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邪馬台国四国説 part2
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0431日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 16:35:02.73
>>430
>自生してないとダメなのかな

魏志倭人伝は、倭国(阿波)の自然を記したものだからね。  
「橘」も「楠」も倭国(阿波)に自生していたということ。
同様に、「丹」も採掘していたということ。
0432日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 19:03:54.94
第34代舒明天皇は、四国道後温泉と播磨有馬温泉。  

第35代斉明天皇も、四国道後温泉と紀州白浜温泉の両方に行幸している。

しかし、それ以前の天皇は、四国道後温泉だけしか行幸していない。

このことから、第34代舒明天皇の御代頃から 、倭国(阿波)から奈良大和への王都進出の関心が高まったとみられる。
0433日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 19:23:24.96
倭人伝は倭国を紹介しているわけで
四国、本州(畿内)、九州が倭国なら、風物、物産に関して
倭王卑弥呼がどこに居ようがそれが倭国に有るというだけで、
卑弥呼の王宮の場所とは関係が無い。

帯方郡から、女王へ印綬の行程は万二千里だった。
数値的には、南4千、東3千、渡海3千で九州上陸
残り2千で、女王に会い印綬しているという話である。

皇帝から、汝の好物を聴取されて、少量の水銀朱を贈答されている
卑弥呼が丹山を持っていたというのは疑問ではある。
0434日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 19:52:06.54
気延山の山頂を掘ろうぜ
あそこが卑弥呼の墓だろう
0435日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 19:58:24.53
>>433
>倭人伝は倭国を紹介しているわけで

風物、物産に関して、明らかに倭人伝は倭国(阿波)を紹介している。
0436日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 20:02:44.61
>>433
>残り2千で、女王に会い印綬しているという話である。

そういう話ではない。
「帯方郡から、女王へ印綬の行程は万二千里」は、直線距離の話。
0437日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 20:06:30.22
>>433
>卑弥呼が丹山を持っていたというのは疑問ではある。

最初に丹山を持っていたのは、狗奴国の卑弥弓呼こと「素戔嗚尊」。
0438日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 21:05:34.68
常識的に
吉備、阿波、畿内、出雲、九州
どこに倭王が有っても良いが、というかそれぞれ有る時代だろ? 

倭人伝の物産はどこであっても
倭王、倭国というくくりでは、どこに有っても倭の紹介記述として関係はない。

だがしかし、丹山が有るのに欲しいものを聞かれて、水銀朱少量をねだるというのは
卑弥呼が、丹山の有る、阿波の王ではないw ということの証明だろう、
と言っているんだけど、わかってる?
0439日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 21:14:06.06
卑弥呼は水銀朱が欲しかった。
阿波から買うか、大陸から買うか、

どっちでも、似たようなもん。
つまり、大和朝廷統一前の九州王で良いんじゃないかw
0440日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 21:20:56.68
>>438
>常識的に
>吉備、阿波、畿内、出雲、九州
>どこに倭王が有っても良いが、というかそれぞれ有る時代だろ?

常識的に、どこの倭王も倭国(阿波)を発った「忌部はん」。  
0441日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 21:25:11.78
>>438
>倭王、倭国というくくりでは、どこに有っても倭の紹介記述として関係はない。

倭国の範囲を過大している。 倭国は阿波国周辺のこと。
0442日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 21:28:39.04
>>438
>卑弥呼が、丹山の有る、阿波の王ではないw ということの証明だろう、

丹山が有るのは、卑弥呼が居た「女王国」。
0443日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 21:37:58.45
四国の道後温泉への天皇の行幸:第12代景行天皇から。

播磨有馬温泉への天皇の行幸:第34代舒明天皇から。

南紀白浜温泉への天皇の行幸:第35代斉明天皇から。
0444日本@名無史さん
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2019/04/29(月) 22:00:09.27
なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?

なんで畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国よりずっと遅れたのだろうか?

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。
0445日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 06:53:16.51
なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?

なんで畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国よりずっと遅れたのだろうか?

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。
0446日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 10:39:47.55
阿波忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。
0447日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 11:26:57.42
東京都伊豆諸島 神津島に阿波命が祀られている。  これも、黒潮に乗って阿波から進出した関東忌部が残した痕跡。
0449日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 12:49:49.66
>>448
>白浜温泉は当時まだ無かっただろう?

当時っていつの事?

南紀白浜温泉は、和歌山県西牟婁郡白浜町にある温泉。 古い文献では牟婁の湯と呼ばれていた。 Wikipedia
日本書紀に、当時の歴代天皇が訪れたことが記載されている日本屈指の古湯である。
658年 - 斉明天皇
690年 - 持統天皇
701年 - 文武天皇
万葉集に牟婁の湯が登場している。
0450日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 12:51:29.90
四国の道後温泉への天皇の行幸:第12代景行天皇から。

播磨有馬温泉への天皇の行幸:第34代舒明天皇から。

南紀白浜温泉への天皇の行幸:第35代斉明天皇から。
0451日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 12:56:08.00
なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?

なんで畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国よりずっと遅れたのだろうか?

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。
0452日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 13:43:52.80
温泉の因果はわからんし邪馬台国が四国はどうかは知らんが
地勢上、四国に何も無かったはないと思う
0453日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 14:56:57.30
>>452
>温泉の因果はわからんし邪馬台国が四国はどうかは知らんが


なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?

なんで畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国よりずっと遅れたのだろうか?

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。
0454日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 15:56:04.74
阿波は忌部一族(倭人)の総本山。 今ある天皇家の故郷。  だから今も天皇家と阿波は誼を通じている。
0455日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 15:59:20.11
だから、往古より天皇家は倭国(阿波)に「麁布」の調進(朝廷から頼まれて作り納める意味)を求めてきている。 
0456日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 17:22:51.78
山の民と海の民との交流―水運
               三木 信夫
道が整備されていない古代迄の交通路は,水運が徐々に発達し,すでに縄文時代には鳴門市からこの阿南市・海陽町にかけて海運交通のあったことが遺跡からみられます。

阿南市の若杉山遺跡は,弥生時代に赤い顔料の水銀朱をつくるため,全国唯一の辰砂(しんしゃ)の原産地遺跡でした。

辰砂=水銀と硫黄化合物の鉱石,辰砂を粉砕して水銀朱を取り出す。

弥生時代から古墳時代を中心に,遺骸や棺に朱色を塗る風習が盛んに行われて,水銀朱は朱・丹等と呼ばれ使用流通したのです。

この遺跡をみますと,板野郡板野町の黒谷川郡頭(こうず)遺跡や名東遺跡などから朱の精製用具等が発見されており,弥生時代終末期(西暦200年頃)の若杉山辰砂が,海や河川を利用して運ばれております。
0457日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 17:26:33.86
若杉山遺跡にある土器類も,吉野川流域土器や鮎喰川上流の結晶片岩の混在した土器,また畿内的土器など各地の土器が混在しており,河川や海を通じて運び込まれています。

すでに若杉山遺跡には,辰砂を運び出す人や食料等を運び入れる人等の組織化された海上交通に関わる集団がいたとも考えられています。

古代に下りますと,都を起点に諸方に陸上交通である宿駅が整備され,駅路すなわち国道がつくられていきます。

阿波でも鳴門の撫養から讃岐・伊予・土佐に抜ける南海道と呼ばれる国道があり,それ以外に阿波国から土佐国へ通じる駅路の国道が,おおよそ現在の国道55号線沿いに阿南市から海陽町までの海岸沿いを,

奈良時代初期の養老2年(718)設置され,平安時代初期の延暦15年(796)廃止されるまで,水上交通路と並行して多くの港や津を経て延びていたのです。

「津」とは陸上交通路と水上交通路が交わる人の集まる交通の要衝に,物資の集積拠点として形成されたものです。

山の民と海の民との交流―水運        御衣御殿人(みぞみあらかんど) 三木 信夫
0458日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 17:38:59.18
古の倭国は日本とは別国なり。

天皇家が日本で有るなら、倭人伝の倭国邪馬台国は阿波ではない
と、言っているようだな?

まあ、畿内説も同じアホなら踊らにゃそんそん♪ なわけだがwww
0459日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 17:45:50.01
>>458
>古の倭国は日本とは別国なり。

当たり前。
「古の倭国」とは、倭国(阿波)。
「日本」とは、8世紀遷都後の奈良大和。
別国は、当たり前。
0460日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 17:47:54.46
>>458
>天皇家が日本で有るなら、倭人伝の倭国邪馬台国は阿波ではない

当然、天皇家は日本で有り、倭人伝の倭国邪馬台国も阿波である。
0461日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 17:50:08.22
今日の退位正殿の儀 三種の神器 勾玉は倭国(阿波)の特産品。
0462日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 19:03:25.74
今日の退位正殿の儀 三種の神器 鉄剣も倭国(阿波)の特産品。
0463日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 20:09:27.96
それレプリカだし
0464日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 20:40:29.31
海に沈んだ本物の鉄拳は、倭国(阿波)の特産品。
0465日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 22:22:44.36
林 博章(はやし ひろあき)

