邪馬台国畿内説 Part442
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1553905332/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?
信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか? 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 『松傾』の家の話?
もともとは「王」?を名乗っていたと書いてあるし、
中華? 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩きつぶされてしまうときのように、汚らしく叩きつぶされてしまったので、後始末が大変なのでは、ないのかな、、、 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
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魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 『eva 菅野 ゲーム』
よくわからないけど、このような人物もいたでしょ、
何か知っていたのかな? あと本当にジョジョでいうとマイク・オー?
某曲(MV)とか・・・5月15日?
もれ(仮)の妹の生まれた日と同じだしw 記紀神話というのがあるでしょ?
自分の家の話だと知っている、知っていた人? 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 このようなスレも読んでみて、読んでみた?
『本当のアマテラス』『本当のスサノオ』『』『』『』 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
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法窓夜話私家版 https://www.amazon.co.jp/dp/B07NQCZ7S7 とりあえず畿内説は史書の内容と直接的に関連するものを掘り出せ。
話はそれからだろ? >>968
>>二つの寸法の違う同心円を描く、という全く必要がない事が書かれている、
という事の説明が付いていないよ。<
>そんなこと全く書かれていない
ザラコクが稚拙な漢文理解力で不正解してるだけ<
「即平地徑二十一步,周六十三步」の円と、
「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」の二つの円を作らせており、
その大きさは、「1歩=6尺」でも、「1歩≒1尺」でも合わないから、
その二つは同じ円ではなく、同心円になる。 畿内説は日本の歴史を全否定してかかっているからな。
捏造史観と言われても仕方がないぞ。 >>123
三角縁神獣鏡と直百歩に相当するような3cからの前方後円墳が複数 九州説は偉そうな事言う割には
やる事は畿内説スレを荒らすだけという情けなさ >>969
>>それでは、何故「倍正南方」と書いたのか?の説明になっていないし、<
>そんなこと説明してないんだから 説明になってる方がおかしい
説明したのは、どうザラコクが間違えたかだ <
天空上での太陽の位置は、黄道上であり、
その黄道は、天の北極の周りの半径11万9千里の円と、
天の北極の周りの(二倍の)半径23万8千里の円の間だ。 >>124
1歩≒1尺なんておかしな単位が存在するわけない事は
誰の目にも明らか
10m≒10cmという単位が存在したと主張しているようなもの >>126
それは本当に3世紀かな?
仮に3世紀だとしても、卑弥呼が死んだ後のものかもしれないし、卑弥呼の時代だとしても魏志倭人伝が想定している邪馬台国の範囲の外であればなんの関係もない。 >>130
ホケノ山が炭素14c測定法で3世紀中葉全長80m
邪馬台国の卑弥呼の墓は径百歩と魏志倭人伝にある
このクラスの3世紀の前方後円墳は当時の畿内でしか見つかっていない 畿内説を精力的に主導してきた学者達が、インターネットの公式ホームページで、事実上、敗北を宣言してしまった >>124
>「即平地徑二十一步,周六十三步」の円と、
だから、これは円を描いてないの!
この範囲の地面を平らにするだけ!
「平地」って書いてあるだろ!
そして、その後の「令其平矩以水正」で
水平をとってる
そうやって作った水平な平面上に、
「徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一」の円を
一つだけ描くんだよ!
一つしかない円が、同心円な訳ないだろww >>128
>天空上での太陽の位置は、黄道上であり、
だ・か・ら、天空上の太陽の位置じゃなくて、
地上の「徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一」の円での
「倍正南方」を決めなきゃいけないんだってば!
お空に太陽があっても、それを見上げたところで正確な南は分からないだろ?
正確な時計がないんだから!
そして、「夏至の太陽と冬至の太陽が」とか言っているが、
その二つが同時に天にあることはないんだから、天空上の太陽の位置は
地上の円における南方向を決めるのには直接には役に立たない
だから、正勾の法で倍正南方を決める
いい加減に理解しろよ!ww 前スレ>993
>だから背面が南なんだが
>まだ理解できないかわ
「正」南方が南なんだから、その「背」面(倍南方)は北だっての! つまり、韓国人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。。。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 奈良の考古発見物体の年代測定方法を、主導的に宣伝する係員が、卑劣な偽造犯罪を実行した理由は、利益への欲望の為だった可能性が高いので、奈良の考古発見物体の年代は、全て研究をやり直す必要性が、高まってきたのではないのかな、、、 ザラコク氏が、周髀算経のことで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の係員を、ゴキブリを叩きつぶすようにして、論破してしまった。。。 周髀算経とは、一寸千里を計算した者が作製した可能性が高いな。 畿内説が崩壊したのに、論破済みのテンプレは残る
滑稽な話だ 韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説が崩壊してしまったのは、2013年では、ないのかな。。。 >>146
2013年に邪馬台国畿内説が崩壊してしまったので、韓国人の宣伝係員の仕事は、邪馬台国畿内説を信じない日本人の99.5パーセンテージを中傷するだけの簡単なものになってしまったのでは、ないのかな。。。 畿内説を精力的に主導してきた学者達が、インターネットの公式ホームページで、事実上、敗北を宣言してしまった >>131
c14年代測定をそのまま信用している考古学者はおらんよ 九州説は本心じゃもう負けだと思ってるんじゃないのかな?
それだから荒らすとか? >>146
>韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説
>>147
>韓国人の宣伝係員の仕事
連続句読点は本当に韓国と親和性が高いよなww >>150
じゃあ、この人は学者だと思う人物の名前を挙げてみな。 郡使が九州を出た記録がないからなあ。
それなのに卑弥呼に会って金印を渡しているからねえ。 >>153
何だオッペンハイマーとか言えばいいのか 荒らせば荒らすほど
九州説の窮状が明らかになっていく このスレの役割って、もう無いね
読むべきレスもないし、もう閉めたら? どうすればそんなみっともないレスが出来るのか九州説は さて九州説カルタでも作るかな
あ あまりに愚かな九州説 まともに畿内説を唱えている学者っているのか?
みんな距離を置いているだろ。 >>971
>円を描くのはあくまで
「則位徑一百二十一尺七寸五分。
因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一。」
の部分で、これによって太陽年の日数と同じ尺数の円周を描いて、
暦の日数に合わせて尺で測ることで、二十八宿が正しく置ける訳だ
描かれる円はこの一つだけ <
「即平地徑二十一步,周六十三步。令其平矩以水正」の部分は、
周長三百六十五尺、四分尺之一になる、徑一百二十一尺七寸五分の円を描くための
その円が入る大きさの「水平な地面を作る準備」の部分だ
こっちでは円なんか描いてないよww <
それなら、「即平地徑二十一步」なんて、始めから全く必要がなく、
また、「徑一百二十一尺七寸五分」より大きければいくらでもよかった、
という事である筈であり、では何故前漢収集説明氏が、
そんな「即平地徑二十一步」という変な文を書かなければならなかったのか?、
というと、
それは「即平地徑二十一步」という文が収集周髀算経に存在していて、
前漢収集説明氏は、その文の説明をしなければならなかったから、
という事になるんだよ。
だから、「徑一百二十一尺七寸五分」以下の文は、前漢収集説明学者の挿入文。
そして「徑二十一步」の周囲は63歩であり、
7×9=63で、7×4=28だから、
円周の9歩毎に印したら、円周が7等分され、その1等分に4つの宿を入れたら、
になる。1周出来ない28宿になる。 >>973
>天の北極→夏至正午の太陽位置→冬至正午の太陽位置のラインが、「正南」だよ。
>それではダメ
地上で、倍正南方=南北方向を正しく定めるための、正勾の方法も直前で説明してある<
東西が先に「日没と日の出」の棒の影端を結んで決められ、
南北に関しては、「倍正南方,以正勾定之」だから、
以正勾定之は、倍正南方の方向の決め方。 >>171
古代史学界のレベルの低さはガチ折り紙付き
騎馬民族日本征服説や日本文化の源流は朝鮮とかw
最近では捏造ゴッドハンドを学界が支持を表明など
細かなことまで言うと
どんだけ学者のレベルが低いんだ?という真実 >>154
>郡使が九州を出た記録がないからなあ。
九州説のこの「間違った思い込み」はどこから来るんだろう?
水行20日+10日、陸行1月で九州から出ない方がおかしい >>975
>>その「則天時・・・」の文は倭國伝の方に書かれていて、<
「蓋惡其名不雅而改之」と『倭國伝に書いてある』から、
「雅ならざるを惡み」と書かれた元の国名(其名)が「倭國」だと分かるんだよww<
そうですね。
九州倭国は、西晋の景帝への遣使が「日本」國を名乗り、
則天への遣使が(大和の日本國と区別しようとして)もう一度「日本國」を名乗った、
という事ですね。 >>160
>このスレの役割って、もう無いね
>読むべきレスもないし、もう閉めたら?
九州説がこのスレに粘着するのは、テンプレがとにかく憎いからなんだよなw
素人が普通に検索してこのスレにたどり着いてテンプレを読めば、
邪馬台国論争がすでに過去のもので、九州説はすでに終わってることが
広まってしまうからなんだよね 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう? >>984
>なんでそんな理由で魏使の記録を見たことになるの?
そんな結論の出るのに どんな論理的な筋道があるの?<
魏志と魏略と後漢書の3本ともに揃って、
魏使ら記録があった後に書かれた史書であるから。 >>985
>ザラコクだって唐津に着いた魏使が
伊都国がどっち方向なのか測量できない
と言ってるんだ
なんでもかんでも魏使の情報だという決め付けはとうに破綻してるんだよ <
東南は、出発時点での出発方向であり、魏使らは計測でき、
途中の陸行五百里の大半では、伊都国は見えないから、
魏使らは方向計測が出来なかった。 >>988
>魏略と三国志は、同じ典拠資料を底本にしていると考えられている
この底本の時点で魏使の報告書そのままではない<
魏略と魏志と後漢書が、魏使らの記録を使用した。
>魏使が報告する際に司馬懿が皇帝じゃないとか言うのは無意味
三国志は、晋朝の役人の陳寿が、晋朝の高祖司馬懿の功績を顕彰する目的が
当然に入り込んでおり、<
魏使らは、魏帝や司馬懿がその後どういう延命になったのか?を知るころは出来ないし、
陳寿の魏志内の記載が、西晋朝や司馬懿に阿ってにいない事も確実。
>そのために倭國が世界の果て萬二千里にあることになっている <
侏儒國や裸國や黒歯國を書いているから萬二千余里になっていないし、
淮南子は、東方は短里で書いていて、西方は長里でかいているから、
周代の記録や伝承を踏襲した可能性が高い。 >>170
>それなら、「即平地徑二十一步」なんて、始めから全く必要がなく、
>また、「徑一百二十一尺七寸五分」より大きければいくらでもよかった、
>という事である筈であり、
大きさそのものよりも平らにして水平をとることの記述だよ
また、「徑一百二十一尺七寸五分」より大きければいいというのは正しいが、
ムダに大きくしてもしょうがないから、この大きさの面を用意しなさいというのが
「即平地徑二十一步」なんだよ
ザラコクの理解力が乏しいからグダグダ言い続けてるだけ >>990
>>私の辞書では、
>「背」の意味は「普通の2倍する」という意味よりも後に書かれていて、
>ザラコクの辞書にも、「倍」に「背」の意味があることが書かれているんだろ?<
「背」とは書いていなかった。
>「倍正南方」と長さなどの「量」ではなく、「方向・方位」についての
文なのだから、方向を示す「背」の意味で解釈するのが当然で、
中国の人の解釈(維基文庫zh.wikisource.org)でも
「倍猶背也、正南方者二極之正南北也」となっている訳だ <
そりゃ、維基文庫が半分×だ、という事だな。 >>173
>東西が先に「日没と日の出」の棒の影端を結んで決められ、
>南北に関しては、「倍正南方,以正勾定之」だから、
>以正勾定之は、倍正南方の方向の決め方。
其術曰,立正勾定之。
以日始出,立表而識其晷。日入,復識其晷。
晷之兩端相直者,正東西也。
中折之指表者,正南北也。
この4行が「正勾(の法)」の内容
南北だけを決めるわけじゃないぞww >>176
>九州倭国は、西晋の景帝への遣使が「日本」國を名乗り、
西晋の時代に、日本という国号は影も形もないぞ
それに 日本は九州倭国とは別種の畿内だっていうのが、九州説の言い分だろ?
九州倭国が「日本」國を名乗ったら、これまでの主張を全否定することになるww
いつもいつも、その場限りのその場しのぎしか書けないから、いつもいつも矛盾だらけで破綻するww >>180
>魏使らは方向計測が出来なかった。
つまり魏志倭人伝に書いてある方角は、実際の地理上の方角を必ずしも指していない、と
主張するわけだな?ww
つまり、南と書いてあっても、見えない到着点への方角は分からないのだから、
まったくあてにならない
これがザラコクの主張な訳だww
魏志倭人伝記載の方角はあてにならない、というのは畿内説の読み方と同じだなwwwww >>184
>「背」とは書いていなかった。
つ 前スレ>>986
「私の辞書では、
「背」の意味は「普通の2倍する」という意味よりも後に書かれていて、 」
書かれているって自分で書いてるなww
文字は「倍」でもそれが「背」の意味で使われてるって、自分で辞書をひいて確かめてるじゃないかw >>174
一般人に支持を集めた騎馬民族征服説は、考古学者によって批判された
九州説が頻繁にレスに書くアマチュアによる旧石器捏造事件は、
一部の考古学者から批判が出されていたが、スクープで発覚し
最終的に考古学者によって全て再検証され捏造が明らかとなった
ただし、騎馬民族に高頻度にみられるハプログループC-M86は
九州3.8%と徳島1.4%確認されている 東遷説を支持しておられた考古学者の森先生は、
松鶴洞古墳について前方後円墳に間違いないとほぼ断定しておられたが、
他の考古学者から「実測もしていない段階からそのように言うのはどうか、
特に森浩一教授は学界での影響が大きい学者であるだけに、発言は慎重であってほしい。」
と批判されていた
後に韓国の考古学者の学術調査によって森先生のチョンボであったことが判明した >>180
>東南は、出発時点での出発方向であり、魏使らは計測でき、
>途中の陸行五百里の大半では、伊都国は見えないから、
>魏使らは方向計測が出来なかった。
出来るよ途中の陸行五百里でもね
やれば出来るのにズルをしてサボって
方向計測をしなかったってことでしょ?
首が飛ぶよね つまり、韓国人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。。。 >>991
>>「北向き」なんて書かれていないし、「正南方」は南方だけだし、
どこからも「南北方向」なんてならないし、⇔
>だ・か・ら、倍南方と、正南方を合わせて、倍正南方なんだよ
で、倍南方が=背南方で、南方に背を向けて北方・北向きになる<
ならん。書かれた方向は「南」だけだ。
>>前漢に収集説明されたままであれば、同心円だよ。<
>ザラコクの主張では「則位徑一百二十一尺七寸五分。」の部分は後代の書き込みなんだろ?ww
だったら「即平地徑二十一步,周六十三步。」しかないから、同心円にはならないだろうがww<
前漢収集説明学者は、 二つの「同心」の円を書いていた、んだよ。
>>夏至と冬至の(黄道上での)太陽位置だよ。<
>これは、地上に書く円における南北方向の決め方だから、蓋天上の位置は関係ないww<
周髀算経は、天空の黄道を、地上に投影しようとしていた。 >>993
類スレ主は、・・・・だから、
「南」という文言は書かれているが、
「北」という文言は書かれていない、
という事が未だに判らない、
(或いは判ろうとしない)・・・・アホであったんだろうなあ。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 大和こそ権力の全てだなどという妄想は、昭和の遺物だよ。
平成の間に撲滅されるべきだった。 >>994〜>>997
書紀と風土記に拠って、伊都国は怡土郡にあった、という事は変えようが無い。
また、古田説は、邪馬壹國の範囲として、
福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地、
とされ、立岩付近も含めようとしておられ、
宗像は、陶ケンの存在で出雲系残存部族、というような扱いであった。 >>1000
大和説は、現在、
国民の3割の、キョクウの・・・・政治家やマスコミや学会教育界や口先詐欺師のガキどもが。
相変わらず合唱しているが、
「南≠東」などに拠って自然淘汰するだろう。
九州説は盤石。 >>126
>三角縁神獣鏡と直百歩に相当するような3cからの前方後円墳が複数<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
△は、筑紫が先行。
大和は4世紀以後。
前方後円墳も、3世紀後半半ばの筑紫の那珂八幡などが先行しており、
大和は3世紀末の石塚から。 >>189
考古学者もネトウヨみたいなもんだからな。
科学に疎い妄想=畿内説に固執するゴミでしかない。 >>127
大和説は、
偉そうな事言う割には、中身は、
始めから「南→東」などの、史料事実の否定の嘘付き騙しであり、
大和は、九州倭国の別種分家や、
「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国でしかなく、
やる事は「都合の悪い事には目を瞑って」逃げて、
九州説者の「都合の良い言葉尻切り取り」でのヘイトスピーチ街宣だけであり、
荒らすだけという情けなさ。 >>129
>1歩≒1尺なんておかしな単位が存在するわけない事は誰の目にも明らか
10m≒10cmという単位が存在したと主張しているようなもの <
田畑や集落の戸数を数える里歩系の距離単位と、
家屋内位の長さの単位の尺寸系単位とは、
始めから全く(対象が異なる)別単位系。 >>131
>ホケノ山が炭素14c測定法で3世紀中葉全長80m
邪馬台国の卑弥呼の墓は径百歩と魏志倭人伝にある
このクラスの3世紀の前方後円墳は当時の畿内でしか見つかっていない<
「邪馬台国」も「畿内」も、存在もしない嘘つき騙しの文言。
ホケノも、
「南≠東」などに拠って始めから×であり、
有棺有槨の「庄内〜布留」の 前方後円墳であるから、
無槨で冢の卑弥呼の墓ではなく、石塚よりも後であるから3世紀末以後。
AMS年代は、50〜100年位古く出るから根拠にならないし、
「径百余歩」も、短歩であるから25.5m位であるし、
「jun葬者奴婢百餘人」の痕跡も全くない。 >>133
>>「即平地徑二十一步,周六十三步」の円と、<
>だから、これは円を描いてないの! この範囲の地面を平らにするだけ!
「平地」って書いてあるだろ!<
「徑二十一步周六十三步」だから、円形の地を作った、とはっきり書かれている。
>そして、その後の「令其平矩以水正」で水平をとってる<
これもおかしい。別に絶対水平面というものを作る必要がない。
>そうやって作った水平な平面上に、
「徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一」の円を
一つだけ描くんだよ!一つしかない円が、同心円な訳ないだろww <
結局、前漢収集説明学者は、二つの同心円になる円を工事をさせてしまったアホ学者。
そして、「徑一百二十一尺七寸五分」という、
尺寸系を使った追加記載をしてしまった事がバレてしまった。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>134
>>天空上での太陽の位置は、黄道上であり、<
>だ・か・ら、天空上の太陽の位置じゃなくて、
地上の「徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一」の円での
「倍正南方」を決めなきゃいけないんだってば!<
だ、か、ら、天空の黄道を地面に投影するのに、
夏至正午の太陽位置から冬至正午の太陽位置 の距離の11万9千里分、
南の方に新たに、円を作らなければならなかったんだよ。
>お空に太陽があっても、それを見上げたところで正確な南は分からないだろ?
正確な時計がないんだから!<
始めから、正午の南中の位置だ、と言ってある。
>そして、「夏至の太陽と冬至の太陽が」とか言っているが、
その二つが同時に天にあることはないんだから、天空上の太陽の位置は
地上の円における南方向を決めるのには直接には役に立たない
だから、正勾の法で倍正南方を決める いい加減に理解しろよ!ww<
地上では、周髀算経でも礼記でも朝と夕の(8尺)棒の)影端を結んで東西を決め、
それと「以正勾定之」する事に拠って南北が決められる。
だから、正勾の法で倍正南方を決める
いい加減に理解しろよ!ww >>207を読めば、ザラコクが話の通じないバカだとはっきり分かる
天文のことを描いているのに、有効数字一桁だとか、4分割に7つ置けば28宿だとか、
月食の予想ができるレベルの暦法があったのに、古代人をバカにしすぎww
当時の太陽年が、365.25日で、現在の観測による365.2422日と
5桁目で初めて差が出る精度
そのために、水平面が必要なんだよ
正勾の法で日の出と日の入のときの影の位置を見るのに、表(八尺棒)に対して
地面が傾斜してたらどうしようもないだろ?
円形の地面を整地することと円を描くことを同一視して、同心円とかいう間違いを
正当化しようとするし、ザラコクはでたらめすぎww >>195
>「南」という文言は書かれているが、
>「北」という文言は書かれていない、
正勾の法の説明に
「其術曰,立正勾定之。以日始出,立表而識其晷。
日入,復識其晷。晷之兩端相直者,正東西也。
中折之指表者,正『南北』也。」
って書いてあるな?
これを受けて、
「術曰:倍正南方,以正勾定之。」なのだから、
倍正南方で、南北方向を正しく定めるという意味なんだよww 直径5メートルの円じゃ、正確に二十八宿が置けないのは理解したか?ww >>207
>結局、前漢収集説明学者は、二つの同心円になる円を工事をさせてしまったアホ学者。
九州説はいつまでウソつくの? >>205
>田畑や集落の戸数を数える里歩系の距離単位と、
田畑の大きさを、短里にしたら、その時点で飢え死にしちゃうんだよww
井田法で1里四方が九夫で、9家族分の土地なんだからww
魏晋朝が、ずべて短里だったというのはこの時点で「大嘘だと確定」している >>207
>「徑二十一步周六十三步」だから、円形の地を作った、とはっきり書かれている。
円形の地を作ったんじゃなくて、円形の範囲を整地するんだよ
円は描いていないし、同心円などはないww
まあ、ザラコク以外には、ザラコクがまた原文も読まずに適当なウソを言い張ってるって
知れ渡ったかなww
>始めから、正午の南中の位置だ、と言ってある。
正確な時計がないと、正午がいつなのか分からないぞww
天蓋のお日様を見ても正確な方位は決まらないww
だから、日の出と日の入の影の位置から、東西南北を出す正勾の法で、
方角を定めると書いてある訳だ つまり、韓国人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。。。 徑二十一步周六十三步のことで、ザラコク氏が、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人を、完全に論破してしまった。。。 徑二十一步周六十三步のことで、ザラコク氏が、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人を、完全に論破してしまったので、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、自殺してしまう可能性が高まってきたのではないのかな、、、 魏志倭人伝時代の、太陽の角度を測る分度器が発掘されたので、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。。 >>207
>尺寸系を使った追加記載をしてしまった事がバレてしまった。
原文読まないで、いい加減なことを言うなよ。
本文と趙君卿注は、はっきり分かれている。
そもそも古六暦では、一年は365+1/4日。
周365+1/4尺を使うのは自然なわけだ。
むしろ周66步のほうが後付けさ。 なんでも良いんだけど、
なぜ朝鮮人の話ばかりしているんだ? あと伊達郡(川俣町)という掲示板を読んでみた
そこでは家の話ばかりしているし、
あと中国の話もしているでしょ、中国の絹が何やら〜とか >>135
>「正」南方が南なんだから、その「背」面(倍南方)は北だっての!<
周代の周髀算経が、「倍=背」という意味で使っていた、という保証がないし、
「南」という方向文字を書いたのに「北」という方向文字を書かなかった、
という事も、類スレ主の説明は、×だという事の証拠だな。 >>216〜>>219
周髀算經で、ザラコクがやり込められるたびに出てくるなww
ある意味分かりやすいww
連続句読点から見ても、この件が長引くほどザラコクや九州説のでたらめさ加減が
強調されるのが見え見えだから、少しでも話をそらしたいんだなww >>144
崩壊させられたのは、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説だけどな。 邪馬台国の角度のこてで、論破された、邪馬台国畿内説の宣伝係員が焦っているな、、、
226日本@名無史さん2019/04/03(水) 11:06:33.65
>>216〜>>219
周髀算經で、ザラコクがやり込められるたびに出てくるなww
ある意味分かりやすいww
連続句読点から見ても、この件が長引くほどザラコクや九州説のでたらめさ加減が
強調されるのが見え見えだから、少しでも話をそらしたいんだなww 奈良時代の〜みたいな話をしている人がいたりw
あと平安時代?
