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邪馬台国四国説 part2
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0221日本@名無史さん
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2019/04/04(木) 13:23:03.25
>>220

じゃ、「インパクトある発掘」ってなに?   挙げてごらん。   @阿波
0222日本@名無史さん
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2019/04/04(木) 17:58:06.23
大代古墳は全長約54mの前方後円墳

後円部南北径31m・東西径45m  前方部長23m、くびれ部幅18m、前方部前面幅21m、墳高は後円部6.7m、前方部3.3m

前方部、後円部とも2段築成 葺石はあるが、全体ではなく、裾部を列石状に区画している程度。

円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪の破片が出土(第1段テラス上や前方部墳頂に円筒埴輪列があり、後円部墳頂に形象埴輪が並んでいたと考えられている。)

後円部頂に南北方向に南北約7.4m、東西約4.5m残存深さ約80cmの墓壙の中に内法で長軸3.7m、北小口幅1.1m、南小口幅1.0mの竪穴式石室があり、その中に刳抜式石棺がある。

石棺内から、滑石製臼玉28・緑色凝灰岩製管玉1が出土した。

原位置から移動した遺物は、鏡片、装飾品(管玉・臼玉) 武器(鉄鏃・銅鏃・鉄剣片・鉄刀片・鉄鉾片)武具(短甲片) 農工具(鋤先・鉄鎌) 工具(鉄斧・刀子・ヤリガンナ・鉄鑿)など。

石棺の石材は、さぬき市津田町火山産の白色凝灰岩。4世紀末の築造と推定されている。さぬき市津田町「岩崎山4号墳」より少し新しい古墳とみられている。
0223日本@名無史さん
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2019/04/04(木) 19:14:14.11
「加茂宮ノ前遺跡」
朱の生産国内最大・最古

Q 遺跡ではどのようなものがみつかったのですか。
A 水銀朱を生産したとみられる石臼や石きねが約300点。辰砂原石や表面に水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなどの関連遺物も多く、出土数の合計は約1000点になりました。
また、祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構16基と住居跡2基も見つかりました。

Q どのぐらい珍しいのでしょうか。
A 非常に珍しいものばかりです。縄文後期の石臼や石きねは三重県度会町の森添遺跡などでも見つかっていますが数十点程度で、1000点規模の発見は他になく、
加茂宮ノ前遺跡が当時国内最大規模の生産拠点だったと考えられます。過去の発掘調査で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)に水銀朱が精製されていたことは分かっていました。
今回の発見で、生産の起源は1500年ほどさかのぼることになります。
また、円形配石遺構の発見は西日本でほとんどなく、居住域と祭祀の遺構がひとまとめに確認できたのは西日本で初めてです。

Q 阿南市内では他の遺跡でも発見がありました。どのようなものですか。
A 加茂宮ノ前遺跡から約5キロ離れた若杉山遺跡は弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての辰砂の採掘遺跡で、坑道は国内最古であることが分かりました。
遺跡の時代は異なりますが、加茂宮ノ前遺跡で見つかった辰砂原石は若杉山遺跡から産出されたと考えられています。
那賀川中流域で辰砂の採掘から水銀朱の精製まで一体的に行っていたのでしょう。
0224日本@名無史さん
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2019/04/04(木) 20:42:20.62
「矢野遺跡」

徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。

このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。

用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。

土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。

祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。

石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。

文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。

2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊
0225日本@名無史さん
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2019/04/05(金) 07:27:03.79
交流を示す出土品

縄文時代を研究する県埋蔵文化財センター・湯浅利彦専務理事の話

矢野遺跡の出土品は、関東や九州から伝わった文化と県内で育まれた文化が混ざり合っており、地域交流の結節点だったことを示している。

西日本を代表する出土品で、徳島の歴史を県民に知ってもらいたい。

2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊
0226日本@名無史さん
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2019/04/05(金) 11:46:39.76
古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や、水銀朱の原料の辰砂原石などが大量に出土した阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡。

辰砂原石などの発見で、水銀朱の生産、利用時期が1500年以上さかのぼることが明らかになった。

また、水銀朱の生産拠点だったとされる竪穴住居跡や、祭祀に使っていたとみられている円形配石遺構など、縄文社会の解明に大きな役割を果たす。  @阿波
0227日本@名無史さん
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2019/04/05(金) 16:02:09.74
徳島県阿南市水井町「若杉山遺跡」・「丹波坑口」・「長生町奥ノ谷遺跡」

出土遺物
@石器(石臼・石杵)
A土器
 甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
 小型丸底坩(弥生X様式後半〜布留式まで)庄内式並行期がほとんど
 土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
B玉類
 蛇紋岩製勾玉
C鉄製品
 刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
D自然遺物
 貝片・獣魚骨・人骨片

想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
 分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半

 若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性
              (徳島県立博物館1997・岡山1998)
0228日本@名無史さん
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2019/04/05(金) 18:06:50.30
鳴門・板野古墳群について    「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋

鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。

主な古墳は、西山谷2号墳  池谷宝幢寺古墳(県史跡)  天河別神社古墳群(6基・県史跡)  萩原1号墓(消滅)・2号墓  大代古墳(県史跡)  板野の愛宕山古墳(県史跡)

発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、

鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。

西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。

近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津

・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。

鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。

「板野・鳴門古墳群」
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm
0230日本@名無史さん
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2019/04/05(金) 20:06:03.54
「カネガ谷遺跡」

出土した弥生土器・石器から、弥生時代後期初頭の集落であることが分かった。

特に、注目される遺物として朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧が出土した。

https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023019/
0232日本@名無史さん
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2019/04/05(金) 22:06:51.58
「桧はちまき山遺跡」

桧はちまき山遺跡は、軍事的防御性をもつ遺構や石鏃などの武器が少ないことなどから、日常生活が営まれた高地性集落であったと思われる。

https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023021/
0233日本@名無史さん
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2019/04/05(金) 22:45:08.28
稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。

斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、

石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。

蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡

原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩

徳島県で勾玉が出土された遺跡:稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など。

井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、

新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。

出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、

当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。  @阿波

「稲持遺跡」 
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023036/
0234日本@名無史さん
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2019/04/06(土) 13:43:03.05
「レキシルとくしま」のHP 初めて知りました。
訪問時の役に大いに立ちそうです、  ありがとうございました。
新元号が発表され、原典である万葉集が見直されているようです。
解説書には、素人でも地勢的に疑問に思う説明がなされています。
奈良盆地にカモメがとんでいるとか、難波宮(大阪)から小豆島がみえるとか・・・
漫才の世界です。
今次を機会に斯様な馬鹿げた解釈の見直しがされればよいのですがね。
0235日本@名無史さん
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2019/04/07(日) 06:38:59.96
【応神天皇(倭王讃)の難波大隈宮】   「春三月に、難波宮に幸せる時の歌」

「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ船 泊まり知らずも」

   「上の一首、船王の作」


奈良時代の後期難波宮(大阪市)からは「阿波の山」は絶対に見えない。
また、この「阿波の山」は、徳島市の眉山ではなく、香川県さぬき市津田の前期難波宮辺りから見た、なだらかな讃岐山脈である。

倭国(阿波)から遷都する前の飛鳥時代に宮が設置された前期難波宮は香川県さぬき市津田。
この歌は香川県さぬき市津田の前期難波宮で読まれた歌六首の一つである。 @阿波
0236日本@名無史さん
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2019/04/07(日) 10:59:03.33
土成町宮川内の奥に飛蔵山(ひそやま)という山がある。 飛蔵山は御祭神として第二十七代 安閑天皇を奉斎する吉野神社が古くから鎮座していたと伝わる。

吉野神社は神仏習合の時代に飛蔵宮(ひそみや)または蔵王権現と改称され、山伏をはじめとする修験道の一大霊場として栄えた。

近くに大別当、教連寺という字名が残されており、教連寺は蔵王権現の宮司であり大権別当は大宮司が居住していた場所であると考えられている。
0237日本@名無史さん
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2019/04/07(日) 13:36:10.25
芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。

県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。

また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。

土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。

本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、

大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。
0238日本@名無史さん
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2019/04/07(日) 13:36:56.64
芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。

古墳時代初期(約1800年前)の遺構から、出土した土器は概ね、弥生時代終わり頃〜古墳時代初め頃に製作されたと考えられ、

徳島(東阿波型土器)、香川(下川津B型土器)、高知(ヒビノキ式土器)、岡山、関西地域(布留式土器)と、他地域で製作された土器が多く出土。

特に、「布留式土器」と呼ばれている関西地域で製作された土器となると、他地域での出土点数は限られてくる。

ところが、芝遺跡では、頻繁な交流が行われた結果として、各地の多くの土器が出土している。

おそらく港的な役割を果たしていたと考えられ、寄港地、宿場地として盛況していたと思われる。

芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められ、

弥生時代終末頃になると吉野川下流域の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになる。

古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められるようになる。

この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、「海人」の存在が想定されている。

この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。

これは往古徳島県の海岸沿いにあった長國の範囲内とも一致する。
0239日本@名無史さん
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2019/04/07(日) 14:48:23.71
※阿波に王都が在った根拠の新しい情報

徳島新聞 2016‎年‎9‎月‎9‎日

「美馬・中山路遺跡 青銅の鈴・椀 県内初出土 6〜8世紀 副葬品に使用」

徳島県教委と県埋蔵文化財センターは8日、美馬市美馬町の中山路遺跡から6世紀後半〜8世紀のものとみられる青銅製の鈴と椀が県内で初めて出土したと発表した。

遺跡の南東約100mには7世紀後半に建てられた国史跡の郡里廃寺跡があり、県教委などは郡里廃寺に関係する建物があった可能性が高いとみている。

出土した約7千点のうち、6世紀後半の青銅製の鈴は直径約3.7pで、古墳の副葬品や儀礼用の馬の飾りに用いられた。

7世紀後半〜8世紀の青銅製の椀(直径12〜14p)の破片は全長約6pで、仏具や副葬品に使われた。

直径が約20pあるとみられる7世紀後半〜8世紀前半の陶製の円形すずりの破片(全長約5p)や、郡里廃寺跡で出土したものと同じ型枠で作られたハスの花の模様が付いた瓦(蓮華文軒丸瓦)の装飾部分(直径約20p)も見つかった。

郡里廃寺跡は県内最古級の寺院跡で、地元の豪族が建立したとみられている。中山路遺跡で建物の遺構は確認できなかったが、通常の集落跡では出土しない品が出ているため、寺の関連施設があった可能性があるという。

県埋蔵文化財センターは「当時は権力の象徴が古墳から寺院へと移行する時期だった。古墳と寺院の両方に関係する品が1か所から見つかったことは、変遷を知る上で貴重だ。郡里廃寺跡周辺の全体像を研究する手掛かりにもなる」としている。
0242日本@名無史さん
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2019/04/07(日) 17:35:01.29
神武東征説話は吉野川下流南岸勢力が北岸勢力を従属させた歴史の記憶で、樫原神社の東西にその舞台が連なっている。

「樫原神社」  
https://sueyasumas.exblog.jp/9839297/
0243日本@名無史さん
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2019/04/07(日) 21:08:45.56
阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」

御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)

「阿波誌」に「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とあります。

菊理媛神(くくりひめのかみ)は、日本の神。加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比盗_(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。 wikipedia

http://goutara.blogspot.com/2012/11/blog-post_29.html 
0244日本@名無史さん
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2019/04/08(月) 08:20:09.20
徳島県吉野川市山川町忌部山字峯石

「稚宮(わかみや)神社」 

祭神は、思兼尊・長白羽命です。長白羽命? と調べたら荒妙を織った神麻績部の祖神。

https://sueyasumas.exblog.jp/16991385/
0245日本@名無史さん
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2019/04/08(月) 09:06:26.50
徳島県吉野川市山川町忌部山字白山

「白山(しらやま)比売神社」

石碑には「忌部社摂社 志良夜末比賣神社」とあります!!

「忌部神社」の七摂社の一つで、祭神は「伊佐奈美尊」です(*^_^*)♪

ここはイザナミ命の「遥拝所」・・・。

この「白山比売神社」の南西には「高越山」があり、山頂に「イザナミ」が祀られていると言われています♪

イザナミ命・イザナギ命の神号は海の霊物「イナサ(雄魚)」より名付けられたという説があり、イザナミ命の生前の名は「白山比売」であったという伝承があるそうです!!

https://sueyasumas.exblog.jp/17016171/
0246日本@名無史さん
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2019/04/08(月) 10:25:15.54
徳島は古事記神話の神名がつく延喜式内社の数が他の県に比べると圧倒的に多いことがわかる。

例えば、徳島県の式内社50社のうち19社に古事記神話の神名がついているのに対して、

奈良県は286社のうち3社、島根県の出雲は187社のうち0社である。

式内社以外でも、徳島県の神社の祭神はほとんどが古事記神話の神である。

この事実からも、古事記神話は倭国(阿波)で起きたことを記した記録なのである。   @阿波
0247日本@名無史さん
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2019/04/08(月) 17:46:50.73
徳島県美馬市美馬町にある「玉振神社」。

主祭神は、玉振姫命・大己貴命で、美馬市美馬町宗重部落のほぼ中央にある。

すぐ東には四国最大級の巨石墳(円墳)の「段の塚穴古墳」があり、西には白鳳時代の寺院跡「郡里廃寺跡」がある。

この社はもと正部神社の祭神、清姫霊神の侍女、玉振姫霊神を祀っていたといわれている。

延宝五年(1677)に大己貴命を宗重部落の氏神として合祀し、鎮座したものだそうだ。

この美馬町は、吉野川中流域にあり「倭地」なのである。

美万岐に入り込んで美万岐に居を定め、師木水垣宮を宮殿にしたと伝えられている。

この「所知初国之御真木天皇(はつくにしらすみまきのすめらみこと)」はもちろん「崇神天皇」のこと。
0248日本@名無史さん
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2019/04/08(月) 17:49:24.69
この師木水垣宮の御宇に疫病がはやり、多くの人民が死ぬという大変な出来事が起こっている。

これは、大国主命に近い埴夜須比賣命(武埴安彦)の一族を討亡した祟りと考えて恐れられたとも考えられ、後世の贈名でも祟神(たたりがみ)の天皇となっている。

また、大国主命の長男「阿遅志貴高日子根神」(加茂の丹田古墳が神陵)の真系であり、美万郡美農郷に居をかまえ、大田村や種穂山一帯を支配する大人大田々根子(うしおおたたねこ)をわざわざ呼び出し、

大田々根子を神主として大御倭の大神(大国主命)を拝祀させ、伊加々志男命をして「倭大国魂、倭大国敷両神宮」を建立させた。

崇神天皇の謚号のとおり、崇神紀には天照大御神や倭大国魂神社の祭祀、天神地神、神地・神戸を定め、

供物の定義等のほか「玉振」として大田田根子や市磯長尾市が求められるなど、神祇制度の起源説話ととれる記事が集中している。

「玉振神社」は「玉振り」として求められた淳名城入姫命が祀られていたものと思われる。
0249日本@名無史さん
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2019/04/08(月) 19:19:35.66
徳島市 「金山神社・立岩神社」
「八尺(やあた)の鏡はこの地で作られた」

ご存知のように日本の皇室に代々伝わる『三種の神器』とは、『天叢雲の剣(草薙の剣)』、『八尺の鏡』、『八尺(やさか)にの勾玉』をいうが、その神器のひとつ『八尺の鏡』の製作地はこの神社であるという伝承がある。
その背景には、銅鐸や銅鏡の出土が多く「たたら跡」と見られる史跡もあるこの地区が「日本の治金技術発祥の地」ではないかという説がある。
見渡すと周辺にも「金谷」、「多々羅(古来、精錬所のことを『たたら』という)」、「八田(八尺)」という地名が残り、まさにこの「金山神社・立岩神社」の鎮座地自体も『多家良(たから)』という埋蔵金ミステリーそのまんまの名前。
この精錬伝承の中心となっているのが、『金山神社』と『立岩神社』の両神社である。金山神社は鍛冶の神である金山毘古(かなやまびこ)神を祀り、その境内の中に高さ7m幅4mの日本一の巨大陽石(と掲示されている)をご神体とする『立岩神社』が鎮座する。
この巨石は『天津麻羅(あまつまら)』を祭神とし、素朴に男性を象徴しているが特に通俗的な信仰はない。
古事記には「八尺の鏡は天の金山の鉄をとりて天津麻羅を求ぎて伊斯許理度売命(いしきりどめのみこと)に科せて鏡をつくらしめ」という記述があり、これがこの地が八尺の鏡製造地であることを裏付けている。

なお、ここより直線で13キロ西には神山町の『立岩神社』があり、ここには高さ20m幅20mの女性器を象徴する巨石があり、古来より「天の岩戸」と称されている。  
0250日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 07:37:46.57
「物部氏」の祖神とされている伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命が

日本で唯一、阿波國麻殖郡 「伊加々志神社」で祀られていることから、

物部氏の本貫地は旧麻植郡周辺の可能性が高い。   @阿波
0251日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 08:27:56.39
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 「大和」と付いている。

「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波なのに「倭」である。

推して知るべし。   @阿波
0252日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 10:46:50.22
「猿田彦大神」と「天鈿女命」とは夫婦であることは日本神話に詳しい人はご存知でしょう。

徳島県鳴門市にある「大麻比古神社」の祭神は「猿田彦大神」とされています。

その大麻比古神社背後の大麻山には「猿田彦」を祀る祠があったという。

実はこの大麻山の隣には峰続きで「天円山(あまがつぶやま)」があります。

そして、この天円山山頂には「天鈿女命」を祀る「天ヶ津神社」が鎮座しています。

「猿田彦大神」と「天鈿女命」両神は仲良く阿波国鳴門の「大麻比古神社」裏手の「大麻山」・「天円山」に祀られています。

阿波って面白いところだと思いませんか?
0253日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 10:53:44.68
聞いたこともないね

ねつ造wと言われるだけ、どこの基地外なんだ
0254日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 11:07:13.93
>>253
>聞いたこともないね

当たり前。  倭国(阿波)以外にそんな話、あろうはずがない。   @阿波
0255日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 14:16:53.53
「天岩戸別神社」は徳島県名東郡佐那河内村上字牛木屋に鎮座し、「手力男神」が祀られている。

この神は「古事記」に天岩戸を開けた神として書かれ、「佐那那縣(さなながた)に座す」と書かれている。

佐那河内村は、古く「佐那県(さなのあがた)」と称されたと「村史」に書かれ「古事記」と一致する。

その上、西に山を越えると天岩戸立岩神社があり、徳島市には式内社の天石門別矢倉比賣神社と天岩戸別豊玉比賣神社が鎮座することは、

天孫降臨の地が、阿波であると言わざるを得ない。   @阿波
0256日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 16:14:28.89
徳島新聞 平成29年12月3日朝刊

阿南市長生町宮内の「八鉾神社」が所蔵する平安時代の書物「紙本墨書二品家政所下文附紺紙金泥法華経八巻」(国指定重要文化財)の金泥文字に真鍮が含まれていることが、修繕に伴う科学調査で判明した。

平安時代の真鍮の使用が明らかになったのは国内3例目で、同時代の使用を裏付ける貴重な資料になりそうだ。   @阿波
0257日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 16:39:10.03
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】

徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。

この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0258日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 17:49:09.02
空海が讃岐忌部という説があるらしいね
阿波爺的にはどうなん?
0259日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 18:06:09.64
その説に倣えば、最澄は近江忌部だろう。  織田信長は尾張忌部となる。   

いずれにせよ、大概の人が忌部一族の末裔だよ。    @阿波
0260日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 18:22:30.89
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。  @阿波

ではまず 【T伊邪那岐・伊邪那美二神による神々の生成まで】

「意富門麻比売神社」 祭神 「神世五世・大戸麻姫命」 比定 宅宮神社
「天椅立神社」 祭神 「造化神か伊邪那岐命か」 比定 天椅立神社
「伊邪那美神社」 祭神 「伊邪那美命」 比定 高越神社(神陵:高越山山頂)
「麻能等比古神社」 祭神 「水門の神か」 比定 天神社
「鹿江比売神社」 祭神 「野の神・鹿屋野比売命」 比定 殿宮神社に合祀
「波尓移麻比弥神社」 祭神 「埴土の神・波爾夜須比売命」 比定 波尓移麻比弥神社
「弥都波能売神社」 祭神 「水の神・彌都波能売神」 比定 八大龍王神社
0261日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 18:40:43.76
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。  @阿波

続いて 【U天照大神・須佐之男命の世代】

「天石門別矢倉比売神社【大社】」 祭神 「天照大神」 比定 天石門別矢倉比売神社(神陵)
「和名佐意富曾神社」 祭神 「須佐之男命か」 比定 和名佐意富曾神社
「忌部神社【大社】」 祭神 「天日鷲命」 比定 忌部神社
「大麻比古神社【大社】」 祭神 「猿田彦命か」 比定 大麻比古神社
「秘羽目神足濱目門比売神社二座」 祭神 「日鷲神と妻神か」 比定 論社あり
「天村雲神伊自波夜比売神社二座」 祭神 「天村雲神と妻神」 比定 論社あり
0262日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 19:13:41.31
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。  @阿波

さらに続いて 【V国譲りに遣わされた神達と葦原中つ国の神々の時代】

「御縣神社」 祭神 「国譲り交渉第一の使者:天菩日命」 比定 豊国神社境内社(神陵跡)
「山方比古神社」 祭神 「第二の使者:天若日子」 比定 経塚大権現(神陵)
「建布都神社」 祭神 「第三の使者:建御雷男命」 比定 建布都神社
「矢桙神社」 祭神 「大国主命」 比定 矢桙神社
「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 勝浦郡生夷神社
「勝占神社」 祭神 「事代主命」 比定 勝占神社(神陵跡)
「多祁御奈刀祢神社」 祭神 「建御名方神」 比定 多祁御奈刀祢神社
「天水沼間比古神社・天水塞比売神社」 祭神 「沼江姫の父母神か」 比定 杉尾神社か
「鴨神社」 祭神 「阿遅鉏高日子根命」 比定 鴨神社(丹田古墳が神陵)
0263日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 20:00:51.41
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。  @阿波

さらに 【W神武天皇の出生と東征の時代】

「和多都美豊玉比売神社」 祭神 「海神の娘・豊玉比売命」 比定 西宮神社(和多都美宮跡)
「天石門別豊玉比売神社」 祭神 「天孫三代の后:豊玉比売」 比定 城山東麓(神陵跡)
「宇志比古神社」 祭神 「神武の参謀:速吸の宇豆比古」 比定 宇志比古神社(神陵遥拝地:西山谷二号墳)
「伊比良姫神社」 祭神 「神武天皇の妃 阿比良比当ス」 比定 伊比良姫神社 藍住町徳命が神陵跡
「阿佐多知比古神社」 祭神 「神武天皇か」 比定 阿佐多知比古神社 元の鎮座地は渋野か
0264日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 20:28:53.19
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。  @阿波

