邪馬台国畿内説 Part447
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1555333387/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
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スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 朴とは、何者だろうか、、、
531 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/18(木) 15:28:51.86
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) 邪馬台国畿内説を宣伝する在日韓国人3世が、このゴミスレッドの製作を開始してから、そろそろ、30分経つのではないのかな。。。 ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし ・
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加レス】不要【変更点】 なし 天安河原は滋賀の野洲川である
辺りに伊勢遺跡のあるところ
高天原は押し照るなにわである
天の八衢は堺である
仁徳天皇陵のあるところ。辺りに方違神社があ 前スレ>999
>庄内3の後に布留0だ、ごまかすな。
>こいつ最低だな。
こういう物知らずを教化するのは面倒で仕方がない
バカの相手は面倒くさい
九州説にはバカしかいない
九州説の相手は面倒くさい
初歩の三段論法そのままだが、嘘は放置できないしな
庄内3式の後に来るのは、布留1式であり、布留0式ではないと何度言えば!
布留0式は庄内期に出土する布留式の特徴を先取りした土器だ
編年上は、庄内3式期の内部に当たる
分かりやすく書いてやってるんだから、きちんと噛み締めて理解しろ!
258年二口カミアレタ遺跡
↓
────庄内3式───┼───布留1式───……
………──布留0式──…───布留1式───……
↑
248年卑弥呼死去 前スレ>995
捏造はいかんね九州説は常に捏造するww
「>東に遷都することを東遷という。
そう言い張りたいならそれでもいいけれど、それでいくなら 」
という前提を消去してごまかすなよww
基本的に、弥生時代に漢委奴國王が居たのは北部九州
古墳時代に倭国の中心なのは畿内
で、邪馬台国は
弥生時代の北部九州の王権なのか 九州説
古墳時代の畿内王権なのか 畿内説
というのが、かつての九州説と畿内説の違いとなるポイント「だった」
九州説の場合、北部九州に邪馬台国があったのに、古墳時代に畿内が倭国の中心となることを説明する必要があり
1.北部九州の邪馬台国が畿内に移動した =東遷説 安本美典氏・邪馬台国の会
2.北部九州の邪馬台国は畿内と無関係に存続した地方政権 =九州王朝説 古田武彦氏・古田史学の会
という二つの説明が、有名だった
でも結局、編年研究が進んで邪馬台国の3世紀が既に古墳時代だとなった時点で九州説は死んだんだよ
で、今は、九州王朝説のまともじゃない残党、古田史学の劣化コピーのザラコクが
何を言われても知らぬ存ぜぬで、物理法則すら無視して同じ事を書き続けているのと、
前スレ>979のように、弥生時代と古墳時代の区別もつかずに「北部九州に王がいたなら
それが移動したはずがない、魏志倭人伝にも東遷は書いていないから九州に決まっている」と
意味のない決め付けを信じ込んでしまっている御仁がいるくらいだ
そして、この後者がバカみたいに、弥生時代に九州に王がいたのだから、畿内説は東遷説だという謎理論を展開しているというのが現状ww
状況が見えてないし、状況整理もできない、論理的思考からかけ離れたやつしか九州説は残っていないんだよ >>82
まず土器編年という独自方式がグローバルに通用しない事を認識すべきだよ。
どう説明しようとも、畿内厨の脳内での話にしかならんということ。 土器編年をしているのがそれぞれの地域の学術調査をしている学者で、
学者には九州説がいないということ >>>>559
>「九州のみの倭国」などというものには成立の余地がないのは、
これまでにも縷々説明してきた
畿内纏向のちも、日本列島上にある以上、間違いなく倭国の内部だ<
ダメだ。
女王國や倭國は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、九州である事は確定しており、
女王國から東渡海千里の地は、「倭種」であって「倭國」とはされていないのであり、
大和は、九州倭国の別種の旧小国であるから、「倭種」の中に含まれる事になり、
また、古事記に拠れば、大和の欠史八代の内の4人には「大倭」の称号が付けられており、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の呼称を持っていた事にもなる。 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 >>85
つまり井の中の蛙にしか通用しない土器編年史ということを認めるんだな。
中国の学者は九州説だったな。
ちなみな台湾の一般人もが九州説をベースに日中の関わりについて話をしてくる。
畿内説は世界で君ら蛙だけ。 関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 >>83
>でも結局、編年研究が進んで邪馬台国の3世紀が既に古墳時代だとなった時点で九州説は死んだんだよ
その編年がそもそも信頼されていない。
前スレで、纒向は崇神らの宮で、その年代は古くても卑弥呼の没年に届かないと論破されただろ? 奈良に本当に巫女が居たのかどうかは、石積みの遺跡を探してその石の積み方をよく調べてみるといい。 >>564
>前方後円墳祭祀を中核とした、随時離脱可能な祭祀連合を想定しているのみだ
広く通用する用語では、それを「前方後円墳体制」と呼んでいる
その前方後円墳体制が、3世紀中に、北部九州から東海、(関東、東北南部)までを
覆っている時点で、九州のみの倭国はありえない<
ダメだ。
倭国は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って九州であり、
大和は、倭國から別れた別種の旧小国であるから、倭種の一つであり、
前方後円墳は、倭地に於いては、筑紫の那珂八幡などが先行して、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍らに拠って、南関東付近まで広がり、
更に東北にも点在する事になった。 258年二口カミアレタ遺跡
↓
────庄内3式───┼───布留1式───……
………──布留0式──…───布留1式───……
↑
248年卑弥呼死去
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これが前スレで>>1が書いた卑怯極まりない説明な。
実際は、
258年二口カミアレタ遺跡
↓
────庄内3式────…──布留0式───……
↑ ↑
248年卑弥呼死去 箸墓建造
>>1がどれほど卑怯な男かまるわかりだよねw あぁずれた。
箸墓建造は布留0式古相な。
258年以降なのはだれにでもわかる。
258年二口カミアレタ遺跡
↓
────庄内3式────…──布留0式───……
↑ ↑
248年卑弥呼死去 箸墓建造 >>95
IIA期ー 布留0古相ー河内庄内III ●箸墓、権現山51号
残念だったな
あんた、またチョンボだ 箸墓建造は布留0式古相は寺沢さんの言うように270〜280年くらいかな。
箸墓古墳被葬者は崇神の前の磯城王・イカガノシコオだ。
だから山城の五塚原や大阪交野の雷塚という、箸墓と同系の墳墓が存在するのだ。
イカガノシコオの義理父が山城国造の祖である長溝、
交野連がイカガノシコオの子であるタベノスクネ、
きっちり説明できる。 >>96
森井さんの編年では二口かみあれた258年は河内庄内IIIではなく庄内3だ。
アラビア数字の「3」
したがってお前のチョンボ。 土器に限らず編年は興味あるけど分かりやすく解説してる本ってどれよ >>98
>森井さんの編年では二口かみあれた258年は河内庄内IIIではなく庄内3だ。
証拠は?
w >>99
本ではなく、大変わかりやすいサイトがあったのだけど、
yahooジオスティーズが閉鎖になって見れなくなってる。
他プロバイダーに移行して見れるようになったら貼り付けるわ。 >>89
九州説の中国の学者というのは誰?
学術論文を読んでいない一般人はどうでもいい >>100
>>101
書いてあったのだから仕方ない。
だいたい布留0式古相を250年あたりに持っていこうとしてるのは白石氏さんかそこらへんだけ。
寺沢さん、石野さんのような賢明な学者はとっくに降りてるわい。 >>573
>前方後円墳のような巨大墳丘墓は、権力・権威を視覚化する示威目的のモニュメント
当然に最大のものが、最大の権力・権威を表象する
>そして、前方後円墳の分布は、同じ祭祀思想を持つ共同体の存在を示している〉<
大和は。九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
前方後円墳も筑紫の那珂八幡などが最も早く、
大和の前方後円墳は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍らに拠って、
征服した毛人蝦夷や出雲系銅鐸祭祀鏃を墓守り人にして、造らせたものだ。 >当然に最大のものが、最大の権力・権威を表象する
違う、最高位置のものが最大の権力・権威を表象するのだ。
各地域の前期古墳が山稜にあるのはそのためだ。
大和の最高位置は標高435mの高天原だ。 >>579
>見えないとわからないんなら 畿内が南と書かれてても文句言えないな<
ダメだ。
「南至邪馬壹國女王之所都」の「至」は、原則として
「出発から到着までの移動全体」をを意味するから、
「南至」は、「南して至る」であり、
「東向きの移動」があった事にはなっていない。
よって、大和説死亡 >>103
だよねー
こじつけ畿内説は見っともない >>103
>書いてあったのだから仕方ない。
それ、はっきり河内編年と書いてあるけど? >前方後円墳の分布は、同じ祭祀思想を持つ共同体の存在を示している
ここは断定できないんじゃないかな?
前方後円墳が国々を超えて流行していたとはいえるけど >>108
河内編年ならローマ数字の「V」になるはずだが。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 >>87
>勝手論理全開だなおい。
だから、どこが勝手論理なのかを「具体的に指摘」しなさいって!
できないなら、一行コメントで反論した気になるのは自慰にしてもレベルが低すぎww >>89
>中国の学者は九州説だったな。
これも根拠なしだよww >>91
>その編年がそもそも信頼されていない。
九州説が「信頼できないにだー」って言ってるだけww
>前スレで、纒向は崇神らの宮で、その年代は古くても卑弥呼の没年に届かないと論破されただろ?
あれは論破じゃないってww
時代遅れの安本美典流1代10年説を正しいと根拠なく言い張っただけww >>110
河内編年と書いてあるんだから仕方ない w >>109
>前方後円墳が国々を超えて流行していたとはいえるけど
「流行」って言葉でごまかすというのが九州説の最近のトレンドなのかね?ww
各地の墓制を放棄して、いっせいに新しい墓制に移行しているのに、
それを「流行」で済ませようというのは無理があるだろ?
各地の墓制は、弥生時代の長期間維持されていて、そう簡単に「流行」に
流されるようなものではない
祭政一致の時代の、祖先祭祀の根幹に関わる変革を「流行」で片付けようというのは
科学じゃないな >>110
>河内編年ならローマ数字の「V」になるはずだが。
本質に関係ないことでよくイチャモンをつけられるものだ
というか、そんなことくらいしか反論できないんだろ?ww
ローマ数字の「V」は、場合によっては機種依存(環境依存)文字になるから、
特にこだわりのない人は普通にアラビア数字の「3」で書くんだよ
庄内V式と庄内3式の「定義の違い」を述べた文献とかがあるなら具体的に提示してごらん
できるものならねww 左側スロープを発見した、立ち小便男が、4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする、既に死体になって横たわっている邪馬台国畿内説に、小便をかけてしまった、、、 >>118
学者さんにもミスはあるので、仮に何かのミスで「3」と「V」を間違えたとしようか。
で、二口かみあれたと併行するのが河内庄内V=布留0古相だとしようか。
それでも年輪年代で258年と出てるのだから、お前に都合よい248年にはならない。
例えば日本最古の須恵器は宇治市街遺跡の年輪年代で389年だ。
それを10年さかのぼって379年から考え始める奴はいないだろ。
それと同じ。
箸墓建造時期・布留0古相は258年を遡れないのだ。
分かったか、アホの>>1 >>119
>祭政一致の時代の、祖先祭祀の根幹に関わる変革を「流行」で片付けようというのは
>科学じゃないな
だからといって、主観で意味付けしていいわけがない。 左側スロープを発見した、立ち小便男は、4世紀に作製された纒向遺蹟を、3世紀の物だと宣伝するための、韓国人の自作自演の可能性も、あるのではないのかな。。。 >>119
その祭政一致時代において、畿内は九州北部の銅鏡文化を受け入れて神宝として、独自の銅鐸文化を捨てるんだよね。
これは九州北部の傘下に入ったことを意味するとは思わないかね。 >>114
あー、やっぱりww
邪馬台国の会の信者さんねww
「寺澤薫は、矢部遺跡から出土した土器の様相の推移の推定から、
それぞれの様相を土器様式とした。その中の布留式の土器様式について、
寺澤薫は、それまでの、布留式期とは、有段口縁鉢、小型器台、小型丸底土器の
三種の精製機種が出そろう段階をいう、という理解を軽視・否定し、
土器の様相の変化の推移により布留式甕などの布留式土器が出現する段階が
布留式期である、とした。そして、甕を例にあげて、
『庄内式土器の中に布留形傾向甕などの布留式土器の傾向が表れるような様相』を、
布留0式土器という土器様式とした。」
「こうした寺澤薫の理解による布留式期の相対的な年代推定は、寺澤薫自身が
「様式論としての布留0式と纏向3(新)式では決定的な認識の差があり」
「布留0式が纏向3(新)式を言い替えただけだ」「という認識ですむ問題ではない」
というように、それまでの、おおむね纏向2式期と纏向3式期は庄内式期、
纏向4式期以降は布留式期という相対的な年代推定とは整合しないが、これまで、
便宜上、寺澤薫自身は「誤解と理解不足」というが、
寺澤薫の布留0式期は、纏向3(新)式期である、とされている。」
テンプレにもあるとおり、
「布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない」が正解 遺蹟や考古発見物体に惑わされないで、第一番目は、魏志倭人伝を確実に翻訳すれば良いのでは、ないのかな。。 >>586
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
鎧袖一触、すぐ反論不能に陥って
相手を罵るだけになる。
もう可哀想って言うしかないね。
ボロボロじゃねーか。 >>122
>それでも年輪年代で258年と出てるのだから、お前に都合よい248年にはならない。
面白いことを言うねww
「二口かみあれたと併行するのが河内庄内V=布留0古相だ」とした場合、
その土器様式が使われた「年代幅は、258年の1年だけ」だと言いたいのかな?wwww
>分かったか、アホの>>1
なんだ、論理展開がデタラメで、どこのバカかと思ったら「左側スロープ君」だったのかwww
これ以上、相手にしても実りはないなww >>120
>本質に関係ないことでよくイチャモンをつけられるものだ
河内編年(ローマ数字)と大和編年(アラビア数字)では画期が違うぞ、何言ってるんだ。
どっちにしても箸墓建造時期は年輪年代の258年をさかのぼれない。 つまり、韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまったのだね、、、 >>589
>卑弥呼・倭迹迹日百襲姫命
台与・豊鍬入姫命
どちらも皇女で、記紀にはちゃんと系譜記事があるぞ
豊鍬入姫命は崇神の皇女で、皇統=卑弥呼の家系の家長の娘だから
まさに宗女だろ<
台与なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
卑弥呼も「南≠東」などに拠って、×。 >>129
>その土器様式が使われた「年代幅は、258年の1年だけ」だと言いたいのかな?
基点の意味が分からないのか。
都合よく時代幅を248年までにしたい根拠は?
卑弥呼の墓であってほしいからという願望だろ。
そんなもの根拠になるか。 なんだ、論理展開がデタラメで、どこのバカかと思ったら「左側スロープ君」だったのかwww
これ以上、相手にしても実りはないなwwという、敗北の宣言は、自作自演なのだろうか。。。。 >>134
自作自演にしては、手が込み入りすぎているので、真実の敗北宣言だった可能性が、急激に、高まってきたな、、、、 韓国政府が宣伝していた、纒向遺蹟が邪馬台国だったという邪馬台国畿内説は、畿内説の同士討ちでも、ゴキブリのように、無惨に、叩きつぶされてしまった、、、 >>589
>卑弥呼・倭迹迹日百襲姫命
台与・豊鍬入姫命
どちらも皇女で、記紀にはちゃんと系譜記事があるぞ
豊鍬入姫命は崇神の皇女で、皇統=卑弥呼の家系の家長の娘だから
まさに宗女だろ<
台与なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
卑弥呼も「南≠東」などに拠って、×。 >>599
>>おいおい、陸奥(東北地方)も倭国だったというのか?<
>首長同士の個人的な連合だから、面じゃないんだよ
具体的な範囲は、>>564の図の網掛けの部分
きちんと考古学的な実態があり定義できる範囲だ<
九州倭国を併合吸収継承した後の大和日本国の当初の?の支配地は、旧唐書に拠って、
「其國界東酉南北各數千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山爲限、山外即毛人之國」
であり、
多賀城碑に拠って、仙台付近に達したのは、724年頃だ。 >>90
卑弥呼の邪馬台国をもってこなければ、だいたいはそうなるわな。
倭人伝には、倭國の邪馬台国から東へ舟で千里行けばまた別の倭種の国があると書いてあるんだから、その千里のところにある大和は倭國とは別の国なんだよ。
その倭國とは別の倭種の国が、後に大和王権へと発展したというだけの話。
その途中で、その倭種の国が博多を押えて発展の基盤をつくり、倭國は大和に押さえつけられて消滅したというドラマは、大和王権が徹底してタブーとしたので、歴史から闇に葬られ、中国王朝もそれに気がつかなかったというわけ。
それが5世紀になって、後漢書の著者が勘違いして邪馬台国は大和にあったと書くなどの誤認があったが、聞こえてくるのは倭國を潰してタブーとした大和の政権当事者の高笑いという顛末なのだ。
そこのところを分かってやれよ、ノータリンアホの大和説者よ。 >>133
>基点の意味が分からないのか。
分かってないのは、左側スロープ君、あなたの方だよww
258年が庄内3式だということが分かるだけで
268年に庄内3式が作られなくなっているかどうかは分からないし
248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からない
左側スロープ君は、左側スロープが見えるかどうかという時に
さんざん訳の分からないことを言い続けて、フルボッコになったのを
覚えていられない人のようだね
左側スロープ君は、自分の巣へお帰り >>601
>纏向型前方後円墳の時代は、すぐに定型型前方後円墳に移行するので限定的な時間範囲しかない
そして、おおむね3世紀代ということでコンセンサスが得られている(畿内、北部九州以外の
地方は土器編年が充実していない地域が多い)<
何度も言うが、石塚は3世紀末であり、箸墓は4世紀以後だ。
だから、「3世紀」して、卑弥呼の時代を含めようとするのは、インチキ詐欺だ。 >>139も「左側スロープ君」だろ?ww
鴨とか葛城とかでは、呼んでもらえなくなったねww >>140
年輪年代はあくまで伐採年だから
伐採後何年経過してその木材が使われたのかはわからない、
が、どっちにしても出てきた数字の「それ以降「」として考えるわけだ。
だから二口かみあれた258年が河内庄内V、あるいは庄内3だとして、それ以前にならない。
つまり248年にはならないのだ。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 >>608
>具体的な根拠ww
「前方後円墳のような巨大墳丘墓は、権力・権威を視覚化する示威目的のモニュメント
当然に最大のものが、最大の権力・権威を表象する
これは、古代史に限らず歴史学の基本だぞ<
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らが、
征服した毛人蝦夷や出雲銅鐸祭祀部族を威圧支配するために造ったもの。 >>133
ちなみにその木材、出た年輪年代は222年で、外側を削られた分の年数を推定で加算してる
調査報告書では共伴が古墳前期の土器としている
石川県埋文センターの河合は布留0併行期と書いていて
府立弥生博図録ソースのネット記事では河内編年の欄に大阪府文化財センターの森井らの名前を冠して庄内3と書いてるわけだが
これを大和編年の庄内3と読むのはちと無理ないか? >>140
248年に庄内3式(=布留0古相)がまだ作られていないかどうかも分からない のに、
なんで卑弥呼墓は箸墓だと断言してるんだい、アホの>>1は。
つまり自分の言ってることは証明されないと、たった今言ったわけだ。
これ、敗北宣言www >>608
>巨大前方後円墳の築造のような大事業には、多大な労力の動員が必要であり、
その構築物は多大な労力を動員できる権力を視覚化するものだ
>それだから、どんな王朝でも、王より大きな墓の造営を臣下に許すことはない <
関係がない。
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であった、という事は、
「別れた」のだから、九州倭国とは「半独立国的」であり、
「倭種」であった、という事だ。 >>122
>で、二口かみあれたと併行するのが河内庄内V=布留0古相だとしようか。
>それでも年輪年代で258年と出てるのだから、お前に都合よい248年にはならない。
?
布留0式がA.D.250〜280頃使われた土器だとした場合
布留0式がA.D.258伐採の木材と一緒に出てきて
何か問題でも? >248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からない
これ、>>1のお言葉w
つまり自説に根拠が全くないと認めたわけねwww
作られていたと証明して初めて自説(箸墓=卑弥呼墓)が成り立つのに、
「分からない「」ときた、これw >>150
>大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であった、という事は、
そんなこと書かれた史料はないぞ >>151
>布留0式がA.D.250〜280頃使われた土器だとした場合
>布留0式がA.D.258伐採の木材と一緒に出てきて
>何か問題でも?
だとした場合って、そうであるという根拠がないと言ってるのだ。
なんで250年という数字が出てくるの?
そう250年でも卑弥呼の墓じゃないことになるけどねw 纒向遺蹟が邪馬台国だったという邪馬台国畿内説を宣伝してきた韓国人係員が発表した、248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からないという意見は、魏志倭人伝時代の討論会に、どのような影響を発生させるのだろうか。
140日本@名無史さん2019/04/18(木) 20:20:45.74
>>133
>基点の意味が分からないのか。
分かってないのは、左側スロープ君、あなたの方だよww
258年が庄内3式だということが分かるだけで
268年に庄内3式が作られなくなっているかどうかは分からないし
248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からない >>155
立ち小便男が、巧妙な罠を仕掛け、纒向遺蹟が邪馬台国だったという邪馬台国畿内説を宣伝してきた頭の劣っている韓国人係員を、吊し上げてしまった。。。 >>140
>248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からない
分からないのに何で箸墓古墳だと断言してるのかと聞いてるのだ。
分かって初めて断言しろ。
つまり年輪年代で240年の木材が出てきて、
その木材=庄内3=布留0古相となったら、
248年は布留0古相となるよね。
しかし今はなってない。 罠に吊し上げられた、纒向遺蹟が邪馬台国だったという邪馬台国畿内説を宣伝してきた頭の劣っている韓国人係員が、断末魔を呟いたね、、、、
156日本@名無史さん2019/04/18(木) 20:49:01.05
>>152の意味がわからない >>154
>なんで250年という数字が出てくるの?
FAQ22と43あたりね >>609
>前方後円墳体制は
各古墳群の「盟主墳」の系列=首長墓の系列が前方後円墳(前方後方墳も可)で
作られる体制のことだ <
ちょっと違う。墓形態の原則は、
その所属する部族の墓形態に出来るだけ類似するような形態を選択するものだ。
そして、形態の大きな差異があれば、それは部族が違うか?、始祖的に新しい墓形態を創設したか?、
という事になるだけだ。
>円墳や帆立貝型、方墳は、盟主墳の墳形には採用されない<
こりゃまた、全くインチキ騙しだな。 >>610
>倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼である証拠
・倭迹迹日百襲姫命は、天照大神と並ぶ最高神の大物主神の妻だから、『日本書紀』に登場する人間の中で一番偉い。
・倭迹迹日百襲姫命は「四段築成」で三段築成の天皇陵よりも格上の形状である。これは物的証拠なので超重要
・倭迹迹日百襲姫命は、三輪氏の祖である。三輪氏は朝廷内で一番偉かった。
これで倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼じゃなかったら逆に驚く <
「南≠東」などに拠って×。 >>156
なんでわからないの。
248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からない 、
つまり作られていたかどうかもわからない、
つまり自分の説は根拠がないということだね。 >>611
なんだよ
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
また、まったく理由が説明できないのか?。
それじゃもう ひたすらデララメ言ってる と断定されても仕方ないよね。
大和説の惨状 >歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
やっぱりこれか。
なんで放射性炭素測定で20年幅になるんだよ、ふざけるなw。 >>613
>単なる土器じゃなくて、祭祀用供献土器が共通化されるから、
そこに祭祀連合の成立を見るんだよ<
「祭祀用供献土器が共通化」も、原則は、
「同じ部族の祭祀形態」を示すんだよ。 >>152
>つまり自説に根拠が全くないと認めたわけねwww
違うよ
どうして、まともな論理が読み取れないんだろう?
やっぱりバカなんだろうな
年輪年代法で258年という年代が、共伴出土した土器に与えられても、
その共伴出土した土器の様式が「何年前から作られるようになったかという情報」は
どこからも得られないというだけだぞ?
左側スロープ君は、頭悪すぎ >>615
>畿内は祭祀用土器の通販やってたんだね草<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
庄内は、筑紫が3世紀前半であり、大和は石塚からであるから3世紀末。 >>168
>その共伴出土した土器の様式が「何年前から作られるようになったかという情報」は
>どこからも得られないというだけだぞ?
ならば箸墓248年建造にならないではないか、情報がどこからも得られないのだろ?
頭悪いなぁ、おまえ。 >>616
>九州が上位で納税を受ける立場なら、なぜ真似っこして土器を作らないといけないのか、
説明がつかない
しかもただの土器ではなく、祭祀用土器を含む一括様式を受け入れている
どちらが主なのかは、明らかなんだよ
祭政一致の時代に祭祀様式・祭祀用土器を受け入れるというのは、既に存在する祭祀連合に
参加することを意味する<
ダメだ。
庄内は、筑紫が3世紀前半であり、大和は石塚の3世紀末からであり、
筑紫から大和に伝播模倣製作があった。 >>1マスターベーションもいいが
現時点の纏向=邪馬台国の王都
纏向=卑弥呼の墓と声高く言う学者いねーよ
石野も寺沢も離れて、ヤマト王政の研究・・
橋本に纏向、箸墓の尻拭いさせてんだよ、
桜井市もおバカ
桜井市教委や纒向学研究センターの公表なんなの??