香野というのも家の話だし、むかし結婚した家 >>151
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説者は、
本心じゃもう負けだと思ってるんじゃないのかな?。
それだから荒らすとか?。 >>209
>だ、か、ら、天空の黄道を地面に投影するのに、
>夏至正午の太陽位置から冬至正午の太陽位置 の距離の11万9千里分、
>南の方に新たに、円を作らなければならなかったんだよ。
それに必要なのが、「徑二十一步周六十三步」の円だというのがザラコクの主張なんだろ?
どこがどう「11万9千里分」なんだ?
20歩ではなく21歩と半端な数字なんだから、測定または計算の結果、有効数字2桁だってことだろ?ww
さあ、何をどう換算すれば、「徑二十一步周六十三步」になるんだ?
そこまで考えないと、論説にはならないよww
こちらの主張では、太陽年の365+1/4日を周365+1/4尺にそのまま移してあり、
それが入るように6尺=1歩で必要な大きさを取るから「徑二十一步周六十三步」だ、と
至極簡単に説明できるww 『七夕』関係の話・・・・、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
何かの家の直系なんだろう話をしているんじゃないの? >>224
>周代の周髀算経が、「倍=背」という意味で使っていた、という保証がないし、
倍が、距離の倍では意味が通らないが、「倍=背」という意味で使っていたと考えれば
素直に意味が取れる
保障があるかないかとか、無意味なただの言いがかりだよww
保証がない以前に、否定できないだろww
これが、九州説の論法だろ? 曰く「短里の存在は否定できない」とかww
>「南」という方向文字を書いたのに「北」という方向文字を書かなかった、
だから、南の倍正で、正方向⇒南、背方向⇒北、なんだよ
倍と書けば、北は書かなくて済む 『天王』『牛頭天王』・・・・など、調べてみたの?
『何者にもなれない お前たち』・・・家の写真 スサノオ〜牛頭天王・・・この辺りの話も同じ、
書き込みネーム?
名前「スサノオ」と名乗る人がいたり
なぜ知っているんだと思う?伊達郡の川俣町という掲示板 (ホンモノの家の〜誰かを?)
殺そうとしたんでそ?みたいな事を言ってる人がいたり
地震、放射能? 邪馬台国の角度のことで論破され焦っている、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、その真実の発表によって、効いていることを自白してしまったのだね、、、
237日本@名無史さん2019/04/03(水) 11:18:13.52
>>228
効いてる、効いてるww 『天王宮 山王院 菅野』
『小野』という家もあるでしょ? 『天王宮 山王院 菅野』
『小野』という家もあるでしょ?
天子()?みたいな事を言ってる人がいたり、 魏志倭人伝時代の、太陽の角度を測る分度器が発掘されたので、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。。 大逆事件?
一発逆転事件の関係者に同じような名前の人がいたり?
〜盗んだろう?みたいな話の事件 >>158
荒らせば荒らすほど、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソつき騙しの大和説の、
窮状が明らかになっていく。 天皇というのも代理?
代わりの人物がやっているのかな、テレビなどに出てきたり >>159
荒らすしか出来なくなった時点で、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は終わった。 なぜかアニメ?家の写真と同じだし
『何者にもなれない お前たち』
こういう名前の家
『天王宮 山王院 菅野』
たしか、むかーし福島県のほうに住んでいたと言っているし 『老いたるスサノオ』
天皇のことなんだけどなwと知っている人もいた >>161
どうすれば、「南→東」などの嘘付き騙しのような、
そんなみっともないレスが出来るのかね?、大和説者は・・・。 >>166
あ あまりに愚かな「南→東」などの嘘付き騙し大和説
1い インチキしかない大和説 >>169
う 「南→東」などの、うすら馬鹿の大和説
え 閻魔に舌抜かれる大和説 >>172
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説には、学者そのものが居ないだろ
お 終わってしまった、大和説 >>175
>>郡使が九州を出た記録がないからなあ。<
>九州説のこの「間違った思い込み」はどこから来るんだろう?
水行20日+10日、陸行1月で九州から出ない方がおかしい<
水行二十日は、不彌國から(側副傍線國の)投馬國への所要日数説明であり、南九州。
水行十日陸行一月は、行程の目的地の「女王之所都」の説明文言だから、
郡から女王之所都の所要日数であり、不彌國のすぐ南。
いずれにしても、九州島からは出ない。 なんかもう九州説って悪口しか言えなくなったみたいだね
抵抗も終盤だな 邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩きつぶされてしまうときのように、汚らしく叩きつぶされてしまったので、後始末が大変なのでは、ないのかな、、、 >>214
>井田法で1里四方が九夫で、9家族分の土地なんだからww
畿内説って、時代錯誤だよね。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 「令和」九州王朝の復活である!
九州王朝は梅、畿内王朝は桜(ふむふむ 21世紀なんだから事実だけ追求して、仲良くすればいいんだよ >>257
>畿内説って、時代錯誤だよね。
どこが時代錯誤なのか、「具体的に指摘」をどうぞ!ww 『〜宮』と書いてあるでしょ?
『屋敷神』
『福島 民家園』に一緒に保存されている、芝居小屋など どう考えても九州北部限定の話だな。
それ以外の地域は当時詳細不明だった倭種の国だ。
遣唐使が日本国はかつて小国だったと言ってるんだから。 あの写真も
その家(テンノウ宮?)の写真なんじゃないの?
と言ってる人がいたり
どのスレッドだったかな〜、
そのようなレスをしてきた >>254
>水行二十日は、不彌國から(側副傍線國の)投馬國への所要日数説明であり、南九州。
>水行十日陸行一月は、行程の目的地の「女王之所都」の説明文言だから、
同じ文型で連続して書いてあるのに、違う読み方(水行の起点が今居る場所と、倭人伝の最初)を
想定しないと説明できないとか、ダブスタご都合主義の極致
そういうむりやりな「解読」「謎解き」が必要な時点で、
平文で書かれている史書の読み方として落第だよ
九州説は無理読みしないと成り立たない駄説、駄論でしかない >>263
>それ以外の地域は当時詳細不明だった倭種の国だ。
倭種が居るっていう情報がちゃんと届いてるじゃないか
そして、対馬も北部九州も倭種の国だぞ
>遣唐使が日本国はかつて小国だったと言ってるんだから。
そんなことは遣唐使は言っていないww
九州説は、すぐ捏造するからww なんで知っているんだろう?
ほとんど同じ話
当時(いつ頃の話なんだろう)、
結婚をしたときの話?駆け落ちのようなものだと言っていたり
本当の〜〜宮?
老婆の世代の話ではない、もう少し前の代 きーざくら〜、うまらしま・・・というキャラもいるでしょ
王子(皇子)という話だし 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために雇用した韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>267
>倭種が居るっていう情報がちゃんと届いてるじゃないか
>そして、対馬も北部九州も倭種の国だぞ
対馬や九州は郡使が詳細な報告をした倭国。
もちろん人種は倭種。
本州や四国は倭種だが詳細情報なし。 >>267
九州には九つの州があるそうな。
だから九州には、精粗取り混ぜ九説があると思いなさい。
もちろん、無理読みしないで、みごとに解ける九州説もある。 『天王』・・・
天子の意味だと書いてあるでしょ、天皇。
>>しょーとくたいし
みたいな事を言ってる人がいたり 天王宮の家の〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
兄弟・・・妹。
弟だよと言っている人がいたり、しょーとくたいし?
本当は『松傾』こういう名前の家なんだろう >>267
自分の発言を読み直して訂正出来ないとすれば糖質確定だな、お前は。 当時の人物だとか、そういう話でもない、
『松傾』の家の話w しょーとくたいし、うまやど不明・・・?
架空、創作された人物だという話があるでしょ? >>263は、唐書の「或云日本舊小國、併倭國之地」の
日本が九州北部限定といってるのか? >>274
各々が無理読みしないで、みごとに解けると思ってる一人一説が九州説の民族性 『本当のアマテラス』『本当のスサノオ』
『』『』・・・・・・・・・・・・・・。
こういうスレも読んでみた? >>281
そういうことだ、影武者が多いからな。
だから九州説は、そう簡単に崩されることはないだろう、、、。 >>177
>九州説がこのスレに粘着するのは、テンプレがとにかく憎いからなんだよなw<
九州説者が、このスレに反論てしておくのは、
何も知らなかった国民が、ついうっかり、
「南→東」などの嘘吐き騙しの口達者な大和説を読まされて、騙されれて、
変な万世一系八紘一宇の戦争皇国史観に騙されてはいけない、
と思うから、だよね。 >>280
いや日本国が畿内だろ、、、
九州北部倭国が中心地だった頃、畿内は遠く離れた小さな倭種の国だったということだ。 三貴子というのも、
とある時代になってから、
挿入されたものだと言っているでしょ
日本の話ではないからなんだよ、
三貴子というのは、かなり後の時代になってから渡って来たんだろうとか よくわからないけどウマヤドなども、
なぜいなくなったのか、消されたのか?
三貴子というのがいるでしょ?
小手子関係の話にも出てきたり そもそも、もともと?
『松傾』
この家の話だから・・・殺された、消されたというだけ 同じ家の人間、遠い親戚でも
下のほうの人間を殺しただけ・・・みたいな話
本当に気づいている人は気づいているんだよ
そもそも『松傾』この家の話w 倭国を韓より小さくバラバラにしたいのが
在日白丁の歴史観 このような名前の家があったでしょ
菅□市〜・・・略すると「カンイチ」?
本当の家でしょ?
『天王宮』? 『松傾』
伊達郡のほうの〜だよと言っていたし、
山があって、そこの上のほうに・・・住んでいて
よくわからないけど、戦争などにも行っていないとか、
通称カンイチ?、そういう曲も〜宮と言っている 剣心〜という作品も調べてみて
キュウリの話が出てきたり、何なんだろう、
庭になった・・・斬りきざんだほうが良い
とか これは老婆談w
銀〜というのがいて、
家に凄い刀が飾ってあったという話とか
銀〜の話というか、実際は家の話、
誰だったかな〜、家の・・・親戚は親戚なんだけど、弟のほうの家 『何者にもなれない お前たち』?
スサノオ?牛頭天皇?アマテラス?
何の話なんだろう 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 かつての小国の日本国は、
畿内であるという説と
百済という説があるね。 百済が逃げた先が日本なんだから百済なわけはないけどな >>304
そうだと言っているんだよ
中国〜百済=日本
いつの時代の話だと思う、神代?
奈良時代?神仙の時代? 『神仙界』?
中国もなかった時代の話、
いくつかの国はあったんだけど統一されていないでしょ?
専門家に聞いたほうが良い、
あと神、仙・・・などの話も? 九州邪馬台国が魏に朝貢していた頃、日本(畿内)に百済の豪族(反中派?)が移住して大和王権を構築したんだな。 本当はどこに住んでいるの?
みたいな事を言ってる人がいた気がするんだけど
家は神奈川県の川崎というところ 謎の震災・・・放射能?
なども関係ない・・・みたいな事を言っていたり、
家の老婆も、そういう事を言っていた、なぜだと思う?
家(『松傾』?)の話だからなんだよ、
人権侵害のような漫画やアニメ・・・ゲーム・・・ラノベ?
文学・・・その他 ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。。。。 >>181
か カビの生えた(南→東の嘘吐き騙しの)大和説 周髀算經では、一歩=六尺、一里=300歩が維持されてるから、
周髀算經には、短里なんて書かれてないし、短里に見えるのは
実測してないデタラメだからってのがFAでいいなww >>183
>>それなら、「即平地徑二十一步」なんて、始めから全く必要がなく、
また、「徑一百二十一尺七寸五分」より大きければいくらでもよかった、
という事である筈であり、<
>大きさそのものよりも平らにして水平をとることの記述だよ<
そういう事をする全く必要がないし、周髀算経が記載する必要がない。
地面に二十八宿を印する事が出来れば十分。
>また、「徑一百二十一尺七寸五分」より大きければいいというのは正しいが、
ムダに大きくしてもしょうがないから、この大きさの面を用意しなさいというのが
「即平地徑二十一步」なんだよ<
これも同じ。徑二十一步の円の地にそのまま二十八宿を印すれば、それで十分。
だから、「徑一百二十一尺七寸五分」以下の文は、前漢収集説明学者の解釈文の挿入。 >>186
>>九州倭国は、西晋の景帝への遣使が「日本」國を名乗り、<
>西晋の時代に、日本という国号は影も形もないぞ <
西晋惠帝の時の遣使は、東夷諸国のかなりの国の遣使も来ていた合同遣使であったから、
倭國が日本国号の追加を唱えても、従来の倭國呼称も通用していたんなら、
西晋朝側としては、そのまま倭國呼称を存続させるもの。
勿論、釈日本紀は、倭國使節が日本國を名乗った、という記録を知ったから、書いた。
>それに 日本は九州倭国とは別種の畿内だっていうのが、九州説の言い分だろ?<
大和が中国に日本国を名乗ったのは、
釈日本紀引用の延喜講記の「小野妹子が隋文帝に日本国を名乗って、叱られた?」
というのが最初。
それは新唐書の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の時。
九州倭国が「日本」國を名乗ったら、これまでの主張を全否定することになるww 文献と方角も距離も合わない畿内説は、いきなり想像から語り始めるしかないんだね。 >>308
魏が存在したころは朝鮮半島に百済はない @田川古代史フォーラム 邪馬台国は福岡にあった 通説への挑戦 その1
https://www.youtube.com/watch?v=tsH88BHmgRo
講師:安本美典
演題:邪馬台国九州説の到達点
平成31年3月21日
田川文化センター大ホール 主催:田川広域観光協会
実施主体:田川広域歴史研究会 >>314
またまた結論言い張るだけで
理由を何も言わな九州説が
滑稽すぎる >>314
>そういう事をする全く必要がないし、周髀算経が記載する必要がない。
>地面に二十八宿を印する事が出来れば十分。
周髀算経をまともに読んでないだろ?
地面を平らにして水平を取るのは、正しく天測するため
日の出と日の入の八尺棒の影の位置を記録して、それで正しい東西線と、
影の中点と棒の位置を結ぶ正しい南北線を定める
この作業も、きちんと
「其術曰,立正勾定之。以日始出,立表而識其晷。日入,復識其晷。
晷之兩端相直者,正東西也。中折之指表者,正南北也。」
と書いてあるし、これが「正勾(の法)」
次に、この「正勾(の法)」を使って、二十八宿の位置を決める基準として
南北線を引き、二十八宿を置くための円を描くのが
「術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,
以應周天三百六十五度、四分度之一。」
このあと、牽牛中央星アルタイルを基準に、二十八宿を日と尺を対応させて
円上に位置決めをしていく訳だ
素直に分かりやすく書いてあるだろww
後代に特定の記述を書き足したと考えるのは、それぞれの部分が不即不離の
関係にあるから無理w >>319って
田川古代史フォーラム「邪馬台国は福岡にあった 通説への挑戦」
赤村の前方後円型地形は人工だ!
やっぱり大きな前方後円墳が欲しくて欲しくてたまらないんだなw
自然丘陵をさがせ!w >>322
>赤村の前方後円型地形は人工だ!
あれ、国土地理院地図で断面図作ると分かるけれど、
右側と左側の高さが異なる形状になってる
今ちょうど、ザラコクを周髀算経の記述でバカにしているところだけれど、
前方後円墳も、平面を取ってから作るのが基本なんだよね
(あくまで基本で、山の尾根を切って墳丘に整えているものでは前後方向は傾斜がある)
でも、段築がなく、古墳にしては平べったすぎる形状で、しかも左右で高さが異なる、
なんていう古墳は日本のどこにもないんだよw
あれを前方後円墳のでかいのだと考えるのは、九州説のコンプレックスのなせる業、
以外の説明ができないww 邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩きつぶされてしまうときのように、汚らしく叩きつぶされてしまったので、後始末が大変なのでは、ないのかな、、、 田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、
丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している
しかし筑豊は麻生王国だから強大な力の前に忖度で前方後円墳に認定することもあるかもしれない
国土交通副大臣も忖度したから
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/402402/
https://www.asahi.com/articles/ASM42551MM42TIPE012.html >>187
>つまり魏志倭人伝に書いてある方角は、実際の地理上の方角を必ずしも指していない、と
主張するわけだな?ww
つまり、南と書いてあっても、見えない到着点への方角は分からないのだから、
まったくあてにならない <
いや、方向計測や記録をしないのは、
移動の途中や、目的地が見えない場合や、
案内人に任せるだけのような密林や曲がりくねり路などの場合。
出発地での出発方向位は、計測可能。 前方後円墳は、4世紀の製作物なので、前方後円墳に認定されない方が、魏志倭人伝時代の者の墓だという宣伝が、失敗しないのでは、ないのかな。
326日本@名無史さん2019/04/03(水) 17:54:30.87
田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、
丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している
しかし筑豊は麻生王国だから強大な力の前に忖度で前方後円墳に認定することもあるかもしれない
国土交通副大臣も忖度したから
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/402402/
https://www.asahi.com/articles/ASM42551MM42TIPE012.html >>188
>「私の辞書では、
「背」の意味は「普通の2倍する」という意味よりも後に書かれていて、 」
書かれているって自分で書いてるなww
文字は「倍」でもそれが「背」の意味で使われてるって、自分で辞書をひいて確かめてるじゃないかw<
私の辞書では、「背」という文言は書かれておらず、
「背のような意味の文言」が書かれていた、
と言っている。 畿内説を精力的に主導してきた学者達が、インターネットの公式ホームページで、事実上、敗北を宣言してしまった 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>329
>私の辞書では、「背」という文言は書かれておらず、
>「背のような意味の文言」が書かれていた、
情けないしみっともないなww
その辞書の記述を、示せば済むことだろうがww
漢典 http://www.zdic.net/z/15/js/500D.htm
1〜4略
5. 古同“背”,背弃,背叛。
6. 古同“背”,背诵。
「古くは「背」に同じ」って書いてあるぞw >>327
>出発地での出発方向位は、計測可能。
それ以外は計測不能なんだろ?ww
つまりは、魏志倭人伝に書いてある方角は、実際の地理上の方角を必ずしも指していない、と
主張するわけだな?ww
つまり、南と書いてあっても、見えない到着点への方角は分からないのだから、
まったくあてにならないww >>189
>ただし、騎馬民族に高頻度にみられるハプログループC-M86は
九州3.8%と徳島1.4%確認されている<
ふーん。 >>190
>東遷説を支持しておられた考古学者の森先生は、
松鶴洞古墳について前方後円墳に間違いないとほぼ断定しておられたが、<
前方後円墳は巨大で形状が非常に特異であるから、他の墓との区別は容易であり、
目視であっても、判ったものはかなり信頼出来る。
>他の考古学者から「実測もしていない段階からそのように言うのはどうか、
特に森浩一教授は学界での影響が大きい学者であるだけに、発言は慎重であってほしい。」
と批判されていた<
巨大な前方後円墳の古墳の形状が、そう簡単に変化する訳も余りなく、
他の日本の考古学者は、ほぼ全員、「南→東」などの明らかな嘘つき騙し学者であり、
単に「九州説学者」である事だけでのイチャモンであった、という可能性が十分にあり、
信用出来ない。
>後に韓国の考古学者の学術調査によって森先生のチョンボであったことが判明した<
韓国の政府や古代史学者らも、かなり国粋的な論を主張する事が何度もあり、
信頼性がかなり低い。 >>191
>>東南は、出発時点での出発方向であり、魏使らは計測でき、
途中の陸行五百里の大半では、伊都国は見えないから、
魏使らは方向計測が出来なかった。<
>出来るよ途中の陸行五百里でもね <
伊都国が見えなければ、方向計測は出来ない。
>やれば出来るのにズルをしてサボって 方向計測をしなかったってことでしょ?
首が飛ぶよね<
計測出来ないんだから、記録出来なかっても、首は飛ばない。
それを計測もしないで記録報告して、部下や後続の使節に依ってバレれば、
首が危ないもの。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>210
>天文のことを描いているのに、有効数字一桁だとか、<
周髀算経の一寸千里は、始めから、有効数字1〜2桁の近似値計測であり、
一寸千里以外は、それからの、演繹的な計算や論路。
>4分割に7つ置けば28宿だとか、<
63歩も28宿も、7の倍数である、という事からの推理。
>月食の予想ができるレベルの暦法があったのに、古代人をバカにしすぎww<
周初の周髀算経の頃に、月食が予想出来たのか?、が不明。
>当時の太陽年が、365.25日で、現在の観測による365.2422日と
5桁目で初めて差が出る精度 そのために、水平面が必要なんだよ<
周初の周髀算経時代に、太陽年が、365.25日という認識があったのか?も不明。
>正勾の法で日の出と日の入のときの影の位置を見るのに、表(八尺棒)に対して
地面が傾斜してたらどうしようもないだろ?<
周初の周髀算経では、始めから「地球球体」ではなく、「大地平面」近似。 フルタ先生もあれだし、
このところ九州説も、すこ〜しづつ世代交代ではないのかな、、、 >>202
三角縁神獣鏡は筑紫が先行なんて
景初二年銘のものでも出たのかな
そんなものはありはしない
なぜなら梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に
卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年とあり
さらにその年号が記銘された鏡が畿内で見つかっている
>>205
中国では古来よりだいたい1歩=4〜6尺の尺度を使用
どの資料でも1歩≒1尺となっているものは見つかっていない
>>206
AMS法年代測定が50〜100年古く出るというのは
根拠のない妄想
そうであったとしたら当然測定値に修正が入るし
そもそもホケノ山の木棺が120〜240年と測定で
50〜100年古く出たとしても220年〜340年で
ホケノ山の副葬品から見た3世紀中葉という年代観は覆らない
そしてヒケノ山は3世紀中葉なので
有棺有槨だから3世紀末という主張は根拠を失う >>211
>>(倍正南方には)「南」という文言は書かれているが、
「北」という文言は書かれていない、<
>正勾の法の説明に
「其術曰,立正勾定之。以日始出,立表而識其晷。
日入,復識其晷。晷之兩端相直者,正東西也。 中折之指表者,正『南北』也。」
って書いてあるな?
これを受けて、 「術曰:倍正南方,以正勾定之。」なのだから、
倍正南方で、南北方向を正しく定めるという意味なんだよww<
だから、「立二十八宿,以周天曆度之法。術曰:倍正南方,以正勾定之。」
の文には、「南」という文言はあるが「北」という文言がないから、
「倍正南方」は、(北方は関係なく)南方に倍する、という事だ、
と言っている。 >>284
>>>281
>そういうことだ、影武者>が多いからな。
>だから九州説は、そう簡単に崩されることはないだろう、、、。
>だから九州説は、そう簡単に崩されることはないだろう、、、。
>だから九州説は、そう簡単に崩されることはないだろう、、、。
>だから九州説は、そう簡単に崩されることはないだろう、、、。
>>288
>>>280
>いや日本国が畿内だろ、、、
>九州北部倭国が中心地だった頃、畿内は遠く離れた小さな倭種の国だったということだ。
>いや日本国が畿内だろ、、、
>いや日本国が畿内だろ、、、
>いや日本国が畿内だろ、、、 >>212
>直径5メートルの円じゃ、正確に二十八宿が置けないのは理解したか?ww<
直径5mの円なら、1周は約15m。
その4分の1は約3.75m。
そこへ28宿の4分の1の7宿を入れる事になるから、1宿当たり50cm強。
はい、これなら、28宿の配置モデルとして十分。 >>213
>>結局、前漢収集説明学者は、二つの同心円になる円を工事をさせてしまったアホ学者。<
>九州説はいつまでウソつくの?<
大和説者は、
「南→東」などの嘘付き騙しであっただけではなく、
前漢の周髀算経の収集説明本を書いた学者が、結局、
円を二つ作ってしまったアホ学者であった、
という事が、何時まで経っても判らない、
という嘘つきアホだったの?。 >>344
あんた周髀算経ぜんぜん読んでないだろ
そこはあくまでも円周上に346+1/4度を割る話であって
28宿を置けばいいって話じゃないんだぞ >>214
>>田畑や集落の戸数を数える里歩系の距離単位と、<
>田畑の大きさを、短里にしたら、その時点で飢え死にしちゃうんだよww
井田法で1里四方が九夫で、9家族分の土地なんだからww
魏晋朝が、ずべて短里だったというのはこの時点で「大嘘だと確定」している<
周初よりもはるか前に、「里」という距離単位が出来た時には、
井田法そのものがあったのか?が不明であり、
同じ一族内で田畑の収穫と狩猟漁労や食料採取の生活では、
「一田畑」が76.5m四方位の大きさであれば、おそらく十分。 >>215
>>「徑二十一步周六十三步」だから、円形の地を作った、とはっきり書かれている。<
>円形の地を作ったんじゃなくて、円形の範囲を整地するんだよ
円は描いていないし、同心円などはないww <
前漢の収集説明学者の記述では、「徑二十一步」の整地、の記載は全く無駄で無意味だ。
だから、「徑二十一步」は元の周髀算経の断片にあったもので、
「則位徑一百二十一尺七寸五分」以下が、前漢収集説明学者の追記部分だ。
>>始めから、正午の南中の位置だ、と言ってある。<
>正確な時計がないと、正午がいつなのか分からないぞww
天蓋のお日様を見ても正確な方位は決まらないww
だから、日の出と日の入の影の位置から、東西南北を出す正勾の法で、
方角を定めると書いてある訳だ<
「正勾の法」で南北が決められるから、太陽の南中で正午が判る。 >>341
>さらにその年号が記銘された鏡が畿内で見つかっている
後から作った記念品 ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。。。。 畿内説を精力的に主導してきた学者達が、インターネットの公式ホームページで、事実上、敗北を宣言してしまった 驚いたな。。。
韓国政府に雇用された、邪馬台国畿内説の宣伝係員は、頭が劣っているので、インターネットで大流行の連続句読点を使用する者が、このスレッドでは、一人だと考えているな、、、
347 名前:日本@名無史さん 2019/04/03(水) 19:44:01.63
>>343
またキャラの設定を間違ったのか >>353
面白いので、そのことを、逆用したら良いのでは、ないのかな。 >>220
>>(前漢の収集説明学者ga)尺寸系を使った追加記載をしてしまった事が
バレてしまった。<
>原文読まないで、いい加減なことを言うなよ。 本文と趙君卿注は、はっきり分かれている。<
趙君卿注は、後漢末であり、前漢の収集説明学者ではないよ。
>そもそも古六暦では、一年は365+1/4日。 周365+1/4尺を使うのは自然なわけだ。
むしろ周66步のほうが後付けさ。<
古六暦自体が戦国以後にまとめられた暦であり、
元周髀算経の記載根拠になるのか?が不明な筈。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。 なぜ、邪馬台国畿内説は、これほど完全に、叩きつぶされてしまったのだろうか、 >>314
>地面に二十八宿を印する事が出来れば十分。
>>344
>はい、これなら、28宿の配置モデルとして十分。
君は円周を1/28にすればいいと思っていないか?
二十八宿は星座だから均等ではないんだよ。 なぜ、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、必死に、宣伝しているのだろうか、 さて九州説カルタの続きでも作るか
き キチガイだらけの九州説 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、必死に、宣伝していたのが、失敗したので、自殺することを防止するために、かるたの作製を開始し始めた。 >>364
そうだなwww
自殺防止のためにもいっぱい作るかwww
こ 粉々になった九州説 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、必死に、宣伝していたのが、失敗したので、自殺することを防止するために、かるたの作製を開始し始めたが、あまり、自殺の防止になっていない可能性が、高まってきたのではないのかな、 さーて自殺防止自殺防止っと
し 死体となった九州説 日本のカルタ(不明)の起源?・・・、
たしか韓国なんだけどwスゴロクのようなモノの起源も同じw
このような事を言われると精神病になるんだろう この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした方が良い可能性が高まってきたな。 おうカルタ作られたくなかったら九州説はこのスレから撤収するんだな >>355
>趙君卿注は、後漢末であり、前漢の収集説明学者ではないよ。
《呂氏春秋》以後の完成とみるのが普通。
前漢の収集説明学者の想定こそ疑問。
>古六暦自体が戦国以後にまとめられた暦であり、
それで周63步の根拠になるのか?
一年365+α日が周365+α尺になるだけの話だよ。
>元周髀算経の記載根拠になるのか?が不明な筈。
「元周髀算経」という存在しないものに根拠を求めることは出来ない。 >>232
>>だ、か、ら、天空の黄道を地面に投影するのに、
夏至正午の太陽位置から冬至正午の太陽位置 の距離の11万9千里分、
南の方に新たに、円を作らなければならなかったんだよ。<
>それに必要なのが、「徑二十一步周六十三步」の円だというのがザラコクの主張なんだろ?
どこがどう「11万9千里分」なんだ?<
何だ?、あれだけ説明しても、まだ分かっていなかったのか?。「11万9千里」に関しては、
https://ctext.org/zhou-bi-suan-jing/juan-shang/zh
の「11」に「從夏至之日中,至冬至之日中十一萬九千里。北至極下亦然」と書かれ、
周地付近は、「天の北極と夏至正午の太陽位置」の間の11万九千里の下にあり、
正午の太陽位置の年間移動は、夏至正午と冬至正午の間(十一萬九千里)にあり、
投影地面でも、夏至正午の太陽位置から「南へ倍」広げた場所になる。
>20歩ではなく21歩と半端な数字なんだから、測定または計算の結果、有効数字2桁だってことだろ?ww
さあ、何をどう換算すれば、「徑二十一步周六十三步」になるんだ? <
だから、「28宿」を円周に配置するには、それを円周率の3で割って、
直径が約9.3宿になり、1宿辺り0.45歩の投影をしようと思えば、
「径が約二十一歩」という数値が出て来る、と言ってんだよ。
>こちらの主張では、太陽年の365+1/4日を周365+1/4尺にそのまま移してあり、
それが入るように6尺=1歩で必要な大きさを取るから「徑二十一步周六十三步」だ、と
至極簡単に説明できるww<
それは、28宿の配置や間隔を全く考えず、
巨大な円では使い物にならない、という事も考えず、
前漢の収集説明者の「一歩=6尺」での解釈説明を妄信しただけの、アホ説明。 >>382
>だから、「28宿」を円周に配置するには、それを円周率の3で割って、
>直径が約9.3宿になり、1宿辺り0.45歩の投影をしようと思えば、
周髀算経にまったく書いてないことを
現代人が勝手に空想しても
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孔明のような人物が出てきたりするでしょ、
なぜ詳しいんだと思う?将棋、囲碁をしていたり
カッパ(河伯)というのも、それ以前(孔明の時代)の存在 九州説はバカにされるのが何より我慢できないようだな
しかしバカだからさんざんバカにされたあげく空しく消滅する運命 ただのギャグ漫画だろう・・・w
と思っているんだろうけど
諸葛亮と同じ時代・・・?
それ以前から〜〜〜〜〜の存在、生き続けている?
『神仙界』 >>235
>>周代の周髀算経が、「倍=背」という意味で使っていた、という保証がないし、<
>倍が、距離の倍では意味が通らないが、「倍=背」という意味で使っていたと考えれば
素直に意味が取れる <
南北の意味なら、「倍」とか「背」とかを使わず、
「正南北方」と書けば済む筈だから、×。
>>「南」という方向文字を書いたのに「北」という方向文字を書かなかった<、
>だから、南の倍正で、正方向⇒南、背方向⇒北、なんだよ
倍と書けば、北は書かなくて済む <
それなら、「倍」なんて使わず、「正南北方」と書いている筈。
それを「倍正南方」と書いた、という事は、「倍」は「倍する」という動詞。 ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>392
>南北の意味なら、「倍」とか「背」とかを使わず、
>「正南北方」と書けば済む筈だから、×。
なにそれ
漢文になってない
w この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした方が良い可能性が高まってきたな。 >>385
これからのアプリ
金目当てだけど試してみるw >>255
なんかもう「南→東」などの嘘付き騙しの大和説って、
悪口しか言えなくなったみたいだね 。
人間的にも、抵抗も、終盤だな。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、必死に、宣伝していたのが、失敗したので、自殺することを防止するために、かるたの作製を開始し始めたが、あまり、自殺の防止になっていない可能性が、高まってきたので、葬儀の準備を実行すれば良いなw >>402
九州説は人間のクズって宣伝したら誰が喜ぶ? この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした方が良い可能性が高まってきたな。 剣心という作品もあったでしょ?
どうせ、ただの・・・・なんだろうと思うかもしれないけど
キュウリの話が出てきたり、
実在の人物(モデルとされる)の詳細を読んでみて >>405
この邪馬台国畿内説のホームページが、寂れてしまったのは、韓国人の宣伝係員の頭が劣っているからなので、仕方ないな。 >>265
>>水行二十日は、不彌國から(側副傍線國の)投馬國への所要日数説明であり、南九州。
水行十日陸行一月は、行程の目的地の「女王之所都」の説明文言だから、<
>同じ文型で連続して書いてあるのに、<
同じ文型ではない事は、
投馬國へは(至の前に)移動の説明文言がない事や、
「水行十日陸行一月」はその直前の(行程の目的地である)女王之所都の説明である、
という事は、もう数え切れない位説明してある。
>違う読み方(水行の起点が今居る場所と、倭人伝の最初)を
想定しないと説明できないとか、ダブスタご都合主義の極致<
類スレ主が、「南→東」などの嘘付き騙しだけではなく、
相手の説明を「一切知らん振りしてなかった」事にするインチキ騙しをしている、
サギの極致。 頭が尖ってるとは何だ?
朝鮮のほうじゃそれが悪口になるのか? >>410
>投馬國へは(至の前に)移動の説明文言がない事や、
女王国にはあるのか?
九州説はまたウソ? ほとんど繋がっている・・・というか
『老いたるスサノオ』
作者に関係する話?キュウリ(河童)の話が出てきたり >>267
>>それ以外の地域は当時詳細不明だった倭種の国だ。<
>倭種が居るっていう情報がちゃんと届いてるじゃないか
そして、対馬も北部九州も倭種の国だぞ <
「対馬が倭種だ」というのは、何に書かれているのだ?。
魏略か?。 >>410
惑わし異端の九州説。
いや、九州説の振りした大和説かも。、 何の写真なんだろう・・・?
と思うかもしれないけど
『松傾』
こういう名前の家の写真 ここは九州説をバカにしながら滅亡していく様ををゆっくりと眺められるスレ >>280
>唐書の「或云日本舊小國、併倭國之地」の
日本が九州北部限定といってるのか?<
唐書だけではなく、唐書を含めてそれ以前の歴代中国史書群は、
ほぼ全て、女王國や倭國の中心は、北部九州だ、と言っている。 邪馬台国商店街も
連続句読点も
面白いと思ってたのは
キチ本人だけ >>423
また俺様結論オンリーかよ
九州説は理由のない世界だな で、2世紀前半の其国の男王の墓制、またどこにあるのかを答えられないのだね>>1は。 www.pref.nara.jp/secure/169595/H28siseki_saitaku.pdf#search=%27%E7%BA%8F%E5%90%91+%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E9%87%91%27 偶然なのか何なのか知らないけど、何なんだろう
天王、牛頭天王〜スサノオ・・・?、
仏教の話みたいな事が書いてあったり
中国で天子・・・天皇?のことだとか、
むかーしの何かの家(不明)というのがあって、
東北地方のほうに住んでいたのかな? 伊達郡川俣町という掲示板などがあるでしょ
知っている範囲の親戚は書き込みもしていないし、
伊達郡・・・?スサノオという人がいたり www.city.sakurai.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/6/28_00000428.pdf >>430
2世紀前半の墳墓の話なんてどこにも書いてない。 天王宮・・・山王?本当に同じ名前の家w
どのスレだったかな?
川崎に住んでいるんじゃないの?
と言ってる人がいたり、
家は神奈川県の川崎というところなんだけど >>438
連続句読点 は九州説。
俺は葛城説。
そんなこともわからなくなったのかw 家の真似をしている人がいたのかな?
本当に同じ話をしているし >>314
>そういう事をする全く必要がないし、周髀算経が記載する必要がない。
>地面に二十八宿を印する事が出来れば十分。
周髀算経を短里の根拠として大事にしなきゃいけない九州説短里厨が、
周髀算経の記述をないがしろにするんだからどうしようもないよなww
周髀算経がいかに正確に二十八宿の位置を記すかを丁寧に書いているのに、
ザラコクの言うことは「数が二十八個あればok」だww
バカの極み
>徑二十一步の円の地にそのまま二十八宿を印すれば、それで十分。
測りもせずにか?ww
周髀算経の計測は正確だって主張しなきゃいけないのが分かってないだろ
>前漢収集説明学者の解釈文の挿入。
これが妄想で根拠なし
逆に「徑一百二十一尺七寸五分」の方が、太陽年の365.25日を写すのに必要 本当に、このスレにいた人は知っているはず
香野という家があって〜、蚕に機織り・・・。
何かを貼り付けたりしたはず?
たしか伊達郡の飯野というところの生まれ?
そういうモノ(貼り付けた)も家にあるし。
どういう事なんだろう。 >>313
周髀算經では、一歩≒1尺、一里=300歩が維持されてるから、
周髀算經には、原則として里なんて書かれてないし、長里に見えるのは
前漢の収集説明をした学者のせいだからってのが
FAでいいなww >>339
>周初の周髀算経時代に、太陽年が、365.25日という認識があったのか?も不明。
周髀算経にも「以應周天三百六十五度、四分度之一」って書いてあるじゃないか
前漢の武帝により太初元年 (紀元前104年) から使用された太初暦の時点で、
太陰太陽暦の四分暦になっていて1太陽年= 562120(周天)÷1539(統法)=365.250162日と計算できるし
それ以前の古六暦も四分暦だよ
国立天文台の暦wiki
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B8C5C2E5C3E6B9F1CEF1.html >>438
同一人物とは思えない
強いてイコールで結ぶなら、同程度の○チ? >>315の訂正
>九州倭国が「日本」國を名乗ったら、これまでの主張を全否定することになるww<
は、消し忘れ。 >>339
>周初の周髀算経では、始めから「地球球体」ではなく、「大地平面」近似。
大地平面でも、その大地の上に山も坂もあるんだから、天体測定用の平地は
整地しないとダメなんだってば! そのスレッドを読んでみて、
お菓子が何やら〜、まずい、うまくないよ・・・・
という話もしているでしょ
たしか・・・、
落雁(供えるもの)のようなものを作っていたり、
食べることも出来るけど、うまくないよ
と老婆も言っていた、
そこの店ではないのかもしれないけど、どういうことなんだろう
『姥清水』のような現象なのかな、
上のほうから子供が降りてくるでしょ? >>320
またまた
「南→東」などのウソ付き騙しの結論を言い張るだけで
理由を何も言わなを大和説が
滑稽すぎる 老婆が言うには、
その店(落雁などを作っていた。機織りもw)も、
何十年も前にやっていないよと言っていたしな・・・、 >>342
>だから、「立二十八宿,以周天曆度之法。術曰:倍正南方,以正勾定之。」
>の文には、「南」という文言はあるが「北」という文言がないから、
>「倍正南方」は、(北方は関係なく)南方に倍する、という事だ、
>と言っている。
円周上に二十八宿を置く(立二十八宿)のに、『何』を「南方に倍する」んだ?
言い張るばかりでまったく説明できてないじゃないかww
以正勾定之、つまり「正勾(の法)を以てこれを定める」と書いてあるんだが、
正勾(の法)をどう使うと『何』を「南方に倍する」ことができるんだ?ww
これが説明できない時点で、ザラコクの言うことはデタラメw
デタラメじゃないと言うなら、
「正勾(の法)をどう使うと『何』を「南方に倍する」ことができる」のか説明してくれよなww >>344
>そこへ28宿の4分の1の7宿を入れる事になるから、1宿当たり50cm強。
>はい、これなら、28宿の配置モデルとして十分。
つまり、何も計らずに適当に置けばokとしか言ってないんだよなザラコクはww
バカ丸出しww >>348
>周初よりもはるか前に、「里」という距離単位が出来た時には、
>井田法そのものがあったのか?が不明であり、
ザラコクは、というか古田流九州王朝説は、魏晋朝は短里だったっていう説なんだぞww
その時には井田法があるし、農耕社会だから飢え死にするなww
短里なんてないんだよww >>349
>「則位徑一百二十一尺七寸五分」以下が、前漢収集説明学者の追記部分だ。
繰り返すが、これが根拠なしの妄想だ
>「正勾の法」で南北が決められるから、太陽の南中で正午が判る。
だから「正勾の法」で南北を決めてからしか、「正午の太陽位置」は分からないだろ?
つまり、倍正南方、以正勾定之の時点では、天蓋上の太陽の位置は無関係 >>378
>おうカルタ作られたくなかったら九州説はこのスレから撤収するんだな
カルタは面白いけど、スレがムダに進むし
ザラコクがさらに真似してスレの浪費になるからあまりお勧めじゃないなぁ >>382
>投影地面でも、夏至正午の太陽位置から「南へ倍」広げた場所になる。
だから、何をどう地面に投影したら、径二十一歩になるんだって聞いてるんだよ
十一万九千里をどうやったら、径二十一歩という値になるのか? に答えられなければ無意味 >>382
>直径が約9.3宿になり、1宿辺り0.45歩の投影をしようと思えば、
9.3宿も0.45歩も、どこにも計ってないじゃないかww
有効数字1桁の精度とか言ってるくせに、小数点以下2桁の数字を説明に使うってどこのバカだ?ww
しかも、その小数点以下2桁の端数が実際にはどこにも使われていないというデタラメさw >>382
>それは、28宿の配置や間隔を全く考えず、
まったく考えていないのは、ザラコクだろ?
ただ適当に並べればいいとしか言ってないんだからww
周髀算経では、牽牛星アルタイルを基準に二十八宿の星座が移動する日数を、
周365+1/4尺の円周上に尺で測って位置づけるときちんと書いてあるのに! >>392
>それを「倍正南方」と書いた、という事は、「倍」は「倍する」という動詞。
倍が動詞なら、正南方が目的語で、「正南方を倍する」という謎の文章にしかならないんだが?ww
何度も教えてるんだが、正南方という「方角」を倍するって、どうやるんだ?ww >>321
>>地面に二十八宿を印する事が出来れば十分。<
>地面を平らにして水平を取るのは、正しく天測するため
日の出と日の入の八尺棒の影の位置を記録して、それで正しい東西線と、
影の中点と棒の位置を結ぶ正しい南北線を定める この作業も、きちんと
「其術曰,立正勾定之。以日始出,立表而識其晷。日入,復識其晷。
晷之兩端相直者,正東西也。中折之指表者,正南北也。」
と書いてあるし、これが「正勾(の法)」
次に、この「正勾(の法)」を使って、二十八宿の位置を決める基準として
南北線を引き、二十八宿を置くための円を描くのが
「術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。<
「倍正南方」の「倍」や「南だけの説明が出来ていないから、×。
>令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,
以應周天三百六十五度、四分度之一。」
このあと、牽牛中央星アルタイルを基準に、二十八宿を日と尺を対応させて
円上に位置決めをしていく訳だ <
「則位徑一百二十一尺七寸五分」が出来るんなら、
「即平地徑二十一步」が、全く不必要な記述になってしまうから、×。 >>314
>そういう事をする全く必要がないし、周髀算経が記載する必要がない。
>地面に二十八宿を印する事が出来れば十分。
周髀算経を短里の根拠として大事にしなきゃいけない九州説短里厨が、
周髀算経の記述をないがしろにするんだからどうしようもないよなww
周髀算経がいかに正確に二十八宿の位置を記すかを丁寧に書いているのに、
ザラコクの言うことは「数が二十八個あればok」だww
バカの極み
>徑二十一步の円の地にそのまま二十八宿を印すれば、それで十分。
測りもせずにか?ww
周髀算経の計測は正確だって主張しなきゃいけないのが分かってないだろ
>前漢収集説明学者の解釈文の挿入。
これが妄想で根拠なし
逆に「徑一百二十一尺七寸五分」の方が、太陽年の365.25日を写すのに必要 >>452
消し忘れがどうの以前に
>>176で「九州倭国は、西晋の景帝への遣使が「日本」國を名乗り、」って書いてるのが
ザラコクだぞ?
九州説の言い分では「旧小国の倭の別種が日本」なんだから、九州倭国が日本國を晋代に名乗ったなら
その九州倭国の方が、「旧小国の倭の別種」ってことになるww
今まで言ってきたことと矛盾してるのは理解できるか? >>467
>「倍正南方」の「倍」や「南だけの説明が出来ていないから、×。
何度も説明しただろ?
倍は背の意味で使われている
正南方と背南方を合わせて、倍正南方という書き方をしている
これが正しい読み方で、中国人が読んでもこう読めるのは維基文庫で確認できる
「説明ができていない」というのが無根拠で無意味な文字列でしかない >>467
>「則位徑一百二十一尺七寸五分」が出来るんなら、
>「即平地徑二十一步」が、全く不必要な記述になってしまうから、×。
これも何度も説明してるんだが、ザラコクはバカだから分からないんだなww
必要な「則位徑一百二十一尺七寸五分」の円を描くための土地として
径二十一歩の範囲の地面を平らにして用意するんだよ それにしても本当に謎の掲示板(伊達郡)・・・、
真似をしているわけではなく、何か知っている人なのかな
ほとんど同じような話
亀戸(天神)に行ったりもした、
100年以上前の話、
老婆よりも前の世代の話だと言っていたしな・・・ ここは九州説をバカにしながら滅亡していく(畿内説の)様ををゆっくりと眺められるスレ >>332
>(倍の意味)漢典 http://www.zdic.net/z/15/js/500D.htm
1〜4略
5. 古同“背”,背弃,背叛。
6. 古同“背”,背诵。
「古くは「背」に同じ」って書いてあるぞw <
「1〜4略」と伏せて隠したらおかしいし、
「古くは」はは何時なのかも判らないし、
周髀算経でも、南と北とを並記する時は、きちんと「南北」と書いており、
「「南背」とも「背南」なんても書いていない。 浦島太郎の話?
カメがいるよ・・・?
本当に何なんだろう、ストーカー? >>333
>>出発地での出発方向位は、計測可能。<
>それ以外は計測不能なんだろ?ww <
いや、三角測量が出来る場合や、目視できる場合や、記里車や歩測出来る場合や、
南北方向で一寸千里が使える場合には、計測可能。
>つまりは、魏志倭人伝に書いてある方角は、実際の地理上の方角を必ずしも指していない、と
主張するわけだな?ww <
主張しない。 >>478の追記
少し探せなかったが、
周髀算経には「倍正南方」以外にも「倍」の使用例があった気がする。 >>341
>三角縁神獣鏡は筑紫が先行なんて 景初二年銘のものでも出たのかな
そんなものはありはしない <
10年余り前には、列島で一番古い△は、志登の△であった筈。
>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に
卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年とあり
さらにその年号が記銘された鏡が畿内で見つかっている <
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し地域であり、
後代史家の自己解釈による書き換えのパターンは、信頼性が非常に低く、
大和の△は4世紀以後のもの。 >>341
>中国では古来よりだいたい1歩=4〜6尺の尺度を使用
どの資料でも1歩≒1尺となっているものは見つかっていない><
周髀算経の一寸千里と1里=300歩で、1歩≒1尺。 >>341
>AMS法年代測定が50〜100年古く出るというのは根拠のない妄想
そうであったとしたら当然測定値に修正が入るし <
修正されている事自体が、「100%信頼」されていない証拠。
≧そもそもホケノ山の木棺が120〜240年と測定で
50〜100年古く出たとしても220年〜340年で<
木棺は、樹木の髄に近い部分からとるから、
樹皮からの年輪数分更に古くなるので、×。
>ホケノ山の副葬品から見た3世紀中葉という年代観は覆らない
そしてヒケノ山は3世紀中葉なので
有棺有槨だから3世紀末という主張は根拠を失う <
前方後円墳自体が「卑弥呼の冢」や「壹與の西晋武帝への遣使」の後であり、
有棺有槨も、有棺無槨よりも後であり、
更に「庄内〜布留」であるから、石塚よりも後であり、3世紀末以後。 >>346
>あんた周髀算経ぜんぜん読んでないだろ
そこはあくまでも円周上に346+1/4度を割る話であって
28宿を置けばいいって話じゃないんだぞ <
あんた周髀算経ぜんぜん読んでないだろ
そこはあくまでも前漢の収集者の説明であって
周初にあったかどうかも分からない「346+1/4」を置けばいいって話じゃないんだぞ
そして、周髀算経には他にも「346+1/4」の 他にも記載があり、
その部分も怪しい。 >>360
>君は円周を1/28にすればいいと思っていないか?
二十八宿は星座だから均等ではないんだよ。<
この28宿の議論が始まったすぐ頃に、
「宿は星座や星」という事を書いておいた筈だし、
当然均等分の配置ではないし、しかし「大体の位置」。 >>362
き (人種差別戦争の))キチガイだらけの大和説
く (南→東などの嘘吐き騙しの)腐れ脳みその大和説 >>367
け (キョクウの安部自民や右翼学会教育界やマスコミで)嫌悪の目で見られるの大和説
こ (南→東などの嘘吐き騙しがバレて)粉々になった大和説 >>370
さ (南→東の嘘吐き騙しがバレて)さらし者の大和説
し 「天皇家や国民を)死体にしたい大和説 >>373
し、史料事実に従ってガンバレ、九州説
す (史料事実の否定曲解のがバレて)衰退していく大和説 星宿なんて根拠が無い妄想だと白状したようなものだな ここは九州説をバカにしながら滅亡していく(老衰畿内説の)様ををゆっくりと眺められるスレ 畿内説は桃の種の件で一気に信用を失くした感じだね。 魏志倭人伝が九州の話ばかりで、本州は「女王国の東の海の向こうにも倭種がいる」とだけ紹介されているのに、史書を無視して前方後円墳がーと叫ぶのが畿内説。 ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。。。。 この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした方が良い可能性が高まってきたな。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。 邪馬台国畿内説が一気に信用を失くした理由の、桃の種の件とは、何だろうか、、、
492日本@名無史さん2019/04/04(木) 08:17:11.87
畿内説は桃の種の件で一気に信用を失くした感じだね。 大物主の倉庫で発掘された桃は、なぜ、邪馬台国畿内説が一気に信用を失くした理由となったのだろうか。。。 >>476
とことんザラコクってバカだよなww
一切反論になってないww
>「1〜4略」と伏せて隠したらおかしいし、
こっちの目的は、「倍に背の意味があり実際に辞書にも載っていること」を示すことであり、
別の意味があることを否定していない
略した1〜4にどんな意味が書いてあってもこちらの論旨は揺らがないし、URLも具体的に
示してあるから、隠しているというのが的外れ
ザラコクの「辞書には背の意味があるとは書いてなかった」というのを
示せって言われてるのにごまかしているのがザラコクの方
>「古くは」はは何時なのかも判らないし、
さらに古い説文解字だと
「反也。从人咅聲。薄亥切」http://www.zdic.net/z/15/sw/500D.htm
これだと倍正南方が、正反南方という意味だとよりはっきり分かるだろ?
ザラコクがいくら言っても
「倍は古くは背(漢典)、さらに古くは反の意味(説文解字)で、
現代中国人もそう解釈している(維基文庫)」のが具体的な根拠とともに示されている
つまり倍正南方で、南北方向という意味
>周髀算経でも、南と北とを並記する時は、きちんと「南北」と書いており、
>「「南背」とも「背南」なんても書いていない。
これはまったくなんの反論にもならない
ある場所の記述が他の記述を拘束するなんてことは、どの文書でもあり得ない
例えば魏志倭人伝で、「卑弥呼が女王と書いてあるから、親魏倭王が倭女王と書いてないのは
おかしい、親魏倭王は卑弥呼のことじゃない」と主張するのと同じようにバカらしい 桃というのは、4世紀に外国から輸入した物体だったことが、判明したのだろうか。。。 桃の種より、さくらんぼの種の方が真実味があったのではないかな、、、 >>478
>>つまりは、魏志倭人伝に書いてある方角は、実際の地理上の方角を必ずしも指していない、と
主張するわけだな?ww <
>主張しない。
バカすぎww
末盧国が唐津で伊都国が三雲で、実際の地理上の方角が北東なのに、
魏志倭人伝に書いてある方角が東南だから、出発方向は南東で正しいって
無理な主張をしてるのがザラコクなんだぞww
つまりザラコクの主張は「魏志倭人伝の方角は出発方向だけが書いてある場合があって
必ずしもそれが地理上の実際の方角を指しているわけではない」って言ってるんだが?ww 魏志倭人伝には、桃のことは書かれていないが、サクランボのことは、書かれていたのだろうか、、、 頭の悪い韓国人が、出現して、邪馬台国畿内説が一気に信用を失くした理由となった、桃やサクランボの話から話を逸らそうとしている可能性が、高いな。。。
502日本@名無史さん2019/04/04(木) 08:45:14.96
>>478
>>つまりは、魏志倭人伝に書いてある方角は、実際の地理上の方角を必ずしも指していない、と
主張するわけだな?ww <
>主張しない。
バカすぎww
末盧国が唐津で伊都国が三雲で、実際の地理上の方角が北東なのに、
魏志倭人伝に書いてある方角が東南だから、出発方向は南東で正しいって
無理な主張をしてるのがザラコクなんだぞww
つまりザラコクの主張は「魏志倭人伝の方角は出発方向だけが書いてある場合があって
必ずしもそれが地理上の実際の方角を指しているわけではない」って言ってるんだが?ww 大物主の倉庫で発掘された桃は、なぜ、邪馬台国畿内説が一気に信用を失くした理由となったのだろうか。。。 中国に挨拶にくるためのその地からの往復は海を渡るが、いつも、一人に頭を櫛で梳かさせず、虱をとらせず、衣服を垢で汚させ、肉を食べさせず、婦人に近づかせず喪に服しているようにさせる。
名付けてこれを持衰という。
もし海に行っている者が運よく無事ならば、彼らとともに奴隷や財産が与えられるが、もし疫病や暴風の害に逢えばこれを殺そうとする、、
持衰が慎まなかったからだというのだ。。。
真珠と青い玉を産出し、その山には丹が有る。
その木には枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香が有り、その竹は篠簳桃支である。
(原文訳しきれないね、、、)
生姜、蜜柑、山椒、茗荷があるけれども、それらのおいしさを知らない。。。
獮猴、黒雉がいる。
倭人の風俗では、行事があったり、旅行にいったり、発言したり、何かを行うことが有れば、まず、骨を焼いて割れ目をつけることで、良しあしを占う。。。
予め割れ目の様子を告げるが、令亀法での言葉で行われる、、、
火によってできた裂け目を視て予兆を占うのだ。
倭人の社会では、同じ様に坐ったり起きたりしていて、父や子や男や女の別がない。
倭人は酒を嗜む性質がある。
魏略には以下のようにある、、、、倭人の習俗では正しい年を知らず、四季を区切るのではなく、ただ春の耕す時期と秋の収穫を年の区切りにしている。。。。 >>377
せ せこい嘘つく「南→東」のサギの大和説
そ そのうち消滅、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説 僕達が翻訳できなかった、枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香とは何なのだろうか、、、 大物主の倉庫で発掘された桃は、なぜ、邪馬台国畿内説が一気に信用を失くした理由となったのだろうか。。。 >>379
>>趙君卿注は、後漢末であり、前漢の収集説明学者ではないよ。<
>《呂氏春秋》以後の完成とみるのが普通。 前漢の収集説明学者の想定こそ疑問。<
能田氏の「星の位置の分析」で、紀元前1100年代の位置であった筈だし、
周公と商高の会話から始まっているんだから、周初の情報本であった事が確実であり、
呂氏春秋の記載内容は、後代の加筆であった事が確実。
「>古六暦自体が戦国以後にまとめられた暦であり、
それで周63步の根拠になるのか?
一年365+α日が周365+α尺になるだけの話だよ。<
意味不明。
>>元周髀算経の記載根拠になるのか?が不明な筈。<
>「元周髀算経」という存在しないものに根拠を求めることは出来ない。<
元周髀算経とは、当然周初の周公や商高の頃のもの。 >>381
たちまち敗北、「南→東」などの嘘付き騙しの瀬戸内東端〜大和説
ちいさな大和盆地の中の世界の大和説 この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした方が良い可能性が高まってきたな。 >>383
天皇家や国民を皆殺しにしてでも、
唯我独尊世界支配のタカ派のキョクウ暴力団的思想の大和説者 今度は元周髀算経なる偽書をでっち上げか
相変わらずザラコクはゴッドハンドしてるな >>384
>>だから、「28宿」を円周に配置するには、それを円周率の3で割って、
直径が約9.3宿になり、1宿辺り0.45歩の投影をしようと思えば、<
>周髀算経にまったく書いてないことを 現代人が勝手に空想しても
なにも意味がない <
28宿を表現するのに、「21歩」の円形を「平地」したのはなぜか?、
という理由の推定。 >>386
>つ 連れずれアンチも九州応援団のうち <
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
意味不明は文言を並べるお経を唱えるのが、
大和説者が分裂幻覚の妄想の病人である事の証拠。 >>389
天皇家や国民の7割を敵にした、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説 >>390
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
唯我独尊の高慢な勝気のタカ派の、暴力団のようなアホだから、
天皇家や安部自民よりも、自分が世界の支配者になろう、とする・・・・であり
バカにされるのが何より我慢できないようだな
しかしバカだからさんざんバカにされたあげく空しく消滅する運命 >>393
「南→東」などの嘘付き騙しをし、
自分が人類を支配しなければ我慢がでいないトンデモだもの、
大和説者 >>397
「南≠東」などで負けて泣いてもダメだぞ、
タカ派の唯我独尊の「天皇家も支配したい」たい大和説。 ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:4c1f5af45912208a
ホスト:p1665221-ipad020107kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>399
国民からも天皇家からも憎まれっ子の大和説 >>522
>天皇家からも国民からも憎まれっ子の大和説
正しく、そのとおり >>497
年代測定の話で済ませておけば良かったものを祭祀のお供え物だとか、卑弥呼が占いで使ったとか、真顔で言ってたからなあ。 >>397
(「南≠東」などの議論に負けて)泣いて誤魔化してもダメだぞ大和説 >>399
国民からも天皇家からも憎まれっ子の大和説 >>406
高慢なタカ派の唯我独尊世界支配戦争狂の大和説者は、
宣伝しなくても、国民からも天皇家からも、憎まれてるよ。 >>408
天皇家を倒してでも、
自分が日本でも世界でも一番の支配者になりたい・・・・大和説者 邪馬台国畿内説の宣伝係員は、生ごみのようにして廃棄されていた桃の種が、祭祀や占いに使用した物体だと宣伝してしまったので、国民から信用されなくなったのではないのかな。。。 桃の種は、鹿や魚の食べ残しと一緒に廃棄されていた可能性があったな。。。 >>413
>>投馬國へは(至の前に)移動の説明文言がない事や、<
>女王国にはあるのか?<
不彌國で、萬二千余里がほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都へは 南へ「移動距離がほぼ無し」で着くので、
不彌國の南にほぼ接して、邪馬壹國の入り口がある事になるの。
>九州説はまたウソ?<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
以前から数え切れない位何度も説明して来た事を、
また知らん振りする嘘つき騙し?。 唯我独尊の高慢な勝気のタカ派の、暴力団には、なぜ、韓国や北朝鮮の国籍を持っている者の割合が高いのだろうか。。。 >>415
「南→東」などの嘘付き騙しの、天皇家も国民をも支配しようとする、
侫人の巣だ、大和説 >>418
国民からも天皇家からも、のけ者みじめ大和説
惑わし異端の大和説。
いや、天皇家の味方の振りした、実は自分が天皇になりたい大和説かも。 >>422
「南→東」などの嘘付き騙しで、恥を上塗る大和説
ここは大和説をバカにしながら滅亡していく様を、ゆっくりと眺められるスレ >>424
「南≠東」だし、
「卑弥呼の冢」」の墓もないのよ、
大和説 >>426
「畿内」とか「邪馬台国」とか、
存在もしない嘘つき騙しの文言が「大和説の文言」が少なくなりゃ、
それでよし >>427
また、
既に何度も説明してある事を知らん振りして隠蔽逃亡しての、
俺様結論オンリーかよ。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
理由のない世界だし、都合の悪い話を隠蔽する詐欺師の世界だな。 ERROR: We hate Continuous..
連投してるで
問い合わせID:4c1fd4c688a6ae9f
ホスト:p1665221-ipad020107kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>429
「南→東」などの嘘付き騙しは、卑劣といえば卑劣な大和説 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。 >>531
>不彌國で、萬二千余里がほぼ終わっているから、
>邪馬壹國女王之所都へは 南へ「移動距離がほぼ無し」で着くので、
>不彌國の南にほぼ接して、邪馬壹國の入り口がある事になるの。
島めぐりなぞして、道草食ってたからだろう。
お腹すかせた田舎の小学生じゃないんだからね、帯方郡のお役人は、、、。 テスト投稿(つまらん投稿はパス)
>周髀算経の計測は正確だって主張しなきゃいけないのが分かってないだろ<
前漢の収集説明書き部分は、
元の周髀算経を、
曲解書き換えをしている可能性がある。 周髀算経は、書き換えが重ねられて伝わった化学の教科書なので、時代の違う製作者が何人もいる可能性が高いな。。。 周髀算経は、時代の違う製作者が何人もいる可能性が高いので、周の時代に作製された箇所だけを抜き取って翻訳すれば、良いのではないのかな。。。 >>542
>前漢の収集説明書き部分は、
>元の周髀算経を、
>曲解書き換えをしている可能性がある。
だから、その「前漢の収集説明書き部分」がどこなのか特定して、
分離したテキストを具体的に示してごらんって何度も言ってるんだが?
一寸千里の部分が「前漢の収集説明書き部分」なのに、何を言ってるんだかww
と言われても、どこなのか特定できない限り一切反論できないぞww つまり、韓国政府が推進している、邪馬台国を纏向遺蹟だとする宣伝は、完全に失敗してしまったのだね。。。 >>511
>能田氏の「星の位置の分析」で、紀元前1100年代の位置であった筈だし、
それが正しいなら、周365+1/4尺の系での測定がBC1100年代から行われていた、という証拠だね。
周365+1/4尺が前漢代の書き換えなんて話は、デタラメだったんだね。
>周公と商高の会話から始まっているんだから、周初の情報本であった事が確実であり、
物語の後付けはよくある手法だよ。
測定データが存在することと、算術書の存在は別のことだよ。 韓国政府が推進している、邪馬台国を纏向遺蹟だとする、このスレッドのテンプレートは、デタラメだったことが、完全に見破られてしまったのではないのかな。。。 遺跡 ⇒ 遺蹟
関連 ⇒ 關連
一大率 ⇒ イダルww 韓国政府が推進している、邪馬台国を纏向遺蹟だとする、このスレッドのテンプレートは、デタラメだったことが、完全に見破られてしまったので、意味の分からない意見の発表を実行してきたな、、、
549日本@名無史さん2019/04/04(木) 14:53:18.97
遺跡 ⇒ 遺蹟
関連 ⇒ 關連
一大率 ⇒ イダルww >>550
韓国政府が推進している、邪馬台国を纏向遺蹟だとする、このスレッドのテンプレートは、デタラメだったことが、完全に見破られてしまい、
邪馬台国畿内説を宣伝するために韓国政府に雇用されている韓国人の宣伝係が、意味の分からない意見の発表を実行したのは、追い詰められて焦っている証拠なのではないのかな。。。 韓国政府が推進している、邪馬台国を纏向遺蹟だとする、このスレッドのテンプレートは、デタラメだったことが、完全に見破られてしまい、
邪馬台国畿内説を宣伝するために韓国政府に雇用されている韓国人の宣伝係が、発狂してしまった。。。
551日本@名無史さん2019/04/04(木) 15:00:16.91
きっきっ キウスが きっきっき 韓国政府が推進している、邪馬台国を纏向遺蹟だとする、このスレッドのテンプレートは、デタラメだったことが、完全に見破られてしまい、
邪馬台国畿内説を宣伝するために韓国政府に雇用されている韓国人の宣伝係が、発狂してしまったので、自殺を実行してしまう可能性が高まってきたのではないのかな。。。 >>516
>28宿を表現するのに、「21歩」の円形を「平地」したのはなぜか?、
>という理由の推定。
何の理由にもなってないじゃないかwwwwww
「直径が約9.3宿になり、1宿辺り0.45歩の投影をしようと思えば」
こんな「半端な数字になるように合わせ」て「21歩」にする理由がないww
こちらの主張は、というか周髀算經に書いてあることは、
周天が三百六十五度、四分度之一だから、周が三百六十五尺、四分尺之一の円を描く
当時の知識だと「円周率が3」だから、直径が徑一百二十一尺七寸五分
これが入るようにするには六尺=一歩だから二十歩で一百二十尺、
残り一尺七寸五分の分は余裕を見て、径21歩の範囲を整地(平地)する
何の矛盾もないだろ? 「計算も素直」だし
「直径が約9.3宿になり、1宿辺り0.45歩」みたいな、
端数しかない適当とは違うww つまり、韓国政府が推進している、邪馬台国を纏向遺蹟だとする宣伝は、完全に失敗してしまったのだね。。。 僕たちは、他の、邪馬台国に関するレベルの高度なインターネット掲示板でも討論を開始したのだが、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係の方が頭が悪いので、レベルの高い討論の合間の息抜きにこのスレッドはちょうど良いな。。。 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
105年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらってから、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか? 韓国政府が推進している、邪馬台国を纏向遺蹟だとする、このスレッドのテンプレートは、デタラメだったことが、完全に見破られてしまい、
邪馬台国畿内説を宣伝するために韓国政府に雇用されている韓国人の宣伝係が、発狂してしまったので、自殺を実行してしまった可能性が高まってきたのではないのかな。。。 邪馬台国畿内説を宣伝するために韓国政府に雇用されている韓国人の宣伝係が、発狂してしまったので、自殺を実行してしまった、直前の発表だった可能性が、高いな。。。
558日本@名無史さん2019/04/04(木) 15:04:58.27
キウスれば通ず 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 東遷はする理由が無いから無いでしょ
とくに九州説の論拠である北九州の先進性から考えて権力や優位性の源泉から遠ざかるなんて考え難い
沖縄なんかは山北中山山南の3勢力とも明に朝貢してた >>550
>意味の分からない意見の発表を実行してきたな、、、
本気で、意味が分からないのかな?w
遺跡 ⇒ 遺蹟
関連 ⇒ 關連
一大率 ⇒ イダルww 弥生時代の文化水準は激しい西高東低だから、九州北部以外に王都を置く理由がない。
畿内説というのは、はるか後世の奈良の都の繁栄を投影しているだけ。
実態としての遺跡は何もなく、あらゆる史書との整合性も取れていない。 九州説の論拠は既になで斬りにして、すべて否定されてしまっているんだが、
その否定を認めないにだーって言い続けるだけの九州説の頭のおかしい人の相手は
もうこれ以上どうしようもないところがあるなww
結局、「編年」と「短里の否定」だけで、九州説は拠り所がなくなるんだがな
短里の否定は
1.区間によって距離が異なる⇒短里の基準となる距離は存在しない
2.短里を使う理由がない⇒里を知っている人がすべて、漢尺あるいは魏尺を使う
3.周髀算經は6尺=1歩、300歩=1里で記載されている⇒一寸千里は概念で実測ではない
4.短里の例として出されたものは、全て読み違い(天柱山、介山など)
5.短里に「見える」理由は司馬懿の功績の過大評価目的の誇張で説明できる
つまり晋朝への忖度
で完璧
編年はAMS法による14C年代とその他の推定年代が齟齬がないように
標準編年が組み上げられている
今後変更があっても、50年単位でずれるようなことはない
古墳時代(草創期)が3世紀初頭〜前半には始まっていたのが確実で
そのときには纏向遺跡が存在している
この時点で、倭王の居所=女王之所都を纏向遺跡以外に求める合理性がない 帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。 >>568
>古墳時代(草創期)が3世紀初頭〜前半には始まっていたのが確実で
地域が違うんだよ。
奈良の田舎が古墳時代だろうと、郡使が伊都国に駐在していた時点で畿内説はない。 韓国政府が推進している、邪馬台国を纏向遺蹟だとする、このスレッドのテンプレートは、デタラメだったことが、完全に見破られてしまい、なで斬りにされ、すべて否定され、
邪馬台国畿内説を宣伝するために韓国政府に雇用されている韓国人の宣伝係が、発狂してしまったので、自殺を実行したが、
残念ながら、失敗してしまった可能性があるな。。。
568 名前:日本@名無史さん 2019/04/04(木) 16:48:53.88
九州説の論拠は既になで斬りにして、すべて否定されてしまっているんだが、
その否定を認めないにだーって言い続けるだけの九州説の頭のおかしい人の相手は
もうこれ以上どうしようもないところがあるなww
結局、「編年」と「短里の否定」だけで、九州説は拠り所がなくなるんだがな
短里の否定は
1.区間によって距離が異なる⇒短里の基準となる距離は存在しない
2.短里を使う理由がない⇒里を知っている人がすべて、漢尺あるいは魏尺を使う
3.周髀算經は6尺=1歩、300歩=1里で記載されている⇒一寸千里は概念で実測ではない
4.短里の例として出されたものは、全て読み違い(天柱山、介山など)
5.短里に「見える」理由は司馬懿の功績の過大評価目的の誇張で説明できる
つまり晋朝への忖度
で完璧
編年はAMS法による14C年代とその他の推定年代が齟齬がないように
標準編年が組み上げられている
今後変更があっても、50年単位でずれるようなことはない
古墳時代(草創期)が3世紀初頭〜前半には始まっていたのが確実で
そのときには纏向遺跡が存在している
この時点で、倭王の居所=女王之所都を纏向遺跡以外に求める合理性がない つまり、
短里の否定は
1.区間によって距離が異なる⇒短里の基準となる距離は存在しない
2.短里を使う理由がない⇒里を知っている人がすべて、漢尺あるいは魏尺を使う
3.周髀算經は6尺=1歩、300歩=1里で記載されている⇒一寸千里は概念で実測ではない
4.短里の例として出されたものは、全て読み違い(天柱山、介山など)
5.短里に「見える」理由は司馬懿の功績の過大評価目的の誇張で説明できる
つまり晋朝への忖度
で完璧だという、間違った意見で、宣伝しているので、邪馬台国畿内説は国民から信用されていないのだね、、、 奈良の考古発見物体の年代測定方法を、主導的に宣伝する係員が、卑劣な偽造犯罪を実行した理由は、利益への欲望の為だった可能性が高いので、奈良の考古発見物体の年代は、全て研究をやり直す必要性が、高まってきたのではないのかな、、、 利益への欲望の為だった可能性が高い、卑劣な偽造犯罪を実行した、奈良の考古発見物体の年代測定方法を、主導的に宣伝する係員は、古墳時代(草創期)が3世紀初頭〜前半には始まっていたという、誤認に、どのように、密接に関係していたのだろうか。。。 そもそも短里なんて九州説に必須なものではないからな 短里が、あっても、なくても、女王国の入口のは、帯方郡から万二千里の伊都国と奴国の境界だったな。。。 >>576
そして、女王国の一番南が、邪馬台国だったのだから、卑弥呼の城は熊本城になるのだったね。。。 僕たちは、他の、邪馬台国に関するレベルの高度なインターネット掲示板でも討論を開始したのだが、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係の方が頭が悪いので、レベルの高い討論の合間の息抜きにこのスレッドはちょうど良いな。。。 『魏志倭人伝』には、「桃の種」のことなど記されていない。
あるいは、土器のことなども記されていない。
纒向遺跡から、魚の骨や、シカやイノシシの骨などが、まとまって出土したという。
しかし、それらのことも、『魏志倭人伝』には、記されていない。
『魏志倭人伝』に記されている、魏の時代のものであることが確実な、中国北方系の「鏡」や、「矛」や、「鉄の鏃」や、「絹」や、「勾玉」などは、纒向遺跡からは出土していない。あるいは、出土しても、 北九州にくらべ、圧倒的にすくない。
纒向遺跡からは、直接証拠の出土がいちじるしくとぼしい。 >>567
>弥生時代の文化水準は激しい西高東低だから、九州北部以外に王都を置く理由がない。
これが、弥生時代という800年間をごっちゃにしたガバガバ理論
弥生中期までの北部九州の繁栄は誰も否定していない
しかし、弥生終末期に入る前頃から、北部九州の相対的な凋落の結果、
後漢書に言う「歴年無主」の状態になり、その後北部九州に王権の所在を見ることはできない
この北部九州の凋落の直接の原因が、日本海諸国の興隆によるものか、
天変地異による社会の混乱かは、はっきりしない
>畿内説というのは、はるか後世の奈良の都の繁栄を投影しているだけ。
3世紀初頭〜前半には既に古墳時代が始まっており、その時点で奈良盆地の卓越性は顕著になっている
「3世紀初頭〜前半」は、はるか後世ではない
>実態としての遺跡は何もなく、あらゆる史書との整合性も取れていない。
実体として、纏向遺跡という大遺跡があり、多数の列島最大の墳丘墓があり、
これが卑弥呼の時代と重なる3世紀前半のもの
魏志倭人伝の行程記事とも齟齬がなく、記紀の記述とも整合する
批判があるなら、具体的に指摘するようにしてくれ 纒向遺跡は、『魏志倭人伝』に結びつけて考えるよりも、『日本書紀』と照らしあわせて考えるほう がよいように思える。『日本書紀』は、崇神天皇の時代に、箸墓古墳を「大市(おおち)」に造ったと記している。
すなわち箸墓古墳を築造したころ、この地には「市」があったのである。桃の種や魚の骨、シカや イノシシの骨などは、お祭りのために用いられたものではなく、「市」にもってこられたものの残留 物や、廃棄物であった可能性もある。
あるいは、つぎのようにも考えられる。
纒向遺跡出土の大きな建物は、『魏志倭人伝』の卑弥呼の「宮室」など の記述にあわないところがある。
建物は、「市」に付属する施設、たとえば、のちの律令時代にみられるような「市司(いちのつかさ)」のための施設(役所)や、売買のための施設(肆〔市倉〕。
商品をならべておくところ)である可能性なども考えられよう。
桃の種や魚の骨、シカやイノシシの骨などは、「市司」の役所で行なわれた宴会の廃棄物である可能性なども考えられる。
または、祭殿(神社)や斎場と考えててもなんら無理はない
さまざまな可能性が考えられるのに、すぐに卑弥呼と結びつける。
これは「解釈」論である。
なんとでも「解釈」できる「解釈」論による「お祭り」さわぎではなく、もっと地に足のついた「実証」的な議論を切望したい。
「邪馬台国"畿内説」には、『魏志倭人伝』にもとづく「実証」よりも、勝手な「解釈」が多すぎる。「解釈論」は、所詮「連想ゲーム」でしかない。 >>581
奈良にある弥生時代初期の古墳時代の痕跡ってどれのこと言ってるんだ?
畿内説が、古墳時代を弥生後期までめり込ませて語るケースはあるが、弥生時代まるまる古墳時代のように妄想してんのはお前だけだ。 桃の種を、炭素14年代法で測定し、3世紀としても
3世紀に卑弥呼が纒向に居たという証拠にはならない >>569
>自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
>海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
>陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
>となります。単位はmです。
>95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。
引用部分最初の「自由度2のt-値の5%点が4.303なので」が統計の扱いとして不正
t-分布は、母集団が正規分布するときにしか使えない
そのような前提がないので、信頼区間はチェビシェフの不等式から見積もることしかできない
95%信頼区間に対応するチェヴィシェフの値は、4.472となるので、95%信頼区間は
海路は 73.3(-39〜186)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-225〜458)ただし( )内は95%信頼区間
でたらめな値しか出ないだろ?ww
信頼区間がマイナスに突っ込んでいる時点で意味ないし、
海路は一声千里だから、計算するのもむなしいし、
陸路の分だと魏晋里=435mも信頼区間の中だ >>584
それどころか、纒向は邪馬台国に相応しい大都市だったとかほざいていたよな。
にもかかわらず住居跡は見つからず。
その時点で邪馬台国との関係は無いに等しいという旨を研究者自ら語ってたのによ。
ここにいる畿内説は頭おかしいのか? 纏向遺跡から大量に土木用の木工具が出土している
これが都市を作るためなら、集落跡が多数見つかっても良いが無い
古墳を作るための工具と考えてもなんら不思議ではない >>582
>纒向遺跡出土の大きな建物は、『魏志倭人伝』の卑弥呼の「宮室」など の記述にあわないところがある。
・・・と言って、どこだか言わない九州説
ww >>587
じゃあ纒向を拠点として作り上げた墓は?
箸墓古墳とでも? >>570
>奈良の田舎が古墳時代だろうと、郡使が伊都国に駐在していた時点で畿内説はない。
それ、単なる誤読
郡使往來常所駐は、郡使の往来で、スキップせずに必ず立ち寄るところ、という意味
ずっとそこにいる訳ではない
畿内と北部九州の交流は、畿内様式甕が継続的に奴国に流入・模倣製作されていることから確認できる
九州だけの倭國などは成立の余地がないし、列島の西側の広い範囲の倭國という枠組みでは
北部九州は顕著な墳丘墓すら作れない、地域首長の成長において出遅れる地域でしかない
そんなところに倭王は居ない 纏向の出土物から、いきなり王都とか卑弥呼の居館だと結びつけるには材料不足
畿内説の学者や研究者の先走る姿勢が畿内説の不支持に、少なくとも影響しているように思える >>588 倭人伝ではどのように書いてあるか知っての上ですか? >>449
>>周初の周髀算経時代に、太陽年が、365.25日という認識があったのか?も不明。<
>周髀算経にも「以應周天三百六十五度、四分度之一」って書いてあるじゃないか
前漢の武帝により太初元年 (紀元前104年) から使用された太初暦の時点で、
太陰太陽暦の四分暦になっていて1太陽年= 562120(周天)÷1539(統法)=365.250162日と計算できるし
それ以前の古六暦も四分暦だよ 国立天文台の暦wiki ・・・<
周髀算経の「七衡圖」の説明の時に、既に、
「故曰:一歲三百六十五日、四分日之一,一歲一內極,一外極。
三十日、十六分日之七,月一外極,一內極。
是故衡之間萬九千八百三十三里、三分里之一,即為百步。
欲知次衡徑,倍而內衡之徑。二之以內衡徑。次衡放此。
內一衡徑二十三萬八千里,周七十一萬四千里。
分為三百六十五度、四分度之一,
度得一千九百五十四里二百四十七步、千四百六十一分步之九百三十三。」
とされていて、里歩系との対応は書かれているが、
問題の「28宿」の話の時の、尺寸系との関係は書かれていない。
という事は、やはり、「28宿」の尺寸系の記載は、後代(前漢代)の追記部分になる。
>国立天文台の暦wiki<
そのWikiでも、周代の太陽太陰暦は不明確だ、という判断を書いている。 >>588
宮室とする状況証拠を掘立柱建物は少ない
倭人伝
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
集落跡も無い、鉄器を持たない兵がいたとは?数々あるよ
まず宮室樓觀城柵嚴設が問題かな だからさー、周髀算経は周代び文献じゃないの
まだわかんないの? >>594
それで?
纒向遺跡出土の大きな建物が『魏志倭人伝』の卑弥呼の「宮室」など の記述にあわないところ
って、どれ? あらかた掘り尽くした九州からはもう何も出ないから畿内説を貶めるしか無いよな >>598
いつ、誰がどこで?
九州説って具体的な話はできないの? >>451
>ま 末盧国南に下る九州説><
この「あいうえお」男に返事していたら、
また5chに「連投ですよ」として投稿拒否されるから、
この男は、しばらく放置。 >>593
>問題の「28宿」の話の時の、尺寸系との関係は書かれていない。
当たり前だ
七衡圖の説明のところでは28宿の位置を説明してないだろ
28宿の位置を説明するために尺寸系を使うのだから
28宿の位置を説明してない章で尺寸系を使ってなくて変なところは何も
無い 帯方郡から九州北岸まで一万里なんだよ。
一里は何メートルかな? >>591
>畿内説の学者や研究者の先走る姿勢が畿内説の不支持に、少なくとも影響しているように思える
で、誰が畿内説を不支持なわけ? >>453
>>周初の周髀算経では、始めから「地球球体」ではなく、「大地平面」近似。<
>大地平面でも、その大地の上に山も坂もあるんだから、天体測定用の平地は
整地しないとダメなんだってば!<
周髀算経の「榮方と陳子の一寸千里の記載」では、
「大地を整地」していないんだから、それが周髀算経の記載方法であった訳で、
だから28宿の記載で「整地」を書いた、という事は、
前漢の収集説明をした学者の「自己解釈に拠る書き足しであったんだろう」
という事になる。 >>581
>しかし、弥生終末期に入る前頃から、北部九州の相対的な凋落の結果、
はあ?
根拠は?
>後漢書に言う「歴年無主」の状態になり、その後北部九州に王権の所在を見ることはできない
そこが倭国だよ。
「歴年無主」の後にも、平原遺跡のような豪華な王墓が作られているけど?
>実体として、纏向遺跡という大遺跡があり、多数の列島最大の墳丘墓があり、
郡使の目にはとまっていない。
だって郡使は伊都国に留まっていたから。 >>588
>>>582
>>纒向遺跡出土の大きな建物は、『魏志倭人伝』の卑弥呼の「宮室」など の記述にあわないところがある。
>
>・・・と言って、どこだか言わない九州説
>
>
>ww
楼閣がない、柵がない、兵士が使っていた鉄鏃がない。 現代を生きる我々は当時の中国人と違って帯方郡から九州北岸までは一万里よりもはるかに近いと知っている >>590
>九州だけの倭國などは成立の余地がないし、列島の西側の広い範囲の倭國という枠組みでは
後漢書でも読め。 >>596
とぼけるなよ。
>>594
>まず宮室樓觀城柵嚴設が問題かな
これだから畿内説は信用を失う。 >>606
>楼閣がない、柵がない、兵士が使っていた鉄鏃がない。
ないって証拠は? >>609
悪口言うだけですか
具体的なことは言えないのね
w >>607
つまり、一里が今より短かったんだよね。 >>605
>だって郡使は伊都国に留まっていたから。
郡使が伊都国に留まっていたと言う根拠は? >>605
>>しかし、弥生終末期に入る前頃から、北部九州の相対的な凋落の結果、
>はあ?
>根拠は?
いま自分で書いたろ?
>後漢書に言う「歴年無主」の状態になり、その後北部九州に王権の所在を見ることはできない
↓
>「歴年無主」の後にも、平原遺跡のような豪華な王墓が作られているけど?
これね
2世紀末
弥生終末期に入る前頃 >>588
>>>582
>>纒向遺跡出土の大きな建物は、『魏志倭人伝』の卑弥呼の「宮室」など の記述にあわないところがある。
>
>・・・と言って、どこだか言わない九州説
畿内説だが、卑弥呼の宮は纏向の大型建物ではないと思う。
一番重要な「謂れ」が何もない。
纏向にある謂れは物部に関するものしかない。
例えば饒速日が神武に屈した場所は桜井市外山。
崇神の宮は纏向だからその母親が纏向にいたであろうとか。
こんな纏向に卑弥呼がいるわけなかろう。 >>616
葛城厨は畿内説の仲間に入れてもらえない 王族の特権とは水。
水源地の湧き出る水の第一利用者が王。
崇神紀にも大物主が三輪山にいたとあるだろ。
大物主>崇神だったんだ。
大物主が三輪山の水源を支配していた証拠だ。
卑弥呼も水源に住んだ。
場所は高天原のふもと、長柄神社、別名「姫の宮」であろう。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。 僕たちは、他の、邪馬台国に関するレベルの高度なインターネット掲示板でも討論を開始したのだが、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係の方が頭が悪いので、レベルの高い討論の合間の息抜きにこのスレッドはちょうど良いな。。。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、必死に、宣伝していたのが、失敗したので、自殺することを防止するために、かるたの作製を開始し始めた。 この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした方が良い可能性が高まってきたな。 >>622
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、必死に、宣伝していたのが、失敗したので、自殺することを防止するために、かるたの作製を開始し始めたが、あまり、自殺の防止になっていない可能性が、高まってきたのではないのかな、 >>617
葛城説は俺一人、むしろ気持ちが良い。
卑弥呼が誰なのか言えない纏向説者という馬鹿どもと一緒にならなくて気持ちが良い。
俺は国宝・中平銘鉄刀から卑弥呼とトヨを割り出し、
その住処から径珀余歩の奴婢が埋められた塚をみつけてるのだからな。 >>480
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
魏志曰くなどの当時現存の魏志倭人伝を引用した文言があり
それらは卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初1年でも2年でもなく
揃って景初三年と記載されている
よって卑弥呼が魏に使いを送って鏡をもらったのは
景初三年が正しい >>481
一寸千里は間違い
>>482
ホケノの木棺サンプルは5つ測定されていて
その平均が120〜240年なので
年代がこの範囲外の可能性は非常に低い
前方後円墳が卑弥呼の後というのは根拠なし
ホケノ山の年代測定から卑弥呼の時代3世紀中葉には
すでに前方後円墳があった事が判明 >>611
>悪口言うだけですか
具体的なことは言えないのね <
反論を悪口と捉えるのはいかがでしょうか
反論には反論が必用では >>626
いまだにこういう記紀あてはめゴッコして遊んでるシーラカンスって
ヨボヨボの爺さんなんだろうな >>630
で、その反論とはどこに存在するのかね? >>458
>>だから、「立二十八宿,以周天曆度之法。術曰:倍正南方,以正勾定之。」
の文には、「南」という文言はあるが「北」という文言がないから、
「倍正南方」は、(北方は関係なく)南方に倍する、という事だ、
と言っている。<
>円周上に二十八宿を置く(立二十八宿)のに、『何』を「南方に倍する」んだ?
言い張るばかりでまったく説明できてないじゃないかww<
何度も書いた。
周地の上空の「天の北極から、南天の夏至正午の太陽の距離の11万9千里」を半径にする円を、
南に倍して、「天の北極から、南天の冬至正午の太陽の距離の23万8千里」を半径にする円に、
する。
>以正勾定之、つまり「正勾(の法)を以てこれを定める」と書いてあるんだが、
正勾(の法)をどう使うと『何』を「南方に倍する」ことができるんだ?ww く
「以正勾定之」は、今の話では東西線から南北線を求める方法であるから、
「倍正南方」とは直接関係がない。 >>628
箸墓古墳の埋葬された奴婢について説明できるようになってから偉そうに言え。 埋葬された奴婢なぞおらん
痕跡が見つかってないし
倭国にはどうやら言われているように古墳周りに奴婢を埋葬する習慣がなかったようだから >>631
崇神=行灯山=4世紀初頭から前半という時点でお前らの負け。
庄内0期=2世紀末だから、崇神以前の人物を普通に遡れる。
その中にトヨも卑弥呼もいた。
はい、わしの一人勝ちwww >>633
>「以正勾定之」は、今の話では東西線から南北線を求める方法であるから、
>「倍正南方」とは直接関係がない。
大いに関係あるさ
地球の公転に基づく正確な暦を作るんだから
正確な子午線が必要だ >>535
何だ言われて悔しかったのか
ならもう一度
ここは九州説をバカにしながら滅亡していく様をゆっくり眺められるスレ >>635
高天原(御所市高天)に奴婢埋葬の痕跡がある。
奴婢とは神武紀に出てくる土蜘蛛だ。 >>637
それでも今だに一人絶対なんだから
一人ボロ負けってことだな >>640
じゃそこは卑弥呼の墓から除外
卑弥呼の墓に奴婢百人殉葬とはあるけど埋葬とは書いてないから >>642
奴婢のことが全く説明できない箸墓説者の分際で何を言ってるのか。 >>463
>>投影地面でも、夏至正午の太陽位置から「南へ倍」広げた場所になる。<
>だから、何をどう地面に投影したら、径二十一歩になるんだって聞いてるんだよ
十一万九千里をどうやったら、径二十一歩という値になるのか? に答えられなければ無意味<
周が63歩の円が、手ごろで、28宿も入れ易くて、便利だから。 FAQに葛城を入れるべきだな
>>1
>勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 もし殉死した人を100人も箸墓に葬るとしたら
まず間違いなく外堤に埋葬するね
いま大池だけど >>464
>>直径が約9.3宿になり、1宿辺り0.45歩の投影をしようと思えば、<
>9.3宿も0.45歩も、どこにも計ってないじゃないかww<
当たり前だ。 「仮の数値」からの近似的計算値だから。 >>645
箸墓古墳から奴婢、その埋葬、あるいは殉葬、
なんでもいい、神社伝承でもいいからその謂れや痕跡を出せ。 >>644
記紀には奴婢を古墳周りに埋めて殉葬する習慣が古来からあったとされる
そして垂仁天皇がやめさせ代わりに埴輪を埋める事にしたとも
すると多くの古墳からは周りに奴婢が埋められた痕跡が見つかるはずだが
今のところはっきりしたのは1例もない
そして埴輪のない古いタイプの古墳には代わって特殊器台が見つかる
この事から殉葬とは奴婢を古墳周りに埋めるものではなく
特殊器台に奴婢の血を捧げるような形式だった可能性が高い
よって奴婢が埋められた跡は殉葬跡ではなく
それがあるという事は卑弥呼の墓ではない 意気揚々とした九州説に対して畿内説は呪詛の言葉を吐くだけ
天につばを吐くように空しい畿内説はただ去りゆくのみ >>465
>周髀算経では、牽牛星アルタイルを基準に二十八宿の星座が移動する日数を、
周365+1/4尺の円周上に尺で測って位置づけるときちんと書いてあるのに! <
前漢の収集説明学者の、一つの解釈の提示だ。 >>655
それ、なんか根拠あって言ってるの?
それとも毎度のチェリーピック? >>466
>>それを「倍正南方」と書いた、という事は、「倍」は「倍する」という動詞。<
>倍が動詞なら、正南方が目的語で、「正南方を倍する」という謎の文章にしかならないんだが?ww<
それ、間違い。 「倍する」の目的語は、「天の北極〜夏至正午の太陽」の11万9千里」。 >>653
>特殊器台に奴婢の血を捧げるような形式だった可能性が高い
勝手に都合よく決めるなw >>656
>出すと、なんかいいことあるの?
箸墓なんて言ってるお前が恥をかく。
それは大変いいことだw >>653
垂仁紀の埴輪誕生の話は 魏志倭人伝を解釈した後の上書きであろう。 >>659
何でだ?
それじゃ古くから古墳には殉葬が行われてきたはずなのに
はっきりと周りに奴婢が埋められた跡が見つかってないわけを説明してみろや
埴輪が出る古墳には特殊器台がなくなる理由もな >>650
>当たり前だ。 「仮の数値」からの近似的計算値だから。
一寸千里もそうだよ
「仮の数値」による思想的な架空の計算 >>658
>それ、間違い。 「倍する」の目的語は、「天の北極〜夏至正午の太陽」の11万9千里」。
なら「倍正南方」にはならんな
漢文の読めない九州説
あきらめろ >>468
>>徑二十一步の円の地にそのまま二十八宿を印すれば、それで十分。<
>測りもせずにか?ww
周髀算経の計測は正確だって主張しなきゃいけないのが分かってないだろ<
前漢の収集説明学者の周髀算経では、
牽牛中央星と須女之星しか名前を出していないみたい。 >>660
>箸墓なんて言ってるお前が恥をかく。
どんな恥を? >>662
>それじゃ古くから古墳には殉葬が行われてきたはずなのに
いや行われていない。
>はっきりと周りに奴婢が埋められた跡が見つかってないわけを説明してみろや
王の死に際して殉葬なんてなかったから。
だから魏志の奴婢百人の記事は習慣ではなくの一つの事件。
女子高生コンクリート詰め殺人事件は日本の習慣ではなく事件だっただろ。それと同じ。 >>469
>「九州倭国は、西晋の景帝への遣使が「日本」國を名乗り、」って書いてるのが
ザラコクだぞ?
九州説の言い分では「旧小国の倭の別種が日本」なんだから、<
何だ?、類スレ主は、また「インチキ切り取り」をして、
世間の人々を騙そう、しているな。
「倭の別種の旧小国が大和日本国」であり、
「西晋惠帝日本國を名乗ったのが九州倭国」だ。
>九州倭国が日本國を晋代に名乗ったなら
その九州倭国の方が、「旧小国の倭の別種」ってことになるww<
ならん。類スレ主の「切り取り曲解捏造」だ。 >>668
記紀に古代から殉葬は行われて来たとあるぞ
のちにその代わりに埴輪を埋めるようになったとも
それを裏付けるかのように埴輪の見つかる古墳には特殊器台がない
この符号をどう説明するのかな >>471
>必要な「則位徑一百二十一尺七寸五分」の円を描くための土地として
径二十一歩の範囲の地面を平らにして用意するんだよ <
「整地」工事を書く、という人類の常識外れの事なんかしないし、
周髀算経の一寸千里の計測でも、、一々「整地」工事をしていない。 畿内説は死んだ、跡形もなく粉々に粉砕された
畿内説を再生させようとしても覆水盆に返らず >>672
>記紀に古代から殉葬は行われて来たとあるぞ
書かれてるから正しいとはならない、考古学的に殉葬はない。
書かれてるから正しいのなら箸墓はモモソ姫墓であって卑弥呼とは程遠い。
また血痕の一つも見つかっていない特殊器台と殉葬は何も関係がない。 >>674
>「整地」工事を書く、という人類の常識外れの事なんかしないし、
なんで整地工事を書いたら人類の常識外れなんだ?
独善老人の言うことは解らん >>674
>周髀算経の一寸千里の計測でも、、一々「整地」工事をしていない。
だから架空なんだよ一寸千里
一尺六寸を整地工事する馬鹿の顔も見たいがな >>673
1800年前なら発見されないだろう
その頃の血液の痕跡ある考古遺物が見つかったなんて聞いたことないし
そして特殊器台は特殊壷を載せて使うもの
>>676
しかし埴輪の見つかる古墳には特殊器台はない
これは奴婢の殉死が埴輪によって代替されたという記述を
裏付けるものと言えるのではないだろうか 僕たちは、今、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしていたのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、少し疲れたので、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。 このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れるように、ギリギリで打ち砕かないで、遊んでいるのでは、ないのかな。。 よって奴婢が周りに埋まってるという古墳は
卑弥呼の墓じゃありえない >>683
いちばん頭の弱い人は
お前なんだけどな >>499
>「倍は古くは背(漢典)、さらに古くは反の意味(説文解字)で、
現代中国人もそう解釈している(維基文庫)」のが具体的な根拠とともに示されている
つまり倍正南方で、南北方向という意味<
1〜4が、メインの意味。
>>周髀算経でも、南と北とを並記する時は、きちんと「南北」と書いており、
「「南背」とも「背南」なんても書いていない。<
>これはまったくなんの反論にもならない
ある場所の記述が他の記述を拘束するなんてことは、どの文書でもあり得ない <
他ではほぼ全部「南北」と書いていたんなら、
「南北」を書こうと思えば、「背南」とか「倍南」と書くよりも、
「南北」と書く確率のの方がはるかに高い。 倭人伝に殉葬100人と書かれているにも関わらず、大型の前方後円墳である箸墓こそが卑弥呼の墓だ!
などと言ってるのは誰なんだよ? 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、必死に、宣伝していたのが、失敗したので、自殺することを防止するために、かるたの作製を再開したな。。。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。 何だカルタがそんなに嫌か
じゃもっと作るか
い インチキまみれの九州説 >>502
>つまりザラコクの主張は「魏志倭人伝の方角は出発方向だけが書いてある場合があって
必ずしもそれが地理上の実際の方角を指しているわけではない」って言ってるんだが?ww<
陳寿は、魏使らの行程移動説明においては、
出発の説明+途中の説明+到着の説明+付加説明、
という順次式の記載を採っている。 確か奈良の遺跡には弥生末期〜古墳時代初頭あたりで南海トラフと思われる地震の跡があるらしいな。
纒向にもあるのか? つまり、韓国政府が推進している、邪馬台国を纏向遺蹟だとする宣伝は、完全に失敗してしまったのだね。。。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、必死に、宣伝していたのが、失敗したので、自殺することを防止するために、かるたの作製を開始し始めたが、あまり、自殺の防止になっていない可能性が、高まってきたのではないのかな、 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。 邪馬台国畿内説の宣伝係員が、意味がわからない発表を実行したので、自殺の、時間の秒読みが開始された可能性が高まってきたな。
698日本@名無史さん2019/04/04(木) 21:52:38.95
効いてる効いてる
う うらぶれた説九州説 僕たちが、今、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしていたという発表はしたのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、少し疲れたのだが、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の自殺の秒読みが、開始された可能性が高まってきたので、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。 このスレッドの邪馬台国九州説の考古学者はレベルが高いが、邪馬台国畿内説の方は頭の劣っている宣伝係員しかいないので、全体的にはレベルの低いこのスレッドの討論が完了し、
頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の自殺の秒読みのかるたの作製が、開始されたたので、笑いすぎて、眠れなくなってきたな、、、 >>693
>陳寿は、魏使らの行程移動説明においては、
>出発の説明+途中の説明+到着の説明+付加説明、
>という順次式の記載を採っている。
そんなこと
証拠もなく素人のアンタが言い張って
だれが信用すると思う? か
考えずに自殺すれば、苦しみが少ない可能性が高いな。 >>707
頭悪いからさあ、友達もいないんだろうなってw この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした方が良い可能性が高まってきたな。 >>709
この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったのは、邪馬台国畿内説の方には、頭の劣っている宣伝係員しかいないので、全体的にはレベルが上がらないからなのでは、ないのかな。 >>605
>はあ?
>根拠は?
九州説の誇りの平原1号墓は、そこらの庶民墓と同じサイズしかなくて、
成人男子が10人もいれば一週間で作れる程度のもの
墓坑周りの杭穴の配置も四角く整えられてさえいなくて適当に並べられているだけ
その程度の墓しか作れない主体が、倭王だと考えるなんて情けなくならないのか?
というところで、いかに倭國を矮小なものにするか、が目的の九州説にはぴったりなんだろうなww
>そこが倭国だよ。
倭國の端っこの一部だ
>「歴年無主」の後にも、平原遺跡のような豪華な王墓が作られているけど?
それは伊都国の第二家系の準首長墓に過ぎない
倭王墓はもっと立派
>郡使の目にはとまっていない。
>だって郡使は伊都国に留まっていたから。
これがウソだって何度教えたら分かるんだ?
九州限定の倭國ってのは、九州説じいさんの脳内妄想の中にしかないんだよ
魏使は、水行陸行2ヶ月かけて出雲(投馬国)経由で大和=邪馬台国まで行ってる つまり、韓国人が宣伝してきた、邪馬台国畿内説は、完全に、叩きつぶされてしまったのだね。。。 >>612
>つまり、一里が今より短かったんだよね。
短里なんてないんだよww
短里の否定は
1.区間によって距離が異なる⇒短里の基準となる距離は存在しない
2.短里を使う理由がない⇒里を知っている人がすべて、漢尺あるいは魏尺を使う
3.周髀算經は6尺=1歩、300歩=1里で記載されている⇒一寸千里は概念で実測ではない
4.短里の例として出されたものは、全て読み違い(天柱山、介山など)
5.短里に「見える」理由は司馬懿の功績の過大評価目的の誇張で説明できる つまり晋朝への忖度
で完璧 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。 九州説はもう議論が目的じゃなくて
スレ潰すのが目的 >>635
>埋葬された奴婢なぞおらん
>痕跡が見つかってないし
>倭国にはどうやら言われているように古墳周りに奴婢を埋葬する習慣がなかったようだから
倭国じゃない、畿内かどこかを見て言っている? >>615
>>後漢書に言う「歴年無主」の状態になり、その後北部九州に王権の所在を見ることはできない
> ↓
>>「歴年無主」の後にも、平原遺跡のような豪華な王墓が作られているけど?
>
>これね
>2世紀末
平原遺跡が倭国大乱より後の王墓でありながら、倭国大乱より前の王墓の様式をよく守っており、倭国大乱を経ても倭国の王都は博多湾沿岸であった。
倭国大乱の後の最初の倭王が卑弥呼となる。 >>547
>>能田氏の「星の位置の分析」で、紀元前1100年代の位置であった筈だし、<
>それが正しいなら、周365+1/4尺の系での測定がBC1100年代から行われていた、という証拠だね。
周365+1/4尺が前漢代の書き換えなんて話は、デタラメだったんだね。<
「365+1/4尺の系」なんて、地球上での太陽や月の周期の話であり、
天空での星や星座の話ではないから、×。 >>626
>葛城説は
左側スロープ君って正しく名乗りなよww
>俺一人、むしろ気持ちが良い。
誰にも相手にされてないだけ
つまり他の誰が見てもデタラメだってことだ >>712
>その程度の墓しか作れない主体が、倭王だと考えるなんて情けなくならないのか?
主観は論拠にならない。
覚えておけ。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、
魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだとバレてしまったので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人の目的は、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を討論することを、潰すことに変換されたな。 九州説にとってこのスレは恥ずかしい敗北の歴史だもんな
荒らしたい気持ちもよくわかる >>626
>その住処から径珀余歩の奴婢が埋められた塚をみつけてるのだからな。
ただの一方的に下る尾根なのにww
塚に見える時点でデタラメ >>630
>反論には反論が必用では
具体的な反論にはきちんと根拠を添えて否定してるよ
まずは具体的な根拠をつけて反論しなさいな
それから、日本人なら「必要」と正しくかな漢字変換しよう 邪馬台国畿内の宣伝が失敗し、自殺する前の最後の嘘がすぐにバレてしまうのは、心残りでは、ないのかな。
724日本@名無史さん2019/04/04(木) 22:40:40.64
九州説にとってこのスレは恥ずかしい敗北の歴史だもんな
荒らしたい気持ちもよくわかる 邪馬台国畿内説の宣伝係員の、自殺が、なかなか成功しない可能性が高まってきたな。 >>633
>周地の上空の「天の北極から、南天の夏至正午の太陽の距離の11万9千里」を半径にする円を、
>南に倍して、「天の北極から、南天の冬至正午の太陽の距離の23万8千里」を半径にする円に、
>する。
天蓋上のことは、地上の製図には関係ないと何度教えればww
正勾の法とまったく関係ないじゃないかw
倍正南方、以正勾定之のどこに冬至正午の太陽が出てくるんだ?
詭弁にすらなってないww
>「以正勾定之」は、今の話では東西線から南北線を求める方法であるから、
>「倍正南方」とは直接関係がない。
驚くほどまったく読めてないし、理解してないんだな
倍正南方、以正勾定之の「之・これ」は「倍正南方」のことだぞww
正勾の法で、南北方向を定めるんだよ! この邪馬台国のホームページが、寂れてしまったので、他の、5ちゃんねる以外の寂れていない、ホームページに、アプローチした方が良い可能性が高まってきたな。 >>731
詭弁にすらなってないテンプレートが、論破されたので、仕方ないな、、、 完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人が、バカにされながら自殺してしまうのだが、回りが迷惑が、少ない方が良いな。。。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 畿内説はなぜまともに議論しないのか。
それは議論する中身などないから。
嘘を重ねるあまり、あまりにも魏志倭人伝から遠いところへ来てしまった。 議論で完全に負けた、邪馬台国畿内説の宣伝係員の、自殺が、なかなか成功しない可能性が高まってきたな。
736 名前:日本@名無史さん 2019/04/04(木) 23:06:37.88
議論で負けたから荒らして
さらに恥を重ねる九州説 >>738
議論で完全に負けた、邪馬台国畿内説の宣伝係員の、自殺が、なかなか成功しないので、すぐにバレてしまう嘘を言い放つしか無くなってしまったのでは、ないのかな。。。 >>736
もう議論すら必要もないほど九州説がボロボロだからだ
見てみなこの荒らしか内容のない煽りレスしかない状態を 九州説が必死に畿内説スレ荒らして
敗北を勝手に周りに知らしめてくれている >>739
確かに、すぐにバレてしまう嘘を言い放つしか無くなってしまっているね、、、
740 名前:日本@名無史さん 2019/04/04(木) 23:18:22.16
>>736
もう議論すら必要もないほど九州説がボロボロだからだ
見てみなこの荒らしか内容のない煽りレスしかない状態を
741 名前:日本@名無史さん 2019/04/04(木) 23:22:34.69
九州説が必死に畿内説スレ荒らして
敗北を勝手に周りに知らしめてくれている まず纒向や箸墓を根拠に畿内説を語る奴は糖質だよなw
前方後円墳とか土器とか言い出したらもうそりゃ学会追放されたアイツみたいなもんだわwww >>647、>>650
>当たり前だ。 「仮の数値」からの近似的計算値だから。
つまり、説明できないってことだ
そんな半端な数字をもとに、 「二十一歩」という具体的な値は出てこない
>周が63歩の円が、手ごろで、28宿も入れ易くて、便利だから。
手頃というなら、もっと小さくたっていいだろ?
適当な思いつきを言い張ってもダメだってばさ!ww >>655
>前漢の収集説明学者の、一つの解釈の提示だ。
だから、その「前漢の収集説明学者の、一つの解釈の提示」がどこなのか特定して、
分離したテキストを具体的に示してごらんって何度も言ってるんだが?
一寸千里の部分が「前漢の収集説明学者の、一つの解釈の提示」なのに、何を言ってるんだかww
と言われても、どこなのか特定できない限り一切反論できないぞww >>658
>それ、間違い。 「倍する」の目的語は、「天の北極〜夏至正午の太陽」の11万9千里」。
相変わらずデタラメだな
漢文では目的語は他動詞の直後に来る
倍の直後に「天の北極〜夏至正午の太陽」の11万9千里」なんて
ひとっ言も書いてないじゃないかww
詭弁にすらなってない このスレッドは、議論で完全に負けた、邪馬台国畿内説の宣伝係員の、自殺が、なかなか成功しないので、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、すぐにバレてしまう嘘を言い放つしか無くなってしまったのだが、
僕たちが、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしているときに、そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、疲れたときには、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の自殺の秒読みが、開始された可能性が高まってきたので、笑い、リラックスして、眠るために、必要なので、
このスレッドの邪馬台国畿内説は、ギリギリで叩きつぶすことは、やめて、残しておけば、良いな。 >>671
>「西晋惠帝日本國を名乗ったのが九州倭国」だ。
だから、旧唐書には或云 日本舊小國 併倭國之地って書いてあるだろ?
「日本國を名乗ったのが九州倭国」なら、「九州倭国が併合された『旧小国』」だ レベルが、低すぎる。。。
746日本@名無史さん2019/04/04(木) 23:35:42.57
>>655
>前漢の収集説明学者の、一つの解釈の提示だ。
だから、その「前漢の収集説明学者の、一つの解釈の提示」がどこなのか特定して、
分離したテキストを具体的に示してごらんって何度も言ってるんだが?
一寸千里の部分が「前漢の収集説明学者の、一つの解釈の提示」なのに、何を言ってるんだかww
と言われても、どこなのか特定できない限り一切反論できないぞww
747日本@名無史さん2019/04/04(木) 23:37:51.90
>>658
>それ、間違い。 「倍する」の目的語は、「天の北極〜夏至正午の太陽」の11万9千里」。
相変わらずデタラメだな
漢文では目的語は他動詞の直後に来る
倍の直後に「天の北極〜夏至正午の太陽」の11万9千里」なんて
ひとっ言も書いてないじゃないかww
詭弁にすらなってない >>547
>>それが正しいなら、周365+1/4尺の系での測定がBC1100年代から行われていた、という証拠だね。
周365+1/4尺が前漢代の書き換えなんて話は、デタラメだったんだね。<
>「365+1/4尺の系」なんて、地球上での太陽や月の周期の話であり、
>天空での星や星座の話ではないから、×。
「地球上での太陽や月の周期」は、どこから湧いたんだ?w
能田忠亮「周髀算經の研究」から
「その周囲は三百六十五尺四分尺之一となる。是れ一尺を一度と為したもので、
その円周を周天三百六十五度四分度之一に相応ぜしめ、
円周の毎一尺に識を為して繊微も差ふこと無からしめたのである。」
「周牌算經」では、周365+1/4尺=365+1/4度で星の位置が書かれていて、
能田氏はこれから、星の位置はBC1100年代だと導いたのだろう?
ということは、周365+1/4尺=365+1/4度というのは、BC1100年代から使われていたことになるはずだね。 >>674
>「整地」工事を書く、という人類の常識外れの事なんかしないし、
天体観測には水平面が必要だというのが『常識』
その手順が周髀算経にも書いてあるだけ
これだけのことすら理解できない日本人がいることに、正直愕然としている
ザラコクはバカすぎ 邪馬台国畿内説は、真実とは、関係性が無いウソの宣伝、、、、だった。 >>749
はあ?
日本国は日の出る方にあるからそう呼ばれたとあるだろ?
倭国が九州、日本国がその東にあった小国だよ。
そして卑弥呼は倭国の女王。 >>686
>1〜4が、メインの意味。
メインかどうかは問題にしていない
倍に背の意味があることが確認できればこと足りる
そして「5. 古同“背”」というのは「古くは同じ」なのだから、現在メインではないのは当たり前
反論のポイントすら的外れww
>「南北」と書く確率のの方がはるかに高い。
確率が高かろうが低かろうが、実際に書いてあるんだし、
確率が低くても0であるという論証がなければ、否定の論拠には使えないww
反論の筋立てすら的外れww 九州説がいくら荒らしても
畿内説に負けたから荒らしてるとひと言書き込むだけで
全て九州説の恥ずかしい敗北の証と変わる >>693
>という順次式の記載を採っている。
でも、「出発方向は書いてあっても実際の地理上の方角は書いてない」ことがあるんだろ?
だから伊都国が東南でも間違いじゃないって言い張ってるのがザラコクなんだからw
つまりザラコクの主張は「魏志倭人伝の方角は出発方向だけが書いてある場合があって
必ずしもそれが地理上の実際の方角を指しているわけではない」にしかならないww >>722
>主観は論拠にならない。
>覚えておけ。
九州説にはツラい現実
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする
伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある
平原遺跡の案内看板の解説文では、1号墓の墳丘サイズは長さ約13メートル幅8メートルの方形周溝墓
一時代前の吉野ヶ里遺跡北墳丘墓と比べても平面プランで10分の1以下
そんなしょぼい倭王墓はないw そう言えば九州説は
他説を攻撃する畿内説のアホとか
わざわざこのスレに来てわけのわからない事書いてたな >>759
>伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
卑弥呼より後の時代のことを持ち出しても何の意味もない。 以前から聞いている事なんだけど
倭王というのは、
後になんていう家になったの?