さらにさらに 【X第十代崇神天皇の時代まで】

「御間都比古神社」 祭神 「第五代御間都比古天皇」 比定 御間都比古神社
「大御和神社」 祭神 「御和の神:大国主命」 比定 大御和神社
「伊加加志神社」 祭神 「第十代崇神帝の母:伊迦賀色許売命」 比定 伊加加志神社
「倭大國玉神大國敷神社二座」 祭神 「倭の国を証明する国魂・国敷の神」 比定 倭大國玉神大國敷神社
「天都賀佐比古神社」 祭神 「笠縫邑の大人:笠彦」 比定 天都賀佐比古神社(神陵跡)
「建嶋女祖命神社」 祭神 「孝元帝の妃:埴安比売命」 比定 建嶋女祖命神社
「和耶神社」 祭神 「埴安比売の御子:建埴安王」 比定 羽浦神社に合祀 元鎮座地は能路山(古墳跡)
0265日本@名無史さん
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2019/04/09(火) 21:45:16.60
徳島で魏志倭人伝・記紀神話巡りツアーをしましょう。  @阿波

いよいよツアーの最終章 【Y景行天皇から皇極天皇の時代まで】

「白鳥神社」 祭神 「日本武尊」 比定 白鳥神社(神陵跡)
「建比売神社」 祭神 「日本武尊の妃:建比売か」 比定 建比売神社
「賀志波比売神社」 祭神 「景行帝の妃:美波迦斯姫か」 比定 津峰神社
「事代主神社」 祭神 「事代主命」 比定 阿波市事代主神社
「岡上神社」 祭神 「推古天皇」 比定 岡上神社(神陵跡)
「速雨神社」 祭神 「皇極天皇」 比定 速雨神社(雨乞神事)
0266日本@名無史さん
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2019/04/10(水) 07:41:23.30
阿波国の北方 鳴門に「葛城神社」が鎮座する。

「葛城神社」は鳴門市北灘町粟田に鎮座し,「一言主神(ヒトコトヌシノカミ)」をご祭神とする。

また、その「葛城神社」では境内に古墳が存在し、古代の遺物が発掘されている。

そして「天円山(あまがつぶやま)」一帯は特に重要な地域で、古代史に詳しい人は「萩原墳墓群」をご存知であろう。  

また、その鳴門では、神武東征の参謀役となった速吸の門(鳴門海峡)の大人・宇志比古尊が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。

何の縁も所縁も無ければ、こんなところに 「宇志比古尊」をわざわざ祀るはずがないのである。    @阿波
0267日本@名無史さん
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2019/04/10(水) 13:23:42.88
「式内社 阿波國名方郡 天佐自能和氣神社」

御祭神  神皇産霊尊・高皇産霊尊・日子刺肩別尊・意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命

徳島県徳島市。吉野川の南岸、四国三郎橋の近くの堤防側にある。

現在の祭神は、四柱だが、もとは、日子刺肩別尊一柱。ついで、その母にあたる意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命も合せ祀り、さらに、二柱を後世に加えたと考えられている。

意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命は、孝霊天皇の第三夫人であり、日子刺肩別尊は、その第二子。

高志之利波臣・豊前之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされている。

ちなみに、第一子は、大物主命の妻となった夜麻登々母々曾毘売命。第三子は、四道将軍の一人・大吉備津彦命。

すごい兄弟なのである。

神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いていたが、拝殿には鷹羽紋があった。
0268日本@名無史さん
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2019/04/10(水) 14:43:10.74
御所市高天の高鴨神は、阿波国加茂の「鴨神社」からの勧請である。 

「阿遅志貴高日子根神」は、大国主命と、須佐之男命の娘・多紀理毘売命との間に生まれた長男。 「迦毛大御神」とまで呼ばれた実力者である。

阿波国三加茂町加茂山の高い尾根上に占地する「丹田古墳」は「阿遅志貴高日子根神」の神陵。

その麓に鎮座する式内社「鴨神社」はその拝所。
0269日本@名無史さん
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2019/04/10(水) 14:54:51.36
「延喜式式内社 阿波國美馬郡 十二座 鴨神社」

鎮座地 徳島県三好郡東みよし(旧三加茂)町加茂字山ノ上3650  

御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神

「阿波志」に「鴨祠延喜式小祀と為す。加茂村に在り旧事記にいわゆる事代主の神孫、鴨王是也」と。

また、「寛保改神社社帳」には「加茂村式加茂大明神神主加茂村 白川信濃同長太夫、同助大夫、同権之進」とあり、

更に「阿府志」には、「鴨神社小社三好郡加茂村に在り祭神一座別雷神、神主白河信濃社侍宮川某堂河原某」とある。

鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。 「徳島県神社誌」

京都、上賀茂神社の創立が、天武天皇7年(678年)と伝えられているので、「鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。」を信じれば

「京都、上賀茂神社」より「阿波國 鴨神社」の創立が古いということになる。 
0270日本@名無史さん
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2019/04/10(水) 15:24:17.95
「郷社 下加茂神社」

鎮座地 徳島県三好市三野町加茂野宮492−2

御祭神 玉依姫命

※玉依姫は、鴨神社の御祭神「 別雷神 」の母にあたる。
0271日本@名無史さん
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2019/04/10(水) 15:36:55.23
阿波國加茂に鎮座する「鴨神社」、阿波國加茂野宮に鎮座する「下加茂神社」が京都「上賀茂神社」「下鴨神社」の元宮であろう。

「事代主の神孫、鴨王是也」 鴨族の王の祀られている所(阿波国三好郡加茂村)がいわゆる本家、本元となる。

京都上賀茂神社の祭神は賀茂氏の祖神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)。

その京都上賀茂神社は「賀茂から別れた」つまり賀茂族(鴨族)の分家の意味である。
0272日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 07:40:40.18
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とは、徳島県阿南市橘町周辺を指している。

その証拠に、その沖合に浮かぶ伊島には「当所神社」が鎮座しており、御祭神に奥津三神(下記)が祀られている。

・奧疎神(おきざかる)
・奧津那藝佐毘古神(おきつなぎさびこ)
・奧津甲斐辨羅神(おきつかいひべら)

面白い事に、この奥津三神は、伊邪那岐が黄泉の国から帰還した際、

「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓をした時に、最後に産まれた神々である。

しかも、この奥津三神は、日本で唯一、伊島にのみ見られる神で、

日本の他の神社で、他に奥津三神を祀る神社は、何処にもない。

「奥津三神」 なぜ、阿波のみで祀る必要があろうか? 

何の縁も所縁も無ければ、こんなところに 「奥津三神」をわざわざ祀るはずがないのである。推して知るべし   @阿波
0273日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 10:53:04.02
【日本で唯一、阿波だけで祀られている阿波の神々】

阿波市「事代主神社」 御祭神 事代主命

阿波市「建布都神社」 御祭神 武甕槌神

阿波国美馬郡「倭大國玉神社・倭大國敷神社」 御祭神 大國玉命・大己貴命

阿波国美馬郡「伊射奈美神社」 御祭神 伊射奈美尊

阿波國麻殖郡「伊加々志神社」 御祭神 伊迦賀色許売・伊迦賀色許男

阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社 御祭神 建御名方命

阿波國麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」 御祭神 天村雲命 ・伊自波夜比賣命

阿波國美馬郡「弥都波能売神社」 御祭神 素盞嗚命

徳島市国府町「天石門別八倉比売神社」 御祭神 大靈女命)

名西郡神山町「上一宮大粟神社」 御祭神 大宜都比売命)

徳島市一宮町「一宮神社」 御祭神 大宜都比売命

阿波國板野郡 「宇志比古神社」  御祭神  宇志比古尊・八幡神

阿南市伊島「当所神社」 御祭神 奧疎神・奧津那藝佐毘古神・奧津甲斐辨羅神
0274日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 11:13:41.71
「倭大国魂神社」が建立されている阿波国美馬郡は、貞観ニ年(八六〇)までは、現在の三好郡と、木屋平村を除いた美馬郡を合わせた七郷からなり、