平安時代972年の延喜式大嘗祭式には,阿波国より麻植郡の忌部氏と那賀郡が由加物すなわちお供え物を調進する事になっていました。

この事は古代より忌部の山の世界と那賀郡の海の世界との「人・物の交流」があり,拠点が水運を利用した吉野川中流域山崎の津であったと考えられます。

大分すたれてきましたが,吉野川中流域の人達は,南西の方角,剣山(つるぎさん)を中心とした四国山地の方向を指して「ソラ」または「ソラの人」と呼んでいました。

この場合の「ソラ」とは「山」の事です。旧麻植郡山地部の大半を占める旧種野山内にある三木山の頂上近くにある三木家周辺は,古くより「空地(そらのち)」と呼ばれ,

地名も「大字三ツ木字空地」となっていましたが,近年の国の地名編成で大字が削除され「字」が「貢」に変更された為,地名から「空地」が消えたのです。

この「ソラノチ」への入り口が,吉野川中流域の旧忌部神社がある山崎の地で,山への入り口でもあり,古代より中世まではこのソラ(山)への交通路の起点となっていました。

その為古くからこの山崎は忌部神社の門前市(いち)を通じて吉野川を経由した海の民・平野の民とソラ(山)の民との物産の交易の場として津が形成され,ソラの世界の発展と共に成長してきております。

船を自由に操り水運にたけた海の民が,交易の場に情報や文化を共に運んで麻植の忌部やソラの民を支えてきたのかもわかりません。
0466日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 22:25:03.18
新天皇の即位後、最初に行う皇室の重要儀式「大嘗祭」では、阿波の氏族「阿波忌部」が麻で織った反物「麁布(あらたえ)」を調進してきた歴史がある。

阿波忌部の子孫として大嘗祭に関わった旧家の古文書や貴族の日記から、阿波と朝廷祭事のつながりを紹介する。

阿波忌部の子孫と伝わる旧家は、美馬市木屋平の三木家住宅(国指定重要文化財)当主の三木信夫さんだ。

大嘗祭の祭祀具である麁布との関りを示す古文書(県指定文化財)を所有している。

古文書からは、三木さんの先祖が13〜14世紀の亀山・後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明の各天皇に、麁布を調進(朝廷から頼まれて作り納める意味)したとされる。

どの文書にも、天皇の命を受けた都の役所が、阿波忌部に麁布の制作を頼むため、阿波国司に天皇の使者、勅使を送るという内容が記されているそうだ。

「大嘗祭の儀式は、平安時代の法令集『延喜式』でわかる。しかし、麁布を調進する際の手順は古文書でしかわからない」と三木さん。

大嘗祭は、南北朝〜江戸時代の政情不安時は中断したほか、行われた時も阿波の麁布が調進されないことがあっという。

「そうした時は、朝廷の役人が阿波忌部の代行を務めたことを示すため、麻布に『忌部所作代』と表示した」
0467日本@名無史さん
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2019/04/30(火) 22:26:48.58
また、南北朝時代の光明天皇以来、577年ぶりに阿波忌部の麁布調進を復活させたのが大正天皇の大嘗祭だった。

信夫さんの祖父宗治郎さんが携わり、昭和天皇にも調進。信夫さんも1990年11月、地域住民の協力を得て今上天皇の大嘗祭で奉仕した。

阿波忌部と麁布を巡る文献では、大和朝廷の初期から51代平城天皇まで麁布を調進したと記している平安時代の「古語拾遺」(807年)もある。

「これら2点が出た後、しばらくは資料が見つからない。そして11世紀になると、貴族の日記から分かるようになる」と言うのは、中世史研究者で県埋蔵文化財センターの福家清司理事長。

後鳥羽天皇に関する「山槐紀」(1184年)には「阿波の荒妙神服(あらたえかむみそ)の事だが、平家が四国に居て交通が途絶。期限のあることについてどうするのか」などと書かれているという。
0468日本@名無史さん
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2019/05/01(水) 08:23:32.55
今日の剣璽継承の儀 三種の神器 勾玉は倭国(阿波)の特産品。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 10:33:10.39
今日の剣璽継承の儀 三種の神器 鉄剣も倭国(阿波)の特産品。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 11:06:22.10
厩戸皇子(聖徳太子)だけでなく、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇(皇極天皇)・中大兄皇子(後の天智天皇)・大海人王子(後の天武天皇)

など多くの皇族方が病気療養のため四国の道後温泉に行幸、来湯している。

なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?