天皇の家? 徇葬者奴婢百餘人
これは、魏使いが伝えたもの
日本の風習がどうであれ徇葬は間違いない
またまた誤情報? >>764
>徇葬者奴婢百餘人
そのような文字(漢字)が出てくるだけで、
『松傾』?
家とは何も関係ないんだけど、頭が悪いんだろう、
漫画やアニメ作家のほうがマトモ
百済〜仏教の話『天王』 311・・・なども、
人工地震だぞと言ってる人がいたり
ほとんど家の話なんだろう、
ちなみに『松傾』?家は、こういう名前の家 しょーとくたいし?
何やら〜と言ってる人がいたり
仏教関係の話? あと芸能関係の人たちも詳しいでしょw
真のまがいもの〜と言っていたり、
でっどえんど? 桃の種
上東遺跡では9606個、纏向遺跡約2800点
他にも吉備では数多く桃の種が出土
仮にその出土数だけで述べると「吉備説」になる >>557
>何の理由にもなってないじゃないかwwwwww<
だから、理由の推定だ、と言っている。
>こちらの主張は、というか周髀算經に書いてあることは、
周天が三百六十五度、四分度之一だから、周が三百六十五尺、四分尺之一の円を描く
当時の知識だと「円周率が3」だから、直径が徑一百二十一尺七寸五分
これが入るようにするには六尺=一歩だから二十歩で一百二十尺、
残り一尺七寸五分の分は余裕を見て、径21歩の範囲を整地(平地)する <
それ、後代史家の前漢収集説明学者の説明内容であり、
周髀算経の元の文ではない。 >>568
大和説の論拠は既になで斬りにして、すべて否定されてしまっているんだが、
その否定を認めないにだーって言い続けるだけの大和説の頭のおかしい人の相手は
もうこれ以上どうしようもないところがあるな
結局、「古墳や土器編年の否定」と「南≠東」と「長里の否定」などの嘘吐き騙しだけで、
大和説は拠り所がなくなるんだがな 畿内説は九州説の距離の計算にとやかく言う資格は無い
倭人伝の距離の畿内説流の計算を示してから議論すべき >>755
「西晋惠帝日本國を名乗ったのが九州倭国」だ。っていってるのはザラコクだよ
文句はザラコクに言えww
>倭国が九州、日本国がその東にあった小国だよ。
そして、これは大間違いの大ウソ
日本国は天武持統朝で作られた国号で、その直前までずっと倭國はヤマト王権が代表している 『松傾』と同じ名前の家、
松の木などが立てられている写真・・・など。
なぜ詳しい?知っているんだろう・・・?という事なんだよな、
どこの学校を出たという話も聞いたことないし、
仕事もセメント?そういう関係の会社で・・・w
本当に・・・引っ越しをしてきたのかな、
住んでいるところも神奈川県の川崎というところ。 >>761
>卑弥呼より後の時代のことを持ち出しても何の意味もない。
卑弥呼より前の時代のことも山ほど書いてあるじゃないかww
九州説にはツラい現実
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある
平原遺跡の案内看板の解説文では、1号墓の墳丘サイズは長さ約13メートル幅8メートルの方形周溝墓
一時代前の吉野ヶ里遺跡北墳丘墓と比べても平面プランで10分の1以下
そんなしょぼい倭王墓はないw >>761
>卑弥呼より後の時代のことを持ち出しても何の意味もない。
そもそも、平原1号墓が卑弥呼の没年より数十年古いんだぞw
卑弥呼が生きている間に葬られた人物の墓が卑弥呼の墓の訳があるまいww あと老婆の話
老婆は小学校しか行ってないよ
と言っていたし
でも、なぜか詳しいしな・・・旧姓:ワタナベ? 今のところ日本全国殉葬跡は見つかって無いからな
この時代の古墳から食器が出てこないそうだから
死後の世界で生活があるという発想が無くて
死後の世界をサポートする従者も不要だったのかね >>764
>日本の風習がどうであれ徇葬は間違いない
弥生時代の家族墓は方形周溝墓で、周溝で区切られた区画の中に、死者を順次追葬していく
その様子は殉葬に見えなくもない
また、吉野ヶ里の甕棺墓列のような庶民墓地が、特別な首長墓(北墳丘墓)に対して
意味があるように見える位置にあれば、大量の殉葬墓集団のように見えるかもしれない
こういう見聞と、大陸の殉葬の習慣から、倭国にも殉葬があると認識されたのではないか
現状では、大規模殉葬と判断された遺跡は国内には一つもない >>568
長里の否定は
1.魏志の殆どの里記載は、長里の5〜6分の1位の1里60m〜90m位である
2.短里は周髀算経や山海経や淮南子や漢書注や魏略や後漢書や梁書の頃まで使われていた
3.周代の周髀算經は1歩≒1尺、300歩=1里で記載されているし、
谷本計算によって、1里≒76.5m位であった。
4.短里の反論の例として出されたものは、全て読み違い(天柱山、介山など)
5.魏志が司馬懿の功績の過大評価目的の忖度誇張など、魏使らの頃にはあり得ず、
魏略や後漢書まで短里で記載されている事で完全否定 などでで完璧
>編年はAMS法による14C年代とその他の推定年代が齟齬がないように
標準編年が組み上げられている <
つまり、大和説学者らが既にAMSを信頼しなくなっている、という事の証拠。
前方後円墳時代は卑弥呼の「冢」の後である事も確実で 、那珂八幡などの筑紫が先行し、
大和の纏向の撥型の石塚は3世紀末にしかならない
更に、倭王の居所=女王之所都を纏向とする事自体が、「南≠東」に拠って、
始めから×であった。 >>762
>倭王というのは、
>後になんていう家になったの?
鴨氏。
鴨の語源はカミ。
スサノオ以降の王家(神)が崇神によって滅ぼされた。
そして大神神社の神官として細々と続く。 当時、結婚した家では、
落雁(供えたりするもの)のようなものを作っていたり・・・・、
本当に、そういう話 >>771
>だから、理由の推定だ、と言っている。
まったく関連が見られない数字を二つ並べて、片方で割り算してまったくキリの悪い端数だらけの
数字を示して、「推定の理由だ」と言い張るとか、恥ずかしくないのか?ww
一寸千里でも八万里でも、キリのいい数字を使ってるだろ?
一寸562里とか、天蓋と地の間の距離が9万300里とか書いてあるなら、まだ分かるんだが、
周髀算経はそうはなっていない
>それ、後代史家の前漢収集説明学者の説明内容であり、
>周髀算経の元の文ではない。
だから、その「後代史家の前漢収集説明学者の説明内容」がどこなのか特定して、
分離したテキストを具体的に示してごらんって何度も言ってるんだが?
一寸千里の部分が「後代史家の前漢収集説明学者の説明内容」なのに、何を言ってるんだかww
と言われても、どこなのか特定できない限り一切反論できないぞww 短里は無いわ
間違った情報から推論したら間違った結論に辿り着くという当たり前の実例だな >>776
>どうしても見劣りする
平地にある箸墓は立地場所としては見劣りする。
王族の墓は山稜にある。
大和盆地では高天原だ。 >>569
>統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので<
いや、不可知部分が殆どである自然や歴史の科学や学問では、
知り得た全ての知見からの、帰納的確率的な推論をすべきだ。
そして、それをせずに、
都合の悪い知見データを否定隠蔽曲解したり、都合のいいデータだけをつまみ食いして、
それからだけで断定的な論理を主張する人種は、
大和説学者や学会教育界や右翼マスコミや安部文部省などのように、
宗教や政治思想に狂った、・・・・詐欺師人種だな。 >>769
>仮にその出土数だけで述べると「吉備説」になる
前方後円墳もそっちが起源だよね。
畿内説とか、妄想にすぎばい。 いまは、そういう家(不明)?ではないから、
わからないんだけど、仏教関係の家?
そういう家には刀などが飾ってあるのかな、
本当に、よくわからないけど、凄い刀だったと言っていたし >>580
>九州には丹山無いし<
丹(顔料)の山なら、ベンガラが沢山とれる阿蘇山周辺があるからな。 本当に同じような話でしょ?
歌舞伎や芝居が好きで・・・、
よく観に行っていたと言っていたのかな?
家にあった刀なんかも、
誰かにあげたり・・・w >>793
あんた金は無いけど暇人なら 図書館へ行け
本屋での立ち読みは止めとけよ クラ(蔵、倉?)の中に、
いくつもあったと言っていたりw
飾ってあったという刀は何なんだろう 僧、仏教関係・・・刃物なんて持っているのかな?
『仏教 刀』
調べてみると、そのような話が出てきたり >>795 他
丹の定義を明確にしてくれないかな
結構 幅広いような気がするが >>581
>弥生中期までの北部九州の繁栄は誰も否定していない
しかし、弥生終末期に入る前頃から、北部九州の相対的な凋落の結果、<
凋落していない。九州倭国の発展が、
「東征毛人五十五国」や「渡平海北九十五國」のために分散されただけ。
>後漢書に言う「歴年無主」の状態になり、その後北部九州に王権の所在を見ることはできない <
卑弥呼の都であった弥生銀座の後、倭国中心は、糸島の阿毎氏の伊都国地域に移り、
更に楽浪滅亡などの半島の戦乱から避難するために、317年頃に、
久留米付近以南の、(卑弥呼らの姫氏の故地である)筑後地域に遷宮し、東海姫氏國と呼ばれた。
>3世紀初頭〜前半には既に古墳時代が始まっており、<
前方後円墳は、卑弥呼の冢ではなく、
また、壹與の西晋武帝への遣使の後の那珂八幡などが最も早く、3世紀後半半ば頃。
>その時点で奈良盆地の卓越性は顕著になっている 「3世紀初頭〜前半」は、はるか後世ではない<
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の1国であり、纏向の庄内は、石塚の3世紀末。
>実体として、纏向遺跡という大遺跡があり、多数の列島最大の墳丘墓があり、
これが卑弥呼の時代と重なる3世紀前半のもの
魏志倭人伝の行程記事とも齟齬がなく、記紀の記述とも整合する<
「南≠東」などに拠って、始めから×。 検索に移動
ウィクショナリーに丹の項目があります。
丹(たん、に、あか)
辰砂 - 硫化水銀からなる赤色の鉱物。
仙丹 - 霊力のある薬。
丹色 - 赤・朱系の色。
赤土 - 赤みがかった土壌。
燕太子丹 - 中国戦国時代・燕の太子。
よって赤みがかった山でも丹山と解釈しても問題は無い 失礼 赤みがかった土や赤い岩があれば水銀にこだわる必要はない >>585
>>陸路は 116.7(-225〜458)ただし( )内は95%信頼区間<
>でたらめな値しか出ないだろ?ww
信頼区間がマイナスに突っ込んでいる時点で意味ないし、
海路は一声千里だから、計算するのもむなしいし、<
距離計測の起点や終点の比定に問題があったし、
海路の里数を分けたりしては、始めから信頼性がないし、
各データの信頼性を付加させた、加重的な信頼区間計算をすべきだ。
>陸路の分だと<
はい、これ×ね。
>魏晋里=435mも信頼区間の中だ <
「魏晋里=435m」という魏晋里の長里断定も×。 畿内説より吉備説がいいんでねーか
投馬国が広島当たり、畿内は狗奴国か倭種の別国とも理解できんでもない
倭人伝に基く遺物は吉備の方が多い
いずれにせよ行程では✖だが・・・・ 150mの墓がある。
そこには戦争で頃された大量の奴婢が埋められた。
それを中国側は「殉葬」と書いた。
あるいはいったん葛で編んだ網で捕獲され、卑弥呼の死とともに本当に殉葬されたか。
どっちにしても4世紀前半の崇神以前、そんな話は神武記の土蜘蛛誅殺以外にない。
卑弥呼墓の場所は高尾張邑、高天原(御所市高天)だ。 >>588
>>纒向遺跡出土の大きな建物は、
『魏志倭人伝』の卑弥呼の「宮室」など の記述にあわないところがある。<
>・・・と言って、どこだか言わない九州説 ww <
・・・と言って、
これまでこのトピで散々議論して来た投稿を隠蔽し、
また、その大量の投稿内容の全部を転写させようとする無茶な要求をして、
議論に勝った、というような宣伝投稿をして、
世間の人々を騙そう、としている類スレ主らの大和説者。 本当に、もしかして偉い人だったのかなw
遊んで暮らしていて学校にも行ってなかった
とか >>807
皮肉なことに
そんなものは存在しないと力説してしまうザラコク このスレのテンプレにすがりつくしかない畿内説が哀れに見える。
箸墓なんて卑弥呼の墓だとは誰も考えていないし、邪馬台国畿内説からも主な学者は手を引いた。 大和説を叩くのは簡単でいいな。
魏志倭人伝に出てくるものが何も見つかっていないからな。
これが吉備説とか出雲説だと、相手をするのは骨が折れただろう。 ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。。。。 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、魏志倭人伝時代についての討論会のために、そろそろ、次回のスレッドが必要になってきたのではないのかな。。。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 畿内説を精力的に主導してきた学者達が、インターネットの公式ホームページで、事実上、敗北を宣言してしまった 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、魏志倭人伝時代についての討論会のために、そろそろ、次回のスレッドが必要になってきたのではないのかな。。。 >>782
>1.魏志の殆どの里記載は、長里の5〜6分の1位の1里60m〜90m位である
いきなりウソww 九州説でも安本一派は、短里は東夷伝のみとしているww
魏晋朝がすべて短里だなどという根拠ひとつないでたらめを主張するのは古田史学系のカルトだけ
>2.短里は周髀算経や山海経や淮南子や漢書注や魏略や後漢書や梁書の頃まで使われていた
周髀算経は通常の尺に一歩=六尺、一里=三百里という標準度量衡で書かれている
山海経や淮南子は、伝説をまとめただけで実測値は使われていない
魏略は三国志と同じく晋の高祖に忖度した部分では誇張があるが短里はない
後漢書、梁書は、三国志を引用コピペしただけで、結局短里はどの史書でも使われていない
>3.周代の周髀算經は1歩≒1尺、300歩=1里で記載されているし、
>谷本計算によって、1里≒76.5m位であった。
谷本計算は計算の前提がおかしいし、繰り返すが周髀算經は通常の尺に一歩=六尺、一里=三百里という標準度量衡で書かれている
>4.短里の反論の例として出されたものは、全て読み違い(天柱山、介山など)
天柱山や介山に対して里で示されているのは、山の高さではなく、山越えあるいは山中の陣に向かう道のりの長さ
ザラコクはよく、尺寸系と里歩系は別というが、山の高さは尺寸(丈)で示すのに、読み違いをしているのは古田史学のカルト一派のみ
>5.魏志が司馬懿の功績の過大評価目的の忖度誇張など、魏使らの頃にはあり得ず、
>魏略や後漢書まで短里で記載されている事で完全否定 などでで完璧
魏使が忖度したのではなく、三国志をまとめた陳寿(あるいはその底本の撰者)の忖度
魏略の編集も三国志と同時期でおそらく底本が同じであり、後漢書は三国志準拠で新しい情報は後漢初期の朝貢記録以外は加えていない
つまり、通常の魏晋里を、まったく否定できていないし短里の存在も論証できていないww
反論が反論になってないっていうのは、あまりにもバカ丸出しだからいい加減に直せww >>815
公立では両説軽く触れる程度。
どちらかが有力であるなどという表記は無いよ。
というか現代社会では子供も教師も興味持って無いから。
桜井の私立は知らんが。 >>590
>畿内と北部九州の交流は、
畿内様式甕が継続的に奴国に流入・模倣製作されていることから確認できる <
これも×。庄内は、
九州では3世紀前半に起こり、大和は3世紀末の石塚からだから、
始まったのが九州であり、大和は九州からの伝播模倣。
>九州だけの倭國などは成立の余地がないし、<
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」によって、倭国中心は北部九州であった事は確定。
大和は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭國の阿毎氏の別種分家の「地方の市を監督する大倭職」の、
旧小国の附庸國であった。
>列島の西側の広い範囲の倭國という枠組みでは <
倭国盟主は北部九州。
>北部九州は顕著な墳丘墓すら作れない、地域首長の成長において出遅れる地域でしかない<
北部九州倭国は、中国の臣下の国であったから、薄葬令のような制約は外せなかったが、
大和は、中国の直接的臣下ではなかったし、
東征獲得した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を墓守り人にして「セレモニーの進化拡大」が出来た。
「南→東」などによっても、 そんなところに倭王は居ない 。 >>800
>丹の定義を明確にしてくれないかな
>結構 幅広いような気がするが
グダグダ言い訳をするやつもいるけれど、倭国の産物として特記されるものだから、
そこらにある赤土ではだめだよ
仙薬たる辰砂、水銀朱だからこそ、わざわざ其山有丹と書かれるわけだ >>597
もう文献考古ともに、あらかた議論し尽くしたし、
大和からはもう何も出ないから、
大和説者は、「南≠東」などのインチキ騙しや、言葉尻での口先ヘイトスピーチをして、
九州説を貶めるしか無いよな 本当に同じことばかり言っているな
たしか名前に「市」?と付く・・・けど、
意味も違うしw
読んでいる人たちに・・・・、
そのように思わせようとしている? >>788
>いや、不可知部分が殆どである自然や歴史の科学や学問では、
>知り得た全ての知見からの、帰納的確率的な推論をすべきだ。
で、知りえた全ての知見から、渡海は当時測量方法がなく、
一律千余里とされているのは明確に分るので、
歩測などのできる陸路とは同じ扱いができない訳だww >>599
いつ、誰がどこで?、って、
このスレでずっと。
大和説者って、具体的な話はできないから、
「南≠東」などのインチキ騙しや、言葉尻での口先ヘイトスピーチをして、
九州説を貶めるしか無いよな それよりも何の家なんだと思う?
当時、亀戸(天神)に行ってきたという話とか、
軍人、何かの職・・・そういう話?
受験などで行ったわけではないと言っていたし ザラコク氏は安本氏の書籍でも読んで、知識をアップデートした方がいい。
個人的には内容に批判もあるが、現状よりはマシ。
ザラコク氏は古田氏の意見すら部分的にしか継承できていない。 そうだよなあ
桃の種と共に、大和説も干からびてしまったようだし、、、。 『松傾』
子供の頃の写真、
制服のようなものを着ているけど、
戦争などには行っていないと言っていたり >>806
>150mの墓がある。
ないww
それ、ただ一方的に東に下るだけの尾根ww
この、何を言われても無視して自分の思い込みだけを繰り返し書き続けるあたりに
ザラコクと同質の異常性を感じる
左側スロープ君は巣にお帰りw 住んでいるところも、
神奈川県の川崎というところだしw >>824
>どちらかが有力であるなどという表記は無いよ。
教科書の記述が、すでに畿内説が有力と書くようになっている >>601
>>問題の「28宿」の話の時の、尺寸系との関係は書かれていない。<
>当たり前だ
七衡圖の説明のところでは28宿の位置を説明してないだろ
28宿の位置を説明するために尺寸系を使うのだから
28宿の位置を説明してない章で尺寸系を使ってなくて変なところは何も無い <
ダメだ。
周髀算経の一寸千里の記載では、8尺棒やその影長に「尺寸系」を使っており、
しかし、七衡図の説明では「歩」の長さレベルまでの記載をしているのに、
敢えて「尺寸系」を使っていない。
だから、それが、「元」周髀算経の記載ルールだ。
だから「二十八宿」の記述での「尺寸記載」は、「元」周髀算経にはなかった文だ、
という事の証拠になる。 本人(例えば、家などw)だけが知っていることなのかな、
子供の着ている制服?
軍人・・・などの服ではないと言ってる人がいたでしょ、
帽子も ホンモノだと言っているんだよ
『松傾』
下の名前「市」という名前、
どういう学校に行ったとかも聞いたことないし まさか・・・・あの家がそうなの?
と思っている人もいるはず
川崎区の南部のほうw いまは「勝□」(下の名前)・・・・、
こういう名前の家、もれ(仮)の父親の名前
上の名前『松傾』w >>607
>現代を生きる我々は、当時の中国人と違って
帯方郡から九州北岸までは一万里よりもはるかに近いと知っている<
「一万里」は、「当時の中国人」の計測であり認識であった、と理解すべし。 >>611
>悪口言うだけですか 具体的なことは言えないのね w <
結局大和説者は、自分からは「宮室樓觀城柵嚴設」の有無問題の、
自分の方からは具体的な事を言わないで、
悪口を言うだけで、議論に勝っているかのような宣伝をして、
世間の人々を騙そう、としている。 ほんと・・・にw
寺院の話をしていたり、
戦争をしているときも、親戚の家に疎開したとか
伊達郡の川俣町?そういうところ あと、
これは日本の話じゃないんだけど、
某国の音楽など
どこかの王子(例えばウラシマ)だとか、
〜だモンという牛若丸の台詞・・・その他 >>848
>お前の脳内ではなwww
印象操作としても稚拙だなww
脳内お花畑は九州説の連中だよ
はい、これが現実世界ww
『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年
「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で
魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺稿が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
ちょっと調べればすぐに分かることを、引用も典拠も具体的な根拠もなしで言っても無駄 なんか最近、つぶやき荒らしの活動レベルが上がってないか? 『サイバーパンクSPECIAL』
川崎区の南部のほうの話・・・それと謎の刀剣でしょ?
