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邪馬台国畿内説 Part417
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/15(火) 01:08:36.71
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547231195/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:10:08.01
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0004◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:10:25.65
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0005◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:10:42.90
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0006◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:10:59.84
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0007◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/15(火) 01:11:14.50
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0008◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/15(火) 01:11:34.25
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:11:56.52
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0010◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:12:13.08
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
0011◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/15(火) 01:12:29.66
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0012◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:12:48.09
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:13:09.00
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III    ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:13:27.05
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0015◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:13:43.80
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0016◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:14:02.33
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0017◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:14:17.86
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0018◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:14:36.07
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0019◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:14:52.04
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0020◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:15:07.85
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0021◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:15:24.58
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0022◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/15(火) 01:15:40.08
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0023◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:15:57.95
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0024◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:16:14.81
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0025◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:16:32.17
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0026◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/15(火) 01:16:52.01
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0027◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:17:09.51
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0028◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/15(火) 01:17:31.56
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0029◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:17:50.18
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0030◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/15(火) 01:18:08.76
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0031◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:18:28.98
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0032◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:18:44.57
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0033◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:19:02.75
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0034◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:19:18.71
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0035◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:19:34.72
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0036◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:19:52.80
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0037◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:20:08.57
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0038◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:20:34.49
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0039◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:20:51.63
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0040◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:21:06.19
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0041◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:21:22.24
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0042◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:21:40.08
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0043◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:22:03.01
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0044◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:22:20.97
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0045◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:22:38.67
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0046◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:22:55.08
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0047◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:23:10.08
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0048◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:23:26.33
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0049◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:23:42.36
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0050◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:23:59.81
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0051◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:24:16.81
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0052◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:24:32.69
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0053◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:24:49.53
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0054◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:25:04.66
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0055◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:25:21.87
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0056◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:25:39.30
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0057◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:25:54.16
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0058◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:26:11.44
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
0059◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:26:28.32
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0060◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:26:46.26
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
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2019/01/15(火) 01:27:03.85
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
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2019/01/15(火) 01:27:21.97
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2019/01/15(火) 01:27:43.61
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2019/01/15(火) 01:28:01.13
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0065◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:28:17.61
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

 古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。
0066◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/15(火) 01:28:34.82
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0067◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/15(火) 01:28:53.17
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0068◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/15(火) 01:29:33.62
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
0069日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 03:41:41.52
邪馬台国は岩手県の八幡平
国立公園の中なので発掘はできない
0070日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 03:57:29.49
魏志韓伝を読みなさいと忠告したでしょう
陳寿は韓にも行っていません
ここがキー
●「韓伝」には、韓国の大きさについて、『方可四千里』とある。つまり、韓国の大きさは『一万六千里』だと言うのであるから、
それに比べると、倭国の大きさは、極めて小さい。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 04:08:20.55
前スレで
纒向は住宅街だから発掘できないと言ってた人がいたけど
ほとんど田畑だよ
0072◆q8leUXpsw.
垢版 |
2019/01/15(火) 04:21:02.75
1#okuyama
0073日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 04:33:54.30
>>1
纒向 2世紀末は諦めたの?古墳時代は2世紀末じゃなかったっけ

1 : 1 ◆q8leUXpsw. [sage] 投稿日:2016/03/19(土) 12:50:02.05 .net
邪馬台国の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつけつつ
敗者に肩を貸してやりましょう

前スレ
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1458122688/

2世紀末に建設された纏向遺跡が前代未聞の巨大祭祀空間であり
また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは夙に知られている
0074日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 05:08:25.92
>>71
発掘出来ないのは変わらんけれどねー
文化財保護法の仕組みでは開発行為のついでに開発者の負担で調査が行われるのでむしろ住宅地の方が発掘が進む
農地はいつまでも農地なので調査されない
0075日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 05:15:36.72
今は計画発掘なんてどこもほとんどやってないよ
緊急発掘ばかり
はっきり言って、もう邪馬台国から世間の関心は薄れてしまったし
計画発掘とかやるくらいなら公共施設の整備でもしたほうがいいって話
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 05:34:40.67
前スレ>992
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547231195/992
>投馬国が邪馬台国の北だなんてどこにも書いてない。

自女王國以北、其戶數道里可得略載。
投馬国は戸数五萬餘戸、道里水行二十日と、戸数道里略載の女王国以北の国

>帯方郡から邪馬台国まで水行10日、投馬国まで水行20日なんだから、投馬国は邪馬台国より南だ。

この「帯方郡から」というのが誤読
邪馬台国へは投馬国から水行十日陸行一月と書いてある
0077日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 05:40:04.19
@畿内説に合わない倭人伝を認めない。
A畿内説に合わない記紀を認めない。
B畿内以外の考古学的出土物を認めない。
Cフルボッコされた畿内説の負けを認めない。
D無視されると勝利宣言する。
E自分で荒らして他説のせいにする。
F論を批判せずに個人を罵倒する。
G存在しない遺跡や確認できない資料を提示して煙に巻く。
H畿内説に合わない鏡を認めない。後で作り始めたことにする。
I証拠を要求するが何を出しても証拠を認めない。
J証明を要求するが畿内説自身は証明ができない。
K論破していないことを論破したと主張する。
L計算ができない。
M方位も距離も畿内に合わせて読み替える。
N川と海の区別がつかない。

ことで畿内説は成立しています
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 05:44:24.81
>>75
すると
纒向は大集落群というのは憶測の域を永遠に抜け出せないという事か
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 05:48:53.76
>>77
という証拠を具体的にプリーズ
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 05:50:21.75
>>79
どうして?
確認されてるから文化庁がそう発表したんだろ?
0082日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 05:56:30.31
>>81
文化庁は大集落群とは言っていない
極めて大規模な集落跡と言っている
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:12:10.32
>>70
広さは九州で決定だな

>●「韓伝」には、韓国の大きさについて、『方可四千里』とある。つまり、韓国の大きさは『一万六千里』だと言うのであるから、
それに比べると、倭国の大きさは、極めて小さい。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:14:33.84
>>80
ワロタ
あんたそのもんじゃねーか
0086日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:17:21.85
>>75
>計画発掘とかやるくらいなら公共施設の整備でもしたほうがいいって話

これもワロタ
纒向に豪勢な公衆トイレ立てたな
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:18:04.42
>>84
つまり誇張されて過大になっているのは韓国の大きさと海峡幅だから、日本列島についてからは正常な魏の里で考えていい
0088日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:19:24.48
>>85
証拠の出せない九州説

学説として終わってる
0089日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:20:47.13
>>210
>>「南≠東」などによって、「玄界灘から山陰の海岸へ移動」」は、始めから×だよ。<

>そんなことはない
のこの島辺りから一旦南に出発してから、海岸沿いに行けばそれは
「南至と出発方向が記載される」そうなので、方角が違うというのは否定の根拠にはならない <


「南至邪馬壹國女王之所都」の「至」は、行程移動の目的地であるから、
実際の移動でもあり、位置説明でもあり、
だからこの男(類スレ主)は、×。

>末盧国−伊都国間が90度間違った方角が記録されているのと同じだよ<

途中移動が殆ど必要なかっただけだから、類スレ主は、×。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:25:02.40
陳寿は帯方郡から女王国の国境までの距離を1万2千余里に長里で無理やり合わせる一方で、
真実の距離も同時に表現しようと、あえて、「計其道里當在會稽東治之東」の一文を加えたと思う
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:28:55.20
>>216
>北海道のアイヌが、道東に住む先住民コロポックルを身の丈3、4尺だと信じて青森辺りの倭人に伝え、
それが伝言ゲームで魏使まで伝われば、そう書かれても不思議ではないと思う。<

魏志の侏儒國は、(夷人らの知らない)「里」で記載されているので、
魏の役人らの実見記録である事になるから、×。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:29:28.77
もう邪馬台国に関心を持ってるのは75歳以上の爺だけだろ
婆はほとんどいない
本ももう自費出版でしか出ない
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:35:17.90
>>219
≫(いずれにしても、当時はメルカトル図法による正確な地図などないのだから、
歪みに歪んだ地理感の上に、クニとクニが街道や海路で結ばれており、
そこで言われる距離というのはGPSで測るような直線距離ではなく、
歪みに歪み、湾曲し、迂回し、山地では直線距離の軽く数倍にもなる、
街道や海路に紐づけられた実体感距離なんだ。<

周髀算経の一寸千里を知った魏の役人や陳寿らは、
一寸千里を使っての、かなり正確な位置比定が出来ており、
距離もかなり、実態距離に近い推定が出来ていたから、
この男も、後代の知的劣化人種。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:40:27.69
>>221
陳寿は90度回転させないから、×。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:42:14.01
毎日新聞より(2018年5月28日)
       

 邪馬台国畿内説の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で出土していたモモの種について、
同市纒向学研究センターが14日に公表した放射性炭素(C14)年代測定の結果が議論を呼んでいる。
「西暦135〜230年に実った可能性が高い」という分析は卑弥呼(248年ごろ没)の活動時期と重なるが、約100年の幅は残った。
自然科学が導き出した年代の意義と今後の課題は何か。


 「残念ながら、あまり考古学や歴史学の役に立たない」。
20日に大阪市内で開かれた講演会で、大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長(考古学)は今回の結果に厳しい見方を示した。
「もし2世紀前半なのであれば卑弥呼は生まれてすらいませんからね」。時期をもっと限定せねば意味がない、という考えだ。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:45:51.32
>>227
>中国では短里なる架空の長さでは国家が運営された事は無いのは土地税制から明らかだ<

周代以前の井田法には、「里」の長さ規定はなかったようだ。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:49:51.88
>>236
>九州書紀には、そんなふうに書いてあるのか。<

古事記の記載の筈。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:52:17.83
>>236
>九州書紀には、そんなふうに書いてあるのか。<

古事記の記載の筈。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:56:18.70
>>89
>「南至邪馬壹國女王之所都」の「至」は、行程移動の目的地であるから、
>実際の移動でもあり、位置説明でもあり、

つ「南至投馬國水行二十日」の「至」は、行程移動の目的地を示すそうだから
 実際の移動でもあるというのがザラコク理論なので、
 これまでの側副傍線経路だから投馬国には行っていないというザラコク理論と矛盾する

南至投馬國水行二十日 と
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 とは
完全に文型が同じなのだから、同じ読み方にならないと
おかしいということすらザラコクは無視する
0100日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 06:56:57.70
>>240
>>考古的にも、纏向は庄内3であり、<

>九州説さん・・・ そんなこと言ってる学者は世界に一人もいない<

Yahooでの、東大出のyamatogawakonanという人(学者?)が、
天誅との大和説仲間同士の会話の中で、天誅に言った発言。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:08:17.44
>>241
>三国志 邪馬壹國、女王之所都
後漢書 其大倭王居 邪馬臺國
で表現は違うが「王之都」「王居」と倭国の都を
「邪馬壹國」「邪馬臺國」としているのだから違うものと考える方が頭がおかしい<

「邪馬壹國」と「邪馬臺國」とは名前が違うし、
卑弥呼は「大倭王」でもなく「倭女王」だし、
「大倭王」が出来たのは宋代の倭の五王の頃だし、
「其大倭王居邪馬臺國」では、
邪馬臺國は(7万戸の巨大國やその都ではなく)小地域国名のよう表現であるから。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:18:31.19
畿内説は行程を重要視していなのだから何を言っても無駄じゃないかな
御都合主義は学問を歪めるのではないかな
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:19:10.72
>>247
>庄内甕と併行し、あるいは後続する筑前型庄内甕が比恵那珂遺跡で出るのは、
久住のTB期新相だけどな。<

ふむふむ。
久住は、時々、ついうっかり正直な感想を述べるからなあ。
しかし、柳田も、庄内は弥生銀座よりもは三雲の方が古い、と、
ついうっかりしゃべっていたなあ。
結局、筑紫の庄内は、三雲が一番古く、大和の?庄内甕よりも古い。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:23:17.33
>>103

は?
この脳停止爺さんどこまでトンチンカンなの?
0105日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:24:23.99
寺澤さんは貧乏くじを引いたようだ
みな纒向王都から距離を置くようになったね
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:29:09.60
>>258
>庄内3式が270年〜290年とするのは石野や豊岡の編年だって
どこの誰が言ってるの? どこの誰が? 不思議だなあ <

関川氏は、「布留は4世紀」論だから、庄内3は、
3世紀末説になる筈。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:30:01.60
>>105
九州説はもうこんなウソで目先を凌ぐしかないと
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:32:24.86
>>106
>関川氏は、「布留は4世紀」論だから、庄内3は、
>3世紀末説になる筈。

つまり
庄内3式が270年〜290年とするのは石野や豊岡の編年だ
って言うのは真っ赤なウソ
ということですな
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:32:41.38
>>261
>「出発+途中+到着」の中の途中移動の文言がないと 移動行程説明ではないって
誰が決めたの? <

当然、「旅程や行程」説明での人類の常識なの。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:37:22.91
>>263
>じゃあ、なんで伊都国のことは「位置説明」しないの?<

出発時点でも、途中の陸行五百里の始めの時点でも、
伊都国の方向はよく見えず、判らなかったから。
0111質問良いですか 急ぎません
垢版 |
2019/01/15(火) 07:38:56.73
西殿塚古墳は纒向遺跡に包括されていますか?
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:40:46.14
>>269
いっぱい書き込むけど、史料事実や史料実態の否定曲解ばかりで、
決して証拠は明かせない。
情報ソースは常に秘密。

それが大和説。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:43:48.47
>>273
>どう決着が着いてるの? 邪馬台国の位置さえ 九州説の仲間内で 絞れないのに <

決着が付いているのは、「女王國は九州であった」という事。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:44:28.26
>>112
だと言う証拠は?

嘘つきさん乙
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:45:51.57
>>87
根拠は
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:47:10.73
云うだけなら説、云うだけナラ説ww
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:49:16.42
>>109
>当然、「旅程や行程」説明での人類の常識なの。

それが常識だと誰が決めたんだ?
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:52:25.84
>>111
西殿塚古墳は纒向遺跡に入っていないと思うよ
天理市教委の範疇だから桜井市纒向学研究センターはほとんど口が出せない
入れるべきだと思うが 利害が交錯してるのではないかな
くだらん
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:54:38.61
>>117
海ならともかく陸地で直線に歩ける道が古代にあったとでも
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:56:00.06
>>115
1里の値が異常に過大な地域が韓国と海峡の水上移動部分や山岳地帯の難路に集中してるからだな
博多湾岸の人里にある国々が100里間隔なのは信用できる情報だ
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:59:32.25
>>110
>出発時点でも、途中の陸行五百里の始めの時点でも、
>伊都国の方向はよく見えず、判らなかったから。

唐津湾越しにあっち(北東方向)ってのは分かるぞww
相変わらずその場しのぎの言い逃れしか書けないんだなw
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:01:04.81
>>119
あなたは山とか遠くの景色が見えない人なの?
それがどっちの方位にあるか解らないひとなの?
たかだか30kmくらい先にある隣町が北か南か解らない人なの?
それは人類として非常識だね
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:06:47.00
箸墓の後円部の特殊器台は、吉備の工人を呼んで大和で焼いたのではなく、吉備で焼いた完成品を運んで並べたことが最近の調査で明らかになった。
つまり、箸墓の被葬者は大和の王ではなく、吉備の王だったということ。
天皇家の出自が吉備の王でなかったら、 飛鳥時代まで古墳時代300年間もの長きに渡り、箸墓を嚆矢とする前方後円墳で、各地の王を支配し、序列化していった理由が解らなくなる。
他人の褌で相撲を取ってるようなもんで、論理的におかしい。
では全国の教育委員会が目ぼしい場所は皆掘り尽しているのに、未だに見つからない卑弥呼の冢は一体どこにあるのか?
それはつまり、 現在立ち入れない場所、そして立ち入ったとしても、その存在を現在の構築物を破壊しない限り確認できない場所、つまり箸墓後円部の真下にタイムカプセルのように埋まっているとしか考えられない。
卑弥呼の冢百余歩(直径150mの円墳)、箸墓後円部の直径は160mでスッポリ入るサイズに設定してあり、無駄がないw
まさに映画「ナショナルト・レジャー」の世界w
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:09:30.13
人類の常識ってのは根拠を示さないで逃亡したい時の用語だから
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:16:30.96
>>123
親魏倭王の金印は、箸墓の後円部墳頂の主体部ではなく、その真下の地中に埋め立てられた卑弥呼の円墳の主体部に埋まってるってコツ???
箸墓全部崩さないとムリじゃん!!!
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:16:57.25
言うだけのオナラ説ww
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:21:18.64
>>125
まさにその通り。現在の徳川大坂城の地下数メートルに眠る豊臣大坂城と一緒。
だから箸墓の墳丘280mを一旦すべて崩し、後円部(直径160m)の地下に埋まっている卑弥呼の冢(直径150m)を発掘する許可を、新天皇陛下・徳仁ちゃんにお願いしよう!
もしからしたら前方部地下から、卑弥呼の宮殿の跡が出てくるかもしれないからねw
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:36:33.29
どうせ箸墓は掘れないのだから、なんでもかんでも言った方が勝ち・・、
というわけで言いたい放題の箸墓説だったのだが、墳丘に残された土器が証拠であえない最後www
0130日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:39:37.91
というわけで、みなさん、九州説も畿内説もここはひとつになって、箸墓の墳丘280mを一旦すべて取り崩し、「完全に更地になった状態」で、
改めて地表と地下を発掘調査する要望書を、宮内庁に提出しようではありませんか?w
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:42:09.07
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:44:49.00
言うだけのオナラ説、バ〜〜カ! 
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:47:38.75
>>279
>「会稽東治之東」ならば
北緯30°の会稽よりはるか北の北部九州はあり得ない <

上海で北緯31度であり、江蘇省海岸も含むから、女王國は九州島にぴったし。

>つまり方位は間違いで、短里も使っていない <

つまり方位も短里も正しく、長里は使っていないから、大和は×。

>南九州には遺跡がない <

上野原遺跡や宮崎の遺跡がある。

九州説は絶望だね
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:49:57.88
>>123
箸墓の地下に卑弥呼の冢...orz まさか、でも、あるいは...
我々は肝心要の部分だけ目隠しされた状態で、古代史を探究していたのかもな…
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:53:46.60
>>283
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
延々とこんなデタラメを貼り付け続けるだけが、
大和説でございますよ
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:59:45.07
>>285
で?
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者って人種は、
行程や旅程の説明の「人類の原則」は、「出発+途中説明+到着」の順に記載する、
という事も判らないような・・・・アホ人種なの?。

大和説者って不思議ですね 。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 09:04:06.42
>>293
>>瀬戸内航路は、卜骨や吉備型甕が出ている愛媛を通るだろうね<

>なぜ魏志倭人伝にはこれらの国への里程が書かれていないの?<

上陸しなかったから、なんだろうねえ。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 09:12:06.93
>>133
>上海で北緯31度であり、江蘇省海岸も含むから、女王國は九州島にぴったし。

江蘇省の上海が会稽東治だって真っ赤なウソは
とっくにバレてるのにね
哀れだなあ九州説は
ウソに頼るなんて
もう終わりだね
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 09:21:04.28
>>130
墳丘全部崩さなくても、地中レーダーで探査できないかな?
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 09:35:48.87
>>122
倭人伝読んだらどうだ
末盧国
草木茂盛し、行くに前人を見ず
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 09:39:04.44
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 10:04:07.61
>>297
「南→東」などの嘘ばかりの大和説が、
陳寿の信用なんて心配するのは、
何かのギャグですか ?。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 10:05:23.12
ここの九州説は短里にこだわり過ぎて嘘まみれになってるな
高島忠平先生くらいにしとけば嘘つかなくて済むのに
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 10:08:23.09
>>144
でも短里に縋り付かないと確実に九州説死ぬだろ
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 10:10:53.23
>>141
お前、確実にチエオクだな
浜から湾の対岸が見えないと思ってるのか
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 10:31:32.26
不弥国から南に水行二十日で投馬国、そこからさらに南に「水行十日陸行一月」を九州でやろうとすると、同じ場所を堂々巡りするしかない罠w
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 10:35:51.95
>>305
>史書に書いてある方角は間違うときは間違うんだよ<

脳の異常のある人間や、詐欺をしようとするような悪質な人間ら以外の、
普通の人間は、東西南北の方向は間違えない。

>九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている<

間違っていない。魏使らも陳寿も普通の正常な人間。

>九州説の言い分がダメダメなのは、これを認めないところ
「たとえその場で方角を間違わなかった「としても」
史書の編纂までの間にいくらでも方角の錯誤は起こりうる」<

東西南北の文字の間違いがあった例も0。

>これを否定するのは不可能であり、実際に間違っているという現実により、
九州説の言い分が間違っていることは、証明されている <

魏使らや魏の役人らや陳寿らが間違う、という事を主張する大和説者の方が、
正常な人間ではない、という事だな。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 10:40:18.24
九州説                           畿内説

【不弥国】→東に水行二十日→【投馬国】(出雲)→東に水行十日(丹波で上陸)             
↓南に水行二十日                     ↓南に陸行一月
【投馬国】                        【邪馬台国】→尾張【狗奴国】
↓南に水行十日+陸行一月
【邪馬台国】
↓南
【狗奴国】w
0150日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 10:44:13.63
>>121
呼子や名護屋浦からは伊都国の方向は全く見えないよ。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 10:46:23.70
>>141
空は見えてるから自分の進んでるだいたいの方角は分かるよね。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 10:48:18.67
>>147
不弥国から南にではなく
帯方郡からから南にだよ。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 11:00:44.83
>>150
>呼子や名護屋浦からは伊都国の方向は全く見えないよ。

九州の地理に無知すぎるな
呼子に近づけば船から可也山やトンボ山が見えるんだよ
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 11:01:59.28
>>152
>帯方郡からから南にだよ。

根拠もなく不合理なことを言い張るだけ
それが九州説
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 11:07:51.11
>>153
呼子や名護屋浦行ったことないの
伊都國方面は見えないよw
>>154
里数が伊都国、奴国で12000里を越えてるし
単位が里から日へと、距離と時間じゃ3次元と4次元で別物
繋げて読む方がおかしい
不弥国だって魏志倭人伝の記述通りなら内陸だし船では進めない。
0157現在の倭人伝テキストは陳寿が書いたものとこんなに違う
垢版 |
2019/01/15(火) 11:25:08.97
現在目にすることができる『三国志』は、
「百衲本(ひゃくのうぼん)二十四史」に納められているものが一般的で、
これは、宋代(1190年代)に刊行された「紹煕本」が元になっています。
陳寿が『三国志』を書いてから900年もの年月がたっているものです。
この間、『三国志』は代を重ねて多くの人に筆写され続けてきました。

ですから、もともと陳寿が書いたものからは、
かなり内容が変わってしまっているんです。
「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の
『三国志』の写本の一部分で、現在までに6編ほど見つかっています。その中に、
「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」
というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。
0158現在の倭人伝テキストは陳寿が書いたものとこんなに違う
垢版 |
2019/01/15(火) 11:25:24.50
姚李農氏という学者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、
それによると、全1192字中、画数の同じでない文字が416字。
全体の1/3を越えます。また、用語から見て、
「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。
どう思われますか? これは一部分の話ではありますが、
全体としてみても、この傾向はあまり変わらないと考えられます。
ですから、みなさんが目にする「魏志倭人伝」も、陳寿が書いたものからすると、
1/3は画数の違う漢字が使われている可能性があるんです。
0159現在の倭人伝テキストは陳寿が書いたものとこんなに違う
垢版 |
2019/01/15(火) 11:26:02.35
以下に、紹煕本と古本の違いを列挙していきます。

○よく似ていて誤写したと思われるもの。
単なる誤写の他に、筆記者の判断によって意図的に字形の似た別字に
置き換えられたものもあるでしょう。

・「孫権伝」
「[番β]」と「潘」
「免」と「勉」
「成」と「誠」
「麾」と「靡」
「俛」と「勉」
・「虞翻伝」
「偽」と「為」
「積」と「責」
「成」と「咸」
「中」と「忠」
「宜」と「=v
「日/丙」と「晃」
・「陸績伝」
「在」と「存」
「遇」と「逼」
・「張温伝」
「j」と「綜」
「任」と「恁」
「倍」と「陪」
0160日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 11:26:24.87
>>155
言い張るだけって薄馬鹿なのか?
ランドマークになる山が見えてるんだよ
0161現在の倭人伝テキストは陳寿が書いたものとこんなに違う
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2019/01/15(火) 11:26:28.16
○衍字・欠字

・「孫権伝」
「陸遜部将軍宋謙等攻蜀五屯皆破之」の「之」なし
「遜随軽重」の「随」の下に「其」あり
「君生於擾攘之際」の「之際」の二字なし
「古人之所恥」の「之」なし
「敕諸軍」の「敕」の下に「令」あり
・「虞翻伝」
「後権於楼船」の「権」字なし
「惟大司農劉基」の「司」なし
「大王以三爵之後手殺善士」の「手」なし
「曹孟徳尚殺孔文擧」の「尚」なし
「弧於虞翻何有哉」の「有」なし
「聳越騎校尉累遷廷尉湘東河間太守」の「累遷」以下10字なし
・「陸績伝」
「遠人不服則脩文徳以来之」の「則脩」2字なし
・「張温伝」
「温當今與誰為比」の下に「也」あり
「臣自入遠境」の「入」字なし
0162現在の倭人伝テキストは陳寿が書いたものとこんなに違う
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2019/01/15(火) 11:26:59.30
○その他、改変と思われるもの

・「孫権伝」
「猶冀言者不信」の「者」を「之」につくる
・「虞翻伝」
「何敢與吾君斉馬首乎」の「乎」を「也」につくる
「天下熟知之」を「誰不知之」につくる
「而遽」を「遽而」につくる
「當閉反開當開反閉」を「當開反閉當閉反開」につくる
「也」を「邪」につくる
「百」を「十」につくる
「在南十余年年七十卒」を「在南十余年_十九卒」につくる
「翻有十一子」を「子十一人」につくる
・「陸績伝」
「須當用武治而平之」の「須」を「唯」につくる
「虞翻旧歯名盛」の「名盛」を「成名」につくる
「有漢志士呉郡陸績」の「士」を「民」につくる
「遭命不幸」の「幸」を「永」につくる
「従今巳去」の「巳」を「以」につくる
「便欲大搆於蜀」を「便欲大構於丕」につくる
「功冒溥天」の「溥」を「普」につくる
0163現在の倭人伝テキストは陳寿が書いたものとこんなに違う
垢版 |
2019/01/15(火) 11:28:40.18
おわかりいただけたでしょうか

現在目にする三国志テキストには、これだけ多くの誤記・誤写・改変があります。
もう一度くり返すと、
全体の1/3以上が異なる漢字に置き換えられ、
約1200字のうち、40句の熟語が違っているのです。
中国は広く、未発掘の遺跡は無数にあります
ゆえに、陳寿が書いた直後の『三国志』が木簡等で出土する可能性は皆無ではありません
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 11:29:28.83
>>155
>単位が里から日へと、距離と時間じゃ3次元と4次元で別物
>繋げて読む方がおかしい

おかしいと言い張る理由は?
オレ様が認めたくないから?

ww
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 11:36:59.13
不弥国から邪馬台国まで南に水行一月(二十日+十日=三十日)陸行一月だよ?
沖縄本島内で陸行一月なんてあり得ないよ?w

伊都国からの放射読みが完全に否定された今、九州説は一体どこに比定しようとしてるの?w
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 11:37:59.36
>>155
言い張るだけのオナラ説ww
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 11:46:24.37
>>165
九州説は「方角を決して間違えてはいけない」らしいからなw
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 11:48:39.62
>>160
実際に行って見てみろよ
呼子や名護屋浦の南や東は小高い丘で先は何も見えないよ
君は千里眼か?
>>164
時間と空間を区別できないの?
全部で3つ理由を揚げたけど理解できないの?
馬鹿なの?
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 11:51:40.54
>>169
結局、邪馬台国卑弥呼の宮殿はどこなの?
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:03:06.17
九州説は結局邪馬台国がどこにあったのか、人によってバラバラで統一を見ないw
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:04:43.03
現在残った三国志の版本は民間で製作した商業用だからな
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:09:11.12
九州説はこれまで一度も一致した遺跡を提示できたことはなく、単に史料解釈の「頭の体操」に過ぎないと認めた模様w
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:11:02.96
>>173
>倭人伝を正しく読めばバラバラの場所に行き着くんだよ

ばらばらの場所に着くという時点で、
正しく読めていないことの証明でしかないんじゃないのか?ww
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:14:04.80
>>130
皇室の陵墓参考地の墓荒らしの提案だねw
ちょっとひどいなw

そんなに日本に古い歴史のある、立派な考古遺物があるのが気に入らないのかい?w
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:17:34.46
畿内説は方角だけを変えることで正しく一致した場所に辿り着ける。
そしてなぜなぜ方角を東から南と書き換えたのかも説明できる。
すなわち、魏にとって倭は呉の背後に南北に細長〜い列島で、歴代倭王を輩出してきた奴国も、倭国大乱を経て新しく倭王となった卑弥呼の邪馬台国も、
すぐに背後から呉を襲ってくれる「会稽の東」にあると書かなければならなかったからと。
奴国から遠く隔たった東にあると本当のことを書くわけにはいかなかったので、止むを得ず、距離については正しく、方角については東→南にせざるを得なかったのである。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:18:37.94
>>150
>呼子や名護屋浦からは伊都国の方向は全く見えないよ。

でも、唐津まで出るんだろ?
そこから北に行くのに、東南と書くのは間違ってるだろ?
唐津まで出る前でも、まず東松浦半島の東海岸に出るという話だから、
伊都国の加也山は見えるよな?

その場しのぎのインチキを言ってもだめだよ
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:21:16.93
>>152
>帯方郡からから南にだよ。

帯方郡から南は諦めろ
方角も合わないし、渡海と水行もごっちゃにしてごまかしてる
投馬国行きと邪馬台国行きが同じ文型で書いてある以上、
連続読みじゃないと話が通じない

不彌国まで連続読みで来て、急に起点を振り出しに戻すなんていう読み方は
不自然だし、そんな書き方をしているというのは陳寿を馬鹿にしすぎだ
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:22:17.18
>>155
>里数が伊都国、奴国で12000里を越えてるし

超えてない
>>155も島巡り仮説を採用するトンデモさんなのかい?ww
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:25:00.38
九州島内を延々堂々巡りして一月で邪馬台国に着く九州説w
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:26:43.26
>>169
>実際に行って見てみろよ
>呼子や名護屋浦の南や東は小高い丘で先は何も見えないよ

お前ほんとにチエオクか?
岩場の谷間に入ったら西も東も見えなくて当然だろ
入港する前に海の上で見えてるんだよ
実際現地に行ったことないのがバレバレだな


>時間と空間を区別できないの?
>全部で3つ理由を揚げたけど理解できないの?

お前は一つも理由を挙げてない
理がないと理由にならないの
お前の脳内だけにある思い込みなんて誰にも理解できないね
お前は馬鹿だから思い込みが強いんだよ

里数が伊都国、奴国で12000里を越えるというのはマトモな歴史学者が誰も認めてない珍妙な島巡り読みを
敢えてお前がした結果に過ぎない
つまり全く理由にならない
単位が里から日へと繋げて読むのおかしいというのもお前の感覚論だけで理由にならない
要するに客観性がなきゃ理由にならないの

お前みたいな言動を馬鹿の恥さらしというんだ
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:28:30.01
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:33:11.08
>>155
>呼子や名護屋浦行ったことないの
>伊都國方面は見えないよw

唐津湾岸まで出れば見えます
ごまかしても無駄

>里数が伊都国、奴国で12000里を越えてるし

超えてません
島巡り仮説は、短里以上のトンデモ
根拠なしのご都合読み

>単位が里から日へと、距離と時間じゃ3次元と4次元で別物
>繋げて読む方がおかしい

日数表記は普通に道里の表現として使われる
単に情報の精度または出典の違いを反映しているだけ

振り出しに戻るなら、そのように表記されていなければおかしいというか、
注記がなければ振り出しに戻って読むなどと考える方がおかしい
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:41:22.79
古田武彦というペテン師の罪がいかに重いかよく判るねw
@単里、
A何も断らずに「伊都国に一旦戻って、そこから」放射読みw、
B九州島内「一カ月」堂々巡りツアーをでっち上げて、
その妄想から抜けられなくなった被害者>>173を大勢出してしまったんだから。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:44:53.84
>>179
唐津には東松浦半島の内陸部を通るよ、東海岸に出ると遠回り
>>180
渡海は水行に含まれるよ。
投馬国と邪馬台国は形式が同じだから連続読みですね。
不彌国まで連続読みで来て、起点を振り出しに戻すのは
@里から日へ単位の概念が変わっている。距離→時間
A不彌国は魏志倭人伝の記述通りに進むと九州の内陸で、先に船で進むのは不可能
B伊都国、、奴国で行程文を合計すると12000里に達し女王国へ到着している。伊都国で到。
もともと公孫氏時代の倭に付いて記された里数表記の報告書に、張政等の日数による報告を加えて魏志倭人伝の行程文は書かれていると考えられる。

>>183
入港する前に伊都国方面を見れば南東方向だよw
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:47:23.47
955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった
0190日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:01:33.62
言い張るだけのオナラ説ww
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:08:14.74
>>187
>唐津には東松浦半島の内陸部を通るよ、東海岸に出ると遠回り

つまり「東南陸行」にならないから
最初から失格してる説だな
話にならない
クズ九州説
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:09:18.23
>>187
>@里から日へ単位の概念が変わっている。距離→時間

これがうそ
日数で書いてあっても道里=距離の表現
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:11:00.42
>>187
>入港する前に伊都国方面を見れば南東方向だよw

これもうそ
https://i.imgur.com/h2ujlEL.jpg
入港する前に見ても、しっかり東
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:13:25.19
>>187
>入港する前に伊都国方面を見れば南東方向だよw

お前ホントにチエオクなんだな
それ、末盧国から東南陸行にならないだろ
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:16:11.04
>>187
>@里から日へ単位の概念が変わっている。距離→時間

それ、起点を振り出しに戻す理由にならない
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:19:16.75
>>187
>入港する前に伊都国方面を見れば南東方向だよw

馬渡島を越えたあたりで可也山が真東に見えちゃうんだよ
現地を知らずにデタラメ言っても無駄
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:19:41.29
>>187
>渡海は水行に含まれるよ。

これもうそ
渡海と水行ははっきり区別されている

というか、渡海は渡河と同じ表現であり、
それに対し水行を地理旅程記事に使うのは、三国志が初出
陳寿の考案によるもので、陸行の対義語となる概念
はっきり区別されている
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:21:43.66
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:26:13.27
そもそも当時の松浦の遺跡は競艇場より南の中原とか千々賀だ
東南陸行をクリアするためだけに遺跡もない半島突端に末盧国を持ってくことからして
九州説はインチキ
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:31:25.94
九州説ウソ多すぎだな
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:40:09.81
言い張るだけのオナラ説ww
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:40:37.61
つまり、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:41:26.25
九州説は下品だな
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:44:28.91
>>191
内陸の移動の風景が「草木茂盛 行不見前人」だね
東松浦半島を南下して唐津市街地方面に向かう。

>>196
可也山は伊都国の北の山だよw

>>197
根拠がなねw

>>200
反論できないでしょw
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:50:50.84
魏略逸文には「水行」「渡海」が出てきていて
陳寿が真似というか参考にした可能性はあるな
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:55:38.85
>>308
>>「東北至成都二千四百里」には、「通水陸行」がないから、「通行路説明ではなく、
「至」は「位置説明」。<

>以前は「成都に行く経路でも揚子江の上流の川が見えるから通水陸行するんだ」って
デタラメインチキを言い張ってたじゃないかww<

何か?変な事言ってるな?。
「東北至成都二千四百里」は、成都の位置説明。
そして、揚子江支流の最上流の川沿い道を通るコース。
「東至安南、如至成都通水陸行」は、安南への通行路に拠る安南の位置説明。
そして、その道も「如至成都」だから、揚子江最上流の川沿い道を通る事になる、
という事。

>それをザラコクは撤回修正してないぞw<

変な男。

>つまり、「通水陸行」は成都、安南の両経路の説明というのがザラコクの主張だ<

そりゃ、そう捉えてもかまわんあい。途中までは「如至成都」と書いてあるんだから。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:59:47.74
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 13:59:52.38
邪馬台国所在地論争はここでひとまず休憩して、
古墳時代の大和朝廷(前方後円墳による全国支配&序列化)を考えると、定型化された最初の前方後円墳とされる箸墓の被葬者が(卑弥呼かどうかは別にしてw)最初の大王ってことになるよね?
邪馬台国と大和朝廷・天皇家の関係はどうなっているんだろう?
乗っ取ってから前方後円墳をそのまま継承したのか、新しく導入したのか?
後円部の特殊器台は吉備で焼いた完成品を持ってきてるから箸墓の被葬者は吉備王で、卑弥呼の冢が真下に埋まってる説もあったし。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 14:00:15.61
>>151
山岳や樹海で遭難する奴がいなくなるなww
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 14:29:28.44
言い張るだけのオナラ説ww
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 14:31:32.49
>>95
纏向が卑弥呼の宮室だと想定するからそのような回答が出てくる。
卑弥呼を除外すればモモが生育した時期が135年〜230年なのは、なんの問題もない。
180年頃から纏向の整地、建物の建築がはじまったのだから。
白石氏は立派な学者だが、卑弥呼が生まれていようがなかろうが、モモの生育時期とは何の関係もない。
卑弥呼と絡めるから、そんな意見になる。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 14:34:44.56
>>310
>半影まで考えた影の長さも計算されている 『周髀算経』の新研究1
 『周髀算経』影の測定 イワクラ(磐座)学会 江頭 務 ・・・
    測定条件     表の影の長さ
             夏至      冬至
A 本影(影は最短)S1  15.04寸    129.2寸
B 半影(影は中間)S2  15.42寸    130.6寸
C 半影(影は最長)S3  15.80寸    132.0寸
   『周髀算経』    16寸      135寸
一寸の影の長さを気にする周髀算経で3寸も影の長さが違ってたら何もいえないだろ? <

ダメだよ。
Yahooでの計算では、当然、8尺棒の先端の上面長(幅)も、推定した。
例えば、8尺棒の先端上面幅が1寸であれば、
夏至の影長が1.6尺位で冬至の影長が13尺位なら8倍位だから、
先端上面幅の影長差も8倍位の8寸位になり、
太陽の中心点での計測からでも4寸位の差の発生になり、
それだけでも、江藤の計算での最大3寸位の半影幅を超えていまう。
つまり、冬至正午の8尺棒の影長の13.5尺は、
「全」半影内での大体の近似値であった、という事さ。

それに、江藤も「1尺=10寸」で計算していたようで、
「類スレ主」の「1尺=8寸」の計算ではなかったから、類スレ主の×であったようで。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 14:40:55.73
>>311
>ほらな やっぱり谷本計算の方が3寸間違ってたんだ <

いや、谷本計算を冬至正午の8尺棒の影長や南北千里での影長から計算しても、
大体「短里」が出る筈であり、
「長里」は全く×になる筈だよ。
0217日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 14:44:03.55
>>103
TB期新相は、庄内3式。
庄内3式は、最近は230年頃〜250年頃の年代。
0218日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 14:46:05.11
>>312
>>大和説は、方角が間違っていない、と認めた瞬間、
九州説の方が明確に妥当だと分かってるから <

>ならないよ? 方角が正しいと仮定しても、九州説では
会稽東治之東に合わない <

「女王國は九州島付近」で合う。

>水行十日陸行一月に合わない <

郡〜女王之所都の主所要日数であるから、合う。

>径百歩の墓の候補すらない <

祇園山が合う。
0219日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 14:48:17.91
>>314
あらら長里の根拠無くなったのか
長里に立脚してきた九州説終わったな

長里なんてないさ
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説なんてウソさ
0220日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 14:50:15.38
>>108
石野や豊岡がそのような編年を行ったのは、事実。
その後、庄内式の編年が圧縮されて、庄内3式は230年頃〜250年頃の編年に変わってきている。
庄内式の実年代が動けば、他の土器の編年も動くのだ。
しかし、この庄内式の実年代の圧縮が、正しいのかどうかだな。
0221日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 14:50:30.30
弥生時代のモモ核は岡山で弥生中期後半くらいから増えるから
卑弥呼が始めたわけじゃないからな
0222日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 14:54:33.67
>>315
>>畿内説だと卑弥呼の墓はどれ?<

>何度も説明されているだろうが
纒向古墳群の、纒向石塚古墳、、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、箸中山古墳のうち
編年の合うものだよ <

石塚で3世紀末だし、(冢ではなく)前方後円墳なら、全部×。

>これらはすべて、築造時に倭国で最大の墳丘墓
卑弥呼という倭王の墓としては倭国最大の墓がその第一候補になる
編年研究の進展により、絶対年代は今後も変更される可能性があるが、
纒向石塚古墳から箸中山古墳まで100年以上の年代幅が想定されているので、
前後に平行移動したところでこの範囲に収まる<

「100年以上の年代幅が想定「」も、間違い。
0223日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 14:57:19.68
>>123
誰かもすでに言っているように、出雲の西谷四隅墓でも特殊器台の破片が出でいる。
でも、西谷墓の被葬者が吉備の王だったとは、誰も言わないけどな。
なんで、大和だけ吉備の王なのよ。
0224日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 15:05:52.08
>>148
倭人伝の行程は、唐津→多久→江北→嘉瀬川河口の地理記述となる。
その多久などに、伊都、奴、不彌を当てたということ。
多久などの道筋は、倭人から聞いた行程を帯方郡の役人が記録し、本国でその行程に伊都、奴、不彌の国名を当てたというのがリアルな歴史。
0225日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 15:11:27.28
>>163
で、邪馬壹国は、邪馬臺国でいいのかね。
0226日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 15:18:20.63
>>165
放射状なんて、根拠なし。
水行十日のあと上陸するのは屋久島付近。
そこから沖縄本島あたりまで陸行一月なの。
0227日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 15:20:47.15
>>170
筑後山門。
0228日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 15:24:04.51
>>172
現段階では、百家論争。
活気があってよろしい。
大和は一択だから、活気がない。
百家論争状態であるが、真実は一つ。
卑弥呼がいたのは、筑後山門。
0229日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 15:31:31.86
>>178
そんな根拠で、南を東に変えるのは、アホ。
李氏朝鮮の列島倒立の地図と同じで、現実ではない。
九州は沖縄あたりまで続く巨大島というのが、古代中国人の強固な固定観念。
邪馬台国は、その巨大島の南部にあったというわけ。
そして、この巨大島倭國の北部から東へ千余里舟で行ったところに倭種の国があると、普通の地理観で西日本が描かれている。
その倭種の国が大和。
列島が南北に倒立していたというのは、単なる想像にすぎん。
0230日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 15:40:47.82
>>210
箸墓の被葬者は、薩摩阿多から来た祭祀王。
吉備みたいな分家の祭祀者ではない。
0231日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 15:43:31.29
>>216
筈、じゃなあ。
0233日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:08:30.21
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0234日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:15:53.60
筑紫を出て吉備から大和に入った軍勢がいたよね。
ね?
名前はなんだっけ?
0235日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:17:00.99
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1
0236日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:22:08.56
>>316
>>『近代以前の日本の人口統計』(Wikipedia)−1600年以前の地域別推定人口 (鬼頭宏, 1996年)−
によれば、紀元200年の日本人口は594,000人。
うち、北九州と南九州の合計が105,100人で、北海道を除く本州・四国が489,800人。
四国を除く本州だと459,700人<

>行程記事にある末盧国(4000余戸)、伊都国(1000余戸)、奴国(20000余戸)、
不弥国(1000余家)、投馬国(50000余戸)、邪馬台国(70000余戸)、
計146000余戸。<

これだけでもおかしい。
「1戸約3人だとしても、九州で、45万人弱」になり、
それに「其餘旁國」21国を(千戸の半分の)500戸としても、1万戸位で3万人になり、
それに狗奴國があるから、合計で幾ら見ても50万戸以上。
それを、鬼頭は、105,100人という計算をしている。

つまり、鬼頭も、何らかのインチキ計算をした嘘つき騙しの大和説者。
0237日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:22:53.68
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、これらの勢力は東海山陰吉備が主体だったと考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0238日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:25:02.00
■ 祓詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす
0239日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:25:28.96
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るおよそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州


(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本は東側の小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は筑紫にいた。(新唐書)
0240日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:25:50.73
纒向遺跡の外来系土器、東海、山陰系は初期の頃から変わらず多いな。
吉備系は台与の頃にはぐっと減る。
代わりに初期の頃無かった河内系が台与の頃にぐっと増える。
吉備系が減った原因は何なんだろう。

卑弥呼→男王擁立→内乱→台与
この間に何が起きたのだろうか?
男王とは誰なのだろうか?

布留がキーを握っているかもしれない。
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものかな。

石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 

なぜ布留社の【太刀】何だろうか?
太刀は本来誰かに使われるものだからなぁ

ニギハヤヒはどうなってしまったんだろう

切られたカグツチの血が湯津石村に落ちて生まれた神、甕速日、樋速日、建御雷。

饒速日とどういう関係があるのか?

卑弥呼亡き後の男王は吉備系の饒速日だろう
台与の時代、纒向遺跡から吉備系の土器が消えていく

神武東征神話は、2世紀末の卑弥呼を共立した勢力、尾張山陰吉備によるヤマト征伐と
卑弥呼亡き後男王の時代の内乱を合一してできたんだろう
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:26:45.08
崇神の代に創建されたと言われている白山比め神社

その神紋は三子持亀甲瓜花
亀甲が三重になっているが

三子持が気になる
崇神の前は、卑弥呼、男王、台与
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:28:35.69
纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%

纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪郡からの土器も出ない。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の中では瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の支配下の後進地域であった。
0243日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:30:44.96
>>205
>根拠がなねw

あるよ
三国志に先行する大陸史書の史記と漢書では、「陸行・水行」を
地理・旅程記事で使っているところはない
三国志、というか陳寿発案の地理・旅程記事で使う「陸行・水行」は、
陸路、海路という意味に近い
ただ、現代語の海路だと島へ行く航路も入るが、渡海はまた区別されている

「漢書 後漢書 三国志 宋書 南斉書 梁書 魏書 北斉書 隋書 南史 北史 旧唐書 新唐書」の範囲の「陸行」の全文検索結果について、書いておく
この範囲に「陸行」は全部で15件
漢書 3件
「陸行載車,水行乘舟,泥行乘毳,山行則梮」 
例の禹の治水エピソード
「轉粟西鄉,陸行不絕,水行滿河,不如海陵之倉」
陸を行くものは絶えず、水をいく者は河に満ち  人が非常に多い様子の表現
「孟賁,古之勇士也,水行不避蛟龍,陸行不避犲狼」
孟賁が、水を行くときは蛟龍を避けず、陸を行くときは犲狼を避けず 孟賁が勇猛な様の表現
後漢書 1件
「孟賁水行不避鮫龍,陸行不避虎狼」
注釈上の漢書の引用(上記)のみ

続く
0244日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:31:35.01
>>243の続き

三国志 2件
「東南陸行 五百里,到伊都國」
「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月」
上記2件はおなじみの倭人伝部分
宋書 1件
「以表歸コ之誠,或泛海三年,陸行千日」
皇帝の徳に帰するを表するを以って(皇帝の徳が遠くまで届きそこから朝貢するのに)
あるいは海を三年かけ、陸行1000日の距離を超えて(朝貢に訪れる) (泛は浮かべる)
梁書 3件
「以表慕義之誠。或泛海三年,陸行千日」
上記宋書のコピペ
「又東南陸行五百里,至伊都國」
「又南水行十日,陸行一月日,至邪馬臺國,即倭王所居」
魏志倭人伝のコピペ2件 
陸行が「一月日」になっていて九州派の陸行「一日」の間違いという説の心の拠り所
北史 3件
「初發其國,乘船溯難河西上,至太沵河,沈船於水。南出陸行,度洛孤水,從契丹西界達和龍」
勿吉国のことで、難河は今の嫩江(アムール川の支流、もちろん大河)、太沵河は今の洮児河で嫩江の支流、洛孤水は西遼河で渤海に至る遼河の支流(これも大河だね)、和龍は今の遼寧省朝陽市
川を遡る旅程だが、水行とは書いていない
また川の遡上は困難で、船が沈んでしまい、南に出て陸行し、洛孤水を渡る
「又東南陸行五百里,到伊都國」
「又南水行十日, 陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都」
魏志倭人伝のコピペ2件
0245日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:33:41.92
>>244の続き

旧唐書 1件
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
ここでは、「水陸行を通し」で水行と陸行とを一緒にしている
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
東に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 実際には東南
新唐書 4件
「千里至鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城」
唐恩浦口は仁川付近、そこから東南陸行700里で新羅王城
「又泝流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北泝流二百里,至神州。又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都」
丸都縣城:吉林省通化市集安市丸都山にあった高麗王都の故地
神州:吉林省臨江市西南葫芦套村の対岸(北朝鮮側)
どちらも、中国、北朝鮮国境の鴨緑江沿い
顯州:吉林省延辺朝鮮族自治州和龍
天寶中王所都は、天宝年間仁王が都を置いたの意味
「又西一日行,至烏剌國,乃大食國之弗利剌河,南入于海。小舟泝流,二日至末羅國,大食重鎮也。
又西北陸行千里,至茂門王所都縛達城」
烏剌國:クウェート、大食國:イスラム帝国、弗利剌河:ユーフラテス川、
末羅國:バスラ、縛達城:バクダッド
クウェートまで海、そこからユーフラテス川を小舟で遡り(泝流)、二日でバスラに着き、陸行1000里でバクダッドに着く
「江淮水陸轉運使杜佑以秦、漢運路出浚儀十里入琵琶溝,絕蔡河,
至陳州而合,自隋鑿汴河,官漕不通,若導流培岸,功用甚寡;
疏雞鳴岡首尾,可以通舟,陸行纔四十里,則江、湖、黔中、嶺南、蜀、
漢之粟可方舟而下,繇白沙趣東關,歷潁、蔡,涉汴抵東都,無濁河泝淮之阻,減故道二千餘里」
これは、唐代の漕運(主に食料などの水運)の話
杜佑が江淮水陸轉運使となり、漕運路を浚渫などでほぼ全体が舟で通れるようになったので、
陸行はわずかに(纔)40里で、故道を二千餘里減らした、という話
0246日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:34:08.17
鏡を例にとると、邪馬台国が魏と交流を持っていた西暦250年以前の道鏡の出土数を都道府県別に並べると、
総数64面のうち福岡県の出土例が30、佐賀県と愛媛県が各5、京都が4、奈良と兵庫がそれぞれ3ずつとなる。
特に九州説、畿内説それぞれの中心地である福岡・奈良両県に絞って比較すると、鉄鏃の出土数は398対4、
鉄剣46対1、ガラスや翡翠製の勾玉の数は29体3、といったようになる。


物証では畿内説は相当 遅れれている
ここで遺跡で勝つため纒向をぶちあげる必要があった
しかし、一向に研究が進まないので、桃の種の炭素年代法に頼っているのが実情である
桃の種なら岡山の遺跡のほうがはるかに多く出土している
0247日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:35:18.76
>>245の続き
こうして見て来ると、水行何日とか、陸行何里とかいう、地理・旅程記事での「水行」「陸行」の使い方は、
三国志(魏志倭人伝を含む)が最初であることが分かる
それ以前の漢書・後漢書には、禹や孟賁の活躍を記したり、人が大勢いる様子を表現する部分でしか、
陸行の語は使われていない 
そして、そうした陸行は常に水行と対の言葉として使われている
これまで「地理・旅程記事の水行」という言い方をしてきたのは、この陸行と対となる言葉としての
水行を考えるべきだということ
三国志以降の「陸行」は「陸行何里」あるいは「陸行何日」の形のみが見られる
魏志倭人伝以降の「水行」もこうした「陸行」と同じ使い方の部分について考えないと意味がない
また、地理・旅程記事で陸行と合わせて「川」を移動している部分では、ほぼ水行の語は見られず
「泝流(流れを遡る)」の語が多く使われていることも分かる
旧唐書で1例、通水陸行と、水行と陸行を合わせた表現があるが、これは例のソンホン川流域を通って
ハノイ(安南)に至る経路で、川沿いの陸行だったり川を行ったりしたのだろう
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:36:19.62
>>247の続き
史記の「陸行」は5件だけど
陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇 が3件で
水行不避蛟龍,陸行不避豺狼  が2件だから、話は変わらない

水行に渡海を含むというのは間違い
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:38:23.83
 鎮火祭の祝詞も興味深い
倭国大乱は【火】が暴れ回ったんじゃないか?
水神匏、埴山姫川菜で火を鎮めよとはどういう意味何だろう
匏は瓢箪
川菜は芹?

高天原に神留り坐す皇親神漏義・神漏美の命持ちて、
皇御孫命は豊葦原乃水穂国を安国と平けく知食せと、天下寄さし奉りし時に、
事寄さし奉りし天都詞太詞事を以て申さく、
 神伊佐奈伎・伊佐奈美乃命、妹背二柱嫁継ぎ給ひて、国の八十国・嶋の八十嶋を生み給ひ、八百万神等を生み給ひて、
麻奈弟子に火結神を生み給ひて、美保止焼かえて石隠り坐して、
夜は七夜昼は七日、吾をな見給ひそ、吾が奈^背乃命と申し給ひき。
此の七日には足らずて、隠り坐す事奇しとて、見そなはす時に、火を生み給ひて、御保止を焼かえ坐しき。
如是る時に、吾が名^背乃命の吾を見給ふなと申すを、吾を見阿波多志給ひつと申し給ひて、吾が名^背能命は上津国を知食すべし。
吾は下津国を知らむと白して、石隠り給ひて、与美津枚坂に至り坐して思食さく、吾が名^背命の知食す上津国に、心悪しき子を生み置きて来ぬと宣りたまひて、返り坐して、更に子を生みたまふ。
水神・匏・川菜・埴山姫、四種の物を生み給ひて、此の心悪しき子の心荒びそば、水神匏、埴山姫川菜を持ちて鎮め奉れと事教へ悟し給ひき。
 此に依りて称辞竟へ奉らば、皇御孫の朝廷に御心一速び給はじと為て、進る物は、明妙・照妙・和妙・荒妙・五色物を備へ奉りて、
青海原に住む物は、鰭広物・鰭狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、御酒は�辺高知り、�腹満て雙べて、
和稲・荒稲に至るまでに、横山の如く置き高成して、天津祝詞の太祝詞事以て、称辞竟へ奉らくと申す。
0250日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 16:40:20.82
>>215
>Yahooでの計算では、当然、8尺棒の先端の上面長(幅)も、推定した。

どこまでもバカだなww
棒の先端(影側)を通る光の「太陽の見かけの大きさ分」だけ
半影と本影の差が出るのだから、棒の上面の幅などは半影の長さ大きさに関係がしない
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:43:14.03
邪馬台国の官の筆頭、伊支馬、イキマ
後に火の神にされたんじゃないか?
邪馬台国は記紀でいうカグツチの残党と関係が深い政権かもしれない

魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?

生駒は火の神。
生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:44:51.43
>>244
海岸伝いに歩くのも陸行じゃねーのかな
どうでもいいが
畿内説では投馬国から水行10日どの辺に到着?
陸行1月はどの方角に行ったと思う?
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:46:09.12
>>208
>「東北至成都二千四百里」は、成都の位置説明。

そこのところが以前から矛盾してるんだよ

以前から「如至成都」の読み方が、誤読になってる
これは安南までの「距離」が(大理から)成都まで至る距離の如しだと教えているのに
通水陸行の如しだと言い張る

どちらにしても、成都行きと安南行きが同じ文型で同じ文中で使ってあって
片方が位置説明で、片方が通行路による位置説明とかいう矛盾した説明は通らない

そして、成都行きに水行部分はない
ザラコクは頭おかしい
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:48:40.36
>>216
>大体「短里」が出る筈であり、

短里はきちんと決まった長さで、それが周髀算経と谷本計算ではっきり示された
という話だったはずなのにww

大体短里なんてないんだよ
短里は捏造
谷本計算は、前提が間違っている
周髀算経は実測していない

周髀算経と谷本計算で何か言えると思っているのは大間違い
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:50:38.39
>>223
>誰かもすでに言っているように、出雲の西谷四隅墓でも特殊器台の破片が出でいる。

出雲と吉備の関係も、きちんと考えるべきなんだよな
場合によっては、投馬国(出雲)五万戸の範囲に、吉備も入ることになる
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:53:02.53
>>248
>水行に渡海を含むというのは間違い

何で?
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:53:25.20
>>242
>纒向遺跡への搬入土器の出身地割合

それ全部、「忌部はん」 が持ち込んだ「東阿波型土器」 だと、何度言えばw  @阿波
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:54:02.43
>>224
>倭人伝の行程は、唐津→多久→江北→嘉瀬川河口の地理記述となる。
>その多久などに、伊都、奴、不彌を当てたということ。

全然語幹が合わないんだけど?
何に何をどう当てるんだ?

通説の、伊都⇒怡土はそのままだしものすごく分かりやすいんだが?
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:57:18.28
>>226
>水行十日のあと上陸するのは屋久島付近。
>そこから沖縄本島あたりまで陸行一月なの。

間の海の上も陸行するんだ
すげぇなw
0261日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:59:19.34
>>252
>畿内説では投馬国から水行10日どの辺に到着?
>陸行1月はどの方角に行ったと思う?

これまでにも何度も紹介してるんだがな
距離はヤフーマップで適当に直線(折れ線)で計っているから適当

福岡付近から、出雲まで水行20日
ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補

そこから丹波へ行くまでが水行10日
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う

どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう

水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい

水行中の日数は、夜に浜辺で休んだ日数や潮待ち、天気待ちも含むと思う
投馬国滞在日数は含まないんじゃないかな これはあくまで「かな」程度
陸行部分は、途中の集落の滞在日数も含むと思うが、そんなに大きな町も途中にはなさそう
あっても、丹波国の竹野付近と与謝野町くらいかな
遺跡の分布や神社の名前からして、出雲と大和の往来はこのルートでいいんじゃないかと思っている
ただ、丹後半島を縦断するより、回りこんで若狭湾に入った方が楽かもしれないとも思う
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:00:30.73
>>242
>纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。

だって筑紫が使ってるのは畿内系の土器だもの
植民地だから
w
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:01:30.91
出雲まで及び丹波までの水行は海岸沿いだから特に方角は意識せず、記録漏れして
最後の丹波から大和の南向き陸行の方角が記録されれば、全体が南向きと認識される、ということはありうる

記録漏れでなくても、記録した木簡が紛失する、あるいは別行程とまぎれた場合でも、同じことが起こる
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:03:56.38
>>262
>だって筑紫が使ってるのは畿内系の土器だもの

その「畿内系の土器」は筑紫「忌部はん」 が持ち込んだ「東阿波型土器」 だと、何度言えばw  @阿波
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:04:48.39
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい
そして、この日数は十日単位で丸めたものだろうと思っている

茂在先生の野生号の実験の水行は一日20キロ程度という見積もりだと、
出雲(投馬国)までが17〜18日、その先の水行が8.5日で、丸めればちょうど20日と10日で合う

陸行部分は30日で170キロだから、一日当たり6キロちょいで短いような気もするが、
各地で歓待を受けながらお天気のよい日に進むと考えれば、特に無理のない数字といえる
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:09:49.35
オオナムチは初期のヤマト政権に与した勢力だろうな

気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
【倭国大乱の余波で日本海航路は安全が担保できない状況だったんだろう 】

四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山

舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深い

更に気多大菩薩は、孝元天皇の時代、従者を引き連れて渡来した異国の王子とある。 新羅の王子だろう。
オオナムチは異国の勢力の浸入を手引きしてまで、在地の勢力を討とうとした。

敦賀湾〜伊吹山の勢力は義に厚く最後までヤマト政権に抗ったんだろう。日本書紀にある伊吹山の荒ぶる神。

伊吹山は和歌に於いて一途な思いの代名詞
伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている。
伊吹山の麓の稲部遺跡、貴重な鉄が放置されている。

風の宮の神、級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子のことだろう。鉄。ヤマタノオロチ。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:16:32.56
>>260
だから、何度も言っているように、古代中国人は強固な固定観念で、九州は巨大島と思っていた。
つまり、仮に描いてみれば、九州南端の開聞岳から屋久島までの海は大きな湾であり、海の東側は種子島あたりで陸地ということになる。
そのような地理的な想定なんだよ。
九州巨大島説は、ワイが始めてのオリジナル。
研究者もそこに気がついてない。
このワイ説からすれば、邪馬台国戸数七万戸はごく当たり前の人口規模になる。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:18:20.75
>>266
>息が長い、吹子のことだろう。鉄。ヤマタノオロチ。

そんなアホな。 息が長いのが生きるのは、海人だよ。  @阿波
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:22:00.00
>>328
>1.現地のその場で間違えないことと、
2.木簡に記録するときに間違えないことと、
3.ある木簡の記録が他のも区間の記録と混同されないことと、
4.ある木簡の記録が紛失しないことと、
5.他の記録との整合性があるかどうか判断することと、
6.実際の史書にどう書かれるかということは
相互に独立した事象であり、ある意味互いに無関係 <

魏使らの記録は、部下たちや、後続の使節らに拠って、確認されているんだから、
問題は全くなかったわけで、
「南と東」や里数などの過誤は発生していない。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:23:01.85
>>259
伊都、奴、不彌は、糸島、博多、筑紫野付近。
これは実際の邪馬台国へ行く道順。
その実際の道順を、仮想の行程である多久、江北、嘉瀬河河口の道順にかぶせただけ。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:26:18.85
>>270
>伊都、奴、不彌は、糸島、博多、筑紫野付近。

そんなアホな。 それらに見合う弥生後期集落遺跡群が無い。 妄想が過ぎる。  @阿波
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:30:02.95
>>255
吉備は出雲から鉄材やその他の貴重財を流通してもらっていたので、
いわば、吉備は出雲の子分だった。
親分が死んだので葬式に出向いたのが西谷墓の特殊器台。
子分は吉備以外にもあちこちにいたので、親分の葬儀に吉備と同じように参列して、器台や壷を供献した。
それがリアルな歴史。
大和の箸墓の特殊器台も、それと同じ。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:35:30.55
>>272
>吉備は出雲から鉄材やその他の貴重財を流通してもらっていたので、
>いわば、吉備は出雲の子分だった。

なにを小難しく妄想してるの?  吉備も出雲も「忌部はん」 の拓殖地 だと、何度言えばw  @阿波
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:37:49.96
>>246
だから、桃の種は卑弥呼居住の根拠にはならない。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:40:55.16
>>329
>そんなことは言っていない
陳寿は当時の大陸中華の認識に沿って「倭国は会稽の東の南国」と考えていただけだし <

陳寿は、女王國は「計其道里、當在會稽東治之東」の位置だ、という推定だから、
的確に九州島を言い当てており、南国とは考えていない。

>陳寿が入手参照できた資料が寄せ集めで正確さに問題のあるものも含まれていた、
というだけ<

魏使らの記録も、部下らが当然確認しているし、後続の使節も確認した事になるから、
「正確さに問題のある」という事にもならない。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:43:41.33
>>330
だいたい「南→東」などの嘘つき騙しの大和説というのは
万世一系皇国史観という理由のない思い込みと
史料事実の否定曲解などの怪情報
の2つばかりから出来ている
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:45:02.39
>>275
>陳寿は、女王國は「計其道里、當在會稽東治之東」の位置だ、という推定だから、
>的確に九州島を言い当てており、


デタラメ

会稽は最北端でも北緯30度
九州島最南端より南だ
女王国の中心地が北部九州だと言い張る人々が
随分と狂った寝言を言うものだ
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:47:51.22
>>331
>投馬国や邪馬台国にも、水行二十日、水行十日陸行一月と道里は略載されてる<

郡から女王之所都や、侏儒國までの行程の道里は、全て「里」記録で統一されている。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 18:02:46.75
>>332
>>延喜式 出挙稲数<

>延喜式は平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
七百年後のデータでごまかそうとしてるんだよww
古墳の作り出してから土木技術が上がって、最大の古墳が作られるようになった古墳時代中期に
記紀でも貯水池の造成などの大土木工事の記事が出てくる<

何だ?、そりゃ、(九州ではなく)「畿内」での話ではないか。

>その土木技術の進展があって初めて九州のコメの生産量と人口が増え始めるんだよ <

「畿内」が土木技術が進展しても、九州にははるかに追いつかななった、
という事。
だから、宣化らが、突然九州から米を集めようとし出したんではないか。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 18:06:36.30
>>245
冒頭の旧唐書1件の文中「通水陸行」ほ「水陸行を通し」と読んでいるが、これは「通水陸行す」と読むのが良い。
(川を通り、陸行した)の意。
(水陸行を通し)では、何の意味が分からない。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 18:10:49.65
>>335
さーて「南→東」などの嘘つき騙しの大和説も、
そろそろ仕舞いやな。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 18:20:28.76
>>278
>郡から女王之所都や、侏儒國までの行程の道里は、全て「里」記録で統一されている。

だめだよ爺さん
証拠も出さず理由も言わずに
自分の信仰や思想を他人に押し付けちゃね

あんたの家族や従業員にとっては専制君主なのかもしれないけど
赤の他人はどこの馬の骨とも知れないあんたの命令は聞かない
これは世間じゃ当たり前なんだよ
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 18:38:28.17
>>343
>博多から行橋へ出て、そこから周防灘を北へ渡り、瀬戸航路北岸を伝って行く。
神武の航路みても、愛媛には立ち寄ってない。 四国はスルー。<

「南≠東」などに拠って、×。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 18:42:32.37
>>283
「南≠東」は「会稽東治之東」などに拠って、×。


ww
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 18:44:33.05
>>344
>大和庄内2〜3式=250年〜290年  河内庄内V期=260年〜290年<

大和の庄内は、石塚が一番古く、
その石塚は、撥型前方後円墳であるから卑弥呼の冢や那珂八幡よりも新しいので、
3世紀末であるから、
大和の庄内の始まりも3世紀末。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 18:47:41.49
>>273
忌部の人民は薩摩阿多縄文人の末裔だから、出雲、吉備と親戚になる。
歴史の舞台へ表れるのは5世紀から。
その頃は、もう出雲や吉備の時代は遠い昔。
3世紀前後の時代には、忌部人民と出雲、吉備は直接的な関係はない。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 18:52:04.42
>>285
ダメダメ。
前方後円墳の撥形前方部は、2世紀後半の尾張が発祥。
それが大和の前方後円型墳丘墓に採用され、そのあと前方後円墳ができて博多地方でも造られるようになった。
那珂八幡古墳は3世紀末〜4世紀初頭の築造。
宇美町の光正寺古墳よりも新しい。
0288瀬戸内海ルートに質問
垢版 |
2019/01/15(火) 18:52:10.21
南は東の間違いとして
投馬国から水行10日で何処に着いたの?
其の後陸行30日はどの方向に向かったの?
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 18:58:09.84
>>283
「南≠東」は、このケースは無関係。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 19:07:33.92
>>289
それ、zarakokuのお経だから
どのケースでも無関係。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 19:19:08.21
畿内説が
倭人伝の行程に疑義を唱えるのはわかるよ
だとしたら
狗奴国の連合体の中心が奈良・京都にあったという説も成り立つね
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 19:21:20.80
>>260
それ邪馬台国京都説だよ
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 19:23:07.64
おっと
>>261
それ邪馬台国京都説だよ
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 19:28:28.82
畿内じゃん
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 19:33:08.83
>>290
陸行の方角は難しいね 
久宝寺から纒向は東南だし
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 19:36:17.52
>>296
京都説は
畿内説とは違うよ
現京都市に卑弥呼がいて
京都周辺が邪馬台国
よって近江や福井南部や舞鶴も邪馬台国の一部
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 19:39:12.35
つまり、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 19:40:13.09
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 19:52:32.46
>>297
なんで難しいんだ?
理由が解らない

言わないから他人に解らない
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 19:56:05.12
狗奴国の中心が奈良のような気がしてきた
0303日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 20:12:16.45
>>302
>狗奴国の中心が奈良のような気がしてきた

そんなアホな。 狗奴国は強大なんだよ。 なんで奈良が・・・  @阿波
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 20:13:55.22
>>298
畿内に邪馬台国があったと言っているのに畿内説ではないとは、おかしなことを言うねえ。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 20:14:30.69
ヤマト王権の祖は狗奴国か?
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 20:20:53.07
狗奴国も倭国の一つだからね。  @阿波
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 20:36:32.65
>>304
いや、おかしくない
畿内の一部に邪馬台国があったというのを畿内説と言う方が変
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 20:40:52.31
>>298の範囲の京都説って誰の説?
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 20:56:44.87
不弥国までは北九州。これは間違いない。

投馬国→当麻国(山背・丹波・丹後)→5万世帯
邪馬台国→大和国(畿内・五畿)+東四国→7万世帯

列挙されてる傍国名を見ると瀬戸内とか四国の地名があるように感じる。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 21:00:55.63
北九州の伊都国には〇〇卒彦さんがいたんじゃないの?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 21:11:01.72
北九州あたりはもともと海神一族の国々で
大和連合国からすると親戚の合衆国自治区だったんジャマイカ

後の時代に岩井さんの乱があったわけだが、
岩井さんの一族が柵封うけてて倭の五王になったんジャマイカ
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 21:20:30.88
>>311
ありえないね
磐井が勢力を得たのは親の代あたりからだから
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 21:22:26.64
>>308
そりゃ>>298の説だろ
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 21:45:58.97
短里なんてない事もはっきりしたし
九州説は筋道立った考えや物の道理を憎悪する
朝鮮儒教根性に基づく怨念という事もわかった
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 21:59:34.70
>>311
時代が合ってない
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:08:42.57
東漢直駒の父が東漢直磐井だから
筑紫君磐井は渡来人じゃないか?
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:09:19.41
>>280
>(川を通り、陸行した)の意。
>(水陸行を通し)では、何の意味が分からない。

中華内陸から安南(ハノイ)に向かう経路を確認してごらん
現在でもソンホン川の水運が主要交通路として利用されているんだよ
川の移動が「水行」で表現されているたった二つの例のうちの一つ
水行と陸行を使って安南に至るんだよ
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:12:53.55
他の業界の話になるんだけど調べてみた?
なぜ背乗りのような人物がいるんだよw
という話ばかりじゃない?

本当は、ほんとんど家の話でしょ、
企業(会社)・・・・・なども売ってもらったか何かなのかな?
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:14:50.76
『天津神』『国津神』?
0321日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:15:38.83
>>295
>それ邪馬台国京都説だよ

京都で止まる理由がない
京都は通過点で木津川沿いを遡って平城山越えで大和盆地に入るんだよ
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:16:19.00
テレビなども家の話ばかりしていない?
なぜだと思う、むかーしからだぞwと言ってる人がいたり
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:19:32.27
>>345
>尾張の朝日遺跡にも同じ四隅型の周溝墓があるぞ。<

有難う。四隅部族は、尾張まで広がっていたんだな。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:21:27.78
>>346
>76.5mを1里とする単位の記述は、中国文献のどこにもないな。<

一寸千里が、1里≒76.5m位の記録だな。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:21:31.76
これも本当の話、我田方法、
メディアなどを悪用した手法

騙り、成り済ましだとわかるだろう、
本当にチンピラは消えろと言っているのに、
なぜわからないんだろう
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:22:06.94
>>318
水行、陸行したという意味自体は分かるが、読み方の問題。
この文章は、「…通水陸行」で区切りとなる。
だから、「通し」と後に続くような読みではなく、「通ず」と区切りにならなければならない。
また、「水陸行を通ず」と読んだ場合、「通ず」とはどのような意味になるのか。

「水(川)を通り、また陸行す」の意味で「通水陸行(つうすいりくこう)す」と読むのが良い。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:22:19.00
太陽、日本(人類)というの?
九州から始まった〜〜〜という創作(嘘の話)なんだろうという意味、
=神話と合致するように、偽造のようなことをしたり


大爆笑だろと言っているんだよ
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:23:39.72
>>323
朝日遺跡のほうが古いんだが。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:24:37.03
>>351
しっかしおおよそ喋る事の全部がウソとかの、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の頭の中は、
どうなってんだよ。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:27:36.91
>>324
それ、記録じゃなくて思想だから
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:28:21.28
もれ(仮)が言っているんだから、そうだろう
wwwwwwwwwwwwwwwwww(大爆笑という意味??)


ちなみに家は『松傾』このような名前の家
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:28:50.27
>>329
それはお前だよザラコク
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:29:58.81
『僕は好きさ サカナが好きさ』

どういう事だと思う?ゴーストライター?
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:31:51.44
>>353
>下山正一先生が有明海の海岸線についてきちんと研究されてる <

下山、というのは、何の先生あんんだい?。
しかし、何のために「有明海の海岸線」の研究なんぞ、しているんだい?。
まさか、「南→東」などの嘘吐き騙しの通説大和説の先生で、
九州説を否定する事が目的だった先生ではないんだろうなあ。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:32:22.32
>>326
>「通し」

通しではなく「通じ」と読んだつもりだったんだがな

原文が東至安南如至成都,通水陸行であり
通水陸行は、東至安南如至成都の修飾句だから、

東、成都に至るが如き(距離にて)水陸行を通じ安南に至る
と読み下せばよいんじゃない?

ただ実際には東じゃなくて南東だから、これも大陸史書が方角を間違うことの明確な実例
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:32:40.35
さかな君、たいやきくん・・・
おさかな体操・・・かつお武士とか
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:32:40.52
>>329を書いたのは

臨海郡が安徽省だとウソを言い張って
それがウソだと動かぬ証拠を突きつけられたら
安徽省だとは言ってないとウソを言い張ってる男

常にウソをつく病気男ザラコクだ
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:33:50.71
一寸千里という伝承を調べて
実際は一寸300里だったと訂正するという
おおよそ2000年は前の中国人も出来た事をなぜ九州説は出来ない
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:34:01.98
>>335を書いたのも
常にウソをつく男ザラコク
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:35:39.00
サザエさん?
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:37:03.75
>>335
>下山、というのは、何の先生あんんだい?。

書き込みがしたかったら、ちったぁ自分で調べろや、この能なしがww
下山先生ときちんと敬称をつけな!

有明海の海岸線だけを調べてるんじゃなくて、縄文海進から弥生時代の
海面変動を調べている方で、歴史学とも考古学とも関係ない先生だよ

それを調べるフィールドが北部九州中心で、福岡平野の方も調べているよ
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:40:06.51
『天津神』?
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:41:50.14
>>354
>1.遠くのことはより遠くに書く誇張(王朝の徳を高く見せる)<

別に、全ての史家や学者が、「南→東」などの嘘吐き騙しの分裂妄想のアホではない。
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論をされる学者も沢山いる。
要は、史料批判の有無。

>2.伝説・伝承の数字の混入(神話などはなにごとも過大)<

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
伝説・伝承の数字の混入(神話などはなにごとも過大)

>3.情報が不正確 <

万世一系皇国史観の人種差別殺し合い戦争狂の・・・・大和説者の情報は不正確。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:45:59.78
本当に神話なのかな?

例えば、天津神・国津神?
誰々という人物の下に就いているんだけど、
実際に影響力を持っている、〜動かしているのは・・・


みたいな話ばかりしているでしょ
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:46:06.99
>>355
>九州説シンパの鷲崎氏のまとめでも土器編年はこんなもんだぞw<

鷲崎っていう人が、「九州説シンパ」だって?。
通説大和説者だった、と思うぞ。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:52:20.88
>>364
>箸墓は、3世紀第4四半期、もしくは4世紀に入ってから、邪馬台国を乗っ取った大和朝廷(天皇家)が卑弥呼の冢(直径150m円墳)を埋め立て、
その上に築いた前方後円墳(後円部直径160m)である。
現在の徳川大阪城の地下に豊臣時代の大坂城が埋まっているように。
前の権力者に失礼のないようにその王墓は破壊せず、密かに裏で祀り、表歴史からその存在を消す、というウルトラCを成し遂げた天皇家は、列島支配者に相応しい。
確かに纏向遺跡には首都らしい住居遺跡はないが、箸墓を築造した作業員たちの住居遺跡もないことに要注意。 <

まるで、大和説者に特有の、分裂幻覚の妄想だね。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:54:19.47
>>367
>では、北部九州にあった倭王が、どうして遠く隔たったド田舎・大和の卑弥呼に取って代わられたか? <

これも、「南≠東」などに拠って、×ね。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 22:58:51.62
>>375
>? ちゃんと報告書が出てるのに?
オレ様の気に入らないモノは理由ナシで却下するのが九州説でスカ?<

その報告書って、「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説学者の報告ですか?。
そんな報告じゃ、信頼性が全くないね。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:02:01.68
>>383
方向を「南→東」に変えたら、
嘘吐き騙しの詐欺師になってしまいますよw
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:04:05.72
>>385
理由のひとことも言わず
「南→東」などの嘘吐き騙しのMy結論だけ連呼するのが
大和説のはしたない生き方
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:06:08.98
>>386
九州説に何も反論できず、ただ罵る
それが負け犬の
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:07:51.20
>>346
>鷲崎っていう人が、「九州説シンパ」だって?。
>通説大和説者だった、と思うぞ。

ザラコクは常にウソをつく

鷲崎はゴリゴリの九州説
邪馬台国宇佐説で本を出している
0355日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:08:33.29
河童の三平〜茶釜 天津・・・??

家の写真と同じようなコンセプトでしょ、なぜか。
テレビなども無かった時代、むかーしの写真だと言っていたり
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:09:06.35
>>390
「南≠東」などに拠って×。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:10:09.51
ザラコクの人生は何なんだろうな
わざわざ来んでもいい畿内説スレに来てはサンドバッグになって
畿内説論者のストレス発散道具となるよう生まれた時から
運命付けられているとでも言うのか
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:14:24.71
>>393
従来見落とされていたことだが、
不弥国から投馬国まで水行(20日)ということは、
投馬国の中心が、鹿児島湾奥の上野原遺跡付近になることが明白
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:18:05.50
>>396
これも、「南→東」などの分裂幻覚の妄想の大和説患者のようだね。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:21:34.20
>>400
これも分裂幻覚の「南→東」などの病気の大和説者の投稿のようだね。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:25:40.18
>>403
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の分裂幻覚の妄想には、
時間の無駄だから、留意しない。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:26:01.78
本当に繋がっているでしょ?


『筋肉少女帯 お酒なんか飲んで』〜『松傾』家の話?
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:31:37.76
>>410
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説のオッチャン達は、
史料事実や現実を見たくないのさ
彼らにとって現実なんで苦痛でしか無いからね
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:34:40.51
ガンダム?

たしか・・・白い服の写真もあったり、
着ていたわけではないと思うんだけど

写真の裏に『松傾』?このような名前
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:34:39.95
>>411
まだ「南→東」などの嘘吐き騙しの、
分裂幻覚の妄想患者が、また新たな妄想に耽っているらしい。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:42:37.89
666の獣は竜とか合成獣とか色々言われてるが
畿内説的に見れば正体はオウムだった
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:45:17.51
>>417
>>陳寿の書き方からは、「計其道里當在會稽東治之東」の「会稽」は、
当然その前に書かれた「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」を指している事になり、<

>それが会稽山のあたり そして夏后少康之子の子孫が越の王家 つまり北緯30度よりも南だ
九州説は死んでいる<

ありゃ?、こりゃまた類スレ主が、いつものように、
「会稽東治→会稽」という嘘吐き騙しをして、死んでいる。
会稽東治≠会稽、なのにねえ。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:48:49.07
バスに飛び乗りなさいと言ってる曲もあるし、


『サイバーパンクSPECIAL』
川崎区の南部のほうの・・・・あの作品でしょ、
なぜ知っているんだろう
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:49:05.51
ERROR: We hate Continuous..
連投してるで
問い合わせID:499922dd9df1a572
ホスト:219.115.235.241
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>419
大和説は、「南≠東」に拠って、反論しない
ただにげるだけ
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 23:58:43.65
朝鮮儒教九州説の666ザラコクオウムが喚いてるだけのスレ
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 00:08:04.22
難升米ファミリーの渡来によって倭國に嵐が引き起こされた
すなわちこれが倭國乱であり
難升米ファミリーの占領地は伊那と称されたらしい
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 00:08:28.85
『白い服 暴力団』

家は暴力団でもヤクザでもないんだけど、
どこかで繋がっているのかな?

うちだ・ゆーやが・・・何やらと言っていたり、
あと、あのドラムの話とか
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 00:18:08.11
>>367
>会稽東治≠会稽、なのにねえ。

会稽東治は会稽の中にあるんだよ
だから北緯30°より南だよ
どうやら九州説はまた
別のものに仕立て上げて詐欺をする気だな
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 00:32:53.77
そもそも後漢書の会稽東「冶」県じゃなくて
より北部にあるという魏志倭人伝の会稽東「治」県は実在したのか
九州説のいう事はどうにも信用できない
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 01:16:57.00
>>375

じゃあ、畿内説と同レベルのトンデモ説ということだね。  やはりトンデモ同士は・・・  @阿波
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 04:56:29.36
畿内に「ヤマト王権」があったことは分かりますが、
邪馬台国とは、=にはならないと思う。

疑問1 海を渡って「対馬国」に着く。
     また、海を渡って「壱岐国」に着く。
     さらに、海を渡って「末廬国」に到着する。
(僕の予想 宇佐)投馬国・・・・・不彌国から水行20日
     (僕の予想 山門)邪馬台国・・・投馬国から水行10日陸行1月
     狗奴国・・・・邪馬台国の南
     (僕の予想畿内ヤマト王権)・・・・女王国の東、海を渡ること千餘里にして   又国あり、皆倭種なり。
投馬国に行くのに、「不彌国から水行20日」と書かれています。
これまでは、「海を渡って対馬国に着く、海を渡って壱岐国に着く、海を渡って末廬国に到着する」と「海を渡って」と書かれている。
しかし、投馬国については、「海を渡って」と書かれていない。だから、海は渡っていない。沿岸部を移動しているのだろう。
関門海峡を渡るなら、「海を渡って」と書かなければおかしい。

また、魏志の最後の方に、畿内ヤマト王権から、海を渡るとまた「倭種」の国があると書かれています。
しかし、畿内から東と言っても、盆地で海が無い。もし、紀伊半島から尾張や浜松・静岡、埼玉方面なら、海を渡らないので「水行〇日」と書くでしょう。
以上のことから、ヤマト王権が畿内に存在しても、邪馬台国とは関係ないと思います。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 04:59:04.92
どこのゴキブリなんだ?と聞いているんだよ

『宇宙戦艦 創価』?
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:01:56.53
>>420
「南→東」などのように、
大和説はウソばかりつく。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:03:19.16
どこの『ゴキブリ』なんだ?
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:04:56.60
>>425
「オレの万世一系皇国史観の殺し合い戦争大和説が正しいから、お前たちの説は間違いなんだ」

これが、大和説がダメになった理由だね。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:07:41.97
>>426
普通の人類は、「南と東を間違えない」から、×。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:08:29.43
ゴキブリホイホイ?
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:09:36.09
>>428
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説から答えがない
死んでいるようだ
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:10:44.25
ごきぶり教????????????????????
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:16:04.82
>>431
>>普通の人類は東西南北などは間違えない、と言うのが史料から読み取れる事実。<

>読み取れません
史料から読み取れるのは、史料に記載された方角は間違うときは間違う、ということ<

宗教に狂ったり、詐欺に狂ったのではない「普通の人類」は、」間違えない。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:16:15.03
氷殺ジェット?冷凍ビーム?
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:18:17.85
氷殺ジェット〜ライオン
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:20:08.16
>>433
大和説は、人種差別戦争主義的な安部自民様が大好きな妖怪だな
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:21:28.50
どのスレだったかな「日本の話なんですよwww」と言ってる人がいたような

『Lion バンド』の話とか
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:23:59.07
『何者にもなれない お前たち』

それにしても、これは、どういうことなんだろう・・・・。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:24:39.22
>>434
>>奴國と投馬國の行程説明に「途中移動の説明文言がない」<

>それはなにを示しているのでしょうか?<

魏使らの移動を記載していないんだから、
魏使らや陳寿は、側副傍線國の存在や位置説明を記載した、という事。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:25:36.35
>>377
>しかし、投馬国については、「海を渡って」と書かれていない。だから、海は渡っていない。沿岸部を移動しているのだろう。
>関門海峡を渡るなら、「海を渡って」と書かなければおかしい。

海峡なら渡らない
海も渡らない
海峡を抜けて通って行くよ

船で博多から伊予にでも吉備にでも、沿岸部を移動していくだけだ
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:29:03.21
天津神???????????????
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:31:37.13
>>392
>それはなにを示しているのでしょうか?

ザラコクの知能程度を示している
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:31:57.57
>>438
>女王國東渡海千餘里復有國皆倭種から後ろに書いてある部分は、伝説や伝承の引用<

夷人や倭人は「里」を知らないのだし「余」が付いているから、
「千余里」や「四千余里」は、魏の役人たちの実地の計測の記録であり、
裸國と黒歯國は、「日数」記載であるから、倭人からの情報。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:40:10.90
>>448
学問の世界は、普通の人が嘘をつかない世界だから、な

つまり、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らは、
この世の普通の人間ではない
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:40:34.34
『日本昔話 姥清水』

家の話のような・・・・。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:49:56.94
>>451
>>陳寿が、奴國と投馬國の行程説明に「途中移動の説明文言がない」という事は、<

>南至投馬國「水『行』二十日」
これ途中移動の説明文言だよな?ww <

途中移動文言は、「至」の前に書かれている、という事が原則である、
という事は、何度も説明してあんの。
だから「水行二十日」などは、「至」った後に書かれているから、
(実際の移動ではなく)投馬國の位置を示す所要日数での説明になるの。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:54:53.79
>>454
麻原や、
万世一系皇国史観殺し合い戦争狂の安部自民や学会教育界の、
宗教トップは、
何を命令するのか?が分からんから、
雇われない方がいいな。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 05:55:08.71
偶然なのかな『広瀬座』というところの話とか、
確実に戦前の話なんだけど

老婆談w
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:00:57.77
>>460
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学会教育界も、安部夫婦らや麻原も、
結局は、栄耀栄華に耽るための金が欲しかったんだろうね
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:03:05.49
それで?
いつまでゴキブリは活動しているんだ?
人に家に寄生していたり
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:06:03.09
ちなみに家は・・・、
川崎区(神奈川県)の南部のほうにあるんだけど、

『サイバーパンクSPECIAL』

ほとんど、ぜんぶ?偶然なの?
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:09:46.12
大爆笑だと言っているはずんだけど、
意味がわからない?理解出来ない?
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:11:01.65
>>399
>途中移動文言は、「至」の前に書かれている、という事が原則である、
>という事は、何度も説明してあんの。

なんの理由もない「俺様の決定事項」をなんど説明されても
世界の誰も納得するわけないでしょ
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:13:27.33
なぜゴキブリばかり出てくるんだろう?
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:14:22.04
>>402
>「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学会教育界も、安部夫婦らや麻原も、

いくら他人を中傷しても
臨海郡が江蘇省だという貴方の嘘が
正当化されることはない
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:19:13.76
『茶釜 天津』?

『河童の三平』?
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:21:28.68
>>463
>Wikipediaの会稽郡の魏晋南北朝の項目に
「257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、
260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、266年(宝鼎元年)には諸曁、剡両県以南に東陽郡を設置した。」
とあるが、最終的に残った会稽郡から見れば、臨海郡は南側<

Wikiの会稽郡には、
会稽郡は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて設置された。
揚州東部の長江下流域に設置され、六朝時代には政治、文化(六朝文化)の中心地として発展した。
その領域は時代によって変遷があるが、現在の中華人民共和国浙江省紹興市付近がその中心である。
・・・呉の首都は孫権時代に揚州丹陽郡の建業に移ったが、
会稽郡は丹陽郡や呉郡と共に三国時代での呉朝の中心的な地域となっていった。
また、呉は山越の征伐をたびたび実施し、漢族の支配領域を広めていき、南朝のさきがけとなる。
三国時代には会稽郡に始寧県、永康県が新設された。
257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、
260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、
266年(宝鼎元年)には諸曁、剡両県以南に東陽郡を設置した。

であるから、会稽の東部臨海地域は、揚子江下流から揚州海岸部付近になる。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:21:51.48
なぜゴキブリばかり出てくるんだ?
メディア、テレビ?
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:24:58.66
兄、弟・・・・妹でしょ?
どう考えても家の話なんだけど
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:26:22.09
キーポイント
始度一海 
「又」南渡一海
「又」渡一海
VS
南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

後者は接続詞が無いので投馬國経由で邪馬壹國に行ったかどうかは不明である
また投馬國についての記述は「南至邪馬壹國」ここのみで詳細は書かれていない


陸行一月以外については考えてください
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:34:49.68
>>464
>物差しの目盛りの単位が76m〜77mというようなアバウトな単位は存在しない。
小数点以下が延々と続くということがあっても、単位としては一つでなければならない。
76m〜77mが単位て、バカじゃないの。<

「里」は、元々「田+土」であり、田畑やそれを耕作する集落単位の数え方であり、
「物差し」レベルのものではなく、厳密な長さがあったものではなく、
「1里=300歩」という補助的単位の「歩」があっただけであり、
当初から尺寸系の「物差し」とは別の単位系であった。
そして、始皇帝が「1歩=6尺」という命令をして、里歩系と尺寸系との統一を命令したもの。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:39:38.57
>>410
>であるから、会稽の東部臨海地域は、揚子江下流から揚州海岸部付近になる。

三国時代の揚州は会稽郡を含む
しかし会稽郡以外の揚州が会稽になることはない
だから会稽郡でない長江河口地域は会稽ではない


福知山が京都府だからとって誰も先斗町を福知山と呼ばないのと同じである
自分のついた嘘を正当化するため滅茶苦茶な言い訳をしてはならない
それはまるで取り調べを受けている犯罪者の態度と同じだから
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:40:02.64
これは謎の大震災などの話


僕も人工地震だと思うと言ってる人がいるでしょ、
・・・正解?何なんだろう


日本のメディア関係?
なぜか家の話ばかりだし、悪く言うと成り済まし、寄生されている
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:40:09.17
257年(太平2年)、呉の孫亮が豫章郡を分割して臨川郡を立て、会稽郡を分割して臨海郡を立てた
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:41:51.36
>>467
>行ってたら、紀行文くらい書いていただろう。 <

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
という紀行文を書いているではないか。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:42:08.28
>>373
>難升米は黄幢が見つかった黒塚古墳の被葬者だな

その「黒塚古墳」も「忌部はん」のお墓だよ。

「黒塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw  @阿波
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:44:50.16
ごきぶり教
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:50:52.88
>>482
>>会稽が、「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」を指している、という事が実態。<

>ならばこそ、会稽山のある現在の紹興市こそが会稽だな
どうやっても上海より北にはならんよw <

Wikiに拠れば、「会稽東治」は、揚子江下流~揚州海岸地域。
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:51:33.68
>>399
>途中移動文言は、「至」の前に書かれている、という事が原則である、

まぁまぁ、  

「至」がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:52:51.73
>>418
>という紀行文を書いているではないか。

身長三四尺の人間がいるかアホウ
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:54:21.27
『天津神』ググってみると、
なぜか『七支刀』を持っているキャラがいたり、

なぜ持っているの?『松傾』から貰ったの?
それとも『松傾』本人というコンセプト?
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:54:46.17
>>421
>Wikiに拠れば、「会稽東治」は、揚子江下流~揚州海岸地域。

ザラコク朝から真っ赤なウソまみれ
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:55:23.21
>>415
>だから会稽郡でない長江河口地域は会稽ではない

まぁまぁ、  

会稽郡がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 06:56:43.02
>>484
「儒教的」という言葉が「愚弄」と感じられてるあたり、
やはり類スレ主や大和説者は、
万世一系皇国史観の人種差別的殺し合い戦争賛美の、
宗教的的価値観で生きているカルト信者なんだな。
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:01:31.97
ERROR: We hate Continuous..
連投してるで
問い合わせID:499b9c64f9c42078
ホスト:219.115.235.241
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>485
>東渡海千里は一つの国ではないし、戸数道里が略載できない遠絶な国だろ
魏使は行ってないし、余傍国にも入らない<

倭人らが知らない「里」で記録された限り、魏の役人たちは,行っている。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:02:18.77
扶余〜何やら〜とか、もしかして
『ロシアのサンボの裏技』?
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:05:56.23
『セイントセイヤ ロシア』?
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:20:14.17
畿内説の諸君
わかってると思うがここだけは押さえてくれ
倭人伝・・・・会稽東「治」之東
後漢書・・・・会稽東「冶」之東
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:23:46.71
ググってみた?
なぜか家の話ばかり出てくるでしょ?
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:31:36.68
『茶釜 天津』
『河童の三平』
『セイントセイヤ ロシア』
『何者にもなれない お前たち』

『』『』『』『』・・・・・・・・・・『』『』
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:35:57.96
>>431

まぁまぁ、  

会稽郡がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:37:29.07
『天津神』?
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:49:08.56
『扶余』?
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:49:24.74
>>431
それがどうした
九州説には論が無いんだね
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:51:42.41
>>437
過去レス読むぐらいの努力はしてほしい
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 07:57:18.98
『扶余 ロシア』?
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:01:10.42
ザラコクに賛同するな
理由
1、投馬国についての記述が無い、五万戸もある大国であるのに
2、九州から畿内に魏の使者が向かったとしたら、一番長い距離を移動
  その中間点である大国投馬国に滞在したであろうが詳細な記述が無い

投馬国経由で畿内邪馬台国に行ったと思えない
投馬国の位置説明と見るのが妥当と考える
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:01:48.46
家の話ばかり出てくるけど、どういう事だと思う?

謎の『大震災』などがあるでしょ、
人工地震だと思いますと言ってる人がいたり


陰謀スレw
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:03:37.37
これにも賛同
413日本@名無史さん2019/01/16(水) 06:26:22.09
キーポイント
始度一海 
「又」南渡一海
「又」渡一海
VS
南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

後者は接続詞が無いので投馬國経由で邪馬壹國に行ったかどうかは不明である
また投馬國についての記述は「南至邪馬壹國」ここのみで詳細は書かれていない
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:06:59.07
『松傾』?
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:11:27.20
>>386
>宗教に狂ったり、詐欺に狂ったのではない「普通の人類」は、」間違えない。

出発方向が地理の説明で書いてあるとか、大間違いの大ウソを繰り返し強弁するような
頭のおかしい人以外には、末盧国から伊都国の方向とか、大理から安南の方角が
間違っているのはごく普通に理解できることなんだよww
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:22:42.56
鳴門・板野古墳群について    「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋

鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。

主な古墳は、西山谷2号墳  池谷宝幢寺古墳(県史跡)  天河別神社古墳群(6基・県史跡)  萩原1号墓(消滅)・2号墓  大代古墳(県史跡)  板野の愛宕山古墳(県史跡)

発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、

鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。

西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。

近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津

・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。

鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。  @阿波
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:22:47.17
>>447
畿内説では陸行1月は何処から纒向へ?
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:25:36.68
以前から書いていることなんだけど、
頭が悪いんじゃないのか?


どう考えても家の話でしょ、なぜ詳しいんだと思う、
松の木が立てられていて・・・立っている人物『松傾』?
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:30:11.24
不弥国から1か月かかって瀬戸内海を渡った?

その間 国は投馬国だけ?
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:34:11.92
>>450
知ってるよ
それで、どの道を通った?
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:36:31.51
>>449姫路か明石あたりから陸行したのだ
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:39:16.41
海流
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:54:28.58
テレビでも何でも良いけど、
なぜゴキブリばかり映しているんだ?
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 08:59:23.46
『ザ・モモタロウ』

うらしまマリン:テレビ・・・観ないと書いてあるでしょ?

嫌なら観るな?
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 09:04:26.36
>>504
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
だんだん「万世一系皇国史観教のキョクウ暴力団」という正体を隠さなくなってきたな
まあ、まともな日本人は、
大和説を信じる理由のある人はほぼいなくなったから、お察しだよな
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 09:04:35.00
『嫌なら見るな』?
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 09:09:55.72
『大震災』調べてみて


「人工地震だと思います」と言ってる人がいるでしょ?なぜだと思う
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 09:16:19.35
『うらしまマリン』〜『松傾』

嫌なら見るな。人工地震だと思う。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 09:43:47.18
>>521
「南→東」などの嘘つき騙しを付き続ける大和説者ってキモいな
異常な宗教思想に染まってる・・・・なのがわかるわ
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 09:45:55.17
人工地震、災害など、
本当にユダヤの陰謀なのかな?違うんじゃないの?
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 09:52:22.73
ほんとうに、いちいち説明したくないんだけど



??????????????????
?????????????????❔
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 09:52:50.23
>>537
念仏とは自身が御仏と成れるよう念じて唱えるもの
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
唱えてればそのうち・・・・なアホになるから念アホ
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:16:46.53
「狗奴国」の遺跡の一つ

徳島県阿南市水井町「若杉山遺跡」・「丹波坑口」・「長生町奥ノ谷遺跡」
出土遺物
@石器(石臼・石杵)
A土器
 甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
 小型丸底坩(弥生X様式後半〜布留式まで)庄内式並行期がほとんど
 土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
B玉類
 蛇紋岩製勾玉
C鉄製品
 刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
D自然遺物
 貝片・獣魚骨・人骨片

想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
 分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半

 若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性
              (徳島県立博物館1997・岡山1998)
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:18:52.24
「狗奴国」の遺跡の一つ

「加茂宮ノ前遺跡」
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。

発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡20棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。

住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。

住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。

一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。

加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。

加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲)  @阿波
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:20:00.39
「狗奴国」の遺跡の一つ

「芝遺跡」
芝遺跡では3面の遺構面を確認した。
第1遺構面は中世にあたり、13世紀後半〜14世紀中頃にかけての屋敷境溝を持つと考えられる
掘立柱建物跡や土壙墓などを検出した。
このうち、土壙墓は屋敷墓と考えられ、海部刀短刀・土師器杯・皿が出土し、13世紀後半頃と推定できる。

第二遺構面では弥生時代後期〜古墳時代前期前半頃にかけての竪穴住居や溝、旧河道等を検出した。
旧河道からは外来系土器が多数出土している。
 
第3遺構面では弥生時代前期後半以降頃の遺構と遺物を検出した。
中期中頃〜後半にかけての円形周溝墓を4基検出し、
時期が確定できる円形周溝墓としては、県内初出となった。

この内、円形周溝墓1は直径約11メートル、溝幅が最大約2メートルを測り、陸橋を持つ。出土遺物は陸橋周辺に集中して出土しており、
結晶片岩を含む吉野川下流域産と考えられる土器がほとんどを占め、若干の在地土器が混じる。
この他、周溝墓の可能性のある溝も検出しており、この時期の集落内墓地であった可能性が考えられる。
また、弥生時代後期中頃と推定される竪穴住居では、炉跡内から鉄切片・小破片が出土し、炉跡底面に焼土面が広がっていた。
そのため、本炉跡は鍛冶炉跡と推定され、U類(村上1998)にあたると考えられる。
この他、サヌカイト片や特殊なものとして朱付着石杵も出土しており、この朱は水銀朱であることが確認されている。
したがって、竪穴住居では石器・鉄器・朱を扱う工房跡であった可能性が指摘でき、阿波南部地域に鉄・朱が伝わっていたことを実証できる好資料である。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:25:11.27
>>540
戦いは同じレベル同士でしか起こらんのよ
「南→東」などの嘘つきだましの大和説は、レベル低すぎて小バカにされてるだけだぞ
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:29:02.15
>>543
>しかし女王国の位置は会稽東治の東
沖縄や台湾の辺りと魏志倭人伝に書かれてるぞ <

会稽東治の東は、「沖縄や台湾の辺り」にはならんよ。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:29:38.00
なぜ寄生虫ばかり出てくるんだろう?
と言っているだけなんだけど

なぜだと思う?
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:35:46.17
「wwwwwwwwwwww」

大爆笑という意味らしいんだけど、
あと草という意味でもあるとか


ウラシマン?
鎌(草刈り)のような技を使用したりするの
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:48:35.48
人工地震だと思う
と言ってる人がいるでしょ、なぜだと思う



とある陰謀スレを読んでみて
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:50:28.70
>>544
>76.5は儒教的数字よりかは何かの下らない語呂合わせ的な何かか <

一寸千里からの単純な計算値の数字。

>いずれにしても谷本計算の主張
1短里=300歩≒300尺はそもそも最初から計算が成り立ってない<

1里=300歩は、里歩系単位が出来た時からのもの

>なので1短里=300尺として1尺23cmとすれば69m<

1短里=300尺なんて、そんなアホな「=」という事をいう筈がない。

>谷本計算でも1短里76〜77mの1歩25.5cmは本来出て来ない数字のはず<

谷本さんは、「短歩」というものの存在は、推定しておられた。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:51:55.44
>>545
>計算なんて設定次第でどうとでもなるわ
それに周の時代に実際測られたなら八尺の棒の影長が一寸違うのは約200里
一寸200里の法則になる <

周髀算経は、一寸千里の法であるから、×。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:53:51.78
人の家の話だろう
と言っているんだよ
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:56:14.89
>>547
>計算の辻褄が合ってないんだろ
谷本計算では一尺23cmとしてたがそれだと1短里76mにならないから
1歩=25.5cmとして <

谷本さんは、「1尺=25.5cm」とは、当然しておられない。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:58:44.39
>>549
万世一系皇国史観は畿内説(=大和説)だろ
つまり大和説こそ儒教根性の人種差別的なんたらの祈祷というか呪
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 11:02:11.13
>>554
どうやら「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の二人(スレ主と類スレ主)は、
異常な政治思想にかぶれている・・・・のようだ
そして歴史学には興味がないようだ
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 11:03:51.61
『三等重役』の話になるんだけど

まさか・・・浦島太郎(本当のウラシマ)と
義兄弟のようになった人物がいるのかな?

老婆の話を聞いていると、
そのような感じがするんだけど
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 11:05:15.85
zarakokuは嘘つきだ
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 11:08:53.32
老婆談というのは、確実に戦前、もっと前の話・・・・・・・・?
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 11:21:39.55
老婆の言っている広瀬座というところも

>120年以上も前に建てられた
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 11:32:24.02
>>575
>井田法の出典は孟子
つまり漢文をいちおう勉強した人はたいがい知ってる話
くどくど説明する必要を感じない人がいても不思議じゃない<

漢文は、高校の国語で習った位であり、別に特殊な勉強などせず、
ずっと文字を逐次式に読み込んで来ているだけ。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 11:45:11.97
@阿波は本当嘘つきやな
何が目的なんやろ
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 11:48:35.03
>>484
それで何ができる気なの?
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 11:54:25.89
>>414

「里」が「物差し」レベルのものではなく、
厳密な長さがあったものではないなら
「一寸千里の法」の千里は「物差し」にならない
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 11:59:04.69
>>410
>であるから、会稽の東部臨海地域は、揚子江下流から揚州海岸部付近になる。

ならないんだって!
ちったぁ自分で調べろや、この能無しが!

257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、
260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、
266年(宝鼎元年)には諸曁、剡両県以南に東陽郡を設置した。

この分郡の前に、銭塘江より北は呉郡になっているから、揚子江下流域は
既に会稽郡ではない

そして、ここで言う「東部臨海地域」は、分郡前の会稽郡の南の方の
「大陸の東岸」であって、会稽郡の東側という意味ではない

臨海郡は、分郡前の会稽郡のうち南側の大陸東岸の地域
この地図を見れば臨海郡と会稽郡の位置関係が分かるな?
http://www.iobtg.com/C.Shaoxing.files/map1.jpg
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:01:36.27
>>421
>Wikiに拠れば、「会稽東治」は、揚子江下流~揚州海岸地域。

それ、ウィキの誤読ww
魏志倭人伝も誤読だらけでデタラメだし、ザラコクは無能ww

まあ、ウィキペディアの文章もうまくないが、それでも自分で調べれば
臨海郡がどこにあったかはすぐに分かる
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:05:10.67
>>439
>過去レス読むぐらいの努力はしてほしい

そういう言い逃れをするな!
論じたかったら、何度でも繰り返し論じればいい

こちらは、何度でも臨海郡の地図も貼っているし、寝ぼけたことを言っても無駄

九州説には、まともな論立てはないw
短里もないし、島巡り仮説もないし、水行の起点は帯方郡ではないし、
九州は会稽の東ではないし、一寸千里は漢代に既に誤りだと広く知られていたし、
投馬国は半島南部ではないww
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:06:39.05
>>601
>>すでに始めから、「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」という、
大体の方向が分かっている。<

>それだったら「南至邪馬壹國」が総行程を示しているというのは矛盾するから大間違いだな
一言各毎に矛盾する これがザラコククオリティだww <

変な男。やっぱり・・・・だな。
総行程は「郡〜女王之所都」だ、と何度も書いておいたし、
「南至邪馬壹國」は不彌國のすぐ南だ、という表現であり、
「郡の南だ」という意味でもない。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:07:55.48
>>442
>投馬国経由で畿内邪馬台国に行ったと思えない
>投馬国の位置説明と見るのが妥当と考える

投馬国と邪馬台国の旅程の書き方は同一
投馬国が位置説明なら、邪馬台国も位置説明となるが、
邪馬台国には多くの記述があるよな?

結局、矛盾するんだよ

ザラコクに同意するのは、バカの所業だし、
無能の証明になるぞww

気をつけて!
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:08:41.51
九州説の人はわからなんじゃなくて
最初から人を騙す気なんじゃないの?
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:11:11.13
>>490
まんまとフェイクに引っかかって、深層を見損なってるわ
畿内説はとうにおわた!
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:11:30.19
>>449
>畿内説では陸行1月は何処から纒向へ?

同じことを何度も書かすなや

丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う

どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:12:22.71
>>604
>>倭王武の上表文の「自昔…道kei百濟、裝治船舫」に拠って、<

>倭王武の上表文でも韓地陸行はしてないぞww<

「道kei百濟」は、百済へ行く道の「歩径路」である。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:13:04.94
>>491
>総行程は「郡〜女王之所都」だ、と何度も書いておいたし、
>「南至邪馬壹國」は不彌國のすぐ南だ、という表現であり、
>「郡の南だ」という意味でもない。

なら水行10日陸行1月は不弥国からの日程で
郡からのじゃないのが当然だろう
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:13:38.22
>>494
>畿内説はとうにおわた!

それが言いたかったら、
論旨を明確にして
具体的な根拠を提示した上で
論じてくれ

それができないのなら、蛤のあくびと同じww
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:22:48.28
畿内説はこんがらがりすぎて、永久にほどけなくなってしまってるww
動けば動くほど首が締まるホケノのわな
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:28:44.52
>>499
何がこんがらがっているのか
具体的に言えよ
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:30:32.20
九州説は、テンプレはもちろん、畿内説のレスを読んでも
頭の中では、「南」以外のことはすべて素通りしていると思う
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:35:10.76
バカな日本人たちよ、
安倍は言論の自由を脅かして報道を萎縮させるヒトラーなんだ。
韓国を見習って早く辞めさせろ!
俺たちと韓国に忖度する石破を総理大臣にしろ!

韓国!韓国!韓国!韓国!
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:39:04.24
会稽東冶問題が南の答えだよ
会稽の東部を臨海郡にしたと三国志は言っているけれど臨海郡は会稽郡の南にある
東越も東閩も東冶もみんな南にある
南と東は相兼ねるんだ
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:44:01.09
新井白石が常陸説を唱えるまで、
高天原とはごく普通に金剛山・高天台と認識されていた。
しかしそれは国学者にとってはまずいことである。
卑弥呼、帥升が大和朝廷の発祥地・葛城にいた、
つまり大和朝廷はその初現段階から中国に朝貢してた事を意味するからだ。

だから高天原は常陸であるなどと言って論点ずらし、視点ずらしをしたのだ。
邪馬台国が九州にあったなどという説も同じだ。
九州説自体が虚構なのである。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:45:49.36
>>496
>「道kei百濟」は、百済へ行く道の「歩径路」である。

そんなことアンタが勝手に決めても意味ないだろ
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:48:55.39
>>499みたいな投稿見ると
九州説はもう思考能力がないとしか思えない
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:53:19.24
つまり、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:54:38.76
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:54:39.93
つーか倭人伝に書いてある他国との位置関係を読めば
邪馬台国は九州のどっかにあるとしか思えないんだけども
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:57:02.78
九州説は始まりが、徳川幕府の朱子学者だから
南宋期に曹操や司馬懿を批判した大義名分と正統を重んじる朱子学がベースだからな
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:59:01.92
>>485
>@阿波は本当嘘つきやな

その「嘘つき」を挙げられないお粗末さよ。  惨めなり。

>何が目的なんやろ

暇つぶし。  @阿波
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:59:44.57
>>616
>邪馬台国は連合国だぞ つまり畿内一帯 <

「邪馬台国」も「畿内」も存在しない。
また連合したのは「卑弥呼共立諸国」であり、邪馬壹國はその共立國の一つ。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:05:32.16
>>625
>確かに纏向遺跡は首都遺跡にしては貧弱かもしれないが、箸墓を築いた作業員の生活遺跡も乏しいことに要注意。
河内平野+大和盆地の各集落を合わせて、七万戸(約35万人)と思われる。 <

七万戸の邪馬壹國は、筑紫だから、×。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:06:49.30
箸墓は発掘できないし、発掘されてもいない
だから、適当を喋りまくっても素人マスコミにはバレない
しかしホケノは違う、発掘されてるから、証拠はそろってる。箸のラッパが、ホケノでバレる、ウシシ。。。。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:09:16.46
大神神社が崇神時代に創建、それを4世紀初頭から前半として、
それ以前、3世紀の卑弥呼やトヨ、
そして2世紀前半の其国の男王までの王権はどこにあったか、
つまり神々はどこに住んでたか、
これは大神神社以前の式内・名神大社をみればいいだけ。

高天原のある葛城に複数の式内・名神大社が集中している。
葛城以外にはない。
3世紀の卑弥呼やトヨ、そして2世紀前半の其国の男王までの王権は葛城にあったのである。

高天原最有力地であり、日本最古にして大和盆地の最高位置にある高天彦神社の境内に、
魏志倭人伝の記述通り奴婢(土蜘蛛)が埋葬された径百余歩の塚がある。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png

邪馬台国論争は終了である。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:14:30.06
>>515
あんた、あたま変だろ
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:14:34.94
>>626
>>wikiでは、会稽の東部が揚州に属した、と書いてある。<

>「後漢のとき、揚州は九江・丹陽・廬江・『会稽』・呉・豫章の6郡92県を管轄した[2]。」
もともと後漢から三国時代の揚州は会稽郡を含む広い範囲
会稽郡から分郡された臨海郡も当然揚州に属することになる <

だから、会稽東治は、会稽の東の海岸地域であり、
上海付近〜江蘇省の「揚州海岸部」、である、であるという事になる。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:15:06.27
その斜面は関係ない
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:18:29.44
連続句読点が韓国、韓国しか言わなくなったな
土井 たか子は、朝鮮人呼ばわりされたときに名誉毀損で訴えたけれどww
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:21:28.20
>>512
>>何が目的なんやろ

>暇つぶし。  @阿波

暇ならさ、このリストのスレ埋めてよ!
かなり暇がつぶれるよ!
邪馬台国纒向説 part4  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541980709/
邪馬台国畿内説 避難所  http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/
邪馬台国畿内説 part1  http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/
韓国政府が邪馬台国畿内説を応援する理由  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1544415658/
邪馬台国畿内説 part440  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541819761/
考古学者の邪馬台国畿内説離れは集団心理なのか  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1542857513/
邪馬台国畿内説 part4001  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542985752/
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542631006/
邪馬台国畿内説 箸休め  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540975350/
邪馬台国纏向説が破綻した理由part3  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541036706/
邪馬台国畿内説の角度  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1543928789
邪馬台国畿内説 part1  http://mao.5ch.net/test/read.cgi/management/1543927675/
邪馬台国畿内説 part1  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/soc/1543922864/
邪馬台国畿内説が破綻した理由 part1  http://mao.5ch.net/test/read.cgi/lifework/1543919660/
邪馬台国畿内説 part1  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:21:30.90
>>518
>だから、会稽東治は、会稽の東の海岸地域であり、
>上海付近〜江蘇省の「揚州海岸部」、である、であるという事になる。

うそつき
会稽の東の海岸地域が上海付近〜江蘇省でないことくらい
誰でも知ってる
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:21:35.31
>>516
>大神神社が崇神時代に創建、それを4世紀初頭から前半として

創建時期はともかくとして、
倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元だよ。 神社の名前からして、一目瞭然。

徳島市国府町府中の式内社 大御和神社は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されています。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)  @阿波
http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/02/03/231418
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:23:03.25
>>627
>渡海の千餘里が実測値なら
壱岐から北部九州沿岸は近すぎる<

元々有効数字1桁の近似値であるし、
一寸千里も有効数字1桁程度の計測であるからし、、
500里位から1500里位の間だ、という意味であり、
郷ノ浦付近〜唐津付近であれば、500里位から1500里位の間になる。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:24:08.83
>>518
>だから、会稽東治は、会稽の東の海岸地域であり、
>上海付近〜江蘇省の「揚州海岸部」、である、であるという事になる。

いいえ
揚州市は江蘇省だけれど、臨海郡は江蘇省にかすりもしない

地図を見ろってw
臨海郡は、分郡前の会稽郡のうち南側の大陸東岸の地域
この地図を見れば臨海郡と会稽郡の位置関係が分かるな?
http://www.iobtg.com/C.Shaoxing.files/map1.jpg
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:24:37.69
>>521
>暇ならさ、このリストのスレ埋めてよ!

そこまで暇じゃないので・・・  @阿波
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:26:24.76
もう左側スロープ君は無視していいよね?
まともな人間じゃないし、蜘蛛の二文字で全てを説明しようと
する頭のおかしい人なのは周知されたしw
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:27:09.70
>>526

まぁまぁ、  

会稽東治がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:29:14.12
>>629
>北部九州の奴国(博多)にあった倭王権が、
どうして遠く隔たったド田舎(大和)の卑弥呼に取って代わられたか?<

奴國は、博多ではなく、日向峠西麓〜早良平野付近であり、
卑弥呼は筑紫付近の女王であるから、
大和は、×。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:31:56.75
九州説って、どこまで狂ってくの?
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:32:19.27
>>631
>邪馬台国の南の狗奴国 魏志倭人伝の狗奴国の版図は南河内と和泉だろう <

「南≠東」に拠って、「南河内や和泉」は×。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:32:55.31
>>529
先に結論ありきかよ
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:40:55.58
IDとワッチョイ無いと荒しNGするの面倒だな
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:47:56.25
>>636
>そして、渡海は測距できないから一律千里になってるし、<

見えた所は、簡易三角測量で測距できる。

>計れたかどうかとか倭人は里を知らないはずなのにとかは意味がない <

倭人の計測ではない、という意味がある。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:50:51.67
>>526
>そこまで暇じゃないので・・・  @阿波

え〜? 十分暇そうじゃんww
じゃあさ、一日に10レスくらいこのスレに入れてよ!
それくらいならできるでしょ?
邪馬台国纒向説 part4  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541980709/
邪馬台国畿内説 避難所  http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/
邪馬台国畿内説 part1  http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/
韓国政府が邪馬台国畿内説を応援する理由  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1544415658/
邪馬台国畿内説 part440  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541819761/
考古学者の邪馬台国畿内説離れは集団心理なのか  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1542857513/
邪馬台国畿内説 part4001  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542985752/
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542631006/
邪馬台国畿内説 箸休め  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540975350/
邪馬台国纏向説が破綻した理由part3  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541036706/
邪馬台国畿内説の角度  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1543928789
邪馬台国畿内説 part1  http://mao.5ch.net/test/read.cgi/management/1543927675/
邪馬台国畿内説 part1  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/soc/1543922864/
邪馬台国畿内説が破綻した理由 part1  http://mao.5ch.net/test/read.cgi/lifework/1543919660/
邪馬台国畿内説 part1  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:52:47.66
>>638
>投馬国はどこにあるんだ?<

南九州。

>投馬国は女王国以北の国だぞ?ww<

投馬國は女王共立國で女王國に含まれるから、
「女王國以北=女王國も含む」にも 入っている。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:52:56.36
>>534
>見えた所は、簡易三角測量で測距できる。

三角測量をするためには、「正確に長さが計測された基線」が必要だと何度教えればww
もうね、バカに何を教えても無駄ってやつだねw
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:54:07.83
>>534
>倭人の計測ではない、という意味がある。

そこから「中国人が計測した」って結論出しちゃうサギを
排中律悪用ファラシーといいます
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:55:55.64
>>536
女王國以北だけど女王國の南側にありますって
サギだよね
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:56:13.90
>>639
>それに倭種は「皆」倭種という表現だぞ
渡海千里の前も倭種だし、渡海千里の先も倭種という記述だ <

渡海前は「女王國」だ。

>旧唐書の倭の別種に頼りすぎ<

史料事実だ。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:01:09.19
>>646
>北部九州にあったことが確実な不弥国から、
投馬国(い・つま=出雲)まで南に(実際は東)水行二十日、
そこから南に(実際は東そして南に)水行十日陸行一月。<

「南≠東」などに拠って×。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:03:50.94
>>647
>畿内説だと
奴国二万戸  福岡平野 北部九州の中核
投馬国五万戸 出雲   中国地方の中核
邪馬台国七万戸大和   畿内地域の中核
で並列の大国として素直に理解できる これだけで畿内説が正しいって分かるんだがね<

「南≠東」などに拠って、×。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:08:09.69
>>649
>>関西全域+周辺地域でないと足らないな。<

>いや?そんなことないよ?
「大和+河内〜環大阪湾」の「畿内第V様式土器を共通に使う範囲」でいい
これで奴国二万戸の3.5倍の大国として十分だ <

「南≠東」などに拠って、始めから×だ。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:12:47.48
>>651
>こっちは漢籍古典の原文を典拠として示して、もっとも妥当な解釈を論拠として提示している
反論したかったら、同じレベルの具体的な根拠とともに具体的な反論をしないと無意味
いつも言ってるだろ? 反論したかったら「具体的な指摘」がいるってw
争いは同じレベルの間にしか存在しないって言うけど
九州説のレベルが低すぎて論争にならないんだよなww <

「南≠東」という具体的な反論で、類スレ主やスレ主らの大和説は、×だ。
大和説は、レベルが低すぎて論争にならない。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:22:39.70
南を東に変更出来る畿内説が一番説得力あるに決まってるだろ!正しく読まなきゃ行けない九州説なんて論外ww
普通に考えたら九州とか有り得ないからww
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:24:37.45
>>523
天皇印は御璽。
その国璽は阿波国の国司の印。
鍵も同じ。阿波国の蔵のこと。
ざんね〜ん。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:37:07.68
本当に・・・・・・まだ言ってるの?