なんで畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国よりずっと遅れたのだろうか?

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 12:37:44.37
景行天皇の時代は白浜に温泉なんてなかった
0472日本@名無史さん
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2019/05/01(水) 12:50:04.56
>>471
>景行天皇の時代は白浜に温泉なんてなかった

まだ、倭種の地で、未開の地だったからね。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 12:55:25.69
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
0474日本@名無史さん
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2019/05/01(水) 13:22:57.61
記紀の内容で訴えたいのは理解したが
そんな道後、愛媛の弥生後期の遺跡って何かあるの?
煽ってるわけじゃなくマジで知りたい
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 13:34:53.64
文京遺跡等
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 13:54:33.26
それはさておき、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 13:59:26.14
やっぱ土器しか出てないのか。ここが四国説の弱いとこだよな
何かしらはあると思うんだけどなぁ。特に瀬戸内には
0478日本@名無史さん
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2019/05/01(水) 14:02:10.62
>>476
天皇家との敵対勢力だったんだろ。敵の陣地にノコノコ行く奴おらんわな
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 14:02:36.13
>>477
>やっぱ土器しか出てないのか。ここが四国説の弱いとこだよな

愛媛はともかく、倭国(阿波)には大概のものがあるよ。 ご心配なく。
0480日本@名無史さん
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2019/05/01(水) 14:07:39.76
>>479
なるほど。で邪馬台国の候補地は阿波のどこ遺跡なんだい?予想で構わんよ
0481日本@名無史さん
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2019/05/01(水) 14:08:15.00
>>478
>天皇家との敵対勢力だったんだろ。敵の陣地にノコノコ行く奴おらんわな

敵対とか・・・  そんな対立するような存在じゃないよ。 すでに筑紫忌部が押さえているから。  
ただ、倭国(阿波)から行幸するには遠すぎただけ。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 14:11:26.39
>>480

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)

【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 14:12:59.43
あとね、景行天皇が何故道後なのかは?説明つくよ
その当時、景行天皇は北九州に引っ越してるからね
近場だったから拠ったんだ
で、他の温泉地は天皇の権力外だったから行けなかったんだよ
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 14:19:53.43
ついでに、
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)

【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡          

【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 15:32:16.13
東大の先生に四国派が居れば変わってくるんだろうけどね
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 15:40:40.21
考古学は残酷。

「阿波」の存在に気づくまでの、時間の問題。 
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 16:46:12.32
「加茂宮ノ前遺跡」
朱の生産国内最大・最古

Q 遺跡ではどのようなものがみつかったのですか。
A 水銀朱を生産したとみられる石臼や石きねが約300点。辰砂原石や表面に水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなどの関連遺物も多く、出土数の合計は約1000点になりました。
また、祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構16基と住居跡2基も見つかりました。

Q どのぐらい珍しいのでしょうか。
A 非常に珍しいものばかりです。縄文後期の石臼や石きねは三重県度会町の森添遺跡などでも見つかっていますが数十点程度で、1000点規模の発見は他になく、
加茂宮ノ前遺跡が当時国内最大規模の生産拠点だったと考えられます。過去の発掘調査で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)に水銀朱が精製されていたことは分かっていました。
今回の発見で、生産の起源は1500年ほどさかのぼることになります。
また、円形配石遺構の発見は西日本でほとんどなく、居住域と祭祀の遺構がひとまとめに確認できたのは西日本で初めてです。

Q 阿南市内では他の遺跡でも発見がありました。どのようなものですか。
A 加茂宮ノ前遺跡から約5キロ離れた若杉山遺跡は弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての辰砂の採掘遺跡で、坑道は国内最古であることが分かりました。
遺跡の時代は異なりますが、加茂宮ノ前遺跡で見つかった辰砂原石は若杉山遺跡から産出されたと考えられています。
那賀川中流域で辰砂の採掘から水銀朱の精製まで一体的に行っていたのでしょう。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/01(水) 17:15:55.25
「矢野遺跡」
徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。
このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。
用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。
土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。
祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。
石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。
文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/02(木) 07:01:39.24
鳴門・板野古墳群について    「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋

鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。

主な古墳は、西山谷2号墳  池谷宝幢寺古墳(県史跡)  天河別神社古墳群(6基・県史跡)  萩原1号墓(消滅)・2号墓  大代古墳(県史跡)  板野の愛宕山古墳(県史跡)

発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、

鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。

西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。

近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津

・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。

鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。

「板野・鳴門古墳群」
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm
0493日本@名無史さん
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2019/05/02(木) 15:26:34.38
阿波国 国名の成り立ち

@ 北の邪馬台国(粟国) と 南の狗奴国(長国)

A その後、「粟国」に統一

B 和銅6年(713)5月の「好字令」によって「阿波国」となる。 
0494日本@名無史さん
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2019/05/02(木) 15:49:38.87
弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。

温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み

県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石

県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。

阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。
0495日本@名無史さん
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2019/05/02(木) 16:41:48.15
「倭国(阿波)の最先端文化・技術」  九州や畿内などとの圧倒的な差。

@勾玉
A軽量薄型土器
B積石竪穴石室墓(前方後円墳等)
C水銀朱
D緑色片岩製柱状片刃石斧
E泥質片岩製石棒
FT類鉄鍛冶炉
G航海術
その他
0496日本@名無史さん
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2019/05/02(木) 18:38:35.96
「日本最古のお寺か」

「郡里廃寺跡 (白鳳寺院)」

吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。

早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果「法起寺」式伽藍配置をとるものであることが判明した。

塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。

塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。

心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。

金堂跡は東西18メートル、南北15メートル前後と復原される。塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、

その下方に土塁を発見しており、また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、寺域をほぼ知ることができる。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/02(木) 19:24:09.88
日本最古の寺院の一つ

「石井廃寺跡」

石井廃寺は、南に緩く傾斜する段丘面上にある古代寺院である。

古くから瓦の出土などにより寺院の存在が推定されていた。

1957年(昭和32年)〜1959年(昭和34年)発掘調査が行われ、東に塔、西に金堂が並ぶ法起寺式の伽藍配置であることが分かった。

また、明瞭な遺構は確認されないものの、二つの伽藍の北に講堂、南に中門が存在したと推定されている。

出土遺物には瓦・土師器・須恵器の他に瓦塔などがある。

瓦の文様などから奈良時代前半に建立されたと考えられる。  
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/02(木) 20:12:14.89
「入田瓦窯跡」 
http://goutara.blogspot.jp/2011/06/blog-post_25.html

内御田窯跡群の中のひとつであり、気延山南の東斜面にある。奈良時代に屋根瓦を焼いた窯跡で、外に須恵器も焼かれている。

18段の小さい段状の燃焼部と煙出し部分が確認されているが、燃料を燃やす焚き口部分は残っていない。全長10m、幅1.3m、勾配45度の瓦窯様式である。

軒丸瓦と軒平瓦が出土しており、阿波国分寺跡・阿波国分尼寺跡・石井廃寺跡などで見つかっていることから、瓦を供給されるために作られたことが分かる。

奈良時代から平安時代初頭と案内の看板には記されているが、石井廃寺跡出土瓦と同形式であるならば白鳳文化と呼ばれる頃と推測される。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/03(金) 08:06:39.70
千葉県成田市台方の式内社「麻賀多神社」は麻が社紋。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/03(金) 09:18:52.96
千葉県印旛(いんば)郡栄町の「大鷲神社」   天乃日鷲尊を祀り、社殿天井に「金の鷲」が取り付けられている。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/03(金) 09:44:32.70
社伝によると「天乃日鷲尊はその子孫代々麻植の神として神功があり,麻に係りのある当地においても祭神となっております」という。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/03(金) 10:23:45.41
四国ってのは天皇家には極めて近いんだろうと思う
記紀での国産みなんかもこの地域が中心だし
でも邪馬台国はたぶん天皇家と関係ないんだろう?
呉の太伯の末で「姫」氏なんだろ?
阿蘇山がある所にいた人ららしいし
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/03(金) 10:32:46.66
阿波が天皇系か邪馬台国系か
どちらにせよ立地からいっても阿波や四国が鍵を握ってると思う
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/03(金) 13:54:12.31
>>504
>阿波が天皇系か邪馬台国系か

それ、どこがどうなって違ってくるの?  倭国(阿波)が天皇系であり、邪馬台国なんだけど・・・
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/03(金) 14:42:19.02
『安房志』によると「天日鷲尊の神霊が,天下に異変がある時は,金色の鷲となって現れるので,

