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邪馬台国畿内説 Part457
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:07:14.57
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1557499203/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:07:51.90
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:08:10.12
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:08:27.28
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:08:43.30
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:09:07.46
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:09:25.03
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:09:42.56
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:10:01.13
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:10:58.19
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:11:17.41
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0012◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:11:34.75
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:11:54.21
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:12:14.01
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※

実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0015日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:12:16.06
0016◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:12:30.77
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0017日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:12:34.68
0018日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:12:34.82
0019日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:12:51.05
0020日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:12:51.19
0021◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:12:57.55
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0022日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:13:09.40
0023日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:13:09.53
0024◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:13:13.92
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0025◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:13:29.95
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0026日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:13:31.23
0027日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:13:44.48
0028◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:13:46.72
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0029◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:14:03.85
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0030日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:14:15.92
0031日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:14:16.19
0032◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:14:19.42
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0033日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 12:14:32.75
0034日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:14:33.12
0035◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:14:33.97
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0036◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:14:50.67
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0037日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:14:52.34
0038日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 12:14:52.82
0039◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:15:05.96
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0040◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:15:22.84
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0041◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:16:28.82
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0042◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:16:55.11
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0043◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:17:10.64
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0044◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:17:26.77
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0045◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:17:43.84
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0046◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:18:04.03
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0047◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:18:20.66
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0048◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:18:37.00
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0049◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:18:55.47
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0050◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:19:11.37
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0051◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:19:28.40
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0052◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:19:45.37
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0053◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:20:00.48
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0054◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:20:16.43
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0055◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:20:32.10
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0056◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:20:48.64
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0057◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:21:04.86
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0058◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:21:22.72
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0059◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:21:38.87
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0060◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:21:55.44
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0061◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:22:13.70
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0062◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:22:29.71
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0063◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:22:46.75
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0064◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:23:06.22
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0065◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:23:21.67
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0066◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:23:38.93
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0067◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:23:55.92
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0068◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:24:12.46
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0069◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:24:28.35
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0070◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:24:46.56
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0071◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:25:06.70
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江、尾張、三河などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
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2019/05/12(日) 12:25:25.13
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0073◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:25:44.33
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
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2019/05/12(日) 12:26:02.65
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0075◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:26:22.96
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
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2019/05/12(日) 12:26:38.86
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2019/05/12(日) 12:26:59.27
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2019/05/12(日) 12:27:17.86
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0079◆UiepmfCeDJqf
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2019/05/12(日) 12:27:33.95
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
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2019/05/12(日) 12:27:56.27
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0081◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:28:15.91
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
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2019/05/12(日) 12:28:34.88
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値を示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0083◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/12(日) 12:29:03.37
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:18:31.58
おい、普通の集落遺跡より劣る遺跡の話 まだやるのか?
0085日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:18:36.45
平原王墓が3c中頃とか言ってるトンデモ、なんなの?
0086日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:19:08.74
>>84
>おい、普通の集落遺跡より劣る遺跡の話 まだやるのか?

なにが?
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:20:05.81
>>86
庶民くささが
0088日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:23:36.03
混合ガウス分布とは、何だろうか、、、
0089日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:27:26.89
>>88
国立の学部に所属する、僕達の頭の良い孫が、完全に理解したので要らなくって、僕達に貸してくれた本に出てきた言葉では、ないのかな、、、
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:33:44.82
なぜ、従兄にベジタリアンのことを教え貰った、僕達の、頭の良い、可愛い、優しい高校性の孫娘は、
、、、邪馬台国の討論会は、混合ガウス分布が関係するのだね、、、
と、囁いてきたのだろか、、、
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:45:21.16
水稲栽培の起源地の長江流域以南は干欄式建築(掘立柱建物)
竪穴住居の埴輪はない
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:51:42.64
まだこのスレ続けるの?
もう意味がないって決まったじゃん。
前方後円墳も三角縁神獣鏡も纒向も、畿内説の根拠にはならないんだよ。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:53:03.97
>>92
>もう意味がないって決まったじゃん。

また理由も言わずに決め付ける
やっぱり九州説は妄想だね
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 13:58:51.35
>>88
ベジタリアンの本の混合ガウス分布の章が、理解出来ないのでは、ないのかな、、、
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 14:01:05.78
孫達が、理解できることを、理解できないので、頑張れば良いな。。。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 14:01:57.60
なぜ、従兄にベジタリアンのことを教え貰った、僕達の、頭の良い、可愛い、優しい高校性の孫娘は、
、、、邪馬台国の討論会は、混合ガウス分布が関係するのだね、、、
と、囁いてきたのだろか、、、
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 14:04:11.29
>>95
分からない部分は、飛ばして、次の部分を読んだ方が、良いのでは、ないのかな、、、
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 14:16:29.39
こうして呟き荒らし、連句点、ニセスレ男、梅め毒男が一人の老人であることは天下の知るところとなった
0100日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 14:24:57.83
なぜ、従兄にベジタリアンのことを教えて貰った、僕達の、頭の良い、可愛い、優しい高校性の孫娘は、
、、、邪馬台国の討論会は、混合ガウス分布に惑わされないように、分布を作製するパラメーターを、鉄の武器や住宅跡だけにした方が良いな、、、
と、囁いてきたのだろか、、、
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 14:27:22.63
混合ガウス分布とは、何だろうか、、、
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 14:29:27.62
九州説の特徴
誰かと会話するという意思の欠如したコミュ障が絶望的に多い
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 14:49:29.02
コミュニケーションを司る脳の部分が、破損してしまった、邪馬台国畿内説を宣伝する係員が、嘘の悪口を言い放ったのでは、ないのかな、、、

102 名前:日本@名無史さん 2019/05/12(日) 14:29:27.62
九州説の特徴
誰かと会話するという意思の欠如したコミュ障が絶望的に多い
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 14:51:21.39
>>103
◆UiepmfCeDJqf では、ないのかな。。。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 16:23:43.47
滅びたキナイコシが狂ったようだ
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 16:36:45.17
>>108
何かないのーーー
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 16:54:36.92
455>>356
>九州には邪馬台国の有力地が皆無だから畿内という事だろうな<

邪馬台国も畿内も、存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、大和には女王國や倭国の有力地が皆無だから、
九州という事だろうな。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 17:14:39.81
意味無いなら来ないという選択肢があるのになぜ貼り付くのか
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 17:21:10.19
>>108
>荒らししか出来ない九州説が滅んでるんだけどね

時系列を整理すると
「学説としての九州説が滅ぶ」⇒「九州説の信者の素人爺が荒らししかできない」
という順序だけどねww
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 17:21:44.23
畿内説なんて信じなければよかった
いさぎよく負けを認める
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 17:31:01.50
そもそも九州説がわざわざ畿内説スレ荒らす時点で議論としては終わってる
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 17:33:12.87
>>109
>何かないのーーー

例えば、前スレで
「漢委奴國王の金印が出てるし、卑弥呼の最初の遣使の時に
 この金印を使っただろうから、邪馬台国は九州」
って言ってたやつがいるけれど、それが正しかったら、
魏から親魏倭王の新しい金印が与えられた時点で、
漢委奴國王印は新しい金印と交換・返却されていないとおかしい

そうでなければ、中華王朝が与えた国璽が倭国に二つあることになるからね

志賀島で漢委奴國王の金印(真物)が出たということは、
卑弥呼は漢委奴國王印を使っていないことの証明でしかない

卑弥呼が漢委奴國王の後継の立場で朝貢したわけではないことが分かる訳だ

こういう論理が理解できないやつが、九州説を未だに信じてるんだよなww
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 17:38:59.47
>>118の補足
志賀島から金印が出たってことは、卑弥呼の遣使の時には
この金印が所在不明だったことを示している

まあ、200年前のものがそのまま維持されてたと考える方がおかしいと言えばおかしいのだけれど

一応、論理的には所在は分かっていたけれど、卑弥呼の監理の届くところにはなかったというのは
ありだが、その場合は卑弥呼が漢委奴國王の後継ではないことが確定する
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 17:42:28.21
BS TBS 録画より

中國 政府機関の学者 ザンコクワ教授・・中国では古代文字の権威者だそうだ
結論は邪馬台国の場所は九州北部と断定

彼の解説
1、邪馬台国のヤマは山をさし九州北部一帯をさす・・・発音や九州北部はヤマであるから
音から指すから、松浦、糸島が出る・・音が場所を示す重要な手掛かり、古代のその場所は「地理的な環境による」
中國の場合も「名山大川」の影響を受け名付ける

九州北部は当時山が多くヤマと呼ばわれており中国の使者がそれに近いヤマを感じに充てた

 
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 17:46:42.16
ザンコクワ教授は
大坂教育大のチョウ准教授の「ヤマ」は縄文時代からあった北九州の呼び名に注目
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 17:51:44.65
続けてザンコクワ教授 TV録画より 
「後漢書倭伝でも「山がちな島に依拠して住まいとして」記述されている
また倭人伝記述のの国々の数はいずれも九州北部にある
ここから遠く離れた畿内に邪馬台国があるのは不自然である
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 17:58:22.57
九州北部の国名がたくさん出てくるのはそこが通過地点で
目的地ではないため
ザンコクワとやらはそんな事にも頭が回らぬのか
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 17:58:34.43
続けてザンコクワ教授 TV録画より
次は陳教授・・・倭人伝の欠陥はキョリ
「議事倭人伝はいくつかの時代の資料の融合した可能性が濃厚」
そもそも三国志は「魏 呉 蜀 」のあとの西晋の時代に書かれた物だがそれより古い漢の時代の記述が混在している
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:05:20.24
中国の魏志の研究は日本に比べて随分と遅れているようだな
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:06:38.46
続けてザンコクワ教授 TV録画より

倭人伝は部分部分で矛盾しています・・一人の人物が書いたものではない
倭人の整合性のなさが端的なのは
・・不弥国まではキョリで記述されてるが、突然、日数に変る
このことから異なる時代から融合した可能性が高い 正確性よりわかった情報を寄せ集めて書いたのが倭人伝であると陳教授は言う

(・・私見 不弥国まではキョリ 投馬国や邪馬台国は群からの日数?)
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:10:24.01
>>118
>漢委奴國王印は新しい金印と交換・返却されていないとおかしい
>そうでなければ、中華王朝が与えた国璽が倭国に二つあることになるからね

更新したら、古い方は自動的に無効になるだけだよ。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:11:26.20
>>120
>九州北部は当時山が多くヤマと呼ばわれており中国の使者がそれに近いヤマを感じに充てた

フムフム、(九州の大名山といえば、阿蘇山だよなあ・・・)
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:17:15.81
そういえばとある史書に、倭には阿蘇山があり時折火を吹いていると書いてあったな。
やはり倭国は畿内ではなく九州のようだ。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:20:14.32
>>126
>倭人伝は部分部分で矛盾しています・・一人の人物が書いたものではない

さもありなん。
(後漢末に新設なった帯方郡の役人たちが、手分けして倭国調査を実施し、結果報告書も分担執筆したからじゃろうな、、、)
(その報告書が元ネタと見れば、なるほど一人の人物が書いたものではないし、、、)
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:20:40.38
日本には阿蘇山があり時々火を噴いている
こうだからって京都が日本じゃないという事にはならないだろ
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:25:50.54
陳教授の結論
邪馬台国の場所は「九州」に理が適う
倭人伝の後半に「女王国の東の海を千里余り渡るとまた倭人の国がある」とある
つまり、邪馬台国の東には海があったことになります
畿内説ではこの条件と一致しません 畿内では無理です

(・・私見 畿内説では畿内の範囲を東海、北陸まで広げなければいけないかも??)
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:27:17.62
倭の火を噴く大名山のようなヤマは、中華にはない/なかったのではないか、、、
驚いただろうなあ
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:32:13.13
陳教授は日本じゃ歴史を教えられないなあ
およそ40年は前の知識レベル
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:34:34.49
>>127
>畿内説がその根拠を示せばいいだけなのだが?

お前の主張じゃないの?
なんで自分の主張の根拠を言うのが嫌なの?

だから九州説は妄想と言われるんだよ
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:35:53.57
なるほど陳教授は見るべきところを見て、読むべきところを読んでおるな。
なんせ畿内説は、300年前の新井の知識のままだからなあ
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:40:14.41
>>112
知らんがな 
あんたが中国のSNSに投稿したらいいやん

関西の大学の考古学はを研究する人は韓国には行ったり留学したりするけど
中国に言った方が良いよ、寺澤においてよ、頻繁に中国の学者と連携せよと
三国志は中国の文献だから
声高々に畿内説を唱えるなら中国の学者と意見の一致をみろよ」
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:42:48.72
倭人伝には邪馬国と邪馬台国の二つのヤマが出てくる。
ま、たしかに九州島はヤマだらけではあるが・・・
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:43:20.36
455>>393
>新唐書の日本、倭伝(新唐書では別伝になっていない)の冒頭は<

ウソを付くな。新唐書には「倭伝」なんて、存在しない。
www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/snto-wakok.html
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:46:43.89
>>94
僕達は、混合ガウス分布どころか、ガウス分布のことも、知らないのだったな。。。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:47:06.24
な〜んだ、寺澤は中国嫌いだったのか・・、
そりゃ倭人伝・邪馬台国論者にはまるきり向いてないじゃないか、、、
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:47:37.40
なぜ、従兄にベジタリアンのことを教えて貰った、僕達の、頭の良い、可愛い、優しい高校性の孫娘は、
、、、邪馬台国の討論会は、混合ガウス分布に惑わされないように、分布を作製するパラメーターを、鉄の武器や住宅跡だけにした方が良いな、、、
と、囁いてきたのだろか、、、
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:48:21.68
>>126
>続けてザンコクワ教授 TV録画より
倭人伝は部分部分で矛盾しています・・一人の人物が書いたものではない
倭人の整合性のなさが端的なのは
・・不弥国まではキョリで記述されてるが、突然、日数に変る
このことから異なる時代から融合した可能性が高い 正確性よりわかった情報を寄せ集めて書いたのが倭人伝であると陳教授は言う
(・・私見 不弥国まではキョリ 投馬国や邪馬台国は群からの日数?)<

ザンコクワ教授に賛同します
畿内説の主流である瀬戸内ルートなら距離で表すでしょう
帯方郡から北部九州までの海路を距離で表すなら、瀬戸内海ルートを距離で表すことは容易いと思います

反論があれば、私よりザンコクワ教授へ
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:51:45.07
魏志倭人伝時代の真実に近づくには、ヤマタノオロチ退治事件のことを研究した方が良いのだろうか、、、
それとも、ガウス分布のことを学習すれば、良いのだろうか、、、
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:51:52.07
455>>405
>投馬国は出雲に比定出来る<

「南≠東北」に拠って、×。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:54:48.04
優れたザラコク氏が、出現したのでは、ないのかな、、、
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 18:58:40.75
ザラコク氏は、ザンコクワ氏が死体にしてしまった邪馬台国畿内説を吊し上げ、サンドバッグを殴りつけるようにして、殴りつけ、楽しもうとしている可能性があるな。。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:00:02.36
ザラコクは中国人かな??
BS見たけど、ザラコクの投稿は中国の学者の見解に似てるな
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:01:57.63
なぜ、従兄にベジタリアンのことを教えて貰った、僕達の、頭の良い、可愛い、優しい高校性の孫娘は、
、、、邪馬台国の討論会は、混合ガウス分布に惑わされないように、分布を作製するパラメーターを、鉄の武器や住宅跡だけにした方が良いな、、、
と、囁いてきたのだろか、、、
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:04:47.89
記紀は日本人が解説すれば良い
倭人伝は中國人が解説すればよい

これが結論だろうな
0153畿内説さんへ
垢版 |
2019/05/12(日) 19:08:20.23
会稽東治の地は揚子江河口付近でいいの
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:10:41.68
>>120
>中國 政府機関の学者 ザンコクワ教授・・中国では古代文字の権威者だそうだ
>彼の解説
1、・・音から指すから、松浦、糸島が出る、・・音が場所を示す重要な手掛かり、

「糸島」が、仲哀記のフェイクと訛りに由来する地名と知ったら、政府機関のセンセイもおどろくだろうなあ・・・
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:13:15.64
>>123
倭国の全体感でいけば海に囲まれた山国だと思うが・・
倭人伝でも、海に関わる記述(食べ物、狩猟)が多いです
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:15:24.20
>>154
それ2〜3世紀?
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:21:25.14
455>>410
>倭国から日本国に国号を変更したのに決まってるだろう<

九州倭国が「日本国」も称したのは、釈日本紀に拠って、晋の惠帝への遣使の時。
大和が日本国を名乗ったのは、釈日本紀が引用の延喜講記に書かれた、
「小野妹子が開皇末に隋の文帝に日本国を名乗った」時が始め。

>古事記ではヤマトタケルノミコトは「倭建命」
日本書紀ではヤマトタケルノミコトは「日本武尊」
倭から日本に変わってるのが分かるだろう <

古事記は、
九州倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作の嘘つき騙しをする度合いが日本書紀よりも低く、
欠史八代などの時の「大倭」のように、
ついうっかりの伝承事実通りに記載してしまっている部分がある書。
という事は、
「倭建命」は倭の國の臣下の部将のとしての呼称であった事になるのであり、
書紀の「日本武尊」は、
「倭→日本」という「倭国の存在や歴史を隠蔽」しようとした事の証拠。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:23:39.50
キナイコシがやけくそ
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:24:07.72
>>156
2〜3世紀にこういうことがあって、伊蘇になったと思ったら、訛って伊斗になりましたよ〜、と記紀に書かれている、、、
実際にいつの時代にそういうことになったのかはわからんねえ。
ま、その後、怡土になって、近年志摩と合併して糸島市になったらしいけど。。。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:28:42.34
>TVの録画より
周教授の解説の一部
「梁書(636年)によれば扶桑国(当時、日本にあると認識していた)
倭国から文身国まで東北7千里あまり、そこから東へ五千里余り行くと大韓国、
さらに東へ二万里あまりいくと扶桑国, 是で行くと扶桑国はこの距離で行くと扶桑国は太平洋を越え
メキシコあたりにあったことになる 中国の歴史書では中国以外の国についての距離の記述はすべて疑うべきです
邪馬台国を特定するには距離より方角を大切にすべきである
注目すべきはー会稽東冶之東ーーー会稽東冶は長江の出口付近である。長江から東へ行くと海流に流され九州に流れ着く。
邪馬台国や卑弥呼の居場所は九州にあったはずです・・・・・・・・・」
・・・・はもっと根拠を述べてますが省きます <
0163日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:29:20.85
>>153
>会稽東治の地は揚子江河口付近でいいの

だめだな
なんの根拠もなく、実在する土地をはるか遠くに移動させたら、それは歴史の偽造たらう
捏造はいけない
会稽は杭州湾より南なのだから
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:32:20.11
>>136
>陳教授は日本じゃ歴史を教えられないなあ <

邪馬台国は中国の史書だよりだからしょうがないよ
あんたの究極の結論は邪馬台国は無かった?
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:36:34.32
畿内説の投稿は論破されっぱっなしだな
ここ畿内説のスレなのに
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:39:14.36
三国志は中国の史書だが、
倭人伝の部分は畿内の日本人が書いた・・・、みたいに思ってる人って少なくないんじゃないの。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:44:09.03
最近の研究会や討論会で
纏向を大集落と言うのが聞かれなくなったのは何故
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 19:55:36.97
455>>415
>その頃の倭国は郡から14000里と2000里増えているから、<

旧唐書は、倭國伝で「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里」と書いており、
郡から倭奴國は、如淳注の短里の約「萬里」と見積もり、
京師(長安)から郡を四千里(長里)とし、合計したものであり、
新唐書は、それを踏襲して「日本、古倭奴也。去京師萬四千里」としている。

>確かに首都を出雲か吉備に移した可能性は否定できないな。<

「南≠東」などに拠って×。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:05:36.30
>>137
>お前の主張じゃないの?
>なんで自分の主張の根拠を言うのが嫌なの?

ここ、畿内説のスレだよな?
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:08:05.12
455>>443
これが「嘘=ウソ]
大和朝廷・倭国が対外的な国号を日本国に変えただけ
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:13:49.67
>>173の訂正(また途中で投稿ボタンを押した事になった)
455>>443
これが「嘘=ウソ」。
大和朝廷≠倭国。
倭國も西晋惠帝に日本国という国号を名乗ったし、
大和も、小野妹子が隋の文帝に日本国を始めて名乗って叱られた?。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:14:24.25
中国人学者が倭人伝読んでピタリと当たるなら
江戸時代に邪馬台国論争なんか起こらない
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:17:41.63
455>>450
またまた、「南→東」などの嘘付き騙しの、
根拠を言わない大和説が、
妄想の迷宮
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:22:17.80
455>>451
>陳寿の認識では帯方郡から遠ざかる方向が南だってだけ <

魏使らも陳寿も、普通の学者だから、東西南北の方向や文字を間違えない。

>後漢書では自女王國東度海千餘里至拘奴國で東になってる <

後漢書は、前史を、自己解釈に拠って書き換えをする半分×書であるから、
根拠に出来ない。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:25:16.46
畿内説について語られることがない畿内説のスレ
いかに空虚な説であるかがよくわかる
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:31:31.99
>>180
葛城掘れば逆転すんじゃね?(ほれほれ
まー阿波でも出雲でもえーけど?
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:34:46.31
455>>457
>倭地は周旋五千里にも及ぶ、会稽東治之東まで届く南北に長い洲島なんだよ<

周旋五千里は、
狗邪韓國から侏儒國付近までの「陸路での参問した移動里数記載の合計」なんだよ。

>そして、帯方郡が一番北でそこから余傍国まで基本的に北から南へ書いてる<

全体としても「乍南乍東」的な移動記載になっており、
「西北から東南」へ書いているから、×。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:38:45.82
自スレさえ立てられない九州説は実体が無いも同然なわけで
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:50:25.16
>>164
畿内に決まってるよ
やまとという地名の所に魏鏡の三角縁神獣鏡と前方後円墳がある
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 20:55:14.76
鉄器や殉葬者の骨は解けて消えてしまうが、木製の鐙は残存するという畿内説とは・・・
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:00:00.81
>>170日本@名無史さん2019/05/12(日) 19:56:57.16
>>165
いつ、だれに?



あんたの投稿を再掲しろよ
できないなら 諦めな
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:01:57.79
>>187
何でだ
誰にも確かめられる当たり前の事実を書いただけだが
前スレが何の関係あるのかな
0190日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:07:38.06
畿内説は中国でも相手にされないのか・・
魏志倭人伝は中国の史書だろ・・
中國の史書 魏志倭人伝の謎を解き明かした日本の学者は九州説の人だけか
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:10:35.62
>>146
やはり、僕達には、ガウス分布のことが理解できないので、ヤマタノオロチ退治事件のことを研究するしか、ないな。。。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:10:41.08
難升米や牛利という使者はどうやら九州にあった地名から名付けられたらしい。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:12:08.85
@@@
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:12:41.25
ヤマタノオロチは、熊本の阿蘇の麓にいた倭王のことだったな。。。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:19:48.77
なぜ、従兄にベジタリアンのことを教えて貰った、僕達の、頭の良い、可愛い、優しい高校性の孫娘は、
、、、邪馬台国の討論会は、混合ガウス分布に惑わされないように、分布を作製するパラメーターを、鉄の武器や住宅跡だけにした方が良いな、、、
と、囁いてきたのだろか、、、
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:23:41.21
>>128
>更新したら、古い方は自動的に無効になるだけだよ。

古いのは、交換・返却するんだよ
想像で適当なことを書いてもダメww
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:31:33.61
455>>500
>倭人伝は伊都国に派遣された楽浪郡からの使者について「津に臨みて捜露(そうろ)(検閲)し、文書・賜遺(しい)の物(たまわりもの)を伝送して」と、
伊都国沿岸部で品物の検査や文書の伝達などを行っていたと記述している。三雲・井原遺跡では、楽浪系土器も50点以上出土しており、
糸島市教委は「楽浪郡や中国との間で交わされる外交文書などが伊都国で作られた可能性が高まった」としている
田和山遺跡のすずりも調査した九州大の西谷正名誉教授(東アジア考古学)は、同遺跡では楽浪系土器が出土しておらず、
すずりも実用品ではなく宝物として扱われた可能性があることを指摘 三雲・井原遺跡のすずりについて「日本における文字文化が、弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す発見ではないか
と話している<

ふーん。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:34:57.32
>>120
>中國 政府機関の学者 ザンコクワ教授・・中国では古代文字の権威者だそうだ

また雑なことをww

BS-TBSの九州説の中国人学者というふれ込みの3人中2人は華東師範大学の同僚

臧克和教授は中国语言文学系で歴史学は専門ではない
二、主要科研成果
(一)著作
《实用说文解字》(合作),上海古籍出版社,2012年。
《中国石刻》丛书(主编),南方日报出版社,2011年。
《汉魏六朝隋唐五代字形表》,(主编),南方日报出版社,2011年。
《中国异体字大系(隶书卷)》(主编),上海书画出版社,2010年。
《简帛与学术》(独著),大象出版社,2010年。
《中古汉字流变》(独著),华东师范大学,2008年。

陈长?教授は历史文化学院で、とりあえず歴史学が専門だけど
あくまで専門は古代中国史
论著目录
1)陈长?:《六朝政治》,南京出版社,2010年
2)陈长?:《中国古代国家与政治》,文物出版社,2002年
3)陈长?主编:《中国政治制度史》,高等教育出版社,2001年
4)陈长?:《战国秦汉六朝史研究》,广东人民出版社,1997年
5)陈长?:《两晋南朝政治史稿》,河南大学出版社,1992年
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:38:12.12
455>>501
>>(唐会要倭国伝)詳述では、「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」
という平戸付近の位置関係を書いた事になり、<

>つまり平戸を領有してる日本国が「正北抵新羅」であって<

いや、唐会要は、日本国伝は全く別の場所に書き分けられているんだよ。

>なんの問題もないわだな<

唐会要の倭国伝を「日本国」としたスレ主は、
やっぱり・・・・アホ詐欺師であった、という訳だ。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:40:27.83
>>168
>最近の研究会や討論会で
>纏向を大集落と言うのが聞かれなくなったのは何故

常識になったからだよ

昔は発掘地点ごとに太田遺跡などと呼ばれ、パラパラと遺跡があるのだと思われていたんだよ
それがみんな一つの大集落遺跡の一部だと認識されるようになった最初の頃は、
大集落だということが喧伝されたってだけ

もうみんな知ってるから、わざわざ言う必要が無い
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:42:07.16
>>175
>倭國も西晋惠帝に日本国という国号を名乗ったし、

これが100%デタラメww
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:43:36.71
>>177
>だから江戸時代に偽の金印が造られた

ちょっと時間を使って調べてごらん
偽造説は否定されてるよ!
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 21:52:43.10
>>202
おまえが否定説を示せ アホンダラ
おまえが示せないから
江戸時代に偽の金印が造られた ってこと
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:04:55.50
455>>564
>「桜井市纏向学センター」の公式見解
纏向遺跡ってどんな遺跡?
北飛塚地区の住居跡(桜井市大字太田)
纏向遺跡では竪穴式住居跡の検出例がほとんど無く、纏向遺跡第112・137・138次調査で確認されている程度です。
纏向遺跡第59次調査北飛塚地区検出の住居跡は庄内3期式(3世紀中頃)に構築された一辺5mの方形の竪穴で、10cm程度の浅い掘り込みを有しています。
竪穴内には4本の主柱穴と2本の補助柱穴がありますが、炉跡や周壁溝がない事や補助柱穴を持つ事などは通常の住居跡とは異なる点であり、竪穴式住居ではなく、
掘り込み地業をともなった平屋、あるいは高屋の建物遺構とする見方もあります。<

ふーん。成程。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:07:51.00
>>203
>おまえが否定説を示せ アホンダラ
>おまえが示せないから
>江戸時代に偽の金印が造られた ってこと

畿内説の恥さらしになるからこれ以上は止めとけ

中国の博物館には万を数える古銅印が収蔵されているが(日本にも流れて来たのがある)、
半分は明から作られた贋骨董 だろうと言われている。木竹製品、陶磁器は制作年代を物理的に
調べる方法があるが、金属には方法が無いので、真贋判 定はされずほったらかされている。
この漢倭の金印も判定に物理的方法は無いので状況証拠を検証するしかない。
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20171020002376_comm.jpg
しかし偽派の言い分は随分お粗末なもので全く証拠にならない
1、ハネを彫る字体は漢代に無い・・・これは間違い。むしろこれは漢印に特徴的にある。
  https://i.imgur.com/JPF6avZ.jpg
2、出土状況があいまい・・・もし亀井南冥が計画して芝居打ったのなら正確に記録しているだろう。  あいまいなのは亀井南冥も 知らなかったからだ。
3、字の彫り方が広陵王璽と異なる・・・印彫り職人は大勢居る、人により彫り方が異なるのは当たり前。
真派の言い分も積極的に真だとする証拠にはならないが、その他の状況、幕府公認に限られる格式高い金細工師に、内緒で贋作 依頼できないなど亀井南冥には贋作できないだろうから、偽が作られた可能性は非常に低い
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:08:50.24
偽と言う奴は、”後漢時代の金印がポロと田んぼで見つかるはずがない、
亀井南冥が売名の為に偽造して仕組んだ芝居だ”と言うんだな。
なら亀井南冥がそんなことをする可能性があるのか検証しないといけない。

1、まずこの言い方が矛盾している。確かに金印が出たのは奇跡的なことだ。
 ならば、亀井南冥が売名の為にそんなありそうもないことを仕組むだろうか、
 それはない、やるのならありそうな誰もが納得することを考えるだろう。
2、亀井南冥は既に福岡藩随一の碩学と言われ、藩の御典医で藩主の信頼
 厚く、新設の藩塾の塾長を任された。既に学者として成功しており、今更
 売名の企てをする必要などない人物だ。
3、もう一つの藩塾が金印の解釈でバカ言って恥をかいた、それで奴らは
 印は偽だ、漢の属国扱いの印など潰せとわめいたが、藩主は亀井南冥を
 信頼して、金印は黒田家の家宝として保管し、金印の件はそれで終わった。
4、その後に亀井南冥が塾長を辞め蟄居を命ぜられたのは、松平定信の
 寛政異学の禁で、それを批判して、”ま 気持ちは分かるが、幕政を批判
 するのはマズいよ”ということで、金印の件とは全く関係ない。
  これでまず亀井南冥が売名の為に偽造した可能性は100%無いね

もう一つ調べた事を書く。 日本と中国に現存する南北時代以前の金印は
41個しかなく、その30個は現代になって発掘したものだ。銅印が万個ある
のにこれは驚くほど少ない。 これは中国で偽の銅印は何千個もあるが、
金印の贋作は無かったということだ。何故なら、あまりに少なくて贋作者
も金印は見たことがないからだろう、モデルが無いのでは贋作できない。
”漢委奴国王”は完全な後漢時代のデザインにできている。江戸時代に
あった銅印しか載っていない印譜からはこのデザインの贋作はできない。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:09:45.56
金印が何故そこにあったのか推察すると、おそらく奇跡の呂皇后と同じだろう。
西安の陝西歴史博物館にある呂皇后の玉印は、今中国にある歴史的印章で一番の
お値打ち品だ。
これは小学生が学校から帰り道で、道端の空き地で見つけた。省博物館に持って
行くとみんなびっくり仰天、拾った場所は劉邦と呂皇后の長陵から1kmの所、
呂皇后の玉印が出た。 なぜそこにあったか推察すると、これは呂皇后の墓内
でなく周囲の建物に調度品と共に安置してあった。それが前漢末の反乱で
焼き討ち略奪の時、誰かが守って持ち出し、落としたか埋めて隠した。
それから2000年、今は家や道の並木があったりするが、埋まった所は奇跡的に
何の変化も無く、表土が雨で徐々に流れて、2000年後に現れた。動かなかったから
傷一つなく綺麗な原形のまゝだった。正に奇跡の呂皇后だ。
 で 金印は、魏書に倭国大乱とあるように、その頃は喧嘩ばかりやっておった。
喧嘩の時、金印はどっかに隠す、奴国が負ける隠した奴が死ぬとどこに隠したか
分からなくなる。
 中国の何千個もの古銅印はほとんどが何故そこに落ちとったか推察しようもない。
そこに昔は持ち主の家や役所の建物があったとしても、千数百年過ぎると全く
跡形無くなってしまう。小さい銅印なんて丈夫な物だからそれだけが残る。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:11:40.66
山中にある古墓から、宋徽宗帝が作らせた印譜が出たと称して印刷した贋の印譜にある”親魏倭王”
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/senwa51.jpg
中国では明の頃、文人の骨董収集ブームで、古銅印から印譜まで贋作が出回った。
印は魏の頃日本へ行ったのに、宋で印譜に出せるわけねえだろ。
実際問題として、卑弥呼が受けた”親魏倭王”は、後に魏から晋になって壱与が晋に使者を
送って慣例により返却し溶かされ、新たに”親晋倭王”が授与されたと思われる。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:12:31.51
魏書には金印と書いてあるのになんで銅印だ、中国の贋作屋もええ加減なやつらだな。
>>206のように、当時は古代の金印現物は地上に無くて、贋作屋もどんな物か分からず、
贋作できなかった。
本家中国でそうだから、日本で贋作できるわけない 
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:13:52.64
半島は王でも銀印だったから、倭國は使いでも銀印ってのは認めがたいんだろうな

って辺りが、金印偽造説の本質だろうよww
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:15:27.96
皇居の火災で賢所の八咫鏡が焼損したときに、「又、玉金のごとき物、数粒を得」という記録が
藤原資房の春記にある
長久元年(1040年) 九月九日
http://rakusai.nichibun.ac.jp/kokiroku/list.phpで訓読文が読める

八咫鏡が金象嵌された物だったのか、あるいは金印のごとき物と一緒に奉祭されていたのか

まあ、想像以上のことはできないけれど
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:16:50.47
1958年発掘 蛇鈕金印”晋蛮夷帰義侯”
http://www.whmuseum.com.cn/WB_collectionl_connect.aspx?id=20
この蛇鈕、造りは雑だが、形式は漢委の金印と同じ。  
滇王は前漢だから蛇そのものだが、 後漢からの蛇鈕はこういう形式になった。
江戸時代ではこういう印形のデータが無いんだから、あの漢委の蛇鈕を贋作はできない
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:17:20.78
蛇鈕はこれが江戸時代の贋作ではないことの決定的証拠だな。
中国に現存する蛇鈕金印は、現代で発掘された三個しかない。
中国でも明から作られた贋作印に蛇鈕は無い、どんなものか分からなかった
からだ。 日本で江戸時代に作れるわけが無い。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:18:47.90
>>203

これで十分だろ?
贋作説は、日本sageがしたい連中が「為にするイチャモン」だよ
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:21:24.54
455>>655
>田和山は紀元前ではなくAD2世紀。
最近、北部九州で紀元前の硯が見つかった。<

ふーん、そうだったのか?。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:22:49.48
"状況証拠"と言うが、文字どうり清の頃古代金印はどういう状況だったかを見ると
まずあの漢委の金印以前は地上に一つも無かった。 
金石学が盛んになって古文字資料の印章も収集されたが、最大の収集家乾隆帝の
コレクションも銅印ばかりで金印 は無い。現物が無いのでは印譜にも金印は無い。 
あの漢委の金印は初の出土品だったのだ。その後山東で亀鈕の漢印が出土した。
これは珍しい貴重だということでレプリカを作った、かなり雑で、今みたいな精巧な物ではないが。
あと清末に重慶で一つ出た。清代での出土はこの三個だけのようだ。 
勿論モデルが無いのだから金印の贋作は無い。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:26:46.02
あほ  中国の専門偽造団に作らせたと何度も言ってんだよ  亀井南冥がよ   
はい、にせもん
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:31:03.29
亀井南冥って長崎に行ってたらしいな  そんとき中国人に贋作印を頼んだんだな
0219日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:33:48.29
偽金印を拾ったとされる農夫は、普通であればヒーローになっただろうが
哀れトンズラこいたらしいな
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:39:15.83
>>216の追記
漢から長い歴史で、墓の盗掘で持ち出された金印銀印は結構あったかと思われるが、
盗掘の金銀製品は、溶かして地金にされてしまうので、原形で後世に残ることが無い。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:39:55.57
江戸時代に作られた物なら材料となるのは小判しかないから
小判と同じような成分で作られてるはずだが
金の純度が高くて小判とは全く違うのも金印が贋作は無い証拠だな
成分的にも漢代の金製品。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:43:06.70
考古学の成果をまとめると、

‐弥生の鉄・絹…九州>畿内 (3世紀)→ 九州=畿内(4世紀)
‐前方後円墳……九州×畿内〇(3世紀)→ 九州<畿内(4世紀)

北部九州にあった邪馬台国卑弥呼(本家)の命令で、男弟(分家)が239年魏帝からの下賜品とともに東遷。
出雲・吉備・北陸・東海など本州島有力地域を銅鏡100枚を配布しながら配下に納めていき、婚姻により大和唐古鍵国を吸収して、卑弥呼寿陵(箸墓)と祭祀施設(纏向遺跡)を建設開始(邪馬台国・大和分家=ヤマト王権の誕生)。
大和纏向周辺地名も九州本家と同じ邪馬台(ヤマト)に変更。卑弥呼死後、九州本家から運ばれた卑弥呼遺体を箸墓に埋葬。
台与(西殿塚に埋葬)で断絶した邪馬台国・九州本家を大和分家が併合し、その前方後円墳体祭祀で全国の有力豪族を配下に序列化し、統一支配。
ヤマト王権(邪馬台国・大和分家)はその後、記紀で九州本家の存在を抹消、現在の令和天皇・徳仁陛下に至る
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:44:11.87
>>221
あほ  中国の専門偽造団に作らせたと何度も言ってんだよ  亀井南冥がよ   
はい、にせもん
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:46:35.64
偽造だって言ってるバカは、
1.亀井南冥が作らせた
2.作ったのは中国の専門偽造団
を「根拠なく繰り返す」だけ

まだ贋作を主張するなら

1については>>206に対して具体的な根拠を挙げて反論すること
 亀井南冥には動機がない
2については>>213>>216に対して具体的な根拠を挙げて反論すること
 中国の専門偽造団が偽作した金印は一つも存在しない
 いくら技術があってもモデルがないものを偽造することはできない
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:48:25.12
>>217>>223
やってることがザラコク並みだぞ

一度自分でもきちんと調べてごらんって!

根拠なしの断定は、「妄想」だって!
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 22:50:48.38
>>222
男弟に東遷して大和分家を作らせたのは、魏帝曹叡から「汝が従えた国の王に、朕が汝の後ろ盾になっていることを示せ」と言われたこともあるだろうが、
女系では長続きせず、自分の死後に倭国大乱の再発を恐れた女王卑弥呼の命令だろうな。
銅鏡百枚は後進地域であった本州の有力王たちにしてみれば、手が出るほど欲しい威信材(アメ)。

もし男弟が四道将軍(ムチ)を従えた崇神(神武東遷&大和入りとして記紀に描かれた)とすると、伊勢神宮の御神体・八咫鏡は伊都国平原王墓出土の内向花紋鏡と同型鏡らしいから、
その出自は一大卒が置かれた伊都国王の王女(卑弥呼の母=平原王墓の被葬者w)と邪馬台国王(卑弥呼の父)の子供たち(卑弥呼&男弟)なのかも。
もちろん、「漢委奴国王」金印直系で歴代倭王を輩出していた奴国王家とも婚姻して親戚関係にあっただろうから、あるいは奴国王も兼務していたのかも(東遷中で「王無」とw)
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:03:32.19
状況から考えて金印は偽物とは考えづらいけど
偽物なら偽物で本物は畿内の古墳のどっかにある可能性も出てくる
0232日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:05:57.47
>>227
その説でいくと、箸墓は男弟(崇神)の姉(卑弥呼)の墓ということになるが、記紀では崇神の叔母の墓としているのが意味あり気。
記紀がどこまで史実を反映し、歪曲しているか判らないが、まるっきりの作り話というわけではなく、邪馬台国「男弟」東遷の史実を反映しつつ、
北部九州にあった邪馬台国本家の歴史を抹消しているのかもしれない。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:09:45.09
>>231
天下の魏王朝が出来損ないの代物を授けるわけないないわね  そんな不細工な事を
0234日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:20:01.18
>>206

>新設の藩塾の塾長を任された。既に学者として成功しており

亀井魯が其始高麗人住せり唐人町の西学問所の館長となったのと、
志賀島で金印が出たのは同じ年の同じ月の22日後
亀井魯を高く評価してその名を他の儒学者に広めたのは朝鮮通信使
村医の子の魯が福岡藩に出仕した経緯も明らかにはなっていない
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:20:25.44
アイヌ語は面白いな

サルは葦原とからしい
0236日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:24:55.56
>>232
天武朝(邪馬台国大和分家=ヤマト王権=天皇家)の記紀が、漢委奴国王や帥升同様、邪馬台国・九州本家の存在をも抹殺しなければならなかったのは、
国号を倭から日本と改めるにあたり、歴代倭王権が中国皇帝に朝貢し冊封されていた史実を隠すためだろう。
中国皇帝に媚び諂(へつら)う倭王「武」が雄略であったことなど絶対に消さねば!
天孫降臨の地を、歴代倭王権奴国〜邪馬台国本家のあった北部九州ではなく、南九州宮崎にしなければならなかったのも、
東遷の史実をそれとなく伝えつつ、朝貢の歴史からは目を逸らせるためではないだろうか。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:34:33.10
日本舊小國,併倭國之地。
むかし日本(畿内?)は小国でしたが、倭國を併合したのです。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:39:02.36
>>226
>やっつけ仕事の出来損ないを有難がるアホ

バカの一つ覚えだな
具体的な反論はできないってことだ

偽造なら、途中で駝鈕を蛇鈕に変更する理由はない
また、江戸時代の時点で蛇鈕の古印は大陸でも知られていないので、偽造なら蛇鈕は作られない

やっつけ仕事の出来損ないは魏朝の都合
偽作の証拠にはならない
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:43:00.70
>>233
>天下の魏王朝が出来損ないの代物を授けるわけないないわね

「わけないわね」ってただの主観だろ
まともな根拠が出せないってだけ

恥に上塗りは止めなさいって!
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:53:30.02
畿内説は中身が薄いのに拡大解釈して真空になりつつあるな
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:57:50.23
物証なき論説=一般社内ではそれを妄想と言います。
そしてそれを止められなくなった人を虚言癖のある人と見ます。
生息域として畿内説を論じる人によく見られます。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/12(日) 23:58:06.03
そう見えるのは九州説の頭の中身が真空だからじゃないのかな
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 00:00:52.30
>>241
メディアも宮内庁も橿考も気づいてるよ。
もう畿内説をごり押ししているのは毎日新聞しか残ってない。
元そこの記者だからな。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 00:24:32.59
もう邪馬台国は大和国だったで決まりだよ
これから九州で多少何か見つかったとしても
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 00:28:15.29
そう遠くない将来、畿内説は勘違いだったと確定するなw
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 01:53:29.45
>>245
という根拠は?

「根拠をなにも示さず決め付け」ばかりする九州説が
妄想説と呼ばれるのは極めて自然なことだ
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 04:49:49.59
>>246
そっくり畿内説に返す
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 04:59:33.30
ザンコクワとザラコク
いずれも畿内説にとってザンコク
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 05:09:33.22
これ説得力あるな

>倭人伝は部分部分で矛盾しています・・一人の人物が書いたものではない
倭人伝の整合性のなさが端的なのは
・・不弥国まではキョリで記述されてるが、突然、日数に変る
このことから異なる時代から融合した可能性が高い 正確性よりわかった情報を寄せ集めて書いたのが倭人伝であると陳教授は言う
(・・私見 不弥国まではキョリ 投馬国や邪馬台国は群からの日数?) <


>賛同します
畿内説の主流である瀬戸内ルートなら距離で表すでしょう
帯方郡から北部九州までの海路を距離で表すなら、瀬戸内海ルートを距離で表すことは容易いと思います <
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 05:17:03.90
455>>727
>魏志に書いてあるとおりに行けば、日本列島上に比定地は置けなくなる
九州説には「論理」の分かる人がいないだけww <

魏志に書いてあるとおりに行けば、女王國は九州島付近になり、
大和には全く行かない。
大和説者には「論理」の分かる人がいないし、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホの宗教政治家がいるだけ。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 05:22:16.06
455>>732
>そこには遺跡がない=国がないんだよ
第4の説で、船で丹波まで行って、南へ陸行1月でヤマトに着いた、が
魏使の旅程の正解だ 末盧國には魏使は行っていない<

「南≠東」などに拠って、大和説は×。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 05:29:04.30
455>>739
自分の考えに合わなければ、
文献考古の史料事実であろうが、史料実態だろうがなんだろうが、
チェリーピッキングして否定しないと、
成立しないのが大和説。

皇国史観国粋主義に狂ったスレ主や大和説学者らもすごいけど、
あんたもすごいわ。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 05:36:10.05
455>>756
大和説に明日は無いよ 。

明日、どころか45年前にはオワコンになってるんだよなぁ。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 05:53:29.13
455>>767
>>旧唐書に「倭は古の倭奴国」と書いてある。<

>そうだよ?
「日本国は古の倭奴国があった日本列島にある国だ(地理上の連続を「古」で示す)」
ってことだよ 何が問題なんだ? <

この大和説男が、また史料事実の曲解改竄のインチキ宣伝をしているね。
「倭は古の倭奴国」は、旧唐書の倭国伝の記載であり、
旧唐書日本国伝の記載ではなく、
日本国伝には、冒頭で「日本國者、倭國之別種也」と書かれているんだよ。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 06:03:04.70
455>>776
>新唐書では「日本、倭伝」で一つになってるよww 同じ国の別の国号なんだよ
日本の歴史を知ってたら、そんなバカな話はできないだろうに<

天誅の漢籍の書棚では、「『新唐書』日本傳」だよ。
だから、「同じ国の別の国号」は、×。
旧唐書も唐会要も書き分けている。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 06:22:21.11
土器(生活道具)しか見ていない畿内説には、弥生の鉄(戦闘能力)絹・硯(文明水準)が全く見えていない

まさに木を見て森を見ず
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 06:28:34.55
455>>873
この、
新唐書では「倭、日本伝」
というインチキ投稿は、スレ主だな。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 06:32:36.38
455>>878
>(纏向)全国的政権の首都という意見が圧倒的多数派だな <

「南≠東」などに拠って、国民や世界の7割は、否定しているよ。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 06:34:25.10
3世紀の大和には文字もない…ということは、命令や情報は口で伝えるしかない
伝言ゲームをやったことある香具師なら知ってるだろうが、文書なしでの口頭による情報伝達は著しく精度が落ちる
そんな未開の猿の惑星に(しかも鉄はほどんど出ない=石器時代=戦闘能力も劣る)何カ国も経由しなければならない遠く隔たった文明最先端の北部九州を支配できたとは思えない。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 06:38:35.46
455>>881
>(女王國)実際には沖縄だな <

沖縄では、15万戸は、勿論入れないから、×だな。

>つまり陳寿の書いた道程に間違いがあることは確定している <

つまり、この男が、
陳寿の書いた道程を曲解捏造している事が、確定している。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 06:48:31.19
455>>888
>神社建築は倉庫じゃないね 九州説は、情報が古いんだよ
弥生時代の年代観が大きく変わったことについていけてないだけ
邪馬台国論争がプロの間で決着したのは、3世紀前半には既に古墳時代に入っていたと
いうのがコンセンサスになったからだ <

ダメだ。「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」で、
大和説の変辺は×である事が確定している。
だから大和説は、捏造とか忖度とか、名誉毀損級のあらゆる罵詈雑言を駆使して
「南→東」などのインチキ騙しや、
現行の大和説学者に編年はに正しい」という、
根拠なしの『インチキ』を言い続けるしかない 。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 06:58:29.17
>>259
手っ取り早い土器(調理道具w)しか見ない畿内説には、文明の利器(鉄・絹・硯=文字)がもたらす重要性など目に入らない
王墓こそ大きいものの、文字もなく鉄も少ない「事実上」石器時代だった3世紀のヤマト王権は、北部九州にあった邪馬台国とは別の王権だったか、邪馬台国の奥津城だったかのどちらかであって、
ちょっと掘れば錆びた鉄がドッサリ出てくる3世紀の北部九州までを「政治的に」統一支配した邪馬台国そのものではありえないことに、おそらく死ぬまで気が付かないんジャマイカ?w
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:03:25.44
455>>916
このように「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
大和説側の一切理由を言わない

いつも、「根拠は?、証拠は?」と言って、
すぐにその場で「証拠が言えない」と言い放って、
議論に勝ったかのような言い方をして、国民を黙堂とする。

「根拠を示さずに決め付け」する大和説は妄想説なのである
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:05:27.07
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。

(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。

さて、日本国がした説明はどれでしょう?

おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:12:24.83
455>>939
>西晋時代の1歩って今でいうとどのくらい?<

西晋朝や、陳寿や、江表伝や、海賦などは、1歩≒1尺位での記載だが、
民間や学者たちは、始皇帝の「1歩=6尺」の影響が沢山残っていたらしい。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:14:05.73
>>262
箸墓の築造年代を3世紀中葉→「ヤマト王権=邪馬台国」と結論ありきで年代を繰り上げ操作するために
土器(主婦の便利グッズ)を3世紀の文明の利器(鉄絹硯文字「政治的な」統治技術)出土状況より重要視してしまう関西考古学界の畿内説は、
まさに世界の非常識&笑い草www 
全世界の軍地専門家から日本語で「BAKA(バカ)作戦」と揶揄されるインパール作戦www
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:28:22.56
>>238
それ、真逆じゃない?  本物なら蛇と駱駝のチャンポンでもいいの?  
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:28:31.35
BS-11
(畿内説は、西部警察の捜査に任せてッと・・)
(九州説は、国際文化専門の学者さんにお話を伺いました)

BS-TBS
(畿内説は、夢枕の獏でおくとして・・)
(九州説は、中国語本場の中国人学者3名様にお話を伺いました)
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:39:39.13
三世紀前半の、土器・住居・お墓・カエルの骨なんて、
ほじくれば西日本のあらゆる生活圏から出てくる。
当時すでに、数十万人の弥生人が暮らしていたのだからな。
年代がわかっても、誰の住まいか、どこの国か、なんて特定はできないのはわかりきったこと。畿内説は前のめり。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:42:03.40
3世紀の北部九州の遺跡発掘現場を見学に行った関西の考古学者や博物館の学芸員は、
周辺の地層全体が真っ赤に染まるほど大量の鉄の出土量を目の当たりにして内心(負けた…ヤマト王権は邪馬台国じゃないや…)と直感的に思うらしい。
でも関西に帰ると学閥や先輩後輩のしがらみがあって、職場で敵なんか作ったら大変だから、口が裂けてもそのことは言えず、
講演会などで「ヤマトで決まりやな!」という禿げ頭の素人おじいちゃんたちを見て
九州の発掘現場を知ってる人達同志で互いに肩をすくめて苦笑し合うらしいw
逆に九州の考古学者や博物館学芸員が畿内の3世紀遺跡発掘を見学に来ると、あまりの貧弱な出土品(木製品や桃の種、カエルの骨)に爆笑してしまい、
古墳築造の「縁日」と呼んでいるらしいw
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:51:42.20
>>267
>それ、真逆じゃない?  本物なら蛇と駱駝のチャンポンでもいいの?

どこが真逆なのか、具体的に根拠を挙げて説明してくれるかな?

江戸時代までに、金印の古印は大陸でも知られていないし、
蛇鈕の印も発見されていない

大陸の専門偽造団だろうがなんだろうが、モデルがなければ偽造もできないよ

大陸中華の王朝からすれば、東夷の遠絶の国は「金印が貰えるだけありがたいと思え」くらいの
扱いなんだよ
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:54:44.65
学閥の元祖・教祖といえば、
秋田の田舎からトランク一つで出てきた寅さん
滑るような口上だけで生きてきたらしいが、まさに映画・TVドラマの主人公といったところ・・・
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:55:14.36
九州は掘り尽くしてもう何も出ないのではないかと不安に駆られるそうだね
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:56:35.59
>>269
>三世紀前半の、土器・住居・お墓・カエルの骨なんて、
>ほじくれば西日本のあらゆる生活圏から出てくる。

それどころか東日本や北日本だって出るだろう。
そんなものを根拠にしている畿内説は、頭がおかしい。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:57:40.00
>>271
流石、中国の偽造団 江戸時代に早速偽金印を偽造したんだね やることが素早い
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 07:58:08.04
モデルの方も、実は偽造金印
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:02:03.32
>>270みたいな出所不明な怪情報がすべてな
九州説がどの程度のシロモノか
人々はみんな知っている
0281日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:05:14.43
>>268
>(九州説は、国際文化専門の学者さんにお話を伺いました)

古代史の専門家で、九州説を騙ってくれる人は捕まらなかったんだね

>(九州説は、中国語本場の中国人学者3名様にお話を伺いました)

一人は漢字学者、一人は中国古代史が専門で、日本の古代史には素人の華東師範大学の教授
もう一人は台湾大学発行の雑誌に邪馬台国の位置の論文を書いたことのある博士だけど教授ではない
3人の中では邪馬台国について一番詳しいけれど、日本での古い研究の紹介というレベルで
独自研究がある訳ではない
3人目の博士の論文では「不在中国?日本漫画中的起源意识与现代身份」というのがあるように
古代史プロパーの人でもない

「中国人の学者」なのは間違っていないけれど、専門でもなければ詳しくもない人に
九州説を騙らせただけ

九州説を持ち上げようとしても、こういう作りの番組にしかできないところまで
九州説は追い詰められてるんだよ
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:05:55.42
>>266
主婦に大人気の便利グッズ(土器)・木のお面・桃の種・カエルの骨で、邪馬台国女王卑弥呼は列島最先端の北部九州をも従えていたのですwww
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:06:00.08
亀井魯が其始高麗人住せり唐人町の西学問所の館長となったのと、
志賀島で金印が出たのは同じ年の同じ月の22日後
亀井魯を高く評価してその名を他の儒学者に広めたのは朝鮮通信使
村医の子の魯が福岡藩に出仕した経緯も明らかにはなっていない

胡散臭いな
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:09:46.41
>>276
>流石、中国の偽造団 江戸時代に早速偽金印を偽造したんだね やることが素早い

おいおい、こっちも言葉が足りなかったが、脳内補完もご都合主義がすぎるぞ

江戸時代の時点で、金印も蛇鈕も一つも知られていない

中国に現存する蛇鈕金印は、現代で発掘された三個しかない。
中国でも明から作られた贋作印に蛇鈕は無い、どんなものか分からなかった
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:14:04.92
>>282
まさにそういう女性ならではのキメ細やかな慈愛の精神があったからこそ、畿内ヤマト王権=邪馬台国「女」王卑弥呼が、軍事力&文明水準で圧倒していた北部九州までを政治支配できた由縁だろうなw
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:18:24.87
3世紀に畿内にヤマト王権があったとして
2世紀は縄文系弥生人が住んでたんだから突然ヤマト王権は沸いたのか?
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:19:59.80
>>281
TV番組は、一般人の印象大事。
一挙にやると大きな衝撃になるから、まずは小手調べの学者たちを登場させ、じわじわと攻めるつもりではないかな。
令和早々の番組だったことにご注目あれ・・。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:21:28.27
>>287
あったとして・・・って?
もう歴史教科書に書いてある話なんだが
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:23:38.30
>>289
「教科書に書いてあることを信じないこと  常に疑いを持って自分の目でものを見ること」
ノーベル医学・生理学賞受賞 本庶佑(京都大学特別教授)
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:24:17.88
桃の種とカエル並べてココが邪馬台国ですうなんて言われてもなあw
アホちゃう?
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:27:21.00
畿内に文字が入ったのは6世紀頃のはず。
口頭で国を管理できるわけないだろ。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:27:21.58
>>286
「鬼道をなし、よく民を惑わす」まさに木のお面、桃の種、カエルの骨は卑弥呼(日巫女)のイメージにピッタリ重なるwww
その上、主婦の便利グッズ(庄内式→布留式土器)という文明の利器を、美味しい大和米&吉備の塩と共にタダで配れば、北部九州の国々も悉く平伏し、魏帝への朝貢を手助けしてやったことだろうwww
伊都国に一大卒を置いて諸国を監視させ恐れさせるなど、たやすいことだったに違いないwwwwwwwwww
邪馬台国=ヤマトで決まりや!!wwwwww
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:31:05.59
そもそも九州にあるなら一大卒なんて置く必要無いからな
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:34:26.18
>>297
もはや畿内説の論拠は一大卒しかなくなったか…orz
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:37:52.44
今日も、邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪いプロ固定を、論破すれば、良いな。。。
0304日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 08:40:49.55
一大率というものは、何かわからなかったので、僕達の翻訳では、固有名詞と予測し、中国人の発音をそのまま採用したのだったな。。。
0306日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 08:41:43.00
>>304
一大率というものは、中国人の発音では、イダルでは、なかったのかな。。。
0307日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 08:42:51.99
>>304
他にも、一大率というものは、何か、予測した候補があったな。。。
0309日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 08:45:11.12
>>307
一人の、ダル。。。つまり、一人の大率
一人の大きな、リーダー。。。
一大国のリーダー。。。
0310日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 08:47:50.15
九州で、魏志倭人伝時代の金印が発見されたのだろうか。。。
なぜ、金印が本物か、偽物かの討論が進行しているのだろうか。。。

305日本@名無史さん2019/05/13(月) 08:41:03.85
>>303
金印は最終的に本物だと確定した。
経緯も調べてみろ。
0311日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 08:50:18.19
>>310
熊本城の地下から、魏の王から送られた、卑弥呼の金の判子が、発見されたのでは、ないのかな。。。
0312日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 08:51:59.50
大率という名の役人の肩書があったと教えてくれた、謎の人物がいたな。。。
0313日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 08:52:17.88
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。

倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。

「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:52:57.83
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:53:27.80
>>312
大率という名の役人の肩書があったと教えてくれた、謎の人物は、僕達が、魏志倭人伝を翻訳するために使用していたスレッドに、出現した人物では、なかったのかな。。。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:53:39.72
>>286
鬼道(木のお面と桃&蛙w)で歴代倭王を輩出した奴国のあった北部九州を制服し、魏帝に朝貢した239年、卑弥呼は60過ぎの老婆だったというし
そういうキメの細かい慈愛の御心を持つ弥生顔の女性と言えば、上皇后陛下・美智子さまが思い浮かぶ。
ピアニストの内田光子ものっぺりした弥生顔だし、今後女王卑弥呼の肖像画を描く時には、
纏向宮殿の縁側で両手を挙げ、神々しいばかりの木のお面、桃、蛙を傍らに置いた2人の顔を足して2で割ったようなお顔にしてほしいw
https://www.youtube.com/watch?v=yM8CFR01KwQ
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:54:00.22
普通に考えりゃ卑弥呼が天皇で一大率が首相、大倭が官公庁だろ。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:55:26.57
驚いたな。。。
大率という名の役人の肩書があったと教えてくれた、僕達が、魏志倭人伝を翻訳するために使用していたスレッドに、出現した人物が、このレベルの低いスレッドにも、出現した。。。

314日本@名無史さん2019/05/13(月) 08:52:57.83
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 08:58:26.02
やはり、倭国は、朝鮮半島を支配したので、百済にも大率を、送り込んでいたのだな。。。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:17:45.62
熊本城の地下から、魏の王から送られた、卑弥呼の金印が発見されたのだろうか。。。
なぜ、金印が本物か、偽物かの討論が進行しているのだろうか。。。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:19:56.36
>>321
漢民族は、自分たちの事物と周辺異民族の事物を(自分達漢民族にだけ判るように)文字を違えて書き分ける癖があるからな
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:21:00.60
自分の言葉を勝手に追加しちゃったインチキ訳倭人伝と根拠なき先入観「はずだ」で作ったオレ様説が最優先の九州説は、歴史教科書に書いてある通説や世間常識なんてまるで無視なんですね
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:27:48.85
確定するためには封泥を探すべきだな。
残存している確率は低いけど。
中国側で親魏倭王の封泥が見つかった場合でも、泥の成分を調べてだいたいは検討つきそだね。
もしカエルの骨は残るが殉葬者の骨は残らないという、特殊な成分の泥だったら畿内確定だなw
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:30:47.70
歴史教科書に書いてある通説というのは、「何々と考えられる」という、頭が良いか悪いかはっきりしない誰かの考えでしかなので、論理や数学的には、何も決定していないという強調でしかないな。。。
そして、世間の常識では、捏造を見抜けなかった考古学者が、頭の悪い集団だったことは当たり前だし、邪馬台国畿内説は、全然、信用されていないな。。。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:33:34.80
>>313
>女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。

ばかですか?
畿内説はその方位が間違いと主張しているのだから齟齬は無い
要するにあなたは「南」「南」と連呼してるだけだが、その論拠はもう崩れている
だって伊都国は松浦の東南に無いだろ
0330日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:36:20.90
子供らに聞くと、学校ではほとんど触れないらしいよ。
方角が間違いなら畿内、距離が間違いなら九州だそうだ。
もし興味があったら各自勉強してみてくださいと言う程度で。
現代社会でこんなの必死で勉強するような暇人は居ないわけだが。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:38:01.40
伊都国は松浦市の東南にあった可能性が、高まってきたな。。。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:39:26.37
>>331
伊万里川を船で遡ることができた地点の地下に、伊都国が埋まっているのではないのかな。。。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:39:35.79
>>313
>邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。

こういうヨタ話を平気で書くから九州説はいつまでもトンデモ説なんだよね
倭人伝では一大率は地方官として書かれていて、邪馬台国にはそれと違う四つの官名が記されているよ
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:42:32.26
>>328
末盧国に上陸したとは思えないね。
官の呼び名が記載されていないし、上陸しても芦が繁って大変そうだから。
現地へ行ってみればわかるが、今でも歩けるようなものじゃない。
つまり壱岐から見て東南が伊都国だよ。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:42:35.36
>>326
歴史や文章を研究する学部に所属するためには、殆どの学部の入部試験は、数学や論理の学問の試験は、免除されてしまっているのでは、ないのかな。。。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:46:00.56
最近の九州における硯の発見は大きい
字も書けないのに外国に使節とかありえん
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:46:50.81
>>335
そもそも考古学という学部は無い。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:47:57.80
やはり、有明海のタコやイカが必要なのでは、ないのかな。。。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:50:51.80
455>>945
>短歩があるとか言うバカがたまにいるけど、歩は一貫して複歩だ
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩・・・。

「歩」の文字の成り立ちは、
「止まる」という文字が前後に背中合わせになっている字形であり、
(複歩でもなく)歩行もしておらず、文字通りの「1足底長」である。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:52:16.38
学部の中に学科という物がある可能性が、高まってきたな。。。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:52:42.76
>>303
>偽金印にすがる九州説

これ以上は畿内説の恥さらしだからやめなさい
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:53:05.70
>>336
硯が見つかった→文字を書いていた
でも
硯が見つからない→文字が書けない
ではないから
論理の基礎を理解しようね
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:53:51.21
455>>947
何があっても一切理由をいわず
根拠なしに決め付ける
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説は、
妄想説
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:54:38.86
考古学者になるためには、学科に所属して、何か考えを発表すれば良いのでは、良いのではないのかな。。。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 09:55:12.62
>>300
>偽造団の試行錯誤がうかがえる

中国の偽造団に夢を見るなってのw
中国の偽金印は、金箔を貼ったようなものがデフォ

金と手間を掛けて、金無垢(95%)の金印を中国人が偽造するわきゃないんだよ
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 10:00:49.13
もしや日本国の遣使は国書も持たずに訪中したのだろうか?
日本には最初の遣使の記録が無いよね。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 10:05:15.75
>>345
だが、学科に所属して、歴史教科書に「何々と考えられる」という表現で、発表した者が頭が良いか悪いかはっきりしないことを、歴史教科書を作製した者に暗に指摘されるような考えを、発表してしまえば、
発表した考えが、世間の常識に合わなければ、
学科に所属して、歴史教科書に「何々と考えられる」という表現で、発表した者が頭が良いか悪いかはっきりしないことを、歴史教科書を作製した者に暗に指摘されるような考えを、発表した者は、頭が悪いな、、、
と思われてしまう可能性が、高まるので、やめた方が、良いな。。。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 10:07:45.30
>>349
歴史や文章を研究する学科に所属するためには、殆どの学科の入科試験は、数学や論理の学問の試験は、免除されてしまっているのでは、ないのかな。。。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 10:08:04.81
>>348
大和王権は600年に始めて大陸皇帝へ使いを出したの?って疑われてしまうよね
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 10:15:12.88
>>351
旧唐書で遣使が日本国に改名した理由をはぐらかしているが、そんな襲用なことは国書に書かれるはずなんだけどね。
遣使が適当に答えるような事じゃないんだし。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 10:26:54.61
>>321
自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史

自女王國以北と女王国を出発点にして書かれているので、女王国の任命で良いとおもう。
Wikiでは率は漢語系だから帯方郡の派遣かもとしているが、
それは大和中心の(太宰の師的)思考から発しているのではないか。
しかし、そもそも邪馬台国自体が、当時の帯方郡の影響下で漢文化のもとにあったので、漢字系の用語は当然であろう。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 10:35:19.76
>>334日本@名無史さん2019/05/13(月) 09:42:32.26
>>328
>末盧国に上陸したとは思えないね。
>つまり壱岐から見て東南が伊都国だよ

んじゃ、怡土へ直接上陸したのか。そうだろうな、怡土へ行くのに回り道するこたーない
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 10:47:48.39
そもそも大宰府とは天子の行政府の意味だし、大率は隣の百済では中央の高級官僚として知られている。
大宰の帥(率と意味も発音も同じ)は王に代わる最高位の行政官だったのだろう。
7世紀末に帥の語の意味や用法が変化したのだろう。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 10:50:57.64
>>346
中国の偽造団を甘く見るなってのw
魏王朝の名誉に掛けて、出来損ないの金印を授けるわきゃないんだよ
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:03:52.81
いまどき金印が偽物かどうだのと言ってるやつって纏向学でも落ちこぼれた畿内説だよな
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:06:11.50
畿内説は根拠のない妄想にふけるばかり。
桃の種やカエルの骨で喜んでいる。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:12:46.68
畿内学閥コネ縛り
自縄自縛で動きとれず。。。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:15:43.23
末盧国の方角が書いてないこと
官の記載がないこと。
陸行東南五百里は壱岐から見た伊都国。
陸行は直線距離を意味する。
到○は○に到着することを意味する。

よって末盧国は概要紹介のみで、壱岐から伊都国へ直接向かったということだ。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:16:32.17
畿内説ももちろん有ってもいいと思うけど、300年文献資料で議論して決着つかないし
やっぱ物的証拠が出るのが一番説得力があるんだよねぇ
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:23:19.59
>>364
まさにその通り、
ではあるが、畿内説を慮って物的証拠の発掘を手控えさせている九州の権威筋もいるんじゃないかと・・・
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:24:30.12
纒向は200回近く掘りまくっているけど大したものが出ない。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:27:05.15
「箸墓=3世紀中葉築造(卑弥呼の冢)」と年代繰り上げ操作するための、畿内説の論拠まとめ
考古学…主婦の便利グッズ(庄内式→布留式土器)・4棟分の柱穴・木のお面・桃の種・蛙の骨
文献学…伊都国一大率
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:27:48.16
>>367
ほんと纒向の出土品って意味分からんものばかりだよな。
徹底して邪馬台国を感じされないものばかり。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:40:02.57
455>>968
>その漢字は「歩く」という行為を示す文字で
「歩」という単位は転じて生まれたものだよ <

おそらく、文字の発生時には「1足底長」を示す文字であったが、
それで田畑や集落の長さを測るためには、「歩行」をしてしまうから、
周代の各地での使用差異が発生し、
周朝では、ほぼ「1足底長」のままであったが、
秦などの地方では、「複歩」や「6歩」のような政策的な規定を採用し、
秦の始皇帝が、「1歩=6尺」という統一命令をだしたんだろう。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:41:15.44
卑弥呼がだれなのか説明できてない時点で論外。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:44:06.99
>>266
中国人観光客の日本製圧力IH炊飯器の爆買いが話題になったが、畿内説は、何千年後かに中国から日本製圧力IH炊飯器が大量に出土するため、当時は日本が中国を支配していたと結論付けてしまうのではないかな?
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:51:13.46
前方後円墳の祭祀統一国家なん考えもバカだよな。
今の日本も一応仏教やってるが、これをチベットの属国である証拠だというのか?
いちいち頭悪いんだよ畿内説は。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 11:59:40.39
455>>973
>マジレスするのもがバカらしいが、複歩の長さは赤線から赤線まで
足跡は二つだよ <

マジレスするのもがバカらしいが、「歩」の文字は、
「前後に止まるの文字が背中合わせに逆向きになってにおり、止まる事を示している」
という事の説明が付かないんだから、「歩行していない」のであり、
「複歩」は×なんだよ。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:10:00.30
畿内説スレなのに畿内説を論じず他説にヤジを飛ばすだけの畿内説信者www
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:19:56.02
>>289
それ数年後には確実に削除されるな。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:22:05.21
>>377
またも「なんの根拠も示さずに決め付け」する
九州説は妄想説
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:23:20.22
>>372 >>373
王墓はともかく、当時の統治技術を直接示す鉄(軍事力)・硯(文字)の出土状況を敢えて無視して、年代が特定できない日用品の分布&編年から政治体制を類推するのは無理がある希ガス
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:23:36.51
>>377
もともと記載されてないよ。
「有力と言われている」と客観視した文言しか書いてない。
「あった」とは書かれてない。
不正確な内容を確定事項のように書くと教科書検定通らなくなるからね。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:23:46.00
「教科書に書いてあることを信じないこと  常に疑いを持って自分の目でものを見ること」
ノーベル医学・生理学賞受賞 本庶佑(京都大学特別教授)
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:24:20.36
>>378
2世紀には未だ縄文系弥生人が関西には居たって話からの流れだよ。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:25:29.77
>>371
>卑弥呼がだれなのか説明できてない時点で論外。

だれって、卑弥呼は卑弥呼だろ
記紀に出てくる誰かに割り当てなければならないとか
そういう先入観こそが妄想なのだよ
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:31:06.87
>>380
今後は邪馬台国=大和朝廷を臭わせる記載も消えていくだろうな。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:32:09.92
卑弥呼の指示を畿内から2カ月かけて九州まで伝えに行く使者カワイソすぎる。
途中で山賊にでも襲われたら伝言忘れるなw
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:36:22.98
>>368
それがまとめ?

ぜんぜんまとまってないなあ
内容を理解してないことが
ありありとわかるよ
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:38:19.98
>>387
おまえの脳内ファンタジーを理解する奴がおるんか?w
昼間もコテ外すなよカスw
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:41:22.68
「ヤマト王権=邪馬台国」という結論ありきでおなじみ、畿内説研究者によってすらまちまち(箸墓=卑弥呼の墓VS台与の墓論争w)の、
政治体制の統治能力を直接に示す鉄硯の出土状況を無視し、比較相対年代(新旧)でしかない日用品(庄内式→布留式土器)の編年分布を強引に拡大解釈し、
絶対年代である政治体制の類推に用いるという、およそ学問とは言い難い畿内説は、世界の考古学の反面教師というべき
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:44:58.08
>>380
「あった」とは書かれてないって?

九州説はどうしてそんな
すぐバレるウソばかり平気でつくの?


