邪馬台国四国説 part2
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3年ぶりの新スレか。
新スレ、開けましておめでとうございます。 邪馬台国は,
畿内大和説があこがれたような、女王を戴くユートピア国家ではなかった。
事実は、鉄器で完全武装した渡来人侵入者で、(奈良にあらざる)奈良ず者国家だったのだ。
そして@阿波の先祖も、鉄の片棒を担いでいたのだよ。 蓮華谷古墳群(U)二号墳
「蓮華谷古墳群」
当物件は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏所在の蓮華谷古墳群(U)二号墳の出土品である。
調査により古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上で重要な古墳である。
副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄鉇1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、徳島県立埋蔵文化財総合センターで展示されている。
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/renge.html 「蓮華谷古墳群」
県道12号線の上で、標高は高そうだから、津波安全地帯を選んでいるようだ。
鉄斧その他は、熊本の方保田東原につうずるから、やはり邪馬台国同友の奈良ず者だったのだろうな。 砂鉄をなんに使ってたんだろうね?
砂鉄は製鉄で使うもので
鍛冶には使わない(使えない)
今のところ、日本国内での製鉄遺構は
5世紀以降で、
それ以前は鍛冶遺構だからね。 倭国大乱は、西日本を巻き込んだ動乱で、
徳島へも押し寄せたようなことが書いてあるな。
四国山脈沿いの、いわゆる中央構造線ハイウエーを伝って、
九州から、鉄のクニのならず者たちがなだれ込んできたのだろう。 矢野遺跡の発掘結果には、なにか不自然みたいなところを感じるけどな。
なぜ、銅鐸があんな横倒しの姿形で出てきたのかな?
なぜ、貴重な砂鉄入り壺とかが放棄されたのかな?
ホントは遺跡全体が、津波とか、洪水で洗われた跡なんだけど、解説してないんじゃないのかな?
、 >>11
>なぜ、銅鐸があんな横倒しの姿形で出てきたのかな?
小屋建てして、丁寧に埋納されているんだけど? @阿波 >>11
>ホントは遺跡全体が、津波とか、洪水で洗われた跡なんだけど、解説してないんじゃないのかな?
もちろん、津波や洪水被害は有っただろうが、すぐに再興したんだろうね。 邪馬台国の国力をもって。 @阿波 銅鐸小屋の説明はそうだが、
出雲の銅鐸は、邪馬台国からの侵入者ヤマタノオロチに慌てて隠した様子だ。
だから、阿波のはなんか腑におちない。
トイレでも装って隠したのかな。それともその前に、小屋ごと洪水で流されたか… >>14
>だから、阿波のはなんか腑におちない。
「忌部はん」 の本拠地(邪馬台国)なんだから、特別なんだよ。 同じ「忌部はん」 でも、出雲忌部とはわけが違うわね、そりゃ。 @阿波 なんだ、ヤマタノオロチとは忌部のことだったのか。
そーいや、出雲にも忌部という地名があるようだ。どのみち同類の大蛇オロチか。
まてよ、高千穂の後ろの祖母山には大蛇が住んでいたという平家物語の一節もあった。もしかして邪馬台国のヤマタの大蛇のことかもしれぬ。 出雲でヤマタノオロチを退治したのは、新羅系のスサノオノミコト(大国主命も新羅系)
なるほど、ヤマタノオロチとは邪馬台国のオロチ(大蛇)のことか・・・、
だから、退治したら、オロチの腹から草薙の剣が出てきたのだな >>16
>そーいや、出雲にも忌部という地名があるようだ。
出雲の勾玉も、倭国(阿波)を発った出雲の「忌部はん」作製だからね。 @阿波 アワ忌部は、山陰だけでなく、あちこち荒らしまわったのか、
だから、頭が八つもある大蛇だと、各地で忌み嫌われたのだろうな。 >>19
>アワ忌部は、山陰だけでなく、あちこち荒らしまわったのか、
その通り。 関東はおろか、朝鮮半島まで荒らしまわってるよ、「忌部はん」 は。 @阿波 >>21
>九州スレも、荒らしまわってるしな、、、
畿内スレもね、、、 @阿波 福津に上陸した@阿波は間もなく帰ってくるだろうな
なんせ、邪馬台国と女王の都は、阿波の忌部の邑にあるんだからな、、、
それにそのすぐ先には、女王の裸国もある、パラダイスが待ってるぞ〜〜 フフフの福津に上陸したはずの阿波はどこかで迷子になったようだな、、、
どうせ、阿波には帰り着けないだろうな。かわいそうに・・・ >>24
なに言ってんの? 倭国(阿波)へは東南陸行五百里行くように書いてあるだろ。
倭人伝通りに行けば倭国(阿波)に着くように書いてあるなるんだから、迷子になる訳ないわね。 @阿波 それにしては、まだあちこちで悪さをし、道草を食っておるようだ・・・
阿波国にとっては、頼りになりそうもない男だな。 >>27
>それにしては、まだあちこちで悪さをし、道草を食っておるようだ・・・
いや、とっくに卑弥呼より前から倭国(阿波)に到着しているよ。 ご心配なく。
>阿波国にとっては、頼りになりそうもない男だな。
倭国(阿波)にとって、もともと私など無用だよ。 遺跡や遺物、神社などが真実を物語ってくれているから。 @阿波 おう、苦労しつつも無事帰ってきたか、、、
なかなかのご苦労であった。これで女王卑弥呼も、阿波国も、阿波の人々も、末永く安泰であろう。 消去法で四国説支持だが
出雲、日向が阿波にあった説は苦しいな >>30
>出雲、日向が阿波にあった説は苦しいな
えっ、出雲や日向が記紀において、地名だと思ってるの?