徳島県の中西部に位置し、山地が九〇lを超える山処(やまと)の地。

旧美馬郡では、土(はに)の神を祀る式内社「波爾移麻比弥(はにやまひめ)神社」、神々の母神である伊邪那美命を祀る式内社「伊刺奈美(いざなみ)神社」、

高天原に通じる橋を神格化した式内社「天椅立(あまのはしだて)神社」など、記紀神話草創の地方を示す神々が祀られている。

このように太古の神々が鎮まる美馬の地に、「倭大国魂神社」も建立されている。
0275日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 11:20:25.14
「倭大国魂神社」が建立されている美馬郡美馬町重清の境内には「大国魂古墳」数基と、下段に「八幡古墳群」が現存している。

また、神社の東側(重清城台地)からはサヌカイト製の石鏃や、阿波の青石による石斧、石鎗の出土も確認されており、この地が古くから拓かれていたことがわかる。

「倭大国魂神社」を祀らせた「崇神天皇」は、「初国知(はつくにし)らしし、御真木(みまき)天皇… 」と称えられ、また、和名は「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)命」と呼ばれて、「みま(き)」との関わりを示している。

天皇の尊号に「美馬(みま)」を用いたのは、神々の母神が鎮まる美馬地方に天皇が入り込んだため、由緒あるその名を冠したものである。
0276日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 11:25:05.09
それで、お前の名前は?

偽造系図(家系図)〜そういう関係の家の人?
0277日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 11:29:40.10
阿波国美馬(ミマ)郡美馬(ミマ)町には、延喜式内社の「倭大国魂神社」が建立されている。

この事実は、阿波国が、かつて倭の国であり、歴代天皇が営んだ王都の地であったことを表す。

これは、「王都の地 倭」の決定的証跡である。

通説の「古代の王都は奈良盆地に営われた」とする確定解釈は、工作物(奈良盆地の巨大古墳)に惑わされた錯覚と言えるだろう。

延喜式内社に採択された国魂神社は、都合20社を数える。

うち「倭大国魂神社」については、その由来が日本書紀に納められている。

第10代崇神天皇(ミマキイリヒコ)は、疫病が流行し、民心が乱れた為、神祭りによって地勢の安泰を図ろうと、天神地祇のほか、倭の地主神である倭大国魂神を祀ったという。

まさに「倭大国魂神社」の建立地は、倭の地(国)の証明になる。

そして、その倭大国魂神社が、奈良大倭国ではなく、唯一阿波国にのみ存在するのである。
0278日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 11:42:03.58
邪馬台国と大%s比売命

邪馬台国阿波説の論拠として、日本最古の書、古事記と魏志倭人伝の記述が一致する根源に、阿波は食物(五穀)を司る穀霊(おおげつひめ)の国であり、高天原の物語は、すべて阿波(おおげつひめ)が舞台となっている

「上一宮大粟神社」  http://www.genbu.net/data/awa2/ooawa_title.htm
0279日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 13:14:24.27
「先代旧事本紀 巻五 天孫本紀」では饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖神と仰ぎ、六代目にあたる伊迦賀色許売(いかがしこめ)、

伊迦賀色許男(いかがしこお)姉弟は、倭の土着豪族として朝廷に仕えた蘇我氏、葛城氏、物部氏の祖にもあたる。

伊迦賀色許男(イカガシコオ)姉弟は、

日本で唯一、忌部の郷、徳島県旧麻植郡の延喜式式内社「伊加々志神社」に祀られている。

「伊加加志」(イカガシ)を社名・御祭神とする神社は、全国でここ一箇所だけなのである。

それが、忌部の郷 麻植の地に鎮座している。
徳島の神社 延喜式式内社 伊加々志神社
http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/44664411.html
0280日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 15:16:06.96
剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ)

 http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
0281日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 17:47:20.64
奈良時代に阿波から勧請されたのが矢幡八幡宮(現金富神社)、豊前国一宮宇佐神宮

769年 称徳天皇の御宇に和気清麻呂が神教を授かるために参拝し、

神告を受けた「宇狭の宮」とは神山町 宇佐八幡神社のこと。

http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/02/18/235047
0282日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 18:21:34.10
「倭大国敷神社」 「倭大国魂神社」 「事代主神社」 「建布都神社」 「伊射奈美神社」 「伊加々志神社」 「宇志比古神社」

「多祁御奈刀弥神社」 「天村雲神伊自波夜比賣神社」 「弥都波能売神社」 「天石門別八倉比売神社」等々

神社名からして、倭国(阿波)にだけ鎮座する「神名式内社」は、畿内や九州の神社とは別格の風格である。   @阿波
0283日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 19:35:56.40
式内社「事代主神社」 ・ 式内社 「建布都神社」

は、ともに同じ倭国(阿波)阿波市にあり、『ともに日本唯一 阿波にだけ在る式内社』。

式内社「事代主神社」が全国で倭国(阿波)にだけ在ることから、「事代主命」は倭国(阿波)の人物。

同じく、建布都神(武甕槌神)も全国で倭国(阿波)にだけ在ることから、「建布都神(武甕槌神)」も倭国(阿波)の人物ということ。
0284日本@名無史さん
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2019/04/11(木) 22:20:36.72
八倉比売命を祀る式内社は阿波国のみの神社ですが、比定社が三社あります。

「天石門別八倉比売神社」 (徳島市国府町)の御祭神は「大靈女命」(おおひるめのむち)

「上一宮大粟神社」 (名西郡神山町)の御祭神は「大宜都比売命」(おおげつひめ)

「一宮神社」 (徳島市一宮町)の御祭神は「大宜都比売命」
0285日本@名無史さん
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2019/04/12(金) 07:42:14.24
足浜目門比売神は、天日鷲命の后神です。

式内社 秘羽目神足浜目門比売神社(ひわめあわまどひめじんじゃ)で、

御祭神  秘羽目神 ・ 足浜目門比売

これも日本唯一、阿波で祀います。

http://www.genbu.net/data/awa2/nakauti_title.htm?print=on
0286日本@名無史さん
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2019/04/12(金) 08:35:17.23
式内社 阿波國美馬郡 「天椅立神社」

ちなみに全国で、そのものずばり「天椅立」神社という名の式内社は、ここだけである。

同じく日本一社 式内社 阿波國美馬郡 天椅立神社 の御祭神は、伊邪那岐命 ・ 伊邪那美命 である。

https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/48059428.html?__ysp=5byP5YaF56S%2BIOmYv%2BazouWci%2Be%2BjummrOmDoSDlpKnmpIXnq4vnpZ7npL4%3D
0287日本@名無史さん
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2019/04/12(金) 09:02:59.08
名西郡石井町浦庄字諏訪に、式内社・阿波國名方郡多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社があります。

御祭神は、諏訪大社と同じ「建御名方命」です。

阿波を建国の歴史から黙殺する陰謀論?から見れば、 古事記の書かれたあと(712)、信州に「諏訪国」をつくり(721)、

本来の阿波の諏訪から「諏訪社」を移し(779)、古事記の舞台をカムフラージュした、ということになりますね。

建御名方神は、大国主神と高志河比売神の御子神で、八坂刀売神は妃神です。

高志河比売神とは、別名・高志沼河姫で、高志(地名)の沼河姫のことです。

この「高志」とは、徳島県板野郡の地名です。

https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/46148157.html?__ysp=6auY5b%2BX5rKz5q%2BU5aOy56WeICDpmL%2Fms6I%3D
0288日本@名無史さん
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2019/04/12(金) 10:28:24.22
饒速日命の孫を祀る「阿波国式内社 天村雲神社」(徳島県吉野川市)