地方紙では受けるけど
関西人の観光客すくネーシ >>618
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
都合が悪くなると、すぐにごまかしに逃げるから、話がちっとも進まない >>621
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
都合が悪くなると、
具体論に踏み込まないようにごまかし続けているだけだ 橋本もバカだよ
石野、寺澤の尻脱ぐい
トカゲのしっぽになるかどうかの岐路に立ってる橋本だよ >>623
>盟主墳が前方後円墳または前方後方墳ではない古墳群があったら教えてくれ<
何をアホ言ってんだい?。
卑弥呼の墓は「冢」であり、
前方後円墳でも前方後方墳でもないよ。 >>623
>それは、北部九州最大国の奴国<
奴國は、北部九州最大國ではない。邪馬壹國が最大國であるから、×。
>の中心、比恵那珂遺跡群が畿内様式土器を
模倣製作し北部九州各地に送っていることから否定される<
この「佐々木の説明」が×。
九州の庄内は3世紀前半であり、大和の庄内は、3世紀末。 >>624
>畿内様式に倣って、模倣製作しているんだよ
九州独自祭祀を放棄している訳だ <
九州の庄内は3世紀前半であり、
大和の庄内は3世紀末だから、
この大和説男の説明が、×。 箸墓は宗神天皇の墓だな
反論ある根拠示せ
おれの根拠はいいから
でない根拠示せよ
昔の畿内説の学者は宮内庁と喧嘩もいとわずだったな >>153
>>>150
>>大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であった、という事は、
>
>そんなこと書かれた史料はないぞ
『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。 >>180
第10代天皇の諡号を書けない読めないキウスはやはり日本人ではないな >>176
>卑弥呼の墓は「冢」であり、
>前方後円墳でも前方後方墳でもないよ。
おっw
その通りだw。
そして単独墓ではない、集団墓。
このような墓は出雲族の特徴なのか、見事な集団墓。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_17.jpg
広島県三次市、出雲文化圏の花園1号墳墓。
これは方形の台状墓だが、卑弥呼などの王族はおそらく円形の台状墓であろう。
場所は日本神話、歴史の原点である高天原(奈良県御所市高天)だ。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 >>181
ほら
大和が九州倭国から別れた別種の旧小国であった
なんてこと書かれた史料はない >>180
>箸墓は宗神天皇の墓だな
>反論ある根拠示せ
根拠:宗神天皇が存在しない >>181
どこに「九州倭国から」と書いてあるんだい?ww
そういういい加減な勝手解釈を止めなさいっての! >>181
>東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
つまり「東征毛人五十五国」したのは畿内に都のある日本(=倭)の大王だね 倭国が畿内だから、関東だか東北だかに日本国という別の国があったとか特集した馬鹿なテレビ番組がありましてねえ。
やはり九州が倭国で畿内が日本国としかならないでしょ。 >>164
>つまり作られていたかどうかもわからない、
だから二口カミアレタ遺跡の年輪年代258年では「否定できない」んだよ!
最初は258年のあとに布留0式が作られるとかいう間違ったインチキ知識で
意気揚々と否定しようとしたのにww
その論点はすでに間違いだって教えてもらっただろう?
そして、纒向遺跡の編年は二口カミアレタ遺跡「だけでなく」様々な遺跡の
並行期遺物資料を相互に付き合わせながら整合性が取れるように組み上げられている
「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」日本考古学 / 2005 年 12 巻 20 号 p. 47-73
田中 元浩
ここからダウンロードできるから読んでごらん
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/12/20/12_20_47/_article/-char/ja/ >>170
>ならば箸墓248年建造にならないではないか、情報がどこからも得られないのだろ?
>頭悪いなぁ、おまえ。
そもそも1は箸墓248年建造と主張してないのだが >>635
「南→東」などの嘘吐き騙や、
ちゃんと日本語が喋れない大和説あわれ >>162
>>円墳や帆立貝型、方墳は、盟主墳の墳形には採用されない<
>こりゃまた、全くインチキ騙しだな。
反論は具体的にって何度も教えてるだろ?
この場合は「円墳や帆立貝型、方墳が、盟主墳となっている古墳群」を例示できれば
きちんとした反論になる
あったら教えておくれ!
できるものならな!ww >>637
「南→東」などの嘘吐き騙しの、
何がスカスカなのか?が、説明できない大和説は
思考すらしてないようだ
宗教か? >>167
>「祭祀用供献土器が共通化」も、原則は、
>「同じ部族の祭祀形態」を示すんだよ。
するってぇと、九州奴国と大和や河内は同じ部族なんだな!
そして同じ部族の中で最大の墳墓がある所がその部族の王の居所=宮都の所在地だw >>177
>奴國は、北部九州最大國ではない。邪馬壹國が最大國であるから、×。
その前にザラコク理論の奴國の位置がデタラメなんだよww
なんで山を挟んで二つに分かれた奴国なんて考えてるんだよ?ww
しかも山ばっかりだから二万戸が入るスペースがない
さらに言えば、伊都国との間に国境が引かれる理由がない 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 纒向遺蹟が邪馬台国だったという邪馬台国畿内説を宣伝してきた韓国人係員が発表した、248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からないという意見は、魏志倭人伝時代の討論会に、どのような影響を発生させるのだろうか。
140日本@名無史さん2019/04/18(木) 20:20:45.74
>>133
>基点の意味が分からないのか。
分かってないのは、左側スロープ君、あなたの方だよww
258年が庄内3式だということが分かるだけで
268年に庄内3式が作られなくなっているかどうかは分からないし
248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からない >>194
なんか前方後円墳体制を誤解してるようなんで、ちょっと指摘
円墳、帆立貝、方墳でも地域の盟主墳になるよ
ただ、どんどん範囲を拡大していくとその上には必ず大前方後円墳に葬られている層があるっこと
地域首長の円墳
富雄丸山、丸墓山
地域首長の帆立貝
男狭穂塚、田中王塚
地域首長の方墳
枡山 >>199
だから箸墓が、248年まで遡るかどうかわからない、でfa
わからないことを確定したように書いたテンプレは詐欺でfa 木材の使い回しなどを考えると、箸墓が258年より後であることがわかり、248年までは遡れない。
つまり纒向とあわせて卑弥呼より後の時代のものだということでFA? >>201
その通り。
箸墓が248年にできた根拠が何もないと>>1は白状した。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 >>202
前方後円墳体制の話だから凡列島規模の話だよ 主観と客観の区別がつかないアホが研究者に難癖つけるという喜劇 >>201
だから、テンプレは
箸墓が248年まで遡ると確定したように
書いてない 庄内3式という物体が魏志倭人伝時代の物体であり、纒向遺蹟が邪馬台国だったという、邪馬台国畿内説を宣伝してきた、韓国人係員が発表した、
248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からないという、敗北宣言は、魏志倭人伝時代の討論会に、どのような影響を発生させるのだろうか。
140日本@名無史さん2019/04/18(木) 20:20:45.74
>>133
>基点の意味が分からないのか。
分かってないのは、左側スロープ君、あなたの方だよww
258年が庄内3式だということが分かるだけで
268年に庄内3式が作られなくなっているかどうかは分からないし
248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からない ○実際の里の6分の1でしかない短里が存在し、世界の辺縁でのみ(注記なく)使われていた。
○(注記なく)放射読み。
○(注記なく)帯方郡起点。
○人口2重カウント(邪馬台国の人口は、行程記事の諸国を合わせた人口)。
○末盧国は松浦でなく、呼子に上陸。その後、文官長袖組の魏使たちは、山中を東南に向けて強行軍。
○大規模な古墳もないところに何故か邪馬台国が存在。
○AMS法は間違っている。較正しているけども、較正用の標本でなく資料の計測結果だけが不思議なことに標本とズレて間違っている。
○(注記も類例もなく登場した)会稽東治なる地域は、会稽東冶とは字が違うからまったく別の場所で、しかも当時の会稽郡よりずっと北に存在する。
○投馬国は朝鮮半島に存在した。
ここまで無理に無理を重ねないと成立しないとは…。
もう、誰がどう見ても、無理じゃないですかね?これは。 >>204
そそ、詐欺を黙認する人も同罪の誹りを免れないね。
それでは、皆さまご唱和下さい。
畿内説は詐欺♪ 248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からない。。。 >>208
つまり畿内説には根拠がなかったということでしょ。 248年に庄内3式がまだ作られていないかどうかも分からない。。。 >>203
なんで箸墓が258年より後であることがわかるの? 畿内馬具が、箸墓を5世紀に近い物体だと証明してしまった、、、 箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
などと>>1は断定してるよね。
ならば箸墓は248年か、あるいはそれ以前に作られ始めてたとの根拠を示さないといけない。
ところがそんな根拠は何一つない。 畿内説は年代の前倒し詐欺で成り立っていたのですね。 >>213
はあ?
箸墓が248年にまだ作られていないと
箸墓が248年まで遡ると主張してない説が
どうして根拠なかったことになるの?
言ってること支離滅裂では? トンデモは誰からも賛同を獲られないため連投に走りがち >>222
支離滅裂はそっちだろ。
箸墓も纒向も、邪馬台国と何の関係もないじゃん。 >>220
箸墓が卑弥呼の墓だと断定してると
どうして箸墓が248年か、あるいはそれ以前に作られ始めてたとの
根拠を示さないといけないの?
理由は? 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 >>225
墓は生前から作り始めていたはずと主張していたのはそっちだろ?
過去スレでの主張はなかったことにするの? 韓国政府が主導的に宣伝してきた、邪馬台国畿内説が、完全に、破綻してしまった、、、 >>225
>どうして箸墓が248年か、あるいはそれ以前に作られ始めてたとの
>根拠を示さないといけないの?
魏志の記述は卑弥呼が死んですぐに作り始めたとも解釈できるが、
15年もかかる箸墓建造はそんな形ではないだろう。
15年も遺体のモガリを行ってたのかということになる。
だから248年以前ということになる。
どっちにしても248年という根拠もないのだしそれ以前という根拠ももちろんない。 >>229
>墓は生前から作り始めていたはずと主張していたのはそっちだろ?
いつ、誰がどこで? >>231
>だから248年以前ということになる。
だから、なんで?
卑弥呼はいつ死んだの? トンデモさんの常だな
トンデモさんはなぜか常人がするような
相手の説のここが間違っている、という具体的な指摘をしない
トンデモさんは
俺様の説が正しいからお前は間違っている、という主張をしてしまう
だからトンデモさんは
常人には永遠に勝てない
哀れなことだ >>202
>勝手に範囲を拡大するなよ。
市長、郡長レベルだと前方後円墳(前方後方墳も可)で
その下の村長、地区長クラスは円墳とかもあるってだけ
首長連合というときにどこまで首長と見るか、という程度のこと >>220
>ならば箸墓は248年か、あるいはそれ以前に作られ始めてたとの根拠を示さないといけない。
よく読めよ
「纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる」だよ
纒向遺跡は庄内0式から建設開始だから、ずっと前から作られ始めてるよ しかしなあ・・・
畿内説が主張してない話を一生懸命否定して
俺は畿内説を論破したぞーと叫ぶ・・・
バカでスカね >>235
市長郡長レベルなら前方後円墳以外も結構いるんだって
知事大臣クラスになるとほとんど前方後円墳だけどね >>238
弥生時代のクニが郡レベルの大きさだから、
国造クラスを郡長としたんだがね
まあ>>200では、男狭穂塚は盟主墳クラスだけれど隣の女狭穂塚(前方後円墳)とセットだからな
富雄丸山は円墳としては最大だけれど、3キロの距離のところには墳丘長224メートルの
宝来山古墳があるし、盟主墳とは言わないだろう >>239
>弥生時代のクニが郡レベルの大きさだから、
>国造クラスを郡長としたんだがね
さも確定的に書くなよ。
弥生時代の魏志倭人伝に登場するクニは国邑レベルだと思うけどね。 >>240
弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。 >>239
男狭穂と女狭穂は一世代は違う
富雄丸山は生駒谷の盟主 >>646
まあ結局のところ今日も
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
文献考古の史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論をする事なく、
出所不明の分裂幻覚の妄想的な怪情報だけに頼るトンデモ説だ
って自己紹介をしたわけだが。 >>648
まあ、「南→東」などの嘘吐き騙しの宗教にクルった大和説学者らの、
古代史の学問に関する僅かな貢献を全否定はしないが、
それが根拠と言われても、困惑する以上のことはできないぞ >>650
>それだったら、自ら模倣製作して九州各地に配布する理由がないな
>別勢力だったら、祭祀用供献土器を共通化し、
前方後円墳を同時に作り始める理由がどこにもないなww<
違うな。
大和は、九州倭国の阿毎氏から別れた(同じ阿毎氏の)別種の旧小国の「倭種」であり、
九州倭国から「半独立国的」な 「附庸国」。
九州説の人には、論理的思考は無理なのかな >>241
>弥生時代の魏志倭人伝に登場するクニは国邑レベルだと思うけどね。
しばらく前のスレでも話題にしたけど、邑の意味は「集落、村、都市」であって「国」ではない
「国邑」で、「国の中心となる集落」くらいの意味
それから
×「弥生時代」の魏志倭人伝に登場するクニ
○「古墳時代初頭」の魏志倭人伝に登場するクニ
漢時100余国が30国に集約されているし、末盧国、伊都国、奴国の配置からも
これらのクニが水系、平野単位の広がりを持つ旧郡程度の大きさと見るのが妥当 >>651
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
とうとう、「銅鏡」の価値否定にまで走るのは、
大和の「一番大事な神器である銅鏡」が、大和説にとっては殆ど価値がなく、
むしろ皇国史観を否定する事になる事が分かったからだな。
大和説は、平原1号墓潰しのために、そう言わざるを得ないのは分かるけどさ
根拠がない
お前、スレ主じゃないだろうな?。
「南→東」んまどの嘘吐き騙しのスレ主のふりをするのは、
プライドを著しく毀損する行為だと思うんだが?。 >>654
不可知部分が殆どである自然や歴史に関する科学や学問においては、
どんな人の説明であろうと、どんな情報であろうと、
僅かな(0.5%以下位の?)価値は持っているもの。 >>656
>訊かれたことに、そのまま答えるだけで議論はさくさく進むのに、
どうして九州説は話をそらし続けるんだろう<
5chのような掲示板の場では、「証拠」を要求されても、
古い断片的な記憶情報 だけであった事もあれば、
史料事実からの確率の低い推論情報であった事もあれば、
このスレのような膨大な投稿内容の全体が根拠であった場合もあり、
大和説者ら自体にも、
「南≠東」などに嘘吐き騙しの根拠がなかった、というケースもある。
大和説者は、どうしてこんなに「証拠の全部提示」ばかり要求しつづけるんだろうか?。
そりゃ、おそらく、大和説にはまともな根拠がなくて反論も出来ないから、
「証拠」を先に要求し続ける事で、世間の人々には、
議論に勝っているんだな、と思わせて騙そうとしている、
という事なんだろうなあ。 >>247
>九州説の人には、論理的思考は無理なのかな
たまにザラコクもいいこと言うなあ >>657
「南→東」などの嘘吐き騙しをしている大和説者で、
まともな人はいるのかい?(マジ疑問) >>236
>よく読めよ
>「纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる」だよ
>纒向遺跡は庄内0式から建設開始だから、ずっと前から作られ始めてるよ
ごまかすな、
「箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり」
の話をしてるのだ。
それなら箸墓が248年建造か、それ以前だという証明が必要だろ。
ところが何も根拠がない。
纏向遺跡がその前からなのは当たり前。 >>252
>大和説者は、どうしてこんなに「証拠の全部提示」ばかり要求しつづけるんだろうか?。
あんたらがウサン臭くて怪しいからに決まってるからだろ >>664
>実際のところは中央集権化に成功した畿内政権が小国家に分かれていた九州を従えたのだろう<
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国の附庸国の倭種であり、
半分独立国的であったから、×。 187日本@名無史さん2019/04/18(木) 22:02:46.05
>>180
>箸墓は宗神天皇の墓だな
>反論ある根拠示せ
根拠:宗神天皇が存在しない
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
ふーーん
ならば、あの古墳群はなんだろうww >>681
>どんな妄想?
土器年代が「258年」という下一桁まで規定されるって、どこから来るんだ?
さらに言えば、布留1式が庄内3式に接続し、布留0式は庄内3式と平行して出土する <
庄内と布留は、明確な区別が出来、布留は庄内の工夫改良型。
だから、遺跡や古墳に庄内と布留が混在していれば、その遺跡年代は布留の年代になる。
だから、布留0は庄内3よりも新しく、
布留がない石塚が3世紀末になり、
ホケノは3世紀末以後になり、
箸墓は4世紀以後になる。 >>685
>前方後円墳のような巨大墳丘墓は、権力・権威を視覚化する示威目的のモニュメント
当然に最大のものが、最大の権力・権威を表象する<
当然、個々の地域での、
「必要」性と、
「セレモニーの(破綻が来るまで)進化拡大」、
という人類の常識に拠って、巨大化や厚葬が起きる。 >>255
なんで箸墓が248年建造か、それ以前
だという証明が必要なの?
必要な理由がわからない >>259
>だから、遺跡や古墳に庄内と布留が混在していれば、その遺跡年代は布留の年代になる。
布留0ってのは布留じゃないんだけど? じじいどもおはよー
きのう3しゅじんぎ揃えたんやな >>237
「ああ言えばこう言う」で言い逃れして誤魔化しているだけだろ >>248
>しばらく前のスレでも話題にしたけど、邑の意味は「集落、村、都市」であって「国」ではない
>「国邑」で、「国の中心となる集落」くらいの意味
勝手に言葉の意味を捏造するな。
魏志倭人伝で里程が明記されている国で見ると、伊都国と奴国など、隣接する集落が区別されているからだ。
畿内説は言葉の意味まで構成の概念にすり替えているわけだ。 「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「考えられる」
などの主観的な判断の表現を禁止しよう。
テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになるだろう。
畿内説はほぼ想像の産物なのだ。 >>266
>魏志倭人伝で里程が明記されている国で見ると、伊都国と奴国など、隣接する集落が区別されているからだ。
伊都国と奴国が「隣接する集落」?
集落なの?
で、区別されているから何なの?
根拠は不明確で、結論が明示されない
日本語がかな〜り不完全じゃない? >>267
「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「考えられる」
が、なんで「主観的」なの?
理由は? >>265
>「ああ言えばこう言う」で言い逃れして誤魔化しているだけだろ
という証拠は?
「主観的な判断」?
w
w
w >>252
>古い断片的な記憶情報 だけであった事もあれば、
>史料事実からの確率の低い推論情報であった事もあれば、
>このスレのような膨大な投稿内容の全体が根拠であった場合もあり、
そのどれでもいいから、とにかく書けや!
その情報の確からしさも含めての議論になるんだから
結局、九州説には古いすでに否定された内容くらいしか根拠っぽいものすらないから
訊かれても答えない、答えられないのが実態だ ほら・・・
言語によるコミュニケーションを
徹底して拒絶する>>271が
またコミュ障を拗らせ始めた
w
w
w >>243
>男狭穂と女狭穂は一世代は違う
男狭穂も女狭穂も、髪長姫の入内に伴い実家の墳墓を畿内の助力で作ったものだから、
世代が違うと考える理由も希薄なんだがな
どちらにしてもセットで企画されている >>243
>富雄丸山は生駒谷の盟主
そこから10キロも離れてないところに、佐紀盾列古墳群があるのに盟主って言ってもな
名古屋に名古屋市長と愛知県知事がいるときに、長久手市長は長久手の盟主だって言うようなもの >>258
>ならば、あの古墳群はなんだろうww
宗神天皇って第何代の天皇なんだい?ww
我が国の皇統譜にはそのような諡号をおくられた天皇はいないぞ! >>266
>伊都国と奴国など、隣接する集落が区別されているから
こういうバカの相手は本当に疲れる
末盧国と伊都国の間には脊振山脈
伊都国と奴国の間には高祖山塊 という自然国境がある
集落が隣接しているなどと言うのはその時点で比定地がおかしい
九州説は魏志倭人伝の方角と距離が「とにかく正しい」と言うためだけのインチキ比定地を
整合性も合理性もなく言い張るから、トンデモになるんだよ >>267
>などの主観的な判断の表現を禁止しよう。
判断は最終的には主観が入る
その判断の妥当性を議論するのが科学なんだよ 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 >>278
>山抜けぐらいで騒ぐのかい
首長の権力化は、水利、土木工事に多くの人員を動員する必要があるから
山の向こうの水利は山の向こうで考えるから、そこが自然国境になる
国邑が隣接してるとか言うのはバカだけ
邑は都と対比される語
王がいれば都、いなければ邑 訂正しておいてやるね
>>180
箸墓は崇神天皇の墓だな
反論あるなら根拠を示せ
おれの根拠はいいから
でない根拠示せよ
昔の畿内説の学者は宮内庁と喧嘩もいとわずだったな 笑えたぼで、少し寿命が延びて得をしたな。。。
281日本@名無史さん2019/04/19(金) 08:11:15.57
>>278
>山抜けぐらいで騒ぐのかい
首長の権力化は、水利、土木工事に多くの人員を動員する必要があるから
山の向こうの水利は山の向こうで考えるから、そこが自然国境になる
国邑が隣接してるとか言うのはバカだけ
邑は都と対比される語
王がいれば都、いなければ邑 >>283
笑い過ぎて、タイピングを失敗したな。。。 崇の山を抜くと宗になったことを、わからない者がいたのではないのかな。。。
281日本@名無史さん2019/04/19(金) 08:11:15.57
>>278
>山抜けぐらいで騒ぐのかい
首長の権力化は、水利、土木工事に多くの人員を動員する必要があるから
山の向こうの水利は山の向こうで考えるから、そこが自然国境になる
国邑が隣接してるとか言うのはバカだけ
邑は都と対比される語
王がいれば都、いなければ邑 >>277
>集落が隣接しているなどと言うのはその時点で比定地がおかしい
自分の比定地がおかしいとは考えないのかな。 崇の山を抜くと宗になったことを、わからなかったことを、公表した人物は、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の3寸男の可能性が高まってきたな、、、
281日本@名無史さん2019/04/19(金) 08:11:15.57
>>278
>山抜けぐらいで騒ぐのかい
首長の権力化は、水利、土木工事に多くの人員を動員する必要があるから
山の向こうの水利は山の向こうで考えるから、そこが自然国境になる
国邑が隣接してるとか言うのはバカだけ
邑は都と対比される語
王がいれば都、いなければ邑 >>279
君のは科学ではなく妄想、捏造の類だよ。
はじめから畿内説ありきで誘導している。 磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は日本書紀に記載されている崇神天皇王朝の都。
現在、磯城瑞籬宮は奈良県桜井市金屋にあったとものと推定されており、
志貴御県坐神社には大正年間に「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が建てられている。 >>281
何を批判されているのか理解していないようだ。
チグハグな反論ばかりが返ってくる。
されで「論破した」とか言い張る。
本当にコミュ障なんだなと納得した。 コミュ障というのは、コミュニケーション能力に先天的に障害を持って生まれてきた人物という意味なのではないのかな。。。 >>288
>君のは科学ではなく妄想、捏造の類だよ。
だという理由を具体的に書いてくれたまえ 崇の山を抜くと宗になったことを、わからなかったので、チグハグな反論ばかりを返し、「論破した」とか言い張る、コミュ障の人物は、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の3寸男の可能性が高まってきたな、、、
281日本@名無史さん2019/04/19(金) 08:11:15.57
>>278
>山抜けぐらいで騒ぐのかい
首長の権力化は、水利、土木工事に多くの人員を動員する必要があるから
山の向こうの水利は山の向こうで考えるから、そこが自然国境になる
国邑が隣接してるとか言うのはバカだけ
邑は都と対比される語
王がいれば都、いなければ邑 この意見を発表した謎の人物は、実は、邪馬台国畿内説を宣伝するコミュ障の韓国人を吊し上げるための、罠を仕掛けたのでは、ないのかな。。。
180箸墓は宗神天皇の墓2019/04/18(木) 21:35:34.84
箸墓は宗神天皇の墓だな
反論ある根拠示せ
おれの根拠はいいから
でない根拠示せよ
昔の畿内説の学者は宮内庁と喧嘩もいとわずだったな >>699
>問題にしているのは、その258年に、庄内3が終わるというのは論理の展開として
おかしいだろ?という点
そして、布留0式は庄内期に出るのちの布留式の特徴を一部持った土器であって
庄内3式が終わってからのものではない<
庄内と布留は明らかに形状や壁厚みが異なっていて、布留の方が新しい、といういう事は、
庄内と布留が共存する遺跡の年代比定は、布留の年代になる、という事。 おれも大爆笑した キナイコシは馬鹿だな
>>281名無史さん2019/04/19(金) 08:11:15.57
>>278
>山抜けぐらいで騒ぐのかい
首長の権力化は、水利、土木工事に多くの人員を動員する必要があるから
山の向こうの水利は山の向こうで考えるから、そこが自然国境になる
国邑が隣接してるとか言うのはバカだけ
邑は都と対比される語
王がいれば都、いなければ邑 倭人伝の一節を借りれば、
時代を、住七、八十年繰り上げこじつけた結果として、纒向説が出来上がってるのではないかな、、。 で・・「反論ある根拠」ってのも何かのシャレなのか? 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、最期に、お笑いを獲得しようとしている可能性が、高いな。。。 箸墓という名前は少なくとも記紀の頃にはあった事が分かるし伝承がどのくらい正しいのか気になるね 空飛ぶ円盤はエロヒム星人の宇宙船だな
反論ある根拠示せ
おれの根拠はいいから
でない根拠示せよ
昔の学者はオカルト勘平と喧嘩もいとわずだったな >>274
確定もしていない被葬者で年代語るとかアホですか?
女狭穂の埴輪は野焼き、男狭穂は窯焼き >>275
生駒谷は地形的には奈良盆地本体から隔離された小世界
なにより佐紀古墳群に葬られなかったことが被葬者の性格を示している 畿内説は都合の悪い質問には答えないんだよな。
卑弥呼の前の男王70〜80年は畿内なの?九州なの? >>288
>君のは科学ではなく妄想、捏造の類だよ。
だから、そう思うならどこが「妄想、捏造」なのか、「具体的に指摘しろ」って
何度言えば分かるんだい?
