邪馬台国畿内説 Part409
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。 【骨 子】 ・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43) ・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6) ・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7) ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 前スレ read:https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1545495128/-100 ◆0【 要 旨 】 ( >>2-12 に各論、それ以下にFAQを付す ) 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、 それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。 その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、 纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、 弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、 >>34 畿内には外来品が無いね。 大陸と交流なかったんだろうね。 キナイコシはプラスでも複数ID使って頑張ってる努力家ら。 言ってることは詐欺師だけど。 魏志倭人伝には畿内らしい記述が一切ないからな。 阿波説も畿内説もたいして変わらない。 そもそも弥生時代を通じて、倭国で一番栄えていたのは福岡。 邪馬台国は大和で決まりだけど纏向ではない。 纏向説の根拠が箸墓古墳の円形部分が150mであることなどですが、 しかしこれは大和盆地をざっと見渡して都合のいい部分だけ抜き取った屁理屈であり、 箸墓古墳の長さは270mを超えるし、 だいたい殉葬された奴婢の説明が全くできていない。 前期古墳の特徴は山稜にあること、これは大和でも同じ、 大和の山稜で殉葬された奴婢の説明ができて150mの塚があるのは、 高天原(御所市高天)しかありません。 奴婢とは土蜘蛛です。 https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/d9/8e/1835208-bcygobf9qoc0aha4ac9a5a4ada4jbfmbd8a4dea4la1aa/2489/d1cc9f336b85e32515e6140c23dabb86.png 高天原の土蜘蛛を誅し埋めたのは神武、 つまり神武の時代が実はヒミコの時代であったわけです。 神武東征紀は女王時代であった史実をごまかすための誇張された記述でしょう。 >>53 >畿内には外来品が無いね。 国宝・中平銘鉄刀。 卑弥呼の五尺刀以外に解釈しようがない。 出たのは和邇氏の墳墓・東大寺山古墳。 和邇氏の系譜にヒミコがいるのではという仮説が成り立つ。 和邇氏の系譜にトヨもヒミコもいるのだ。 二人が住んだのは葛城だ。 事代主 ┣━━━━━━━━━━━━┓ 天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武 ┣━━━━━━━━┓ 建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧 ┃ ┃ 建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没) ┃ ┃ 豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳 ┃ ┃ 大御気主 孝昭 ┃ ┃ 阿田賀田須 天足彦国押人命 ┃ 和邇日子押人命 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 【葛城鴨王家の系譜】 大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。 その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。 大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。 三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。 この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。 神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。 出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。 この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。 天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。 この登美の鴨王家には別の伝承がある。 飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。 登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。 とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。 古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。 いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 >>59 おまえは書き込むな。 登美の鴨王家などと言ってるマヌケなおまえと、 ヒミコの墓が高天原であると喝破したわしが、 同一人物と思われるやないか。 >>60 鴨王家は実在した。 しかしそれは在野の辺境王。 倭王卑弥呼とは関係ない。 ニセの定義などない。 勝手にキナイコシが言い張っているだけ。 はい、ここがニセスレと告白頂きました w w w w 前スレと番号まで同じスレタイで しかも別人が立ててたら ニセスレで確定だよ 現にいま本スレに悪質なコピペ荒らしが猛烈爆撃中だしな 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、 韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から 多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から 四世紀と考えられている ・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、 漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から 出土したものと同型である。 ブラックはカラ売りしたったらえー? あくまで個人的感情 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>81 >伊都国は邪馬台国とは別の国 根拠なし。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>83 >根拠なし。 同じ国だと思う人は、本気で自分の頭の程度を疑った方がいい >>87 キナイコシがおかしいことは誰もが知っている。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 おかしな人から見たら、まともな人はおかしく見えるんだぜ>伊都クズ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . 土人! 馬鹿どもよ、 邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。 小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。 当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、 ようするに移動狩猟民の部族だからだ。 世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで 文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。 狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で 移動してたんだ。 で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。 これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。 その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、 原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。 わかったか、 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 このスレッドは、僕達が作製したスレッドではないので、 僕達に論破された怨恨を晴らすために、荒らし行為を実行している、韓国人だということが確定した邪馬台国畿内説の宣伝係員のこのスレッドへの荒らし行為は、八つ当たりだな、、、 >>114 キウスには成り済まし偽スレ立ての前科があるからな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる