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邪馬台国畿内説 Part456
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/10(金) 23:40:03.36
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1557359074/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:42:00.43
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:42:38.02
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/10(金) 23:42:59.18
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/10(金) 23:43:22.37
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/10(金) 23:43:46.87
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/10(金) 23:44:12.78
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/10(金) 23:44:35.36
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:45:03.21
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:45:25.85
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:45:53.27
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/10(金) 23:46:24.06
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:46:45.70
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※

実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:47:05.45
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:47:33.15
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:48:02.73
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:48:24.14
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:48:49.47
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:49:11.41
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:49:39.79
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0021◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:50:03.55
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:50:25.09
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:50:49.29
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0024◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/10(金) 23:51:12.39
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0025◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:51:37.47
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0026◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:52:07.36
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0027◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:52:36.77
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0028◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:53:00.18
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0029◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:53:20.94
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0030◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:53:43.89
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0031◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/10(金) 23:54:06.47
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0032◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:54:26.81
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0033◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:54:51.46
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0034◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:56:12.24
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:56:36.45
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:57:01.04
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0037◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:57:21.88
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:57:42.86
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:58:02.31
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0040◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:58:21.69
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:58:42.69
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:59:02.10
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/10(金) 23:59:27.07
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:00:56.10
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:01:20.43
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:01:41.22
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:02:04.28
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0048◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:02:23.85
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:02:47.18
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:03:11.54
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0051◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:03:32.51
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:03:54.58
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:04:17.21
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:04:37.64
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/11(土) 00:04:58.54
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:05:21.54
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江、尾張、三河などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0057◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:05:44.44
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2019/05/11(土) 00:06:08.70
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0059◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/11(土) 00:06:30.81
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0060◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:06:56.94
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
0061◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:07:22.14
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0062◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:08:00.08
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0063◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:08:22.15
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0064◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:08:45.97
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
0065◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/11(土) 00:09:08.40
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0066◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/11(土) 00:09:32.22
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0067◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/11(土) 00:09:55.79
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値を示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0068◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/11(土) 00:10:55.14
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし
0069日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 00:13:21.07
今日びっくりしたこと

ザラコク以外で「歩幅で距離を測る場合は単歩だろう  複歩で測るバカはいない 」などと
主張するバカがいたこと
0070日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 00:14:23.78
まあザラコクはさらにその上を行く「足裏長」だという超絶バカではあるけれど
0071日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 00:17:07.79
短歩と複歩では、同じ距離を測るときの歩数が倍違うというのも、
地味なことではあるが複歩が使われる理由になっている

数字が大きくなる、数える「回数」が多くなる、というのは、計数を間違う原因になる
0072日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 00:19:59.70
まあ、きちんとした知識があれば、一歩=六尺という公定の度量衡が
複歩以外の何ものでもないのは、考えるまでもないことなんだがな
0073日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 00:25:07.96
前スレ>987
>なにも関係ない

関係ない訳でもない
歩が複歩で一歩=六尺という確認は、短歩も短里もないことを証明している

つまり、九州説の行程論のほぼ唯一の立脚点である短里説が破綻していることの証明なんだよ

>九州説が恥をかくだけのこと

>つまり、いつもと同じだ

これは同意ww
0074日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 00:28:29.39
前スレ>984
>伊能忠敬と西晋の測量士を一緒にするんじゃねえ

あれ?おかしいなぁ?

「複歩で測るバカはいない」っていう主張だったのに、
「伊能忠敬が複歩で計っているのは認める」んだ?

どこまでもバカだな!ww

お前、九州説だろ? これは絶対にあたるwww
0075日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 00:31:57.40
六拾弐病

六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。

その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。

似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 00:33:11.94
全1病

全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の強迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 00:59:44.98
>>71
>数字が大きくなる、数える「回数」が多くなる、というのは、計数を間違う原因になる

畿内説は次から次へと言い訳を考えるんだなあ。
どういう精神構造なんだろう。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 01:21:22.32
>>79
>畿内説は次から次へと言い訳を考えるんだなあ。
>どういう精神構造なんだろう。

その前に、洋の東西や時代を問わず、歩測の基本は複歩だっていうのはちょっと調べれば
明白だろ?

いつまで恥さらしを続けるんだ?ww

半芝も知らずに全芝を笑うようなやつばかりだから、九州説としては平常運転だがなww
0082爆笑1
垢版 |
2019/05/11(土) 04:40:02.52
997 名前:日本@名無史さん 2019/05/10(金) 21:55:17.86
ちくしょう  桜井市纏向学センターのやつめ

無用の長物に文句言う ヤラセ
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:33:38.26
454>>673
>そのうちの仮称「ヤマト国」を中心に、吉備、出雲、丹波、滋賀、おそらく東海、
北部九州の奴国が談合相乗りで共立したのが卑弥呼だよ<

「南≠東」などに拠って、スレ主は、×。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:34:31.95
454>>674
>それで、どうやって奴国から邪馬台国まで水行、陸行で行くんだ?ww<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから×であり、
魏使らは奴國を通っていないから×だし、
末盧國から邪馬壹國女王之所都へは、水行しないから、×。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:35:48.70
454>>681
大和説のやつらは、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者らの本しか読んでないから、
基本的な知識に欠けるわ
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:36:58.29
454>>685
>>畿内説を通すには文献ガン無視するしかないのかw <

>どの文献のどの部分をガン無視してると認識しているの?
その部分を「具体的に引用」してくれるかな?
>議論したかったら、その程度はできるよな? よほどの『無能』でもない限り? <

スレ主が「南→東」と嘘つき騙しをした「南」だよ。
その程度は見つかるよな?。よほどの『無能』でもない限り?。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:38:10.57
454>>699
>どうらやソレは「九州説死亡のお知らせ」ですのよ
九州でソレがあるのは、どこ?<

確かどなたか?が、
朝倉付近の小地域國の「宮室樓觀、城柵嚴設」の例を書いておられたし、
吉野ケ里もあるし、
また、安徳台からもおそらく見つかる。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:39:20.38
454>>702
>「宮室」が建物D、「樓觀」が建物B、「城柵」既出 はい、クリア<

建物Dの「居住生活痕跡」が全く不明だし、
建物Bの「高い建築」の石床などが見つからないから、×
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:40:18.82
454>>704
>>現実の地理と記載里数の比率が、有効数字1桁近似値程度できちんと一致しているし、<

>そうなる場所を探しただけだから 循環論法になって 九州説なペケ <

魏使らが「そうなる場所を探した」なんて、
有り得ない妄想詐欺論法になっているから、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、ペケ。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:41:11.68
454>>706
>>(范曄の書き分け)帯方郡と楽浪郡の距離も近くにほぼ隣接している、
という程度の判断でしかなかった、<

>一つの郡を分割したのだから完全に隣接している はい、失格 <

「同じ事」を言っているだけで、反論になっていないから、
スレ主は、・・・・アホ詐欺師であり、×。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:42:08.20
454>>707
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説って、
その記述の中の「自為王以来少有見者 以婢千人自侍」は絶対に引用しないよな
纏向の掘立式建築群では、あんな狭いとこに1000人の婢なんてどうやっても居場所がない
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:42:55.51
454>>708
>垣根か何かも分からん穴を見て城柵と妄想する畿内説ってwww<

ふーん。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:46:03.24
>>90
>魏使らが「そうなる場所を探した」なんて、

おかしな主語を捏造したザラコクがペケなのです
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 05:49:28.20
>>89
>建物Bの「高い建築」の石床などが見つからないから、×

あれ、ザラコクが「石床」なんてキウスの珍発明語を使いだしたぞ
変だな
だれが誰なんだ?
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 06:25:36.18
454>>716
>唐が中国の代名詞なんだよ カラカサや唐獅子と同じだよ 別の国じゃない<

丈六銘文には「隋」というつもりで書かれているから、
書紀のインチキは明らかであり、
釈日本紀引用の延喜講記には、新唐書に書かれた開皇末の隋への遣使隋は書かれているが、
大業4年の裴清の渡日は書かれておらず、
唐の武徳中に日本国号の承認だけが書かれており、
古田さんの「12年後の(唐代の)裴世清の渡来」の論証に拠っても、
書紀のインチキは、明らかである。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 06:32:12.61
BS TBS の邪馬台国の番組 見た

中國の学者は九州説

コリャ畿内説の学者VS中国の学者だな


あと陳教授の邪馬台移動し畿内・・東遷説?
当然 文明も移動するから5世紀ごろ????

魏志倭人伝は中國の書物だから・・・・・・
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:07:31.68
454>>725
>>祖禰の時に(九州中南部西部の)征服戦が終わり、
上表文を書いた倭王武の頃には、「服している状態だ」、
という事を示す文だ。<

>漢文の読めないザラコクが何を喚いても無駄ww
服の主語が祖禰なんだから、「服している状態だ」と言ったら、
「祖禰が服している状態」ということにしかならない<

倭王武の上表文であるから、主語は倭國の軍であり、倭王らだ。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:12:39.88
>>101
>倭王武の上表文であるから、主語は倭國の軍であり、倭王らだ。

で、目的語が西の衆夷なんだから、服は他動詞
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:18:43.61
>>89
>建物Bの「高い建築」の石床などが見つからないから、×

石床とかいうモノが必要だとか言い張るなら
吉野ヶ里に楼閣とかは存在しないのだな
九州全滅だねー
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:21:16.22
吉野ヶ里は衛星都市の一つに過ぎないからどうでもいい。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:22:03.61
454>>740
>>不彌國からの「南へ水行二十日の位置にある」という説明であるから、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という範囲には含まれない。<

>いやそれ理由に、ならんだろ 道里書いてあるから<

いや、始めから、「 自女王國以北」の話だ。として書いている。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:23:41.50
BS-TVも見ないで、一晩中、歩の討論会だったのか。
先日のBS-11も今回のBS-TBSも、
最新のマスコミの動きは九州説、中国人学者も、皆、九州説だったぞー、、。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:24:02.57
>>88
>確かどなたか?が、
>朝倉付近の小地域國の「宮室樓觀、城柵嚴設」の例を書いておられたし、

九州説いつもコレ

九州説は出所不明の怪情報で出来ている
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:27:00.15
454>>745
>>南と書いてあるのに畿内説が東と解釈した理由は?<

>南に行ったら海しか無いから<

それ以前に「南≠東」だから、スレ主は、×。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:31:04.10
454>>725
>>南と書いてあるのに畿内説が東と解釈した理由は?<

>それこぞ、ずっとテンプレに書いてあるだろ?
陳寿の「認識」では、倭国は南北に長い洲島ってだけ <

不彌國の南で、ほぼ九州島以内。

>でなければ、会稽東治之東なんていう記述は出てこない<

出てくる。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:33:22.28
454>>748
>桜井のはイノシシ避けの柵だ。 今でもあるだろ。 <

ふーん。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:33:42.29
>>71
今の1歩、2歩と数える方法はなんでそうなったんだ?  説明してみろ
それが世界的に自然だからじゃないのか?
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:36:00.81
>>109
>不彌國の南で、ほぼ九州島以内。

>出てくる。

こんなふうに全く理由を言わず
紋切型の信条だけ言い張る九州説ってもう
変な宗教で洗脳されてるのと同じ症状だね
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:36:32.61
454>>749
>>墓の大きさは、必要があるか?の問題だし、<

>権力者、為政者が巨大構築物を作るのは、権力の誇示だ
権力の大きさを視覚化するのが目的<

墓の大きさや内容は、原則として、遺族の考え方の問題だ。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:41:27.71
454>>750
>>水行の箇所の、スレ主の解釈間違い。<

>水行箇所がどこであろうと、>>721でザラコクが書いているような
「時速3km位しか出せず」という船では、1月かかっても着かないぞww<

韓國は陸行だし、
循海岸水行はおそらく郡の船だから、3渡海と合わせて、10日位で丁度位だ。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:47:55.29
マスコミも、畿内説とは距離を置き始めたかな、
九州にあった邪馬台国はその後大和へ移転した、神武天皇の代に痕跡もあるし、とか言ってたな、、、
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:49:22.16
545>>756
>>(壹與の墓)副葬品だけは最高級にしてくれた。<

>前にも書いたけれど、薄葬令って盗掘に合わないように、
墓に価値の高いものを入れるなっていうのがその内容なんだけれど?
三國志卷二/魏書二/文帝紀第二 「無施葦炭、無藏金銀銅鐵、一以瓦器、合古塗車芻靈之義。」<

文帝や孔明の意図は、墓の大きさと墓や副葬の豪華さの、両方での「薄葬」だ。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:52:19.33
>>114
今の1歩、2歩と数える方法はなんでそうなったんだ?  説明してみろ
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:53:41.14
連続句読点を使用する、優れた考古学者が増えたので、僕達は、僕達の意見がどれだったか見つけられるように、また、僕達の特徴を設定し直せば良いな
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:56:26.57
>>121
連続句読点を使用する、優れた考古学者が増えたので、僕達は、僕達の意見がどれだったか見つけられるように、
意見を発表するときに、名乗れば良いのでは、ないのかな。。。
0123HHK2013
垢版 |
2019/05/11(土) 07:57:19.57
HHK2013で良いな。。。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 07:59:25.88
454>>762
>>もし「倭国は南北に長い洲島」と書いてあったなら言える話だバカ。<

>書いてあるね
計其道里、當在會稽東冶之東。
參問倭地、絕在海中洲島之上、或絕或連、周旋可五千餘里。
周旋五千里にも及ぶ、会稽東治之東まで届く南北に長い洲島なんだよ<

韓が方四千里で、郡から狗邪韓国が七千余里という計測での「五千余里」であり、
しかも狗邪韓國から、足摺付近の侏儒國までの「陸行部分に限定」の参問里数であり、
別に沖縄や台湾までの里数が書かれた事にはならない。
0125HHK2013
垢版 |
2019/05/11(土) 08:00:25.55
ヤマタノオロチは阿蘇の麓の倭王だったことが、判明したのではなかったのかな。。。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:01:40.17
世界のゴルフ界でもグリーンで歩数数えてるな   右、左、右で3歩と。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:03:07.49
おい
日本語になってないぞ
無理に漢字使わなくていいんだぞ
使っても利口に見えないから
ふつうに喋れ
0128HHK2013
垢版 |
2019/05/11(土) 08:03:09.44
雲が出る国の、肥の河上の、高い志の八つ岐の尾根の地、、、
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:05:21.32
>>106
俺 今録画で視た
中國の権威ある考古学者や漢文の学者はすべて九州説だった
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:08:01.51
台湾の学者が
「距離については、中国の文献は間違いが多く方位は正しい」とか言ってた
0133HHK
垢版 |
2019/05/11(土) 08:08:04.90
やはり、日本武尊が、真実の倭王から何もかもを、奪ってしまった可能性が、99.5パーセンテージあるな。。。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:11:36.59
やはり、魏志倭人伝を作製した中国人の子孫が、真実を知っている可能性が、高いな。。。

129日本@名無史さん2019/05/11(土) 08:05:21.32
>>106
俺 今録画で視た
中國の権威ある考古学者や漢文の学者はすべて九州説だった
0137HHK2013
垢版 |
2019/05/11(土) 08:14:50.84
日本武尊が、真実の倭王から、ヤマトタケルという名前も、神の宝も、妻も、最後の倭王となる息子も、奪ってしまった可能性が、99.5パーセンテージあるな。。。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:16:02.37
鏡出してきた中国人学者は畿内説だったけど
中国も文献史学者は九州説で考古学者は畿内説っぽいな
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:19:07.43
>>136
相変わらず、不細工な反論だな
複歩が今採用されていない理由を述べよ
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:19:37.49
>>97
>中國の学者は九州説

>コリャ畿内説の学者VS中国の学者だな

もう日本の学者で、九州説の立場で番組に出てくれる人がいなくなったんだなww

中国の学者にとって、日本の古代の首都の位置なんてどうでもいいことだから、
トンチンカンなことを言っても大してダメージないし

日本の地理、歴史、考古学的状況についての十分な知識なしで魏志倭人伝だけ
字面に沿って読めば、半分くらいは九州説になるだろ
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:25:22.26
ついにマスコミも、畿内説離れの時が来たのではないかな・・・
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:25:25.06
>>100
>石床って何?

柱を支える基礎
石や砂利で固めてから柱を立てないと家がグラつくから
纏向にはその形跡が無く、大型建物と言えど平屋 しかも長くはもたない
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:26:08.99
>>142
それはどこの世界で使われてる言葉?
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:26:10.53
>>140
まともな中国学者は三人とも九州だった件

www
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:26:22.13
>>101
>倭王武の上表文であるから、主語は倭國の軍であり、倭王らだ。

反論することだけが目的だから、主張がめちゃくちゃなことになってるぞww

ザラコクの主張
・西服衆夷の「服」は自動詞
・西は既にそうなっている、「服している」という状況
・服の主語は「倭國の軍であり、倭王ら」 ←new

つまり「倭國の軍であり、倭王ら」が既に自ら服している状況というのがザラコクの主張

倭王らは征服されちゃってるなww
だから大和・河内と比べて小さな前方後円墳しか作れないんだねww

でもそれは、倭王じゃないよな?
倭国内で服している(自動詞)ような存在なんだからww
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:27:36.02
百歩は、何メートルなのだろうか、、、
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:29:45.33
百歩は、卑弥呼の塚と同時に作製した道の長さではなかったのかな。。。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:30:20.60
>>140
TV見てないでしょww
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:30:32.14
BS-11も、BS-TBSも、相前後して九州説に傾いてきた件、、、
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:31:37.78
正始八年、太守として王頎が役所に到着した。
倭国の女王の卑弥呼と狗奴国の男王は交わったが、卑弥(弓はミドルネームではないのかな、、)呼がありのまま過ぎたため仲良くできなかった。。。
倭国は載烏越等を派遣して郡に詣でて、(二人の不仲が原因で女王国と狗奴国が)互いに相手を攻撃している状態だと説明した。
塞曹掾史張政等を派遣して、皇帝の意思表示の文書と黄い軍旗を与え、(卑弥呼に)拝謁した。
難升米を利用し、触れを出し、(争っている兵たちに相手を攻撃するのをやめなさいと)告げて諭した。
卑弥呼は、死ぬので、先に、塚と(熊本城からその塚までの)道を100歩分あまり作り、徇葬者として女の奴隷を百人(選び)、(狗奴国の)男王を(倭国王として)立てた。
国中が(男王に)服さなかった、、、、
更にお互いを咎めて殺しあい、当時、千人あまり殺した。
ふたたび(女王として)、卑弥呼の十三歳の娘の壹與を立てて王とした。。。。
国中がついに安定した。
政等はお触れをだして、壹與(が王であること)を告げて、(人々に)諭した。
壹與は倭の大夫である率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣した。
政等が還るのを送らせることで、土台のしっかりした非常に高い建物にも詣いらせた、、、
男女の奴隷三十人を献上し、白い玉を五千孔、青い大きな勾玉を二枚、(織り込まれた)文が雑に異なる錦を二十匹、貢いだ。。。。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:32:27.06
卑弥呼は、死ぬので、先に、塚と(熊本城からその塚までの)道を100歩分あまり作り、徇葬者として女の奴隷を百人(選び)、(狗奴国の)男王を(倭国王として)立てたのでは、ないのかな。。。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:33:29.57
僕達は、大という字には、先にという意味があることを、発見したのだったな。。。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:35:12.21
出所がよく分からない三角縁神獣鏡の持ち主だけが畿内説だったのは笑えた
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:35:51.14
>>106
>最新のマスコミの動きは九州説、中国人学者も、皆、九州説だったぞー、、。

マスコミはもう少し邪馬台国論争を引っ張りたいんだなw
でも、日本では九州説の学者は絶滅したから、中国人を引っ張ってきた、と

今どき、「中国人の方が中国の古文献を正確に読める」なんてことはないよww
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:37:03.54
テレビで洛陽の骨董市で見つかった三角縁神獣鏡の保管場所がわかった。
見つけた人が集合住宅で大事に保管していた
博物館かどこかにあると思ったが・・中国ではあまり評価されていないみたい
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:37:22.44
畿内教育委員会の神通力も失せつつあるのではないかな・・・
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:38:02.48
洛陽の骨董市で見つかった三角縁神獣鏡とは、何だろうか。。。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:39:13.36
なぜ、骨董市で、三角縁神獣鏡が売られていたのだろうか。。。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:40:38.14
中國にも見放された畿内説
日本でも支持者が少ないというのに残念だなww
畿内説の学者がバカ騒ぎしてるだけだな
銭と名誉が欲しいだけで嘘をつくのはやめたらいいのにww
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:40:45.73
>>114
今の1歩、2歩と数える方法はなんでそうなったんだ?  説明してみろ
0163日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:41:48.97
>>111
>今の1歩、2歩と数える方法は

あれあれ〜? 
江戸時代の伊能忠敬の複歩の測量法を関係ないって言ってたのに、
古代の歩の話題で、「今の一歩」とか言い出すのかい?

歩は複歩ってのはどうやっても動かないよww

どうして九州説は、間違いを認めずに恥の上塗りをするかなwwwww

まあ、九州説ってだけで恥さらしなんだけどさww
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:47:07.27
現代中国の学者4人のうち、三角縁1人が大和説、3人が九州説(うち1人が東遷説)を支持したが、九州説を支持した1人が
「倭地に(高速移動できる)牛馬(道も)なし」=邪馬台国が伊都国(一大卒)の傍にないとおかしい、という論拠は重要だ。
だがそうなると逆に「水行十日陸行一月」の記述が大和説の説得力を増してしまう矛盾w
つまり東遷説が正しいのかもしれないw
九州説も大和説も、いつ東遷したかを一応議論しておく必要がありそうだ。
卑弥呼死後か?台与死後か?さあ、どうぞ!www
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:48:04.69
>>116
>韓國は陸行だし、

投馬国の水行20日が説明できなくなるねww
韓地陸行は、古田史学の会以外は誰も主張しない純度の高いトンデモww

>循海岸水行はおそらく郡の船だから、

郡の船でも帯方郡から狗邪韓国まで7日で行くのは物理的に不可能ww
3世紀にそんな高速船は世界中のどこにもありません

それに、韓地陸行してたら狗邪韓国まで陸路で来ちゃうじゃないかww
本当に相互の整合性とか一切なしで思いつきをその場しのぎをするから、
九州説の主張はいつもメタメタww
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:49:20.92
>>148
>うそ

理由は?

