のバカがいるんだよ
そのバカ本人は既に消えて話に絡んでこない <
しかし、この・・・・男のように、
唐古鍵も纏向の一部であって、鍵古鍵の環濠があった、
という事にしようとする嘘つき騙しがいたから、
そりゃ間違いだ、鍵古鍵は元は出雲系銅鐸祭祀部族国であり、九州倭国の別種の旧小国の国ではなかった、
というクレームを付けて上げた。 短里は他の制度と整合しないから無いでしょ
短里で周代の井田法なんか施行したら国民はみんな餓死してしまう 韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。 >>373
それ以前から菊池の地名はあるけどね。
菊池城は古代の九州の三大城郭の一つ。 >>377
>そもそも数が多いってのにどんな意味があるんだ?
おいおい、そこからかよ。
>そのデータベースには、土器が少し出た、という程度のも
だから、不満なら自分でデータを示せよ。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 魏志倭人伝時代の韓国の北の境界はどこに、あったのだろうか。。。
そして、そこから南に307.336キロメートルの倭人の領地との境界は、どこだったのだろうか。。。 >>440
>魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、
それはね、倭国(阿波)への道程を示すため と、何度言えばw @阿波 >>439
>おいおい、そこからかよ。
数か多いことに意味がないと例証されただろう
反論がないなら、あんたは論破されたんだから引っ込め >>417
>民間での短里の使用が行われていたとすれば、土行の継承に照らせば、その使用は咎められないので民間では使われ続けることになるのではないか?
イミフ
土行の継承に照らすと、どうして短里の使用が咎められないの? >>417
>土行の継承
ってなんじゃい? 朝鮮のひとよ 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用されたのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 >>445
>「上古之始有君也、必崇恩化以美風俗、然百姓順教而刑辟厝焉。
> 今朕承帝王之緒、其以延康元年爲黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行、大赦天下。
> 自殊死以下、諸不當得赦、皆赦除之。」
>
>二行目の解釈
>律度量は同じにする(変えない)
>土行はそのまま継承(変えない)
庶民の風習程度の意味かと思ったんだが、違う? 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が、土行の継承のことでも、論破されたね。。。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用されたのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 >>449
人種で、差別してはいけないのだが、破綻した邪馬台国畿内説の宣伝係員の人種は、奈良判定を実行した闇の人種との、関係性が高いのではないのかな。。。 >>443
何をどう論破した?
言い張れば論破したことになるのか?
具体的なデータを出して反論してよ。 魏志韓国人伝というものがあって、韓国の大きさが、短里で表示されてしまっているのではないのかな。。。 謎の人物が発表した、この意見は、韓国政府が実行している宣伝についての重要な情報に、関係があるのではないのかな。。。
251日本@名無史さん2018/12/17(月) 21:09:34.00
相手の立場を思いやる気持ち。。
たった四千里四方ってのが短里で確定したらどうすんのよこれ。。。 魏志韓国人伝というものがあって、韓国の大きさが、たった四千里四方だと記録されているのではないのかな。。。 >>405
>魏志韓国人伝というものがあって
この時点で知識のなさが目も当てられないほど乏しいのが暴露されてるww
この時代に韓国なんてないよwwww
韓国人はもっとないw
現在の韓国の地域の国家形成は、倭国と比べて100年単位で遅れる
三國志卷三十/魏書三十烏丸鮮卑東夷傳の、韓について述べた部分は
韓、在帶方之南。で始まる
あえて言うなら「韓伝」だな
きちんと書くなら「烏丸鮮卑東夷傳韓条」だ
まあ、古くからしっかりした歴史のある倭国がうらやましくて
しょうがないのは分かるがなww 四千里×76.834メートル=307.336キロメートルが、魏志倭人伝時代の韓国の領地の、東西と南北の長さになるな。。。 畿内説のスレなのに九州説批判ばかり
窮鼠猫を嚙む
よっぽど畿内説に自信が無い証拠ww 畿内説のスレなのに九州説批判ばかり
窮鼠猫を嚙む
よっぽど畿内説に自信が無い証拠ww >>447
>庶民の風習程度の意味かと思ったんだが、違う?
当然ぜんぜん違う >>407
>筆者は、短里であったつもりだがら、会稽東治之東と明記してる。
>九州である。
こういうウソ、何度も連呼すれば他人が騙されるとでも思ってるの?
九州は会稽東治之にならないでしょ >>408
>「土行の継承」で使われ続けることになるのでは?
「土行」がなんだか分かってるかい?
王朝交代、易姓革命の際に、五行相克の思想で、前王朝の五行(のいずれか)が、
その相克に当たる五行で打ち倒されるという考え方がある
殷王朝の徳は金徳で、その正色は白
それを、火剋金で
火徳の周王朝が倒したと考える 火徳の正色は赤
それが、前漢から王莽の新に移るところで、放伐ではなく禅譲のときは
五行相克ではなく五行相生という思想に改変され
前漢・火徳⇒新・土徳となり後漢は新をなかったこととして、
後漢が火徳、正色は赤
その次が、火生土で、土徳・正色は黄色の黄巾の乱で後漢朝が衰え
火徳の漢から禅譲で土徳の魏が立ったということになる
魏の最初の元号は、黄初でここに黄色がある
これが土行
文帝は魏の皇帝だから、王朝の土行(土徳)は変えないのが当たり前 >>460
土行は五行(木火土金水)の土行
つまり魏は土徳の王朝という意味 >>433
>投馬国は邪馬台国南側に隣接する。
違うよ
陳寿の認識では、投馬国は邪馬台国より前に経由する、
邪馬台国より北の国(陳寿の認識では)
南側に比定地を置いてはダメだよ >>439
チェリーピッキングは止めれ
そして、批判に対して、悪魔の証明を求めることでごまかすのも止めれww
バカ丸出しにしかなってないw >>457
畿内説のスレなのに、九州説のおじーちゃんが来てドヤ顔でトンデモを吹聴するから、九州説が叱られてるだけ >>447
>庶民の風習程度の意味かと思ったんだが、違う?
全然、丸っきり違う
>>463を参照 >>463
>>464
ご教授ありがとうございました。 >>465
投馬国は邪馬台国と同様女王国直轄地。隣接して存在するから以北に含まれる。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 魏志倭人伝時代までの韓国人の領土は、南にあった倭人の領地を侵略する前だったので、狭かった可能性が99.5パーセントあるな。。。 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 魏志倭人伝時代の韓国の北の境界はどこに、あったのだろうか。。。
そして、そこから南に307.336キロメートルの倭人の領地との境界は、どこだったのだろうか。。。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用されたのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 >>475
人種で、差別してはいけないのだが、破綻した邪馬台国畿内説の宣伝係員の人種は、奈良判定を実行した闇の人種との、関係性が高いのではないのかな。。。 奈良県出身の者達の遺伝が、韓国人と似ているのは、どうしてなのだろうか。。。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>470
>投馬国は邪馬台国と同様女王国直轄地。隣接して存在するから以北に含まれる。
その、妄想・憶測・思いつきで、何かを説明した気になるのは止めなさい
根拠なしの無意味
間の水行十日陸行一月をなんだと思ってるんだ?ww 倭国が、新羅と合戦をして、捕獲した馬や人民は、どこに売られたのだろうか。。。 畿内説は
倭人伝の1里は?m?
距離は出たらめで押し通す? >>480
倭国の王と日本国の天皇は、取引を実行した可能性が、高いな。。。 >>481
何度も回答があるのに困った人々だ
一里は約400mで、倭人伝には間違ったデータが混入している
情報の信頼性は個々に裏付けをとって考証しなくてはならない
これが畿内説 魏志倭人伝時代の後、倭国が新羅と合戦をして、捕獲した馬や人民は、日本国に売られたので、纏向遺蹟を製作することができたのではないのかな。。。 >>479
>間の水行十日陸行一月をなんだと思ってるんだ?ww
末盧国から
邪馬台国は水行十日 or 陸行一月
投馬国は水行二十日
したがって投馬国は邪馬台国のさらに南
邪馬台国+投馬国で女王国を構成 韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。 >>485
その読み肩は最初から間違っているんだが、それを置いても
>邪馬台国は水行十日 or 陸行一月
>投馬国は水行二十日
だったら、邪馬台国と投馬国の間には水行十日分の距離があるだろ?
それがどうしてすぐ南とかふざけた位置になるんだい?
矛盾しまくりw >>487
想定してるのは邪馬台国が出水、投馬国が鹿児島だから間に大隅半島があるから矛盾はないよ。 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 2013年、邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されました。 ザラコクといい連句点といい、九州説は政治思想的にクルった奴が多いな 韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が、逆恨みを晴らすために、悪口を言い放ったのではないのかな。。。。
494日本@名無史さん2018/12/18(火) 15:13:15.10
ザラコクといい連句点といい、九州説は政治思想的にクルった奴が多いな >>491
>半島を回り込むのに水行十日
は、>>485ではないね
九州説は人によって比定地、ルートが違うから
九州のお爺さんは県名と好きな食べ物を
朝鮮人は所属団体名をレスの最初に書きなさい で?
短里は崩壊
行程は説明不能
九州説死んで皮も名も残らないね 497番の意見を発表した人物は、所属団体名を書き忘れたのではないのかな。。。 >>498
僕たちは、奈良県に住む日本人なので、何も書く必要がないな。。。 >>500
熊本城の城下町で生まれ育ったが、奈良県に住んだ時間の方が長いのではないのかな、、、 >>498の朝鮮人は関西圏在住と告白していた
>>298の朝鮮人は
>ホスト:219.115.235.241
IP address Information
https://www.speedguide.net/ip/219.115.235.241
Part404
>>889
ホスト:219.115.235.241
>有難う。
>確か古田さんも、3世紀だ、とはされず、
>もう少し古い情報であったような表現であった。
Part405
>>98
ホスト:219.115.235.241
>「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者って、
>人間として壊れてるやつが多いね。
Part406
>>656
ホスト:p4021-ipad208kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
>邪馬台国なんて、存在しない。 破綻した畿内説の宣伝係員が、勘違いをしているのではないのかな。。。
496日本@名無史さん2018/12/18(火) 15:20:24.03
>>491
>半島を回り込むのに水行十日
は、>>485ではないね
九州説は人によって比定地、ルートが違うから
九州のお爺さんは県名と好きな食べ物を
朝鮮人は所属団体名をレスの最初に書きなさい
497日本@名無史さん2018/12/18(火) 15:23:04.09
で?
短里は崩壊
行程は説明不能
九州説死んで皮も名も残らないね
498日本@名無史さん2018/12/18(火) 15:25:36.11
497番の意見を発表した人物は、所属団体名を書き忘れたのではないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/18(火) 15:30:35.64
>>497が九州説に見える連続句読点の知能に乾杯 邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、国籍や遺伝の真実を暴かれたので、焦っているのではないのかな。。。 >>504
何これ?
自分のIPアドレス貼り付けてしまったのか
どんだけIT音痴なんだwww この意見の発表は、発表者の方がIT音痴だということを、公表した可能性があるな。。。
508日本@名無史さん2018/12/18(火) 15:50:32.01
>>504
何これ?
