邪馬台国畿内説 Part521
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1571681739/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、
ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 バンビシャスは、愛媛の者達にリベンジできるだろうか。。。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 バンビシャスは、愛媛の者達にリベンジできるだろうか。。。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはでき ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。 ◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 >実態は九州の胎土や筑紫の胎土の土器であった、いう事なんだろう。
筑紫忌部によってね。 @阿波 前スレ>999
>その常識の根拠を問題にしてるのだ。
それは、日本書紀と古事記で、倭と日本の置き換えがあり、
日本に耶麻騰と読みが指定してある、で十分だろ?
神倭伊波禮毘古・神日本磐余彥
廼生大日本(日本、此云耶麻騰) または暗殺未遂で傷を受けて衰弱したから
卑弥呼自身が亡くなった後の事を考え死を秘密にしたかった >>79
日本書紀で日本・ヤマトはOKだ。
しかし、それより先に編纂された古事記でどのように読んだ、或は読ませたのかが問題なのだ。
そこがはっきりしていないから、根拠があれば教えてほしいといっているわけだ。 卑弥呼の墓は存在しない
亡骸は海や湖に沈められた可能性もある >>632
>倭国が九州だけで、九州と山口が別の国ってのは誰がどう見ても無理<
当然、倭国(≒女王國の九州島付近に入る。
>そして有棺無槨は倭人の習俗記事であって卑弥呼の墓の描写ではない<
張政らは、卑弥呼の葬儀の一部始終を見ており、有槨であったんなら、
一般倭人の有棺無槨と違うのだから、有棺有槨であった、と特記するもの。
しかし、特記されていないから、卑弥呼の墓も有棺無槨。
>その上で初期古墳の竪穴式石室は槨には当たらない<
これは、類スレ主が、大和の竪穴式石室の言い訳をしているが、
竪穴式の「室」は居住性もないし、出入りも出来ないから、「槨」。 >>83
ヤマトタケルという名前が先にあり、古事記と日本書紀で別々の漢字を当てたのだから、読みは同じというのが前提なんだよ。 卑弥呼
わらわの亡骸は周囲を見渡せる眺めが良い所に
葬ってくれまし、地の底は嫌じゃ >>83
>しかし、それより先に編纂された古事記でどのように読んだ、
>或は読ませたのかが問題なのだ。
地名・人名その他、日本書紀と古事記で対応する記述がいくらでもあるだろ?
それで、多くの倭・日本の書き換えがあり、日本をヤマトと読んでいるのに
倭をヤマトと読まないと考える理由がないだろ? 逆に?ww
九州説のご都合以外にはwwwww
大倭豊秋津嶋 大日本豊秋津洲
神倭伊波禮毘古 神日本磐余彦
大倭日子鉏友 大日本彥耜友
大倭帶日子國押人 日本足彥國押人 >>89
九州説としても、倭と書いてヤマトと読むことに異存はない。
それがどこを意味するかは大いに興味があるけど。 >>84
魏志倭人伝を無視した意見は無意味だというのに。
これだから畿内説はどうしようも無い。 >>86
>当然、倭国(≒女王國の九州島付近に入る。
そうやって山口県を倭国に入れてしまったら、
近畿が渡海千里の倭種ってのが通らなくなるぞwww
九州説はすぐに自己矛盾するww >>90
>それがどこを意味するかは大いに興味があるけど。
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>90
>それがどこを意味するかは大いに興味があるけど。
それが、記紀を編纂した頃から現在に至るまで、日本人の常識としては
ヤマトの国といえば、倭國と書いても大和国と書いても、同じ場所なんだがなww
日本人以外の人には常識ではないのかもしれないがw >>91
卑弥呼
わらわの亡骸は宝満山辺りの眺めが良い所が良いの >>92
多くの九州説は東の倭種の国として四国を上げてる。
当時近畿まで認識されていたかは不明。 >>94
>ヤマトの国といえば、倭國と書いても大和国と書いても、同じ場所なんだがなww
違う! @阿波 漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。
後漢書「倭奴国は倭の南極界である」
旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
■倭國条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
※日本の使者に、倭国と日本は別国という認識がある事がわかる
↑これ重要ポイントな。 ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南にグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>94
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな? >>89
大倭豊秋津嶋 大日本豊秋津洲
神倭伊波禮毘古 神日本磐余彦
大倭日子鉏友 大日本彥耜友
大倭帶日子國押人 日本足彥國押人
これらは倭の前に「大」或は「神」がついている。
この場合は・・ヤマトと読んできたことは承知している。
それとは別に、古事記が単独の「倭」をどう読ませたかに関心があるわけだ。
もちろん九州説の都合ということではない。 >>85
@行政的に「文化財」と定義されるのは基本的に人工遺物だけで、
その他の考古学的には重要な情報を持つデータ、例えば植物遺存体などは考慮されないのが全体である。
従って、たとえ遺跡の性質上動植物分析が特に歴史研究上重要なものをもたらす可能性があったり、
発掘者がそうした研究に興味を持っていたりしても、そのための予算をとることは難しい。
A学問的意義と無関係にデータが「選ばれ」るもうひとつの潜在的原因は、
マスコミとの関係である。
日本人の顕著な国民性のひとつは、日本人の起源及びそのユニークさに対する熱烈な関心であるが、
そのために、ひとたび話題性の高い遺跡が発掘され、それが報道されると、
たちまち大量の見学者が押し寄せて遺跡がほとんど観光地化してしまうのは、
吉野ヶ里や三内丸山遺跡の例でも明白と言える。
@は、纒向遺跡では動植物遺存体分析がなされるようになってきている
Aは、確かに吉野ヶ里遺跡では出てないものを建設してしまい
今は夢ロマン軽トラック市場になってしまった >>99の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 >>100
>いつ倭は畿内に東遷したのかな?
8世紀、文武天皇の御宇! @阿波 >>99
>>103
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾する。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>100
>いつ倭は畿内に東遷したのかな?
8世紀、文武天皇の御宇! @阿波 卑弥呼
こ奴らはわらわの国を見つけて
わらわの墓を荒らすのが真の目的じゃ >>105
すると、欽明(現皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>100
>いつ倭は畿内に東遷したのかな?
8世紀、文武天皇の御宇! @阿波 >>640
>倭種の人が倭人<
間違い。
倭人の中に、いくつかの種(=倭種)がある。
>倭種の國が倭国<
これも間違い。
魏の役人たちや陳寿は、倭国と「倭種の国」とを書き分けており、
「倭種の国」は原則として「倭国には含まれない」というような書かれ方。 >>108
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の@景行A成務B仲哀、応神朝(邪馬台国)C応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 中国の史書は、特に変わりない事は基本的にコピペで済ませる。
何か変化が生じた場合は書き換える、書き加えるの繰り返し。
後漢時代の倭奴国が東征/東遷したのであれば、
「東の地を開拓し、都を移した」などという
一文が出てくるはずだよな。
そしてそれが魏の時代に完了していたのであれば、
旧唐書において倭国条と日本条に分割記載されることも無かったはずだ。
3世紀に既に奈良盆地を首都とした西日本大国だったと
考えると矛盾が増える一方で話にならない。 >>112
ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用し、
発音は北部九州の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト(✖大和)王権」(定説)は、
超大国・唐との外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 >>114
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝の冊封拒否を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗って、宇宙の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 唐の皇帝
して、うぬらの国には争いなくして統一したと?
笑わせる事を言う倭っぱじゃ 今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。 倭の読み方の続きなんだけど、
下の三世紀の「大倭」はどのように呼んだのか関心があるわけだ。
こだわるようだが、まさかまさかのオオヤマトではなかったのではないか!?
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使「大倭」監之 >>100
>いつ倭は畿内に東遷したのかな?
8世紀、文武天皇の御宇! @阿波 >>101
>それとは別に、古事記が単独の「倭」をどう読ませたかに関心があるわけだ。
同じ文書の中で、同じ文字が同じように使われていて、別の読み方をするかもしれないと
主張する人がいるのが驚きww
そんな読み方をするとしたら、よほどしっかりした根拠がない限り、
その主張をする人はかなりのご都合主義の人と言わざるを得ない
そういう仮定をすること自体が、普通の発想ではないし頭おかしいレベル
前スレのこれ↓から逃げてるけど、>>101はどう読むと思ってるんだ?
倭國造とか倭漢氏は、倭のまま
倭國造が筑紫の豪族とか九州説は言い出すのかな?ww
倭直なんてのもあるね >>118
>下の三世紀の「大倭」はどのように呼んだのか関心があるわけだ。
大陸中華の読みと、日本・倭国の読みをごっちゃにしても意味ないよ
山の読みは「サン」
大和言葉は「やま」
でも同じものを指すから「やま」に当たる文字として山をあてて、
その上で「やま」と読む訳だ
三国志の大倭はダーワ、デーワと大陸の人は読んだだろうけれど
古事記の倭は「やまと」と読むんだよ
山を「やま」と読むのと同じ 唐の皇帝
ほぅ、うぬらの国に天子とは恐れ入ったわい
となると、わしの国の都に引けを取らぬと言うわけじゃな
違うとなると、わしを侮辱してるのかの・・・? >>646
史料事実や史料実態に沿った本当のことを指摘する者を
「南→東」などのような嘘つき騙しの誤魔化しや、
口先や言葉尻誹謗の力で封じようとする大和説は
どんどん堕落するんだよ 倭っぱ
めめめっそうもございませぬ
おととい出直ししてきやす。
倭っぱ
皇帝陛下に及びませぬが、倭の国にも都が御座います
隋の皇帝
ほぅ、それではもう一度聞くぞよ
そちの国の天子とはなんじゃ?
倭っぱ
宗教的な意味の天子ですだ >>647
>おいおい、祭祀用供献土器を使って墳墓祭祀を行うのは首長層だぞ
前首長の権力を継承する儀式が必要な人民がどこにいるんだ?<
一般の人々も、故人を大事に埋葬しようを思えば、
首長層の祭祀用供献土器を使って上げよう、と思うものだ。 >>126
祭祀用供献土器=小型丸底土器(「東阿波型土器」) @阿波 隋の皇帝
そうなのか・・・では敵意を持つ国でないのだな・・・
あい分かった!わしの権限で倭との交易を許すぞよ >>126
祭祀用供献土器=小型丸底土器(「東阿波型土器」) @阿波 パイレーツ・オブ・カリビアンの曲が流れだす
その後
大舟に乗り込んだ小野妹子の長い航海と冒険が始まったのだ >>126
祭祀用供献土器=小型丸底土器(「東阿波型土器」)は、決して畿内第X様式土器ではない! @阿波 >>126
祭祀用供献土器=小型丸底土器(「東阿波型土器」)は、決して畿内第X様式「弥生土器」ではない! @阿波 ◆FAQ 23−1
>Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
>A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
「径」が円形以外のものにも用いられるということで前方後円墳にも用いられたという説だね。
ならば大きさが合わないね。箸墓は270mだから百余歩ではないね。
> また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
ごまかすな、円丘のみで葬儀を行い、その後に方部を建造したなんて例はないし箸墓がそうであった証拠はない。
円丘と方部建造にタイムラグがあればかならず周溝に何なりかの痕跡が残る。 >>121
>倭國造とか倭漢氏は、倭のまま
>倭國造が筑紫の豪族とか九州説は言い出すのかな?ww
それはずっと後世の名前だろ?
倭の主権がいつ畿内に移転したのか考えるヒントにはなるだろうけど、卑弥呼即位の直前の後漢代には倭といえば対馬海峡だった。
で?
いつ倭は畿内に東遷したんだ? >>134
>いつ倭は畿内に東遷したんだ?
8世紀、文武天皇の御宇! @阿波 >>129
>小型丸底土器
そういえばその4世紀の土器がホケノで出土してたなw 唐の皇帝
おい倭っぱ、なんじゃまた懲りずに来たのか
倭っぱ
皇帝はん、すんまへんな、あのですね
唐皇帝さん凄いっす、唐は半端ねぇーす
もっと唐文化勉強したいっす
唐の皇帝
はぁ〜、もういい分かった許そう >>136
小林行雄氏による弥生土器の編年
@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場
A その後、庄内式大和形甕の登場 @阿波 テンプレートが論破されてしまい、奥山氏が、元気を失ってしまったな。。 >>699
>しかも高祖神社から細石神社へは神輿が渡る神事があった。<
ふーん、成程。 >「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
ならば150mくらいの前方後円墳を出してくるのかと思えば278mの箸墓だという。
そして、
> また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
やはり径は円墳のことだとのたまう。
前後の文脈で矛盾してることに気づかないアホの>>1 アフォのぉ>>1 >>126
祭祀用供献土器=小型丸底土器(「東阿波型土器」)は、決して畿内第X様式「弥生土器」ではない! @阿波 >>705
>龍宮は豊玉姫の故郷、志賀島の綿津見神社。
天孫族がいたのは博多湾を渡った高祖山のクシフル峰。
ヒコホホデミを祭るのが高祖神社、木花佐久夜毘売を祭るのが細石神社。
博多湾沿岸が神代の舞台だよ。<
ふーん、成程。 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、このスレッドでは、バンビシャスが、活発化するためには、どうすれば良いのかを討論すれば良いな。 倭っぱ
唐の皇帝はん、唐の実力こんなもんか
おお?おのれに聞いとるんや皇帝はん、はよ答えんかい
唐の皇帝
えぇ?なに、なに倭っぱ大丈夫?
ここ一応王宮だよ >>138
あったw
■ホケノ山古墳の土器
ホケノ山古墳について、多くの考古学者は、庄内式土器が出土していることから庄内式期の古墳としている。
ホケノ山古墳の主体部からは、庄内式土器だけではなく、布留1式期の指標といえる小形丸底土器もまた出土している。
小形丸底土器は、口縁部の直径が十センチから十五センチていどの、小形の、丸い底を した壷形の土器である。小形丸底壷ともいう。
口縁部直系が、本体の直径よりも大きいという特徴をもつ。
小形丸底土器は、庄内式土器の時代と布留式土器の時代とを分ける、重要な指標土器として使われてきたもので、小形丸底土器は、布留式の時期にならないとでてこない。
庄内式土器の段階ではまったく出土しないのである。 >>709
>一応、弥生後期あたりの名柄遺跡。
ただし銅鐸と鏡が同時に出ているのは、銅鐸文化を維持しつつ、
外来文化として鏡を受け容れたのであろう。
というか長柄神社の祭神シタテルヒメを象徴するように、
両親である大国主と多紀理毘売命(宗像三女神)の祭器なんだろうけど。
大国主が銅鐸、多紀理毘売命(宗像三女神)が多鋳細文鏡なのだろう。
ちなみに国宝ね。
被葬者がまるっきり鏡祭祀の人間ということではホケノヤマ古墳被葬者かな。
多分、ウマシマジだと思われるけどね。
纏向石塚にも鏡があったのかもしれないが、みつかっていない。<
ふ〜ん。 >>146
布留1式期の指標といえる小形丸底土器は埋葬部の右端だったかにしか出てない。
一方、供献された庄内土器は被葬者を取り囲む形で埋葬部全体に出ている。
だから小形丸底土器は後世の落ち込みという説が出てた。
どっちにしても建造時期の地層ではホケノヤマは纏向石塚に次いで古い。
年輪年代で葬儀が3世紀前半と言われる勝山古墳より建造時期が古い。 唐の衰退により大陸との交易は衰退したのであった
それは宝満山近くに眠る卑弥呼の夢でもあったとさ
終わり つまり、ホケノ山古墳は、4世紀に出現したのだな。。。 >>712
>一地域にそれに該当する伝承があるので卑弥呼の墓はそこなのだ。
その伝承とは神武東征紀の土蜘蛛退治、場所は高天原(御所市高天)だ。<
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の明確な証拠はないし、
「南≠東」などに拠っても×だ。 >>151
レベルの高い学部の者達の研究では、4世紀の半ばなのだったな。 職場の大先輩格の研究を裏付けたという大河内隆之氏は、信用しても差し支えない人物なのだろうか、、、 >>715
>天武天皇は実在したろ、天淳中原おきの真人。
道教にいう東の神仙境の真人。奥義を悟った天皇だよ。
真人がつくのが応神から<
ふーん。 コラ
奥山・・・・
以婢千人自侍
宮室樓觀城柵嚴設
常有人持兵守衛
をマキムクで証明しろ
巫女、兵が通勤と言ってる馬鹿学者名あげろ >>716
>聖徳太子は過去を知り尽くした後に
未来の知識者に対して挑戦を仕掛けたのだった とタジフが言っている<
タジフって何?。 奈良県民が応援している者達は、今度の週末は、橿原で闘うのではないのかな、、、 ホケノ、マキムクの年代なんてどうでもいいよ
全国各地に豪族はいたんだろうが・・
畿内に豪族がいたのはたしかだろうが・・
邪馬台国と関係ある物証は何なの???
誰かの引用じゃねーけど
以婢千人自侍
宮室樓觀城柵嚴設
常有人持兵守衛
をマキムクで証明してごらんww バンビシャスは、愛媛の者達を叩き潰すことが出来るのだろうか、、 >>134
>それはずっと後世の名前だろ?
古事記では倭と書いてヤマトと読むのは納得したのか?
また話をそらそうとしているが、
古事記において倭をヤマトと読むかどうかってところでごねてたんだぞ?お前はさ?
まず、「はい」か「いいえ」かで答えろ
古事記の「倭」は、ヤマトと読むのは理解したのか? >>146
>小形丸底土器は、庄内式土器の時代と布留式土器の時代とを分ける、重要な指標土器として使われてきたもので、小形丸底土器は、布留式の時期にならないとでてこない。
>庄内式土器の段階ではまったく出土しないのである。
小型丸底土器は庄内式の始めから出る >>723
>筑紫は防人の土地、倭国の王統とは関係ない。<
筑紫は倭国の都の地。
大和は、倭国の別種分家の、神武らの東征での拠点を造った地であり、
倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国の附庸國。 >>159
奈良県民だけど、俺は畿内説ではない
畿内説のバカ学者どもの飯のタネにされるのは迷惑千万
2王朝説か東遷が妥当だよ >>164
>小型丸底土器は庄内式の始めから出る
いや、小型丸底土器(「東阿波型土器」)は庄内式の前から出る。 庄内式は、小型丸底土器(「東阿波型土器」)の後! @阿波 >>161
まきむくは古墳造営基地?が通説になりつつある
しかし
大きな王国が畿内にあったのだ
邪馬台国は九州の歴史であり日本国の歴史はヤマト王政 いち早く大陸から倭国の歴史を手に入れた人物
その後、聖徳太子(厩戸王)は過去を調べつくしたと
タジフは言っている >>740
>卑弥呼の時代は北部九州の没落後の時代<
いや、弥生銀座の全盛期であり、
卑弥呼の死後も、那珂八幡や一貴山など、栄えた。
しかし、317年頃に筑後〜久留米に遷宮して、中心が変わった。 @阿波さんよ
畿内の出先ぐらいで騒ぎすぎ
阿波説 出雲説 近江説は 畿内説と同じ
東海が問題なの >>744
>霧島連峰の高千穂峰に青銅の剣が突き刺さっていることだし、
ここが天孫の降臨したところ。<
天空から霧島の頂上に降臨した、という事など、
起こった筈がない、 >>169
>まきむくは古墳造営基地?が通説になりつつある
九州説はどうして平気でこんなウソをつくんだろうねえ >>174
それが嘘と決めつける証拠は?>>156 >>756
>天孫降臨?海から上陸に決まってんだが、それは恐らく石上神宮。
卑弥呼と半島人がここと決めたんだろ。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>174
>まきむくは古墳造営基地
妥当ですよ。
極めて客観的で正常な意見かと。 巻向は、九州の倭国に滅ぼされた銅鐸王国の、王家の者達の怨恨が充満した死体や魂を、封印するための、祭祀場だったな、、、 倭国が滅びたため刺青の文化は大和国には継承されなかったとさ >>172
東海忌部がなんだって?
熊本はなんにも関係ないよ。 わははははは @阿波 >>763
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の本質は、
ひたすら「都合の悪い史料事実の否定曲解」や、
作り話を考えることのようだ
基づくべき情報を決して提示しないからな 四国には流罪地として刺青文化が残っていたと言われてる >>782
理由も言わずに「南→東」などの嘘付き騙しをして、
国民や世間の常識と違うことを
結論だけいくら連呼しても
ばかにしか見えない大和説 >>185
「土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は阿波国の「矢野遺跡」が最西端に位置する。
同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。
この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、土製のモノはこれが最古級である。
「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。
用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に使われたと考えるのが妥当である。
また、仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」とあるように入墨(文身)を表したものであろう。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>188
それ、全部ウソだろ
九州説って狂ってる >>189
我々、山の民は秦の?政と共に戦ったとタジフは言っている >>803
「南→東」などの嘘吐き騙しの指摘に対して、
悪口しか言い返せないのは
大和説が今日もまた論破されたという証拠だな >>806
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレて、
根も葉もない中傷しか出来なんだから
大和説はもう終わったってことだよな そろいも揃って九州説は、なんで証拠が出せないんだ?
異常だよ どのようにして、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか、、、 >>195
邪馬台国畿内説は、嘘が、全て曝かれ、破綻したのだったな、、、 NHKが邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表しました。
そして、同じ放送では、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法を発表したのだったな。。。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのではないのかな、、、
そして、九州には、費用も人員も、巻向程の面積に対して、巻向の1/7程も、集中的に調査した地区は無いのだったな、、 新石器人に追われ島はさんで二度泳いで辿りづいた明石人の国だろ >>827
>須玖岡本遺跡などの厚葬甕棺墓の時代には繁栄していたのが
2世紀に入る前頃から没落しているのもまちがいない<
地域的には弥生銀座内であり、
3世紀後半中頃には那珂八幡などの前方後円墳が幾つも造られているのだから、
繁栄していた事には間違いがない。 >>113
>後漢時代の倭奴国が東征/東遷したのであれば、
>「東の地を開拓し、都を移した」などという
>一文が出てくるはずだよな。
出てこないよw
中華王朝は夷人のことなど大して興味がないから
大陸から見て帯方東南大海中の洲島の上は十把一絡げで倭種で倭人であり倭国ってだけ
磯城瑞籬宮から磯城日代宮に「遷都」したなんて考えないだろ?
同じ国内でどこに都があっても気にしないよ >>113
>そしてそれが魏の時代に完了していたのであれば、
>旧唐書において倭国条と日本条に分割記載されることも無かったはずだ。
これは相当恥ずかしいぞww
国号が異なるから別立てになっているだけで、
旧唐書の倭國も日本國もどちらも大和朝廷だw どのようにして、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか、、、 >>134
まず、「はい」か「いいえ」かで答えろ
古事記の「倭」は、ヤマトと読むのは理解したのか? >>832
結局、公的研究者のほぼ全員が、
「南→東」の嘘吐き騙しの大和説や、
「存在もしなかった畿内」説を前提とするようになったのは、
現在の学会教育界や公的研究機関のトップに逆らっては、
食えなくなり生きて行けないと、判断できたから >>164
>小型丸底土器は庄内式の始めから出る
嘘云うな、ホケノで出たのは布留0又は布留1の形式と言われる。
ただし埋葬部分の隅っこに破片としてしか出ていない、これを後世の落ち込みととらえるか否かだ。 >>207
>嘘云うな、ホケノで出たのは布留0又は布留1の形式と言われる。
誰が言ってる? >>843
>後漢書は東夷伝が簡略化されて三国志の東夷伝より字数が減っていることに注意
後漢書の桓霊の間というのは、三国志東夷伝で言えば韓の「桓靈之末、韓濊彊盛」を
引き写した物なんだよ <
ふーん。 >>847
>こんな詭弁がまかり通るなら、倭国大乱を3世紀にでも4世紀にでも移動できるよな。 <
「倭国大乱」なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。 >>851
>平原1号墓以降、九州製作の彷製鏡って出土しなくなるだろ?<
渡来の何組かの渡来の呉系楽浪鏡師らのグループの関与によって、
以来注文も受け、同范や錆色塗装にも関与し、
大和の鏡作り神社での子弟への教育にも関与したから。
>代わりに畿内から配布された三角縁神獣鏡が副葬されるようになる<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
「畿内から配布」ではなく、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与。 >>852
>九州北部がヤマトと呼ばれた形跡も記録も伝承も一切ないんだよww
残念でした<
「ヤマト」はおそらく、
邪馬部族の、地方の市を監督する大倭職の国の門(入口)の意味。 >>854
>これは嘘だな。
九州ではそれほど三角縁神獣鏡は出ないからだ。
そして畿内の古墳では、量産型の三角縁神獣鏡よりも上位に九州北部から継承された内行花文鏡が上位に置かれている。 <
成程。 >>860
>実際桓霊間に倭から朝献してくることがなくて
日本では吉備や山陰に大規模な王墓が造られる <
出雲は、6世紀まで存続していたようだし、
吉備は、出雲の支配下にあったが、
九州倭国の東征で九州倭国との関係も強くなり、
大規模は王墓は、3世紀後半頃。 >>862
>記と紀を比較すれば、倭だけでヤマトと呼んでいたことは確実だよ。<
記紀は、半分偽書だよ。 >>865
>伊都国では鏡の生産が続いていたから。
工房とか鋳型とか出るよ。<
ふーん。 >>875
>要は、倭国乱があったのかなかったのか確定すること。<
ほぼ同時代史書で信頼性のある魏志の記録では、あった。
>倭国乱があったのなら、その時期はいつかを確定しなければならない。<
卑弥呼の「年已長大」から推定して、220年前後頃。
>そこで、桓霊の間が信用できるか、それとも梁書のように時期を絞り込むかということになる。<
後漢書も梁書も、半分×書。
>このようなわけだから、倭国乱はあったの? 無かったの? <
あった。 >>889
>筑後山門あたりはまだ畿内の供献土器の博多湾沿岸とは関係ない <
「畿内の供献土器」いうものがあったとしても、3世紀末以後。 >>173
あれぇ。
そんな夢みたいなこと言っちゃダメ。 >>219
>220年頃…
卑弥呼の「年己長大」から推定して、という意味がよく分からない。
倭国乱の原因は気候の寒冷化。
不作の年が現われるようになり、こうした収穫の不安定さに対処しようと社会構造の再編行動が起こって地域連合が進んだ結果、いよいよ大連合に向けての勢力間抗争が展開した。
なので、この寒冷化の時期が注目される。
弥生時代後期後半に寒冷化が強まったとされるので、だいたい2世紀後半入りからが倭国乱の始まりで、抗争勢力が手打ちして卑弥呼を共立したのが寒冷化の深化が一時解消された180年頃と考えられる。
しかし、寒冷化の解消は一時的で、その後寒暖の変化は大きくなり、やがて3世紀後半からは古墳寒冷期と呼ばれる低温気にいよいよ突入していく。
このような流れからすると、桓霊の間という倭国乱の時期は案外妥当ではないかということになる。 >>220
葬儀のときに墓丘に供えるセットの土器には壺、器台、高坏などがあり、近江、木津川、奈良では弥生中期頃にはその供献土器は定型化しているようだ。 >>86
>九州と山口が別の国ってのは…
川ひとつで国が違うのごく普通なんだけどな。
>張政らは、卑弥呼の葬儀の一部始終を見ており…
張政らはおそらく伊都の逗留所に留まっていて、戦地だった邪馬台国へは行っていない。
卑弥呼の葬儀も見ていない。
生前の卑弥呼にも台与にも檄を送っているので、直接会っていないことが分かる。
だから、卑弥呼の墓が径百余歩というのも殉葬奴婢百余人もあやしい。
墓や奴婢殉葬は邪馬台国の役人から聞いたものだろう。
その役人が本当のことを言ったのかどうか、甚だ不審だ。
墓の百余歩と殉葬百余人の「百」が対になっていることからして、おそらくこの「百」は実数ではないだろう。 >>908
>博多の筑前型庄内甕供献はTB期古層から
卑弥呼の生存中 <
成程。 >>910
>九州ではそれほど三角縁神獣鏡は出ないからだ。 つまり田舎なんだよ
畿内から下賜された三角縁神獣鏡を大事に副葬している<
△は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与。
列島で一番古い△は志登らしく、その次に祇園山などがあり、
更に藤崎西新町、那珂八幡などと続く。
大和の△は4世紀。 >>912
>日本書紀では、古事記の倭を日本に書き換えていると単純に思っているだろうが、
書き換えは大王、皇族の名前がメインで、豪族の名前はそのまま倭でヤマトと読ませているよ
倭國造とか倭漢氏は、倭のまま
倭國造が筑紫の豪族とか九州説は言い出すのかな?ww<
倭國造とか倭漢氏とか記録されたのなら、当然その氏族は、
九州倭国系の氏族である事を誇っていた、んだろうな。 >>916
>3世紀よりも前に、西日本一帯に鏡を威信材をみなす文化は広がっていたんだよ
3世紀時点で北部九州の占有物ではないし北部九州固有の特徴でもない
太田南五号墳では方格規矩四神鏡で「青龍三年」の紀年銘鏡が出ている
この年代は、卑弥呼の遣使よりも前だ <
これに対する反論が全て「このページを表示できません」とされ、
投稿不能であったので、止むを得ず、バス
であったが、今は投稿OKのようなので、書いておく。
青龍三年鏡は、当然明帝下賜鏡であった可能性があるが、
同范鏡があるので、明帝が同范鏡を贈るというみっともない事をするのか?が疑わしく、
だから、一枚は明帝下賜鏡そのものであり、それを卑弥呼が地方の豪族にが下賜し、
もう一枚は、渡来の呉系楽浪鏡師らが同范鏡を造ったもので、
それを卑弥呼が地方の豪族に下賜した、という可能性もある。 >>210
小型丸底土器で1個や2個でそんな区別は出来ないんだよ
かけらでは完全に無理
つまり石野は単に現場のカンと言うか印象論で言っただけ
石野本人も布留0登場より前の時代に編年してる >>229
>もう一枚は、渡来の呉系楽浪鏡師らが同范鏡を造ったもので、
同笵鏡という言葉の意味を知らずに思いつきでデタラメを言っているいだろう
そんなことは物理的にあり得ない >>929
>筑紫は古代から軍事要点であり、日本の玄関口だが、
そんな所に女王国があるわけないの。<
逆だな。
大和の方が、毛人や出雲系銅鐸祭祀部族や越などとの玄関口であり、
だから「邪馬族や倭国の門戸」の地(=大和)であったの。 >>186
高校の教科書だってーー断定した表現なのか?
また、その出所は?
奈良県教委、桜井市教委のクダランやつらの公表をそのまま載せたんじゃねーの それよりも老婆談
老婆の家では牛を飼っていて・・・何やらとか、
謎の芝居などと、ほとんど同じなんだけど、どういう事なんだろう 見苦しい。
出土遺物のうち最も新しいものの時代を採用するというのが考古学の鉄則。
しかも複数の遺物が4世紀であることを示している。
もともと4世紀だったものを3世紀と言い始めたのが間違いの始まり。
そういえば、なんで3世紀になったのだったっけ? 何かおかしいと思っただろう・・・。
何かの家の人みたいだとか、家は漁師でもないし でも明治時代の〜でもないしなw
何なんだろう、ホンモノとか? >>230
>小型丸底土器で1個や2個でそんな区別は出来ないんだよ
できてるよ。
小池香津江.さんなんかも参加して、やれ布留0だの、布留1だのやってたのを覚えてる。
最近その手のサイトを見ないけどね。
ホケノ山の落ち込み説は誰でも知ってるはずだ、お前平気で嘘つく男だな。 >>212
海東鏡があるから渡来の楽浪鏡師は来てない >>235
炭素14c測定法や副葬品の年代観から畿内のホケノ山古墳などは3c
例えば古墳の外堀からコーラのビンでも見つかったらこれはつい最近作られた古墳だと言う?
そう言う事だ ストーカーがいるんだろう、
数年前の信オンというスレもw家の真似をしている人がいたり
傾いた松・・・人物のところを読んでみた?
日神(霊)〜、初めて〜、と書いてあるし 信オンというスレ
何かの後胤だという説、後胤というのはワタナベと言っていたりw
家の老婆談(旧姓わたなべ)によると・・・、
老婆の家では牛を飼っていた?家が何かの家だと言ってるんだけど 箸墓が陥落したので、今度はホケノに立てこもって抗戦か、、、
ま、公孫淵の乱のごとし、ホケノもそう長くはあるまい・・。 町(村)のほうまで薪、木?などを売りに行って、
炭焼き・・・そういう話もしていたり
あの中国の話? そもそも土器編年を過大評価しすぎなんだよ。
4世紀に3世紀の土器を廃棄する事はあるだろう。
埋葬者に応じた供養がされていたなら、出身地や年代に合わせて4世紀に3世紀の様式が用いられたかもしれない。
実際に北部九州の支石墓の埋葬者は倭人では無い事が確認されている。
半島から渡ってきて亡くなった人は半島方式で埋葬されていたんだよ。 それにしても、近所に誰か住んでいたのかな、
『伊達の桃太郎』
「皇」あと劔?このような文字が書いてあったり 箸墓の指揮官は逃亡した。
ホケノの雑兵も無駄な抵抗はやめて平穏に帰れ! >>241
小林行雄氏による弥生土器の編年
@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場
A その後、庄内式大和形甕の登場 @阿波 >>241
おいおい
1個や2個でそんな区別が出来ないから議論が紛糾したんだろうが
布留0と布留1の区別のキーは小型丸底土器の定式化と精製3器種セットの完成だから
何個か見ないと確定的なことが言えないんだよ
ホケノの丸底壺は明らかに定式化以前だから布留1の線は最初から無い
だから纒向2〜4式の中での議論だ
ただ、口縁部の開き方の特徴が布留1っぽかったのに皆が引っかかった
だがその後、もっと古い東瀬戸内系土器で祖型が見つかったので議論が収束した
最近この手の話が出ないのは、そのため >>248
>4世紀に3世紀の土器を廃棄する事はあるだろう。
そんな非常識なこと言ってるから九州説は笑い者になる >>246
残念だけど別に陥落してないなあ
後円部が直径140mで魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の大きさ径百歩、144mと同じという事実は
箸墓古墳と魏志倭人伝が存在する限り存在し続ける ・・・芸能関係の話をしていたり、
『竹取物語』
養子、養女?あの中国の話しで言うと貂蝉とか >>253
と言ってるお前が笑われてるんだけど。
世界から。 東を南と勘違いし、且つ長里だとしたら関東や東北も候補に出来るな。 昔、女王の死に際して、あるいは何らかの戦いで、奴婢100人以上が殺される大事件があった。
これほどの大事件ならば、当然ながら代々語り継がれ、それを語り継ぐ語り部もいたりして、その大事件は確実に伝承されてきたはず。
この日本のどこかに、そのような奴婢殺戮の伝承があるはず。
それがどこにもないのなら諦めるけれど、ある、しかも日本書紀・神武東征紀にそれが書かれている。
箸墓古墳であれ、平原墳墓であれ、祇園山古墳であれ、そのような奴婢殺戮の伝承はない。
「ない」時点でこれらは卑弥呼の墓ではない。
神武東征紀に書かれた奴婢大量殺戮の場所、それは高天原(御所市高天)である。
http://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m >>202
>旧唐書の倭國も日本國もどちらも大和朝廷だw
そんな詭弁がまかり通ると信じているなら、畿内説の頭の中はおめでたいな。 >>252
>布留0と布留1の区別のキーは小型丸底土器の定式化と精製3器種セットの完成だから
何個か見ないと確定的なことが言えないんだよ
その何個かの断片の特徴が布留1に酷似してたはず。
だからと言って構成落ち込み説もあるくらいだから、
ホケノヤマを布留1の時代とは言わないが、
お前は自自治を曲げすぎ。 × お前は自自治を曲げすぎ。
〇 お前は事実を曲げすぎ。 >>201
>大陸から見て帯方東南大海中の洲島の上は十把一絡げで倭種で倭人であり倭国ってだけ
壱岐や対馬を九州と区別しているくらいだから、九州と本州だって区別しているよね。
畿内説はちゃんと魏志倭人伝と向き合うべきだ。
このままでは畿内説は空想歴史だよ。 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、このスレッドでは、バンビシャスが、活発化するためには、どうすれば良いかを討論すれば良いな、、 >>263
>その何個かの断片の特徴が布留1に酷似してたはず。
解決済み
しかも形が似てただけというだけの話
それに、断片だけじゃ判らないって説明されても理解できない? 箸墓古墳(真の神武陵)後円部の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/ ̄ ̄ ̄神 ̄武 ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ >>252
>だがその後、もっと古い東瀬戸内系土器で祖型が見つかったので議論が収束した
最近この手の話が出ないのは、そのため
すまん、後半読んでなかったがそうなのか。
それならそれで俺は納得。 >>92
>>当然、倭国(≒女王國)の九州島付近に入る。<
>そうやって山口県を倭国に入れてしまったら、
近畿が渡海千里の倭種ってのが通らなくなるwww
九州説はすぐに自己矛盾するww<
山口県全体が倭国だ、なんて事も思わない。せいぜい山口県の半分位以内が、
倭國の範囲。
そして、それ以東の瀬戸内の南北や東の海岸地域が倭種地域。 箸墓=神武陵
纏向遺跡=倭迹迹日百襲姫の祭殿
で桶? そうするとますます瀬戸内と纏向古墳群の関係が濃厚になる。
卑弥呼が箸墓だというなら、
卑弥呼と瀬戸内の関係を誰も説明できないだろ。
実際、直接関係はないし。 つまり、何かの何個かの断片の特徴が布留1に酷似していたという物事は、真実なのだな。。。
267日本@名無史さん2019/10/25(金) 08:22:53.92
>>263
>その何個かの断片の特徴が布留1に酷似してたはず。
解決済み
しかも形が似てただけというだけの話 考古発見物体の式という物事は、形で、決定される可能性があるな。。。 >>264
>〇 お前は事実を曲げすぎ。
どんな事実をいつ曲げた? >>265
>壱岐や対馬を九州と区別しているくらいだから、九州と本州だって区別しているよね。
「或絶或連」の島々だとね
千里も離れてない
九州説って、ちゃんと魏志倭人伝と向き合ってないね
てか、そもそも読んでないだろ? >>268 >>271
逆に考えるんだ!
神武陵であることを隠すために、崇神が倭迹迹日百襲姫を追葬し、彼女の墓ということにしたと! 何個かの断片の特徴が、布留1という物体と酷似していたという物体は、何処に在った、どのような布留1なのだろうか。。。 邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、このスレッドでは、バンビシャスが、活発化するためには、どうすれば良いかを討論すれば良いな、、 つまりホケノ山古墳はどちらかというと4世紀と編年しておく方が妥当なんだな。 >>270
>そして、それ以東の瀬戸内の南北や東の海岸地域が倭種地域。
それは倭人伝のどこから出てくる解釈?
w
九州説はちゃんと魏志倭人伝と向き合うべきだ
このままでは九州説は空想歴史だよ 纏向は、八方位では、帯方の東にある可能性が高まっているのだったな。。。 >>282
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったのではないのかな。。。 破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が住んでいる、帯方郡のあった地点は、何処なのだろうか。。。 >>272
誰に話しかけているのか意味不明だな
お前は文章が下手すぎる
最低限の勉強しろ
>卑弥呼が箸墓だというなら、
>卑弥呼と瀬戸内の関係を誰も説明できないだろ。
その妄想に何か根拠はあるかね?
無いだろ
>実際、直接関係はないし。
証拠は?
結局お前の投稿は馬鹿の典型が書く文章の特徴が揃ってる
知能低く生まれついてしまったのなら気の毒なことだが
少しは努力で他人との差を埋めて見せろよ 破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が住んでいる、帯方郡のあった地点から、その水平面の、正東南東の方角へ延長される直線は、日本列島の上空をどのように、通過するのだろうか。。。 >>286
破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が住んでいる、帯方郡のあった地点から、その水平面の、正東南東の方角へ延長される直線は、日本列島の上空では、纏向の西側から南側に向けて斜めに横切る可能性が高いのではないのかな。。。 畿内説が根拠として主張する内容は、いつも中国史書とも記紀とも整合しない話ばっか。
つまり妄想起源の独り言。 >>288
つまり、纏向は、八方位では、帯方の東にある可能性が高まっているのだったな。。。 箸墓の指揮官は逃亡した!!
ホケノも長くはあるまい。 破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が住んでいる、帯方郡のあった地点の水平面に、その水平面に対して日本列島を垂直に投影したとき、纏向が投影される地点は、纏向の垂直方向では、ないのだったな。。。 破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が住んでいる、帯方郡のあった地点は、何処なのだろうか。。。 >>290
倭人は、帯方の東南の大海の中にあるのだったな。。。 破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が想定している、帯方郡のあった地点は、何処なのだろうか。。。 卑弥呼の死後に戦乱が起きてるんだから、箸墓の周濠に1000人程の遺体が埋まっていてもおかしくなさそうだけどな。
土器片と馬具しか出土しないのは不自然。
流入が考えられるのなら、ならなおさらだ。 >>292
九州説さん
そういう空虚なスローガン叫んでて
心が虚しくなんない?
あ・・・頭部の中身が虚しい人だっけ >>277
そのためにわざわざ、女性器を「箸」で突いて死ぬという伝承まで創作したのかもな。
「箸墓」被葬者が女性であることを末端の民草まで理解できるように、面白おかしくw 纏向は、八方位では、帯方の東にある可能性が高まっているのだったな。。。 >>297
>卑弥呼の死後に戦乱が起きてるんだから、
起きてるって根拠は?
w
九州説はちゃんと魏志倭人伝と向き合うべきだ
このままでは九州説は空想歴史だよ 記録に無い事を、歴史に変換する民族は、韓民族の行動パターンと、一致するので、あったな。。。 NHKが邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表しました。
そして、同じ放送では、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法を発表したのだったな。。。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのではないのかな、、、
そして、九州には、費用も人員も、巻向程の面積に対して、巻向の1/7程も、集中的に調査した地区は無いのだったな、、 纏向は、八方位では、帯方の東にある可能性が高まっているのだったな。。。 >>304
お前が見てるのは世間では「幻覚」というんだよ。
これが魏志倭人伝な。
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。」 『chosen one』
チョーセンと読めるし、ほんとーに、おかしな話ばかり
このような曲もあるとか
Megadeth『Chosen Ones』 家は軍人でもないし、
戦争などにも行っていないとか
陰謀系の話なのかな? 破綻してしまった邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が想定している、帯方郡のあった地点は、何処なのだろうか。。。 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
女王(卑弥呼)死後に男王が立ったが、国中が従わず、また戦乱状態になって、千人程度の死者を出した地域。
3世紀後半の倭国なら、どこ? >>307
千人以上が死ぬほど争ったという事は、男王が複数居て権力争いになったということ。
王級人物が複数居た時代=西日本統一政権などはあり得ないということだね。 >>311
そんな不安定な政治情勢で、箸墓なんて全長280mもある超巨大古墳作れたのか?
戦争人骨や鉄鏃骨鏃が出て来た(副葬品以外で)?箸墓は4世紀の築造だよ。 トンデモ畿内説は、とんでもなく漢文が苦手なのでは、ないのかな。。。 >>301の畿内説は
>>307の漢文が読めないのか?
もしや韓国人?w >>314
新聞発行部数を競うマスコミの印象操作だと思うが、畿内から出る「魏志倭人伝の記述と一致する」鉄鏃は全部古墳の副葬品なんだよね。
北部九州からは、それこそ遺跡の地層全体が真っ赤な海なの?と一瞬思うほど大量の鉄が出てくるのにw もともと日本人ではないのかな?
戦争(近代〜)などには行っていないと言っているし
陰謀? >>316
教養がないんだな
「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。」
これのどこに
「戦乱が起きてる」
って書いてある? 脳が破損した畿内説が、幻想世界を現実と、認識し始めたのでは、ないかな。。。 脳の破損した畿内説によると、更相誅殺は、自分の脳が死滅したことを、意味するので、あったな。。。 だから言っているんだよw
陛下のような人物がいたのかな?と
よくテレビなどで見かける人物ではなくて 複数の男王による戦乱状態に陥ったので、また女王を共立することで、平和を取り戻したという事ですね。 >>146
ホケノ山古墳について、多くの考古学者は、庄内式土器が出土していることから庄内式期の古墳としている。
ホケノ山古墳の主体部からは、庄内式土器だけではなく、布留1式期の指標といえる小形丸底土器もまた出土している。
小形丸底土器は、口縁部の直径が十センチから十五センチていどの、小形の、丸い底を した壷形の土器である。小形丸底壷ともいう。
口縁部直系が、本体の直径よりも大きいという特徴をもつ。
小形丸底土器は、庄内式土器の時代と布留式土器の時代とを分ける、重要な指標土器として使われてきたもので、小形丸底土器は、布留式の時期にならないとでてこない。
庄内式土器の段階ではまったく出土しないのである。<
ふーん、成程。 >>327
反論
「卑弥呼の死後に戦乱が起こった」
って史料根拠が無いという指摘
九州説反論できず荒らし中 「使大倭監之」
訳:大倭にこれを監督させている。
この「大倭」を見た漢字の苦手なチョンが、それが自分たちの事を意味するのだと勘違いして、自国を大倭(大和)と呼ぶようになったのだね。
つまり、女王国に使われる身であったという歴史認識があったということ。
士農工商のような階級制度だったのかな。
そして北部九州の邪馬台国連合=女王国に対して奈良盆地=大倭は身分が低かったので、旧唐書に出てくる日本人は「日本国はかつて小国だった」と表現しているんだね。 日本語には無い、畿内説の言う薄馬鹿という言葉は、あまり馬鹿では無いという、意味なのでは、ないのかな。。。 >>336
大倭王は卑弥呼より身分が低かったんだね。 後の時代(後世〜現代でも良い)の話をしているわけではないのw
漢字の読み書き出来なかっただろう?あと計算なども
頭が悪いんだろうw 女王を共立した=出来の悪い男王が複数居た
という常識 女王より身分の低かった大倭王の墓は、当然ながら卑弥呼の墓より、小さいのでは、ないのかな。。。 例えば『菅野力夫』wiki
学校に行っていない?みたいな事が書いてあるんだけど・・・、
実際は? >>149
>どっちにしても建造時期の地層ではホケノヤマは纏向石塚に次いで古い。<
どういう根拠?。
>年輪年代で葬儀が3世紀前半と言われる勝山古墳より建造時期が古い。<
これも、根拠がない?。
大和の前方後円墳は、卑弥呼の冢や那珂八幡などの後だから、3世紀末以後。
年輪年代は、絶対性がない。 大倭王含め男王どもが揉め事ばかり起こすから、卑弥呼をその上に立つ女王として共立した。
卑弥呼が死ぬとまた倭国大乱のような事態に発展するのは当たり前のことだな。 >>281
鸚鵡返しでは機内説への支持は増えないよ? ・・・・・・・・家と違うのかな?
たしか当時住んでいた家には、
本や書なども沢山並んでいて・・・と言っているし 箸墓の指揮官は逃亡し、2,3の雑兵がホーケノに立てこもるのみ
畿内説も地に落ちた、明日は地獄だろう、、。 むかーし住んでいたというところも、
伊達郡〜・・・・・・・・山の上のほうだとか >>163
>まず、「はい」か「いいえ」かで答えろ
古事記の「倭」は、ヤマトと読むのは理解したのか?<
まず、「はい」か「いいえ」かで答えろ。
「南→東」のような史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしてもいいのか?。 古いという認識の古墳から、新しい時代の土器が出土した場合、二つの選択肢しかありません。
A:新しい方の土器で編年する→4世紀確定
B:新しい方は混入物と見なす→土器編年の信憑性崩壊 >>319
>「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。」
>これのどこに
>「戦乱が起きてる」
>って書いてある?
千人以上の死者が出ているのは当時としてはかなり大きな戦乱だよね。
畿内説って、どこまで曲芸解釈したら気が済むんだ? もともと、そもそも?
『菅野力夫』から学んだんだよ、習ったでも良い >>352
Bだと発掘担当者のバイアスによる影響が大きすぎて信頼出来ない。
だから学者どもは口裏合わせる為に畿内説統一教会を立ち上げ、信者以外を迫害するようになったんだろう。 >>353
>千人以上の死者が出ているのは当時としてはかなり大きな戦乱だよね。
なんで?
誅殺って書いてあるのに
w
九州説はちゃんと魏志倭人伝と向き合うべきだ
このままでは九州説は空想歴史だよ >>353
キナイコシは低脳だからすぐパニックに陥って変な言い訳をするんだよw >>352
>古いという認識の古墳から、新しい時代の土器が出土した場合、二つの選択肢しかありません。
新しい時代の土器だという根拠は?
無いよね >>356
お前もしや現代語で誤解釈してるんじゃねえのか?w >>358
じゃあ土器編年は崩壊以前に確率されていないという事だね。 このような話があるでしょ
『西王母 北辰』
河童〜河伯?何なのか知らないけど、家の写真、
キュウリのような葉が写っているやつw とうとうキナイコシは、
あらぬうわ言をつぶやくようになってしもた・・。 >>174
「南→東」などのインチキのように、
大和説はどうして、平気でこんなウソをつくんだろうねえ 南と書いてあるにも関わらず東から名乗りを上げてくるぐらいだから、池沼なのは確かだろうよw 日々、反畿内説を増殖させるのが>>1の仕事なのかな?w >>359
反論できない九州説は
荒らししか出来ないんだね これも、ほんとーの話
傾いた松?松の木が立てられている写真
『❓』のような人物でしょ、
たしか伊達郡〜に住んでいたと言っているし、河童(河伯?)の家と同じ家、確実にw 親戚とか、そういう話でもない。
キュウリのような葉に、葱の華・・・、
親がいて、あと何かの制服を着ている子供。
松の木が立てられていて・・・・そこに立っている人、
同じ家。 畿内説スレというよりさあ、頭のおかしなやつが畿内説を擁護するために頭のおかしな発言を繰り返すだけのスレだろ? まさか・・・?
セメント・・・?そういうところで働いていたと言っていたり、
川崎区というところ >>373
>お前の正常な反論を先に出せw
は?
「卑弥呼の死後に戦乱が起こった」
って史料根拠が無いという指摘
しているんだが
返事がないな >>372
>すくなくとも俺は増えたなw
お前は昔から九州説なので
増えてないな 驚いたな。。。
僕達の計算では、奥山氏が想定する帯方郡の経緯度が、秒単位で何処になるかによっては、纏向の掘立遺蹟は、八方位で東になるか、東南になるかは、ほぼ互角なのだな。。。 >>377
俺は最近立ち寄るようになっただけだw
畿内説の胡散臭さはニュー速でよくわかったw >>360
>じゃあ土器編年は崩壊以前に確率されていないという事だね。
という理由は?
なぜ九州説はいつも理由を言わないんだ?
ばかだから? >>376
>「卑弥呼の死後に戦乱が起こった」って史料
これは>>307で提示されたが、お前は何も提示していない。 『姥清水』
いちいち説明しなくても・・・、
ほとんど同じ >>379
>畿内説の胡散臭さはニュー速でよくわかったw
どういう理由で
どう、わかった?
正常な言葉で説明できないの? >>382
>これは>>307で提示されたが、お前は何も提示していない。
それがなぜ「卑弥呼の死後に戦乱が起こった」って史料?
お前は何も説明していない
ばかだから? >>285
>>卑弥呼が箸墓だというなら、
>>卑弥呼と瀬戸内の関係を誰も説明できないだろ。
>その妄想に何か根拠はあるかね?
>無いだろ
妄想ではない、纏向古墳群と瀬戸内の関係は明白。
纏向石塚と吉備の孤文円盤、竪穴式石室のルーツは吉備、土器の内面削り、
鏡の埋納、吉備という地名、大量の桃の種、そして東瀬戸内や西瀬戸内の土器、
そして特殊器台。そもそも前方後円墳自体が瀬戸内の発祥。
この纏向古墳群最大の箸墓を卑弥呼の墓というなら卑弥呼と瀬戸内との強い関係を説明してみろ。 >>363
元から、同じことを何度も呟くばかりの耄碌だったよ。 『河童 仏教』
ほとんど同じことが書いてるし
満天の星〜w いまどき九州説な人間は頭が悪い人しかいないので
自分の考えを説明する能力がない >>376
>「卑弥呼の死後に戦乱が起こった」
>って史料根拠が無いという指摘
畿内説は魏志倭人伝と向き合えよ。
そもそも卑弥呼の存在からして魏志倭人伝が史料的根拠なんだぞ? >>285
結局、3世紀最大の墓だから卑弥呼墓だろうと言う浅い浅い軽薄な思考しかできないから、
瀬戸内物部集団の墓を卑弥呼墓だと間違う大ミスをしでかいsたのだ。
結局お前の投稿は馬鹿の典型が書く文章の特徴が揃ってるw。
知能低く生まれついてしまったのなら気の毒なことだが
少しは努力で他人との差を埋めて見せろよw >>386
お前は何も提示していないって言われてるんだろw
戦乱が起きていないという史料を提示すりゃいいんじゃね?w
お里はどこ?お前日本人じゃねえだろ?w >>190
それ、全部ウソだろ
「南→東」などような酷い嘘つき騙しの大和説者って、
狂ってる 畿内説は魏志倭人伝を史料として用いないの?
それならなぜ卑弥呼がどうとか邪馬台国がどうとか言っているの?
何を史料として邪馬台国を論じているの? 狂人である畿内説には日本語も漢文も通じなきゃらしい。 史料に存在するもの
・九州で発見された金印の由来
・九州らしき地名(対馬・壱岐・阿蘇など)
・九州人らしき民族性(海洋民族)
・九州で特に多く出土する遺物(鉄など)
・九州らしき植生(照葉樹など)
そして邪馬台国。
畿内のキの字も出てこないねえw 一様ではない楕円球の天体のある地点の水平面と地軸との角度を、頭の悪い奥山氏に説明することはできないので、地球を一様な完全球と仮定して、説明してあげれば良いのではないのかな。。。
そして、奥山氏からは、奥山氏の住所だと告白されたこともある、朝鮮人の奥山氏が想定している帯方郡治が、沙里院市の東のどの地点にあるのかを教えて貰えば良いな。。。 >>387
>この纏向古墳群最大の箸墓を卑弥呼の墓というなら卑弥呼と瀬戸内との強い関係を説明してみろ。
卑弥呼は3世紀中葉時点で倭国の王だったんだよね
3世紀中葉には瀬戸内を通じて南九州から東海まで交通網ができていて文物が交流している
倭国の王が瀬戸内と強い関係がない?
まさかね ここの畿内説はそもそも文献解釈の基礎が出来ていないのかな? 卑弥呼は、3世紀中葉には、死体になってしまっていたのだったな。。。
そして、瀬戸内を通じて南九州から東海まで交通網ができたのは、卑弥呼が死体になってからだったな。。。 邪馬台国奥山説は、時代も方角も間違えてしまったのでは、ないのかな。。。 >>399
というか纏向古墳群は瀬戸内集団そのものの墓。
瀬戸内集団を引き連れて大和入りしたニギハヤヒが神武に屈服したのは桜井市外山。
そして崇神は纏向に宮を構え纏向に墳墓=行燈山があるが、その崇神の母親はイカガノシコメ=物部。
物部守屋が素っ裸にした3人の尼さんを鞭で叩いた場所がツバイチ=纏向。
その他、味間という地名があるがこれは名古屋の味鋺神社と同じ地名、味鋺神社の祭神はウマシマジ。
新撰姓氏録では磯城県主の祖をウマシマジの子・ヒコユキとしている。
また桜井の稚桜神社祭神はそのヒコユキの子・イズモノシコオ。
これだけそろってて纏向古墳群は物部の墓ではないと言う方がおかしい。
また物部の滅亡6世紀末に前方後円墳も終了してるわけだし。
つまり箸墓が卑弥呼墓という>>1はとんでもないアホwwww そういうわけで、瀬戸内集団物部の纏向古墳群最大の墓・箸墓を、
卑弥呼の墓だと言う浅い浅い思考力の>>1よ。
知能低く生まれついてしまったのなら気の毒なことだが
少しは努力で他人との差を埋めて見せろよなw 帯方郡から纏向への方角についてを、一様ではない楕円球の天体のある地点の水平面と地軸との角度を、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い奥山氏に説明することはできないので、地球を一様な完全球と仮定して、説明してあげれば良いのではないのかな。。。
そして、奥山氏からは、奥山氏の住所だと告白されたこともある、朝鮮人の奥山氏が想定している帯方郡治が、沙里院市の東の、どの地点にあるのかを、経緯度で教えて貰えば良いな。。。 〒633-0084 奈良県桜井市大字太田
34.546333, 135.840507 僕達の計算では、奥山氏が想定する帯方郡の経緯度が、秒単位で何処になるかによっては、纏向の掘立遺蹟は、八方位で東になるか、東南になるかは、ほぼ互角なのだな。。。 漢字の読めないあちらの人が鳴いてるw
403 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/10/25(金) 11:10:47.27
反論できない九州説が発狂中 それにても、おかしな話ばかり、
当時住んでいた家の近所に、誰かが住んでいたのかな
やまだ(本名?通常、名乗っている名前)陛下? >>194
そろいも揃って大和説は、
なんで「南→東」の曲解の証拠が出せないんだ?
異常だよ >>198
「南→東」などのような史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しや、
悪口しか言えない大和説は、
死んでいる バンビシャスは互角の闘いを勝ち切ることが、課題なのだったな。。。 >>201
>大陸から見て帯方東南大海中の洲島の上は十把一絡げで倭種で倭人であり倭国ってだけ<
いや、倭人であり、九州島付近が倭国であり、
倭種は九州島付近以東であり、区別されている。 畿内説には正常なやり取りの出来ない人がいるけど、日常生活では不自由は無いのかな?
会話が成立していないのに、話を理解した、話が通じた、と解釈してしまうのは精神病の一種なんですけどね。
暇だったら心理学も勉強してみては? >>415
>畿内説には正常なやり取りの出来ない人がいるけど、
具体的に、どの投稿のこと?
それとも
またデッチ上げかな? >>416
だから、具体的に何のことを非難してるのかな?
ただ腹立ちまぎれにデタラメの悪口を言ってるのかな?
具体的に指摘できないなら、そういうことだ >>399
>倭国の王が瀬戸内と強い関係がない?
ねじ曲げるなよ。
畿内説が女王の都だと主張するマキムクが九州や瀬戸内と連携できていない辺境だったんだよ。 >>417
即食いついたなw
統計的総評に対して具体性を要求している自分が見えてる? >>417
文脈が読み取れないコミュ障のキナイコシさん、チィースっ >>418
テンプレと具体的に指摘されているのに具体性を要求してある自分が見えてるか?w >>412
>「南→東」などのような史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しや、
>悪口しか言えない大和説は、
具体的な
指摘をいくつもしてますけど?
会稽東治の東には九州は無いから短里説は破綻したとか
万二千余里で北部九州なら会稽東治の東ではあり得ないとか
いくつも
いくつも どの時代(時代から)のことなのかわからないけど
宮内庁というのが胡散臭いと言っている人がいたり、
このスレでも同じようなことを言っている人がいたでしょ アクセルを踏んでるときはハンドルが操作できなくなるのがキナイコシの脳w キナイコシは正常な会話をしたことが無いんだよ。
というか、人と会ったことが無いのかも。 >>202
>国号が異なるから別立てになっているだけで、
旧唐書の倭國も日本國もどちらも大和朝廷だw <
ダメだ。旧唐書は、
倭國には、
「倭國 者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行」
として、中心は倭奴國の位置であり、関東付近までの全域が支配範囲だった、
とはっきり書いて、東西の方が南北よりも長い事を書き、
日本国に対しては、
「其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國」として、
として、倭国とは違う表現で、東西南北が同じ位の、違う地域だとして書き分けており、
また、勿論唐会要倭國伝では「正北抵新羅」として、
倭国の中心が北部九州であった事もはっきり書いている。 バンビシャスは互角の闘いを勝ち切ることが、課題なのだったな。。。 >>205
>まず、「はい」か「いいえ」かで答えろ
古事記の「倭」は、ヤマトと読むのは理解したのか?<
書紀も古事記も、
倭国の存在を否定抹殺し、倭国の歴史を盗用造作した半分偽書であるから、
始めから、証拠になり難い代物。 帯方郡から纏向への方角についてを、一様ではない楕円球の天体のある地点の水平面と地軸との角度を、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い奥山氏に説明することはできないので、地球を一様な完全球と仮定して、説明してあげれば良いのではないのかな。。。
そして、奥山氏からは、奥山氏の住所だと告白されたこともある、朝鮮人の奥山氏が想定している帯方郡治が、沙里院市の東の、どの地点にあるのかを、経緯度で教えて貰えば良いな。。。 >>422
>テンプレと具体的に指摘されているのに具体性を要求してある自分が見えてるか?w
それ、具体的じゃないよな
具体的に、なんの話なんだ?
言えないのか?
だから九州説はダメなんだ 例えば『聖闘士星矢 教皇』
教皇の近く、後ろのほうに老人のようなキャラがいるでしょ?
日本の話なのかな
『ボーボボ』? 僕達の計算では、奥山氏が想定する帯方郡の経緯度が、秒単位で何処になるかによっては、纏向の掘立遺蹟は、八方位で東になるか、東南になるかは、ほぼ互角なのだな。。。 帯方郡から纏向への方角についてを、一様ではない楕円球の天体のある地点の水平面と地軸との角度を、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い奥山氏に説明することはできないので、地球を一様な完全球と仮定して、説明してあげれば良いのではないのかな。。。
そして、奥山氏からは、奥山氏の住所だと告白されたこともある、朝鮮人の奥山氏が想定している帯方郡治が、沙里院市の東の、どの地点にあるのかを、経緯度で教えて貰えば良いな。。。 >>420
>統計的総評に対して具体性を要求している自分が見えてる?
あほやな
具体性のない統計的総評って
サギだろ、それ・・・ 聖闘士星矢の教皇の近くにいる人物、キャラw
『ボーボボ』で言うと写輪眼〜、そういうキャラでしょ 帯方郡から纏向への方角についてを、一様ではない楕円球の天体のある地点の水平面と地軸との角度を、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い奥山氏に説明することはできないので、地球を一様な完全球と仮定して、説明してあげれば良いのではないのかな。。。
そして、奥山氏からは、奥山氏の住所だと告白されたこともある、朝鮮人の奥山氏が想定している帯方郡治が、沙里院市の東の、どの地点にあるのかを、経緯度で教えて貰えば良いな。。。 左目〜みたいなキャラクター、何なんだろう、何かの本体?
おかしな話ばかり >>440
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏にとっては、都合が悪い物事なので、奥山氏からは、奥山氏の住所だと告白されたこともある、朝鮮人の奥山氏が想定している帯方郡治が、沙里院市の東の、どの地点にあるのかを、経緯度で教えて貰えないのではないのかな。。。 〒633-0084 奈良県桜井市大字太田
34.546333, 135.840507 >>442
やはり、帯方からは、纏向は、倭人のいた東南方向の大海の中ではなく、東方向だったのではないのかな。。。
そして、魏志倭人伝時代に畿内に居住していた銅鐸王国の者達は、倭人ではなかった可能性が高まってきたな。。。 九州説が畿内説スレにアホなこと書き込んで荒らしている時点で
大体の事情はお察しというもの 老婆も
歌舞伎、芝居?そういう話をしていたりw
ホンモノは、そういう家なんだろう 本日のアウトプット↓
朝鮮式思考の畿内説には日本語が通じない。 九州説が邪馬台国と関係ない頭おかしい事ばっか書き込むから
いちいち反論する気も失せちまうなあ 畿内説が朝鮮人言われても違うからノーダメージだけど
九州説が朝鮮人言われると事実だから大ダメージ >>345
>>どっちにしても建造時期の地層ではホケノヤマは纏向石塚に次いで古い。<
>どういう根拠?。
石野・豊岡纏向新編年。
これは埋葬施設の土器ではなく、地層からの編年。
だから古い新しいがはっきりと分かる。
>>年輪年代で葬儀が3世紀前半と言われる勝山古墳より建造時期が古い。<
>これも、根拠がない?。
これも同じく巻向新編年。
>大和の前方後円墳は、卑弥呼の冢や那珂八幡などの後だから、3世紀末以後。
箸墓は那珂八幡の後。
しかし纏向石塚は那珂八幡よりはるかに古い。
とは言え瀬戸内にはさらに古い墳墓もあるので纏向が最古ではない。
>年輪年代は、絶対性がない。
中塚武教授の年輪セルロース酸素同位体比とも齟齬がない。
この方法は1年ごとの年代が分かる画期的な手法。
やれ年輪年代は100年古く出るだのなんだの言ってた九州説者は撃沈。 『伊達の桃太郎』
ほとんど同じ話だしな、西王母?
日本の神話は悪く言うとパクリだと言っている人がいたり 【韓国】「毎年賞金75億ウォン、ノーベル賞超える科学賞作る」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1571921317/
金の力で学問改ざんを狙う朝鮮儒教脳の一例
九州説を受賞させようと狙ってそう 三國志の某のキャラと同じような気がするんだけど、
桑が何やらとか、機織りをしていて
老婆談? 海洋民族である倭人が好んで奈良盆地に住む事はない。
もし住んでいたとすれば、それはいわゆるB落民。
基本的に内陸は縄文系先住民や半島から来たよそ者で溢れていたであろう。
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。 九州説よ畿内説は明らかな証拠も揃って学説でも定説
すでに決着のついた非対称戦と言ったろ
それ相応の態度でいた方がいいと思うぞ 町まで薪や木などを売りに行き・・・、
その後、かぐや姫または貂蝉を発見した? 纏向遺跡では東海産土器が最も大量に出土するなど、東海色の強い遺跡である。
おそらく東日本の縄文系先住民と関わりの深い「倭種の国」であったと思われる。
■纏向出土の木製仮面について
『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。
また奈良時代以降では、大陸より伝わった舞楽で使用されたと考えられる仮面が複数知られている。(←関係無い話なのに関連付けようとする印象操作w)
弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着していると見られる人物が描かれる例が存在する。
(←やはり東日本勢力傘下だった痕跡かw)
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』 魏志倭人伝に描かれた弥生時代の倭国は、やはり鉄文化の発展した国であったと考えられる。
畿内では見ることの出来ない、これぞ弥生時代といった文化的特色を持っている。
富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭〜後期前半)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された
また、 3基の成人用甕棺からは鉄戈や鉄剣が発見されている。
また、B地点からは 弥生時代中期後半の2棟の円形竪穴式住居址が検出され、
集落址でもあったことが確認された。
出土土器は二つのタイプがあり、日用容器の甕や壺は在地系が多く、
埋葬用の甕棺は北九州的要素を含んでいる事が判った。 『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』
そういう漫画やアニメなど、ただの詐欺だと言っている人もいたり >>457
朝鮮人の反論はだいたいブーメランだな>>459 頭の悪い奥山は、4世紀末時点で明日香まで、朝鮮人で埋め尽くされた奈良盆地に、漢字が定着していたことを、証明できないのでは、ないだろうか。。。 頭の悪い奥山は、朝鮮人は漢字を読み書きできないので、朝鮮人で埋め尽くされた奈良盆地には、漢字が定着しかなったということを、証明した方が早いのでは、ないだろうか。。。 箸墓の指揮官は、とっくに姿をくらました
ホケノに立てこもる雑兵どもも長くはあるまい、フヒヒ、、、、 当時の伊達郡の辺りに誰かが住んでいたのかな?
中国の人? 脳たりん は脳たりんな老害が、よく使っていた言葉では、ないのかな。。。 あと『河伯』(かっぱ?)の話
地理的にも近いし、あの桑〜村の人物の出身地?
近いでしょ 箸墓の大きさは、200歩と記述されるのが、正しいのでは、ないのかな。。。
箸墓古墳は、墳長が約278メートル、後円部の直径が約150メートルであり
「百余歩」よりも桁違いに大きい。
長里なら、「百余歩」は、180メートル強だから、後円部の直径にほぼ等しいが、
墳長としては短い。だから、箸墓古墳は、最初円墳として築造され、後に
前方部分が付け加えられたという後円部先行説がかつて唱えられた。
『三国志』魏書東夷伝倭人条を含む『三国志』では、「塚(冢)」と「墳」が
区別されていたことに注意しよう。
『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という諸葛亮伝
の発言や、通常、大君公侯の墓が「墳」であったという記事があり、高さのある
人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を
「冢」というように区別していたことが窺える。 前方後円墳の由来は、東日本で定着していた、前方後方墳が起源なのでは、ないのかな。。。
https://i.imgur.com/49UBvoP.png 頭の悪い奥山は、テンプレが次のCに属することに、気付いていないのでは、ないのかな。。。
@「〜である」
・ほぼ確実(virtually certain、99−100%)
・可能性が極めて高い(extremely likely、95−100%)
・可能性が非常に高い(very likely、90−100%)
A「〜と考えるのが妥当である、〜であると考えられる」
・可能性が高い(likely、66−100%)
・どちらかといえば(more likely than not、50−100%)
B「〜とも考えられる、〜かもしれない」
・どちらも同程度(about as likely as not、33−66%)
・可能性が低い(unlikely、0−33%)
C「〜とは考えにくい、〜可能性が無いとは言えない」
・可能性が非常に低い(very unlikely、0−10%)
・可能性が極めて低い(extremely unlikely、0−5%)
・ほぼあり得ない(exceptionally unlikely、0−1%) 劉備とか、そういう人物がいるでしょ?
河伯(日本では河童)・・・の伝説、地理的にも同じ方角? 3世紀の奈良盆地に居た倭種の人々は、半島政権の天下り朝鮮人に騙され、
中国を見下す文書を持たされ、遥か彼方への朝貢に行かされ、突っ返され、
泣き寝入りしていたのでは、ないのかな。
今の桜井市民のように。。。 頭が悪く数字に弱い奥山は、84%よりも15%の方が、大きい数値だと、思っているのでは、ないのかな。。。
箸墓の桃核
https://i.imgur.com/DyAJWGe.png >>210
>>>ホケノで出たのは布留0又は布留1の形式と言われる<
>>誰が言ってる?<
>石野さん<
そうか。石野も、
「庄内0や布留0」などの「0」編年を造作して、
編年全体を古くしようとしたインチキ詐欺師であったのか。 このような事も書いてあるし
>蜀の地に作られた漢王朝であるため、
>前漢(西漢)、後漢(東漢)と区別し、蜀漢(季漢)ともいう。
なぜか日本の話にも出てきたり 『西漢 東漢』
中国からの渡来人?
日本にも、そういう話があるし >>222
>220年頃…
卑弥呼の「年己長大」から推定して、という意味がよく分からない。<
魏の役人たちが卑弥呼と見たの240年。
その時「年己長大≒30〜35歳」位であったんだから、
生まれた年は、205〜210年位。
卑弥呼の共立を成人に仲間入りの15歳とすれば、220〜225年。 >>299
日本で箸が使われるようになるのは6、7世紀頃とされているからなぁ。
箸で女性器を突いて死ぬとするような話は、その時期以降でないと成り立たんし。
後代の作り話だろうな。
この箸に関わる話の部分を除くと、話そのものは「被葬者が突然死んで、急いで墓を造った」というのがベースだ。
このベースになっている部分は、「卑弥呼が死んで、急いで墓を造った」という倭人伝の記述とよく似ている。
要するに、書紀の編纂者は箸墓が卑弥呼の墓だと匂わしているようにみえる。
奈良の地が「邪馬臺=ヤマト」である以上、卑弥呼の墓は大和のどこかにあるべきだということなのだろう。
しかし、書紀の編纂者は九州山門の地に田油津媛という卑弥呼にそっくりな人物を登場させているから、本来の卑弥呼は九州山門にいたことをちゃんと知っていて、
一方では奈良を邪馬臺=大和とみなしているのだから、その大和に卑弥呼の墓が必要だとして箸墓を卑弥呼の墓に当てて説話を創作したということになる。
邪馬台国大和説を信じている者たちは、書紀の編纂者の術中にみごとに陥っているということだな。
それにしても、書紀の編纂者たちは自分たちよりも500年も前になる3世紀の列島の歴史を実によく知っていたということだな。
なにかそのような表には出ない伝承があった、ということになってくるよ。 >>223
>葬儀のときに墓丘に供えるセットの土器には壺、器台、高坏などがあり、
近江、木津川、奈良では<
近江、木津川、奈良、というのでは、出雲との関連が不明だが、
銅鐸祭祀地域のようだな。
>弥生中期頃にはその供献土器は定型化しているようだ。<
弥生中期なんていうと、紀元頃になってしまい、池上曽根の頃になってしまうな。 >>459
4世紀末から奈良盆地東南に入ってきてる大壁住居が東漢氏の居住地
宗像の光岡六助遺跡のオンドル住居が5世紀中頃
東漢氏一族の大蔵氏の子孫が平安時代の北部九州の支配者である
原田氏・秋月氏・波多江氏・三原氏・田尻氏・高橋氏の大蔵党一族 >>230
>小型丸底土器で1個や2個でそんな区別は出来ないんだよ
かけらでは完全に無理
つまり石野は単に現場のカンと言うか印象論で言っただけ
石野本人も布留0登場より前の時代に編年してる<
ふーん?。 >>231
>もう一枚は、渡来の呉系楽浪鏡師らが同范鏡を造ったもので<
>同笵鏡という言葉の意味を知らずに思いつきでデタラメを言っているいだろう
そんなことは物理的にあり得ない<
鏡師なら、原版を粘土に押し付けて、少し補修し、
その粘土版に溶融銅を流してやれば、
簡単に同范鏡が造れるよ。 >>231
>もう一枚は、渡来の呉系楽浪鏡師らが同范鏡を造ったもので<
>同笵鏡という言葉の意味を知らずに思いつきでデタラメを言っているいだろう
そんなことは物理的にあり得ない<
鏡師なら、原版を粘土に押し付けて、少し補修し、
その粘土版に溶融銅を流してやれば、
簡単に同范鏡が造れるよ。 昔の畿内説は想像説。
今の畿内説は想像に現実味を持たせるための思想誘導説。
近い将来は捏造説に化ける可能性大だな。 やはり田尻氏(ポケモソ)だったのか・・・w
それと某人物のwiki旧姓名、田尻(香野という女優)、
老婆の話によると・・・なぜか、どこそこに香野という家があったと言っていたり、
『UFO 飯野』の周辺、なよたけ? >>242
>海東鏡があるから渡来の楽浪鏡師は来てない<
300〜500枚位にもなる「列島」の呉系の大量の△を、倭地にまで運んで来る、
という事は、普通は起こり得ない。
それは、呉の鏡師が直接列島へやって来て造った、という事でしか有り得ない。
また、何組かの呉の鏡師が呉から(どこも経由しないで、理由もなく)、
直接列島にやって来る、という事も起こり得ない。
そして楽浪からも△様の鏡が幾つも出土しているから、
彼らは一旦楽浪へ行って、そこで鏡作りをしていたが、
楽浪の魏と公孫氏との戦乱を知って、急いで、列島へ避難して来た、
という事が、非常に可能性がある、という事になる。 たしか川俣町、伊達郡の周辺の話
あとウルトラマン、マラソンの選手?
そういう人物の話をしていたり
よくわからない、老婆談w >>494
>呉系の大量の△を、倭地にまで運んで来る、という事は、普通は起こり得ない。
原材料だともっと大変なのでは?
畿内説曰く△は呉産の銅を使ってるそうだが? 首(手首)から血が流れる?
エックスのハイドの曲でもないし、
ほんとーに何なんだろう >>487
近江野洲川の大岩山で24基も銅鐸が出ているよ。
この野洲川流域では、弥生後期になって青銅器工房ができる。
それに、同じ後期の伊勢遺跡の大型建物ではレンガが用いられている。
渡来人が来ていることは明らかだね。
そして、もう少しあとになると、渡来人は出雲経由ではなく、宗像から山陽道の山間部ルートで近江入りしているフシがある。
この野洲川流域の方形周溝墓は面白い。
副葬品がまったくみられない。
墓丘に置かれたらしい供献土器は、転げ落ちて周溝の中に埋まっているそうだ。
転げ落ちたか、葬送儀礼のあとにそれらの供献土器は周溝に沈められたかどちらかだろう。
後者のように思うがね。 >>499
>この野洲川流域の方形周溝墓は面白い。
>副葬品がまったくみられない。
>墓丘に置かれたらしい供献土器〜
滋賀と奈良だけに共通した事例。 その謎の話も、たしか福島県のほうの話なんだよな、
ウルトラマン・・・マラソン選手? >>243
>炭素14c測定法や副葬品の年代観から畿内のホケノ山古墳などは3c<
AMS法では、それだけでもプラズマ化に拠って50年位古く出てしまうし、
(小枝ではなく)槨の使用材や木棺に使用材では、
採取部位や寝かせ期間でも、数十年もの古い差異が出てしまうし、
副葬品ではやはり最新の年代のモノが年代根拠になるし、
ホケノは、(卑弥呼の)冢ではなく、有棺有槨の前方後円墳で、
(石塚の庄内1の後の)庄内3〜布留であるから、
3世紀末〜4世紀である事は、動かし難い。
>例えば古墳の外堀からコーラのビンでも見つかったらこれはつい最近作られた古墳だと言う?
そう言う事だ<
お前は・・・・詐欺師か?。
(外堀ではなく)ホケノは槨や棺や副葬品の話だ。 >>248
>そもそも土器編年を過大評価しすぎなんだよ。
4世紀に3世紀の土器を廃棄する事はあるだろう。
埋葬者に応じた供養がされていたなら、出身地や年代に合わせて4世紀に3世紀の様式が用いられたかもしれない。
実際に北部九州の支石墓の埋葬者は倭人では無い事が確認されている。
半島から渡ってきて亡くなった人は半島方式で埋葬されていたんだよ。<
成程。 『倭人 朝鮮人』(不明)よりも
もともと『西漢 東漢』こちらのほうが上の人間なんだよ、
何度言っても、わからないんだな このような話と同じ
演奏や歌の下手な洋楽(日本人ではない)と、
演奏などは巧いんだけど、日本人による洋楽カヴァー作品
実際、どちらがホンモノだと思う 中国人(一般人でも良い)と、
もともと中国の制度などを真似た・・・日本の?
どちらのほうが >>252
>布留0と布留1の区別のキーは小型丸底土器の定式化と精製3器種セットの完成だから
何個か見ないと確定的なことが言えないんだよ<
これがそもそもインチキの始まりだな。
庄内と布留の区別の原点は、
庄内に比べて布留の方が壁厚が半分位薄くて硬く出来上がっていた、という事であり、
煮炊きにも便利であったのであり、
「小型丸底土器の定式化と精製3器種セット」という形態的条件は、付随的な事であり、
布留0を新設する必要が無く、布留1のままで良かったもの。
>ホケノの丸底壺は明らかに定式化以前だから布留1の線は最初から無い
だから纒向2〜4式の中での議論だ<
これがインチキ。布留0は布留1の中に含まれる。
>ただ、口縁部の開き方の特徴が布留1っぽかったのに皆が引っかかった
だがその後、もっと古い東瀬戸内系土器で祖型が見つかったので議論が収束した
最近この手の話が出ないのは、そのため<
祖型の話なら、米田の「南加賀」祖型論や、筑紫の布留との議論をやってから決めな。 >>253
>>4世紀に3世紀の土器を廃棄する事はあるだろう。<
>そんな非常識なこと言ってるから九州説は笑い者になる <
この男も「廃棄」という文言で、イチャモン付けをしているな。
例えば、同じ副葬場所同士とか、同じ周濠場所同士とかであれば、
新しい方の年代になって当たり前だ。 老婆も、なぜ知っているのか?なんだよ
町のほうまで薪、木などを売りに行き・・・とか、
『伊達の桃太郎』西王母?の周辺の話 箸ねえ、これは面白いなあ。渡来系王族や魏の遣使も使っとらんとは思えんねえ。行き来してるから使ってただろ卑弥呼クラスわ 『渚モデラート』氏が住んでいたのかな?
本名、出生名?劉と書いてあるし 編年基準はやはりどうにかして地層で見るしか無いんじゃないかな。
しかし箸墓周濠の堆積層は完成時に余った土砂を濠に戻した可能性も否定出来ない。 king(王)?・・・孫某?
確実に誰かが住んでいたんだろう
『伊達の桃太郎』
河伯(日本では河童)⇔浦島太郎⇔河伯? >>491
>鏡師なら、原版を粘土に押し付けて、少し補修し、
>その粘土版に溶融銅を流してやれば、
>簡単に同范鏡が造れるよ。
やはり同笵鏡という言葉の意味を知らずに
思いつきでデタラメを言っていたのだな >>254
>残念だけど別に陥落してないなあ<
この大和説男も、詐欺師だなあ。
卑弥呼の墓、という問題では、「南≠東」などに拠って、箸墓は始めから陥落している。
>後円部が直径140mで魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の大きさ径百歩、144mと同じという事実は
箸墓古墳と魏志倭人伝が存在する限り存在し続ける<
「径」は原則として長径を示す、という人類の常識でも、
箸墓の長径は280m以上であるから、×になり、
後円部だけ、という詐術を使っても、径百「余」歩であるから、
この男の計算でも「144m以上」になり、140mは×であり、
勿論、魏の役人らの使った1里≒60〜90mの尺度では、1里=300歩だから、
百余歩は20〜30mになり、この男の140mでは全く合わないから、×。 >>252
>だがその後、もっと古い東瀬戸内系土器で祖型が見つかったので議論が収束した
その東瀬戸内系土器が、「東阿波型土器」のこと!
小林行雄氏による弥生土器の編年
@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場
A その後、庄内式大和形甕の登場 @阿波 >>255
>箸墓古墳復活<
「南≠東」などに拠って、失格。 >>257
>短里砦の崩壊で絶体絶命の九州説<
「南≠東」や「始皇帝里砦の崩壊」で、絶体絶命の大和説の箸墓説。 >>311
>3世紀後半の倭国なら、どこ?
倭国(阿波)! @阿波 >>261
>箸墓古墳であれ、平原墳墓であれ、祇園山古墳であれ、
そのような奴婢殺戮の伝承はない。<
祇園山だけが、発掘に拠って、可能性が十分ある事が判った。
>「ない」時点でこれらは卑弥呼の墓ではない。
神武東征紀に書かれた奴婢大量殺戮の場所、それは高天原(御所市高天)である。 <
「南≠東」などに拠って、×。 >>485
(正始元年=240年)はその通り。
しかし、(「年己長大≒30〜35歳」位)は推定なので、採らず。
(生まれた年は(205〜210年位)も推定なので、採らず。
(卑弥呼の共立を成人に仲間入りの15歳とすれば、220〜225年)は、生まれた年205〜210年の設定から推定したものであり、生まれた年の想定が誤っていれば総崩れの意見となる。
台与が女王位についたのは、13歳の時。
3世紀頃の巫女の王位就任資格の一つが13歳以上であった可能性がある。
卑弥呼が王位についたのも13歳だった可能性が高いと思う。
そこで、卑弥呼が共立された時が13歳で、この年が後漢霊帝の在位末の189年頃だったとすると、卑弥呼が死んだのは正始8年=247年なので、
卑弥呼の死去時の年齢は71歳前後だったと考えることができる。
当時としては、非常な長寿だったと思われるが、あり得ない年齢ではないと思われる。
卑弥呼共立の時期を後漢霊帝の在位末頃としたが、この時期は尾瀬沼の花粉調査によって、
ちょうど低温期が回復して平常時の気温に一時的に復帰しつつあったことが判明している。
気温の低温化で始まった倭国の騒乱が、気温の一時的な安定化で騒乱の理由がなくなり、手打ちとなって卑弥呼が共立されたと考える。
卑弥呼共立は、190年前後ではないか。 >>272
>卑弥呼が箸墓だというなら、 卑弥呼と瀬戸内の関係を誰も説明できないだろ。
実際、直接関係はないし。<
成程。 >>252
>だがその後、もっと古い東瀬戸内系土器で祖型が見つかったので議論が収束した
その東瀬戸内系土器が、「東阿波型土器」のこと!
小林行雄氏による弥生土器の編年
@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場
A その後、庄内式大和形甕の登場 @阿波 >>523
卑弥呼共立は173年ごろ。
新羅本記
BC57 赫居世即位
BC50 倭人が侵入
BC18 百済温祚即位
AD.〜
57 倭国の多婆那国から来た昔脱解が王に
59 倭国と国交樹立
121 倭人が東の海岸地域に侵入
123 倭国と講和
173 倭の女王卑弥呼が使者を送った
193 倭人が飢饉。避難民が新羅へ。 >>524
だから、なぜ
卑弥呼と瀬戸内の関係を誰も説明できない
と思うのか
まったく意味不明 >>501
>滋賀と奈良だけに共通した事例。
そうそう。
滋賀と奈良の南北地帯が葬送儀礼を共有していた。
緩やかな同盟が形成されていたのではないかと思われる。
この南北地帯以外では、ごく普通に墓に貴重財を副葬している。
滋賀と奈良の南北地帯だけが異常だったようだ。 >>312
>王級人物が複数居た時代=西日本統一政権などはあり得ないということだね。
崇神天皇のときの乱をタケハニヤスの乱というけれど、古事記の記載で建波邇安王だよなw
垂仁天皇のときの乱がサホビコの乱だけれど、古事記の記載で沙本毘古王
畿内には「王」級人物が普通に複数いるよw >>509
>庄内と布留の区別の原点は、
>庄内に比べて布留の方が壁厚が半分位薄くて硬く出来上がっていた、という事であり、
>煮炊きにも便利であったのであり、
ようする
九州説さんは
考古学知識ゼロ
ということなんですね >>314
>戦争人骨や鉄鏃骨鏃
北部九州の戦争人骨や骨に刺さった鏃は、甕棺墓時代で
卑弥呼の3世紀より100年以上前
九州説は常に時系列無視 >>494
その場合は海東鏡に鏡が東に至ると鏡に書かれなくて南に至ると書いてなくてはいけない
さらに師出洛陽とも彫ってあるので鏡師が来たなら魏 >>343
>女王より身分の低かった大倭王の墓は、当然ながら卑弥呼の墓より、小さいのでは、ないのかな。。。
ほら、連続句読点のような性格破綻者でも、
女王卑弥呼の墓が最大の墓というのを当然のこととしてるぞww
平原1号墓なんかは、女王卑弥呼の墓の候補にすらならないw >>496
捏造をするな
畿内説では三角縁神獣鏡の銅はSPrig−8などの科学的所見などに基づいて
魏の徐州産の銅が使用されていると結論づけている >>352
>B:新しい方は混入物と見なす→土器編年の信憑性崩壊
何のためにきちんとした発掘をすると思ってるんだ?
新しいのと古いのとが、どういう位置関係で出土したのかまで見ないと意味ないよ
纏向大溝では、古いのは畿内第V様式から新しいものでは布留1式まで出るが、
それを一律で布留1式の年代と考えたら、ただのバカだろ?ww
>>352の主張は、このレベルの詭弁以下の駄弁w >>281
>>そして、それ以東の瀬戸内の南北や東の海岸地域が倭種地域。<
>それは倭人伝のどこから出てくる解釈?<
梁書が、6世紀時点で、出雲の文身國と越の大漢國と南四国の侏儒國が、
尚も存在している事を記録し、
新唐書が、大和が中国に関係を持ったのが「欽明」からである事を記録した程度であるから。
魏志では、伊予付近に達した事の記録だけ。 >>353
>千人以上の死者が出ているのは当時としてはかなり大きな戦乱だよね。
先のタケハニヤスの乱の様子は
擊吾田媛之師、卽遮於大坂、皆大破之、殺吾田媛、悉斬其軍卒 とか
又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河、故號其河謂鵜河也 とか
多くの兵が死んだ描写が書かれているぞw
千人とは書いてないけれど >>301
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
ちゃんと魏志倭人伝などと向き合うべきだ
このままでは大和説は空想歴史だよ >>503
プラズマ化によって年代が50年古く出る事は物理学的に否定
そもそも旧来の方式と比較して50年差が出る事がわかるなら
測定値はそのように修正が入り差が発生する余地が存在しない
ホケノ山古墳は木棺の木片サンプル5つが120〜240年を示し
副葬品の銅鏡に239年渡来の三角縁神獣鏡が含まれない事から
2つの証拠の合致で三世紀中葉ごろと年代推定が得られる
そこから飛び離れた4Cごろを示す木の小枝などは
天井の崩落も見られる事からその頃に生じた
まさにコーラのビンと同じような混入異物と見られる >>392
>3世紀最大の墓だから卑弥呼墓だろうと言う浅い浅い軽薄な思考しかできないから、
ここが、九州説の言い訳の惨めな部分
最大の墓が王墓ではないとする理由が、どこにもない
この論証ができないのに「大きいだけではだめだ」というのは意味がない
最大の墓を作る者=最大の動員力を持つ者=最大の権力者・王であるのは、
連続句読点ですら「当然ながら」と判断するレベルのトートロジーに近い推論だ
これを否定できない九州説が何を言っても無駄 >>420
>統計的総評に対して具体性を要求している自分が見えてる?
統計的総評なんて言葉はないww
具体例は二つ三つ挙げればいいんだよw
それをしないから、九州説は無能だといわれるw >>327
結局また、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
反論ができなくて荒らすのだった >>462
>纏向遺跡では東海産土器が最も大量に出土するなど、東海色の強い遺跡である。
それ、単に飯炊き甕を持って移動する距離で、付き合いがある程度深かったってだけだぞ
まあ、銅鐸を作っていた頃から交流があったってことだ
ちょうど、卑弥呼と卑彌弓呼の関係くらいの距離感 >>542
そこで池沼のガキみたいな言い訳していないで、殉葬100名の痕跡を示せばいいだけだろ。 >>545
>ちょうど、卑弥呼と卑彌弓呼の関係くらいの距離感
↑
コレはお前の勝手な想像だ >>517
魏で使われていた尺度では1歩約1・4mだったので
百歩が20mというのは嘘
そして全長でも径百歩の144mに相当する古墳は畿内にいくらでも存在
どれだけ否定しても
見つかっている資料から換算して卑弥呼の墓の大きさと魏志倭人伝に書かれている
魏の百歩の140mに該当する円墳部を持つ古墳が畿内に存在している事に変わりはない >>332
「南→東」などの嘘付き騙しのデマに共鳴し感心する、
薄馬鹿大和説 >>481
それ、いつもの「第378回活動記録 - 邪馬台国の会」の資料ww
九州説の人は九州説の内輪のチェリーピッキング用資料だけを典拠とするww
面白すぎるw
最新のものは、これだよw
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg >>536
>何のためにきちんとした発掘をすると思ってるんだ?
きちんとした発掘?w
判断はカン?w
支離滅裂www >>546
>そこで池沼のガキみたいな言い訳していないで、殉葬100名の痕跡を示せばいいだけだろ。
そんなモノが見つからないといけない理由は何だ?
理由ないよね? >>551
AD300年前後だな。
時間が一方通行であるがゆえ、より古い値は出現しやすいが、より新しい値はまず出現しない。
よって、新しい値で共通性のみられる部分があれば、それを拾って平均を出す。 >>527
三国史記で史実性があるのは4世紀以降とされる。
3世紀までの記事はにわかに信じがたいとする見解もみられる。
しかして、173年の卑弥呼の新羅朝見は真実か…? >>552
ヤジだけ飛ばしてても九州説は有利にならないよ >>556
>時間が一方通行であるがゆえ、より古い値は出現しやすいが、より新しい値はまず出現しない。
それ、誰が考えた? >>560
でたーーーー! とことん理系に弱い情弱www 自由度とか、不可逆性とかガン無視かよw
さすが考古マニアw >>561
おやおや
いつも理由をなにも説明できない無理系さんが
また恥かきに出てきたぞ >>547
>コレはお前の勝手な想像だ
勝手な想像だとするだけの具体的な根拠はあるのかな?ww >>562
殉葬者100名と記述されてるのを勝手にそれは埴輪の事だとしてるのはお前らの勝手な妄想による断定だろwww >>563
いつもの、匂わせオンリー・ブラフ男かな?
投稿に中味がないぞ >>552
>判断はカン?w
層位って言葉は知ってるかい?
最後は人間の判断になるけれど、根拠もなく勝手にカンで決めたりはしないよw
九州説じゃないんだからw >>566
べつにリアル人間でもいいよ
どこに埋葬されたか書いてない以上
見つからなくても問題ない >>566
記紀に人物埴輪は奴婢殉葬の代わりに古墳の周りに埋めたと書いてあるぞ
そして人物埴輪の出る前の古墳には代わりに特殊器台がある >>556
>AD300年前後だな。
九州説は算用数字すらまともに読めないと見えるw
AD135年から235年と読み取れないというのは悲惨だなw
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg >>572
出た―ーー! 今度は記紀からチェリーピッキングwww >>573
自分にとって致命的に都合の悪い反論は
聞こえなくなる便利耳ですか >>575
王位を争って戦争したとは書いてないぞ?
いちいち想像で尾ひれ背びれ付けるなと。 >>561
>でたーーーー! とことん理系に弱い情弱www
おいおい「時間が一方通行であるがゆえ」なんてのを根拠に
考える理系の専門教育を受けた人間はいないぞw
時間軸も空間軸と同様にどちら方向でも対等として
数学的記述を考えるのが理系の考え方
時間の付加逆性は、熱力学の第二法則の援用に過ぎない >>576
何て言われようとも
最初期の前方後円墳には特殊器台が出土し
後年には奴婢殉葬の代わりと記紀に書いてある人物埴輪が代わって出土する
そもそも九州の古墳に奴婢殉葬の跡はあるの >>571
誰が奥山だか知りもしないアノ病気の人ですか?
奥山がニュー速板に出たとか
自演してたとか
狂った妄想してた人ですか? >>578
>王位を争って戦争したとは書いてないぞ?
直接は書いてなくても、
更立男王、國中不服。更相誅殺 とあれば、
男王の王位に対して不服、つまり別の王を立てようという勢力があったということだから
王位の争いで多数が死んだということだな
まあ、戦争をしたとは書いてないが 例えば『孫某』調べてみた?
なぜ老婆談・・・?もれ(仮)の書き込みと、
同じような話(サイト、記事?)ばかり出てくるのか?となるでしょ、
他の人が調べてみても出てこないのかな >>579
エントロピーぐらいは聞いたことあるのかな?w >>578
>王位を争って戦争したとは書いてないぞ?
>いちいち想像で尾ひれ背びれ付けるなと。
距離が近くても戦争する例だが
「書いてない」とか
何か変な妄想してるのか?
九州説は妄想が多くて医者も大変だな >>584
論理的な会話の組み立てが出来ない人?
あなた理系でも文系でもないでしょ >>580
そこも仮説なわけだな。
大きさ以外は全て仮想だという認識のない発言は控えよう。 まあ、たぶん今の九州説には
理系と文系に分かれる前に学歴を終えた人が多いだろう >>585
自分が戦争は王位争いだと妄想しておきながらw
おまいうw ずっと前に誰かも指摘してたぞ。
崩壊は進むことがあっても遅れる事は無いと。
だから最も新しい値が最も実年代に近いんだと。 天皇家が九州出身ならば、古代から続く天皇家祭祀(践祚大嘗祭等)で蚊帳の外にはならない。 @阿波 もし倭人伝に「奴隷を墳丘に埋めました」とか
書いてあるなら
何か手がかりになるかも知らん
実際には書いてないのだから利用価値が低い
というか、ない
ましてや箸墓は墳丘を掘ってないときてる
殉葬100が要件にならないのが
わからないなら低脳に超が、確定的につく >>584
>エントロピーぐらいは聞いたことあるのかな?w
お前、本格的にバカだろ?
熱力学の第二法則の、俗な一般人向けの表現がエントロピーの増大だぞw >>591
九州説さん、あんた理系じゃないね
少なくともさ >>591
>ずっと前に誰かも指摘してたぞ。
>崩壊は進むことがあっても遅れる事は無いと。
>だから最も新しい値が最も実年代に近いんだと。
そいつは馬鹿
あるいは炭素年代の原理をなにも知らない情弱
高確率で、その両方 >>591
>崩壊は進むことがあっても遅れる事は無いと。
>だから最も新しい値が最も実年代に近いんだと。
なんだ、連続句読点の空気シャワーと同列の妄想持ちかww
完全に非科学だなw
誤差の考え方とかの、初手からでたらめ 奥山が理系音痴なのは連続句読点のレスで知ってはいたが、超が何個も付くほどとは思わなかったw
理系でなくともすぐ気づくよな?w このやり取りは永久保存版として魚拓を撮っておこうw 九州説に資金提供しているのは宗教の絡んだ団体の可能性 >>598
九州説さん可哀想だな
言っとくけど
ブーメランだぞー
そもそも今ここに最低ふたり畿内説の者がいるけど
区別もつかないで奥山奥山言ってるだろ
やっぱニュー速板に幻の奥山を見たおばかさんだねキミ 畿内説がいかにいい加減な人間で構成されているかがよく分かった。 >>374
「畿内」とか「機内」とかの、存在もしなかった嘘つき騙し文言を使い、
「南→東」などの嘘付き騙しをし、
「鸚鵡返しされ」ばかりでは、
大和説への支持は増えないよ? >>602
分かった理由が答えられないと
九州説がいかにいい加減な人間で構成されているか
という証拠になります >>601
>最低ふたり畿内説の者がいるけど
何を改まってんだよw
いつも二人だけだろw
たまあに紛らわし発言をする左スロープが加わるぐらいでw 九州説はなぜ意味もない悪口書くだけになるのか
そんなんなら何もしない方がマシなのに 大体私と同じレベルの、きちんと科学が分かる人が畿内説では4人くらいいるが、
九州説の代表は
ザラゴキ
連続句読点
キウス(の影が最近薄い、よいことだ)
邪馬台国の会の中の人(ニュー速から来た呼子上陸バカ)
だから、知性の差が大きすぎるw
佐賀川上バカの人は、もう少しきちんと勉強すれば、九州説を止めると思う
九州説ではないけれど、泡は短里と偽書(永島文書)が頼りだから九州説並み
左側スロープ君は、畿内説ではないw >>607
>奥山は?
>>1は、古典をきちんと引用して論じるから見る人が見れば分かるよ
九州説の人は、全1病だからいつも的外れなことばかり書いてるw
あと、なんでもキナイコシとか
九州説はいまだに「短里がー」「方角がー」「編年がー」しか言わないから笑える >>356
>>千人以上の死者が出ているのは当時としてはかなり大きな戦乱だよね。<
>なんで? 誅殺って書いてあるのに w <
なんで?。「更相誅殺」って書いてあるんだから、「殺し合い」だよ。
大和説者や類スレ主らはちゃんと魏志倭人伝と向き合うべきだ
このままでは大和説は詐欺歴史だよ >>592
今の大嘗祭は、天武天皇の時に新嘗祭を参考に新設されたとされる。
そういうこともあるし、天皇制が地祇系のルーツを排除して皇族主体の体制となってからは、天皇家祭祀といっても九州とは無関係になっている。
それでも、全国相撲大会に参加した南九州の相撲チームが天武天皇に特別に相撲を披露することがあったが、これは天皇と南九州のつながりを示すエピソードではあるね。
それに、雄略天皇の父親の御陵の側で警護役だった隼人が殉死して御陵の近くに葬られるなど、天皇と隼人は特別な関係にあった。
隼人は天皇の皇子の近習を務めたりしているし。
とにかく、天皇と南九州のつながりは深い。 九州説はやってる事がインチキ宗教のそれ
学究である畿内説とは立ってる場所そのものが違う >>611
お前さんが言ってる科学は、一般社会では理科というんだよ。
数学もしかり算数な。
井の中の蛙に見える空は狭いんだよ。
無理すんなってw >>367
「南→東」などの嘘付き騙しの指摘に、
反論できない大和説は
荒らししか出来ないんだね >>614
>それに、雄略天皇の父親の御陵の側で警護役だった隼人
その「隼人」と南九州とどう繋がるのかね? @阿波 >>612
古典?w
個典だろw
短里のようなものは無いと?w
崇神紀65年の任那朝貢の記事で任那〜筑紫の距離は二千餘里と記載されている。
釜山〜唐津が三千餘里ならほぼ同じ縮尺だねえw >>387
>妄想ではない、纏向古墳群と瀬戸内の関係は明白。
纏向石塚と吉備の孤文円盤、竪穴式石室のルーツは吉備、土器の内面削り、
鏡の埋納、吉備という地名、大量の桃の種、そして東瀬戸内や西瀬戸内の土器、
そして特殊器台。そもそも前方後円墳自体が瀬戸内の発祥。<
ふーん。 >>390
いまどき大和説の人間はの、
頭が悪い人か、「南→東」などの嘘付き騙ししかいないので
自分の考えを説明する能力がない 畿内説の言葉遊びにみんなだまされなくなってきているね >>616
>お前さんが言ってる科学は、一般社会では理科というんだよ。
とすると、>>616は科学に詳しいんだね?
では、連続句読点のいう空気シャワーが戯言だってをきちんと説明してごらんw
それとも連続句読点は九州説で身内だからといって擁護するのかい?
九州説の立場だからといって連続句読点のうそを指摘できないなら、
典型的な反科学だぞwww >>613
>なんで?。「更相誅殺」って書いてあるんだから、「殺し合い」だよ。
「誅殺」の意味、わかってる? >>616
九州説また悪口オンリーか
どこまで無能なの?
w
w
意味のある反論はできんのか >>619
>短里のようなものは無いと?w
ある訳ないだろ?
3世紀世界では、そんなものは存在すら知られていないぞww
誰も知らない単位を使う人、その単位で測量する人なんている訳ないだろw >>619
同じ距離が2000と3000で何故同じ縮尺?
算数w >>622
>畿内説の言葉遊びに
言葉遊びってのは、こういうやつだぞw
>>619
「古典?w
個典だろw」
個典なんて、辞書にも載っていない意味不明の造語で、
まったく遊びにもなっていないけれどw >>614
>それに、雄略天皇の父親の御陵の側で警護役だった隼人
その「隼人」と南九州とどう繋がるのかね? @阿波 >>627
>同じ距離が2000と3000で何故同じ縮尺?
魏志倭人伝では
半島南岸ー渡海1→対馬ー渡海2→壱岐−渡海3→九州 だから
渡海3回で3000里
崇神紀の書かれた奈良時代には
半島南岸ー渡海1→対馬ー渡海2→九州 だから
渡海2回で2000里
「対馬ー渡海2→九州」の部分は、沖ノ島を横目に壱岐に寄らずに渡る
渡海が一律千里だと理解していたということ >>623
さすがに連続句読点は詳しくない人だから放置でw >>627
どこからどこまでと書いてあるのも読めないのか?
おっと、韓国人は漢字読めないんだったなw
失礼w >>629
ウィキペディアレベルでも
「隼人(はやと)とは、古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住した人々。
日本神話には海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、祖神火照命の末裔であるとされる」
と書いてある
隼人といえば阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)の人であり、
阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)が南九州じゃなかったらどこなんだって話w >>633
また悪口言うだけで何も反論出来ないの?
九州説って、どこまで無能なの? >>618
>その「隼人」と南九州とどう繋がるのかね?
隼人は南九州の人民の呼称。
雄略天皇の親の御陵で殉死した者たちが隼人と呼ばれているということは、その本人あるいはその先祖が南九州出身者だったことを示している。
そもそも天皇の側で天皇の私的な警護役として、また身の回りの世話をする役目などをなぜ南九州出身者である隼人が務めているのかということが問題。
この問題については、ヤマト王権のそもそもの最初からそのような体制だったからだと考えるのが合理的だ。
つまり、ヤマト王権の初代とされる崇神天皇とその関係集団が南九州からやってきて纏向政権の最高祭祀者の位に就いたためと考えるのが妥当。
このように考えると、なぜ隼人が天皇の警護役や近習を務める権利を持っていたのか、その理由が分かる。 >>636
このように
九州説はまったく反論が出来ない
もちろん立論も出来てないが >>631
>さすがに連続句読点は詳しくない人だから放置でw
つまり君は反科学だねww
科学を冒涜する側の人間だw
>>591は>>631の書き込みじゃないのか?ww
違うというなら>>591の「崩壊は進むことがあっても遅れる事は無い」を
正しい科学的知見をもとに否定して見せてごらんww
連続句読点に詳しくなくても、これならできるだろ?
科学に詳しい人ならさ?wwww >>633
>どこからどこまでと書いてあるのも読めないのか?
つまり君は、8世紀には九州から半島まで無寄港で渡りきることができ、
また距離を測定することが可能だったと主張する訳だね?www
すごく科学的な判断をする人だって、分かるよ! うんwwww >>634
>隼人といえば阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)の人であり、
記紀に「薩摩隼人」などとどこにも書かれていない! 「隼人」は単なる警護役役職名。 @阿波 >>637
>つまり、ヤマト王権の初代とされる崇神天皇とその関係集団が南九州からやってきて纏向政権の最高祭祀者の位に就いたためと考えるのが妥当。
>このように考えると、なぜ隼人が天皇の警護役や近習を務める権利を持っていたのか、その理由が分かる。
残念だが妄想だ
せっかく
>この問題については、ヤマト王権のそもそもの最初からそのような体制だったからだと考えるのが合理的だ。
に
気がついたのにね
ヤマト王権の伝統的な体制には帰順した異民族を親衛隊に組織するという特徴がある
隼人も蝦夷も東漢氏のような渡来人も、そう
後世にも犯罪者を赦免して下級警官に取立てたりしする体制が残った >>634
九州説を言う人は、後付け地名に騙される人がほとんど! @阿波 畿内説は理系音痴どころじゃあない体育会系未満なんだから、難しい話はしちゃだめだぞ? >>640
>つまり君は、8世紀には九州から半島まで無寄港で渡りきることができ、
また距離を測定することが可能だったと主張する訳だね?www
誰に妄言吐いてんだよw
何か見えない物が見えるのか?w >>647
なにも反論できないの?
九州説って、なんて無力なの
ww >>634
>隼人といえば阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)の人であり、
記紀に「薩摩隼人」などとどこにも書かれていない! 「隼人」は単なる警護役役職名。 @阿波 >>634
九州説を言う人は、後付け地名に騙される人がほとんど! @阿波 >>642
>ヤマト王権の伝統的な体制には帰順した異民族を親衛隊に組織するという特徴がある
隼人も蝦夷も東漢氏のような渡来人も、そう
その「特徴」がみられる事例は、日本書紀や古事記などのどこに書かれているのかな。
そもそも、そのような「特徴」があることを何によって知ったのですか? >>648
>誰に妄言吐いてんだよw
>何か見えない物が見えるのか?w
反論はできないの?
>>591の「崩壊は進むことがあっても遅れる事は無い」を
正しい科学的知見をもとに否定して見せてごらんww
九州説は、理系も文系も「科学」レベルの話ができる人がいない >>639
そうか、畿内の体育会系未満は想像以上に底辺だと宣言してるんだなw
お前が言ってるのはこういうことだぞ。
2つの箱に靴を片方ずつ詰めて北極と南極に贈り、南極側の靴は右用だと連絡が入りました。
これに対し北極側が左用である事を証明せよと騒いでるようなもんだw
まるで猿だなw >>654
畿内教信者のお前さんが井の中の蛙だから海の話を出来ないんだよ。
痛々しいやつ。。。 九州説で縮尺を主張する人がいるけれど、そのためには
距離が分かっていなければならない=測量をしなければならないって理解してるんだろうか?
そして、測量して距離が分かっているのに、それをわざわざ縮尺で短く記載する必要が
どこにあると思っているんだろう?
根本からずれまくりのバカすぎ >>634
>隼人といえば阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)の人であり、
南九州の人、どこいったの?
記紀に「薩摩隼人」などとどこにも書かれていない! 「隼人」は単なる警護役役職名。 @阿波 キナイコシは何でも連句点だと思ってるんだろうけど俺はモドキの方だぞw 九州説がレベル低すぎて小学生の悪口並み
それなりの議論をするにはそれなりの相手とじゃなきゃ出来ないという事よのう >>501
>滋賀と奈良だけに共通した事例。
王都から遠く、貧しかっただけ。 >>663
頭の悪いキナイコシは、IQが無いので、発言のQCがきかない、のではないのかな。。。 他人に成りすますのは嘘吐きと同じ
繰り返すのはキチガイと同じ >>523
>3世紀頃の巫女の王位就任資格の一つが13歳以上であった可能性がある。
>卑弥呼が王位についたのも13歳だった可能性が高いと思う。
壹與の話は、暗に「若すぎる」と批判してあるように読める。
しかし卑弥呼については即位のときに「すでに齢長大」とされている。 >>655
>そうか、畿内の体育会系未満は想像以上に底辺だと宣言してるんだなw
話をそらすなww
反論一つできずに、違うことを喚きたてて反論した体を装う
惨めなものだなww
>>631は>>623に返事をしている以上>>616の
「お前さんが言ってる科学は、一般社会では理科というんだよ。」を書いたやつだろ?
だったら、科学に詳しいと自負しているだろうから、これくらいは答えて見せろや
↓
「崩壊は進むことがあっても遅れる事は無い」を
正しい科学的知見をもとに否定して見せてごらんww
連続句読点に詳しくなくても、これならできるだろ?
科学に詳しい人ならさ?wwww >>665
滋賀に朝鮮街道と呼ばれる道があるんだけど、地元民がそれは奈良まで続いてると言ってた。 >>662
>俺はモドキの方だぞw
まともな神経の人間なら、その方が「信じがたい愚挙」だ
連続句読点のモドキを演じる=連続句読点と同レベルであると自白するって
ドンだけM属性が強いんだよww
それはそれとして、科学に詳しくて理科をバカにするくらいだから、これくらいは
軽く答えられるよな?
↓
「崩壊は進むことがあっても遅れる事は無い」を
正しい科学的知見をもとに否定して見せてごらんww
連続句読点に詳しくなくても、これならできるだろ?
科学に詳しい人ならさ?wwww >>666
何の脈絡もなしに畿内説は、なぜ破綻してしまったのだろうか。。。
とかいつも言ってる連続句読点さん何かな >>572
>記紀に人物埴輪は奴婢殉葬の代わりに古墳の周りに埋めたと書いてあるぞ
それは途中から埴輪に変えたということ。
しかし魏志倭人伝は殉葬100人を驚きをもって記録しており、実際に殉葬があったのだろう。
少なくとも、埴輪に移行した後の古墳は全て卑弥呼の墓の候補から除外される。 渡来人の集会所? 奈良に最大級「大壁」、オンドル跡も
https://www.asahi.com/articles/ASH7Z4RSZH7ZPTFC00D.html
鉄は出ないがオンドルはちょっと掘っただけで出てくるんだよなw >>673
>超はずかしい発言ミッケw
どこが恥ずかしいのか、具体的に根拠を添えて論じてね! >>580
>最初期の前方後円墳には特殊器台が出土し
>後年には奴婢殉葬の代わりと記紀に書いてある人物埴輪が代わって出土する
つまりそれらは卑弥呼の墓より新しい。 >>676
奴婢殉葬百人と淡々と書いてあって別に驚きをもって記載されてないように思えるけれど
そして畿内の三世紀辺りの最前期に当たる前方後円墳には人物埴輪に代わって特殊器台がある
箸墓古墳もその一つ >>674
素直に解らないから教えてくださいと頼めば?
土下座してw >>681
しかし地理的にどうもおかしい。
京都を通る方が楽なはずなんだが。 >>682
こんばんは。奥山です。
呼びました?w >>679
?
荒らしやってる工作会社にまだ出勤してないという事か
>>680
三世紀ごろの畿内の古墳は人物埴輪が使われる前の特殊器台が設置
恐らく卑弥呼の墓はその内のどれか >>687
荒らしやってる工作会社が見えるのか?
病院池w >>688
見えたら何で病院に行かなならんねん
正体バレてるぞ >>690
みずから正体バラしておいて病院行けという方が病院行った方がいいのではないだろうか >>689
過去にお前もこんな目に会ったのかな?w
【教員いじめ】奈良の小学校教諭4人が2学期始業式から休む いじめ・パワハラを訴えるも学校側・市教委は否定
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1571930197/ >>693
「荒らしやってる工作会社」が存在することを科学的に証明しろよw >>694
現在進行形で苛められてるのは九州説だろ 明日は、笠原太志氏が、バンビシャスに闘いを挑みに、来訪するのだったな、、、 >>697
明日は、バンビシャスが、勝つのだったな、、、 >>695
蛍光X線分析器SPring8によって三角縁神獣鏡の銅は魏鏡と科学的に判明
にも関わらず邪馬台国九州説は国産品だ呉鏡だとおよそ非実効的で非科学的な書き込みを繰り返し行う
これはまさに荒らし行為で
そしてたびたびザラコクや連続句読点が職場のPCが調子悪くなったとか
雇い主がどうのこうのという話をしている
科学的に測定された事柄に対する益体もない非科学的見解を延々と繰り返すのは荒らし
それを資金をもって組織的に行っているという事はその荒らしを行う会社の支持である
以上畿内説スレの荒らし会社の科学的証明の終了 超はずかしいヤツw
860 :名無しさん@1周年:2019/06/13(木) 11:20:35.03 ID:NlHohoJb0.net[5/15]
>>780
>ホケノ山の木棺がC14でも200〜250年あたりの可能性があるけど
それはこれで決着済み
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg
木棺の材だと、伐採年だとか心材だとか考えないといけないファクターが多いけれど
桃核はまちがいなく当年に植物が光合成して固定した炭素試料だから確実 奥山氏は、まだ、巻向の堀立柱が帯方郡治から東南方向にあると主張するのだろうか、、、 >>702
荒らし会社に連続句読点がご出勤ということ? >>699
>魏鏡と科学的に判明
春8が年代までも測定できると思ってるのかwww
今年(まだ日が残ってるが)一番吹いたwww 約一名ヤケクソになっているスレ荒らしがおるな
無能過ぎてクビでも宣告されたか >>704
荒らしやってる工作会社というものが存在し、連句点や俺はそこの社員なんだとさwww 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、訳の分からないことを呟いているな、、
705日本@名無史さん2019/10/25(金) 20:25:50.42
>>702
荒らし会社に連続句読点がご出勤ということ? あらあらまだ体育会系未満のアナログくんが粘着してあるんですね。
鬱陶しいですね。
わかります。 奥山氏が勘違いをしている会社の事業は、インターネットの荒らし行為なのだろうか、、、 破綻したことを認められない畿内教信者が、今度はユダヤ教に盲目攻撃を始めたんですね。
鬱陶しいですね。
わかります。 今日は、労働で疲労したので、スレッドを読む気力も湧かないな。。 電通だか何だかのネット工作会社があるんだろ
スレ荒らしには九州説の邪馬台国の会も噛んでるんだろうなあ >>651
>「隼人」は単なる警護役役職名。
律令が始まると、隼人は兵部省の隼人司の組織に組み入れられる。
兵部省に組み入れられたのは、もともと朝廷の軍事に従事していたからだろうとされている。
これと同じで、隼人が警護の役職名だとすると、もともとが天皇の私的な警護を隼人が担っていたからだということになる。
そこで、ではなぜもともとから天皇の私的な警護を隼人が行っていたのかという問題に戻ることになるわけ。
その答えについては、天皇と隼人はもともとから一つの集団だったと考えるのが合理的だと思うね。 >>720
>>718
間違いなくお前重症だwww >>716
奥山氏が、訳の分からないことを発表しているので、読みにくいな。 >>721
アウアウアー
ほらこれでいいか?悪いことは言わないから病院行こうな?頭の 明日は、笠原太志氏が、バンビシャスに闘いを挑みに、来訪するのだったな、、、 九州説は正体を捉まれ世間にバラされる
畿内説の勝ち 奥山氏は、まだ、巻向の堀立柱が帯方郡治から東南方向にあると主張するのだろうか、、、 孫某・・・、
よくわからない世界でTOPになったんだろう?
オカルト関係、眼に視えない世界?
他の人に話をしてみても「❓」このような状態とか
>>1と同じ、邪馬台国? >>684
>素直に解らないから教えてくださいと頼めば?
>土下座してw
また逃げるww
私は既に何度も説明してるんだよw
過去スレ探してみたら?ww
>>684には「僕は原子力には詳しいんだ」って
言っていた某元首相と同じ気配しか感じないw
さあがんばれ!
「崩壊は進むことがあっても遅れる事は無い」を
正しい科学的知見をもとに否定して見せてごらんww
連続句読点に詳しくなくても、これならできるだろ?
科学に詳しい人ならさ?wwww 河童(河伯)、何やら〜と同じ、
シャーマン(女のキャラ)よりも上のような存在だし、あの日本昔話も観てみた? >>729
そうか、畿内説によると、原子の崩壊速度が遅れることがあるのかw
どこの宇宙にすんでるんだろう。。。 >>730
どうやって呼ぶの?
そっちは黄色いの呼んだほうがいいんじゃあ 『日本昔ばなし 河童の雨ごい』
河伯(河童?)のほうが上でしょ、そういう(不明)能力とか 原子崩壊は遅れは ありまーーーす!
以上。
畿内説代表 奥山 >>729の補足
ヒント ポアソン分布ww
まあ、>>684には初見の単語かもしれないけれどw >>732、>>735
ほら、やっぱり分かってないww >>736
全然お門違いな方向へお出かけのようでw 偶然なのか、シンクロ現象なのか・・・?
『日本昔ばなし 河童の雨ごい』この作品を観てみて >>683
特殊器台は特殊壺を乗せるためのものだったが、その特殊器台には弧文が刻まれていて、呪術的な邪霊排除の意味が付加されていた。
その後、特殊壺よりもその特殊器台の呪術的意味合いのほうが重要視されるようになったと考えられる。
なので、特殊器台の展開と殉葬や人物埴輪とは無関係だと思うけどね。 光格子時計が実用化されてるような世の中で、奥山のような山の奥の人が科学という言葉を使うとはねえ。
最近の猿も変わったもんだ。 奥山氏の頭の悪さを、笑いリラックスできる話題になってきたな。。。 >>741
それ、奥山が時々乗ってるよ。
聞いてみなよw 一度、崩壊した物事は、元に戻る可能性は無いな。。。 河童、河伯・・・キュウリのような葉?
むかーしの写真だと言っているし、本当に、よくわからない話ばかり >>719
>その答えについては、天皇と隼人はもともとから一つの集団だったと考えるのが合理的だと思うね。
その「「隼人」なる警護役も、天皇さんも、一つの集団の「忌部はん」 だったと考えるのが合理的。 わははははは @阿波 奥山氏は、インターネットで見つけた文章を理解しないまま、活用するので、頭が悪いことだけではなく、頓珍漢で、いい加減な性質もバレてしまうのだったな。 見出し「畿内説はありマース!→ありませんでした!」
なんてのはメディアは食い付くだろうなw
毎日新聞以外w 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、時間が逆方向にも進行すると考えているのだったな。。。 >>740
>特殊器台は特殊壺を乗せるためのものだったが、その特殊器台には弧文が刻まれていて・・・
阿波では41遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域ですが、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土しています。
{弧帯文土器」
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27 >>719
>その答えについては、天皇と隼人はもともとから一つの集団だったと考えるのが合理的だと思うね。
その「「隼人」なる警護役も、天皇さんも、一つの集団の「忌部はん」 だったと考えるのが合理的。 わははははは @阿波 既に上に出てるけど箸墓より古い前方後方墳でも特殊埴輪が出土してたね。
畿内説はいつもの誇大妄想で何でも卑弥呼の時代に一気に移行したように見せかけたいんだよ。
こういう印象操作はある意味歴史捏造事件だね。 カッパ?
やはうえ・・・とか、そういう話なのかな? >>740
>特殊器台は特殊壺を乗せるためのものだったが、その特殊器台には弧文が刻まれていて・・・
阿波では41遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域ですが、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土しています。
{弧帯文土器」
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27 天帝〜より授かった、任命されたとか
あの名字辞典にも同じことが書いてあるし、
寒いな〜・・・の家のところ読んでみた? >>719
ボディガードとマル対が同一集団な必要なんてナイナイ 渡来人でしょ?
授かり〜というのも、むかーしの話だしなw
神代? >>753
>既に上に出てるけど箸墓より古い前方後方墳でも特殊埴輪が出土してたね。
特殊埴輪w
九州説はウソをついてることが解り易くていいなw >>719
>その答えについては、天皇と隼人はもともとから一つの集団だったと考えるのが合理的だと思うね。
その「「隼人」なる警護役も、天皇さんも、一つの集団の「忌部はん」 だったと考えるのが合理的。 @阿波 奈良が池沼だらけなのは、奈良湖があった名残りなのではないのかな、 明日は、笠原太志氏が、バンビシャスに闘いを挑みに、来訪するのだったな、、、 つか、元稲荷を箸墓より古いとか言ってる学者いねーし 孫達が、バンビシャスが闘うリーグにも関心を持つためには、孫達の世代の情報循環層という者達が、バンビシャスが闘うリーグに関心を持たなければならないので、
バンビシャスが闘うリーグの外部に、孫達の世代の情報循環層という者達が、バンビシャスが闘うリーグに関心を持つきっかけが、出現しなければならないのだな、、、 孫達が、魏志倭人伝時代にも関心を持つためには、孫達の世代の情報循環層という者達が、魏志倭人伝時代に関心を持たなければならないので、
魏志倭人伝時代という物事の外側に、孫達の世代の情報循環層という者達が、魏志倭人伝時代に関心を持つきっかけが、出現しなければならないのだな、、、 >>774
巻向遺蹟が、魏志倭人伝時代という物事の外側なのではないのかな、、、 >>403
「南≠東」などに反論できない大和説者が
発狂中 >>446
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
5chにアホなこと書き込んで荒らしている時点で
大体の事情はお察しというもの >>451
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
存在もしなかった「邪馬台国」とかの嘘吐き騙し文言を使ったり、
魏志と関係ない頭おかしい事ばっか書き込むから
いちいち反論する気も失せちまうなあ >>452
「南→東」などのように、大嘘歴史改ざん主義は、
儒教脳の大和説 >>767
>一つの集団の「忌部はん」だった…
忌部はんの正体は、実は南九州隼人集団だったのかぁぁぁぁぁぁぁ。 >>453
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙しの皇国史観文言だし、
九州説が史料事実や史料実態と言われてもノーダメージだけど
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
史料事実や史料実態や反皇国史観と言われると大ダメージ 創価?
杉の話もあったでしょ、
いやあ750年ぶりだねえとか 『ヤハウェ神殿』の話なのかな
→『いやあ750年ぶりだねえ』 >>757
>「弧帯文土器」が…
阿波と吉備は、その邪霊排除思想を共有していたことが知られる。
やはり円墳文化圏だ。 >>454
>どっちにしても建造時期の地層ではホケノヤマは纏向石塚に次いで古い。
石野・豊岡纏向新編年。 これは埋葬施設の土器ではなく、地層からの編年。
だから古い新しいがはっきりと分かる。<
石野豊岡では、始めから「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・詐欺師だから、名前だけで、根拠にならない。
>>年輪年代で葬儀が3世紀前半と言われる勝山古墳より建造時期が古い。これも同じく巻向新編年。<
「南→東」などの嘘吐き騙しの類スレ主では、根拠や論理を言わないと、全く信用出来ない。
>箸墓は那珂八幡の後。 しかし纏向石塚は那珂八幡よりはるかに古い。<
石塚は、サイズにおいても、円部と方部の整数比率においても、
くびれ部のシャープ度でも、那珂八幡の進化型であり、新しい。
>とは言え瀬戸内にはさらに古い墳墓もあるので纏向が最古ではない。<
瀬戸内は、古の出雲の支配に、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五区」が重なって、混合した地域。
>>年輪年代は、絶対性がない。<
>中塚武教授の年輪セルロース酸素同位体比とも齟齬がない。
この方法は1年ごとの年代が分かる画期的な手法。<
両方とも、その欠陥を指摘済み。
いずれも、基準木と検体木の生育時の気候などの年変化の一致に関して絶対性がない事と、
採取部位と樹皮間の年輪数や寝かせ年数などの誤差、という問題があり、
大和説者は撃沈。 >>729
>>>684には「僕は原子力には詳しいんだ」って
>言っていた某元首相と同じ気配しか感じないw
これって専門家でもないのに息巻いているキナイコシにぴったり。 >>719
>その答えについては、天皇と隼人はもともとから一つの集団だったと考えるのが合理的だと思うね。
そりゃそうだ。
隼人の祖は西都原にいた海幸彦とされている。
これは筑紫の高祖山にいた山幸彦(彦火火出見)の兄弟だ。
ちゃんと隼人と天皇家の関係は歴史的に明示されている。 >>683
>そして畿内の三世紀辺りの最前期に当たる前方後円墳には人物埴輪に代わって特殊器台がある
つまり畿内は魏の使いが知っている邪馬台国ではないということだ。 >>460
大和説よ
大和説は、「南≠東」などの明らかな嘘吐き騙しの証拠も揃っており、
学説でもなく定説なくでもない事が確定しており、
国民の間でも、すでに決着のついた非対称戦と言ったろ
それ相応の態度でいた方がいいと思うぞ 邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権 >>744
妄想および幻覚が見えている九州説の末期症状 >>465
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の反論は、
だいたいブーメランだな >>789
>ちゃんと隼人と天皇家の関係は歴史的に…
日本書紀は海幸と山幸の説話でもって天皇と天皇に仕える隼人の関係を説明しているのだと思うが、
書紀が言うような天孫族と隼人族が別種の存在であるとは考えにくい。
真相は、南九州吹上浜の阿多部族の中の祭祀長とその祭祀長の祭祀儀礼を支える集団が天皇と隼人の関係であるとするのがよいのではないか。
そうした祭祀集団の中には祭祀長の警護を行ったり、身の回りの世話をする者もいたということになる。 大阪府立近つ飛鳥博物
令和元年度秋季企画展 「ヤマト王権とその拠点−政治拠点と経済拠点−」
≪開催趣旨≫
大王の宮を中心とするヤマト王権の政治拠点については、考古学あるいは文献史の両面において関心の高いテーマですが、政権交代論とも関連してさまざまな意見があり議論が続けられています。
今回の企画展では、王権の経済活動に深く関わったと考えられる生産拠点や流通拠点といえる集落遺跡や生産遺跡に注目し、ヤマト王権の拠点について考えてみたいと思います。
≪内容≫
会期 令和元年10月12日(土)〜12月1日(日)
会場 大阪府立近つ飛鳥博物館 特別展示室
主催 大阪府立近つ飛鳥博物館
後援 太子町 太子町教育委員会 河南町 河南町教育委員会
百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議 歴史街道推進協議会
近畿日本鉄道株式会社
開館時間 午前10時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 毎週月曜日(ただし、10月14日(月・祝)・11月4日(月・振)は開館、10月15日(火)・11月5日(火)は休館)
観覧料 一般430円[340円]、65歳以上・高校・大学生330円[260円]
※中学生以下・障がい者手帳をお持ちの方【介助者1名含む】無料
※([ ]内は20名様以上の団体料金) 伊都国歴史博物館
秋季特別展『玄界灘の交易要衝 「一支国」』
玄界灘に浮かぶ壱岐島は、『魏志倭人伝』に記された「一支国」の比定地として知られ、太古より北部九州(倭)と朝鮮半島(韓)や中国大陸との対外交流の拠点として重要な役割を担ってきました。
「一支国」の国邑である「原の辻遺跡」は、交易の中心地にふさわしい巨大環濠集落。そこから出土する土器や青銅器には、倭と韓双方のものがみられ、また漁撈具や農具、祭祀具などは、当時の一支国の人々のくらしぶりを彷彿とさせます。
また、弥生時代後半期に入ると、「伊都国」の祭祀用土器や甕棺が「一支国」でみられるようになることから、両国が主導する倭の対外交易体制が確立し、強いつながりがあったことが分かっています。
本展は、「伊都国から倭人伝の国々を探る」シリーズの第2弾。150点を超える重要文化財をはじめとする壱岐の至宝の数々が糸島に集結します。ぜひ、ご堪能ください。
会期
令和元年10月5日(土曜日)から11月24日(日曜日)まで
開館時間:9時から17時(入館は16時30分まで)
会場
糸島市立伊都国歴史博物館(福岡県糸島市井原916)
特別展観覧料
大人400円(団体300円)・小中高生200円(団体150円)
有料入館者20名以上の団体の場合、上記( )内の団体料金でご覧頂くことができます。
身体障がい者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳を提示の場合は無料(付添い1名まで)。 根拠のない妄想じゃん。
>>795
>書紀が言うような天孫族と隼人族が別種の存在であるとは考えにくい。
別種ではなく、遠い親族なんだってば。 ググってみた?