いつも「根拠を示さないで決め付け」る九州説は
妄想説だね
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:52:03.19
>>118
>文帝や孔明の意図は、墓の大きさと墓や副葬の豪華さの、両方での「薄葬」だ。

ということにしたら、ザラコクのこの主張
「(壹與の墓)副葬品だけは最高級にしてくれた」ってことは、
薄葬令に思いっきり反していることになるなww

どうして、自分の言ったこと同士くらい矛盾のないようにしようとか考えないのかな?ww
まあ、学歴詐称のバカだからなんだろうけどさ
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:52:08.77
>>165
相当にダメな学者なんじゃねーの?
見てないから知らないけど
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:57:21.64
〈吉井勇〉穴居のあと「いにしへの穴居の民がほのぼのと相抱きけむ石床(イシドコ)ぞこれ」

石が敷き詰められ床だろう

どうでもいいが ここでは隠語 ザラコクやキウスと同じ呼び名ていど
柱の基礎(土台)
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:57:53.53
纏向の柱の跡が、卑弥呼の城だと言ってしまった者達は、相当にダメな学者なんじゃないのかな、、、
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:58:38.77
>>134
>世界の常識でも複歩なんてない

また、自分の発言を修正してごまかしてるww

お前の主張は「歩幅で距離を測る場合は単歩だろう  複歩で測るバカはいない」だろww

「測量(長距離)で使う歩測は複歩」
「中国の歩は複歩」
に対する反論を一切していないのは理解できるかな?ww
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:59:31.26
TV
丹山について松坂や高野山を出していたが
畿内の範囲をどこまで広げるつもりだろう?
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:59:31.72
キナイコシが昨夜の「諸説あり!」を見て、ファビョってしまっているのではないかな?
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 08:59:38.57
纏向の柱の跡が、卑弥呼の城だと言ってしまった、相当にダメな学者達には、汚名を挽回するための、人生の時間が残されているのだろうか。。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:01:01.39
纏向の柱の跡が、卑弥呼の城だと言ってしまった、相当にダメな学者達は、真実の究明のために、ベイズ更新を実行した方が、良いな。。。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:02:02.26
>>136
>無知だな

無知なだけでなく、恥さらしww

この間違いを認められずにムダにがんばるバカは、吉井信号バカだなww

あのときも、筑紫平野でボーリング調査はされていないとか、間違いを延々と
確実な論文を引用で示されても言い続けてたバカだしww
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:05:00.42
75パーが、壊れてしまった。。。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:05:23.87
纏向遺跡も箸墓もほぼ同世代で、3世紀第4四半期(AD275~300年)~4世紀第1四半期(AD301~325年)らしいから、
おそらく崇神の宮殿&寿陵なのではないかな?
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:07:12.93
歩幅の討論は、あまり意味がない可能性が、高いな。。。。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:10:22.46
柱の跡は、カエルの骨が発見されたので、小さい蛇だと影口を言われた可能性が100パーセンテージの大物主の、倉庫の可能性が、75パーセント以上あるな。。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:11:16.75
崇神天皇の神社が、別にあったのでは、ないのかな。。。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:12:10.52
キナイコシは、崇神の纏向遺跡&箸墓を強引に邪馬台国卑弥呼ということにして、墓穴を掘っているのではなかいかな?
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:17:50.43
>>182
>歩幅の討論は、あまり意味がない可能性が、高いな。。。。

吉井信号バカ君、連続句読点ですらお前の主張に分がないから撤退した方がいい、
この話はもう終わりにしろって言ってるぞww

まだ恥さらしを続けるのかい?ww
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:17:55.90
>>165
卑弥呼の死後、北部九州から東遷してきた邪馬台国(大和)を崇神が乗っ取ったとしたら、箸墓は誰のために造ったか?
それは祖先である神武天皇を祀るために、卑弥呼の冢の上に多い被せるように築いたと考えるのが適当だ。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:18:45.90
伊能忠敬というのは、日本国を測量した江戸時代の武士ではないのかな。。。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:25:50.96
75パーが、勘違いしているな。。。

187日本@名無史さん2019/05/11(土) 09:17:50.43
>>182
>歩幅の討論は、あまり意味がない可能性が、高いな。。。。

吉井信号バカ君、連続句読点ですらお前の主張に分がないから撤退した方がいい、
この話はもう終わりにしろって言ってるぞww

まだ恥さらしを続けるのかい?ww
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:26:30.03
>>186
どうして、自分の言ってることが間違ってるかもと思って、ちょっと調べてみたりしないのかねぇ?
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:29:15.04
>>191
そうだね。。。
百歩が、何メートルであったという討論は、纏向遺蹟の古墳が、3世紀の物だという討論で、75パーが勝利しなければ、意味が無いことが、75パーには、わからなかったのでは、ないのかな。。。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:29:26.98
>>170
>相当にダメな学者なんじゃねーの?
見てないから知らないけど <

1人目 名前が出て来ないが、洛陽で三角縁神獣鏡を見つけた人・・・・・・・ 畿内説
  100年に1度の最大の成果と言って 大事に自宅アパートで保管

2人目 中国教育部学術センター 古代文字研究のトップおよび世界漢字学会 会長 ザン・コクワ教授・・・・九州説

3人目 中國魏晋南北朝史学会 副会長 チン・チョウキ・・・・九州説

4人目 台湾大学 シュウ・トクホ教授・・・・・九州説
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:30:50.77
伊能忠敬というのは、日本国の真実の姿を、究明するために、闘ったのではないのかな。。。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:32:19.30
纏向の柱の跡が、卑弥呼の城だと言ってしまった、相当にダメな学者達は、真実の究明のために、ベイズ更新を実行した方が、良いな。。。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:33:00.59
ベイズ更新を実行したので、沈没船を発見できたのでは、ないのかな。。。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:35:21.50
>>186
>伊能忠敬だけじゃねーか アホンダラ

吉井信号バカ君、余裕まったくなしだなww
効いてる効いてるww
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:45:20.33
>>195
75パー理論で行けば
学者の3人が75パー以上の妥当性があれば96.4%の確率で九州説になるなwww
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:49:44.71
>>165日本@名無史さん2019/05/11(土) 08:47:07.27>>170>>188
>現代中国の学者4人のうち、三角縁1人が大和説、3人が九州説(うち1人が東遷説)を支持したが、九州説を支持した1人が
>「倭地に(高速移動できる)牛馬(道も)なし」=邪馬台国が伊都国(一大卒)の傍にないとおかしい、という論拠は重要だ。

=邪馬台国が伊都国(一大卒)の傍にないとおかしい、というのはむしろおかしい。
傍にあるなら、一大率を置く必要はない。
後世、「太宰の率」が置かれたように、都からいささか離れているから、あえて一大率を置いたと理解される。
なお魏時代の一大率は行政官であり、倭人伝中の武官らしき一大率の振る舞いは後漢時代の様子ではないか、とコメントしていたが、
倭人伝中の一大率の記事は、卑弥呼共立以前の部分に記述されているので、
曹操の肝いりで設置された帯方郡役所の役人が、後漢時代に行った倭国調査の史料に依ったのではないか・・・、
こう考えれば納得がいく。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:54:35.09
そもそも刺史のようなもんであれば
都のそばには置かれない
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:57:27.82
>>202
再放送があれば見た方が良い
君の意見もわかるが、詳細に解説していた
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 09:59:20.41
太宰の率という謎の者がいたときには、日本国には、九州と奈良を結ぶ牛馬の道があった可能性が高いな。。。

202 名前:日本@名無史さん 2019/05/11(土) 09:49:44.71
>>165日本@名無史さん2019/05/11(土) 08:47:07.27>>170>>188
>現代中国の学者4人のうち、三角縁1人が大和説、3人が九州説(うち1人が東遷説)を支持したが、九州説を支持した1人が
>「倭地に(高速移動できる)牛馬(道も)なし」=邪馬台国が伊都国(一大卒)の傍にないとおかしい、という論拠は重要だ。

=邪馬台国が伊都国(一大卒)の傍にないとおかしい、というのはむしろおかしい。
傍にあるなら、一大率を置く必要はない。
後世、「太宰の率」が置かれたように、都からいささか離れているから、あえて一大率を置いたと理解される。
なお魏時代の一大率は行政官であり、倭人伝中の武官らしき一大率の振る舞いは後漢時代の様子ではないか、とコメントしていたが、
倭人伝中の一大率の記事は、卑弥呼共立以前の部分に記述されているので、
曹操の肝いりで設置された帯方郡役所の役人が、後漢時代に行った倭国調査の史料に依ったのではないか・・・、
こう考えれば納得がいく。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:03:54.30
>>205
魏志倭人伝時代には、伊都と熊本城を結ぶ牛馬の道があった可能性が低いので、軍隊を置いて朝鮮半島南部まで支配する為の本部を置き、連絡を取り合えるギリギリの距離だった可能性が、高いな。。

202 名前:日本@名無史さん 2019/05/11(土) 09:49:44.71
>>165日本@名無史さん2019/05/11(土) 08:47:07.27>>170>>188
>現代中国の学者4人のうち、三角縁1人が大和説、3人が九州説(うち1人が東遷説)を支持したが、九州説を支持した1人が
>「倭地に(高速移動できる)牛馬(道も)なし」=邪馬台国が伊都国(一大卒)の傍にないとおかしい、という論拠は重要だ。

=邪馬台国が伊都国(一大卒)の傍にないとおかしい、というのはむしろおかしい。
傍にあるなら、一大率を置く必要はない。
後世、「太宰の率」が置かれたように、都からいささか離れているから、あえて一大率を置いたと理解される。
なお魏時代の一大率は行政官であり、倭人伝中の武官らしき一大率の振る舞いは後漢時代の様子ではないか、とコメントしていたが、
倭人伝中の一大率の記事は、卑弥呼共立以前の部分に記述されているので、
曹操の肝いりで設置された帯方郡役所の役人が、後漢時代に行った倭国調査の史料に依ったのではないか・・・、
こう考えれば納得がいく。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:06:55.57
>>205
魏志倭人伝時代には、伊都と熊本城を結ぶ牛馬の道があった可能性が低いので、軍隊を置いて朝鮮半島南部まで支配する為の本部を置き、熊本城から連絡を取り合えるギリギリの場所は、伊万里の内陸だったのでは、ないのかな。。。

202 名前:日本@名無史さん 2019/05/11(土) 09:49:44.71
>>165日本@名無史さん2019/05/11(土) 08:47:07.27>>170>>188
>現代中国の学者4人のうち、三角縁1人が大和説、3人が九州説(うち1人が東遷説)を支持したが、九州説を支持した1人が
>「倭地に(高速移動できる)牛馬(道も)なし」=邪馬台国が伊都国(一大卒)の傍にないとおかしい、という論拠は重要だ。

=邪馬台国が伊都国(一大卒)の傍にないとおかしい、というのはむしろおかしい。
傍にあるなら、一大率を置く必要はない。
後世、「太宰の率」が置かれたように、都からいささか離れているから、あえて一大率を置いたと理解される。
なお魏時代の一大率は行政官であり、倭人伝中の武官らしき一大率の振る舞いは後漢時代の様子ではないか、とコメントしていたが、
倭人伝中の一大率の記事は、卑弥呼共立以前の部分に記述されているので、
曹操の肝いりで設置された帯方郡役所の役人が、後漢時代に行った倭国調査の史料に依ったのではないか・・・、
こう考えれば納得がいく。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:12:03.52
>邪馬台国が伊都国(一大卒)の傍にないとおかしい、という論拠は重要だ。

伊都国は、邪馬台国から離れた場所にあるから一大率が必要なんだろ
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:15:57.92
>>205
>なお魏時代の一大率は行政官であり、倭人伝中の武官らしき一大率の振る舞いは後漢時代の様子ではないか、とコメントしていたが、

このコメントした奴、ニセ学者じゃないのか?
卑弥呼の時代の楽浪や帯方を統括してた幽州刺史とか、部下の太守たちを率いて戦ってる方面総司令官でもあるんだぞ
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:23:05.41
邪馬台国畿内説を宣伝する、相当にダメな学者達や5ちゃんねるのプロ固定の考えでは、伊都国から纏向まで2か月もかかってしまうのでは、ないのかな。。。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:24:14.23
>>210
別に、かかっても困らんが
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:26:08.73
纏向から一大卒まで どのくらいの日数をかけて卑弥呼の指示を伝達していたのだろうか?
2か月????
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:26:37.45
いちいちお伺い立てられる距離なら
地方長官イラネ
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:31:14.27
魏志倭人伝時代には、伊都と熊本城を結ぶ牛馬の道があった可能性が低いので、軍隊を置いて朝鮮半島南部まで支配する為の本部を置き、熊本城から連絡を取り合えるギリギリの場所は、伊万里の内陸だったのでは、ないのかな。。。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:33:50.18
朝鮮半島南部なんて支配してないし
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:34:27.96
>>208
馬が居ない邪馬台国の時代は、交通手段が貧弱だから一大率が置かれている
伊都国の近くに邪馬台国が無いと統率が上手く出来ないんじゃないのかな
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:34:57.90
>>215
急ぎの時は、マッチョな倭人が、命令の伝達文章を、運搬するために、熊本城の近くの白川を下って、鹿島市まで有明海を縦断した可能性が、高まってきたな。。。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:35:58.11
>>195
>1人目 名前が出て来ないが、洛陽で三角縁神獣鏡を見つけた人・・・・・・・ 畿内説
  100年に1度の最大の成果と言って 大事に自宅アパートで保管

大爆笑だな、中国は何をしてるんだ こんな大事な物を
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:36:09.87
>>195
>2人目 中国教育部学術センター 古代文字研究のトップおよび
>世界漢字学会 会長 ザン・コクワ教授・・・・九州説

世界漢字学会ってこれだろ?
「国際漢字会議(こくさいかんじかいぎ)とは、漢字文化圏の漢字の字体の標準化を
 目的にした中国・台湾・韓国・日本の学者の国際会議である。1991年、ソウルで第1回会議を開催。
 事実上、『韓国の学者が主導』している。」
http://www.waccs.info
ホームページもハングルww
会長名はここで確認できるな
http://www.waccs.info/html/sub1_03.html
会長は漢字では臧克和

>3人目 中國魏晋南北朝史学会 副会長 チン・チョウキ・・・・九州説

中國魏晋南北朝史学会はホームページですぐ見つかった

(一)现任领导成员(2011年10月——)
会长:李凭
副会长:楼劲、梁满仓、李书吉、韩昇、王欣、张鹤泉、胡阿祥、严耀中、『陈长g』、何コ章

ただホームページが2011年から更新されていない

>4人目 台湾大学 シュウ・トクホ教授・・・・・九州説

台湾大学のホームページはここだけどシュウ・トクホ教授が見つからない
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:43:39.48
やはり、伊都国は伊万里川の上流だった可能性が高いな。。。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:46:58.19
>>220
周 徳望 で ググって見たら
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:47:09.53
>>222
伊都国は伊万里川の上流ではなく、中流だった可能性もあるのでは、ないのかな。。。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:48:13.96
海外の考古学者は本物だからなあ
九州をもっと探した方がいいね
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 10:59:34.85
もはや日本の学者を無視しないといけない九州説
かなしいことだ
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:08:22.62
畿内には大きな勢力があったのは事実だし邪馬台国に拘る必要は無いだろ九州に邪馬台国という地方勢力があって畿内にヤマト政権という大きな勢力があったって事だけだろ
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:08:30.12
>>202
>倭人伝中の一大率の記事は、卑弥呼共立以前の部分に記述されているので、
>曹操の肝いりで設置された帯方郡役所の役人が、後漢時代に行った倭国調査の史料に依ったのではないか・・・、
>こう考えれば納得がいく。

あたま大丈夫?
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:09:39.35
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。

倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。

「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職
0230日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 11:11:10.54
>>227
九州に倭国があり、その王都が邪馬台国。
ヤマト王権はまだ成立するかどうか微妙な時期。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:12:01.47
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:17:26.88
>>231
キナイコシの纏向学は、崇神の纏向遺跡と箸墓を、邪馬台国卑弥呼に結び付けるための似非学問なので、
そのような当然の考え方を受け入れられないのではないかな?
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:22:05.51
畿内説には影響無いけど
短里が破綻した九州説はこれまでの論証が全部間違ってたということ
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:25:21.19
北部九州の邪馬台国を、崇神率いる大和の纏向王権が本州島の勢力を結集して、吸収合併したということ?
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:30:37.24
>>237
その説が有力
四道将軍で山陽道を征服したヤマト王権の強大化に恐れをなした北部九州の邪馬台国
そこで邪馬台国女王が魏から倭王に任じられることで、
ヤマトの侵攻を阻止したのだろう
当時は漢字が日本に伝わっていないので、魏の皇帝の詔書のコピーをヤマトに送っても、誰も読めない
だから魏から下賜された鏡をヤマトに送った

しかし魏が滅び、晋が倭国に関心を持たなくなったのをみて、
ヤマトが北九州邪馬台国を征服したというわけだ
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:36:30.39
>>237
北部九州の邪馬台国卑弥呼と争っていた狗奴国こそが、東海北陸近畿吉備出雲を従えた卑弥弓呼(崇神)率いる大和纏向王権であり、
台与の死後ついに吸収合併して倭国が統一され、大和纏向王権の前方後円墳祭祀が九州島にもたらされたのではないかな?
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:39:05.94
邪馬台国連合は内乱で疲弊していって消滅したんじゃないの?
有用な人材がヤマト王権に流れていっただけじゃないの?
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:40:48.32
日本舊小國,併倭國之地。
むかし日本(畿内?)は小国でしたが、倭國を併合したのです。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:46:57.56
大和と筑紫では、継体天皇の時にようやく拮抗する程度。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:47:11.08
>>228
>あたま大丈夫?

なんとか大丈夫と思うけどね
実際問題として、倭人伝や魏略の基礎にもなったあれほど大規模で詳細緻密な倭国調査は、
そうそうたびたびできなかったとおもうよ。出来たのは帯方郡の役人しかいなかった。
それも公孫淵より前の公孫初代か2代目か三代目の指揮下の役人に限定される。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:49:33.18
帯方郡の役人が邪馬台国を訪問して詳しい調査をしたのは、卑弥呼の遣使の後だろ。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:50:55.30
>>223
>周 徳望 で ググって見たら

ありがとう
この人は見つかったし、邪馬台国の位置論の論文を書いてるから
BS-TBSに出たのはこの人なんだろう

でも、やっぱり台湾大学に籍はないみたいだよ?
台湾大学の雑誌に論文を書いてるけれど
http://www.nd.ntu.edu.tw/nds/nd12

ただ、日本の研究を紹介しているだけっぽい
論文の中で、こんなのまで引用してるし
「邪馬台國大研究本篇5.
 文献は語る−中国国史‧その2−http://inoues.net/yamahonpen3-5.html
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:52:32.94
>>225
>海外の考古学者は本物だからなあ

出演者の九州説3人をググった結果、考古学者が一人もいないんですが?ww
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:55:37.20
グローバル社会から孤立しつつある日本の「考古学者」という名のファンタジー小説家w
日本考古学の特徴「独自解析により〜〜〜と判明した」
お前の脳内結論やろソレw
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:57:11.42
>>248
最初はそう思っていた。しかし、調査の内容・分量は半端ではない。
その余の傍国などは、倭人伝ではスルーしているが、次有り・・、次有り・・、と隣り合わせであったことを示唆している。
相当の人数で分担調査したのではないか。もちろん、ゆくゆくは倭国を公孫氏の領土とするつもりで、、、
(もしかして、卑弥呼共立の裏では、帯方郡の役人が暗躍していたのかもしれない)
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:58:23.37
文章の学部に、考古発見物体を研究する係を設置したのが、失敗だった可能性があるな。。。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 11:59:10.97
>>253
化学の学部に、考古発見物体を研究する係を設置した方が、良かったのではないのかな。。。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:00:47.07
考古発見物体を研究する係員になるためには、数学や論理の受験勉強を免除された可能性が、高いな。。。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:01:56.91
>>243
>>238
>>240
古代史の真相があっさり解決!w
0258日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:02:03.85
畿内論者と九州説信奉者を見分ける最も簡単な方法
理由を言わないのは九州説
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:04:21.85
畿内論者と九州説信奉者を見分ける最も簡単な方法
想像を理由とするのは畿内説
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:05:25.69
考古発見物体を研究する係員は、数学や論理の受験勉強を免除されたので、国民から信用してもらえる意見の発表が、できないのではないのかな。。。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:07:02.95
>>260
この文章は、どうだろうか、、、

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:10:02.27
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる、、、ということは
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと、考える一部の者がいる、、、ということと、同じだな。。。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:11:42.68
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。。。。という文章は、
その死亡時期を3世紀中葉とみる、一部の者がいる。。。という意味でしかないな。。。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:12:19.83
>>252
>相当の人数で分担調査したのではないか。もちろん、ゆくゆくは倭国を公孫氏の領土とするつもりで、、、

魏の時代のチョウセイは、長期滞在していた。
しかし後漢の頃の記録は少ししかない。
君の主張は根拠がない。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:14:44.19
畿内説はまだ九州説に粘着してるの?
テンプレが論破されたからといってあまりに情けなくないか?
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:15:10.28
倭人伝・陳寿の文章の特徴の一つは時制である。
全体が時制に従って粛々と書かれていることを前もって理解してかかるべきではないか。
そうすることで、今まで読めていなかった部分も読めてくる。
典型的なのは卑弥呼の肩書である、時制(出世)と共に尊称(肩書)も変わっていく・・・
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:16:45.91
つまり、、、これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。 。。。という文章は、、、
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であり、その死亡時期を3世紀中葉とみる、一部の者の意見を倭人伝の記事と対照すると、
箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる、、、
という頭の悪い者の作製した文章でしかないな。。。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:16:57.34
>>257
九州説が正しい事はもはや疑う余地がないのだが、武士の情けで、似非学問であることが露呈してしまったキナイコシのメンツを建ててやる必要があるのではないかな?
邪馬台国の所在地では敗れたものの、狗奴国卑弥弓呼(崇神)率いる大和纏向王権こそが、北部九州の邪馬台国を吸収合併して倭国を統一し、古墳時代以降、前方後円墳体制で全国を支配したのだから。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:16:59.40
>>257
>>243でいうところの「むかし」とは、卑弥呼や臺与の時代。

畿内想像説曰く、卑弥呼や臺与の時代は巨大なヤマト王権。

笑うとこやで、ココw
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:19:43.47
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であり、その死亡時期を3世紀中葉とみる、一部の者の意見は、真実では、ないな。。。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:21:48.94
>>273
狗奴国がそんなに遠くなら緊張感もないな。
熊本で十分だろ。
卑弥呼と卑弥弓呼は名前も似ているし、元から不仲と書いてある。
別地域と衝突したというより、お家騒動といったところだろう。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:22:18.01
>>267
畿内説の者が書き込んだ証拠なし
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:24:28.68
>>262
> 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。

纒向からは楽浪土器が出ないから、纒向は取り残されている。
古代においては水運が主力であり、内陸は発展から取り残される。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:28:22.37
各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤とは、どのような思考の実験で再現できるだろうか。。。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:28:25.09
BS-TBSの九州説の中国人学者というふれ込みの3人中2人は華東師範大学の同僚

臧克和教授は中国语言文学系で歴史学は専門ではない
二、主要科研成果
(一)著作
《实用说文解字》(合作),上海古籍出版社,2012年。
《中国石刻》丛书(主编),南方日报出版社,2011年。
《汉魏六朝隋唐五代字形表》,(主编),南方日报出版社,2011年。
《中国异体字大系(隶书卷)》(主编),上海书画出版社,2010年。
《简帛与学术》(独著),大象出版社,2010年。
《中古汉字流变》(独著),华东师范大学,2008年。

陈长g教授は历史文化学院で、とりあえず歴史学が専門だけど
あくまで専門は古代中国史
论著目录
1)陈长g:《六朝政治》,南京出版社,2010年
2)陈长g:《中国古代国家与政治》,文物出版社,2002年
3)陈长g主编:《中国政治制度史》,高等教育出版社,2001年
4)陈长g:《战国秦汉六朝史研究》,广东人民出版社,1997年
5)陈长g:《两晋南朝政治史稿》,河南大学出版社,1992年

周コ望 Te-wang Chou博士は、台湾大学教授ではなさそう
「相關何處?論日本邪馬台國研究中的自我認識」という論文は書いているけれど、
独自研究部分はそんなにないようだ

専門家でもないけれど番組で九州説を語ってくれる中国の人を探してきて、
番組の箔付けを謀ったというのが実態かな
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:29:25.17
福岡と熊本の間で佐賀が空気と化しているが、壹與の頃は王都だったと思う。
與止日女って、壹與だろ。
川上タケル(取石鹿文)は前後の時代のいずれかの男王だな。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:29:25.61
各地の首長に共立され、、、、とはどういうことだろうか。。。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:32:22.97
>>284
様々な視点から切り込むのが考古学の国際標準。
考古学者の一視点で結論付けるのが日本考古学の標準。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:33:00.85
>>285
土器から見ると、纒向は尾張の支配下。
尾張は交通の要所で、古代から権力の中枢に近かった。
尾張氏は神武と大和で会談した饒速日とも繋がりがあった。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:33:57.17
というか、日本の考古学者は土器しか見てない。
土器学者だ。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:35:17.85
>>261
>近畿説35.7%、九州説54.4%という現実

根拠は常に多重投票可能なネット調査のみww
ここの書き込みを見ていても、九州説の短文多数投稿は九州説のやり口ってのがよく分かるww

毎年、TIME誌のMan of the yearのネット投票で除外される国の人と同じ習性だよねww
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:35:53.59
求心的に集約された権力基盤とは、何だろうか、、、
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:36:39.34
各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤とは、どのような思考の実験で再現できるだろうか。。。
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:38:04.39
>>294
各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤という、具体的には定義のはっきりしない文章の可能性が高いな。。。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:38:39.07
つまりマスコミも、九州へ九州へと、なびき始めたのではないかな、、、
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:40:32.85
454>>774
>(巨大墓)一定の整数比率で築造企画を共有した事例が多数あることから<

新井さんの「古韓尺」使用の論証に拠って、
東征将軍らは、半島の古韓尺技術者を伴っていて、築造企画をした可能性が高いから。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:40:47.39
>>271
>倭人伝・陳寿の文章の特徴の一つは時制である。
>全体が時制に従って粛々と書かれていることを前もって理解してかかるべきではないか。

中国語、漢文に「時制がない」のは常識
なので、それぞれの記事記述に対して、時点を指定する語句を付ける、というか
日時から書き出すことになる

日時が付いていない部分の時系列は、英文法で言うところの習慣的動作・不変の真理、
または順不同となる
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:41:17.50
454>>776
>だから南と書いてあるのに畿内説が東と解釈したのだが?
こういうのを文献批判といって、矛盾とは言わない<

ダメだ。
普通の成人は、「東西南北」を間違える事は、全くなく、
だから、「南」を「東の間違いだ」とした大和説者は、
全員、嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師だ。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:42:19.32
454>>784
>こうやって九州説はヤマト王権なんか存在しなかったと言い張るわけだ
九州説をごり押しするためには、日本の古代史の定説さえも全否定する <

いや全否定などしない。
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国だ、という主張だ。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:43:09.61
454>>787
>ヤマト王権の存在を否定するけど、九州王朝はあったと言うのだから呆れる
九州王朝の存在を示すものは皆無だけどな <

九州王朝=九州倭国王朝であり、
701年までは、列島の盟主であった。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:43:51.74
>>294
倭國亂相攻伐歴年、、、していたので、
乃共立一女子為王、、、、しただけではないのかな。。。
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:44:19.24
454>>791
>むしろヤマト王権の強大化に九州の邪馬台国連合が恐れをなし、
魏から倭王に任命されて「本領安堵」してもらうことで、ヤマトの侵攻を防ごうとしたと
考えるね <

ダメだ。
大和は九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の東征毛人五十五國の中の一国であり、
大和の前方後円墳は卑弥呼の冢ではなく、3世紀末以後のものだ。

>敵対国の狗奴国は薩摩か肥後の国だろう
ヤマト王権の存在は隠蔽したと思われる(そうじゃないと倭王になれないから)<

「南≠東」などに拠って、魏使らは大和へは行っていないから、×だ。

>そして邪馬台国は鏡を大量生産して各国に配った<

大和の鏡は、3世紀末以後のホケノの画文帯が始めであり、
△は呉系楽浪鏡師らの渡来教授に拠って、4世紀以後だ。
そして明帝鏡は九州倭国の卑弥呼らが配布し、渡来の呉系楽浪鏡師らも製作配布した。

>当時は漢字が伝わってないから、魏の皇帝の詔書の書き写しを配っても誰も読めない
でも鏡なら、神秘性と高貴性がある <

ダメだ。卑弥呼らは明帝の詔書が読め、上表文の返事も書いている。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:45:13.16
454>>797
>卑弥呼がヤマト王権の誰かは不明 分からないものは分からない<

「南≠東」などに拠って、×。

>九州説前提でヤマト王権が存在したことを裏付けるものって何?<

梁書の扶桑國と、3唐書と、記紀など。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:45:53.66
>>301
記録に記されているのにね、なぜ畿内説はガン無視するんだろう???