自分のIPアドレス貼り付けてしまったのか
どんだけIT音痴なんだwww >>510
そうだね、、、
IPアドレスというのは、個人の所有物ではないのではないのかな。。。 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、IPアドレスの話題に、変換すれば良いな。。。 ザラコクの魏朝での短里の根拠とされた、魏文帝即位の詔勅の原文も明確に示されたし、
晋書律暦志記載からの、魏代の尺の長さも明確化された
短里の根拠は、「魏志倭人伝に書いてある里程は短里で読めばOK」という
循環論法しか残っていない
それも、その根本が「短里を使う人がどこにもいない」という一事で否定される
短里なんてないんだよ
短里は捏造(合言葉)
そして、短里で萬二千里なら九州という、九州説唯一の根拠が消失すると、
九州のどこに比定地を置いたところで、整合的な説を構築することは不可能になる
九州説はとっくに終了してるんだけどねぇ >>512
IPアドレスは、IPでネットワーク上の機器を識別するために指定するネットワーク層における識別用の番号ではないのかな。。。 >>759
>投馬国の先に邪馬台国があるんだぞ
九州南部に7万戸の集落遺跡があると思っているのか<
ダメだ。
投馬國は、不彌國から「魏使らが移動」した記載がないから、
不彌國からの側副傍線国記載であり、
行程の本線での不彌國の次に至ったのは、邪馬壹國女王之所都だ。 >>760
>>吉野ケ里の環濠の方が、唐古鍵の環濠よりも大きい<
>吉野ヶ里は墓域まで環濠で囲んだ「最大の環濠」集落
集落部分で見れば唐古鍵の方が大きい<
要するに、環濠は、吉野ケ里の方が大きい。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 >>762
>淮南子に一致してる部分もあるんだろ
なら魏志倭人伝がそれを下敷きにしてないと否定する事は
原理的に不可能 <
淮南子に一致していない部分があるんだから、
魏志が淮南子の記載に一致させた、とする事は、
原理的に不可能。 韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。 >>516
墓域ふくめてゲタはかせて大きくしても意味ないな
衛星集落を合わせると唐古鍵のほうがはるかに大きいし 2013年、邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されました。 >>518
常識で考えろよ
下敷ききした、ということは部分一致しか無いということだろ
下敷きは完全準拠じゃないんだ >>521のようにデマを流したり中傷したり
そんな手段しか九州説には残っていない
哀れなことだ >>773
>九州説が邪馬台国を九州北部に持っていくのは大変だなあ<
邪馬台国なんて存在しないし、大和は、「南≠東」に拠っても始めから×。
>魏志倭人伝によれば九州北部は伊都国奴国で <
これ間違いであり、嘘つきだまし。
伊都国は怡土の地であり、奴國は日向峠西麓〜早良平野部。
博多湾岸は不彌國で、福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺が邪馬壹國。
>邪馬台国が出てこないし 邪馬台国はそれら北部の国々を監視させたとある
邪馬台国は帯方から南1万2千里とあるけれど 里程も足し算すれば端の不彌国までで1万7百里<
方四百余里の對海國と方三百里の一大國の国内見聞移動をしているから、合計で、
700余り〜1400里余りを、行程合計に加えなければならない事になる。
>残りは南に水行陸行 やまとという地名が畿内にあり 九州にある山門を古墳や銅鏡等の考古資料で圧倒<
大和は、「南≠東」などに拠って、始めから×。
>そもそも邪馬台国まで帯方から南1万2千里は 淮南子の概念的なこの世界の果ての数字
魏志倭人伝の里程はそれを当てはめたもので 現実の土地に無理に当てはめても指すのは九州南部 <
何だこりゃ。嘘つき騙しの・・・・大和説者の「ww」の投稿であったのか。返事を書いて損をした。
これらをクリアしないと邪馬台国は吸収北部にはならない >>778
>考古資料的に見れば邪馬台国は機内 <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しであるし、
大和でも、「南≠東」などに拠って、×。 2013年、邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されデマだと判明したので、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が中傷を実行しているな。。。 あいかわらず
九州説は
結論しか言わない
理由はまったく言わない
不思議な人々だね >>784
>現実には比例もしてなくて区間ごとに4倍も違う数値になるんだがな
>思い込みで人間はこんなに愚かになるという見本だなw<
大和説は、「南≠東」で×だし、
長里説は、区間ごとに比例もしてなくて、6倍位も違うから、全く×だな。
思想宗教に狂った人間は、思い込みでこんなに愚かになるという見本だな。 2013年、邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されデマだと判明したので、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が中傷を実行しているな。。。
528日本@名無史さん2018/12/18(火) 16:49:58.08
あいかわらず
九州説は
結論しか言わない
理由はまったく言わない
不思議な人々だね 区間ごとに比例とは、どういうことだろうか、、、
529日本@名無史さん2018/12/18(火) 16:51:48.23
>>784
>現実には比例もしてなくて区間ごとに4倍も違う数値になるんだがな
>思い込みで人間はこんなに愚かになるという見本だなw<
大和説は、「南≠東」で×だし、
長里説は、区間ごとに比例もしてなくて、6倍位も違うから、全く×だな。
思想宗教に狂った人間は、思い込みでこんなに愚かになるという見本だな。 魏志倭人伝の国同士の区間は、どの部分が判明しているのだろうか。。。 >>531
>長里説は、区間ごとに比例もしてなくて、6倍位も違うから、全く×だな。
誤情報が混入したら比例が崩れて当たり前じゃん
九州は思考原理から変 >>531
>大和説は、「南≠東」で×だし、
その「南≠東」は「会稽東治之東」で×だし。 >>786
>魏使は倭国に赴いたけど魏志倭人伝に書かれたのは 淮南子にある概念的数値<
魏使らは、淮南子とは違う事を幾つも書いているから、
淮南子の概念を踏襲しておらず、×。
>2千里を普通の里で換算すると約860km 畿内に十分届く<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しであるし、大和は「南≠東」であるから始めから×であるし、
約860kmでは、静岡付近にまで行ってしまう事でも×。
>魏晋は短里なんて使ってなかったから <
使っていたから、×。
>陳寿は当然普通の里の積もりで書いてる
最も距離方位はあくまで概念的なものだからどこを指すわけでもないが<
陳寿も「計其道里、當在會稽東治之東」として、
(赤道付近ではなく)きちんと九州付近を比定しているから、短里のつもりで書いた。 >>483
>一里は約400mで、倭人伝には間違ったデータが混入している
情報の信頼性は個々に裏付けをとって考証しなくてはならない
これが畿内説 <
どこが正しいか間違いか、畿内説独自に設定できるから✖ >>536
>どこが正しいか間違いか、畿内説独自に設定できるから✖
できるって証拠は? >>535
>陳寿も「計其道里、當在會稽東治之東」として、
>(赤道付近ではなく)きちんと九州付近を比定しているから、短里のつもりで書いた。
九州付近を比定している、って証拠は? 魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日 >>540
その解釈だと韓地陸行説が死亡ね
そして帯方から10日で日本に来るのは無理
つまり、九州説が自滅して成り立たない説だ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 そうやって荒らすから
九州説の敗勢が天下に晒される
ww >>541
韓を陸行するわけないだろ。
危険すぎる。
他のスレにあったが、水行1日が千里に相当するんだろう。
水行10日で九州北岸に上陸。 畿内説が里程の説明が成り立たないからといって僻むなよ。 >>544
当時、エンジン付きの高速船があったの? >>540
行程記事の誤りを前提にすると行程で邪馬台国の位置を割り出す資格を失なう
このこと、わかってます? >>545
日程的に不可能
実際に海峡を渡った記録を調べれば明らかだ >>547
時速10キロ程度なら、日中だけで80キロ、つまり千里くらいは進めるよ。
対馬海峡も島から島までは1日で一気に進んだのだろうしね。
帯方郡から九州まで10日は可能だよ。 >>787
>淮南子に合わせて縮尺を調整したら一里が100メートル以下の短里になったんだろ<
魏使らは「縮尺の調整」などのインチキはしていない。
従者や後続の使節に確認されて、インチキをした事が皇帝らにバレれば、
首が飛ぶもの。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>550
>時速10キロ程度なら
おいおい
当時の船が5ノット以上出たというの? >>796
>>各比定地は対馬と壱岐以外未確定なのに<
>はい 短里でピタリ合う、という説が死にました ww <
「短里でピタリ合う」なんて、言っていないし、言う筈もない。
始めから、
記載された(有効数字1桁程度の近似値的な)里数記載の、
出発地点と到着地点を推論し、記載里数で区間距離を割り算して、
1里の距離を求めたら、大体60m〜90mになって、
長里の6分の1位になった、
と言って来た。 >>555
言ってきたの?
停泊地点も明らかに出来ないのに? >>555
>出発地点と到着地点を推論し、記載里数で区間距離を割り算して、
はい
出発地点は、どこで
到着地点は、どこで
区間距離はいくつなの? >>540
九州説がみんな水行十日陸行一月の起点が帯方郡と考えてるわけじゃない。
「南至投馬國水行二十日」も
「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月」
も帶方郡から南方向だ。
「倭人在帶方東南大海之中」と方位が合わない
郡からなら
「從郡〜到其北岸狗邪韓國」の箇所と同じく「從郡」と付くと思う。 >>810
>短里なんて有りません
非現実的な数字が書かれてる箇所があるだけ<
長里なんて、全く有りません。
「1里が60〜90m位の間になる(有効数字1桁程度の)里数記載」が、
幾つもあるだけ。 短里は厳密にしようとしてボロが出まくってる
もともと無いものだから仕方ないが >>559
まぁ、そうとも言えるな。九州のどこかの方が議論の価値があるかもね。
畿内ってのは範囲がえらく広いようなのに、結局奈良一択なんだっけ? >>550
こういう数字の辻褄合わせが九州説だわ
そして、突っ込まれても絶対に根拠を出さない >>560
九州説は、どうして絶対に証拠を出さないの? >>564
それはね、証拠が初めから「ない」からだよ >>557
>
>出発地点は、どこで
>到着地点は、どこで
>区間距離はいくつなの?
畿内説の各比定地を教えてよ。テンプレには行程が書いてないからさ。
方位と距離は記載と合ってなくてもいいから。 >>568
>九州のどこかが問題であり、畿内説は論外なんだよ。
九州説も論外なんだけどw @阿波 >>811
>対馬は南北に70キロあって、短里説のほぼ千里に相当するんだが?<
始めから、對海國が南北対馬全島 であるのか?、という保証がない。
>周髀算経の中でも一里=三百歩、一歩=六尺の関係は維持されているのだから <
維持されていない。
漢代初期に、周髀算経の収集加筆した学者が、
「立二十八宿,以周天曆度之法。術曰:倍正南方,以正勾定之即平地徑二十一步,周六十三步」
の意味がよく判らず、
始皇帝の「1歩=6尺」の規定に従った解釈で、
「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」という注書きをした可能性が高い。 >>558
>「倭人在帶方東南大海之中」と方位が合わない
半島南岸で対馬海峡を渡る前に少し東に進むんだよ。 >>567
なんの数字を?