ほとんど同じような事(コンセプト)が書いてあったり、
とある軍人などのwikiを読んでみて、釣りを〜、馬に〜。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:45:09.49
>>546
そうだよな
邪馬台国は畿内で確定してるから当然魏志倭人伝の南は東として十分な根拠がある
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:46:23.48
実在する人物の話なんだけど、何なんだろう。
浦島太郎(仮名)と同じ・・・?


暗黙の了解?


義理の親子、義理の兄弟の関係みたいな話なのかな?
酒、盃とか?
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:53:44.68
しゅてんどるふというキャラも、
同じような話だしな、義理の何やらに裏切られたりしたの?
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:58:58.05
『ボーボボ 田ぼ』

某と某が握手をしていたり
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:00:31.82
>>503
コリアは、韓だろ。
韓国は、日本国というのと同じ。
正式には大韓民国。
だから、普通、日本というのと同じ表現にすれば、韓国ではなく韓が適当。
ただ、日本語の場合、韓一字では発音しにくいから、韓国と言い習わしているだけ。
コリア人民である君らは、韓、万歳と言うべき。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:09:48.34
>>529
卑弥呼は、筑後山門。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:10:36.57
それにしても数年前の陰謀スレだよ、
シュテンドルフの話をしていたのかな




生きてたのか!もう私ではない、だっつーの!
そういうことなんだっつーの!何度も言いました!
本当にそう、だっつーの!


という書き込み
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:12:09.88
>>652
>「東→南」に、例外的に方角を書き換えることで<

陳寿は、「例外的に書き換え」ないから、×。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:14:47.98
>>654
>途中までは同意だけど、出雲の先の水行十日は丹波まで行くと思う<

「南≠東」などに拠って、×。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:17:02.13
>>656
大和説は、国名しか載ってない傍国三十ヶ国の、
場所や戸数を自由に創作するのが好きだよな
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:17:20.07
本当に何でもいいけど、
人権侵害のような事はするなという話
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:17:44.81
>>514
箸墓は、纏向連合に加盟している各国が人を送って、大人数で築造したのだろうね。
これは、纏向石塚古墳なども同じで、各地から人が派遣されて、築造されたものだろう。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:26:23.11
なぜ>>1このスレに現れたのか?


確実に侵害などに関係しているから
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:27:22.28
つまり、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:29:34.46
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:30:55.25
>>1
九州説でも同じ、〜〜〜〜〜侵害〜〜〜〜〜〜。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:40:55.52
ここは古代の畿内人権問題スレです。。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:47:10.46
>>414
里は、田+土の会意文字であるのはその通り。
ただ、その解釈としては、(集落単位の数え方)は果たしてどうか。
辞典では、(区切りの筋を入れて整理された畑や居住地のこと)とある。
単位は、1里=300歩というように明確な素数で示される。
76m〜77mというようなアバウトな単位はない。
物差しの単位なら、76.5mなどのように一つの数値でなければならない。
始皇帝が命令した(1歩=6尺)も明確な素数である。
6尺〜7尺などという単位そのものが存在せんのだから、始皇帝も命令できんことになる。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:58:19.48
ここは、古代畿内の人権問題スレ、、、
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 16:09:13.21
このスレに限り
知恵比べで畿内説は劣っている
頭の良い畿内説の方が来ないかなーー
手持ち無沙汰だよ
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 16:14:51.23
>>657
>邪馬台国を乗っ取った大和朝廷(天皇家)が卑弥呼の冢(直径150m円墳)を埋め立て、
その上に築いた前方後円墳(後円部直径160m)である。<

「南≠東」であるから、始めから分裂幻覚の妄想であり、×。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 16:20:57.07
畿内説のテンプレはわざとわかりにくくかいてあるとおもう。
詐欺師の話法の典型。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 16:28:14.31
>>658
>「余」という文字を加筆する事は、後代史家が文飾したか転写ミスした可能性があるなww<

「余」のある記載と「余」のない記載の両方が書き分けられているから、
陳寿は、きちんとてん判断して区別して書いており、して転写ミスではないな。

>という以前に、淮南子成立から見れば、陳寿が「後代史家」だww
後代史家である陳寿が、淮南子から引用する際に
「余」という文字を加筆するという文飾をしたか転写ミスした可能性があるなww<

魏志の記載は、淮南子とは、全体としても全く違っているんだから、
文字加筆も転写ミスにもならないな。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 16:30:52.23
>>571
自分のバカさを陰謀説で糊塗
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 16:35:15.38
>>660
>弥生時代後期〜古墳時代前期の大船団の線刻板が出土した袴狭(はかざ)遺跡も、上陸地候補だぬ<

「南≠東」などに拠って始めから×なぬ。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 17:06:02.55
>>569
ならわざわざ来なくていいんじゃ
そんな事にも気づかないとは頭悪いんじゃないの
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 17:25:40.30
>>662
>周髀算経に「1歩=6尺」で書かれた記載は存在しない。

>つ「以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正。
則位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一。
以應周天三百六十五度四分度之一,審定分之,無令有纖微。
分度以定,則正督經緯,而四分之一,合各九十一度十六分度之五,于是圓定而正。」
六尺=一步だよ <

前の円は、里歩系の「歩」のみの記載であり、
後の円は、尺寸系のみでの別の寸法の円の記載であり、
両者が同一の一つ円に関する説明にもなっておらず、
二つの同一円を書くという不自然な事は、書く必要が全くなく、
「1歩=6尺」の根拠にならない。

という事は、この文は、前漢代の「周髀算経の収集」をした筆者が、
元周髀算経の、
周地の上空の「夏至の太陽位置〜北極星」の直径11万9千里の円と同じ大きさの、
「夏至太陽位置〜冬至太陽位置」の11万9千里を直径とした二十八宿の黄道円を、
南側の地面に投影する「倍正南方,以正勾定之」という記述が理解出来ず、
始皇帝の「1歩=6尺」に拠っての二重円を描く、という失敗をしていた事を示す。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 17:26:08.81
>>572
淮南子の裸国と黒歯国
後漢書の1万2千里と会稽東冶乃東が一緒だから
魏志倭人伝の1万2千余里は後世史家のつけ足したもの
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 17:55:32.06
>>547
>その国璽は阿波国の国司の印。

で、阿波国以外の畿内や九州で「国璽」云々の物証を挙げてごらん。  @阿波
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:04:10.97
魏略や魏志倭人伝って実は范曄の編集する前の後漢書
前後漢書の文章を相当引き写しで書いてるのかも知れない
倭は韓の東南、大海の中にあるとか百余国あるとか
交流のあったのは三十国ほどであるとかの前文から
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:15:49.20
>>663
>一寸千里は机上の数字 <

一寸千里は、「測影」と書かれているから、実測値。

>実測されたものなら当時の尺度だと一寸200里となる<

類スレ主が主張する「1尺=8寸」が、周代の周の全地域で使われていたのか?、
の保証がなくて根拠にならず、
谷本計算の太陽仰角からの千里の長さ計算にも何の関係もないない事であり、
前漢代に収集された周髀算経には
「則位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一」
の計算でも1尺=10寸が使われているんだから、
周髀算経の一寸千里に「1尺=8寸」が使われていた、という説は否定される。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:19:04.68
>>580
>漢倭奴国王印
>卑弥呼の親魏倭王印

それは「魏璽」だよ。  
阿波国以外の畿内や九州で「国璽」云々の物証を挙げてごらん。  @阿波
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:21:26.73
>>583
まぁまぁ、  
1尺がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:23:45.99
>>665
万世一系皇国史観の儒教精神で、「南→東」などの嘘をつき続ける大和説
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:33:33.40
魏璽云々の物証がないんじゃあ
阿波は邪馬台国とは言えんなあ
まあ漢倭奴国王印は漢璽なんだろうけど
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:33:52.73
>>584
>阿波で魏璽云々の物証をあげてごらん。

「魏璽」はどこも未発見。
阿波国以外の畿内や九州で「国璽」云々の物証を挙げてごらん。  @阿波 
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:36:45.36
>>587
>魏璽云々の物証がないんじゃあ
>阿波は邪馬台国とは言えんなあ

国璽云々の物証がないんじゃあ
邪馬台国とは言えんなあ   @阿波
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:37:41.92
>>588
魏璽がどこでも未発見なら
阿波も邪馬台国とは言えないな
まあ畿内のどこかにあるだろうけど
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:39:33.78
>>590
国璽云々の物証がないんじゃあ
邪馬台国とは言えんなあ   @阿波
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:41:17.61
>>591
魏志倭人伝には国璽の事なんて何も書いてないもんね
じゃあ逆に国璽がある所は邪馬台国ではないわけだ

国璽云々の物証があるんじゃあ
邪馬台国とは言えんなあ   @畿内
0593日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:41:21.61
倭国(阿波)は物証が大杉。  @阿波
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:44:12.44
>>592
>魏志倭人伝には国璽の事なんて何も書いてないもんね

当たり前。  時代が違う。  歴史のセンス無し。 @阿波
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:47:33.49
>>595
魏志倭人伝に書かれてる時代と違っちゃダメだろう

魏志倭人伝と違う時代なら
阿波は邪馬台国とは言えんなあ
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 18:49:34.26
>>586
万世一系皇国史観の儒教精神で嘘をつき続けてるのは九州説という事は
誰の目にも明らか
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:01:26.70
邪馬台国を指すという
帯方より南1万2千里は元は淮南子に出てくる
架空の世界の果てまでの数字

政治的祭事的理由で
後漢の時代に朝貢のあった倭の極南界で
会稽東冶乃東にあるという想定の倭奴国までの距離とされた

魏志倭人伝はそれを引き継いで
邪馬台国もその位置にあるという体で書かれた書
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:08:36.67
>>668
>久美浜湾も上陸地としてあると思うけれど、
京丹後市の市役所のある平地が当時の丹波の中心地だと思う
そうすると、離湖のある網野(網野銚子山古墳がある)か、
竹野川河口の竹野(神明山古墳がある)の方が候補地として妥当だと思う
開化妃に竹野姫があるのも竹野推しの理由 <

「上陸地」としての話なら、「南≠東」などに拠って×。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:09:42.10
>>594
徳島市国府町府中の式内社 大御和神社は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されています。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)  @阿波
http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/02/03/231418
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:12:04.73
>>596
>魏志倭人伝に書かれてる時代と違っちゃダメだろう

ダメじゃないよ。  倭国(阿波)は7世紀までだからね。  @阿波
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:12:16.89
>>578
国璽を御璽と勘違いした@阿波の邪馬台国は、どこよ。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:13:49.92
>>579
>魏略や魏志倭人伝って実は范曄の編集する前の後漢書
>前後漢書の文章を相当引き写しで書いてるのかも知れない

「范曄の編集する前の後漢書」で何を意図しているかは分からないが
范曄は、陳寿より100年単位で後の人だぞ
後漢朝のさまざまな記録はあっただろうけど

魏志倭人伝や魏略は、共通の原典の存在が想定されているが、
漢書や後漢書ではない
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:17:07.26
>>583
>1尺=8寸=約20センチの周時代の物差しが見つかってる

それは
1尺(周尺)=8寸(秦漢尺の寸)=約20センチ(現代メートル法)
だと思うよ
0607日本@名無史さん
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2019/01/16(水) 19:18:13.59
>>677
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない <

魏志と魏略は、「満二千余里」と「余」を付けた近似値として書いており、
内容的にも、淮南子を全く踏襲していない。
後漢書は、後代の自己解釈に拠る書き換え人間であるから、
「萬二千里」として魏志の記載から「余」を外して断定してしまっている。
0609日本@名無史さん
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2019/01/16(水) 19:19:17.90
>>585
>そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波

スレの浪費だから、この書き込みはやめな
情報量ゼロだし無意味

そんなに暇だったら、1日10コメくらいでいいから、こっちを埋めて

邪馬台国纒向説 part4  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541980709/
邪馬台国畿内説 避難所  http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/
邪馬台国畿内説 part1  http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/
韓国政府が邪馬台国畿内説を応援する理由  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1544415658/
邪馬台国畿内説 part440  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541819761/
考古学者の邪馬台国畿内説離れは集団心理なのか  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1542857513/
邪馬台国畿内説 part4001  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542985752/
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542631006/
邪馬台国畿内説 箸休め  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540975350/
邪馬台国纏向説が破綻した理由part3  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541036706/
邪馬台国畿内説の角度  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1543928789
邪馬台国畿内説 part1  http://mao.5ch.net/test/read.cgi/management/1543927675/
邪馬台国畿内説 part1  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/soc/1543922864/
邪馬台国畿内説が破綻した理由 part1  http://mao.5ch.net/test/read.cgi/lifework/1543919660/
邪馬台国畿内説 part1  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:21:02.25
>>604
>国璽を御璽と勘違いした

倭国(阿波)の国璽が御璽。


>@阿波の邪馬台国は、どこよ。

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡   @阿波
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:23:07.69
カス遺跡ばっか
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:23:31.12
>>609

スレの浪費だから、この書き込みはやめな
情報量ゼロだし無意味               @阿波
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:28:40.01
>>680
>>薜原朝常嗣が、唐会要の倭国伝に名前が載っている、という事が史料事実だ。
どういう事情で倭国使を名乗ったのか?は不明だ。<

>その「史料事実」から一直線に「倭国=日本」という結論が出てるわけですが<

唐会要には(倭國伝以外に)日本国伝が別にあって、
そこにも日本国使の名前が入っているのに、薜原朝常嗣の事が書かれていない、
という事は、薜原朝常嗣は、
自分は(日本国使ではなく)倭国使だ、と、はっきり唐に名乗った、という事が、
史料事実であり、史料実態だ。
つまり、倭國は薜原朝常嗣の頃までは、尚も実態として存続していた、という事だ。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:31:34.20
>>611
その「カス遺跡」の爪の垢でも煎じて飲むがよろしい。  @阿波
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:32:58.93
>>605
>「范曄の編集する前の後漢書」で何を意図しているかは分からないが

後漢と倭奴国の交流記録の事
范曄の編集した後漢書の原典言うならば原後漢書

現行の後漢書にも倭奴国が
建武中元二年(57)、倭の奴国が貢を奉り朝賀したと
引用があるので范曄が編集した後漢書には
1世紀ごろの倭奴国と後漢の交流記録
原後漢書の記述が含まれているのは明らか

そして今の後漢書は前文や邪馬台国の記述から
魏志倭人伝をベースに書かれたとされているが
実は魏略、魏志倭人伝が逆に1世紀から存在した
原後漢書の倭奴国と後漢の交流であり倭国の情報、
東南大海の中にあるとか百余国あるとか
30カ国と使者の往来があるとか
国境より南1万2千里にあるとか会稽東冶乃東にあるとか
文化風俗をかなりの部分そのまま引き写して書かれたのではないかと
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:36:00.88
>>606
1寸はどの時代でも約2.3cmでそんなに変わらない
1尺は違って周の時代は8寸相当
漢の時代で10寸相当
証拠に周の時代の1尺20cm、漢の時代の1尺23cmの
モノサシがそれぞれ見つかっている
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:44:46.39
>>607
魏志倭人伝にも裸国とか黒歯国とか
淮南子に出てくる国がそっくりそのまま出てくるよ
そして淮南子では1万2千里が世界の果て
後漢書は倭の極南界倭奴国までの距離
魏志倭人伝の1万2千余里は1万2千里に余を
後代史家がつけ足した
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:46:37.44
>>684
>九州倭国なんてのがあって大和朝廷が併合したなら記録残るわな
その立役者だったら政権内の地位も強力になるし<

旧唐書と唐会要と新唐書が、記録を残した。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:49:46.50
>>616
まぁまぁ、  
1尺がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:53:43.83
>>581
>一寸千里は、「測影」と書かれているから、実測値。

じや、ホラーラノベに「ゾンビが襲ってきて首都壊滅」と書いてあったら史実なのか?
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:54:20.95
>>688
>漢の時代の概念的空想的数字だった1万2千里が
魏の時代に短里が使われ出してから測ったらほぼピタリ一致したというのは
少し出来過ぎじゃないか<

おそらく、周代から、
周の西方の極は長里で記載されていたが、東方の極は、短里で記録されていて、
漢代の淮南子は、それを踏襲した。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 19:58:56.41
>>622
もうちっとマジメにやれやザラコク
同じ時代で何で西が長里で東が短里なんだよ
辻褄合わせにしても酷過ぎるぞ
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:00:53.84
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:01:26.58
そもそも周の時代は漢の時代と領土が違うから
短里で国境から東1万2千里を測ったら
恐らく日本まで届かないんじゃ
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:02:18.92
>>690
>九州の前方後円墳の分布状況から見て、
九州倭国など存在しないってことは誰にでもわかりそうなもんだが…<

九州倭国の前方後円墳の始まりは那珂八幡などの275年頃であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の東征将軍らが、魏の薄葬令に関係なく、
支配する事を、毛人や出雲銅鐸部族に示しを付けるために、墓守り人にして、
3世紀末頃以後に、巨大墓を造らせた。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:03:40.88
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:04:01.86
>>625
まぁまぁ、  
短里や東1万2千里がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:06:14.28
現代でも秘境県にはめったに人は行かない
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:06:40.85
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国や朝鮮から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:09:50.57
>>628
魏志倭人伝に書かれてない国璽があるから
阿波は邪馬台国とは言えんなあ
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:12:25.77
>>629
>現代でも秘境県にはめったに人は行かない

そのめったに人が行かない「秘境県」に魏の使いが来たんだとさ。  @阿波
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:23:34.82
631日本@名無史さん2019/01/16(水) 20:09:50.57
>魏志倭人伝に書かれてない国璽があるから
>阿波は邪馬台国とは言えんなあ

倭国(阿波)は7世紀までだからなぁ。 
邪馬台国は3世紀だからなぁ。  @阿波
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:25:26.88
>>616
>1寸はどの時代でも約2.3cmでそんなに変わらない

説文解字注によると、周代でも1尺は10寸だったと考えるのが
妥当ということになっている
23センチの秦漢尺だと、1寸は23ミリで、
20センチの西周尺だと、1寸は20ミリで、3ミリ差
これをそんなに変わらないと考えるかどうかは、見方しだいだけどね
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:28:01.47
>>696
>被葬者が継体天皇に謀反を起こした筑紫君磐井とほぼ確実に特定できる八女市の岩戸山古墳は前方後円墳だよw<

前方後円墳的な墓の習性を強く持っていたのは、伊都国系の天孫族や阿毎氏系部族であり、
だから、一大率として、東征将軍にもなったりした、
伊都国系の支配地域の近畿や日向にも前方後円墳が盛んになり、
卑弥呼の後の東海姫氏國では、それほど盛んにはならなかった。
そして、磐井に関しては、
東海姫氏國の倭王武の次の倭国王哲で、突然倭国王ではなくなって在野しており、
その代わりに、(阿毎氏系の)磐井が出現して、高良大社に居して岩戸山を寿陵し、
をれを、同じ阿毎氏系のヲホドが倒して、九州倭国の王家に参加するようになり、
その合同王朝からタリシホコらが出て、白村江で大敗した。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:29:28.03
そういや倭迹迹日百襲姫命、箸墓についてだが平安時代の時点で朝廷は特に重視してないな

そもそもこの人物の事跡は日本書紀にしかないわけで
その日本書紀の記載についても後の時代の観点で書かれた形跡がある

卑弥呼議論はともかくとしてその人物像についてはかなり疑問点の多い存在だと言えるな
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:31:09.51
>>702
このように
何も論証しないのが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:32:33.44
>>637
ザラコクよ
お前またウソついてるだろ
そういう病気なのか?
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:38:48.80
>>625
>そもそも周の時代は漢の時代と領土が違うから
>短里で国境から東1万2千里を測ったら
>恐らく日本まで届かないんじゃ

淮南子の世界観だと、東西南北中央の五極がそれぞれ萬二千里で
地の世界全体(天円地方の地方)が、3万6千里の方形

その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える

また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元

倭国(本土)上陸までが万里というのも、漢土方万里との対比と考えれば分かりやすい
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:40:38.58
和歌の父母

安積山【アサカヤマ】 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

安積と書いてアサカと読む、興味深い
堺の方違神社の近くに浅香という地名が残る

伊勢のサルタヒコを祀る阿射加神社、大阿坂、小阿坂

上町台地〜泉北丘陵
北から
大阪オサカ、浅香アサカ、小阪コサカと並んでいる
伊勢と大阪湾の類似性が興味深い

奈良の明日香アスカ
アサカと何か関係があるのだろうか?それとも単なるパクリか?
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:42:42.79
>>613
>つまり、倭國は薜原朝常嗣の頃までは、尚も実態として存続していた、という事だ。

つまり、白村江の敗戦(663年)で九州倭国がなくなったというこれまでの
デタラメは放棄するんだな?
薜原朝常嗣(藤原常嗣)の遣唐使は838年だぞww

九州説は常に矛盾だらけ
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:44:44.11
Present Emperor Akihito:

Male Gene (Y-chromosome): 100% Japanese (100% same as Emperor Jinmu)

Other genes: almost 100% Japanese, and 0.000000000000000000000017% Korean.

Mitochondoria-DNA: 100% Japanese

I suppose you could say the present Japanese Emperor Akihito has some Korean blood….whatever that means…...
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:45:20.63
サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波、咋

独立神の国底立神、国常立神、阿波咋を連想する
どういう意味があるのだろうか?
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:48:57.10
>>706
>会稽東治は現在の福建省福州市 <

書陵部本の「王朗の東治」は、張元済に否定されており、
だから、会稽東治は、会稽の東方の揚子江河口〜揚州の海岸付近になる。

>その東は沖縄や台湾の辺り
帯方より南1万2千里はその地点と書かれているから
それで換算すると1里140m
当時の魏里1里約430mとは明らかに齟齬があるので
1万2千里は実測された数値ではない<

「その東は沖縄や台湾の辺率」というのが、インチキ騙し。

>全て現在でも確かめられる史料に基づいてるから循環論法じゃないね<

「その東は沖縄や台湾の辺り」というのが結論先にありきの循環論法。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:55:11.67
>>712
>纏向遺跡や箸墓の時期を4世紀からとするのは、モグリだけだろう。
3世紀と判断する主力は、土器だ。 喪もC14などは、その土器編年の補完的な年代観。<

大和の庄内の最も古い石塚が、撥型前方後円墳であるために、
卑弥呼の冢よりも、那珂八幡の「くびれ部彎曲の前方後円墳」よりも後になり、
3世紀末だ。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:55:21.81
>>634
まあ色々ややこしくなってるけれど
俺は漢代と比べて周の1尺は8寸相当の20センチという意味で使っている
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:00:35.57
>>713
>>ダメ。則天の前も後も、書き分けられている。<

>書き分けられているって証拠は? ひとことも理由言わずにダメダメ言っててもダメでしょ<

唐会要の倭国伝と日本国伝を転写すればよい事。
しかし、それをやったら、また5chに×にされて、
面倒だから、パスね。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:06:08.06
>>644
魏志倭人伝の会稽東「治」乃東は後漢書の会稽東「冶」乃東の誤りというのが定説
福建省福州市辺りでその東方向は台湾や沖縄
これは誰でも確かめられる事実

そもそも九州説のいうさらに北に位置したという
会稽東「治」県が存在したか怪しい
九州説はウソばかりつくから
これも誰でも確かめられる事実
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:07:23.75
>>714
>誰かがすでに念入りに述べたように、1万2千余里は(遠いところ)の代名詞的里数。
その代名詞を地図距離で換算しても、何の意味もないのになあ〜。
腹減った、飯食ぉ〜。<

この男もまだ分からないアホであるらしい。
代名詞的里数では「萬二千里」であるのであり、
「萬二千余里」のような「余」は付かない、と言っているのであり、
「余」のある「萬二千余里」は、魏志や魏略が記録したように、
魏使らの記録データからの「推論的近似値」表現。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:12:23.22
>>717
>倭人が教えた日数距離を中国人が里数に換算して理解できていたということは、<

魏の役人たちは、「換算」していない。

>中国人にも水行日数距離の慣行があり、それを里数に換算して理解していたということ。<

証拠がない。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:14:02.93
追い詰められてるね畿内説
言い訳がどんどん稚拙になっていく
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:15:20.83
>>648
この会稽東治が会稽東冶の誤りであることは、テンプレ主が詳しい。
会稽東治(冶)は、紹興市あたりから福州市あたりまでの南北の範囲を指していて、その東に邪馬台国があるはずだ、というのが倭人伝の記述であるとするテンプレ主の考えは、珍しく正しい。
しかし、邪馬台国が大和でないことは明白であるので、テンプレ主は邪馬台国大和説の主張を取り下げるのがよい。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:16:31.66
>>721
>北部九州の博多が大和に帰服したのは、3世紀中頃<

九州倭国が大和日本国に併合吸収継承されたのは、白村江の後の701年頃。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:26:48.44
>>651
それは稚拙な頭の九州説爺さんが抱いた妄想だろう
その証拠に具体的な指摘がない
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:30:36.91
>>647
>唐会要の倭国伝と日本国伝を転写すればよい事。

おいおい
それって後世の歴史家がやらかした
「自己解釈」wによる書き換えの典型だろ
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:31:40.92
批判にオウム返ししかできないのが畿内説
いつもの論点ずらし
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:34:51.56
>>730
>纏向政権は、北部九州の倭國を併合した。<

これ×。
纏向政権は、
九州倭国から別れた別種の旧小国の附庸國であり、
九州倭國の「東征毛人五十五億」の中の一国の、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であり、
東征将軍らのお手伝いをして、墓も一杯造った国。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:35:22.43
>>649
>「余」のある「萬二千余里」は、魏志や魏略が記録したように、
>魏使らの記録データからの「推論的近似値」表現。

それはザラコクが思いつきでテキトーに言い張ってる珍説で、なんの証拠もないのと違うか?
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:36:13.39
>>732
この貼り付けには、反論済み。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:37:22.71
>>652
会稽東冶は福建省福州市辺り
その東方向は台湾や沖縄
そこが邪馬台国ではない事は明白で
魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国を指しては居ない
すると考古物証で見て畿内で確定
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:37:43.61
>>657
はーぁい

なんの証拠もなく言い張りマイド乙です
みんな論破された過去のクズ説でーす
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:42:05.74
>>659
「南≠東」などに拠って×
とか
お経となえるのって
もちろん反論じゃないからね
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:43:17.47
もうこのキチガイの連呼にイチイチ付き合うなよ
スレが腐る

畿内の話をするスレだろうが
相手してる奴もいい加減にしろよ
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:45:50.84
>>649
魏略、魏志倭人伝の1万2千余里の余は後世史家の付け足し
淮南子で1万2千里
後漢書でも1万2千里
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:46:31.61
>>738
>纏向編年
布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土している。
朝鮮の三国時代の陶質土器は瓦質土器よりも高温での焼成が可能となったもので、慶尚南北道、新羅・加耶地域のものが日本列島に流入した。
地域性が発現する前のほぼ4世紀の慶尚南北道の「古式陶質土器」は馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、馬韓・百済の土器と区別するために,
武末純一がこれを古式新羅加耶土器と呼ぶことを提唱した。
その後5世紀初頭ごろ、古式新羅加耶土器は地域性が明確になり、新羅土器と加耶土器が分立するようになる。
従って、古式新羅伽耶陶質土器はほぼ4世紀のものを指すので、石野博信らの布留0式土器が3世紀後半であるとの主張とは合わない。<

成程。
関川さんの話も聞いてみたいね。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:49:30.52
>>664
畿内説同士は邪馬台国は畿内で決まりと結論出てて
特に議論になる事はないよ
九州説がおかしな議論を吹っかけてくるから仕方なく
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:56:26.79
>>746
>この布留0式土器が4世紀のものだという説が定説となっていないから、
現在も布留0式土器出土の箸墓が3世紀後半として位置づけられているわけ<

大和の庄内の一番の古い石塚が撥型前方後円墳で3世紀末であり、
ホケノが、有棺有槨の庄内〜布留でで3世紀末以後であるから、
庄内がなくて布留の箸墓は、どうしても4世紀になる。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:01:56.62
邪馬台国はヤマト国
他の畿内は関係ない
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:02:28.44
>>747
>>纒向遺跡にはそのような分化がなく<

>ないって証拠は? ただ言い張るだけ? これだから九州説はww<

「ある」って証拠は?。
ただ、ヘイトスピーチのような反論した、って言い張るだけ?。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
これだから、・・・・。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:04:50.57
邪馬台国は広域連合国
3〜4世紀の前方後円墳の散見される畿内一帯だろう
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:08:34.63
>>670
>「ある」って証拠は?。

出す必要がない
「ない」って主張するひとが証拠出せないなら
その主張が死ぬだけ
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:11:41.48
>>669
という理由は?