<倭国>
倭國者,古倭奴國也。
<日本>
日本舊小國,併倭國之地。
「むかし日本(畿内?)は小国でしたが、倭國を併合したのです。」
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:46:08.43
454>>815
>(大和は)北部九州の文化を取り入れたよ 中国鏡も独占してしまったよ
おかげで北部九州は入手できなくなり干上がってしまったけどね <

△は、渡来の呉系楽浪鏡師らから伝えられ、大和は4世紀以後のものだし、
明帝の頃の中国鏡は、壹與の平原や那珂八幡などや一貴山銚子塚などが副葬したが、
そもそも「鏡祭祀」は、天孫族の阿毎氏系が中心になってお宝にしたんだから、
阿毎氏系の倭奴國や伊都國や奴國や大和や日向でお宝になったが、
317年頃の筑後への遷宮の後は、
九州倭国が(卑弥呼の後の)姫氏系の東海姫氏國になってからは、
鏡は三種の神宝の一つ程度にしかなくなってしまったの。
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:47:15.21
454>>829
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた・・・・アホ詐欺師の大和説は、
動けなくなった死体。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:48:22.15
454>>835
>魏志倭人伝で邪馬台国の場所は九州通り過ぎて沖縄辺りと記されてる時点で
九州説はもう諦めれ<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
女王國の場所は、ほぼ九州島付近であり、であり、沖縄付近とは記されておらず、
「南≠東」などに拠っても、大和説は始めから×であり、
もう諦めれ。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:49:13.98
454>>850
まあ、
周朝や魏西晋朝は、一寸千里の短里使用であり、
秦漢朝や東晋朝以後は、原則は長里使用であり、
民間では、「長里と短里の混在時代」というのが、
史料実態であったようなんだからな
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:49:55.65
倭國亂相攻伐歴年、、、していたので、
乃共立一女子為王、、、、しただけなので、
各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤というのは、、、
倭國亂相攻伐歴年、、、の状態に戻らない様にする権限だったのでは、ないのかな。。。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:51:38.12
>>311
では、なぜ、、倭國亂相攻伐歴年、、が、起きたのだろうか。。。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:51:38.65
>>292
畿内説も好きな投票結果を引用すれば?
でも、どの調査でも傾向はそれほど変わらず、九州説が優位だよね。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:53:27.53
>>272>>280>>285
卑弥呼の死亡時期に重なるように箸墓の築造時期を土器編年などを年代操作して3世紀中葉に繰り上げ(実際は3世紀末~4世紀)、
魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の墓と同定できると結論付ける自作自演の似非学問・キナイコシの断末魔の悲鳴が聞こえるな
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:57:15.96
>>312
倭國亂相攻伐歴年、、、の状態に戻らない様にする倭王の権限が、実際にはどのようなものだったのかを、考えれば良いのでは、ないのかな。。。

収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 12:58:52.12
倭國亂相攻伐歴年、、、の状態に戻らない様にする倭王の権限は、商業と貿易と外交に関する監視だった可能性が、高いな。。。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:01:35.13
>>317
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えてしまった者は、頭が悪いな。。。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:04:10.18
>>317
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であった、と考えてしまった者の頭が悪いのではなく、
その権力基盤を持つ女性を卑弥呼と考えてしまった者の頭が悪いのでは、ないのかな。。。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:08:05.78
倭國亂相攻伐歴年、、、の状態に戻らない様にする卑弥呼の仕事の一つは、商業と貿易と外交に関する監視だったのだね。。。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:10:08.22
往復4か月以上もかかってしまう地点の監視を、タコの墨袋なしでは、実行できない可能性が、高いな。。。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:12:03.21
>>322
僕達は、テンプレートの冒頭を、論破してしまったな。。。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:18:48.98
454>>869
>倭国王帥升をスサノオをだと仮定しただけで邪馬台国論争は一気に解ける。
というか邪馬台国が大和であると確信した新井白石が・・・<

「南≠東」や「年代の曲解捏造」などに拠って、×。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:19:29.17
>>316
ずっと倭は九州北部だけで、領土より領海の方が広い。
天津国(海人の国)と呼ばれる所以だろう。
卑弥呼の死後に急に倭国が関西まで拡大しているのが興味深い。
これを少し作為的に前倒しすると、畿内説になってしまうわけだ。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:34:37.64
454>>930
>まあ色々歴史があったんやろな
ヤマト政権の始まり(倭国の始まりではないが)に卑弥呼がいるしね<

「南≠東」などに拠って、×。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:36:30.27
畿内説の強引さには一般人もドン引き
旧石器時代捏造事件2になりかねない状況
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:40:45.58
>>257
>>325
出雲吉備畿内北陸東海の本州島主要勢力を従えた崇神(四道将軍)率いる大和纏向王権が北部九州の邪馬台国を吸収合併した後で、その象徴というべき前方後円墳祭祀体制が北部九州にも波及するのである。
仮に邪馬台国=大和纏向王権とすると、邪馬台国の墓制である前方後円墳が、支配していた同時期の北部九州(例えば伊都国平原王墓など)の墓制と全く異なる理由が説明できない
0330日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:47:38.24
>>328
もうなっている。
この板でも何度も神の手と批判されている。
畿内の古墳だけ年代を前倒しすれば、畿内の古墳が全国に広まった主張できるし、卑弥呼の時代にかぶせればそこが邪馬台国だと主張できる。
しかし実は帯方郡との交流がなかったただの田舎だ。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:49:10.70
>>329
王墓とされているのは平原遺跡などの方形周溝墓の方だよ。
各地の前方後円墳をいちいち倭王の墓だという人はいない。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 13:58:53.14
大和を中心とした前方後円墳が邪馬台国の倭王墓であった場合、北部九州の国々を支配下に納めていたわけだから、
北部九州地域の王墓も前方後円墳でなければおかしい。北部九州に前方後円墳が普及するのは4世紀以降。
3世紀の邪馬台国は北部九州にあり、その墓制も前方後円墳では当然なく、4世紀に大和纏向王権に併合されたと見るのが自然。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:01:25.78
隋書にも邪馬臺「国」とは書いてないね。
中国人から見て邪馬臺、邪靡堆、と呼ぶ共通性のある施設か何かがあったんだろうね。
祭祀場の事じゃないかな。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:08:30.34
邪馬臺というのは、八方に分かれたものの中心という、倭人の使った言葉なのでは、ないのかな。。。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:09:32.22
八方向に分かれた川、道、尾根
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:14:03.75
熊本城下からは、八方向に道が伸びていたのでは、ないのかな。。。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:15:22.37
>>257
3世紀までの倭列島には2つの勢力が併存していた。
大陸との交流の活発な北部九州連合と、本州主要勢力をまとめあげた新興の前方後円墳体制のヤマト纏向王権。
この2つにはほとんど交流がなく、後者が倭国乱から北部九州を脅かす存在になったため、北部九州は互いに争うことを止め邪馬台国の卑弥呼を盟主として、
魏帝に朝貢し親魏倭王の金印と銅鏡百枚を賜り、ヤマト纏向王権配下の王たちに配ることでなだめすかし、ひと時の平和が訪れたが、
肝心の後ろ盾である魏の崩壊&西晋の誕生で漢王朝が倭国に関心が薄れ、台与の崩御した隙に、ヤマト王権が邪馬台国を併合したと見るのが自然。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:26:58.63
卑弥呼の墓であるはずの前方後円墳の九州島への普及が4世紀以降…これが命取りになるとは、似非学問キナイコシの思いもよらない落とし穴だったのではないかな?
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:29:31.69
邪馬台国畿内説を宣伝しているプロ固定のキナイコシが出現して、たった今、僕達に論破されたテンプレートの名誉のために、あまり、意味のない、呟きを実行した可能性が高いな。。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:30:24.03
>>329
>仮に邪馬台国=大和纏向王権とすると、邪馬台国の墓制である前方後円墳が、支配していた同時期の北部九州(例えば伊都国平原王墓など)の墓制と全く異なる理由が説明できない

説明されてるだろ
前方後円墳は三世紀中頃から
平原一号墓は二世紀後半だと
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:32:34.78
>>343
邪馬台国畿内説を宣伝しているプロ固定のキナイコシが出現して、たった今、僕達に論破されたテンプレートの名誉のために、あまり、意味のない、呟きを実行したが、
藁、、、というのは、いつもの、、、w、、、の代わりに、、、笑、、、という字を使用することに失敗し、誤変換したのでは、ないのかな。。。

341日本@名無史さん2019/05/11(土) 14:26:13.66
>>323
どうやって?


0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:33:53.64
天皇家の宝の一つに、八咫の鏡という鏡が、あったのではないのかな。。。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:37:49.11
僕達は、テンプレートの冒頭を、論破してしまったな。。。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:41:50.67
発掘しても何ももたらさない畿内説は、墓穴を掘って笑いをもたらすのが上手いな
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:46:40.86
八咫の鏡という鏡は、蛇が蜷局を巻いた形の鏡だったのでは、ないのかな。。。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 14:56:55.11
454>>971
>箸墓が4世紀だっていう理由ないですね、何も
ただ単に、現実を認めたくないという九州説の欲望ですよ <

卑弥呼の墓は「冢」であり、
「前方後円墳≠冢」であり、
だから、那珂八幡などが、3世紀後半半ば過ぎになり、
大和の庄内の前方後円墳の始めの石塚は、3世紀末になり、
また、「庄内3〜布留」の前方後円墳のホケノは、
太康6年(285年)の扶余の乱の流民の伽耶の有棺有槨の後で、3世紀末以後になり、
従って、「布留」の箸墓は、4世紀以後になる。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:05:24.51
>>344
>平原一号墓は二世紀後半だと

ほらまた年代の前倒しだ。
平原遺跡は倭国大乱の後、卑弥呼の治世の女王墓だよ。
公式には200年頃と見積もられている。
ただしその後に金層ガラスの耳璫などが含まれていたことがわかり、もう少し新しい可能性がある(3世紀中頃)。
2世紀後半とした研究はないよ。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:09:13.06
454>>978
>天武・持統朝で国号を日本にしたんだから、それ以前は倭国なのは当たり前のお話し <

ダメだ。
唐会要も、倭國伝で「正北抵新羅」として北部九州の国であった事をはっきり示し、
大和日本国は「倭國から別れた別種の旧小国」だとし、
倭國伝と日本国伝とをはっきり全く違う場所に書き分け、
その内容も、同時代頃のそれぞれの記録を、それぞれ事に別々にあった事をはっきり書き分けているから、
倭国≠日本国だ、という事を証言している。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:09:18.76
>>340
>卑弥呼が持っていた鏡が八咫の鏡なん?

多分そう。
卑弥呼の時代にはすでに円周八咫の鏡があった(平原遺跡から出土)。
剣、玉などとともに三種の神器の組み合わせで出土している。

記紀では八咫の鏡はアマテラスが作らせたことになっているが、アマテラスのモデルが卑弥呼だと考える人は多い。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:09:33.03
前方後円墳というのは、魏志倭人伝時代から、50年過ぎて、作製された物体だったのだな。。。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:12:22.15
2世紀の倭の王都は、金印や王墓群から間違いなく福岡県。
2世紀末に卑弥呼が畿内で即位するためには、2世紀後半に倭が東遷しなければならない。
しかし、そのような記録は魏志倭人伝にはない。
後漢書から魏志倭人伝まで、一貫して帯方郡から倭までは一万二千里のまま。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:16:35.10
454>>983
>古田信者は、倭の五王の朝貢もヤマト王権ではなくて九州王朝にしたいんだろう<

唐会要倭國伝は、「正北抵新羅」などに拠って、
北部九州の倭國が唐代末頃まで存続していた、
という事を書いている。
だから、倭國の五王は、北部九州の九州倭国(九州王朝)の王であった。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:17:14.52
>>306
>記録に記されているのにね、なぜ畿内説はガン無視するんだろう???

><倭国>
>倭國者,古倭奴國也。

これ↑が旧唐書
これ↓が新唐書

<倭,日本>
日本,古倭奴也。

同じ国じゃんww

九州説は史書間のクロスチェック、対照を取るといった史料批判すらしないチェリーピッカーww
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:21:01.94
>>330
>もうなっている。
>この板でも何度も神の手と批判されている。

これ、吉井信号バカだろ?ww

持ちネタは
・渡来人が大和朝廷を作った
・畿内説の年代は捏造
まあ、ケチを付けるくらいしかやれることがないからな
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:23:01.36
454>>984
>祇園山は方墳だから形状論からいっても卑弥呼の墓では無いな <

祇園山は、本体は「四隅円弧の類方形錐体台「」であり、
底面台は、全くの不定形であり、
全体としては、全くの不定形であり、
径百余歩でも、殉葬奴婢百余人にも、適い、
卑弥呼の「冢」にピッタリだ。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:23:56.27
>>332
>北部九州地域の王墓も前方後円墳でなければおかしい。

北部九州にあるのは首長墓
王墓はないよ

>北部九州に前方後円墳が普及するのは4世紀以降。

那珂八幡古墳 築造時期 3世紀中葉

残念でした
どうしてウソを吐かないと持論を主張できないんだろうね?w
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:25:05.99
>>360
年代を前倒ししないと気が済まない畿内説。
それだけが頼みの綱だもんなw
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:26:03.14
そして那珂八幡が卑弥呼の墓だとするザラコクが喜ぶのだった。
とうやっても畿内説の負け。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:28:18.21
僕達は、今、中国の公式文章を翻訳していたのだが、中国人が阿蘇山が噴火したことを知っていたということを、発見してしまった。。。。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:29:07.61
454>>988
>それは3世紀までだろう
4世紀以降も倭国の中心が九州にあったとは言えない <

ダメだ。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、倭國は北部九州にあり、
その倭國は、倭奴國や卑弥呼や倭の五王の頃から、唐末頃まで、
存続していた。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:29:22.51
>>346
>天皇家の宝の一つに、八咫の鏡という鏡が、あったのでは

和歌山の日前神宮・國懸神宮のご神体は、日像鏡と日矛鏡で、
八咫鏡の前に作った試作品の鏡とされている
こういう八咫鏡に連なる鏡が、近畿にある
http://livedoor.blogimg.jp/myacyouen-hitorigoto/imgs/4/8/48c9c1d9-s.jpg

平原1号墓の内行花文鏡が、とか九州説は言うが、北部九州には
八咫鏡の周辺伝承が九州にはまったくない
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:29:44.07
中国人が阿蘇山が噴火したことを、目撃した可能性が、急激に高まってきたな。。。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:30:52.99
中国人が阿蘇山が噴火したことを、目撃したのは、何時なのだろうか。。。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:31:32.30
>>351
>平原遺跡は倭国大乱の後、卑弥呼の治世の女王墓だよ。
>公式には200年頃と見積もられている。

卑弥呼は247年までは生きてるから、卑弥呼の墓ではあり得ないなww

卑弥呼を生き埋めにして、その上で生きてることにして朝貢してたとか
いうデタラメ説を唱えるなら別だがww
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:35:28.91
>>353
>卑弥呼の時代にはすでに円周八咫の鏡があった(平原遺跡から出土)。

円周を咫で計った例は一つもない
バカもいい加減にしなww

伊勢の神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、御舟代の中に
「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、
蓋口径九寸であると記録されているそうだ

また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、
明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、
その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、
円の直径は九寸としている。

この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう

どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:36:07.57
連続句読点は頭が悪くて一寸千里=短里とする
谷本計算の矛盾・破綻を示した畿内説のレスの意味をよく理解できず
間違い晒しみたいにあっちこっち貼ってまわっていた九州説の恥さらし
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:37:13.23
>>367
熊本平野の人民が、阿蘇山の噴火に、感動して、祭りを実行したことも、中国人は、見たのではないのかな。。。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:39:01.47
>>355
>しかし、そのような記録は魏志倭人伝にはない。

後漢書に倭國大亂 更相攻伐 歴年無主って書いてあるだろ?
東遷したんじゃなくて、王がいなくなって、何年も混乱してから
新しく王を共立したんだよ

>後漢書から魏志倭人伝まで、一貫して帯方郡から倭までは一万二千里のまま。

後漢書では帯方郡ではなく楽浪郡だ
起点が異なるのに距離が同じってことは、現実の地理とは関係ない数字ってことだよ
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:41:31.52
>>362
>そして那珂八幡が卑弥呼の墓だとするザラコクが喜ぶのだった。

残念ながらザラコクは祇園山を卑弥呼の墓だって言ってるんだよ
ザラコクによると那珂八幡は前方後円墳で冢じゃないから、
祇園山よりずっと後なんだそうだ

九州説仲間なんだから、ザラコクを支持してやれよww
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:44:08.66
>>372
竹斯國と書かれた筑紫国の東も、倭人がいるということを、わざわざ書いたので、その中国人は、本州の方向ではなく、熊本平野が目的地だった可能性が、99.5パーセンテージまで高まったのでは、ないのかな。。。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:51:12.87
455>>74
>それが主観的な判断の表現だという 「根拠を示さずに決めつけ」するのは
 妄    想 <

スレ主が、
「でよい」 「とするのが妥当」 「とみることができよう」 「余地があろう」 「考えられる」
などのような、
絶対的な確信ではなく、希望や主観的な推量程度の表現をしている、
という事は彼のテンプレの記載事実であり、記載実態。
それを、
「根拠を示さずに決めつけ」するのは妄    想
と決めつけたこの大和説男は、
「南→東」などの嘘吐き騙しも相まって、
分裂幻覚の「妄想」人間。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:53:07.74
>>368

卑弥呼の即位は190年頃と考えられている。
平原遺跡の鏡は、後漢鏡よりも新しい、国産化された鏡だ。
平原遺跡が卑弥呼の年代の王墓であることは確実だ。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:53:16.67
>>75
「南→東」などの嘘吐き騙しなどのような、
可能性の低い仮説に過ぎない事うぃ、断定調で語る大和説者は、
詐欺の片棒を担いでるようなもの
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:55:29.81
《通典》《邊防一》《倭》唐杜佑 大暦元年(766年)〜貞元17年(801年)
「邪馬臺國,或云邪摩堆。去遼東萬二千里,在百濟、新羅東南,」
「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱。」

これが唐代の認識だよ。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:57:26.94
>>365
>八咫鏡の周辺伝承が九州にはまったくない

嘘をつくな。

筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝が八咫鏡と記録されている。記紀では、アマテラスが八咫の鏡を孫に与えて筑紫に旅立たせた時に宗像氏族が守護を担当したので、非常に縁があることになる。
日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されている。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 15:57:53.89
455>>83
うわー痛々しいな、「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた、
スレ主や大和説者ったら。
教授や文部省に忖度していたのか?、本心であったのか?。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 16:00:47.68
>>373
>後漢書では帯方郡ではなく楽浪郡だ

それは承知の上。
後漢代にはまだ帯方郡が成立していなく、後に分離して成立した。
つまり帯方郡からの郡使による倭国の調査など、漢代にはあり得ないし記録もない。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 16:02:49.36
>>380
百済や新羅の東南だろ。
地図では半島南岸から東南で博多に着く。
大和は東と書かれなくてはいけない。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 16:27:47.98
>>384
>後漢代にはまだ帯方郡が成立していなく、後に分離して成立した。
>つまり帯方郡からの郡使による倭国の調査など、漢代にはあり得ないし記録もない。

帯方郡は、公孫康の206〜210年ころに楽浪郡から分離独立された。当時はまだ後漢の時代だった。
魏になったのは220年で、その間の10数年は後漢の時代であった。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 16:39:42.05
455>>88
>FAQ71 「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
その前に、唐会要の倭国伝の冒頭に
倭國古倭奴國也。在新羅「東南」。居大海之中。
とあるのだから、倭国が九州だけってのはむしろ成り立たない<

唐会要倭國伝冒頭の「倭國古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中」の「新羅」は、
唐代には半島は新羅に拠って統一されていた事から、
「半島代表」としての 「新羅」文言の選択であり、
倭人伝の「倭人在帶方東南大海之中」と同じような方向選択であり、
その方向中心は、大体関門海峡付近を指しており、
しかし、唐会要の中での詳論では、
「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」として、
百済の東南線と新羅の正南線の交点を示す記述になっており、
百済の東南線は大体関門海峡の西側付近方向を指しており、
新羅本国の正南方向は平戸方向を指しており、
従って、両線の真ん中付近は、北部九州の筑紫付近を指し示している、
という事になる。

この説明は、Yahooでの議論の十数年前に、runsunnoleという女性に説明した事であり、
彼女はその後、私の論を認めて、一切出て来なくなった。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 16:52:01.62
>>385
>百済や新羅の東南だろ。
東南だよ?

>地図では半島南岸から東南で博多に着く。
慶州から南南東なら博多に着くね。

>大和は東と書かれなくてはいけない。
なぜ?東に行ったら越だよ?
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 17:06:07.18
>>388
>しかし、唐会要の中での詳論では、
>「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」として、


>「北限大海」だろ
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 17:06:45.30
>>355
古代人のDNAの調査でも2世紀の渡来系弥生人の勢力圏は北部九州地域だけだからな
神武東征が卑弥呼よりも後の3世紀以後の出来事だよな。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 17:09:12.89
テスト投稿
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 17:14:07.26
>>394
そんなことするとまた投稿数過多で停止食らうぞ
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 17:20:54.41
455>>91
>このコピペもしつこいけれど、河内からは大人数で来るとき以外は
飯炊き甕を持ってこないんだよ 河内と大和は身内なんだから<

米田に拠れば、「身内」という訳ではなく別国であり、河内の方がはるかに大都市。

>それから、尾張を強調しているけれど、 コピペの表では伊勢・東海系 : 49%だ
余傍国の最初の次有斯馬國は、おそらく伊勢志摩だ
女王国の隣で山越えしたところなのだから、飯炊き甕の搬入が一番多いのもある意味当然<

「南≠東」などに拠って、×。

>また、遠く旅してくるときに、途中の立ち寄り先で土器をもらわない
(出発時の土器を更新しない)とするのも不自然で、遠いほど土器が 少なくなるのも当たり前<

はるかに遠い尾張が多くて、20km位しかない河内が少ないから、×。

>それから、搬入土器の比率が他の遺跡と比較できないほど高いのは事実だが
纏向遺跡での搬入土器の割合は15%程度で、尾張の植民地とかいう言説は
常軌を逸したものであり、何も理解していないことを吐露しているだけに過ぎない<

地方の「市」であれば、妥当な量。

>纏向遺跡全体ではなく、祭祀土坑の供献土器だけで比べれば、また比率が変わってくる
祭祀土坑では、搬入土器の比率が30%程度のものもあり、
ここにはわざわざ出身地の土器を祭祀用に持ってきている可能性がある<

「市」の祭祀であれば、持ってくる土器の割合が多くて当たり前。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 17:38:09.98
質問です。北部九州説の伊都国は現在の何処だと推測するの?
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 17:55:22.99
455>>110
>河内と大和が身内なのは、弥生時代の初期に奈良盆地に進出したのが河内の住人であり、
畿内大V様式土器の時代から一体の流通圏をなしているから確実 つまり、想像でも勝手な想定でもない<

「身内」という程もない。元々同じ出雲銅鐸祭祀系部族やその近縁の毛人蝦夷部族としての関係であっただけ。
そこへ、九州倭国の東征毛人五十五國が入って来た。

>伊勢・尾張系とまとめてあるのに、尾張の影響下にあるというのが、読み間違い
斯馬國が伊勢志摩だというのは証明はできないが、その次が已百支國で
五百城入彥皇子の名の元になった地名であり、現存地名としては伊吹山のイブキ
どちらも奈良盆地に隣接する地名であり、十分に妥当な推論だろう<

そのような「推論」程度の論理では、
「南≠東」という99.9%位の確率の史料実態を、否定抹殺する事は、全く不可能。

土器を長距離壊さずに持ち運び続けるのが困難というのは、特に論証の必要はないだろ
途中の立ち寄り先で、新しい土器をもらって移動するのも当然
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 18:18:30.41
方角の解釈なんて関係ないんだわ。使者は伊都国までしか行ってない
後の行程は倭人に聞いただけ。その倭人が方角を間違った
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 18:27:48.30
そしてその使者は本州に渡ってないのに引きこもり女王の卑弥呼にあって金印を渡している。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 18:35:18.01
455>119
>では、>>112は旅先で飯炊き甕が壊れたら、どうしたらいいと思う?
明確に具体的に答えてね! どうせ逃げるだろうけれどww<

普通は、旅先の「市」で物々交換か貨銭などで購入するか?、
在地の人にいい胎土のある所を聞いて、
自分で甕を造って、高温焼成するしかないんだろうなあ。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 18:53:10.69
>>397
伊都国は糸島市東南部だね。
>>403
奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮す。
拝仮・・・使者が皇帝に変わり渡したってこと。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 18:54:11.84
>>400
>方角の解釈なんて関係ないんだわ。使者は伊都国までしか行ってない
>後の行程は倭人に聞いただけ。その倭人が方角を間違った

封泥した皇帝詔書を倭王に届けるのが役目なのに、
途中までしか行ってないってはすがないだろ

その後は、皇帝詔書を倭人に託すのか?
子供の使いじゃないんだからww

それから、伊都国が邪馬台国の都っていうのは、バカしか言わないぞ
伊都国が倭国の都なら伊都国の記事で「女王之所都」って書かれるからな

九州説は矛盾だらけだ
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 18:56:10.28
九州説の連続句読点荒らしは、

************
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった
************
↑のコピペを、何故貼らなくなってしまったのだろうか、、、
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 18:59:44.00
短里なんてなかった事を、周りに周知してしまうから
貼れないのではないかな、、、
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:03:00.60
九州説の連続句読点荒らしよ
こうしてお前をイジめて2度とこのスレに顔を出せないようにしてくれるわ
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:06:20.03
まず、纏向遺跡の位置づけだよ。
卑弥呼の王都?魏志倭人伝の倭人のイメージ=海洋民族と違うだろ?
もちろん文献批判は必要だよ。
でも北九州あるいは南洋のイメージ(あくまで)で、畿内のイメージはない。

前方後円墳?ルーツは吉備にあるだろ。吉備との関係はどうなんだ?

ド・シロートのオレも全くわからん。
邪馬台国のその後とヤマト王権の発生。そのつながりの謎。
謎の4世紀は今も健在だな。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:06:24.55
455>>125
>外来搬入土器が、5%を超えるところってほとんどないんだけれど?
纏向遺跡の15%というのは、ある意味異常な高率なんだぞ <

「市」があれば、当然搬入土器は多くなるし、
九州倭国のように、明確な「東征毛人五十五國」があれば、
兵士らの自炊の搬入土器が多くなる。

>それから、楽浪系の土器も出てるよ
「家ツラ地区の弧文板と韓式系土器(桜井市大字巻野内)
 導水施設へと水を供給する大溝の下部には布留0式期古相(3世紀後半)のV字溝が
 存在しています。弧文板は纒向遺跡第50次調査、韓式系土器は第90次調査において
 この溝より出土したもので、 導水施設より古い段階の祭祀に使用されたものと考えられています。
 弧文板は欠損もあり、本来の形状はわかりませんが、黒漆で仕上げた優品です。
 韓式系土器には格子目のタタキを持つもの(左)とミガキによって光沢を持つもの(右)の
 二種がありますが、ミガキを施す個体は楽浪ら系の土器ではないかと考えられています。」<

そりゃ、東征毛人五十五國の兵士らの搬入土器なんだろう。

そんな自給自足の閉鎖的な田舎って、ありえないだろ?
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:11:26.75
>>383
>では咫を定義しろと言われるとできないのだろう?

できるよ?
男性の手を開いたときの親指の先から人差し指の先までが尺
女性の手を開いたときの親指の先から人差し指の先までが咫

この、身体尺としての定義が、もともとの尺と咫の定義

まあ、身体尺だから人ごとに長さが変わって不便だってこともあって、
秦の始皇帝のときの度量衡の統一のときに、尺は公定尺、一尺=約23.1センチの固定値になった
そして、この秦の公定尺の体系に咫は入っていない

秦の度量衡の公定の前の周代は、周尺の八掛け(八寸)が周咫として使われていた
周尺が21センチ程度で、周咫=16.9センチになる

そして、尺=十寸、咫=八寸となって時点で、咫は八寸の長さの言い換え以外では
使われなくなっている
一尺一寸を、一咫三寸と呼ぶ理由がない
実際、咫は二咫等の複数形での使用例すらなく、文献に出てくるものは
十八寸を尺有咫とするのと、わずかの差を示す咫尺之書とするものなど
すべて八寸の言い換えで単数で使うもののみだ
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:11:27.98
>>406
伊都国は邪馬台国じゃないし、糸島市でもない。吉野ヶ里が伊都国ね

渡したのは帯方郡太守の使者・梯儁だからね
伊都国の説明で「郡使往來常所駐」と書いてある以上直接渡してないよ
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:17:46.06
>>406
「女王之所都」これは投馬国に対して邪馬台国側に都があるとの意味だよ
伊都国には「世有王」と魏の世に倭王卑弥呼が居たと書かれている。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:19:33.97
>>415
伊都国(糸島市)で魏使が卑弥呼に直接渡してますよ。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:28:55.63
>>390
>>大和は東と書かれなくてはいけない。
>なぜ?東に行ったら越だよ?

もう一度地図を見てみよう!
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:33:04.07
>>416
世有王 皆統屬女王國
代々、王はいるが、皆(代々の王)は女王国に従属している
って意味だよ
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:33:28.31
福岡のが偽物だとすると
本物は畿内の古墳のどこかに眠ってるという事でしょうなあ
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:37:50.86
>>422
福岡で見つかったのは、漢委奴国王印
卑弥呼が貰ったとされてるのは、親魏倭王印
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:39:24.29
>>421
世有王 皆統屬女王國
魏の世に王がいた。(倭の国々は)皆女王国に従属している
って意味だよ
三国志魏書で世有とは魏の世のことを指している、女王卑弥呼が伊都国に居たんだよ
女王国が統属しているのは倭の国々。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:40:10.02
>>378
>卑弥呼の即位は190年頃と考えられている。

これは疑問
後漢書にいう桓・靈間は、漢末の「混乱の時代」という意味で慣用句化しているもの

弥生時代の人間の寿命から考えて、248年死亡の卑弥呼が高齢になりすぎる
「其人壽考、或百年、或八九十年」もヒトという生物の寿命から見て、非現実的な
数字になっている
春秋年(二倍年暦)による数え年などを想定した方が、妥当な値になる
ただ、それだと今度は台与の「復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。」が
無理のある数字になるので、考察を進める必要はあるけれど
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:43:16.55
>>424
「漢委奴国王印」は1世紀に貰ったもの
2世紀までは北部九州地域以外の日本列島には未だ縄文人が暮らしていたから
(極最近判明した事実だから贋作者は知るはずがない)
1世紀の金印が北部九州で見っかってるのは本物の証拠だよ。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:45:55.98
卑弥呼の共立をまるきり推測するより
記紀では、神功皇后の即位を201年、退位を269年としているので、
この間を卑弥呼ー台与の共立時代とみるほうが、幾分確かではないか、、、
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:46:38.96
どちらが、75パーだったのたろうか、、

http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542983556/625-626

625日本@名無史さん2018/11/27(火) 20:11:31.88
九州説の肩を持つ訳では無いがさすがに計算は合ってるよ
ある場所の夏至における南中時の太陽高度は 90度�ワ度+23.4度 なので緯度35度の地点では78.4度

エクセルだと 1/tan(radians(78.4)) で余接の値が求められるのでこれに8尺棒の高さを掛ければ影の長さが得られる

75kmだと角度は0.7くらいの違いになるのかな

626日本@名無史さん2018/11/27(火) 20:47:23.36
夏至の正午北緯35度で
北に約短里で千里80km行けば確かに8尺の棒の影長は周ヒ算経にあるように1尺7寸
しかし南に千里、80kmだと1尺5寸とあるが実際は1尺2寸ほど
九州説は地球平面モデルだとか意味不明な事を言うけれど
そもそも実測値ではないから短里の根拠にならない
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:47:22.96
>>429
神功皇后と卑弥呼は全くの別人だろうね。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:47:32.30
>>406
>封泥した皇帝詔書を倭王に届けるのが役目なのに、
>途中までしか行ってないってはすがないだろ

ふむ。
では郡使はどこまで来たのかな?
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:51:21.29
>>432
伊都国が女王卑弥呼の都だから
使者は伊都国まで来て伊都国で皇帝詔書を卑弥呼に届けたんだよ。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:51:35.81
>>414
>そして、尺=十寸、咫=八寸となって時点で、

それはπ/4の近似値なんだよ。
つまり直径2尺の円の円周を八咫とした。
その計算を近似してわかりやすく説明したものが、女性の手だ。
それ以外には、そのような奇妙な尺度を定義する合理的理由はない。
つまり君の説明は不合理なんだ。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:51:42.94
>>431
全くの別人ではあるが、
やはり、万事分かっていてダミーとして利用したのではないかとの疑念がぬぐえない。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:53:19.42
>>415
>伊都国は邪馬台国じゃないし、糸島市でもない。吉野ヶ里が伊都国ね

吉野ヶ里は九州北部で特別というわけではない。
あくまでも福岡県内の邪馬台国の周辺国の一つであり、特別視する理由はない。
大宰府でも持ち出した方がマシ。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:53:22.77
455>>134
>「この地域への入植は一分町西畑遺跡(2)に始まり、第T様式後半以降の遺物の
出土が知られるが、本格的な開発は第V様式に始まるようである。萩原(3)は
大阪湾沿岸地域からは暗峠を越えた大和側の谷口微高地上に位置すること、
生駒西麓製の土器が目立って検出されていることから中河内や生駒西麓遺跡群からの移動が想定されよう。」<

成程。生駒付近での第V様式は、河内から奈良盆地への搬出があったんだな。

>「縄文時代晩期後半の突帯文土器様式のうち、(中略)
 突帯文様式の遺跡は一見して、菩提山川と大和川を結ぶ盆地の南部に集中する様子がわかる。
とくに突帯文様式単純の遺跡(J 型)は、唯一、秋篠川上流の西隆寺下層を除けば、
大和川本流(初瀬川水系)以南にほぼ限られており、<

あれ?、「縄文時代晩期後半の突帯文土器様式」の話に変わっている。変な引用をするなよ。

>おそらくは朝鮮半島−玄界灘沿岸地域ルートで伝来し、
北部九州の穀物センターにおいて定着を果たして初期の不完全な農耕文化の揺籃を開始した突帯文系様式は、
瀬戸内海ルートで河内潟に入り河内平野への入植を介して大和川を溯上して初瀬川をさらに遡上したことが
わかる。」<

という事は、この筆者は、大和の「突帯文土器様式」が、北部九州からの伝来伝播であった事を認めようとしている。

>そもそもからして、奈良盆地の集落は、河内平野への入植〜大和川を遡上〜初瀬川へ、と
河内の集団が奈良盆地へ伸張して行ったものと見られる  最初から本質的に同根・同祖だね <

何だ?、スレ主は、
大和の最古の」「突帯文土器様式」が、北部九州からの伝来伝播であった、
という事を認めるのか?。」
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:53:55.29
>>418
>糸島のくそ田舎がなにを言うか

王墓があるのだから、王都で何が悪い。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:54:43.52
>>398
三橋くんは情報が古いね。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:55:15.77
頭の悪いプロ固定が、いる可能性が、高いな、、、
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:56:13.94
>>436
吉野ヶ里も邪馬台国の構成国の一つだろう
でも王都は伊都国だけど。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:57:28.48
>>424
>>422
>福岡で見つかったのは、漢委奴国王印
>卑弥呼が貰ったとされてるのは、親魏倭王印

最初の魏への遣使では、漢委奴国王印を使用したはず。
それが倭王からの国書であることを証明できる唯一の手段だ。
魏は漢から禅譲を受けているので、漢の外交関係も継承しており、漢委奴国王印は魏に対しても有効なんだよ。
そして魏はそれに対して新しい金印を与えて更新する。
それが外交プロトコルというものだよ。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:58:07.89
少し、疲れているので、頭の悪い者の発表を読んで、笑いリラックスすれば、良いな、、
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:58:23.37
>>427
>弥生時代の人間の寿命から考えて、248年死亡の卑弥呼が高齢になりすぎる

つ 昭和天皇の治世の長さ

長いとは思うが、不可能ではない。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 19:59:45.31
>>429
あれだけ細かく事績が記録されているのに、他人とごちゃまぜとかあり得ない。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:00:17.36
>>433 名前:日本@名無史さん 2019/05/11(土) 19:51:21.29
>>432
>伊都国が女王卑弥呼の都だから

伊都国の微餓死に不彌国があって、其の不彌国南に邪馬台国女王之所都ありと明記されている。
いくら何でも、アタマがお花畑すぎる。畿内説の二の舞だな。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:01:07.72
>>435
少なくとも日本書紀は誘導している。
しかし逆に言えば、卑弥呼と神功皇后は別人ということだ。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:03:29.57
>>446
文献にもよるが、不弥国から南なら大宰府方面だ。
佐賀には直接は行けない。
伊都に駐在した群使が1日で吉野ヶ里まで行くことも無理だしな。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:04:43.08
>>442
そうだとしてもふーんとしか
まあ状況から考えて金印は
倭の漢から魏の交流まで空白100年あるし使われなかったろ
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:06:11.00
>>447
その通り、全くの別人を卑弥呼ー台与の共立期間にすぽりはめ込んだのではないか
手っ取り早い改ざん手法だ。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:07:49.18
>>446
不彌国で行程の説明は終わり
既に12000里に達してる
次の投馬国は帯方郡から20日、
邪馬台国は更に10日と1日(月)
投馬国ではなく邪馬台国側に女王之所都あり。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:09:03.81
>>449
使わないと卑弥呼からの国書が魏に信用されない。
つまり、志賀島から出土した金印の最後の公式な使用者は卑弥呼であったはず。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:11:07.54
>>451
一万二千里で王都に到着しているはず。
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、帯方郡から投馬国まで水行20日。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:14:13.55
>>448 名前:日本@名無史さん 2019/05/11(土) 20:03:29.57
>>446
>文献にもよるが、不弥国から南なら大宰府方面だ。
>佐賀には直接は行けない。

そこで伊都国の場所だが、
末盧国からまっすぐ南へ下り、多久市で転じて東に向かうと、ちょうど東南陸行500里で伝説の佐賀川上に到る。
ここを伊都国に比定し、更に東行100里の吉野ケ里に不彌国を否定すれば、方角・距離ともピッタシ合致するのだが、、。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:14:26.66
>>452
それなら金印は畿内で見つかった可能性が高いな
まあ福岡で見つかったとしても邪馬台国がそこにあった根拠にはならんけれど
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:18:27.26
>>452
志賀島の金印は、漢の倭奴国王の印であった。
しかし卑弥呼は倭奴国王ではなく、倭30国の共立女王で、倭国王であった。
よって漢の倭奴国王の印は使用できない。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:20:02.05
吉野ヶ里が、不彌国の可能性はあるが、伊都国は、やはり、伊万里市の内陸部の可能性が高いのでは、ないのかな、、、
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:21:29.73
>>457
>よって漢の倭奴国王の印は使用できない。

「倭は古の倭奴国である」
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:22:59.88
>>456
>それなら金印は畿内で見つかった可能性が高いな

福岡県で見つかったという事実から目を背けるなよ。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:23:26.34
実際使者が行ったの伊都国もしくは不弥国まで
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
千余家有り、と断定している
投馬国からは倭人よりの伝聞
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
およそ五万戸と断定していない

だから不弥国までは里で説明してるのに、投馬国からは水行を使っている
水行で伝聞されたからだ
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:25:19.44
455>>142
>佐々木憲一「古墳出現前後の北部九州における畿内型甕形土器と在地型長胴甕形土器の出会い」
「本論は弥生時代末期〜古墳時代前期の北部九州の土器を扱うが、時期を
TA 期:弥生X様式末(纏向1類・河内の庄内T式)、
TB 期:纏向2・3類・河内の庄内U〜V式、
UA 期:纏向3・4類・庄内V〜W式、
UB 期:纏向4・5類・庄内W〜X式、
UC 期:布留1式、
V期と設定した。<

何か変な言い方。佐々木が自分勝手な編年を設定したみたい。
そして、時期も言わないし、それらの胎土の地の説明も内容。

>そして北部九州の様相を以下のようにまとめた。
TA 期:在来系土器が主体で、点的に少量の伝統的X様式土器が伝播・受容される。庄内甕は受容されない段階。<

この表現では、胎土は筑紫の胎土。つまり、第X様式は筑紫が初元であり、近畿へ伝播した事になる。

>TB 期:在来系土器が主体で、庄内甕が比恵・那珂遺跡群周辺のみで受容・生産された。
UA 期:在来系土器が根強く存在しながらも衰退する。庄内系土器群から北部九州型というべき布留式類似土器群が成立。<

この表現でも、胎土が北部九州である事にあり、近畿へ伝播した事になる。

>UB 期:布留式類似土器群が面的に波及し、多くの集落でも外来系土器群が在地系土器群に対し優勢になる。
UC 期:布留式土器群がほとんどの集落で優勢になる。
VA 期:布留式高坏・布留式系X形小型器台が出現する。在来系長胴甕が減少し、畿内系甕が増加していくが、畿内系甕は北部九州で独自に
模倣製作されたと言う。」<

布留に関しては、米田の「南加賀」初発説があるから、保留。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:27:14.55
>>458
末盧国から南の多久市へ出て東へ向かうルートもあるが、
伊万里港に上陸して東南へ向かうルートも多用された可能性は大きい。歩きの距離がすくないからな、、。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:27:51.45
>>463
>実際使者が行ったの伊都国もしくは不弥国まで

そこが女王国なんだよ。
伊都国や不弥国はその構成国。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:29:27.38
>>465
>>460
>畿内説でも魏志倭人伝の各国の推定は必要だと思うぞ

できないんだよ!
無理なんだよ!
魏志倭人伝の里程はデタラメで信用できないというのが畿内節の前提だから...
もう許してやれよ。
これ以上、キナイコシに無理を言っていじめるなよ…
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:30:45.26
末盧国は松浦市なので、東南は、伊万里市で良いな、、、

461日本@名無史さん2019/05/11(土) 20:22:19.82
>>458

方角がデタラメすぎる
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:30:51.51
>>462
背けとらんがな
そっちこそ金印は邪馬台国の根拠にならんという事実から目を背けてるんではないかな
まあ金印はそこが奴国だった証拠にはなるだろな
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:34:54.05
>>459
これと東に海があり渡ってそこにも人が住む土地がなければ成立しないのですよね
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:35:39.58
高島鬼平も、伊都国は糸島だったと断言してたようだが、
佐賀の女子大でメシを食ってたんじゃなかったのかいな、
そんなこと言ってるようじゃ佐賀の考古学は先が暗いな。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:35:54.68
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。諸国はこれを畏怖している。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:38:16.54
>>467
邪馬台国が女王国。女王国の構成国は倭人の国で倭国

>>468
だから出来るって
伊都国もしくは不弥国までは帯方郡の使者が実際通ってるから具体的だし
方角や里も参考になる。それ以降は倭人からの伝聞だから方角や日数はあてにならない
水行日や陸行日と里は違う
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:45:49.63
>>478
あてにならないのはオマイも同じだ。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:47:23.42
もともと高島は、隠れ畿内説だったような記憶がある。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:55:18.76
455>>177
>「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」 田中元浩
日本考古学 / 12 巻 (2005) 20 号p. 47-73
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/12/20/12_20_47/_article/-char/ja/
これが、考古学的事実だよ 交流がなかったとか、絵空事もいいところw<

要するに、
「庄内甕・精製器種B群といった土器群は中河内地域の中田遺跡群」から伝播した事と、
布留甕は、「複数の分布の拠点が認められる」と山陰地域の関係もあり、
「各土器群が胎土・展開時期・分布において各地域で複雑なあり方を示す」
というだけの事であり、
米田のような胎土中心の分析はしていなかったんだね。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:55:49.82
>>479
そこだけは違うな
魏志倭人伝の記述に照らし合わせれば九州北部は通過する事になるし
そもそも女王国の場所は会稽東冶の東で沖縄や台湾の辺りと書いてある
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 20:59:56.13
やはり、このスレッドは、キナイコシや75パーが、出現しなければ、笑えないな。。。
そして、更に頭の悪い3寸男のキャラクターも、必要なのでは、ないのかな、、、
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:06:54.53
九州説の連続句読点荒らしは、

************
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった
************
↑のコピペを、何故貼らなくなってしまったのだろうか、、
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:10:42.84
単純に、忘れたからでは、ないのかな、、、

486日本@名無史さん2019/05/11(土) 21:06:54.53
九州説の連続句読点荒らしは、
************
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる
そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった
************
↑のコピペを、何故貼らなくなってしまったのだろうか、、
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:14:37.50
ちなみに3寸男の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになったのは、何故なのたろうか、、、

625日本@名無史さん2018/11/27(火) 20:11:31.88
九州説の肩を持つ訳では無いがさすがに計算は合ってるよ
ある場所の夏至における南中時の太陽高度は 90度�ワ度+23.4度 なので緯度35度の地点では78.4度

エクセルだと 1/tan(radians(78.4)) で余接の値が求められるのでこれに8尺棒の高さを掛ければ影の長さが得られる

75kmだと角度は0.7くらいの違いになるのかな

626日本@名無史さん2018/11/27(火) 20:47:23.36
夏至の正午北緯35度で
北に約短里で千里80km行けば確かに8尺の棒の影長は周ヒ算経にあるように1尺7寸
しかし南に千里、80kmだと1尺5寸とあるが実際は1尺2寸ほど
九州説は地球平面モデルだとか意味不明な事を言うけれど
そもそも実測値ではないから短里の根拠にならない
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:16:19.71
>>381
>筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝が八咫鏡と記録されている。
>記紀では、アマテラスが八咫の鏡を孫に与えて筑紫に旅立たせた時に
>宗像氏族が守護を担当したので、非常に縁があることになる。
>日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されている。

残念ながら、宗像大社には八咫鏡は神宝として伝えられていないし、社伝にも八咫鏡は出てこない
アマテラスが云々と神夏磯姫の逸話は、畿内で編纂された記紀の物で九州に伝わるものではない

九州説お得意の「平原1号墓の鏡が八咫鏡にだー」ってやつも、糸島周辺には
まったく八咫鏡関連の伝承はない

宗像大社のやつも西海道風土記逸文にあるだけだが、風土記は記紀より後に編纂されており、
記紀の逸話が後付けで挿入されるってのが普通にある

おそらく八咫鏡は奈良盆地、唐古鍵近くの鏡作神社の奉祭氏族が弥生末期に作った物だろう
でなければ、和歌山の日前神宮・國懸神宮に、八咫鏡の試作鏡、日像鏡と日矛鏡がご神体として
存在することが説明できない
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:17:03.62
巫女さんたち
「卑弥呼様の埋葬は、身内だけでひっそりとやりましょうね」
「墳丘長12mくらいのお墓でいいのよ」
「身内の若い衆を10人ほど集めて、1週間くらいで造ってもらいましょう」
By九州説
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:19:31.85
>>488
3寸男が、僕達を唸らせる、意味のある意見を発表すれば、5ちゃんねるのレベルが少し上がり、利用者が減り続けることを、防止出来る可能性が、あるな。。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:20:00.05
>>384
>それは承知の上。
>後漢代にはまだ帯方郡が成立していなく、後に分離して成立した。
>つまり帯方郡からの郡使による倭国の調査など、漢代にはあり得ないし記録もない。