『いやあ750年ぶりだねえ』
また『❓』このような・・・・・でしょ。
江戸川(名探偵)、仙台が何やらとか。 中華そば。トキちゃん(北斗の拳?)。何やらバッテリー。
〜フォト(写真)。
それとも、もれ(仮)だけなのかな >>501
>この野洲川流域の方形周溝墓は面白い。
副葬品がまったくみられない。
墓丘に置かれたらしい供献土器〜
滋賀と奈良だけに共通した事例。<
ふーん。 >>528
>だから、なぜ
卑弥呼と瀬戸内の関係を誰も説明できない
と思うのか
まったく意味不明<
倭人伝に全く書かれていない。
魏の役人らの見聞移動でも、倭種の実見は伊予付近止まり。 >>529
>>滋賀と奈良だけに共通した事例。<
>そうそう。 滋賀と奈良の南北地帯が葬送儀礼を共有していた。
緩やかな同盟が形成されていたのではないかと思われる。
この南北地帯以外では、ごく普通に墓に貴重財を副葬している。
滋賀と奈良の南北地帯だけが異常だったようだ。<
おそらく、
初期の東征軍と出雲系銅鐸祭祀部族との共存期であり、
双方に共通的な墓祭祀であった方形周溝墓が選択された。
しかし、また東征軍の主力がやって来て、伊勢遺跡も筑紫倭国の支配になり、
大和にも別動隊が来て、筑紫倭国の支配になって、前方後円墳や前方後方墳が選択された。 というか天孫族って何だよ。
高天原の神々の末裔という定義をすれば、
実は葛城を祖地と自称する蘇我こそが天孫であった。
しかし乙巳の変で蘇我が破れ、その地位が変ったのだろう。
天皇で言えば6代孝安まで宮が葛城である事でも分るが、崇神以前の王都は葛城にあった。
(神武から6代孝安まで大王ではない、だから7世紀に天皇という新称号を創作してあげたのだ。)
蘇我馬子の国紀には葛城にあった高天原の神々の王権が物部の母を持つ崇神により滅ぼされたこと、
ゆえ、本来の王権の正統性は葛城の神々の末裔である自分たちにあることが記されていただろう、と推測できる。 >>789
>隼人の祖は西都原にいた海幸彦とされている
西都原古墳群は諸県君以外に該当する被葬者はいない。
なんで海幸彦が諸県君なのだ。 >>795
九州説を言う人は、後付け地名に騙される人がほとんど! @阿波 >>789
九州説を言う人は、後付け地名に騙される人がほとんど! @阿波 >>807
西都原古墳群がそうかどうかはわからない。
しかし都万神社は海幸彦の宮だろう。
それが魏志倭人伝では投馬国として記録されたのだと考えられる。 >>810
>しかし都万神社は海幸彦の宮だろう。
妄想を言ってるだけ! まったく、根拠無し! @阿波 >>810
九州説を言う人は、後付け地名に騙される人がほとんど! @阿波 伊都国歴史博物館
秋季特別展『玄界灘の交易要衝 「一支国」』
>玄界灘に浮かぶ壱岐島は、『魏志倭人伝』に記された「一支国」の比定地として知られ、
太古より北部九州(倭)と朝鮮半島(韓)や中国大陸との対外交流の拠点として重要な役割を担ってきました。
(中略)
>また、弥生時代後半期に入ると、「伊都国」の祭祀用土器や甕棺が「一支国」でみられるようになることから、
両国が主導する倭の対外交易体制が確立し、強いつながりがあったことが分かっています。
強いつながりはあったとしても、方角ちがい里数ちがいの糸島に伊都国があったというのは牽強付会、せいぜい奴国の王家の谷どまり。 共立以前は、各国に王が居た。
又、共立されてからも、各国ごとに官、副がいて、死ねばそれぞれふさわしい墓が作られたことであろう。 都萬神社
祭神
木花開耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)[2]
社名の「都万」は「妻」のことであり、祭神の木花開耶姫命が瓊々杵尊の妻であることによるという。
なお本居宣長以来古くから、当地の地名「妻(つま)」を『魏志倭人伝』に見える「投馬国」に比定する説がある(確証はされていない) >>815
>共立以前は、各国に王が居た。
で卑弥呼はどこの王族の女性だったと思うのかな? >>531
>>庄内と布留の区別の原点は、
庄内に比べて布留の方が壁厚が半分位薄くて硬く出来上がっていた、という事であり、
煮炊きにも便利であったのであり、<
>ようする
九州説さんは考古学知識ゼロということなんですね<
要するに、「南→東」などの史料事実の否定や曲解をする大和説者さんは、
「史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論」という、
人類の常識や科学や学問の常識が判らず、
「口先言葉尻で世間の人々を騙して議論に勝って立身出世を図る」という、
・・・・アホ詐欺師であった、という事ですね。 >>816
その当時に妻をツマと読んだ証拠はない。
上古で妻を意味する語は妹だろう。
そして木花佐久夜毘売を祭る神社としては、伊都に細石神社があり、王と王妃の墓まである。 >>787
>いずれも、基準木と検体木の生育時の気候などの年変化の一致に関して絶対性がない事と、
採取部位と樹皮間の年輪数や寝かせ年数などの誤差、という問題があり、
そんな問題はないよ。
たどれる年輪すべてで酸素比率を検査済み。
科学の前にみっともない言い逃れなんてできないよ、 >>817
倭人伝文中にあり、女王卑弥呼のの所族を暗示すると思われるのは「邪馬台国女王之所都」、
陳寿はこの女王を、「名づけて曰く卑弥呼・・」という流れにしたのであろう >>820
>その当時に妻をツマと読んだ証拠はない。
>上古で妻を意味する語は妹だろう。
神社自体が「その当時」にあった証拠がない。
式内社なので10世紀以前にはあったという事しか言えない。 >>821
>たどれる年輪すべてで酸素比率を検査済み。
どのような理屈のもとに(数千年前までの)年輪を辿ったのか・・? >>532
>>戦争人骨や鉄鏃骨鏃<
>北部九州の戦争人骨や骨に刺さった鏃は、甕棺墓時代で
卑弥呼の3世紀より100年以上前<
日本の考古学を、「南→東」などの嘘付き騙しの「大和説」で統一しようとした公的学者らは、
弥生銀座や須玖岡本などが「目の瘤」であったので、
祇園山に甕棺が3個ある事を無視し、須玖岡本の「キ鳳鏡」を否認し、
甕棺編年を100年以上古くする策略に出たの。
九州説は常に時系列無視 >>824
数千年かどうかは知らんが今から順番にたどっていけばいいだけ。 >>533
>その場合は海東鏡に鏡が東に至ると鏡に書かれなくて南に至ると書いてなくてはいけない<
「海東」鏡の鏡師は、呉付近から北上し楽浪から東南に逃げて倭地に来たんだから、
呉から倭地が「東」と判っていて「海東」と記銘した。
>さらに師出洛陽とも彫ってあるので鏡師が来たなら魏<
「師出洛陽」鏡の鏡師も、△を学んだのは呉地であり、
魏に関係なく、呉→楽浪→倭地と移動して来た。 >>826
ちと、説明が飛んでるな
新古さまざまな材木を用意し、其々年輪ごとに酸素同位体比率を調べ、
そのデータを注ぎ足し注ぎ足ししながらさかのぼるのかな。言い換えれば・・、
光谷の年輪年代はmmで測りつつ遡ったが、酸素同位体法は年輪ごとの同位体比で遡ったのではないのかな。
問題は、くだんの箸墓やホケノにまつわる試料を提供して、同位体法で測ってもらったかどうかだ。
(そうした話を聞かないので、実際には、まだ測定依頼していないのではないか??) >>817
>で卑弥呼はどこの王族の女性だったと思うのかな?
そんな情報は一切ない >>813
>強いつながりはあったとしても、方角ちがい里数ちがいの糸島に伊都国があったというのは牽強付会、せいぜい奴国の王家の谷どまり。
通説をなんでも否定しないと
九州説が成り立たないんだよね
九州説の立ち位置はそんなもの >>830
通説は、あくまで通説どまり
単に、多くの人たちがそう云い、聞き、思っているというだけの事 テスト投稿
只今、また、全面的に「このページを表示できません」とされ、投稿拒否状態 >>825
>日本の考古学を、「南→東」などの嘘付き騙しの「大和説」で統一しようとした公的学者らは、
>弥生銀座や須玖岡本などが「目の瘤」であったので、
>祇園山に甕棺が3個ある事を無視し、須玖岡本の「キ鳳鏡」を否認し、
祇園山の甕棺もちゃんと編年されてます
骨董屋で買ったキ鳳鏡は無視が当然
>九州説は常に時系列無視
これは賛成だな
事実だ
わかってるねえ >>929
>問題は、くだんの箸墓やホケノにまつわる試料を提供して、同位体法で測ってもらったかどうかだ。
(そうした話を聞かないので、実際には、まだ測定依頼していないのではないか??)
いつの時代だったか、飛鳥時代あたりか、一致した例をサンケイbizで見た。
ならば光谷さんの年輪資料の年代を遡っても一致するという事であろう。
むしろ合わなければ大ニュースになってただろうから。 >>827
>「師出洛陽」鏡の鏡師も、△を学んだのは呉地であり、
史料事実を無視して強引に言い張るだけ
それが九州説なんだね >>829
2世紀前半の其の国の男王権はとぎれていないので、ヒミコはその王権。 >>535の念のためのテスト投稿
>捏造をするな
畿内説では三角縁神獣鏡の銅はSPrig−8などの科学的所見などに基づいて
魏の徐州産の銅が使用されていると結論づけている <
SPrig−8は、成分比の近縁類似を計測しただけであり、
渡来の呉系鏡師らは、当然、
手持ちの材料銅と、倭地に於いて手に入れた銅製品を材料にしたのであり、
また王仲殊氏が言われたように、旧「徐州銅山」は衰えており、
南方の揚州付近の銅山が増えていた、という事であるから、
「成分比の近縁類似」にしかならない。 >>831
>通説は、あくまで通説どまり
>単に、多くの人たちがそう云い、聞き、思っているというだけの事
多くの人たちがそう云い、聞き、思っているのは
それに納得する理由があるからだよ
だから
理由も言えない新説が相手にされない >>839
>それに納得する理由があるからだよ
国民の3割ほどだろ。
7割は九州説。 >>835
>難波宮跡(大阪市中央区)の柱2本を使って初めて実証された「年輪セルロース酸素同位体比法」。
難波宮跡(大阪市中央区)の柱2本までは、年輪年代法と同位体法の両方で確認できたというだけの事。
それ以前は、同じ材木試料についてはまだ相互確認していないので結果は書かれていない。
また測定試料は(破壊燃焼されるので)、文化財は提供してもらえそうにないと書かれている。
この新聞記事の段階では、箸墓やホケノ由来の出土物について確認は取れていないようだ。 10人中の3人が言えば、畿内桜井市では通説になったというらしい。 >>837
>2世紀前半の其の国の男王権はとぎれていないので、
はい、それ根拠ありません
お笑い岡上理論だね?
w
九州説はちゃんと魏志倭人伝と向き合うべきだ
このままでは九州説は空想歴史だよ >>841
>国民の3割ほどだろ。
>7割は九州説。
はい、また九州説がデマ流しました >>845
>九州説はちゃんと魏志倭人伝と向き合うべきだ
向き合っても、無駄!
魏志倭人伝と向き合えるのは、四国阿波だけ! @阿波 >>845
>>2世紀前半の其の国の男王権はとぎれていないので、
>はい、それ根拠ありません
>お笑い岡上理論だね?
其国は代々男王だったが今回は女王をたてましたと言うだけだろ。
何も途切れていない。 >>842
>それ以前は、同じ材木試料についてはまだ相互確認していないので結果は書かれていない。
いや難波宮が合うのならそれを基点としてそれ以前にもさかのぼれるじゃないか。 >>848
>其国は代々男王だったが今回は女王をたてましたと言うだけだろ。
>何も途切れていない。
どう書いてある史料を、どう解釈したら
そんな結論が出るんだい?
w
九州説はちゃんと魏志倭人伝と向き合うべきだ
このままでは九州説は空想歴史だよ >>823
なら木花佐久夜毘売との関連も後世のものだね? >>850
どう書いてある史料を、どう解釈したら
王権が途絶えたなんてそんな結論が出るんだい? >>536
>纏向大溝では、古いのは畿内第V様式から新しいものでは布留1式まで出るが、
それを一律で布留1式の年代と考えたら、ただのバカだろ?<
そうか。
纏向遺跡は、まず「大溝を造って物資や材の搬入」を容易にしたんだろう。
そうすると、第V様式が3世紀後半半ば過ぎ頃になり、庄内1〜3が3世紀末になり、
布留1が4世紀になる、ってことだ。 >>850
>どう書いてある史料を、どう解釈したら
そんな結論が出るんだい?
途切れているという解釈を書いてみろよ。 共立というのは揉めながらも一応はそれまでの王権を維持、
そして女王を擁立することで相争ってた両陣営が納得したということ。
当然、女王はつづいていた王権からだ。
そうでなければクーデターになり共立を意味しない。 >>855
卑弥呼は、漢委奴国王側から立ったということなの? な、纏向遺跡の様相に無理やり合わせ、
各地の王が纏向の地で女王共立なんて言ってる纏向説がいかに底が浅いかが分かるだろ。
其国の男王がいたのは葛城だから。
崇神以前の王宮の痕跡は3世紀に遡る式内・名神大社のある葛城にしかない。 2世紀前半の其国の男王って倭国王帥升ことスサノオだしね。
高天原のある葛城にいた。
大和朝廷に発祥地だ。
7世紀の朝廷がいちばん隠したかったのはこの事。
だから基点になる神武の時代を大きくずらし、高天原の場所も潤色した。 × 大和朝廷に発祥地だ。
〇 大和朝廷の発祥地だ。 >>858
>其国は、倭国?邪馬台国?
倭国は青銅器文化の中部から九州にかけての大きな国。
倭国王とはその大きな国の主で役職名は大国主。
※スサノオの息子という個人名ではない。
住んでいた場所が狭義の邪馬台国ことヤマト。 >>849
>いや難波宮が合うのならそれを基点としてそれ以前にもさかのぼれるじゃないか。
遡るといっても、難波宮を特定した材木の年輪の範囲では確実にさかのぼれるということだ。
しかし其の材木の年代を超えてさかのぼるには新たな古材木がいる。その全年輪を測定し、
その一部分、例えば百年分を重ねて照合しながらさかのぼるわけだ、
だから、更に1、2本注ぎ足してやっと三世紀に届く。
これを光谷は光谷の試料で行い、中塚は中塚が入手した試料で行ってさかのぼる。
だが難波宮より前は、相互に試料交換チェックはしていないようだ。
しかも、箸墓やホケノ由来の出土物文化財は文化庁の許可が降りないので測定できない。
つまり、光谷も中塚も、箸墓・ホケノ等について年代特定はできないのだ。 共立というのは辰国のように三氏から選らんだようなもんだろ、大体倭は燕に属すから始まってんだろ、倭の気圧配置が中国王朝の影響で南下してきて奈良に掛かったかどうか?という話だろ。道教の新興集団が集まったんだよ >>852
質問されて答えられなくて
苦しまぎれにオウム返しの逆質問をする
九州説って最低だな
嗤 >>854
質問に答えられなくて
オウム返しの逆質問です誤魔化す九州説
自分らの知性も品格も最低だと証明したな >>855
>共立というのは揉めながらも一応はそれまでの王権を維持、
>そして女王を擁立することで相争ってた両陣営が納得したということ。
だという理由は?
九州説はまた理由もなく言い張るのか?
最低だな w
九州説はちゃんと魏志倭人伝と向き合うべきだ
このままでは九州説は空想歴史だよ >>867
>九州説はちゃんと魏志倭人伝と向き合うべきだ
向き合っても、無駄!
魏志倭人伝と向き合えるのは、四国阿波だけ! @阿波 九州説は思い込みで出来てるから
「アタリマエダ」「キマッテル」
なので、何事も説明することができない 九州を研究してる学者に漢代の北部九州で「王権」が継続していたなんて考えてる者はいない
「王墓」と呼ばれているものも皆ゆうに間隔が一世代を超えていて、連続性が認められる ないのだ
これは
中国川史料で安帝時朝貢以降の北部九州に歴代の王がいたとは明記されていないという史料事実を裏付けている >>871
>連続性が認められる ないのだ
タイプミスった
正:連続性が認められないのだ >>874
>いうまでもなく倭国だ
「其國本亦以男子爲王、住七八十年」
「住七八十年」ってどういう意味? >>870
畿内説へのブーメランだぞ。
「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
「不自然ではない」
などの主観的な判断の表現を疑え。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。 >>871
>中国川史料で安帝時朝貢以降の北部九州に歴代の王がいたとは明記されていないという史料事実を裏付けている
魏志倭人伝
「伊都国に代々王がいる」 >>876
確定していない主観を客観的であるかのように押し付ける...まさに印象操作だね。 数代の王が継続したこともあり、2-3代だったこともあり、1代限りだったこともあり、
つまりは入れ替わり立ち代わりだったということだろう。
室町・徳川でさえ300-400年、(記紀の編集も含めて)2000年も続いたのは現在の天皇家だけさ・・。 >>875
住が停止の意味だから
「その後音信なく七、八十年代経過して」
とでも意訳するのが良いだろう >>831
>単に、多くの人たちがそう云い、聞き、思っているというだけの事
そこで、「なぜ多くの人たちがそういい、そう思っているのか」ってところを論じないから
お前を含め九州説は全員無能だって言うんだよ
多くの人たちがそうだと思うだけの妥当性があるんだよ
それが妥当ではないという論証をしなければならないのに、
通説は説だから確定ではないという当たり前のことしか言えないww >>877
>魏志倭人伝
>「伊都国に代々王がいる」
それがみな女王国に下属してるのだから
卑弥呼共立以降の話をだろう >>876
それが主観的な判断の表現だという理由は? >>881
>そこで、「なぜ多くの人たちがそういい、そう思っているのか」ってところを論じないから
多くの人が九州だと思っているのが実情。 >>541
>プラズマ化によって年代が50年古く出る事は物理学的に否定
そもそも旧来の方式と比較して50年差が出る事がわかるなら
測定値はそのように修正が入り差が発生する余地が存在しない <
ホケノの木棺の12個の木片でのAMSで、
その全ての木片のそれぞれの一個の木片の年代計測値が110年幅のバラツキが出た、
という事は、AMS法の計測が「全く有効に計測出来ていなかった」という事であり、
その、同じ木片での一回一回の計測でそんなバラツキが出た原因は、
プラズマ化に拠るβ崩壊の促進性がバラバラであったから、だろうなあ。
>ホケノ山古墳は木棺の木片サンプル5つが120〜240年を示し
副葬品の銅鏡に239年渡来の三角縁神獣鏡が含まれない事から
2つの証拠の合致で三世紀中葉ごろと年代推定が得られる<
木片の樹皮からの年輪年数や寝かせで
数十年位はすぐに「古い検体」を使ってしまっていた事になる。
>そこから飛び離れた4Cごろを示す木の小枝などは 天井の崩落も見られる事からその頃に生じた
まさにコーラのビンと同じような混入異物と見られる<
小枝なら、「古い検体」になってしまう確率が低い。 >>788
>これって専門家でもないのに息巻いているキナイコシにぴったり。
本当にミラーリングで自分への批判を相手になすりつけることしかできないww
結局、これにも答える能力なしで逃げるだけだし、九州説には自然科学分野の
専門教育レベルのことをきちんと説明できるやつはいないってことだ
「崩壊は進むことがあっても遅れる事は無い」を
正しい科学的知見をもとに否定して見せてごらんww
連続句読点に詳しくなくても、これならできるだろ?
科学に詳しい人ならさ?wwww >>542
>最大の墓を作る者=最大の動員力を持つ者=最大の権力者・王であるのは、
連続句読点ですら「当然ながら」と判断するレベルのトートロジーに近い推論だ<
墓の大きさ決めるのは遺族(寿陵なら本人)であり、
墓を造る遺族の「必要の度合い」の問題だ。
新規に侵略し支配した王の遺族は、被侵略民を威圧し、抵抗されないために、
先君の墓を巨大化する必要がある。 >>655
>2つの箱に靴を片方ずつ詰めて北極と南極に贈り、南極側の靴は右用だと連絡が入りました。
>これに対し北極側が左用である事を証明せよと騒いでるようなもんだw
これ、対生成した電子と陽電子のスピンが、片方を観察したときにもう片方も確定するっていう
不確定性原理の思考実験の、うろ覚えの劣化コピーだろww
まさに九州説の知的レベルの限界を示しているなww
「うろ覚えの劣化コピー」ってのが、九州説の典型的な主張方法だw
しかも「うろ覚えの元命題」が既に否定され尽くしている
短里も、島巡り仮説も、水行の起点は帯方郡も、末盧国は呼子も、
平原1号墓出土鏡は八咫鏡も、すべて間違い >>884
>多くの人が九州だと思っているのが実情。
そういう実情があるという証拠は? >>887
>新規に侵略し支配した王の遺族は、被侵略民を威圧し、抵抗されないために、
>先君の墓を巨大化する必要がある。
そんな状況が続いて300年というのはあり得ない
だからその想像は間違いだな >>548
>魏で使われていた尺度では1歩約1・4mだったので
百歩が20mというのは嘘 <
魏の役人らが計測記録が報告し、陳寿が魏志などに書いた「里」数記録は、
ほぼ1里は約60〜90m位であり、1里=300歩であるから、
百歩は20〜30mであり、
百歩が144mなんて言うのが嘘。 >>550
荒らしてるのは、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者だけだろ >>866
>>共立というのは揉めながらも一応はそれまでの王権を維持、
>>そして女王を擁立することで相争ってた両陣営が納得したということ。
>だという理由は?
>九州説はまた理由もなく言い張るのか?
おまえが言うように各地の首長が纏向の地で女王を共立したのなら、
2世紀前半から続く男王権はどうなったのだ?
あと俺は九州説ではないし。 >>862
>遡るといっても、難波宮を特定した材木の年輪の範囲では確実にさかのぼれるということだ。
しかし其の材木の年代を超えてさかのぼるには新たな古材木がいる。その全年輪を測定し、
その一部分、例えば百年分を重ねて照合しながらさかのぼるわけだ、
だから、更に1、2本注ぎ足してやっと三世紀に届く。
もうかなり前から年輪年代では縄文まで続く複数の資料が整ってたはず。
それと照合すればいいだけ。 >>886
>「崩壊は進むことがあっても遅れる事は無い」を
>正しい科学的知見をもとに否定して見せてごらんww
その非常識な主張が正しいと思うのなら、君がそれを証明しないと。 >>894
>おまえが言うように各地の首長が纏向の地で女王を共立したのなら、
>2世紀前半から続く男王権はどうなったのだ?
そんな王権があったという根拠は?