九州説は常に理由が無いな
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:13:33.57
>>671
那珂八幡や神門古墳のような纏向型とほぼ同時期の古墳はどう判断するのか聞きたい
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:14:50.27
>>666
>関川さんの話も聞いてみたいね。

聞けば?



価値ないと保証するがな
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:15:55.54
>>674
畿内からの入植者が作ったバリエーションだろ
それが何か?
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:19:33.04
>>676
中間地域に無く突然遠隔地に現れる状態について聞きたい
当時の航海術なら沿岸航海が基本だから入植者が移動するならもっと近くから順番に現れるはず
ところが唐突に離れた場所に現れる
その上、祭祀と言うのはその国の重要な権力基盤をなすものでそれがいきなり遥か遠くの地域の規格に合わせるのは何故なのか
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:20:49.13
>>676
>畿内からの入植者が作ったバリエーションだろ

倭国(阿波)のパクリかね?  @阿波
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:23:29.91
>>677
「東阿波型土器」も同じ事だよ。  @阿波
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:24:31.07
>>679
つまり邪馬台国の認識は箸墓後の定型化後と理解してると言う事で良いのかな
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:25:54.02
>>677
その辺りは一大卒によって邪馬台国に監視されてたから
その地方役人の墓
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:26:17.72
畿内の邪馬台国と言っても人によって認識が違うからな

色んな畿内の説を話したい
異常者の九州説なんて相手してもしょうがない
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:28:13.48
まそ鏡、照るべき月を、白栲(しろたへ)の、雲か隠せる、天(あま)つ霧かも

照るはずの月を、白い雲が隠しているのでしょうか。それとも天の霧が隠しているのでしょうか。

「まそ鏡」は、澄んだ立派な鏡というような意味です。この歌では、月を導く枕詞(まくらことば)として使われています。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:29:06.38
>>683
>畿内の邪馬台国と言っても人によって認識が違うからな

まさに、そんなのを「トンデモ説」と言うんだよ。  @阿波
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:29:19.41
>>682
庄内土器が広域に広まる九州はともかくとして、神門古墳周辺は東海系の土器が主流で畿内系の土器は希薄
やはり東国に突然畿内式の古墳が現れる状況は謎
その辺の動きの解明が初期邪馬台国の発展の重要な部分だと思う
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:30:10.82
>>681
前方後円墳はわかってる所でホケノが最古
3世紀中葉
副葬品に方格規矩四神鏡はあっても
239年伝来の三角縁神獣鏡がないから恐らくはそれ以前
それから考えると邪馬台国は3世紀前半頃には成立していたはず
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:33:04.53
実際九州の那珂八幡についても途中の瀬戸内海ではなく九州にいきなり現れる
他勢力の勢力圏を素通りして九州を影響下に入れてる事になる
途中のクニグニはなぜそんな動きを許したのか
その辺も分からない
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:34:08.82
>>677
中間地域に無く突然遠隔地に現れる状態って
具体的には何のこと?
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:34:23.00
>>686
>庄内土器が広域に広まる九州はともかくとして、神門古墳周辺は東海系の土器が主流で畿内系の土器は希薄

だから、「忌部はん」 が持ち込んだ「東阿波型土器」と、何度言えばw  


>やはり東国に突然畿内式の古墳が現れる状況は謎

だから、「忌部はん」が持ち込んだ「東阿波型土器」と、何度言えばw   @阿波
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:35:41.96
>>686
文献的には魏志倭人伝にある倭国大乱
これが西暦160年〜180年頃とあるので
いわゆる神武が九州から畿内へ入った神武東征と思ってるけど
しかしその後も争いが続いたそうで
卑弥呼を立ててやっと争いが鎮まったとある
これが3世紀前半頃じゃない
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:36:14.31
>>688
>途中のクニグニはなぜそんな動きを許したのか
>その辺も分からない

だから、機内は無関係と、何度言えばw  @阿波
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:38:22.91
>>687
卑弥呼の前から邪馬台国があったと言う事か
ホケノ以前の墳墓がその前段階と言う認識かな
それにしてもやはり纏向型の突然の拡散の謎は残るな
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:40:20.64
>>650
隋書流求国伝にも「水行五日」の記述がある。
流求国へ行くのに船で五日の行程だ、というもの。
船で一日の行程距離が定まっていなければ、意味のない記述だ。
一日の行程距離が定まっていて初めて意味のある記述になる。
なので、水行一日はどれだけの距離だとの概念があったということになる。
では、どうしてその一日の行程距離は、どうして概念化できたのか。
簡単な話だ。
海岸を朝何時に出発して午後何時に着岸する。
その一日の行程を陸上距離で表せばよい。
その陸上距離が例えば十里ならば、船の一日の行程は十里という概念が定まる。
つまり、そのような通年があったればこそ、水行十日と書いてあれば概ねこれだけの距離だと判断できるということだ。
一度、君もボート漕いで、水行一日してみたまへ。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:40:29.00
>>689
そのままの意味
纏向型の再初期段階の物は畿内と九州、関東にいきなり現れる
中間の東海にも瀬戸内海にもないのに突然出現する
その中間地点には別の墳墓や祭祀が存在していて「見つかってないだけ」と言う状態でもない

当時の人の移動を考えるとかなり不思議な広まり方をしてる
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:41:38.60
>>693
>ホケノ以前の墳墓がその前段階と言う認識かな

当然。  萩原墳丘墓がホケノの原型だよ。  @阿波
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:42:28.49
>>693
初代天皇は神武だからな
卑弥呼はそれから10代くらい後だったか
あと古墳を全部詳しく調べたわけではないけれど
三世紀の前方後円墳は畿内にしかなかったはず
全国に拡散したとしてもそんなに突発的じゃないと思う
100年〜200年くらいかけて広まっていったと
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:44:17.73
>>695
>纏向型の再初期段階の物は畿内と九州、関東にいきなり現れる

だから、「忌部はん」の海人族の仕業 だと、何度言えばw  @阿波
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:46:25.88
九州は畿内と繋がりが深いよ
伊都国に一大卒を置いて周囲を監視してたくらいだし
初代天皇の出発点は九州と記紀にもあるからな
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:47:41.13
>>697
>三世紀の前方後円墳は畿内にしかなかったはず

卑弥呼の三世紀に前方後円墳など有る訳ないよ。  @阿波
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:48:44.64
>>695
>当時の人の移動を考えるとかなり不思議な広まり方をしてる

逆に考えるんだよ
当時の人の移動がそうだった
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:49:26.46
>>699
>九州は畿内と繋がりが深いよ

そりゃ、ともに倭国(阿波)を発った「忌部はん」なんだから。  @阿波
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:49:48.87
>>691>>697
なるほどね
神武東征を史実として捉えているわけか
そこを邪馬台国の起点として見てると
ただ九州から広まる文化が弥生時代を通して希薄で考古学的に東征がほぼ成立しえない点はどう考えているのか知りたい
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:51:39.41
>>701
>当時の人の移動がそうだった

それは、倭国(阿波)の海人族の航海術によるもの。  @阿波
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:53:04.86
>>703
ホケノで中国鏡の副葬があるから
それで3世紀中葉の卑弥呼の時代には
九州と畿内の文化的繋がりがすでにあったと見ているけれど
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:53:42.77
>>699
神武天皇の故地は日向で北部九州の扱いはかなり悪い
むしろ冷遇された外様的存在
だがここに最古級の古墳が現れてる
日向に古墳が現れるのは定型化後なので東征神話にも齟齬が出る

単純に九州と神武東征を結び付けられない点でもある
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:54:50.81
>>704
卑弥呼の時代は円墳。  @阿波
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:56:16.26
>>764
つまり短里説はサギ
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:59:02.60
>>688
別に飛び越えたわけでもない。
岡山には3世紀末頃の浦間茶臼山古墳、4世紀前半の赤峪古墳などがある。
那珂八幡と同時期だね。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:00:53.83
>>710
>岡山には3世紀末頃の浦間茶臼山古墳、4世紀前半の赤峪古墳などがある。

吉備忌部だね。  @阿波
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:01:11.59
>>707
実は九州北部は宮城県高天原出身の天皇の祖先によって
107年頃に征服された可能性を考えている

後漢書に西暦57年九州北部奴国が朝貢して
漢倭奴国王印を授けたとあり
そしてその後107年倭国王師升が再び漢に生口160人を献じ朝貢したとある

つまり107年頃に奴国は師升に攻められ征服され
かろうじて金印は奪われるのを避けるため志賀島に隠すように埋められた

そして伊都国には周辺監視のため一大卒が置かれ
師升の子孫が東へ行ってもずっと監視下に置かれる事になった
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:04:19.43
>>712
>かろうじて金印は奪われるのを避けるため志賀島に隠すように埋められた

いかにも胡散臭い話と金印。  @阿波
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:06:26.98
>>704
その時期、卑弥呼は死んで久留米の祇園山古墳に葬られていた。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:07:24.43
ただそんなに九州北部の旧勢力も酷い扱いを受けたわけではなくて
倭奴国の旧王家は和邇氏となって有力豪族として
天皇家に遣えたと思っているけど
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:07:26.90
>>712
>かろうじて金印は奪われるのを避けるため志賀島に隠すように埋められた

そして、埋めたまま、ほったらかしにして、行方不明にするお粗末さ。  @阿波
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:07:57.87
>>706
生活道具である土器が皆無と言っていいレベルで見つからない
これは人、文化が根本的な部分から移動が起こってない事を示している
墓制も九州では地下式墓が基本でその後の大型墳丘墓のようなものは古墳が突然導入されるまでほぼ存在しない
畿内では方形周溝墓が流行していて九州の墓制と違う形を維持している
鏡にしても弥生時代後期には九州の鏡と違う系統の鏡が作られ配布されていて同一線上に無い
神武東征のようなストーリーを成立させる要素がないとしか言いようがない
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:09:08.33
どうでもいいが
高天原は上町台地〜泉北丘陵
だろう
海に面した高台

大中臣氏の歌

たづのすむ沢べの蘆の下根とけ汀もえいづる春は来にけり

鶴の絵を見て読んだ句だが、大阪湾の汀みぎわ、上町台地〜泉北丘陵に春が来たと暗に意味しているかもね
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:10:13.20
>>683
妄想癖の大和説者を相手にしてもなあ。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:13:12.35
>>710
纏向型の最初期型と他の古墳の時間軸はかなりの時間的ずれがある
50年から100年くらいは違う
瀬戸内海、東海に古墳が出現するのは定型化後なのでやはりミッシングリンク的な展開をしてる
仮に那珂八幡をもっと新しい物としても、もっと不自然な神門古墳がやはりおかしなことになる
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:14:48.44
>>715
えっ、倭奴国の王は安曇の先祖では。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:17:01.43
>>717
確か九州北部に弥生終末期に墳丘墓はあったよ
平原とか
鏡は3世紀の畿内から見つかるのは三角縁神獣鏡が多かったはず
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:18:42.87
四国の東半分ぐらいと畿内が大和の直轄的な基盤だったと思う。
卑弥呼という存在がいたのは崇神天皇前後あたりの時代でしょう。
官にイクメとかミマジョウとかミマクヮキとかナカテイとかモロじゃん。

崇神天皇の四道征伐からの〜神功皇后の熊襲征伐。
で、国内がほぼ纏まったので、三韓征伐に進んだ。



問題は卑弥呼が皇族なのか、豪族なのか、そうじゃないのかってこと。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:20:29.65
>>722
さあね
単なる推察だから何とも

ただ和邇氏は昔ワニの国という国の王で
本家に家宝の銅剣があるそうだがそれは古代中国の物だったそうだ
後漢に朝貢した時貰ったものかもね
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:20:41.93
>>770
>それがな、九州説によると、古墳時代も九州倭国が存続していて
倭国を代表していたことになっているんだ
その倭国の代表政権たる九州倭国の古墳時代の王墓はどこにあるんでしょうね?って話<

姫氏の卑弥呼の墓は祇園山で、阿毎氏系の壹與は平原だが、
平原の後の那珂八幡〜一貴山銚子塚頃は、
福岡平野〜糸島付近の阿毎氏の前方後円墳墓が中心になり、
317年頃の八女〜久留米への姫氏の東海姫氏國の遷宮の後は、
中国の薄葬の影響でか?、墓の形や大きさよりも、
横穴式石室や装飾古墳のような内容充実に変わり、
阿毎氏の磐井でまた前方後円墳になったが、ヲホドに倒されてしまった。

大和なんて、白村江までずっと倭国辺境の一地方だよw 。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:24:18.66
>>721
神門5号墳は3世紀中葉前後の築造とされている。
那珂八幡より半世紀ほど早いということであって、不自然でもないし問題でもない。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:26:29.02
>>717
土器が見つからないとはどういう事かな
征服地にも職人が居るから
文献にあるように2世紀後半〜3世紀前半頃に
神武が機内を征服しても九州の土器は出ないと思うな
その後畿内が最新式土器の発信地になったようだけど
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:29:16.53
>>725
倭邇氏は、日本海側から畿内に進出した渡来系とみられているけどね。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:30:08.97
>>772
>で、その存続していた九州倭国の王家の墓は、どこにあるんだい?ww
卑弥呼系でも、磐井系でもどっちでもいいけどさww <

姫氏の卑弥呼は久留米の祇園山で、
阿毎氏の壹與から福岡平野周辺〜糸島に出来たが、
317年の八女〜久留米の姫氏への遷宮の後への東海姫氏國は、
筑後から肥後が中心になった。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:30:35.54
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも

 群れで水面を泳ぎ回るカモ類の隙間に、時々現れてはさっと消えてしまう、小さなカイツブリの姿も見られます。
いつの間にか現れ、気がつくと消えて、別のところにまた現れ、まるで忍者のように群れの隙間に出没します。
潜ってから数十秒以上は出てきませんし、思わぬところに浮いてきてはすぐ潜ってしまいますから、じっくりと観察するのはとても大変です。
「にほとり(におとり)」は、カイツブリの古名です。

にほ鳥は鳰鳥
【鳰の海】は【琵琶湖】の別名
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:33:34.60
>>712
日向と北部九州の土器は別系統の物が維持されている
日向は瀬戸内海や山陰の影響の方が強い
100年ごろなら九州はまだまだ福岡周辺の勢力が強い存在感を持っている
その後の時代にしても日向は中心地と呼べるような物は無く他地域に影響を及ぼしている様子がない
むしろ独自性を強める形
日向が北部九州を制していたと言う想定はかなり困難だと思う
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:36:19.87
大津皇子の辞世の句

ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

金烏臨西舎 鼓声催短命 
泉路無賓主 此夕離家向
0735日本@名無史さん
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2019/01/16(水) 23:36:20.63
>>723
平原は方形周溝墓で近畿でもありふれた大きさと規格
方形周溝墓が盛んに作られていた中心地はむしろ近畿
大型墳丘墓に繋がるものでもないよ
三角縁はそれこそ九州に弥生時代を通じて「一枚もない」鏡で畿内が九州と全く別系統の鏡を用いている一つの証拠となっている
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:38:56.02
>>721

神門古墳は4号が纒向型、その前の5号はいちじく型で
近畿・東海・北陸地方の系譜をもつ土器が数多く含まれる
静岡市、神奈川、千葉は卜骨が出る遺跡も多く
千葉は小銅鐸も多い
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:39:15.37
>>728
誰一人連れずに征服し、その征服地に征服元の文化も一切伝わらない征服なんて成立するのかな
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:39:16.52
>>774
>>ダメ。則天の前も後も、書き分けられている。<

>それでいいんだって!
則天時に、倭国の使いが日本国への国号変更を伝えたって、唐会要に書いてあるんだから
そのままじゃないかww <

ダメだ。
九州倭国の「或以倭國自惡其名不雅、改爲日本」があったのは、
釈日本紀に記録の「晋の惠帝」への遣使の時であり、
則天の時に、もう一度、
則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不雅而改之
があったのだ。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:41:55.37
>>733
土器はそんなに被征服のあるなしの証拠になるかねぇ
いずれにしても結局は奴国の最盛期は1世紀
2・3世紀ごろは衰退に向かう
いずれかの段階で日向勢力もしくは畿内勢力
どちらかに支配されたのは明白
記紀や後漢書の文献を統合すれば俺は
2転3転あったかも知れないけれど107年に
宮崎の西都原辺りの天皇祖先が征服したと思っている
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:45:56.04
>>735
三角縁神獣鏡は魏鏡で
卑弥呼が魏から貰ったものだよ
九州でよく見つかるのは漢鏡そして国産鏡
一部三角縁神獣鏡も出てるけど
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:46:48.68
>>770
>それが大体、1日=30里とされているね <

そんな記載は、どこにあるんだ?。
それに、1日30里では、長里でも1日13km位で、大分遅い。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:49:07.61
>>737
記紀によれば苦しい戦いだったそうだから
土器職人は連れてく余裕は無かったんじゃないかな
まあ祭祀的な部分だと銅鏡祭祀かなそれ以前は機内は銅鐸文化だったそうだし
ホケノの副葬品が銅鏡
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:49:23.36
>>778
>緘口令って対中国だけで良いから九州征伐の国内の大手柄を無くす事は出来ないな
成果を上げた奴を粗略に扱ったら政権がもたんだろ <

九州征伐なんてなかったから、×。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:49:46.18
壬申の乱で負けた難波は奈良時代は寂れていた。
弥生時代、古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
それを前提に記紀を読み直すと面白い。
【夜の食国】を治めたのは【月夜見】

聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首

押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の 
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の 
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす 
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥 
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:52:01.09
>>779
>渡海と水行は、きちんと区別されている 混同しているうちはまだまだだな <

渡海は、水行に含まれる。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:52:20.25
しかし久しぶりにこのスレでまともな畿内説の話になった気がするな
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:53:38.69
>>695
神門5号墳は3世紀中葉前後の築造とされていて、ホケノ山と同時期か少し遅れる頃が考えられる。
纏向遺跡の外来系土器のうち、関東系の土器が現れるのは纏向2式の時期から。
纏向2式は210年〜250年とされていて、この時期には石塚古墳などの纏向型古墳がすでに造られている。
纏向型とされる神門5号墳が3世紀中葉前後に作られるのは、時期的には不自然ではない。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 23:59:08.28
>>780
>帰服というか、協力関係であり、祭祀連合だろうね
奴国、投馬国、邪馬台国(+吉備、日向)の協力関係が
倭国の全体構造を規定していたのだろう <

大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
倭国の地方の市を監督する大倭國の国であり、
九州倭国の「東征毛人ン五十五国」の中の一国であり、
九州倭国の附庸國だね。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 00:04:09.61
>>743
当時は、まだ文字記録のない時代だから、九州が騒がなかったら自然に消えて行く。
緘口令だけで十分。
それに、帯方郡の役人の張政は、郡へ帰ってから出世しているようだから、彼はうまく報告したのだろう。
ややこしい外交問題に発展して本国が頭を痛めるような報告をしなかったことだけは確かだ。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 00:16:56.78
畿内説は阿保だと思ったが
馬鹿ばっかりになつた
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 00:24:19.99
畿内にせよ阿波にせよ
四国南岸ルート正解だよ
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 00:52:31.46
>>742
土器職人を連れて行かないことは有り得ない。
煮炊きする甕は、移動する者にとっては割れすい炊飯器。
割れてしまえば、甕炊飯器は役立たずとなるのだから、その場で新しい甕を造らなければならない。
必ず甕造りの職人が同伴していた。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 00:58:29.72
>>743
ダメダメ。
3世紀後半の大和の前方後円墳から鉄器がどんどん出土する理由は、纏向政権が貴重財の独占頒布を行ったから。
博多に輸入される貴重財をなぜ大和で独占頒布できたのか。
理由は簡単だ。
纏向連合政権が博多を制圧して、輸入貴重財を独り占めしたから。
そして、その貴重財を加盟各国へ頒布した。
なぜ、そのようなことを行ったのか。
それが纏向連合政権結成の理由だったから。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 01:02:38.82
>>677
>中間地域に無く突然遠隔地に現れる状態について聞きたい
>当時の航海術なら沿岸航海が基本だから入植者が移動するならもっと近くから順番に現れるはず
>ところが唐突に離れた場所に現れる

前方後円墳は当たり前のことだが「墓」なんだよ
各地の首長が「死なないと」作られない

首長が会盟して、死んだら前方後円墳を作るという合意をする
その合意の時に年かさだった首長から順に死んで前方後円墳を作る

その死ぬ順番は当然に、大和に近い方から海岸沿いに広がっていく形には
ならないのが当たり前
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 01:04:07.90
>>735
大和でも、三角縁神獣鏡が出るのは、3世紀後半からの古墳時代前期だからな。
卑弥呼生前の弥生時代には、大和でも一枚も出ていないよ。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 01:10:40.03
>>721
>瀬戸内海、東海に古墳が出現するのは定型化後なのでやはりミッシングリンク的な展開をしてる

沼津の高尾山古墳は3世紀前半の纒向型(?)前方後方墳だよ
東海地方でも定型化前からかなり大きな古墳が作られている
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 01:11:55.25
>>719
問答無用かよ。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 01:18:46.23
>>742
>土器職人は連れてく余裕は無かったんじゃないかな

神武東征で
於是、天皇甚ス、乃以此埴、造作八十平瓮・天手抉八十枚手抉、此云多衢餌離嚴瓮、
而陟于丹生川上、用祭天~地祇。
とあるから、土器作ってるよ
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 02:44:36.98
須恵器は高温で焼くから専門家が必要だもんな
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 04:39:01.22
>>738

>釈日本紀に記録の「晋の惠帝」への遣使の時であり、

ダメだ。
唯一の情報源である釈日本紀に「怪しい情報」と書いてあるんだからね。
そんな話に依存すれば自分の説が怪しいものになるだけだ。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 05:54:29.52
>>760
庄内期ころから規格性が強くなってて祭祀用の精製品も目立つので専門職が発生してると考えられてる
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 06:22:28.94
>>744
>弥生時代、古代の難波はどういう場所だったのか?


飛鳥時代に宮が設置された「前期難波大隈宮」は香川県さぬき市津田。「後期難波宮」は奈良時代(大阪市)。

「前期藤原の宮」は持統天皇(麻植郡鴨島)時代。    「後期藤原京」は文武天皇(奈良)時代。

奈良時代に始まりは、文武天皇の藤原京から。  @阿波
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 06:34:07.43
>>757
>沼津の高尾山古墳は3世紀前半の纒向型(?)前方後方墳だよ

静岡県沼津市の「高尾山古墳」は、「蛇紋岩製勾玉」や「水銀朱」から、倭国(阿波)を発った東海「忌部はん」のお墓に決定済み。  @阿波
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 06:47:06.97
>>754
>纏向連合政権が博多を制圧して、輸入貴重財を独り占めしたから。
そして、その貴重財を加盟各国へ頒布した。 <

悔しいのー
纒向から渡来品がほとんど出土しないトンデモ論は悔しのー
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 06:48:29.97
>>781
>そう思うのなら、ザラコクなりの比定地とその間の距離を明確に示して、
詐欺的ではない正しい統計処理をして、推定値(信頼区間)を示せばいい
そして、双方の計算数値が出揃ったら、初めて同じレベルで議論ができる
論争は「同じレベルの間」でしか、できないんだよ<

ダメだよ。
自然や歴史や物理などにおいては殆どすべてが不可知部分であり、
数学的や思想宗教や法学的な「100%絶対断定的な論」というもの自体が 、
始めから「近似」であったに過ぎないのであり、
今回の信頼区間議論も、そのデータ自体に大量の不可知部分が含まれ、
始めから「100%断定的な論理は不可能」なものであり、
それを恣意的な資料処理をし、
「南→東」などの嘘吐き騙し」をしている・・・・類スレ主らとの議論など、
まともに成立する筈もない。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 06:49:24.13
>>766
無知おばかが知らないか、頑なに認めないだけ
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 06:52:44.86
>>767
>ダメだよ。
>自然や歴史や物理などにおいては殆どすべてが不可知部分であり、

つまり、証拠もないのに
人類の常識とか言って断定ばかりしてるザラコクは
思想宗教的な「100%絶対断定的な論」の奴隷だな
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 06:55:54.07
>>740
残念ながら、証拠が無い
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 06:59:52.97
>>783
>>纏向政権は、北部九州の倭國を併合した。 そして、その事実をタブー化した。<

>これが既に論理矛盾してるんだよなw
どこの歴史でも、外部勢力を倒したという征服譚は、誇るべきものであって
隠したりタブー化したりするものではない
記紀も四道将軍、景行天皇、ヤマトタケル、仲哀・神功皇后の征服譚を
誇らしげに書いてるじゃないか 端から、ご都合主義の言い訳でしかないんだよ
大和が小国で九州の邪馬台国を倒したなんていうのはww<

ダメだ。
根本的には、史料の同時代性や客観性や信頼性や確率の高さの問題だ。
魏志倭人伝は、同時代の魏の役人や陳寿の実見的な確率の非常に高い情報からなっており、
書紀は、はるか後代の 政治的宗教的主観的な造作をした半分×書である事が、
はっきりしてしまっている。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:00:35.85
>>770
残念ながら、証拠が有るのは倭国(阿波)だけ。  @阿波
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:06:08.22
>>786
ここからは、また、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らによるオレオレ詐欺や、
麻原や安部らと同じような、口先騙しの説法や、
皇国史観キョクウの・・・・の、
ヘイトスピーチの罵りタイムに入ります。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:12:26.37
>>793
>ということは、もし卑弥呼の冢なら、卑弥呼は吉備の女王だったのか?<

「南≠東」などに拠って、×。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:16:44.98
録画しといたBSTV再度見たけど
石野さんは吉備説に鞍替えしたの?
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:16:53.72
>>794
>吉備の土器は出雲の西谷にも運ばれたからな <

こりゃ、当然逆かもしれない。
特殊器台を使う部族が出雲から吉備や更に大和に、流れていったのかも知れない。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:25:40.08
>>805
>後漢書のほう
現在見れる魏志倭人伝は12世紀の復刻で誤字が多い<

この男も全くのアホなんだね。
後漢書の方も、12世紀の復刻になっている、という事に気が付かない。
また、魏志の「東治」に対する校勘が、
宋明清代の校勘学者は誰も校勘していないから、
全員「東冶」のままで正しい、と本堤していた、
という事にも気が付かない。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:30:03.98
>>811
>では各地の教育委員会がめぼしい場所は皆掘り尽しているのに未だに見つからない卑弥呼の冢がどこにあるのか? <

ほぼ、祇園山。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:31:46.54
「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」。   @阿波
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:35:30.11
>>816
>後漢書の東冶は実際に地名あるからな<

魏志の「東治」は、
現代大和説者や台湾出版社ら以外は、
誰も校勘していないからな。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:41:30.25
>>770
三角縁神獣鏡は魏鏡の証拠で溢れている
景初三年や正始元年と魏の年号の記年
銅出徐州 師出洛陽、徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったと記銘
蛍光X線分析による成分分析で魏・晋鏡と同一成分と判明
洛陽近郊に相当する畑で1面発見
畿内で見つかってる鏡の銘景初三年は
日本書紀、梁書によれば卑弥呼が魏に使いを送った年と出てくる
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:41:55.90
>>818
>>九州説は、個人の自由で史料事実からの帰納的推論をしているから、「大同小異」。<

>機能的に推論して、一意解が得られないなら、それは帰納的推論ではないww
個人の自由で比定地が決まらないならそれはデタラメってことだよ<

不可知部分が99.5%以上である自然や歴史においては、
帰納的確率的な推論を拒否して、「絶対断定」や「一致」を要求する人間の方が、
デタラメで脳がおかしい、って事だよ。

九州説の実態はそんなもんだww
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:44:18.28
>>781
>三角縁神獣鏡は魏鏡の証拠で溢れている

無理。 もはや、ガラパ説   @阿波
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:46:31.63
>>777
12世紀には原本が失われていた魏志倭人伝
前書きにも転写される内に誤字が多くなってきたと書いてある
後漢書には書いてないし12世紀以前の魏志倭人伝を引用した
各史書倭人伝と比べて違ってる字が多いから
現在見られる魏志倭人伝は誤字が多い
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:46:57.96
>>823
>あのーー 東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ
さらに、一寸千里の法で測った帯方郡からの距離は17500里になり、
12000里を遙かに超えて、意味をなさないことから、「会稽東冶」ではない
会稽東治を浙江省紹興市とすると、帯方郡はそこから12000里北になり、
黄海北道周辺が正しいことを示している
ソウルや広州はあてはまらない <

成程。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:48:55.20
>>783
三角縁神獣鏡が魏鏡じゃないという説と
阿波説こそがガラパゴスの絶滅危惧種説
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:54:08.83
>>771
>書紀は、はるか後代の 政治的宗教的主観的な造作をした半分×書である事が、
>はっきりしてしまっている。

じゃあ同じく
半分×書である事がはっきりしてしまっている
周髀算経を使って短里を出す九州説は
インチキって
自白乙
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:55:39.45
>>782
>不可知部分が99.5%以上である自然や歴史においては、
>帰納的確率的な推論を拒否して、「絶対断定」や「一致」を要求する人間の方が、
>デタラメで脳がおかしい、って事だよ。

はい
ザラコクの自白いただきました
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:58:41.50
>>780
>魏志の「東治」は、
>現代大和説者や台湾出版社ら以外は、
>誰も校勘していないからな。

はい、ウソ
中国でもやってます
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 07:59:14.88
2013年、邪馬台国畿内説は破綻し、テンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されました。。。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:16:45.16
>>791
はいはい、九州説が滅んで悲しいんですね
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:17:33.41
畿内説の闇が透けて見える。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:19:46.66
>>791
つまり、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:19:56.52
>>785
会稽東治ね
卑弥呼の時代に会稽郡なんだから
後世に郡名が変わっても関係ないよなあ
江蘇省じゃないことは確定だけど
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:21:18.96
>>793
つまり闇ではないんだよ
九州じいさんの視力低下だ
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:21:19.75
韓国人が精一杯計算したが、自信が無いので適当に計算したと言いながら、意見を発表したが、また、計算を間違えているの可能性が高いので、
ここは、学部の討論の掲示板なのだから、 1尺=10寸と1尺=8寸の二つ通りで、真実の里の長さを計算すれば良いのでは、ないのかな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:25:06.31
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:27:33.04
周髀算経は半分×書 ww

一寸千里はトンデモ説として有名 ww


ww
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:29:56.06
>>710
>岡山には3世紀末頃の浦間茶臼山古墳、4世紀前半の赤峪古墳などがある。
>那珂八幡と同時期だね。

箸墓も実は同じ年代なんじゃない?
そうしたら全ての文化は九州からということで一元的に説明できる。
記紀に天皇家は九州から来たとあるのとも整合性が取れる。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:30:10.24
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:30:11.29
単位偽造で九州説 バッチリ
詐欺で万全九州説
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:31:36.30
>>715
>倭奴国の旧王家は和邇氏となって有力豪族として

伊都国の官であるネギだろ。
あとは怡土の県主。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:32:15.56
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:33:20.72
韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男は、性的な関係性がある可能性も、あるな。。。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:34:09.38
>>826
>「117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間、単位はメートル
 というのが、魏志倭人伝から統計学的に導くことのできる正確な推定値だ 」
これは認めるんだな?ww <

データの取捨選択や処理に、明らかな虚偽的作為的な部分があるから、
始めから×であり、
認めない。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:34:33.27
>>776
投馬国五万戸の最有力候補である(い・つま)出雲の西谷3号墳、箸墓の特殊器台は吉備で焼かれて、現地に運ばれたことが判っている。
これは邪馬台国連合共通の威信材として珍重されていた証ではなかったでせうか?
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:34:47.25
そんなことよりも漫画やアニメ・・・・ゲームなど、
創価が関係しているのかな?