つまり、単に魏志倭人伝を引き写しにしただけで、
「距離が変わってないから都が変わらない」という論は根拠を失う訳だ
九州説は自説というか自分の書き込みの中だけでも、論理がないからすぐに矛盾するww
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:23:00.37
>>489
>残念ながら、宗像大社には八咫鏡は神宝として伝えられていないし、社伝にも八咫鏡は出てこない

その後で持ち去られた可能性はあるが、伝承等がないというのは誤りだよ。

>アマテラスが云々と神夏磯姫の逸話は、畿内で編纂された記紀の物で九州に伝わるものではない

どちらも筑紫に関わる話として書かれている。
その言い訳は通じない。

>宗像大社のやつも西海道風土記逸文にあるだけだが、風土記は記紀より後に編纂されており、
>記紀の逸話が後付けで挿入されるってのが普通にある

記紀に該当する内容がなく、風土記にだけあるのだから、記紀の逸話ではない。
その言い訳は全くの嘘。
畿内説をゴリ押しするためならどんな嘘でもつくんだな。
だから畿内説は信用されない。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:25:17.24
>>404
>金印は江戸時代の偽物

あれは真物だよ
でなければ駝鈕の首を落として蛇鈕に作り替えるなんていう状況は説明不能になる
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:25:23.81
引用符を付ける人はいまだにパソ通のやり方から抜け出せてない人なんかなと思う
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:26:16.01
陳寿
「儂は、倭人伝に三つの謎を埋め込んだ」
「一つは短里。注釈なく使っているので、読むものはさぞや困惑するであろう」
「もう一つは放射読み。これも注釈なくそうしたので、読む者は困惑するばかりであろう」
「最期の一つは帯方郡起点。これも注釈なくそのようにした。読む者の困惑は極まるばかりに違いない」
「この三つの謎を解かぬ限り、何者であろうとも、親魏倭王の国には決してたどり着けぬわ!」
「かーっかっかっかっ!」
「遠い将来、未知の算術(※ベイズ推定)を考え出す者でもおれば、この謎も解けるかも知れぬが」
「これで、親魏倭王の国の位置を知る者は、中華において儂一人よ」
「クーーーククククククッ!」
By九州説
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:26:16.75
陳寿
「儂は、倭人伝に三つの謎を埋め込んだ」
「一つは短里。注釈なく使っているので、読むものはさぞや困惑するであろう」
「もう一つは放射読み。これも注釈なくそうしたので、読む者は困惑するばかりであろう」
「最期の一つは帯方郡起点。これも注釈なくそのようにした。読む者の困惑は極まるばかりに違いない」
「この三つの謎を解かぬ限り、何者であろうとも、親魏倭王の国には決してたどり着けぬわ!」
「かーっかっかっかっ!」
「遠い将来、未知の算術(※ベイズ推定)を考え出す者でもおれば、この謎も解けるかも知れぬが」
「これで、親魏倭王の国の位置を知る者は、中華において儂一人よ」
「クーーーククククククッ!」
By九州説
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:26:21.38
>>493

何を言っているのかわからないな。
後漢書と魏志倭人伝はそれぞれ時代に合わせて楽浪郡と帯方郡を使い分けているだけで、中央から見たら本質的に同じなんだよ。
後漢書における楽浪郡から一万二千里と、魏志倭人伝における帯方郡から一万二千里は同じこと。
そもそも帯方郡も楽浪郡もそんなに距離はない。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:27:09.97
八咫の鏡は、やはり、九州で作製された可能性が、高いのだね、、、

494日本@名無史さん2019/05/11(土) 21:23:00.37
>>489
>残念ながら、宗像大社には八咫鏡は神宝として伝えられていないし、社伝にも八咫鏡は出てこない

その後で持ち去られた可能性はあるが、伝承等がないというのは誤りだよ。

>アマテラスが云々と神夏磯姫の逸話は、畿内で編纂された記紀の物で九州に伝わるものではない

どちらも筑紫に関わる話として書かれている。
その言い訳は通じない。

>宗像大社のやつも西海道風土記逸文にあるだけだが、風土記は記紀より後に編纂されており、
>記紀の逸話が後付けで挿入されるってのが普通にある

記紀に該当する内容がなく、風土記にだけあるのだから、記紀の逸話ではない。
その言い訳は全くの嘘。
畿内説をゴリ押しするためならどんな嘘でもつくんだな。
だから畿内説は信用されない。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:27:57.92
>>409
>九州説の連続句読点荒らしよ
>こうしてお前をイジめて2度とこのスレに顔を出せないようにしてくれるわ

連続句読点はまともな日本人とは価値観が違うから、
そんなことはまったく気にしないよ

やつはダメだ
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:28:07.92
連続句読点よ
効いてないフリしてても周りにはバレてるから、、、
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:30:04.15
3寸男の周りには、誰もいない可能性が、100パーセンテージあるな、、、

503日本@名無史さん2019/05/11(土) 21:28:07.92
連続句読点よ
効いてないフリしてても周りにはバレてるから、、
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:31:09.48
>>488
3寸男が、僕達を唸らせる、意味のある意見を発表すれば、5ちゃんねるのレベルが少し上がり、利用者が減り続けることを、防止出来る可能性が、あるな。。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:32:36.68
陳寿
「帯方郡から女王国まで一万二千里か。
中国国内だとどこらへんかな?会稽のあたりか。
しかしえらく遠いのに、たった水行10日陸行一日だと?
何かおかしいような気がするが、帯方郡からの報告書にはそう書いてあるな。
陸行一日は陸行一月の誤りかな?
それなら会稽まで行けるしな」
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:32:54.88
ある場所の夏至における南中時に、3寸男の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになったのは、何故なのたろうか
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:34:14.38
>>508
3寸男が、僕達を唸らせる、意味のある意見を発表すれば、5ちゃんねるのレベルが少し上がり、利用者が減り続けることを、防止出来る可能性が、あるな。。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:34:42.65
>>416
>「女王之所都」これは投馬国に対して邪馬台国側に都があるとの意味だよ

投馬国半島南岸説は完全に否定されただろ?ww
いい加減にしなよ

トンデモ過ぎw
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:35:10.61
455>>203
萬二千餘里      不彌國でほぼ終了しているから、大和は×
水行三十日陸行一月  不彌國からすぐ南に女王之所都があるから、日数は関係なく、大和は×
兵用矛〜鐡鏃或骨鏃  大和は殆ど出ないから、× 
倭地温暖       西日本ほぼ全域だから、どうでもいい
有棺無槨      ホケノは有棺有槨だから、大和は×
父母兄弟卧息異處  邪馬壹國と直接関係がないので、どうでもいい
出真珠青玉     盆地の大和はの近くに海がないので、×。
其山有丹      九州にはベンガラも水銀山のあるが、大和には殆どないから、×。
女王國以北特置一大率 卑弥呼は鬼道をするだけで軍事力はないから、近くにいる必要があり、九州が〇
倭國亂相攻伐歴年  大和には痕跡がないから、×
其南有狗奴國    大和では存在する土地がないから、×
東渡海〜復有國皆倭種 女王国の東に海を渡った地に倭人の地があるから、九州が〇
周旋可五千餘里   参問できるところの倭地が周旋五千里があるから、九州が〇
五尺刀       刀も九州が圧倒的に多いから、大和は×
鉛丹        鉛丹を貰ったのは卑弥呼であり、南≠東に拠って、大和は×
銅鏡百枚      平原に21枚の「尚方作」鏡が出たから、九州が〇。
倭錦        筑紫からは倭錦も中国絹も出ているから、九州が〇
白珠 青大句珠   末盧國で潜水漁業を見ているから、九州が〇
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:37:11.17
邪馬台国=福岡県=卑弥呼の国=倭国の都
投馬国=宮崎県
狗奴国=熊本県
日本国=奈良県=ヤマト王権
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:37:32.29
連続句読点が焦って、
意味のわからないレスを連投しているな。。。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:39:28.61
やはり、この意見を発表した者は、75パーより頭が悪いキャラクターなので、75
パー以外の者か、75パー が演じる別のキャラクターかのどちらかでは、ないのかな、、、
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:41:07.13
邪馬台国=福岡県=卑弥呼の女王国=倭国の都=筑紫の日向
投馬国=宮崎県=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=奈良県=ヤマト王権
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:41:11.95
つまり、仕掛けた討論から、逃亡するのだね、、、

513日本@名無史さん2019/05/11(土) 21:37:32.29
連続句読点が焦って、
意味のわからないレスを連投しているな。。。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:42:42.72
455>>205
邪馬台国の地名  「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つきだから、大和説が×
戸数7万戸    福岡平野中央部〜筑紫平野部で十分だから、九州説が〇
30の国々の盟主 全部九州付近に入るから、九州説が〇
宮室、楼観、城柵 吉野ケ里や朝倉付近に類似遺跡があるから、九州が〇
卑弥呼の墓径百歩 祇園山にピッタリだから、九州が〇
徇葬百人     日本中で祇園山だけだから、九州の一人〇  
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:42:57.10
>>432
>では郡使はどこまで来たのかな?

もちろん、ヤマト国(大陸人の聞き書き音訳で邪馬臺国)までだよ
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:44:02.13
やはり、この意見を発表した者は、75パーより頭が悪いキャラクターなので、75
パー以外の者か、75パー が演じる別のキャラクターかのどちらかでは、ないのかな、、、

486日本@名無史さん2019/05/11(土) 21:06:54.53
九州説の連続句読点荒らしは、
************
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる
そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった
************
↑のコピペを、何故貼らなくなってしまったのだろうか、、
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:45:00.93
>>257
ワロタw
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:45:34.93
>>433
>伊都国が女王卑弥呼の都だから

伊都説は、
国が入れ子の三重構造になる
邪馬台国七萬戸が説明できない
伊都国記事に女王之所都と書かれていない
という無理がある

九州説の中でもトンデモ扱いだ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:46:01.82
455>>205
>畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できるんだが? 、

「南≠東」などの嘘付き騙しに拠って、大和は全部×
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:46:08.41
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=倭国の都=福岡県=筑紫の日向
投馬国=宮崎県=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=奈良県=倭の別種=ヤマト王権
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:46:50.64
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:46:55.08
決定的に素で頭の悪い、3寸男というプロ固定がいる可能性は、やはり、高いな、、、
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:47:21.55
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。

倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。

「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:49:38.49
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:51:28.46
解雇されそうになったプロ固定が、焦っているので、笑いリラックスできるな。。。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:52:57.91
>>434
>それはπ/4の近似値なんだよ。
>つまり直径2尺の円の円周を八咫とした。
>その計算を近似してわかりやすく説明したものが、女性の手だ。
>それ以外には、そのような奇妙な尺度を定義する合理的理由はない。
>つまり君の説明は不合理なんだ。

残念でした
そんなのはとっくに論破済み
円周を示すための単位などは存在するはずがない

さらに大陸に、径尺ちょうど、あるいは径二尺ちょうどの鏡が事実上ない
ないもののための単位などあり得ない

邪馬台国の時代を含む大陸史書の全例検索をしても、
「咫」が長さの単位として使われている例が、事実上ない
「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
実用される長さの単位ではなかったことが分かる

その状態で、「何かを測った」「何を測ってもいい」と主張すること自体が
意味を持たないんだよ
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:53:37.86
プロ固定は、面白いので、泳がしとけば、良いな。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:54:03.38
近年、九州の三大古城のうちの基肄城と大野城は、大宰府を囲む東夷世界で最大の羅城の一部であることがわかった。
その遺構の木材の炭素年代測定の結果は、卑弥呼の時代まで遡ることがわかった。
三大古城の残りの一つである菊池城は、狗奴国の菊池彦にその名を見ることができる。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:54:55.77
連続句読点をあまり追い詰めると
発狂してしまうのではないかな、、、
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:55:23.55
プロ固定とは、何者だったのかの討論会が、笑いリラックスできるので、変換すれば、良いな、、、
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:56:13.16
>>527
迷推理おつ
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:57:05.22
>>531
>円周を示すための単位などは存在するはずがない

なかったら円周の利用に不便だよ。
ない方がおかしい。
日本では鯨尺として知られる。

>さらに大陸に、径尺ちょうど、あるいは径二尺ちょうどの鏡が事実上ない

平原遺跡に実例がある。
事実から目を背けるな。

>「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
>そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、

数学が苦手な読者への配慮に過ぎない。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:57:11.05
頭が悪い、プロ固定は、イヂメれば、良いな、、、
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:57:38.82
九州説の連続句読点荒らしはみんなの笑いものになっている事に
早いとこ気が付いた方がいいのではないかな、、、
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:57:57.46
焦っているので、笑える、、、
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:58:03.64
連続句読点は自身が理解してないものを貼り付ける傾向があるな
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:58:36.76
プロ固定は、何者だったのかの討論会が、始まった、、、
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 21:59:11.88
>>442
>最初の魏への遣使では、漢委奴国王印を使用したはず。
>それが倭王からの国書であることを証明できる唯一の手段だ。

これ、何度も一生懸命書いているけど、200年も前のものが
まともに伝世していると考える方がどうかしている

倭王からの遣使であることは証明できないから、
大陸王朝側は騙されないように、答礼使という体で除正使を派遣して、
卑弥呼が倭王と言える地位にあるか確認に来るんだよ
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:00:13.35
プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:00:56.63
プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、
プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:01:34.90
プロ固定とは、何だろうか、、、
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:02:14.23
>>444
>つ 昭和天皇の治世の長さ

>長いとは思うが、不可能ではない。

医療の発達、衛生状態、栄養状態のまったく時代の例を挙げても意味がない
不可能ではないといっても、極端に低い可能性は前提にできない
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:02:17.63
>>442
>最初の魏への遣使では、漢委奴国王印を使用したはず

使用するわけない(笑)
漢委奴国王印を使用したら、倭国は漢を支持してる魏は支持しないっていう意味になる
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:04:09.90
>>544
>これ、何度も一生懸命書いているけど、200年も前のものが
>まともに伝世していると考える方がどうかしている

200年は盛り過ぎ。
そもそも国璽がそんなに粗末にされるわけがない。
日本には200年程度前の文化財なんてゴロゴロしているだろ?
千年クラスのものだってそこそこある。
君の主張はまったく根拠がない。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:05:00.72
>>546
九州説のスレ荒らし連続句読点は
とうとう狂ってしまったようだ、、、
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:05:23.89
>>448
>伊都に駐在した群使が1日で吉野ヶ里まで行くことも無理だしな。

この説では伊都国を定説とは違う佐賀・川上辺りに持ってくるんだよ
末盧国からの「東南」陸行だけを頼りに、イトの地名も遺跡もないところを伊都国にしている
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:05:26.15
>>549
魏は漢から禅譲を受けているから問題ない。
呉に国書を送る場合は問題となるもしれない。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:05:54.42
>>547
僕達は、本当は、プロ固定とは何か知らないまま、プロ固定という謎の言葉を、使用したのだが、反響が大きかったので、使っていたのだったな、、、
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:06:41.73
プロ固定とは、本当は、何だろうか、、、
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:07:16.05
>>427
さすがに卑弥呼は180~190年頃に女王になったというのが定説だから
否定したいならソースが必要だな

あと古代の人も長生きの人は長生きだよ
80歳くらいなら珍しくない
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:07:21.20
・考古学的にはヤマトに強力な王権があったことがわかる
・魏の年号が明記された鏡は畿内から発見されている
・でも魏志倭人伝では方角や距離、邪馬台国の規模、文化風習をみても
九州説のほうが有力。
そもそも畿内説なら、道中にあるはずの瀬戸内海や四国の描写がない。
・畿内説なら卑弥呼や台与は天皇の先祖となるが、
古代の大王(天皇)に比定しうる存在がいないorしっくりこない

これらの矛盾の解決方法があります!!

それは

ヤマトの強大化に恐れをなした邪馬台国が魏から倭王に任命してもらうことで、
ヤマトの邪馬台国侵攻(北九州侵攻)を阻止したという説である
邪馬台国はヤマトに「自分たちの女王が倭王に任じられ、鏡を下賜された」と誇示すれば、
ヤマトは魏という虎のしっぽを踏むことを恐れて、邪馬台国に手を出せなくなったのだ

味をしめた邪馬台国は、1回鏡を送って終わりでは、ヤマトの連中の記憶が風化するかもと心配し、
その後も鏡のコピーを作って、ヤマトへ送り続けた
だから存在しない魏の年号・景初四年と書かれた鏡が生産されてしまったのだ
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:08:08.54
>>549
魏は漢から帝位を禅譲されてるから魏から新印を貰うまでは漢委奴国王印を使用して構わないよ
印が更新されるまではね。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:08:13.92
>>552
末盧国から伊都国が遠くなり過ぎ。
考古学的にも、伊都は三雲から動かせない。
佐賀平野が開拓されるのは4世紀だから、壹與ならギリギリ。
卑弥呼の即位は2世紀末だから、佐賀平野は無理。
畿内も無理。
その時代に王墓が作られていたのは糸島平野だけ。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:09:08.13
>>553
問題あるに決まってるだろ(笑)
禅譲を受けても別の国だぞ。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:10:11.88
弥生時代の寿命が短かったのは戦乱と疫病だから、深窓の女王であれば現代人と同じくらい生きても不思議ではない。
180年頃に即位して247年に没なら、昭和天皇と同じくらいだ。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:10:12.68
プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、
プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、プロ固定、
プロ固定、プロ固定が、NGワードになってしまった。。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:13:14.43
当時は漢の正統な継承国家は魏だ いやいや蜀漢だと争っていた時代が三国志だから

倭の女王が漢委奴国王の印を使って魏に使者を送れば、
魏は喜んで親魏倭王という名の「更新手続き」をしてくれただろう
0565日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 22:13:34.90
隠れた振りをしている、優れた伊作氏が、見抜いた、プロ固定とは、何なのだろうか、、、
0566日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 22:14:50.50
むしろ、それ以外に倭王からの国書であることを証明する手段がない。
福岡にあった漢委奴国王印を最後に使用したのは卑弥呼だよ。
0567日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 22:15:12.31
>>563
衰退後50年経過してから印を使い続けた例を出したら良いんじゃないか

漢が衰退したのが184年
魏が出来たのが220年
親魏倭王印を授かったのが238年
0568日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 22:16:00.04
金印という国璽の出土と、八咫の鏡を含む三種の神器の出土により、邪馬台国の所在地は確定するよね。
0569日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 22:16:58.09
>>564

逆に台与が晋に使者を送っても、
親晋倭王にも晋委邪馬台国王にもしてくれなかった

別に魏の正統な継承国家は晋以外で候補は他になかったから、
漢の継承国家は魏か蜀かで争っていた時期とは異なり、別に倭の朝貢に「喜ぶ」必要がなかった
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:19:02.37
史料に何ら書かれていない事項を個人的に事実と決めつけ
それへの当否が根拠になりうると思っているならば高等教育を受け直した方がいい
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:19:21.93
>>495
取っ手は、偽造集団のいい加減さが出ているだけ。  逆に真印制作集団ならそんな不細工なことはしないよ。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:20:06.15
>>570
史料的制約がある場合は、それはやむをえないこと
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:20:06.46
>>569
良く解説ができました、パチパチ。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:21:45.06
>>568
おまえは家を引っ越すときに大事な印鑑を持って行かないのか?


何が言いたいかというと、
別に今現在、金印が出土したからといって、そこに国があったとは限らない
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:21:47.04
倭国大乱も漢委奴国王印をめぐる争いだろうね。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:21:59.31
>>569
まず卑弥呼が漢委奴国王の後継者だったのかな
男王(漢委奴国王の後継者)で上手くいかなかったから卑弥呼が女王になったわけで
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:23:04.96
>>577
タウポの大噴火が原因だろうね
黄巾の乱も噴火が原因のようだし
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:23:31.67
>>575
外交のための国書に封泥するための印であり、国璽そのものです。
倭を含む中華世界における国璽を理解していないな。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:25:46.88
>>465
>畿内説でも魏志倭人伝の各国の推定は必要だと思うぞ

してあるだろ?
狗邪韓國 金官伽耶
對馬國  対馬
一大國  壱岐
末盧國  唐津(松浦川の平野)
伊都國  糸島(怡土 三雲遺跡群)
奴國   福岡(那の津、那珂)
不彌國  これははっきりしない 宇美か?
投馬國  出雲
邪馬壹國 ヤマト
斯馬國  伊勢志摩
已百支國 伊吹
伊邪國  伊賀?
都支國  多気郡?多藝郡?
彌奴國  美濃
好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國
呼邑國  華奴蘇奴國
鬼國   紀伊
爲吾國  伊賀?
鬼奴國  邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 有奴國
狗奴國  久努郷?毛野国?
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:27:24.39
プロ固定とは、本当は、何だろうか、、、
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:28:17.21
>>495
そりゃ、真逆だわ  
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:28:49.91
プロ固定の雇用主は、何者なのだろうか、、、
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:29:13.75
>>579
正解

181年 タウポの大噴火
184年 黄巾の乱
184年頃 倭国大乱

黄巾の乱のスローガン「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」
噴煙によって青い天が死んで、空が黄色くなったと言っている
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:30:30.67
>>584
金印が偽物説は古すぎない?
さすがに他の国からも発見されて金印が偽物説はほぼ無くなっただろ
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:31:06.28
プロ固定だと、バレてしまった頭の悪いプロ固定は、どうなってしまうのだろうか、
、、
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:33:31.20
>>499
>そもそも帯方郡も楽浪郡もそんなに距離はない。

おいおい、短里なんだろ?
帯方郡治から楽浪郡治まで、短里だったら千里以上あるぞ?www

>後漢書における楽浪郡から一万二千里と、魏志倭人伝における帯方郡から一万二千里は同じこと。

つまり、新しい情報はないんだよ
魏志倭人伝が萬二千里と書いているからそれを写した後漢書も萬二千里になっているだけ
つまり、後漢書のときの都と魏志倭人伝の都が同じという理由にはならない

まあ、卑弥呼の共立が後漢代という記述になっているから、後漢書の都も邪馬台国なんだがね
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:36:05.27
>>587
他所の国も取っ手を取り換えてるかい?  そんな不細工な事、してないだろ?  
掘り方も違うようだし、  
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:37:14.19
>>494
>その後で持ち去られた可能性はあるが、伝承等がないというのは誤りだよ。

可能性とか言いだしたら「何でもあり」にしかならん
宗像大社に八咫鏡があったというのは、宗像大社自体および社伝等の伝承からは認められない
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:37:14.91
>>579
正解

181年 タウポ大噴火
181年  『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。
184年 黄巾の乱
184年頃 倭国大乱、卑弥呼誕生
0593日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:38:22.46
>>590
取っ手を取り換えてるって何の話?
取っ手を取り換えてるとかトンデモ説すぎる
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:38:24.78
中國4千年の歴史
2千年前は考古学の範疇では無いのでは
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:39:34.47
中國4千年の歴史
2千年前は考古学の範疇では無いのでは
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:41:48.99
おまえらもう畿内と九州でそれぞれ検証オフやって現地で直接やり合えよw
リタイアしてるからヒマだろ
0598日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:41:48.57
ウクライナ人留学生「日本の自称平和主義者をウクライナの前線に連れて行きたい」★10
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1557573710/

東京五輪のチケット抽選サイトは韓国企業が制作? ソースコードから大量のハングルが見つかる
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1557465752/

蓮舫「報道目的という名目で自衛隊と米軍基地の上にドローンを飛行可能にする。これが対案だ!」
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1557563000/
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:42:14.57
>>525
>1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

これだと単独で五萬戸ある投馬国が倭国最大国になるなww

これも九州説の無理読みの一つ
史書は判じ物でも暗号書でもないんだから、計算しないと分からないようなのは
解釈として不当だ
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:44:09.51
>>591
風土記より現代の社伝の方が信頼できると考えているのなら、トンデモだな。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:45:04.73
>>599
邪馬台国と投馬国だけ別枠で併記されているから、これらは領域の総和だよ。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:46:02.93
>>600
中国のテン族の王が、同じく蛇鈕の印を貰っていたことがわかり、本物であることが確認されたあと
金印偽物説が壊滅したことなら知ってる
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:47:12.16
>>595
中國では殷の時代(紀元前1000年くらい)から漢字があるからなぁ
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:47:47.11
>>404
70歳くらいの人?
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:50:16.22
>>537
>なかったら円周の利用に不便だよ。
>ない方がおかしい。
>日本では鯨尺として知られる。