>あと俺は九州説ではないし。
でもクズ説でしょ >>880
>「その後音信なく七、八十年代経過して」
王がいなかったかのような都合の良い解釈するな。 >>798
書紀の編纂者らがそのように分けてしまったわけ。
それ以降、皇族系と在地系の別が生まれた。
歴史的な実相としては、もともとは部族の中の一つの祭祀集団だった。
その延長線上に天皇と隼人がいて、天皇(祭祀長)を警護するのはその祭祀集団の中の警護の役目をする者たちだったということ。
その後、天皇はそうした集団から切り離されて皇族という独立の集団を形成するようになり、一方、元々の警護や近習の隼人らは皇族とは別の部族集団だとして切り離された。
しかし、旧習の継続として天皇の私的な警護や近習の役目は隼人がそのまま権利を持って行ったということになる。 >>731
>畿内説によると、原子の崩壊速度が遅れることがあるのか
本当に根本から分かってないんだなw
ある放射性核種の一原子の崩壊確率は、単位時間あたり一定だ
10分間崩壊しなかった原子と、すでに1万年崩壊しなかった原子が、
次の10分間で崩壊する確率は同じ核種である限り同じだ
ある核種の崩壊による寿命がTだったとして、その核種の1原子が
Tより前に崩壊することも、Tより後につまり「遅れて崩壊することもある」
これが集団になっても同じこと
その核種の寿命から計算される値より、多くの原子が崩壊することもあれば
少ない原子が崩壊することもある
確率的事象だから、偶然によるばらつきにより標準より進むことも遅れることも、
確率分布をもって生じるんだよ
その確率分布がポワソン分布
ポワソン分布は測定値が一定以上になる測定条件では正規分布と同じ形の分布になる
つまり進む側の誤差と遅れる側の誤差は対称形になるんだよ
これが科学的に正しいこと
>>556の
「時間が一方通行であるがゆえ、より古い値は出現しやすいが、より新しい値はまず出現しない。
よって、新しい値で共通性のみられる部分があれば、それを拾って平均を出す。」
がデタラメだってのがひと目で分からない奴は科学を語る能力が無い
できるのは科学のふりを騙ることだけw >>897
2世紀前半からの王権がなかったというわけだな。
俺はあったという説、
いや説ではなくて物証として崇神以前の王権の痕跡、
そして6代孝安以前の宮が文献では葛城にあること、
そして国宝中平銘鉄刀の和邇氏系譜上に卑弥呼もトヨもいるわけで、
住んだのは葛城である事、
また日本で唯一、径百余歩の塚の周りに奴婢であった土蜘蛛集団が埋葬されてる物証があること、
以上から2世紀前半からは続いてた王権は葛城である。
纒向には奴婢埋葬痕跡はないのであきらめろ。 >>792
>日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権
九州説は倭の別種って言葉が大好きだけれど、
魏志倭人伝にはそんなことは全く書いてないし
「別」の字は「其會同坐起、父子男女無別」の一ヶ所だけ
この辺も九州説の捏造体質だよな >>554
>最初期の前方後円墳に見られる特殊器台<
張政らは「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を、
実見出来たから記録出来たのであり、
前方後円墳は、「冢」ではないから×であるし、
特殊器台では、張政らが見た「殉葬者奴婢百余人」にはならないから、×。 >>556
>AD300年前後だな。
時間が一方通行であるがゆえ、より古い値は出現しやすいが、より新しい値はまず出現しない。
よって、新しい値で共通性のみられる部分があれば、それを拾って平均を出す。<
成程。 >>899
隼人って明らかに異民族として扱われてますけど? >>558
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをし、
ヤジばかり飛ばしてても
大和説は有利にならないよ >>905
多分、後世において分化が進んだため、または皇族同士の争いに利用された結果として異民族であるかのような扱いを受けた可能性がある。
その一方で、天皇の近くで警護もするのだから、やはり単なる異民族ではない。
そして系譜としては天孫族である海幸を祖とすることになっている。 >>899
>歴史的な実相としては、もともとは部族の中の一つの祭祀集団だった。・・・
その部族が、「忌部一族」。 だと、何度言えばw @阿波 学部の分野では、まだ、ノーベル賞を受賞できない地域に居住する奥山氏は、炭素年代法の一試料一試料の中にある炭素原子が、試料毎に測定による誤差を収斂するために十分な数だけ存在していることを理解しないまま、頓珍漢な意見を発表してしまったな。
900日本@名無史さん2019/10/26(土) 12:32:10.59
>>731
>畿内説によると、原子の崩壊速度が遅れることがあるのか
本当に根本から分かってないんだなw
ある放射性核種の一原子の崩壊確率は、単位時間あたり一定だ
10分間崩壊しなかった原子と、すでに1万年崩壊しなかった原子が、
次の10分間で崩壊する確率は同じ核種である限り同じだ
ある核種の崩壊による寿命がTだったとして、その核種の1原子が
Tより前に崩壊することも、Tより後につまり「遅れて崩壊することもある」
これが集団になっても同じこと
その核種の寿命から計算される値より、多くの原子が崩壊することもあれば
少ない原子が崩壊することもある
確率的事象だから、偶然によるばらつきにより標準より進むことも遅れることも、
確率分布をもって生じるんだよ
その確率分布がポワソン分布
ポワソン分布は測定値が一定以上になる測定条件では正規分布と同じ形の分布になる
つまり進む側の誤差と遅れる側の誤差は対称形になるんだよ
これが科学的に正しいこと >>911
奥山氏の頭の悪さを笑いリラックスすることの前に、八村塁氏の今朝の闘いの映像を探せば良いな。。。 楽天TVというTVは、どのようなTVなのだろうか、、、 孫達が熱狂的に応援している八村塁氏が、スーパーソニックスを前進とする者達を、叩き潰してしまった。。。 >>914
孫達が熱狂的に応援している八村塁氏が、スーパーソニックスを前進とする者達を、叩き潰してしまった。。。
という文章は、
孫達が熱狂的に応援している八村塁氏が、スーパーソニックスを前身とする者達を、叩き潰してしまった。。。
という文章に直した方が、漢字の使い方が、正しいのではないのかな、、、 NBAという闘いのリーグでは、チームの年毎の闘いでの強さの変化が激しいのだったな。。。 >>916
学部の分野では、まだ、ノーベル賞を受賞できない地域に居住する奥山氏は、NBAの一チーム一チームの中にいる選手が、年毎の変化による前年との誤差を収斂するために十分な数だけ存在していないことを理解しないので、頓珍漢な意見を発表する可能性が高いな。 八村塁氏は、3ポイントシュートを数多く撃てば撃つ程、実力通りの成功率に収束していくのだったな、、、 >>591
>ずっと前に誰かも指摘してたぞ。
崩壊は進むことがあっても遅れる事は無いと。
だから最も新しい値が最も実年代に近いんだと。<
成程。 >>593
>もし倭人伝に「奴隷を墳丘に埋めました」とか 書いてあるなら
何か手がかりになるかも知らん
実際には書いてないのだから利用価値が低い というか、ない <
倭人伝には「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
とはっきり記録されたんだから、
魏の役人たちは、卑弥呼の殉葬葬儀の一部始終を見ている。
>ましてや箸墓は墳丘を掘ってないときてるもし倭人伝に「奴隷を墳丘に埋めました」とか
書いてあるなら 何か手がかりになるかも知らん<
箸墓は、「南≠東」などに拠って、×。 >>911
つまり、一つ一つの測定結果は、同位体比率については、正しいのだな、、、
そして、試料毎の結果の差は、崩壊という不可逆な物事を促進させた外部要因だけなので、
崩壊という物事が少ない試料の測定結果が複数揃えば、その測定結果が信用できるのではないか、、、
という考え方は、僕達には少し不満足はあるが、一理あるのだね。 >>918
八村塁氏のシュート成功率は、不可逆な物事ではないので、奥山氏がインターネットで見つけたが、理解できなかった不完全な知識が適用出来るのだな、、、 >>910
>その部族が「忌部一族」。だと、何度言えば…
忌部族=阿多族。
阿多族=天皇族。
天皇族?忌部族。 >>600
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説に資金提供しているのは、
人種差別的殺戮戦争狂の国粋皇国史観宗教の、
キョクウ組織の絡んだ団体や政治組織の可能性 >>605
「南→東」などの嘘付き騙しをした理由が答えられないと
大和説がいかにいい加減な人間で構成されているか
という証拠になります 今夜は、バンビシャスブースターが、大集合する可能性が高いな。。。 >>926
行く者達は、公共交通で、アプローチすれば良いな。。。 >>609
これで、国粋皇国史観の戦争キョクウの安部文科省指導の大和説の恥記録が、
また増えた >>610
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
なぜ意味もない悪口書くだけになるのか
そんなんなら何もしない方がマシなのに テスト投稿
只今「このページを表示できません」で投稿拒否状態で、
しかも5chだけではなく、Yahooも「このページを表示できません」状態。 古墳の形式について
■魏志
・韓伝,夫余伝:「槨あって棺なし」
・高句麗伝:「石を積みて封となす」
・東沃沮伝:「大木の槨を作る、長さ十余丈」
・倭人伝:「棺あって槨なし。」←卑弥呼の墓
■畿内説が卑弥呼の墓と言い張る
箸墓古墳(前方後円墳)の形式は
「棺あって槨あり」
※ちなみにホケノ山古墳は
「木槨あり木棺あり」
なるほどねえ。。。 デニス・ジョンソン氏は、亡くなってしまたったのだったな。 邪馬台国畿内説は、破綻してしまったのだったな、、、 大和説者は倭人伝の水行20日や萬二千余里などはあてにならない、実数だとはとても考えられないと言いつつ、
径百歩は実数だと叫び、返す刀で殉葬奴婢百余人はあり得ないとのたまう。
径百歩だけが実数だと叫ぶ根拠はいったい何なのかねぇ。 >>911
>試料毎に測定による誤差を収斂するために十分な数だけ存在していることを理解しないまま、
その収斂状態における測定値の分布がポワソン分布であり、
測定値の大きさが十分以上にあればポワソン分布の形は正規分布となる
14C年代の較正曲線に与えられる1σとか2σとかの値は正規分布として求められる
当然に新しい側の誤差範囲と古い側の誤差範囲は対等であると確率的に判断される
その幅の中で一番新しいところだけを
「時間が一方通行であるがゆえ、より古い値は出現しやすいが、より新しい値はまず出現しない。
よって、新しい値で共通性のみられる部分があれば、それを拾って平均を出す。」
という操作が不正なものであるのは、きちんとした理解力のある人には自明のことなんだよ
連続句読点はバカだから分からないだろうけれどw
今度、国立大学理系のお孫さんに教えてもらったらどうだ?
まあ、ポワソン分布まで習ってないかも知れないが >>932
>・倭人伝:「棺あって槨なし。」←卑弥呼の墓
これが嘘
これは倭国一般の習俗であって、王墓がこの形式とは書いてない
卑弥呼の墓は大作冢、徑百餘步
これに当たる九州の墳墓遺跡はない >>923
「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、みんな元を辿れば全部、「忌部一族」。 @阿波 奥山氏が、また、頓珍漢な意見を発表してしまったな、、
2019/10/26(土) 15:15:47.54
>>911
>試料毎に測定による誤差を収斂するために十分な数だけ存在していることを理解しないまま、
その収斂状態における測定値の分布がポワソン分布であり、
測定値の大きさが十分以上にあればポワソン分布の形は正規分布となる >>940
奥山氏の頓珍漢な意見は、試料測定毎の測定の精度の誤差には、適用できる考え方なのだが、確率的に試料測定によるBP値の測定誤差が存在する余地がないことを、頭の悪い奥山氏は理解できないのではないのかな、、、 >>923
「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、みんな元を辿れば全部、「忌部一族」=「倭人」。 @阿波 奥山脳とは言え、これはまた強烈やなw
正規分布はプラマイが存在するものには適用できるが、原子崩壊の話に使うとなると、
絶対温度でマイナス領域が存在すると言ってるようなものだぞwww
畿内説の会話ではマイナス100ケルビンなどという言葉が飛び交っているのであろうかwww
900日本@名無史さん2019/10/26(土) 12:32:10.59
>>731
>畿内説によると、原子の崩壊速度が遅れることがあるのか
本当に根本から分かってないんだなw
ある放射性核種の一原子の崩壊確率は、単位時間あたり一定だ
10分間崩壊しなかった原子と、すでに1万年崩壊しなかった原子が、
次の10分間で崩壊する確率は同じ核種である限り同じだ
ある核種の崩壊による寿命がTだったとして、その核種の1原子が
Tより前に崩壊することも、Tより後につまり「遅れて崩壊することもある」
これが集団になっても同じこと
その核種の寿命から計算される値より、多くの原子が崩壊することもあれば
少ない原子が崩壊することもある
確率的事象だから、偶然によるばらつきにより標準より進むことも遅れることも、
確率分布をもって生じるんだよ
その確率分布がポワソン分布
ポワソン分布は測定値が一定以上になる測定条件では正規分布と同じ形の分布になる
つまり進む側の誤差と遅れる側の誤差は対称形になるんだよ
これが科学的に正しいこと >>941
奥山氏の頓珍漢な考え方の間違いは、架空の世界の架空の奥山氏が、色々な方法で処刑されるときの、各処刑方法の成功率という、思考実験で教えてあげられそうなのではないのかな、、、 >>615
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
やってる事がインチキ宗教のそれ
学究である九州説とは立ってる場所そのものが違う 原子崩壊を利用した年代測定は必ず実際より古い値しか示さない。
だから補正するのにw >>945
このことは忘れないように今は備忘録に書き留め、時間があるときに思考実験の話にまとめ、発表すれば良いよ。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1572069201/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>941
較正曲線についている±の誤差の話だぞ?
理解できていないのはお前w
その1回の測定で一つの値として出てくる炭素年代を、
較正曲線と照合して出てくる実年代の確率分布は、
信頼区間の中ではどこも対等であり
「時間が一方通行であるがゆえ、より古い値は出現しやすいが、より新しい値はまず出現しない。
よって、新しい値で共通性のみられる部分があれば、それを拾って平均を出す。」
という操作はありえないほどの不正操作だww >>624
>>なんで?。「更相誅殺」って書いてあるんだから、「殺し合い」だよ。<
>「誅殺」の意味、わかってる? >なんで?<
「相」だから、「相方」であり、「双方」だよ。 >>625
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
史料事実殻の帰納的確率的な推論ではなく、
また悪口オンリーか
どこまで無能なの?
w
w
意味のある反論はできんのか >>944
>正規分布はプラマイが存在するものには適用できるが、原子崩壊の話に使うとなると、
>絶対温度でマイナス領域が存在すると言ってるようなものだぞwww
お前もありえないほどのバカだなww
測定しているのは、ある炭素試料が固定されてから固定されてから現在までに
崩壊した14C原子数の積算値だ
当然ある正の実数値であり、プラスにもマイナスにもずれ得る値だぞ
今目の前にある原子が崩壊するまでの時間経過を計っているのではない
九州説の人間がバカすぎるww >>635
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
また悪口言うだけで何も反論出来ないの?
どこまで無能なの? >>639
>「崩壊は進むことがあっても遅れる事は無い」を
正しい科学的知見をもとに否定して見せてごらんww <
重力場であっても電磁場であっても核力場であっても、
「場の相互作用」は、
別の強い場の相互作用に依って一時的に不安定化した場を、
安定化する方向に相互作用するの。 >>649
「南≠東」などに、なにも反論できないの?
大和説って、なんて無力なの
ww
あなたも、すぐ論破される人ですね >>657
>そして、測量して距離が分かっているのに、それをわざわざ縮尺で短く記載する必要が
どこにあると思っているんだろう? <
魏の役人たちは、距離が判っていたから、その「判っていた距離」を使って計測したの。 >>663
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
レベル低すぎて小学生の悪口並み
それなりの議論をするにはそれなりの相手とじゃなきゃ出来ないという事よのう >>673
>滋賀に朝鮮街道と呼ばれる道があるんだけど、地元民がそれは奈良まで続いてると言ってた。<
ふーん。 >>676
>>記紀に人物埴輪は奴婢殉葬の代わりに古墳の周りに埋めたと書いてあるぞ <
>それは途中から埴輪に変えたということ。
しかし魏志倭人伝は殉葬100人を驚きをもって記録しており、実際に殉葬があったのだろう。
少なくとも、埴輪に移行した後の古墳は全て卑弥呼の墓の候補から除外される。<
成程。 >>938
>これは倭国一般の習俗であって、王墓がこの形式とは書いてない
一般大衆の小さく粗末な墓について槨うんぬんを論じるわけがない。
これは王族の墓についての記述だとしか考えられない。 つまり、一つ一つの測定結果は、同位体比率については、±の範囲に収まることを、頭の悪い奥山氏も認めるのだな。
そして、試料毎の結果の差は、崩壊という不可逆な物事を促進させた外部要因だけなので、
崩壊という物事が少ない試料の測定結果が複数揃えば、その測定結果が信用できるのではないか、、、
という考え方を、頭の悪い奥山氏にも、否定する材料は無いのだね。
950日本@名無史さん2019/10/26(土) 15:48:49.12
>>941
較正曲線についている±の誤差の話だぞ?
理解できていないのはお >>965
奥山氏は、誰も否定していない物事を、頓珍漢な勘違いで、説明していたのではなく、
卑劣に論点をずらしていた可能性があるな。 >>964
>一般大衆の小さく粗末な墓について槨うんぬんを論じるわけがない。
じゃあ何故に市井一般のことを書いてる文脈の真ん中に
しれっと書いてあるわけ? >>966
おいイカサマ九州説
わけのわからん一般論でごまかさないで具体的なことを言えよ 卑劣な、論点ずらしを、曝かれた奥山氏が、悪口を喚いてきたな。 >>966
>卑劣に論点をずらしていた可能性があるな。
正解
詐欺師の常套手段 同位体比率の試料毎の結果の差は、崩壊という不可逆な物事を促進させた外部要因か試料毎の炭素固定の年代差なので、
崩壊という物事が少ない試料の測定結果が複数揃えば、その測定結果が信用できるのではないか、、、
という考え方は、僕達には少し不満足はあるが、一理あるのだな。 >>964
>これは王族の墓についての記述だとしか考えられない
じゃあ東夷の他の国の棺槨も王族の墓の話なのか?
王のいない国のことも書いてるぞ
w
九州説はちゃんと魏志倭人伝と向き合うべきだ
このままでは九州説は空想歴史だよ もう奥山が中卒なのは確定だよw
小卒かもしれないがw >>974
いつも理由がまったく説明できないお前は確実のそれ以下だよな >>975
同じく炭素年代測定結果は実際より新しい年代を示す場合があるんだろ?w
高校物理の基礎すら教わっていないことを意味している。
高卒の場合なら文系確定。
↓
お前の脳内回路によると、電子は原子核の周りを回ってるんだろ?w
理科しか教わっていないということを意味している。
高卒ではあり得ないので中卒確定。 逆に書いてしまったなw
お前の脳内回路によると、炭素年代測定結果は実際より新しい年代を示す場合があるんだろ?w
高校物理の基礎すら教わっていないことを意味している。
高卒の場合なら文系確定。
↓
同じく、電子は原子核の周りを回ってるんだろ?w
理科しか教わっていないということを意味している。
高卒ではあり得ないので中卒確定。 もしかして九州説の連中って
炭素年代測定の知識ゼロなのか? すみません、炭素年代測定どころか物理を学ぶことを怠っていました。
畿内説代表 奥山 畿内説が50年以上古い年代ばかり発表する理由がよくわかったよ。 >>973
>王のいない国のことも書いてるぞ
その場合は一番上位の階級の内容を書いてあるのだろう。
繰り返すが、槨の有無が問題となるのは庶民の墓のことではない。 径百歩は、単に大きいという意味だよな。
それをまじで144mの墓を造ったと唱える大和説者は、なにゆえに百歩を実数だと考えたのだろうか。 >>986
>径百歩は、単に大きいという意味だよな。
理由は?
九州説いつも理由なし断定? >>983
>畿内説が50年以上古い年代ばかり発表する理由がよくわかったよ。
どんな理由?
また秘密?
これだから九州説は・・・ >>964
>一般大衆の小さく粗末な墓について槨うんぬんを論じるわけがない。
>これは王族の墓についての記述だとしか考えられない。
書いてある場所を考えろ
ここだぞ
今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽。後、稍以爲飾。
諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東冶之東。
其風俗、不淫。男子皆露紒、以木緜招頭。其衣幅、但結束相連、略無縫。
婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。
兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無、與儋耳朱崖同。
倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。
以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。
其死、「有棺無槨」、封土作冢。始死、停喪十餘日。
當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
お前の理論だと、王も海に潜って魚や蛤を採ってくるのを好むことになるww >>972
>崩壊という不可逆な物事を促進させた外部要因か試料毎の炭素固定の年代差なので、
外部要因が、マクロな測定結果に影響を与えるほど、
崩壊速度に影響を与えることはない
これがもともとの論点だ
高エネルギー宇宙線の粒子シャワーが14C年代に影響することは事実上ない
ここからして、連続句読点の頭がおかしいんだよ
ご自慢の国立大学の孫に教えてもらえww
馬鹿笑いしてもらえると思うぞw >>989
お前って困ったら根拠は?理由は?で逃げてるだけ。
纏向遺跡が卑弥呼の王都、箸墓古墳が卑弥呼の墓という根拠は何一つない(爆笑) >>979
>同じく炭素年代測定結果は実際より新しい年代を示す場合があるんだろ?w
またごまかしているな
誤差範囲を適正に評価して、以下の結果が得られているのに
https://i.imgur.com/qOswdpR.jpg
この新しいところだけ拾って平均すれば九州説に都合のいい新しい値と見られる
っていうのが、もともとの大嘘つきの主張だぞw
>>556
「時間が一方通行であるがゆえ、より古い値は出現しやすいが、より新しい値はまず出現しない。
よって、新しい値で共通性のみられる部分があれば、それを拾って平均を出す。」
これが、科学からかけ離れた大バカ野郎のインチキの大嘘だって
九州説の人間も認めるだろ?ww
きちんと科学をわかっている人間に解説されたらぐうの音も出ないのが
九州説の戯言の結末だww 科学も、ダメ
文献も、ダメ
議論も、ダメ
九州説にできる事はなに?
荒らし?
中傷? 九州説ってバカをさらして、九州説を信じる人を増やすのを目的にしてるのかな? 少し面倒なのが、左側スロープ君が
言ってることややることなすことが九州説と同じで見分けがつきにくいことがあること
まあ、世間では誰からも相手にされてないから、いいっちゃいいんだけど 偶然、考古学にも関心が高まった、頭の良い理論物理学者が、邪馬台国畿内説がただ一つ頼りにしていた炭素年代法が、
近年明らかにされた、地表付近に到達する2次宇宙線中の核子の、単位面積中の量を知り、炭素年代法と邪馬台国畿内説が、完全に破綻したことを究明したので、発表します。 偶然、考古学にも関心が高まった、頭の良い理論物理学者が、邪馬台国畿内説がただ一つ頼りにしていた炭素年代法が、
近年明らかにされた、地表付近に到達する2次宇宙線中の核子の、単位面積中の量を知り、炭素年代法と邪馬台国畿内説が、完全に破綻したことを究明したので、発表します。 このスレッドは1000を超えました。
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