サルタというスレがあるでしょ

いいネタ見つけたな、
金の元と言っている人がいたり、

やめろ創価、創価やめろ(そういう事をするのはやめろ)
と言ってる人もいたでしょ
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:36:57.78
>>724
>問題は卑弥呼が皇族なのか、豪族なのか、そうじゃないのかってこと。

豪族も古いものは皇別といって皇族出身だから、分ける意味はない。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:37:13.75
>>828
>地球表面の実際の鉛直方向は傾斜しているから
棒の影で測ったら正確な距離は出ない <

一寸千里は、始めから、(100%完全な計測ではなく)、
有効数字1桁程度の近似的計測。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:39:47.37
>>735
>平原は方形周溝墓で近畿でもありふれた大きさと規格

副葬品が格別

>方形周溝墓が盛んに作られていた中心地はむしろ近畿

筑紫から進出したから

>三角縁はそれこそ九州に弥生時代を通じて「一枚もない」鏡で畿内が九州と全く別系統の鏡を用いている一つの証拠となっている

唯一無二の権力者だったから?
または邪馬台国が畿内とは別の王権だったから?
なんの論拠にもなってない。
むしろ九州説を支持している。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:41:35.90
>>737

内行花文鏡という征服のシンボルが伝わっているから

>>739
>2・3世紀ごろは衰退に向かう
>いずれかの段階で日向勢力もしくは畿内勢力

筑後川流域に遷都しただけ。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:44:32.94
>>754
>3世紀後半の大和の前方後円墳から鉄器がどんどん出土する理由は、纏向政権が貴重財の独占頒布を行ったから。

その纒向に鉄がないから、それは成り立たない。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:49:54.11
>>830
>後漢書にはなになに本とか複数の書写バージョンがあって
お互い書いてる事の比較が出来るから誤字などはわかりやすい
例えば後漢書で邪馬台国は邪摩惟国、ヤマユイ国の事であると
書かれた版が一番有名だけど <

ダメだ。
この男自体が、「邪馬台国」という存在もしない文言を使っている詐欺師でった事を、
示してしまっている事になり、
何を講釈したって、信頼性が全くない。

>版によってはそれが邪摩推国や邪摩堆国となっているものがある
北史や隋書では邪馬台国を邪摩堆と呼んでいるので<

これも嘘つき騙し。
この男は、後漢書には「邪馬台国」と書かれていた、
というかのようなインチキ騙しをしているし、
隋書には「邪靡堆」と書かれていた事も隠したインチキをしているし、
後漢書の李賢注の事も触れない。

>後漢書にあるヤマユイ国は実は元々は邪摩堆国、 ヤマト国だったのではないかと考える事ができる <

出来ない。
また、この男は、「南→東」などの嘘つき大和説者と同じように、
史料事実や史料実態を曲解する嘘つき騙しの詐欺師。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:55:47.55
>>807
>データの取捨選択や処理に、明らかな虚偽的作為的な部分があるから、
>始めから×であり、
>認めない。

明らかな虚偽的作為的な部分って
具体的に何のこと?
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:00:40.35
>>813
>内行花文鏡という征服のシンボルが伝わっているから

内行花文鏡が「征服のシンボル」って
いつ誰が、どんな理由で決めたんだ?
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:02:38.07
>>814
>その纒向に鉄がないから、それは成り立たない。

鉄がないって証拠は?


いつ如何なる時もいっさい証拠を出さない九州説

w.ww
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:02:41.30
>>836
>>東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、<

>おいおい、東冶県は臨海郡に属してたんだぞww 適当なことを書いてはいけない<

いや、永安3年(260年)の会稽郡から建安郡の分郡は、有名だ。
という事は、この男(類スレ主)が提示していた「臨海郡」の地図が、
いつ頃の地図だとしていたのか?、という事が問題だな。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:22:00.51
>>819
どっちにせよ当時、江蘇省には会稽は存在しないんだよ
ザラコクのウソはどうしようもない
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:22:32.51
>>811

鉛直方向の傾斜は場所によって違う
紹興市でも福州市でも日本でも誰も実験していないので
実測値データがない
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:26:15.34
2013年、邪馬台国畿内説は破綻し、テンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されました。。。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:27:08.22
つまり、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した韓国人は論破され、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:28:37.74
>>819
>という事は、この男(類スレ主)が提示していた「臨海郡」の地図が、
>いつ頃の地図だとしていたのか?、という事が問題だな。

そりゃ257年間だ
明らかだろ
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:41:13.77
韓国人が精一杯計算したが、自信が無いので適当に計算したと言いながら、意見を発表したが、また、計算を間違えているの可能性が高いので、
ここは、学部の討論の掲示板なのだから、 1尺=10寸と1尺=8寸の二つ通りで、真実の里の長さを計算すれば良いのでは、ないのかな。。。

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
>>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:47:22.11
>>181
大和説はくだらん中傷しか出来んのか
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者がまた思考停止した
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:49:22.99
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:52:24.98
>>846
>>東「冶」は260年以降、建安郡に属しており、三国志が著された当時は会稽郡ではなかったよ<

>関係ない ふつう卑弥呼のいた当時の地名を使うから<

関係がない。
陳寿は魏志や三国志として書いたんだから、
漢代末から晋代の情報を根拠にして、晋代の読者に説明しており、
卑弥呼の時代だけだ、という事など全くない。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:53:14.46
>>826
畿内説側が中傷とかしたって証拠あるの?
毎日中傷してるのはザラコクや連句点では?
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:54:37.28
>>828
そんな証拠あるの?
三国志は基本的に記事の出来事があった時点の地名を使ってるよ
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:56:59.02
>>815
>ダメだ。
>この男自体が、「邪馬台国」という存在もしない文言を使っている詐欺師でった事を、
>示してしまっている事になり、
>何を講釈したって、信頼性が全くない。

>これも嘘つき騙し。
>この男は、後漢書には「邪馬台国」と書かれていた、
>というかのようなインチキ騙しをしているし、
>隋書には「邪靡堆」と書かれていた事も隠したインチキをしているし、
>後漢書の李賢注の事も触れない。

>また、この男は、「南→東」などの嘘つき大和説者と同じように、
>史料事実や史料実態を曲解する嘘つき騙しの詐欺師。

もともと『三国志』の中では“壹”と“臺”との間違いが非常に多く、有名な孫堅の兄の孫羌の字も、“聖臺”であるのに“聖壹”と間違えている。
“邪馬壹国”が後漢書で“邪馬臺国”に書き換えられたのは明らかな誤字だからだ。
“孫聖臺”は孫堅の兄として有名。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E7%BE%8C
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:57:36.11
>>849
>東冶は三国志内で使ってる地名だからな <

陳寿は、永安3年の分郡(会稽郡から建安郡の分郡)以前の地名として使っただけだからな。
分郡以後は、ややこしくなるから、東冶は使っていない。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:06:25.69
>>832
>陳寿は、永安3年の分郡(会稽郡から建安郡の分郡)以前の地名として使っただけだからな。

卑弥呼の遣使は分郡以前なので全く問題がない
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:09:06.87
>>832
さっき
>漢代末から晋代の情報を根拠にして、晋代の読者に説明しており、

と言ってたのと、もう自己矛盾してるな
九州説はいい加減だ
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:13:56.21
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:14:53.26
韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男は、性的な関係性がある可能性も、あるな。。。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:17:21.35
韓国人の3寸男の方が、OKUYAMAという、トリップを使用していたのではないのかな。。。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:35:15.67
九州説は中傷しか出来ないのね
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:35:44.71
>>858
>ここがキー ●「韓伝」には、韓国の大きさについて、『方可四千里』とある。つまり、韓国の大きさは『一万六千里』だと言うのであるから、
それに比べると、倭国の大きさは、極めて小さい。<

「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」であるんだから、
「倭地を参問」する時に「周旋」した、と言っており、
だから、半島南岸の倭地から女王之所都に参問する距離だ、と言っている事になり、
周旋は、「絶在海中洲島之上、或絶或連」の縁に沿って行った、
という事を示す事になる。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:41:15.33
>>865
>周旋は、一周したり、
「一周」! 旋も回ること。
「周って旋って」と書いてあるのに回らないとは、これ如何にしたことか?<

半周でも周。
「絶在海中洲島之上、或絶或連」の島々の半周を「周旋」すれば、
「倭地参問」出来た事になる。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:47:33.92
>>878
大和説は、
長里がなくなるだけではなく、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」など、全ての論点で、
根拠がなくなるからな。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:47:51.66
>>840
それ、なんか根拠あるの?

また「ワシの言うことは人類の常識なんじゃぁぁ〜」?
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:50:37.12
>>885
逆に大和説が短里でも長里でも成立しないんだが
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:51:37.14
>>841
その珍説、もう全滅してるので問題なし
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:52:25.14
>>843
また理由ナシで断定か
だから九州説は馬鹿にされる
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:54:39.62
>>887
>大和国=邪馬台国<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。

>三角縁神獣鏡<

海東鏡や徐州銅鏡があるから、呉系楽浪鏡師らの渡来製作鏡。

>前方後円墳色々あるよ<

「冢≠前方後円墳」であるから、卑弥呼の墓ではない。」
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:56:09.65
>>888
いつも通りの「南→東」などの嘘つき騙しの大和説
結論部分だけを言い張る 理由は言わない
もちろん 証拠は絶対に出さない
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:56:19.66
>>846
>「冢≠前方後円墳」であるから、卑弥呼の墓ではない。」

あんたのその珍説には何も根拠が無いし、マトモな賛成者もいないでしょ
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:57:16.90
すごいねー>>847のようなウソが平気でつけるザラコクは
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:58:05.01
>>891
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の主張は、
全部間違いだな。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:59:43.60
>>850
ほらな

結論部分だけを言い張る
理由は言わない
もちろん 証拠は絶対に出さない

だから九州説はダメになった
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:07:00.67
>>892
基本、「南≠東」などの嘘つき騙しの大和説は、
思い込みとあと、精神的な情弱と、曽野裏返しの狂暴。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:18:27.27
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたのだね。。。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:30:08.44
>>893
>こんだけ証拠が揃ってれば
実際地面ほっくり返さなくても集落はあったんだろうで通用する
畿内はほとんど住宅街とかになってるから簡単に発掘はできないし<

掘立建築の周りになければ、
「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」
の証拠にもならないし、首都の証拠にもならない。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:33:32.30
>>854
ならないという理由がゼロ

ww
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:55:34.04
>>905
>倭国一周で5000里だったら、短里とやらじゃ九州の南半分以上は倭国じゃなくなる
投馬國はどうするんだ? <

「倭地参問」だから、原則は、女王之所都への参問部分だな。
「女王國参問」や「倭國参問」なら、南九州の投馬國も入るんだろう。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 12:02:31.66
>>782
>帰納的確率的な推論を拒否して、「絶対断定」や「一致」を要求する人間の方が、

「南≠東に拠って×」っていう「絶対断定」を振り回している人がいたような気がするんだけど?
Zarakokuとかいう人だったような気がするんだけど、>>782さんは知りませんか?
そのZarakokuとかいう人、本当にバカですよね、「絶対断定」してるんですから
「デタラメで脳がおかしい」人ですよね!
0858日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 12:05:53.26
>>801
>そうしたら全ての文化は九州からということで一元的に説明できる。

そうしたら、王のいる場所の墓が小さいという不合理が生じるんだよ
前方後円墳は、定型化後も、纏向型も、纏向発祥なのは動かない
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 12:08:22.33
>>807
「>「117(-225〜459)ただし( )内は95%信頼区間、単位はメートル
  というのが、魏志倭人伝から統計学的に導くことのできる正確な推定値だ 」
 これは認めるんだな?ww <

 データの取捨選択や処理に、明らかな虚偽的作為的な部分があるから、
 始めから×であり、
 認めない。」

前半部分はザラコクの書き込みをそのまま転載しただけだぞww
その場その場で前言を簡単に翻すその場しのぎばかりw

九州説には本質がない
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 12:13:22.90
>>819
>いや、永安3年(260年)の会稽郡から建安郡の分郡は、有名だ。

その前の257年に臨海郡が分軍されていて、建安郡の分郡はそのあと
そして、東冶県は臨海郡の中

ザラコクは調べるということをしない
真実の追究はどうでもよくて、とにかくデタラメでも書き込みをして
畿内説の議論を妨害することだけが目的
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 12:17:15.40
>>839
>だから、半島南岸の倭地から女王之所都に参問する距離だ、と言っている事になり

参問は、訪問するっていう意味じゃないぞww
本当にザラコクは漢文が読めないし、言葉を知らないww
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 12:19:59.32
箸墓の後円部の特殊器台は、吉備の工人を呼んで大和で焼いたのではなく、吉備で焼いた完成品を運んで並べたことが最近の調査で明らかになった。
つまり、箸墓の被葬者は大和の王ではなく、吉備の王だったということ。
天皇家の出自が吉備の王でなかったら、 飛鳥時代まで古墳時代300年間もの長きに渡り、箸墓を嚆矢とする前方後円墳で、各地の王を支配し、序列化していった理由が解らなくなる。
他人の褌で相撲を取ってるようなもんで、論理的におかしい。
では全国の教育委員会が目ぼしい場所は皆掘り尽しているのに、未だに見つからない卑弥呼の冢は一体どこにあるのか?
それはつまり、 現在立ち入れない場所、そして立ち入ったとしても、その存在を現在の構築物を破壊しない限り確認できない場所、つまり箸墓後円部の真下にタイムカプセルのように埋まっているとしか考えられない。
卑弥呼の冢百余歩(直径150mの円墳)、箸墓後円部の直径は160mでスッポリ入るサイズに設定してあり、無駄がないw
まさに映画「ナショナルト・レジャー」の世界w
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 12:22:52.79
>>863
>つまり、箸墓の被葬者は大和の王ではなく、吉備の王だったということ。

いや、そうはならんだろう
吉備の王だったら、吉備に墓を作るだろ?
のちの時代にもそうなんだし

単に吉備は、特殊器台製造担当だったってことだ
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 12:26:06.84
>卑弥呼の冢百余歩(直径150mの円墳)、箸墓後円部の直径は160mでスッポリ入るサイズに設定してあり、無駄がないw

なら箸墓で纏向型前方後円墳が一気に巨大化した理由も説明が付くな、一応
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 12:46:29.13
このように畿内説には歴史を探るロマンがある。
しかし九州説はいまだに史料解釈の泥沼に陥り、>>173のような被害者を大勢生み出してしまっているのである。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 12:49:04.47
筑紫を出て吉備に滞在して、それから大和に攻め込んだ人物がいませんでしたかねえ。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 12:58:28.55
地中レーダー探査で、箸墓後円部の地下から卑弥呼の冢が発見された暁には、
九州説は、宮崎康平のように、鉄と威信材に振り回され、史料解釈(単里、放射読み、島巡りツアーw)の泥沼から発生した脳内電波に踊り狂ってしまった人々、と後世の歴史に刻まれることでせうね。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 13:34:20.40
最古型式の立坂型は唐古鍵からも出雲の西谷からも出てるからね
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 13:47:32.95
またお前らは九州キチガイにイチイチ構う

畿内の話するスレだってんだろ
異常者の寝言相手してスレ潰すな
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 13:53:08.26
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:03:32.66
吉備と邪馬台国の関係については寺澤氏は直通に近いくらいの見解だけど正直かなり無理があると思う

土器にしても庄内式は吉備式の影響は受けてるけど間接的
あくまでも吉備の土器と河内、摂津の土器の融合として出来たのが庄内式
そして吉備の土器は吉備の土器として存在してるので、吉備の勢力がそのまま乗り込んできたとは考えられない

また古墳にしても楯築よりも播磨や讃岐の墳丘墓の方がより直接的な祖型と言える形状をしてる
吉備の巨石祭祀のようなものも採用されておらずこれを直接の起源として扱ってる寺澤氏の見解はかなり問題がある

特殊器台にしてもその導入は定型化後
邪馬台国当時の物と考えられるホケノ以前の物では見受けられない

なので吉備と邪馬台国の関係はイメージよりもずっと後になってから強くなったと考えるのが自然
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:05:35.58
>>817
>内行花文鏡が「征服のシンボル」って

神道の神社で神宝は大抵の場合には鏡なんだよ。
天照大神のシンボルだからね。
紀元前に九州に上陸した鏡の文化は、数百年かけて畿内にも伝播した。
下池山古墳では内行花文鏡が絹糸に包まれていた。
桜井茶臼山古墳でも最大の鏡は内行花文鏡。
畿内が内行花文鏡の文化であったことは確実で、その源流は九州北部にある。
内行花文鏡の大きさから言えば、畿内も伊都平原を頂点とするヒエラルキーにガッツリと組み込まれていたことがわかる。
畿内は銅鐸文化を捨てて、3〜4世紀にかけて九州北部を頂点とする銅鏡文化に征服されたんだよ。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:06:42.14
卑弥呼時代の邪馬台国は大和、河内、摂津、播磨、讃岐、阿波の辺りを勢力圏にしていると思われる
これに北部九州、上総付近の勢力が同調していると言う形

この時点では吉備はまだ重要な同盟国と言う扱いではないかと思う
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:22:15.33
邪馬台国の成立の流れとしてはまず大和、摂津、河内、播磨、讃岐、阿波に交易を主体とする同盟が成立
その後、北部九州、上総にもその連合に参加する勢力が現れる
その時点で全国的な交易網を持つ勢力が形成されてのちに、近江や吉備が参加して一気に政権として確固たるものになったと考えてる
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:27:11.92
>>875
妄想乙
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:31:29.01
庄内式の分布、纏向型とその原型と考えられる墳丘墓の分布

これらは瀬戸内海東部を中心とする地域にこの中心地がある
この地域の広域の連帯が成り立った後に吉備や近江の影響が強くなる形になっている

考古学的に自然な成立過程を追える
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:35:47.50
円形周溝墓の中心地も播磨にある
ここから前方後円形の墳丘墓が現れている
土器は河内、摂津から

播磨→摂津、河内←讃岐、阿波
        ↓
       大和

と言う形で邪馬台国に瀬戸内海東部の要素がまとまっている動きが読み取れる
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:42:59.45
>>878
播磨の突起付き円墳が纏向の前方後円型墳墓へとつながるとの仮説は、崩壊し始めている。
纏向型の祖形は、尾張の前方後方型墳墓。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:49:20.92
>>875
交易同盟のその大和に、なんで鉄器が流通しなかったの。
同盟のその他の国には、普通に鉄器が流通していたのに。
そんな“交易同盟”は、存在しなかった。
地方間の交易自体は、それぞれに何の支障もなく行われていたがな。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:52:29.34
>>873
2世紀後半〜3世紀前半にかけて畿内で人気があったのは、画文帯神獣鏡じゃなかったか。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:55:57.55
大和の中心地とされた纏向は政治的・宗教的中心地として弥生時代の集落などが少ない場所が選ばれている

大和が名実ともに政治経済の中心となるのは定型化の後

同盟の象徴的な中心地として敢えて何もない中立的な地点が選ばれたと思われる
多くの勢力の利害関係を考えると妥当と言える
何も力のないハプスブルグ家が王に選ばれたのと同じような理屈が見いだせる
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 14:59:09.45
大和は強いからとか、発展してるから中心になったのではなく、何もないから選ばれた場所であると言える

考古学的な展開は交易の中心たる東瀬戸内海のクニグニが「大和に中心を作った」と言う図式となっている
大和からの自生的展開ではない点に注意が必要
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 15:17:04.31
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 15:17:30.22
>>863
倭人伝の径百余歩を魏晋尺から割り出して直径150mとしているわけだが、そんなら同じ倭人伝の(女王国から東へ舟で渡海千余里のところにある倭種の国)の千余里も魏晋里で換算するのが当然だよな。
女王国を北部九州、渡海を瀬戸内海とすれば、千余里でちょうど大和に着くんだがな。
大和は、その倭種の国でいいのかい?
女王国は北部九州でいいのかい?
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 15:32:24.78
>>818
大和に鉄がないのは、3世紀前半まで。
纏向政権が博多を制圧し、鉄器など貴重財の独占を行った。
その時期は3世紀中頃。
なので、3世紀後半には大和で鉄器が出るようになる。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 15:41:34.20
>>801
天皇の祖先は南九州から来たのだね。
南九州と博多などの北部九州とは、本家と分家の関係。
本家は、南九州ね。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 15:46:25.98
>>868
>地中レーダー探査で、箸墓後円部の地下から卑弥呼の冢が発見された暁には、

これは考えなくていいよ
日本人は、墓の上に墓を作るような罰当たりなことはしない

と書いてはみたけど、九州だと原口古墳という実例があるんだよな
まあ、甕棺墓時代と古墳時代ではかなり時間的な隔たりがあるから、
甕棺墓があることが知られていなくて、その上に古墳を作ってしまったって
ことだとは思うけれど

祇園山古墳も、原口古墳と同じ状況
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 15:50:16.78
3世紀中頃
九州の鉄器を独占していた大種族が、大和・纒向政権への侵入を開始した。
なので、3世紀後半には大和で鉄器が出るようになる。、、、
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 15:51:11.28
>>880
>交易同盟のその大和に、なんで鉄器が流通しなかったの。
>同盟のその他の国には、普通に鉄器が流通していたのに。

>>880も不思議に思うだろ?
つまりは、畿内に鉄がなかったという想定がおかしいんだよ
畿内に鉄がなかったのではなく、畿内に鉄があったが出土していない、と考えるべきなんだ

鉄がないから邪馬台国じゃないにだーっていうのは無意味で
なぜ鉄が出土しないのかを研究した方が建設的
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 15:58:36.83
>>890
唐古鍵をはじめ大規模集落でも、墳墓でも見つからないからな
大和に限らずに鉄は九州と出雲に抑えられて周辺地域でも出土は少ない

邪馬台国の前後に急激に出土が増える事から時代の画期があったとみるべきだろう
九州と出雲が衰退して独占が崩壊して近畿地方にその交易ルートが開けたと言う事だろう
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:00:35.31
>>771
四道将軍や景行天皇、ヤマトタケルなどは、中国の王権と関係ないからな。
中国の王権がそれを知っても、何の反応もないだろう。
しかし、魏の王権が冊封国(家来)である邪馬台国を大和が征服したと知ったら、大和を懲罰しなけりゃならんし、大和のほうは当然、交易制裁されたら何のために倭國を併合したのか分からんことになるのだから、極力併合を知られんようにした。
そのタブーが、ずっとあとあとまで続いた。
しかし、大和には併合の伝説はあったらしく、日本書紀は神功紀で田油津媛として卑弥呼を登場させている。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:02:09.18
なぜ鉄が出土しないのか,
どうぞ、どうぞ、建設的な研究をして見せてください。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:06:52.28
大和は栄えていたから中心になったのではなくあくまでも政治的、地勢的な理由で選ばれた土地
なので鏡も鉄も邪馬台国の中心地となってから見つかりだす

むしろ大和の在り方を考えたら自然な話

逆に邪馬台国の中心となった後に九州や出雲は鉄や鏡の独占的地位を失いその中心を大和に譲る
邪馬台国の時代にここに日本の核となるような場所が現れたと言う証拠の一つになっている
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:06:58.00
>>766
3世紀後半から、お宝ざくざく出てるな。
3世紀前半の卑弥呼は、筑後山門な。
3世紀前半の大和は、鉄器ゼロだから。
3世紀後半になんでお宝ざくざくになったの?
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:07:25.76
大和・纒向政権の鉄器はまもなく溶けてなくなった。
だが、九州の邪馬台国政権が持ち込んだ鉄器は千数百年後も良く残っている、、、、不思議な鉄器物語。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:15:57.92
>>894
2世紀後半までの大和のまとまりと、2世紀末からの大和のまとまりには断絶があり、継続性はみつかっていないのだね。
2世紀末頃大和纏向に祭祀施設を開設した政治機構は、それまでの唐古・鍵の工房集落などの大和とは別の政治機構なの。
そこをちゃんと把握しないとね。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:16:12.15
纏向は宗教的な施設でその役割は周辺地域との祭祀による連帯の確認

この場所が名実ともに政治経済の中心地となるのは定型化の後
卑弥呼時代は祭祀と王の居城と言う性格
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:20:35.50
>>897
寺澤氏が弥生時代の大和と、邪馬台国の中心となった大和には文化的な断絶があると指摘してる

その断絶も邪馬台国が大和からの自生ではなく、周辺地域の連帯の中心として作られた場所であるからと理解できるな
なので「弥生時代の大和の鉄や鏡がない」と言う事はむしろその性格を示すだけの事で、大和の邪馬台国の存在を否定する要素になり得ないと分かるな
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:26:20.81
>>893
鉄が溶けたと言ったのは、佐原真。
旧石器人の骨が解けてしまったことに重ねてみせたのだね。
しかし、骨と鉄では性質が違うし。
佐原の言説は、旧石器時代から2世紀後半までの時間経過と、鉄器が日本にもたらされた弥生中期初頭から2世紀後半までの時間の長短を無視した発言。
佐原は、あれは冗談だったとかわしたらしいが、佐原の弟子たちはそれ以来、大和の鉄については口をつぐんでしまった。
佐原の冗談は、大きな弊害を残した。
いまもそれは続いており、邪馬台国大和説の学者らは、大和の鉄について言及なしの状態が続いている。
大和説者は、そんな小者ばかりということだなあ。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:36:39.16
>>890
バカじゃないの。
3世紀後半の大和の墳墓からいやというほど鉄器が出ているのに、その直前の石塚や矢塚などの墳墓からなんで鉄器が出ないの。
それに、他所では住居跡から鉄器が出るのに、大和では出ない。
なんで、3世紀前半以前は大和で鉄器が出ないのか、ちょっと考えたら分かるだろうに。
大和や尾張、東海、関東、東北には3世紀以前は鉄器はほとんど出ないのだよ。
大和だけではないのだね。
しかし、北陸では出る。
つまり、そこまでは鉄器は流通していたの。
北陸以外には、なぜ鉄器が流通しなかったのか。
頭のいい皆さんは、ちゃんとした答えが出せるでしょう?
はい、答案用紙出してね。
先生が、○×つけてくれるから。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:45:02.88
>>899
倭人伝の邪馬台国を大和に比定するのは自由だが、それはまだ観念どまりの比定であって、具体的な証拠がない。
であるので、2世紀末から大和に出現した政治機構をその邪馬台国として議論するのは、混乱を招くだけ。
混乱を避けるために、邪馬台国ではなく、新たな政治機構としておくのがよい。
この提案を認めていただけるなら、以後、表現は(新たな政治機構)の概念を用いてほしい。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:45:14.23
鉄の出土量で、大和が筑紫を逆転する3世紀後半(250年以降)、大和では最初の前方後円墳と言われる箸墓が3世紀第四四半世紀(275年〜300年)に築かれている。
このことは、邪馬台国が大和ではなく、筑紫にあり、大和が筑紫を併合した後、朝貢した魏を継いだ晋が後継者争いで亡命するなど中国大陸の戦乱に巻き込まれることを恐れて、東遷したことを示している。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:50:56.40
>>858
>前方後円墳は、定型化後も、纏向型も、纏向発祥なのは動かない

違う。  倭国(阿波)なのは動かない。  @阿波
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:51:39.45
>>902
慧眼!
唐古鍵までの@前期ヤマト王権、
箸墓のA後期ヤマト王権(大和朝廷)が必ずしも同一とは限らない。
そこにB邪馬台国を強引に比定してしまうことが、逆に真実を見えなくしている元凶だろう。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:53:45.00
>>863
>つまり、箸墓の被葬者は大和の王ではなく、吉備の王だったということ。

つまり、吉備忌部だったということ。  @阿波
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:57:03.20
箸墓で墳丘が一気に280mにまで巨大化した理由を考えてみたことはないの?

鉄の鍬が大量に手に入ったからだよ。家庭菜園やってる人は知ってるだろうけど、猫の額みたいな庭を耕すにも、木の鍬じゃとても無理。
三世紀中ごろの畿内では鉄はほとんど出土せず、3世紀後半になってから急に筑紫を逆転するまでに出土するようになる。
ということは箸墓の築造は早くても3世紀第四四半期(275年以降)でないとおかしいんだよ。墓穴を掘ったね、畿内説w
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:57:22.13
>>902
それまでの各地の排他的な在地土器を上書きするように急激に分布する土器
そしてこれも各地の祭祀を上書きしながら広まる纏向型前方後円墳

この動きは近畿を起点として九州、関東にまで広まっている
ちょうど邪馬台国の時期に合致し他にこのような中心は見いだせない

観念どころかかなりハッキリした証拠があると言える
この時期の大和以外に邪馬台国の候補などないと言っていい

今問題とされてるのはその成立と発展拡大の動きであって位置はもう議論する段階ではないだろう
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:57:38.53
>>872
>あくまでも吉備の土器と河内、摂津の土器の融合として出来たのが庄内式

それが「東阿波型土器」というものなんだよ。  @阿波
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 16:59:58.53
>>873

「桜井茶臼山古墳」や「下池山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw  @阿波
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:00:00.53
邪馬台国の時代である弥生終末期から出現した土器や古墳はその後の古墳時代にスムーズに繋がる動きを見せている

なので邪馬台国は大和で、その邪馬台国が発展拡大して大和朝廷になっている
史書、考古学的に特に問題もなく成立する流れであって特に疑問とするような部分はないと言っていい

今はその詳細を考える段階となっている
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:01:23.95
>>907


275って数字が出てくる理由が何も書いてないが?
それで話が他人に通じると思うの?
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:01:25.36
>>874

それ全部、「忌部はん」 だから。  @阿波
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:03:35.85
>>912
ヒント:寿陵
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:04:53.01
>>879
>纏向型の祖形は、尾張の前方後方型墳墓。

それも東海「忌部はん」 のお墓だから。  @阿波
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:09:07.83
>>883
>考古学的な展開は交易の中心たる東瀬戸内海のクニグニが「大和に中心を作った」と言う図式となっている

それらは「忌部はん」 の活躍によるものであることを忘れてはならない。  @阿波
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:10:08.19
>>907
奈良県の人に聞いてみな
古奈良湖が干上がった元沼地を田に開墾するのは木製農具でたくさんなの
鉄器がどうしても必要だったのは山や石ころだらけの河原など荒れ地を開墾する必要のあった九州
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:11:14.45
>>888
「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」  @阿波
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:17:01.52
畿内大和説があこがれたように、
邪馬台国は女王を戴くユートピア国家なんかではなかった。
そう思わせたのは陳寿のきれいごとだらけの筆のせい。
事実は、鉄器で完全武装した、渡来人侵入者のならず者国家だったのだ。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:23:57.00
>>921
>そのあと、水行十日と陸行一月するんだけど。
で、沖縄あたりまで続く巨大島ということに。 <

「水行十日と陸行一月」は、郡から女王之所都の日数なので、×。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:34:20.74
>>928
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者って、そんなもんや。
皆、嘘つき騙しのアホ詐欺師や。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:39:23.28
>>933
魏使からしたら、当然全部正しい。
実際に(東ではなく)南方向だったからな。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:40:28.61
>>935
>で、倭国の投馬國5万戸はどこなんだ?<

南九州。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:42:03.48
>>891
>大和に限らずに鉄は九州と出雲に抑えられて周辺地域でも出土は少ない

淡路島の五斗長垣内遺跡をどう考える?
五斗長垣内遺跡は、弥生時代最大級の鉄器生産遺跡と考えられており、
規模から言って、鉄器生産量も最大級だったと考えるのが通常の考え方

しかし、五斗長垣内遺跡周辺での鉄器出土量は、非常に少ない
>>891が「周辺地域でも出土は少ない」と書くくらいに少ない

つまり、鉄器生産遺跡の規模から想定される生産量と、実際の出土量の間には
大きな乖離があるのが明確な訳だ

畿内の当時の鉄器使用量と、実際の出土量の間にも大きな乖離があると考えるのが妥当

まあ、九州説の人は鉄くらいしか九州の誇れるものがないから、
決して認められないだろうけれど、これが通常の論理的な帰結だ

そして九州の鉄器出土量は、2世紀中に激減していて、3世紀の卑弥呼の時代に
着ないよりも多いと言えるような状況ではないんだけれどねw
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:43:19.94
>>937
このように
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
いつも論破されると罵るだけになります。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:43:21.99
畿内説は物証より憶測を優先する説のようだね
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:47:15.17
>>753
土器は作るのにも結構手間隙かかるしなー
まず適した土がなくてはいけないしこねて乾燥させて焼いて…と
作った事はないけど思ったより時間かかるんじゃないか
それより征服地から供出させるか壊れるのを見越して
あらかじめ多めに持って行った方が手間がないかも
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:48:06.74
3世紀の交易は海上交通が主力であり、内陸の大和は後進地域に過ぎない。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:48:15.92
>>901
>3世紀後半の大和の墳墓からいやというほど鉄器が出ているのに、その直前の石塚や矢塚などの墳墓からなんで鉄器が出ないの。

「3世紀後半の大和の墳墓から」というのは、「埋葬主体部の副葬品」として出土している
その直前の石塚や矢塚は、近代の発掘がなされる前に墳丘が削平されていて、
「埋葬主体部」が失われていて、そこに何があったかは分からないんだよ

埋葬主体部がないのだから、埋葬主体部にあるべき副葬品がないのは当たり前だろう?

そんなことにも考えが及ばない、あるいは調べもしないで、「石塚や矢塚には鉄がない」と
書き込みをしても無意味だよ
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:48:47.38
>>885
>大和は、その倭種の国でいいのかい?
>女王国は北部九州でいいのかい?

正解
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:48:54.28
>>954
一度「南→東」などの嘘つき騙しの珍解釈を言い出したら、
いいだした珍解釈を守るために、
どんどん異常な主張になっていく大和説
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:51:03.05
>>907
>箸墓で墳丘が一気に280mにまで巨大化した理由を考えてみたことはないの?

箸墓の前の時点で、100メートルを超える築造時には列島最大の大墳丘墓が
作られているのだけれど、それはどう考えるんだい?

そのレベルの墳丘墓でも、鉄の鍬なしでは大変だとは思い至らないのかい?
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:51:18.93
>>886
>纏向政権が博多を制圧し、鉄器など貴重財の独占を行った。
>その時期は3世紀中頃。

ああ、筑紫の卑弥呼が亡くなったのでパワーバランスが崩れたんだな。
やはり大和は邪馬台国とは関係なさそうだな。
卑弥呼の共立は倭国大乱後の2世紀末のはずだものな。
その頃から栄えた遺跡を大和に見つけない限り、大和説は考古学的な証拠がないただの妄想。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:51:25.16
>>925
>淡路島の五斗長垣内遺跡をどう考える?

淡路島も倭国(阿波)の数ある島の一つ と、何度言えばw  @阿波  
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:52:38.64
>>958
君のような「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者には、
受け入れ難いだろうが
「南は南」が真実だよ
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:53:13.29
>>887
>>801
>天皇の祖先は南九州から来たのだね。
>南九州と博多などの北部九州とは、本家と分家の関係。
>本家は、南九州ね。

本家は福岡(邪馬台国、帯方郡から水行10日)。
分家が宮崎(投馬国、帯方郡から水行20日)。

記紀には神武が出発したのは筑紫と明記されている。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:54:11.45
テレビを観ているとゴキブリばかり出てくるでしょ、
どういう事なの?
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:54:27.72
>>891
>邪馬台国の前後に急激に出土が増える事から時代の画期があったとみるべきだろう
>九州と出雲が衰退して独占が崩壊して近畿地方にその交易ルートが開けたと言う事だろう

つまり大和が発展し始めるのは、九州で卑弥呼が亡くなってから。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:57:03.56
>>965
>邪馬台国はいくつかの国が連合した国だから<

邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言だよ。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:57:42.06
>>892
>しかし、大和には併合の伝説はあったらしく、日本書紀は神功紀で田油津媛として卑弥呼を登場させている。

田油津姫(神功皇后と同じ年代だから4世紀末)の祖先は神夏磯姫(崇神天皇と同じ年代だから4世紀初頭)とされている。
神夏磯姫の年代は壹與と同じかすぐ後であり、歴代の筑紫倭国女王の一人だろうね。
神夏磯姫は八咫の鏡を含む三種の神器を掲げて登場する。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:57:52.86
他のスレにも書いていることなんだけど、
頭の病院に行けw

『』
が何やら〜と言っているのがいたり、大爆笑なんだけど
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:57:57.61
>>935
>卑弥呼の共立は倭国大乱後の2世紀末のはずだものな。
>その頃から栄えた遺跡を大和に見つけない限り、大和説は考古学的な証拠がないただの妄想。

だから、纏向
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:58:05.83
>>885
魏志倭人伝の行程の里は魏里じゃない淮南子の地の果て1万2千里を
会稽東冶乃東までそれっぽく割り当てた淮南子里
箸墓の百歩は淮南子里である理由は無いので
魏里で約140mでOK
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:58:32.30
>>921
>それ、物理的に不可能なダメトンデモ

それがな、九州説の中でも古田史学の一派は、「漢地陸行一月」説なるものを
開発して、物理的には可能ということにしてしまっているんだよww

まあ、九州説でも古田史学の会の信者以外は「漢地陸行一月」説はトンデモって
分かっているけれど

それでも、九州説(北部九州説)は水行十日陸行一月はそれまでの里程と
並列の日程だとかいうばかげたことをほざくんだけどね。

水行十日で帯方郡から北部九州は無理
陸行一月を一日の誤写とするのもインチキ

「水行十日陸行一月」および「投馬国が戸数道理略載の女王国以北の国」を
きちんと説明できる九州説は存在しない
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 17:59:42.26
>>894
>逆に邪馬台国の中心となった後に九州や出雲は鉄や鏡の独占的地位を失いその中心を大和に譲る

卑弥呼が亡くなった後の話だろ。

>>895
>3世紀前半の大和は、鉄器ゼロだから。
>3世紀後半になんでお宝ざくざくになったの?

九州の卑弥呼が亡くなったので、鉄を手に入れることができるようになった。
というか、九州勢力に征服されて鉄の文化が大和にも伝わった?
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:00:36.76
沢山持っていた本や書などの話でしょ、
誰かに、あげたのか、売ったのか・・・近所の人が持って行っちゃったのか?
と何度も言っているはず
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:01:55.53
>>815
隋書の邪靡堆、ヤビタイは邪摩堆、ヤマトの誤記に決まってるだろ
7世紀の日本の王権はヤマトなんだからな
それと台は臺の新字体な
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:02:13.87
本や書なども

戦前〜それ以前の話、
まだ理解出来ないの?低脳なの?
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:02:38.64
>>947
そういう年代を提唱してくれる考古学者に出会ってから言ってくれ

でないと妄想家としてしか見てもらえないよ
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:04:49.47
>>945
>女王国を北部九州、渡海を瀬戸内海とすれば、千余里でちょうど大和に着くんだがな。

女王国を北部九州に置く理由がない
瀬戸内では渡海の記述に合わない
渡海は「一日で漕ぎ渡れる距離」なので、実際に戦利なわけではない

>大和は、その倭種の国でいいのかい?

大和は倭種の国だが、女王国東渡海千里と書かれた国ではない
「皆」倭種であって、渡海前の国も九州も壱岐も対馬も倭種の国だ

>女王国は北部九州でいいのかい?

ダメだよ
「水行十日陸行一月」および「投馬国が戸数道理略載の女王国以北の国」を
きちんと説明できる九州説は存在しない
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:05:00.42
基地外は頭の病院に行けと言っているんだよw
刑務所、自殺でも良い
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:05:06.00
>>947
わはははは。
九州勢力東遷の理由は、何?
勝手に東遷させちゃ、ダメダメ。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:05:14.33
畿内説は物証より憶測を優先する説のようだね
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:05:31.22
>>901
>大和や尾張、東海、関東、東北には3世紀以前は鉄器はほとんど出ないのだよ。
>しかし、北陸では出る。
>つまり、そこまでは鉄器は流通していたの。
>北陸以外には、なぜ鉄器が流通しなかったのか。
>頭のいい皆さんは、ちゃんとした答えが出せるでしょう?

そもそも倭国とは、筑紫を盟主として出雲、越などが含まれる日本海沿岸の国だった。
3世紀に卑弥呼がなくなると筑紫の求心力が低下した。

>>902
>混乱を避けるために、邪馬台国ではなく、新たな政治機構としておくのがよい。
>この提案を認めていただけるなら、以後、表現は(新たな政治機構)の概念を用いてほしい。

認めます。
その用語はヤマト王権です。
纒向はヤマト王権の初期の遺跡です。

>>908
>ちょうど邪馬台国の時期に合致し他にこのような中心は見いだせない

「邪馬台国の時期」ではなく、「邪馬台国にいた卑弥呼が亡くなった時期」だよね。
誤魔化しているよね。
詐欺師の話法。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:07:19.11
あと『大寒』が何やら〜と言ってる人がいたり、
生まれた日?
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:07:19.39
>>977
そもそも邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
女王之所都は「南≠東」などによって、大和にはないと確定してるんだから、
大和説者の言ってる事は、
全部嘘であり循環論。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:08:37.60
>>831
むしろ原本の3世紀の魏志倭人伝に邪馬臺國と表記されていて
5世紀に編集された後漢書がそれを引き写した

現在ある魏志倭人伝は11世紀頃に原本に近いのが失われて
12世紀に民間に流布していたのを集めて作った復刻版の紹煕本という版
これに邪馬壹國は初めて現れる

それ以前の5〜11世紀の魏書曰く〜等の
魏志倭人伝の引用である文言のある後漢書、隋書、北史、
太平御覧などの各史書の倭人伝はほぼ邪馬臺國表記
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:09:43.73
>>934
>箸墓の前の時点で、100メートルを超える築造時には列島最大の大墳丘墓が

どの遺跡で、何年ごろだと考えている?
年代比定の証拠は?
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:11:08.99
邪馬台国は,
畿内大和説があこがれたような、女王を戴くユートピア国家ではなかった。
事実は、鉄器で完全武装した渡来人侵入者で、(奈良にあらざる)奈良ず者国家だったのだ。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:11:41.14
それで?続きは?どんどん書いてw大爆笑
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:13:07.59
>>952
>渡海は「一日で漕ぎ渡れる距離」なので、実際に戦利なわけではない

その通り。
水行1日を千里とした。
だから短里だし、だから帯方郡から一万里の九州北岸までは水行10日なんだ。

>「水行十日陸行一月」および「投馬国が戸数道理略載の女王国以北の国」を

水行10日は帯方郡からの一万里に相当するんだよ。
わかったかな?
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:13:16.27
>>955
>畿内説は物証より憶測を優先する説のようだね

と、憶測する九州説


ww
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:14:11.67
>>956
>「邪馬台国の時期」ではなく、「邪馬台国にいた卑弥呼が亡くなった時期」だよね。

残念ながら纏向の建設が始まり、築造時点で列島最大の纏向石塚古墳が造営されたのは
「邪馬台国にいた卑弥呼が亡くなった時期」よりも数十年も早い時期だ
つまり、纏向遺跡が建設されていく時期は、まさに「邪馬台国の時期」と重なる

>誤魔化しているよね。
>詐欺師の話法。

ごまかしているのは纏向石塚古墳の築造年代を見ないふりをしている>>956の方だし
それをミラーリングで畿内説側に押し付けているのがまさに詭弁であり詐欺師の話法だw
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:14:16.43
低脳の集まりwwwwwwwwwwwwww(大爆笑という意味らしい)
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:14:43.15
>>963
おやおや

見事なまでに物証を無視して
憶測だけで進む説だな
九州説は

ww
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:14:48.00
>>952
渡海は、渡河と同じで岸から岸へ渡ること。
瀬戸内海も行橋あたりの岸から難波あたりの岸に着岸するのだから、OK。
問題ない。
それより、渡海が(一日で漕ぎ渡れる距離)なんて定義はどこにもない。
勝手に作り出しては、イカンの金球。

渡海千余里で倭種の国と書いてあるね。
この地理記述に当てはまるところは、瀬戸内海しかない。

(水行十日陸行一月)は、古代中国人の固定観念である仙人郷にある邪馬台国に行く道順。
その邪馬台国は、沖縄あたりにあると想定されたわけだけど、実際の邪馬台国はそこにはなく、卑弥呼のいる実際の邪馬台国は筑後山門。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:17:24.42
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。
倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。
小島の諸国はこれを畏怖している。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:17:47.45
>>967
憶測というより妄想だ
九州説だからな
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:18:47.65
>>963
倭国上陸までぴったり1万里とは出来過ぎですな
これは概念的な架空の数値を無理やり当てはめたもので
実際に計測された物じゃないのかも知れんなあ
例えば淮南子に書かれてるこの世の果て1万2千里の数値とか
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:21:00.82
魏志倭人伝に書かれてる
女王国まで1万2千里は架空の距離で
実は短里でも何でもなかったんじゃ
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:21:03.41
>>968
>瀬戸内海も行橋あたりの岸から難波あたりの岸に着岸するのだから、OK。

いや、さすがにソレは牽強付会だろう
用例などないぞ
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:21:35.26
>>960
>どの遺跡で、何年ごろだと考えている?
>年代比定の証拠は?

このあたりは常識として知っておいてもらわないと、
邪馬台国の比定地論争には参加できないレベル

纏向遺跡には
纒向石塚古墳 墳丘長96メートル
纒向矢塚古墳 墳丘長96メートル
纒向勝山古墳 墳丘長115メートル
東田大塚古墳 墳丘長120メートル
が、箸墓古墳以前に累代的に築造されている

最初の纒向石塚古墳は西側周濠から庄内0式期の土器が出土しており
三世紀初頭の築造と推定されている
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:21:57.56
>>930

北部九州説は渡海後船を一切使わない説
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:22:57.37
>>956
認めて頂いてありがとう。
この問題については、邪馬台国の表記はひとまず棚上げにしておきましょう。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:24:50.99
>>968
>(水行十日陸行一月)は、古代中国人の固定観念である仙人郷にある邪馬台国に行く道順。
>その邪馬台国は、沖縄あたりにあると想定されたわけだけど、実際の邪馬台国はそこにはなく、卑弥呼のいる実際の邪馬台国は筑後山門。

行程からの憶測という方法論を捨てると
九州だという説そのものが沈没するのだが
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:26:13.20
>>799
女王国は邪馬台国
魏志倭人伝は恐らく淮南子を下敷きにした後漢からの伝承
倭国の首都まで国境より南1万2千里
その場所は倭の極南界で会稽東冶乃東であるにすり合わせて書かれた
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:26:35.04
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:27:27.89
>>982
「南→東」などのような嘘つき騙しの、俗物知力しかない大和説者には
それなりの紛い物な真実しか見えないのは事実
0981日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:28:23.99
>>963
あえて書くが「バカ丸出し」だぞ?

>その通り。
>水行1日を千里とした。
 ↑
これとこれがまったくつながらない
    ↓
>だから短里だし、だから帯方郡から一万里の九州北岸までは水行10日なんだ。

まず距離が測れないから渡海千里としているのに、
それを実距離と紐付けするのが意味がない
実際、対馬ー壱岐間の距離に対して、壱岐ー九州間は半分強しかない
短里の長さは融通無碍に伸び縮みするww

次に、渡海と水行をごっちゃにしているのがおかしい
渡海と水行は別の概念

そして、水行千里を無理やり水行1日に読み替えているが、
帯方郡から対馬対岸の狗邪韓国まで遠すぎて、7日で水行するのは物理的に不可能

ぼろぼろやね
妥当なところがひとつもない
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:30:00.72
>>979
女王国は邪馬台国
魏志倭人伝は恐らく淮南子を下敷きにした後漢からの伝承
倭国の首都まで国境より南1万2千里
その場所は倭の極南界で会稽東冶乃東であるにすり合わせて書かれた

1万2千里は実測でも何でもなく
まして短里でもない世界の果てを表す概念的または
符牒的な数字
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:30:52.81
>>969
旧唐書は、後漢書の倭國大和混同説を引き継いで、倭奴国からずっと発展してきた王権であるとの立場。
これが錯誤であることは、後漢書をよく読めば分かること。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:32:07.93
纒向遺跡からは卑弥呼が魏などとの大陸と交流していたことを証明する漢鏡、後漢鏡や刀剣類は出土していない
また、魏志倭人伝に記された鉄鏃や絹も出土していない


纒向が3世紀だとしてもなんら騒ぐことは無い、纒向に人がいなかったと誰も指摘はしていない
日本全国 3世紀に人は居たのだから纏向に人がいてもなんら不思議な事でも無い

邪馬台国と結び付けようとするのが不思議である
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:34:28.56
とあるスレにもいるでしょ


402 :猿田彦:2011/11/04(金) 03:07:07.20 .net
今の自分の状況を把握しろ、高望みしても無理だ

403 :名無しさん@京都板じゃないよ:2011/11/04(金) 04:19:56.63 .net
>>402
誰がいつ何処で高望みなんてしてるんだよ?w
いくら2ちゃんだからって、畏き神祇の御名を騙ってアホな書き込みしてるとヤバイよ。
おふざけ書き込みなら名無しでやれよ。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:37:45.86
鉄器と庄内土器の初発地は熊本
畿内の大古墳に埋葬されている赤色石の石棺も、同じく熊本に発する
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:39:28.51
じゃ前方後円墳が出現する頃には
熊本は畿内の手下だったワケだな
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:39:51.51
>>968
既にフルボッコだがww

>渡海は、渡河と同じで岸から岸へ渡ること。
>瀬戸内海も行橋あたりの岸から難波あたりの岸に着岸するのだから、OK。
>問題ない。

それで言ったら、瀬戸内海を北部九州から畿内までたどり着くのに、
渡海が10回やそこらでは足りないだろうにww 問題だらけだよw

>それより、渡海が(一日で漕ぎ渡れる距離)なんて定義はどこにもない。
>勝手に作り出しては、イカンの金球。

渡海自体は、「一日で漕ぎ渡れる距離」という定義ではないが、海上で夜明かしをしたら
遭難するだけなので、実際問題としては渡海は一日で行けるところまでしかないことになる
そして、海上距離を測る術がないので、一日で渡海する距離を便宜的に、大陸中華で遠い距離として座りのよい「千里」としてあるだけ

>渡海千余里で倭種の国と書いてあるね。
>この地理記述に当てはまるところは、瀬戸内海しかない。

そんなことはない
伊豆諸島でもいいし、方角を気にしなければ、隠岐の島や佐渡も渡海千里で倭種の国だ

>(水行十日陸行一月)は、古代中国人の固定観念である仙人郷にある邪馬台国に行く道順。
>その邪馬台国は、沖縄あたりにあると想定されたわけだけど、実際の邪馬台国はそこにはなく、卑弥呼のいる実際の邪馬台国は筑後山門。

旅程が沖縄あたりを想定しているというのならば、その旅程で北部九州に着くというのは論理的に矛盾している

そして、筑後山門には七万戸を想定できるような遺跡はないし、投馬国の比定地にも困る
さらに言えば、3世紀頃の筑後平野は、山門郡の半分くらいが有明海の海の底だ
下山正一先生の有明海の海岸線の変遷図をググって見てごらん、筑後山門では十分な土地もないよ
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:42:03.88
伊達郡 川俣町という掲示板があるでしょ?
そこにも「スサノオ」という人(名乗っている)がいたり、

『311 被災地』
この辺りでしょ?色の濃いところ
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:43:50.32
>>977
それが、倭人伝をよく読めてないことを示している。
倭人伝が唐津から東北へ行く道順である伊都、奴、不彌を、唐津から南東へ行く道順に当てはめたか。
倭人伝は伊都が外交使節が常に逗留したところであると書いてあるように、かつて倭奴国へ行った際や、いま邪馬台国へ行くときに用いる逗留所の施設があったことが分かる。
ということは、実際の伊都、奴、不彌に行く方位が邪馬台国へ行く行路の方位ということになる。
そして、倭人伝は、狗奴国の北に邪馬台国があるとしているのだから、狗奴国のクコチヒクがいる所を熊本の菊池とすれば、邪馬台国は熊本の菊池の北となり、また不彌国を筑紫野あたりとすれば、邪馬台国は筑紫野・小郡あたりの南方にあることになる。
熊本菊池の北、小郡の南に合致する地理的位置は、筑後山門しかない。
筑後山門が、卑弥呼の宮室のあった所だ。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:45:38.51
「wwwwwwwwwwwwwwww」

大爆笑という意味らしいんだけど、あと草という意味とか
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:47:19.56
>>979
短里などない
古代から妄説があるだけだ
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:48:38.07
>>991
陳寿が東にある邪馬台国を南と書いたから
記述上は邪馬台国は会稽東冶乃東で沖縄や台湾辺り
考古学物証では畿内
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:49:22.99
>>983
>>投馬国は宮崎県。<

>これも投馬国が女王国以北にならないからダメだよ <

女王國は、共立國の事になり、
共立に反対であった事になるのは狗奴國だけであり、
投馬國は共立國になるから、「女王國」の一員であり、
だから、「女王國以北」に中に含まれる事になる。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:49:45.15
>>984
このように、何も証拠を出さないのが九州説


つまり、妄想
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:50:07.74
>>991
都合のいいチェリーピックやね
仮定でしかない狗古智卑狗=菊池彦だけに頼って、都合の悪い所を全部無視して
結論ありきの決め付けをしているだけ

投馬国はどこに置けばいいんだ?
水行十日陸行一月はどこへ行った?
その説だと、水行十日はもしかして御笠川と宝満川の川の水行なのかい?
陸行だけで1週間もしないで筑後山門までくらいは行けるよね?
ボロボロじゃないかw

>唐津から東北へ行く道順である伊都、奴、不彌を、唐津から南東へ行く道順に当てはめたか。

方角が90度狂っていることを許容するなら、日本海経路の畿内説が
魏志倭人伝の旅程に一番綺麗にマッチするんだが?
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:52:19.86
>>991
このように糸島と博多を捨てた時点で
九州説は世間から捨てられる

みじめだな
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:53:42.62
>>995
南にあっても「以北」だと言って
世間が納得すると思ったら

大甘
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 18:53:58.49
そもそも芸能界の話なの、何の話なの?

??????????????????なんだけど


大爆笑
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