お前頭悪いんだから、無理してわざわざ恥をかくなよww
鯨尺1尺は曲尺 (かねじゃく) の1尺2寸5分に相当する
円周率とはまったく関係ないww

円周率と関係しているのは、指金の裏面の丸目と呼ばれる目盛の方だ
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:52:27.39
>>537
>平原遺跡に実例がある。
>事実から目を背けるな。

大陸にないのに、平原で作られる鏡のために咫という単位が作られたって主張するのかい?
本当に九州説の連中は論理が理解できないんだなww
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:53:23.75
>>603
テン族の王が、まともな蛇鈕の印をもらって、倭国がチャンポンの取っ手の印かよ  
舐められたもんだな   そんなもの、偽物以外のなにものでもない   掘り方も違ってる  
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:54:42.23
>>537
>数学が苦手な読者への配慮に過ぎない。

書いてる人も数学の知識なんてないよww
史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
  尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
  咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
  咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
  日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想

咫を円周を測るのに使っている例はない
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:55:00.33
漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
  尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
  咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
  咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である

咫を円周を測るのに使っている例はない
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:55:21.68
稲荷
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:55:27.04
三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
  咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味

咫を円周を測るのに使っている例はない
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:55:53.97
後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
  尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
  咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
  咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味

咫を円周を測るのに使っている例はない
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:56:33.79
史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺    で使われているのが23件  
   尺有咫   で使われているのが 7件
   八寸曰咫  で使われているのが 6件

「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている

「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる

「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸

ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ

要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」      長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」

咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない

これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね

つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:58:53.93
>>557
>・でも魏志倭人伝では方角や距離、邪馬台国の規模、文化風習をみても
>九州説のほうが有力。

さすがにこれは
中身なさすぎ
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:59:36.47
そもそも、秦の始皇帝の度量衡統一以降、咫は公定尺の体系に取り入れられておらず
計量単位としては使われていない

3世紀時点で、「里」が倭国に伝わっていないのに、
大陸でも使われていない「咫」が伝わっていると考えるのがマヌケすぎる
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 22:59:38.67
九州説は八咫鏡にしろ、金印にしろ、胡散臭いものばかり
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:02:48.27
455>>208
>九州説では、3世紀の九州の地名をどうやって説明するんだ?ww <

識字率や識字層の問題。
卑弥呼や大夫たちや都市牛利や倭人上層部や支配層は、漢字の読み書きだ出来るが、
地方の国々では、漢字が使える人と使えない人はバラバラであり、混在しており、
一般庶民や在地の毛人たちは、おそらく漢字の読み書きは出来ず、
従って、各地の地名や国名や人名も、漢字名があるものもあれば、
漢字がなくて、魏使らが音訳したものもあった可能性が十分にある。
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:05:54.00
>>550
>200年は盛り過ぎ。

漢委奴國王の金印をもらった光武帝への朝貢が西暦57年
卑弥呼の遣使が239年180年以上だから盛りすぎってことはないだろ

官僚機構もないところで、100年に一度しか使わない金印がきちんと伝世すると思う方がおかしい
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:08:23.63
>>603
テン族の王が、まともな蛇鈕の印をもらって、倭国がチャンポンの取っ手の印かよ  
舐められたもんだな   そんなもの、偽物以外のなにものでもない   掘り方も違ってる  
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:13:10.45
TVの録画より
周教授の解説の一部

「梁書(636年)によれば扶桑国(当時、日本にあると認識していた)
倭国から文身国まで東北7千里あまり、そこから東へ五千里余り行くと大韓国、
さらに東へ二万里あまりいくと扶桑国, 是で行くと扶桑国はこの距離で行くと扶桑国は太平洋を越え
メキシコあたりにあったことになる 中国の歴史書では中国以外の国についての距離の記述はすべて疑うべきです
邪馬台国を特定するには距離より方角を大切にすべきである
注目すべきはー会稽東冶之東ーーー会稽東冶は長江の出口付近である。長江から東へ行くと海流に流され九州に流れ着く。
邪馬台国や卑弥呼の居場所は九州にあったはずです・・・・・・・・・」

・・・・はもっと根拠を述べてますが省きます
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:15:22.43
>>561
>180年頃に即位して247年に没なら、昭和天皇と同じくらいだ。

これが逆説的に、卑弥呼がそんなに長命だったことを否定している
天皇という最も大事にされる存在の中でも、昭和天皇が最長寿なんだよ

昭和天皇は25歳で即位して在位64年
卑弥呼は年已長大で即位してそれが180頃で248年没なら在位68年になる

無理だろ?
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:20:23.60
>>623
可能だろ
古代の人も長生きな人は長生きだよ
15歳頃女王になったとして83歳ならちょうど寿命じゃん
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:20:58.75
>>581
>取っ手は、偽造集団のいい加減さが出ているだけ。

偽造集団は0から作るんだから、途中で駝鈕から蛇鈕に変更しようと考える必要が無い
明確に間違っていることを無理に主張し続けて恥を上塗りするのがお前の主義なんだなww
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:28:02.56
>>625
おまえの苦しい言い訳けが恥の上塗りだよ
偽造集団はボンクラなんだよ   だからあわててやっつけ仕事をしている
真正の製作集団なら、矜持にかけてそんなことはしないし、皇帝が許すわけもない  末代の恥だから 
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:30:05.36
>>622
これは・・・ものすごくレベル低いな
こいつ、倭人伝ろくに読んでないだろ
「道里をはかると」と書いてあるのに
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:30:34.67
>>622
方角を大切にすると邪馬台国は沖縄あたりになるから
沖縄あたりにあると間違った認識をしていた可能性のほうが高いね
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:31:29.50
>>628
めっちゃテキトーに測ってるやん
100里単位だしw
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:33:23.47
>>624
可能というかピッタリだな
卑弥呼が83歳で亡くなったとすると
中国の歴史書の「ついに卑弥呼が亡くなった」という記述と一致する
ピッタリ
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:34:46.26
金印の真贋論争シンポジウムは去年も福岡市博物館でやったので
まだ決着していない
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:36:16.52
>>615
違うよ
超珍しいものだから偽物説があっただけだよ
実際に同じような金印が見つかってからは偽物説はほぼ絶滅した
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:37:18.48
>>608
どこでその金印のとってを取り替えたという珍説を聞いたの?
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:37:47.71
同時代の一般人から見たら、ウチのじい様も卑弥呼様におつかえしていた、なんてことになる。
そりゃアマテラスのモデルにもなろうというもの。
八咫の鏡といい、記紀神話の源流は筑紫にあり、という感じだな。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:38:50.40
「歴史的な価値が確定したかのように思われている資料でさえさまざまな見方ができ、
学問的な根拠がぶつかっている。
こうした議論があることを多くの方に知ってもらうことで、
文化遺産についての理解がいっそう深まると思います」福岡市博物館有馬学館長
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:39:08.57
>>633
シンポジウムなんて素人が古いネタを楽しんでるだけだろ
学問的には偽物説はほぼ絶滅したよ
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:41:16.65
>>628
>>629

感想はいいですが 私は周教授では無いので
文句は周教授へ
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:42:08.27
>>636
源流は筑紫だね
首都が畿内に移って
仲哀天皇の頃に伊都国の王が仲哀天皇の家来になったという記述があるけどね

平原遺跡は仲哀天皇の頃に衰退したから物的証拠と日本書紀の記述が一致してるんだよな
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:43:35.87
>>639
自分の意見を補完するために書き込んだのは
お前なんだからお前に文句言うに決まってるだろw
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:46:41.58
だいたいアンタ、当時の人口で考えれば邪馬台国なんて、
@博多湾
A出雲
B畿内
C東海
のどれかでしかないんだから。

んで、@博多湾が『奴国』で通過して、結果A出雲が『投馬国』なんだから、
自動的に邪馬台国はBの『畿内』になり、狗奴国がC『東海』だろ。

何でこんな簡単なことをめぐって、ウダウダ言ってるのよ?
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:50:19.80
箸墓(4段築盛)=親魏倭王=卑弥呼 > 普通の古墳(3段築盛)=倭王(安東大将軍)=倭の五王

メチャクチャ簡単じゃん。これほど明白なことがある?
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:51:34.80
>>642
@ A Bは同意だけど
狗奴国は熊本だろうな
王冠って伊都付近と熊本付近で出土するんだよね
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:53:35.43
>>645
王冠って時代違いすぎ
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:54:49.72
「頭亦無冠但垂髪於両耳上 至隋其王始制冠」 隋書
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 23:58:59.36
箸墓(4段築盛)=親魏倭王(クシャーナ朝と同格)=卑弥呼 > 普通の古墳(3段築盛)=倭王(安東大将軍)=倭の五王

メチャクチャ簡単じゃん。これほど明白なことがある?
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:01:03.41
>>584
>そりゃ、真逆だわ

結局根拠なしの一言レスで逃げておしまいにするんだよなww

「漢委奴国王印 いわゆる金印part2」でも読んでごらん
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/
お前が間違ってることくらいは理解できると思うぞww

九州説の連中は知識の更新ができないんだよなww
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:04:22.50
>>634
国宝は超珍しいものばかりだがw
国宝が真贋論争になった時点で、アウト
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:04:48.83
>>622
>萬二「梁書(636年)によれば扶桑国(当時、日本にあると認識していた)
倭国から文身国まで東北7千里あまり、そこから東へ五千里余り行くと大韓国、
さらに東へ二万里あまりいくと扶桑国, 是で行くと扶桑国はこの距離で行くと扶桑国は太平洋を越え
メキシコ・・・・・・・・>

記紀は8世紀だから梁書の方が古いですね

やはり邪馬台国は九州でいいと思います

倭国は横に置いて 日本国は奈良発祥の地でしょう。九州邪馬台国の後進がヤマト王政でも良いですが・・
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:04:57.96
>>593
>取っ手を取り換えてるって何の話?
>取っ手を取り換えてるとかトンデモ説すぎる

燕地の方から使いが来たから、北方民族用の駝鈕で作ってたら、
会稽東冶の方からきた南方系って分かって、慌てて(かどうかは知らんけど)
駱駝の首を落として駱駝の身体を蛇っぽくしてるんだよ
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:06:22.96
想像だな
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:07:55.14
梁書か・・
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:08:02.84
>>596
>風土記に書いてあるのだから、伝承がないというのは誤りだろ?

風土記は記紀を見て書いてるから、どこまで信用できるかってのは
保留しながら読まないといけないんだよ

逸文しかないならなおさら
0657スレ主さんへ
垢版 |
2019/05/12(日) 00:11:44.94
梁書を参考に邪馬台国畿内説を語っていただけないでしょうか
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:12:58.39
>>652
古来から、偽造天国中国のペテン師がよくやる、やっつけ仕事さ  黒田藩の弱小学派が中国の偽造集団に作らせたんだろう
そのやっつけ仕事を真印などとよく言うよ
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:17:07.78
>>601
>風土記より現代の社伝の方が信頼できると考えているのなら、トンデモだな。

宗像大社と関係ない風土記逸文と、宗像大社そのものの社伝なら、社伝の方が信頼できるだろ

風土記逸文といっても、江戸時代のたった一人(青柳種信)の筆による物が残ってるだけだぞ
偽書説もある代物だし
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:18:59.35
だいたい、出来損ないの印を授けるなんてこと、大中国の皇帝がすると思うこと自体が異常神経
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:20:23.00
>>656
記紀になくて風土記にだけある記事を、記紀をもとにして書いたとかね頭おかしいだろw
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:21:28.40
>>659
その社伝とやらはいつ書かれたものなんだ?
キナイコシはダブスタもいい加減にしろよ。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:21:43.77
>>602
>邪馬台国と投馬国だけ別枠で併記されているから、これらは領域の総和だよ。

で、九州説のお前さんは、投馬国の領域をどこにするんだ?
投馬国半島南岸説というのトンデモじゃないかww

畿内説でも投馬国とヤマト国は広い範囲の国としているが、
投馬国、出雲が中国地方の四隅突出墓文化圏
邪馬台国、ヤマトが畿内第V様式土器圏という考古学的実体に比定地を当てることができる
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:24:06.85
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=倭国の都=福岡県=筑紫の日向
投馬国=宮崎県=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=奈良県=倭の別種=ヤマト王権
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:26:43.82
九州は、〜圏というような共通の文化圏はないな
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:27:40.57
>>621
>テン族の王が、まともな蛇鈕の印をもらって、倭国がチャンポンの取っ手の印かよ  
>舐められたもんだな   そんなもの、偽物以外のなにものでもない   掘り方も違ってる

本当に恥の厚塗りが好きなんだなww
半島(帯方郡)経由、燕地経由来たから、北方民族用の駝鈕で作り始めて、
太白の裔ということになったから、南方民族用の蛇鈕に作りかえたんだよ

贋作だったら、そんなことは起こりえないって理解できるか?
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:30:45.79
>>624
>古代の人も長生きな人は長生きだよ
>15歳頃女王になったとして83歳ならちょうど寿命じゃん

古代から今上天皇までで、最長寿なのが昭和天皇で在位62年
弥生時代にそれを超えるってのは、可能性が「0ではない」というだけ
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:34:14.15
>>650
>国宝は超珍しいものばかりだが

そんなことないよ
金印くらいレアなものあげてみろ
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:35:23.81
>>646
そこに王朝があった証拠にはなる
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:35:50.37
どういう民族の国かもよく知らないで金印を作り始めてたってのが起こりえるなら
贋作でも起こりえるだろうな
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:38:18.29
>>670
可能性がゼロでないならそれで問題ないだろ
中国の歴史書でも卑弥呼は長寿だと書いてあるんだか
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:44:31.73
>>673
贋作は作れないのよ
テン王の金印が発見されたのは1956年だから
日本の金印が贋作の可能性はないよ

贋作としたら江戸時代の人が1956年に発見されたテン王の金印を参考にしたことになる
だから学問的には贋作説は絶滅してる
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:46:07.61
工芸文化研究所の鈴木勉によると、志賀島の金印は、文字の中心線を彫ったあと、
別の角度からも「たがね」を打ち込んで輪郭を整える「さらい彫り」という技法
「広陵王璽」印は、たがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」と呼ばれる高度な技法
「さらい彫り」は江戸時代の印によく見られる
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:48:41.55
箸墓(4段築盛)=親魏倭王(クシャーナ朝と同格)=卑弥呼 > 普通の古墳(3段築盛)=倭王(安東大将軍)=倭の五王

メチャクチャ簡単じゃん。誰の目にも明白。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:49:01.65
>>672
>そこに王朝があった証拠にはなる

なんで?
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:51:45.67
巫女さんたち
「卑弥呼様の埋葬は、身内だけでひっそりとやりましょうね」
「墳丘長12mくらいのお墓でいいのよ」
「身内の若い衆を10人ほど集めて」
「ほんの1週間くらいで造ってもらいましょうね」
By九州説
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:51:48.36
蛇鈕は漢の印制とは合致しないが、現在確認されている印を眺めると、
前漢初めから晋代までで26例知られ、前漢初期に集中しているものの、
後漢以後でも13例知られている。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:51:50.28
>>678
王がいた証拠だから
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:54:51.75
金印の「漢」の字体。
これは1953年にウイグルの遺跡から発見された「漢帰義羌長」(銅印)の「漢」と一致する

つまり江戸時代の職人が1953年に発見された銅印を参考にすることはできないので
贋作の可能性はない
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:55:11.29
巫女さんたち
「卑弥呼様の埋葬は、身内だけでひっそりとやりましょうね」
「墳丘長12mくらいの、小さな小さなお墓でいいのよ」
「身内の若い衆を10人ほど集めて」
「ほんの1週間くらいで造ってもらいましょうね」
By九州説
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:55:42.71
>>678
福岡とか王冠出土しないからな
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 00:58:09.76
>>670
つまり魏志倭人伝の記述を否定する根拠は何もない。
そもそも魏志倭人伝がそんなに嫌いなら、邪馬台国論争に口を挟まなくてもいいのにと思う。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:00:33.79
陳寿
「儂は、倭人伝に三つの謎を埋め込んだ」
「一つは短里。注釈なく使っているので、読む者はさぞや困惑するであろう」
「もう一つは放射読み。これも注釈なくそうしたので、読む者は困惑するばかりであろう」
「最期の一つは帯方郡起点。これも注釈なくそのようにした。読む者の困惑は極まるばかりに違いない」
「この三つの謎を解かぬ限り、何者であろうとも、親魏倭王の国には決してたどり着けぬわ!」
「かーっかっかっかっ!」
「遠い将来、未知の算術(※ベイズ推定)を考え出す者でもおれば、この謎も解けるかも知れぬが」
「これで、親魏倭王の国の位置を知る者は、当代の中華においては儂一人よ」
「そうよ!親魏倭王の国の秘密は、儂一人のものなのだ!」
「クーーーククククククッ!」
By九州説
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:05:12.31
>>673
江戸時代の日本人による贋作なら、自分たちの国のことを知らないなんてことにはならない。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:06:23.04
>>667
>>665
>実体は妄想ではない
>実体と照合できない説は妄想

畿内説のことですね。
わかります。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:10:24.92
「漢帰義羌長」(銅印)の「漢」と、志賀島の金印の「漢」は
偏の上下の長さが全く違う
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:12:19.88
>>681
なんて王がいる証拠になるの?

なんで王冠がいると王朝があるの?
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:14:21.62
>>688
なんで国王がそこにいると王朝があるの?
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:23:17.69
古代から〜〜〜〜天皇(不明w)?
どこの池沼なんだ?
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:25:01.62
精神病院というのがあるから、
そこに行けと言っているんだよ
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:28:03.88
王様は王冠をつけるものだって習慣のない国では
単なるキンキラ帽子だな
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:30:34.75
お前の言っている皇室・・・不明?
中国人ではないだろう

ジンム〜という話でしょ?
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:33:16.64
そういう言葉(称号のようなものなど)を使用、
名乗っているだけで、実際は・・・・でしょ
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:40:43.01
ジンム(不明、天王〜天皇?)

降り立ってから何やら〜、
そのときから、日本に「いる」と思っているんだろう

どこの池沼なんだ
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:45:23.13
天王〜・・・、

仏教というのがあるでしょ、
他のスレや専門家に聞いたほうが良い

ジンム?
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:49:21.89
天皇・・・・それとも神仙?


なぜジンム(日本の話)なんだ?
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 01:59:08.91
僧(仏教)も仙人も同じ、
みんな日本に学び(修行など)に来たんだろう?


精神科に行け
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:05:28.03
『石板』というのがあるでしょ、
お前(不明)たちからいうとw日本の話なんだろう

経典のようなものを、
日本まで探し(授かり)に来たとか
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:13:17.66
>>692
字体が同じ時点で
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:14:19.36
>>693
>>694
逆になんで証拠にならないと思うの?
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:17:00.68
>>687
ありがとう

見事に王冠の出土は
代々の王がいた伊都国付近と
クナ国の熊本付近だね
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:19:10.64
てんのーでも何でも良いんだけど、
外から学んだ後の話だろうと言っているんだよ


そういう漫画やアニメ、ゲームなどもw


それとも日本の天皇のもとに集まってきた言いたいの?
修行に来た、何か(教え)を求めに来た?
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:31:24.23
偽物は偽物なんだよ、
どういう意味だと思う?
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:32:48.83
その印というのは、
皇帝とか何かのシンボル?
みたいなものでしょ


偽物だろう
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:36:17.35
馬鹿にするような事はしないほうが良いんじゃないのか?
と言ってる人がいたでしょ

そういう皇帝の印のような話とか
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:37:59.54
漢印篆は漢代に成立してるんだから
一致もしてない「漢帰義羌長」(銅印)の出土が
志賀島の金印より後年というのは根拠にならない
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:38:48.76
何の印なんだ?
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:42:44.07
『日本国王 足利』

こういうと同じような話でしょ
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:49:54.13
『倭人』『倭猿』

どういう意味だと思うw
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:56:08.50
日本の東北地方(どの辺り?どのような系統の人々?)のほうの話、
中国人が住んでいるとか・・・


『外三郡誌』
正解だと思うんだけど
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 02:59:22.99
アイヌの武士の話とか、
本当に、おかしな話でしょ

実際は上のほうの人間なんだろう、
仕えている家よりも上なの
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 03:03:06.57
>>557
>・でも魏志倭人伝では方角や距離、邪馬台国の規模、文化風習をみても
九州説のほうが有力。

ワロタ
九州だと全然合わないのに、九州説の方が有力ってなんだそりゃ
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 03:13:42.35
わかりやすく言うと

あの人(家)は・・・むかーしの中国の人だったの?
そういう話
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 03:27:22.28
なんで、テンプレの通りに事が運ばないのかな?
>>1が馬鹿なのか それとも九州説誘導なのか ようわからんスレ

テンプレ
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 03:29:15.09
むかーし中国のほうから渡ってきた?
そういう家があると言ってる人がいたり

教育しに来た?
そういう家みたいなんだけど
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 03:39:32.04
もう、お前は必要ないんだよ
と言ってる人がいたでしょ


他の人に代わってもらうとか、
てんのーの話?
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 03:50:10.88
『2ch 偉人 aa』

これを読んでみてw
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 03:59:48.37
低脳なんだろう?と聞いているわけなんだけどw

例えば『日本国王 足利』

どういう意味だと思う、邪馬台国・・・などと同じような話なんだけど
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 04:36:56.32
455>>216
>まあ、伝号ゲームのうちに誇張された可能性もないではないが、
並べて書いてある裸國、黒齒國が淮南子典拠の伝説だから、
侏儒国も伝説の国としていいと思う<

南洋方面にネグルトがいたし、
足摺の西沖の沖の島に江戸期初期まで低身長部族がいた、という記録もあり、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」が、
足摺付近の侏儒國付近までの「陸路部分だけの参問」であった、
とした場合にピッタリであるから、
魏使の部下らの実見記録である、としてよい。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 04:46:23.81
455>>221
>九州説はもっとないww 九州には記紀より古い文献がないからなw
「九州説では、3世紀の九州の地名をどうやって説明するんだ?ww」の答えは?ww<

魏志や広志の記録や、大和の記紀など記録の、
史料批判による分析から。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 04:51:10.08
455>>222
>このように なんの脈絡もなく、なんの根拠もなく
突然に不可解な結論を言い張り始めるのが トンデモのスクツ九州説 <

「南→東」などの嘘吐き騙しなどのように、
十分な史料批判もせずに、
なんの脈絡もなく、なんの根拠もなく
突然に「都合の悪い史料事実や史料実態の否定抹殺」の、
不可解な結論を言い張り始めるのが
トンデモの宗教に狂った・・・・アホ詐欺師の大和説
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 04:55:45.82
455>>228
>日本海ルート説では鳥取単独じゃ無いから反論として無効
いうまでもなく瀬戸内ルート畿内説に対しては反論にならない<

「南≠東北」などに拠って、×。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 04:58:33.89
ジンム〜、何やらw
お前はチョン(不明)なんだよ

あと中国のほうから来たという家の人々もいるでしょ?
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 04:59:14.95
455>>233
>島根じゃないよ 投馬国・出雲は四隅突出墓の範囲 中国地方日本海側ほぼ全域だ
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野 熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野
妻木晩田遺跡のある大山付近 さらに西桂見墳丘墓のある鳥取市周辺 と、大きな勢力が複数ある
これらを総合しているから、投馬國「可」五萬餘戶なんだよ ・・・<

「南≠東北」だから、×。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:01:45.74
455>>231
>それでいいなら、邪馬台国⇒ヤマト国で終了だな お疲れ様でしたww<

それなら、邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であったし、
「南≠東」などにで終了だな。
お疲れ様でした。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:09:18.00
『足利氏』を調べてみて・・・皇族?だと書いてあるでしょ
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:10:08.29
455>>233
>九州もないんだよ 甕棺墓の首なし死体は時代が合わない<

頭蓋貫通?もあった筈。

>倭国乱についても、畿内の方が合致している<

倭國亂ではなく、
「自昔・・・東征毛人五十五国」の毛人蝦夷や出雲銅鐸祭祀部族への征服戦。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:12:24.04
邪馬台国と日本国王、足利?
同じ状況でしょ、どういうことだと思う?