「この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
 この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。」
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:46:02.46
>>384

逆に考えるんだ。
記紀に卑弥呼が登場しないことこそ、邪馬台国が畿内と関係がない証拠なんだ。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:46:47.14
中国の史国館の資料らしいが
https://www.youtube.com/watch?v=yOYqJ9AKeL8&;t=448s

倭国は4世紀に邪馬台国が消滅して畿内まで拡大しているね。
※大画面で見ないと見づらいかも
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:47:16.58
>>391
その教科書恥ずかしいねw
何処の出版社?
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:48:04.64
いまだに、明治の寅さんこと虎次郎を守ろうとしている畿内説奴婢
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:48:55.57
>>393
中国から見ると、ずっと九州北部だけが倭国だったが、卑弥呼の死後に畿内とも交流ができたということだね。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:53:39.02
もはや畿内説が笑いを取るネタにしか思えない。
それにしてもカエルの骨は斜め上だったな。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:53:53.91
逆に考えるんだ!
両手に桃と蛙を持ち、木のお面被り女性器(°)を露出して鳥の格好で踊り狂ってるヤマトの芋姉ちゃん卑弥呼に、
歴代倭王を輩出していた奴国をはじめとする文明先進地域・北部九州の王たちが服従した理由をw
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:54:51.69
中国の学者が史書に書かれた距離は信じるなと言ってたね。
重要なのは方角だと。
膨大な史料を研究してる人たちだから、歴史を勉強する人ならこの言葉は無視出来ないね。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:55:26.19
>398 名前:日本@名無史さん 2019/05/13(月) 12:48:55.57
>>393
>中国から見ると、ずっと九州北部だけが倭国だったが、卑弥呼の死後に畿内とも交流ができたということだね。

卑弥呼の死後に、東移=東方移転(いわゆる東遷)が起こったという含みなのかな
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 12:58:48.51
>>403
後の史料には難波という地名が出でくるからそう判断したんだろうね。
魏志の時代はやはり九州北部のみと見て間違いない。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:02:08.24
>>402
>中国の学者が史書に書かれた距離は信じるなと言ってたね。
>重要なのは方角だと。

まさに畿内説一派をバッサリ唐竹割り、、、(編集したTBSも、そう思ってるってことだなww)
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:02:17.17
>>389
九州でももともとは砥石と言われてたよ。
黒い墨や朱が染み込んでいるのが謎だったけど。
しかし近年、中国で出土した硯と同じものだというのが分かったんだよ。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:03:13.80
>>403
朝鮮半島の南岸と九州北部だけが倭国ですね
魏志倭人伝では朝鮮半島の南岸が投馬国、九州北部が邪馬台国。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:10:44.85
>>406
やはり分からんものが出たら中国にしっかり確認するべきだな。
砥石と言ってたのは学者かな?
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:11:28.42
>>236
九州南部は狗奴国に比定されることが多い未開の野蛮人(熊襲・隼人)の地だから、当時の中華王朝からは倭国(北部九州)域外と見做されていたのかも
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:14:23.64
倭の範囲は少しずつ拡大した。
後漢書と比べると、奴国から先にも投馬国(宮崎)や狗奴国(熊本)などがあることが知られてくる。
しかし畿内にまで目が届くのは、4世紀以降を待たなくてはいけない。
畿内には楽浪土器が出ない。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:22:55.88
>>410
楽浪土器の出土状況は、当時の中華王朝が当時の倭列島の中で「倭国」と認識していた範囲を示していると見てもイイかな?
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:25:22.31
こうして記録を辿ると畿内説がいかに斜め上いってるかが分かるよな。
古墳の年代順の並びをみると故意に畿内の古墳だけ年代を前倒ししているのがわかる。
奈良北部の古墳より南の、しかも箸墓だけがポツンと古い位置にある。
普通に考えて渡来人は北から入植してきたはずなのに。
しかも平城京や現状と同様、北部の方が生活しやすい地勢。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:25:55.13
>>411
>>409
>熊襲が狗奴国(熊本)、隼人が投馬国(宮崎)。

熊襲は熊本には違いないが、熊本県最大の郡であった南部の球磨郡だったのだろう。
ここは記紀にいう久米族の出たところで、地元の人も、狗奴国の末裔を自認じているからネ。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:30:17.16
倭人伝のことなのに、
内藤盧羅次郎以下の畿内説の中国嫌い、ないし敵対意識がその身を誤ったってことじゃないの。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:34:40.08
>>382
>2世紀には未だ縄文系弥生人が関西には居たって話からの流れだよ。

いつもの捏造常習犯のやつだよな?
このスレではコークリ君って呼ばれてる
いろんなスレでしつこく書いて、サイエンスZEROの動画を根拠だということにしてるが、
サイエンスZEROのどの発言を歪曲して、縄文系ばっかりとデタラメ話を捏造してるんだ?
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:39:45.43
畿内の望みは大陸で製造されたとされる三角縁神獣鏡
日本の教授が真作と結論付けたけれども、出所が曖昧すぎる
発掘状況や出土場所なんか確定すれば多少の可能性はある
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:40:36.81
縄文とは、時代のことを指している可能性が、高いな。。。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:41:56.89
>>418
魏志倭人伝時代よりも、前にあった時代では、ないのかな。。。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:43:07.76
>>418
ゴッドハンドで存在が歪められてしまった時代のことなのだろうか。。。
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:45:11.61
縄文系弥生人とは、ネアンデルタールが生きていた頃、日本列島にやってきた可能性があるのでは、ないのかな。。。
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:46:37.13
縄文系弥生人とは、ネアンデルタールが生きていた頃、日本列島にやってきたブータン人の可能性が、高いな。。。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:48:56.37
倭人は、ネアンデルタールが生きていた頃、日本列島にやってきたブータン人の可能性が、高いな。。。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:51:11.65
>>423
古墳が作製されるようになった時代の日本列島には、倭人が、朝鮮半島で捕獲した人民もいたのでは、ないのかな。。。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:52:58.46
>>423
では、毛人とは何者達だろうか。。。
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:53:48.34
全国にうっすらと残る縄文時代の名残りをずっと畿内政権の痕跡と勘違いして編年してるから訳わからなくなるのかも。
3世紀の畿内から東日本はまだ色濃く縄文系文化が残っていた、と考えれば纏向編年の謎も解けそうだが。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 13:53:51.23
>>379 >>382
これで畿内説の論拠は、伊都国一大率を残して悉く論破され、ヤマト王権は邪馬台国でないことがほぼ確定してしまったわけだが、
じゃ、ヤマト王権は、神武が日向から豊後・宇佐・筑紫と豊後水道〜瀬戸内海経由で安芸・吉備と瀬戸内海経由で大和入りし、地元の豪族長脛彦を従えて成立、
崇神の代で四道将軍を派遣し、北部九州(邪馬台国)をも支配下に収めたという記紀は、概ね史実と見て良いのだろうか?
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:00:33.40
縄文系弥生人には、ネアンデルタールが生きていた頃、日本列島にやってきたブータン人の他にも、ネアンデルタールが生きていた頃、日本列島にやってきたアイヌのような、毛人と言われた者達もいた可能性があるな。。。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:03:55.57
魏志倭人伝時代には、日本列島には、
ネアンデルタールが生きていた頃、日本列島にやってきた倭人といわれるブータン人と、ネアンデルタールが生きていた頃、日本列島にやってきたアイヌのような、毛人と言われた者達と、
倭人が、朝鮮半島で捕獲した者達の子孫の3種類が、共存していたのでは、ないのかな。。。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:04:48.36
神武の出発地である筑紫の日向は福岡県のことだろうね。
何しろそこが倭国の王都なのだから。
神武の実在年代がおよそ卑弥呼の時代となるが、そうすると日向三代の王たちが卑弥呼の前の男王70〜80年に一致する可能性がある。
宮崎県が日向の国と呼ばれるようになるのは、景行天皇による命名が由来である。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:06:37.53
【筑紫の日向】

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:07:26.13
景行天皇というのは、日本武尊の父親だったのでは、ないのかな。。。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:08:44.53
>>427
神武東征の実態は、邪馬台国連合vs狗奴国の戦争が激化し(帯方郡から魏の武官・張成派遣)、
狗奴国(熊襲→熊本?)の背後にいた日向国王神武は、次に殺られるのは自分達だという存亡の危機からの必死の脱出劇だったのかも
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:15:11.25
>>434
九州説のやつらって、神話から勝手に妄想を膨らませて、史実はこうだったはずとやるよな
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:22:13.77
九州説で確定し、且つ大和とのつながりが無いとわかった場合、
畿内説用にカスタマイズされたこれまでの調査記録は、
本来の大和の歴史を探る上で大きな足かせになりそうだな。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:29:02.01
>>436
ヤマト王権の正史だからといって神話さえも鵜呑みにするなら、卑弥呼は神功皇后で確定でいいだろが
九州説のやってることは、この部分は正しい、この部分は間違ってると、自分のストーリーに合うように決めつけてるだけだ
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:29:42.43
>>401
おぎのや「峠の釜めし」の陶器みたいに、熱効率に優れた炊飯土器を、各地で実演販売したおかげジャマイカ?w
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:32:43.61
>>438
神功が出した遣使は、大和の記録から外されている1回目の遣使かもしれんぞw
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:34:29.64
卑弥呼=神功皇后の古説をもちだして、九州説を自作自演攻撃するしかない哀れな畿内説w
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:40:03.59
神宮皇后は372に存在したってのが有力になってるからなぁ
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:48:03.46
>>437
畿内説の学者は今の自分の生活を優先するのが先決で後先は考えてない。
実際、ああ言ってみたり、こう言ってみたりと行き当たりばったりw
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:53:43.76
>>438
それって、そのまんま畿内説でしょ。
しかも証拠品も無くカエルの骨を祭祀に関連付けたり。
何の確証も得られないことを平気で垂れ流す学者ばかり。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 14:54:32.02
>>441
味噌も糞も一緒くたの畿内説
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:06:44.50
九州説は
出所不明の怪情報と
根拠の出せない想像だけではないか
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:10:27.49
>>442
そもそも神功皇后の年代の前倒しも、畿内説みたいな人間がやったこと。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:11:16.82
>>444
こんな中傷しかできないんだから
九州説は畿内説に歯が立たないと
自分で宣伝してるも同じなのだよ
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:13:10.27
456>>80
>その前に、洋の東西や時代を問わず、歩測の基本は複歩だっていうのはちょっと調べれば 明白だろ? いつまで恥さらしを続けるんだ?ww
半芝も知らずに全芝を笑うようなやつばかりだから、九州説としては平常運転だがなww<


だけど、スレ主って、ホントに脳がおかしいんだろうな?。
単歩なら、成人の平均の「1足底冢」として、かなり十分な基準単位として使えるが、
複歩以上になると、ちょぼ歩きや、普通歩きや、大股の力行歩きの差異が大き過ぎて、
また、疲労などの体調での差異が大き過ぎて、基準単位になど、なり得るものでは全くない。
個人差も非常に大きいから、伊能忠敬らのように、
全員、自分の歩き方や練習を積んでおかなければならず、
そうすると、逆に、万人に通用する基準単位ではなくなってしまうもの。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:18:30.24
>>452
九州説はまた史料無視か・・・
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:18:44.34
>>416
何処が歪曲?
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:20:31.74
>>454
またウソ?

あるいは研究者の一人が言った意見を畿内説全体の判断みたいにデマ流ししてるの?

九州説はやることなすこと信用できない
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:24:51.12
478年、倭王の武が「東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國」と上表
2世紀の北部九州地域に在った倭が日本列島全体に拡大していく様子が分かる
これは同時に現代日本人の拡大拡散の記録だったのである
東征毛人とは日本列島に古くから住んでた縄文系弥生人の国々のことだった。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:25:00.17
カエルの死体と桃があれば、アルデヒドC-14という香りの墨を作製できるのでは、なかったのかな。。。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:26:31.45
東征毛人五十五國を担当したのが神武であった可能性もある。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:26:33.64
456>>102
>>倭王武の上表文であるから、主語は倭國の軍であり、倭王らだ。<

>で、目的語が西の衆夷なんだから、服は他動詞<

だから、服せしめる事が起きたのは、倭王武の祖禰の頃で、
倭王武の頃は、「服している状態だ」という上表文だ。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:28:54.49
カエルの死体で作製した膠と、何かを不完全に燃やして作製したタールに、桃で作製したアルデヒドC-14があれば、墨が作製できるという意見を発表します。。。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:28:59.79
九州説は>>380のようなウソを平然とつき

一瞬でバレると
謝るどころか
訂正もせず
>>395>>397のような中傷で繕おうとする

悪質というより、もう性悪なデマ体質だな
あなた方を誰が信用してくれると思う?
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:30:24.63
>>435

異人には残された歴史がないからな
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:33:52.78
>>458のように
デマを流し
真偽を追求かれると
中傷や罵倒で誤魔化す

それが九州説の日常だな
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:35:46.47
九州=九州北部、畿内=奈良県桜井市

・戦争の痕跡:九州○、畿内×
・冬でも暖かい:九州△、畿内×
・青い勾玉:九州○、畿内×
・鉄製の武器:九州○、畿内×
・クスノキ:九州○、畿内×
・海洋民族:九州○、畿内×
・王の金印:九州○、畿内×
・楽浪郡の土器:九州○、畿内×
・文書運用:九州○、畿内×
・邪馬台国までの行程:九州△、畿内×
・各遺跡の防御力:九州-高、畿内-無
・妄想力:九州20%、畿内99%


キリが無いな。。。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:35:52.49
堺市から歩いて暗峠を越えて桜井市まで、タコやイカの墨袋を運搬しろと依頼されたら、断った方が良いな。。。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:38:09.79
>>464
いやホンマに書いてないで?
その教科書の出版社名は?
どこの学校で採用されてる?
何種類もあるんやからちゃんと調べてみいや
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:38:53.14
北部九州で楽浪土器が出る博多湾沿岸は
冬は暖かくないね
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:39:30.75
>>463
国立の学部に所属する、僕達の、頭の良い孫の意見を受け売りしたのでは、ないのかな。。。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:40:55.23
456>>103
>>建物Bの「高い建築」の石床などが見つからないから、×

>石床とかいうモノが必要だとか言い張るなら 吉野ヶ里に楼閣とかは存在しないのだな<

「居處宮室樓觀」であれば、
王が居住する宮殿的な建築や、周りを見晴らせる高い建築」という意味であり、
重いから石床などの設備が必要であり、
吉野ヶ里は、生活するというよりは、物置きのような簡素なものが造られていたよ。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:43:58.07
中国大陸北部に比べると関東以南の日本はどこでも暖かいよ
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:45:54.90
奈良盆地は、雪が降りやすいのではないのかな。。。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:45:56.35
>>471
>いやホンマに書いてないで?

なら、その「書いてない」教科書の出版社名と出版年度を言うんだな

なぜなら自分で

>何種類もあるんやからちゃんと調べてみいや

と言ったろ
つまり
「書いてない」と断定することは
全社調べないと言えないことが解ってるだろ?

嘘つき九州説、また墓穴を掘ったな
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:49:07.32
>>478
東京書籍だよ。
関東標準じゃね?
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:49:58.40
博多湾沿岸も雪は降るよ
北風が強いから積もることは少ないけど
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:51:59.50
僕達の、頭の良い、高校生の孫娘は、歴史は選択しなかったと言っていたので、邪馬台国のことを勉強していない可能性が高いな。。。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:52:50.90
456>>112
>>不彌國の南で、ほぼ九州島以内。
>>出てくる。<

>こんなふうに全く理由を言わず 紋切型の信条だけ言い張る九州説ってもう
変な宗教で洗脳されてるのと同じ症状だね<

こんな風に、これまでに数えきれない位の「理由説明」をして来てある事を、
知らん振りして、
「全く理由も言わず」と、嘘つき騙しをして、
世間の人々を洗脳しようとする大和説者って、もう、
変なキョクウや戦争宗教のテロ集団や、
学会教育界や、右翼マスコミや、安部文部省らのしようやり方と同じだね。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:52:55.52
僕達も、奈良市民だが、熊本より雪が降るな。。。
0485日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 15:53:37.86
奈良でも華北と比べたら暖かいだろう
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:54:15.27
熊本はどうでもいい
0488日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 15:55:56.75
>>474
>吉野ヶ里は、生活するというよりは、物置きのような簡素なものが造られていたよ。

へー
じゃ、吉野ヶ里に物見櫓や楼閣があるというのは
ウソなんですか
そうですか
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 15:58:56.35
吉野ヶ里軽トラック市場の建物は他遺跡の遺物を復元しています
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:00:06.97
僕達の、頭の良い、高校生の孫娘は、歴史は選択しなかったと言っていたが、魏志倭人伝の翻訳や、邪馬台国の女王卑弥呼の城が熊本城にあったことを、僕達が教えてあげたので、良いな。。。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:02:06.21
>>479
残念だったな

「書いてない」と断定することは
全社調べないと言えないことが解ってるんだろ?
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:03:09.44
学習指導要領というものが、魏志倭人伝のことやヤマト王権のことを、どのように扱うよう、要求しているかを調べて、討論すれば、良いのではないのかな。。。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:03:14.91
連句点爺は孫くらいの女子に異常な興味をもっているので危ないな
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:04:51.24
>>491
何の根拠もなく唐突に教科書の話を持ち出したのは君じゃないのか?
まず自ら責任を持って提示しなさい。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:04:58.85
>>483
>こんな風に、これまでに数えきれない位の「理由説明」をして来てある事を、
>知らん振りして、

したという証拠は?

またも「九州説は証拠を出さない」
という実績を積み上げて自滅する九州説
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:07:28.67
>>494
そいつ畿内説かぶれの女々しいBBAだから。
真面目に相手にするような奴じゃないよ。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:08:37.03
>>494
今日も九州説が自滅して逆ギレしとる

ww
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:11:56.51
到伊都国・・・,又南,至邪馬臺国と書いてあるんだから九州が第一候補に挙がるのは当然だよな。

https://imgur.com/6LswyPf
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:15:51.68
BBAとは、何だろうか。。。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:17:06.53
到伊都國 又南至邪馬嘉國 百女國以北 其戸数道里 可得略載
って書いてある
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:20:00.00
孫たちの進路の話で、娘夫婦達の間で、BBAというもののことが、話題になっていたな。。。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:20:14.76
>>500
山川の場合

「近畿説をとれば、すでに3世紀前半には近畿から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立していたことになり、のちに成立するヤマト政権につながることになる。」

近畿説について説明してる箇所なんんだけど。

しかも大和ではなく「ヤマト」な。
大和と書くと奈良と勘違いする可能性があるからだそうだ。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:22:15.50
清水書院では
「箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。」
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:23:06.51
>>504
無知なのにやたら絡んでくる畿内説かぶれのババア(BBA)て意味だろw
たぶん若くはないなw
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:24:13.59
>>506
邪馬台国のヤの字も書いてないじゃまいかwww
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:25:11.46
驚いたな。。。
僕達の討論の相手の一人は、老婆だった可能性が高まってきた。。。

507日本@名無史さん2019/05/13(月) 16:23:06.51
>>504
無知なのにやたら絡んでくる畿内説かぶれのババア(BBA)て意味だろw
たぶん若くはないなw
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:27:34.91
>>506
>初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中する

今後これをどう解釈するか見ものだなw
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:30:46.11
その初期の前方後円墳が3世紀に那珂遺跡にも造られていると
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:30:49.77
カタカナ造語を見たら眉唾だとBBAが言ってた。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:31:51.46
>>511
建設年代の修正とか大量に起きるのかな。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:32:15.78
タイで捕まった熊本のミニスカート詐欺犯人みたいなのがBBA
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:32:51.34
前方後円墳は、筑紫の一氏族のものだったが、彼らの東への播種により広まったのではないか。
その経路は、吉備など瀬戸内ルートであった。
筑紫から吉備を経由して大和に入った人物とは誰だったのか。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:33:15.60
さて教科書屋は今後どう言い訳するんだろう。。。
畿内説ごり押し学者に擦り付ける可能性が高まってきたなw
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:33:26.27
>>514
歴史を神の手から取り戻さなくてはいけないね。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:34:39.61
那珂の前方後円墳が造られた頃に
博多で大和の庄内式の模倣生産が始まると
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:39:57.43
筑後南部の信号機あたりはまだ博多の供献土器とは関係ないと
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:42:00.00
>>514
畿内説の主張だと箸墓の輪鐙の年代が、中国より早い4世紀初頭で、半島最古の輪鐙は5世紀となってしまう。
馬はどこからか直輸入でもしたのかな?w
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:47:28.75
中国に伝来した時期と同時期の日本最古の紅花の花粉まみつかってたな。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:49:23.02
教科書ちぇりーぴっかーの畿内BBAは纏向学のバイトか?
まあ「アルバイト」とはドイツ語で正社員という意味だがw
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:52:20.08
>>431
>宮崎県が日向の国と呼ばれるようになるのは、景行天皇による命名が由来である

景行天皇と記紀編纂はどっちが早いと思う?
よって記紀が書かれた時代の日向国は宮崎ということになるな
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:53:03.94
ここのトビ主はMなんだろうな。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:58:25.56
チェリーピックしたのは九州説の>>505だな
だって違う章の話で誤魔化してるだろ
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 16:59:20.09
>>525
>畿内説は邪馬台国を意識し過ぎて年代メチャクチャになっとるなw

メチャクチャとは?
具体的にどうぞ
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:07:04.24
>>456
実際にそんな発言ないだろ
歪曲でないと言い張りたいなら、発言部分を示せばいいだけだ

今回のもおまえが捏造常習犯であることの証拠になるな
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:09:34.18
456>>165
>つまり東遷説が正しいのかもしれないw
九州説も大和説も、いつ東遷したかを一応議論しておく必要がありそうだ。
卑弥呼死後か?台与死後か?さあ、どうぞ!www<

「東遷」なんてなかった。
白村江の後で、大敗して亡国に晒られた九州倭国を、
九州倭国から別れていた別種の旧小国であった大和日本国が、
併合吸収継承した。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:15:54.63
>>505のいう
「近畿説をとれば」は「すでに3世紀前半には近畿から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立していたことになり」にかかる
これに対して、すぐあとに九州説ならば狭い範囲だと書いてある

>>391の引用は別の章からのものだね

つまり>>391の引用にまで「近畿説はをとれば」が掛かっているかのように書いて
「近畿説について説明してる箇所なんんだけど」と説明した>>505は、チェリーピックというより

明らかに嘘をついているのだがな
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:16:12.28
>>524
>景行天皇と記紀編纂はどっちが早いと思う?

そもそも日本書紀に書かれた話なんだよ。

神武が旅立った筑紫の日向では、6代前のイザナギが禊をしたことになっている。
それが筑紫の日向の小戸、現在の福岡市西部だ。
3代前のニニギは、韓国までまっすぐひらけた良いところだと筑紫の日向を評している。
これらがすべて宮崎県だとでも言うのだろうか?

そもそも宮崎県には倭王がいた証拠がなく、弥生時代の王墓は福岡県西北部に集中している。
史学的にも考古学的にも、神武は福岡県の生まれと考えられる。
神武の出身を宮崎県とするのは、畿内説と同じくらいに愚かなことだ。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:17:24.12
>>531
何の話題か知らないがこれが気になってるのかな?

縄文人と弥生人の歴史
https://www.youtube.com/watch?v=yOYqJ9AKeL8&;t=448s

倭国は4世紀に邪馬台国が消滅して畿内まで拡大しているね。
※大画面で見ないと見づらいかも
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:17:38.34
福岡県西北部すなわち博多湾沿岸が、弥生時代を通じて倭国の王都であった。
それですべては一元的に説明がつく。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:25:49.48
>>536
>それですべては一元的に説明がつく。

単純がおすきなようだねえ。
世の中、一元的に説明がつくからこの説は正しい、というわけでもない。歴史に紆余曲折はつきものだよ。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:27:52.54
邪馬台国も科学的な調査が進めば所在地は明らかになる
何時までも嘘は通じない。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:27:58.81
おやおや
九州説はウソをついて、それを誤魔化し糊塗しようと
またウソをついて、そのウソがまた暴かれてしまったのか
どんどん敗勢だね
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:29:56.24
畿内説はいつまで虚勢を張り続けるのか。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:32:33.14
>>535
いやその動画ではない
サイエンスZEROというNHKの番組を根拠だということにして、
弥生時代の近畿地方は縄文系ばっかりが住んでいたが、
古墳時代以降に渡来系が移住してきて住人が入れ替わったと言い張るやつがいるんだよ
そいつの持論ではヤマト王権は渡来人がつくった政権なんだとさ
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:34:05.37
>>534
そう日本書紀に書かれてる
神武は日向を出発し筑紫に到着してる
日向が福岡なら筑紫は何処なんだい?

宮崎に倭王が居た証拠はないが神武が倭王だったとの証拠もないだろ
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:36:19.19
4世紀早々に畿内に直輸入された馬の種類は何だったのだろう?

九州北部で発見された宝飾品で飾られた馬の骨は倭王の馬だったのではないだろうか?
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:38:31.94
456>>167
>理由は? いつも「根拠を示さないで決め付け」る九州説は 妄想説だね <

「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の投稿は、
いつも、
それまでに数え切れない位「理由」説明があった事を知らん振りして、
「理由は?」と聞いて、(その返事も待たずに)即座にその場で、
「いつも「根拠を示さないで決め付け」る」という嘘つき騙しの、
ヘイトスピーチ街宣をする、
分裂幻覚の妄想的な、・・・・詐欺師説だね。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:40:12.20
>>449
>>442
>そもそも神功皇后の年代の前倒しも、畿内説みたいな人間がやったこと。

なるほど、此れには笑ったわ。
8世紀の大和人は神功皇后を前倒し、20世紀には箸墓も前倒し、奈良時代から性悪はかわらないんだねえ、、、
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:43:03.66
>>543
弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(前半)
ttps://www.youtube.com/watch?v=lxtA9CLWZw8
弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(後半)
ttps://www.youtube.com/watch?v=H1GFzg882d8
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:45:42.62
福岡市西部の日向峠の日没側の伊都県主の祖は五十迹手は高麗から来たので
生野区鶴橋商店街の起源地と考えてもよい
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:46:19.31
どちらが正しいのかは親魏倭王の金印が見つからない限り判らない。
ハッキリしているのは、三世紀第4四半期(AD275-300)に築かれた箸墓を嚆矢とする前方後円墳体制のヤマト王権が、
歴代倭王であった奴国(博多)の北部九州を併合して、全国統一支配し飛鳥奈良時代の大和朝廷になったということだけ。
九州説は征服されているわけだから問題ないが、畿内説は、後の大和朝廷が、実在がほぼ確実な崇神より前の初期ヤマト王権(邪馬台国)の歴史だけを抹殺した理由を説明してもらわねばならない。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:49:53.88
>>551
だから、その動画のどの発言を歪曲したのかを聞いてるんだよ
歪曲でなく縄文系が住んでいたと実際に発言したと言い張りたいなら、その発言部分を示せってことだ
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:53:52.96
456>>179
>>複歩が今採用されていない理由を述べよ<

>採用されているんだけど? というか、歩測の世界標準だぞ?ww<

成人男子の1足底長の単歩であれば、個人差は、10分の1から20分の1位であるが、
複歩にした瞬間に、大股強歩の75cmからよちよち歩きの30cm位の、
2.5倍位もの差異が発生して、個人差が大きくなりすぎて、
とても距離の単位には使えた代物ではない。
伊能忠敬のように、自分だけの「1歩距離」を練習して決めてあればよいが、
万人に通用するような計測単位には全くならない。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 17:55:05.68
ところで奈良から大量に出土する須惠器って新羅由来じゃなかったですかね?

縄文人は階級制を持たなかった民族ですから、ヤマト政権の起源が渡来人であることは疑いようがないと思うが?
5世紀には馬も沢山の渡来してますしね。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:00:46.50
須恵器は煮炊きができないから土師器も使ってる
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:02:19.42
>>558
>ところで奈良から大量に出土する須惠器って新羅由来じゃなかったですかね?

じゃない
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:02:28.97
456>>193
「南も、東の間違いだ」とし、
「1歩も、始皇帝の強歩での複歩にしないと成り立たない」、
というようなインチキ大和説は、有り得ない。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:06:55.47
>>557
世界中でやってる歩測を否定する九州説


w
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:26:05.57
>>556
どう合わない?

いつも九州説は内容がない
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:26:12.10
自衛隊はかかととつま先を合わせて歩いて足の長さで測るらしいよ。
約30センチ弱?
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:30:02.51
>>553
君は気が狂ってるね。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:31:54.07
>>564
自衛隊が二投足150cmで訓練してるのは有名な話だぞ
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:33:25.19
456>>237
>北部九州の邪馬台国を、崇神率いる大和の纏向王権が本州島の勢力を結集して、吸収合併したということ?<

「南≠東」などの嘘付き騙しになるから、×だ、という事。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:35:40.23
456>>238
>その説が有力 <

「その説」も、「南≠東」などに拠って、×。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:38:21.93
神武東征の前に登美毘古(ナガスネヒコ)や邇藝速日命(ニギハヤヒ)が奈良には居た
彼らが倭王武によって「東征毛人五十五國」を討伐し将軍の子孫ではないだろうか
神武は更にのその後に奈良に入植したのではないかな。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:50:13.49
テレビでも中国学者に言われてたなあw

中国の文献に書かれている距離は信じてはいけませんよ!
重要なのは方角です!

畿内説、はい消えたw
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 18:52:15.84
ピラミッドの方角のズレ→0.057度

これ豆な
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:00:26.75
>>573
九州説ははテレビの娯楽番組だけが頼りか w
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:00:30.22
456>>240
>北部九州の邪馬台国卑弥呼と争っていた狗奴国こそが、東海北陸近畿吉備出雲を従えた卑弥弓呼(崇神)率いる大和纏向王権であり、
台与の死後ついに吸収合併して倭国が統一され、大和纏向王権の前方後円墳祭祀が九州島にもたらされたのではないかな?<

「狗奴國が大和」は。「南≠東」などに拠って×。
前方後円墳大和先行説も、那珂八幡の方が古いから、×。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:03:44.27
456>>242
>邪馬台国連合は内乱で疲弊していって消滅したんじゃないの?
有用な人材がヤマト王権に流れていっただけじゃないの?<

「邪馬台国連合」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:05:03.93
>>575
以前は畿内説ひいきしてたTBSに裏切られた畿内説涙目www

何年現実逃避しとるんや?www
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:05:15.35
距離は正確には把握しにくいけど方角は間違えにくいのよ
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:10:38.12
>>382
>2世紀には未だ縄文系弥生人が関西には居たって話からの流れだよ。

これ「コークリ君」だよね?
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:12:16.73
>>389
>木簡の破片も出てくれば別なんだが

有機物の小さいやつはなかなか残らないから
完全に水浸状態でパックされてない限り残りにくい
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:12:23.04
456>>258
九州論者と大和説信奉者を見分ける最も簡単な方法
「南→東」などの嘘付き騙しを「結論先にありき」で使った論を、
理由を言わないで書くのが、大和説
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:13:43.83
>>397
>それ桜井市立の教科書だけやろw
>見たことないわwww

教科書検定は全国一律だよ
日本のことを知らないならでしゃばらなければいいのにww
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:16:10.43
456>>262
>・・・倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。<

「南≠東」などで、スレ主は、×。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:16:30.63
>>426
>全国にうっすらと残る縄文時代の名残りをずっと畿内政権の痕跡と勘違いして編年してるから訳わからなくなるのかも。
>3世紀の畿内から東日本はまだ色濃く縄文系文化が残っていた、と考えれば纏向編年の謎も解けそうだが。

「コークリ君」も懲りないねぇww
文化的には、今現代も縄文系の文化の中にいるのに
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:23:05.65
>>445
>▲鏡は朝鮮半島で出土しないし、

日本では「三角縁」に入れてしまっているけれど、舶載鏡とされる最初期のものは「斜縁神獣鏡」
「斜縁神獣鏡」は大陸でも出土例がある

>漢文が稚拙な上、

三角縁神獣鏡は、最初期のものを除けば倭国産なのは畿内説でも認めている人が多い
ただ、きちんと編年が追えるほど、一貫した形式変化があるので、同一工房で継続的に
作られたとする人もいる

>日本国内で330枚(畿内で270枚)以上出ちゃってるから卑弥呼が貰った銅鏡百枚じゃないね

卑弥呼がもらった銅鏡100枚「だけ」じゃない、が正しい
卑弥呼がもらった鏡がなければ、三角縁神獣鏡を作る理由がない

>ヤマト王権が独自に作って各地の王に配った威信材だろう

独自に、ではなく、卑弥呼がもらった鏡だけでは足りないので、
踏み返しその他で、数を増やして、各地の首長に配ったんだよ
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:25:53.79
>>459
「2世紀の北部九州地域に在った倭が日本列島全体に拡大して」いったのなら、
『西服眾夷六十六國』って表現にはならないだろ?

日本の地理が把握できていたら、ここは九州説ではおかしいと気づかないとww
九州の西には66国は入らない
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:27:16.70
456>>282
大和説はまだ、「南→東」などの嘘付き騙しのの夢を見てるのか
もう昼だぞ
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:28:37.11
>>462
>だから、服せしめる事が起きたのは、倭王武の祖禰の頃で、
>倭王武の頃は、「服している状態だ」という上表文だ。

で、その服している状態という動詞の「服」の主語が、
ザラコク自身、「祖禰あるいは倭王武までの倭王ら」って言ってたじゃないかww

倭王様が服している状態って、ドンだけ頭が悪いと出て来るんだかww
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:29:12.48
「西に国なんてない」
これは、禁句。
それを指摘した仲哀天皇には天罰が下った。
ちなみに仲哀天皇は穴門を宮とする九州の倭王だったけどね。、
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:29:47.81
>>586
>独自に、ではなく、卑弥呼がもらった鏡だけでは足りないので、
>踏み返しその他で、数を増やして、各地の首長に配ったんだよ

配った先の植民地が畿内なんだよ。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:31:51.25
>>471
>何種類もあるんやからちゃんと調べてみいや

お前がなww

出版社名付でも何度か書いてるぞww
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の
 発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力に
 なりつつある」
『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年

「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、
 奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が
 出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:38:58.93
>>558
また「コークリ君」だww
どんな動機で、「コークリ君」なんてやってるんだろう?ww
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:40:54.27
>>564
>自衛隊はかかととつま先を合わせて歩いて足の長さで測るらしいよ。
>約30センチ弱?

比較的短距離はね
20メートルとかそれくらいには、その計り方も使う

自衛隊でも100メートル以上は、普通に複歩の歩測で測るよ
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:42:51.67
畿内説は諸説あり見たか?www
畿内脳内説がガン無視されとったなwww
中国人合わせて九州説が10億人ぐらいかwww
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:43:14.94
>>572
>倭王武を神武とみるか雄略とみるかで話がかわってくるけどね

倭王武を神武とみるのは、か〜なり純度高いトンデモさんだぞww

神武は、実在を論じるに値しないというのが通常の立場
まだ神話なんだよ
歴史時代になっていない
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:44:00.49
>>587
眾、衆とは邑中の人、民衆のこと
夷とは中国に対してへりくだった表現
西の民衆の国66国
九州近隣の国々
北は朝鮮半島の国々
東は本州の国々
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:45:21.11
>>573
>テレビでも中国学者に言われてたなあw

その人、華東師範大学の教授だから、中国の学者というところは間違ってはいないけれど、
歴史学者でもないし、魏志倭人伝に詳しいわけでもない

臧克和教授は中国语言文学系で歴史学は専門ではない
二、主要科研成果
(一)著作
《实用说文解字》(合作),上海古籍出版社,2012年。
《中国石刻》丛书(主编),南方日报出版社,2011年。
《汉魏六朝隋唐五代字形表》,(主编),南方日报出版社,2011年。
《中国异体字大系(隶书卷)》(主编),上海书画出版社,2010年。
《简帛与学术》(独著),大象出版社,2010年。
《中古汉字流变》(独著),华东师范大学,2008年。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:46:00.22
ジンム?

漫画(〜ファンタジー文庫とか、そういう類)と同じなんだよw
と言ってる人がいたでしょ
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:46:08.29
>>597
神武の物語には事実だよ
しかもそれほど昔の話ではない
神武陵もあるじゃないか。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:47:38.43
>>596
日本人でも昔から7割は九州説だからな
畿内説は関西ローカル説。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:48:25.35
>>579
>距離は正確には把握しにくいけど方角は間違えにくいのよ

その場では、ね
でもそれを記録して、記録を伝達して、史書の編纂者が取捨選択して、
史書を撰述するまでには、間違うことも普通にあるんだよ

実際、末盧国から伊都国が東南じゃないっていうのは、ザラコクと
呼子上陸バカ以外は理解してるだろ?ww
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:49:05.83
>>600
考古学を専門とする学者がいるのは日本だけと書いてあるだろ?
むかし捏造事件が発覚した時にそこを問題提起されてたんだよ。
鶴の一声になびく学会の体質とかもな。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:51:25.43
3寸75パーが、出現したので、論破してあげれば、良いな。。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:51:38.67
>>591
>配った先の植民地が畿内なんだよ。

その植民地に、溢れるほどたっぷりあって、その同笵鏡たった1枚か2枚を
後生大事に副葬している僻地の九州がなんだって?ww
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:53:13.63
松浦市と伊万里市は、末盧国と伊都国だった可能性があるな。。。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:54:27.96
>>587
自分の征服した土地を北、西、東に分けて説明してるだけだよ
朝鮮半島と日本列島の西半分くらい支配してたとすると
西とは当然九州を中心とした地域のことだろ
既に終わった事を説明してるんだからね
九州の西ってばかじゃん。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:56:10.64
>>598
>ゴルフは?

英語でも、stepで数えるときは、1stepが複歩だよ
まあ、ゴルフでの歩測は、単歩の歩数で数える人もいるけれど
不特定多数の素人衆に「何歩」と言ったときに、単歩だと思う人も少なからずいるからね
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 19:56:24.42
>>608
末盧国から伊都国は、東南に海岸沿いを歩いたのだね、、、
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:00:02.34
>>602
>神武陵もあるじゃないか。

今の神武陵は、明治時代に作った(創った?)ものだからね
一応、古墳とされるものはあったようだけれど、今のような威容ではなかった

神武陵に関しては、邪馬台国の会主宰の安本美典氏の畝傍山の北東尾根の上の
径10メートルくらいの塚という説が、割に説得力があると思う

まあ、神武が実在した、という説でもなくて、天武が壬申の乱のときに
戦勝祈願した神武陵はそこだろう、という話だけれど
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:01:20.68
>>612
呼子か名護屋浦に上陸し唐津市街地方面へ南下して
唐津市街から東へ進んで糸島市方面へ海岸沿いに進んだんですね。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:01:57.45
それとも

ファンタジア文庫?


調べてみるとわかる
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:02:11.76
>>605
>考古学を専門とする学者がいるのは日本だけと書いてあるだろ?

言い訳にもなってないぞw

臧克和教授は、歴史はまったくの門外漢
漢字の古書体の研究者だ
二、主要科研成果
(一)著作
《实用说文解字》(合作),上海古籍出版社,2012年。
《中国石刻》丛书(主编),南方日报出版社,2011年。
《汉魏六朝隋唐五代字形表》,(主编),南方日报出版社,2011年。
《中国异体字大系(隶书卷)》(主编),上海书画出版社,2010年。
《简帛与学术》(独著),大象出版社,2010年。
《中古汉字流变》(独著),华东师范大学,2008年。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:03:26.18
>>614
天武は神武陵の場所を知ってたんだよ
神武と天武の時代は極近いのさ。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:04:04.70
>>606
3寸75パーは、三角関数や、太陽の角度や、確率の思考実験での討論会で、脳の破損がバレてしまったので、次は、BBAを吊し上げてあげれば、面白いのでは、ないのかな、、、
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:04:35.78
>>609
>自分の征服した土地を北、西、東に分けて説明してるだけだよ

自分(の祖先たち)の征服した土地が、都の東西にあるという説明だよww
自分の都のある土地を、西で衆夷の国とは書かないだろww

自分の都の東側に、東と西の境界があるって、普通に考えておかしいだろw
そんな地理観で説明するやつはいないよw
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:05:36.93
キナイコシが、BBAなのでは、ないのかな、、、
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:05:46.79
>>617
専門学者なんていうのを置くと捏造の温床となるから
海外では総合的かつ客観的評価しか受け入れられないんだよ。
日本も真似るべきところだな。
地元民で纏向学なんて御法度だぜwww
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:06:16.40
正直なところ中国の学者さんは付け焼き刃で発言してるの丸わかりだったけれどね
発掘物の産地なんかきちんとしてくれると思ったが期待外れだった
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:06:56.41
>>618
>天武は神武陵の場所を知ってたんだよ
>神武と天武の時代は極近いのさ。

天武と崇神の間で4〜500年離れていて、その崇神よりも10代前に神武がいるという
史書の編纂を命じたのが天武なんですが?ww

あと、天武は箸陵にも戦勝祈願してるねw
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:07:41.03
>>620
>自分(の祖先たち)の征服した土地が、都の東西にあるという説明だよww

何処に都の東西とか書いてあるの?
それ君の妄想じゃないかw
自分の都のある土地だから衆だよ
田舎は毛人
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:08:32.48
それとも『三貴子』〜のほうが、
ファンタジア(ファンタジー)文庫なのかな?


ジンム以前の話でしょ
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:09:00.20
◆UiepmfCeDJqfは、BBA本人なのだろうか、、、
それとも、何かBBAと関係がある者なのだろうか、、
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:09:11.11
>>623
纏向学しか信用出来んという状態なんだろ?w
まさにそれが捏造を誘発する要因だw
まず騙されやすいやつを囲い込むのがペテンの基本だかなwww
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:09:19.88
>>624
それは天武が記紀を編纂する際に歴史を永く見せかけたんだよ。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:10:52.90
>>628
GGYだろよ
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:11:46.99
纏向学というのは、学部だろうか、、、
それとも、学科だろうか、、、
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:13:02.85
>>632
田舎の学芸会の可能性も、高いのでは、ないのかな、、
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:17:40.08
>>623
>正直なところ中国の学者さんは付け焼き刃で発言してるの丸わかりだったけれどね
>発掘物の産地なんかきちんとしてくれると思ったが期待外れだった

二人は華東師範大学の教授だけれど、
一人は漢字の古書体の研究者
もう一人は、歴史学者だけれど専門は大陸の六朝史
六朝は、いわゆる南朝、建康(建業)に都をおいた、
三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の六つの王朝の総称

倭国との関わりは東晋に少しあるかな?、くらい

三人目は、周徳望 Te-wang Chou博士で、博士号は持っているけれど
台湾大学の教授ではない
「相關何處?論日本邪馬台國研究中的自我認識」という論文を書いているので、
残りの二人よりは詳しいけれど、この論文中に「邪馬台国大研究」のウェブページが
引用されているところを見ても、独自研究をしている訳でもない
そして、「不在中國?日本漫畫中的起源意識與現代身份」のような、日本のマンガでの
中国の描かれ方の論文なんかも書いてる

結局、日本古代史にも邪馬台国にも詳しくない人を呼んできて、何か話してもらった、
以上のことはないってことだよ

九州説側で話をしてくれる人として、この方たちしか用意できなかったというのが、
現状だろ
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:18:49.19
中国人の発言聞いて目新しい事無かったからね
実際のところ日本の論争で自分が支持するものをチョイスしただけでしょ
中国では短里なんてのは全く存在しないというのが分かったくらい
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:20:16.34
>>629
>まず騙されやすいやつを囲い込むのがペテンの基本だかなwww

なるほど、なるほど
>>629が、その囲い込まれた騙されやすいやつの典型で、
九州説というペテンに基本に忠実に囲い込まれているんだね!w

分かりやすいww
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:21:35.60
縄文という時代から、倭人が中国の東の海上にいたという、僕達の予想が当たっていたな。。。

625日本@名無史さん2019/05/13(月) 20:06:56.90
台湾の離島で貝塚、縄文土器など発見 3000年前から人類居住か
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1557744175/
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201905110005.aspx
http://img5.cna.com.tw/Japan/Photos/JpnNews/201905/20190511202443.jpg
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:24:25.69
>>637
會稽東治之東なのでは、ないのかな、、
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:27:06.44
孫が、来た、、、
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:39:03.70
456>>329
>出雲吉備畿内北陸東海の本州島主要勢力を従えた崇神(四道将軍)率いる大和纏向王権が
北部九州の邪馬台国を吸収合併した後で、
その象徴というべき前方後円墳祭祀体制が北部九州にも波及するのである。
仮に邪馬台国=大和纏向王権とすると、邪馬台国の墓制である前方後円墳が、
支配していた同時期の北部九州(例えば伊都国平原王墓など)の墓制と
全く異なる理由が説明できない <

ダメだ。
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は唐代まで北部九州にあったのであり、
大和日本国は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であって、
九州倭國の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
大和日本国は、白村江で唐に大敗した母国の九州倭國を併合吸収継承して、
701年に、西日本の盟主になったのだから、
この投稿は、×だ。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:42:25.44
456>>332
>大和を中心とした前方後円墳が邪馬台国の倭王墓であった場合、
北部九州の国々を支配下に納めていたわけだから、・・・・<

この前提が、「南≠東」などに拠って×だ。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:47:11.60
>>427
天孫降臨の「天孫」とは(邪馬台国の魏と対立関係にあった)呉の孫権の分家が「会稽東治の東」倭に亡命してきて、神武の代で東征し、饒速日率いるヤマト王権を征服し天皇家になったということかな?
隋書600年と607年に朝貢してきた倭王「姓は阿毎(天)名は多利思比狐(たりしひこ)大王(おおきみ)と号す」で「天」「孫」氏と
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%80%9D%E6%AF%94%E5%AD%A4
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:49:02.08
456>>334
>学者さんはほぼ畿内説一色だからな <

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和説は「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つき騙し説であるから、
その「学者さん」とやらは、全員、嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師だ、っという事になる。
そして、そんな事になった原因は、
彼らの上司である学会教育界や文部省が・・・・アホ詐欺師であったからだ。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:50:59.65
孫が、初心者向けのガウス分布の本を持って来てくれたので、学習すれば、良いな。。。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:52:35.37
>>607
大事にしているのは内行花文鏡
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:54:23.34
456>>338
>3世紀までの倭列島には2つの勢力が併存していた。
大陸との交流の活発な北部九州連合と、
本州主要勢力をまとめあげた新興の前方後円墳体制のヤマト纏向王権。・・・<

この前提が、そもそも×だ。
大和は、九州倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種(倭種)の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国でしかなかった。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 20:54:45.31
>>642
>>434←妄想(九州)説によると実態はこうらしいがなw
ただ、日本では漢字に音読み(漢音)と訓読み(日本独自の大和音)があるが、後者は呉音と非常によく似ているらしいw
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:01:41.75
ソクラテスについての本も、あるな。。。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:03:09.72
プラトンは、ソクラテスの弟子だったのでは、ないのかな、、、
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:05:06.74
専門知識が、無くても、専門家を論破出来るのでは、ないのかな、、、
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:05:22.11
456>>364
>>仮に邪馬台国=大和纏向王権とすると、邪馬台国の墓制である前方後円墳が、
支配していた同時期の北部九州(例えば伊都国平原王墓など)の墓制と
全く異なる理由が説明できない <

>説明されてるだろ <

説明出来ていない。

>前方後円墳は三世紀中頃から <

卑弥呼の墓は「冢」であり、
前方後円墳は「冢」ではないから、3世紀中頃よりもずっと後であるから、×だ。

>平原一号墓は二世紀後半だと<

平原には21枚の「尚方作」鏡が副葬されていたから、
240年の明帝→卑弥呼への下賜の後であり、
錆色塗装がされているので、卑弥呼から相続した壹與の墓である可能性が非常に高いから、
これも×だ。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:08:07.99
専門知識が、無くても、専門家を論破する者は、国民から信用を得られない可能性があるな、、
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:10:57.94
>>651
それは考古学者が言っていた言葉だよ。
そもそも邪馬台国の専門家なんて居ないからと。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:11:17.33
>>647
>大和は、九州倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種(倭種)の旧小国であ>り、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国でしかなかった。

九州倭国とは九州王朝の事ですか?
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:13:43.90
畿内説はこちらに出張中

【宮崎】邪馬台国はどこにあったのか、考古学者・北郷泰道さん講演 「北部九州の範疇の中に邪馬台国の所在地は絞り込まれる」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1557737918/
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:14:05.54
日本の考古学には、真実の専門家がいない可能性が高いので、討論の作戦を知っている者が、討論には勝てるのだが、全体的な確率では、優れている日本国民から信用を得られない可能性が100パーセンテージあるな、、
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:14:20.64
空想上のクズ国のことさ
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:15:37.22
>>648
黄巾の乱(184)から始まる三国時代、呉の孫氏の分家(現・天皇家)の倭国移住(高天原へ天孫降臨)は、ほぼ同時期「倭国大乱」の隙に乗じてかな?
神武東征は、邪馬台国vs狗奴国戦争で、邪馬台国の魏帝曹叡への朝貢(援軍要請)が成功し、帯方郡の武官張政が倭に来ると聞いて、
邪馬台国の楯にと後方支援していた狗奴国の惨敗を予感してのことだったとすると、神武と卑弥呼は同時代、欠史八代を飛ばして崇神は台与と同世代といったところかな?
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:18:53.92
>>653
>専門知識が、無くても、専門家を論破する者は、国民から信用を得られない可能性があるな、、

そりゃ専門知識が無くて専門家を論破したとか、当然うそだからな
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:20:23.32
>>660
江波先生、完全否定されて可哀想だったねw
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:21:19.10
456>>357

><倭国> 倭國者,古倭奴國也。
これ↑が旧唐書
これ↓が新唐書
<倭,日本> 日本,古倭奴也。
同じ国じゃんww <

新唐書は「倭,日本」ではなく、「日本伝」だけであり、
旧唐書と唐会要が倭國伝と日本國とを書き分けていて、
その日本国伝の方に「日本國者、倭國之別種也」とし、
「或云日本舊小國、併倭國之地」としているから、
倭國も阿毎氏であり、
日本国も同じ阿毎氏であって、倭國から別れた別種の旧小国であった事になり、
「同じ国ではなく、違う国であった」事になり、
だから、この男(スレ主)は、
史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの・・・・×詐欺師だ、という事になる。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:24:34.69
>>657
やはり、観光関連や国外勢力等との、一切の柵のない、真実の専門家に、なれば良いな、、、
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:26:54.46
>>642 >>648 >>659
妄想九州説の頭には、日本古代史に謎なんてないんだなw
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:34:19.44
456>>360
>北部九州にあるのは首長墓 王墓はないよ <

北部九州にある厚葬墓群や、那珂八幡などや一貴山銚子塚などの前方後円墳は、
王墓的墓。

>那珂八幡古墳 築造時期 3世紀中葉 残念でした <

那珂八幡は、列島での前方後円墳の初元的墓であり、
卑弥呼の冢や、壹與の墓の方形周溝墳ではないから、3世紀半ば過ぎ頃である。
残念でした。
スレ主は、どうしてウソを吐かないと持論を主張できないんだろうね?。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:34:23.79
倭国って九州の事だろう。
それなら邪馬台国は九州って事じゃん。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:36:45.98
もしかすると、冷戦時代の自民党vs社会党の対立が米ソの代理戦争だったように、邪馬台国vs狗奴国の戦争は曹魏vs孫呉の倭国における代理戦争だった可能性がある。
邪馬台国連合の伊都国に一大率(帯方郡の出先機関説)がいて裏切りを防いだ曹魏vs狗奴国を背後の日向(宮崎)に分家を倭国に移住(天孫降臨)させ後方支援した孫呉。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:43:50.98
456>>369
>九州説だと卑弥呼の墓はどこ?<

日本で唯一「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たし得る墓は、祇園山古墳。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:49:23.69
>>382>>456>>551
2世紀の近畿は縄文系弥生人ばっかりだったというのは根拠のない作り話でいいな?
サイエンスZEROでそんな発言があったってのも捏造な
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:51:13.35
456>>371
スレ主は、
頭が悪くて一寸千里=長里とする。
谷本計算の意味をよく理解できず、
間違い晒しみたいにあっちこっち貼ってまわっていた。
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
・・・・アホ詐欺師の大和説者らの恥さらし。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 21:58:23.23
456>>373
>後漢書に倭國大亂 更相攻伐 歴年無主って書いてあるだろ?
東遷したんじゃなくて、王がいなくなって、何年も混乱してから新しく王を共立したんだよ
>後漢書では帯方郡ではなく楽浪郡だ
起点が異なるのに距離が同じってことは、現実の地理とは関係ない数字ってことだよ<

范曄の後漢書は、
5世紀時点での「前史などへの自己解釈に拠る書き換え」を沢山した半分×書であるから、
十分な史料批判無しには根拠にならない代物であり、
だから、史料批判をしていないスレ主は、×人間。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:00:15.57
>>620
都の東西にあるという説明なら北はどう説明するの?
朝鮮半島は関西から見たら西だろw
>>624
>あと、天武は箸陵にも戦勝祈願してるねw

是日、三輪君高市麻呂・置始連菟、當上道、戰于箸陵、大破近江軍。
この日に三輪君高市麻呂・置始連菟は上道に当たり、箸の陵で戦い、近江の軍を大いに撃破しました。

箸の陵で戦った。箸墓じゃなくて箸の陵ね。戦勝祈願じゃなくて丘での戦闘。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:00:20.33
>>670
半島でも縄文式土器は出土するから半島時代にすでに混血していた可能性もある。
さらに半島に流入してきたモンゴル系やツングース系に追い出されて日本列島に移ったと思うね。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:01:44.52
>>670
良く見ろよw
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:03:23.42
>>668
一大率が居たのは伊都国じゃなくて女王国以北の諸国だと魏志倭人伝には書かれてますよ。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:07:48.23
>>671
孫呉ではなく、呉の太伯の末裔だったはず。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:08:45.21
伊都国に置かれた大率が、伊都国から北の対馬海峡の国々を統治していたんだよ。
内務大臣みたいなものだな。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:11:56.05
プラトンは、ソクラテスの弟子だったのでは、ないのかな、、、
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:17:41.47
プラトンは、ソクラテスの弟子だったが、討論の作戦が巧妙なソクラテスに、真実を追求するための先生として、相応しいかどうかという、疑惑を持った可能性もあるな、、、
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:26:23.17
それにしても、このスレッドは、レベルが低いな、、、
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:28:32.60
>>626
>それ君の妄想じゃないかw
>自分の都のある土地だから衆だよ

「都のある土地が衆」とか、何の根拠もなく書いてるww
こういうのを妄想って言うんだよw

都の東西というのは、倭王武のいるところが都、そこが基準でその東西っていう書き方なんだよ
妄想の入る余地のない素直な読み方w
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:30:49.84
>>644
>東治と東冶で話はかわってくるけどね

変わらないよ
東治は東冶の誤記なんだからw
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:34:18.28
>>646
>大事にしているのは内行花文鏡

それ、いつの時代?
那珂八幡古墳からは三角縁神獣鏡は出てるけど、内行花文鏡は出てないよ?
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:37:37.02
>>667
>倭国って九州の事だろう

九州のみの倭国はあり得ない
其山有丹ほか矛盾多数だから無理
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:42:20.01
>>674
>都の東西にあるという説明なら北はどう説明するの?
>朝鮮半島は関西から見たら西だろw

原文読んでるか?
東征毛人五十五國
西服衆夷六十六國
渡平海北九十五國

渡った海の北だよ
倭国から海を渡ったところだから何も問題ない
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:44:04.18
>>676
動画の発言部分を示せばいいだけだろ
できないのは、嘘八百だったと白状しているのも同然
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:46:15.26
>>656 元スレより
44名無しさん@1周年2019/05/13(月) 18:17:24.43ID:mqfx65Qq0>>89>>279
伊都国が糸島だという根拠は、基本的に名前が似てるだけ
(ここが伊都国だと決めてから遺跡だの何だのをやりだした)

地図を見ると上陸地点が唐津なら、糸島は対岸に見える。唐津から歩くくらいなら、船で行けばいい。
https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E5%B1%B1%E9%96%80%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1/@33.2349162,130.3020688,75664m/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x3541b29ec3668b11:0x3eb86b9e9fcb558b!8m2!3d33.160658!4d130.46791

そもそも糸島は方角が違う。糸島は東北だが、倭人伝では
>東南へ陸行、五百里。伊都国に到る
となってる。

では東南に行くとどうなるか
地図でも、唐津から東南にちゃんと道が伸びて、たくさん人が住んでそうな平野に出る。
倭人伝と地図を見れば、常識で考えて伊都国は佐賀市やその周辺。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:47:03.54
>>690
畿内から日本海に漕ぎ出してどこに行くつもり?
畿内説の方向音痴には呆れるな。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:49:09.32
>>676
素朴な疑問なんだが、ヤマト王権を渡来人がつくった政権だということにしたいのはどういう動機から来るんだ?
捏造してまで、そんなデタラメ説をゴリ押ししたいのは、背景に何があるんだ?
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:49:47.65
456>>380
>《通典》《邊防一》《倭》唐杜佑 大暦元年(766年)〜貞元17年(801年)
「邪馬臺國,或云邪摩堆。去遼東萬二千里,在百濟、新羅東南,」
「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱。」 これが唐代の認識だよ。<

ダメだ。
通典は、唐の施政下に書かれた史書であるから、
唐政府の承認事項に反する記述が出来ない半分×書である事になり、
記紀が、半分×書であるのと同じだ。
そして、唐滅亡した直ぐ後に書かれた旧唐書や唐会要であれば、
唐政府に遠慮する必要がないから、客観性や信頼性が高くなる。
丁度、陳寿の魏志が信頼性が高い事と同じだ。
そして、通典の記載で、旧唐書や唐会要に否定されたのは、
「倭一名日本、自云國在日邊、故以爲稱」の記述であり、
これでは、
倭国は以前に日本という呼称を持った事があるは(日本とは)別の国だ、とも採れるし、
倭国は、日本と同じ国だ、とも採れる記載だ。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:50:47.98
>>674
>箸の陵で戦った。箸墓じゃなくて箸の陵ね。戦勝祈願じゃなくて丘での戦闘。

ああ、ごめん
戦勝祈願じゃなかったね

陵墓というのは、「天皇の陵」と天皇以外の「皇族の墓」をあわせた言い方
陵と言えば天皇の陵(みささぎ)をいう

箸陵という記述は、箸中山古墳の被葬者が大王と考えられていたためってのがよく言われることだ
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:52:52.20
456>>381
>>八咫鏡の周辺伝承が九州にはまったくない<

>嘘をつくな。
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝が八咫鏡と記録されている。
記紀では、アマテラスが八咫の鏡を孫に与えて筑紫に旅立たせた時に宗像氏族が守護を担当したので、非常に縁があることになる。
日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されている。<

成程。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:53:19.33
>>677
>一大率が居たのは伊都国じゃなくて女王国以北の諸国だと魏志倭人伝には書かれてますよ。

常治伊都國とも書かれているね!
この治は、治所の意味とされている

一大率が常駐している治所が伊都国にあるんだよ
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:55:02.57
>>692
>倭人伝と地図を見れば、常識で考えて伊都国は佐賀市やその周辺。

そこには国も弥生王墓もない
伊都国が三雲遺跡群のある糸島平野というのは動かない
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:56:40.50
456>>384
>>後漢書では帯方郡ではなく楽浪郡だ<

>それは承知の上。
後漢代にはまだ帯方郡が成立していなく、後に分離して成立した。
つまり帯方郡からの郡使による倭国の調査など、漢代にはあり得ないし記録もない。<

成程。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 22:58:47.40
ちなみに倭国大乱の原因は完全に年代が合ってるのでタウポ大噴火でほぼ間違いない

181年 タウポ大噴火
181年  『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。
184年 黄巾の乱
181〜184年頃 倭国大乱
184年頃 卑弥呼が女王になった

※黄巾の乱のスローガン「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」は
噴煙によって青い空が死んで、空が黄色くなったことを意味している。
黄巾の乱が黄色をイメージカラーにしてるのも噴煙によって天が黄色になったから
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:00:38.65
>>687
>東治説のが多そうだけど

どの辺で?
お知り合いは、古田史学の会の人ばかりなのかな?w

三国志の中で東冶という記述が5ヶ所ある
その場所が倭人伝の会稽東治の場所として問題ない
というか先の5件中2ヶ所は会稽東冶そのままだ

東冶ではない会稽東治という地名をわざわざ探す意味はない
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:02:00.31
>>692
通説通りに伊都国は糸島市周辺で良いんだよ
倭人伝は方角が間違っていて、末蘆国から伊都国へは
東南ではなく東北が正しい
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:03:10.40
>>693
>畿内から日本海に漕ぎ出してどこに行くつもり?

また捏造しているww

倭王武の上奏文なんだから、倭国から漕ぎ出すんだよ
倭国の海北だ
何も問題ないww
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:10:07.20
>>704
>倭人伝は方角が間違っていて、末蘆国から伊都国へは

これに関しては、ちょっと違う説を支持している
末盧国が唐津平野、伊都国が三雲遺跡群のある糸島平野というのは正しい

そして東南陸行も正しい
ただし、目的地が伊都国ではない

つまり倭人伝は末盧国からの行き先が間違っているという考え方

末盧国に上陸するのは、松浦川沿いに佐賀方面に抜ける経路をとるのでなければ合理性がない

まあ、それが伊都国に到る経路として書かれている時点で、倭人伝はいい加減ってことだけど
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:10:29.28
456>>387
>帯方郡は、公孫康の206〜210年ころに楽浪郡から分離独立された。当時はまだ後漢の時代だった。
魏になったのは220年で、その間の10数年は後漢の時代であった。<

後漢代の殆どは、帯方郡はなかった事になるし、
卑弥呼の即位も、20歳位で即位した、とすれば、220〜225年頃の即位だから、
范曄も、魏志を誤読した書き方をしていた事になる。
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:10:33.06
倭の五王は畿内ヤマト王権の大王たちだな
そして倭王武は雄略天皇(ワカタケル大王)で問題ない
まあ倭の五王の祖先である応神天皇は北九州から
畿内に東征しているけど
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:19:07.11
筑紫倭国が畿内を征服したのは倭王たる応神天皇の事績か。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:19:46.69
>>705
意味不明
畿内説は論理が破綻しまくっているな
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:25:21.94
>>706
魏志倭人伝では行程説明と地理説明がごちゃ混ぜになってるんじゃないかな
玄界灘沿岸にある3つの国を列挙しただけだと思う

同様のことが投馬国と邪馬台国の説明でも起きていると考えてる
倭国の中でとくに大きな国の地理説明として、投馬国から先に記述してる
でも邪馬台国へ行く実際の航路は瀬戸内海ルート
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:26:13.99
456>>397
>質問です。北部九州説の伊都国は現在の何処だと推測するの?<

伊都国の地は、風土記と書紀に拠って「怡土」郡の地であり、
「皆臨津搜露」が出来る場所であるから、海岸に面している地である可能性が非常に高く、
前原〜糸島水道付近説です。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:33:22.96
>>656 関連
976名無しさん@1周年2019/05/13(月) 21:41:14.78ID:voP9lZ6Z0>>983>>987
>>964
>伊都国のあった(という)糸島、奴国のあった(という)博多は発掘が進んでる
>畿内説に結びつくものは出るが、九州説に結びつくものは皆無
>これだけ発掘してるのに皆無なんだよ

そうだろな、倭人伝の方角距離通りに進めば、伊都国は肥前の佐賀市北部、奴国も佐賀市南部だ。
筑紫の福岡県は別勢力。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:35:19.70
倭の王都は筑紫の日向
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:37:45.47
コマビトと福岡は関係ない
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:41:47.89
>>712 名前:日本@名無史さん 2019/05/13(月) 23:26:13.99
>>質問です。北部九州説の伊都国は現在の何処だと推測するの?<

>伊都国の地は、風土記と書紀に拠って「怡土」郡の地であり、、、、

神功皇后記を繰り上げ創作した風土記と書紀に拠って・・、なんてそりゃ畿内説と同根だな。
ついに怡土説の底の浅さを白状したのではないかな。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:50:17.42
456>>407
>一寸が約2.3cmとして 1尺=10寸なら23cm 1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある 影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので 周の1尺は20cm弱
谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので 夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる・・・<

スレ主は、何度も書いて上げたのに、相変わらず何にも分かっていないアホだね。
谷本計算は、影端での太陽仰角の差に拠って、
地球表面でのその仰角になる地点間距離を計算されたんだから、
太陽仰角が必要であったのであり、尺寸法なんて関係がないの。
例えば、尺寸法が8寸から10寸の25%増しになったんなら、
8尺棒の寸法も25%増しになっており、
その(大地上の)影冢も25%増しになるだけであり、
だから同じ相似三角形になってしまって、仰角は変わらず一定なのであり、
だから、谷本計算の結果は変わらないの。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:52:21.27
>>706
>末盧国に上陸するのは、松浦川沿いに佐賀方面に抜ける経路をとるのでなければ合理性がない
>まあ、それが伊都国に到る経路として書かれている時点で、倭人伝はいい加減ってことだけど

おいおい、倭人伝がいい加減だったといってしまっちゃ、君はおしめえだよ。
そんなこと言わずに、君も認める「合理性」のある選択をしたらどうかな。それが学問だよ。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:54:38.68
>>710
>意味不明
>畿内説は論理が破綻しまくっているな

お前の知的能力が劣ってるから分からないだけだよww
倭王の上奏文で海北と書いてあれば、倭国から見て海北だろ?

九州からとか畿内からとか起点を限定するのがバカの所行
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:58:36.84
>>695
>ダメだ。

これは唐代の貴重な資料。
そんな忖度があればとっくの昔に史料批判されている。
漢文の読めないお前如きの出番など無いよ。

もし忖度があるなら、関係者が多数、存命中の方が忖度が働くだろ。
まさに陳寿《魏志》に当てはまってしまうな。

「ぼくの考えたルール」で「半分×書」なんてものを作り出そうとしても、結局ダブスタになってしまうんだよ。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/13(月) 23:59:33.68
>>711
>魏志倭人伝では行程説明と地理説明がごちゃ混ぜになってるんじゃないかな
>玄界灘沿岸にある3つの国を列挙しただけだと思う

これは同意

>同様のことが投馬国と邪馬台国の説明でも起きていると考えてる
>倭国の中でとくに大きな国の地理説明として、投馬国から先に記述してる
>でも邪馬台国へ行く実際の航路は瀬戸内海ルート

これは同意しない
日本海航路が日本海側の広域交流の基礎なのは確かだし、
記紀における丹波の地位の高さから見ても
大和から丹波経由の出雲への往還路が存在したと考えられる

魏使が、北部九州から出雲まで来て、そこから出雲−丹波−大和の往還路を使ったと考えれば
水行、陸行の記述が自然に読める
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:02:53.95
>>718
>おいおい、倭人伝がいい加減だったといってしまっちゃ、君はおしめえだよ。
>そんなこと言わずに、君も認める「合理性」のある選択をしたらどうかな。それが学問だよ。

合理的な考察の結果が「倭人伝の記述はいい加減」という結論なんだが?

本当に九州説の連中は論理的思考能力が欠けている
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:07:19.69
>>719
都合よく起点がコロコロ変わるのか。
畿内説の御都合主義が炸裂しているな。
だから畿内説は世間から信用されない。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:09:31.69
>>722
邪馬台国は無かった説ですか
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:10:35.05
>>722
邪馬台国は無かった説ですか
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:10:57.20
>>721
大和まで日本海経由?
地理感覚がないバカ
まあ、そもそも日本海の視点から見たら奈良なんて田舎すぎてクソ
地図を逆さまにして見てみればいい
筑紫が半島大陸に近い大都会で、日本海に交通の大動脈があり、出雲や越が並ぶ
瀬戸内淀川水系がカウンター勢力になり得ても、奈良盆地は内陸すぎて暗黒大陸の僻地だ
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:15:27.94
>>699
>そこには国も弥生王墓もない
>伊都国が三雲遺跡群のある糸島平野というのは動かない

「そこには国も弥生王墓もない」・・というのはいいすぎだな。
「ない」ということが証明されたわけではない。
ただ、未発掘であったり、消滅したり、気付かなかったりで、未発見の可能性が大なのだ。
実際に、伝説の河上の地には百済系の廃寺跡を中心に、大規模な遺構らしきが認められる。
大和肥前国庁のその前の古〜い国府(オキ)があったと推定されているところだ。
ただ現在のところ、
佐賀県の取り組みは開発対応の小規模発掘中心で、誰もそんな大規模なものが存在するとは考えていないそうだ。
高島先生には、ぜひ大活躍していただきたいところ。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:17:10.28
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:21:55.75
>>723
>都合よく起点がコロコロ変わるのか。

そこがお前の知的能力の限界だww
倭国内のことは倭王の御座所、都が基準でその東西なのが当然

海北は倭国の外だから、倭国から見て海北になる

日本人ならこの程度の論理は普通に分かるんだがな?ww
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:22:04.67
>>722
キミは、統合思考力の破綻症だね。
いわゆる三歩歩けば、前のことはケロリ忘れてるニワトリ頭。。。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:23:10.78
肥国が見えた時点で飛ばしてよい
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:23:23.99
陳教授は九州説だったな

>倭人伝は部分部分で矛盾しています・・一人の人物が書いたものではない
倭人伝の整合性のなさが端的なのは
・・不弥国まではキョリで記述されてるが、突然、日数に変る
このことから異なる時代から融合した可能性が高い 正確性よりわかった情報を寄せ集めて書いたのが倭人伝であると陳教授は言う
(・・私見 不弥国まではキョリ 投馬国や邪馬台国は群からの日数?) <

また周教授の九州説

>中国の史書は他国についてのキョリは曖昧より方位が大事であり、「会稽東治は揚子江の河口」<
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:24:11.78
>>722
>邪馬台国は無かった説ですか

倭人伝の記述はいい加減 というのと
倭人伝には何一つ有用な情報はない というのは同値ではない

この辺が九州説の挙げ足取りの能力の足りないところww
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:25:48.57
>>1

5ちゃんの運営には長けているが

邪馬台国論争には不向きだなww
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:31:49.01
>>727
>未発見の可能性が大なのだ。

見つかったら話をしにおいでww

>実際に、伝説の河上の地には百済系の廃寺跡を中心に、大規模な遺構らしきが認められる。

伝説ってそれ畿内に史書にしか書いてないやつやんww
それに廃寺跡って時点で時代が新しすぎ

川上というか大和町には肥前国庁跡もあるし遺跡もあるけど、時代が合わないんだよ
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:35:40.61
>>731
>キミは、統合思考力の破綻症だね。
>いわゆる三歩歩けば、前のことはケロリ忘れてるニワトリ頭。。。

ほら、根拠を挙げることも論拠を示すことも放棄して、汚い言葉を並べるだけになるww

九州説に典型的な無能だなww

反論するなら一つ一つ具体的に理由・根拠を付けて論じなさい
議論する気があるなら相手はするよw

ただ、お前さんは能力不足だから、バカにされまくることにしかならんがなww
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:38:17.16
>>733
>陳教授は九州説だったな

陳教授は、邪馬台国のことなんてまともに考えたこともないよ

陈长?教授は華東師範大学の历史文化学院の教授で、とりあえず歴史学が専門だけど
あくまで専門は古代中国史・六朝史だ
论著目录
1)陈长?:《六朝政治》,南京出版社,2010年
2)陈长?:《中国古代国家与政治》,文物出版社,2002年
3)陈长?主编:《中国政治制度史》,高等教育出版社,2001年
4)陈长?:《战国秦汉六朝史研究》,广东人民出版社,1997年
5)陈长?:《两晋南朝政治史稿》,河南大学出版社,1992年
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:41:42.95
>>730
海北も倭王の御座所からでないとダメだろ
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 00:43:37.61
>>736
便宜上、寺ということにしてあるだけで、実際は熊襲梟師の屋敷だろ。
まあ、古くて4世紀に
だから、卑弥呼には届かない。
だからこそ壹與の王都だと何度も
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 01:06:22.59
廃寺跡というのは全国にあるが、廃されてることをいいことに
作り話をするのは佐賀県民くらいだろう
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 02:56:32.47
>>739
>海北も倭王の御座所からでないとダメだろ

そんなことは史料に書いてないからな
つまりその主張は妄想だ

上表文にあるのは
「渡平海北九十五国」
ということは「倭王の御座所」とやらが東京だろうが埼玉だろうが
対馬から海の北に渡って半島南部に侵攻することは変わらない
上表した倭王の都が畿内にあることに何の支障もない
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 03:01:58.52
そして、このことは逆から見て
倭国の九州に行くのも畿内に行くのも
最初は韓の伽耶(狗邪韓)から南に渡海することと同じなのだ
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 04:54:25.72
>>1

5ちゃんの運営には長けているが

邪馬台国論争には不向きだなww
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 05:01:33.38
このように
九州説は毎日かんたんに論破され
腹いせのための悪口しか言えなくなるのだった
0747教えて
垢版 |
2019/05/14(火) 05:42:16.70
1其山有「丹」・・・・その山には丹有り

2以朱「丹」塗其身體・・・・赤い顔料をその体に塗る





1と2の「丹」は同じ物質とみていいですか
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 06:05:38.65
456>>422
>福岡のが偽物だとすると
本物は畿内の古墳のどこかに眠ってるという事でしょうなあ<

「南≠東」などに拠って、×。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 06:12:22.37
>>739
>海北も倭王の御座所からでないとダメだろ

それは、倭王の御座所が海に面してないとダメっていうトンデモ理論じゃんww
根拠なしの勝手な決めつけは無意味だよ

九州説は妄想説
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 06:27:26.64
456>>456
>それなら金印は畿内で見つかった可能性が高いな
まあ福岡で見つかったとしても邪馬台国がそこにあった根拠にはならんけれど <

畿内も邪馬台国も存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 06:38:30.26
>>740
>便宜上、寺ということにしてあるだけで、実際は熊襲梟師の屋敷だろ。

根拠なしの決めつけは妄想だって何度教えられれば気が済むんだ?
寺とされているのには理由があるんだよ

そして寺と判断される遺構が4世紀に遡るというのはデタラメすぎ

>だからこそ壹與の王都だと何度も

なぜ、卑弥呼の宗女が卑弥呼と縁の無いところに都を置くんだ?
九州説の好きな言い方だと、「遷都したとはどこにも書いてない」ぞww
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 06:41:22.10
>>659 
>>668
>>671
↑妄想九州説は神話と学問の区別がつかないようだw
そのうち、特殊器台で結ばれた、朝鮮半島からの青銅・鉄柵輸入販売で力を付けた出雲(スサノオ・大国主)の四隅墳丘墓体制と
瀬戸内海の塩・桃の販売で力をつけた吉備の双方中円墳体制(楯築・宮山)。
両王家の血を弾く大物主がヤマト王権(前方後円墳体制)を建て、饒速日の代で神武東征に遭い、
物部氏として臣下に下ったとか言い出しそうなので、先手を打って防いどくw
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 06:43:24.92
456>>483
>そこだけは違うな
魏志倭人伝の記述に照らし合わせれば九州北部は通過する事になるし
そもそも女王国の場所は会稽東冶の東で沖縄や台湾の辺りと書いてある<

そこだけは違うな。
魏志倭人伝の記述に照らし合わせれば九州北部になるし
そもそも女王国の場所は会稽東治の東で九州島の辺りと書いてあるから、
この大和説男は、・・・・アホ詐欺師だな。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 06:51:20.19
>>743

根拠のない詭弁
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 06:51:50.68
456>>486
>谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる<

谷本計算は、南北千里地点での「太陽仰角」の差異に拠って、
千里のkm数を計算されただけだから、
1尺が何センチなのか?、という事には関係はないから、
このスレ主もも・・・・アホ詐欺師。

>↑のコピペを、何故貼らなくなってしまったのだろうか<

・・・・アホ詐欺師である事が衆知されたから。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 06:55:13.70
BS放送後の潮目に、いささかの変化を感じる
畿内は石原プロや獏の夢枕で芸能人登場、九州は学者の森・・
改元令和と共に、マスコミ含めて九州説の流れになったのかも・・・
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 06:58:17.24
>>754
なんで人並みに反論が出来ないんだ九州説
それは人並みの知性が無いからか?
根拠なら史料が示されてるだろ?
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:01:53.85
根拠は持っておりませんが、わたくし巨根なら持っております(九州男児)
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:02:23.69
456>>489
>おそらく八咫鏡は奈良盆地、唐古鍵近くの鏡作神社の奉祭氏族が弥生末期に作った物だろう<

それ、何の史料事実根拠がないから、「南→東」などの嘘吐き騙しと同じく、
分裂幻覚の妄想の・・・・アホ詐欺にしかならないよ。

>でなければ、和歌山の日前神宮・國懸神宮に、八咫鏡の試作鏡、日像鏡と日矛鏡がご神体として
存在することが説明できない <

和歌山は、紀伊だから、
「紀氏=姫氏」と「伊氏=阿毎氏」という九州倭国の王家の、
合同の東征植民地であったんだろう、
という史料実態からの帰納的推論が出来る。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:02:59.22
>>757
結局、根拠とは「発掘物限定」のことのようだな、考古学者マンセー!!
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:03:01.08
>>743
>ということは「倭王の御座所」とやらが東京だろうが埼玉だろうが
>対馬から海の北に渡って半島南部に侵攻することは変わらない
>上表した倭王の都が畿内にあることに何の支障もない

この論理だと、邪馬台国がどこでもいいことになる。
畿内説は常にこのような詭弁を積み上げている。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:04:31.24
>>751
>なぜ、卑弥呼の宗女が卑弥呼と縁の無いところに都を置くんだ?