妄想や、捏造なら矛盾だらけになるから、そこを指摘してくれればいい
実際、九州説は整合性がないからダメだって具体的に叩かれまくってるだろ
「国の集落が隣接してる」とかありえないってww
>はじめから畿内説ありきで誘導している。
はじめからじゃないよ
多くの先人の研究成果の積み重ねの上に、だ
九州説は、思い込みだけでエビデンスもファクトもない >>286
>自分の比定地がおかしいとは考えないのかな。
こちらは、定説に従っているだけなのでww
反論したいなら、がんばれ
反対したいのなら、定説に至るだけの根拠をすべて否定しないといけないから大変だよww
具体的な論点を挙げて論じてね!ww 卑弥呼の前の男王70〜80年はもちろん畿内何だろうけど、
そうするとテンプレの【骨 子】が葬崩れになってくるな
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6) >>294
>崇の山を抜くと宗になったことを、わからなかった
これは正直分からなかったよ
日本人なら、漢字が分からない気の毒な人なんだな、とか
誤変換なんだな、と思うだけで「山抜け」という表現はなかなか出てこないww
だから、伊都国から奴国へ抜ける日向峠越えを「山抜け」と
表現しているんだと思った & アンカの間違い だろうとww
前にも繰り返し宗神天皇って書き続けてる非日本人がいたから
「山抜け」なんていう言い訳をするとも思わなかったしww コミュ障というのは、コミュニケーション能力に先天的に障害を持って生まれてきた人物という意味なのではないのかな。。。 >>311
>生駒谷は地形的には奈良盆地本体から隔離された小世界
>なにより佐紀古墳群に葬られなかったことが被葬者の性格を示している
その一方で、「奈良盆地本体から隔離された小世界」が独力で造営するには
大きすぎる
無理に盟主墳だと言い張る理由もないだろ? 伊都国から奴国へ抜ける真実の道路は、どこにあったのだろうか、、、 そもそもどんな読みで打ち込むと宗神天皇なんていう字が出てくるんだ?
崇神天皇を、どう読んでるんだ?
まあ、外国籍の人には難しいかなww >>326
>伊都国から奴国へ抜ける真実の道路
海路の交通がメインだろうね
そして、福岡前原道路が通っている峠が、陸路ではメインだろう
日向峠にも道はあったと思うけれど 冷凍たこ焼きを解凍したので、有田焼に盛り付ければ良いな。。。 女王国の入口の国である、帯方郡から一万二千里の奴国は、何処にあったのだろうか、、、 >>757
>でかい墓を王以外が作るという状況は「ない」<
普通にまともに存在し治世していた「王」の遺族であれば、
巨大な墓を造る必要がないし、造ろうとは思わないもの。
大和は、筑紫の倭奴國の阿毎氏の中の、
先行きの見込みが無くなって流浪東征した神武らの国があって、
そこへ九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らがやって来て、
在地の毛人蝦夷や出雲銅鐸祭祀系を征服支配して、
その恨みを抑えるために、
巨大墓を造って威圧する必要があった。 魏志倭人伝に、2回づつ登場する、伊都国と奴国を結ぶ、真実の道路は、どこにあったのだろうか、、、 戦争しまくってる最中に墓造ってる余裕があったのかねえ? >>331
>普通にまともに存在し治世していた「王」の遺族であれば、
>巨大な墓を造る必要がないし、造ろうとは思わないもの。
古墳時代の全国の豪族の遺族に謝れww >>762
>インプリケーションに富むレスありがとうございます。
大変勉強になりました。<
「陳寿90度回転」が類スレ主に「褒めたたえて感謝する」投稿を書かれても、
仲間同士が褒め合いをしてを、
世間の人々を騙そうとしている詐欺になるだけで、
ちっとも勉強にならないよ。 >>318
根拠を示さず決めつけているから、妄想なんだってば。
妄想とは、根拠のない思い込みのことを言う。
畿内説は妄想ばかり。 >>319
自分の頭で少しは考えろよ。
学生さんなのかな?
間違った前提を刷り込まれると、間違った答えにしかたどり着けないという見本だな。 >>329
器と中身の釣り合いが取れていないのではないだろうか。 たこ焼きは口の中を火傷しそうになるから苦手なんだよ。
猫舌なんだ。 俺、沖縄在住の沖縄人だけど、生まれてこのかた自分を日本人と思ったことは一度もない。 >>776
>同じところから出た桃の種ですら推定年代がバラバラなくらい、炭素年代法の信頼性は低い。<
成程。 >>338
>根拠を示さず決めつけているから、妄想なんだってば。
どの箇所がその「根拠を示さず決めつけ」になってるのか
具体的な指摘は決してしないの? >>338
>根拠を示さず決めつけているから、妄想なんだってば。
>妄想とは、根拠のない思い込みのことを言う。
>畿内説は妄想ばかり。
あんたが今まさにやらかした、その
根拠を示さずの決めつけは、妄想ってことだな
盛大なブーメランだ
妄想とは、根拠のない思い込みのことを言う
九州説は妄想ばかりという実例だ >>780
>>ならば畿内は九州北部に存在した銅鏡祭祀連合に参加したのだな。<
>そんな連合が九州のどこにあって、<
中心は、弥生銀座〜筑紫平野部の邪馬壹國と、糸島付近の阿毎氏の伊都国。
>どんな痕跡が残ってるんだ?<
三種の神器的な副葬を中心とする埋葬祭祀跡。 >>339
これも「根拠を示さずに決めつけ」になってる な
つまり>>339の妄想なわけだ ブーメランという、謎の物体は、元々は、天と地の隙間を、高く広げるための棒だったが、曲がってしまったので、投げ捨てたのだが、投げ捨てた者の元へ戻ってきた物体だったのでは、ないのかな。。。。 >>344
「〜でよい」とか「が妥当」とか書いている部分だよ。
自覚してよ。 >>337
今もって、納得できる合理的な説明がない 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、スレッドの残りが、まだ、あるので、
ブーメランという、謎の物体が、投げた者の元に戻ってくるのかを、討論してスレッドを埋めていけば、良いな。 >>351
なぜ、ブーメランという、謎の物体は、投げた者の元に戻ってくるのだろうか、、、 俺、奈良生まれの奈良人だけど、生まれてこのかた自分を日本人と思ったことは一度もない。 >>354
田舎ならではの閉鎖性かな?
奈良はいろいろ問題があるよね。
ここでは書けないあれこれとか。 >>349
>「〜でよい」とか「が妥当」とか書いている部分だよ。
>自覚してよ。
その部分が「根拠を示さずに決めつけ」になってる
という根拠は?
あなた、いま「根拠示さずに決めつけ」してますね? >>350
>今もって、納得できる合理的な説明がない
という根拠は?
また「根拠を示さずに決めつけ」してますね? なぜ、ブーメランという、謎の物体は、投げた者の元に戻ってくるのだろうか、、、 「また「根拠を示さずに決めつけ」してますね」という根拠は、何だろうか。。。 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、スレッドの残りが、まだ、あるので、
なぜ、ブーメランという、謎の物体が、投げた者の元に戻ってくるのかを、討論してスレッドを埋めていけば、良いな。 >>357
今もって説明がない事実を根拠にしてる。 ああ言えばこう言う。
あれで誰か納得すると思っているのかな?
畿内説は相手に理解してもらうつもりはないのか。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、最期に、お笑いを獲得しようとしている可能性が、高いな。。。 なぜ、ブーメランという、謎の物体は、投げた者の元に戻ってくるのだろうか、、、 僕達が、熊本地震をきっかけに、城の研究を始めてから、3年経ったな。。。 >>366
九州の陸上で、最初に記録された城は、魏志倭人伝に記録された、卑弥呼の城だったね。。。 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、スレッドの残りが、まだ、あるので、
なぜ、ブーメランという、謎の物体が、投げた者の元に戻ってくるのかを、討論してスレッドを埋めていけば、良いな。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、頭の悪い意見を発表して、ザラコク氏にオウム返しを浴びせられることも、ブーメランという、謎の物体が、投げた者の元に戻ってくることに、似ているのではないのかな。。。 スーパーは、なぜ、冷凍のタコ焼きを安く売りだすのだろうか。。。 畿内説に質問すると物語が返ってくる件
答えは想像です! >>372
マヨネーズやお好み焼きソースや青さを、販売するためかもしれないね。。。 しかも結果ありきで作られた物語なので答え同志の整合性が保てないw あの九州説は間違っているから、畿内説は正しい・・、
この学説は畿内説のことは(間違いとは)言っていないから、畿内説は正しい・・、
などなど、まことに好都合な思考方程式() >>374
花かつおも、売れるのではないのかな、、、 天照大御神=卑弥呼の方はいらっしゃいますでしょうか? >>374
青さは結構高価だよね。
関東だけかな?
地産地消で他の地域に出回らない? スーパーは、なぜ、冷凍のタコ焼きを安く売りだすのだろうか。。。 >>378
ウイ、こちらに控えておりまするぞえ、、。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、最期に、お笑いを獲得しようとしている可能性が、高いな。。。 なぜ、ブーメランという、謎の物体は、投げた者の元に戻ってくるのだろうか、、、 >>383
宋史 日本国伝 王年代記 これであなたも畿内説ではありません。 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、スレッドの残りが、まだ、あるので、
なぜ、ブーメランという、謎の物体が、投げた者の元に戻ってくるのかを、討論してスレッドを埋めていけば、良いな。 去年まで勤めていたアルバイトを再開することになったので、日本史の研究が疎かになってしまうな。。。 黄金週間は、東大寺が満員になるので、商業の人手が足りなくなるから、応援すれば良いな。。。 黄金週間になっても、纏向遺蹟は閑散としたままなので、着ぐるみをきて、宣伝すれば良いのではないのかな。。 黄金週間になっても、邪馬台国畿内説の宣伝が失敗した纏向遺蹟は閑散としたままという、真実がバラされたので、焦っているな。。。
393日本@名無史さん2019/04/19(金) 14:17:45.26
宣伝とか九州説が金目当てなのがよく分かるな >>394
黄金週間ではなくても、邪馬台国熊本説を宣伝しなくても、熊本地震があっても、熊本の御城下は商業が活発だね、、 スーパーは、なぜ、冷凍のタコ焼きを安く売りだすのだろうか。。。 >>381
>根拠は、今もって説明がないこと
今もって説明がない、という証拠は?
また「根拠を示さずに決めつけ」してますね
つまり、あなたの妄想です なぜ、ブーメランという、謎の物体は、投げた者の元に戻ってくるのだろうか、、、 >>781
>(陳寿90度回転さん)
○実際の里の6分の1でしかない短里が存在し、世界の辺縁でのみ(注記なく)使われていた。
○(注記なく)放射読み。 ○(注記なく)帯方郡起点。
○人口2重カウント(邪馬台国の人口は、行程記事の諸国を合わせた人口)。
○末盧国は松浦でなく、呼子に上陸。その後、文官長袖組の魏使たちは、山中を東南に向けて強行軍。
○大規模な古墳もないところに何故か邪馬台国が存在。
○AMS法は間違っている。較正しているけども、較正用の標本でなく資料の計測結果だけが標本とズレて間違っている。
(※追加がありましたらお願いします)
これらが全部成立しないと成立しない九州説と言うのは、
これはもう常識的に考えて『詰んでいる』としか言いようがないのではないですか?<
これらの〇が、全部九州説の曲解捏造である、というは、
これはもう常識的に考えて、「陳寿90度回転男=類スレ主」の脳が「詰んでいる」、
としか、言うようがないのではないですか?。 韓国政府が主導的に宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったが、スレッドの残りが、まだ、あるので、
なぜ、ブーメランという、謎の物体が、投げた者の元に戻ってくるのかを、討論してスレッドを埋めていけば、良いな。 そんな詐欺師の論法ばかり使っちゃ駄目よ
九州説の特徴は立証責任を相手に押し付けるところ
偽書事件の和田や古田の得意技 去年まで勤めていたアルバイトを再開することになったので、日本史の研究が疎かになってしまうな。。。 黄金週間は、東大寺が満員になるので、商業の人手が足りなくなるから、応援すれば良いな。。。 >>794
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
他人の言ってないことも捏造して
責任を追及する詐欺行為が
だーい好き
おかしな人たち。 黄金週間になっても、纏向遺蹟は閑散としたままなので、着ぐるみをきて、写真を撮って、インターネットの実行力で、世界に発表すれば、良い宣伝になるのではないのかな。。 >>798
夢みてもダメ
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて死んだ大和説は
蘇生しない >>405
税金を浪費する、邪馬台国畿内説を宣伝する学芸会は解散して、その分を、人気の高い着ぐるみの製作費や、中に入る係員や、宣伝の係員の給料にすれば、良いな。。。 >>406
そうだよな
一日を一月と書き間違える(と読めるように書いてしまう)事はあっても方角はないよな >>801
>>馬具と埴輪が出てきた古墳なら4世紀の後半以降の墓だね。<
>埴輪が出ると4世紀以降とか思っちゃう理由は説明できるかな?
それとも いつもの、何も説明できない無能の人のつぶやきかな?<
3世紀半ばの卑弥呼の墓が、(埴輪ではなく)、
「jun葬者奴婢百餘人」であったんなら、そりゃ殉葬の代わりに埴輪がある墓は、
4世紀頃、だろうねえ。 >>805
よくわからんが、昨日?登場した謎の「陳寿90度回転さん」とかはだれ?
「南→東」などの嘘付き騙しをして、
科学や学問や人類の常識を無視した大和説教義を流布してる人がいて
この掲示板にそれらを盲目的に信仰している人がいて
それで九州説には
結論を断定的に言うけど理由を聞かれても全く説明できない人
とかを、結論オンリーを街宣車みたいに喚き散らしてる
という構図のようであるな
死せる大和説・・・不健全なことだ 南無 >>397
大詐欺師をだまそうと計る小詐欺師の如くなり なぜ、ブーメランという、謎の物体は、投げた者の元に戻ってくるのだろうか、、、 ブーメランという、謎の物体は、元々は、天と地の隙間を、高く広げるための棒だったが、曲がってしまったので、投げ捨てたのだが、投げ捨てた者の元へ戻ってきた物体だったのでは、ないのかな。。。。 幣立神社で誕生した卑弥呼は、天照大御神として、祭られたのではないのかな。。。 幣立神社で誕生した卑弥呼は、女王になったので、熊本城と同じ場所に城を作製した可能性が、高いな。。。 248年に天照大御神が死んだのでは、4世紀後半に死んだ箸墓古墳に埋まっている天皇の娘との年齢差が、少なすぎるな。。。 幣立神社で誕生した卑弥呼は、天照大御神の何代後の人物だったのだろうか、、、 幣立神社、
これはこれは! まことに貴重な由緒正しき神社をご存知ですねえ、、、 公式ホームページを研究した結果では、天照大御神は、4世紀後半に死んだ箸墓古墳に埋まっている天皇の娘とは、12回の親子関係で繋がっているな。。。 箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4 箸墓古墳が374年頃に完成したのだから、箸墓古墳に埋まっている天皇の娘から、12回の親子関係で繋がっている天照大御神は、いつ頃、死んだか計算できるのではないのかな。。。 >>421
374.4ー21.6✕12=-115.2
天照大御神は、紀元前116年に死んだのだな。。。 >>814
>>(類スレ主は)AMS法に、誤差100年のデータがあった事を認めてしまっている。<
>あるに決まっている
放射性炭素の増加が崩壊速度に追いついてしまう時期というのは間歇的に実在する<
何だ?、大和説学者は、
そのようなAMS法の本質的な欠陥を知っていて、
その癖、AMSが絶対的な根拠になるかのような言い方をして来て、
国民を騙して来たのか?。
確かに宇宙線の増減とか、地球の温暖化などで、
ベータ崩壊が増減していた可能性がある。 ブーメランという、謎の物体は、元々は、天と地の隙間を、高く広げるための棒だったが、曲がってしまったので、投げ捨てたのだが、投げ捨てた者の元へ戻ってきた物体だったのでは、ないのかな。。。。 >>816
「南≠東」の否定:史料批判の放擲、歴史学からの脱落
「倭国から別れた別種の旧小国」の否定:史料の否定捏造
「東征毛人五十五國」の誹謗:史料事実の否定の新珍説
ダメだな大和説
死んでるよ いつも思うんだが、考古学者は何故掘り出したものを各自その都度異なる方法で測定するんだろうな。
根本的に分析、解析には向いてない人種なのかね。 僕達が、熊本地震をきっかけに、城の研究を始めてから、3年経ったな。。。 九州の陸上で、最初に記録された城は、魏志倭人伝に記録された、卑弥呼の城だったね。。。 >>819
>>筑紫のくびれが鈍角的な帆立貝型前方後円墳の那珂八幡などよりも<
> ガセネタ流しても無駄 <
Wikiと写真や各前方後円形状の図表を見ての推論だ。
>それ、ウソって 現説みた人全員知ってるから<
ダメだよ。
その「現説」とは「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・大和説学の説だろ?。
そんな説は、根拠になるもんか。 >>422
電卓が、計算を、間違えたのではないのかな、、、 >>829
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘に反論出来ずに、
感情的な反発で罵倒するだけの大和説ほど、
性根のあさましい物は無し >>426
畿内説は畿内説を支持してくれる所にしか測定依頼しないからね 天照大御神は、卑弥呼より、133年程、早く、産まれ、死んだ人物だったのだね、、 >>844
「南→東」などのような、
史料事実の否定曲解をする大和説の・・・・サギ学者らの、
「公式の報告書」に書いてある、なんて言い訳など、
何の反論にもならないし、
・・・・の罵りだけにしかならないよ。
そんな九州説が生き残れるほど
世間は甘くないよ
w >>437
>そんな九州説が生き残れるほど
>世間は甘くないよ
ザラコクも、たまにはイイこと言う >>430
このように、九州はウソをつく
いつまでも
どこまでも 卑弥呼は、天照大御神より、だいたい、6世代後の者だったのだな、、、 >>408
>
一日を一月と書き間違える(と読めるように書いてしまう)事はあっても方角はないよな
また「根拠を示さずに決めつけ」してますね
つまり、あなたの妄想です >>435
>畿内説は畿内説を支持してくれる所にしか測定依頼しないからね
また「根拠を示さずに決めつけ」してますね
つまり、あなたの妄想です >>848
>>「影1尺5寸」であれば、「1.45尺から1.55尺」の範囲だ、という意味であり、<
>「定規で測って15センチ」を、君は「14.5〜15.4cm」を指すと考えるのかい?
考えないだろ。 普通「14.95〜15.04cm」を指すと考えるもんだ。
なぜかわかるかい? それは定規が0.01cmまで読めるからだ。
分の目盛まである定規で測れば、厘まで読める。
だから「影1尺5寸」は「影1尺5寸0分」で「1.495尺から1.504尺」の範囲を指すのさ。<
ダメだ。
元周髀算経の計測値は1尺5寸と1尺6寸と1尺7寸と13尺5寸だから、
元周髀算経が使った「尺定規」の目盛りは、
「寸」の目盛りまでであった、という事にしかならない。
>>13.5尺の時の影の範囲は約0.45尺の差異になり、<
>よく考えなよ。
135cmの時の影の範囲は4.5cmの差異、と言ってるのと同じだぞ。<
13.5尺の尺定規なんてあるもんか。
普通は1尺定規であり、それに寸目盛りがあったのであり、
だから、夏至での計測差異量が、1.6→13.5倍(約8.4倍)に拡大される事になる、
と言ってんだよ。 >>851の訂正
現実には「南→東」や「畿内」などの嘘付き騙しの大和説側が
大和のみ実年代を古くしようと
3世紀末の石塚の庄内式を、3世紀前半とする起源説とか
愚にもつかない無駄な努力の珍説を発表して
国民の失笑を買っているのだが 天照大御神の弟は、スサノオノミコトではなかったのかな。。。 スサノオノミコトも、卑弥呼より、133年程、早く、産まれ、死んだ人物だったのだね、、 そもそも元周髀算経なんて偽書を捏造して論拠にしてる時点でダメだわな ヤマタノオロチ退治事件は、スサノオノミコトが、若い時の事件だった可能性が、高いな。。。 ヤマタノオロチ退治事件は、紀元後100年頃に発生した事件だという可能性が、急激に高まってきたな。。。 税金を浪費する、邪馬台国畿内説を宣伝する学芸会は解散して、その分を、人気の高い着ぐるみの製作費や、中に入る係員や、宣伝の係員の給料にすれば、良いな。。。 この低レベルなスレッドが、僕達が実行した、ヤマタノオロチ退治事件の究明で、少し、レベルが改善してきたな。。。 >>333
>戦争しまくってる最中に墓造ってる余裕があったのかねえ?
「倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。」
墓一つ作れないような状況ではないだろ?
卑弥呼には奴婢千人がついているような状態なんだし、実際に大作冢径百歩と書いてあるんだから、
戦争で墓が作れなかったとか言うのは、無理筋 紀元後100年頃、実行された、ヤマタノオロチ退治事件の作戦と、神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件の作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 >>338
>根拠を示さず決めつけているから、妄想なんだってば。
根拠はいちいち書いてあるだろ?ww
私一人で、九州説全員の50倍以上は根拠を書いてるぞ
そういう無駄な書き込みをやめて、意味のあることを書きなさいな 僕達が実行した、ヤマタノオロチ退治事件の究明で、少し、レベルが改善してきた、この低レベルなスレッドが、直後に実行された、レベルの低い意見の発表によって、また、レベルを下げてしまった。。。
454日本@名無史さん2019/04/19(金) 17:13:27.28
>>333
>戦争しまくってる最中に墓造ってる余裕があったのかねえ?
「倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。」
墓一つ作れないような状況ではないだろ?
卑弥呼には奴婢千人がついているような状態なんだし、実際に大作冢径百歩と書いてあるんだから、
戦争で墓が作れなかったとか言うのは、無理筋 >>339
>間違った前提を刷り込まれると、間違った答えにしかたどり着けないという見本だな。
それ、ザラコクに言ってやりなよww
九州説にゼロ距離で帰ってくるブーメランだぞww
>自分の頭で少しは考えろよ。
鏡に向かって言っているのかい?ww >>855
>>>13.5尺が「変な数字」ではない事は分かったかな?<
>>お前は、13.5尺は「変な数字だ、として、
否定抹殺しようとしていた、・・・・詐欺師であった事が判った。<
>忘れたの? 「変な数字」は132で、君が書いたものだよ。<
史料事実は13尺5寸であるんだから、私がそれを「変な数字だ」と否定する筈がないよ。
そういう文言が出たのであれば、それはおそらく、
類スレ主の論では「変な数字になる」と意味で言った場合。
>>>132 >周髀算経の冬至正午の8尺棒の影長が「机上の計算」であったのなら、
13.5尺なんて変な数字を書かないもの。<
ほら、「机上の計算」というような「変な事を言った」のは、類スレ主の方だった。 >>349
>「〜でよい」とか「が妥当」とか書いている部分だよ。
必ずその前に根拠が示してあるだろ?
根拠のない推論があったら、具体的に指摘して! >>457
その無理筋というのはお前の感覚で無理だという意味だよな? >>449
>そもそも元周髀算経なんて偽書を捏造して論拠にしてる時点でダメだわな
偽書じゃないよ
偽書は物理的に存在する、中身が虚偽の書だけれど、
元周髀算経はザラコクの脳内にしか存在しない架空物だからねww >>461
>その無理筋というのはお前の感覚で無理だという意味だよな?
根拠 つ「卑弥呼には奴婢千人がついているような状態なんだし、
実際に大作冢径百歩と書いてある」
魏志倭人伝の本文に書いてあるよww >>463
畿内説の場合、魏志倭人伝はデタラメだから信用しないんだよな? 九州説全員の50倍以上は根拠を書いてるぞ、とかいっても、
の可能性は否定できない・・
と同定できる・・
と言える・・
れ以外にはあり得ない・・
程度の推論推測可能性の自己申告ではねえ 挙句、不利と見るや、
三十六計逃げるにしかずのドロ〜ン学会ww 九州説は論拠を書かないので0である
そして0に50倍しても0にしかならない
ここに九州説と畿内説はどちらも論拠を書かない
という事が立証された >>463
そうかw
史書を信じるのかw
じゃあ邪馬台国は伊都国の南ってことだなwww >>456
どんなにたくさん書いても、証明されていない主観を根拠に積み上げているから、砂上の楼閣だ。
そういうのを妄想というんだよ。
結果、誰も納得させられずに畿内説への不信だけが増大する。 >>470
大宰府だね。
だからザラコクは平原遺跡ではなく祇園山なんだよ。
筋は通っている。 >>472
そういう推定は有りだな。
畿内説の想像による事実とは大違いw >>873
>>>(周髀算経の24節季における影長表)葢天説で作られた値なんだよ。
24気の影長これも計算だよ。<
>>夏至と冬至の測定影長を基準にして、
春分と秋分の影長も考慮して等分した表であり、十分に参考になる表だ。<
>119000里が、まずあった上での、作った数字だよ。<
いや、それらの数字の元になったのは、夏至と冬至の影長計測と、北極星の計測だ。
また、そのような「意図的に数字を造作」する時は、
1190000里というような、有効数字3桁数など造作せず、
有効数字1桁程度(せいぜい2桁まで)の数字を造作説明するものであり、
その事からでも、類スレ主の「造作」説は、×だ。
>「蓋天説」でググって、コトバンクの日本大百科全書(ニッポニカ)の解説に
解り易い図があるから、見てみなよ。<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者が関与した、と思われる解説図には、
関心がない。 >>473
ついでに言うと、畿内説が平原を200年頃で卑弥呼の没年より古すぎると言うのだが、その後の祇園山だとピッタリw
まあ、個人的には平原遺跡が3世紀中頃でいいと思うのだけれど(祇園山は壹與とか)。
ザラコクはザラコクで、一理あるんだよ。 大宰府を囲む巨大な羅城の存在が明らかになり、その遺構の木材の一部は炭素年代法で3世紀前半の卑弥呼の治世になったんだよね。
南の狗奴国との戦いのために大宰府の守りを固めていたとも考えられる。
邪馬台国側の大野城、基肄城はその一部を構成する。
狗奴国側の拠点は菊池城だろう。
魏志倭人伝にも、それらの地名が含まれていると言う見方もある。 >>890
>>類スレ主は、「磁界で曲げる」とも「ローレンツ力」も言っていなかった。<
>ちゃんと書いてあるねぇ 「邪馬台国畿内説 Part426」の676
『質量分析器でググって見ろって
電磁場で加速して磁場の中での曲がり方で質量差のある原子を分離するんだよ
同じ速度で同じ電荷の粒子が進行方向に対して垂直な一様磁場を通ると、
同じ大きさの力がかかるが、質量が異なると加速度が異なるから、曲率が変わる
それによって、原子一つ一つを質量別に分離できる 』<
ほら、ローレンツ力なんて言ってなかったし、
「磁界」とも言わずに「磁場」と言っていた。
そして、「磁場」なら電場との斥力と引力をもって電磁場を構成が不可分なものであるが、
「磁界」では、電場が無いものであり、意味が少し違うもの。 >>469
証拠はテンプレ
盲信でもなく無視でもなく
記事の信憑性を個別に斟酌している >>899
>記述と思う結論に合わせて架空の尺度である短里や古代のオーバーテクノロジーである高速船を開発するのが九州説のお仕事<
「南→東」などの嘘付き騙しように、
「万世一系皇国史観」に合わせて、史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをし、
架空の尺度である長里説や、不彌國から「南至邪馬壹國」の「至」の意味の捏造をしたりするのが、
大和説者のお仕事。 >>471
>どんなにたくさん書いても、証明されていない主観を根拠に積み上げているから、砂上の楼閣だ。
>そういうのを妄想というんだよ。
などと証明されていない主観を根拠に非難しているから>>471は妄想の人 つまり、このスレッドのテンプレートは、ゴミだったのだな、、、 >>483
僕達が、このスレッドのゴミテンプレートを、改造して、スレッドのレベルを上げてあげれば、良いのでは、ないのかな。。。 >>906
>>同じところから出た桃の種ですら推定年代がバラバラなくらい、
炭素年代法の信頼性は低い。<
>どこが? 揃ってるよ?・・・
「奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争」・・・
より引用 <
類スレ主は、
「崩壊よりも生成の方が多かった時期もあったから、100年位の差異が発生する」
と言い訳していた。 このスレッドのゴミテンプレートの弱点は、紹介された考古発見物体が、いつ作製され、いつ埋まったものなのかの、日本国民を信用させる証拠が、完全に抜け落ちていることでは、ないのかな、、、 那珂比恵地域という、地域は、魏志倭人伝とどのような関係性が、あるのだろうか、、、 >>486
このスレッドのゴミテンプレートの弱点は、紹介された考古発見物体の説明が、魏志倭人伝時代の倭国とは、関係がないのに、発表されていることでは、ないのかな、、、 >>484
僕達が、このスレッドのゴミテンプレートに散りばめられている下手な嘘を、改造して、上手な嘘を散りばめ直し、すぐには破綻しないようにスレッドのレベルを上げてあげれば、良いのでは、ないのかな。。。 紀元後100年頃、実行された、ヤマタノオロチ退治事件の作戦と、神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件の作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 ヤマタノオロチは、真実の絶対的な悪だったのだろうか。。。 税金を浪費する、邪馬台国畿内説を宣伝する学芸会は解散して、その分を、人気の高い着ぐるみの製作費や、中に入る係員や、宣伝の係員の給料にすれば、良いな。。。 天照大御神の弟は、スサノオノミコトではなかったのかな。。。 しかし幾内にもともとあった国が大和朝廷にあった言うなら
なんで神話で「日向から来たんやで」みたいな伝承残したん?
教えてエロい人
・むしろ「九州もん気にくらんから遠征していてこましたわ近畿最強!」
とか
・宮崎?あんな田舎と一緒にすんな先祖は都会の福岡(筑紫)じゃ
とかの伝承にしたほうが良かったんじゃ…? 頭の劣っている者は、頭の優れた者に出会ったら、頭の優れた者が忘れてしまうまで、実行を停止した方が、良いのではないのかな。 >>499
筑紫の日向は福岡県西部
宮崎県にしてしまうのは後世の誤解 >>471
>証明されていない主観を根拠に積み上げているから
その「証明されていない主観」というのが、「>>471の主観」でしかないww
例えば「魏志倭人伝に実際に『大作冢、徑百餘步』と書いてある」というのは
「証明されていない主観」じゃないだろ?ww
そして「実際に『大作冢、徑百餘步』と書いてある」以上は、
「狗奴国との戦争で大きな墓を作る余裕はないだろう」というのは無理筋だってのは
正当な推論だww >>472
>だからザラコクは平原遺跡ではなく祇園山なんだよ。
でもザラコクは、祇園山より平原1号墓の方が後だって言うんだぜww
弥生時代の方形周溝墓が、段築葺き石を備えた古墳時代の方墳よりも新しいはずがないだろう?ww
>筋は通っている。
筋が通っているどころか、整合性全無視だよ
その場しのぎのチェリーピッキングの積み重ねだから、
全体の整合性がまるでないデタラメにしかならないww
>>472も同じ民族だろww >>908
>纏向遺跡説じゃなくて、畿内説だよ <
畿内なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
>7世紀までずっと、それぞれの年代で倭国最大の前方後円墳は畿内に作られ続ける<
別種の旧小国に大和は、白村江で大敗した「母国の九州倭国」を併合吸収継承して、
701年にに「大宝」を建元して初めて倭地の盟主になった。 頭の劣っている者は、頭の優れた者に出会ったら、頭の優れた者が忘れてしまうまで、実行を停止した方が、良いのではないのかな。 >>475
>平原を200年頃で卑弥呼の没年より古すぎると言うのだが、その後の祇園山だとピッタリw
こいつもとことんデタラメ野郎だな(呆れ)
祇園山は段築葺き石を備えた古墳時代の方墳だから、箸墓古墳よりも新しいんだぞw
段築葺き石は、箸墓で定形化した特徴だ
箸墓古墳は4世紀だって一生懸命九州説は言ってるのに、それより新しい祇園山が
卑弥呼にぴったりな訳がないだろうww >>476
>その遺構の木材の一部は炭素年代法で3世紀前半の卑弥呼の治世になったんだよね。
そのデータどこにあるのか教えて? >>917
>邪馬台国の「台」の字は気にするくせに、
「余」は「餘」じゃなきゃいけないとは言わないし、<
意味や内容が変わらなければ、「×」と言わない。 >>479
こういうのを見るだけで、ザラコクがデタラメ野郎で
物理学がまったく分かってないバカだって分かるだろ?
磁場と磁界が違うとか、磁界の中で曲がるのがローレンツ力と書いてないとか
言い訳にすらなっていない
これで理系の大学院卒だって自称してるんだぜww
学歴詐称もいいとこww
>>472とかもザラコクを擁護するっていうのはザラコクと同じレベルまで自分の立ち位置を
貶めることだって気付けるといいねww 今日は、なぜ、呟き荒らしが発生しなかったのだろうか、、、 >>915
>>記載もしていない。<
>はい、言質を再びいただきましたww
魏志倭人伝には、実際の地理上の最終目的地の方角は
「記載もしていない」で確定です!!!!!<
これもまた・・・・詐欺師の類スレ主は、
前後の文をこっそり外して、「言葉尻」を切り取って、
その言葉尻の意味を曲解して、
その曲解で相手を誹謗しているようだね。 >>485
>「崩壊よりも生成の方が多かった時期もあったから、100年位の差異が発生する」
これ、ザラコクには何のことだか分かってないだろww
分かってたらこんなことは恥ずかしくてとてもじゃないが書けないよなww >>488
>那珂比恵地域という、地域は、魏志倭人伝とどのような関係性が、あるのだろうか
魏志倭人伝の奴国二萬戸の中心集落=国邑だよ 邪馬台国畿内説が 破綻してしまったのは、何故なのだろうか、、、 >>499
>なんで神話で「日向から来たんやで」みたいな伝承残したん?
この手のことは、想像以上のことはできないよ
情報量が少なすぎるからね
仮説としておもしろいのは、卑弥呼の共立の時に九州勢の賛同を得やすいように
祖先に九州から来た人(神武)がいることが強調されたんじゃないか、というもの >>917
>だから、南至邪馬壹國の「南」は
「実際の地理上の最終目的地の方角」である『確率』は
ザラコク氏本人の史料解釈、史料批判により『かなり低い』ことが確定であります <
「南至邪馬壹國女王之所都」の「至」は、「出発から到着までの全移動」を示すもの。
従って、「「南至=」は不彌國出発から邪馬壹國到着まで「南へ行った」事になり、
従って「東」へは行っていなかったことになり、
従って、大和説も類スレ主も×。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。 >>918
>>夏至正午の8尺棒の影長の誤差の範囲から計算される冬至正午の8尺棒の影長範囲に、
13.5尺という測定値が入っていれば、
13.5尺は、測定値であった、と十分認められる。<
>「入っていれば」その場合「 十分認められる」のだな?
では、入っていることを証明してくれ <
もう2〜3回、計算を説明しておいた筈だから、
自分で探せ。 >>922
>>史書を無視して歴史を捏造するのは良くないぞ。<
>もちろん 畿内説が史書を無視したことなど一度たりとも無い<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの文言だから、
類スレ主は、中国史書を無視しているし、
「南至〜」を「東至〜」というような嘘吐き騙しをしているから、
類スレ主は、史書を無視している 。 >>506
>頭の優れた者が忘れてしまうまで、実行を停止した方が、良いのではないのかな。
それを地で実践しているのが、ザラコクと連続句読点
ザラコクは再反論を受けにくいように周回遅れで前スレにコメントする
連続句読点はひたすらスレを速回しして話題が流れるようにする
でも、頭の優れたものは忘れたりしないんだよなw
どうやってもデタラメはデタラメだと指摘されてしまうww >>925
>>真実の出雲は、どこにあったのだろうか、<
>これは案外面白いテーマで、出雲大神宮がある京都府亀山の元出雲と呼ばれる辺りが、
もともとの出雲だと言う人もいる <
出雲風土記の「国引き神話」あり、
綱や船を使って新羅や沿海州方面や高志から国引きをしているから、
海岸地であり、現在の出雲付近であった可能性が高い。
また出雲の呼称なら大和にもあった筈。 >>509
>意味や内容が変わらなければ、「×」と言わない。
現代の日本語での議論において、邪馬臺國と邪馬台国は意味も内容も変わらないぞww
ご都合主義ダブスタ乙w >>915
>これもまた・・・・詐欺師の類スレ主は、
>前後の文をこっそり外して、「言葉尻」を切り取って、
じゃあ、前後も含めて引用してあげよう
「魏使らは、「末盧國から伊都国の方角」なんて、当然知らなかったし、
記載もしていない。」
魏志倭人伝には、実際の地理上の「末盧國から伊都国の方角」つまり最終目的地の方角は
「記載もしていない」で確定です!!!!!
つまり、南至邪馬壹國の「南」は
「実際の地理上の最終目的地の方角」である『確率はかなり低い』ことになりますww
「南≠東」の根拠は永久的に失われましたww >>512だな ごめん
>これもまた・・・・詐欺師の類スレ主は、
>前後の文をこっそり外して、「言葉尻」を切り取って、
じゃあ、前後も含めて引用してあげよう
「魏使らは、「末盧國から伊都国の方角」なんて、当然知らなかったし、
記載もしていない。」
魏志倭人伝には、実際の地理上の「末盧國から伊都国の方角」つまり最終目的地の方角は
「記載もしていない」で確定です!!!!!
つまり、南至邪馬壹國の「南」は
「実際の地理上の最終目的地の方角」である『確率はかなり低い』ことになりますww
「南≠東」の根拠は永久的に失われましたww >>950
>>会稽東治≠会稽郡だから、×。
>会稽東治は会稽郡の中にあるんだよ 稚拙な言い訳は通らない <
「会稽東治は会稽郡の中にある」んなら、
「会稽郡之東」でよい筈であり、「東治」なんて要らない事になるから、
会稽東治は会稽郡の中にはない。
おそらく、「夏后少康之子封於會稽」の頃の会稽の東方の「治」所地域。 >>516
>仮説としておもしろいのは、卑弥呼の共立の時に九州勢の賛同を得やすいように
>祖先に九州から来た人(神武)がいることが強調されたんじゃないか、というもの
キナイコシの言い訳が面白すぎるw
では他の地域は虫でいいのか? >>517
>「南至邪馬壹國女王之所都」の「至」は、「出発から到着までの全移動」を示すもの。
それはないな、ザラコク理論に従うとww
「出発(帯方郡)から到着(邪馬壹國)までの全移動」のうちで、
途中の『「末盧國から伊都国の方角」なんて、当然知らなかったし、 記載もしていない』のだから
「出発(帯方郡)から到着(邪馬壹國)までの方角」も魏使らは
当然知らなかったし記載もしなかったことにしかならないww
つまりは「南」は「出発時の出発方向でありほぼ正しい」だけだww
最終目的地の方角が南かどうかはまったく分からない訳だwwww >>528
>では他の地域は虫でいいのか?
他の地域はその前から卑弥呼の共立で同意してたんだろ
ただ、この手のネタは情報量が少なすぎて想像以上のことはできないんだから、
反論してもムダだぞ
こちらも史実を提示している訳じゃないんだから >>954
>通称が魏志「倭人」伝であることを理解できていないね?
倭が民族名で、まだ国号でない段階ということだ <
いや、魏志は、
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」と、
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年」と、
「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金・・・」の、
3か所で「倭國」の呼称を書いている。 >>958
>伊都は怡土どまり、邪馬台国はその南にあったということが文献学的に示されている<
邪馬台国なんて存在もしな嘘吐き騙し文言であるから、×であり、
また、邪馬壹國女王之所都は不彌國の南であり、伊都国南ではないから、×。 別に右翼、左翼・・・愛国・・・?
というわけではないんだけど
神(三貴子)のほうが上でしょ、
日本人なら誰でも知っているはず >>445
>ダメだ。
>元周髀算経が使った「尺定規」の目盛りは、
>「寸」の目盛りまでであった、という事にしかならない。
商代に分目盛の定規があるのだから、そんなことはない。
周尺が19.9cmなら寸は19.9mm。
寸目盛では粗すぎるだろ。
>13.5尺の尺定規なんてあるもんか。
>普通は1尺定規であり、
8尺棒があるのに、何言ってんだ?w
>それに寸目盛りがあったのであり、
>だから、夏至での計測差異量が、1.6→13.5倍(約8.4倍)に拡大される事になる、 と言ってんだよ。
8尺棒だと5倍になるのか?w
使いものにならない8尺棒だなw
「ぼくの考えた計測」では、誰にも通用しないぞw >>459
>>忘れたの? 「変な数字」は132で、君が書いたものだよ。<
>史料事実は13尺5寸であるんだから、私がそれを「変な数字だ」と否定する筈がないよ。
>そういう文言が出たのであれば、それはおそらく、
>類スレ主の論では「変な数字になる」と意味で言った場合。
言い訳だな。
>ほら、「机上の計算」というような「変な事を言った」のは、類スレ主の方だった。
違うね。君は次の様に書いた。
446の7で「有効数字は13尺位であり、ほぼ有効数字2桁位。」
446の132で「13.5尺なんて変な数字」
つまり君は「有効数字2桁位」に合致しない「13.5尺」の5寸を否定するために
「変な数字」と言ったんだよ。 >>474
>>119000里が、まずあった上での、作った数字だよ。<
>いや、それらの数字の元になったのは、夏至と冬至の影長計測と、北極星の計測だ。
>また、そのような「意図的に数字を造作」する時は、
>1190000里というような、有効数字3桁数など造作せず、
>有効数字1桁程度(せいぜい2桁まで)の数字を造作説明するものであり、
これ全部、君の勝手な思い込みだろ。「造作する時は」以降は特に。
>その事からでも、類スレ主の「造作」説は、×だ。
別に私の説では無いし、君のお仲間以外は皆、計算値だと分かってる。
>「蓋天説」でググって、コトバンクの日本大百科全書(ニッポニカ)の解説に
解り易い図があるから、見てみなよ。<
>「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者が関与した、と思われる解説図には、 関心がない。
だったら盖天说について本家本元の中国のサイトでも調べればいいだろ。
見たくないんじゃ、《周牌算經》について無理解のままだ。 >>527
>「夏后少康之子封於會稽」の頃の会稽の東方の「治」所地域。
それがまさに会稽山のお膝元のこの地域なんだよ
会稽郡はここ
https://i.imgur.com/2TlH5Tg.jpg
九州との位置関係をよく見てごらんww
https://i.imgur.com/1CmWD40.jpg お前たちの話、
書き込みなんて相手にされていないんだけどな
なぜだと思う? 今日(もう昨夜か)は口を開けば必ずブーメランになるアッポーくんの存在が秀逸だった
最高に笑えた >>82
>庄内3式の後に来るのは、布留1式であり、布留0式ではないと何度言えば!
布留0式は庄内期に出土する布留式の特徴を先取りした土器だ
編年上は、庄内3式期の内部に当たる<
ダメだ。
布留と庄内とは、壁厚みや技法に拠って明らかに区別でき、布留は庄内の改良型だ。
だから、同じ遺跡で庄内と布留が共存していたら、
その遺跡や地域の年代は布留の年代である事になる。
従って、布留がなくて、庄内1の石塚や、纏向の土坑の庄内3や、河内の庄内3よりも、
布留の存在するホケノや箸墓の方が新しい、という事になる。 >>83
捏造はいかんね。「南→東」などの嘘吐き騙しのの大和説者は、常に捏造する。
>基本的に、弥生時代に漢委奴國王が居たのは北部九州 古墳時代に倭国の中心なのは畿内<
倭国は唐会要倭國伝の「正北抵新羅」の認識に拠って、九州であり、
それが唐代まで実在していた。
また「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国の「倭国の附庸国」であり、
九州倭国からは、半分独立的な国であった、というだけ。
ここで既に大和説者は捏造が一杯。
>でも結局、編年研究が進んで邪馬台国の3世紀が既に古墳時代だとなった時点で
九州説は死んだんだよ<
この「邪馬台国」というのも、存在もしない嘘つき騙し文言であり、
更に、大和説学者は、「南≠東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しをしており、
卑弥呼の墓は「冢」であって、前方後円墳ではなく、
前方後円墳は、西晋武帝の(周髀算経に書かれた)「天円地方」思想の教唆に拠って、
3世紀後半半ば頃の那珂八幡などから始まって、
大和の撥型前方後円墳の始まりの石塚は、3世紀末になってしまう、
という事も隠蔽している。 なんだ なんだ このスレは
>>1を馬鹿にするスレ? >>85
>土器編年をしているのがそれぞれの地域の学術調査をしている学者で、
学者には九州説がいないということ<
長年の「皇国史観の文部省の支配」に拠って、
大学や公的研究機関の教授クラスの人間がほぼすべて、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者に占められ、
新たに入局した若手も、全て、
文部省や教授クラスの権力に負けて従順な負け犬になり、
その若手が教授クラスになって、嘘吐き騙しの大和説を、
新たに入局した若手を強制しているんだから、
現在に大学関係の学者は、ほぼ全て、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・ばかり。 吉本新喜劇じゃないだろうか
530日本@名無史さん2019/04/19(金) 23:32:48.14
>>528
>では他の地域は虫でいいのか?
他の地域はその前から卑弥呼の共立で同意してたんだろ
ただ、この手のネタは情報量が少なすぎて想像以上のことはできないんだから、
反論してもムダだぞ
こちらも史実を提示している訳じゃないんだから >>544
これも全部また「根拠を示さずに決めつけ」してますね
つまり、あなたの妄想です 一般人から見たら明らかに狂気のザラコク
嗜めるどころか尻馬にのる九州説有象無象
こうして九州説の破滅を晒す広告塔が
日々高々と醜態をさらし
畿内説はほくそえむ まったくね
「
長年の「皇国史観の文部省の支配」に拠って、
大学や公的研究機関の教授クラスの人間がほぼすべて、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者に占められ、
」
なんて大声で毎日演説してくれるザラコクは
九州説の信用を
地に墜としてくれる
まっこと得難い人材だよ >>546
かといってそのようなあからさまに間違っていそうな話を紹介されてもねえ。
そもそも普段から畿内説はそのような言い訳がましい話が多くて、またかよという感じだな。 >>554
>そもそも普段から畿内説はそのような言い訳がましい話が多くて、またかよという感じだな。
言い訳がましい話?
また「根拠を示さずに決めつけ」してますね
つまり妄想です >>555
まあ、そう思われないように気をつけることだな。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。 この5ちゃんねるのスレッドは、議論で完全に負けた、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、すぐにバレてしまう嘘を言い放つしか無くなってしまったのだが、
僕たちが、他の、邪馬台国に関する、5ちゃんねるとは別の、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしているときに、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの、脳があるのか、無いのか、不明の、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、疲れたときや、
お腹が減って、眠れない時に、
このレベルの低いスレッドの、脳があるのか、無いのか、不明の、邪馬台国畿内説の宣伝係員の言い放つ、すぐにバレてしまう嘘を読んで、笑い、リラックスして、眠るために、必要なので、
このスレッドの邪馬台国畿内説は、ギリギリで叩きつぶすことは、やめて、残しておけば、良いな。 九州説は何の意味もない書き込みして荒らすだけの存在に落ちぶれた 4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説を宣伝している、韓国政府や観光業界や田舎学芸会は、天皇家の公式出版物体を、否定する運命共同集団なので、日本国民から憎悪されているな。。。 去年まで勤めていたアルバイトを再開することになったので、日本史の研究が疎かになってしまうな。。。 >>556
w
妄想くんの捨て台詞か・・・
これが九州説の醜さだ 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。 後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな? 荒らす事によって九州説は説でも何でもないただの荒らしという事を自ら宣伝してまわる九州説 >>563
黄金週間は、東大寺が満員になるので、商業の人手が足りなくなるから、応援すれば良いな。。。 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。 毎年、黄金週間になっても、纏向遺蹟は閑散としたままなので、着ぐるみをきて、写真を撮って、インターネットの実行力で、世界に発表すれば、良い宣伝になるのではないのかな。。 >>566
倭国大乱 桓霊の間で146年 - 189年 >>570
税金を浪費する、邪馬台国畿内説を嘘で宣伝する学芸会は解散して、その分を、人気の高い着ぐるみの製作費や、中に入る係員や、着ぐるみのショーの宣伝の係員の給料にすれば、良いな。。。 頭が悪い者だけが作りだす文章では、ないのかな、、、
567日本@名無史さん2019/04/20(土) 09:12:31.78
荒らす事によって九州説は説でも何でもないただの荒らしという事を自ら宣伝してまわる九州説 文章の作製方法を、間違えている可能性が、あるな、、、
567日本@名無史さん2019/04/20(土) 09:12:31.78
荒らす事によって九州説は説でも何でもないただの荒らしという事を自ら宣伝してまわる九州説 文章の作製方法を、間違えているので、読後感が良くないのでは、ないのかな、、、
567日本@名無史さん2019/04/20(土) 09:12:31.78
荒らす事によって九州説は説でも何でもないただの荒らしという事を自ら宣伝してまわる九州説 去年まで勤めていたアルバイトを再開することになったので、日本史の研究が疎かになってしまうな。。。 >>575
頭か目がおかしくて文章もロクに読み取れない九州説 税金を浪費する、邪馬台国畿内説を嘘で宣伝する学芸会は解散して、その分を、人気の高い着ぐるみの製作費や、中に入る係員や、着ぐるみのショーの宣伝の係員の給料にすれば、良いな。。。 >>580
という根拠は?
根拠を示せないのは、妄想である証拠
ww >>571
しかし魏志倭人伝にはそのような東遷の記事がないのだよ。 根拠を示せないこのスレッドのゴミテンプレートが、妄想であることが、バレ、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、
このスレッドでは、韓国人が作製した文章の、何処がおかしいのかを、討論すれば良いな。
567日本@名無史さん2019/04/20(土) 09:12:31.78
荒らす事によって九州説は説でも何でもないただの荒らしという事を自ら宣伝してまわる九州説 >>126
>テンプレにもあるとおり、
「布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない」が正解<
庄内と布留は壁厚や形態で明らかな差異があり、
実年代も庄内よりも布留の方が明らかに後であり、
だから、同一遺跡に庄内と布留が混在しておれば、その遺跡の年代は布留になる。 つまり、このスレッドのテンプレートは、ゴミだったのだな、、、 九州説には政治思想的に変な人が多いな
根拠はザラコクの「皇国史観の文部省」連呼や
連句読点の「韓国」 >>587
僕達が、このスレッドのゴミテンプレートを、改造して、スレッドのレベルを上げてあげれば、良いのでは、ないのかな。。。 このスレッドのゴミテンプレートの弱点は、紹介された考古発見物体が、いつ作製され、いつ埋まったものなのかの、日本国民を信用させる証拠が、完全に抜け落ちていることでは、ないのかな、、、 紀元後100年頃、実行された、ヤマタノオロチ退治事件の作戦と、神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件の作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 >>585
基礎知識のない人が思いつきを連呼しても
自分の評判落とす以外の効果はない
これ、経験則 >>590
僕達が、このスレッドのゴミテンプレートに散りばめられている下手な嘘を、改造して、上手な嘘を散りばめ直し、すぐには破綻しないようにスレッドのレベルを上げてあげれば、良いのでは、ないのかな。。。 税金を浪費する、邪馬台国畿内説を嘘で宣伝する田舎学芸会は解散して、その分を、人気の高い着ぐるみの製作費や、中に入る係員や、着ぐるみのショーの宣伝の係員の給料にすれば、良いな。。。 このスレッドのゴミテンプレートの弱点は、紹介された考古発見物体が、いつ作製され、いつ埋まったものなのかの、日本国民を信用させる証拠が、完全に抜け落ちていることでは、ないのかな、、、 根拠を示せないこのスレッドのゴミテンプレートが、妄想であることが、バレ、韓国政府が宣伝してきた邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、
このスレッドでは、韓国人が作製した文章の、何処がおかしいのかを、討論すれば良いな。
567日本@名無史さん2019/04/20(土) 09:12:31.78
荒らす事によって九州説は説でも何でもないただの荒らしという事を自ら宣伝してまわる九州説 >>582
倭国大乱と書いてあるだろ
記紀には神武東征の故事も載っている
これによって150〜190年ごろに東征がなかったとは言えなくなる などと根拠が示せない九州説が
妄想で中傷しているな >>597
言えないな
倭人伝には軍事的な方法で解決したのではないと
明記されているのだから >>599
大乱は軍事的大乱だろどう考えても
口ゲンカなんかじゃなくて
それに軍事的な方法で解決したんじゃないから大乱はないとは
どういう考えだ >>600
だれか「大乱はない」って言った?
だから九州説は正常な人間がいないと言われる >>594
天皇、皇帝・・・など、
着ぐるみの話でしょ、頭の良い人は気づいている
着ぐるみを脱ぎ捨てたとき・・・、
せめて人間らしく?人間だもの?獣?不明 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。 税金を浪費する、邪馬台国畿内説を嘘で宣伝する田舎学芸会は解散して、その分を、人気の高い着ぐるみの製作費や、中に入る係員や、着ぐるみのショーの宣伝の係員の給料にすれば、良いな。。。 官位、爵位など?・・・こういうのも同じ
そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ、
なんで知っているんだろう 邪馬台国畿内説の宣伝係員が、壊れたレコーダーのように、壊れてしまった。 >>597
畿内説は神武東征がないと成り立たないもんな。
でも、神武らがいなくなった後の九州はどうなったのか。
それこそ邪馬台国なのではないか。 紀元後100年頃、実行された、ヤマタノオロチ退治事件の作戦と、神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件の作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件は、何時、発生したのだろうか、、、 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。 >>602
オラは畿内説だ
まあ畿内説でも東征があったかどうかは意見が割れるな
おれは魏志倭人伝にある倭国大乱がそうだったと思う立場
>>611
神武が居なくなる前も後も九州は奴国や伊都国だろ 神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件は、何時、発生したのだろうか、、、 九州説が完全に破綻して崩壊したことを
懸命に宣伝して拡める
九州説の皮肉 >>617
>まあ畿内説でも東征があったかどうかは意見が割れるな
割れない
誰も東征を認めてない 『自転車泥棒 曲』
むかーしCD持っていたし、偶然なのかな?
亀やぷし・・・とか
カメがいるよ・・・・という話でしょ?
うらしまん? 神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件は、何時、発生したのだろうか、、、 >>617
神武が出発する前は筑紫が倭国の王都だろ。
日向三代の男王70〜80年の時代があったし、金印をもらっている。 この5ちゃんねるのスレッドは、議論で完全に負けた、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、すぐにバレてしまう嘘を言い放つしか無くなってしまったのだが、
僕たちが、他の、邪馬台国に関する、5ちゃんねるとは別の、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしているときに、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの、脳があるのか、無いのか、不明の、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、疲れたときや、
お腹が減って、眠れない時に、
このレベルの低いスレッドの、脳があるのか、無いのか、不明の、邪馬台国畿内説の宣伝係員の言い放つ、すぐにバレてしまう嘘を読んで、笑い、リラックスして、眠るために、必要なので、
このスレッドの邪馬台国畿内説は、ギリギリで叩きつぶすことは、やめて、残しておけば、良いな。 俺は東征はあったと思うよ
西暦50年頃は金印が見つかり後漢書に奴国が朝貢しにきたとあるように
九州が勢力を持っていた
そして魏志倭人伝に桓霊の間、146〜189年に倭国大乱
そして西暦200年前半ぐらいから畿内は銅鐸祭祀が鏡祭祀に切り替わり
前方後円墳も作られ始めたりと様変わりする 神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件は、何時、発生したのだろうか、、、 >>189
>>(旧唐書日本國伝)東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。<
>つまり「東征毛人五十五国」したのは畿内に都のある日本(=倭)の大王だね <
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
「東征毛人五十五国」は倭國王の武の上表であり、
大和日本国の王ではない。 『そんなの関係ねえ』
パトラ?と同じような画像が出てきたり >>623
後漢書と魏志倭人伝にある奴国だろ
邪馬台国とは書かれてないなあ 4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説を宣伝している、韓国政府や観光業界や田舎学芸会は、天皇家の公式出版物体を、否定する運命共同集団なので、日本国民から憎悪されているな。。。 神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件は、何時、発生したのだろうか、、、 『はに丸王子』
・・・・・・あの人物でしょ?
寒いな〜・・・・・・・・・・
と言ってる人、べつに言ってるわけではないのかな? >>191
>「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」日本考古学 / 2005 年 12 巻 20 号 p. 47-73
田中 元浩 ここからダウンロードできるから読んでごらん・・・<
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しを使った田中元浩は、
それだけでも嘘つき騙しの・・・・詐欺師である事がバレバレなので、
読まないよ。 >>626
倭人伝には大乱が戦争で解決したのではないことが明記されている >>620
>割れない
>誰も東征を認めてない
専門家は、神武の東征を「歴史的事実しては」想定しない
素人では、何らかの史実の反映であろうと考える人も少なからずいる
なので、畿内説は「神武の東征を必要としない」くらいが正しいところじゃないかな 神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件は、纒向遺蹟が、作製される前に発生した可能性が、高まってきたな、、、
634日本@名無史さん2019/04/20(土) 11:32:56.93
>>625
纏向遺跡に痕跡がない 神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件は、何時、発生したのだろうか、、、 >>623
>金印をもらっている。
でもその印の号は、漢委奴國王であって、倭王ではない
まあ、ローカル首長が朝貢のお返しに金印をもらっただけだよ
大陸からすれば、属国認定されたってだけ 数年前の、とある
「宣伝しているんだろう」
「国だか、何かが宣伝してるんだよなwwww」みたいな事を言ってる人がいたり >>636
そうだな
倭国大乱があって終結後も争いが治まらなくて
そのために卑弥呼が共立されたとあるな
記紀にも同様に神武東征は一方的に征服したのではなく
苦戦の末最終的には和合に近い形で終結したと載っている 『ザ・モモタロウ』
サルタというキャラもいるでしょ?
『はに丸王子』
画像を検索してみて >>194
>>>(類スレ主)円墳や帆立貝型、方墳は、盟主墳の墳形には採用されない<
>>こりゃまた、全くインチキ騙しだな。<
>反論は具体的にって何度も教えてるだろ?
この場合は「円墳や帆立貝型、方墳が、盟主墳となっている古墳群」を例示できれば
きちんとした反論になる あったら教えておくれ! できるものならな!ww <
祇園山は「四隅円弧の類方墳」だし、
筑紫の那珂八幡などは帆立貝型だし、
久留米には円墳もあった。 >>635
>「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しを使った田中元浩は、
>それだけでも嘘つき騙しの・・・・詐欺師である事がバレバレなので、
>読まないよ。
現代の研究者が、現代の地名で研究対象の範囲を示しただけ
ザラコクの主張は「3世紀には畿内なんてない」じゃなかったのか?ww
現代には、日本の近畿地方の一角を示す言葉として「畿内」は存在してるだろ?
ザラコクのパソコンで、「きない」と打つと「畿内」にかな漢字変換してくれないのかい?
グーグルか何かのサーチエンジンで「畿内」を検索しても、何もヒットしないのかい?
ザラコクさんは、何処の平行世界にお住まいで?wwwwwww
そうやって、きちんとした研究成果を「見ない」「聞こえない」「認めない」ってやってるから、
整合性のないぼろぼろの穴だらけの妄説をいまだに主張できるんだよw
まともな知識を持ってたら「九州説を信じています」なんて恥ずかしくて言えないぞww 神武天皇は、紀元374年に箸墓古墳を作製した崇神天皇の、9回の親子関係で繋がっている、先祖だね、、、
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4 >>642
>苦戦の末最終的には和合に近い形で終結したと載っている
それは事実でない
兄弟や義兄弟の片方が殺され、片方が恭順する
服属であって和合ではない >>634
>纏向遺跡に痕跡がない
神武の東征を認める立場でも、神武の東征と卑弥呼の時代・纏向の建設では、
年代が違うから、纏向遺跡に神武東征の痕跡がないのは当たり前だと思うけど? 神武天皇による奈良盆地侵略事件は、紀元180年頃に実行されたのだな、、、 >>647
ん?天の羽々矢を見せ合って同属だったという事になり
それでもナガスネヒコが神武との戦いをやめないから
味方のニギハヤヒに殺されて終結したとある
これは一方的征服ではなく軍門には下るが話し合いに近い終結ではないかな >>644
>祇園山は「四隅円弧の類方墳」だし、
祇園山古墳は方墳
>筑紫の那珂八幡などは帆立貝型だし、
那珂八幡古墳は最近の調査で、通常の纏向型前方後円墳より
前方部が長いという報告が出たところ
後円部径:前方部長が
纏向型では2:1(=8:4)
那珂八幡では8:5
帆立貝だという人はいない
例えば帆立貝式の男狭穂塚古墳は後円部径が132メートル、前方部長さが40メートル
比にすると33:10、比較しやすいように少し丸めると8:2.5くらいになる
>久留米には円墳もあった。
盟主墳ではない序列下位の墓では、近畿地方でも円墳はたくさんあるよww 偶然にしては・・・・、あの写真でしょ?
キュウリのような葉が写っていて・・・・、
黄桜、かっぱ・・・? >>653の補足
だから、祇園山古墳、那珂八幡古墳、久留米の円墳では、
那珂八幡古墳だけが地域の盟主墳であり、奴国首長の墳墓だと想定されている訳だ >>196
>>「祭祀用供献土器が共通化」も、原則は、「同じ部族の祭祀形態」を示すんだよ。<
>するってぇと、九州奴国と大和や河内は同じ部族なんだな! <
倭奴國と大和は同じ「阿毎氏」であった事は判っているが、
奴國は、阿毎氏であったのか?は絶対性がないく、
どちらと言えば、伊都国の方が阿毎氏であったようだ。
勿論邪馬壹國も阿毎氏系であった可能性があるが、
共立された卑弥呼は、
(一旦阿毎氏系と合同したようだが)どちらかと言えば姫氏系であり、
その宗女の壹與はどちらかと言えば阿毎氏系だ。
>そして同じ部族の中で最大の墳墓がある所がその部族の王の居所=宮都の所在地だw<
ならん。
大和は、倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
その後、伊都国系の阿毎氏の「東征毛人」将軍の支配下になった事になる、
というだけだ。 本当に何の写真なんだろう、
はに丸君のような画の人物がいるでしょ
馬、手に扇のようなものを持っている人物
同じ家の写真 畿内説は中傷だけの存在、だからみんなから無視される >>658
じゃなくて
応答したら
九州説は確実に論破されてしまってきたさから
とうとう九州説は対話を拒否して現実逃避するようになっただけでしょ >>648
>年代が違うから、纏向遺跡に神武東征の痕跡がないのは当たり前だと思うけど?
年代が違うって、具体的にはどう違うの? 神武天皇による奈良盆地侵略事件が、紀元180年頃に実行されたという真実は、魏志倭人伝時代についての討論会に、どのような衝撃を与えるのだろうか、、、 >>611
>畿内説は神武東征がないと成り立たないもんな。
なんでそんな妄想するのか
脳の構造がとんと理解できんわ 応答?あの中傷が?畿内説は脳の中まで負けているんだな >>658
>畿内説は中傷だけの存在、
そう判断する理由または根拠を「具体的に」書いてくれ
でなければ、無根拠な書き込みはただの妄想だし、
>>658の方が言われなき中傷の書き込みだということになる
>だからみんなから無視される
一番無視されているのは、いわゆる「呟き荒らし」
そして「連続句読点」もほぼ書き込みが無視されている
また、「ザラコク」も一部書き込みは相手をしてもらっているが基本は無視されている
こうして見てくると、無視されているのは「九州説」の側に立って書き込みをしている連中だな
つまり、「畿内説はみんなから無視されている」というのは、根拠のない捏造だということだ 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。 この5ちゃんねるのスレッドは、議論で完全に負けた、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、すぐにバレてしまう嘘を言い放つしか無くなってしまったのだが、
僕たちが、他の、邪馬台国に関する、5ちゃんねるとは別の、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしているときに、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの、脳があるのか、無いのか、不明の、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、疲れたときや、
お腹が減って、眠れない時に、
このレベルの低いスレッドの、脳があるのか、無いのか、不明の、邪馬台国畿内説の宣伝係員の言い放つ、すぐにバレてしまう嘘を読んで、笑い、リラックスして、眠るために、必要なので、
このスレッドの邪馬台国畿内説は、ギリギリで叩きつぶすことは、やめて、残しておけば、良いな。 >>660
>年代が違うって、具体的にはどう違うの?
初期天皇の実在は保証されないが、通常は崇神天皇以降の実在を認めるのが通説となっている
その根拠は結局は記紀の記述と奈良盆地での発掘成果しかないが、纏向・磯城の発掘成果から、
崇神、垂仁、景行の3代は纏向遺跡周辺に宮を置いたと考えられ、
纏向遺跡の年代が3世紀初頭(2世紀末まで遡るか?)〜4世紀前期であり、邪馬台国の時代と重なる
神武天皇の実在は、専門家は認めていない、というか学術の対象とはなっていない
この分野は、市井の研究家(≠研究者)の考察しかないが、結局は記紀の記述以外の
材料はほぼないので、纏向遺跡の年代=崇神、垂仁、景行から、10代遡った時点となる
記紀の記述以外の材料として、豪族の古系譜を使った推定を、
古系図の研究家である宝賀寿男氏が行っており、宝賀氏の考察では神武は崇神の5世代前
となるそうだ 神武天皇による奈良盆地侵略事件が、紀元180年頃に実行されたという真実は、魏志倭人伝時代についての討論会に、どのような衝撃を与えるのだろうか、、、 >>611
>畿内説は神武東征がないと成り立たないもんな。
基本的に、弥生時代に漢委奴國王が居たのは北部九州
古墳時代に倭国の中心なのは畿内
で、邪馬台国は
弥生時代の北部九州の王権なのか 九州説
古墳時代の畿内王権なのか 畿内説
というのが、かつての九州説と畿内説の違いとなるポイント「だった」
九州説の場合、北部九州に邪馬台国があったのに、古墳時代に畿内が倭国の中心となることを説明する必要があり
1.北部九州の邪馬台国が畿内に移動した =東遷説 安本美典氏・邪馬台国の会
2.北部九州の邪馬台国は畿内と無関係に存続した地方政権 =九州王朝説 古田武彦氏・古田史学の会
という二つの説明が、有名だった
でも結局、編年研究が進んで邪馬台国の3世紀が既に古墳時代だとなった時点で九州説は死んだんだよ
で、今は、九州王朝説のまともじゃない残党、古田史学の劣化コピーのザラコクが
何を言われても知らぬ存ぜぬで、物理法則すら無視して同じ事を書き続けているのと、
前スレ>979のように、弥生時代と古墳時代の区別もつかずに「北部九州に王がいたなら
それが移動したはずがない、魏志倭人伝にも東遷は書いていないから九州に決まっている」と
意味のない決め付けを信じ込んでしまっている御仁がいるくらいだ
そして、この後者がバカみたいに、弥生時代に九州に王がいたのだから、畿内説は東遷説だという謎理論を展開しているというのが現状ww
状況が見えてないし、状況整理もできない、論理的思考からかけ離れたやつしか九州説は残っていないんだよ >>663
>応答?あの中傷が?畿内説は脳の中まで負けているんだな
その「あの中傷」とやらを、具体的に特定して論じなさいな
できないなら、無意味だよ
そして「脳の中まで負けている」は中傷にあたるぞw
中傷好きなのは九州説の方ww 畿内説は重症だな、鼻つまみだと分かっていなかったのか 頼んでもないのにわざわざ畿内説スレに来る九州説が鼻つまみ 奈良の考古発見物体の年代検査を、主導的に実行してきた係員が、卑劣な偽造犯罪に手を染めていたことが判明し、
奈良の考古発見物体の年代検査の結果発表を、国民が信用しなくなってしまった、、、 神武天皇による奈良盆地侵略事件が、紀元180年頃に実行されたという真実は、魏志倭人伝時代についての討論会に、どのような衝撃を与えるのだろうか、、、 そもそも九州説が荒らしてる時点で一発で鼻つまみに認定 >>675
>奈良の考古発見物体の年代検査を、主導的に実行してきた係員が、卑劣な偽造犯罪に手を染めていたことが判明し、
「係員が、卑劣な偽造犯罪に手を染めていたことが判明」
これは『虚偽による言われなき非難中傷』にあたる
名誉毀損の民事訴訟なら確実に負ける事案だ
九州説はレベルが低すぎる >>197
>>奴國は、北部九州最大國ではない。邪馬壹國が最大國であるから、×。<
>その前にザラコク理論の奴國の位置がデタラメなんだよww<
それ以前に、伊都国が、「皆臨津搜露」が出来るような、
海岸付近(前原付近から糸島水道付近)の国であり、
奴國はその「東南百里」に外縁部(入り口や門)があった国である事になる。
>なんで山を挟んで二つに分かれた奴国なんて考えてるんだよ?ww
しかも山ばっかりだから二万戸が入るスペースがない<
奴國の中心は、早良平野であろうし、その中心部はおそらく吉武高木だ。
>さらに言えば、伊都国との間に国境が引かれる理由がない<
伊都国と奴國の外縁部同士の距離が「百里」だ。 最近現れないけど、
以前このような事を書いている人がいたでしょ
「お〜い〇〇」
「おーい、□□!」とか、
気づいている、何か知っている人なのかな? >>680
>伊都国と奴國の外縁部同士の距離が「百里」だ。
それって各国内の移動距離が
12000余里には含まれないって
超支離滅裂説なんだけど
九州説ってこんなにデタラメなもんなの? 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。 この5ちゃんねるのスレッドは、議論で完全に負けた、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、すぐにバレてしまう嘘を言い放つしか無くなってしまったのだが、
僕たちが、他の、邪馬台国に関する、5ちゃんねるとは別の、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしているときに、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの、脳があるのか、無いのか、不明の、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、疲れたときや、
お腹が減って、眠れない時に、
このレベルの低いスレッドの、脳があるのか、無いのか、不明の、邪馬台国畿内説の宣伝係員の言い放つ、すぐにバレてしまう嘘を読んで、笑い、リラックスして、眠るために、必要なので、
このスレッドの邪馬台国畿内説は、ギリギリで叩きつぶすことは、やめて、残しておけば、良いな。 >>630
>>>623
>後漢書と魏志倭人伝にある奴国だろ
>邪馬台国とは書かれてないなあ
卑弥呼は倭国の女王。
倭は古の倭奴国。 >>637
>なので、畿内説は「神武の東征を必要としない」くらいが正しいところじゃないかな
九州説は神武東征を必要としないが、畿内説は東遷が必要だよねえ。 『本当のアマテラス』『本当のスサノオ』
ここを読んでみたほうが良い、
漫画やアニメ(ゲーム)などの話をしているように思えるけど、
一部本当の話 >>640
>大陸からすれば、属国認定されたってだけ
卑弥呼も立場は同じだよ。
むしろ魏志倭人伝は後漢の頃の倭王の権威をそのまま卑弥呼が継承するまでの経緯を紹介している。
畿内説は魏志倭人伝を読んだことがあるのか、心配になってきたよ。 >>647
>兄弟や義兄弟の片方が殺され、片方が恭順する
>服属であって和合ではない
畿内説は記紀も読まないのだねえ。
磐余彦(後の神武)と饒速日が、互いに天神の末裔である証を見せ合って和合したんだよ。
どちらかが恭順したなどと、妄想だよね。 >>648
>神武の東征を認める立場でも、神武の東征と卑弥呼の時代・纏向の建設では、年代が違うから、
年代が違うという根拠は?
畿内説でも、スロープ氏のように卑弥呼と神武天皇が同じ年代だとしている人もいる。
ただ、個人的には纒向はもう少し後の物部氏や崇神天皇などの宮だと思うけどね。 >>652
トップが和合したけれど、現場が独断専行して戦闘を継続したから処分されたのだね。
ナガスネヒコの立場にしてみれば、そこまで多大な犠牲を出しながら戦ったのに、和合はないだろうという気持ちはあったのだろうが、それではトップは許さないよねえ。
恭順した人物は見当たらない。 >>662
2世紀まで倭を代表していたのが倭奴国であったことは確実だろ?
2世紀末に卑弥呼が畿内にいたなら、倭が東遷したことになる。 >>668
>崇神、垂仁、景行の3代は纏向遺跡周辺に宮を置いたと考えられ、
>纏向遺跡の年代が3世紀初頭(2世紀末まで遡るか?)〜4世紀前期であり、邪馬台国の時代と重なる
つまり纒向は崇神らの宮であり、卑弥呼とは関係ない。
そうだよな?
ところで前スレでは、崇神の実年代は卑弥呼の没後の3世紀末だよねえ。 そのスレの書き込み、
悪く言うと偽者だと思うんだけど
家も「市」?
こういう名前の家、下の名前、
でも「いちおう」ではない。
キュウリのような葉、葱の華・・・、
あの写真の家。
神職、本職だったのかな?
老婆も詳しかったり >>247の訂正
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の人には、
論理的思考は無理なのかな?。 『社家 絶家』
家の写真と同じ?名前の家があるし、
松の木が立てられていて・・・寒いの人?
『伊達の桃太郎』
この辺りの話もしていたり、蚕を飼い、機織り、
歌舞伎や芝居が〜とか 山の上のほうに住んでいて、
部屋に凄い刀、謎の刀が飾ってあって・・・・という話
どういう事なんだろう
馬に乗り、腰に刀を差していて >>693
なんで、東遷にこだわるのかねえ。
東遷した考古学上の証拠、一切ないのに。 >>262
>>だから、遺跡や古墳に庄内と布留が混在していれば、その遺跡年代は布留の年代になる。<
>布留0ってのは布留じゃないんだけど?<
何だ?、それじゃ、「布留0」という呼称を付けた大和説学者は、
「布留でないものを布留と名付け」て国民を騙そうとした、
嘘つき騙しの・・・・詐欺師であった、
とでも言いたいんかい?。 老いたるスサノオ?
あの作品も同じような事を言っていたり
芸能関係者・・・・、
そういうのになったのかな?
一緒に回ったりしていたとか? >>700
じゃあ明治前夜ともプレ縄文とも言っちゃいけないのか?
定義を無視して「布留」が付いてりゃ何でも布留だと言い張る方が詐欺師と言いたい
ザラコクのことだが >>689
漢委奴國王、漢匈奴悪適尸逐王と
親魏倭王、親魏大月氏王じゃ意味合いが違う 上の名前の読み方も〜〜、と言っているし
「す」・・・「か」?
変えたのかな?みたいな話、
家は本当は「ス」のほうの読み方だよと言っていたり >>692
面白い視点だね。
ニギハヤヒは、最初の神武侵攻を長脛彦が撃退したとき、その結果に満足したはず。
神武が宇陀方面に再度現れたときに、長脛彦側の体制に乱れはないから、長脛彦による最初の神武撃退はニギハヤヒおおいに満足の構図ということになる。
つまり、神武が宇陀方面に現れたときには、ニギハヤヒは長脛彦の勝利を確信していたということだ。
その後も変わりはない。
しかし、金色の鳶を操る神武に長脛彦の軍勢が敗退したのを見たニギハヤヒは、考えを変えた。
そして、ニギハヤヒは、自分は神武と同族だという口実をつけて、長脛彦を暗殺した。
この構図は、長脛彦の劣勢を見たニギハヤヒは、あっというまにみごとに(寝返った)ということだ。
日本書紀は同族という点に重きを置いてニギハヤヒの行動を賞賛しているが、後の戦国時代の行動基準からすると、ニギハヤヒは無節操にも配下を暗殺して(寝返った)人物ということになる。
ニギハヤヒは、腹を切るのが筋だった…ということにならないか。 国の人間のほうが上なんだよw
誰でも知っているだろう・・・みたいな事を言ってる人がいなかった? あと王母、西王母?
詳しいことはわからないけど
なぜか『宇宙 西王母』 本当に『宇宙ヤバイ』『はに丸くん』の曲と同じでしょ。
なぜか5月15日?あの曲(某まいく・おー)のMV 5月15日・・・、
妹と同じだしな・・・、本当に何なんだろう 数年前の、とあるスレ
「生きてたのか!もう私ではない!」
「(神様)真似なんてしているから、こんな事になってしまった」
「何度も言いました、そういう事なんだっつーの!」
このような謎の書き込みがあったでしょ
生きてたのか!という事は・・・不死鳥(フェニックス)伝説? 神武東征って、お偉い『イスズヒメ』様の所に通い婚していた『イワレビコ』が、
寝物語で、
「俺、若い頃、筑紫の日向の方から流れて来たんっスよ」
「その頃の俺って、海賊やっててー」
「舎弟のヤタガラスなんかと一緒に、だいぶヤンチャしてたんですよね」
「いくさや略奪も結構やりましたよ」
「そういう武勇伝だったら、俺、いっぱいあるっスから」
「へへへへへっ!」
などと『俺は昔はワルだった』自慢をしてたのが、
だんだんと尾ひれがついて来て、500年後の記紀では、
『一大東征物語』になっちゃったんでしょ。
あんまり真面目に考えなくても。 >>272
>>古い断片的な記憶情報 だけであった事もあれば、
史料事実からの確率の低い推論情報であった事もあれば、
このスレのような膨大な投稿内容の全体が根拠であった場合もあり、<
>そのどれでもいいから、とにかく書けや!
その情報の確からしさも含めての議論になるんだから <
もう何度も繰り返し書いて置いてある事だし、
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・大和説詐欺師の要求で書かされる事など、
まっぴら御免だ。
私は、残り人生も少ないし、仕事もあるし、
残った国民のために、必要があると思えば、投稿するだけだ。 >>683
>九州説ってこんなにデタラメなもんなの?
九州説の中でも、ザラコクは特にデタラメ
まあ、外の九州説も似たようなもんだけどな
畿内説を自称するやつの中にも「左側スロープ君」みたいなのもいるけどさ >>687
>九州説は神武東征を必要としないが、畿内説は東遷が必要だよねえ。
基本的に、弥生時代に漢委奴國王が居たのは北部九州
古墳時代に倭国の中心なのは畿内
で、邪馬台国は
弥生時代の北部九州の王権なのか 九州説
古墳時代の畿内王権なのか 畿内説
というのが、かつての九州説と畿内説の違いとなるポイント「だった」
九州説の場合、北部九州に邪馬台国があったのに、古墳時代に畿内が倭国の中心となることを説明する必要があり
1.北部九州の邪馬台国が畿内に移動した =東遷説 安本美典氏・邪馬台国の会
2.北部九州の邪馬台国は畿内と無関係に存続した地方政権 =九州王朝説 古田武彦氏・古田史学の会
という二つの説明が、有名だった
でも結局、編年研究が進んで邪馬台国の3世紀が既に古墳時代だとなった時点で九州説は死んだんだよ
で、今は、九州王朝説のまともじゃない残党、古田史学の劣化コピーのザラコクが
何を言われても知らぬ存ぜぬで、物理法則すら無視して同じ事を書き続けているのと、
前スレ>979のように、弥生時代と古墳時代の区別もつかずに「北部九州に王がいたなら
それが移動したはずがない、魏志倭人伝にも東遷は書いていないから九州に決まっている」と
意味のない決め付けを信じ込んでしまっている御仁がいるくらいだ
そして、この後者がバカみたいに、弥生時代に九州に王がいたのだから、畿内説は東遷説だという謎理論を展開しているというのが現状ww
状況が見えてないし、状況整理もできない、論理的思考からかけ離れたやつしか九州説は残っていないんだよ >>690
>どちらかが恭順したなどと、妄想だよね。
物部氏は、明らかに皇統に下った形になっているんだが?
恭順してるから、神武が天皇になったんだろ?
共治にはなってないぞww
九州説は本当にいい加減w ただの『イワレビコ』の出身が筑紫の日向なのはそうなのかも知れないけど、
本拠地を捨て、大船団で奈良盆地を目指して一か八かの征服戦争に出るって、
いくら何でもないよ。
良くて海賊。最後は海賊稼業から足を洗い、結果的に奈良盆地に定住した海賊。
悪ければ、出身が筑紫の日向ってだけのただの流れ者だろ『イワレビコ』は。
それが奈良盆地で上手いこと出世して、故郷の奴らを見返してやるために、
九州と似たような地名をつけたんだろ。 >>691
>畿内説でも、スロープ氏のように卑弥呼と神武天皇が同じ年代だとしている人もいる。
だから左側スロープ君はデタラメなんじゃないかww
>ただ、個人的には纒向はもう少し後の物部氏や崇神天皇などの宮だと思うけどね。
崇神天皇の宮が纏向周辺で、卑弥呼と同時代なんだよ 本当に、なぜ繋がっているのか?なんだよな
むかーしの中国の人なのかな >>277
>(伊都國から奴國から)
集落が隣接しているなどと言うのはその時点で比定地がおかしい
九州説は魏志倭人伝の方角と距離が「とにかく正しい」と言うためだけのインチキ比定地を
整合性も合理性もなく言い張るから、トンデモになるんだよ <
「東南至奴國百里(短里で7.65km位)」なら、
障害物さえばければかろうじて見えている、
だろう、と思うよ。 『イワレビコ』が海賊だろうと言うのは、
本国の日向をほったらかしにして、全軍で東征ってのはいくら何でも不自然だから。
これはつまり、そこそこの船と武力は持っていたかもしれないけども、
本国なんてなかったことを意味する。途中で吉備を本拠地にもしている。
これは普通に考えれば本国を持たない『海賊』の類いだよね。
もう一つ、東征に何年もかかっている間、兵糧だとか矢だとかはどうしてたんだ?と。
いくら船でも九州からでは補給が続かない。それは普通に考えて、海賊やって奪ってたんでしょ。 ミンメイというキャラと同じ、
違いますwと言うかもしれないけど
あの曲の動画などを観てみると 天孫ニニギと、イワレビコの間には、ホオリ(山幸彦)がいる。
ホオリ(山幸彦)とホスセリ(海幸彦)は、ローラシア型神話のテンプレ登場人物で、
架空の人間。
つまり、天孫ニニギとイワレビコは、後付けストーリーでくっつけられた。
九州出身のイワレビコが奈良盆地で出世して、本物の天孫であるニギハヤヒを臣従させた。
天孫とは何なのか分からないが、男王師升のパートナーである銅鐸系祭祀を司った女王の子孫かも知れない。
いずれにせよ本当はニギハヤヒの方が格上なので、ニニギの系統を後付けした。
だから天孫が2系統いるという、不思議なストーリーになっている。 >>318
>>はじめから畿内説ありきで誘導している。<
>はじめからじゃないよ
多くの先人の研究成果の積み重ねの上に、だ
九州説は、思い込みだけでエビデンスもファクトもない <
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和説の先人であっても、全員「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・詐欺師なのであるから、
何の価値もなく、根拠にもならず、
だから、大和説は、思い込みだけでエビデンスもファクトもない。 >>692
>恭順した人物は見当たらない。
この、自分の「思い込み」が真実だと勘違いするのが九州説の特徴なのかね
古事記
故爾、邇藝速日命參赴、白於天~御子「聞天~御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。
故、ここに邇芸速日命参赴きて、天つ神の御子に白さく、「天つ神の御子、天降りましぬと聞きしかば、
追ひて参降り来つ」とまをして、即ち天津瑞を献りて仕へ奉りき。
日本書紀
饒速日命、本知天~慇懃唯天孫是與、且見夫長髄彥禀性愎佷、不可教以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉。
天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。
饒速日命、本より天~の慇懃たるは唯天孫是なりと知り、且つそれ長髄彥の禀性愎佷を見ゆ、
もって天人之際教える可からず、乃ち之を殺し、帥(饒速日)と其の衆歸順せり。
古事記には「邇藝速日命が天津瑞を献上して神武に仕え奉った」とあるし
日本書紀では「饒速日命が長髄彥を殺してその家来とともに神武に帰順した」と直接書いてある
饒速日自らの神宝を献上して使え奉ってたり、家来とともに帰順しているのに、
恭順した人物がいないってのは通らないだろww
九州説あるあるの、どこかの素人の書いた文章だけ読んでいて、記紀の原文を読まないまま
思い込みで畿内説をたたいてるってやつかな?www >>693
>2世紀末に卑弥呼が畿内にいたなら、倭が東遷したことになる。
卑弥呼は委奴国を継承せず、新しく倭王に共立されたのだから、東遷ではないと
何度言えば >>319
>こちらは、定説に従っているだけなのでww<
定説だ、という事は、
「南→東」などの嘘付き騙しの安部文部省や右翼マスコミや学会教育界学者らの説であり、
国民の7割に否定されている説だ、
という意味なのかね?。 >>694
>つまり纒向は崇神らの宮であり、卑弥呼とは関係ない。
>そうだよな?
違うよ
纒向は崇神らの宮であり、崇神がヒコ王で男弟
卑弥呼がヒメ王でその意味では纏向は卑弥呼の都
>ところで前スレでは、崇神の実年代は卑弥呼の没後の3世紀末だよねえ。
そんな話にはなっていない
崇神の実年代は、3世紀半ばでよい
没年が戊寅258年 >>320
>テンプレに解答あるから読めば?<
テンプレなんて、「南→東」などの嘘付き騙しであった事が確定しているから、読まないよ。
読んで欲しけりゃ、その部分を転写したらどうだ?。 >>700
>何だ?、それじゃ、「布留0」という呼称を付けた大和説学者は、
>「布留でないものを布留と名付け」て国民を騙そうとした、
>嘘つき騙しの・・・・詐欺師であった、
>とでも言いたいんかい?。
ザラコクの理解力が足りないだけ
布留式土器は、精製器種3種を伴うもので、それがない時期は庄内期になる
だが、庄内3期でも布留式土器の特徴を備えた甕が出るので、
それを布留0式と読んでいる >>712
>もう何度も繰り返し書いて置いてある事だし、
>「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・大和説詐欺師の要求で書かされる事など、
>まっぴら御免だ。
なら、畿内説スレに書き込むのはやめなさい
ここは科学板で、科学的な議論をする場所だ
それを無視して無駄なことを書くだけなら、
ザラコクの人生にとっても無駄だからやめなさい
畿内説側は、繰り返し根拠を提示して九州説の論点の間違いを指摘し続けているだろ?
会稽の地図をこちらはいちいち貼っているぞ >>719
>「東南至奴國百里(短里で7.65km位)」なら、
こうやって、短里に頼ってデタラメを振りまくのが九州説の日常
短里を知っている人も使う理由も3世紀にはない
これだけで、九州説は破綻している >>339
>自分の頭で少しは考えろよ。 学生さんなのかな?
間違った前提を刷り込まれると、間違った答えにしかたどり着けないという見本だな。<
そうでしょうね。
高校や大学の時にも、クラスで一人か二人位、
(白人至上主義ならぬ)日本国至上主義の、
殺人戦争を肯定鼓舞扇動する・・・・がいたなあ。 >>345
妄想とは、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソつき騙しや、
根拠のない思い込みなどのことを言うなど。
大和説は、「妄想ばかりという実例」だ 。 >>393
>宣伝とか九州説が金目当てなのがよく分かるな<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者や大和説学者は、
文部省から金目当てであった、
という事がよく判るな。 『サイバーパンクSPECIAL』
本当にストーカーがいるのかな?
偶然でも何でも良いんだけど、光のネットワーク あの、まいく・おーの曲(MV)も同じでしょ
手を繋いで・・・・でも何かが違うw >>401
そんな詐欺師の論法ばかり使っちゃ駄目よ。
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソつき騙しの大和説者の特徴は、
立証責任を相手に押し付けるところ。
娘の章子さんが清書した「丑寅原稿」を、
https://hyenanopapa.obunko.com/kahitsu_genkou.html
の左側の「喜八郎さんの添削」筆跡と、同じ筆跡だ、
という偽筆跡鑑定事件での、安本や大和説者らの得意技。 >>437の訂正
「南→東」などのような、
史料事実の否定曲解をする大和説の・・・・サギ学者らの、
「公式の報告書」に書いてある、なんて言い訳など、
何の反論にもならないし、
・・・・の罵りだけにしかならないよ。
そんな大和説が生き残れるほど
世間は甘くないよ >>464
>畿内説の場合、魏志倭人伝はデタラメだから信用しないんだよな?<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙しの文言だし、
大和説者は、全員、「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソつき騙しをしているから、
信用出来ないんだよな。 >>465
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、全員、捏造が好き。 >>468
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、論拠を書けないので、確率はほぼ0%である
そして「ほぼ0を50倍しても、大体0にしかならない」
また「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言である
ここに畿内説は確率が大体0%である、
という事が立証された >>480
>証拠はテンプレ 盲信でもなく無視でもなく 記事の信憑性を個別に斟酌している<
ダメだ。
スレ主のテンプレは、「南→東」問題に対しては、直接的な論証せず、
他書である旧唐書の、それも解釈間違いを根拠にする、というインチキ論法で、
「南→東」の嘘つき騙しを肯定しているから、×だ。 畿内説はもう終わってる テンプレ脳に堕した時点で駄説になった >>715
ニギハヤヒは、びびり上がって無節操に寝返っただけかもな。
そこで、同族だからと理由をつけて大和の地を明け渡した。
こんな司令官に従っていたとあっては、長脛彦も浮かばれんだろうな。
裏切られた長脛彦の魂は、トミの山に昇って、おいおいと泣いたのじゃな。
しかし、この実相に対して、大和の地を得た神武側からしたら、ニギハヤヒはまっこと称賛すべき人物だということになるのは普通のこと。
官軍側の主張が歴史になるのは当たり前だし。 >>738
>娘の章子さんが清書した「丑寅原稿」を、
引用するならこっちのページだろ?
https://hyenanopapa.obunko.com/ushitora_musumesan.html
「娘の章子さんが清書した」という証拠は一切示されておらず、
偽書作成が疑われる和田氏の「証言」しかない
それを、何の根拠もなく信じているのがザラコクほか古田史学の信奉者たち
「娘の章子さん」の筆跡はまったく提示されていない
そして、和田氏の証言を信じるなら、「娘の章子さん」は生まれる前かその前後、
後であってもごく幼いときに、「丑寅原稿」を清書したことになる
『東日流外三郡誌』が偽書ではないと信じる方がおかしい >>507
>祇園山は段築葺き石を備えた古墳時代の方墳だから、箸墓古墳よりも新しいんだぞw
段築葺き石は、箸墓で定形化した特徴だ
箸墓古墳は4世紀だって一生懸命九州説は言ってるのに、それより新しい祇園山が
卑弥呼にぴったりな訳がないだろうww <
祇園山は、
「四隅円弧の類方形の不定形」の冢墳であって、
箸墓のような前方後円墳ではないから、箸墓よりもずっと古く、
「土師器の古い方=庄内」が出土しているから、布留の箸墓よりもずっと古く、
卑弥呼の墓の「徑百餘歩」にもほぼぴったりであり、
「jun葬者奴婢百餘人」にも、列島で唯一合致する墓であるから、
卑弥呼の墓であった可能性が極めて高い。
だから、逆に「段築」なども、箸墓が祇園山から学んだ、という事になる。 >>468
>九州説は論拠を書かないので0である
>そして0に50倍しても0にしかならない
そして、私一人で、九州説の50倍より多く根拠を提示しているんだから問題ないだろ?
九州説の論拠=0
その50倍=0
それよい多いのは、0ではないww >>744
>畿内説はもう終わってる テンプレ脳に堕した時点で駄説になった
テンプレ脳って言葉が使いたかったんだねww
テンプレの長い原因、FAQの部分は、九州説が間違っていることを示されても
同じことを繰り返し書き込むから、九州説の主張の間違っている点をまとめたもので
あって、だから畿内説が正しいと主張する部分じゃないんだよww
そういう理解がまったくできない人くらいしか、今どき九州説なんてやってないw >>747
>「四隅円弧の類方形の不定形」の冢墳であって、
また謎用語を捏造しているww
「冢墳」なんて言葉はないんだよ
説文解字で「冢」は高墳なりなんだから、
「冢墳」=「高墳墳」だぞww
これがどんなにばかげているか、理解できないから
ザラコクなんてやってられるんだろうなww >>750
>畿内説は頭が膿んでいるな
頭が膿んでいると判断した理由や根拠を『具体的に示し』てね!
根拠のないのは妄想らしいよww
根拠なしに他人を悪く言うのは、誹謗、中傷にあたる >>510
要するに、類スレ主も、
古典的な素粒子論や電磁場や重力場での論理から、頭が全く進めず、
素粒子のその反粒子と相互作用の存在や、
電磁場での電場と磁場との相互作用の存在にも気付かず、
素粒子性は、場の相互作用の「引力性と斥力性」のために発生するから、
分析ごっこの計測だけしていれば、
無限に分析されて無限に「短時間生命の素粒子の発見」が出来てしまうだけだから、
だから「統一場理論」が必要になる、
という事が判らないアホであった訳で。 >>756
連続句読点を、つける気力も、残っていないのでは、ないのかな つまり、韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまったのだね、、、 >>753
>自画自賛の脳内妄想に生きてるから
それ、根拠じゃないだろ?ww
根拠だというなら、例えばどの書き込みが自画自賛にあたるかを「具体的にコメ番号で」示してみて
それから「脳内妄想」だと判断した理由や根拠を『具体的に示し』てね!
根拠のないのは妄想らしいよww
根拠なしに他人を悪く言うのは、誹謗、中傷にあたる >>743
>スレ主のテンプレは、「南→東」問題に対しては、直接的な論証せず、
>他書である旧唐書の、それも解釈間違いを根拠にする、というインチキ論法で、
>「南→東」の嘘つき騙しを肯定しているから、×だ。
「テンプレなんて、「南→東」などの嘘付き騙しであった事が確定しているから、読まないよ」
という発言と矛盾してるね
最初から嘘と決めつけて読んでないと本人が言うのだから
zarakokuの上記の言い分は嘘をついていることになる
事実、テンプレにあるのは
九州説による旧唐書の解釈の間違いについての指摘であって
方位の考証は三国志を使った直接的な論証だぞ >>755
みなさーん、これが「電磁気学」も「核物理」も「素粒子物理」も
「粒子の交換による力」も一切理解できないくせに、文句だけつけるザラコクの真骨頂ですよ!ww
超面白いww
まともな反論が一切できないところが面白すぎるww 神武天皇による奈良盆地侵略事件が、紀元180年頃に実行されたという真実は、魏志倭人伝時代についての討論会に、どのような衝撃を与えるのだろうか、、、 >>514
>>那珂比恵地域という、地域は、魏志倭人伝とどのような関係性が、あるのだろうか<
>魏志倭人伝の奴国二萬戸の中心集落=国邑だよ<
これも×だ。
魏志倭人伝の記載からは、比恵那珂地域は、
不彌國のすぐ南になるから、「邪馬壹國女王之所都」そのものであり、
奴國は伊都国の「東南至奴國百里」になるから、日向峠の西麓から平良平野部だ。 そういえば、ザラコクは
「理系の大学院卒を自称しているが、学歴詐称だ」に対しては
一切触れないなww
自分でも、この件は恥ずかしいと思ってるんだろうか?wwwwwwwwwwwwww 労働したので、マヨネーズはないが、タコ焼きが美味しいな >>516
>>なんで神話で「日向から来たんやで」みたいな伝承残したん?<
そりゃ、8世紀の大和には、
自分等の初代神武の出目は、
ウガヤフキアエズが日向にいた時に自分等兄弟が生まれ、成人して子も出来てから、
母国の阿毎氏の糸島の筑紫城に移ったが、巧く行かず、先行きの見込みがないから、
「猶東に行かむ」として、長兄の五瀬命と共に仲間を集めて東征する事にし、
瀬戸内を通って、河内の戦いで五瀬が亡くなって、
神武が率いて熊野回りで大和に攻め込んで、
在地の首長たちを仲直りの宴会に誘って酔わせて、皆殺しにして、
磐余付近に拠点を造った、
という伝承があったから。 >.524
>>意味や内容が変わらなければ、「×」と言わない。<
>現代の日本語での議論において、邪馬臺國と邪馬台国は意味も内容も変わらないぞww
ご都合主義ダブスタ乙w <
ダメだ。
根本的な問題としては、
大和説者が使う「邪馬台国」の意味は「ヤマト国」という大和の意味での使用であり、
後漢書が記した「邪馬臺國」は、その位置説明から筑紫付近の国を意味しており、
大和を示す文言ではない、という事だから、
「邪馬台国」は邪馬臺國とは意味も内容も変わってしまっているから、×だ。 >>769
>大和説者が使う「邪馬台国」の意味は「ヤマト国」という大和の意味での使用であり、
>後漢書が記した「邪馬臺國」は、その位置説明から筑紫付近の国を意味しており、
>大和を示す文言ではない、という事だから、
オレ様のトンデモ説明と合わないからお前その言葉使うな!