それとは別に中国からの渡来系という家もあったり、
本当の渡来系

お前たち(不明)が言うのは、
倭人は渡来人ではないと言っているでしょ
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:17:31.36
455>>235
>楽浪土器があるのは教えただろ?
>>125 「家ツラ地区の弧文板と韓式系土器(桜井市大字巻野内)
 導水施設へと水を供給する大溝の下部には布留0式期古相(3世紀後半)のV字溝が
 存在しています。弧文板は纒向遺跡第50次調査、韓式系土器は第90次調査において
 この溝より出土したもので、 導水施設より古い段階の祭祀に使用されたものと考えられています。
 弧文板は欠損もあり、本来の形状はわかりませんが、黒漆で仕上げた優品です。
 韓式系土器には格子目のタタキを持つもの(左)とミガキによって光沢を持つもの(右)の
 二種がありますが、ミガキを施す個体は楽浪系の土器ではないかと考えられています。」<

1〜2個の「ではないかと考えられています」レベルであれば、
(洛陽の△と同じように)、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の軍の持ち込みや、市を介しての搬入で、
説明出来てしまう。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:20:05.52
悪く言うと、成り済まし、騙りという意味

わかりやすく言うと、
そういう『用語』などを取り入れただけだろう

頭の良い人(またはホンモノと思われる人々)は
気づいているんだよ
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:24:33.52
455>>238
>九州北部は、庄内期に入ると同時にその中心比恵那珂遺跡群で
畿内様式土器の模倣製作に入っているので、祭祀用に持参する土器がなかったのかもね
基本遠いところは、わざわざ持ってこない限りは、途中で更新するし <

庄内であれば、
大和の石塚の庄内1は3世紀末であり、
筑紫の庄内は、3世紀前半の三雲や祇園山や弥生銀座付近で、
筑紫の胎土で造られているようだから、
筑紫→大和の伝搬模倣であった、といういう事になる。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:32:41.03
大陸に住んでいる人々のほうが分家
(日本が本家、何の本家?神仏仙?)?
みたいな事を言っている人がいたりw


いい加減に頭の病院に行けと言っているんだよ、
何の役にも立たないんだから施設(病棟)から出て来るな
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:33:34.49
455>>240
>比恵那珂遺跡群の首長はいち早く纏向型前方後円墳の那珂八幡古墳に葬られているから<
ヤマトを盟主とする集団の成員だし、その集団は>>214によると邪馬台国と関係ないそうだから、
北部九州も邪馬台国とは無関係だなwwwww<

これも×。
那珂八幡と石塚を比べれば、
明らかに石塚の方が、はっきりした撥型や整数比で進化していて整っているから、
石塚の方が新しい。
つまり、石塚は、那珂八幡などカラーの伝搬模倣。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:36:50.43
455>>243
「南→東」などの嘘吐き騙しの、根拠あるの?
「根拠を示さずに決めつけ」ばかり
する大和説は妄想説です
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:50:27.89
455>>246
>そして、廣志逸分の部分はFAQ66の表現を借りれば
A:廣志は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく
 「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。(中略)
 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが
 多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
まあ、翰苑はチェリーピッカー御用達の文献だよなww
この辺は、読んでおいて損はないと思うよ 古代史獺祭「●『翰苑』豆知識」<

翰苑やその広志引用は、
記紀の「倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作」の悪質性の明らかな半分偽書に比べて、
はるかに良心的であり、
単に「誤字が多数発生した」程度の文書であるから、
史料価値は、記紀よりもずっと高いもの。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 05:56:28.24
どの説でも同じ

日本(本家。倭人から始まったの?不明)から、
世界(分家)に拡がっていたと言いたいんだろう?

精神科に行け
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 06:01:32.70
455>>261
>>つい最近、那珂八幡古墳はその纒向型ではない事が判明したんだが?<

>それ、後円部と前方部の比が、これまで8:4とされていたのが8:5だったっていう話だぞ
それまで、前方後円形の墳墓がなかったところへいきなり作られたんだから、
よそから伝わったこと確定だよな<

那珂八幡よりも石塚の方が、明確な撥型になっていて整数比もより整っているから、
石塚の方が進化改良型であり、「後」であった、という事が確定だな。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 06:03:33.94
本物の伝承者(継承者)
そういう家はあるだろう


説明しなくてもわかるはず、
ほとんど渡来系の家の話
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 06:08:32.25
455>>268
>だから、前方後円墳がいきなり奴国中央に作られたことを、
九州説では説明できないだろ?ww<

那珂八幡は、「奴国中央」ではないね。
邪馬壹國女王之所都の「女王國の首都圏」だな。
そして、列島で、天円地方の前方後円墳の最初だな。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 06:09:14.68
自分が〜(神や仏、仙、聖人・・・他人?)〜になる方法というスレw


>外国へ行き「私がカエサルです」
>と唱えれば生死は問えないが聞いてくれまっせ
>ハズレだったら殺されますけどね?w
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 06:13:04.05
455>>280
正直、「南→東などの嘘吐き騙しの恥を知れ!」って言っても、
大和説者には通じないんだろうな、と思ってるよ
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 06:14:38.94
455>>282
>邪馬台国=ヤマトの国=倭国&倭種=日本列島全体 <

「南≠東」などに拠って、×。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 06:23:36.51
455>>306
あなた説明が異常にヘタクソで
何を考えてるのかサッパリわからんのだが
>前漢代の古典知識から萬二千里という数字を借りてくる人がいることと
陳寿が計算して帯方郡からかれこれ萬二千里進んだら
会稽東冶とか沖縄くらいの南方だという結果が出ることといったい何が矛盾するんだ?<

陳寿は、「計其道里、當在會稽東治之東」と位置推定したのに、
スレ主が「会稽東冶とか沖縄くらいの南方だ」とかの嘘吐き騙しを言い出すから、
矛盾したの。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 06:57:51.33
考古学の成果をまとめると、

‐弥生の鉄・絹 九州>畿内 (3世紀) → 九州=畿内(4世紀)
‐前方後円墳  九州×畿内〇(3世紀) → 九州<畿内(4世紀)

北部九州にあった邪馬台国卑弥呼(本家)の男弟(分家)が239年魏帝からの下賜品とともに東遷、
出雲吉備北陸東海など本州島有力地域を銅鏡100枚を配布しながら配下に納め、大和唐古鍵国を婚姻により吸収して王(邪馬台国・大和分家)となり、纏向宮殿・卑弥呼寿陵(箸墓)を建設開始。

王都・大和纏向周辺地名も九州本家と同じ邪馬台(ヤマト)に変更。
卑弥呼死後、九州本家から運ばれた卑弥呼遺体を箸墓に埋葬。
台与(西殿塚に埋葬)で断絶した九州本家を大和分家が併合し、その前方後円墳体祭祀で倭国を統一。大和分家はそのヤマト王権(現・天皇家)と呼ばれ、記紀で九州本家の存在を抹消、現在の令和天皇・徳仁陛下に至る。 
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:05:27.69
>>751
東遷ではなく東征だな
九州本家から大和分家が新天地を目指して東方殖民。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:11:56.02
九州説って万世一系天皇主義そのものじゃないか

w
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:15:52.80
>>752
都を移したのなら東遷じゃないの?」
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:17:31.39
都は移動してないでしょ
開拓団。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:18:23.90
畿内政権は分家という立場だから、一系ではないな。
記紀も、東遷ではなく東征となっている。
おそらく編纂当時にも、東遷ではないという批判を回避する必要があったのだろう。
神武が大和で(畿内だけの首長である「天皇」に)即位したとは書けても、倭王に即位したとは書けなかった。
おそらく神武の時代に九州で卑弥呼が君臨していたからだろう。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:19:42.99
王都は筑紫の中で奴国やら伊都国やら大宰府やら移動したが、白村江まで筑紫を出ることはなかっただろうね。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:21:51.13
記紀は当時の批判をかわしつつ、ギリギリの偏向記事を書き、後世の誤読に任せた。
それにまんまと引っかかって万世一系のヤマト王権を夢想しているのが畿内説。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:23:20.05
黒田藩の弱小学派が中国の偽造団に偽物を作らせた
中国は偽造の本場
金印の知識も豊富
その知識がミスを招いた、やっつけ仕事が志賀島の偽金印
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:25:00.04
偽造説は学問的に否定されている。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:25:50.80
頭の病院に行けと言っているんだよ
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:29:01.70
カエサルが何やら〜

>ハズレだったら殺されるけどね


誰々の生まれ変わり、転生・・・という話なども同じなんだよ、
気づいているだろう
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:29:10.96
>>752
男弟に東遷して大和分家を作らせたのは、魏帝曹叡から「汝が従えた国の王に、朕が汝の後ろ盾になっていることを示せ」と言われたこともあるだろうが、
女系では長続きせず、自分の死後倭国大乱の再発を恐れた女王卑弥呼の命令だろうな。
銅鏡百枚は後進地域であった本州の各王たちにしてみれば、喉から手が出るほど欲しい威信材(アメ)。

もし男弟が四道将軍(ムチ)を従えた崇神とすると、伊勢神宮の御神体・八咫鏡は伊都国平原王墓出土の内向家紋鏡と同型鏡らしいから、
出自は一大卒が置かれた伊都国王の王女(卑弥呼の母=平原王墓の被葬者?w)と邪馬台国王(卑弥呼の父)の子供たち(卑弥呼&男弟)なのかも。
もちろん、金印直系で歴代倭国王を輩出していた奴国王家とも婚姻して親戚関係にあっただろうから、あるいは奴国王も兼務していたのかも(東遷中で「王無」w)
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:34:39.27
三角縁神獣鏡は、辺境の地の分家に配られたのかもしれないな。
畿内を中心に分布するらしい。
女王の手元には王権の象徴たる八咫の鏡を置いておく。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:37:35.67
>>758
>それにまんまと引っかかって万世一系のヤマト王権を夢想しているのが畿内説。

天皇家とか一切言ってない畿内説を万世一系天皇主義とか
誹謗して

天皇家が万世一系だと主張してる九州説を万世一系じゃないと言い繕う


九州説って、あたま変なの?
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:38:58.25
日本書紀には4世紀に筑紫の帥である神夏磯姫が八咫の鏡を持っていたと書いてあるのだよ。
これがその当時の倭国女王で卑弥呼の後継者。
帥ではなく梟師と書いてあるが、当時は「帥の字が入っている」と言い訳したのだろう。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:42:50.13
>>622
>TVの録画より
周教授の解説の一部
「梁書(636年)によれば扶桑国(当時、日本にあると認識していた)
倭国から文身国まで東北7千里あまり、そこから東へ五千里余り行くと大韓国、
さらに東へ二万里あまりいくと扶桑国, 是で行くと扶桑国はこの距離で行くと扶桑国は太平洋を越え
メキシコあたりにあったことになる 中国の歴史書では中国以外の国についての距離の記述はすべて疑うべきです
邪馬台国を特定するには距離より方角を大切にすべきである
注目すべきはー会稽東冶之東ーーー会稽東冶は長江の出口付近である。長江から東へ行くと海流に流され九州に流れ着く。
邪馬台国や卑弥呼の居場所は九州にあったはずです・・・・・・・・・」
・・・・はもっと根拠を述べてますが省きます <


成程
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:43:09.68
卑弥呼の時代まで遡って、畿内(王、皇帝などが住む都の周辺の地域)がずっと九州まで支配していたというのが畿内説だからね。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:43:51.67
>>766

すげえブーメランw
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:49:16.28
>>770
どこがブーメランだか具体的に言ってみ

九州説はいつも中身がない
カラッポ
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:50:09.05
>>751
邪馬台国の九州本家(卑弥呼)と大和分家(男弟)を混同して記述したのが、西晋時代(280-297)に編集された魏志倭人伝の記述なのかな?
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:51:51.26
>>769
そう言ってる畿内説を具体的に指摘してごらん
出来ないだろ?

相手を知りもせず
漠然としたイメージだけで
根拠も示さず決め付けする九州説

だから九州説は妄想説と言われる
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:53:22.88
>>769
そういうまともな発言をしてしまっては、集団洗脳キナイコシが発狂してしまうのではないかな?
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:55:24.15
>>766
>天皇家が万世一系だと主張してる九州説を万世一系じゃないと言い繕う

天皇家とか一切言ってない九州説を万世一系天皇主義とか誹謗している。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 07:57:22.96
>>773

核心を隠してわざわざ土器の話ばかりで誤魔化すもんな。
やっていることは記紀の編纂者と変わりない。
歴史の歪曲なんだよ。
畿内節の本音は、ずっとヤマト王権が九州まで支配していた、だよな。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:00:50.60
畿内説
3世紀にはヤマト王権が九州に一大率を置き監視をして、中国と国交も持っていた。

九州説
3世紀の纒向は尾張の傘下で、九州北部だけが倭国として中国と国交を持っていた。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:01:53.06
>>706
>逆になんで証拠にならないと思うの?

あんたのその答えが証拠だ

具体的事実を示して
その事実から結論への因果関係を証明する
これが証拠を出すってことだろうに

結論への関係づけを説明しなければ
証拠認否が始まらない

味の素のビンをどんなにと置いて
「これが証拠だー」と叫んでも
証拠にならないのと
全くかわらない
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:06:00.99
考古学的な決定的証拠を受け入れることができない畿内説。
卑弥呼も使ったであろう国璽が福岡から出たというのは、決定的証拠だからね。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:07:28.27
>>775
>天皇家とか一切言ってない九州説を万世一系天皇主義とか誹謗している。

ウソついて弁解してもムダだ
>>751は何なんだ?
天皇万世一系主義そのものだろが
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:09:26.15
古墳時代、倭国を初めて前方後円墳祭祀で全国統一支配したヤマト王権
そのヤマト王権と邪馬台国の関係こそ古代史の核心

ヤマト王権=邪馬台国(畿内説)…北部九州を従えていた
ヤマト王権≠邪馬台国(九州説)…台与の死後、ヤマト王権に併合された
ヤマト王権≒邪馬台国の大和分家(東遷説)…分家が本家を併合した
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:11:13.22
>>779
>考古学的な決定的証拠を受け入れることができない畿内説。

考古学者がまったく認めてないような自分の思い付きを
考古学的な決定的証拠とか言い張る
九州説の夜郎自大な滑稽さが
もう哀れだ
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:11:40.56
>>776-777
そういうまともな議論をしてしまっては、似非学問キナイコシが発狂してしまうのではないかな?
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:13:38.54
偽物ってケチのついた国宝って、ほかにあんのか?   恥ずかしいったらありゃしない
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:14:05.34
江戸時代の技法タガネ掘りの贋作と判明!
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:18:12.99
目の前の事実さえ平然と歪曲してウソをつく

それが九州説
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:18:20.76
そもそも、怡土を伊都国だとこじつけた新井白石が始まり
畿内説も北部九州説も、新井白石の尻尾をかじってるだけの説
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:18:25.63
金印の贋作なんて中国の偽造団にかかれば簡単に作れるよ ただし、ときどき取っ手でミスるけどね
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:18:45.69
>>780
ウチではあぽーんされている。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:19:56.54
国宝にケチをつけないと生き残れない畿内説
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:21:59.30
>>781
>古墳時代、倭国を初めて前方後円墳祭祀で全国統一支配したヤマト王権

その前提がすでに皇国史観
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:23:05.49
これが>>751だろ

>北部九州にあった邪馬台国卑弥呼(本家)の男弟(分家)が239年魏帝からの下賜品とともに東遷、
・・・
>大和分家はそのヤマト王権(現・天皇家)と呼ばれ、記紀で九州本家の存在を抹消、現在の令和天皇・徳仁陛下に至る。

この九州説が万世一系天皇主義でなくて、いったい何?
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:23:26.57
川上梟帥は、八咫の鏡の持ち主だったのだろうか、、
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:23:43.14
>>793
それのどこが皇国主義?
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:24:12.04
>>751 >>781
そのまとめを見る限り、あの時代は九州説か東遷説に軍配が上がるな。
眩いばかりの中国の先進文明で彩られた北部九州を、泥臭い古墳文化の大和の田舎者が遠隔支配できたとは思えない。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:28:05.35
川上梟帥は、名前や、神の剣だけではなく、八咫の鏡も、日本武尊に奪われてしまったのだろうか、、、
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:29:34.98
プロ固定の3寸男は、まだ、泳いでいるのだろうか、、
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:30:47.96
やはり、このスレッドは、キナイコシや75パーが、出現しなければ、笑えないな。。。
そして、更に頭の悪い3寸男のキャラクターも、必要なのでは、ないのかな、、、
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:31:47.21
>>776
卑弥呼の時代のヤマトが九州まで支配していたとする究極の皇国史観である畿内説が、自らを棚に上げ、
邪馬台国はヤマト王権に併合されたとする九州説を皇国史観として攻撃する矛盾w
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:32:42.27
ヤマタノオロチ退治事件は、何時、発生したのだろうか、、
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:35:06.04
どちらが、75パーだったのたろうか、、

http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542983556/625-626

625日本@名無史さん2018/11/27(火) 20:11:31.88
九州説の肩を持つ訳では無いがさすがに計算は合ってるよ
ある場所の夏至における南中時の太陽高度は 90度�ワ度+23.4度 なので緯度35度の地点では78.4度

エクセルだと 1/tan(radians(78.4)) で余接の値が求められるのでこれに8尺棒の高さを掛ければ影の長さが得られる

75kmだと角度は0.7くらいの違いになるのかな

626日本@名無史さん2018/11/27(火) 20:47:23.36
夏至の正午北緯35度で
北に約短里で千里80km行けば確かに8尺の棒の影長は周ヒ算経にあるように1尺7寸
しかし南に千里、80kmだと1尺5寸とあるが実際は1尺2寸ほど
九州説は地球平面モデルだとか意味不明な事を言うけれど
そもそも実測値ではないから短里の根拠にならない
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:36:33.87
連続句読点が議論を理解してないのに口を挟んでる事を白状したか
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:39:50.51
>>777
畿内節は実質的にヤマト王権(邪馬台国)が全国支配を完了していたと言ってるわけだからねw
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:41:13.37
なぜ、頭の悪い3寸男は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:46:59.49
>>808
頭の悪い意見を発表したほうが、スレッドが、活発化すると考えた雇用主に雇用された、頭の悪いプロ固定だからでは、ないのかな、、、
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:47:26.86
なぜ、頭の悪い3寸男は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:49:01.51
プロ固定の3寸男は、まだ、泳いでいるのだろうか、、
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:51:18.58
なぜ、頭の悪い◆UiepmfCeDJqf は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:51:45.69
欺き、騙して〜何やらという話があるでしょ?

日本の天皇〜〜(他の国の王族や皇族などは、日本の分家だと言う事を言っていたんだろう)
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:55:26.37
UiepmfCeDJqf は、三角関数だけではなく、分度器の使い方も、習わなかった人物の可能性が、高いな。。。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:55:56.94
>>777
そんなことは何処にも書いてない、
お花畑の妄想だな。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:56:01.69
>>781
正確には↓w

ヤマト王権=邪馬台国(畿内説)…全国支配を完成させ、北部九州をも従えていた
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:56:44.34
天王〜天皇なども、
外の国から学んだり、倣ったりした後の話だろうと言っているんだよ

当時の人たちも、
なぜ知らない?知らなかったんだろう


悪く言うと成り済まし、騙りだったとか?
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:56:59.95
>>813
そんな計算してないだろ
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:57:19.83
>>817
典型的な皇国史観だな。
畿内説の本質はそれだ。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:58:04.52
なぜ、頭の悪い◆UiepmfCeDJqf は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 08:59:00.48
畿内説の根拠は自分達の妄想
現実と妄想の区別もついてない。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:00:47.78
九州説は情報歪曲しすぎ
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:00:48.81
古墳は現皇室の先祖のものでない
現皇室に滅ぼされた先住豪族のもの。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:02:39.96
>>823
そういうウソを平気でつくのが九州
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:04:05.50
>>822
そんなふうに
「根拠をなにも示さずに決め付け」ばかりする
九州説は妄想説です
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:04:19.95
3寸男は、UiepmfCeDJqfではなく、やはり、75パーだったのだろうか、、、

819日本@名無史さん2019/05/12(日) 08:56:59.95
>>813
そんな計算してないだろ
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:05:12.06
なぜ、頭の悪い3寸男は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:06:13.13
3寸男が、出現しないな。。。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:07:42.09
>>831
プルプルと震えている可能性が、高いな。。。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:09:23.30
纏向は都市遺跡というより祭祀遺跡。つまり奥津城(王家の谷)。
>>751 にも説得力があるな。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:09:32.92
佐賀川上は未調査未発掘、掘れば、真・伊都国の遺物ザクザク
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:13:54.65
3寸男参上
一寸千里の谷本計算は計算ミスがあって短里の根拠とはならない
連続句読点および九州説は破滅
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:14:20.42
例えば


中国の皇族〜・・・、
本家というのがあるはずなんだけど、
日本(の天皇)だと言いたいんだろう
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:15:11.75
佐賀川上の真価発見は、鬼平の活躍次第ではないかな、、、
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:16:04.24
一昨日の諸説ありについてのツイッターでの反応を見ると、
邪馬台国が東に移動してヤマト王権になったという中国人研究者の説に納得したと言ってる人が多い

一般の人の感覚では、邪馬台国は九州っぽいけど、ヤマトの地名と結び付けたいのだろう
実際は、東遷なんて言い出して、中国人研究者が日本史知識が全くないのかバレてしまったのだけどな
それでも視聴者は、魏志倭人伝のことは中国人研究者に聞くのが一番いいと思い込んでしまうんだよ
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:17:56.40
>>817
ワロタ
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:30:55.19
>>841
古墳は神武に滅ぼされた長髄彦等のもの。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:34:10.22
他の国に住んでいる人たちがいるでしょ、
ジンム(日本の皇室?不明?)よりも上の存在なんだけど

だから偉そうなを語っているのか・・・、
という話ばかりでしょ
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:35:16.81
前方後円墳は臣下の成金豪族等のもの。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:36:45.68
>>829
「住居跡がほとんどない」とか
またガセネタながしてるんだな
九州説は平気でウソつくから要注意だ
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:37:39.22
天皇皇后の御陵は、今も神社と神官で守られている。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:38:49.17
邪馬台国は九州で決定になったので
畿内説のイヤガラセの投稿が増加したなww
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:42:39.65
インドに住んでいる人々(不明)がいるでしょ?
とある日本人(僧?)から見ると、雲の上やカミのような存在でしょ

みたいなことを言ってる人がいたり

オウムのようなことになるとか
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:47:49.78
>>846
じゃあ、纏向遺跡に住居跡はいくつあるの? と聞いたらダンマリを決め込むいつもの畿内説
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:48:35.50
某国の無名一般人と日本の著名な・・・、
某国の無名一般人のほうが(凄い)wみたいな話
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:50:23.91
3寸男は、小学生でもできる計算が出来ないことで、笑われていることを、棚にあげて、
谷本計算という、僕達が知らないことを持ちだし、
意味の通じない意見を発表するしか、無くなったのではないのかな、、

837日本@名無史さん2019/05/12(日) 09:13:54.65
3寸男参上
一寸千里の谷本計算は計算ミスがあって短里の根拠とはならない
連続句読点および九州説は破滅
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:50:28.51
>>850
またウソついてる
調べてないと返事もらってるくせに
九州説はいつもニセ情報で人々を騙そうとしてるな
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:50:51.30
なぜ、頭の悪い3寸男は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:52:59.99
>>850
その質問への答えが何であっても
あるいは有ろうが無かろうが
お前がウソついてる事実は
変わらないのだが
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:53:49.33
>>853
調べてない?  150回近く調べてるのに???  なにを調べてないんだい?
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:54:32.81
中国の秘境に住む仙人(日本では無名、一般人レベル)と、
日本の有名な仙人(ほとんど中国から学んだ日本人)
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:55:32.54
>>853
纏向で住居跡がいくつあったか聞いているのだが・・・
調べてない??なら大集落と言わない方がいいよ
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:56:19.26
なぜ、纒向遺蹟からは柱の跡が数軒分しか発見出来ないのだろうか、、
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:57:16.05
>>859
なんで言わないほうがいいんだ?
理由も言わずに言い張られてもな
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:57:44.83
>>860
纒向には、建物が数軒しかなかったからでは、ないのかな、、、
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 09:58:13.87
>>858
他人を罵っても、お前がウソついてる事実は変えられないから
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:00:31.87
纒向遺蹟は、都会の遺蹟ではないので、建物が見つかりません。。。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:00:36.10
そもそもテンプレには纒向が大集落とか書いてないし
阿呆が文化庁や歴史教科書に文句つけてるだけだ
しかも嘘までついてな
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:02:53.77
川上梟帥は、名前や、神の剣だけではなく、八咫の鏡も、日本武尊に奪われてしまったのだろうか、、、
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:04:49.43
>>863
うだうだ言わずにさっさと答えてみろ
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:05:02.13
なぜ、頭の悪い3寸男は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:06:55.70
>>867
答える必要がないな
九州説がウソついてるのは確定だし
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:07:04.85
本当に『光のネットワーク』でも聴いていたほうが良い


youtube(あのLIVE動画だよ)でも何でも良いから
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:13:20.29
九州説連続句読点荒らしは、
************
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる
そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった
************
↑のコピペを、何故貼らなくなってしまったのだろうか、、
何か都合が悪いのだろうか、、、
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:14:10.59
>>871
落ちぶれたとか罵る根拠は?
「根拠も示さず決め付け」する九州説は
妄想説
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:16:31.52
今回の諸説あり邪馬台国スペシャルはおもろかったなあぁ
中国人学者は畿内説は難しいってな見解
畿内から金印でも出ないと望みは薄いわ
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:16:49.61
なぜ、邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪い3寸男は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:17:55.59
>>825