九州説さんは、いつも日本語が不完全だな >>570
>方位と距離は記載と合ってなくてもいいから。
合ってなかったらダメだろw
まあ、畿内説は何も語る中身がない妄想だからしょうがない。 >>570
九州説が
出発地点と到着地点と区間距離で
短里を算出したというのが
ウソと告白しました >>575
いや、ホントに畿内説の公式の比定地を知らないんだよ。知ってる?
九州説と違ってバリエーションはないらしいから比定地と行程を知りたいんだけどね。 >>573
>半島南岸で対馬海峡を渡る前に少し東に進むんだよ。
それはね、「木浦」から東の「巨済島」辺りへの行程なんだよ。 @阿波 >>567
苦し紛れの逆質問は論破されたやつの常套手段 >>572
>漢代初期に、周髀算経の収集加筆した学者が、
>「立二十八宿,以周天曆度之法。術曰:倍正南方,以正勾定之即平地徑二十一步,周六十三步」
>の意味がよく判らず、
>始皇帝の「1歩=6尺」の規定に従った解釈で、
>「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」という注書きをした可能性が高い。
つまり、周髀算経は信頼するに足りない史料ということで
いいですね? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>577
畿内説側はキナイコシさんが八面六臂の大活躍でレスつけまくっているだけだよ。
もう畿内説にしがみついている人なんてほとんどいないからね。 >>395
ほらな
漢時代も短里が使われていた事になり始めたぞ >>573
少しじゃダメだよ南と同じだけ東に行かなきゃ東南にならないし、東南に進んだのなら「南至〜」は「東南至〜」書かれないといけない。 >>583
畿内説の各比定地を書ける人がこのスレにはいないってこと? >>584
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里 >>573
>半島南岸で対馬海峡を渡る前に少し東に進むんだよ。
それはね、「木浦」から東の「巨済島」辺りへの行程なんだよ。 @阿波 >>577
>いや、ホントに畿内説の公式の比定地を知らないんだよ。知ってる?
そりゃ「公式」なんてないものw
知ってる方がおかしい
まあ、私案でよければ書いとくよ
途中まではテンプレに書いてあるものに同意
帯方郡治 鳳山郡智塔里の唐土城
狗邪韓国 金官伽耶
対馬国邑は不確定ながら対馬
一支国邑は原ノ辻
末盧国 唐津市中原付近
伊都国 糸島三雲
奴国 那ノ津(那珂川周辺の福岡平野)
不彌国は不明
いずれにしても玄界灘沿岸から中国地方日本海側を水行二十日で
投馬国=出雲
ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補 そこから丹波へ行くまでが水行10日
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、
地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う
どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて
奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい
水行中の日数は、夜に浜辺で休んだ日数や潮待ち、天気待ちも含むと思う
投馬国滞在日数は含まないんじゃないかな これはあくまで「かな」程度
陸行部分は、途中の集落の滞在日数も含むと思うが、そんなに大きな町も途中にはなさそう
あっても、丹波国の竹野付近と与謝野町くらいかな
遺跡の分布や神社の名前からして、出雲と大和の往来はこのルートでいいんじゃないかと思っている
ただ、丹後半島を縦断するより、回りこんで若狭湾に入った方が楽かもしれないとも思う 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>587
テンプレに詳しく書いてあるから
誰も教えて君には対応してくれない >>597
ごめん、俺、親切だから教えて君に対応しちゃったww >>589
ほら矛盾してる
自分で認めてしまったw >>518
そら淮南子に全部一致してたら魏志倭人伝じゃなくて淮南子そのものだわな
そうではなくて記述が一致する箇所が複数あるから
魏志倭人伝は淮南子を参照して書かれたということ
記述にぜんぜん同じ箇所がなかったら参照しなかった事にしてもいいけど >>587
ウソ
テンプレはこうだ
> 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
> 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
投馬国は両論併記だが1は吉備おし
バッチリ書いてある >>601
おいおい
九州説の健忘じーさんが何度も同じこと聞くからテンプレが生まれたんだぞ
あんたも痴呆か?
痴呆なのか? >>595の補足
水行は1日20キロ程度と見積もれば、
福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
15〜18日
妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ (出雲平野からだと220キロ)
7〜11日
で、10日単位に丸めればそのまま水行二十日と水行十日になる
あまり参考にはならないけれど茂在寅男先生の野生号の実験で
1日23キロと見積もっているから1日に進む距離として20キロ程度と
いうのは大体妥当だと思う
陸行は、竹野から纏向までが170キロくらいを30日で行くと、
一日あたり6キロ弱になるけれど、急ぎ旅でもなければ、
これくらいでちょうどだと思う 対馬国(対馬)
↓
一支国(壱岐島)
↓
松羅国(松浦)
↓
伊都国(糸島市)
↓
奴国(博多、旧名儺県)
↓
不彌国(宇美町?)
↓
水行20日、投馬国(鞆の浦)
↓
水行10日、陸行1月邪馬台国(大和) >>606
>松羅国(松浦)
対馬海流に流されて松羅国(松浦)は有り得ない と、何度言えばw @阿波 比定地は阿波を除いて
畿内説でも九州説でも争いはないはずだ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>608
>比定地は阿波を除いて
>畿内説でも九州説でも争いはないはずだ
倭国(阿波)以外はトンデモ論争の無間地獄。 @阿波 >>595
ともかくありがとうございました。
テンプレ読んだんだけどスッキリ入ってこなくて。 >>595
>遺跡の分布や神社の名前からして、出雲と大和の往来はこのルートでいいんじゃないかと思っている
そのルートが出雲と大和の幹線道路ならば、「五畿七道」の一つになっているよ。 推して知るべし。 @阿波 >>605
550 名前:日本@名無史さん :2018/12/18(火) 18:17:01.88
>>547
時速10キロ程度なら、日中だけで80キロ、つまり千里くらいは進めるよ。
対馬海峡も島から島までは1日で一気に進んだのだろうしね。
帯方郡から九州まで10日は可能だよ。
554 名前:日本@名無史さん :2018/12/18(火) 18:31:13.61
>>550
>時速10キロ程度なら
おいおい
当時の船が5ノット以上出たというの?
というやりとりがあって畿内説の方から水行一日10kmは無理という意見が出てますが。 >>373
和名抄で、九州菊池は、(くくち)と読まれている。 >>595
>遺跡の分布や神社の名前からして、出雲と大和の往来はこのルートでいいんじゃないかと思っている
そのルートが出雲と大和の幹線道路ならば、「五畿七道」の一つになっているよ。 推して知るべし。 @阿波 >>608
九州説だってまだ諸説ある。
畿内説だって投馬国が出雲なら山陰経由だし、鞆の浦だってんだったら関門海峡瀬戸内海経由になるから同じじゃないね。
議論にならないのが不思議だよ。 >>354
説なんて格好よすぎ。
比定地で十分。
そもそも、大和説はヤマトの意味すら不明。
そんなことすら分からないで、説なんてチャンチャラおかしい。 >>618
だから、倭国(阿波)以外はトンデモ論争の無間地獄 と、何度言えばw @阿波 >>612
>そのルートが出雲と大和の幹線道路ならば、「五畿七道」の一つになっているよ。
出雲の衰退が速かったんだからしょうがあんめい?
ついでに、丹波も古墳時代中期までは繁栄がもたない >>619
>そもそも、大和説はヤマトの意味すら不明。
「ヤマト」は「倭大國魂神社」が鎮座する倭国(阿波) と、何度言えばw @阿波 >>614
>というやりとりがあって畿内説の方から水行一日10kmは無理という意見が出てますが。
時速10キロと、一日10キロでは、全然違うだろ?
1日20キロというのは、時速5キロで午前2時間、午後2時間という計算だよ? >>621
>出雲の衰退が速かったんだからしょうがあんめい?
衰退した理由は? @阿波 >>619
>そもそも、大和説はヤマトの意味すら不明。
それもテンプレに書いてある
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
ヤマトはカワチから見て、山の外、山の向こう側だ >>625
>衰退した理由は? @阿波
優位性の喪失
まあ、その辺が国譲りの本質だろう >>626
>A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
それらすべての地名のオリジナルは倭国(阿波)。 それら地名は「忌部はん」 が持ち込んだもの @阿波 粟もよそのスレで万津浦の書いてある永島文書も年毛神社も古く遡るものではないって書かれて
論破されたんだから、いい加減無茶な末盧国の比定地を引っ込めればいいのにw >>627
>優位性の喪失
だから、今まで優位だったものが、なんで喪失したのかと聞いている。 @阿波 >>158
周の1尺は17〜20cm
魏は約24cm
魏が尺度を周制度に合わせたというなら
魏の尺は20cmくらいにならなくてはいけない
そして漢が約23cmだからむしろ
合わせたのなら漢制の方と言えるんじゃないか 司馬炎が280年に戸調式って土地制度では夫婦で100畝の農地が割り当てたんだが1里四方が900畝なので短里では100畝って600uくらいになって一人でさえ生きていくのは無理なんだよな >>613
テンプレは言い回しが日本語としておかしい。
非常に読みにくい。 >>629
>粟もよそのスレで万津浦の書いてある永島文書も年毛神社も古く遡るものではないって書かれて
>論破されたんだから
まだ、寝ぼけてんの? @阿波 2018/12/18(火)
時速10キロと、一日10キロの違いがわからない連続句点の白痴認定が降りた記念日 >>634
東夷での里なんだから、中原の制度を当てはめても無駄 東夷の里があるなら北狄南蛮西戎の里もなくてはいけないな
全て一里75m
なぜならそれぞれの四方の最果ては
魏志倭人伝に出てくる1万2千里と同じだからだ >>637、>>640
もうちょっと具体的に書いてやらないと、分からないと思うよ
まあ、すでに>>624に書かれてるけどw >>638
九州説でよく、ヤマト周辺の地名は九州から持ち込まれたものだって言う人がいて、
安本美典氏の甘木朝倉周辺の地名を挙げる人がいるけれど、だったらどうして、
九州のそれらの地名の中心が「甘木」「朝倉」で、「ヤマト」じゃないんだ?
説明できるかい?
まあ、一番簡単な説明は、ヤマトの地名は畿内オリジナルの地名だった、と
いうものだけれどw 準構造船で手漕ぎと帆を併用すると、時速10キロは可能らしいぞ。
対馬海峡の途中で夜に休んだとも思えないから、やはり渡海千里は1日分の行程に相当するのだろう。
それならば、帯方郡から九州北部までの一万里は水行10日で良さそうだ。 >>642
ここまで頭が弱いと、誰がなにを行っても理解できるまい >>346
○ 国に匹敵する遺跡の条件はなに?
○ 倭人伝の戸数は過大な数字。
○ 鉱床群 佐賀県多良岳〜嬉野町、松浦市、
大分市坂ノ市〜姶良郡溝辺町
豊前田川市赤村、うきは市小塩
○ 水行二十日などの行程は、幻の邪馬台国への行程。
現実の邪馬台国への行程は、唐津→伊都→奴国→不彌→筑後山門。 >>644
ソースなしの「らしい」って
誰が信用すると思ってるの?