その霊験を畏敬して小鷹の神と称した」とあり、印旛沼の由来は「忌部沼」が訛ったもの。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/03(金) 17:08:06.75
千葉県勝浦市浜勝浦の遠見岬神社   宮司歴代の墓碑には「勝占忌部」と書かれている。   阿波忌部の後裔である。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/03(金) 21:44:50.12
宮司の安房忌部系図には,天富命の娘の飯長媛(イイナガヒメ)と天日鷲命の孫である由布津主命(ユフツヌシノミコト)とが結婚して,堅田主命(訶多多主命)を生んで安房忌部の祖としている。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/03(金) 21:51:24.96
神社境内には「忌部塚」と呼ばれる弥生以前の洞窟遺跡もあり,阿波忌部の先遣隊の塚であろう。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/03(金) 22:54:37.92
>>505
邪馬台国が大和朝廷になったとは限らないという事
定説だとそうなってるけど、それでは説明に無理な所もある

あくまで記紀は天皇を正当化する歴史書という事を踏まえると
天皇に所縁のありそうな場所でも歴史を改変されている所もあるのではないか
特に古くからある神社等は怪しいと思う。土着信仰の神を書き換えてる可能性もある
1柱の神で複数の名を持つというのがおかしいと思う
だから阿波に邪馬台国があってその力を大和朝廷の歴史の一部にするために
記紀に記されているのかもしれないよって話

まっ、あくまで持論なんだけど、そのくらい柔軟に考えないと面白くないでしょ
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 07:26:20.27
>>510
>邪馬台国が大和朝廷になったとは限らないという事

阿波邪馬台国が、8世紀に奈良大和へ遷都して、大和朝廷の誕生。
0512日本@名無史さん
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2019/05/04(土) 08:47:38.22
>>510
>邪馬台国が大和朝廷になったとは限らないという事
> 定説だとそうなってるけど、

邪馬台国が大和朝廷になったなんて定説になってないよ?
そんな説もある程度。
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 09:20:41.53
千葉県館山市相浜にある「楫取(かんどり)神社」の祭神は 宇豆彦命(ウズヒコノミコト)で、天富命に従ってこの地に渡り,漁業を主として指導したといわれる。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 10:41:24.43
この「楫取」という名は今も徳島県の吉野川で使用されている川舟である楫取舟と関係すると思われる。 
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 12:15:01.49
阿波忌部が上陸した地・千葉県館山市布良の 布良崎神社 (祭神:天富命)周辺に「神余」(かなまる)という地名があり,これは安房神社に奉仕する忌部神戸が増えてあふれた人達が新しく開拓したことに由来する。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 12:55:23.88
>>516
>卑弥呼、神武も忌部?

もちろん、倭人(忌部一族)。


>忌部は一体どこから来たの?

倭人(忌部一族)の文化は、どこからか来たんじゃなくて、阿波周辺での自然発生。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 13:28:29.17
>>515

「安房神戸(あわかんべ)」という地名もある。 
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 14:32:55.86
茨城県新治(にいはり)郡新治村の 鷲神社 は社殿が平成7年に焼失したが氏子の寄付により平成11年に社殿を復興。

ご神体に徳島の忌部神社から分祀を依頼。鷲神社再建竣工記念碑には「本宮四国徳島市忌部神社」とある。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 16:05:19.18
茨城県結城(ゆうき)市小森の 大桑神社 の社伝には「古代,東国に養蚕・織物を伝えたとされる阿波斎部が,稚産霊尊(ワカムスビノミコト)を祭神として,

北方の大水河原に創建。 この辺り一帯を大桑郷と名付けた」 とある。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 16:31:40.06
物部について知りたいなら
真鍋大覚の物部文書を読まれるといいかと
最近、高額だった古本が再販されたみたい
興味あれば調べて見て下さい 
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 18:52:20.84
栃木県小山市栗宮の式内社 「安房神社」 の祭神は天太玉命。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 19:58:35.02
同じく、栃木県小山市萓橋の 日鷲神社 の祭神は天日鷲命。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 20:47:59.38
それから、栃木県下都賀郡石橋町橋本の 鷲宮神社 は天日鷲命。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 22:28:43.60
またまた、栃木県佐野市にも「鷲神社」
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/04(土) 22:38:12.67
>>516
殷部という説もある
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 07:40:20.87
さらに、東京都浅草にも 「鷲神社」
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 09:55:43.32
稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
0529日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 10:10:04.05
斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、

石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/05(日) 11:55:28.41
蛇紋岩の製作遺跡 : 「東みよし町稲持遺跡」・「徳島市矢野遺跡」・「上板町七条経塚遺跡」
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