かよ
どこまで傲慢なのさ九州説 労働したので、いつも通りのタコ焼きの個数では、足りないな 要するに邪馬䑓国がヤマト国と読めちゃうのを何とか阻止したいと
古田がヤマイチ国とだと宣伝したけど世間に相手にされてないと
確実に「ト」と読める「台」の使用は頑として認めたくないと
そういう欲望にまみれているのよ九州説 >>525
>>これもまた・・・・詐欺師の類スレ主は、
前後の文をこっそり外して、「言葉尻」を切り取って、<
>じゃあ、前後も含めて引用してあげよう
「魏使らは、「末盧國から伊都国の方角」なんて、当然知らなかったし、記載もしていない。」
魏志倭人伝には、実際の地理上の「末盧國から伊都国の方角」つまり最終目的地の方角は
「記載もしていない」で確定です!!!!!<
いや、関係がない。伊都国は最終目的地ではない。
また最終目的地の「女王之所都」は、
冒頭の説明で「倭人在帶方東南大海之中」として書かれている。
>つまり、南至邪馬壹國の「南」は
「実際の地理上の最終目的地の方角」である『確率はかなり低い』ことになりますww<
いや、これも説明してある。
「至」は、「出発から到着」の移動全体を意味しており、
従って「南至〜」は「出発から到着まで南に移動した」という事を示す事になり、
「途中から東の大和へ向かった」という大和説者の解釈は、×。
だから、「南→東」の根拠は永久的に失われました。 >>772
連句読点がそう書き込むのは
九州説が論破されて慌てたとき >>774
>いや、これも説明してある。
出典も根拠も無い「ワシが言ってるのぢゃ」は説明と言わん罠 >>529]
>>「南至邪馬壹國女王之所都」の「至」は、「出発から到着までの全移動」を示すもの。<
>それはないな、ザラコク理論に従うとww
「出発(帯方郡)から到着(邪馬壹國)までの全移動」のうちで、
途中の『「末盧國から伊都国の方角」なんて、当然知らなかったし、 記載もしていない』のだから
「出発(帯方郡)から到着(邪馬壹國)までの方角」も魏使らは
当然知らなかったし記載もしなかったことにしかならないww <
これも×。
倭人伝の冒頭で「倭人在帶方東南大海之中」と大体の位置方向を示している。
>つまりは「南」は「出発時の出発方向でありほぼ正しい」だけだww
最終目的地の方角が南かどうかはまったく分からない訳だwwww <
いや、これも×。
不彌國の後での「南至邪馬壹國女王之所都」であるから、
「不彌國を出発して、邪馬壹國女王之所都」の移動はずっと「南」であった、と言っている事になり、
最終目的地が不彌國の南だ、と示している。 今夜は、疲れているので、
5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドでの、討論会にアプローチする気力が、わかないな 長髄彦「なんでワイが卑弥呼の子孫で本来の近畿の王って誰も言ってくれんの?神武とかど田舎日向から来た侵略者やん」 この5ちゃんねるのスレッドは、議論で完全に負けた、邪馬台国畿内説の宣伝係員が、すぐにバレてしまう嘘を言い放つしか無くなってしまったのだが、
僕たちが、他の、邪馬台国に関する、5ちゃんねるとは別の、レベルの高度なインターネットの掲示板で討論をしているときに、
そのレベルの高い討論会で、このスレッドの、脳があるのか、無いのか、不明の、頭の劣っている邪馬台国畿内説の宣伝係よりも、レベルの高い邪馬台国畿内説を信じる論敵を論破して、疲れたときや、
社会での労働で、疲れ、5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドでの、討論会にアプローチする気力が、わかないない時や、
お腹が減って、眠れない時に、
このレベルの低いスレッドの、脳があるのか、無いのか、不明の、邪馬台国畿内説の宣伝係員の言い放つ、すぐにバレてしまう嘘を読んで、笑い、リラックスして、眠るために、必要なので、
このスレッドの邪馬台国畿内説は、ギリギリで叩きつぶすことは、やめて、残しておけば、良いな。 >>781
神武東征は何代目かの一大率だった応神が本家の香坂ぶち殺したクーデター正当化のため前例として創作されたという説はマジ存在して支持者も多い >>534
>>ダメだ。 元周髀算経が使った「尺定規」の目盛りは、
「寸」の目盛りまでであった、という事にしかならない。<
>商代に分目盛の定規があるのだから、そんなことはない。
周尺が19.9cmなら寸は19.9mm。 寸目盛では粗すぎるだろ。<
「分」目盛りがあった定規を使ったんなら、「分」まで計測記録してたバズだが、
実際には「1尺5寸」と「1尺6寸」と「1尺7寸」と「13尺5寸」の精度でしか記録がない、という事は、
陳子らの計測は、(分目盛りの定規ではなく)、
「尺と寸」の定規を使った、という事になる。
>>13.5尺の尺定規なんてあるもんか。 普通は1尺定規であり、<
>8尺棒があるのに、何言ってんだ?w<
「1尺定規を8回」使えばよいの。
>それに寸目盛りがあったのであり、
だから、夏至での計測差異量が、1.6→13.5倍(約8.4倍)に拡大される事になる、 と言ってんだよ。<
>8尺棒だと5倍になるのか?w 使いものにならない8尺棒だなw
「ぼくの考えた計測」では、誰にも通用しないぞw <
仮に、尺定規の一回の計測で1mmの誤差が発生する可能性があったんなら、
8尺棒の寸法には、最大で8mm位の誤差が発生する可能性がある事になるの。 諸県君一族と推定される宮崎の西都原古墳群は、
高塚墳311基(前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基)
前方後円墳を首長墓だとすると、
300年弱で31基ですから、
おおよそ一代平均在位11年を説明できると思われます。
そうすると円墳は首長ではない王族の墓ということになります。
纏向遺跡が卑弥呼の王権の遺跡であり、
纏向古墳群が王族墓だとすると、
この西都原と同じような状況でないとおかしい。
すなわち2世紀前半の其国の男王からトヨまで150年と仮定して、十数基の前方後円墳、
そして100数十基の円墳が必要になります。
とても説明できない。
だいたい纏向では2世紀前半の其国の男王の墓が説明できない。
卑弥呼がいたのは纏向ではない、葛城だ。 >>783
神功「誰です、うちの子が托卵だとか言うのは?計算が合わない?石です、石を腹に当てて出産時期を遅らせていたのです!」 >>535
>違うね。君は次の様に書いた。
446の7で「有効数字は13尺位であり、ほぼ有効数字2桁位。」
446の132で「13.5尺なんて変な数字」
つまり君は「有効数字2桁位」に合致しない「13.5尺」の5寸を否定するために
「変な数字」と言ったんだよ。<
当たり前ではないか。
有効数字2桁、という史料実態からすれば、3桁数字の3桁目は「変な数字」。
だから、1尺6寸位の「計測精度」の計測を、13.5尺という8.4倍位になる回数の計測をすれば、
計測精度も8.4倍位に大きくなる、という事を説明して上げた。 >>789
>有効数字2桁、という史料実態からすれば、
それ、あなたが一人で言ってるだけなんですけど >>536
>>>119000里が、まずあった上での、作った数字だよ。<
>>いや、それらの数字の元になったのは、夏至と冬至の影長計測と、北極星の計測だ。
また、そのような「意図的に数字を造作」する時は、
1190000里というような、有効数字3桁数など造作せず、
有効数字1桁程度(せいぜい2桁まで)の数字を造作説明するものであり、<
>これ全部、君の勝手な思い込みだろ。「造作する時は」以降は特に。<
いや、これまで知り得た「形容詞的な数値表現での人類の常識」だ。
>>その事からでも、類スレ主の「造作」説は、×だ。<
>別に私の説では無いし、君のお仲間以外は皆、計算値だと分かってる。<
何だ?、「私の説ではない」のか。つまらん。無駄な事をしてしまった。
>>>「蓋天説」でググって、コトバンクの日本大百科全書(ニッポニカ)の解説に
解り易い図があるから、見てみなよ。<
>>「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者が関与した、と思われる解説図には、 関心がない。<
>だったら盖天说について本家本元の中国のサイトでも調べればいいだろ。
見たくないんじゃ、《周牌算經》について無理解のままだ。<
蓋天説に関しての、これまでの自分理解で十分だ。 大河内隆之氏の意見の発表がなければ、それまでにただ一つあった、日本の考古発見物体の年代検査の基本方法は、日本の学部の信用を獲得できなかったのでは、ないのかな、、、 畿内説が、また、論破されて、焦っているるな、
798日本@名無史さん2019/04/20(土) 21:33:52.43
>>797
敗北感まるだしw ザラコクが、こんな無知老人になっちゃったのは
気に入らない書物は最初から読まない人だから 大河内隆之氏の意見の発表がなければ、それまでにただ一つあった、日本の考古発見物体の年代検査の基本方法は、日本の学部の信用を獲得できなかったのでは、ないのかな、、、 >>537
>>「夏后少康之子封於會稽」の頃の会稽の東方の「治」所地域。<
>それがまさに会稽山のお膝元のこの地域なんだよ 会稽郡はここ・・・
九州との位置関係をよく見てごらんww・・・<
会稽の東治の地域は、元々、揚州の地域であり、
江蘇省海岸部〜寧波付近までの広であり、
その地域からから九州がほぼ「東〜東北東」だ。 畿内説が、また、論破されて、焦って、悪口を言い放った、、、
803日本@名無史さん2019/04/20(土) 21:38:38.40
九州の悲惨 >>774
>いや、関係がない。伊都国は最終目的地ではない。
おいおい、言葉だけ切り出してごまかすなよww
これは「末盧国ー伊都国間の移動の最終目的地」だ
出発方向だけが記載されていて、可也山が見えているのに
伊都国の方向=最終目的地が見えないから書いてないって
言ってたのがザラコクだろうがww
>「至」は、「出発から到着」の移動全体を意味しており、
だからこそ、その途中の「末盧国ー伊都国間の移動の最終目的地」の方角すら分からずに
記載されていなかったら、「出発から到着までの移動全体の方角」も分からないし
記載されているはずがないよなww
これが論理的思考だぞ
>従って「南至〜」は「出発から到着まで南に移動した」という事を示す事になり、
なりません
途中で方角が分からずに移動方向が記載されていない部分があるのに
「出発から到着まで南に移動した」と記載されるはずがないだろ
根本的にザラコクの読み方が間違っているんだよ
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。の
「至」は「出発から到着」の移動全体を意味したりしないし
「女王之所都」は邪馬壹國の説明であって「邪馬壹國、女王之所都」で一つの語句
「水行十日、陸行一月」の起点は帯方郡ではなく不彌國 5ちゃんねるの掲示板とは別の、邪馬台国に関する、たくさんの学部の高度な学者が参加する、レベルの高い品質の良いスレッドで、実行している討論会では、
4世紀に作製された纒向遺蹟が邪馬台国だったとする邪馬台国畿内説は、韓国政府や観光業界や田舎学芸員たちによる嘘の宣伝だったことが、結論付けられて、
このレベルの低いスレッドで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、討論を完全に放棄して、バレバレの自作自演や、嘘や悪口の書き込みや、不利な話題からのすり替えしか、しなくなってしまったので、
スレッドが、ゴミ溜めになってしまい、宣伝係員が、解雇されて、自殺する可能性が、高まってきたね。。。 >>542
朝から「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・大和説者の、
分裂幻覚の妄想。 >>699
弥生の文化はそれぞれの年代で西から東に伝播している。 >>777
>倭人伝の冒頭で「倭人在帶方東南大海之中」と大体の位置方向を示している。
だから、「南至」だけでは邪馬壹國にたどり着けないんだよww
南東に行けないじゃないかww
また、全体の方角が記載されているということは、地図上の位置として把握していることを
意味しているから、ザラコクの「末盧国ー伊都国間は出発時の出発方向でほぼ正しい」と
いうのは間違ってるんだよww >>550
一般人から見たら明らかに「南→東」の嘘つき騙しの大和説は狂気。
嗜めるどころか尻馬にのる大和説説者の有象無象
こうして大和説の破滅を晒す広告塔が
日々高々と醜態をさらし
九州説者は、「気の毒に」と憐れむ >>781
>長髄彦「なんでワイが卑弥呼の子孫で本来の近畿の王って誰も言ってくれんの?
そんなん当たり前やん
あんたが死んでから100年以上後なんやからな、卑弥呼はんが生まれるんはww
生まれてもおらんもんの子孫なんてある訳ないやろ?
寝言言うんも大概にしときやww >>807
僕達が、このスレッドのゴミテンプレートを、改造して、スレッドのレベルを上げ、邪馬台国畿内説が破綻していないように、取り繕ってあげれば、邪馬台国畿内説の宣伝係員の自殺を遅延させられるのでは、ないのかな。。。 >>556
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・詐欺師の大和説は、
結局、
何の意味もない書き込みして荒らすだけの存在に落ちぶれた >>813
僕達が、このスレッドのゴミテンプレートに散りばめられている下手な嘘を、改造して、上手な嘘を散りばめ直し、すぐには破綻しないようにスレッドのレベルを上げてあげれば、良いのでは、ないのかな。。。 >>562
今日も、
「南→東」などの嘘付き詐欺がバレて落ちぶれた大和説が
ぐずぐずと、ぐずりよるのう このスレッドのゴミテンプレートの弱点は、紹介された考古発見物体が、いつ作製され、いつ埋まったものなのかの、日本国民を信用させる証拠が、完全に抜け落ちていることでは、ないのかな、、、 >>564
妄想くんの捨て台詞か・・・
これが、「南→東」などの嘘付き詐欺師の大和説者の醜さだ >>715
>物部氏は、明らかに皇統に下った形になっているんだが?
それは物部氏が滅亡したはるか後に書かれた歴史書での扱いでしょ?
それでも物部氏はかつては初期のヤマト王権の祭祀と軍事を一手に担っていたわけで、後に「天皇家」と呼ばれる一族に何の権力もなかったことになる。
>>716
>本拠地を捨て、大船団で奈良盆地を目指して一か八かの征服戦争に出るって、
>いくら何でもないよ。
そりゃあ倭国大乱で負けそうになったから脱出したんだろう。
>>722
>九州出身のイワレビコが奈良盆地で出世して、本物の天孫であるニギハヤヒを臣従させた。
従ってないだろ。
>天孫とは何なのか分からないが、男王師升のパートナーである銅鐸系祭祀を司った女王の子孫かも知れない。
天照のことなら、八咫の鏡を用いる銅鏡文化の最上位の人物だろ。
何が銅鐸だよ。
>だから天孫が2系統いるという、不思議なストーリーになっている。
長髄彦と同じことを言っている。
周回遅れも甚だしい。 紀元後100年頃、実行された、ヤマタノオロチ退治事件の作戦と、神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件の作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 >>786
左側スロープ君は自分の巣へお帰り
西都原古墳群には複数の支群があるし、31基が一家系の首長墓とは考えられないし、
畿内古墳群でもそうだが首長のみならず首長の家族や近臣も前方後円墳に葬られているぞ
適当な思いつきを書いてもムダ >>725
>卑弥呼は委奴国を継承せず、新しく倭王に共立されたのだから、東遷ではないと
倭王の権威を継承しており、それを魏から承認されたんだろ。
共立云々は国内事情にすぎず、魏から見れば漢のときの倭そのもの。 >>567
「南→東」などの嘘付き騙しの荒らしをする事によって、
大和説は説でも何でもなく、
ただの荒らしだ、
という事を自ら宣伝してまわり、
国民の7割から否定されているされている。 >>801
>ザラコクが、こんな無知老人になっちゃったのは
なっちゃったんじゃなくて元々なんだと思うよww
「理系の大学院卒」だとか自称しているところを見ると虚言癖もあるみたいだし >>727
>纒向は崇神らの宮であり、崇神がヒコ王で男弟
>卑弥呼がヒメ王でその意味では纏向は卑弥呼の都
男神と女神は同じ建物では暮らさない。
鰹木や千木で建物の意匠そのものが男女の区別になっているからだ。
ヒメとヒコは同じ建物ではない。 紀元180年代の奈良の原住民達は、何者達だったのだろうか、 紀元180年代の奈良の原住民達は、ネアンデルタールとは、どのような関係性が、あったのだろう 。。。 >>821
>西都原古墳群には複数の支群があるし、31基が一家系の首長墓とは考えられないし、
複数の支群があることが何か反論要素になるのか?
>畿内古墳群でもそうだが首長のみならず首長の家族や近臣も前方後円墳に葬られているぞ
纏向古墳群で、首長の家族や近臣が埋葬されてるのは何古墳なのだ。
全然数が合わないではないか。
おまえこそ適当な思いつきを書いてもムダだ。 >>745
>そこで、同族だからと理由をつけて大和の地を明け渡した。
明け渡してはいないだろ。
むしろ纒向の宮が物部系の宮とも言われているし、初期の天皇家は欠史八代と呼ばれるくらいに何も実権を振るっていなかったことからもわかる。
饒速日王家の支配する大和に居候していただけ。
それを物部氏が滅んでいることをいいことに、天皇家が主人であったかのように記紀をまとめたんだよ。 >>819
>それは物部氏が滅亡したはるか後に書かれた歴史書での扱いでしょ?
記紀が8世紀の書だからその記述が信用できないというのは構わないが
記紀しか情報がないのに、記紀の記述を根拠に、記紀に書いてないことが
正しいと言い張るその論理性の無さ、一貫性の無さがすごいな >>819
>従ってないだろ。
従ってるよ
古事記
故爾、邇藝速日命參赴、白於天?御子「聞天?御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。
故、ここに邇芸速日命参赴きて、天つ神の御子に白さく、「天つ神の御子、天降りましぬと聞きしかば、
追ひて参降り来つ」とまをして、即ち天津瑞を献りて仕へ奉りき。
日本書紀
饒速日命、本知天?慇懃唯天孫是與、且見夫長髄彥禀性愎佷、不可教以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉。
天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。
饒速日命、本より天?の慇懃たるは唯天孫是なりと知り、且つそれ長髄彥の禀性愎佷を見ゆ、
もって天人之際教える可からず、乃ち之を殺し、帥(饒速日)と其の衆歸順せり。
古事記には「邇藝速日命が天津瑞を献上して神武に仕え奉った」とあるし
日本書紀では「饒速日命が長髄彥を殺してその家来とともに神武に帰順した」と直接書いてある
饒速日自らの神宝を献上して使え奉ってたり、家来とともに帰順しているのに、
従っていないってのは通らないだろww 紀元後100年頃、実行された、ヤマタノオロチ退治事件の作戦と、神武天皇が実行した奈良盆地侵略事件の作戦は、なぜ、同じなのだろうか。。。 >>822
>倭王の権威を継承しており、それを魏から承認されたんだろ。
継承してないよ
だから委奴國王には任じられてないだろ
別の存在だよ >>830
>饒速日王家の支配する大和に居候していただけ。
ニギハヤヒは王ではない。
当時の王は日本書紀の鴨王(きみ おおきみ)こと天日方奇日方。
神武の義理兄だ。
彼の系統が大物主だ。
>それを物部氏が滅んでいることをいいことに、天皇家が主人であったかのように記紀をまとめたんだよ。
神武から崇神まで王ではない。
崇神が力づくで大物主を倒し、王になった。
易姓革命だ。
だから大物主の怨霊を怖れ大神神社を建てた。 >>826
>ヒメとヒコは同じ建物ではない。
それは全然構わんよ
辻地区の建物跡が卑弥呼の館で、崇神の館はそれよりも南の方 熊本城が、地震に持ちこたえることが、できたので、熊本城の地下に埋まっている卑弥呼が、安らかに眠り続けられるので、良いな、、、 倭国王帥升:Shuai sheng / Shuai4 sheng1
これ、普通に考えてスサノオだ。
「文献史学による記紀批判」をしている今の学者と違って、新井白石や本居宣長がそれに気付いてないはずがない。
ならばその100年後に卑弥呼:Bei mei hu / Bei1 mi2 hu1がいる。
・比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉
スサノオの100年後(5世代)の比桃@とは、つまりヒメ后(ヒメ蹈鞴五十鈴姫)だ。 >>829
>複数の支群があることが何か反論要素になるのか?
一系ではなく同時進行で複数の古墳が作られていることを意味するから、
300年を31で割るなどという計算に最初から意味がないことを示している
この程度の論理も理解できないぼんくらで、他人には見えない左側スロープが
見えたりするくらい、認知の歪みも大きいんだから他人とまともなコミュニケーションも
取れないだろ?
さっさと自分の巣へお帰りw >>837
>辻地区の建物跡が卑弥呼の館で
全然違う。
物部3代、イウマシマジ、ヒコユキ、イズモシコオ、
申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)の政庁跡だ。 >>839
>一系ではなく同時進行で複数の古墳が作られていることを意味するから、
300年を31で割るなどという計算に最初から意味がないことを示している
ごまかすな、300年弱で31基、多少の同時期古墳があっても同じこと。
で、纏向の「首長のみならず首長の家族や近臣も前方後円墳」の例をいえ。
サラッとごまかすな。 >>785
>「尺と寸」の定規を使った、という事になる。
理解力ないなぁ。寸の目盛の定規では、寸の桁が有効桁にならないんだよ。
>「1尺定規を8回」使えばよいの。
それは測定ではないね。お遊び。
>仮に、尺定規の一回の計測で1mmの誤差が発生する可能性があったんなら、
>8尺棒の寸法には、最大で8mm位の誤差が発生する可能性がある事になるの。
「ぼくの考えた計測」そのものだ。 >>829
>纏向古墳群で、首長の家族や近臣が埋葬されてるのは何古墳なのだ。
纒向古墳群とは書いてないだろ?
畿内の古墳群って書いてあるだろうがww
有名な黒塚古墳は前方後円墳だが、大王墓だという人はどこにもいないし、
これは重臣の墓と考えられている
また、西山塚古墳も前方後円墳だがこれは仁賢皇女で継体皇后の
手白香皇女の墳墓とされている
>おまえこそ適当な思いつきを書いてもムダだ。
こっちは、きちんと具体的な根拠が答えられるんだよww
左側スロープ君の書き込みは、歴史の真実とは何の関係もないから、もうさっさと
自分の巣へお帰りww >>843
>畿内の古墳群って書いてあるだろうがww
そんなことは当たり前だ、5世紀の百舌鳥古墳群などはその典型。
しかし今は纏向の話をしてるのだ、ごまかすな。
纏向古墳群時代の首長の家族や近臣が埋葬されてるのは何古墳なのだ?
さぁ言え。 >>823
>長髄彦とは、奈良の原住民だった可能性が、高いな。
原住民ではないよ。
長髄彦の父は三島溝杭耳(賀茂建角身)といい、筑紫から来た畿内の最初の開拓者だ。
一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などだ。
後から饒速日が天孫として降臨して来たので、長髄彦はそれに仕えていたわけだ。
長髄彦の姪が神武の妃となる五十鈴姫(イスケヨリ姫)であり、名門の家柄だったことになる。 >>830
>むしろ纒向の宮が物部系の宮とも言われているし
言われてねーよ!
>それを物部氏が滅んでいることをいいことに、天皇家が主人であったかのように記紀をまとめたんだよ。
おいおい、記紀をまとめたときの朝廷の実力者、藤原不比等は石上麻呂の娘婿だぞ
むしろ物部氏は持ち上げられている方だ 纏向地域は物部の謂れしかない。
あの地域と卑弥呼を結びつけるのなら物部氏の中から卑弥呼を探さないとね。
でも無理だ、いない。
卑弥呼:Bei mei hu
比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉
ヒメ后(ヒメ蹈鞴五十鈴姫)は高天原にいた鴨氏だからだ。 >>571
>(倭国東遷の時期)倭国大乱 桓霊の間で146年 - 189年<
倭国はずっと九州にあって、東遷などなく、
白村江の後で、別種分家の旧小国の大和日本国に併合吸収継承されたのであり、
倭国大乱もないから、×。 自分の思い込みを確定事項のように断言するのはトンデモの証拠
実例:ザラコク、連続句読点、左側スロープ葛城物部厨 >>789
>当たり前ではないか。
>有効数字2桁、という史料実態からすれば、3桁数字の3桁目は「変な数字」。
君【だけ】が自分勝手に決めた「有効数字2桁」だから、当たり前ではないんだよ。
>だから、1尺6寸位の「計測精度」の計測を、13.5尺という8.4倍位になる回数の計測をすれば、
>計測精度も8.4倍位に大きくなる、という事を説明して上げた。
「ぼくの考えた計測」では説明にならない。
これだけ丁寧に有効桁数は計測器具に依存することを説明したのに、理解力がないよね。
まさか、私の独自説とか思って反論してるのか?
計測で普通のことを言ってるだけだぞ。 >>577
「南→東」などの嘘吐き騙し精神的な病気で、
頭か脳がおかしくなって、
文章もロクに書ききれなくなった大和説 >>795
>いや、これまで知り得た「形容詞的な数値表現での人類の常識」だ。
「君の勝手な思い込み」は、永遠に人類の常識になることはないから安心しろ。
>>別に私の説では無いし、君のお仲間以外は皆、計算値だと分かってる。<
>何だ?、「私の説ではない」のか。つまらん。無駄な事をしてしまった。
誰がこんなところで独自説を発表するんだよ?
君が《周牌算經》も関連資料も読まないから、主流な説すら理解出来ないだけだ。
>蓋天説に関しての、これまでの自分理解で十分だ。
無理解だろ。
もう一寸千里なんて言うなよ。 魏志倭人伝時代には、倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのだろうか、、、
そして、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達は、何者だったのだろうか、、、
そして、九州のどこに倭国の都があったのだったのだろうか、、、、 >>579
「南→東」などの嘘吐き騙しの反省が出来ないようでは、
大和説も終わりだな >>849
>自分の思い込みを確定事項のように断言するのはトンデモの証拠
それはおまえ。
庄内3あるいはVが248年の証拠など一切ない。 >>588
大和説には、精神的にも政治思想的にも、変な人が多いな
根拠は、「南→東」など嘘吐き騙しの連呼や、
「朝鮮人差別の皇国史観」の連呼や匂わせ発言。 >>835
>ニギハヤヒは王ではない。
>当時の王は日本書紀の鴨王(きみ おおきみ)こと天日方奇日方。
>神武の義理兄だ。
天日方奇日方の祖父が三島溝杭耳、叔父が長髄彦だが、当時の登美の鴨王家の当主であった長髄彦が饒速日に仕えていたと言っているので、饒速日王家の方が上位だったのだろう。 >>582
「南→東」などの嘘吐き騙しや、
「大和日本国は倭国の別種の旧小国」のような史料事実の無視や、
基礎知識や正常な精神構造のない大和説者が、
思いつきを連呼しても
自分の評判落とす以外の効果はない
これ、経験則 >>857
>当時の登美の鴨王家
そんな地域にそんな王家はない。
>鴨王家の当主であった長髄彦
話しを創るな。 >>598「南→東」などの嘘吐き騙しなどの、
根拠が示せない大和説が、
議論に勝ちたいがために、
分裂幻覚の妄想で中傷しているな 纒向の土器からは、目と鼻の先の河内と交流がなく、尾張との関係が推察される。
先代旧事本紀は饒速日を中心として物部氏や尾張氏を重視しており、纒向が物部やその血を引く崇神の宮だとすれば興味深い。 >>601
「南→東」などの嘘吐き騙し大和説は、
国民の7割に否定されつつ、
嫌われて滅亡 朝鮮人差別は、良くないので、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、失敗した真実だけを、指摘すれば良いな。 >>602
だから「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説には、
正常な人間がいないと言われる 「国宝」中平銘鉄刀は後漢が直接卑弥呼に与えたのか、
それとも魏が前王朝のものを卑弥呼に与えたのか、
どちらにしても和邇氏の系図に卑弥呼がいるのではとの仮説がなりたつ。
いるもなにも和邇氏はトヨから始まる。
卑弥呼とトヨの関係は姪っ子の孫になる。
まさに宗女だ。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 >>859
五十鈴姫は長髄彦の妹の娘だよ。
鴨王家だと言うのなら、初代の当主は賀茂神社の三島溝杭耳(賀茂建角身)だし、二代目が息子の長髄彦になる。 >>604
だから、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説には、
正常な人間がいないと言われる 本当にジャイアンのような話が出てきたでしょ
ミンメイの曲と同じような話
『音楽の起源を伝える神話』 >>606
↑
だから「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者には、
能の正常な人間がいないと言われる >>840
>物部3代、イウマシマジ、ヒコユキ、イズモシコオ、
>申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)の政庁跡だ。
それ、何一つ根拠がないんだが?
物部氏の本居地は石上だぞ 賀茂建角身命 ウイキペディアから引用
山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。
『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。
神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導し、金鵄として勝利に貢献した。
『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。 >>614
思わず自己紹介してしまう「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説老人 >>615
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説者は、
いつも、すぐ論破されて荒らしになるなあ >>617
>オラは畿内説だ
まあ畿内説でも東征があったかどうかは意見が割れるな
おれは魏志倭人伝にある倭国大乱がそうだったと思う立場<
畿内も倭国大乱もなかったから×だし、
大和説者なら、「南≠東」などの嘘吐き騙しで、×。 >>844
>そんなことは当たり前だ、5世紀の百舌鳥古墳群などはその典型。
>しかし今は纏向の話をしてるのだ、ごまかすな。
であるなら最初から西都原古墳群は比較対象じゃないだろ?
西都原古墳群は古墳時代を通しての300年間で31基というのと
纒向古墳群の古墳時代最初期のみで5基の倭国最大の墳墓では比較にならないよ
やはり、左側スロープ君は、まともな議論ができる知性がない
早く自分の巣へお帰り
誰も来なくてさみしくても表の世界に出てこなくてよろしいww >>619
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
説が完全に破綻して崩壊したのに、
未だに懸命に宣伝して拡めようとする
大和説者の皮肉 あほるーぷ
とことんやらば
玉もあり(いっくけんじょー 以前:天孫降臨の舞台は北部九州だ!
↓
現在:高天原は葛城だ!
所詮、素人の思い込みなんて、こんなもの >>620
>割れない
誰も東征を認めてない <
「南→東」など嘘吐き騙しがバレても、「誰も認めない」とウソを付いて、
世間の人々を騙そうとする大和説。 >>855
>庄内3あるいは?が248年の証拠など一切ない。
248年が庄内3式土器が使われていた年代幅の中に入るというのはほぼ確実
一つの土器様式が5年以下の期間しか使われなかったなどというのは、
その出土量からは考えられない >「南→東」など嘘吐き騙し
1年365日、朝から晩までこのスレで同じことを連呼するこの人の人生って、
一体何なんだろうな?
まさに『妄執』の域。
邪馬台国がどこかなんて、そんなに人生かけてこだわることかね?
どーでもいいじゃん!アホか?