逆に考えるんだ。
卑弥呼は肥国に縁があったんだ。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:06:13.15
塩はともかく、桃は当時は流通に向かないだろ。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:08:13.93
>>765
種の販売だよw どこかからカエルの骨とともに大量に出てきたでせう?w
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:16:57.58
卑弥呼が祭りに使ったのでは?
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:17:36.11
>>757
佐賀川上のいわゆる廃寺跡というのは、大宰府を取り巻く大野城・基ゐ城と同時期に建設された百済系の建物のこと。
その前は、古国府(乎城=塁砦・・・伝熊襲タケルの砦)だったのではと想定されている貴重な遺構だ。

倭人伝の記述に従えば、唐津平野から東南500里は佐賀平野とすると、確かに高度な合理性を認められる。
佐賀平野にはまだまだ多くの古代遺跡を想定できる(ただおしむらくは未調査なだけ)
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:20:02.03
>>752
古代史の謎をあっさり解決w 墓穴を掘った畿内説www
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:22:52.62
桃で祭り
桃を販売
桃の種を販売

話がコロコロかわる
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:24:31.86
熊襲タケル(川上タケル)は4世紀の話だから、川上地区の遺構の年代が4世紀ということ。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:38:31.25
>>752
>>642だけど、おお凄い!補足サンクス!
つまり何のことはない、魏志倭人伝(曹魏&邪馬台国)と記紀(天孫降臨&神武東征)は同時代の倭国中枢(北部九州)と周辺地域(南九州&四国&本州・ヤマト)の歴史書で、
相互に対照補正すれば、古代史の謎は簡単に解けるということだね。
出雲と吉備の混血王・大物主陵は三輪山頂、ホケノ山は饒速日陵、箸墓は神武陵、に比定できるかな?
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:42:52.11
>>771
正確に言えば、「4世紀の遺構もある・・」、ということではないか。
4世紀以降限定で、その前に何もなかったと断言はできない。
末盧国の東南陸行500里と言えば川上地区にならざるを得ない。
イトの地名は残っていないものの、川上の地名は、後世の好字令の残映かもしれないではないか。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:49:39.29
>>763
>この論理だと、邪馬台国がどこでもいいことになる。

情報量って言葉、知ってるか?
渡平海北九十五國からは、倭王武の王都が日本列島上にある、というところまで分かるし、
東征毛人五十五國西服衆夷六十六國からは、列島中央部にあることが分かる訳だ

あくまで倭王武の王都についてだが、卑弥呼のときから倭国の政体が変わっていると
考える理由もないので、列島中央部に邪馬台国もあったと考えるのが、倭王武の上表文から
想定されることだ

>畿内説は常にこのような詭弁を積み上げている。

いろんなことをごっちゃにしてでたらめなことを言い、その中から都合のいいことだけ
チェリーピッキングするのが九州説のデフォww
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:50:10.35
卑弥呼は肥国の出身だったが、墓は伊都国
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:51:01.63
>>774
>いろんなことをごっちゃにしてでたらめなことを言い、その中から都合のいいことだけ
>チェリーピッキングするのが九州説のデフォww

悪人は、相手も自分と同じだと思い込むんだよ。
これはブーメランだね。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:52:53.65
>>772
何のことはない、
記紀に留められているのは、渡来人同士の出入り抗争事件と、その手打ち式いうことかいな、、、
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:53:49.60
>>756
>九州は学者の森・・

専門外の人をいくら連れてきてもしょうがないって!
アインシュタインに邪馬台国のことを聞いても無意味だろ?

九州説は日本sageのパヨクのおもちゃと化してるってことだろ?
BS-TBSが普段どんな番組を垂れ流してるか見てごらんな
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:53:51.01
>>756
>九州は学者の森・・

専門外の人をいくら連れてきてもしょうがないって!
アインシュタインに邪馬台国のことを聞いても無意味だろ?

九州説は日本sageのパヨクのおもちゃと化してるってことだろ?
BS-TBSが普段どんな番組を垂れ流してるか見てごらんな
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:57:01.27
まあ日本列島土着(先着)の縄文人の狩猟採集じゃ、中国大陸文明のおこぼれにも預かれず、寒冷期で餓死していたろうからな
中国大陸王朝とコネクション(渡来人)なしで稲作技術、金属精製技術は得られなかったろうし…
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:57:25.61
>>764
>卑弥呼は肥国に縁があったんだ。

ならなぜ肥国が邪馬台国だって主張しないんだ?
本拠地から王だけ移動するってのは無理だぞww
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 07:58:33.59
BS-TBSは、畿内説にとっては目の上の丹こぶだろうな、間違いございませんww
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:00:44.72
>>766
>種の販売だよw

果肉が付いた状態で出土してるから、却下
九州説は調べもせずに適当な思いつきを書くだけ

本当に知的能力が低い
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:01:13.20
3寸75パーは、上向きになっても、3寸の可能性があるな。。。

760日本@名無史さん2019/05/14(火) 07:01:53.85
根拠は持っておりませんが、わたくし巨根なら持っております(九州男児)
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:05:16.40
カエルの死体で作製した膠と、何かを不完全に燃やして作製したタールに、桃で作製したアルデヒドC-14があれば、香りの良い墨が作製できるという真実は、纏向学にどのような衝撃を与えるのだろうか。。。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:06:35.00
>>768
>ただおしむらくは未調査なだけ

出てから言えって言ってるだろ?
それに佐賀は、長崎自動車道の建設に伴いかなり発掘されてるぞww

でも、大きな国があるとは誰も思っていない
妄想癖のある人以外はなw
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:07:39.88
>>785
香りの良い墨があっても、文章を作成するには、平たい物体や筆や硯が要るな。。。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:08:27.41
>>775
>卑弥呼は肥国の出身だったが、墓は伊都国

出身と違うところに墓を作る理由がない
デタラメすぎ
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:11:17.80
>>776
>悪人は、相手も自分と同じだと思い込むんだよ。
>これはブーメランだね。

分が悪くなると、どっちもどっち論に逃げるww

畿内説は多くの情報の整合性の取れる総合説
九州説は確認の取れない神話や思いつきを根拠にしたデタラメ説

頭の悪(い)人はお前だけだよw
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:14:15.05
>>266
たしかに
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:17:19.72
>>788
歴代倭王の墓は伊都に作ることになっていたんだろう。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:18:31.89
>>789
>畿内説は多くの情報の整合性の取れる総合説

カエルの骨、桃の種
そんなものを積み上げても総合的とは言えない
肝心の魏志倭人伝を無視しているからナンセンス
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:23:21.23
>>401
アーメン✟
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:26:05.88
>>776
>>774の本論の部分には一言も反論できないんだなwwwww

「情報量って言葉、知ってるか?
 渡平海北九十五國からは、倭王武の王都が日本列島上にある、というところまで分かるし、
 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國からは、列島中央部にあることが分かる訳だ

 あくまで倭王武の王都についてだが、卑弥呼のときから倭国の政体が変わっていると
 考える理由もないので、列島中央部に邪馬台国もあったと考えるのが、倭王武の上表文から
 想定されることだ 」
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:28:06.04
歴史を語るとは、どういうことなのだろうか。。。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:29:21.40
考古学が、本当は、歴史とは関係が無い可能性が、高まってきたな。。。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:31:30.03
456>>493
>つまり、単に魏志倭人伝を引き写しにしただけで、
「距離が変わってないから都が変わらない」という論は根拠を失う訳だ<


詔書と親魏倭王印と大量の下賜品を卑弥呼に届けなければならない魏使は、
洛陽出発から魏の役人たちが運搬を担当し、
両郡の役人らも道案内に当然同行するんだろうから、
郡役人たちは、当然、伊都国までは行っていた筈の漢代の記録も、
見ておいていた筈。
九州説は自説というか自分の書き込みの中だけでも、論理がないからすぐに矛盾するww
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:35:00.39
>>798の訂正
詔書と親魏倭王印と大量の下賜品を卑弥呼に届けなければならない魏使は、
洛陽出発から魏の役人たちが運搬を担当し、
両郡の役人らも道案内に当然同行するんだろうから、
郡役人たちは、当然、伊都国までは行っていた筈の漢代の記録も、
見ておいていた筈。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、論理や常識や頭がないから、
自説というか自分の書き込みの中だけでも、すぐに矛盾する。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:36:41.37
>>798
優れたリチャード・ファインマン氏は、、、土器の考古学は土器専門の歴史学者が土器について知る役に立つ程度にしか、歴史学全体の役に立たない、、、という意見と、等価の意見を発表した可能性が、あるな。。。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:36:57.02
>>798
畿内説だというのに、なかなか九州説に詳しいではないか。感心した。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:38:01.08
456>>495
>>金印は江戸時代の偽物<

>あれは真物だよ
でなければ駝鈕の首を落として蛇鈕に作り替えるなんていう状況は説明不能になる<

ふーん、成程。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:38:39.09
優れたザラコク氏の、突然の出現に惑わされて、800番の意見の宛先を、間違えてしまったのでは、ないのかな。。。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:38:40.18
>>772
古代史まとめ

−倭国中枢(北部九州)…魏志倭人伝
曹魏&邪馬台国VS孫呉&狗奴国(後背地・宮崎へ天「孫」降臨で後方支援)
→張政派遣→神武東征(逃走)狗奴国滅亡→邪馬台国勝利するも、台与の代で断絶→崇神四道将軍に降伏、ヤマト王権の配下へ

−辺境地域(本州/出雲・吉備・大和)…記紀
出雲&吉備連合の大物主が唐古鍵を征服、ヤマト王権樹立
→饒速日(神武東征)→物部氏として臣下に→崇神、四道将軍を派遣し、邪馬台国を併合、全国統一
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:39:26.50
18:00〜 核DNA解析 国立科学博物館 篠田謙一先生の解説
24:00〜 弥生時代後期 東北のほうに住んでいた人 遺伝子から見れば完全に縄文人
九州の離島にはまだ縄文人と同じ顔つきの人が住んでいる

動画 サイエンスZERO 日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zpgpj

26:00〜 現代日本人の核DNA解析
当初予想された現代日本人の位置
縄文人≒岩手弥生人(本州弥生人)ーーーーーー長崎弥生人ーーー《現代日本人》ーーー福岡弥生人ーーー韓国人

しかし予想に反して現代日本人の位置はここだった!
縄文人≒岩手弥生人(本州弥生人)ーーーーーー長崎弥生人ーーーーー《現代日本人》≒福岡弥生人ーーー韓国人

現代日本人≒福岡弥生人=倭人
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:42:25.39
>>774
北はどうしたんだよw
その理屈なら朝鮮半島が北だから都は九州だな。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:45:54.54
>>795
倭王武は自分の領土を東、西、北に分けて説明しているだけで
この上表文からは都が何処に在ったかなんて分からないよ。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:49:18.53
この上表文からあえて都の位置を想定するならば西の衆夷の中だな
北は海を渡るとあるし、東は毛人だから都の位置としては不適切。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:49:24.51
僕達は、もう、3寸75パーを何度も論破してしまったので、この頭の悪い意見を叩き潰すことへの情熱が、湧かないのでは、ないのかな。。。

795日本@名無史さん2019/05/14(火) 08:26:05.88
>>776
>>774の本論の部分には一言も反論できないんだなwwwww

「情報量って言葉、知ってるか?
 渡平海北九十五國からは、倭王武の王都が日本列島上にある、というところまで分かるし、
 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國からは、列島中央部にあることが分かる訳だ

 あくまで倭王武の王都についてだが、卑弥呼のときから倭国の政体が変わっていると
 考える理由もないので、列島中央部に邪馬台国もあったと考えるのが、倭王武の上表文から
 想定されることだ 」
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:49:25.39
>>786
>出てから言えって言ってるだろ?
>それに佐賀は、長崎自動車道の建設に伴いかなり発掘されてるぞww

ま、仰せになるお気持ちはわかりますよ。
だけどね、肝心の河上の遺跡は、長崎道の北の数百mほどのところで、発掘対象にはならなかった、、、
後世のことを考えれば、むしろ幸運だったかもしれないけどねえ。

田舎県では、あそこに何やらありそうという有力な学者の発論あってこそ動き出す。
世論先行、発掘後攻なのだよ、
今回のBS番組は、その最初の小さな一歩になったのじゃないでしょうか。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:50:58.91
456>>518
>>では郡使はどこまで来たのかな?<

>もちろん、ヤマト国(大陸人の聞き書き音訳で邪馬臺国)までだよ <

もちろん、大和は、「南≠東」などに拠って×。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:51:10.95
>>743
典型的なダブルスタンダードだな。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:51:30.79
考古学が、本当は、歴史とは関係が無い可能性が、高まってきたな。。。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:54:35.85
>>809
この上表文は倭の都の位置を説明したものではない
勢力拡大の説明をしたもの基本が分かってないなw
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:56:46.77
BBAキナイコシが、出現しないな。。。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 08:57:48.51
>>815
◆UiepmfCeDJqf のキャラクターも出現しないのでは、ないのかな。。。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:01:07.09
僕達は、もう、3寸75パーを何度も論破してしまったので、この頭の悪い意見は、複製にして貼り付けて、笑えば良いだけでは、ないのかな。。。

795日本@名無史さん2019/05/14(火) 08:26:05.88
>>776
>>774の本論の部分には一言も反論できないんだなwwwww

「情報量って言葉、知ってるか?
 渡平海北九十五國からは、倭王武の王都が日本列島上にある、というところまで分かるし、
 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國からは、列島中央部にあることが分かる訳だ

 あくまで倭王武の王都についてだが、卑弥呼のときから倭国の政体が変わっていると
 考える理由もないので、列島中央部に邪馬台国もあったと考えるのが、倭王武の上表文から
 想定されることだ 」
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:02:50.60
情報量って言葉とは、何だろうか。。。

795日本@名無史さん2019/05/14(火) 08:26:05.88
>>776
>>774の本論の部分には一言も反論できないんだなwwwww

「情報量って言葉、知ってるか?
 渡平海北九十五國からは、倭王武の王都が日本列島上にある、というところまで分かるし、
 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國からは、列島中央部にあることが分かる訳だ

 あくまで倭王武の王都についてだが、卑弥呼のときから倭国の政体が変わっていると
 考える理由もないので、列島中央部に邪馬台国もあったと考えるのが、倭王武の上表文から
 想定されることだ 」
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:04:20.52
>>818
情報量って言葉とは、確率と関係があるのでは、ないのかな。。。

795日本@名無史さん2019/05/14(火) 08:26:05.88
>>776
>>774の本論の部分には一言も反論できないんだなwwwww

「情報量って言葉、知ってるか?
 渡平海北九十五國からは、倭王武の王都が日本列島上にある、というところまで分かるし、
 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國からは、列島中央部にあることが分かる訳だ

 あくまで倭王武の王都についてだが、卑弥呼のときから倭国の政体が変わっていると
 考える理由もないので、列島中央部に邪馬台国もあったと考えるのが、倭王武の上表文から
 想定されることだ 」
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:06:05.45
>>819
それ客観的に「想定されることだ」じゃなくて主観的な「俺の妄想だ」だろw
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:10:31.52
情報量って言葉とは、選択情報量と平均情報量の二つを纏めた言葉の可能性が、高まってきたな。。。

795日本@名無史さん2019/05/14(火) 08:26:05.88
>>776
>>774の本論の部分には一言も反論できないんだなwwwww

「情報量って言葉、知ってるか?
 渡平海北九十五國からは、倭王武の王都が日本列島上にある、というところまで分かるし、
 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國からは、列島中央部にあることが分かる訳だ

 あくまで倭王武の王都についてだが、卑弥呼のときから倭国の政体が変わっていると
 考える理由もないので、列島中央部に邪馬台国もあったと考えるのが、倭王武の上表文から
 想定されることだ 」
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:15:38.63
倭王武の王都は、雲が出る、肥の河上の高い志の八の俣に分かれた尾根の地だった可能性が高いな。。。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:19:13.60
肥前なのだろうか、、、それとも、、肥後なのだろうか。。。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:20:00.79
卑弥呼の時代には九州にあって倭王武の時代には奈良にあったなら解釈可能
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:35:00.48
456>>557
>ヤマトの強大化に恐れをなした邪馬台国が魏から倭王に任命してもらうことで、
ヤマトの邪馬台国侵攻(北九州侵攻)を阻止したという説である
邪馬台国はヤマトに「自分たちの女王が倭王に任じられ、鏡を下賜された」と誇示すれば、
ヤマトは魏という虎のしっぽを踏むことを恐れて、邪馬台国に手を出せなくなったのだ <

「南≠東」などに拠って、×。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:43:27.84
>>824
また理由は秘密なのかい?
九州説は・・・
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:44:16.06
456>>582
>狗邪韓國 金官伽耶
對馬國  対馬
一大國  壱岐
末盧國  唐津(松浦川の平野)
伊都國  糸島(怡土 三雲遺跡群)
奴國   福岡(那の津、那珂)
不彌國  これははっきりしない 宇美か?
投馬國  出雲
邪馬壹國 ヤマト
斯馬國  伊勢志摩
已百支國 伊吹
伊邪國  伊賀?
都支國  多気郡?多藝郡?
彌奴國  美濃
好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國
呼邑國  華奴蘇奴國
鬼國   紀伊
爲吾國  伊賀?
鬼奴國  邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 有奴國
狗奴國  久努郷?毛野国?<

「南≠東」になる部分は、皆×。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:46:10.23
>>824
>卑弥呼の時代には九州にあって倭王武の時代には奈良にあったなら解釈可能

でも、前方後円墳祭祀も、精製器種を含む祭祀供献土器も、畿内から西へ伝わっていて、
王権が西から東へ移動したことをうかがわせる考古学的証拠が「一切ない」

つまり、東遷説は既に存在しない
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 09:54:02.92
>>806
>その理屈なら朝鮮半島が北だから都は九州だな。

渡海するのが九州からなだけで都の位置は関係ないね
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:13:05.19
>>804
前方後円墳の誕生には、出雲■吉備●だけでなく、前方後方墳□■でおなじみ東海尾張王も加わっていると思われ、
大物主は尾張と東西から唐古鍵を挟み撃ちにして降伏させ、●■ヤマト王権を樹立したのではないだろうか?
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:14:52.93
>>828
銅鏡文化、稲作文化、三種の神器
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:17:48.16
>>793
✟アーメン✟
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:20:14.60
剣と鏡は西から東。でも勾玉が入ってるのがおもろいね。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:20:31.76
>>804
>曹魏&邪馬台国VS孫呉&狗奴国(後背地・宮崎へ天「孫」降臨で後方支援)

天孫降臨の地は福岡県。
その子の海幸と山幸が争い、敗れた海幸が宮崎県に都落ちして隼人の祖となった。
神武は福岡県の山幸の孫。
だから天孫からの正統を自負していた。
福岡県の邪馬台国と宮崎県の投馬国が魏志倭人伝で併記されているのは、卑弥呼の前の男王すなわち日向三代の時代に別れた兄弟国だからだ(中国側は理解していなかったが、紹介した和人側はもちろんそのように理解していた)。

(宮崎県を天孫降臨の地とすると、隼人との関係が破綻する)
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:21:56.90
>>832 >>833
国宝「漢委奴国王」金印は贋作じゃないと困るんだ!!頼む、贋作だと言ってくれ!(キナイコシ)
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:22:57.37
>>832
>銅鏡文化、稲作文化、三種の神器

銅鏡文化は弥生中期には広く伝えられていた
⇒ 卑弥呼の共立の時期及び、それより遅い時期には関係ない

稲作文化は弥生初期には広く伝えられていた
⇒ 卑弥呼の共立の時期及び、それより遅い時期には関係ない

三種の神器は思ったより新しい
日本書紀には普通名詞としての八咫鏡(豪族間の詫びに送られている)と
八尺瓊勾玉(ムジナの腹から見つかる)が出ている
また、地方豪族の墓でもセットで見つかり、王権の所在を示すものでもない
九州の古い例は、威信材を詰め込むときに、偶々揃っただけ

>>832のあげたものは、どれも王権の九州からの移動を示すものではない
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:26:12.43
>>834
越の政権も合流していたことの証だろう。
越については情報が少ないが、もともとは福岡県まで越だったらしい。
香椎が越に由来するそうだ。
おそらく出雲より古い勢力であり、出雲により東方に押し出されたのだろう。
出雲も福岡県まで支配していたのだろうが、最後に成立した筑紫によりやはり東に押し込められたのだろう。
つまり、後から成立した政権が日本海で西側、すなわち福岡県を取るのが歴史の常だった。
筑紫の日向から天孫族が倭国大乱で排除されると、南西から肥国の勢力が筑紫に進出して卑弥呼政権が成立したと考えられる。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:28:49.53
三角縁神獣鏡と前方後円墳にしがみつくしかなくなった畿内説
あわれよのーーー
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:31:09.35
平原遺跡においては、ほとんどの副葬品が宝飾品であるのに、一振りだけ剣が含まれている。
王墓は三種の神器を揃えなくてはいけないという明確な意図があったと考えられる。
また、円周八咫の鏡は平原遺跡固有のものであり、三種の神器の中の鏡は八咫の鏡でなくてはならないという縛りは2〜3世紀にかけて、つまり卑弥呼の時代に確立されたことがわかる。

キナイコシの説明では、三種の神器の成立について何も説明できていない。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:31:59.05
>>838
>三種の神器は思ったより新しい

それぞれいつなのさ?
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:34:00.51
>>831 おお!補足サンクスコ!

古代史まとめ

−倭国中枢(北部九州)>「魏志倭人伝」
曹魏&邪馬台国VS「孫」呉&狗奴国(後背地・宮崎へ天「孫」降臨で後方支援)
→帯方郡の張政派遣→神武東征(敵前逃走)狗奴国滅亡→邪馬台国勝利するも、台与で断絶→崇神の四道将軍に降伏、ヤマト王権の配下へ

−辺境地域(本州/出雲・吉備・大和)>「古事記&日本書紀」
出雲&吉備連合の大物主が東海と唐古鍵を挟み撃ちにして征服、ヤマト王権樹立(纏向型前方後円墳)
→饒速日(神武東征)→物部氏として神武臣下に→崇神、四道将軍を派遣し、邪馬台国を併合、全国統一
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:34:13.90
テンプレも
3〜4世紀にヤマトに人が住んでいて
国があった程度の説明になってしまったww
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:41:52.71
纒向は国があったかどうかも怪しい。
寒村があった程度かもしれない。
出雲や尾張とは違い、纒向ははるかに格下だ。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:42:52.71
つ箸墓、西殿塚…
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 10:55:21.31
九州に邪馬台国の痕跡が無いからといって必死に畿内を貶めようとしても何にも変わらないぞ
0848日本@名無史さん
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2019/05/14(火) 10:59:59.56
>>843
神武東征(実態は敵前逃亡)が張政派遣を受けてのモノだったとすると、
天孫(天皇家)は大陸状勢に明るく、帯方郡張政がどんなに強いか知っていた可能性があるな
文字や鉄器を持たず、木のお面、桃、蛙の祭祀を行っていたヤマト王権なら制服できると確信してのことだったのだろう
0849日本@名無史さん
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2019/05/14(火) 11:01:10.96
456>>642
>だいたいアンタ、当時の人口で考えれば邪馬台国なんて、
@博多湾 A出雲 B畿内 C東海 のどれかでしかないんだから。
んで、@博多湾が『奴国』で通過して、結果A出雲が『投馬国』なんだから、
自動的に邪馬台国はBの『畿内』になり、狗奴国がC『東海』だろ。
何でこんな簡単なことをめぐって、ウダウダ言ってるのよ?<

それ、「南≠東」などに拠って、×ね。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:04:15.51
456>>644
>箸墓(4段築盛)=親魏倭王=卑弥呼 > 普通の古墳(3段築盛)=倭王(安東大将軍)=倭の五王 <

「南≠東」などに拠って、×。
メチャクチャ簡単じゃん。これほど明白なことがある?
0851日本@名無史さん
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2019/05/14(火) 11:08:07.63
>>270
✟アーメン✟
0852日本@名無史さん
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2019/05/14(火) 11:13:03.96
>>841
>円周八咫の鏡は平原遺跡固有のものであり、

そんな使用痕跡のない単位を振りかざしても
自分の説が架空だと宣伝してるようなもんだぞ
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:13:07.60
456>>664
>畿内説でも投馬国とヤマト国は広い範囲の国としているが、
投馬国、出雲が中国地方の四隅突出墓文化圏
邪馬台国、ヤマトが畿内第V様式土器圏という考古学的実体に比定地を当てることができる<

「南≠東」などに拠って、×。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:16:27.59
456>>667
実体は妄想ではない。
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
史料事実と照合できない大和説は妄想
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:19:37.53
>>847
ほんそれw
邪馬台国は何処かはわからんが、近畿にその後現天皇に続く朝廷があった事は間違いないのにね
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:23:12.76
大和政権はやはり新羅、唐の天下り族の起こした政権だよ。
もしくはそいつらが操った政権だ。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:25:26.93
>>855
3世紀にはまだあったかどうかも怪しい。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:27:47.72
>>857
発掘されてるのに怪しい言い出したら、九州の発掘全般も怪しいじゃないかw
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:27:50.41
456>>668
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国で、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であるから、、
九州倭国圏というような状態であり、
独自の文化圏はないな
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:31:25.34
>>860
纏向があるから独自の文化圏が無いということはない
まぁ纏向は色々な地方の集まりだから九州勢力の文化も入ってはいるが
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:33:37.01
卑弥呼の死後、邪馬台国は狗奴国から攻め滅ぼされる
東へ逃れたのが神武東征の元話。実際は神武逃走
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:37:09.00
456>>684
>福岡とか王冠出土しないからな<