延喜式神名帳には麻植郡天村雲神伊自波夜比売神社二座とある。その論社が徳島県吉野川市山川町村雲にある「天村雲神社」である。

祭神は,「天村雲命」と「伊志波夜比女命(いしはやひめ)」の二柱である。

「天村雲命」は,饒速日命の孫で,天香語山命又名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)高倉下命(たかくらじのみこと)と穂屋姫(ほやひめ)の子である。

阿俾良依姫(あいらよりひめ)を妻として,天忍人命(あまのおしひとのみこと)天忍男命(あまのおしおのみこと)忍日女命(おしひひめのみこと)を生んだ。

「天村雲命」は,
(1)饒速日命が大倭国に天降るときに防御の人として高皇産霊神に使わされた三十二人の内の一人。「先代旧事本紀」
(2)邇邇芸命に命ぜられて高天原から水の種を持ち帰った。それが天真名井である。その功績として,邇邇芸命より天二上命,小橋命という名を賜った。

「小橋」と言えば,「邇邇芸命」の三世孫の「神武天皇」は,日向時代に,阿多小橋君の女(むすめ)の阿比良比売を妻としている。 

小橋命とよばれた「天村雲命」の孫あるいは曾孫が阿比良比売で,「邇邇芸命」の三世孫の「神武天皇」に嫁いだとしても不思議ではない。

「天村雲命」の妻の阿俾良依姫と阿比良比売の名にも共通性を感じる。
 
「天村雲命」は又の名を天五多手(あめのいたて)という。麻植郡には忌部郡と射立郡があり,「天村雲神社」が鎮座する射立郡は天五多手(あめのいたて)の名に通じる。 

「天村雲神社」や同じく式内社の「伊加々志神社」周辺には「雲宮」とか「天王原」とか何やら意味ありげな地名が見える。 
0289犯罪首謀者・高添沼田の連絡先:東京都葛飾区青砥6−26−6
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2019/04/12(金) 11:25:17.37
【超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪者の実名と住所を公開】
@高添・沼田(東京都葛飾区青砥6−26−6)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在/犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている
 老義父は息子の嫁の痴態をオカズに自慰行為をし毎晩狂ったように射精をしている/息子の嫁をいつもいやらしい目で見ているエロ老義父なのであった
A井口・千明(東京都葛飾区青砥6−23−16)
※犯罪首謀者高添・沼田の子分/いつも逆らえずに言いなりになっている金魚のフン/親子孫一族そろって低能
 低学歴で醜いほどの学歴コンプレックスの塊/超変態で食糞愛好家である/醜悪で不気味な顔つきが特徴的である
B宇野壽倫(東京都葛飾区青砥6−23−21ハイツニュー青戸202)
※色黒で醜く太っている醜悪黒豚宇野壽倫/低学歴で人間性が醜いだけでなく今後の人生でもう二度と女とセックスをすることができないほど容姿が醜悪である
 異臭を流し込んでくるなどの嫌がらせを何度も繰り返ししつこく行ってくる嫌がらせ犯罪者である
C色川高志(東京都葛飾区青砥6−23−21ハイツニュー青戸103)
※色川高志はyoutubeの視聴回数を勝手に短時間に何百何千時には何万回と増やしたり高評価・低評価の数字を一人でいくつも増やしたり減らしたりなどの
 youtubeの正常な運営を脅かし信頼性を損なわせるような犯罪的業務妨害行為を行っています
※色川高志は現在、生活保護を不正に受給している犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください

【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111

D清水(東京都葛飾区青砥6−23−19)
※低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆☆低学歴脱糞老女・清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆☆
 清水婆婆はコンプレックスの塊でとにかく底意地が悪い/醜悪な形相で嫌がらせを楽しんでいるまさに悪魔のような老婆である
E高橋(東京都葛飾区青砥6−23−23)
※高橋母は夫婦の夜の営み亀甲縛り食い込み緊縛プレイの最中に高橋親父にどさくさに紛れて首を絞められて殺されそうになったことがある
F長木義明(東京都葛飾区青砥6−23−20
0290日本@名無史さん
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2019/04/12(金) 11:50:19.37
日本一社 延喜式式内社 阿波國美馬郡 弥都波能売神社 ミツハノメ神社(式内社)も、日本全国で阿波にしか存在しません。

鎮座地 徳島県美馬市美馬町字滝ノ宮231

御祭神 素盞嗚命

創立年代不詳

八坂神社 式内社「弥都波能賣神社」論社の一社。

比定社は他にも美馬市脇町拝原にある「八大龍王神社」、美馬市脇町猪尻の「建神社」、三好市井川町井内「武大神社」などがある。

武大神社は、当社の地名と同じ「滝宮」と称されており、御祭神も当社と同じく「素盞嗚尊」。

建神社の御祭神も「素盞嗚尊」で論社に共通点がある。

神名そのままの弥都波能賣神社という式内社も日本で唯一阿波にしかない

http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47238888.html
0291日本@名無史さん
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2019/04/12(金) 18:10:00.80
四国地域において長さ5cm前後の大型の蛇紋岩製勾玉は、

徳島県名東遺跡、南庄遺跡、七条経塚遺跡、石井城ノ内遺跡、

香川県旧練兵場遺跡、石田布施遺跡、原間遺跡、

愛媛県今若遺跡、

高知県下ノ坪遺跡、(曹長石)などに認められる。

これらは多様な石質・形状から弥生時代後期前半期における自己完結的な製作消費が考えられるが、

これと相前後して、斉一性の強い小型勾玉の一群が出現する。

阿波地域を中心に点在しており、石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。

蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡。徳島市矢野遺跡、上板町七条経塚遺跡

原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩

矢野型の各地の分布 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域

2014/8/23 「阿波の勾玉最前線―蛇紋岩製弥生勾玉の拡散」 講座資料抜粋

徳島県埋蔵文化財センター 菅原康夫氏
0292日本@名無史さん
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2019/04/12(金) 18:22:22.27
忌部の話 二十 「三種の神器」その三               尾野 益大
 
朝廷の祭祀には玉が祭料,幣帛として使われた。忌部は,大和朝廷が祭祀に必要としたその玉類の生産,調達にかかわっていたとの指摘がある。

忌部の祖神である「天太玉命」に玉の文字が含まれていることも偶然ではないはずだ。

「日本書紀」(神代下第九段)に忌部に関する記述があり「…櫛明(くしあかる)玉神を作玉者とす…」とある。「古語拾遺」にも似た記述があり,忌部氏はいろいろな神を率いて幣帛・祭具の生産に従事した。

櫛明玉神は出雲国の玉作の祖という。

さて,島根県で玉作といえば,出雲玉作遺跡がある玉湯町,松江市忌部だ。つまり旧意宇郡忌部郷を中心とする地域だった。

「延喜式祇式」臨時祭条に「…毎年十月以前令意宇郡神戸玉作氏造備…」とある。

これを「出雲風土記」と照らすと,毎年十月に玉を調達した玉作氏の住む意宇郡神戸が,「和名抄」に出てくる「忌部神戸」であることが明らかになる。つまり出雲の玉作りは忌部が行っていたわけだ。

もちろん,忌部の祖神を祀る天太玉命神社がある奈良県橿原市の近くにも玉作遺跡である曽我遺跡がある。大和朝廷の官立の玉作工房だったようだ。

徳島の玉作遺跡は,徳島市国府町矢野の「矢野遺跡」と三好市三加茂町の「稲持遺跡」がある。両遺跡とも緑灰色の蛇紋岩を使用し,勾玉の製作をしていた。矢野では気延山や眉山から石を運んできたようだ。

時代は矢野が若干古く弥生時代後期後半とみられる。矢野遺跡周辺は,いうまでもなく古代阿波が最も栄えていた土地である。
0293日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 06:51:38.88
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。

阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。

ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。

ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。

それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。

阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
0294日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 07:32:31.61
どのスレだったかな、数年前の話


まだ記紀(神話)なんて信じているのか?
と言ってる人がいたでしょ
0295日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 07:35:52.28
伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。
『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。
日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加賀志(いかがし)神社
鎮座地  徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635
御祭神  伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと)
またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社である。

『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。
また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”)
とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。
このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、
物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。
しかし、
@ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること
A 伊加賀志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること
B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること
C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること

などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。
同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性が非常に高い。

「伊加賀志(いかがし)神社」 http://sueyasumas.exblog.jp/10039623/
0296日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 09:45:07.28
「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、

阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。

そして、その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されている。

阿讃山脈を越えて留まった地域が「水主神社(香川県東かがわ市水主1418)」付近。

「水主神社」から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、

船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社(東かがわ市馬篠440番443番)」。

「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社(東かがわ市小磯)」。そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社(高松市仏生山町大字百相神宮寺)」。

船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。

船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。

当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。

次は讃岐一宮の「田村神社(高松市一宮町286)」。倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(別名 吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命を祭神とし、

これを「田村大神」と総称する。
0297日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 11:03:41.77
阿波の一宮神社の社家、大宮司家を世襲した一宮長宗の流れを汲む一宮氏(分家)が「水主神社」の宮司として祭祀を行っていた時期があり、

この部分についても「大宜都比売命」と「倭迹迹日百襲姫命」に何らかの繋がりがあったと考えられる。
0298日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 11:27:51.21
倭迹迹日百襲姫命の父にあたる第七代孝霊天皇の陵墓と黒田廬戸宮跡は、旧黒田村であった徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり、

百襲姫の弟君にあたる日子刺肩別命は、蔵殊院から東に5km隔てた徳島市不動町の式内社「天佐自能和気神社」で祀られている。

王族らによる阿波(倭)から讃岐(山背・難波)への進出は、孝霊天皇の御子時代から盛んになり、

第十五代応神天皇の御宇に至って、ついに香川県さぬき市津田の「前期難波宮」に皇居を営むことになる。
0299日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 11:41:08.81
【応神天皇(倭王讃)の難波大隈宮】
   「春三月に、難波宮に幸せる時の歌」

「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ船 泊まり知らずも」

   「上の一首、船王の作」


奈良時代の後期難波宮(大阪市)からは「阿波の山」は絶対に見えない。
また、この「阿波の山」は、徳島市の眉山ではなく、香川県さぬき市津田の前期難波宮辺りから見た、なだらかな讃岐山脈である。

倭国(阿波)から遷都する前の飛鳥時代に宮が設置された前期難波宮は香川県さぬき市津田。
この歌は香川県さぬき市津田の前期難波宮で読まれた歌六首の一つである。
0300日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 12:16:33.68
「あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・」

この歌は、応神天皇の難波大隈宮がどこに営まれたか、その地理的条件を浮かびあがらせる。

通説の難波大隈宮から見えるのは、淡路島だけで、小豆島は105km離れ、淡路島北端の岩屋と神戸市須磨浦の鉢伏山山塊に遮られ、全く望むことは出来ない。

また、丘陵や山地が存在しないため、天皇が高臺から兄媛の船を見送ったという説話も生まれようがない。

さらに、天皇が徴発した三原の海人は、淡路島南端の三原郡の海人といえるが、大阪湾とは正反対の最遠地である。

これらの説話は、古代「難波」の地であった讃岐の出来事を伝えたもので、応神天皇の難波大隈宮は、

さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。
0301日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 18:00:12.22
仁徳天皇の大后、石之日売命は、葛城之曾都毘古の娘である。

葛城之曾都毘古の父は、第8代天皇・孝元天皇(こうげんてんのう)の御子、武内宿禰(たけうちのすくね)。

母は、山下影日賣(やましたのかげひめ) で、その兄が珍彦(うづひこ)である。

珍彦(うづひこ)とは、神武天皇を水先案内し、後に倭国造の祖となった倭宿禰命であり、その父が「天村雲命」である。

吉備の黒日売は「海部直の娘」であるが、その海部直の祖先にも当たる。

その「天村雲命」が日本で唯一の式内社「天村雲神伊自波夜比賣神社」にて、阿波で祀られている。

式内社 天村雲神伊自波夜比賣神社http://www.genbu.net/data/awa2/murakumo2_title.htm
0302日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 18:03:10.68
神武天皇が珍彦(うづひこ)とめぐり合った「速吸門」は、「鳴門海峡」のこと。

海人族をも支配し、各地の海を知り尽くしていた天皇家の物語で、鳴門以外の海を速吸門(はやすいなと)などと表現するわけがない。


潮流の速さ【速】と、巨大な渦潮【吸】と、【門】で表現される地形、「なと」「なると」の響き。

当然、珍彦(うづひこ)の「うづ」は、渦潮(うづしお)の「うづ」であろう。

また、山下影日賣の「山下」は、これも地名から取っており、『和名抄』に記される阿波國板野郡「山下(也萬乃之多)」郷のことで、現在の鳴門地方である。

現在の地名(住所表示)では確認できないが、その山の南北に「葛城神社」が鎮座する。

その山とは「葛城の山」を示唆している。

従って、「葛城」も、鳴門地方の地名と思われる。
0303日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 18:20:25.30
『古事記』には、葛城長江 曾都毘古(かづらきの、「ながえ」の、そつひこ)と記され、「葛城」地方のなかに「長江」があることが確認できる。

現在の鳴門市に、古代からの地名、「大津」が残っており、その大津町に「長江」が在る。

もちろん、『古事記』に登場する“本来”の「大津」とは、この地のことである。

葛城がそれなりに広範囲な地名であることもわかるが、『古事記』文中には度々「葛城の〇〇」、という感じで登場する。

孝元天皇の妃の一人が、伊香色謎命(いかがしこめのみこと) 延喜式式内社 伊加賀志神社 である。

妃にはまた、埴安姫命がいるが、阿波國那賀郡の式内社 「建嶋女祖命神社」の御祭神となっている。

伊加賀志神社、建嶋女祖命神社ともに、全国唯一の阿波国式内社である。

「伊加賀志神社」 https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/44664411.html
「建嶋女祖命神社」 http://www.genbu.net/data/awa2/takesima_title.htm
0304日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 19:20:09.65
いわ」も地名から取ったと考えられるが、讃岐の難波郷から南に進み阿波へ入ると「いわ野」の地名がある。

そこから東に進み、鳴門地方にも「いわ浜」「いわ崎」があり、「いわ国」と推定されるエリアと、上記の神々、人々の関連地が全く一致する。

石之日売は、「みつ」の崎で、御綱柏を海に投げ棄てたのち、怒りのままに難波宮を通り過ぎて、故郷の国「葛城(鳴門)」を目指す。

(一旦難波に戻ったのは、その怒る様を天皇に見せつけるためであろう。)

「宮には入り坐さずして、其の御船を引き避きて、堀江に泝(さかのぼ)り、河のまにまに、山代に上り幸でましき。

山代より迴り、那良山の口に到り坐して、歌ひ曰りたまはく・・・」

阿波國には「山代」郷も存在したが、この場合の山代は地形の形容詞だと思われる。

阿波には「河内」「日浦」「宇佐」など地形から生まれた地名が複数存在する例がある。

「やましろ」は、山背とも書き、山の背、後ろ側、すなわちこの場合は、阿波本国から見て、阿讃山脈の裏側という意味である。

讃岐の難波郷から(南へ上る川に人力で船を引き、所々で乗り継ぎながら)、古代の難波奈良街道に沿って大坂峠を越え、日開谷川を吉野川へと下る。

この途中に上に書いた「いわ野」がある。 そして吉野川に突き当たった一帯が「奈良」である。
0305日本@名無史さん
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2019/04/13(土) 19:22:11.69
石之日売の「いわ」も地名から取ったと考えられるが、讃岐の難波郷から南に進み阿波へ入ると「いわ野」の地名がある。