物部氏って言うんでしょ。
知ってる。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:18:18.85
なぜ、纒向遺蹟からは柱の跡が数軒分しか発見出来ないのだろうか、、
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:21:37.38
なぜ、九州説はウソをつくしか能がないのだろうか
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:22:26.20
>>879

いつどんな嘘をついたの?
答えられなかったら誹謗中傷で訴えていい?
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:27:40.62
>>880
ウソだろ?
たとえば今日も>>829あたりから
「住居跡がほとんどない」
とかウソをつき続けてるじゃないか
病気なのかい?
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:28:46.08
>>880
柱の跡が数軒分しか発見出来ない
とか嘘をついてる
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:30:41.74
なぜ、邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪い3寸男は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:31:49.05
『光のネットワーク』

「えび」というメンバーがいたりするでしょ、
本当に何の話なんだろう?と思っている人もいるはず


ミンメイの曲の動画(コメント)も同じ、
『トトロ』が何やらと言ってる人がいたり
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:35:33.10
では、カエルや桃が埋められた時代の前後20年位の、纒向遺蹟の地層からは、柱の跡は何軒分、発見されたのだろうか、、

882日本@名無史さん2019/05/12(日) 10:28:46.08
>>880
柱の跡が数軒分しか発見出来ない
とか嘘をついてる
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:37:21.92
なぜ、邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪い3寸男は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:40:01.04
うらしまマリン?
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:44:11.91
>>776
ヤマト王権を邪馬台国だと未だに錯覚している畿内説(節)が何だか哀れに思えてきたょ...
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:51:12.71
>>880
九州説は自身が嘘をついてないと思っているのだろうか
どういう精神構造をしているのか
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:52:55.74
では、カエルや桃が埋められた時代の前後20年位の、纒向遺蹟の地層からは、柱の跡は何軒分、発見されたのだろうか、、

882日本@名無史さん2019/05/12(日) 10:28:46.08
>>880
柱の跡が数軒分しか発見出来ない
とか嘘をついてる
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:54:53.65
>>890
四棟分ではないかな?
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:57:05.57
柱の跡が、一番多く発見される、纒向遺蹟の地層は、どのような土器が埋まっている地層なのだろうか、、、
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 10:58:45.66
何かの冗談なのだろうか、、、
それとも、真実の発表なのだろうか、、、

891日本@名無史さん2019/05/12(日) 10:54:53.65
>>890
四棟分ではないかな?
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:00:44.93
なぜ、邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪い3寸男は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:03:10.91
>>257
これが真実なのかよっ?!
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:05:43.71
>>673
>どういう民族の国かもよく知らないで金印を作り始めてたってのが起こりえるなら
>贋作でも起こりえるだろうな

本当に頭悪いな
どこまで恥の上塗りをすれば気が済むんだ?ww

贋作を作っている集団に、「作製途中に」「民族が違う」という「情報が届く」なんてことが
ある訳ないだろ?ww

これはある意味後出しだが、北方系が駝鈕、南方系が蛇鈕ってのが分かったのは
20世紀になってからだぞ

贋作集団が駝鈕と蛇鈕の違いを意識することすら想定としてあり得ないんだよ
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:13:35.32
プロ固定とは、本当は、何だろうか、、、
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:16:00.34
BS-11、BS-TBS
九州説は、日本にみならず、中国、台湾でも圧倒的支持を受けてる、、、
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:18:14.78
マスコミも、こぞって九州説へなびきだしたのではないだろうか、、、
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:21:06.65
ヤマト王権を邪馬台国と誤解してしまった畿内説は一言でいうと、京大を中心とした地元関西考古学界の似非学問(土器の年代操作)の犠牲者ではないかな?
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:21:10.91
アニメで言うと、どう考えても『ガンダム サングラス』でしょ?


伝説の歌手・・・そういう人物(キャラ、例えばミンメイ)がいて・・・。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:21:49.08
鬼平の吉野ケ里は、いつまでも(決め手に欠ける)邪馬台国の候補地の一つのままで良いのだろうか。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:23:45.03
>>674
>可能性がゼロでないならそれで問題ないだろ

可能性がゼロではないが通るなら、トンネル効果でお前の身体がテーブルにめり込む可能性も
ゼロじゃないんだよ

>中国の歴史書でも卑弥呼は長寿だと書いてあるんだか

三国志は諸将の年齢もちょっと常識外れの長命になってるし、
そのまま正しいと思うのもナイーブすぎるよ
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:24:52.59
ヤマト王権を邪馬台国と誤解してしまった畿内説は、京大の寅さんこと内藤虎次郎旅日記だったのではないであろうか。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:25:01.41
>>900
箸墓の築造年代を3世紀中葉とするための土器編年操作&誤差±100年wの炭素年代測定(似非学問)それが畿内節の正体w
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:25:20.42
日本政府が独立国だった琉球王国(現在の沖縄)を軍隊を動員して武力併合したのは1879年3月27日のこと。
広辞苑にも「琉球併合」と記載されている。
また、歴史書などにも日本政府が武力的威嚇のもと琉球王国を併合したことが書かれている。
武力併合をもって「我が国固有の領土」と言えるなら、 例えばどこかの国が日本を武力併合すれば、その瞬間から、その国は「日本は我が国固有の領土である」とも言えることになる。
日本の主権が及ばなかった琉球王国を前身に持つ沖縄を「日本固有の領土」というのはそれぐらい滑稽な話である。
だから歴代の日本政府の閣僚は誰一人として「沖縄は日本固有の領土」と言ったことがないし、歴史的事実を鑑みれば「沖縄は日本固有の領土」なんて言えるわけがない。
武力併合しておきながら「我が国固有の領土」と言ってしまうと、それこそ世界の笑いものになる。

@沖縄県那覇市首里金城町在住
琉球史研究家
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:26:05.14
>>882

では何軒あったのか?
前スレからずっと聞いているのだが?
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:26:07.65
もう纏向の話は止めないか
古墳造営基地で決定したジャン
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:28:07.93
日本固有の領土は、ポツダム宣言で明治初年を基準としていたはず。
北海道は道南まで。
琉球は除外。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:29:24.32
>>908
そうだね。
もう畿内説のスレを立てる意味すらない。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:31:42.46
>>896
正統製印集団が駝鈕と蛇鈕の混用を容認すること自体あり得ないんだよ   末代の恥だ
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:31:57.20
それにしても

なぜ『姥清水』?になるんだろう、
時代的に・・・・・・・・・・・、
近代・・・・・・・最近の話とか
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:38:24.65
『姥清水』

観てみた?嵐〜、身も凝り・・・、・・・、・・・、
寒いな〜の話でしょ、ガンダムw
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:42:21.03
>>734
>頭蓋貫通?もあった筈。

それも甕棺墓時代

弥生終末期には甕棺墓は廃れている
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:42:42.62
>>898
日本国内でも東大は昔から九州説だし、畿内説は京大・阪大を中心とした関西考古学界だけ
関西に住んでいると、九州説なんか袋叩きに遭うし(ムチ)、畿内説だと称賛を受けるため(アメ)
いつの間にか「畿内で決まり!」と思い込んでしまうのだろう
関西における畿内説は、オウム真理教と同じ集団洗脳にすぎない
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:42:48.74
身も凝り『凝る』・・・凍る


同じような意味でしょ?
ガンダムの曲、何なんだろう
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:43:32.70
なぜ、邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪いプロ固定の3寸男は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:47:02.05
>>756
>おそらく神武の時代に九州で卑弥呼が君臨していたからだろう。

左側スロープ君もそうだけど、どうして卑弥呼と神武が同時代とかいう与太を飛ばすのかねえ?
卑弥呼の在位が70年とか言いながら天皇在位11年説を正しいとか言うww
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:48:35.43
>>907
興味ないし、知らないよ
九州説がウソついてる事実は変わらない
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:48:39.82
>>919
太陽の角度から、影の長さを計算出来ないので、邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪いプロ固定の3寸男は、小中学生時代から不登校を開始してしまった、引き込もりの可能性が高いな、、、
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:52:21.03
左側スロープを発見した立ち小便男が、あまり、このレベルの低い討論会に出現しなくなったな。。。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:53:09.79
>>767
>日本書紀には4世紀に筑紫の帥である神夏磯姫が八咫の鏡を持っていたと書いてあるのだよ。
>これがその当時の倭国女王で卑弥呼の後継者。

日本書紀には皇統と無縁の普通名詞で単に「大きな鏡という意味の八咫鏡」も出てくる

日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。

小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係

神夏磯姫の鏡もこれと同じ

>>767の理論では小鹿火宿禰が当時の卑弥呼の子孫で、
大伴大連に王統が移動したことになるww

チェリーピッカーの言うことはこの程度
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:55:33.90
八咫鏡は、何枚あったのだろうか、、、
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:58:33.17
>>776
>畿内節の本音は、ずっとヤマト王権が九州まで支配していた、だよな。

畿内説の主張は、畿内のヒメ王を中心に祭祀連合が成立したが、
首長同士の個人的関係を基礎としたゆるいものだった、というもの

その後、支配−被支配のヒコ王の統一が、四道将軍、景行・ヤマトタケル、
仲哀・神功の時に進められる
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 11:59:40.01
このレベルの低いスレッドに、プロ固定は、何人いるのだろうか、、、
そして、プロ固定の雇用主は、何者なのだろうか、、、
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:00:12.01
おまいら、関西限定の集団洗脳(畿内説)をイジめんじゃねぇ〜よ!
香具師等は、地元関西考古学界&関西マスコミの被害者なんだよ!
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:00:38.13
畿内説の主張も知らないで架空の仮想敵を罵り続ける妄想老人
それが九州説
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:01:29.58
>>920
神武の東征は3世紀以後だよ
でないと2世紀に縄文系弥生人が日本列島に住んでた説明が出来ない。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:01:41.69
>>779
>卑弥呼も使ったであろう国璽が

使ったで「あろう」www

これのどこが決定的な考古学的証拠なんだ?ww
そして、それを贋作だと言い続けて恥をかき続けているやつが九州説だというお笑いw
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:02:39.25
>>923
神社の罰が、命中して、可哀想な、死体になった可能性があるのでは、ないのかな、、、
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:02:43.44
3世紀以後の人骨のDNAの調査が進めば自ずと畿内説は消滅するね。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:03:35.22
>>780
「北部九州にあった邪馬台国卑弥呼(本家)の男弟(分家)が239年魏帝からの下賜品とともに東遷」
とか言っている時点で、この人畿内説じゃないよ?
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:04:24.33
金印贋作説を主張し続けてる人は畿内説ですよ。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:05:25.33
ヒメ王という謎の王が、誕生した可能性があるな、、、

927日本@名無史さん2019/05/12(日) 11:58:33.17
>>776
>畿内節の本音は、ずっとヤマト王権が九州まで支配していた、だよな。

畿内説の主張は、畿内のヒメ王を中心に祭祀連合が成立したが、
首長同士の個人的関係を基礎としたゆるいものだった、というもの

その後、支配−被支配のヒコ王の統一が、四道将軍、景行・ヤマトタケル、
仲哀・神功の時に進められる
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:05:47.94
今更人骨のDNAがどうのとか何なら親魏倭王の金印が九州で出ても
邪馬台国は畿内にあった事は動かないよ
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:06:28.53
>>896
正統製印集団が駝鈕と蛇鈕の混用を容認すること自体あり得ないんだよ   末代の恥だ
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:07:02.88
>>794
>贋作国宝に頼らないと生き残れない九州説

志賀島金印は贋作じゃないよ
あれが贋作なら江戸時代の知識では作れないから、逆にオーパーツになる
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:07:07.53
>>905
って優香、畿内説はただの関西出身者による関西出身者のための関西限定の希望的観測にすぎないよ。
箸墓=卑弥呼の墓 なんて言ってるのは、互いに自作自演の集団洗脳をし合っている関西出身者だけ
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:08:38.64
>>938
ヒメ王という謎の王が、誕生した場所は、頭の悪い者の脳の中では、ないのかな、、、
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:08:39.78
>>592
今度は北朝鮮で大噴火が起きそうだってさ。

専門家が警告、 中朝国境「白頭山」に大噴火の予兆
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1555452137/

>もう20年以上も前の話だから、「時効」ということで審らかにする。
>当時、私は北京でフラフラしていたが、あるパーティで、中国地震局に
>勤めているという青年と立ち話をした。
>私が何気なく、「来週、雲南省へ遊びに行くのよ」と告げたら、
>彼はとたんに真顔になって、「それは絶対に止めろ」と言う。

>「なぜ?」と問うたら、「われわれ中国地震局から雲南省政府に対して、
>『ここ3カ月以内に巨大地震が雲南省北部を襲う』という警告を出しているからだ」と言う。
>「そんなバカな?」と私は聞き返したが、彼は真顔で「本当だ」と答える。
>でも、私はすでに飛行機や宿の手配をしてしまっていたので、翌週に予定通り、雲南省へ旅行に出かけた。
>だがそこで、20年以上経ったいまでも時折、夢に現れて脂汗をかいて
>飛び起きてしまうほどの、巨大地震に出くわしたのだ。
>それは、30万都市が突然埋まるほどの、恐ろしいものだった。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:14:16.15
連続句読点が頭悪すぎてつらい
「北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、」

三寸というのは、夏至の影の長さから計算される地点での「冬至の影の長さ」が
周髀算経の数字が、半影の見積もりを思いっきり甘く見ても、計算と3寸合わないって話だ
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:17:20.87
>>843
>古墳は神武に滅ぼされた長髄彦等のもの。

滅ぼされたあとまで作り続けられているのはどうしてですか?ww
バカしかいないな、九州説にはww
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:21:07.54
邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪いプロ固定の3寸男は、1尺が8寸の場合の、北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまったことが間違っていたと、やっと、気付いて、
また、狡賢く問題の設定をすり替えたな、、、

946日本@名無史さん2019/05/12(日) 12:14:16.15
連続句読点が頭悪すぎてつらい
「北緯35度地点の夏至における南中時の8尺の棒の影を、1尺3寸と計算してしまうのだろうか、、、」

三寸というのは、夏至の影の長さから計算される地点での「冬至の影の長さ」が
周髀算経の数字が、半影の見積もりを思いっきり甘く見ても、計算と3寸合わないって話だ
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:21:51.11
すでに気づいているだろw


邪馬台国〜何やら〜とか、
そういう時代は終わったんだよ


それよりも、なぜ漫画やアニメ・・・なのか?
実在の人物だったのか?みたいな事を言ってる人がいたり


かなり頭の良い人(学歴とかではなく)がいて、
そういう事にも気づいている、
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:21:57.10
>>856
>調べてない?  150回近く調べてるのに???  なにを調べてないんだい?

1回の発掘面積が、「家一軒分」くらいの狭い面積なのがほとんどなんだよ
そういう情報を総合して考察していく

纒向遺跡と想定される範囲を全部立ち退かせて、端から一斉に発掘するって
いうのを150回やってたら>>856の言うこともごもっともなんだが、
単に>>856が現実を知らないだけ
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:25:54.52
江戸時代、新井白石の畿内説論争が始まったら、志賀島から金印が出てきた。
戦後昭和、原田大六の畿内説が一世風靡し始めたら、八咫鏡が出てきた。

黒田藩内は怪しい。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:26:16.17
>>917
>日本国内でも東大は昔から九州説だし、

これも情報が古すぎ
「日本国内でも東大は昔「は」九州説「だったが」、」が正しい

現在東大で九州説を支持している人は一人もいない
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:28:50.40
>>931
>神武の東征は3世紀以後だよ
>でないと2世紀に縄文系弥生人が日本列島に住んでた説明が出来ない。

この渡来人の年代を捏造しているのも「コークリ君」でいいのかな?
本質がチェリーピッカーなんだよな、この人はw
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:30:28.23
>>951
で、150回近く掘って住居跡いくつだ?  大集落なんだろ?  大集落とは・・・
0956◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:32:26.64
新スレ立てました。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1557630434/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:32:32.43
>>953
>現在東大で九州説を支持している人は一人もいない

つうことは、邪馬台国論争には参加していないってことか?? ま、そうだろな。どっちもどっちだからなあ。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:35:07.92
>>933
>畿内のヒメ王ってどこにいたんだ?  答えられないだろ?

唐古鍵が、銅鐸配布中心の拠点集落だったことを考えると、もともとは
唐古鍵が畿内第V様式土器圏の中心で、そのヒメ王が共立されてヤマトのヒメ王というだけでなく
倭国の統一ヒメ王となったので新しい都纒向を建設した、というのが分かりやすい説明だな

つまり、共立前は唐古鍵、共立後は纒向にいたと考えるのが妥当性が高い

ただ、証明はできないから、本職の研究者は声高に主張したりはしない
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:35:27.88
>>957
東大で畿内説を支持している人はいる
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:38:08.21
>>947
>中国の偽造集団に作らせたんだよ  黒田藩の学派が

中国の偽造集団も知らない知識が必要なんだよ
金の純度とか、印面の大きさとか

偽造説は絶滅してる
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:38:34.62
>>959
珍しいなあ、東京のマスコミ各社も九州説に傾いているというのに、今さらねエ、
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:40:49.32
このレベルの低いスレッドに、プロ固定は、何人いるのだろうか、、、
そして、プロ固定の雇用主は、何者なのだろうか、、、
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:40:55.68
>>960
にせ金印を作ったのは、古文辞学派の学者で、甘棠館館長の南冥  だよ
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:42:35.86
ここのスレの伸びは異常だな
ヒマなリタイアした老人が集まっているのかな?
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:42:37.24
東大の説といっても、白鳥のように上陸地点を平戸にしたのでは、そのあと行き詰まる。
九州の土地勘に欠けていたんだろうねえ。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:44:08.01
>>960
金の純度とか、印面の大きさとか
そんなこと、中国偽造集団の常識  そんな事も知らずに天下の中国偽造集団を張れるもんか
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:45:52.42
>>955
資料がない
狭い調査区間に柱穴が出ても一棟分の場所を調査できるとは限らないし、大きい建物のか数棟並んでいるのか、同じ時代に建っていたのか廃絶して次々建てられたのか
どれも全体を細かく調査しないと判らない
はっきりしているのは纒向遺跡の中に「居住区」「居館域」などと呼ばれる区域があることだ
そして大規模な集落と公式に発表されていることだ
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:46:21.81
引用符付けての揚げ足取りにはうんざりだわ
一言一句を取り上げてバカにするの繰り返し
こんな状況なら次スレは要らん
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:46:38.75
このレベルの低いスレッドに、プロ固定は、何人いるのだろうか、、、
そして、プロ固定の雇用主は、何者なのだろうか、、、
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:46:56.20
>>961
テレビの娯楽番組みただけで妄想しすぎの九州説
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:48:02.48
>>957
>つうことは、邪馬台国論争には参加していないってことか?? 

これは、半分正しい

>ま、そうだろな。どっちもどっちだからなあ。

これは大間違い
既に結着済みで、「論争自体が既に存在しない」

「邪馬台国の位置」は、学問的な興味の対象ではなくなっているということ
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:48:17.87
>>967
>東大「出身」で「専門外」の人では、ねww

東大「出身」で「専門家」の人もだが?
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:50:32.54
>>920
>卑弥呼の在位が70年とか言いながら天皇在位11年説を正しいとか言うww

豊かな王都である筑紫の深窓の女王と、寒風吹き荒ぶ自然環境が厳しい開拓地である奈良盆地の差だよ。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:53:07.90
>>972
ま、そう強がりを言わんでも良かろう
間違いばかりのたまった学問的専門家は退出して、隠れ伊作のような素人集団に任せればよいのではないかな。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:55:12.34
>>949
冬至のことを持ち出しても、邪馬台国畿内説を宣伝する脳の腐ったプロ固定の3寸男が、発表した、、

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった 、、、

という頭の悪い計算のことを、隠すのは、難しいのでは、ないのかな。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:55:25.35
>>948

前方後円墳は物部氏の墓制だよ。
しかし長髄彦の家系も滅んではいない。
神武の妃となったイスケヨリ姫が同じ三島の神の末裔であり、第2代天皇以下、全て長髄彦の家系の血統が含まれている。
0979日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:56:37.92
>>972
>既に結着済みで、「論争自体が既に存在しない」

>「邪馬台国の位置」は、学問的な興味の対象ではなくなっているということ

そりゃ結構なこと。学者の出番はもうなくなったってことではないであろうか。ではバイバイ。。。
0980日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:57:28.34
>>968
>そして大規模な集落と公式に発表されていることだ

うっかり資料作成者の筆が滑ったのを間に受けてしまった恥ずかしい説が畿内説だからね。
0981日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:59:01.90
>>966
>そんなこと、中国偽造集団の常識  そんな事も知らずに天下の中国偽造集団を張れるもんか

中国偽造集団に夢を見すぎww

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1338710507/924
山中にある古墓から、宋徽宗帝が作らせた印譜が出たと称して印刷した贋の印譜にある”親魏倭王”
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/senwa51.jpg
中国では明の頃、文人の骨董収集ブームで、古銅印から印譜まで贋作が出回った。
印は魏の頃日本へ行ったのに、宋で印譜に出せるわけねえだろ。
実際問題として、卑弥呼が受けた”親魏倭王”は、後に魏から晋になって壱与が晋に使者を
送って慣例により返却し溶かされ、新たに”親晋倭王”が授与されたと思われる
0982日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:59:53.42
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。

その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、耳の娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。

この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。

古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
0983日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 13:00:21.68
BS TBS
楽浪で見つかった三角縁神獣鏡は紀年銘鏡じゃなかったな
見つけた中國人が、アパートに大事に保管してた
邪馬台国百年に一度の大成果と畿内説を支持してた
哀れみさえ感じた
0984日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 13:01:14.56
【八咫鏡】

平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。

内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。

http://www.geocities.jp/itosimadoranekoki/isourou/naikou.jpg
0985日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 13:01:37.81
>>978
>第2代天皇以下、全て長髄彦の家系の血統が含まれている。

では、天皇の墓というのは正しいじゃんww
>>825
「古墳は現皇室の先祖のものでない
 現皇室に滅ぼされた先住豪族のもの。」
っていうのは大ウソってことでww
0986日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 13:01:48.79
すまん洛南
0987日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 13:02:20.13
【筑紫の日向】

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
0988日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 13:03:02.61
>>981
中国偽造集団の伝統は今日まで脈々と続いているもんな  中国最強だぜ
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:04:01.74
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:04:27.54
いま畿内説の学者は
中國の考古学者で嘘をついてくれる人を
カネで必死に探しているのでは無いかな
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:04:30.75
奈良 前方後円墳

全国的には、徳島県の萩原一号墳や鳥取県南部町の浅井11号墳、福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳など
3世紀の前方後円墳が多数ある。近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を築造された時期別に
畿内編年の1期から10期の10段階に分けて整理すると、最も古い1期でもっとも多いのは筑前(福岡県北部)で9基、
第二位が播磨(兵庫県)で8 基、第三位が大和で6基、以下備前、美作、備中(岡山県)、讃岐(徳島県)となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら前方後円墳が多数ある。以上から、この地が前方後円墳の発祥地とは言えない。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:07:14.58
前方後円墳も三角縁神獣鏡も、畿内説の材料ではなくなってしまったな。
纒向は大規模な計画都市と言いながら、建物の数を聞けば3棟だとか4棟だという。
これのどこが列島を代表した倭国の王都なのか?
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:07:35.81
会稽東治が揚子江河口付近と分かった今
九州で良いのではないのかな
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:09:26.05
白村江の戦い以後

日本書紀「我々は倭国では無く日本です」
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:09:37.90
ボヤくだけの畿内説になっちまったな
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:10:35.04
いま畿内説の学者は
中國の考古学者で嘘をついてくれる人を
カネで必死に探しているのではないかな
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:11:01.85
伊都国は、やはり、伊万里川の流れが緩い内陸部に、あったのでは、ないのかな、、、
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:11:56.35
会稽東治が揚子江河口付近と分かった今
九州で良いのではないのかな
1000日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 13:12:02.57
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている

・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。

結論
平原遺跡は3世紀中頃、卑弥呼の没年の前後に作られた王墓であり、被葬者は女性であることから、卑弥呼の墓である可能性が高い。
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