奈良盆地からは、「王冠」は出土しないが、
太宰府からは、新羅の王冠によく似た王冠が、出土していたらしいからな。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:46:14.30
>>856
>大和政権はやはり新羅、唐の天下り族の起こした政権だよ
纏向があるからヤマト王権は纏向人中心なのは間違いない
ただ纏向は多地域主義だったろうから中国や半島人が居なかったとは言えないが
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 11:57:18.88
456>>751
>考古学の成果をまとめると、
‐弥生の鉄・絹 九州>畿内 (3世紀) → 九州=畿内(4世紀)
‐前方後円墳  九州×畿内〇(3世紀) → 九州<畿内(4世紀)・・・<

「南≠東」などに拠って、×。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:00:07.40
>>858
それは後世の話であり、邪馬台国と関係なさそう。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:01:15.59
>>861
つまり纒向は独自の文化圏でも独自の勢力でもないんだよ。
特別視する理由がなく、むしろ同時代においては周辺地域より後進地域だった。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:01:50.14
九州北部と近畿は出土からみても違う文化圏があった
纏向は多地域主義国家。九州北部は半島文化

九州の神武王子は奈良に纏向という良い所があると聞かされて東征
纏向近くの橿原に村を作り王と名乗った
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:04:51.97
>>847

>必死に畿内を貶めようとしても

被差別民はこっちのほうが主
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:13:33.27
差別か意味不明な事言い出したよ
差別は人権侵害なので然るべきところに訴えなよ
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:14:47.87
>>866
北部九州地域の史跡からは10個以上も金の王冠が各地で出土してるね。
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:20:18.73
然るべきところに訴えてもお金をくれる見込みは無いから
日本の王権発祥である畿内を貶めてる
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:22:40.92
金冠は馬具を副葬する時代
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:23:06.41
九州派がいくら邪馬台国があったと息巻いた所で
多地域主義のヤマト王権には勝てなかった事だろ

九州派は何と競ってるんだ?その当時は半島文化が入ってきてて最先端だったで良いじゃないか
おそらく邪馬台国は九州だろ北部か南部かはわからんが
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:29:59.67
>>876
つまり、4世紀以降も倭の王都は福岡県なんだよ。
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:30:48.83
>>877
九州南部なんて、ロクなものはない。
畿内より少しマシかな、という程度だよ。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:32:23.65
>>877
ヤマト王権の成立は4世紀以降だし、中心は奈良大和ではないから、ヤマト王権という名称も怪しい。
大阪の方が古墳も大きいし(世界遺産登録見込みおめでとう)。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:33:56.06
>>878

4世紀の福岡の金冠って?
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:34:14.59
>>880
直接滅ぼしたのは唐だろうね。
畿内政権は唐の傀儡だろ。
だから盛んに遣唐使を送ってマメに朝貢したわけだ。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:35:53.00
やはり、茅渟が天皇家の発祥地だったのだな。。。

881 名前:日本@名無史さん 2019/05/14(火) 12:32:23.65
>>877
ヤマト王権の成立は4世紀以降だし、中心は奈良大和ではないから、ヤマト王権という名称も怪しい。
大阪の方が古墳も大きいし(世界遺産登録見込みおめでとう)。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:37:18.66
>>881
まぁいいよ。でも奈良に現天皇に続く朝廷があった事に変わりはない
大阪にも大きな勢力があったんだろうよ

書紀にもそう書いてあるしな
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:37:58.01
>>887
筑紫(邪馬台国)を猛追する肥国(狗奴国)
分国として大人しい投馬国などが分布から読み取れる
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:38:22.84
>>888
卑弥呼より後世の話だけどね。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:39:42.75
>>886
5世紀の天皇家の真実の初代が、日本を支配するための文章を作製するために、天皇家の真実の初代の家臣は、茅渟の海で、タコやイカを捕獲し、墨汁を生産したのだね。。。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:40:24.77
>>885
だから?
唐の時代に九州は唐から相手にされてなかったと言ってるのか?
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:43:54.89
コマビトは現代の言い方だと朝鮮人
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:44:41.78
後の時代の者達から、崇神天皇等とと名付けられた4世紀の纏向遺蹟の者達は、茅渟から暗峠を越えて、墨汁を調達することを、運搬係に断られたので、日本国を支配しきれなかった可能性が高いな。。。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:50:51.73
現天皇に続く天皇家の真実の初代は、誰なのだろうか。。。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:52:05.19
>>893
倭は白村江で唐に負けて滅亡した。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:53:12.44
>>889
倭国(阿波)の勾玉を副葬していることから「忌部はん」 のお墓とわかる。   @阿波
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:54:21.70
崇神天皇から応神天皇までは、親子の関係で繋がっているのだろうか、、、
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:56:11.66
前方後円墳という墓の形を決定した者達は、天皇家とどのような関係性があったのだろうか。。。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:57:36.01
ここのスレ見て考え変わったわ
今まで奈良は半島文化が濃いと思ってたけど、半島色が濃いのは九州北部
奈良は良い所どりの多地域国なんだわ
現代日本にも通じる。だからの書紀の内容だし神道の八百万なんだわ
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:57:52.70
>>896
神武天皇
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 12:59:36.65
継体天皇という謎の天皇が、現天皇に続く天皇家の真実の初代は誰なのかという討論会の会場に、急浮上してしまった。。。

900日本@名無史さん2019/05/14(火) 12:55:07.53
>>896
崇神天皇
応神天皇
継体天皇
の三択
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:00:01.65
>>901
践祚大嘗祭の麁布を調進する者達が、天皇家の本家であったのではないだろうか。。。   @阿波
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:01:33.71
神武天皇から継体天皇までは、親子の関係で繋がっているのだろうか、、、
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:02:38.79
もういい加減、身の程をわきまえる時ではないのだろうか。。。   @阿波
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:02:45.31
践祚大嘗祭の麁布を調進する者達とは、何者達なのだろうか、、、
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:03:18.96
>>900

応神天皇
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:06:01.24
>>899
崇神天皇−垂仁天皇−景行天皇−五百木之本入日子命−品陀真若王−中日売と言う
井上光貞が、古事記分注から復元した系図では、応神天皇は中日売に入り婿と言う形に
なるから直系継承とは言えないと思う
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:06:13.25
やはり、崇神天皇から応神天皇までの間に、親子の関係が途切れる事件があった可能性が、高いな。。。

909日本@名無史さん2019/05/14(火) 13:03:18.96
>>900

応神天皇
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:14:31.39
九州生まれの神武か、九州生まれの応神か。
どっちも九州じゃないか。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:14:52.07
>>902
そうすると書紀も説明がつく
在来文化の狗奴国は半島文化の邪馬台国・卑弥呼には従いたくないから争ってた
だから狗奴国王子・神武は遠い東の地の纏向に向かった
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:20:07.50
卑弥呼と卑弥弓呼の名前からは、むしろ両者は同じ一族。
魏志倭人伝にも元より不和であったと書かれていて、どちらかと言うとお家騒動に近い。
卑弥呼の共立に反対して独立したのが狗奴国だが、
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
のとおり、文化的には邪馬台国も狗奴国もほとんど一体化している。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:26:33.21
記紀と魏志倭人伝をすり合わせるなら、むしろ卑弥呼即位前の倭国大乱が神武東征のきっかけとなり得るだろう。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:28:23.56
纏向は倭種の別国の古墳造営基地で決定したようだ
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:29:40.17
>>914
従ってないんだから文化も一体化はしてないでしょ。交流ないんだから
稲作までは交流があったかもしれないが、鬼道を操る卑弥呼には従えんって感じでは?
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:46:04.74
>>918
後進地域が吹き溜まりとなっていた。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:46:07.54
九州や近畿に縁も所縁もない俺には
魏の属国だった邪馬台国があったと頑なに正当化する意味がわからん
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:47:58.07
>>917
元より不和って、おそらく卑弥呼は即位前から知り合いだったと言うことだよ。
交流がないどころか、鬼道つまり神道の祭祀をどっちが担当するかで揉めたのだと思うけどね。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:48:31.90
>>919
対馬では今でもやっている。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:50:29.05
>>920
後進か先進かの何が重要かは知らないが、東海やら北陸からも人が集まってたんだろうね
その頃九州は半島文化を取り入れてギスギスしてたw
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:53:51.21
>>925
日本書紀って8世紀だぞ。
それ以前から神道はあったはず。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 13:58:59.95
>>926
ないよ。天照大神を祀る神道は
鬼道はあくまで大陸の占い。鬼道も仏教も取り入れたのが神道
まぁ縄文からの在来はあったかもしれないが、神道ではない
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:04:59.85
>>927
基本的には神道は祖先拝礼だから、仏教以前からアマテラスを祭る神道はあっただろ。
定型化はしていなかったかもしれないが、三種の神器の組み合わせの祭器が紀元前からあるし。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:07:59.54
しょせん九州説なんて高校生の使ってる教科書読んでも満足に理解できない脳力クラスだろ
当然専門書や学術論文なんて読めないわけよ能力的にさ
で、このカキコ見ててさ
sテレビの娯楽番組がよりどころな爺さんだなあって二重三重に納得だよな
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:15:16.84
>>928
だからないって。三種の神器も後付けだから
弥生や古墳時代に、剣や勾玉、鏡が大事にされてたから話の中で三種の神器を作った
祭壇で3つ揃っては出てないでしょ?剣を祀る地域と鏡を祀る地域を統合させたのが三種の神器

神道は土着信仰もその当時流行した仏教も、もしかすればイスラム教も参考にしてるよ
だから西洋神話や東洋神話に似てる。天照大神も仏教の最高神が大日如来だからだよ
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:20:25.30
>>930
三種の神器は九州では王墓の副葬品として紀元前から様式化されていた。
仏教なんて関係ない。
09331 ◆bL7iehB8vc
垢版 |
2019/05/14(火) 14:22:03.88
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1557811144/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:24:13.04
神仏習合は、仏教が入ってからの話で、神道そのものはそれ以前からあった。
どからこそ習合できるわけで。
祖先を祀るのは人として自然なことで、儒教云々に関係ない。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:28:09.64
>>936
そりゃ、習合してからも千年以上たっているから、現在は無関係ではない。
しかし、仏教伝来前から神道はあった。
だから仏教が入ってきたときに物部氏と蘇我氏の対立とかが起きたわけだよ。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:29:08.08
>>935
神仏習合できたのは神道が参考にしてるからだろw
古墳作るくらいだから死者は祀ったんだろうな

まぁ神道じゃなく古神道っていいなよ。自然崇拝だし
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:31:02.80
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、神仏習合についての討論会が開始されたのでは、ないのかな。。。
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:37:33.01
>>937
ごめんごめん。書紀編纂後じゃなかったわ
天武天皇時代だわ。少なくとも卑弥呼時代ではない
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:38:33.42
孫の一人が言っていた、、、卑弥呼がヤマタノオロチだったというテレビゲームが、あるのではないのかな。。。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:40:43.95
卑弥呼はやはり、雲を出す国の肥の河上の高い志をもつ、八の俣に分かれた尾の地の者だったのだな。。。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 14:53:20.53
>>942
熊本平野で、良いな。。。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:07:13.60
>>938
自然崇拝とは別に、祖先を礼拝する神道はあっただろ。
沖ノ島の祭祀とかは仏教伝来前から続いている。
三種の神器の様式化も仏教伝来より前だ。
神道と仏教がなかなか相入れないからこそ、物部戦争とかが起きたわけだよ。
すんなり習合したわけではない。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:20:14.29
>>843
スサノオ・大国主→大物主→饒速日を祖にもち、土師氏に古墳造営をさせていた物部氏の正体がやっと判ったよ!
前方後円墳という国家予算の既得権益が、(百済王族とのハーフで渡来人たちを率いていた)蘇我氏の仏教寺院建設に取って代わられたら、自分たちの出番がなくなるもんね。

>>937
物部氏vs蘇我氏の争いは、既存の前方後円墳建設vs新興の仏教寺院建設(百済の寺大工・仏師)を巡る、巨額の国家予算主導権の奪い合いだったんだろうね
日本の神仏習合は、両者の妥協の産物だったのかも
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:22:13.32
妥協というか、物部氏を排除して仏教に傾倒しただろ。
そして前方後円墳は廃れていった。
視点としてはほぼ正しいだろうね。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:25:19.28
逆にいうと、それまでヤマト王権を主導していたのは、饒速日を祖とする物部氏なんだよ。
宗教も軍事も建設も支配していた。
記紀においても、神武は饒速日を頼って大和に来て、居候していたわけだよ。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:26:18.48
>>944
沖ノ島で祭祀は行われてたんだろうけど神道ではない
鬼道じなゃきゃダメだろ?大陸・半島文化の入り口だろうがw

だから神道は天皇の為の宗教なんだから、古代行われていたのは古神道でいいじゃないか
物部戦争も古神道と仏教の戦争なんだろ?だから神道ができたんじゃないのか?
で天皇は神道の最高神の子孫だよって事にしたんだろ
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:29:01.54
>>947
物部氏がそんな昔からいたなんて根拠は全く無いんだよ
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:31:04.25
>>945
「和を以て貴しとなせ」という聖徳太子の教えは、抽象的なものではなく、
ヤマト王権を建てた大「物」主を先祖に持つ大連「物」部氏の前方後円墳築造vs新興の百済系大臣蘇我氏の仏教寺院建設の国家予算の奪い合い、争いに心を痛めた具体的な命令だったんだぬ
前方後円墳築造も時代に合わなくなっていたし、東アジア標準の仏教寺院で人心掌握の方が理に適っていたのだろう
物部本家が滅びて前方後円墳の築造が止まり、乙巳の変で蘇我本家も滅ぼされたけど、前者は前方後円墳から仏教寺院の隣の神社建設に形を変えて、神仏が習合され今に至っている
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:31:48.59
昔からいなかったなら、朝廷内で権力を持っていた理由がむしろ説明できなくなる。
記紀によれば、天皇家と並んでイザナギ、アマテラスらの直系の子孫だからね。
それとも物部は木の股から生まれたのか?
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:33:38.56
>>950
物部氏を倒したのは厩戸を含む蘇我氏一派だ。
十七条の憲法は後世の創作だよ。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:35:32.19
鬼道=古神道じゃないからな
鬼道は自然を操る。古神道は自然を拝む
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:40:01.00
>>950
>仏教寺院の隣の神社建設に形を変えて、神仏が習合され今に至っている
それは違う。寺院の隣に神社があるのは近代の神仏習合でだ
専門で学んだから間違いない
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:43:04.92
物部氏は旧麻植郡伊加賀志(いかがし)神社周辺
蘇我氏は石井町蘇我氏神社古墳周辺
が、それぞれの本拠地。
こういった場所が具体的に示せるのは倭国(阿波)だけ。  他説では出来ない芸当。   @阿波
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:44:30.68
>>951
>昔からいなかったなら、朝廷内で権力を持っていた理由がむしろ説明できなくなる。

それ、痴呆しかしない思考

それが正しいと新興勢力が存在し得ない
つまり、あり得ない
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:46:34.45
>>951
物部氏は忌部一族での主流。  斎部氏の元氏か?   @阿波
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:48:11.53
>>950
物部本家の守屋を滅ぼして、古墳築造の巨額国家予算を一気に手にし、百済王族の血が入ってるから
百済の寺大工や仏師を無尽蔵に呼び寄せ、日本全国の仏教寺院建設を一手に引き受けた蘇我氏は、稲目と馬子で急激に強大化。
娘たちを次々に天皇家に嫁がせ外戚となり、蝦夷→入鹿で天皇をも凌ぐ大権力者となる。
あまりに巨大化して欽明皇子で推古の摂政をしていた聖徳太子の一族山背大兄王をも滅ぼしてしまったため、
次は自分が殺られると思った皇極息子の中大兄皇子のスイッチを入れてしまい、ついに誅殺されてしまうという悲劇...
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 15:57:58.41
倭人は船乗りの人種なので、竹柏を祭った可能性があるな。。。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:04:44.39
前方後円墳は、倭人の宗教とは、関係がない可能性が高まってきたな。。。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:05:00.94
>>953
>鬼道=古神道じゃないからな

誰もそんなこと言ってないだろ。

>鬼道は自然を操る。古神道は自然を拝む

鬼道の中身がわかるのかよ。

>>954
>それは違う。寺院の隣に神社があるのは近代の神仏習合でだ

近代は神仏分離だろ。
勉強し直せ。

>>956
>それが正しいと新興勢力が存在し得ない

イミフ
物部氏が旧勢力、蘇我氏が新興勢力だろ。
蘇我氏が実権を握るためには物部氏を倒すしかなかった。
それは裏返せば物部氏の力が古くから強かったことを示している。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:07:51.29
鬼とは、亡霊のことなのでは、ないのかな。。。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:12:03.61
鬼が死者のことなら、鬼道とは祖先崇拝を主とした神道そのもの。
古神道とは区別される。
三種の神器や沖ノ島の祭祀など、神道の様式が整っていくのが3〜4世紀だということだろう。
それは仏教伝来より前になる。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:12:37.80
卑弥呼は、どのようにして、人民を惑わしたのだろうか。。。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:19:22.43
古神道とは、自然の物体と心で交流することなのだろうか。。。
そして、神道とは、死者を敬うことなのだろうか。。。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:21:34.10
倭人が、酒が強い者に、柏手を打ったのは、長生きするためなのだろうか。。。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:23:44.38
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
麻といえば、阿波忌部。 
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』  『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:26:25.00
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
麻といえば、阿波忌部。 
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』  『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:35:45.45
卑弥呼は、倭国の乱という合戦で戦死した敵味方の軍隊の兵を弔ったので、敵味方の人民に感謝され、女王として共立された可能性が高いな。。。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:40:45.95
「土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は阿波国の矢野遺跡が最西端に位置する。

同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。

この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、土製のモノはこれが最古級である。

「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。

用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に使われたと考えるのが妥当である。

また、仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」とあるように入墨(文身)を表したものであろう。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:42:26.07
鬼というより、ムンクの叫びのような、纏向遺蹟の仮面は、デザインが良いので、うまく利用すれば、観光の目玉商品になるのではないのかな。。。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:45:03.82
>>752
>>804
>>945
>>958
古代史の謎があっさり解決!
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:57:00.49
>>856
>大和政権はやはり新羅、唐の天下り族の起こした政権だよ。
>もしくはそいつらが操った政権だ。

この「コークリ君」の、無駄な半島推しはなんなんだろうね?
半島を上げて日本を下げる目的くらいしか思い当たるフシがないんだが?
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 16:58:29.63
>>974
東海の前方後方墳▢■も忘れずに→ >>843
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:04:22.44
>>642 >>671
三国志ファンの漏れとしては、天皇陛下が孫権の末裔と知って、急に親近感が湧いてきたyo!
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:08:58.83
孫の一人が言っていた、、、卑弥呼がヤマタノオロチだったというテレビゲームの舞台は、何処だったのだろうか。。。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:10:02.92
>>978
孫の一人が言っていた、、、卑弥呼がヤマタノオロチだったというテレビゲームの作者は、僕達と同じ意見なのでは、ないのかな。。。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:11:50.19
>>932
>三種の神器は九州では王墓の副葬品として紀元前から様式化されていた。

されてないんだよ

お金持ち(朝貢でいっぱい鏡をもらう)の首長がいると墓の副葬品が充実するだけで、
3種の神器セットが継続して、貧乏な代でも揃って埋葬されるという状況にはなっていない

そして、王統と関係のない地方豪族でも3種の神器セットが副葬された古墳は、
いくらでも見つかる

現代まで伝世している三種の神器は、皇統が長く続く間にその皇統のレガリアであると
いう理由で、後付けで神聖化していったんだよ
0981日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:12:36.61
卑弥呼はやはり、雲を出す国の肥の河上の高い志をもつ、八の俣に分かれた尾の地の者だったのだな。。。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:13:31.44
>>978
熊本平野で、良いな。。。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:16:20.57
邪馬台国って倭王帥升(70〜80歳)死後勃発した倭国大乱を収め、倭王に「共立」された@女王卑弥呼、
その後A男王が立ったけど「国中が服せず殺し合いが勃発」w、B台与で収まって、たった3代で歴史から消える。
そんな脆弱な権力基盤で、その後の全国政権ヤマト王権の天皇家に連なる箸墓、西殿塚を築造できたのだろうか?
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:16:34.64
八つの俣の尾の地も、熊本平野で良いのではないのかな。。。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:20:46.19
>>946
>妥協というか、物部氏を排除して仏教に傾倒しただろ。

これは、少し視野が狭い
物部守屋は、物部氏の氏長者ではないし、物部と蘇我の全面戦争でもない
馬子の妻の一人は守屋の妹だし、蘇我と物部は姻戚関係にあり
むしろ、乙巳の変ののち、蘇我の財産は物部氏に引き継がれている

藤原氏の栄華の元は、藤原不比等が石上(物部氏)麻呂の娘婿として、
石上麻呂の昇進で空いた席に不比等が据えられたことが、その根本だ

古代の大豪族、葛城氏、蘇我氏、物部氏、中臣氏の血統・財産が
葛城氏滅亡⇒蘇我氏
蘇我氏滅亡⇒物部氏
物部氏没落⇒藤原氏と、藤原に集約されていったからこその藤原氏の栄華がある
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:22:00.76
マリファナで幸福の科学
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:22:39.70
>>983
男王が立って殺し合いが起こった、女系でないと維持できなかったということは、卑弥呼と台与は、ヤマト王権天皇家に連なるような王朝女王ではなく、あくまで飾り物だったということだ。
この点から言っても、鉄(軍事力)も貧弱で文字も持たなかった後進地域から列島最先端の北部九州を遠隔支配していたなどとする、畿内説は成立しえない。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:28:22.08
九州説は、ひたすらヒメヒコ制から逃げ続ける

ヒメ王の統一はするけれど、ヒコ王の権力は各地の首長がそのまま握るというのが、
卑弥呼の共立時の状態

卑弥呼の死後、佐治国男弟が倭王を名乗ろうとしたが、ヒコ王を統一倭王とするのは
各地の首長が認めず、改めて統一ヒメ王として台与を立てた
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:30:42.19
「倭国(阿波)内 忌部一族主要氏族の本拠地」

物部氏(後の忌部氏か) :: 麻植地域

葛城氏 : 鳴門北灘地域  

中臣氏 : 板野地域  

蘇我氏 : 石井地域

こういった場所が具体的に示せるのは倭国(阿波)だけ。  他説では出来ない芸当。   @阿波
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:32:17.88
倭人が朝鮮半島南部を支配していた事実を隠す動機が充満した可能性が高い、韓国人考古学者と、日本国内の考古学者のアライアンスがあるのではないのかな。。。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:34:40.29
>>985
神レス、サンクス!
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:34:54.72
>>985

なるほど。
こういうのは日本史板らしくて高度な反論だ。
脱帽する。

その一方で、>>980はただのクソ。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:37:31.64
456>>873
「南→東」などの嘘付き騙しを、
「根拠も示さず決め付け」する大和説は
妄想説
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:38:49.72
卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではない。
邪馬台国の女王卑弥呼という呼称は、東京都知事アベというようなもので、おかしいことになる。
ただ、九州に邪馬台国があった場合に倭国そのものの王都が九州になってしまう。
それだと困る人たちが、卑弥呼を倭国女王ではなく邪馬台国女王に矮小化しているのかもしれない。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:39:44.88
456>>879
なぜ、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
ウソをつくしか能がないのだろうか
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:41:06.77
>>992
>脱帽する。
>その一方で、>>980はただのクソ。

ところが残念ながら、>>980>>985は同じ人物による、同じレベルの書き込みなんだよww
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:41:46.68
456>>889
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は
自身が嘘をついてないと思っているのだろうか
どういう精神構造をしているのか
0998◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/05/14(火) 17:42:06.86
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1557821218/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:46:00.12
3世紀の北部九州の遺跡発掘現場を見学に行った関西の考古学者や博物館の学芸員は、
周辺の地層全体が真っ赤に染まるほど大量の鉄の出土量を目の当たりにして内心(負けた…ヤマト王権は邪馬台国じゃないや…)と直感的に思うらしい。
でも関西に帰ると学閥や先輩後輩のしがらみがあって、職場で敵なんか作ったら大変だから、口が裂けてもそのことは言えず、
講演会などで「ヤマトで決まりやな!」という禿げ頭の素人おじいちゃんたちを見て
九州の発掘現場を知ってる人達同志で互いに肩をすくめて苦笑し合うらしいw
逆に九州の考古学者や博物館学芸員が畿内の3世紀遺跡発掘を見学に来ると、あまりの貧弱な出土品(木製品や桃の種、カエルの骨)に爆笑してしまい、
古墳築造の「縁日」と呼んでいるらしいw
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/14(火) 17:46:26.35
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
10011001
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