そこから東に進み、鳴門地方にも「いわ浜」「いわ崎」があり、「いわ国」と推定されるエリアと、上記の神々、人々の関連地が全く一致する。

石之日売は、「みつ」の崎で、御綱柏を海に投げ棄てたのち、怒りのままに難波宮を通り過ぎて、故郷の国「葛城(鳴門)」を目指す。

(一旦難波に戻ったのは、その怒る様を天皇に見せつけるためであろう。)

「宮には入り坐さずして、其の御船を引き避きて、堀江に泝(さかのぼ)り、河のまにまに、山代に上り幸でましき。

山代より迴り、那良山の口に到り坐して、歌ひ曰りたまはく・・・」

阿波國には「山代」郷も存在したが、この場合の山代は地形の形容詞だと思われる。

阿波には「河内」「日浦」「宇佐」など地形から生まれた地名が複数存在する例がある。

「やましろ」は、山背とも書き、山の背、後ろ側、すなわちこの場合は、阿波本国から見て、阿讃山脈の裏側という意味である。

讃岐の難波郷から(南へ上る川に人力で船を引き、所々で乗り継ぎながら)、古代の難波奈良街道に沿って大坂峠を越え、日開谷川を吉野川へと下る。

この途中に上に書いた「いわ野」がある。 そして吉野川に突き当たった一帯が「奈良」である。
0306日本@名無史さん
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2019/04/14(日) 08:14:49.04
【飛鳥の地は小松島市一帯】

小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町は「あすか」と呼ばれていた。 そして、江戸時代まで「飛鳥神社」が鎮座していた。

香具山―小松島市日峯山・籠山(かごやま)
0307日本@名無史さん
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2019/04/14(日) 08:31:01.69
 萬葉集註釈 巻第三 

「阿波国風土記の如くは、天(そら)より降り下りたる山の大きなるは、阿波国に降り下りたるを、アマノモト山と云ふ、

その山の砕けて大和国に降りつきたるを、天香具山と云ふ。」
0309日本@名無史さん
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2019/04/14(日) 12:47:00.09
『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。

この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。

この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。

このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。

この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。
0310日本@名無史さん
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2019/04/14(日) 14:40:03.69
中国朱が検出された萩原墳墓群・天河別神社古墳群のある地域を支配していた有力者は

当時、魏と交流していたことがうかがえる。

その、魏の水銀朱が使われた萩原古墳群から出土の画文帯神獣鏡

同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群から出土の斜縁二神二獣鏡

魏から下賜された鏡は、この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかの可能性が高い。 
0311日本@名無史さん
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2019/04/14(日) 17:04:56.80
「淡海」とは「阿波海」のこと。

そもそも通説とされる滋賀県の「大津」は平安遷都の際に「大津」の地名が誕生している。よって天智天皇の時代には滋賀県(近江)に「大津」の地名は存在しおらず、現在の通説では不都合が生じてしまう。

「山背を山城と改め新京を平安京と名付ける、また近江の古津を大津と称する」とあり、天智天皇が六六七年に、淡海の大津宮を拓いた当時、滋賀県大津はまだ存在していない。

近江=「淡海」とされているが、これは後世の解釈によって踏襲されているだけ。

本居宣長も、「あふみ(淡海•近江)は「阿波宇美(あわうみ)が切(つづ)ま」ったものと説き、 

また記紀にみえる淡洲(あわのしま)・阿波国(あわのくに)・淡島・阿波島(あわしま)の用例や、

淡路島の名の由来が阿波への道(阿波に至る途中の島)の意味から、「淡海」は「阿波海」が転記されたもの。

例えば「万葉集(巻二ー 一五三)の大后の御歌では

鯨魚(いさな)取り 近江(淡海)の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る舟 辺(へ)付きて 漕ぎ来る舟 沖つ櫂(かい) いたくなはねそ 辺つ櫂

いたくなはねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ

ここで歌われている「いさな」とは鯨の古称。鯨が滋賀県大津に隣接する琵琶湖に生息しているのだろうか。

ここの「近江(淡海)」とは紀伊水道の「淡海(阿波海)」なのである。
0312日本@名無史さん
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2019/04/14(日) 19:24:48.56
「土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は阿波国の矢野遺跡が最西端に位置する。

同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。

この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、土製のモノはこれが最古級である。

「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。

用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に使われたと考えるのが妥当である。

また、仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」とあるように入墨(文身)を表したものであろう。
0313日本@名無史さん
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2019/04/14(日) 20:04:11.04
さて、神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 

「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。

久米一族については、石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。

一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。

一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。

さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。

まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。

「矢野遺跡」
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%CC%F0%CC%EE%B0%E4%C0%D7
0314日本@名無史さん
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2019/04/14(日) 20:05:39.66
倭〜という人物などがいるでしょ、
なぜ皇族と(表記)書いてあるの?
0315日本@名無史さん
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2019/04/14(日) 20:14:24.71
アマテラス(不明)?

ここから誕生したのが皇族(不明)という話なんだろうけど、
民族的には、どこの国の人間になるの?
0316日本@名無史さん
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2019/04/14(日) 20:17:18.13
『倭 皇族』

これで調べてみて
0317日本@名無史さん
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2019/04/14(日) 21:56:53.22
長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社 御祭神 建御名方命」から移遷された、と社伝にあるそうだ。

その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。

つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪の「多祁御奈刀弥神社」に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。

それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。

http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/46148157.html
0318日本@名無史さん
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2019/04/15(月) 07:47:27.63
神武天皇に鳴門で敗れた長髄彦は、『古事記』では 「那賀」須泥毘古 また 「登美能那賀」須泥毘古 と表記されている。

『日本書紀』には、「ナカ」邑の地に、また「トビ」の地名が起こり、それが後に訛って「トミ」になったと書かれている。

「登美」の後裔氏族には「中臣(ナカトミ)氏」がいる。

徳島県板野郡板野町周辺は、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。

長髄彦の末裔 中臣氏の本貫地は徳島県板野郡板野町周辺の可能性が高い。
0319日本@名無史さん
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2019/04/15(月) 12:18:42.59
「住吉大明神こと住吉神社」

板野郡藍住町住吉神蔵に鎮座。

祭神は神功皇后、表筒男命、中筒男命、底筒男命。

鎮座地は神功皇后ゆかりの地で当社は全国住吉神社の元社にあたる。

神功皇后の本名は息長足姫 (おきながたらしひめ) 命。 息長ということは生粋の海人族である。

大陸進出にあたり航海の守護神として、底筒男命、中筒男命、表筒男命を御舟に祀っていた。
0320日本@名無史さん
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2019/04/15(月) 16:54:09.96
百済征伐の帰りに当地(板野郡藍住町住吉)に寄り、御舟に祀っていた住吉三神を降ろしたのであろう。

そのほか、夫にあたる仲哀天皇は西に位置する板野郡矢武の応神山仲哀寺で祀られ、大臣 武内宿禰は同町 矢武八幡神社を中心に武威神社、高良神社で祀られている。

また御子である応神天皇の葬場跡は南に位置する応神町宮島。

審神者(さにわ)で顕れた淡郡の嚴(いつの)事代主は吉野川を上流に上った阿波郡市場町伊月の式内社「事代主神社」で祀られている。

ちなみに海人族でも支配地域が違うと氏族も違う。 神功皇后も幼少の頃より古の各海人部族の神話を聞かされていたのであろう。

そもそも住吉三神は泡(阿波)より産まれた神。 この三神は神代より祀られた阿波の海人の神々なのである。
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