宮崎の「日向」も、福岡の「筑紫」も、島根の「出雲」も、和銅6年(713)5月の「好字令」によって勝手気ままにつけた地名だよ。
何か勘違いしてないかい? @阿波 で、阿波博士に聞きたいのだが、
阿波は、いつ名づけられたのか?、 >>32
和銅6年(713)5月の「好字令」によって勝手気ままにつけた地名だよ。 @阿波 >>34
>さすが阿波博士は、畿内説のなりすまし
??? なに考えてんの?
@ 最初は、北の邪馬台国(粟国) と 南の狗奴国(長国)
A その後、「粟国」に統一
B 和銅6年(713)5月の「好字令」によって「阿波国」となる。 @阿波 残念だが和銅より前に筑紫や出雲はあったんだよ
九州や山陰を飛び越して、アワが栄えることもない
どうやったら、そうなるのか説明してみ
>>37
>残念だが和銅より前に筑紫や出雲はあったんだよ
残念だが、妄想。
>九州や山陰を飛び越して、アワが栄えることもない
まぁまぁ、
九州や山陰がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。 @阿波 >>37
>どうやったら、そうなるのか説明してみ
弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。
温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み
県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石
県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。
阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。 @阿波 >>37
>どうやったら、そうなるのか説明してみ
「倭国(阿波)の最先端文化・技術」 九州や畿内などとの圧倒的な差ですね。 @阿波
@勾玉
A軽量薄型土器
B前方後円墳
C水銀朱
D緑色片岩製柱状片刃石斧
E泥質片岩製石棒
FT類鉄鍛冶炉
G航海術
その他いっぱい >>41
>大事な金製品と絹は?
なにそれ? それがなにか? @阿波 さすが阿波博士は、(畿内〜)阿波にかけては、なかなかの博識ではないか、、、 >>43
>さすが阿波博士は、(畿内〜)阿波にかけては、なかなかの博識ではないか、、、
有るものを挙げただけだよ。
これといったものが無いところは、出来ない話だけどね。 @阿波 >>45
>宮崎や島根は和同より前は何と呼んでいたの?
分かっているのは、やはり倭国(阿波)だけじゃないの? @阿波 日本最古のお寺が阿波に在った可能性が、非常に高いってこと。
「郡里廃寺跡 (白鳳寺院)」
吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。
早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果「法起寺」式伽藍配置をとるものであることが判明した。
塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。
塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。
心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。
金堂跡は東西18メートル、南北15メートル前後と復原される。塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、
その下方に土塁を発見しており、また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、寺域をほぼ知ることができる。 @阿波 「石井廃寺跡」
石井廃寺は、南に緩く傾斜する段丘面上にある古代寺院である。
古くから瓦の出土などにより寺院の存在が推定されていた。
1957年(昭和32年)〜1959年(昭和34年)発掘調査が行われ、東に塔、西に金堂が並ぶ
法起寺式の伽藍配置であることが分かった。
また、明瞭な遺構は確認されないものの、二つの伽藍の北に講堂、南に中門が存在した
と推定されている。
出土遺物には瓦・土師器・須恵器の他に瓦塔などがある。
瓦の文様などから奈良時代前半に建立されたと考えられる。 @阿波 「入田瓦窯跡」
http://goutara.blogspot.jp/2011/06/blog-post_25.html
内御田窯跡群の中のひとつであり、気延山南の東斜面にある。奈良時代に屋根瓦を焼いた
窯跡で、外に須恵器も焼かれている。
18段の小さい段状の燃焼部と煙出し部分が確認されているが、燃料を燃やす焚き口部分は
残っていない。全長10m、幅1.3m、勾配45度の瓦窯様式である。
軒丸瓦と軒平瓦が出土しており、阿波国分寺跡・阿波国分尼寺跡・石井廃寺跡などで見つ
かっていることから、瓦を供給されるために作られたことが分かる。
奈良時代から平安時代初頭と案内の看板には記されているが、石井廃寺跡出土瓦
と同形式であるならば白鳳文化と呼ばれる頃と推測される。 @阿波 淡路島は倭国(阿波)の数ある諸島の一つだから。 @阿波 我が家のご先祖は、伊弉諾尊を奉る阿波路の豪族だった。
@阿波氏はその一の重臣だったのだろうな。 >>49
おもしろい
Wコージの都市伝説で取り上げて欲しいな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています