邪馬台国畿内説 Part523
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1572069201/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南にグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 >>18の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 訂正
箸墓の事は忘れてください。
箸墓は決して古くなく4世紀の築造だとされていました。
それが急に変わったのが、1976年。宮内庁書陵部の定期刊行物「書陵部紀要」に、
埴輪のルーツである特殊器台や特殊壺が、後円部墳丘頂上付近で出土していた事が公表されたからです。
これで一気に”最古の大型前方後円墳”との共通の理解となったようです。
土器編年で見た場合は、布留0式が出土しており、邪馬台国大和説派の石野博信氏は280年前後、
同じ考えの、纏向学研究センターの寺沢薫氏は270年以降と見られています。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 「一旦、崩壊した物事は、崩壊する前の状態には、戻らないので、異なる試料のBP値が新しい年代で複数揃った場合の信頼性は、別の試料の測定値群の信頼性よりも高い。」という考え方は、
炭素年代法が破綻したことを究明した僕達には不満足だが、破綻した炭素年代法を信じる限りは、合理的な考え方なのだな。。。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 >>1
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまいましたね。。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 とても科学的とは思えない基準w
<石野さんの説明>
布留1式のはじまりを、安本先生の言われるように
350年とすると、布留式の行われた期間が50年に満た
ない短い期間になってしまう。これはおかしいと思う
ので、布留式は290年頃から始まったと考える。
そして、布留式が始まる前の庄内式の時代のホケノ
山古墳の年代は250年ごろと考えている。
これはおかしいと思うので、布留式は290年頃から始まったと考える。
「思った」が理由かよw ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。 ◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。 ◆FAQ 96
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 ◆FAQ13に加筆、97を追加 >>18
>>22
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国皆倭種B」(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>983
関門海峡は4世紀に開削されたらしい。
それまではトンネル状で、穴門と呼ばれていた。
つまり門司と下関は陸続きだった。
それに文化的にも両者は一体と見てよいだろう。 なぜ、邪馬台国畿内説は、掘立柱の遺蹟が卑弥呼の城だという説を、諦めてしまったのだろうか、、、 ◆実年代=古事記の没年情報(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+中国への朝貢記録+同時代人
◇奴国(博多)【後漢皇帝の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島の鉄輸入独占本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(後漢光武帝より金印を賜る)
「帥升」(情報なし)…107年(後漢安帝に謁見を願い出る。生口160人を献上)
◇邪馬台国【狗奴国との争い→魏帝・西晋帝に援軍要請】
卑弥呼(〜247年)…239年/240年/243年/245年/247年(大夫…難升米、載斯、烏越、伊聲耆、掖邪狗ら)
台与(235年〜?)…248年(13歳で邪馬台国女王に共立)/266年(西晋武帝・司馬炎へ)
◇大和朝廷
T.三輪(佐紀)朝【国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を大量獲得)】
10祟神(〜318年)…四道将軍(大彦/武渟川別/吉備津彦/丹波道主)派遣、310年頃?
11垂仁(情報なし)…330年頃没?新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没?日本武尊の東征&西征335年頃? 大臣・武内宿禰(〜応神)
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
U.河内朝【半島派兵(高句麗との争い&百済支援)本格化→大将軍位を求め、南朝(東晋/宋/斉/梁)帝に朝貢】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)
18反正(〜437年)…「珍」(438年)←没後朝貢?
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
V.近江朝【中央集権強化】
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮) あー、またスレ立て邪魔するのに失敗した
スレ立てに気がつかなかったな >>798
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅」や「乘船南北市糴」や、
「布留の壁厚は庄内の半分位」などの否定という嘘つき騙しをする大和説は、
こんなふうに
何も史料を使わない脳内空想の言い張りだけが好き >>86すると、欽明(現皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) 「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
「不自然ではない」
などの主観的な判断の表現を疑え。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。 >>92
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が1世紀前の邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の@景行A成務B仲哀、応神朝(邪馬台国)C応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>88
帯方郡治からは、八方位で、ギリギリ東にあることがバレたことが理由なのであれば、南西方向にずらす必要があるのだが、
邪馬台国畿内説を宣伝する者達は、角度の計算を習わなかったので、尾崎花地区を新しい候補にしてしまったのではないのかな。。。 弥生時代鉄鏃出土数
東北**1 群馬*21 千葉*63 東京*37 長野*27 石川*55 福井*32
滋賀*13 京都112 大阪*40 兵庫*92 奈良**4 和歌山**5
岡山104 広島*79 山口*97 鳥取*46 島根*30 香川*36 愛媛*25 高知*53
福岡398 佐賀*58 長崎*29 熊本339 大分241 宮崎100 鹿児島**3
鉄製鏃の出土は福岡県、熊本県、大分県の順番になっておりそれ以下の地域の出土数は
極端に少ない、邪馬台国と狗奴国は戦争をしていたと記載があるので邪馬台国が福岡県
の南部、狗奴国が熊本県北部となり大分県日田地方は邪馬台国連合国家の1つとなる
ちなみに福岡県は筑紫、熊本県は肥国、大分県は豊国
白日別:筑紫国、豊日別:豊国、建日向日豊久士比泥別:肥国、建日別:熊曾国
しかし肥国と熊襲国は名前が被っている。そして熊襲タケルの墓は肥前河上にある。
おそらく有明海沿岸が筑紫宗家の味方の時は肥国、敵となった時は熊襲と呼んだのだろう。
少し違うデータだが、筑紫、肥国、豊国、出雲、越という倭国の主要構成地域がよくわかる。
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
その中でも魏志倭人伝で郡使が滞在し、記紀で日向三代の王都とされるのは筑紫。 関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 >>94
ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(省略)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用し、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を半世紀繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐との外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 >>97
関川の説に賛同する学者がぜんぜんいない理由はよくわかるよ
実年代の判明してる2つの時代の間を土器様式の変化に応じて中割りしていくのが編年の基本なのに、それをしてない
纏向遺跡の土器を6期に分けて、古墳中期の始まりから一律30年で遡るやり方をした
もちろん纏向遺跡は古墳中期が始まるまでなんて続いてない
つまり起点がおかしいうえ1期あたりの年代幅も仮定の数字
その計算で出した弥生の終わりの実年代は、弥生時代の研究者が「ハァ? 何それ」と言うものだった
通用するわけないだろう >>99
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体が南北朝の中国二帝並立を見て創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗って、宇宙の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇邪靡堆による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 邪馬台国畿内説が破綻した理由が、たくさんありすぎて、致命傷がどれか、わからなくなってしまったな。。 >>100
>実年代の判明してる2つの時代
そもそもそれ自体が判明するわけないのに「判明している」と言い張る畿内信者の方が胡散臭い。 >>101
各説の破綻具合は、成果を見れば、分かるのだな。。。 >>96
>鉄製鏃の出土は福岡県、熊本県、大分県の順番になっており・・・
九州は、倭国(阿波)による、一大鉄器被供給地域だとよく分かる。 @阿波 >>100
中割りが正しいという根拠は?
ただの揚げ足取りに過ぎない。
まともな反論になっていない。 >>103
邪馬台国畿内説が破綻した理由が、たくさんありすぎて、致命傷がどれかは、判らなくなってしまったが、
畿内馬具が発見されたことに対する説明が、一番、笑いリラックスできるのではないのかな。。。 今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。 並行して存在したものを無理やり順番に並べて出来たのが記紀と畿内説だな。 >収益化成功例
国の金で軽トラ市場を造ってしまった >>106
それは無い。
畿内説学者(松木氏)の見解
北部九州では紀元前1〜2世紀、朝鮮半島から鉄の素材が入り、加工して流通するようになった。
弥生時代、倭で最初に本格的な金属器社会に入った地域だ。
初期の国家について「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。
ではなぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか。
北部九州は交易が盛んで、鉄も豊富にあり、経済的にも進んでいた。
空間的、階級的にも分散して社会形成が進んだ。
イメージしやすいのは、みんなで豊かになる「共和制」だ。←これを奈良(纏向遺跡等)の出土品が否定してしまっているというのが現状。
■弥生時代の鉄の出土量
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png 前スレ>987
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1572069201/987
>検出されたデータのうち新しい方の年代を基準とするべきだよな。
「複数の測定値があってそのうちのどれを選ぶか」という文脈ならば多少は考慮の余地があるが、
お前が言っているのは、「一つの測定値に対する誤差を含めた信頼区間の中の新しい方を選ぶ」って
主張してるんだから、科学的考察を無視したただの恣意的なインチキに過ぎないって言ってるんだよ
本当におバカさんww
何を言われているかすら、理解できていない可能性が高いがw >>107
>中割りが正しいという根拠は?
当たり前のことがわかんないの?
恣意的な間隔で一方的に遡ったら行き着く先はデタラメだろ >>113
碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い北部九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 前スレ>988
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1572069201/988
>信頼区間の一番新しいところだけ取り上げて「卑弥呼の時代」だと言いふらす畿内説が言えた義理ではない。
誰もそんなことは言ってないぞww
信頼区間の全体が、卑弥呼の遣使よりも前だから、
卑弥呼の時代には確実に纏向遺跡が存在したっていう単純な話だぞww
それを無理やり卑弥呼より遅くしようとインチキを画策しているのが無能な九州説の一派w >>114
データと書いてあるのに曲解してしまうキナイコシは、やはり日本語の苦手な朝鮮人である可能性が、高いのだな。。。 >>802
>魏略は余を付けずに数詞そのままにしている。
倭人伝はそれをみて余をつけたほうがもっともらしいと見て、余をつけたにすぎん。<
魏略は逸文であり、後代史書での「内容改竄的な書き換え引用」の可能性が高いモノしか残っていないから、半分×書であり、
魏志の方が、魏の役人たちの同時代記録を実見出来る立場であったから、
信頼性がはるかに高い。 >>989
>135年に捨てられた可能性もあるわけだ。
その場合、西暦135年以降ずっと纏向に大人口があったというだけだな
卑弥呼の遣使の時代もずっと存続している
これが何かの反論になっていると考えるのは、かなり頭が悪い >>107
>ただの揚げ足取りに過ぎない。
>まともな反論になっていない。
起算する出発点が間違ってることが理解できなかったら
泊地認定ゲットだぜ >>22
帯方郡
↓↓「水行十日」
↓不弥国(宗像)
↓↓「水行十日」
↓東治≒投馬国(宮崎)↓「南水行十日」
↓↓580q奄美大島「陸行一月」
東冶(12,000里)≒女王国
中国大陸の道里の、倭国への転用か(納得)! >>808
ホケノ山古墳の年代は4世紀濃厚です。 ■小型丸底土器出土
石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、
ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が出土したことを述べている。
小型丸底土器は庄内式土器末期から出現し、
布留式土器の重要構成要素となっている器種である。
ホケノ山古墳からは庄内式土器も出ているが、
それよりも新しい布留T式土器が出土したことになるので、
考古学の常識で判断すれば、古墳の年代は布留T式の時代と言うことになる。
石野博信氏は「ショックだった」と感想を述べている。<
成程。 >>809
まあ「南→東」などの嘘付き騙しのように、
よくウソつくもんだ大和説 >>124
>石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、
>ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が出土したことを述べている。
述べてない
捏造 同位体の半減期という物事を決定するために、放射性の物体からの放射線量を精密に測るための、コンクリートに覆われた実験室ではなく、
ごく当たり前の自然界では、空気シャワーが命中しないときでも、放射線が飛び交い、その中には中性子線も含まれているのだったな。。。
だから、空気シャワーが命中しないときでも、元素のなかでもとりわけ不安定な同位体は、中性子を捕獲すると、別の元素に変換される可能性は常時あるのだったな。。。
そして、一たび、強力な空気シャワーが命中した範囲には、常時よりもはるかに大量の熱中止線が降り注がれることも忘れてはいけないのだったな。。。 >>127
同位体の半減期という物事を決定するために、放射性の物体からの放射線量を精密に測るための、コンクリートに覆われた実験室ではなく、
ごく当たり前の自然界では、空気シャワーが命中しないときでも、放射線が飛び交い、その中には中性子線も含まれているのだったな。。。
だから、空気シャワーが命中しないときでも、元素のなかでもとりわけ不安定な同位体は、中性子を捕獲すると、別の元素に変換される可能性は常時あるのだったな。。。
そして、一たび、強力な空気シャワーが命中した範囲には、常時よりもはるかに大量の熱中止線が降り注がれることも忘れてはいけないのだったな。。。
という発表は、
同位体の半減期という物事を決定するために、放射性の物体からの放射線量を精密に測るための、コンクリートに覆われた実験室ではなく、
ごく当たり前の自然界では、空気シャワーが命中しないときでも、放射線が飛び交い、その中には中性子線も含まれているのだったな。。。
だから、空気シャワーが命中しないときでも、元素のなかでもとりわけ不安定な同位体は、中性子を捕獲すると、別の元素に変換される可能性は常時あるのだったな。。。
そして、一たび、強力な空気シャワーが命中した範囲には、常時よりもはるかに大量の熱中性子線が降り注がれることも忘れてはいけないのだったな。。。
という方が、正しいのでは、ないのかな。。。 同位体の半減期という物事を決定するために、放射性の物体からの放射線量を精密に測るための、コンクリートに覆われた実験室ではなく、
ごく当たり前の自然界では、空気シャワーが命中しないときでも、放射線が飛び交い、その中には中性子線も含まれているのだったな。。。
だから、空気シャワーが命中しないときでも、元素のなかでもとりわけ不安定な同位体は、中性子を捕獲すると、別の元素に変換される可能性は常時あるのだったな。。。
そして、一たび、強力な空気シャワーが命中した範囲には、常時よりもはるかに大量の熱中性子線が降り注がれることも忘れてはいけないのだったな。。。 邪馬台国畿内説が破綻した理由が、たくさんありすぎて、致命傷がどれか、わからなくなってしまったな。。 石野さんの、成りすましが出現したのでは、ないのかな。。。
126 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 14:00:09.56
>>124
>石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、
>ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が出土したことを述べている。
述べてない
捏造 >>119
連続句読点はバカなんだから黙ってればいいのにww
この元ネタを書いてるやつは、桃核の12個のデータの
一番新しいところだけ拾えばいいっていうトンデモを唱えてるんだぞw
お前が、前スレ>976で
>「崩壊は進むことがあっても遅れる事は無いと。」いう意見を発表したのは、邪馬台国九州学の立場に、卑劣になりすました
って書いた本人だ
九州説の反科学のバカ野郎だよw 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、連続句読点を使用することは、誰にも許されていることを理解できないのだったな。。。
135日本@名無史さん2019/10/29(火) 14:12:41.98
>>119
連続句読点はバカなんだから黙ってればいいのにww >>136
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、卑劣なので、連続句読点を使用しながら、荒らし行為やナリスマシ行為や自作自演も実行するのだったな。。。 >>845
>>土取り穴、って言うのは、何のために何時どこで掘った事になるんですか?。
>使うために決まってる
地割りをし地山整形で基壇を作ったら、その上に盛る土を取る
周壕を掘った土だけで足りないから追加の穴も掘ったんだろう
有難う。 炭素年代は出土品だけ測定して、校正曲線で補正されてるんだよね?
出土品の埋まっていた層の他のサンプルも測定したのかな? >>136
連続句読点というのが固有名詞だといつから誤解してたんだ?ww
別にお前だなんて言ってないだろ?ww これはまずいなw
>布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土している。 奥山氏が、連続句読点を使用しながら、荒らし行為やナリスマシ行為や自作自演も実行していたことを、自白してしまったな、、、
140日本@名無史さん2019/10/29(火) 14:25:15.61
>>136
連続句読点というのが固有名詞だといつから誤解してたんだ?ww
別にお前だなんて言ってないだろ?ww >>115
もちろん恣意的な配分はいけないが、中割りが正しいという根拠もない。
根拠のないことを積み上げて決めつけているのが畿内説だ。
それは科学ではない。 >>117
>信頼区間の全体が、卑弥呼の遣使よりも前だから、
>卑弥呼の時代には確実に纏向遺跡が存在したっていう単純な話だぞww
135年頃だとしたら、遣使の頃にはもう纒向は廃絶していることになる。
そもそも100年という数字にも根拠がないけどな。 同位体の半減期という物事を決定するために、放射性の物体からの放射線量を精密に測るための、コンクリートに覆われた実験室ではなく、
ごく当たり前の自然界では、空気シャワーが命中しないときでも、放射線が飛び交い、その中には中性子線も含まれているのだったな。。。
だから、空気シャワーが命中しないときでも、元素のなかでもとりわけ不安定な同位体は、中性子を捕獲すると、別の元素に変換される可能性は常時あるのだったな。。。
そして、一たび、強力な空気シャワーが命中した範囲には、常時よりもはるかに大量の熱中性子線が降り注がれることも忘れてはいけないのだったな。。。
そして、突然、カニ星雲が出現したのだったね。。。 >>135
>この元ネタを書いてるやつは、桃核の12個のデータの
>一番新しいところだけ拾えばいいっていうトンデモを唱えてるんだぞw
ブーメラン? 仮に纒向が100年維持されていたとして、その最後の年の桃の種が捨てられたのが135年だという可能性もある。
つまり、推定の幅が80年もある炭素年代法では、卑弥呼と関係があったかどうかなど、確定的には述べられないということ。
わかりようがないものを分かったように言い張るのは似非科学だよ。 >>145
つまり、コンクリートに覆われた実験室で測定された、放射性物質の正確な放射線量を基に計算された半減期という物事を、ごく普通の自然界の時計代わりにしている炭素年代法という物事は、破綻しているのだね。。。 >>144
お前、頭おかしいだろ?
卑弥呼の遣使の前と後ろの2つの時点で、纏向遺跡が存在した定点があって
九州説はいつも、後ろの定点だけを取り上げて
「纏向遺跡は卑弥呼よりも後、年代をスライドさせてごまかしてる」って連呼してるのにww
前の方の定点(桃核年代)が否定できなくなったら、後ろの定点無視でもう終わってるって
言い出すとか、バカですか? ああ、バカだったなw ゴメンww 「一旦、崩壊した物事は、崩壊する前の状態には、戻らないので、異なる試料のBP値が新しい年代で複数揃った場合の信頼性は、別の試料の測定値群の信頼性よりも高い。」という考え方は、
炭素年代法が破綻したことを究明した僕達には不満足だが、破綻した炭素年代法を信じる限りは、合理的な考え方なのだな。。。 >>151
>コンクリートに覆われた実験室で測定された、
50センチ以上の土砂中に埋もれた試料に、お前の大好きな空気シャワーが
届くかどうか調べてごらんwww
そして、空気シャワーが照射されたとして、12Cと14Cの存在比からして
14Cにヒットする確率がどれくらいだか計算してごらんww
何を言われているか、理解できないだろうなww なぜ、邪馬台国畿内説は、掘立柱の遺蹟が卑弥呼の城だという説を、諦めてしまったのだろうか、、、
桃の種と関係あるのだろうか、、、 奥山氏は、土壌が乾いた状態では、中性子を遮れないことや、c12が中性子を捕獲しても、c14にはならないことを知らないのだったな。。。
154日本@名無史さん2019/10/29(火) 14:40:33.44
>>151
>コンクリートに覆われた実験室で測定された、
50センチ以上の土砂中に埋もれた試料に、お前の大好きな空気シャワーが
届くかどうか調べてごらんwww
そして、空気シャワーが照射されたとして、12Cと14Cの存在比からして
14Cにヒットする確率がどれくらいだか計算してごらんww ニュートリノシャワーは、1平米あたり数百兆個、降り注ぐので、あったな。。。 >>157
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏には、何を言われているか、理解できないのではないのかな。。。 >>152
>卑弥呼の遣使の前と後ろの2つの時点で、纏向遺跡が存在した定点があって
そんなものない。
言い張っているだけ。 >>156
桃の種が135年かもしれないぞ?
仮に同じ時代でも、魏志倭人伝には桃なんて出てこない。 ニュートリノシャワーは、1平米あたり数百兆個、降り注いでも、同位体比は変化しないが、空気シャワーの威力によっては、同じレベルの量の核子が降り注ぐこともある可能性はあるな。。。
158日本@名無史さん2019/10/29(火) 14:45:27.06
ニュートリノシャワーは、1平米あたり数百兆個、降り注ぐので、あったな。。。 なぜ、邪馬台国畿内説は、掘立柱の遺蹟が卑弥呼の城だという説を、諦めてしまったのだろうか、、、
桃の種と関係あるのだろうか、、、 >>163
柱と桃の種には、前後関係を示す物事があるのだろうか。。。 >>160
「古墳時代は卑弥呼の時代よりもあと、纏向遺跡は古墳時代」ってのが九州説の基本だろ?ww
卑弥呼よりも後の古墳時代まで確実に纏向遺跡は存在してるんだよww
そして、その始まりが桃核によって135〜235年よりも前と確定する訳だ
纏向遺跡が卑弥呼の遣使の時期に存在しなかったことにするのはどうやっても無理ww 柱が存在した年代は、桃の種の年代とどのような関係性があるのだろうか、、、 >>162
>核子が降り注ぐこともある可能性はあるな。。。
中性子のような核子が厚さ50センチ以上の土砂層を
通過できるかどうか、調べてみたか?www なぜ、邪馬台国畿内説は、掘立柱の遺蹟が卑弥呼の城だという説を、諦めてしまったのだろうか、、、
桃の種と関係あるのだろうか、、、 奥山氏は、水分を含まない状態での土という物が、ミクロの世界では隙間だらけだということも、知らないのだな。。。
167日本@名無史さん2019/10/29(火) 14:53:44.55
>>162
>核子が降り注ぐこともある可能性はあるな。。。
中性子のような核子が厚さ50センチ以上の土砂層を
通過できるかどうか、調べてみたか?www 卑弥呼の時代と言われる土器は、卑弥呼の時代より以前から、存在したのであったな。。。
149 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/10/29(火) 14:35:26.00
卑弥呼の時代に全国に存在した土器はこれ。
https://i.imgur.com/lZ7KkIf.jpg >>169
>ミクロの世界では隙間だらけだということも
それで言うなら、中性子が14Cの原子核をヒットする確率がほぼゼロなのも理解できるよな?
隙間だらけなんだからw 箸墓より以前から、古墳時代は始まっていたのでは、ないのかな。。。
https://i.imgur.com/DeSj4Lv.png 討論の作戦の悪い奥山氏は、今、C14にとっても土にとっても確率がほぼ0という0ではない確率だということを、発表して、自爆してしまったな。。。
171日本@名無史さん2019/10/29(火) 14:59:18.86
>>169
>ミクロの世界では隙間だらけだということも
それで言うなら、中性子が14Cの原子核をヒットする確率がほぼゼロなのも理解できるよな?
隙間だらけなんだからw 奈良盆地に政権が、あったのではなく、単なる各政権の接点だったのでは、ないのかな。。。
https://i.imgur.com/49UBvoP.png >>173
奥山氏が、嘘をつき続けるという討論の作戦を忘れて、まともに、討論すれば、真実は隠せなくなるのだったな。。。 >>173
北朝鮮の銃殺場に、疎らに立たされている死刑囚たちは、後ろの方に立っていても、どんなに処刑係の腕前が悪くても、最後には、悉く、機関銃の弾が当たってしまうのだったな。。。 >>174
奈良盆地に、何かあると思って15年以上掘り続けても、何も見つからないのは、何も無かったことを意味しているのでは、ないのかな。。。
奈良:纏向遺跡
https://i.imgur.com/rJscQF5.png 古代中国で方位を表す方法は周易八卦による八方位と、風水24方位だな。
東南は巽で表している。
一方、現代のような東南東や南南東などの方位はない。
したがつて、前part522で示したような東、東南東、東南、南南東、南はないので撤回する。
八卦八方位の巽(南東)は、東を0度とした場合、南23度〜南67度の範囲となる。
沙里院帯方郡庁の場合は、この範囲に九州、中国、四国、大和が入るが、大和はぎりぎりでほとんど東の範囲に近い。
ソウル帯方郡庁のばあいは、大和ははっきりと東に入る。
大和の立場は東南のはずれか東に位置するということ。
風水24方位ではどうか。
風水の巽(南東)は東を0度とすると南37度〜南53度となり、沙里院、ソウルともに福岡市〜松山市あたりがその東南の範囲になる。
これは不適当の印象だ。
やはり周易八卦の八方位が良いようにみえる。
そこで、周易八卦の八方位の巽(東南)を沙里院からみると、その東南方位の中軸線は玄界灘や大和方面を指していず、「ずれている」ようにみえる。
一方、この巽(東南)を半島南岸の固城からみると、中軸線は対馬南岸、壱岐西岸、呼子加部島をぴったりと通り、その軸線はさらに筑後の矢部川の山門あたりをも通ることになる。
つまり、固城付近を起点とすると、その東南は邪馬台国の卑弥呼の祭祀所の候補地である筑後山門を指していることにもなり、東南巽の方位が実際にリアルなものとなるのだ。
東南の方位の起点は沙里院ではなく、半島南岸の固城を起点として判定したものと考えられる。 >>165
砂上の楼閣のような危ういロジックだよ。
しかも全体の様子が魏志倭人伝とかけ離れているから、せいぜい卑弥呼と同時代の邪馬台国ではない地域の何か。 なぜ、邪馬台国畿内説は、掘立柱の遺蹟が卑弥呼の城だという説を、諦めてしまったのだろうか、、、
桃の種と関係あるのだろうか、、、 面倒くさいなぁ
ほらよ
「最も炭素14の生成量が多いのは高緯度地域の
高度30,000から50,000フィート(約9,000から約15,000メートル)である。」
宇宙線期限の熱中性子が質量数14あたりの原子核と相互作用するエネルギーを持っているのは
この程度の高度
ここから空気中を降ってきてもさらにエネルギー的に減衰して、質量数1の原子核=水素程度としか
相互作用しなくなる
これが、水で遮蔽されることの理由
もちろん、有機物中の水素原子でも構わない
よって、地表に着く頃の中性子線には14Cの核壊変を引き起こす能力はほぼない
また、連続句読点の大好きな空気シャワーには中性子以外の荷電粒子も含まれるが、
荷電粒子は透過能が低く、50センチの土砂層を透過できない
空気シャワーで考古試料中の14Cの比率が変わるとか言うのは、ただの空想だよw 架空の北朝鮮の銃殺場に、邪馬台国畿内説の宣伝に失敗し、疎らに立たされている死刑囚たちは、後ろの方に立っていても、どんなに処刑係の腕前が悪くても、最後には、悉く、機関銃の弾が当たってしまうのだったな。。。 >>179
>砂上の楼閣のような危ういロジックだよ。
どこが?ww
少なくとも、>>144の
「135年頃だとしたら、遣使の頃にはもう纒向は廃絶していることになる。」
みたいなのが『とんでもないデタラメ』なのは確実で、こういうデタラメを
平気で書けるのが平均的な九州説の知的水準だってことがばれる訳だww
どうして、九州説にはバカしかいないの? 奥山氏は、まだ始まったばかりの、ごく短い空気シャワー観測の歴史の中でも、驚くほど強力な威力のシャワーの存在や地表に到達する核子が観測されていることを知らないのだな。。。 纏向が消えてしまった4世紀半ば以降、纏向には何があったのだろうか。。。
4世紀末:大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の大壁....
https://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/181128/lif18112808100001-n1.html 奥山氏が、嘘をつき続けるという討論の作戦を忘れて、まともに、討論すれば、真実は隠せなくなるのだったな。。。 奥山氏が、また、頓珍漢なことを言い始めたな。。。
182日本@名無史さん2019/10/29(火) 15:14:44.71
面倒くさいなぁ
ほらよ
「最も炭素14の生成量が多いのは高緯度地域の
高度30,000から50,000フィート(約9,000から約15,000メートル)である。」
宇宙線期限の熱中性子が質量数14あたりの原子核と相互作用するエネルギーを持っているのは
この程度の高度 頭の悪い奥山は、β崩壊による電子ニュートリノの放出は、陽電子ニュートリノが中性子に衝突したことを、意味する事を、理解できないのでは、ないのかな。。。 奥山氏は、このスレッドを活発にすることだけが、目的なので、このスレッドのレベルを下げる頓珍漢な意見も、発表するのだったな。。。 連句点キャラが、増えすぎたのでは、ないのかな。。。 この意見は、どのような文脈で発表されたのだろうか。。。
189日本@名無史さん2019/10/29(火) 15:24:26.06
頭の悪い奥山は、β崩壊による電子ニュートリノの放出は、陽電子ニュートリノが中性子に衝突したことを、意味する事を、理解できないのでは、ないのかな。。。 奥山氏が混乱すれば、面白いのではないのかな。。。
191日本@名無史さん2019/10/29(火) 15:26:36.92
連句点キャラが、増えすぎたのでは、ないのかな。。。 架空の北朝鮮の銃殺場に、邪馬台国畿内説の宣伝に失敗し、疎らに立たされている死刑囚たちは、後ろの方に立っていても、どんなに処刑係の腕前が悪くても、最後には、悉く、機関銃の弾が当たってしまうのだったな。。。
173日本@名無史さん2019/10/29(火) 15:02:42.30
討論の作戦の悪い奥山氏は、今、C14にとっても土にとっても確率がほぼ0という0ではない確率だということを、発表して、自爆してしまったな。。。
171日本@名無史さん2019/10/29(火) 14:59:18.86
>>169
>ミクロの世界では隙間だらけだということも
それで言うなら、中性子が14Cの原子核をヒットする確率がほぼゼロなのも理解できるよな?
隙間だらけなんだからw 引きこもりの奥山は、ミュー粒子が、地表に降り注ぐことを、いつも引きこもっているので、知らないのでは、ないのかな。。。 架空の北朝鮮の銃殺場に、邪馬台国畿内説の宣伝に失敗し、疎らに立たされている死刑囚たちは、後ろの方に立っていても、どんなに処刑係の腕前が悪くても、最後には、悉く、機関銃の弾が当たってしまうのだったな。。。 ほぼゼロは、ゼロでないことが、確定している事を、意味するのだな。。。 優れた素粒子物理学者が出現し、高度な意見を発表している可能性が高いな。。。 僕達は、授業中に眠たかったので、ミュー粒子という物事を学習しなかったのだったな。。。 なぜ、邪馬台国畿内説は、掘立柱の遺蹟が卑弥呼の城だという説を、諦めてしまったのだろうか、、、
桃の種と関係あるのだろうか、、、
柱が存在した年代は、桃の種の年代とどのような関係性があるのだろうか、、、 頭のアツクなった、引きこもりの肥っている奥山は、糖尿なので、インスリンを投入するのを忘れてしまい、眠ってしまったのでは、ないのかな。。。 結局、畿内には邪馬台国につながりそうなものがないな。 >>182
よくもまあ桃の種だけでここまで風呂敷を広げられるよね。
妄想たくましいというか、何というか。
宗教? >>904
>大スケールのものほど、きちんとした測定手段がなければ正しい値は得られないし、
実際に3世紀には大距離の方角や実距離を測る測定手段がないのだから、誤情報と
考えるよりない<
中国人は、周代に既に簡易三角測量を知っており、
それの応用である一寸千里も知っており、
例えば、洛陽付近から北回帰線までの里数も計測計算出来ている。 頭の悪い奥山は、これを庄内式と判断したが、実は縄文式であることを知っている僕たちは、土器の分布が政権範囲を示さないことも、知っているので、あったな。。。
https://i.imgur.com/MjF6bCE.jpg ミュー粒子という粒子を発見した者は、ミュー粒子という粒子を観測することが、困難だったのではないのかな。。。 >>910
>それだけ大きな動員力を持つ権威・権力=倭王が畿内に居た、と想定するんだね!
やっと九州説も、論理的思考の入り口にたどり着けたようだww<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
「南→東」などのよっても、大和説は×。 畿内説の崩壊の日も近いづいてきたな。
みんな気付いてるんだよw
【事実追及】教科書や学者やマスコミ・・・この世界、特に近代思想や近代科学はウソと権威で塗り固められている
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1572306595/ 僕達は、レプトン第二世代以降のことについての授業は、家が貧しかったので、受けられなかった可能性もあるな。。。 僕達は、家が貧しかったので、バスケットボールシューズも履かずに裸足で闘っていたのだったな。。。 バンビシャスは、貧しさに苦しんでいるので、応援した方が良いのだったね。。。 >>913
>信頼区間の一番端でも、卑弥呼の遣使よりも前、つまり信頼区間の全区間が卑弥呼の遣使よりも前だから
桃核の出土した大型祭祀土坑は、卑弥呼の在位期間だろうとなるんだよ<
ダメだ。
12個のいづれもで、ほぼ等しい「信頼区間が100年位」ものバラツキが出た、
という事は、AMS法そのものの検査欠陥が露呈しているのであり、
また、12個の中の幾つかで、明らかに、
230年に非常に近い所に明確な有意な無視できないピークが出来ており、
プラズマ化に拠って100年も位古く成りそこなった部分である事を示しており、
という事は、桃核の中には、230年頃の計測桃があった事を示しており、
更に、プラズマ化に拠る100年位の「古くなる」という、という経験則から、
桃核には330年頃のモノがあった、という事になる。
AMS法 >>120
魏略と魏志倭人伝を見比べたら、倭人伝の文章に魏略の文章を改竄したものがあることは明らかだ。
まあ、文章の大枠はほとんど同じなのだから、資料が同じなのは確かだが。
しかし、倭人伝は誤りが少なく、魏略は誤りが多い、とは言い切れんよ。
そもそも倭種の国の個所は倭人伝では後半に書かれているが、元になった資料では魏略が書いてあるように冒頭にあったのが正しいだろう。 >石野博信ほか多数の学者が布留0を庄内期に分類してるがね
そもそも布留0を庄内期に分類してるなら、
布留0という呼称自体がおかしいではないか。
ここの>>1は平気でゴールポストを動かしてくる\朝鮮人のような男だ。 ■纏向出土の木製仮面について
『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。
また奈良時代以降では、大陸より伝わった舞楽で使用されたと考えられる仮面が複数知られている。
弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着していると見られる人物が描かれる例が存在する。
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』
纏向は東日本の縄文文化圏なんだな、フムフム。 >>218
>そもそも布留0を庄内期に分類してるなら、
>布留0という呼称自体がおかしいではないか。
なんで?
ゼロなんだから
最初jから布留「前夜」の意味なんだが
庄内0もそういう意味だし
皆がそういう意味で使っている
どこがゴールポストを動かしてることになるわけ? >>219
>考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており
「土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は阿波国の「矢野遺跡」が最西端に位置する。
同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。
この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、
土製のモノはこれが最古級である。
「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。
用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に使われたと考えるのが妥当である。
また、仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」とあるように入墨(文身)を表したものであろう。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 魏志倭人伝(3世紀)
「棺有槨無」 = 棺有り槨無し
棺を埋めた後に、土を盛った墳丘の事だと考えられる。
隋書(6世紀)
「死者歛以棺槨」
死者は棺、槨に収める = 棺有り槨有り
これはおそらく前方後円墳など石積み基礎の墓だと思われる。
なるほど、フムフム。 >>220
>最初jから布留「前夜」の意味なんだが
息をするように朝鮮式反論をするな。 >>113
大和に王権と言えるような初期的な組織が形成されるのは、3世紀後半から。
ちょうど墳丘墓に鉄器が副葬されるようになる時期だ。
それ以前には大和にはまだ王権的な組織はみられない。
纏向遺跡の大型建物群と弥生後期の近江伊勢遺跡の建物群は同質の祭祀施設であって、この施設の存在でもって王権成立の証拠とはならない。
部族連合による共生的なシンボル祭祀が行われたものだ。
やはり、鉄器などの貴重財の配分によって大和に王権的組織が成長してくるとみてよい。 >>925
>>前方後円墳年代論では4世紀にしかならない箸墓に関して、<
>そんな年代論、どこに実在するの? 論文名ないし著書名プリーズ <
5chで論じた。
卑弥呼の冢は前方後円墳ではなく、
九州倭国が西晋武帝の「天円地方」を学び、
前方後円墳の原型はモンゴル方面や半島方面にあり、
それが筑紫に伝播して、那珂八幡などで275年頃過ぎに始まり、
九州倭国の東征毛人五十五國の将軍らに拠って、まず吉備に伝えられ、
更に、瀬戸内東海岸から内陸に伝わって行き、
大和では、3世紀末に石塚などから始まった。 >>224
>大和に王権と言えるような初期的な組織が形成されるのは、3世紀後半から。
>巨大古墳がある時点でその近辺が王都であることは動かない
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波 >>218
>ここの>>1は平気でゴールポストを動かしてくる\朝鮮人のような男だ。
ずっと前からテンプレには
#※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
# 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
# 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
# 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
って解説されてんだから知らない方が悪い
ゴールポストが動いてんじゃなくて
自分が勝手のゴールの位置を勘違いしてただけだろ >>220
>ゼロなんだから
>最初jから布留「前夜」の意味なんだが
>庄内0もそういう意味だし
だからその布留0が260〜280という話だね。
箸墓建造時期がその時代なら、箸墓は卑弥呼墓ではないね。 >>225
つまり
「前方後円墳年代論」って言ってたのは
って素人オジンzarakoku個人のお手製のオレ様理論だってことね >>228
>箸墓建造時期がその時代なら、箸墓は卑弥呼墓ではないね。
だから寺澤は卑弥呼の墓だと思ってないし
250年頃から布留0だと思ってる学者たちには卑弥呼の墓だと明言する人も多い >>951
「日本各地で農耕が始まった弥生時代以降から古墳時代後期までの集落遺跡から出土する鍬と鋤の比率は、通常、農耕具である鍬が70%〜80%と非常に高い。
鋤は鍬よりも古くからあり、土壌をすくい上げて地面を掘ったり、土砂などをかき寄せたり、土の中の雑草の根を切るのに使用される道具で、多くは土木工事用のスコップである。
通常、遺跡からは30%程度しか出ない。
過去170回に近い纒向遺跡の調査結果からは、農耕具の鍬が5%であるに対して、土木工事用の鋤が95%と異常にまで偏っている。
収穫具としての木包丁にしても祭祀土坑の遺物の中にあっただけで、水田で履く田下駄や田面を均平にする代掻(しろか)きに使う柄振(えぶり)などの農耕具が殆ど発見されていない。
そればかりか纒向では畑や水田の跡が見つけられていない。」 <
ふーん、成程。 >>223
>>最初から布留「前夜」の意味なんだが
>息をするように朝鮮式反論をするな。
罵声で事実を曲げようとする貴方のほうがよっぽどアレでは? >>224
>纏向遺跡の大型建物群と弥生後期の近江伊勢遺跡の建物群は同質の祭祀施設であって、この施設の存在でもって王権成立の証拠とはならない。
という根拠は? >>230
>250年頃から布留0だと思ってる学者たちには卑弥呼の墓だと明言する人も多い
布留0は年輪年代で258年という数値が出てるのに250年からにしてる時点で学者失格。
ついでにおまえもアホ。 >>224
>大和に王権と言えるような初期的な組織が形成されるのは、3世紀後半から。
>巨大古墳がある時点でその近辺が王都であることは動かない
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波 >>234
>布留0は年輪年代で258年という数値が出てるのに250年からにしてる時点で学者失格。
なんで?
理由は?
例えば布留0を248〜265としてる人にとって
布留0教範の遺物に258年という年輪年代が出ることは
プラスなだけでマイナス要素ないよね >>236
どのみち、「忌部はん」 のお墓なんだよ! 時間の無駄! わははははは @阿波 奥山氏が中卒だと確定した
まで読んだ。
なるほど。 >>240
なにごとも理由なく確定する九州説の不思議 >>222
そうだよ。
だから卑弥呼の時代に畿内が前方後円墳の時代になっていたのなら、畿内は邪馬台国ではないことが確定する。 >>230
>250年頃から布留0だと思ってる学者たちには卑弥呼の墓だと明言する人も多い
卑弥呼はもう死んでるじゃん。 >>234
>布留0は年輪年代で258年という数値が出てるのに250年からにしてる時点で学者失格。
畿内説はこんな細かいところでも年代の前倒しか。
マメだがクズだな。 >>241
理由が説明されているのに理解できないなら、お前がコミュ障なだけ。
大半の日本人は九州説で納得している。 >>247
>理由が説明されているのに理解できないなら、お前がコミュ障なだけ。
こんな遁辞を言うだけで
絶対に理由を言わない
それが九州説
堕落してる >>249
そのレス先に理由がない
九州説は常に理由がない ねえねえ
どうして九州説はそんなに
理由を言うのが嫌いなの?
もしかして「理由」って何だか知らないとか NHKが邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表しました。
そして、同じ放送では、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法を発表したのだったな。。。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのではないのかな、、、
そして、九州には、費用も人員も、巻向程の面積に対して、巻向の1/7程も、集中的に調査した地区は無いのだったな、、 バンビシャスは、貧しさに苦しんでいるので、応援した方が良いのだったね。。。 まだ箸墓古墳を卑弥呼の墓だと言ってるのかね奥山氏は。
魏王曹操の墓よりも遥かに巨大で、
前漢皇帝並みに巨大な箸墓古墳を。
完成した年代とかは全く関係ない、
当時の倭国の社会情勢から卑弥呼の墓は
ありえない。 巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのではないのかな、、、
そして、奈良のバスケットボール関連には、費用も人員も、巻向の1/7程も、集中的に支援した物事は無いのだったな、、 幼稚園みたいに「倭人伝には径百歩の墓が!」
とか言い張るんだろうな。 >>257
それのどこが反論?
ただの個人的印象論では? NHKが邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表しました。 >>265
それ、インチキサギな
実際の放送は
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
04;00
「邪馬台国はどこにあったのか? 九州説、近畿説、いずれも具体的な証拠が見つかっていないため、いまだ結論は出されていないのです。」
九州説はいつもインチキ情報流してサギをする つまり、NHKが邪馬台国畿内説に証拠が無い事を発表したのだね。。
そして、同じ放送では、纏向には宮室だけは、有ったのに対し、九州の城には、宮室、楼観、城柵が揃っていたという、頭が普通の者が視聴すれば、
纏向の掘立建物には卑弥呼の城の条件が揃っていないことが理解できる、見事な対比法を発表したのだったな。。。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html
巻向遺蹟は、何十年もかけ、莫大な税金と人員を投入し、200回程もの発掘調査を実行したのだが、邪馬台国畿内説の具体的な証拠を発見出来なかったのではないのかな、、、
そして、九州には、費用も人員も、巻向程の面積に対して、巻向の1/7程も、集中的に調査した地区は無いのだったな、、 >>266
あれ?
畿内説で確定していると豪語していた池沼が居たでしょ?w 邪馬台国はそのまんま大和国
つまり奈良
狗奴国はそのまんま久努国
つまり静岡
瞬時に終了
あなたの短い人生を大切に! 奈良には、池や沼が多いのだったな。。
268日本@名無史さん2019/10/29(火) 19:58:31.10
>>266
あれ?
畿内説で確定していると豪語していた池沼が居たでしょ?w >>262
既成の説以外の自分の印象・感想を
語り合いための板だろ。
あなたの印象・感想を書けばいい。
権威の後ろ盾が欲しいなら延々コピペ続ければ? >>269
どちらも尾張の豪族の参加だね!
邪馬台国とは関係なさそうだ。 前方後円墳を二分してしまうのか。
まあ、河内と大和が分断されていることをよく説明できるな。
西側は瀬戸内海から淀川流域ということで、地形とも合致する。
しかし文献的にそれを裏付ける記載はあったかな? >>233
伊勢遺跡の円周上の建物は、二十四節気を用いた農耕祭祀のための施設。
弥生後期に野洲川地方の集落が連合して共生的な事業とした。
この時代の野洲川地方には、集権的な権力機構はまだみられない。
各部族が祭祀者を出して、合同祭祀を行ったのだろう。
纏向遺跡の大型建物群も二十四節気を用いた農耕祭祀施設であり、伊勢遺跡の祭祀システムを継承したものとみられる。
このシステムは部族連合的な寄り合い事業で成り立つものであるので、纏向遺跡の大型建物の時期はまだ集権的な王権が存在しなかった時代だと考えるのが妥当。
このことは、纏向の大型建物群が解体される3世紀後半になると、鉄器など貴重財の配分機能が急に稼働し始めていることで推測できる。
貴重財の配分には権力的な組織と機能が必要となるからである。 畿内説は纒向遺跡と伊勢遺跡をすぐ絡めたがるけど、全然似てないよ?
纒向遺跡は棟持柱がある高宮が1棟だけ。
伊勢遺跡はそれがたくさん。
それと、纒向には近江系の土器がほとんど出ないから、近江との関連は低かった。
纒向は虎の威を借りる狐。 >>273
>どちらも尾張の豪族の参加だね!
尾張の豪族も、もちろん倭人で倭国の内なんだから、
尾張の豪族と付き合いがあるのは普通のことだし問題ない
>邪馬台国とは関係なさそうだ。
なさ「そうだ」ww
ただの願望または感想であり、主観に過ぎない判断ですねww >>277
>伊勢遺跡の円周上の建物は、二十四節気を用いた農耕祭祀のための施設。
丸く並んでたら二十四節気っていうのやめなよww
前にそれでこっぴどく恥をかいたのはお前じゃないのか?ww >>271
>既成の説以外の自分の印象・感想を
>語り合いための板だろ。
ちがいます >>278
>それと、纒向には近江系の土器がほとんど出ないから、近江との関連は低かった。
十分出てるだろ?
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
紀伊系 : 1%
そんなことを言い出したら、北部九州はどことも関連の薄い片田舎にしかならないぞw >>278
>纒向は虎の威を借りる狐。
いや、当時最大の大型建物や巨大古墳が
虎なんだが >>284
千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式土器とは、厚さ2〜3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には
細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている
桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で
「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で
脚光を浴びている」とされている
大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では
「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川
周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」
阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている
ってさ。 @阿波 >>282
>池沼の間での話でしょ?
いや、九州説のひとは支持してくれない >>284
アジア文明の中心国である中華と
一番関係深いのに片田舎?
中華と全く関係ない畿内こそ片田舎だろ >>283
じゃあ学者の意見を延々コピペ合戦
するだけになるな >>284
千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式土器とは、厚さ2〜3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には
細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている
桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で
「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で
脚光を浴びている」とされている
大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では
「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川
周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」
阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている
ってさ。 @阿波 >>271
畿内説論者にとって自分の意見とか印象を述べるって
最も苦手なように見える。
だから奥山のような口八丁の詐欺師がのさばる。 >>289
どうして?
きみらって、事実は言わないの? >>290
補足。
その圧倒的に多い阿波系土器 以外の土器についても、それも「東阿波型土器」様式土器であることを付加えておく。 @阿波 >>288
中華と全く関係ない
とか断定する根拠は? >>288
>アジア文明の中心国である中華と
>一番関係深い
そんな時代もかつてはあったけれど、甕棺墓の盛行期が過ぎる頃には、舶載鏡もろくに入手できない片田舎だよ
邪馬台国の会の十種の魏晋鏡のデータ、福岡県の37枚はインチキで本当はたったの5枚だww >>284
>>近江との関連は低かった。
纏向の外来土器では、初期には吉備とともに近江も多かった。
中期になると吉備、近江ともに少なくなる。
吉備、近江が引いていくとともに、河内が現われてくる。
吉備、近江の減少と河内の登場は相関関係がありそうだ。 糸島は後漢が設置した楽浪系の遺物は出る
辰韓人は楽浪人を阿殘と呼び秦人に似たところがある
秦の武将が建国した南越王墓から径41cmの大型彩画鏡鏡と大型鏡11面が出ている
彩画鏡は世界でも総数35面ほどしかなく、日本で唯一三雲1号墓から出ている >>278
吉備と近江は、纏向遺跡の中期段階で河内と入れ替わりに少なくなる。
後期になっても吉備は少なくなり続けるが、近江は初期と同程度まで多くなる。
近江は一時引いたものの、その後は大和と連携を続けていると思うね。 なぜ、巻向は、4世紀になっても中華とは全く無関係だったのだろうか、、 >>279
>尾張の豪族も、もちろん倭人で倭国の内なんだから、
倭人だが、倭国ではない。 >>282
池沼の間の常識も、一般人にとっては不可解な屁理屈なんだよ。 >>89
>◇大和朝廷<
大和朝廷は、701年の大宝元年の建元に拠って成立したのであり、
それ以前は「朝廷」ではなかったから、×。 倭国は、倭地の部分集合だという真実から、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏は、目を背けるのだったな、、 >>284
>近江系 : 5%
あのなあ、纒向の土器の中で外来土器は一部であり、そのさらに5%しかないのは、直接交流ではないということだよ。
尾張が移入した土器の一部が纒向にも流れてきただけに過ぎない。
尾張が中部関西の土器流通の中心であることは、考古学的に明らかになってきている。
伊勢遺跡から纒向遺跡へという直接の関係は見いだすことができない。
ただの妄想だよ。 >>289
>>>283
>じゃあ学者の意見を延々コピペ合戦
>するだけになるな
ああ、だからキナイコシは古い学者の戯言を延々と壊れたレコードのように繰り返しているのか。
彼はこの掲示板というものを理解していないのだな。 成人用甕棺墓は日本ではほぼ西北九州と朝鮮半島南部に分布する
ベトナム中部を中心に分布した鉄器時代の文化であるサーフィン文化は
甕棺墓を主体とする埋葬遺跡が沿岸部の砂丘上や川沿いの平野部、内陸の山間部に立地する 邪馬台国畿内説が、破綻した理由は多いが、トドメはどの理由だったのだろうか、、、 >>295
纒向から中国の土器もガラス製品も青銅器も出ないよ。
九州では大量に出るのに。 >>96
>少し違うデータだが、筑紫、肥国、豊国、出雲、越という倭国の主要構成地域がよくわかる。
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
その中でも魏志倭人伝で郡使が滞在し、記紀で日向三代の王都とされるのは筑紫。<
成程。 >>297
>吉備、近江の減少と河内の登場は相関関係がありそうだ。
ふむ。
淀川水系が開発されて、より両方の交易に便利なハブとして河内や摂津が発展したのかもしれないな。
そしてそれは纒向とは関係なかった。
やはり畿内説は根本から組み立て直さないとダメだろうね。 近江というのは、加藤清正公が目覚ましい手柄を、達成した合戦場がある場所なのだったな、、、 >>97
>関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 <
ふーん。 邪馬台国畿内説が、破綻した理由は多いが、トドメはどの理由だったのだろうか、、、 >>100
大和説考古学者の説に賛同する国民がぜんぜんいない理由はよくわかるよ
>実年代の判明してる2つの時代の間を土器様式の変化に応じて中割りしていくのが編年の基本なのに、それをしてない <
記年土器でない限り、土器が年次の絶対根拠になる筈がなく、
使用時期の重複や、地域に拠っての持続も全くバラバラだから、
地域間の相対編年が全く困難。
その編年論で出した弥生の終わりの実年代は、
弥生時代の研究者が「ハァ? 何それ」と言うものだった
通用するわけないだろう
結局、土器編年は、絶対年次が記された文献との組み合わせでしか、存在価値がない。 説の後に土器編年を合わせこんでる時点でお察し。
畿内説はまさにゴッドハンドで出来たファンタジー小説。 >>236
>例えば布留0を248〜265としてる人にとって
>布留0教範の遺物に258年という年輪年代が出ることは
>プラスなだけでマイナス要素ないよね
だから年輪年代で258年という根拠はあっても248年という根拠がない。
最古の須恵器を年輪年代で389年という根拠はあっても10年早く見積もる人はいない。
それと同じ。
なぜ布留0だけ早く見積もろうとするのか、それは箸墓が卑弥呼の墓であってほしいと言う願望があるからだろ。
それはやってはいけない事だ、いい加減にしろこのハゲ。 土器編年を拒絶すると、北部九州の稲作が日本で早いとか
鉄器が早い時期から出るという根拠はなくなる >>118
記年土器でない限りその土器の絶対年代は不明であり、
また対象土器の地域性や使用継続期間も全くバラバラであり、
文献の示す年代を越える事は全く困難、
という原理原則の説明が理解できない大和脳の悲惨 >>322
相対年代は変わらない。
畿内説は強引に絶対年代をいじる神の手を行使している。 大阪府立狭山池博物館
令和元年度特別展 樹木年輪と古代の気候変動
会期 令和元年9月14日(土)から令和元年11月24日(日)
場所 大阪府立狭山池博物館特別展示室
主催 大阪府立狭山池博物館 大阪狭山市立郷土資料館
後援 南海電気鉄道株式会社 泉北高速鉄道株式会社
協力 日本書紀研究会 鋳造遺跡研究会
主旨
狭山池の築造と改修の歴史は文献史料・発掘成果・樋管などの年代測定によって明快にされてきました。なかでも、樋管などの伐採年が年輪年代測定によって確定、文献史料にある改修の歴史と整合したことは大きく評価されています。
ところで、樹木年輪の研究は伐採年の追求のみならず、過去に温暖な年と寒冷な年が繰り返されたという気候変動を明らかにすることが分かっています。気候変動は、コメの収穫に頼るわが国の歴史に大きな影響を与えることも重視されています。
今回の特別展では樹木年輪から古代の気候変動や、伐採年が判明した木製品などを紹介・展示します。以上により、狭山池発見資料の歴史的価値を再認識していただき、地域アイデンティティーを醸成する機会になることを目指します。
展示構成
1 気候変動 2 年輪年代測定法 3 暦年代の諸例
4 発掘された洪水痕跡 5 狭山池出土資料の年輪年代 など
主な展示品
1・2 屋久杉・測定機器・年輪試料円盤
3 弥生時代 雁屋遺跡 木棺(BC142+α年)・弥生土器、
纒向石塚墳丘墓 木製品(177+α年)・弥生土器
古墳時代 鴨都波1号墳 三角縁神獣鏡・玉類・土師器(布留2式土器)
宇治市街遺跡 木製品(389年)・土師器・初期須恵器
佐紀遺跡 木製品(412年)・土師器・初期須恵器
ニサンザイ古墳 木製品(427+α年)・円筒埴輪
下田東2号墳 木棺(449+α年)・須恵器
飛鳥時代 平尾遺跡 井戸枠(704+α年)・土師器・須恵器 など
4 大和川流域の洪水層など出土資料、弓削遺跡・久宝寺遺跡・竹渕遺跡・渋川廃寺下層 など
5 狭山池出土年輪年代測定資料・狭山池北堤基盤層出土須恵器 など >>123
>帯方郡
↓↓「水行十日」
↓不弥国(宗像)
↓↓「水行十日」
↓東治≒投馬国(宮崎)↓「南水行十日」
↓↓580q奄美大島「陸行一月」<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事を無視しているから×であるし、
奄美大島では「陸行一月」出来ないからでも、×。
>東冶(12,000里)≒女王国
中国大陸の道里の、倭国への転用か(納得)!<
「東冶」なんて倭人伝に存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×。 >>324
土器編年は畿内説ではなくて考古学の編年 崇神天皇を4世紀前半として、日本で大量の奴婢が埋まっている場所は一地域の2か所。
その地域とは葛城、場所は葛城一言主神社参道、
そして神話の高天原最有力地である御所市高天にある高天彦神社参道。
高天彦神社参道の土蜘蛛塚の隣には径百余歩の塚がある。
葛城は「天皇」を基準にすれば6代孝安以前の「首都」であることが分かる。
簡単な話だ、邪馬台国の卑弥呼が住んだ都は葛城だ。 畿内は狗奴国
奈良は征伐されて卑弥呼が都を置き邪馬台国に >>324
素人九州説では土器の相対新旧関係を完全拒絶している 卑弥呼さえからませなければ、ほん、大和はまほろばなんよね。 >>303
>倭人だが、倭国ではない。
いい加減にそれ、九州説の身内にしか通じないインチキだって気付きなよw
倭人の国が倭国ってだけだよ >>308
>あのなあ、纒向の土器の中で外来土器は一部であり、そのさらに5%しかないのは、
>直接交流ではないということだよ。
あのなぁ、本格的にバカなんだなw
なぜ「よその土器を間接的に運んでくる奇特な人がいる」なんていう何の合理性もないことを
まじめに書けるのか不思議でしょうがないww 纒向には崇神天皇や景行天皇の謂れはあるが、
纏向石塚に見られるように、それ以前から続いてる事は考古学的にも明白。
崇神のオカンの郷が纏向。
ニギハヤヒが神武に屈したのも纏向。
物部守屋が3人の尼さんを連れてきて素っ裸にして鞭打ったのも纏向。
大和では前方後円墳が2世紀末の纏向石塚古墳から始まり、6世紀末で終わる。
そのまま物部の興亡時期(ニギハヤヒから物部守屋)と重なる。
つまり纒向とは物部の郷なんだよ、分かったかねアホの>>1. >>165
>「古墳時代は卑弥呼の時代よりもあと、纏向遺跡は古墳時代」ってのが九州説の基本だろ?ww <
以前の情報では、纏向の掘立柱の傍の「桃核のある土坑は、ホケノと同じ庄内3」だったが、
前スレで誰かが「どこかの土坑から、石塚と同じ庄内1」が出た、という話を書いていた。
>卑弥呼よりも後の古墳時代まで確実に纏向遺跡は存在してるんだよww
そして、その始まりが桃核によって135〜235年よりも前と確定する訳だ
纏向遺跡が卑弥呼の遣使の時期に存在しなかったことにするのはどうやっても無理ww<
桃核が「庄内3の土坑」から出たのであっても、「庄内1の土坑」からでたのであっても、
石塚が庄内1で3世紀末であるんだから、桃核も3世紀末以後になって、
「纏向遺跡が卑弥呼の遣使の時期に存在」した事にするのは、
どうやっても無理。 畿内説の学者ほぼ全員が卑弥呼の墓が纏向古墳群のどれかだと言ってるのが笑える。
纏向古墳群は天地で言えば地の位置。
上下で言えば下、高低でいえば低。
卑弥呼やその王族の墓は、天、上、高の位置にある。
それは高天原なのである。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_23.jpg
学者さんはみんな神話の高天原など実在しないと思ってるから、
高天原のある御所市高天を見向きもしない。
彼らはギリシャ神話のトロイヤを発掘したシュリーマンの功績を知っていながら日本神話の高天原を否定している。
滑稽である。
馬鹿である。 >>332
>卑弥呼さえからませなければ、ほん、大和はまほろばなんよね。
ヤマト王権の起源を解き明かす可能性がある纒向宮の発見を邪馬台国に絡めて眉唾ものにしてしまった畿内説の責任は重大だよ。 >>333
>倭人の国が倭国ってだけだよ
それは違う。
倭人伝であって倭国伝ではないからだ。
内容的にも、女王国とそれ以外を区別しているから、女王国の東にも倭国ではない領域に倭人がいると書いてある。
それが本州のことだ。 巻向では、大型建物は3世紀中頃に解体されるが、家屋なしのまま青空のもとで祭祀は続けられたようだ。
このことと、崇神の宮殿で祀られていた天照大神が宮殿の外で祀られるようになる日本書紀の記述とは、非常によく似ているな。
どうも、日本書紀の編纂者は、3世紀の大和の出来事をよく知っていたようだ。 >>334
>なぜ「よその土器を間接的に運んでくる奇特な人がいる」なんていう何の合理性もないことを
バカはお前だ。
じゃあなんだ?
各地はそれぞれ一対一の通商をしていたのか?
考古学の成果を無視するなよ。
西日本では尾張が物資の集散のハブとして機能していたことがわかっている。
纒向にある各地の土器は尾張経由なんだよ。
駿河だって状況は同じで、大量の尾張の土器の中に北陸の土器が混じり、その他は少々だ。
尾張だけが特異点で、各地に土器を移出し、また各地からの土器を集めてその先に流していた。 >>335
>大和では前方後円墳が2世紀末の纏向石塚古墳から始まり、6世紀末で終わる。
>そのまま物部の興亡時期(ニギハヤヒから物部守屋)と重なる。
うむ。
そしてその饒速日物部一族の一部に尾張氏がいて、西日本の権力の一部を構成していた。 >>340
倭人の風習の卜骨が本州の岡山から関東まで出るので
東海から関東が倭種 >>338
箸墓という下人の墓を卑弥呼墓だと言ってるバカが屁理屈こくな。 邪馬台国畿内説などという迷信を排除して、考古学的と文献史学の両方に齟齬のない古代史を明らかにしなくてはいけない。 キナイコシは自分の意見が誰も納得させることができない屁理屈だと認識するべきだ。 >>345
壱岐からも出ます。
尾張の土器は瀬戸内や筑紫にも出るから、東海からなどという区切りはない。 >>346
穢れを祓う神社で立小便するバカが屁理屈こくな >>350
フェンスに亀頭を差し入れ、御神域の外に放尿したのだ。
おまえにとやかく言われることはない。 >>349
博多湾沿岸は畿内や山陰の影響を強く受けている
東海以東は受けていない
卑奴母離がいる国が一大率が檢察する諸國
伊都國は別の王がいる従属國 >>351
フェンスの外側も御神域
お前みたいな下人が入って立小便をしないようにフェンスをしている 巻向の外来土器については、例えていえば、皇居へ奉仕で掃除に行ったおばさんらがほうきをそのまま置いてきたようなものだよ。
つまり、勤労奉仕の置き土産がその外来土器だな。 >>353
フェンスの外が御神域なら俺の家も御神域だ。
俺の家で小便してはいけないのか。 >>340
>倭人伝であって倭国伝ではないからだ。
つまり卑弥呼は倭人の王であって、倭国王という扱いではないんだよ
倭王が5回、倭女王が3回あるが倭国王という表記はない
魏志倭人伝の「倭國」表記は次の三つしかない
及郡使倭國、倭國亂、奉詔書印綬詣倭國
これらはすべて「倭の国(地域)」という程度の意味で、「倭國という政体」を指すのものではない
九州説の人が倭国は九州のみとかいうのを見るたびに哀れだなと思う >>358
なら公道と神社の土地の境にフェンスを建てておけ。
俺の知った事か。 >>342
>各地はそれぞれ一対一の通商をしていたのか?
移動している土器は移動時に使う飯炊き甕なんだよ
近江の人がもし仮に尾張経由で纒向に入ったとしても、
近江の甕を持ってくるのは近江の人であって、
尾張の人が近江の人が持ち込んだ近江の土器を持って纒向に来る理由がない
尾張の人は尾張で土器を作っているんだからw
バカは>>342だよww >>345
>倭人の風習の卜骨が本州の岡山から関東まで出るので
魏志倭人伝に倭人の風習として書かれているんだから、
そこ「岡山から関東」が、魏志倭人伝のいう倭だろ? >>359
フェンスを建てなくても日本人なら犬のようにここで立小便をしようとは考えない
お前のためにフェンスを建てる必要があるならお前が費用を出せ >>358
左側スロープ君に日本人の常識・良識を期待しちゃダメだよw
それはない物ねだりでしかない >>361
倭人の女王國連合と、倭種と雖も女王に属さないのが
「岡山から関東」 >>362
急に尿意を催したことは俺の責任ではない。
だいたい穢れを嫌う神社って主に式外社、
古代、神社とは死体置き場であり、
死体を拝んでたという証拠は、古墳の上に神社がある事でも明白。
かっこつけるな。 >>365
急に尿意を催してもどこででも立小便しないのが良識ある人間
伊勢神宮に死体は置いていない >>356
なら俺が膀胱炎になればお前が費用を出せ。
3割負担の分でいいから。
伊勢神宮に死体はないは反論にはならない。
そもそも死者を祀ってないからだ。
崇神が大物主を殺した時の祭器・鏡の移動先が伊勢神宮、。
例えば百舌鳥八幡宮などは前方後円墳の石室が本殿と繋がってる。
他にも和邇下古墳など神社と死者が繋がってる例など多数。 >>357
>つまり卑弥呼は倭人の王であって、倭国王という扱いではないんだよ
屁理屈をこくな。
三国志の用語では倭国の王を倭王と呼ぶ。
魏王などと同じだ。 >>357
>これらはすべて「倭の国(地域)」という程度の意味で、「倭國という政体」を指すのものではない
それはお前の勝手な思い込みだ。 >>361
倭人の一般的な風習だよw
倭国はあくまでも九州北部だけだよ。 >>367
お前がジジイだから小便をがまんできないんだ
外出するときは常時紙オムツをしとけ
それ式外社じゃないのか >>365
>古代、神社とは死体置き場であり、
王宮だよ。
放尿してはいけない。 >>370
倭人の風習が九州にはない
畿内の土器を模倣製作する時代になって2ヶ所のみ >>360
外来土器の大半が尾張なんだから、纒向には尾張の人ばかりがたくさん来ていたことになる。
どうしてだろうねえ。 >>373
魏志倭人伝にある倭のものがほとんど出ない空白地帯が奈良盆地。
山に囲まれた閉鎖的な田舎。 弥生時代鉄鏃出土数
東北**1 群馬*21 千葉*63 東京*37 長野*27 石川*55 福井*32
滋賀*13 京都112 大阪*40 兵庫*92 奈良**4 和歌山**5
岡山104 広島*79 山口*97 鳥取*46 島根*30 香川*36 愛媛*25 高知*53
福岡398 佐賀*58 長崎*29 熊本339 大分241 宮崎100 鹿児島**3
鉄製鏃の出土は福岡県、熊本県、大分県の順番になっておりそれ以下の地域の出土数は
極端に少ない、邪馬台国と狗奴国は戦争をしていたと記載があるので邪馬台国が福岡県
の南部、狗奴国が熊本県北部となり大分県日田地方は邪馬台国連合国家の1つとなる
ちなみに福岡県は筑紫、熊本県は肥国、大分県は豊国
白日別:筑紫国、豊日別:豊国、建日向日豊久士比泥別:肥国、建日別:熊曾国
しかし肥国と熊襲国は名前が被っている。そして熊襲タケルの墓は肥前河上にある。
おそらく有明海沿岸が筑紫宗家の味方の時は肥国、敵となった時は熊襲と呼んだのだろう。
少し違うデータだが、筑紫、肥国、豊国、出雲、越という倭国の主要構成地域がよくわかる。
http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
その中でも魏志倭人伝で郡使が滞在し、記紀で日向三代の王都とされるのは筑紫。 >>371
>それ式外社じゃないのか
なんで高鴨神社が式外なんだよ、式内名神大社だ。
>>372
>王宮だよ。
違う、高鴨神社ご神体の神山は塚だ。
迦毛大御神=アジスキタカヒコネ=剣を持って暴れる=スサノオだ。
神殿で糞したオッサンの墓の近くで俺が小便しようがとやかく言われる筋合いはない。
放尿してはいけない。 >>378
>>367に高鴨神社は書いてないだろ
お前は名神大社の高鴨神社で立小便したんだから
鈴鹿宮司に謝ってこい >>376
>鉄製鏃の出土は福岡県、熊本県、大分県の順番になっておりそれ以下の地域の出土数は
極端に少ない、
横レスだが、その地域は弥生時代から防人さんの土地だから。 >>379
敷地の境のフェンスの外だ。
チャックにしまう時に2.3滴ぐらい御神域にこぼれたかもしれないが何で謝らねばならんのだ。 >>382
なんで謝れとは言ってない鈴鹿さんに俺が謝らねばならないのだ? >>383
鈴鹿宮司はお前が境内で立小便をしたことを知らない
まず立小便の報告が先だ >>384
フェンスの外なら御所市の土地だろ。
なんで鈴鹿宮司にいちいち報告しなけらばいけないのだ。
お前は生れてから今まで立小便した土地の持ち主に謝罪してきたのか? >>296
>邪馬台国の会の十種の魏晋鏡のデータ、福岡県>の37枚はインチキで本当はたったの5枚だww
福岡の晋魏鏡37枚は真実。
5枚というのは奥山のインチキ。 >>387
>拝殿横のフェンスの外も神社の土地だろ
そんなわけはない、登記簿調べてこい。 >>380
>横レスだが、その地域は弥生時代から防人さん>の土地だから。
それは九州を守るための防人だな。 >>389
フェンスはお前みたいなやつ立ち入り防止のために立ててる
立小便したのはお前なんだから
フェンスに亀頭を差し入れて外に小便したことを鈴鹿宮司に話してこい >>391
おまえが今まで立小便した土地の持ち主に謝罪してからなら俺も鈴鹿宮司に報告してやる。
さぁ謝罪してこい。
1年365日、一日中PCの前にへばりつきやがって少しは動け。 >>392
立小便などしたことはない
PCの前にへばりつきやがってただの斜面を卑弥呼の墓だと連呼してるのがお前だ >>393
>立小便などしたことはない
嘘 を つ く な。
この画像でただの斜面と言ってる時点でわざと認めたくないと言ってるようなもの。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_23.jpg
この塚の周りは今も地元の墓域。
江戸時代の墓もある。
太古から墓域であったのだ。
また日本で大量の奴婢が埋葬されてる地域はここだけ。
そして日本神話での王権があった高天原がここ。
箸墓論者ごときが俺には勝てないのだwww >>394
お前のように誰でも立小便をすると思うな
農民が江戸時代に墓を作ったのは何の謂れもないただの自然斜面だからだろ >>395
>農民が江戸時代に墓を作ったのは何の謂れもないただの自然斜面だからだろ
先祖代々の墓域だからだ。
しかも最近まで土葬であった。
また日本書紀の神武東征紀の土蜘蛛誅殺の高尾張邑の地であると伝承してきたのも地元の人、個人名は出せないが。
箸墓には何も奴婢埋葬伝承がなくて悲しいねwww
もうあきらめろwww 洞窟に篭って金剛山で修行したのは7世紀の賀茂氏の出で山伏の元祖の役小角だから
金剛山に向かって参拝する高天彦神社はその後の創建だろう >>397
高鴨神社は孝昭天皇の頃、だから崇神の頃の大神神社より古い。
この時点で日本最古。
金剛山=高天原のふもとの中西遺跡は弥生時代前期の日本最大の水田跡、
当然人がいるムラがありマツリも行われた。
高天原は大和盆地屈指の水源であるから、当然ながら王=神がそれを支配した。
近くの北窪遺跡や南郷遺跡は縄文の遺物も出る。
この水源にある高天彦神社は創建は不明だが、上記の理由から高鴨神社よりさらに古い事は明白。 >>398
中西遺跡や秋津遺跡や室宮山古墳のあたりが葛城氏の中心地で
高天斜面あたりはこれといって無いだろ >>399
何がないの?
葛城氏の話ではなくて、
例えば6代孝安店の以前の宮は葛城だね。
欠史八代なんて言って、その時代の天皇はいないと言ってきた馬鹿が多かったせいで、あまり注目されてこなかったが。
10代崇神が4世紀前半、なら庄内0期という大変革の時代、
つまり卑弥呼の時代には葛城が王都だったと分るじゃないか。
その葛城に高天原がある。
そこに径百余歩の塚があり、魏志の記述通り奴婢も埋葬されてるのだ。 >>400
何がないの?って中西遺跡を出してるから
高天斜面あたりはただの中心地からの外れで何も見つかってないだろ 3割の搬入土器だけで市場と断定するのもおかしな話
土器なんて何と物々交換するのかねー
マキムクで見つかっている土器はそんなに当時価値があったのかな?
炊飯用土器なんて交易品なの?
古墳造営に駆り出された人が持ち込んじゃねーの 何かをするために地方からマキムクにやってきたのは事実だろうな
現段階の調査で都市と断定できる物は殆どない
水路は古墳造営の資材運搬とも考えられるし
テンプレも交通の要所、掘立柱建物、土器、、、、、
決め手に欠けるのは事実だし
大集落と言いながら多くの住居跡の形跡ないし
倭人伝の
「以婢千人自侍 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」を証明するもの無いし >>401
何もないって日本最古の名神大社があると言ってるのに何もないと言われても困るのだが。
王宮跡などは今でも名神大社として存在する。
纒向って崇神の宮と言われる神社以前に何もないよねw 発掘許可がおりてる遺跡を卑弥呼の宮だとかほざくアホの>>1w
卑弥呼を生んだ王権の宮は今でも式内・名神神社として存在する。
またその王権に関わる人物は今でも信仰対象だ。
卑弥呼とは今も信仰されてる「えべっさん(事代主)」の娘だ。
分かったかアホの>>1 纒向の卑弥呼の時代とも言われる大型建物が、
その謂れもなくし、式内社になってるわけでもない。
忘れ去られてたわけだ。
何故か言ってやろうか。
その大型建物のある纏向遺跡は6世紀末に滅んだ一族の遺跡だからだ。
つまり物部だ。
大阪交野の森古墳群は被葬者として交野の語原になった肩野物部集団しかあり得ない。
また当地を開拓したのは肩野物部だと天田神社にも伝承されている。
ところがその天田神社の祭神は住吉大神に変わっている。
負け組さんを祀るわけにか行かなかったのであろう。
負け組さんとは辛いものだ。
纏向遺跡と同じようになw >>289
>じゃあ学者の意見を延々コピペ合戦
>するだけになるな
ならないよ?
だつて、九州説の学者なんてとっくに居なくなってるものww >>216
>魏略と魏志倭人伝を見比べたら、倭人伝の文章に魏略の文章を改竄したものがあることは明らかだ。
まあ、文章の大枠はほとんど同じなのだから、資料が同じなのは確かだが。
しかし、倭人伝は誤りが少なく、魏略は誤りが多い、とは言い切れんよ。
そもそも倭種の国の個所は倭人伝では後半に書かれているが、元になった資料では魏略が書いてあるように冒頭にあったのが正しいだろう。 <
ダメだ。
魏使らは、当然知り得た知見を順次式に記録し説明しているのであり、
「倭種の情報」の記録個所は、女王之所都に到着した後に計測記録出来た事であるから、
陳寿の魏志倭人伝の記載順が正確なのであり、
魏略逸文のように、冒頭直後に記載した事の方が、異常。 天田神社の本来の祭神は肩野物部集団の統領であったタベノスクネと推測される。
先代旧事本紀に交野連と記される人物だ。
イカガノシコオの子であり崇神の従兄弟にあたる。
だから森古墳群で最大最古の雷塚古墳が箸墓と同時代か少し後とも言われる事と符合する。
つまり3世紀後半、物部が前方後円墳を造っていた。
前方後円墳とは物部の墓制だ。
そして箸墓とはイカガノシコオの墓なのだ。 >>220
>>そもそも布留0を庄内期に分類してるなら、
布留0という呼称自体がおかしいではないか。<
>なんで? ゼロなんだから 最初jから布留「前夜」の意味なんだが
庄内0もそういう意味だし 皆がそういう意味で使っている
どこがゴールポストを動かしてることになるわけ?<
それなら、布留ではないんだから、「布留0」なんて詐術的な文字を使わず、
「小型丸底期」とか、「後庄内期」とか、「非布留期」とかを使って、
布留ではない事をはっきり示せばよかったではないか。 千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式土器とは、厚さ2〜3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には
細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている
桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で
「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で
脚光を浴びている」とされている
大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では
「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川
周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」
阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている
ってさ。 @阿波
補足。
その圧倒的に多い阿波系土器 以外の土器についても、それも「東阿波型土器」様式土器であることを付加えておく。 @阿波 墓と墓つくり土方の宿舎飯場
けっきょく、ただの纒向古墳群・・・、 そんなの、王都なわけないだろw
キナイコシは頭おかしい 壹岐からの渡海には方角が書いてない、
それは潮に流されて東へ渡海し、福津に上陸したから・・、これは倭人伝解釈上の大発見であ〜る、
というのが阿波のトンデモ自負心。
故に、自信満々の無駄カキコに熱中症・・。 >>415
>それは潮に流されて東へ渡海し、福津に上陸したから・・、これは倭人伝解釈上の大発見であ〜る、
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 @阿波 玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面、
これまたトンデモの偽書・永島家文書・・。 関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 間違いだらけの論文を発表して後で報告書から削除されるという歴史的大失態を演じたお方だ >>423
纒向遺跡の終わりを古墳中期の始まりにしちゃった大失敗でしょ 大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf >>426
古墳中期を示す遺物なんて何もないのに古墳中期にしちゃったら
間違いでしょ >>425
>私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えて>いる。
この人より、阿波の考古学者が、遥かに考古学的に優れている。 阿波へj講演に来て、無知をさらしていたよ。 @阿波 >>227
>ずっと前からテンプレには
#※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
# 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
# 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
# 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。<
「庄内0」も同じだ。
「庄内ではない」のなら、「庄内」の文字を使わずに、
「弥生最末期」とか名付ければ済む事だ。 >>230
>250年頃から布留0だと思ってる学者たちには卑弥呼の墓だと明言する人も多い<
そうか。
通説大和説学者の多くは、
布留ではない時期を「布留0」と名付けて、
卑弥呼の墓を「布留期だ」と匂わせて、
箸墓を卑弥呼の墓にでっち上げて、国民を騙して来たのだな?。 >>370
>倭国はあくまでも九州北部だけだよ。
でも、北部九州からは卜骨が出ないんだよね
壱岐では出て、北部九州が倭国のメインランドなら、卜骨は壱岐の風俗とされ倭人の風俗とはならない
こんなところからも北部九州が倭国という戯れ事が通らないことが分かる >>432
卜骨占いは東アジアで広く共通した文化。
亀の甲羅を使うのも同様。
天皇は亀の甲羅を使ってたな。 >>433
証拠でもあるの?
なきゃ中傷だな
九州説汚いね 仮にト骨派:邪馬台国とト亀派:狗奴国とが対立していたとすれば、天皇家は卑弥呼の系統ではなく狗奴国の末裔ということになるな。 >>432
倭人は韓国で鉄を採っていた。
=倭国は鉄文化の浸透した範囲。
<魏志韓伝より>
「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
(韓国は鉄が出るので、韓国、?国、倭国がこれを採っている。
諸の市で買い物をするときは中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪と帯方の二郡にも鉄を供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係
・倭国として認識された範囲に畿内は入ってなかった
■裏付け
・纏向遺跡では鉄器は出土せず、釘一本すら見つかっていない
・纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない
・もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
(畿内説の有名な迷言) >>435
畿内説妄想症候群の学者どもに踊らされ、市税を食い物にされ、捨てられてゆく桜井市・・・
https://i.imgur.com/pGRxBEf.png←これを宮殿と呼べというのか!?
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。 >>239
「南→東」などの嘘付き騙しや、
「248年からの布留0」のでっち上げの大和説論者の発言には、
理由などない
「国粋戦争皇国史観の大和説を国民に広げたい」という欲望があるだけだ >>241
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
なにごとも理由なく確定する大和説人種の不思議 >>251
前レスを辿れば理由が書いてあるのに、
こんな遁辞を言うだけで
絶対に理由を見ない探さない
それが「南→東」などの嘘付き騙しの大和説
堕落してる >>254
ねえねえ
どうして「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
そんなに
前レスを辿って「書かれていた理由」を探す、
のが嫌いなの?
もしかして「理由」って何だか知らないとか >>386
>福岡の晋魏鏡37枚は真実。
>5枚というのは奥山のインチキ。
お前が邪馬台国の会の中の人かな?ww
既にネタは上がってるんだよ
福岡県37枚の内訳が
三雲遺跡寺口U-17 2号石棺墓 福岡県 連弧文鏡(蝙蝠)△1
汐井掛遺跡4号箱式石棺墓 福岡県 方格規矩渦文鏡 ●1
汐井掛遺跡6号箱式石棺墓 福岡県 連弧文鏡 △1
汐井掛遺跡28木棺墓 福岡県 飛禽鏡 △1
汐井掛遺跡203土壙墓 福岡県 連弧文鏡 △1
平原遺跡 福岡県 方格規矩四神鏡 ●32 ←これがインチキ
平原1号墓出土の40枚(分)の鏡片のうち、38枚は2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」で
仿製鏡とされている
倭国で一時に大量生産した仿製鏡を舶載鏡(十種の魏晋鏡)として数えるのはインチキ以外の何物でもない >>394
>この画像でただの斜面と言ってる時点で
いや、左側スロープ君の言う「150メートルの塚」がただの駄々下がりの尾根だってのは
何度も周知されてるし、誰も相手にしてないよ
https://i.imgur.com/uFLeOQv.jpg
ただだらだら東に下るだけの尾根だな
土蜘蛛と蜘蛛塚の「蜘蛛」の二文字だけが根拠で、
土蜘蛛伝説は日本中何処にでもあるというオソマツww >>396
>先祖代々の墓域だからだ。
現在は畑になってるよ?ww
交渉すれば発掘させてもらえるんじゃないかな?wwwww
https://i.imgur.com/zEcxxAT.jpg そんあことよりもw
本当に、なぜ倭猿、倭猿と言われているんだと思う?
おそらく(というか確実)・・・、真似をしているだけなんだろうみたいな話でしょ。 >>269
>邪馬台国はそのまんま大和国 つまり奈良 <
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
>狗奴国はそのまんま久努国 つまり静岡 <
「南≠東」などに拠って、瞬時に終了
あなたの短い人生を大切に! >>403
>3割の搬入土器だけで市場と断定するのもおかしな話
纏向遺跡での搬入土器の比率は、約15%だ
搬入土器が3割になるのは、祭祀土坑のような祭祀遺跡でのこと
つまり、祭祀用に各地の人がわざわざ土器を持ってきた
あるいは纏向で纏向の土を使って自分の地元の土器を作って
祭祀に供献したと考えられる
単なる市場とは断定できないねww <畿内説学者の妄想>(松木氏)
「一方、近畿は朝鮮半島から遠く、鉄は希少で、ありがたみがあった。
近畿の王は共同体の首長の力を借りて九州から東方へのルートを
握り、鉄を元手に経済力や権力を一極集中させていったとみている。
もちろん鉄だけでなく、広い平野、日本列島の中央という点も近畿で
政権が誕生した背景にあるだろう。」
<現実>↓
九州から近畿へ鉄が流通した事を示すものは何もないし、近畿の平地は九州より狭い。
また当時の倭国は西日本を指し、その中心となれば瀬戸内あたりでしょう。
■可住地面積(人が住むことの出来る土地)
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)
■耕作可能な土地の面積
[畿内]
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
[九州]
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2 >>404
>現段階の調査で都市と断定できる物は殆どない
纏向では農具の出土が少なくて、農業従事者以外が大量に存在したと考えられる
食糧生産から離れた大量の人口の存在が、都市の重要な特徴だ >>416
>「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面
はい、ここがトンデモの入り口ですねww
万津浦は、由緒の定かではない新しい神社、年毛神社の縁起不明の「永島文書」にのみ
見られる呼び名で、地域の人が誰一人知らない地名ww >>451
>食糧生産から離れた大量の人口の存在が、都市の重要な特徴だ
現代人感覚の超妄想w
大都市での食事は桃と蛙だけかw >>436
亀トは古墳時代中期くらいにならないと出ない 纏向は農具が少ないが、土木用具は多い。
何らかの工事に従事した集落と見るのが正常な見方だろう。 >>436
>仮にト骨派:邪馬台国とト亀派:狗奴国とが対立していたとすれば、
「仮に」「卜亀派:狗奴国」「とすれば」www
今日も妄想モリモリですね! 九州説のオツムの中はww あと芸能(音楽)の世界の話になるんだけど
小椋佳 井上陽水・・・、
なぜか繋がっていたり『氷の世界』? >>455
>何らかの工事に従事した集落と見るのが正常な見方だろう。
それだけの農業に従事しない人口を養うだけの食糧供給ができた、という時点で
都市とみなすに十分なんだが? >>452
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 @阿波 >>435
巻向が王都かい
何かをするために地方からマキムクにやってきたのは事実だろうな
現段階の調査で都市と断定できる物は殆どない
水路は古墳造営の資材運搬とも考えられるし
テンプレも交通の要所、掘立柱建物、土器、、、、、
決め手に欠けるのは事実だし
大集落と言いながら多くの住居跡の形跡ないし
倭人伝の
「以婢千人自侍 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」を証明するもの無いし >巨大古墳がある時点でその近辺が王都であることは動かない
で、その近辺が王都であったと言う考古学的根拠は? @阿波 また畿内説から新たなトレビアが生まれたな。
「工事現場は大都市なのだー!」
w >>462
纏向編年って知らないの?
大量の飯炊き甕が出ているから、それで編年をしているんだよ?
大量の飯炊き甕で何をしたと考えてるんだ?ww 纏向遺跡とその出土品を見てると、墓建造と祭祀を請け負う霊園説の方が信憑性は高いと感じるね。 >>466
>大量の飯炊き甕が出ている
どこから? 墓場工事の土方飯場は、纒向宮殿と呼ばれたという、、。 そうか、纒向宮殿と呼ばれた、ドカタ事務所、という意味だったのか。。。 >>278
>畿内説は纒向遺跡と伊勢遺跡をすぐ絡めたがるけど、全然似てないよ?
纒向遺跡は棟持柱がある高宮が1棟だけ。
伊勢遺跡はそれがたくさん。
それと、纒向には近江系の土器がほとんど出ないから、近江との関連は低かった。
纒向は虎の威を借りる狐。<
ふーん。 日本の皇国?〜というのは、人々を騙して何やらという話でしょ >>466
>大量の飯炊き甕で何をしたと考えてるんだ?<
古墳造営の人夫の飯づくり 伊勢遺跡が示すように、祭祀遺跡は全国各地に点在してた時代なんだよ。
まるで纏向にしか存在しなかったかのように語る畿内説はバイアスの塊だよ。 >>458
>それだけの農業に従事しない人口を養うだけの食糧供給ができた、という時点で
都市とみなすに十分なんだが?<
工事現場(飯場)と都市とは違う >>468
大型建物の下。
=大型建物はドカタの寄宿舎。 まるで当時に近鉄電車が存在したかのように、纏向通勤説を唱えている池沼は・・・奥山しかいないなw 巻向
花火を打ち上げて以降
殆ど何も出てこない、国指定の重文もない
これ以上税金をつぎ込む必要はない
やりたけりゃ寄付金でやればいい
集まらないだろうがww 首都近辺、首都への主要幹線沿い以外に作る理由がない
世界史で見ても例外がないことから、
帰納的に首都と巨大モニュメントの位置は紐付けされる
逆に演繹的に最大の墳丘墓・王墓の近辺が首都だと判断できる
こういう単純論理すら理解できず、永島文書のような来歴の怪しい文書の
万津浦の一語に頼るチェリーピッキングが泡の本性 >>473
つまり、大量の人口に食糧供給ができる基盤があったと認めるんだな?
それが、都市の定義の第一歩だろ? 纒向遺跡とは、
「人が集まり住むわけでもなく土木用具を残して立ち去った痕跡。」
ここから卑弥呼までつなげる学者の話は100%妄想。
>>450のように。 纏向遺跡が、なぜ特別史跡や重要文化財に指定されないのか?考えてみようw >>462
ケンブリッジ大学の細谷葵は『理論考古学グループ』96年度大会で
日本考古学の構造を考古学という学問よりも行政的に「文化財」と定義されるのは基本的に人工遺物だけで、
その他の考古学的には重要な情報を持つデータ、例えば植物遺存体などは考慮されない
また吉野ヶ里や三内丸山遺跡の例を上げ、マスコミによって遺跡が観光地化してしまう
「村おこし」郷土愛が発掘の予算にも影響しうるという
学問とは無関係の事情でデータが選ばれる状況の産物としてのデータが
いかに欧米考古学者の視点からは誤解されうるかと論じた
現在では纒向遺跡などで動植物遺存体分析が行われるようになってきた 宇宙の何やら〜という曲(日本)などがあるでしょ?
どう考えても西王母関係の話だしな・・・、北斗の拳などもw >>483
学者たちは、纏向は卑弥呼と関係ない、ってみんな知ってるんだけど、文科省に忖度とか学閥の先輩後輩(出世競争)とか予算とか、いろいろな「大人の事情」があるの >>296
>そんな時代もかつてはあったけれど、甕棺墓の盛行期が過ぎる頃には、
舶載鏡もろくに入手できない片田舎だよ<
甕棺は須玖岡本に3世紀まで続き、祇園山に3個あるから、卑弥呼共立頃まで盛行。
舶載鏡は、須玖岡本のキ鳳鏡や、平原などに大量にある。
その呉、那珂八幡や一貴山銚子塚などが栄えたが、
楽浪や西晋滅亡や317年の東晋建国で、
倭国王朝も317年頃に筑後〜久留米に遷宮した。
>邪馬台国の会の十種の魏晋鏡のデータ、福岡県の37枚はインチキで本当はたったの5枚だww<
平原は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与の魏鏡。 >>445
>何度も周知されてるし、誰も相手にしてないよ
>https://i.imgur.com/uFLeOQv.jpg
その高低差の分からない卑怯な画像貼るのはやめろ、こっちが分かりやすい。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_23.jpg
>土蜘蛛と蜘蛛塚の「蜘蛛」の二文字だけが根拠で、
>土蜘蛛伝説は日本中何処にでもあるというオソマツww
バ~~カ。
4世紀前半の崇神以前の土蜘蛛塚を言ってみろ。
言えないだろ。
高天原にしかないからだ。
あと箸墓に奴婢埋葬痕跡を見つけてから俺に反論しろ、永遠に無理だろうがw
特殊器台に遺体の一部を載せた説は大笑いだ、よく恥ずかしげもなく言えたもんだw >>297
>纏向の外来土器では、初期には吉備とともに近江も多かった。
中期になると吉備、近江ともに少なくなる。
吉備、近江が引いていくとともに、河内が現われてくる。
吉備、近江の減少と河内の登場は相関関係がありそうだ。<
ふーん。 >>446
>現在は畑になってるよ?ww
>交渉すれば発掘させてもらえるんじゃないかな?wwwww
>https://i.imgur.com/zEcxxAT.jpg
なってないよ、墓はあるよ。
発掘しなければ卑弥呼の墓を見つけられないと言ってる時点でバカ。
卑弥呼の墓は謂れのない所にあるわけがない。
名神大社のような謂れのある場所は発掘できないのだ。 >>481
>「人が集まり住むわけでもなく土木用具を残して立ち去った痕跡。」
3日で巨大古墳は作れないんだよ?
何年も大人口が住んでたら、そこにはいろんな商いをする人も集まるだろう >>484
纏向にはクスノキが無い。
=倭国じゃない倭種の国。
終了。 >>486
結局、考古学科も予算獲得しなきゃ、消滅だからね
「欧米列強からのアジア解放」太平洋戦争、「被爆国だからこそ」原発推進、「皇国史観=記紀を考古科学で補強」邪馬台国畿内説、
本音と建前が一緒になると、この国は必ず誤った選択をしてしまう恐ろしい国なんだよ...
かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂(吉田松陰) 明治天皇の側近だった白鳥庫吉博士や高有働芳樹博士に逆らい、
強引に唱えた内藤湖南のフライングを後生大事に伝えてきた学閥とはいったい何だったのか とある時代から〜?三流の学者のような人々がいるでしょ、
悪く言うわけではないけど、何の家の人なの?
源氏、平氏・・・何やらの血を引いているとか、
それよりも、確実に、ホンモノだと思われる人物に話を聞いたほうが早い >>18
>>123
卑弥呼の王宮は、今この瞬間も福岡空港滑走路の地下に眠っているわけか…
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛 >>496
池沼が河内のドカタは日帰りで通勤してたとか言ってたよなw 『西王母 北辰』
日本(倭人)の話ではないし、
その頃・・・・、てんのー?の先祖というのも、既に日本(倭、不明?)にいたと言っていたり >>490
>なってないよ、
うそつきww
どう見ても畑だろ?ww
https://i.imgur.com/zEcxxAT.jpg
ここ、左側スロープ君が主張する「径150メートルの塚」の範囲内だよ
その、高天彦神社側から尾根に下りていく部分
最初から下ってるだろ?
盛り上がった塚なんてないww >>488
>4世紀前半の崇神以前の土蜘蛛塚を言ってみろ。
ハハッ(どこかの大ネズミ風)
つ>>397
「洞窟に篭って金剛山で修行したのは7世紀の賀茂氏の出で山伏の元祖の役小角だから
金剛山に向かって参拝する高天彦神社はその後の創建だろう」
高天彦神社が崇神以前というのがデタラメ 『河童 仏教』(河伯?)
キュウリのような葉に、葱の華の写真があるでしょ、
王母〜寒いな〜・・・?この家の写真なんだけどw
わかりやすく言うと、家(この書き込みをしている)の写真 >>493
>纏向にはクスノキが無い。
>=倭国じゃない倭種の国。
池上曽根遺跡の年輪年代が示された井戸枠の材がクスノキ
畿内がクスノキのある倭国で問題はまったくないねw >>493
池上曽根遺跡(弥生中期)の井戸はクスノキを一木造りしている
大阪湾沿岸からは、クスノキの大木を数本分連結し、
舷側板を取り付けた古墳時代の舟が何艘も出土している
大阪湾岸は縄文時代の鬼界アカホヤ火山灰後からクスノキやモミ,ケヤキが多い
弥生時代の鬼虎川遺跡の杭材はアカガシ亜属・シイノキ属・クスノキなど常緑広葉樹が多い
樟蚕(クスサン)はヤママユガ科のガ
ヤママユガ(山繭蛾)は天蚕といい日本在来の代表的な野蚕
纒向遺跡で天蚕によって作られた平織りの絹布の巾着袋が出ている
皇居の紅葉山御養蚕所で歴代皇后が天蚕を育てることが伝統になっている >>504
確か纏向とは無縁の河内の話だなw
井戸枠も他所から輸入したんだろうよw >>496
>その3日って何?
別に5日でも10日でもいいけれど?
箸墓クラスの大古墳を作るには10年くらいかかるだろ?
仮設の飯場と同一視するのがバカだってだけ >>505
樹齢約2000年代のクスノキが無い。
よって証拠不十分。
弥生後期は寒冷期。 >>507
河内のドカタは10年以上通勤したんだなw >>506
>井戸枠も他所から輸入したんだろうよw
こういう何の根拠もない妄想が瞬時に出てくるあたりが、
九州説の捏造体質をくっきりと際立たせてるよなww
邪馬台国の会の中の人は、これには反論できないってことでいいね?
既にネタは上がってるんだよ
福岡県37枚の内訳が
三雲遺跡寺口U-17 2号石棺墓 福岡県 連弧文鏡(蝙蝠)△1
汐井掛遺跡4号箱式石棺墓 福岡県 方格規矩渦文鏡 ●1
汐井掛遺跡6号箱式石棺墓 福岡県 連弧文鏡 △1
汐井掛遺跡28木棺墓 福岡県 飛禽鏡 △1
汐井掛遺跡203土壙墓 福岡県 連弧文鏡 △1
平原遺跡 福岡県 方格規矩四神鏡 ●32 ←これがインチキ
平原1号墓出土の40枚(分)の鏡片のうち、38枚は2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」で
仿製鏡とされている
倭国で一時に大量生産した仿製鏡を舶載鏡(十種の魏晋鏡)として数えるのはインチキ以外の何物でもない >>511
阿波以外にあるの? わははははは @阿波 >>511
「楠」も「橘」も「丹」もある、阿波以外にあるの? わははははは @阿波 >>480
おまえはアホか
巻向に人がいないとは人
全国各地に人はいたんだからーーー
都市機能があったかどうかの問題なの
聞くけど
巻向で何棟見つかってるの・・
人の住む集落跡が確認されていないだよ >>508
樹齢は各自治体で言われているものであまりあてにならない
糟屋郡宇美町の衣掛の森のクスノキ推定樹齢は環境庁の資料では300年以上としかなってない
2000年代のクスノキが残っていたら、そのあたりは開拓されていない >>516
>2000年代のクスノキ
佐賀や福岡にはそれ以上のも普通にあるよ。 >>477
それが奥山の纏向に対する印象なんだから馬鹿にすることないだろ。 >>517
自治体で言われているものはあてにならない
日本の中の古代韓国と自他ともに認める異人地域はどうでもいい かなり前のことになるんだけど
「弟だよ」(二男?)みたいな事を言っている人がいたり、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・家の話なのかな?
父親は二男だしな、もれ(書き込みをしている人)も弟(二男)だしな >>512
何を話をすり替えているのだ
纏向には「橘」が無いの?あるの? >>458
供給できてないし、彼らは定住した痕跡(多数の住居跡)がない。
都市の勝手定義を振り回すな。 大型古墳の年代測定を不明と断定した場合、3世紀半ばの時代は九州と畿内の2つの勢力が拮抗していたと考えてもおかしくない。
そこで推察できるのは、九州から離れて勢力を培った海人族が交易権を握るために急進的に畿内に連合拠点を築いた可能性
そのために作られたのが大量の大型古墳であり、最近言われてる纏向遺跡が古墳の造営基地だったというのはあながち間違いでもないように思える
纏向の段階ではそのような程度の土地であったということなのではないか
鉄器の出土が少ないのも、武装反乱を防いだり高価な資材を投入する必要性が無かったことの理由になる
つまり別の本拠地から畿内に都市を移すにあたっての開発準備期間と捉えることが出来るかもしれない
その後祭祀や王権の移動が行われヤマト王権が確立したと考えられるし、逆に言うとそれまでの畿内は唐子鍵程度の文化水準でしか無くむしろ尾張や備前や琵琶湖沿岸に海人族勢力の個別文化が集積していたのだろう >>479
屁理屈を振り回しているだけで、具体的な王都の痕跡が乏しい。
畿内説は妄想だね。 >>512
その37枚の内訳はどこを見ればわかるの?
平原鏡が仿製鏡ということは、仿製鏡が全国で見つかるのは大体4世紀以降だから、
平原は3世紀後半から4世紀始めにかけての遺跡かな? >>480
カエルとモモだけでは、安定した食料供給があったとは言えない。
自然環境からいっても、奈良盆地の稲作は盛んだとは言えない。 >>520
いやミトコンドリアdnaから、北部も含む九州と東北が一番先住民に近いことわかってるし。
一番 >>477
奥山は巫女・兵通勤説かい、
どこの馬鹿学者の説を引用したのか知りたいな
単なる言い訳にしちゃぁ お粗末 ほんとーに、あの掲示板w
なぜか老婆と同じ話をしているしw
馬に乗り、腰に謎の刀を差していて 奈良:纏向遺跡
https://i.imgur.com/rJscQF5.png
これを造る為に大量のドカタや土木用具は必要ない。
おそらく大型古墳の造営が主目的だったと考えられる。
地元住民は少なく、古墳建造時だけ東海から多くの労働者がやってきたものと考えられる。 舶来のホンモノと偽って仿製鏡を商いしてた骨董商じゃなかったの。
死んじゃったので、在庫品の売り物にならない破鏡を墓に入れてやった・・・ 例えば1966年に発見された屋久島の縄文杉は樹齢7200年と推定されたが
中心部が空洞になっており、その内側から採取した資料の科学的計測値は2170年となっている >>520
邪馬台国とは無関係にこの手の統計資料が多く存在するが、
どれを見ても共通して近畿はチョンと出てるぞw
湿潤耳垢:縄文系
乾燥耳垢:半島(ツングースク)系
https://i.imgur.com/TLpoJ2o.png 纒向墓場 VS 平原墓場
どっちもどっちの、似たも〜の同士なの〜、 山の上のほうに住んでいた・・・『姥清水』?
ほとんど合致しているし、何かの本人(不明)の家なのかな >>536
かといって、熊本でもない! 調子に乗ってはイカン! @阿波 九州説がばかを晒しにやって来て毎日恥かいて帰るスレはここですか お前らが何を言おうと
ヤマタイ→ヤマトゥ→ヤマト
の符号があれば畿内説はあと20年は戦える!
ヤマタイ→ヤマトゥ→ヤマト
布教の暁には九州説など踏み潰してくれるわ!
ジーク奥山!ジーク奥山! オーマイゴッド、、、とは、どのような物事なのだろうか。。。。 >>541
頭の良くない奥山氏を、揶揄いに来たのでは、ないのかな。。。 オーマイゴッド、、、とは、どのような物事なのだろうか。。。。 橘というのは、河内蜜柑と関係性があるのだろうか。。。 >>529
ミトコンドリアDNAの遺伝情報は母系のみ
核DNAは約30億個のヌクレオチド、ミトコンドリアDNA染色体は16,569個
ミトコンドリアDNAの変異率は高い ミトコンドリアというのは、河内蜜柑と関係性があるのだろうか。。。 毎年のように河内蜜柑を送ってくれた者は、亡くなってしまったのだったな。。。 蚕を飼い、機織りをしている家があって、
・・・・・・・・当時、結婚した家だと言っているしw
河童、河伯?寒いな〜と結婚した家 >>527
技術と材料の獲得に有利だから、糸島では全国に先駆けて鏡作りを始めたかもしれない。
3世紀前半まで遡るかもされない。
しかし畿内説がいうように平原遺跡が2世紀なら、オーパーツになってしまう。 >>535
筑紫、出雲、越が古来の日本人、倭人だな。
わかりやすい。 2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」とは、どのような施設だったのだろうか。。。 湿性耳垢は古モンゴロイド
乾燥耳垢は新モンゴロイド
日本の湿性耳垢は16%
台湾40%、ミクロネシア60%
稲作の起源地である中国は4% >>545
変異しやすいから俺は元は縄文人だったはずなのに、チョンと一緒になったんだ!
って言いたいんだなw
母系をたどる研究に普通に使われてますよ
トンデモ科学好きの奥山さんらしくていいねw 2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」という施設は、アリーナに計画を変換すれば良いのではないのかな。。。 >>550
奥山がしれっと平原二世紀説を捨てた瞬間 なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。。。 >>557
炭素年代法が、完全に破綻してしまったからではないのかな。。。 >>483
>纏向遺跡が、なぜ特別史跡や重要文化財に指定されないのか?考えてみようw
いや、まったく、そうだよな。
結局、大和説が足引っ張ってるのよ。
卑弥呼の宮室跡が証明されず、何の跡なのか定められない状態では、さすがの文科省も桜井市も文化財指定できるわけないよな。
はやく卑弥呼の宮室跡説を撤回しろよ。
そうしたら、ヤマト王権、ひいては日本の王権の始源の地という大看板が設置できるのにな。
まあ、卑弥呼の宮室跡説がだんだんとお荷物化しつつあるのは明らか。
桜井市の発展は、卑弥呼の宮室説をやめることにかかってきているな。 >>558
炭素年代法が、完全に破綻してしまった理由となる物事が発見された時、炭素年代法という、おまけで破綻した、くだらない物事ではなく、レベルの高い学部の仮説が破綻したので、
オーマイゴッドという叫び声を上げた者達が居たのだったな。。。 今、奥山氏が、オーマイガットの代わりに、『宇宙やばい』と呟いたのではないのかな。。。 2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」という施設は、アリーナに計画を変換すれば良いのではないのかな。。。 オーマイゴッド、、、とは、どのような物事なのだろうか。。。。 >>554
以前は遺伝情報が多い核DNA解析研究が進んでいなかった
篠田謙一の核ゲノム解析では北部九州弥生人は隔絶して朝鮮人に近かった
青谷上寺地遺跡人骨ではミトコンドリアDNAの解析から
母系は渡来系のハプログループが大多数だったのに対し、
核DNAのY染色体の解析から父系は縄文系が多いという結果だった >>564
ヤハ神のことでしょ、
やは神などを祀ったりしている、していた家なのかな? >>535
乾燥耳垢の多い地域が狗奴国領域を表しているように感じられるのは俺だけ? それにしても・・・何の話なんだろう
泥棒のようなものに入られたのかな、
あの刀(剣?)や本、書などの話w 2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」という施設は、アリーナに計画を変換すれば良いのではないのかな。。。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった理由となる物事が発見された時、邪馬台国畿内説という、おまけで破綻した、くだらない物事ではなく、レベルの高い学部の仮説が破綻したので、
オーマイゴッドという叫び声を上げた者達が居たのだったな。。。 >>568
長崎人から朝鮮人と話している気分だと言われたガジンだけ 魏志倭人伝に記述のある植生を見るとクスノキ科の木が多数記載されています。
■卑弥呼の時代に確実に存在していたクスノキをピックアップすると
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市木宮木の宮神社
樹齢1800年あたり
・確認できず
やはり九州など温暖な地域が浮かび上がります。
基本的に、比定地として確実に名乗ることが許されるのは、この地域のみと言えるでしょう。
畿内は論外です。 当時、家にあったという本や書なども、誰かに、あげたりしたのかな?
とも言っていた
ほんとーにw家の老婆と同じことを言っているし、
謎の川俣町という掲示板 >>574
>長崎人から朝鮮人と話している気分だと言われたガジンだけ
日本語? 本や書など?
現地に住んでいる、酋長のような人物にあげたりしたのかな >>572
邪馬台国畿内説という、おまけで破綻した、くだらない物事ではなく、レベルの高い学部の仮説が破綻してしまった理由となる物事は、オーマイゴッドと命名された可能性もあるのではないのかな。。。 >>298
>糸島は後漢が設置した楽浪系の遺物は出る
辰韓人は楽浪人を阿殘と呼び秦人に似たところがある
秦の武将が建国した南越王墓から径41cmの大型彩画鏡鏡と大型鏡11面が出ている
彩画鏡は世界でも総数35面ほどしかなく、日本で唯一三雲1号墓から出ている <
ふーん。 >>535
これと重ね合わせても近畿は半島遺伝子地帯だね。
縄文人特有のALDH保有率
https://i.imgur.com/wpITaUP.png 同じような話でしょ?
カッパ〜何やらという作品なども >>515
>都市機能があったかどうかの問題なの
飯炊き甕が大量に出ていると何度も教えてるだろ?
纏向に大人口があったのは確実
そしてその大人口を支える食糧供給ができたこと、
一方で農機具の出土が少ないことから、
非農業従事者が数多くいる大人口が集住する
場所だから「都市」だったと想定されているんだよ 印刷が何やら〜・・・、
そういうところの家に婿だったかな嫁に行った人(親戚)もいるとか >>525
>3世紀半ばの時代は九州と畿内の2つの勢力が拮抗していたと考えてもおかしくない。
拮抗していない
北部九州には大古墳がない⇒それだけの動員力がなかった >>311
>成人用甕棺墓は日本ではほぼ西北九州と朝鮮半島南部に分布する
ベトナム中部を中心に分布した鉄器時代の文化であるサーフィン文化は
甕棺墓を主体とする埋葬遺跡が沿岸部の砂丘上や川沿いの平野部、内陸の山間部に立地する<
ふーん。 >>526
はい、敗北の弁いただきましたww
屁理屈だというなら、屁理屈であることを具体的に論証しないと!ww
九州説の言い分は常にきちんと否定されてるだろ?w >>527
>その37枚の内訳はどこを見ればわかるの?
邪馬台国の会のウエブページ
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm のページの
「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」というグラフで、福岡県が37枚になっている
この37枚の内訳は
「表2 弥生時代終末期〜古墳時代初めごろの鏡」から読み取れる >>583
纏向遺跡は人の住まない大集落説について、
・飯炊き甕が大量に出ている
・農機具の出土が少ない
ということは、
↓
非農業従事者が数多くいる大人口が集住する(集住した場所は?)
↓
しかし、
・土木用具が大量に出ている(なぜこれを省く?)
↓
>「都市」だったと想定されている
↑
は?そこがおかしい。 >>588の補足
ちなみに、そのページで平原1号墓の出土鏡の総数が「40枚」となっている
これは、2000年の報告書以前は「39枚」とされていたから、
2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」を参照していることは確実
その上で、この公式報告書の「漢鏡5期の雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡と
漢鏡3期の四螭二朱雀龍虎鏡のの2枚以外は『全て仿製鏡』」というのを
無視しているあたりが典型的なチェリーピッキングで非常に香ばしいww >>527
>仿製鏡が全国で見つかるのは大体4世紀以降だから、
出雲の荒神谷遺跡の大量銅剣埋納と同じ文脈だから、
荒神谷遺跡の年代を参考にすべきだ >>581
酒に強い酵素ALDHは世界の分布だとアジアの稲作地域以外は皆保有率は高い >>550
>しかし畿内説がいうように平原遺跡が2世紀なら、オーパーツになってしまう。
何を言ってるんだか
弥生時代から倭国内で青銅器の鋳造は行われているぞw 2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」という施設は、アリーナに計画を変換すれば良いのではないのかな。。。 >>551
>筑紫、出雲、越が古来の日本人、倭人だな。
つまり、北部九州が倭国というのは間違いであるとww
そして、筑紫、出雲、越から地続きのところも、当然に倭人だよなw >>595
「狗奴国」「倭種の国」も倭人だよ。
何か? キナイコシはレベル低すぎるからレスするなよ。
あまり面白くもないし。 アフリカと地続きのところには、奥山氏が所属する民族が居たのだったな。。。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった理由となる物事が発見された時、邪馬台国畿内説という、おまけで破綻した、くだらない物事ではなく、レベルの高い学部の仮説が破綻したので、
レベルの高い学部の仮説の立場の者達はオーマイゴッドという叫び声を上げ、邪馬台国畿内説もついでに完全に破綻してしまった理由となった、その発見した物事に、オーマイゴッドと命名したのだったな。。。 オーマイゴッド、、、とは、どのような物事なのだろうか。。。。 >>581
酒に弱いALDH2低活性型比率(分解酵素の働きが悪い=下戸)はベトナム、中国南部、日本が高く
他の国は非常に少ない、韓国は中間値なので
九州、東北は韓国や、中国以外の大陸に近く
近畿、中国、北陸は稲作起源地域に近い
https://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_siggDzTf2nf9I3CkaDh1Gw8sag---x320-y320-exp5m-n1/d/iwiz-chie/ans-463110917 >>602
ALDHについては稲作というか食文化との関連だと言いたいのかな?
昔はみんな日本酒を飲んでたとか?w
これは免疫の有無の話。
湿っているのは免疫機構を持っているという事らしい。
逆に乾燥している人はその免疫機構が備わっていないという事。
https://i.imgur.com/PvoQMDN.png >>603
混乱してるのかな
ALDHと耳垢は関係ない 魏志倭人伝の西暦240年代あたりの記述って
日本書紀の崇神紀の前半部分の記述と同じだよ。 >>583
>非農業従事者が数多くいる大人口が集住
その集住したのが大型建物ということだよな?
他に住居跡が見つからないんだから。
どれがドカタ寄宿舎でどれが宮殿なのか明示してくれないか? >>605
100人中100人が「ふぁ?」となることを唐突に言うなよ。 >>328
>簡単な話だ、邪馬台国の卑弥呼が住んだ都は葛城だ。<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、×。 >>330
>畿内は狗奴国
奈良は征伐されて卑弥呼が都を置き邪馬台国に<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。 >>606
3棟しか発見されていないので、確率は三分の一だね。 >>331
素人大和説者も、大和説学者も、完全に、
「南→東」などの嘘付き騙しをしている >>333
いい加減に「南→東」などの嘘付き騙しは、
・・・・詐欺師の大和説の身内にしか通じないインチキだって気付きなよ >>593
青銅器でひとくくりにしたら編年
なんて意味がない。
やっぴり奥山の考古学はインチキ >>585
大きな墓を作るという価値観や場所が九州にはなかった。
そのかわり墓の副葬品や壁画は派手だ。
人口や鉱業なども九州は盛んであった。 >>587
君の意見がただの屁理屈だとして却下されているんだよ。
だから畿内説の敗北だ。 >>559
>桜井市、ヤマト王権始源の地…
一方、御所市は神武の里をPRするけどな。 >>616
あっ、間違った。
神武の里は橿原市だな。 >>591
「同じ文脈」とは何だ?
同じ年代だという根拠は全くない。 >>593
>弥生時代から倭国内で青銅器の鋳造は行われているぞw
大型銅鏡の生産は行われていなかった。
それは少なくとも漢末の混乱期以降のものであり、平原遺跡の鏡は卑弥呼の治世に作られたものであることは明白だ。
早くても3世紀前半だろう。
他に2世紀に大型銅鏡を作ったことが確実な国内の遺跡があったら紹介してくれ。 >>595
>そして、筑紫、出雲、越から地続きのところも、当然に倭人だよなw
バカなのかわざとなのか知らないが、地続きのところにいるのは倭人だが、倭国ではない。
そして問題となる朝鮮半島から畿内への流入は古墳時代の話なんだよ。
それが大和朝廷の成立に影響した。 >>352
>博多湾沿岸は畿内や山陰の影響を強く受けている
東海以東は受けていない<
大和は「南≠東」などで×であるし、
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
筑紫が、「東征毛人五十五國」に強い影響を与えた。
>卑奴母離がいる国が一大率が檢察する諸國 伊都國は別の王がいる従属國<
伊都国は、「世有王」で、「皆(一大率がいて諸国を)統して屬女王國した国」であり、
郡使往來常所駐した国。 >>616
なんで奈良県は市町村ごとに仲が悪いんだ? >つまり卑弥呼は倭人の王であって、倭国王という扱いではないんだよ
倭王が5回、倭女王が3回あるが倭国王という表記はない
魏志倭人伝の「倭國」表記は次の三つしかない
及郡使倭國、倭國亂、奉詔書印綬詣倭國
これらはすべて「倭の国(地域)」という程度の意味で、「倭國という政体」を指すのものではない<
共立女王卑弥呼が遣使を派遣し、明帝が共立女王を親魏倭王に任じ、
その卑弥呼に魏使らが「奉詔書印綬詣倭國」をしたんだから、
明帝が卑弥呼を「倭國の王」と認めたのだ。 >>361
>魏志倭人伝に倭人の風習として書かれているんだから、
そこ「岡山から関東」が、魏志倭人伝のいう倭だろ? <
壱岐には非常に沢山の「ト骨」があったから、
魏使らが「ト骨」を見聞出来たのは一大國であり、
倭人伝のいう倭は、九州付近の話だ。 >>364
>倭人の女王國連合と、倭種と雖も女王に属さないのが
「岡山から関東」 <
「岡山から関東」は、「南≠東」などに拠って、「女王国」も「倭國」も×。 >>373
>倭人の風習が九州にはない<
九州倭國の風習が幾つも、倭種や「訂正毛人五十五國」の地に伝えられた。
>畿内の土器を模倣製作する時代になって2ヶ所のみ<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
庄内も(おそらく第X様式も)筑紫→大和などに伝えられた。 >>374
>外来土器の大半が尾張なんだから、纒向には尾張の人ばかりがたくさん来ていたことになる。
どうしてだろうねえ。<
「市」があり、「市の祭祀建築や大溝」工事があり、大きな墓の工事もあったから。 九州説の人はバカだけれど、工作員としては達成目標を実現している
バカすぎて意味のあることを一切書かないことで、畿内説スレから
まともな議論を駆逐しみんな呆れさせて過疎にするという迷惑が
実現されてしまっている >>597
お前の程度が低すぎてまともな反論ができないってことだろ?
思い付きを書いてもすぐに矛盾を指摘されちゃうしww >>606
>その集住したのが大型建物ということだよな?
大型建物は、集会施設ってのが通常の推定の仕方
庶民や労働者が大型建物に住むなんていう想定は、
まともな知識のある人は思いもしない >>614
>大きな墓を作るという価値観や場所が九州にはなかった。
つ「那珂八幡古墳」ww
どうして、すぐに破綻することを言うかなぁ? >>615
>君の意見がただの屁理屈だとして
屁理屈だ、認めない、というだけで、どこがどう屁理屈なのか(道理に合わないのか)とか
認めない理由・根拠を、一切具体的に言わないのがお前だろ?
本当に無能ww
邪馬台国の会の37枚のインチキだって、きちんと根拠が示されてるだろ?
反論したければ、具体的に論証しなさいw >>620
>バカなのかわざとなのか知らないが、地続きのところにいるのは倭人だが、倭国ではない。
つまり渡海千里を、倭首都倭国の区別に使うのは不合理だと、
これまでの主張から手のひらを返す訳だな?ww
まあ、倭人の国が倭国なんだから、「倭人だが、倭国ではない」が既に間違いなんだがww >>634
集まる人は何処から湧いてくるんだよ?w >>614
>大きな墓を作るという価値観や場所が九州にはなかった
作る場所についてはなんとも言えないが、「大きな墓を作るという価値観」については、北部九州に関してはすでに一つの考え方が示されている。
首長に権威、権力が集中して行き、その結果、首長の墓を大きく作るようになるというのはどこでも同じ。
その権威、権力の集中は、外部勢力との闘争において起こりやすい。
吉野ケ里に墳丘墓が成立するのは、弥生中期の耕作地争奪の闘争によるところが大きかった。
そして、その闘争において勝利するには、この時代すでに鉄器がものを言った。
ところが弥生後期になると、北部九州では鉄器はだぶついていて、権威、権力の集中を促進する価値財にはならなかったというのだ。
その結果、北部九州では弥生後期に大型の墳丘墓はつくられずじまいになった。
一方、鉄器がふんだんにはなく、まだまだ価値財として流通していた中国地方の出雲や吉備などでは、権威、権力の集中に鉄器の分配権が大きな役割を果たし、その分配権を掌握していた首長の墓は一層大型に造られたというもの。
つまり、鉄器がふんだんにあった北部九州では、首長の権威、権力はかえって集中せず、また墓の大型化も起こらなかったというわけだな。 >>634
飯炊き甕が東海産となると、遥々遠方から来ていた人がいたという事だから、宿泊していたはずだよな?
その宿泊場所はどこか特定できていない。
飯炊き甕は大型建物の床下から出土している。
となれば、大型建物が宿じゃないのか?と思われて当たり前だろ。 >>639
権力=武力という時代だったのであれば九州。
武力より財力の時代だったとなればやはり九州。
武力よりも財力よりも○○が頂点だったというのであれば、その○○を物証とともに示せばいいだけだろ?
それを誇大妄想で語るだけで済ませるから妄想だと罵られるんだぞ?
馬鹿か? >>640>>641
ごもっとも。
祭祀の際、何を称えたかといえば戦績じゃないのかな?
つまり士農工商の時代のように武力が頂点だったと言うこと
当然強い王の周りに人々は集まり、居住していたのではないかな? 奥山の脳の大部分が、お花畑に占有されてしまっているので、徒歩で戦場へ出向き、鉄剣で戦った倭国時代を想像することは、無理なのでは、ないのかな。。。 畿内に複数ある三世紀の径百歩の前方後円墳を前に九州説は黙るか暴れるしかないようだな 畿内に複数ある四世紀以降の径百歩の前方後円墳を前に九州説は反応する必要はないのだなw 畿内に複数ある、四世紀以降の桃の種を前に、九州説は横目でテレビを見ながら、ふーんと言っておけば、良いのだな。。。 >>639
追加投入
では、弥生終末期に鉄のない大和に、当時列島最大の墳丘墓がいくつも造られたことは、どう説明するかということになってくる。
これについては、大和に集まった勢力のうち大型墳丘墓を造っていた吉備や山陰、北陸の勢力が勢力連合の証として大型墳丘墓を必要としたということだろう。
鉄器はなかったものの権威、権力の集中が進んでいた尾張では中型の墳丘墓が造られていたため、主要勢力であった大和、尾張、吉備、山陰、北陸が大型墳丘墓を造ることで合意したということだな。
でもって、尾張の前方後方型墳墓をベースとして、吉備の円墳を前方後方型墳墓の後方部に置き換え、新たに前方後円型の墳墓を創出したということになる。
要するに、鉄器がだぶついて、人民の家々にまで鉄器が普及していた北部九州では、鉄器が権威、権力の集中の動機にはならなかったということだよ。
この考えは、さる考古学者の見解だ。 箸墓・後円部の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追葬
4段目…………/ ̄ ̄ ̄神 ̄武 ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ >>647
だからあ、その権威、権力とは具体的に何によるものなのか?とw
偉大だったから墓は大きく造られたというのなら、何が偉大だったのか?とw
漠然と勢力だの偉大な王だのと語ってると奥山と呼ばれるぞw >>633
ここまで畿内説の反論はほぼ棄却されているけどな。 >>634
そうすると纒向には定住人口はほとんどいなかったことになるな。
工事現場にキャンプして煮炊きしていたのかもな。 >>636
根拠を示した気になっているのは君だけで、他の人はそれを根拠とみなしていない。
そろそろその事実に気がつこうな。
世間でも同じで、畿内説の信者は減少の一途を辿る一方だろw >>637
文化的、遺伝的には筑紫から越まで倭国なんだが、中国から見ると代表している筑紫だけが倭なんだよ。
魏志倭人伝では、「その東の方にもまだ倭人がいるらしいよ」という新情報が追加されているわけだ。 >>480
>>鉄製鏃の出土は福岡県、熊本県、大分県の順番になっておりそれ以下の地域の出土数は
極端に少ない、<
>横レスだが、その地域は弥生時代から防人さんの土地だから。<
横レスだが、九州地域は唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、
倭奴國時代から倭國の中心であるが、
大和は、神武らの東征や、「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国の、
旧小国の土地だから。 >>639
>首長に権威、権力が集中して行き、その結果、首長の墓を大きく作るようになるというのはどこでも同じ。
>その権威、権力の集中は、外部勢力との闘争において起こりやすい。
勝手な前提を積み重ねるなよ。
少なくとも九州ではそれほど墓を大きくすることに執着しなかったし、倭国の権力は常に内部の闘争に晒されていた。
卑弥呼と卑弥弓呼のいさかいもそのいい例だろ。
記紀でも倭国内の紛争に明け暮れている様子が描かれている。
特に筑紫では多くの部族が興亡を繰り広げていた。 >>654
>10年以上野宿かよw
土方だから、高級住居である「竪穴式住居」になんか住んでいなかったからね。
「竪穴式住居」に住める人は、上流階級の人たちだけ。 @阿波 >>639
>ところが弥生後期になると、北部九州では鉄器はだぶついていて、権威、権力の集中を促進する価値財にはならなかったというのだ。
>つまり、鉄器がふんだんにあった北部九州では、首長の権威、権力はかえって集中せず、また墓の大型化も起こらなかったというわけだな。
本当にバカだな。
筑紫では鉄は配って威張るような段階ではなくなるが、単に大量消費される便利な戦いの道具になっただけだろ。
それは戦いを加速するんだよ。
他の地域は後進地域だから、大きな墓で喜ぶし、鉄を配れば喜ぶという、未開の地だったわけだ。
倭国の中での筑紫の先進性、王都の成熟した技術力と過酷な朝廷内の争いを示唆している。 >>659
いくら言い張っても、碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い筑紫に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>642
>当然強い王の周りに人々は集まり、居住していたのではないかな?
それはやはり筑紫しかないではないか。
鉄器も動員した激しい闘争を勝ち抜いた筑紫の倭王の庇護のもとに、奴国などの東夷世界で屈指の大集落が出現したわけだ。
纒向には闘争の跡もなければ便利な鉄器もなく、建物の跡すらまばら。
水路一つで都市?
畿内説って、頭の中がお花畑か? >>661
>それはやはり筑紫しかないではないか。
いくら言い張っても、碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>92
>>656
邪馬台国女王・卑弥呼が派遣した伊都国王・神武が、当時、東征将軍だったというこつ? >>647
>要するに、鉄器がだぶついて、人民の家々にまで鉄器が普及していた北部九州では、鉄器が権威、権力の集中の動機にはならなかったということだよ。
>この考えは、さる考古学者の見解だ。
その「学者」は耄碌しているし、その言をそのまま信じた君もバカだな。
鉄器がダブついたらそのままだと戦いが激化するから、より強力な支配体系を創出する必要があるだろ。
権力はより強化されるんだよ。
銃社会のアメリカを見てみなよ。強力な軍隊で統合を維持して高度な社会を維持しているだろ?
それが魏志倭人伝に描かれている、楼閣や柵があり、鉄器で武装した卑弥呼の王城だよ。
鉄器もない、貧弱な柵しかない纒向は西日本の中でもただの田舎だ。
尾張、出雲、吉備、越などが前方後円墳文化を成立させたのはいいとして、そこに次に加えるべきは河内や摂津であり、大和ではない。 >>654
人足をたくさん投入すればもっと短期で終わるだろ。
大型前方後円墳の数からいったら、一つに10年もかけたはずはない。
平行して作る労力があるなら、一気に一つづつ作った方がいい。
多分、移動しながら古墳を作る集団があったのだね。 >>654
>10年以上野宿かよw
土方だから、高級住居である「竪穴式住居」になんか住んでいなかったからね。
「竪穴式住居」に住める人は、上流階級の人たちだけ。 @阿波 >>666
こういう発想が出来るのは、倭国(阿波)だけ! @阿波 >>400
>つまり卑弥呼の時代には葛城が王都だったと分るじゃないか。<
「南≠東」などに拠って、×。 卑弥呼が親魏倭王になったのは、遠方でありながら真面目に朝貢を続けたその誠実さに対する評価だよな。
この末裔であったなら朝貢を途切れさせる訳がない。
旧唐書のような失礼な使者を送り込むなんて事をやらかす訳がない。
やはりヤマトは東の倭種の国だったんだよ。 >>666
纏向はその竪穴式住居すら乏しいんだから全員野宿だったんだろうよ。
奥山の脳内ではw >>565
それ韓国人は縄文人と大陸人との混血だから
日本から渡った縄文人が韓国人の祖先という話だろ。
大丈夫? >>663
そういうことやよ。
天照大神は伊都国の平原女王のこと。誓約で子供を作った弟スサノオとは不弥国(宗像)王。
記紀は、卑弥呼が伊都国王・神武を東征将軍として派遣したのに、卑弥呼を消して、平原女王が孫の神武を派遣したことにしたんやよ。 >>673
妄想は楽しいかい? わははははは @阿波 日本の歴史は倭国王帥升の生口160人、
卑弥呼墓の奴婢100人余りなど、
奴婢の記述から始まる。
纏向も福岡も3世紀以前の奴婢郷の説明ができない。
纏向は五色の賤の陵戸、福岡は白村江の移配俘囚が差別問題100のルーツであり、
3世紀以前にはさかのぼらない。
日本で唯一、王都と太古の俘囚の説明ができるのは葛城だけ。
すなわち、差別問題から見ても邪馬台国は葛城なのだ。 × 差別問題100のルーツ
〇 差別問題のルーツ
なんでこうなる? >>408
>だつて、九州説の学者なんてとっくに居なくなってるものww<
その「学者」とは、
大学や公的組織や教育委員会などの、「南→東」などの嘘付き騙しで、
国民らの7割や、中国学者や世界の科学者らから否定された、
・・・・アホ大和都学者だろ?。
大学を定年退職されたお方が、大和説から九州説に転向された話も何人かあった。
という事は、日本の学者の中でも、7割位は九州説であったらしい、という事だな。 >>663
神武「東征」だけど、実態は都落ちだよね。
神武の逃亡後の混乱を収めるために卑弥呼が共立されたと見ることもできる。 >>672
じゃあ、纒向には何棟の竪穴式住居があった? >>681
はいどうぞ。
桜井市纏向学センター
纏向遺跡ってどんな遺跡?
北飛塚地区の住居跡(桜井市大字太田)
纏向遺跡では竪穴式住居跡の検出例がほとんど無く、纏向遺跡第112・137・138次調査で確認されている程度です。
纏向遺跡第59次調査北飛塚地区検出の住居跡は庄内3期式(3世紀中頃)に構築された一辺5mの方形の竪穴で、10cm程度の浅い掘り込みを有しています。
竪穴内には4本の主柱穴と2本の補助柱穴がありますが、炉跡や周壁溝がない事や補助柱穴を持つ事などは通常の住居跡とは異なる点であり、竪穴式住居ではなく、
掘り込み地業をともなった平屋、あるいは高屋の建物遺構とする見方もあります。 だって。 @阿波
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html >>673
なるほど。
よく天照大神=卑弥呼、と誤解されるけど、実際には天照大神=伊都国・平原女王だったんだね。
伊都国王家(現天皇家)としては、邪馬台国女王卑弥呼の東征将軍に過ぎなかった史実を、書き換えておきたいところだろうからね。 >>673
いろいろ気になる点も多いけど、不弥国が宗像は合点がいくな。
伊都国に駐在した郡使が最大国邑の奴国を見物に行くのはわかるけど、不弥国に足を伸ばした理由がよくわからなかったんだ。
香椎かもと考えていたが、時代に疑問があった。
宗像か。
なるほど。 >>684
妄想は楽しいかい? わははははは @阿波 頭の悪い奥山は、心拍数が200を超えているが、呼吸数が3回に激減しているのでは、ないのかな。。。
(単位:分速) 神武天皇の諱(いみな)がヒコホホデミで、そのヒコホホデミの筑紫での宮が伊都(糸島市)の高祖神社。
その祖先の宮が金印を保管していたという口伝がある細石神社で、祭神は木花佐久夜毘売。 もう畿内説に残された兵は、
熱病のようにヤマタイ→ヤマトゥ→ヤマト
を呟く馬鹿か奥山みたいな詐欺師しかいないのであった。 >>638
>集まる人は何処から湧いてくるんだよ?w
さまざまな地域の土器が出土するから、さまざまな地域から集まったということだ
つまりそれだけ広範囲に、影響を及ぼす人物がその大型建物を運営していたことになる
普通はそれを倭王と呼ぶのだがなw >>432
>>倭国はあくまでも九州北部だけだよ。<
>でも、北部九州からは卜骨が出ないんだよね
壱岐では出て、北部九州が倭国のメインランドなら、卜骨は壱岐の風俗とされ倭人の風俗とはならない
こんなところからも北部九州が倭国という戯れ事が通らないことが分かる<
北部九州は、卑弥呼の都があるから、「卑弥呼の鬼道」の御政道であり、
「ト骨」のような邪教は、お咎めを受ける可能性が高かったから、
流行らなかったの。 >>639
>吉野ケ里に墳丘墓が成立するのは、弥生中期の耕作地争奪の闘争によるところが大きかった。
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓は弥生後期の地域首長墓として、
他地域と比べて遜色ない大きさを示す
しかし、その後大きな墓を作れるだけの権力を持つ人物が北部九州には不在になる訳だ
これをもって、北部九州の凋落と見るのが普通の見解
北部九州は弥生終末期に至るまでに、倭国内での相対的な地位が低下没落していく >>640
>飯炊き甕が東海産となると、遥々遠方から来ていた人がいたという事だから、宿泊していたはずだよな?
東海よりも東方から来る場合には東海で泊まるし、そこから畿内に向かうときは
東海で道中の飯炊き用の甕を入手して先へ進むことになる
東海・伊勢の土器が多いのは、こんな単純な理由なんだよ >>641
>権力=武力という時代だったのであれば九州。
>武力より財力の時代だったとなればやはり九州。
武力より宗教的権威となったから、事鬼道、能惑衆と書かれた卑弥呼が
倭王に共立されたんだよ
武力でも財力でもないから、九州じゃないなww >>673
「スサノオSuSanoo=帥升SuiSyou」説がある(∵子音がSS)けど、
それが正しいとすると、(帯方郡使の案内で来倭した)魏使が訪問した北部九州4カ国(末盧国・伊都国・奴国・不弥国)の内、
玄関港の末盧国と帯方郡常駐の伊都国を除く、(漢委奴国王)奴国と不弥国(帥升=スサノオ)は、筑紫邪馬台国の前に、かつての倭王家への表敬訪問だった可能性があるね。 >>647
>では、弥生終末期に鉄のない大和に、
これが、九州説の古代史の分かっていないところ
倭国には青銅器時代がない
金属器が青銅器しかない状態の時期がない
倭国には、青銅器と鉄器が同時にもたらされたため、
金属器時代=鉄器時代となり、それと水田耕作がセットになったものが弥生社会だ
鉄器と青銅器が同時にもたらされたため、実用器には鉄が使われ祭祀用金属器には
青銅が使われるという用途別の使い分けが最初からなされている
弥生社会は鉄器を伴うものであり、鉄器がないから云々というのは最初から見当違い >>694
その妄想に整合性をもたせるために
平原王墓は2世紀だと、しきりに自分に言い聞かせ奥山であった。 >>649
>だからあ、その権威、権力とは具体的に何によるものなのか?
先にも書いたように、宗教的権威であり祭祀の主催者としての地位だよ
吉備の楯築墳丘墓でも、出雲の西谷墳墓群でも、
巨大墳丘墓がそのまま祭祀の場であったことが特殊器台等の出土遺物から判断できる
先代の首長の葬送祭祀を主催することが次代の首長の権威を保証するのものであり、
墳墓祭祀の場が新首長のお披露目の場であり外交の舞台となる
したがって、最大の墳丘墓を作る主体が、最大の権威を持ち、最大の外交圏を
持つことになる
だからこそ、巨大墳丘墓はそれぞれの権力中心の近くに造営されなければならない訳だ
人もいないところに大墳墓を作ることだけが目的の古墳造営基地があったなどというのは
頭のおかしい人の発想でしかない >>651
>ここまで畿内説の反論はほぼ棄却されているけどな。
具体的な根拠を示した論証抜きに「棄却されている」という文字列を
並べても無意味だと何度言えばw
邪馬台国の会の福岡県37枚がインチキだってのは、具体的に示されたから
反論一つできなくなってダンマリになっただろ?
棄却されているというのはこういう状態だww >>688
妄想は楽しいかい? わははははは @阿波 >>702
平原が3世紀から4世紀だと立証されてから
ダンマリな状態もそれにあたる。 >>652
>そうすると纒向には定住人口はほとんどいなかったことになるな。
ならないよ
大量の飯炊き甕という生活の直接証拠と、大墳丘墓という大人口による労力の所産が
きちんと確認できるから、そこに大人口があったのは確実
「住居がなかった」のではなく「住居跡が確認できていない」というのが正しい なんか、藁をも掴む思いで鏡の枚数を心のよりどころにしているキナイコシという死に体が一体いるなw >>695
>東海・伊勢の土器が多いのは、こんな単純な理由なんだよ
千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式土器とは、厚さ2〜3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には
細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている
桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で
「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で
脚光を浴びている」とされている
大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では
「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川
周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」
阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている
ってさ @阿波
補足。
その圧倒的に多い阿波系土器 以外の土器についても、それも「東阿波型土器」様式土器であることを付加えておく。 @阿波 >>655
>「その東の方にもまだ倭人がいるらしいよ」
ほらまたごまかしている
お前さんの御説では、渡海千里がまったく説明できなくなっているのを
渡海の文字を落とすことでごまかしているww
最初から渡海千里皆倭種、は列島内の海峡を越えた先も
みんな同じ倭人が住んでいるというだけの意味 >>706
>「住居がなかった」のではなく「住居跡が確認できていない」というのが正しい
土方だから、高級住居である「竪穴式住居」になんか住んでいなかったからね。 @阿波
「竪穴式住居」に住める人は、上流階級の人たちだけ。 @阿波 >>706
現状を言い換えると、
纒向に大量の日雇いホームレスが集まっていた。
となるわけよ。
歩いて通える範囲に大量の住居跡などが見つかっらない限り、それが現実。 >>706
そこらへん適当に掘っても弥生遺跡がでてくる北部九州とくらべるのは酷だよな。 >>706
>「住居がなかった」のではなく「住居跡が確認できていない」というのが正しい
土方だから、高級住居である「竪穴式住居」になんか住んでいなかったからね。 @阿波
「竪穴式住居」に住める人は、上流階級の人たちだけ。 @阿波 >>683
>よく天照大神=卑弥呼、と誤解されるけど、実際には天照大神=伊都国・平原女王だったんだね。
それ、お鏡さんのトンデモ説ww
平原1号墓は、吉野ヶ里の北墳丘墓と同じ葬送文化圏の、吉野ヶ里と比べて数段落ちる小物の
地方有力者の墓に過ぎない
https://i.imgur.com/TV2qJ6M.jpg
墳丘墓ー大柱ー小型建物のセットを直線状に配置する同じ祭祀圏にあることが確実で
並べてみると分かるように、墳丘サイズで10分の1程度しかない小さな墓が平原1号墓だ >>715
平原"王墓"て畿内説学者も認めてるのに
小物扱い。
ひたすら平原を恐れる奥山さんw 鉄器と稲作がセットで弥生ってかw
畿内説の自爆自演かよ?w
稲刈り道具らしきものとして石包丁しか出ない遺跡は縄文遺跡なのか?w >>705
>平原が3世紀から4世紀だと立証されてから
立証されてないww
そのご説の頼りの綱の耳璫の特殊な形状もあてにならないのは何度も示している
魏晋代に特徴的な形状(括れを持つ)とされるもの
https://i.imgur.com/9fPQIH2.jpg
平原1号墓出土品(左端の赤いもの、括れているかどうか不分明)
https://i.imgur.com/3euWsnf.jpg
後漢代の括れた耳璫(魏晋代に特徴的な形状に対する決定的な反証)
https://i.imgur.com/FfoUxho.jpg
平原1号墓に関して、2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」で
2世紀末とされており、それを覆すべき理由も論証もない >>716
調べたけど、そのような印象はもたない。
あなただけの印象だよ。
誇っていい。 >>434
>卜骨占いは東アジアで広く共通した文化。
亀の甲羅を使うのも同様。
天皇は亀の甲羅を使ってたな<
ふーん。 >>717
>平原"王墓"て
ここでいう「王墓」はローカル首長墓のことだ
西谷9号墓は出雲の弥生王墓、というような使い方をする >>719
このスレでは平原の仿製鏡の話しかででなくね?
その話すれば? 頭の悪い奥山が、「銅矛/銅鐸文化圏」を真似て、新たに「鉄/青銅文化圏」を、脳回路を通さずに、発表してしまったのでは、ないのかな。。。 >>722
>ここでいう「王墓」はローカル首長墓のことだ
ここでいう「王墓」はローカル「忌部はん」 首長墓のことだ。 @阿波 >>720
ウィキペディアの「青銅器時代」という項目にも
「 日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったと言われており、
青銅器は祭器としてのみ利用され、青銅器時代を経ずにそのまま
鉄器時代に移行したと考えられている。」って普通に書いてある
古代史でも、九州説の頭のおかしい人がへんな編集をしていないページは
ウイキペディアでも普通の常識が書いてある訳だ >>698
>弥生社会は鉄器を伴うものであり、鉄器がないから云々というのは最初から見当違い
よく分からん論理だが、例えば日本国のある離れ小島でステンレスで造られた生活用具が一切なしで生活が行われていたと仮定した場合、この離れ小島はステンレス時代を過ごしていたと言えるか。
答えは簡単明瞭で、日本のステンレス社会の中で、この離れ小島だけはステンレス社会ではなかったということになる。
同じ時空の中にあっても、社会の各部分にはそれぞれに異なることがあるのよ。
で、鉄器時代の列島の中で、大和、尾張、東海と関東、東北の列島の半分に当たる広範囲で3世紀中頃まで鉄器を日常生活でほとんど使用していず、鉄器が日常的に使われる社会ではなかったというのは、ごく当たり前のこと。
先の離れ小島の拡大版といえる。
しかし、いやそうではないというのであれば、この広範囲の地方の3世紀中頃までの鉄器出土量を挙げてみるべきだ。
日常的に鉄器のほとんどない社会だったことがすぐ分かる。 >>435
>>畿内説は印象操作による空想。 詐欺だな。<
>証拠でもあるの? なきゃ中傷だな 九州説汚いね <
「ト骨」の一件もそうだし、
「南→東」などの嘘付き騙しもそうだな。
だから、大和説者がまた証拠が無いかのように世間の人々を騙そうとした。
大和説は、皆汚いねえ。 >>728
>青銅器は祭器としてのみ利用され
むしろ銅剣など実用品が大量に出土してる考古学的事実は無視か? >>728
"伝わった"と"実用できるほど豊富にあった"は
ちがう。
実用できる程の鉄器がなかったのが畿内だという印象をもった。 >>722
墓のデカさだけで副葬品を比較しないのも
意味不明。 >>651
九州説の勝手で棄却されてもふーんて感じ >>721
>天皇は亀の甲羅を使ってた
今の天皇は纒向に住んでいたト骨派の誰かの末裔では無いということは確定だね。
土方じゃなくてよかったよかった。 >>733
墓がデカイだけの畿内を馬鹿にしてるのかコラ 鉄器より前の時代の小銅鐸の鋳型が佐賀で見つかってたね。
鉄と祭祀用の青銅が同時期に伝わったという作り話は、もしや畿内説の印象操作かも?w 卑弥呼の3世紀にでかい墓がありゃそこが女王卑弥呼のいた場所だろ
九州説はこんな簡単な事も理解できないの 藁をも掴む思いで、つかんだ藁を手放し、墓の大きさという藁に、持ち替えたのだな。。。 >>738
九州からはるか離れた魏使の来ないところに、どんなデカイ墓作っても魏使は気付きませんよ(小声) >>740
卑弥呼の墓は前方後円墳の魏尺での大きさそのものズバリ
径百歩と書いてあるんだよなあ 派手さ、デカさで威厳を示すのは縄文文化の名残りです。 3世紀当時の最大規模の墳墓群がある畿内が女王国であり邪馬台国
以上 >>742
畿内の前方後円墳は100m規模=径百歩
魏志倭人伝にそう書いちゃっているんだもの ヒューストンには、ロケットの打ち上げ場が、あるのだれろうか、、、 三角縁神獣鏡
前方後円墳
技師亜w人伝に邪馬台国の位置が沖縄辺りの会稽東治の東
九州説はどうすんの >>728
このウィキペディア「青銅器時代」の書き手の「時代」の認識はへんだ。
青銅器を祭器としてのみ利用したとしても、その社会が青銅器によって運営される点があれば、その社会は青銅器を利用する社会であり、その時代は青銅器の時代である。
同様に、鉄器を祭器及び日常生活の利器として用いていれば、その社会は鉄器利用社会であり、鉄器の時代だということができる。
この青銅器と鉄器が弥生前期末頃に九州などにもたらされて、社会で活用されたのは多数の学者が認めること。
とすれば、九州など列島の一部において、青銅器、鉄器併用時代が弥生前期末に始まったとするのが正論。
ウィキペディアのような、列島において「青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行した」との認識は、まことにへんだというほかない。 >>747
ヒューストンには、ロケットの打ち上げ場が、あるのだれろうか、、、
という文章は、
ヒューストンには、ロケットの打ち上げ場が、あるのだろうか、、、
とタイピングしたかったのでは、ないのかな。 顔の悪い奥山が、窒息してしまったので、同情したBBAが、意味のない発言を、始めたのだな。。。 ヒューストンには、ロケットの打ち上げ場が、あるのだろうか、、、 九州説は負けてるからって畿内説スレを荒らさないで欲しいものだな ヒューストンには、ヒューストン.ロケッツというチームが、あるのだったな。。。 ヒューストン.ロケッツというチームは、強いのだったな。 >>444
>平原遺跡 福岡県 方格規矩四神鏡 ●32 ←これがインチキ <
別にインチキという程でもない。
21枚の「尚方作」方格規矩鏡は間違いなく明帝鏡が元になっていて、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であるし、
残りも呉系楽浪鏡師らの関与があった事には違いない。
>平原1号墓出土の40枚(分)の鏡片のうち、38枚は2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」で
仿製鏡とされている<
こりゃダメだ。「前原市文化財報告書」では、官公庁関係ではないか。
それじゃ、始めから「大和説ありき」という結論先にありき人種であり、
そんな「南→東」などの嘘付き騙しの大和説人種の「報告書」なんて、
大和説に都合が良いような報告をするのが当たり前であり、何の価値もない。
>倭国で一時に大量生産した仿製鏡を舶載鏡(十種の魏晋鏡)として数えるのはインチキ以外の何物でもない<
平原の鏡は、おそらく壹與の墓であるから、卑弥呼からの相続であり、
だから元は明帝下賜鏡であり、魏鏡だ。 ヒューストンには、ロケットの打ち上げ場が、あるのだろうか、、、 >>725
ちょっとググれば、簡単に見つかる情報すら目にすることなく
「きちんと調べた」とかしれっと書き込むから恥をかき続けることになるんだよw
まったく調べずに、ただ否定の文字を並べてるだけだろ?ww
情報リテラシーが低すぎで、結果として常識知らずの情弱でしかない
九州説の「調べた」は、「邪馬台国の会」とか「邪馬台国大研究」とかの、
九州説の内輪のブログやポジショントークを見て回るだけww
歴史の流れという概念がないし、世界史の中の位置づけなんかも無視して
チェリーピッキングしているから、でたらめトンデモ説以上のことが言えない >>744
倭人伝の数値は全て十分の1にすれば正しくなる。陳寿が司馬懿に忖度して全て十倍で書いてるんだって。そうすれば距離も北部九州に収まるんだって。万二千里とか径百歩とかおかしいと思ってたんだよ。 >>744
あれれ、今度は後円部だけじゃくて、前方後円部全体の話になったのかね。
なんだかね、話がごちゃごちゃしてくるね。 >>750
この記事は流石に間違いというしかないね。 都合悪くなるとすぐ荒らすから九州説の現状が周りにバレる >>759
"伝わった"と"実用できるほど豊富にあった"は
ちがう。
実用できる程の鉄器がなかったのが畿内だという印象をもった。 八村塁氏達は、ホワイトハウスというハウスの近くで、ヒューストン.ロケッツという強いチームを、叩き潰すことが出来るのだろうか、、、 ヒューストンには、ロケットの打ち上げ場が、あるのだろうか、、、 >>731
>むしろ銅剣など実用品が
これが既に間違い
銅剣は、祭祀具だ
出土した銅剣で、刃が研ぎだされているものは事実上ない
出雲の荒神谷遺跡でそれまでの出土量を一気に超える大量の銅剣が出土したが、
すべて非実用品だ
大量埋納することを目的に、一時に全数が鋳造されたと考えられている
「剣」という文字の印象だけで書きこんでいるのが丸分かり >ちょっとググれば、簡単に見つかる情報すら
と言って滅多に見かけない勘違いWIKIを的確に探し当てる畿内説はもはや宗教w>>759 >>732
>印象をもった。
個人の主観ですねwwwwww
何の根拠にもなりませんwwwww >>760
卑弥呼の墓の大きさも忖度したの?
一説には曹操の墓より大きくなってるそうだが
つまり忖度などされておらず
径百歩は本当
>>761
ゴチャゴチャなのはお前の頭
円墳部だろうが全長だろうが魏の径百歩に相当する墓は無数にあるというだけの話 オーマイゴッド、、、とは、どのような物事なのだろうか。。。。 >>768
出雲で出土した銅剣は量からして工場の在庫だろ。 >>558
炭素年代法が、完全に破綻してしまった理由となる物事が発見された時、炭素年代法という、おまけで破綻した、くだらない物事ではなく、レベルの高い学部の仮説が破綻したので、
オーマイゴッドという叫び声を上げた者達が居たのだったな。。。 >>759
物の流通経路も限られていた時代に
どうやって畿内が鉄を手に入れるの?
amazonポチったら手に入ると思ってるのかな? >>733
>墓のデカさだけで副葬品を比較しないのも
副葬品で比べたら、平原1号墓は銅鏡の数以外では丹波の地域王墓に負けてる
銅鏡の数では、ヤマトの桜井茶臼山古墳に負けてる
青銅器という括りで見れば、出雲の荒神谷遺跡に圧倒的に負けてる
平原1号墓しか候補になりそうなものがないから、必死なのは分かるけれど、
吉野ヶ里北墳丘墓の被葬者と比べて小物なのは明白であり、北部九州の
相対的な凋落の象徴でしかない ヒューストンには、ロケットの打ち上げ場が、あるのだろうか、、、 >>775
北部九州でやってた土器コンテストで入賞したら鉄が貰えたんだろう。 >>771
したらしいよ。
倭人伝が書かれた時代は晋王朝だから曹操に
忖度なんかしない >>737
>もしや畿内説の印象操作かも?w
印象操作「かも?」www
個人の感想ですねww
鉄器と青銅器がほぼ同時に伝来し、青銅器時代がなかったというのは
古代史をきちんと研究している人にとっては「常識」に属することだ
それすら知らないというのは、九州説の知識が「九州説の内輪の話題」から
一歩も出ない、独りよがりのものでしかないことを端的に示している 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった理由となる物事が発見された時、邪馬台国畿内説という、おまけで破綻した、くだらない物事ではなく、レベルの高い学部の仮説が破綻したので、
レベルの高い学部の仮説の立場の者達はオーマイゴッドという叫び声を上げ、邪馬台国畿内説もついでに完全に破綻してしまった理由となった、その発見した物事に、オーマイゴッドと命名したのだったな。。。 >>779
寿命31億年という論文が発表され、日本で検証したが崩壊は確認されなかった。 >>781
鉄器より前の時代の小銅鐸の鋳型が佐賀で見つかってたね。と書いてあるが?w >>740
>九州からはるか離れた
ここまでは正しいが
>魏使の来ないところに、
これが間違いww
はるか離れたところまで魏使さんはきちんと行ったから
南至投馬國、水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月
という、「はるか遠くまでの道里」がきちんと略載されているんだよww
水行十日で帯方郡から北部九州まで来られないってのは、つい最近にも確認されたしww BBAもキナイコシも全然面白くないな。
IQが低いんだな。。。 >>743
>最大規模の墳墓群がある畿内が女王国であり
これだから、文科省が桜井市に補助金渋るようになったのだろうなぁ。 >>789
そら3世紀の当時最大規模の古墳群があるところだからな
普通に遺跡保護の補助金とか出るだろ
九州は出ないの >>786
天候や宴での足止めを考えたらソウルから北部九州までの日数はそんなものだろ。
距離も九州までで一万里だろ? 揶揄い、笑い、リラックスすることに活用すれば良いのではないのかな。。
788日本@名無史さん2019/10/30(水) 20:34:27.50
BBAもキナイコシも全然面白くないな。
IQが低いんだな。。。 >>787
中国人が陳寿の置かれた立場を考えたら、
司馬懿に忖度したとしかかんがえられないって。
奥山さんも真面目な顔して"径百歩の墓"が
とか言ってたら笑われるかもしれないから
気を付けて! >>743
>最大規模の墳墓群がある畿内が女王国であり
邪馬台国は畿内なのだが、3世紀の纏向古墳群は王墓なのかという問題がある。
王族の墓としては数が少なすぎる。
3世紀の纏向古墳群の被葬者自体が王族の臣下であったからだろう。 >>793
中国の陳寿が何で卑弥呼に忖度して径百歩と書いたの
>>794
数多くあったらそれこそ臣下の墓だろ 学説的にはもう負けで決着のついた九州説は
あとは細々と掲示板を荒らすのみ スレ荒らし九州説の雇い主も金の使い方に疑問を感じないもんなのかね >>795
>数多くあったらそれこそ臣下の墓だろ
意味が分からない。
卑弥呼のオトンオカン、トヨのオトンオカン、オジンオバンの墓がない。
西都原のように前方後円墳を王とすれば円墳にあたる親族墓がない。 顔の悪い奥山は、頭の病気の薬を、飲むのを忘れてしまい、被害妄想発言を、発してしまったのでは、ないのかな。。。 >>539
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
ばかを晒しにやって来て
毎日恥かいて帰るスレは
ここですか 荒らしの九州説もとっくに勝てない九州説の擁護して延々嘘ついては畿内説に突っ込まれて
自分の人生に疑問を感じないのかなあ > 大量埋納することを目的に、一時に全数が鋳造されたと考えられている
都合のいい妄想ばかりだな。
畿内説の底の浅さに情けなくなる。
急いで作ったが歯入れをする前に武装解除させられただけだろ。 >>798
例えばピラミッドてそんじょの墓より沢山ある? >>795
司馬懿に忖度って何度も書いてるよ。
倭国の朝貢を可能にしたのは東夷方面司令官の
司馬懿(晋王朝開祖)が帯方公孫氏を滅ぼしたおかげだからね。
半島内も距離とか十倍でかかれてるよね。 >>781
>古代史をきちんと研究している人にとっては
いやいや、このウィキの書き手は利器の製作の変遷として、まず石器、それから青銅器、そして鉄器へと利器製作の変化の時代区分をしており、
だいたい世界では石器使用時代、青銅器利用時代、鉄器利用時代と変遷しているとの前提に立っている。
そこで、日本のように青銅器と鉄器が同時にもたらされたところでは、“定義上”青銅器時代を経ずに、石器時代から鉄器時代へ移動したと時代区分しているわけ。
なので、青銅器と鉄器がほぼ同時にもたらされた日本は「青銅器利用時代」を経てから「鉄器利用時代」に入ったということにはならず、
時代区分として鉄器時代に先行する青銅器時代はなかったと言っているわけだね。
決して、日本には青銅器を利用した時代がなかったと言っているものではない。
日本の場合は、青銅器・鉄器併用時代が弥生前期末から始まった、とするのが誤解のない表現だろう。
まあ、そういうことだ。 >>804
王がピラミッドを王墓に利用しただけでピラミッド自体が墓ではないので例証にならない。 >>790
>普通に遺跡保護の補助金とか出るだろう
卑弥呼の里ガイダンス施設の補助金、文科省が渋ったのと違うん? >>807
それくらいの人物を従わせたってことかな? 畿内説は死んだ もはや死骸に群がる蛆虫が徘徊しているだけ
一言、見苦しい。いつまで考古学を侮辱する気だ >>585
>>3世紀半ばの時代は九州と畿内の2つの勢力が拮抗していたと考えてもおかしくない。<
>拮抗していない 北部九州には大古墳がない⇒それだけの動員力がなかった<
拮抗していない。
大和は、北部九州の倭国の「東征毛人五十五國」の中の旧小国であり、
東征将軍らが在地民を墓守り人にして働かせたので、巨大古墳になった。 >>813
考古学だけじゃなくて学問全般を侮辱してるのは九州説なんだけどねえ
九州説はそういう事書いてて虚しくならないの >>587
はい、敗北の弁いただきました
「南→東」だというなら、「南が東」であることを具体的に論証しないと!
大和説の言い分は常にきちんと否定されてるだろ? 邪馬台国とは倭人伝に出てくる用語である
その倭人伝を一切合切否定して邪馬台国の名を
窃盗しようとしているのが畿内説である >>812
例え卑弥呼の墓が径十歩だとしても
その規模の墓はそれこそ畿内にゴマンとある
そして九州にはない径百歩と書いてある通りの墓もある
九州に卑弥呼の墓のある確率は壊滅的 九州説は偉そうな事言う前に畿内説スレに妨害の書き込みは止めて
自分達のスレで議論するようにしたらどうかな >>771
>円墳部だろうが全長だろうが魏の径百歩に相当する墓は
卑弥呼の墓は後円部のみの箸墓なのか、石塚みたいに全長なのが卑弥呼の墓なのか、
まあ、卑弥呼の墓は九州だけどね。 清水眞一
私は20年間、大和の中央部・桜井市で、「邪馬台国は何処(いずこ)」
とのテーマを持って、発掘調査に従事してきた。その結果として、
邪馬台国が成立して、女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、
大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐古・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上曽根遺跡や田能遺跡
などと比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に100メートル以上もの
巨大古墳が、なぜ突如として築造されるのか。
これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと考えざるを得ない状況であるとみた。
では、誰が何処からきたのか? 考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 批判者には一分の理がある
謙虚に耳を傾けてはどうか
疑義があるとの声に耳をふさいでいては
学問とは呼べないのではなかろうか >>823
残念だけど欺瞞をぶっ壊されてるのは九州説のようだけど 纏向遺跡は一体何なのか???
日本史板で結論が出ました↓
1、突然現れ、纏向古墳群ともに終焉を迎える
2、わずかであるが、15%が搬入土器であり近隣の出稼ぎ労働者がいたと思われる
3、生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な水路(環濠では無く)が築かれ大 運搬用の水路と畿内説の学者も認知
4、集落跡が未だ未発見・・巫女千人??
5、斎場(死者を敬う祭場でも、神社でもいいだろう)と見られる掘立柱建物がある。・・強固でなく付け焼刃の建物(柱穴跡は細く、石や砂利で固めた 形跡無し)
6、鉄鏃無し・・兵は少ない???
7、近隣に古墳多し
8、番場であろう煮炊きした炭化物の土器出土
9、葬儀や祭事に欠かせなかっただろう桃の形跡在り
よって、纏向は古墳造営基地局と言える >>825
もうとっくに邪馬台国論争は畿内で決着がついて学者間では争いがない定説だ
つまり邪馬台国は九州だの四国だの言い出した時点でカン違いか妄想という事の学問的な証明
邪馬台国が畿内から動くことはないからね あっ!ありました。
邪 馬 台 国 へ よ う こ そ
■廣志逸文の記述
廣志曰く、倭國東南陸行五百里、
到る伊都國、又南、至る邪馬嘉(臺)国。
https://i.imgur.com/bmslFbs.png
■アクセス
伊都国の南 徒歩すぐ 欺瞞を覆い隠そうとする畿内説側のあらゆる工作に対して
私は断固として戦います。 倭人は韓国で鉄を採っていた=倭国は鉄文化の浸透した範囲。
<魏志韓伝より>
「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
(韓国は鉄が出るので、韓国、?国、倭国がこれを採っている。
諸の市で買い物をするときは中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪と帯方の二郡にも鉄を供給している。)
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係
・倭国として認識された範囲に畿内は入ってなかった
■裏付け
・纏向遺跡では鉄器は出土せず、釘一本すら見つかっていない
・纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない
・もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
(畿内説の有名な迷言) >>831
九州説がとうとう実在しない何かと戦いを始めたようです オーマイゴッド、、、とは、どのような物事なのだろうか。。。。 もうとっくに邪馬台国論争は九州で決着がついて国民の間では争いがない定説だ
つまり邪馬台国は畿内だの四国だの言い出した時点でカン違いか妄想という事の学問的な証明
邪馬台国が九州から動くことはないからね >>832
纒向には鍛冶の遺跡があるのに
おかしな夢を見てる九州説 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった理由となる物事が発見された時、邪馬台国畿内説という、おまけで破綻した、くだらない物事ではなく、レベルの高い学部の仮説が破綻したので、
レベルの高い学部の仮説の立場の者達はオーマイゴッドという叫び声を上げ、邪馬台国畿内説もついでに完全に破綻してしまった理由となった、その発見した物事に、オーマイゴッドと命名したのだったな。。。 >>829
造反の狼煙が5chでくすぶっているのを見ながら
まだ予定調和で動く学会だけを妄信する情けなさ >>818
だからこそ副葬品が大事なんだよ。
これは倭王の墓ですよということを証明する三種の神器や漢の皇帝から与えられた璧など。
それらは伊都国に集中的に出土する。 >>837
碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い九州や畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 なにを考えているんだか。 @阿波 >>781
>古代史をきちんと研究している人にとっては
キナイコシは理系を自称しているから違うだろ?
自分のことを棚に上げて何言っているんだ? >>841
全部邪馬台国と関係ないんだよなあ
学術的に邪馬台国の関連が認められるのは三角縁神獣鏡もしくは画文帯神獣鏡のみ >>831
んで、その欺瞞とは何だか具体的に言えない九州説さんは
奇妙な人々 >>833
様々な優れた学部の若者達を、毎年、次々に雇用してきているNHKが、高校生達に向けた教員番組で、発表していましたね。。。 畿内説がダメなのは捏造体質の学界の権威を盲信しているところ
まるで象牙の塔に憧憬を抱いている中卒のそれだよ >>807
里が短いなら歩も短くないと、単位系としてまずいだろ。
歩が26センチ(自分の大きさが基準ですまんね)なら、ちょうど平原遺跡くらいの大きさが径100歩。 今どき学会が捏造だらけなんて言っても誰も耳を貸さないよ
ノーベル賞も沢山貰ってるし 儒者はとにかく働かない
働くことは程度の低い者のすることという認識をもって
毎日怠けてばかりいる
まるで畿内説だな >>849
1尺が24cmの魏の古尺が見つかっているんだけど
そして1歩は6尺 4世紀、5世紀には百舌鳥・古市古墳群にみられるように、
大王墓とその親族の複数の墓がある。
ところが3世紀の纏向古墳群にはそれがない。
何故だろう?
3世紀の纏向古墳群は大王墓ではなかったからだ。 >>851
朝鮮儒教脳者は歴史修正主義
どころか最近はさらに悪化した事実修正主義
九州説そのものだな 邪馬台国畿内説が拠り所としてきた、日本の文学の分野も、邪馬台国畿内説が拠り所としてきた韓国の、どの学部も、またノーベル賞を獲得出来なかったな。 畿内説は倭人伝を完全に放棄した
倭人伝の行程論争をしても勝ち目がないと見切りをつけたからだ
だが、邪馬台国の称号はほしい
そこで手を出したのが考古学による捏造
ついにやってしまったかと思わず声が出た
まるで満州利権を確保したいがために柳条湖事件を
自作自演した旧軍のように反省もせず
同じ過ちを繰り返すのかと呆れてしまった 様々な優れた学部の若者達を、毎年、次々に雇用してきているNHKが、高校生達に向けた教育番組で、邪馬台国畿内説には具体的な証拠がないことを、発表していましたね。。 >>857
頼みの綱の行程論でも完敗して悪口言うだけになったのは九州説 >>854
百舌鳥や古市に大王墓とその親族の複数の墓があるって根拠は? 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、奥山氏の祖国の北朝鮮の帯方郡のあった地区に、居住していることを、自慢していたのだったな。 邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった理由となる物事が発見された時、邪馬台国畿内説という、おまけで破綻した、くだらない物事ではなく、レベルの高い学部の仮説が破綻したので、
レベルの高い学部の仮説の立場の者達はオーマイゴッドという叫び声を上げ、邪馬台国畿内説もついでに完全に破綻してしまった理由となった、その発見した物事に、オーマイゴッドと命名したのだったな。。。 「保守」とは自分たちが住んでいる地域の歴史や文化、あるいは自然を大事にする人たちのことを指す。
一方、自分たちが住んでいる地域の歴史や文化、自然を破壊しようとする人たちを「革新」と定義づけできる。
日本政府は1879年の琉球処分(琉球併合)以降、皇民化政策や同化政策を沖縄に強制してきて日本人ではない沖縄人を日本人に変えようとしてきたし、沖縄の歴史や文化を破壊してきた。
そして今にいたっては辺野古移設を強行して自然まで破壊しようとしている。
そのような勢力は沖縄を変えようとしているわけだから沖縄から見れば保守勢力ではなく革新勢力と言える。
それに対して、普天間飛行場の辺野古移設に反対している沖縄県知事をはじめ沖縄のマスコミは沖縄の歴史や文化、自然を守ろうと日本政府と戦っているので「沖縄右翼」であって左翼ではない。
むしろ、沖縄のアイデンティティーと対極の位置にある日本政府やそれを支持する読売新聞や産経新聞のようなマスコミこそ左翼なのである。
そもそも「右翼」とか「左翼」というのはフランス革命のときに議長席から見て右側を「右翼」と言い、左側を「左翼」と言ったのが始まりで、 自分たちを中心に考えれば、自分たちの主義主張は右であって左ではない。
だから、沖縄のアイデンティティーやナショナリズムを強烈に主張する沖縄県知事あるいは沖縄タイムス、琉球新報、沖縄テレビ、琉球放送、琉球朝日放送は沖縄から見れば「沖縄右翼」そのものである。
もちろん、その理屈から言えば沖縄の歴史や文化、自然を守ろうとしている俺は「沖縄右翼」であって「左翼」ではない。
多くの沖縄県民が「沖縄は日本固有の領土ではない」と主張するのも、沖縄ナショナリズムと沖縄アイデンティティーが原点になっている。 >>868
自分の言ってたことが根拠なしと自白する九州説 >>870
百舌鳥・古市が全部大王墓だという根拠をどうぞ。 九州の圧倒的物量に畿内はなすすべがない
人口もすくないし、文明も遅れている
そんな中で発見されたのが纏向遺跡
まさに起死回生の発見だった
邪馬台国はもしかして畿内にあったのでは
そう浮かれた畿内説は先ほどあげたような
倭人伝に絶望的な内容が書かれていることを知った
手癖の悪いゴッドハンドが悪魔のささやきに従ったのは言うまでもない 奥山氏は、奥山氏の北朝鮮の帯方郡治のあった自宅から、宇宙ロケットの噴射口に括り付けて貰って、垂直方向に打ち上げられ、真下を見下ろしたた時に、
北極点と奥山氏の自宅を結ぶ線と、奥山氏の自宅と巻向の堀立柱を結ぶ線が、交わる角度が、何度かという問題を解決したのだろうか、、、 百舌鳥・古市が全部大王墓ではないのなら当然複数の親族墓があるということになる、
ちがうのなら根拠を言うように。
では纏向にはなぜ親族墓がないのであろうか。
纏向石塚から箸墓までの纏向古墳群の被葬者は大王ではなかったからだw >>644
筑紫にある三世紀の径百歩の冢を前に
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
黙るか暴れるしかないようだな >>647
>これについては、大和に集まった勢力のうち
大型墳丘墓を造っていた吉備や山陰、北陸の勢力が
勢力連合の証として大型墳丘墓を必要としたということだろう。
鉄器はなかったものの権威、権力の集中が進んでいた尾張では
中型の墳丘墓が造られていたため、
主要勢力であった大和、尾張、吉備、山陰、北陸が大型墳丘墓を造ることで合意した
ということだな。<
「南≠東」などに拠って、×ね。 なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだろうか、、 纏向石塚から箸墓までの纏向古墳群の被葬者は、滅ぼされ、そこに封じ込められた、銅鐸王国の怨恨に満ちた者達だったな。 奥山氏は、奥山氏の北朝鮮の帯方郡治のあった自宅から、宇宙ロケットの噴射口に括り付けて貰って、垂直方向に打ち上げられ、真下を見下ろしたた時に、
北極点と奥山氏の自宅を結ぶ線と、奥山氏の自宅と巻向の堀立柱を結ぶ線が、交わる角度が、何度かという問題を解決したのだろうか、、、 八村塁氏達が、昔、僕達が熱狂的に応援していたロケッツと、明日、闘うのだったな。 >>791
>天候や宴での足止めを考えたらソウルから北部九州までの日数はそんなものだろ。
おかしいなぁ?
帯方郡から北部九州まで水行十日で行くって言ってた人がいたような気がしたんだけど?www
本当にその場しのぎでいい加減なのが九州説
短里も普段は魏晋里の6分の1くらいと言う癖に、ご都合次第で一里150メートルと言ったり
全部10分の1と言ったり、適当なことこの上ないww NHKにも宮内庁にもシカトされ、TBSまでもが九州説に傾き、桜井市民からも迷惑がられる畿内説ってw >>798
>西都原のように前方後円墳を王とすれば円墳にあたる親族墓がない。
見つかってない、見つからないだけ
現在でも、それなりの規模の古墳が新しく見つかったりするというのがちょろちょろある
箸中ビハクビ古墳とかググって見なよ
ずっと土地利用が更新され続けているから、削平されてしまっていて見つからない古墳も
多くあるんだよ >>803
>都合のいい妄想ばかりだな。
残念ながら、ちゃんと不純物の微量分析により、
ブレンド材料で同時期に一気に作られたことが確認されているんだよ
FAQ34に
「国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)」
とある通りだよ
九州説のイチャモンは、九州説の知識不足と主観的な思い込みによる筋違いのものばかり >>808
>青銅器・鉄器併用時代が弥生前期末から始まった、
まだ間違ってる
青銅器・鉄器併用時代などという言葉はない
鉄器時代になったら青銅を使わなくなるなんてことはない
鉄器時代は、青銅よりも生産・加工の困難な鉄器まで使えるようになった水準を示す用語であり、
鉄器時代と言えば、青銅器も当然に利用できる利用している時代を指す
自分の無恥を糊塗するために無様な捏造をするのは止めなさい
そして、水田耕作と金属器使用(つまり鉄器時代)が、弥生時代を示す指標であり、
弥生時代は最初(前期「末」ではない)から、鉄器を利用する文化なんだよ 王年代記に武内宿禰は307歳、物部滅亡が587年、280年に武内宿禰が居たの。だから神宮近辺であってんの。 >>867
言ってないんなら邪馬台国は九州じゃないだろ あっ!ありましたよ、住居跡が!
纒向消滅直後なので引っ越した?
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。
同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
纒向政権は半島豪族と合併しましたとさw >>876
そんなもの存在してないから畿内説としては暴れも黙りも出来ないけれど >>887
>弥生時代は最初から、鉄器を利用する文化なんだよ
んじゃ、縄文後期末に水田の稲がもたらされて、それからしばらくしてから青銅器・鉄器がもたらされるまでの間の時代は、いったい何と呼んでるのよ。
おバカ時代と? >>809
>王がピラミッドを王墓に利用しただけでピラミッド自体が墓ではないので例証にならない。
もともと巨大前方後円墳が「王墓」であることよりも、
「権力誇示の巨大モニュメント」であることが主題なので、
ピラミッドの例はまさにどんぴしゃな例示だよ >>820
>墓の大きさも里程と同じく縮小すれば解決
身体感覚との対比でスケールの異なるものを「同じく」扱うのはバカの所行
そして、短里はないのだから、縮小された里程などはない >>877
なんでもかんでも×つけるなよ。
ワイの説は、纏向政権が九州の卑弥呼を倒した説。
お主の倭国東遷説とも無関係じゃ。 >>832
>倭国は鉄文化の浸透した範囲。
日本に青銅器時代はないって教えただろ?
弥生時代・弥生文化=鉄器がある文化なんだよ >>786
>はるか離れたところまで魏使さんはきちんと行ったから
願望だろw >>841
>だからこそ副葬品が大事なんだよ。
だから平原1号墓の副葬品はいわゆる王墓級の中では特別でもないんだって!
>>776のこれ↓から逃げてるじゃないか
「副葬品で比べたら、平原1号墓は銅鏡の数以外では丹波の地域王墓に負けてる
銅鏡の数では、ヤマトの桜井茶臼山古墳に負けてる
青銅器という括りで見れば、出雲の荒神谷遺跡に圧倒的に負けてる」 >>875
>…被葬者は大王ではなかったからだw
その通り。
被葬者は、連合政権の総祭祀長の墓だよ。
この総祭祀長は、加盟各国が派遣していた祭祀者の持ち回りの総代なんだけどね。 >>896
纒向に鉄はないから纒向は倭国ではない。
だから矛盾はない。
そうだよね? >>844
私はキナイコシではないけれど専門は理系で古代史は趣味だが、
日本には鉄器と青銅器がほぼ同時に入ってきたので青銅器時代はないってのは
常識として知ってるぞww
「きちんと調べた」って嘘をついて、すぐさま否定されて恥をかくような真似はできないなww >>898
そういう前提条件をたくさんつけた上で勝負してもしょうがない。
弥生時代において墳墓として圧倒的なのは平原遺跡であり、対抗できるのは同じ伊都の三雲南小路遺跡くらいなものだ。
荒神谷遺跡など、墓ですらないではないか。
比較の対象として適当ではないものをわざわざ持って来て比較する詐欺。 >>861
>NHKが言うから邪馬台国は九州?
それ、正確にいうと、NHKも言う、邪馬台国は九州! 私はキナイコシではないけれど専門は理系で古代史は趣味だが、
日本には鉄器と青銅器がほぼ同時に入ってきたので青銅器時代はないってのは
常識として知ってるぞww
だからどちらもない纒向など倭国の範囲にすら入らない。 弥生時代
筑紫から稲作と鉄器と青銅器が広まった時代
または
筑紫倭国の時代(の前半) >>903
学会と学者は畿内ですでに決着
NHKはガセを広めてるな NHKごときが断言できる話ですらないだよ
てより断言できる存在がこの世には存在しないだ
断言したら追求していく連中らが現れれば弾劾裁判となって現れる
歴史書がどこに存在するか指定してないのが理由だ >>849
>里が短いなら歩も短くないと、単位系としてまずいだろ。
>歩が26センチ(自分の大きさが基準ですまんね)なら、ちょうど平原遺跡くらいの大きさが径100歩。
それはありえないって、何度も教えてるんだけどねぇ
「26センチ(自分の大きさ)」って、それは足であって、歩ではない
歩は大陸では古代からずっと複歩!
歩(複歩)が26センチと主張すると、跬(現代の一歩)は13センチになるwww
歩は元が身体尺だから、6分の1くらいとかの極端にずれた値にはなれないんだよ
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩
https://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png 誰かが主張したとしたらそれ待てよ!って必ずなる
てより邪馬壹国を日本に比定した連中らの論法が無理矢理すぎだから破綻した
そいから向こうの連中らが知ってる話でもない
その邪馬壹国が書かれた文献類はどこにもともと納められていた物品なん?
向こうの都とかの書院みたいなとこじゃないの?
だったら都からの道中を示すものだよ
出発点がその当時の中国の都からハイスタート(°▽°) >>910
邪馬壹國は12世紀の倭人伝の写本が作られた際に生じた
邪馬臺(台)國の誤表記 例えば古代の中国の地域って今よりはるかに狭い範囲だろ
それを取り巻くよ〜に羌族って呼ばれる連中らが古代の中国の支配地域の外側にいた
その連中らに対して中国側から戦争でもあれば参戦するよ〜に誘いはあったらしいがかなり少なかったらしいでな
自分らが支配する政治範囲内には存在していない異民族扱い
それで異民族 >>875
>百舌鳥・古市が全部大王墓ではないのなら当然複数の親族墓があるということになる
ならないよw
また常識なしのもの知らずが自ら恥をかきに来ているww
副葬用陪塚って言葉は知ってるか?
埋葬主体のない副葬品を納めるための陪塚ってのもあるんだよw >>892
>んじゃ、縄文後期末に水田の稲がもたらされて、
自分で書いてるじゃないか「縄文後期末」ってw
そこに金属器使用が合わさって「弥生化」するんだよ >>895
>ワイの説は、纏向政権が九州の卑弥呼を倒した説。
纒向政権と九州の卑弥呼が併存した時代などないから没だよ
畿内のヘゲモニーは卑弥呼の遣使より前に確立されている まともに議論すると負けるから九州説の雇い主は
連続句読点やザラコクなんかの基地外を雇って粘着荒らしをさせる作戦を取るしかない
しかし九州説の荒らし行為そのものを畿内説に突っ込まれて結果的にジリ貧
畿内説の勝利は揺るぎないな >>897
>願望だろw
この具体的な根拠一つ書けない、一言だけの書き込みで否定した「つもり」になるだけってのが
九州説の惨めさの典型ww 九州説のここまで畿内説を攻撃してなるたけ人を騙くらかそうとする魂胆は一体何なのか
論理的理由に基づくというよりは宗教的な理由が背景になっている気がする >>900
>纒向に鉄はないから纒向は倭国ではない。
纒向遺跡で鉄も鉄鍛冶跡も出てるよ
「纒向遺跡174次調査」
「調査地は纒向石塚古墳の北東200m、居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点
(中略)
調査の結果、浅い土坑や小規模な溝を検出したにすぎませんでしたが、
約60uの小さな調査範囲からコンテナケース20箱分の多量の遺物が出土しました。
そのほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。
それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを示す鞴(炉に空気を送り込む道具)の
羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」
いくら「纒向に鉄はない」って呻くようにただ繰り返しても、それは事実とは合わないんだよ 九州説は畿内説の言ったことにオウム返しばっかりしてるオウム真理教だから
裏でショーコーショーコーとかやってるんじゃないだろな >>902
>弥生時代において墳墓として圧倒的なのは平原遺跡であり、
何度も繰り返すが、圧倒的とみなすべきものがない
>対抗できるのは同じ伊都の三雲南小路遺跡くらいなものだ。
三雲南小路遺跡は100年以上時代が離れている
祭器生産の役割が終わった地方拠点が材料の青銅を使い切った遺跡という意味で、
荒神谷遺跡と平原1号墓の比較は正当なもの
墓かどうかというのは、出雲と伊都の文化の違い >>921
>三雲南小路遺跡は100年以上時代が離れている
長きに渡り、伊都が倭国の中心的役割を果たし続けていたということですね! >>921
>祭器生産の役割が終わった地方拠点が材料の青銅を使い切った遺跡という意味で、
平原遺跡より枚数が多い三雲南小路遺跡で使い切ったはずなのに、また平原遺跡で「使い切った」ことになる。
しかもその後も伊都は青銅器生産が続いているので、全くもって「使い切った」などということはない。
伊都にはキナイコシの想像を絶する資源と宝物が集中していたことになる。 キナイコシは想像の世界に生きているようだ。
彼の心の中には、事実とは異なる彼だけの「事実」があるようだ。 >>776
その中に平原みたいに国宝指定されたものあるのかよ
何を言おうと副葬品の文化財としての価値からも平原が圧倒的。
>>921
>墓かどうかというのは、出雲と伊都の文化の違い
銅鐸と一緒で荒神谷のは共有財産だったんだろうな。
平原は個人の財産。 >>926
三角縁神獣鏡とやらも平原鏡と技術的に連続性があるみたいだから、
筑紫で製造したんだろうね。
初期の三角縁神獣鏡も仿製鏡だということが科学的に証明されてるみたいだね。
景初3年鏡も同型鏡の存在から仿製鏡の可能性が高いらしい。
http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/113hirabaru.pdf >>927
なるほど。
画紋帯神獣鏡も大和のは大半が仿製鏡で、
景初3年の画紋帯は完全に仿製鏡だな。
あちゃー、こりゃ神獣鏡は国産で決まりだな。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1572457638/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>927
奥山さん色々捏造とか頑張ってるのに...
こ、この結果はひ、ひどい
あんまりだ... 韓国の客員教授がまた何か新説を発明したのか
興味ないけど >>883
>邪馬台国女王・卑弥呼が派遣した伊都国王・神武が、当時、東征将軍だったというこつ?
<
違うね。
邪馬台国なんて存在もしなかったし、
五瀬命や神武らは卑弥呼よりも300年以上前の人物であったんだし、
しかも、委奴國では先の見込みがなくてや東征したんだから。 >>672
平気で[
「南→東」などのウソつく大和説 >>675
>「自女王國以北」って何ヶ国だっけ? <
これは、翰苑か書いたように「斯馬」國も含まれるんだろうから、
八ヶ国以上だな。 >>690
>さまざまな地域の土器が出土するから、さまざまな地域から集まったということだ
つまりそれだけ広範囲に、影響を及ぼす人物がその大型建物を運営していたことになる
普通はそれを倭王と呼ぶのだがなw<
「南≠東」などに拠って、×。 >>694
>吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓は弥生後期の地域首長墓として、
他地域と比べて遜色ない大きさを示す
しかし、その後大きな墓を作れるだけの権力を持つ人物が北部九州には不在になる訳だ
これをもって、北部九州の凋落と見るのが普通の見解
北部九州は弥生終末期に至るまでに、倭国内での相対的な地位が低下没落していく<
凋落しない。
王家は糸島地域に移って、一貴山などに繁栄があったあと、
317年頃に筑後〜久留米付近に遷宮し、
墓は、横穴式石室や装飾古墳がメインになり、
前方後円墳は、「東征毛人五十五國」諸国や、半島の栄山江方面に広がった。 >>696
>武力より宗教的権威となったから、事鬼道、能惑衆と書かれた卑弥呼が
倭王に共立されたんだよ
武力でも財力でもないから、九州じゃないなww <
壹與の後は、那珂八幡などや一貴山などの王が武力も財力もあって、
東征毛人や渡平海北が出来た。 >>697
>「スサノオSuSanoo=帥升SuiSyou」説がある(∵子音がSS)けど、
それが正しいとすると、(帯方郡使の案内で来倭した)魏使が訪問した北部九州4カ国(末盧国・伊都国・奴国・不弥国)の内、
玄関港の末盧国と帯方郡常駐の伊都国を除く、(漢委奴国王)奴国と不弥国(帥升=スサノオ)は、筑紫邪馬台国の前に、かつての倭王家への表敬訪問だった可能性があるね。<
「「スサノオSuSanoo=帥升SuiSyou」説」が、年代が全く合わないから、×ね。 >>700
>したがって、最大の墳丘墓を作る主体が、最大の権威を持ち、最大の外交圏を
持つことになる <
いや、「セレモニーは(限界が来るまで)原則として進化拡大する」ものであるだけ。
要は、周りに権威を示す、という「必要性」の問題。 >>702
>具体的な根拠を示した論証抜きに「棄却されている」という文字列を
並べても無意味だと何度言えばw
邪馬台国の会の福岡県37枚がインチキだってのは、具体的に示されたから
反論一つできなくなってダンマリになっただろ?
棄却されているというのはこういう状態だww <
類スレ主の平原論の反論は、何度も書いてあるよ。 >>706
>大量の飯炊き甕という生活の直接証拠と、大墳丘墓という大人口による労力の所産が
きちんと確認できるから、そこに大人口があったのは確実
「住居がなかった」のではなく「住居跡が確認できていない」というのが正しい <
200回位も発掘したのに、とうとう大量の住居跡は確認出来なかった、
というのが正しい。 >>941
>類スレ主の平原論の反論は、何度も書いてあるよ。
どこになんと?
また「『南≠東』などに拠って、×」とか? >>942
>200回位も発掘したのに、とうとう大量の住居跡は確認出来なかった、
というのが正しい。
遺跡の3%位も発掘したのに、まだ大量の柱穴しか確認出来なかった、
というのが正しい。 >>715
>平原1号墓は、吉野ヶ里の北墳丘墓と同じ葬送文化圏の、吉野ヶ里と比べて数段落ちる小物の
地方有力者の墓に過ぎない・・・
墳丘墓ー大柱ー小型建物のセットを直線状に配置する同じ祭祀圏にあることが確実で
並べてみると分かるように、墳丘サイズで10分の1程度しかない小さな墓が平原1号墓だ <
壹與は、
「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定」であるから、
「王」となったし、妥協案として共立されたようではあるが、
魏から「倭王」と認定されたのか?は不明。 >>923
>長きに渡り、伊都が倭国の中心的役割を果たし続けていたということですね!
いいえ
遠い昔には北部九州に大陸から舶載鏡を得る実力者がいたけれど、
その後凋落して王墓級の墳墓が見られなくなり、
100年以上時代が飛んで現れた厚葬墓である平原1号墓も同時代の他地域の首長墓に見劣りするし
同じ北部九州で同じ葬送祭祀が確認できる吉野ヶ里遺跡北墳丘墓の10分の1の面積しかない
これを倭王墓と主張するのは正気の沙汰ではない >>924
>平原遺跡より枚数が多い三雲南小路遺跡で使い切ったはずなのに、
>また平原遺跡で「使い切った」ことになる。
そんなことにはならないよ
三雲南小路遺跡の頃は大陸から仕入れられてたから使い切ったなんてことはない
むしろ平原で使い切ったのは、その頃に仕入れた材料だよ
この辺も情弱は認識がおかしい
>しかもその後も伊都は青銅器生産が続いているので、
これの根拠は?
遺跡なり遺物なりを具体的に言わないとごまめの歯ぎしりにもならないw
古墳時代に入っても伊都国で鋳造した青銅製の祭器なんて聞かないぞ?
その代わり北部九州でも畿内から下賜された三角縁神獣鏡が副葬されるようになる >>913
>ならないよw
>また常識なしのもの知らずが自ら恥をかきに来ているww
>副葬用陪塚って言葉は知ってるか?
>埋葬主体のない副葬品を納めるための陪塚ってのもあるんだよw
恥かいてるのはおまえ。
百舌鳥古市の墳墓総数は全部大王ではないだろと言ってるの。
当たり前だね。
消えた墳墓も入れると相当な数になり大王の数だけでは説明できない。
ということは親族や臣下の墓だね。
大仙陵墓あたりの副葬用陪塚の話なんて少なすぎて意味がない。
このように親族臣下の墓があるのに何で纏向古墳群ではそれがないの?
それは纏向古墳群自体が高天原の王家(神々)の臣下だったからだ。 畿内説「纒向砦の三悪人・・」
VS
九州説「博多那の津のうそつきカモメ・・」 >>926
>その中に平原みたいに国宝指定されたものあるのかよ
最古の国宝は縄文式土器の火焔土器
だからといって火焔土器が出土した馬高遺跡が縄文時代最高の遺跡で圧倒的、なんて言わないだろ?
国宝かどうかとかポイントがずれすぎww >>926
>銅鐸と一緒で荒神谷のは共有財産だったんだろうな。
>平原は個人の財産。
クニの共有財産というのはその首長(ローカル王)に帰属するんだよ
この辺も認識がメルヘンチックなお花畑だ >>924
>三角縁神獣鏡とやらも平原鏡と技術的に連続性があるみたいだから、
>筑紫で製造したんだろうね。
ないよ
半肉彫りの画像鏡は平原では出てないだろ?
新井氏は「邪馬台国の会」発行の「季刊邪馬台国・梓書院」のお抱えライターみたいなものだから
九州説安本美典派のお気に召すような文章を書いてるんだよw 百舌鳥古墳群だけでいっても、
御廟山古墳、いたすけ古墳、黒姫山古墳はその大きさからも明らかに大王墓ではない。
ならば親族、臣下の墓だろう。
カトンボ山や七観山のような副葬用陪塚の例を出してごまかそうたってそうはいかんのだよ。 >>948
>消えた墳墓も入れると相当な数になり大王の数だけでは説明できない。
ということは親族や臣下の墓だね。
それを親族墓と決めつける理由は?
>このように親族臣下の墓があるのに何で纏向古墳群ではそれがないの
ないという理由は? >>948
>百舌鳥古市の墳墓総数は全部大王ではないだろと言ってるの。
>当たり前だね。
それこそ当たり前だろ?
何を言ってるんだ?
その時代で最大のものが大王墓で、皇后、皇子、重臣も皆前方後方墳に葬られているぞ? というか、むしろ纒向は
超弩級前方後円墳、100m級大型前方後円墳、通常レベルの墳丘墓、普通の方形周溝墓
という階層性がはっきりした最初の遺跡群だろ 平原は贋作鏡・骨董商人の墓
その死に当り、売れ残りの破鏡も埋めてやっただけ >>828
常識ある学者なら 現段階では巻向は国墳造営基地になるな
今の巻向の調査状況で王都とか大集落とか宣伝する学者は何が狙いなのだろうか? 纏向は古墳造営を担当していた集落だよね。
古墳建造だけでなく祭祀まで運営していた。
奈良盆地は規定の古墳設置区域だったんでしょう。 >>947
>むしろ平原で使い切ったのは、その頃に仕入れた材料だよ
その後も銅の供給は続いていたから、「使い切った」というのは誤り。
むしろ伊都は潤沢に鉱物資源を集中的に使える立場が継続していた。
事実と向き合おうよ。 >>947
>古墳時代に入っても伊都国で鋳造した青銅製の祭器なんて聞かないぞ?
情弱 >>959
>奈良盆地は規定の古墳設置区域だったんでしょう。
倭国(阿波)の豪族たちのね。 @阿波 >>951
>クニの共有財産というのはその首長(ローカル王)に帰属するんだよ
脳内お花畑さん。
平原遺跡の宝飾品は明らかに個人の所有物。
倭国が朝貢貿易で手に入れたが、結局は卑弥呼のもの。
ただし銅や鉄は背景とする筑紫全体が潤うようなもので、それを背景に膨大な鏡を製作している。
ああ、そういえば、畿内では鉄器が少ないから首長の独占物だったんだっけw
物量の差をそろそろ認識しろよw >>957
弥生時代に商人という階級が存在した根拠は?
魏志倭人伝では朝貢貿易とそれを管理する大率の存在が記録されている。
しかし商人のことは書かれていない。
商人が存在したという根拠は何だ? 纏向は3世紀半ばの箸墓の完成とともに消滅している。
纒向遺跡は古墳造営局の跡地だという可能性は非常に高いよ。
学者の説明はよく聞けば分かるけど、全部作り話だからね。
それは想像論であって説ではないよ。
畿内説≠纏向説です。 米の売り買いが出来てたんだから商業は発達していたはずたよ。
市があって鉄で買い物が出来たとも書いてある。
しかし>>957は相手にする必要無し。 >>965
>学者の説明はよく聞けば分かるけど、全部作り話だからね。
本当に最近の学者はこれがひどい。
それに輪をかけてひどいのがこのスレにいる畿内説。
意図的に捏造をして、あたかも事実であるかのように吹聴する。 >>961
>情弱
本当にこいつ、無能で情けないバカだな
相手を情弱呼ばわりするときには、具体的に圧倒的な根拠を突きつけて身の程を思い知らせるんだよww
歩は複歩とか、日本に青銅器時代はないとか
具体例のない一言コメは、私はバカです、以上の意味はない
で、平原1号墓以降の伊都国謹製の青銅器製の祭器の具体例は、遺跡も遺物も挙げられずに逃げましたってことでいいな? 平原は贋作鏡・骨董商人の墓
その死に当り、店晒し売れ残り破鏡も埋めてやっただけ >>719
>平原1号墓に関して、2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」で
2世紀末とされており、それを覆すべき理由も論証もない<
「前原市文化財報告書」のような、
「南→東」などの嘘付きの大和説官公庁である事がはっきりしている組織の報告では、
何の価値も信頼性もない。
いずれにせよ、平原1号は、21枚の「尚方作」方格規矩鏡という魏帝下賜鏡や、
大量の玉の女王であるから、壹與の墓でほぼ間違いなし。 >>970
根拠もなくこういうことを言い張るようでは、畿内説は信頼を得られない。
そんなに平原遺跡が怖いか? >>737
>鉄器より前の時代の小銅鐸の鋳型が佐賀で見つかってたね。
鉄と祭祀用の青銅が同時期に伝わったという作り話は、もしや畿内説の印象操作かも?w <
ふーん。 >>738
>卑弥呼の3世紀にでかい墓がありゃそこが女王卑弥呼のいた場所だろ
九州説はこんな簡単な事も理解できないの <
那珂八幡などや一貴山などがある。
大和の前方後円墳は、3世紀末以後。 >>741
>卑弥呼の墓は前方後円墳の魏尺での大きさそのものズバリ
径百歩と書いてあるんだよなあ<
卑弥呼の墓は冢であって前方後円墳ではなく、
魏朝の度量衡で「径百余歩≒20〜30m」と書いてあるんだがなあ。 「参問倭地 絶在海中洲?之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
この文面の通り、倭地は島々が途切れたり連なったりするような地勢であり、5千里程度で見て回れる範囲だとすれば、間違いなく九州島の事だと思うよ。
壱岐を分岐点とすると、以下の範囲に納まると思う。
壱岐→平戸〜(諫早水道)〜佐賀〜有明海沿岸(邪馬台国)〜熊本(狗奴国)
壱岐→前原(伊都国)〜福岡(奴国)→北九州(不彌国)〜大分〜日向〜宮崎 >>968
>それに輪をかけてひどいのがこのスレにいる畿内説。
>意図的に捏造をして、あたかも事実であるかのように吹聴する。
証拠でもあんの?
なければ九州説が悪質な中傷をしてることになるよ
>>743
>3世紀当時の最大規模の墳墓群がある畿内が女王国であり邪馬台国 以上 <
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
3世紀前半末の卑弥呼の墓は冢であって前方後円墳ではなく、
しかも、大和の前方後円墳は3世紀末以後なんだけどなあ。 >>744
>畿内の前方後円墳は100m規模=径百歩
魏志倭人伝にそう書いちゃっているんだもの<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
卑弥呼の冢は20〜30m規模≒径百歩
魏志倭人伝にそう書いちゃっているんだもの >>958
>常識ある学者なら 現段階では巻向は国墳造営基地になるな
そんなこと決めつける理由は? >>746
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和説は、「南≠東」や「冢≠前方後円墳」だけをとっても、
九州説に負け >>748
「南→東」などの大和説の嘘つき騙しは、蔑視無視で 纒向遺跡でやたら土木用具が出土する。
これは何か工事に使ったものであるが、工事が終わったら必要なくなる→棄てられるはず。
残されていたという事は、たびたび工事を行う必要があったということだろう。
偉いさんが亡くなる度に古墳を建造し、定期的に祭祀を実施し、維持管理までを請け負う集団が居たんだよ。 >>749
>三角縁神獣鏡 前方後円墳
技師亜w人伝に邪馬台国の位置が沖縄辺りの会稽東治の東
九州説はどうすんの <
三角縁神獣鏡は4世紀
前方後円墳≠張
魏志人伝の女王國の位置の会稽東治の東が、ほぼ九州島付近であり、沖縄辺りではない
大和説はどうすんの >>754
大和説は負けてるからって、
掲示板を荒らさないで欲しいものだな 【邪馬台国と周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg 卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は官僚による代筆でもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
漢委奴国王印を最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。
その返信とともに卑弥呼は新しい金印を受け取っていて、それを携えた使いは福岡県に滞在して卑弥呼に面会したと魏志倭人伝は伝えている。 >>950
国宝になるほどの美術的価値の高い
火焔土器を独り占めしてたら圧倒的な王墓
と言われるよ。 △について現状における妥当な見解はこれしか無いんだよ。
畿内説の看板使って変な事を言ってる連中もいるけど、それらはメディア向けのネタだからね。
『三角縁神獣鏡』は魏と敵対する呉系の鏡であり、4世紀ごろ、崇神天皇の時代前後にわが国で作られたものである!
すなわち、
(1)日本で500面以上出土しているのに、中国では一面も出土していない。
(2)「三角縁神獣鏡」は、その文様、銅材料が基本的に、中国北方魏系のものではない。中国南方長江(揚子江)流域の呉系のものである。
(3)「三角縁神獣鏡」の面径は大きい。「三角縁神獣鏡」の8割以上は、中国・朝鮮出土鏡では、まったく例をみない大きさをもつ。そして、あきらかにわが国で製作された「倭鏡」に、面径の大きなものがめだつ。
(4)「三角縁神獣鏡」は、主として4世紀の古墳から出土する。3世紀の墳墓からの確実な出土例がない。 >>952
平原鏡と三角縁神獣鏡の表面のシワは同じ製法で作った証拠なんだって。
銘文の構成なんかも平原鏡から引き継いでるって。 三角縁神獣鏡はもう600枚ほど発見されてるのかな?
5枚しか出てなくて推定100枚はあるんじゃないかという説が出てくるならわかるけど、
600枚も見つかるとさすがにそれは全国で使われていた国産の汎用品じゃね?となるよね。
しかもそれが見つかった遺跡は自動的に4世紀以降の物となる。 キナイコシは「平原遺跡の鏡はその後の鏡に影響を及ぼしていない」と主張していたが、平原遺跡の方格鏡が三角縁神獣鏡に影響したとする論文がこちら。
ttp://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/113hirabaru.pdf
銘文に「寿如金石 長相保」とか「生如金石 天相保」として「相保」 を入れてる。
平原遺跡の鏡から三角縁神獣鏡に継承されているとの見解。
製造工程も、平原遺跡の鏡と三角縁神獣鏡は量産の手法が一致するとのこと。 >>951
出雲に首長墓が出始めるのはもっと後だろ。
荒神谷の時代にそんな力をもった首長がいた
証拠は? いつ覗いても、邪馬台国畿内説が論破されていますね。。。 2013年、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。。。 このスレッドは1000を超えました。
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