おつむ弱いの? >>639
そんなもん使って、誰が魏に報告書つくるんだ?
ww 一寸千里が1里75mになったとする谷本計算は
周の一尺が17〜21cmという事を考慮してるのだろうか
魏が周の尺度に合わせたとするなら魏の1尺は約24cmだから
その時点で矛盾が出るんだがな >>644
その前に、移動の起点を帯方郡に戻すのが意味不明なんだけど? 中央と違う東夷の里で報告なんかしたら九州説得意の首チョンパでしょうね 東夷世界は遅れてるから周の尺度を使い続けていたってことだろ 使ってたのは東夷原住民じゃなくて楽浪の地方役人たちね ザラコクがよく言う1歩=1尺でも
周の1尺が17〜21cmなら
1短里=300歩で1里51m〜63mで75mにはならないな 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>656
>東夷世界は遅れてるから周の尺度を使い続けていたってことだろ
何百年遅れればいいんだ?ww 短里も辺境に残った周代の残滓と言ってみたり魏の文帝が復古して全国に使ったと言ってみたり忙しいな >>648
>水行二十日などの行程は、幻の邪馬台国への行程。
wwww
つまり魏志倭人伝の記述は、ガン無視するってことだw
でも、魏志倭人伝の方角は間違うはずがないし、距離も短里で正確なんだろ?
チェリーピッキング乙 >>648
>国に匹敵する遺跡の条件はなに?
末盧国(唐津平野)以上の遺跡の集積(桜馬場遺跡、宇木汲田遺跡、千々賀遺跡等)が
あればいいよ >>648
>倭人伝の戸数は過大な数字。
正確ではないにしても、北部九州最大国の奴国より大きな国が
さらに二カ国(投馬国、邪馬台国)必要
筑後山門にはそんなものが入る余地がない >>648
>鉱床群
それ全部、弥生時代には見つかってないから、其山有丹を満たさない
>>648に書い あるのは一つも意味のある反論になってないww 戸数も魏の役人が調査したものでしょ
いい加減な報告したら首飛んじゃうから 素人でごめん、九州説とやらで
投馬国五万戸はどこ?
邪馬台国七万戸はどこ?
畿内説の人は大体同じ回答だけど九州説の人は誰に聞いてもバラバラなんだよね >>669
九州に邪馬台国はあったが大きな意味での九州説で、
その比定地はいろいろな説があります・・倭人伝に基く遺物が多く出るからでしょう >>669
九州に邪馬台国はあったが大きな意味での九州説で、
その比定地はいろいろな説があります・・倭人伝に基く遺物が多く出るからでしょう 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>669
九州説の一番の弱点が、投馬国五萬餘戸だからね
一番人気は宮崎の妻、都万
西都原古墳群も近いし投馬をツマと読むと考えれば、それっぽく見える
けれど、多くの場合邪馬台国より南になるし、狗奴国との位置関係もおかしなことになる
一番笑えるのが、このスレではあまり見かけないけど、水行で御笠川を使う説で、
太宰府付近を投馬国にする説
奴国から10キロくらいしかない
一番トンデモ度が高いのが、半島南部が投馬国だとする説
北部九州まで来たあと、水行の起点をいきなり帯方郡まで戻して水行20日で
半島南部まで来て、そこが投馬国と考える
狗邪韓国との関係が不詳だし、対馬海峡の渡海を水行十日に当てることも含めて、
おかしなことばかり >>669
>>670
九州説のスレとかどんこいドンコイで詳細がわかりますよ。過去レス読むのが 億劫だったら同じカキコミをすれば良いと思います。
語れば長くなるので、畿内説のスレの邪魔になるのでやめときます。他スレで議論したらいかがかな。
探求心旺盛ならば九州説の本を何冊かよむといいです。 >>674
全部別の説だよ。
九州島内に邪馬台国を持ってきた仮説を総称して「九州説」と呼んでいるだけだ。
阿波説だってたまたま四国だったから九州説ではないだけ。
畿内説のようにゴールを奈良に決めて推理していくのと違って、バラバラ。 >>817
>江蘇省は会稽じゃないんだが >
陳寿は、会稽とか会稽郡とかと書かずに、「会稽東治」という奇妙な表記を書いており、
魏代の西暦260年頃の「会稽郡から呉郡が分郡」があったから、
東方上海付近の海岸沿いの地域のの表記する方法として、
「会稽東治」という文言を選択した、と考えられる。
そして、江蘇省の南部地域は、呉郡地域になったり外れたりを繰り返していたから、
陳寿の「会稽東治」という表現は、
江蘇省海岸と浙江省海岸の両方を含む表現であった事になる。 >>820
魏使らや陳寿らの大体の記載を、必死で、
すべてを「絶対断定した」とするウソ解釈をして、
それで九州説者をヘイトスピーチ誹謗する、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者。 会稽東治の東は後漢書にも出てくる表現だから
後漢の伝承に合わせて陳寿が魏志倭人伝に書いたんだよ >>822
>短里で計測した報告書なんて誰が書くの?<
魏や郡の役人の中の、魏使らに随行した計測記録官。 >>826
>証拠出すのを拒否したら 嘘って確定するよ <
既に、何度も何度も論拠を出してあった事を知らん振りして、
「証拠を出すのを拒否した」かのようしたなウソをついたら、
また、大和説者の犯罪者性が確定するよ。 >>669
畿内説は学者の説なので比定地はほぼ同じで
各地の研究機関の説
九州説はお爺さんの夢なので、
比定地はお爺さんが住んでいるところでばらばら >>683
>魏や郡の役人の中の、魏使らに随行した計測記録官
その人たちは、生まれたときからずっと、漢尺の度量衡の中で育ってきていて、
短里なるものを見聞きする機会すらない人たちなんだが?
短里を知らない人たちがどうして短里を使って計測したりするんだ? >>684
>既に、何度も何度も論拠を出してあった事を知らん振りして、
例えば>>594、>>595のようにこちらは同じことでも実際に何度も何度も根拠その他を書いている
問われたときに「以前に書いた」でごまかしている時点で、根拠なしとされるのは当然 >>829
このように
素手に何度も証拠を出してあった事を隠して知らん振りして、
なにも証拠を出さないで結論だけを、ただボソッと呟くだけだ、
というウソ宣伝をして、
他人とまともな会話しないのが、
大和説。 >>839
>役人が公式の度量衡を使わないって、無理な話でしょ<
役人が、文帝の詔書や重臣たちの上表で決まった「公式の度量衡」の、
周髀算経の一寸千里の法の度量衡を使わないって、無理な話でしょ?。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>849
また、
具体的なことは既に何度も言ったあるのに、
それを知らん振りして、言っていないかのような嘘吐きヘイトスピーチをして、
非難ばかりするんだね、・・・・大和説者は 。 >>850
>裸国も黒齒国も淮南子に出てくるよ <
淮南子に書かれた場所と、魏志に書かれた場所が全く違う。
という事は、魏志記載と淮南子記載とは違うものであり、借用転写していない。
>余傍国の所に出て来ないからこれらは魏使の報告情報ではない <
「在其東南、船行一年可至」という方向位置も違う。
つまり、淮南子等の既に大陸にあった情報が典拠だと分かる >>854
根本から「会稽東治之東」という文献と合わない主張をしてる大和説には、
もとから未来なんてないでしょう。 >>692
そりゃあ架空の国と現実の国を統合しようとするんだから
色々食い違うだろ >>856
>邪馬台国はやはり大和である。<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」でもあるから、この男は、×。 >>689
>役人が、文帝の詔書や重臣たちの上表で決まった「公式の度量衡」の、
文帝の詔書の内容はこれ
「上古之始有君也、必崇恩化以美風俗、然百姓順教而刑辟厝焉。
今朕承帝王之緒、其以延康元年爲黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行、大赦天下。
自殊死以下、諸不當得赦、皆赦除之。」
二行目の解釈
年号は延康元年を黄初元年に変える
正朔は改めることを検討(あとの記述で変えなかったことが判る)
服色は変える
徽号も変える
律度量は同じにする(変えない)
土行はそのまま継承(変えない)
「同律度量」
音律と、度量衡は同じくする(変えない)というのが詔勅の内容 >>859
>末盧国、宇木汲田遺跡<
到着港は、当然「唐津港」であろうから、×。
>伊都国、三雲南小路遺跡<
伊都国は、怡土郡の地であり、津に面しているから、前原付近から糸島水道付近。
>奴国、 須玖岡本遺跡D地点<
伊都国の東南百里であるので日向峠西麓〜早良平野付近になるから、×。 >>860
>>当初神武が占拠したのは、磐余付近であり、<
>カシハラという地名は、かつて本居宣長が指摘したように、
また鳥越憲三郎さんがしてきしたように、今の御所市柏原しかない。<
神武は、磐余彦と呼ばれた。
>神武らも欠史八代史も、婚姻などでの共存をしていた。
そこへ、九州倭国の「東征毛人五十五国」軍が入って来て、神武らの後裔の助けを借りて、
銅鐸祭祀国などを征服支配してしまった。<
>という夢を見たんだねw<
また大和説者は、
「上表文」記載という(金石文と同じ位)価値のある「倭王武の上表文」を、
比定抹殺する嘘吐き騙しをするんだね。 >>698
>到着港は、当然「唐津港」であろうから、×。
ザラコクの頭の中で、国は「到着点」の一点だけの存在なのか?ww
3世紀に唐津港はないぞ?ww >>698
>>末盧国、宇木汲田遺跡<
>
>到着港は、当然「唐津港」であろうから、×。
>
これはそう「思う」ってだけ。×と言うだけの根拠がない。 『松傾』
山の上のほうに住んでいたというのも、
いつ頃の話なんだろう
老婆と同じことを言っているんだけど >>863
>壱岐唐津間は対馬壱岐間に比較して近過ぎる。したがって唐津は末盧国比定地として不適格<
韓の百済の「唐津」も、東シナ海横断渡航の出航港であり、
九州の唐津も、その名前から、「韓や中国への渡航」の港であった、という可能性が非常に高い。 >>697
>邪馬台国は後漢書倭伝など史書に存在してるで
「邪馬臺國は後漢書倭伝など史書に存在してるで」
って書かないと、ザラコクには通用しないよ
ザラコクは古田史学の劣化コピーだから、邪馬台国はなかった、と
言うのがうれしくてしょうがない >>864
>一部にデタラメが混入しているという認識だね<
いや、推論誤差(2割位)の範囲内。
そして、大和説の「6倍」も違うような論は、出鱈目であり、×。 今、住んでいる家があるんだけど、
材木、木材だったかな?何か取り扱っている親戚がいて・・・と言っていたり
その資材(材料)を使って建てた家だとか >>869
いつまでたっても「南→東」などの嘘吐き騙しの「根拠や理由説明」の出せない大和説って、
大和説を否定する気マンマンで、ワラタ 。 ちなみに住んでいるところは
神奈川県の川崎
『山守』
調べてみて、それらしき話が出てきたりw >>872
>誰が書く?
へんな思想に凝った権力者がいれば、迎合する役人など、腐るほどいるだろ
めっさ、ありうるね<
こりゃ、ますます、「淮南子の盗用のインチキ」なんて、絶対に出来んな。 >>875
またも「南→東」など嘘吐き騙しに関する証拠を出さない大和説 w。 寺院が何やら〜とか、
神社もそうなのかな?