自分は畿内説だけど、畿内が蓋然性が最も高いので畿内説をやってるだけで、
別の証拠が出て来たら、アッサリそっちに乗り換えるよ。
だって、どーでもいいことだし。蓋然性が最も高いところが邪馬台国。それだけのこと。
そして九州の目は、全くない。出雲や四国の方が、まだ可能性があるくらい。
余生の全てをかけてこのスレに同じことを書き込み続ける、そのこだわりが分からないね。
なぜにそこまで九州にこだわるのか。 大国主命と田心姫(たごりひめ)の子の味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
別名を賀毛(賀茂、鴨)大御神(かものおおみかみ)
鴨王家の初代と言うならば、そちらだろう
筑紫宗像と出雲の両親を持つ由緒正しい家系だ 仮に四国か出雲で三世紀の古墳を掘って、女性の被葬者が出て来て、
その胸の所に『親魏倭王』の金印が出て来たら、そりゃ、どんだけ意外であろうとも、
そこが邪馬台国に違いない。
ただ今のところは、99.9%くらいは奈良盆地だろ。
箸墓がもし未盗掘であれば、あれを掘れば後円部から卑弥呼の骨が出て来るし、
魏からもらった鏡が出て来る。金印も、もしかしたら出て来るかも知れない。 正当なアカデミアを、素人が打ち負かす。
そういう夢を見てるんでしょ?九州説は。
くっだらねー。
ほんっと、くっだらねー。
そういう下劣な党派性こそ、アカデミズムから最も遠いものだ。
学問的な真実は、党派性から決まるのではないのだよ。
学問的な真実は、エビデンスとロジックの積み重ねから決まるのだ。
それが分からん不純な素人は、プロには永遠に勝てない。
素人だから負けるのではない。不純だから負けるのだ。
お前の人生は、全て徒労だ。無駄だ。ゴミだ。ザラコクとやらよ。 大和庄内3式は北部九州TB期古相〜新相と併行
河内庄内式期Vは北部九州TB期新相〜UA期と併行
北部九州TB期は3世紀前半、UA期は3世紀第3四半期 先代旧事本紀』の巻五「天孫本紀」
(饒速日の尊がなくなったとき)天の羽弓矢(はゆみや)、羽羽矢(ははや)、神衣帯手貫(かむみそおびたまき)を、登美(とみ)の白庭の邑に埋葬して、墓とした。
物部氏の本拠地の一つが長髄彦がいた登美であったことは間違いない。
また、神宝を神武に献上などしていなかったことになる。 『日本書紀』で神武天皇が兄磯城を攻めるためにとった進軍経路を見ると、「忍坂の道」「墨坂」「宇陀川」などの地名が出てきて、それに続いて金鵄の話や「鳥見」という地名が出てきます。
饒速日命は、この鵄の話や「鳥見」の地名の話のすぐ後で長髄彦を倒して、神武天皇に帰順しています。
これを見ると、饒速日命は桜井市の鳥見山付近にいたほうが自然なようです。
古代史俯瞰より引用
桜井市の纒向遺跡とは、誰の宮だったのだろうなあ。 >>889
>桜井市の纒向遺跡とは、誰の宮だったのだろうなあ。 <
倭種の別国の豪族の墓 饒速日の遺体は高天原に戻された。(先代旧事本紀)
福岡県宮若市磯光(いそみつ)266に天照神社(あまてるじんじゃ、てんしょうじんじゃ、主祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)が鎮座している。
旧地名は福岡県鞍手郡宮田町磯光で、宗像大社の神領だったので地名が「宮田」となった。
天照神社は笠置山(425m)山頂にあった饒速日の神霊を1308年に遷座したと云う。
戦国時代には宗像氏が山頂に築城し、その後は秋月氏に移ったと伝えられ、豊臣秀吉の九州平定により廃城となった。
現在では笠木城址として案内板が立てられている。
古代史探訪より引用
また宗像だ。
大和の登美にいた饒速日と鴨一族(長髄彦や五十鈴姫)のいずれも、背景に筑紫の宗像の影が見え隠れする。 ちなみに饒速日のフルネームは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
出雲の国譲りを受けて天照(天津神)と大国主(国津神)の両方の権威を継承した倭王そのもの。
従って登美王家の長髄彦も逆らえずに饒速日を主君として迎えたのだろう。 纒向遺跡がただの田舎神社以上の意味を持つとすれば、饒速日を祖とする物部氏や尾張氏の話題を避けて通れない。
纒向から出土する土器が尾張のものが多いこと、それでいて文化圏としては最初に饒速日が降臨した河内と共通であること。
そこに筑紫から吉備を経由して来た神武が持ち込んだ文化が融合し、前方後円墳が定形化されたのであろう。
神武や饒速日に先立って大和に入っていた鴨一族がこれに加わり(神武も饒速日も妃は鴨一族)、物部氏を主軸とした初期のヤマト王権が完成したと言える。
そこには卑弥呼や邪馬台国が入り込む余地はない。 若宮の宗像社領も鎌倉時代から
平氏残党討伐で功績を挙げた下野国の宇都宮信房が宮田の地頭職 長髄彦の父、五十鈴姫(神武の妃)の祖父は三島溝杭耳(賀茂建角身)。
その父は大山積(山の神)、叔父は綿津見(海の神)。名前がツミで終わる家系のようだ。
大山積や綿津見の父は伊奘諾であり、彼らの本拠地は博多湾沿岸である。
(綿津見は志賀島、伊奘諾は小戸=筑紫日向小戸阿波木原) >>898
若宮がいつから存在してたかわからないではないか。 若宮荘は、源頼義が京都六条左女牛井に創建した京都六条若宮(左女牛若宮)を
分祀したと伝えられる水原の若宮八幡宮がその名の起こり このスレ的には、青谷上寺地遺跡の殺傷人骨はどういう評価?
倭国大乱と結びつけたりする? 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1555782874/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ テンプレ
「可能性がある」
「推認する」
は業界用語かい
曖昧な言い方だと思うが >>899
>五十鈴姫(神武の妃)の祖父は三島溝杭耳(賀茂建角身)。
母方の祖父な。
正確に言うように。
>彼らの本拠地は博多湾沿岸である。
溝杭さんの本拠は大阪の茨木市の東奈良遺跡。
日本最大の銅鐸遺跡。
そこに溝杭さん以前も何代も住んでいた。
東奈良遺跡が一代で終わっているような遺跡ではないからな。
博多なんて関係ないので少し黙ろうか。 >>645
>>「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しを使った田中元浩は、
それだけでも嘘つき騙しの・・・・詐欺師である事がバレバレなので、 読まないよ。<
>現代の研究者が、現代の地名で研究対象の範囲を示しただけ<
ダメだ。
「畿内」はその中心地に「天子」や「天皇」の実在を前提とした文言であり、
古代の大和周辺に天皇が実在した可能性が全くないから、
田中は、国民を騙そうをした嘘吐き騙しの犯罪者的な詐欺師だ。 >>895
>神武や饒速日に先立って大和に入っていた鴨一族がこれに加わり(神武も饒速日も妃は鴨一族)、物部氏を主軸とした初期のヤマト王権が完成したと言える。
>そこには卑弥呼や邪馬台国が入り込む余地はない
神武は前方後円墳とは関係ないし、山稜に埋葬される文化を持っており、
大和の畝傍山で間違いなかろう。
先住鴨族も前方後円墳とは関係ない。。
彼らも山稜に埋葬される文化を持っている。
鴨系神社が今も山をご神体とするのはそのせいだ
その鴨族の墓の場所が高天原(御所市高天)。
鴨の語源はカミ、彼らは高天原に住む神々であった。
物部は王権ではなかったし、九州と邪馬台国は関係がない。 >>904
>曖昧な言い方だと思うが
思う根拠は?
「根拠を示さずに決めつけ」したら、それはあなたの妄想です >>906
>古代の大和周辺に天皇が実在した可能性が全くないから、
>田中は、国民を騙そうをした嘘吐き騙しの犯罪者的な詐欺師だ。
平城京も藤原京もあるのに
九州説は朝からなに発狂してんの >>906
>ダメだ。
>「畿内」はその中心地に「天子」や「天皇」の実在を前提とした文言であり、
なんてザラコクが思いついた政治思想をいくら連呼しても
根拠がないからね
ダメだ
w >>653
>祇園山古墳は方墳<
いや、不定形の、それまでには無かった「高冢」であり、列島における初元的形態。
>那珂八幡古墳は最近の調査で、通常の纏向型前方後円墳より前方部が長いという報告が出たところ
後円部径:前方部長が纏向型では2:1(=8:4)
那珂八幡では8:5 帆立貝だという人はいない
例えば帆立貝式の男狭穂塚古墳は後円部径が132メートル、前方部長さが40メートル
比にすると33:10、比較しやすいように少し丸めると8:2.5くらいになる <
那珂八幡は、円部も方部も不定形性がはっきりしており、
列島におけるも前方後円墳の初元的な形態。
>>久留米には円墳もあった。<
>盟主墳ではない序列下位の墓では、近畿地方でも円墳はたくさんあるよww <
類スレ主は、九州には円墳が存在しない、というような言い方のウソを付いた。 >>911
>那珂八幡は、円部も方部も不定形性がはっきりしており、
「不定形性がはっきりしており」って
これ、日本語? >>911
>類スレ主は、九州には円墳が存在しない、というような言い方のウソを付いた。
いつ、どこで? >>655
>だから、祇園山古墳、那珂八幡古墳、久留米の円墳では、
那珂八幡古墳だけが地域の盟主墳であり、奴国首長の墳墓だと想定されている訳だ<
高冢の祇園山も、天円地方の那珂八幡も、その不定形性から、
列島における高塚的前方後円墳の初元的モデルになったもの。
また、那珂八幡は奴國ではなく、邪馬壹國の首長クラスの墓。 >>659
じゃなくて、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
応答したら、大和説が確実に論破されてしまってきたから
とうとう大和説者は、
対話を拒否して現実逃避するようになっただけでしょ >>664
一番拒絶され無視されているのは、いわゆる、
「畿内」や「邪馬台国」や「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説。 >>902
>このスレ的には、青谷上寺地遺跡の殺傷人骨はどういう評価?
>倭国大乱と結びつけたりする?
年代が合うから結び付けないほうがおかしいんだが
環濠集落内で100人以上の男女殺傷とか
異例すぎて評価がむずい
類例待ち >>911
>>祇園山古墳は方墳<
>いや、不定形の、それまでには無かった「高冢」であり、列島における初元的形態。
2世紀前半の其国の男王の墓はどうするの?
まぁこれは纏向説者にも言えることだが。 >>893
>ちなみに饒速日のフルネームは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
あと付け。
ちなみに鞍手になぜニギハヤヒ関連の神社が多いか、
丁未の乱(ていびのらん)で氏んだ物部守屋の子・片野田が筑豊に流されたから。
つまり6世紀末以降の話になる。 >>923
>テンプレにあるやん
>まあ井原で吉
そんな意味不明な2行を書くより、何古墳だと1行で書いたほうが楽なのに。
2世紀前半の其国の男王の墓は何古墳なの? >>924
それが意味不明て、あなた相当無知ね
古墳なわけがない >>925
古墳じゃないなら何?
どこにあるの?
>>926
瀬戸内にはいくらでもあるよ、平尾2号とか。 平尾2号は讃岐の綾歌ね。
突起付きの円形墳丘墓なら前方後円墳の祖型といえる。・ >>908
俺でもわかるよ
「可能性がある」 ⇒可能性が無い場合もあるということ
「推認する」⇒100%確信が持てない場合に使う 2世紀前半の其国の男王の墓を巡って説明が広がり、畿内邪馬台国の焦点はますますぼけてきたようだ。
けっきょく今の纒向箸墓説は、戦後昭和のころ、
糸島中学の代用教員だった原田大六が唱えて一世風靡した箸墓説の剽窃パクリだったのではないかな、、。 >>668
>初期天皇の実在は保証されないが、通常は崇神天皇以降の実在を認めるのが通説となっている <
客観性と信頼性の高い同時代記録である中国史書に拠って、
唐代初期以前の大和の「天皇」の存在は否定されており、
九州俀國のタリシホコが「天子」を自称した記録があるだけであり、
記紀は、九州の倭國の存在や歴史を抹殺盗用造作した半分偽書であり、
従って、「天皇」の文字使用は、×。
勿論、「神武」や「磐余彦」や「狭野」とか書くだけなら、構わない。 >>908
>「根拠を示さずに決めつけ」したら、それはあなたの妄想です
妄想だと思う根拠は? >>671
>でも結局、編年研究が進んで邪馬台国の3世紀が既に古墳時代だとなった時点で九州説は死んだんだよ<
でも結局、大和説者側の「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソつき騙しが判り、
倭國は唐会要倭國伝の「正北抵新羅」によって、九州であった事が判り、
大和日本国は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった事が判り、
更に九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国で東征将軍らの支配地になった事も判り、
倭人伝記録の考古の存否や、土器や墓の編年研究が進んで、
大和の纏向の発展が3世紀末以後だとなった時点で、
大和説は死んだんだよ 。 >>672
中傷好きなのは、
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
中傷に走った大和説者の方 >>678
そもそも大和説が、
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
荒らしてる時点で、一発で鼻つまみに認定 けっきょく今の纒向箸墓説は、戦後昭和のころ、
糸島中学の代用教員だった原田大六が唱えて一世風靡した箸墓説の剽窃パクリだったのではないかな、、。ww >>679
大和説学者らが、
「南→東」や「畿内」や「天皇」や「邪馬台国」などの嘘付き騙しをし、
章子さんの清書原稿を「喜八郎さんの筆跡だ」という、
卑劣な「偽鑑定偽造」犯罪に手を貸していたことが判明し、
これは『虚偽による言われなき非難中傷』にあたり、
名誉毀損の民事訴訟なら確実に負ける事案だ
大和説者はレベルが低すぎる >>683
>>伊都国と奴國の外縁部同士の距離が「百里」だ。<
>それって各国内の移動距離が 12000余里には含まれないって
超支離滅裂説なんだけど<
また変な曲解捏造の超支離滅裂の・・・・大和説者が現れたらしいな。
「東南至奴國百里」には、「至」の前に途中移動があった事を示す文言がないから、
魏使らは奴國へは行っておらず、通ってもいないのだ。
大和説ってこんなにデタラメなもんなの? >>691
>>神武の東征を認める立場でも、神武の東征と卑弥呼の時代・纏向の建設では、年代が違うから、<
>年代が違うという根拠は? <
勿論書紀の記載や、二中歴の説明が根拠だが、
日下の上陸戦をするには、
南方付近から日下までの「河内湾」の存在が必要であるが、
考古的に、「湾」であったのは紀元前数世紀頃以前であった、
という古田論証も根拠になる。 >>937
畿内説が畿内説スレ荒らして何になるんだ?
九州説にとっては嫌がらせになるんだろうけど >>942
仕方が無いよ
キナイコシが一人で何役もしてるからww >>905
>溝杭さんの本拠は大阪の茨木市の東奈良遺跡。
>日本最大の銅鐸遺跡。
それは定説となっているのか?
三島溝杭耳の本拠地の一つは愛媛の大三島だけどね。
まあ、大阪を持ち出すなら京都の下鴨神社も黙っていないだろうし。
>>907
>神武は前方後円墳とは関係ないし、山稜に埋葬される文化を持っており、
前方後円墳は天皇家と関係がないわけだ。
やはり物部か?
>>909
>平城京も藤原京もあるのに
年代が違いすぎるだろ。
畿内説ははるか後世のものを過去に向かって投影して夢を見ている。 >>931
>「可能性がある」 ⇒可能性が無い場合もあるということ
「可能性がある」と 可能性が無い場合もあるのだと?
日本語学校に行ったか? >>944
>年代が違いすぎるだろ。
>畿内説ははるか後世のものを過去に向かって投影して夢を見ている。
異常なまでのピンボケに紅茶吹いた >>887
>先代旧事本紀』の巻五「天孫本紀」
前に記紀は皇統が好き勝手に書いたから信用ならんって書いてたのは>>887じゃないのか?
先代旧事本紀こそ、物部氏系が好き勝手書いた信用度が落ちる書だとは思わないのかい?ww
籐氏家伝が記紀より信用できるかって言えばそうでもないだろ?
そういうよく知られていない書の一部だけ切り出してきて、歴史の真実はこれだ!みたいな
書き方をするのが歴史系トンデモ本の基本構造だよ >「可能性がある」と 可能性が無い場合もあるのだと?
(まず可能性は無いのだけれど、そういってしまっては実も蓋もないから)20〜30%くらいなら全くないとは言いきれない・・、
こんな感じのときだな。 >>902
>
「少なくとも109体分の人骨は、「SD38」と名づけられた溝の中に打ち捨てられたような状態で
出土しました。この人骨群の中から鋭い刃物で傷つけられた骨が110点見つかりました。何らかの
理由で殺傷された人々と考えられます。これらの人々は弥生時代後期後葉(約1800年前)に生きた
人々でした。
また、中には病気の跡を残した人骨も見つかりました。結核の症状を示したものは日本最古の
感染例です。」 >>911
>那珂八幡は、円部も方部も不定形性がはっきりしており、
>列島におけるも前方後円墳の初元的な形態。
ザラコクが那珂八幡古墳を「帆立貝型」としたのを、数値を示して否定されてるのに
何をトンチンカンな返しをしてるんだ?
「ザラコクの書いたことは大間違いでした
嘘つき野郎でごめんなさい」って謝るところだろうが!
それに、後円部が不整形な前方後円墳は纒向型前方後円墳とされ、その初現は纒向古墳群だ
北部九州最大国の奴国中枢の比恵那珂遺跡群の首長が、畿内様式を踏襲した纒向型前方後円墳に
葬られていることは、比恵那珂遺跡群・奴国が畿内纒向の集団と緊密な協調関係にあったことを
示している
この時点で、畿内と無縁な九州のみの倭国などあり得ないことが確定
さらに言うと、この比恵那珂遺跡群をザラコクは弥生銀座と呼んでいて、
奴国を日向峠近辺に押しやった上で、邪馬壹國の中枢域と考えている
その「ザラコクの夢想する邪馬壹國」は畿内勢力の傘下の存在であることが、
纒向石塚古墳よりも小さな纒向型前方後円墳である那珂八幡古墳によって
考古学的に示されている訳だ >>911
>類スレ主は、九州には円墳が存在しない、というような言い方のウソを付いた。
ザラコクはどこまでも嘘つきだなぁ
こっちが言っているのは、「古墳群の盟主墳は前方後円墳だ」だよ
前スレ>609
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1555333387/609
「>延々と続く古墳の多様性は度外視か?
たまにこれを言い出すバカが要るけれど、前方後円墳体制は
各古墳群の「盟主墳」の系列=首長墓の系列が前方後円墳(前方後方墳も可)で
作られる体制のことだ
円墳や帆立貝型、方墳は、盟主墳の墳形には採用されない」 >>924
>>まあ井原で吉
>そんな意味不明な2行を書くより、何古墳だと1行で書いたほうが楽なのに。
井原と書かれて、井原鑓溝遺跡に思い至らず、「意味不明」だと思うようなら
無知というより何も知らない、調べない人だってことだ
左側スロープ君は自分の巣にお帰りって何度言われれば気が済むんだ? >>934
>妄想だと思う根拠は?
>>908は九州説の>>348の定義に従っているだけだよ
「根拠を示さず決めつけているから、妄想なんだってば。
妄想とは、根拠のない思い込みのことを言う。
畿内説は妄想ばかり。」
これ以上ないくらいのゼロ距離ブーメランでしかないんだがねww 青谷上寺地の人骨は、5300点の人骨のうち
135点の人骨に殺傷痕(少なくとも10体分)が認められるから
10人は何らかの原因で殺された >>950
>この時点で、畿内と無縁な九州のみの倭國などあり得ないことが確定
その時期が3世紀後半な。 >>956
>その時期が3世紀後半な。
そういう世間知らずの勝手編年に騙されるようなのは
素人でも知識の足りない連中だけだよ けっきょく >>1 の纒向箸墓説は、戦後昭和のころ、
糸島中学の代用教員だった原田大六が唱えて一世風靡した箸墓説の剽窃パクリだったのではないかな、、。 >>943
何役もしてるのは九州説じゃ
たまにあからさまに自分で自分をほめてるだろ >>948
そういう我流定義で押し通すのが
巷間トンデモ説 むか〜し、英語の時間に習ったよ。
「可能性」というフレーズは英語由来で、その本意は「期待できない」という意味。
ありうるとしても、せいぜい20〜30%の確率の時だって・・。 >>960
そんなものを使ったことはないなあ。
これまで何十人をその名前で呼んでいるのやら。 >>962
それをさも70〜80パーセントくらいのような印象で積み上げた砂上の楼閣が畿内説なんだよ。
実際には邪馬台国が畿内である確立は5パーセント未満だろうね。 >>479
畿内説は邪馬台国以外の可能性を探索していないよな。
もともと大和王権の研究なんだから別の仮説を立てて探ってみりゃいいのに。 纒向はもう物部氏(饒速日、崇神を含む)の宮でいいだろ。
邪馬台国はアキラメロ ネットでいくら喚いても、もう九州説が復活することはない
世の中、畿内説前提で動いてる
ひっくり返したければ証拠を出せばいいだけなのに、一切出そうとしないで
ひたすら中傷とデマ連呼 「手を洗わないと風邪をひく“可能性“がある」
さて手を洗わないで風邪をひく確率は??
可能性があるとは確信に基づくものでは無いのは明らか >>967
>畿内説は邪馬台国以外の可能性を探索していないよな。
そんなことはとっくにやり終わってるんだよ
いろいろと可能性を探索した結果、他にはないってことになってるんだよ
とおの昔にね
それを理解できない情弱チェリーピッカーだけが未だに九州説にしがみついている
惨めなことだな >>968
>纒向はもう物部氏(饒速日、崇神を含む)の宮でいいだろ。
崇神天皇は物部氏じゃないだろうがww
本当に九州説の連中は基本認識がおかしいというか根本的に欠けている
物部氏も邪馬台国の参加者だよ >>957
知識があり過ぎて、トンデモ説に傾くことはよくあるケース。
貯め込み過ぎるから、脳内ショート起こして、あらぬ結論に行きつく。
アインシュタインくらいなら、ショート起こさんけどな。
お主くらいのは、ダメダメ。 >>967
そう、その通り。
そこが肝。
なのにどうして、邪馬台国にこだわるの♪
学究心だけじゃない、何かがあるのね♪
わははははは。 安物あたりはそれなりの知識を生かして
ブームが終了した今でも夢ロマン爺さんを集める商売をやってるタイプだね 学問では日本の古代の実像を探求することが目的なので
外国の史書に記された邪馬台国や倭国の範囲とは関係がなくても
遺物遺構は重要であるけれども
夢ロマン九州説の場合は信号機しかなくても
邪馬台国にこだわる何かがある >>976
>外国の史書に記された邪馬台国や倭国の範囲とは関係がなくても
だったら「邪馬台国」畿内説と名乗るなよ。
普通にヤマト王権の起源を探ればいいじゃないか。 けっきょく >>1 の纒向箸墓説は、戦後昭和のころ、
糸島中学校の代用教員だった原田大六が唱えて一世風靡した箸墓説の剽窃パクリだったのではないかな、、。 >>977
「邪馬台国」畿内説と名乗ってるような学術論文はなかろう
確かこのスレタイPart1は夢ロマン九州作り話のほうが
Academic畿内説はこっちでやってくれということで立てたんじゃないかな
そして夢ロマン九州作り話の爺さんがやって来て
何故学問では畿内なのかわからないから
誰か説明してくれと懇願したのでテンプレができた >>979
まだ畿内説に騙されてる事がわからいのかなぁ それにしても・・・老婆の話なんだよな、
駆け落ち?そういうことを言っていたり
老婆の代の話ではない
家は本物の家なのかな? 『社家 意味』
調べてみると神主?
そういう家みたいだし >>976
信号機の下には、巨大遺跡が眠っていた…。 >>977
「邪馬台国」が畿内地域であったという説が
「邪馬台国畿内説」と名乗って
なにが悪い 『駆け落ち』
何でも良いんだけど、
このようなシーンがあったり
画像をググってみてw >>973
>知識があり過ぎて、トンデモ説に傾くことはよくあるケース。
>貯め込み過ぎるから、脳内ショート起こして、あらぬ結論に行きつく。
知識じゃなくて「情報」なんだよ
判断に必要なのはね
多くの情報が整合的に説明できるかどうか、がある説が適切かどうかの判断基準
九州説は多くの情報を「見ない、聞かない」で見て見ぬフリをすることで
虚勢を張っているが、そこがチェリーピッキングだと非難される根源
短里がないってのは確定事項
魏志倭人伝の地理旅程記事がいい加減というのも確定事項
3世紀には奴国と畿内勢力が協調関係にあったというのも確定事項
>アインシュタインくらいなら、ショート起こさんけどな。
アインシュタインは大学に落ちるような学生だったんだよ
不確定性原理は最後まで納得しなかったし
>お主くらいのは、ダメダメ。
根拠は?ww >>978
逆だよ
糸クズ系九州説が「原田大六が唱えて一世風靡した」平原1号墓アマテラスの墓説に頼りすぎなんだよ >>982
there is a possibility >>980
>まだ畿内説に騙されてる事がわからいのかなぁ
騙す、騙されるというのは科学からほど遠い発想
お隣の国の発想もそうなんだけど、自分がやっていることは他人もやってると邪推するんだよね
九州説ってそんなのしか残ってないじゃないかww その犬は暴れる可能性がある
There is a possibility that the dog will be violent.
それは邪魔になる可能性がある
It's likely that will cause trouble.
病気の可能性がある
There is a possibility of illness.
変化する可能性がある
There is a possibility it will change. >>984
>信号機の下には、巨大遺跡が眠っていた…。
吉井信号バカも来なくなったね
まあ、出てから話せばいいんじゃないですかって話だが、
弥生末期の海岸線から考えて、大遺跡がある可能性はほぼないけどね 可能性を認める表現
かもしれない ・ ひょっとして ・ もしかすると ・ ともすれば ・ ともすると
・ ひょっとすると ・ 或いは ・ あるいは ・ もしかして PART2
可能性がある・・・・・実在・実現するかもしれない状態
あり得る ・ 考えられる ・ 否定できない ・ あるかも知れない ・ 不可能ではない ・ 無くもない もうそんな言葉尻の揚げ足取りくらいしか反論できるポイントがないのかねぇ
可能性が高い
可能性はある
可能性は否定できない
これらは全部程度が異なる表現だが、「可能性」という言葉が使ってあったら
全部一緒くたに否定するって態度だよなww
まあ、日本語の不自由な人なんだろうww つまり、邪馬台国畿内説は、99.5パーセンテージ、叩きつぶされました、、、 このスレッドは1000を超えました。
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