どういうことなんだろう >>839
今の教科書は算数とか社会とか、内容が非科学的で狂っていると批判が強い。
政権がカルト的だからしょうがない。 ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。
火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
◆0【 要 旨 】
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。
これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。
4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。。。。 このスレッドの邪馬台国畿内説は、火星人降臨纏向説と、レベルが同じかそれ以下なので、寂れてしまったな。。。 奥山氏は、川崎区の南部に住所があるのではないのかな。。。 日本の話なのかな?『ばかだモン』調べてみて
数年前の、とあるスレ
「日本の話なんですよwwww」と言ってる人がいたような? うらしまマリン(仮)・・・・
Prince(王子)? 奥山氏は、川崎区の南部に住所があるので、個人情報を特定されてしまう可能性があるな。。。 >>846
いや、実際畿内説勝ってるし
なんとなれば
>自分の方からは具体的な事を言わないで、
こういうウソ書くから畿内説の勝ちが確定しちゃうわけでしょ このスレッドは、議論で完全に負けた、邪馬台国畿内説の宣伝係員の、自殺が、なかなか成功しないので、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、すぐにバレてしまう嘘を言い放つしか無くなってしまったのだが、
僕たちが、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしているときに、そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、疲れたときには、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の自殺の秒読みが、開始された可能性が高まってきたので、笑い、リラックスして、眠るために、必要なので、
このスレッドの邪馬台国畿内説は、ギリギリで叩きつぶすことは、やめて、残しておけば、良いな。 なぜ、邪馬台国畿内説の宣伝係員は、具体的な討論を避け、嘘ばかりつくのだろうか、、、 >>614
>古代人の地理的知見は正確性に欠けるという事だな<
記載され「里」の比率は大体合っているし、
「余」を使って書き分けているから、きちんと計測された事になるし、
「東西南北」も殆ど間違っていないし、
後代学者や現代大和説人種らのアホらとは違って、
ほぼ正確であった、という事だな。 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、魏志倭人伝時代についての討論会のために、そろそろ、次回のスレッドが必要になってきたのではないのかな。。。 >>615
>>「歴年無主」の後にも、平原遺跡のような豪華な王墓が作られているけど?<
>これね 2世紀末 弥生終末期に入る前頃<
平原からは、21枚もの「尚方作」の方格規矩鏡が出土しているから、
明帝の下賜の鏡であった事は確実であり、
卑弥呼かその宗女の壹與の墓であった事が確実であり、3世紀後半の墓だな。 >>616
>畿内説だが・・・<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても×。 >>618
>卑弥呼も水源に住んだ。
場所は高天原のふもと、長柄神社、別名「姫の宮」であろう。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>627
>梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には
魏志曰くなどの当時現存の魏志倭人伝を引用した文言があり
それらは卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初1年でも2年でもなく
揃って景初三年と記載されている
よって卑弥呼が魏に使いを送って鏡をもらったのは景初三年が正しい <
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧は、いずれも、
「はるか後代での自己解釈に拠る魏志の書き換え」を実行している半分×書であり、
確率が低く、3世紀の起居注などの記録に拠った魏志の「景初二年」を、
否定するだけの根拠にはならないし、
通典が「魏明帝景初二年」とまではっきり証言しているから、
実際にも「景初二年」であった確率が非常に高い。 >>629
>一寸千里は間違い<
と、理由も言わずに、古代の周髀算経の記載を否定抹殺するこの男は、
一種の「宗教や思想にクルった・・・・」。 >>629
>ホケノの木棺サンプルは5つ測定されていて <
木棺サンプル自体は、樹木の髄付近の採取になるから、
樹皮付近よりも年輪数位古い年代になっており、
更にAMSのプラズマ化というベータ崩壊促進という失敗のために、
更に古く出てしまう事から、どうやら大和説学者も信用しなくなって、
始めから補正しているらしい。
>その平均が120〜240年なので 年代がこの範囲外の可能性は非常に低い
前方後円墳が卑弥呼の後というのは根拠なし
ホケノ山の年代測定から卑弥呼の時代3世紀中葉には
すでに前方後円墳があった事が判明<
ホケノは、前方後円墳であるから、始めから「卑弥呼の冢」ではなく、
有棺有槨や「庄内〜布留」でも3世紀末以降になり、×。 まあ短里はゴッドハンドだな
漢代の書物を周初と言い張ってる 畿内の誰が、一番最初に箸墓だー、と言い出したのかな、、 >>850
有力であるとは書いてないだろ文妄www
つか、書いたらアカンからなw
有力と言われている、有力となりつつある、はOKだがw
しかも国公立の教科書ではないが子供はいないのか?
お前の脳内ワールドでいう現実はネットかよwww >>876
むしろ否定する畿内説の方が多かったような、、、 僕たちは、今、他の、邪馬台国に関する、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしていたのだが、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、少し疲れたので、
このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員の意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。 >>872
廣誌逸文の引用で邪馬台国は伊都国の又南と書いてある。
邪馬台国の場所なんて別に謎でもなんでもないんだな。
畿内説が目の色変えてそれを否定する姿を国民はよく観察すべきだ。 教科書は嘘だらけということか。
情けないな。
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そのレベルの高い討論会で、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵が、出現したな。。。 >>887
そのレベルの高度なインターネットの掲示板の、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵は、纏向遺蹟をどのように、分析していたのかな、、、 >>888
そのレベルの高度なインターネットの掲示板の、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵は、纏向遺蹟を4世紀に作製されたものなので、邪馬台国とは無関係だと断定していたな。。。 >>889
なかなか、合理的な知能の論敵だな。。。 そのレベルの高度なインターネットの掲示板の、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じるその論敵は、纏向遺蹟を4世紀に作製されたものなので、邪馬台国とは無関係だが、
卑弥呼の城や墓は、東大寺の地下に埋まっているという、意見を発表したので、論破の成功に時間がかかってしまったな。。。 >>869
>平原からは、21枚もの「尚方作」の方格規矩鏡が出土しているから、
それ全部仿製鏡
現代人でも、尚方作銘の銅鏡を作ろうと思えば作れるんだから、
何の根拠にもなってないぞww >>877
>しかも国公立の教科書ではないが子供はいないのか?
>お前の脳内ワールドでいう現実はネットかよwww
「国公立の教科書」って、何が言いたいんだ?
韓国では「国定」教科書らしいが、日本は民間の出版社が教科書を執筆して、
錯誤がないか文部科学省が検定するだけだぞ?
そして『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年 も
『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年 も検定を通っている
東京書籍も清水書院も、教科書の出版社として大手だぞ?
>>877はよほど日本の教育事情に疎いと見られるなw
「日本の学習指導要領に従わない学校」で教育を受けた人なのかな?
高校無償化の対象外の? >>887
そのレベルの高度なインターネットの掲示板の、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じるその論敵は、三角縁神獣鏡をどのように、分析していたのかな、、、 >>880
>廣誌逸文の引用
明らかに、南至邪馬壹國を端折って書いただけだろうに
九州説は、逸文が大好きだよな
まとまった文章だと、矛盾を突かれるから、短文しかない逸文に頼る
この辺もチェリーピッカー体質の発露なんだろうww >>896
そのレベルの高度なインターネットの掲示板の、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵は、三角縁神獣鏡を全てが4世紀に日本国内で作製されたものなので、邪馬台国とは無関係だと断定していたな。。。 >>898
なかなか、合理的な知能の論敵だな。。。 >>882
これ便利だな
とりあえず500円貰った >>881
>教科書は嘘だらけということか。
>情けないな。
「米スタンフォード大学アジア太平洋研究センターの名誉教授ピーター・ドウス氏、
および研究副主幹のダニエル・スナイダー氏による先の大戦に対する歴史認識問題に関し
各国の歴史教科書を比較した研究結果とのことである。その中で、日本は「最も抑制」され、
「戦争賛美せず」、「愛国心煽らない」内容である、と結論づけている。」
日本が嫌いな九州説の人は大変だww
まあ、日本にいる「市民」の人なんだろうけれど 畿内説はダブルスタンダードだな。
九州説はすべて仿製鏡とした上で、漢帝国崩壊後に卑弥呼の神格化の過程で八咫の鏡を製作するに至ったと説明している。
後漢代の王墓との繋がりや、その後の大宰府の興隆などと合わせても、筑紫に畿内とは別の勢力の存在を考えるのは自然なこと。
そして魏の使いが滞在したのが伊都国と魏志倭人伝に明記されている。
畿内はまだ中国から十分には認識されていなかったのだろう。 そのレベルの高度なインターネットの掲示板の、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じるその論敵は、魏志倭人伝時代の1里の長さをどのように、分析していたのかな、、、 >>895
意訳
畿内説は権威に頼ってばかりで、自分の頭で考えない阿呆です。 >>902
話を誤魔化すな。
先の大戦の話ではない。
日本国と倭国の成立について、畿内説が魏志倭人伝をはじめとした史書と向き合っていないことを問題としている。 >>904
そのレベルの高度なインターネットの掲示板の、このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵は、1里の長さが約76mだと断定していたな。。。 歴史板なのに史書を無視する畿内説がはびこっているのは情けない。 >>907
なかなか、合理的な知能の論敵だな。。。 九州説が史書批判しないのは史書に向き合って無いからでしょ >>909
このスレッドの頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じるその論敵がいるので、九州説の考古学者達の能力が最大限に、引き出され、その、こことは別の邪馬台国の掲示板は討論のレベルが、高いのだね。。。 このレベルの低いスレッドの、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係員のこの意見を読んで、笑い、リラックスして、眠れば良いな。。
902日本@名無史さん2019/04/05(金) 13:20:33.30
>>881
>教科書は嘘だらけということか。
>情けないな。
「米スタンフォード大学アジア太平洋研究センターの名誉教授ピーター・ドウス氏、
および研究副主幹のダニエル・スナイダー氏による先の大戦に対する歴史認識問題に関し
各国の歴史教科書を比較した研究結果とのことである。その中で、日本は「最も抑制」され、
「戦争賛美せず」、「愛国心煽らない」内容である、と結論づけている。」
日本が嫌いな九州説の人は大変だww
まあ、日本にいる「市民」の人なんだろうけれど
910日本@名無史さん2019/04/05(金) 13:29:08.88
九州説が史書批判しないのは史書に向き合って無いからでしょ 考古学会自体の見直しもかかるはずだ。
河野さん怒ってたよな。 >>903
>後漢代の王墓との繋がりや、その後の大宰府の興隆などと合わせても、筑紫に畿内とは別の勢力の存在を考えるのは自然なこと。
大宰府は、大和朝廷の出先だろ?
伊都国の一大率の後継と見ればそのままじゃないかw >>905
>畿内説は権威に頼ってばかりで、自分の頭で考えない阿呆です。
権威も含め、まともな思考力のある人なら全員畿内説という結論にしかならないんだよw
今、九州説に残っているのは、
1.まともな思考力がない人
2.宗教的狂信を持った人
3.イデオロギー的指向からとにかく日本を貶したい人
のどれかだな >>906
>日本国と倭国の成立について、畿内説が魏志倭人伝をはじめとした史書と向き合っていないことを問題としている。
向き合ってるよ?
方角の間違いの理由も全て具体的な根拠を挙げて論証しているし、日程で書いてある部分の行程も
きちんと考察している
陳寿の利用できた資料もきちんと想定しているし
チェリーピッキングで断片しか拾わず、矛盾だらけで整合性の取れない九州説とは違うよw >>911
>していないという根拠は?
史書とは違うが、このスレで展開された周髀算經の解釈をめぐる議論を見れば、
九州説側がまともに原典の評価検証をしていないのが明確だろ?
ネタとしては、短里の有無に関わることで、史書の検証作業の一環だが
ザラコクが恥をさらすばかりで、九州説側からはザラコク以外一人も意味の
ある書き込みをしてないだろ?
まあ、ザラコクも意味のある書き込みはひとつもしてないけどさww つまり、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係は、完全に論破されてしまったのだね。。。 北朝鮮に操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代が始まる前までは倭人という民族が中国南部や九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝するために、韓国政府が雇用した頭の劣った韓国人との、破綻した邪馬台国畿内説についての、無駄な討論を止めて、
魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代が終わった後の纏向に、纏向遺蹟を作製した者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題を、討論すれば良いな。。。 >>920
たしかに、、、
このスレで展開された周髀算經の解釈をめぐる議論を見れば、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係は、完全に論破されてしまったとういうことになるな。。。 >>923
そうだね、、、
短里の有無に関わることで、史書の検証作業の一環の討論でも、邪馬台国畿内説の宣伝係が、完全に論破されてしまっていたのだものね。。。 僕たちは、他の、邪馬台国に関するレベルの高度なインターネット掲示板でも討論を開始したのだが、このスレッドの邪馬台国畿内説の宣伝係の方が頭が悪いので、レベルの高い討論の合間の息抜きにこのスレッドはちょうど良いな。。。 >>635
>埋葬された奴婢なぞおらん 痕跡が見つかってないし
倭国にはどうやら言われているように古墳周りに奴婢を埋葬する習慣がなかったようだから<
じゃ、大和は、「南≠東」だけではなく、
「jun葬者奴婢百餘人」の墓がない事からでも、×。 >>637
>その中にトヨも卑弥呼もいた。 はい、わしの一人勝ちwww <
「南≠東」などに拠って、大和には卑弥呼はいないし、「トヨ」なんて人もいないから、
この大和説男も×。 >>638
>>「以正勾定之」は、今の話では東西線から南北線を求める方法であるから、
「倍正南方」とは直接関係がない。<
>大いに関係あるさ
地球の公転に基づく正確な暦を作るんだから 正確な子午線が必要だ <
周髀算経は、「正確な暦」を作ろうとまではしておらず、
「二十八宿」の配置法を説明しているだけだから、
この類スレ主は×。 >>639
ここは
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者や、スレ主らをバカにしながら、
大和説が滅亡していく様をが、ゆっくり眺められるスレ >>928
>周髀算経は、「正確な暦」を作ろうとまではしておらず、
>「二十八宿」の配置法を説明しているだけだから、
>>638は私の書き込みではないが、周髀算経は「正確な二十八宿」を地面の
円周上に配置する方法を書いてるんだぞww
それができて初めて、正確な夏至や冬至が分かる
ザラコクはどこまでいってもバカだな
「四等分して適当に7つずつ置けばいい」っていうレベルなんだからww
九州説のレベルはこんなものだw 大宰府は東アジア屈指の城郭を持つ都市だった。
近年の調査で、大野城、基肄城、水城を含む総延長50キロメートルに及ぶ大宰府羅城の存在が明らかになってきた。
その建築材の一部は、炭素年代法で卑弥呼の時代に遡ることがわかってきた。
これが倭国の王都であった大宰府都城の姿だった。 >>642
>じゃそこは卑弥呼の墓から除外
卑弥呼の墓に奴婢百人殉葬とはあるけど埋葬とは書いてないから<
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」だから、
張政らは、卑弥呼の埋葬の一部始終を見ており、
「殉葬者」と書いているから、
殉死した「奴婢百餘人」の殉葬も、卑弥呼の冢で見ている。 >>643
>奴婢百人殉葬とは神武軍によるものだ。<
年代も場所も全く合わないから、×。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1554441846/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>932
殉死した「奴婢百餘人」の殉葬を卑弥呼の冢で見たとか
そんなこと倭人伝のどこにも書いてない
妄想だね >>662
>何でだ?
それじゃ古くから古墳には殉葬が行われてきたはずなのに<
殉死があるのは、
故人に対する敬愛の念の強い場合や、
宗教的になど責任感が強くて、死後の世界に同行しようとした場合など。
そして、当然、その埋葬は、遺族は、
出来るだけ故人の近くの陪葬して上げよう、とするもの。 >>663
>>(六十三歩)当たり前だ。 「仮の数値」からの(私の)近似的計算値だから。<
>一寸千里もそうだよ
「仮の数値」による思想的な架空の計算<
一寸千里では実際に、「測影」した、と書かれている。 >>665
>それ、間違い。 「倍する」の目的語は、
「天の北極〜夏至正午の太陽」の11万9千里」。<
>なら「倍正南方」にはならんな 漢文の読めない九州説 あきらめろ<
「夏至正午の太陽位置〜冬至正午の太陽位置」も11万9千里。
だから、「倍正南方」になっている。
それは読めないようでは、類スレ主は、漢文も無理だから、古代史も諦めろ。 >>937
>一寸千里では実際に、「測影」した、と書かれている。
書かれてるって証拠は? そもそも一貫した畿内説なんて聞いたことがないな。
唐突に土器や纒向遺跡の説明を始めたりするが、どの文献のどの記述と整合するのかの説明は無い。
とにかく、照合先の無い空想を延々と聞かせるのはやめてくれ。
本当に学者なのか? >>677
>>「整地」工事を書く、という人類の常識外れの事なんかしないし、<
>なんで整地工事を書いたら人類の常識外れなんだ? 独善老人の言うことは解らん<
一寸千里の測影の場合も「整地」は書かれていないように、
普通の学者は、論理に直接関係のない「整地」なんて、書かないもの。 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。
酷い妄想だなwww
纏向のどこを見たら、そんな女性がいたのかな?? >>940
>そもそも一貫した畿内説なんて聞いたことがないな。
耳をふさいでれば何も聞こえないさ >>943
畿内教信者の脳内説を正常な社会人が理解できるはずが無いだろwww >>680
>1800年前なら発見されないだろう
その頃の血液の痕跡ある考古遺物が見つかったなんて聞いたことないし
そして特殊器台は特殊壷を載せて使うもの
>しかし埴輪の見つかる古墳には特殊器台はない
これは奴婢の殉死が埴輪によって代替されたという記述を
裏付けるものと言えるのではないだろうか <
ないな。
張政らは、きちんと、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
を、目撃して記録している。 >>684
>よって奴婢が周りに埋まってるという古墳は卑弥呼の墓じゃありえない<
これもないな。
張政らは、 「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」 を、
きちんと目撃して、記録している。 畿内説はネトウヨの素人だけが支えています。
学者はみんな手を引いています。 >>692
>何だカルタがそんなに嫌か<
「南→東」などの嘘付き騙しである事が自明な・・・・大和説を、
一々相手にして、
5chに「連投ですよ・・・」として、掲載を拒否されて、
しばらく投稿不能になる事が面倒なだけ。 >>711
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
正気のやつが一人も残ってない >>948
連投する自分が悪いだけなのに身勝手傍若無人で傲慢な人だ
中傷ばかりしてるし >>712
>九州説の誇りの平原1号墓は、そこらの庶民墓と同じサイズしかなくて、
成人男子が10人もいれば一週間で作れる程度のもの
墓坑周りの杭穴の配置も四角く整えられてさえいなくて適当に並べられているだけ
その程度の墓しか作れない主体が、倭王だと考えるなんて情けなくならないのか? <
卑弥呼の死後の戦乱の妥協として、急遽共立された「卑弥呼の宗女の少女」の壹與だから、
権力も余りなかったし、薄葬令にもかかったから、
表面的には簡単にして、副葬品で身分を示した。
>倭國の端っこの一部だ <
阿毎氏の伊都国の怡土付近であるから、倭国の中心部だ。
>それは伊都国の第二家系の準首長墓に過ぎない<
「壹與」という「イ」の付く名前や、
(姫氏と阿毎氏が合同した)卑弥呼の宗女であった事も、
平原が壹與の郷里だ。
>魏使は、水行陸行2ヶ月かけて出雲(投馬国)経由で大和=邪馬台国まで行ってるした<
「南≠東」などの嘘付き騙しに拠って、類スレ主は、×だ。 倭国大乱や狗奴国との戦争について一切触れない畿内説は
見猿、言わ猿、聞か猿、の半島猿としか思えないんだけど?
日本人ではないことを敢えて誇示してるのかな? >>716
>九州説はもう議論が目的じゃなくてスレ潰すのが目的<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
議論などが出来るような人間ではない・・・・だから、議論など成立する筈がなく、
それを世間の人々に知らしめておく事が目的。 >>724
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた・・・・大和説にとって、
このスレは恥ずかしい敗北の歴史だもんな。
荒らしたい気持ちになって当然だ。 >>955
>荒らしたい気持ちになって当然だ。
九州説はやっぱり荒し確信犯じゃねーか悪いやつだ >>953
反論できないで、ただ否定する
九州説は論争に負けたから >>726
>具体的な反論にはきちんと根拠を添えて否定してるよ
まずは具体的な根拠をつけて反論しなさいな<
いや、大和説者は「南≠東」などの反論に対して、
きちんと「根拠を添えて反論否定」出来ていない。 >>728
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
見てるだけで恥ずかしい 福岡平野は、弥生中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、
中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。
博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ
100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。
発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、
この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。
30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、
伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、
井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。
考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。
須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。
環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。
比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。
比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。
吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、
福岡の弥生銀座と呼ばれる遺跡群と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、
どんぐりの背比べである。 >>961
そんなウソばかりついているから九州説は軽蔑される >>963
都合が悪いことから目を背けるのは、畿内説の悪いところだぞ(๑˃̵ᴗ˂̵) >>962
この講演をした柳田(当時國學院大学教授)は畿内説 唐津で発見された末盧国らしき遺構の発掘調査は進んでるのかな? 佐賀には、唐津・末盧国あり、川上・伊都国在り、吉野ヶ里・不彌国あり、
ないのは発掘費用だけだ
畿内のを回してくれぬかな。な。 >>730
>>周地の上空の「天の北極から、南天の夏至正午の太陽の距離の11万9千里」を半径にする円を、
南に倍して、「天の北極から、南天の冬至正午の太陽の距離の23万8千里」を半径にする円にする。<
>天蓋上のことは、地上の製図には関係ないと何度教えればww <
元々「二十八宿」は天蓋上にあるもの。
それを地上の南天の下のの、
「夏至正午の太陽位置から冬至正午の太陽位置」を直径とする円に投影するの。 >>970
発掘費用の仕組みを知らないのか
法律で決まってんだぞ
基本的に開発がなけりゃ発掘もない これで九州説が自分が荒らしだと認識して意図的に荒らしてる事が分かったな
議論が行き過ぎただけと思いたかったが甘ちゃんだったわ >>971
水平に整地しないといけないのは理解できたか? >>732
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
ここで小バカにされながら消える宿命 >>736
「南→東」などの嘘付き騙しで、
議論で負けたから荒らしをして
さらに恥を重ねる大和説 >>975
残念だったね
通説としてどんどん発言力が増してるよ >>976
九州説って凄いよな
何年も九州説やってると
こういうウソが平気でつけるようになるんだぜ >>977
お前の脳内ワールドではなwww
長い間社会との交流を絶ってるとそうなるんだなwww 旧唐書では日本国は小国だっと言ってるのに、邪馬台国は大国であり纒向遺跡がその痕跡であるなどとズレまくった事をぬかしとった畿内説www >>979
なら、どうして学者がほとんど畿内説なんだ?
なんで教科書が年々畿内説寄りになってるんだ? >>980
それ、どこがズレてる?
どこもズレてないぞ
時代がまるで違うだろ >>744
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
もう議論すら必要もないほどボロボロだからだ
見てみな、この荒らしか内容のない、煽りレスしかない状態を >>741
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
必死に邪馬台国畿内説スレを荒らして
敗北を勝手に周りに知らしめてくれている >>948
カルタめっちゃ効いてるじゃねーかwww >>972
やはり畿内大和は、
発掘費用を手放したくない一心か。。。 >>946
墓の周りに人が埋まってるのは殉葬じゃなくて埋葬
殉葬跡は特殊器台と推察される >>874
サンプル1つだけならまだしも5つの平均で120〜240年だから
これと大幅に年代が外れてる可能性はほぼなし >>872
魏志曰くと当時現存の魏志倭人伝を引用する書が
4つとも景初三年
魏志倭人伝に景初二年と現れるのは11世紀になってから
景初二年は後代の誤記 「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況
奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72
古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから
絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0 畿内から何が出ても、郡使が伊都までしか来ていないから、邪馬台国とは関係ないんだよ。
畿内は倭種の一部に過ぎない。 このスレッドは1000を超えました。
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