『老婆談』 >>885
そういうふうに、
いくら根拠や理由を言って上げても知らん振りして、
「根拠ナシとの中傷」しかできなくなった大和説って・・・。
・・・終わってるよねw >>711
現に淮南子に書いてある事が
魏志倭人伝にも書いてあるんだから認めて諦めろ >>893
>>当時の中国の地理観では、倭国は「会稽東治之東」という地理観。<
>つまり、短里など存在しなかった<
存在した。
>南だという方位も間違ってた <
「南→東」は間違っていた。
>だって九州はもっと北<
九州は、上海の「東〜東北東」の間だから、ほぼ「之東」の位置であり、ほぼピッタリ。
そういうこと。 >>895
「南→東」というトンでもはっぷんのウソつき騙しに固執し続ける大和説学者や、
文部省や右翼マスコミや、スレ主や、ここの大和説者といい、
こいつといい、」
大和説は政治思想に狂ってる奴が多いな。 >>902
大和説者は、万世一系八紘一宇の皇国史観、という「結論先にありき」で、
原因と結果を逆に考える循環論法の人、多いな。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 なぜ「どうした聖人でも殺したのかw」と言ってる人がいたんだろう、
あの謎の311の頃だったかな >>716
>九州は、上海の「東〜東北東」の間だから、ほぼ「之東」の位置であり、ほぼピッタリ。
そういうこと。
上海は会稽じゃないから、×。
九州説って・・・。
・・・終わってるよねw 『山守』?『松傾』?
やくざ、暴力団関係者だと思っている人がいるのかな、
何なんだろう 本当に職業は、わからないんだけど、
寺院に通ったりしていたとか
『松傾』
このような名前で・・・・あの写真の家w まさか・・・本当の話なの?
と思うかもしれないけど・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
家の写真w住んでいるところは川崎区の南部のほう 山守、木材・・・?
調べてみると、それらしき話だしな・・・。
詳しい事はわからないんだけど、凄い土地を持っていたとかw
『老婆談』 >>685
その学者の説が、南を東だと恣意的解釈の上に成り立っていて。 >>716
>九州は、上海の「東〜東北東」の間だから、ほぼ「之東」の位置であり、ほぼピッタリ。
東京も名古屋も大阪も、もちろん奈良も
上海の「東〜東北東」の間だぞ
そんなに条件をユルユルに緩めて「ピッタリ」とか言ってる九州説って
サギ以外の一体なんなの? キュウリのような葉?・・・・の写真、
あと松の木が立てられていて、そこに立っている人の写真とかw
家にあるからと言っているのに、誰も来ないし
家がホンモノだからなんだろうけど 老婆も生まれていない頃の写真だと言っていたから、
・・・・・・・・本当に、よくわからない話ばかり
何度説明しても同じ
銀???という親戚がいて・・・・家に凄いカタナが、
歌舞伎(傾奇?)、芝居が〜とか 荒らす
ゴネる
ウソをつく
九州説にできるのは、ここまで とある人物について調べてみると
なぜか・・・家の父親(家族など)と同じような名前というか、
見たことのあるような文字ばかり出てきたり
義、勝、智、知・・・とか どういう事なんだろう
むかーし、蚕を飼い、機織りをしていたような話とか 本当に、おかしな話ばかり・・・・、
むかーし住んでいたというところの近所に、
小手子(大伴?)の像というものが建てられていて 当時(むかーし)住んでいた家にあった本や書なんかも、
近所の人が持って行っちゃったのか、
あげたのか・・・誰かに売ってしまったのかな〜とか 伊達郡の某所に、銀〜〜という人が住んでいるし・・・、
山の上のほうで、周辺は森林?
たしか家の誰だったかな〜・・・
の弟のほうの家だとか 畿内説の永遠の課題
ー「南→東」などの嘘吐き騙しー 年齢的に老婆の言っている、
当時の銀〜??という人ではないだろう
家になかに謎の刀が飾ってあって >>739
ただ嘘だー嘘だーとわめくだけで
南水行が東の間違いだという論証にまったく反論できない九州説
学説として扱ってもらえなくなったのは当然の結果だよね >>742
さあね
太陽がのぼる場所の近くだったら北かもね 自分の属してる、せま〜い世界の常識だけを
世界の常識と思い込む
それが九州は 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 洛陽の真南16000里の上空で太陽が南中すると想ってる人が12000里も東南に行ったら、太陽はどっち方位に南中してると思うかな? >>669
>投馬国五万戸はどこ?
宮崎県
>邪馬台国七万戸はどこ?
福岡県 >>676
>一番トンデモ度が高いのが、半島南部が投馬国だとする説
多分、このトンデモは全スレあわせて一人だけだと思う。 >>751
女王国以北にある国が、なんで邪馬台国より南にあるの?
九州世界はメチャクチャではないか >>753
投馬国までの方が日数がかかっているよ。
都万(妻)とそのままの地名も残っているし。 >>922
したがって、
「記録記載里数は、有効数字1桁概数で書かれていて,1里が60〜90m位内の近似値であり、
秦漢朝の1里≒430mとは全く異なる別の単位での計測だ」
と素直に考えられないのかねぇ。 >>755
>「記録記載里数は、有効数字1桁概数で書かれていて,1里が60〜90m位内の近似値であり、
という証拠は? 「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。
同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。
結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。 >>926
>対馬国 対馬 <
対馬國なんて存在しないし、對海國は、南北対馬の中の一ち部分。
到着はおそらく、浅茅湾北岸地域であり、出発港は、厳原。
>一大国(一支) 壱岐 <
周辺の島々も含む。到着は勝本付近で、出発は郷ノ浦付近。
>末盧国 唐津 <
唐津港付近。
>伊都国 怡土 <
前原〜糸島水道付近。
>奴国 儺県 ><
伊都国の東南百里であるから、全く×。
>までは対馬、壱岐と同程度には確定してる <
お前の比定は、史料事実や史料実態の曲解捏造が多過ぎて、×。
50メートルから200メートルだから、4倍違うよ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>759
いつの時代まで短里とやらが有ったことにしたいわけ?
誰もそんな単位の存在を記録しないのは何故? >>759
直線で二千キロなんて、どうやって測ったの? いつまで古び田の短里にケっ躓いているんだよ
もう、とうに終わった里。 >>759
>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり
そんなことはない
・遠くのことは箔付けの意味もあり、より遠くに書く(誇張)
・そもそも情報が少なく不正確
・古典文献にある伝説の国と想定されている
など、短里なしでもいくらでも説明はつくんだよ
そして、より合理的だし
短里は捏造(合い言葉) 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 謎の人物が発表した、この意見は、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝する理由についての重要な情報に、関係があるのではないのかな。。。
251日本@名無史さん2018/12/17(月) 21:09:34.00
相手の立場を思いやる気持ち。。
たった四千里四方ってのが短里で確定したらどうすんのよこれ。。。 テンプレに魏文帝や明帝が約400mの正しい一里を使ってる用例が出ちゃったので、魏晋朝短里説は完全に死んだね 魏志韓国人伝というものがあって、韓国の大きさが、短里で表示されてしまっているのではないのかな。。。 韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。 >>771
4千里四方が長里だったら大変なことになってしまうな。 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用されたのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 四千里×76.834メートル=307.336キロメートルが、魏志倭人伝時代の韓国の領地の、東西と南北の長さになるな。。。 >>779
魏の役人が、どうして上司の知らない単位を使って報告する? 魏志倭人伝時代までの韓国人の領土は、南にあった倭人の領地を侵略する前だったので、狭かった可能性が99.5パーセントあるな。。。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 魏志韓国人伝というものがあって、韓国の大きさが、たった四千里四方だと記録されているのではないのかな。。。 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が、テンプレートを完全に論破された怨恨を晴らそうとして、悪口を言い放ったな。。。
787日本@名無史さん2018/12/19(水) 08:51:39.51
コミュ障の連続句読点がウザい 魏志倭人伝時代の韓国の北の境界はどこに、あったのだろうか。。。
そして、そこから南に307.336キロメートルの倭人の領地との境界は、どこだったのだろうか。。。 破綻した畿内説の宣伝係員が、韓国政府に雇用されたのは、何故なのだろうか。。
そして、破綻した畿内説の宣伝係員の人種は、どのような人種だろうか、、 >>792
人種で、差別してはいけないのだが、破綻した邪馬台国畿内説の宣伝係員の人種は、奈良判定を実行した闇の人種との、関係性が高いのではないのかな。。。 奈良県出身の者達の遺伝が、韓国人と似ているのは、どうしてなのだろうか。。。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 倭国が、新羅と合戦をして、捕獲した馬や人民は、どこに売られたのだろうか。。。 >>796
倭国の王と日本国の天皇は、取引を実行した可能性が、高いな。。。 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が、完全に論破された時の癖を出してしまったので、完全に論破されてしまったことが、印象付けられてしまったのではないのかな。。。
797日本@名無史さん2018/12/19(水) 09:10:07.71
短里が破綻
必死に流す連句点
ww 魏志倭人伝時代の後の4世紀に、倭国が合戦をして新羅から捕獲した馬や人民は、日本国に売られたので、日本国が纏向遺蹟を製作することができたのではないのかな。。。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 自分では面白がってやってるんだろうが
周囲から見たら既知害でしかない連続句読点 >>778
間違ってるよとお教えしただけですwww 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 周囲から見たら、韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が、完全に論破された怨恨を晴らすための、悪口にしか見えない可能性が、99.5パーセントあるな、、、
802日本@名無史さん2018/12/19(水) 09:24:42.80
自分では面白がってやってるんだろうが
周囲から見たら既知害でしかない連続句読点 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>804
なにが間違ってるの?
あなた、日本語がちゃんと喋れない人? >>803
じゃあ、短里を使って、いったい何のために誰が誰に報告したの? >>958
>古文献の「史料の限界」を考慮せず「とにかく正しい」と原理主義に陥るのは、普通ではない
というより、学問ではない <
古文献の「史料の信頼性や確率の吟味=史料批判」をせず、
「とにかく正しい」と原理主義に陥るのは、普通ではない。
というより、それは、一種の宗教や狂気であり、
学問でもなく科学でもない。 >>968
ほらな、
大和説者はまた、「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの、
根拠が出せない 。 >>804
この人はきっとまた恥をかく
土行のときのように >>774
>魏志韓国人伝
コピペ用に間違い文章をストックしてるのか?
>>455でバカにされてるのにバカの上塗りww
この時点で知識のなさが目も当てられないほど乏しいのが暴露されてるww
この時代に韓国なんてないよwwww
韓国人はもっとないw
現在の韓国の地域の国家形成は、倭国と比べて100年単位で遅れる
三國志卷三十/魏書三十烏丸鮮卑東夷傳の、韓について述べた部分は
韓、在帶方之南。で始まる
あえて言うなら「韓伝」だな
きちんと書くなら「烏丸鮮卑東夷傳韓条」だ
まあ、古くからしっかりした歴史のある倭国がうらやましくて
しょうがないのは分かるがなww >>810
>古文献の「史料の信頼性や確率の吟味=史料批判」をせず、
>「とにかく正しい」と原理主義に陥るのは、普通ではない。
>というより、それは、一種の宗教や狂気であり、
>学問でもなく科学でもない。
それ、古田史学の会のやってることだよね?
自己紹介乙 そろそろ、次回のスレッドが、必要なのではないのかな。。。 魏志韓国人伝というものがあって、韓国の大きさが、たった四千里四方だと記録されているのではないのかな。。。 奈良県出身の者達の遺伝が、韓国人と似ているのは、どうしてなのだろうか。。。 >>970
だから、大和説は、
結論だけ言い張るんじやなくて、
「南→東」などの証拠出せよ。 >>975
「南→東」などのような史料事実や史料実態の否定曲解のウソ付き騙しで、
罵っているのは大和説側だけだよ。
九州説側は「そんなことは、確率が低い、という事も分からないのかい?」、
くらいしか言ってないw 。 韓国政府が、頭の良い者達の間では完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>822
魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、天皇の家族や連れてきた軍隊以外は、倭人ではなかった可能性があるな。。。 >>821みたいな短い文章の中にも
しっかり自己矛盾とウソがあるなんて
九州説は凄いや 魏志韓国人伝というものがあって、韓国の大きさが、短里で表示されてしまっているのではないのかな。。。 >>977
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定曲解をする大和説側が、
「まともな人なら誰も考えもしないような勝手な線引き」をして、
「新たな線引きをした人がいるから、線引きが人によって変ってる」って、
ただのマッチポンプやんww。
「まともな人なら誰も考えもしないような勝手な線引き」をする人が、
歴史を語るのがチャンチャラおかしいんだよ。
そこをごまかすから、大和説の人とはと、まともな議論ができない。 韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。 >>982
議論その他で負けてる大和説の方が、「どっちもどっち論」を言い出すww。
というか、蓮池加計問題などでの安部自民らの常套手段で、
よく、与党やタカ派のキョクウの人が使うレトリック。 >>984
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説は、
反論しなくなり罵るだけになる。 四千里×76.834メートル=307.336キロメートルが、魏志倭人伝時代の韓国の領地の、東西と南北の長さになるな。。。 >>986
「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」の大和説は、
いつも「人種差別的ヘイトスピーチ中傷」をするね。 >>987
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、いつも、
証拠を出したり根拠を言うことを嫌がる時点で、
論として負けが確定するんだよ。
自覚したまえ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 魏志倭人伝時代までの韓国人の領土は、南にあった倭人の領地を侵略する前だったので、狭かった可能性が99.5パーセントあるな。。。 >>833
九州説さん
いくらそんなウソついて中傷しようとしても
テンプレあるから丸バレだよ
ww >>127
>は? そのHP、紀要に寺澤の文責でしっかり
”私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。”
って書いてあるぞ <
「邪馬台国」なんて存在しない嘘つき騙し文言であるし、
寺澤は「南→東」の嘘つき騙しもしているから、
いずれにしても寺澤は×人間。 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が、完全に論破された時の癖を出してしまったので、完全に論破されてしまったことが、印象付けられてしまったのではないのかな。。。
836日本@名無史さん2018/12/19(水) 10:44:56.93
>>833
九州説さん
いくらそんなウソついて中傷しようとしても
テンプレあるから丸バレだよ
ww >>131
>現代の出来事すら偽造する九州説w <
現代でも、「南→東」などの偽造をする大和説者。 >>132
>九州説はデマ専門だな <
大和説学者らは、「南→東」などのデマ専門だな。 韓という漢字に変換するために韓国と入力するのはわかる
国を削除し忘れたのならまだいい
でも、韓国人はさすがにないわ >>135
まあこれほど、「南→東」などの嘘ばっかりついてる人も珍しいけど、
それが少なくとも、スレ主とwwの2人はいるんだぜ。
すげえな、嘘つき騙しの大和説詐欺師。
国民の7割に否定されるのも、当然だな。 >>139
「南→東」などの嘘つき騙しの、小汚いスレ主は何でもやるさ。
老い先短いから、精神の病院にでも入院させて貰って、
許して貰ったら?。 >>842
嘘だ嘘だと連呼するだけで
嘘だという証拠など絶対出さない九州説こそが
嘘をついていることは
明白だな この意見をしつこく発表している、韓国人は、魏志倭人伝に韓国が登場するのを、知らないのだろうか。。。
841日本@名無史さん2018/12/19(水) 11:00:57.41
韓という漢字に変換するために韓国と入力するのはわかる
国を削除し忘れたのならまだいい
でも、韓国人はさすがにないわ >>843
逆に、九州説のほうが
上海あたりが「会稽東治」だなどと
ミエミエのウソをついている
そこは会稽郡の外だ
東でもなく、北だ
誰でも調べればわかる
恥ずかしくないのか? >>147
「南→東」などの嘘つき騙しが、
大和説の致命傷って、
自覚出来たんじゃないの?。 魏志倭人伝時代の韓国の北の境界はどこに、あったのだろうか。。。
そして、そこから南に307.336キロメートルの倭人の領地との境界は、どこだったのだろうか。。。 >>845
その意見をしつこく発表している、畿内説を宣伝する係員の韓国人は、魏志倭人伝に書かれている韓国と、自分の祖国を別の民族の国家と考えたいのでは、ないのかな、、、 一寸千里の法が実際に使えるなら
会稽との同緯度は簡単にわかる >>847
だから、嘘だって証拠出してみせろよ
出せないだろ
つまり、嘘をついてるのはお前だ >>152
実際、「南は東の間違いだ」と「里は長里だ」以外に、
積極的な大和説の根拠がないからな。
そして、長里は捏造ってはっきりしたら、大和説は全滅だww。 >>153
そして、「南→東」は嘘つき騙しで、
「里は長里」は捏造ってのは、既に、
国民の7割もの否定で、はっきりしてるw。 >>850
そうそう
もし九州に着いた漢人が一寸千里を測量に使ってたりしたなら、そこが宛城ほどすらの南でもないことを知っていることになる
会稽東治なんてセリフが出てくる余地はない
南水行が必要の間違いであることの証拠になるね ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:48b670980bb9aea5
ホスト:p4021-ipad208kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>155
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
心が破綻してます。 一寸千里の法が実際に使えたので、会稽との同緯度にも倭人が住んでいたことが判明したのだね。。。 九州説なんやってると、人間平気でウソのつける体になっちまう、ってことか
恐ろしいことだ >>167
そういう「南→東」などの嘘つき騙しや、
「魏朝や魏志は長里」などの妄想を、振り撒けば振りまくほど 、
大和説の信用は落ちていくのだよ。 まあ行程の記事を書いた本人が計算して、倭を実際よりはるか南だと誤認してるんだ
行程の記事に間違いがあるのは確定事項だね
九州説が成り立たないのも確定事項だね >>175
「南→東」や「里は全て長里」などのように、
あらゆる「都合の悪い文献記載」を無視し、曲解して、
自分の思いつきを押し通そうとするのが、大和説。 >>858
嘘だ、妄想だと決め付けるけど
証拠は? >>177
>魏文帝即位の制詔
「上古之始有君也、必崇恩化以美風俗、然百姓順教而刑辟厝焉。
今朕承帝王之緒、其以延康元年爲黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行、大赦天下。
自殊死以下、諸不當得赦、皆赦除之。」
「同律度量」 音律と、度量衡は同じくする(変えない)というのが詔勅の内容
これがどうして、周制に変えることになるんだかww<
「変えない」のであれば、文帝は、即位の詔書にわざわざ記載する必要がないもの。
つまり「度量衡を同じくする」という事は、
「混乱があった度量衡を同じくせよ」という意味。
そして、混乱があったは、里歩系と尺寸系の換算であり、
始皇帝の命令の「1歩=6尺」と、
淮南子や介山などにみられるような、周朝の周髀算経の一寸千里の法の「1歩≒1尺」とのとの混乱。
そして重臣たちは、「周制への復古」の上表を繰り返した。 >>845
その意見をしつこく発表している、畿内説を宣伝する係員の韓国人は、3寸男ではないのかな。。。 >>864
>「変えない」のであれば、文帝は、即位の詔書にわざわざ記載する必要がないもの。
必要があるか、ないか
なんであんたが決める権利があるんだ?
しかも、理由も言わずにさ >>864
「周」の一文字も書いてない詔の「同」の一文字から
どうしてそこまで妄想できるんだか >>179
>三海峡はすべて一律千余里であることから、実測していないことが明白<
「余」の文字があるから、それが「近似値的な計測」であった事を示している。
他書からの引用や形容詞的表現であれば、原則としては「余」など付けないもの。
>韓地の大きさは、倭の本土までの距離を「万里」にするために
万里から三海峡、三千里を引いた七千里に合うように机上の計算で合わせてある<
無理に合わせていない。
對海國と一大國のそれぞれの大きさと、国内見聞 移動があった事を示す記載だある。
>どちらも短里じゃないねぇ<
いずれも、「長里」では、6倍位も違っており、全く「ない」。 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が、テンプレートを完全に論破された怨恨を晴らそうとして、嘘をつきながら悪口を言い放ったな。。。
857日本@名無史さん2018/12/19(水) 11:35:35.71
九州説なんやってると、人間平気でウソのつける体になっちまう、ってことか
恐ろしいことだ >>864
>議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行
ぜんぶ、変えるか変えないかの話なんだが >>864
周制復古など指示していない
その後、文帝も明帝も従来どおりの度量を使ってる証拠がテンプレに載ってるよ 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。。。 >>864
>そして重臣たちは、「周制への復古」の上表を繰り返した。
そんな上表があるならホンモノを具体的に出してみせろ >>868
>他書からの引用や形容詞的表現であれば、原則としては「余」など付けないもの。
そんなこと、誰が決めたの? 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 そろそろ、次回のスレッドが、必要なのではないのかな。。。 >>852
>「里は長里だ」
この時点で捏造w
九州説以外の人は、基本的に「長里」などという単語は使わない
秦漢里とか、魏晋里などという言い方をする
短里などないのだから、その対立概念として九州説が使う長里も捏造ってことだ
短里は捏造(合言葉)
長里も捏造ww >>180
>そして実際変えなかった証拠の一つが テンプレで紹介されて皇覧であるわけだ<
唐代の「晋書の律歴志」の場合と同じく、
後代の学者の書いた「皇覧」も、後代学者の「前代史に関する自己解釈」に過ぎないから、
そんなものは、前代の歴史に関する参考資料程度であり、根拠にならないんだよ。 そろそろ、次回のスレッドが、必要なのではないのかな。。。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 >>182
>後漢書の記録は1世紀の後漢と倭奴国の朝貢記録をそのまま写しただけだろ
意見がある場合は范曄は同文書内で
(案今名邪摩堆音之訛也)のように注釈としてつけるもの <
「案今名邪摩堆音之訛也」は、唐代の李賢が付けた「注」ですね。 >>185
>>「東南」が出発時点での出発方向、
「陸行五百里」が途中の説明、<
>それでは方向転換が書いてないから、たどり着けないねぇw<
当然、倭人らの案内人が付いているし、
道なりや道標に拠っても、着ける。 >>186
>周は時代によって違うが 1尺の長さが約17〜20cm
魏は見つかってるモノサシから1尺約24cm ぜんぜん周制と違うじゃないか <
周公の頃の周初では、周髀算経の一寸千里により、1歩≒25,5cmであったんだよ。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 そろそろ、次回のスレッドが、必要なのではないのかな。。。 >>187
>>「東南」が出発時点での出発方向、 「陸行五百里」が途中の説明、
「到伊都国」が到着の説明、<
>1.出発した方向は書くが、どれだけ進んだかは書かない
2.どれだけ進んだかは書くが、どっちへかは書かない
そんな文章を書くのは、気の狂った人だけ<
当然案内人がいるし、道標や道なりがあるから、
それも分からないのは、気の狂った大和説者だけ。 >>188
どっちにせよ、会稽東治之東は九州だから、」
長里説は破局してるけどね。 >>192
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、口先ヘイトスピーチばっかりで、
まったく反論証拠を出さない。
常に 。 >>195
>周の1尺は17〜20cmだから・・・<
周初の周公の頃の1尺は、
周髀算経の一寸千里に拠って、
1歩≒25.5cm。 >>196
>魏晋の頃の尺→里の換算を明記した文献は何? <
漢代末に最収集注釈された周髀算経の一寸千里の法。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 そろそろ、次回のスレッドが、必要なのではないのかな。。。 そろそろ、次回のスレッドが、必要なのではないのかな。。。 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。。。 >>199
>>「歩」という文字は、前後に「止」の文字を配しているから、「歩いて」おらず、
止まっている状態の「長さ」単位であるから、「1足底」長になり、
「複歩」なんかには全くならない。<
>止まるという字は、木の枝を模したもの
歩の字が、前後に「止」となっているのは、楷書が整えられているときに、
足指が木の枝の象形に近づけられた結果
これで、歩が複歩ではないことの論証のつもりだから、恐れ入るww <
足指を「木の枝」と解しても、
「止まっている状態」には何らの変わりがなく、
「1足底長」である事には、何ら変わりがない。
これで、歩が複歩であることの論証のつもりだから、恐れ入る。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 そろそろ、次回のスレッドが、必要なのではないのかな。。。 >後代学者の「前代史に関する自己解釈」に過ぎないから
短里は現代の素人の解釈だからな 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 そろそろ、次回のスレッドが、必要なのではないのかな。。。 >>202
>晋書律歴志 海島算経ね
同じことが書いてあるの? <
九章算術系の本は、長里だけ論だからね。 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。 >>203
>本当にザラコクの歴史観っていうのは滅茶苦茶だな
日本の歴史を知らないメキシコ人の歴史観(メキシカンの歴史観)でもここまでデタラメではない
始皇帝の命令による度量衡の統一で、中華世界の測量、計量は混乱が収まったんだがな
周髀算経は、漢代に既に間違っていることが確認されている書であり、公文書でもなんでもないから
「周朝の周髀算経の一寸千里の法の短里短歩」なんてものがそもそも存在しない
どこまでも、インチキを言い立てる困った爺さんだよなww<
いくら、口先ヘイトスピーチで誤魔化しても無駄。
文帝の「同度量」は、度量衡が「同じ」で混乱していなかったら、
文帝が詔書に書く必要が全くなかった、という事になり、
「同度量」と書いたという事は、
漢代には度量衡は、国内では同じではなかった、という事を示すもの。
つまり淮南子や介山などの短里表記があった、という事。 >>214
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者、悲惨経。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 そろそろ、次回のスレッドが、必要なのではないのかな。。。 同律度量は尚書に書いてあることだから
曹丕の天子即位を尚書を典拠に飾りたててるんだよな ザラコクの「周髀算経がー」「一寸千里がー」が煩いので、
きちんと否定しておく
https://i.imgur.com/73rgfWR.jpg
蓋天説は、天と地は平面で、その間の距離が八万里という、
漢代に既に間違いだと見なされていたモデル
周髀算経は、その蓋天説を前提として机上の計算をしただけのもの
掲げた図で見てもらえば分かるとおり、青い直角三角形の左上角に太陽があるとき
八尺棒とその影が作る赤い直角三角形は、青い直角三角形と
相似比「一寸:千里」の相似の関係が、「何時いかなる時も成り立つ」ことが分かる
一寸千里は、蓋天説における公理ともいえる「定数」
この相似比が、何時でもどこでも成り立つので、
青い直角三角形の底辺が千里長くなれば=千里離れたところで測れば
赤い直角三角形の底辺は一寸長くなる =影の長さは一寸長くなる
これは、冬至でも、夏至でも、春分でも、秋分でも
長安周辺でも、上海周辺でも、北京周辺でも「必ず成り立つ」
蓋天説とはそういうモデルであり、それを前提とした周髀算経の影の長さも
必ず一寸千里の関係を満たすことになる
谷本計算では、それを無視して、夏至に影の長さが一寸の差になるところを
わざわざ探しただけのものであり、周髀算経の値自体は「実測することなく」
「蓋天説から計算すればこうなる」というのを示してあるだけ
周髀算経には、夏至の影の長さと書いてはあるが、冬至でも同じように
一寸千里は成り立つことになる
決して短里の根拠にはならない
以上 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 >>906
>文帝の「同度量」は、度量衡が「同じ」で混乱していなかったら、
>文帝が詔書に書く必要が全くなかった、という事になり、
これが物知らずのウソ
度量衡(公定尺)の制定は皇帝の職掌だから、文帝が皇帝になるにあたり、
自分(文帝)は前代の公定尺と同じものを公定とすると宣言しただけ
変えてないんだよ 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 >>879
>唐代の「晋書の律歴志」の場合と同じく、
>後代の学者の書いた「皇覧」も、後代学者の「前代史に関する自己解釈」に過ぎないから、
はい、ウソ
「皇覧」は魏の文帝の勅命で作られ文帝に献上されたリアルタイム史料
短里は破綻
おまけ
文帝は自著で乗馬・騎射が得意と書いている
いつも馬を疾駆して10里獲物を追いかけると自慢
短里とやらでは自慢どころか恥の告白になるね 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員の3寸男が、知らなかった分度器の使い方を研究して、青い直角三角形の角度を計算しようとしているのではないのかな、、、 >>918
また、計算に失敗して、3寸、計算を間違えてしまうのではないのかな。。。 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。 破綻した畿内説は話題にもならないので、
九州説の議論ばかりになってしまったな
畿内説、死ぬ前に何か言い残したいことは無いか? 魏の文帝が短里なんか使わなかった事実が明らかになり
九州説は死んだのではないなかな
ww 九州を無理やり「会稽東治之東」にする企みも頓挫
九州説は死にました >>211
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
おおよそ全ての、
文字通り全ての史料記述・考古資料・化学的測定結果を、
片っ端から全て否定しないと成り立たないぞ。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。 会稽東治之東に倭人が住んでいたので、倭人は船を漕ぐことが得意な民族だったことが、判明したのではないのかな。。。 >>215
>>わかり辛くてしょうがねえよ <
>分かる方がおかしいww
そもそも、何か書いて「反論した気」になるのだけが目的だから、
意味のあることはそもそも書いてない
論点は「水行二十日」が「道里」の表現かどうか、なのに
「途中移動」とか「四至説明」とか、ザラコク用語を並べるだけでまったくトンチンカンw<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、・・・・詐欺師だから、
説明したって仕方がないが、
世間の皆さまには、繰り返しになりますが」説明しておきましょうね。
「南至投馬國」の「南す」と「至る」の間に、
途中移動を示す文言が書かれていないから、
魏使らは、その間を移動していなかった、という事になる。
これは、伊都国〜奴國の場合と同じ。 >>925
じゃ、それらを具体的に言ってみて?
ウソじゃないなら、出来るよね? >>929
>「南至投馬國」の「南す」と「至る」の間に、
>途中移動を示す文言が書かれていないから、
>魏使らは、その間を移動していなかった、という事になる。
そんな事になる、という理由は? >>220
>邪馬台国はやはり大和である。<
「南≠東」などに拠って、×。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 >>929
>「南至投馬國」の「南す」と「至る」の間に、
>途中移動を示す文言が書かれていないから、
>魏使らは、その間を移動していなかった、という事になる。
ウソでしょう
「涼州軍従金城、南至沃干阪。」
涼州軍は移動してる >>236
>「海島算経」について書いてあるこの文献
http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf
には
中国の数学では、ギリシャ数学の ような抽象化は行われず、
朝廷百官の実務のための例題の数値には必ず「単位」が付いている。
また例題は、現実にありそうな内容のものばかりである。
漢代以前から書き加えられながら、教科書として使われてきたためか、
『九章算術』の距離に関わる例題には、1 里=405m~435m 程度の漢魏晋代の里の他に、
1 里= 67.5~72.5m 程度の(短)里が「但書きなしに」使われている。
『三国志』にも短里と長里の混用がある.」
と書いてあるぞ。<
ふーん、成程。
Yahooでのハイエナの紹介では、
「 1 里= 67.5~72.5m 程度の(短)里が、但書きなしに使われている、」
なんて説明はなかったなあ。
ハイエナは、アル中で、私よりも何歳か?年下であった筈で、
もう死んでしまって、生きていないかも知れないが。 >>242
ほらな。
やっぱり、「南→東」などの嘘吐き騙しのの大和説者らは、
科学的測定という史料実態や史料事実を全否定して、
ワッショイワッショイとやっとるわ 。 >>937
という証拠は?
九州説さん、またウソ? 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 >>249
>100年古く出ても220〜340年だぞ
副葬品の年代観からホケノは3世紀前期〜中期は間違いなし
そもそも100年の誤差を含んでの120年〜240年という測定だから
そこにさらに100年を足してどうする<
「120年〜240年」という計測推定値を出した大和説学者は、頭がおかしいから、
当然、「プラズマ化による原子核の放射性壊変の亢進sしプラスされる」という事態を、
想定していないからの失敗計測。
>そしてまたプラズマ化で年代が古く出るとか意っておるが
プラズマは電磁気力で炭素14の原始崩壊は核力の問題
この2つがお互い影響を与えるわけがないと南海も説明されただろ<
プラズマ化による外周電子の全喪失は、当然核内の核力場や重力場や電磁場のバランスの破壊になり、
その喪失電子場分の埋め合わせのための新しいバランスを志向する事になり、
核子の荷電減少を志向し、余剰荷電子を放出し(ベータ崩壊)して、
新しい別個の安定性を得る事になる。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 プラズマ化による外周電子の全喪失は、当然核内の核力場や重力場や電磁場のバランスの破壊になり、
韓国政府が宣伝している邪馬台国畿内説が、崩壊したのではないのかな、、、、 魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、 >>263
>偽書の東日流外三郡誌にコロッと騙されるんだからw <
何だ?。
また、偽書説派の筆跡鑑定がインチキであったという証拠を見せて欲しいかい?。
喜八郎さんの原稿用紙での直筆は、
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E8%97%A4%E6%9C%AC%E5%8E%9F%E7%A8%BF%E3%81%AB%E5%8A%A0%E7%AD%86+%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E7%AD%86%E8%B7%A1#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0
の左の頁の3分の2の「藤本原稿への加筆」筆跡であり、
偽書説側の筆跡鑑定に供された「丑寅原稿=章子さんの清書原稿」の筆跡と全く別人であり、
この時点で偽書説は、嘘吐き騙しであることが分かり、破綻した。 破綻した畿内説は話題にもならないので、
九州説の議論ばかりになってしまったな
畿内説、死ぬ前に何か言い残したいことは無いか? >>944
どっちにしろ、古文書だと言い張ってたものが現代人の筆跡と一致したんだろ?
ニセモノだったんだよ 九州説の言うことに、理由の有ったためし無し
欲望しか無い人々なの? >>291
>径百歩は誤情報では無い 箸墓が存在する <
箸墓は、「南≠東」に拠って、始めから×であった。 本日論破された九州説
・魏の皇帝が知らない短里
・会稽にとても届かない九州
・測量に使えなかった一寸千里
・移動の記述が無ければ移動できない南至
まだまだあったような 長里と短里の取り違えだけで会稽の東は説明つくもんな。
むしろ短里による九州説に有利だよ。
畿内説はどうやっても会稽の東にならない。 >>953
今までずっと説明無理だったでしょ?
どうしてこれから、急に説明つくようになるの? 今までも説明できていたけど、あなたの目に止まらなかっただけ。
会稽の東は九州説に有利だよ。 >>953
>畿内説はどうやっても会稽の東にならない。
なるよ
南水行が東の間違いの場合だけね
つまり、この南は東の間違いだ >>955
いつ、どう説明ついたの?
なぜ魏の役人が魏で使われてない単位を使うのか?
なぜ魏の人に理解できない単位で報告するのか?
いくら聞いても答えが無いですが? >>955
>今までも説明できていたけど、あなたの目に止まらなかっただけ。
>会稽の東は九州説に有利だよ。
結論は、何度も言う
そういう結論がどうして出るかは、けっして説明しない
理由は絶対言わない
証拠は絶対出さない
それが九州説 そして九州説同士で説明が一致していないのが行程パズル 周尺は1尺17〜21cm
約20cmの当時のモノサシも見つかっている
漢の時代でも周1尺は漢1尺(約23cm)より
2割ほど短かったという文章が残されている
一寸千里法が1里75mに相当する地点があり
当時は1歩=6尺でなく
1歩=1尺だから1里=300歩=300尺
よって周の1尺は25.5cmとする谷本計算は瓦解 崇神が何者か?
台与はどうなったのか?
詳しい人いないかな >>952
>>>>>>>>>>>>>>
本日論破された九州説
・魏の皇帝が知らない短里
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・アホか短里は理論値なのだよ、魏の皇帝は邪馬台国に行っていないよ
・会稽にとても届かない九州
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・アホカ畿内にも届かないよ、これはね大陸から見て太陽の昇る東側(日本も同じ記述「日出処(東)の天子、書を没する処(西)の天子に致す。つつがなきや…」)
・測量に使えなかった一寸千里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・アホカ畿内説は距離については誤情報で逃げてるよ 別に九州説も誤情報で逃げてもいいけどネ それはしないよ
・移動の記述が無ければ移動できない南至・・・・・・・・・・・・・アホカ畿内説は行程を何もかさず、批判に走るだけで行程についてはへ理屈つけて逃げの一手 何も論の無い
国民の支持が九州に多いのは当然の結果だろう
畿内説でも広くアンケートとってみたら・・結果が畿内説似ならないよ、アンケート捏造しなければね! 南⇒東
魏の皇帝・・・倭国では太陽は南から昇るのか??? >>310
>尺と里の換算そのものは、漢書食貨志
六尺為步。步百為畝。畝百為夫。夫三為屋。屋三為井。井方一里。是為九夫。・・・
最初の六尺=歩はいいな? <
よくない。漢書は、当然秦朝や漢朝の「長里」説での記述であり、魏朝の採用里の根拠にはならない。
>晋書律暦志に書いてあるのは
数学家の劉徽が「九章算術・商功」に注釈を入れ「莽尺(王莽時代の計測器具)一尺は、
当時(魏時代)の尺度で九寸五分五厘に相当するとした」こと
原文は・・・。
新莽嘉量(王莽銅斛)は現物が現存しているので、そこから魏代の一尺の値が分かる
新莽嘉量の尺(漢代)が、23.1センチ これが魏尺の九寸五分五厘に当たるから、魏尺は24.2センチになる<
尺の長さに関しては、始めから「≒」として、「大きな変更はなかった」という説明をしておいていた。
>一里は1800尺だから、魏晋里は435.4メートル 短里なんてどこからも出てこない<
当たり前。
お前は、始めから始皇帝の「1歩=6尺」を踏襲した、
海島産経や唐代の晋書律歴志だけでの、
インチキ話を書いている。 >>957
嘘を嘘で塗り固めなければいけないなんて、畿内説を信じるということは苦行なのだな。 >>965
>アホか短里は理論値なのだよ、魏の皇帝は邪馬台国に行っていないよ
行ってないと何なんだ?
論理的な会話が不可能な脳しか持っていない
それが九州説信者 >>966
>南⇒東
>魏の皇帝・・・倭国では太陽は南から昇るのか???
「その場の日の出を見て方角を間違わない」
というのと
「それが記録され報告されて史書にまとめられるまで間違わない」
は、同値ではないんだ
つまり、
「魏志倭人伝という史書の方角記載が間違っているかどうか」
という論点に対し
「太陽は南から昇らない」
というのは、反論になっていない
畿内説の論旨では、「陳寿の錯誤」とする場合が多いし
「報告の欠落」とする考えもある
個人的には、この二つの合わせ業だと思うけれど
「報告の欠落」
⇒投馬国行き水行と、丹波までの水行の方角が落ちていて
丹波から大和までの「陸行の南」に引きずられた
「陳寿の錯誤」
⇒倭国を「當在會稽、東冶之東」と認識していて、それに合う記述を採った >>965
>アホカ畿内にも届かないよ、これはね大陸から見て太陽の昇る東側(日本も同じ記述「日出処(東)の天子、書を没する処(西)の天子に致す。つつがなきや…」)
イミフ
だったら洛陽の東でも琅邪の東でもいいことになる
どころか会稽東治之東と書いた
つまり大陸から見て東という意味なんかでは、あり得ない >>320
>>1 里= 67.5~72.5m 程度の(短)里が「但書きなしに」使われている.『三国志』にも短里と長里の混用がある.」
と書いてあるぞ。<
>なんの証拠も出さずに、な 九州説はまったく証拠を出さない 常に出さない<
この男は、
www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf
の 野上道男(東京都立大学名誉教授)さんの論考にまで、
「なんの証拠もださずに」として、否定抹殺してしまう・・・・男だったのか。
ひょっとしたら、野上氏か九州説者である、という情報でも
知っているんだろうか?。 撃ち方止め‐ー
撃ち方止め‐ー
畿内説は度量衡は批判するだけで 独自の自論無いから
撃ち方止め‐ー
撃ち方止め‐ー
どの度量衡を用いっても畿内には到達しないから 批判してるだけだーーー
撃ち方止め‐ー
撃ち方止め‐ー 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>325
>ホケノが3世紀前半〜中頃までなら、記紀でいうところの開化だろうな。
記紀が書いているような“天皇”ではないが。<
ホケノは、「庄内〜布留」期であり、布留があるから、それだけで3世紀末以後。 最後はいつも思考停止して
連呼とコピペで逃げ回る
それが、九州説 >>327
でも「南≠東」でも「短里がある」だけでも、大和説は死ぬ。
つまり大和説はお遊びにしか過ぎない 。 >>328
かなりの痛手だったようだな。
「南≠東」や「短里あり」や「卑弥呼の墓は冢」などで、
大和説死亡。 >>974
九州説さんが
論破されたことを
自覚したようです
ご愁傷様 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 でも短里はない、というか捏造だから、死んでいるのは九州説ww
方角が間違わないっていうのも、大陸史書でたくさんの方角間違いが見つかっている以上
投馬国と邪馬台国行きの「南至が間違っていないという保証はない」訳だ
まあ、悪魔の証明だから、証明しろとは言わないけれど、これをもって畿内説を否定するのは不可能
ザラコクはそれが理解できないから、延々と「南≠東だから×」だけを書いてるけどね
まあ、ザラコクはそれ以上のことを理解する能力がないからしょうがないww 倭人伝の行程記事を書いた本人が
倭人の国々を日本列島よりはるか南と誤認してた
この事実は
「南水行」は東の間違いだという
確実な状況証拠だよ >>329
>結局、自治体レベル(教育委員会)が遺跡を多く数えるかどうか、なんだよ
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだ <
いや、集合住居をどう数えるのか?の問題はあっても、遺跡数が多いの言う事は、
結局はは居住人口が多かった事を示すのであり、
筑紫と大和の比較で、筑紫の繁栄は否定出来ないよ。 >>986
>いや、集合住居をどう数えるのか?の問題はあっても、遺跡数が多いの言う事は、
>結局はは居住人口が多かった事を示すのであり、
わかんないのかな
同じ遺跡を何度もダブルカウントすれば
無意味に遺跡数が増えるんだってことがさー >>971
「日出処(東)の天子、書を没する処(西)の天子に致す。つつがなきや…」
↑
畿内説ではをどのように考える
「 処 」の解釈で逃げてもいいよ・・これ引っ掛けと言うか学説で述べてよ >>988
質問したいときは、他人に通じる日本語でお願いね >>969
感情で書きこむのは良くないよ
理論立ててヨロシクお願いします 撃ち方止め‐ー
撃ち方止め‐ー
畿内説は度量衡は批判するだけで 独自の自論無いから 撃ち方止め‐ー
撃ち方止め‐ー
畿内説は度量衡は批判するだけで 独自の自論無いから >>991
>>969が感情で書きこまれてる、と断定する根拠を
理論立てて説明かたヨロシクお願いします >>330
>ちなみに 奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵
それに対して、糸島の三雲遺跡群は24件
結局、何を以って遺跡数とするかは、その地方自治体の考え方次第ってことで、
奈文件のデータベースは、それをそのまま記載しているってことだ
これで、福岡の方が奈良より遺跡が多いとか、言ってもしょうがないだろ?<
同じ事だ。
環濠のように明確な境界を持てば、1件とするしかないし、
当然、その周りにある遺跡は、別遺跡として算定される事もあれば、
されない事も有り得る。 お決まりの長ーーーーい
畿内説の恥さらし・・いいかな 素人は
テンプレ夜中に>>1が立てるから
盛ろ上ろうぜ >>331
三雲地域だけでも、これだけたくさんの「独立的な遺跡」があった、という事だ。 >>991
「畿内説ではをどのように考える」
というのは、客観的に見て
ちゃんとした日本語ではないのだが
回答がもらえる可能性について、どう考える? >>995
つまり、その数を数えても
意味のある統計はとれないと
そういうことだな >>332
>>尺は周尺と大体同じだし、歩も「周髀算経の短歩」を使った。<
>そんなものはない 短里も短歩も捏造!<
祇園山は、ほぼ卑弥呼の冢に確定であり、径百余歩は、短歩での記載だ。 このスレッドは1000を超えました。
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